4-21 太刀懸に菊一とふりやけふの床
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2597
【解説】キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。
【例句】
菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉「杉風宛書簡」
菊の花咲くや石屋の石の間 芭蕉「翁草」
琴箱や古物店の背戸の菊 芭蕉「住吉物語」
白菊の目にたてゝ見る塵もなし 芭蕉「笈日記」
手燭して色失へる黄菊かな 蕪村「夜半叟句集」
黄菊白菊其の外の名はなくもなが 嵐雪「其袋」
「重陽」(前書の「重陽」)=重陽(ちょうよう、ちようやう)/晩秋
https://kigosai.sub.jp/?s=%E9%87%8D%E9%99%BD&x=0&y=0
【関連季語】温め酒、高きに登る、菊の着綿、茱萸の袋 、茱萸の酒、菊酒、九日小袖
【解説】旧暦の九月九日の節句。菊の節句ともいう。長寿を願って、菊の酒を飲み、高きに登るなどのならわしがある。
【実証的見解】古来、中国では奇数を陽数として好み、その最大の数「九」が重なる九月九日を、陽の重なる日、重陽とした。この日は、高いところにのぼり、長寿を願って菊の酒を飲んだ。これを「登高」という。また、茱萸の実を入れた袋を身につければ、茱萸の香気によって邪気がはらわれ、長寿をたまわるとも信じられていた。日本においては、宮中で観菊の宴がもよおされ、群臣は菊の酒を賜った。また、菊に一晩綿をかぶせ、その夜露と香りをつけたもので身を拭う、菊の着綿という風習もあった。この日に酒を温めて飲む「温め酒」の風習は無病息災を願ったものである。
【例句】
朝露や菊の節句は町中も 太祇「太祇句選」
人心しづかに菊の節句かな 召波「春泥発句集」
【参考】健康を願う「菊の節句」周辺
https://www.kumon.ne.jp/kumonnow/topics/vol370/
雅遊五節句之内 菊月』 国芳 天保10(1839)年頃
≪九月九日は「菊の節句」です。昔の中国では九のような奇数を陽数、八のような偶数を陰数と分類していました。この考え方からすると「九」は一桁の奇数の中で最も大きく、特に九月九日のように陽数が重なることから「重陽」と呼ばれました。また、旧暦の九月は今の十月にあたり、優れた薬効があり不老長寿の花とされる「菊」の時期であることから「菊月」とも呼ばれていました。江戸時代になると、幕府は一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の季節の節目を「五節句」として制定しましたが、中でも九月九日は「重陽の節句」または「菊の節句」と呼ばれ、盛大に行われていたようです。また、江戸中期になるとこの日を大人の女性の「後(のち)の雛」として雛人形と秋の菊の花を飾り、厄除けや健康祈願をする「大人の雛祭り」の風習も庶民の間で広がりをみせたといいます。
さて、今回の浮世絵は武者絵を得意とする歌川国芳の描いた「雅遊五節句之内 菊月」です。国芳は二人の男の子に相撲を取らせて「菊の節句」を表現しました。しかし筋骨隆々の武者絵と違い、二人の男の子はあどけなく、まわし(ふうどし)に巾着を付けて一戦を交えています。腰の巾着はおそらくお守りや迷子札入れとして母親が手作りしたものでしょう。まわし姿になっても巾着をつけて勝負している様子がなんとも可愛らしいですね。周りでは菊文様の着物の子どもが声援しています。周囲には長寿のシンボルである大輪の菊が多数描かれていて、子どもの健康、長寿の願いを込めたことがわかります。≫
句意(その周辺)=今日は、陰暦の九月九日の「重陽」、「菊の節句」である。「床の間」の、その「太刀掛け」には、今日は「菊一輪(いちりん)」が懸けられている。(蛇足=この「菊一輪」は、酒井抱一が「大名・酒井家」の一員であることを示す、名刀「菊一文字」が「一(ひと)ふり)懸けられている。」
4-21 見劣し人のこゝろや作りきく
季語=作りきく=菊(きく)/三秋
「作りきく」=菊作り=1 菊を栽培すること。また、その人。《季 秋》/2 フグなどの刺身を、皿の上に菊の花のように盛りつけたもの。/3 「菊作りの太刀」の略。(「デジタル大辞泉」)
句意(その周辺)=今日は「重陽」の節句、菊見に出かけた。いろいろな「作り菊」を見て回ったが、「見事なもの」と「見劣るものと」、その区分けは、その「菊」を作る「人のこころ」によるものということを実感した。(蛇足=「料理」の「菊つくり」でも、「太刀」の「菊一文字」と「菊一文字もどき」との違いでも、全く、同じことなのだ。)
4-23 冬の野や何を尾花が袖みやげ
「袖みやげ」=この「袖みやげ(土産)」が難解である。この「袖」は「誰が袖」(匂袋)の「誰が」が「ヌケ」になっているものと解したい。
《古今集・春上の「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」の歌から》
1 匂袋(においぶくろ)の名。衣服の袖の形に作った袋を二つひもで結び、たもと落としのようにして携帯した。
2 細長い楊枝ようじさし。
3 桃山時代から江戸時代にかけて流行した種々の豪華な婦人の衣装を衣桁(いこう)にかけた図。屏風(びょうぶ)などに描かれた。
4 衣服の片袖の形や文様を意匠に取り入れた器物。香合(こうごう)・向付(むこうづけ)・茶碗・水指(みずさし)などがある。(「デジタル大辞泉」)
「誰が袖(匂袋)」
4-24
見し夢や時雨の松の畫から紙
「畫から紙」=「桃山時代から江戸時代にかけて流行した種々の豪華な婦人の衣装を衣桁(いこう)にかけた図。屏風(びょうぶ)などに描かれた。」=「誰が袖(屏風)」
「誰が袖図屛風」(サントリー美術館蔵)( 六曲一双/)屛風 紙本著色/(各)縦172.0 横384.0/江戸時代 17世紀)
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=555
≪ 誰が袖屏風とは、衣桁などに多くの衣装を掛けた様子を描いた作品群のことで、江戸時代初期に流行したと考えられている。基本的に人物は登場せず、衣装や匂い袋、遊戯具など、室内に置かれた持ち物によって、その持ち主の面影を偲ぶという趣向になっている。「誰か袖」とは「これは誰の衣装なのか」という意味で、『古今和歌集』に収められた「色よりも 香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし 宿の梅ぞも」に由来する。なかでも本作はバランスの良い構図と、豪華な描写が高く評価されている。右隻は、菊蒔絵の衣桁の上段に、霞に藤花模様の能装束らしき衣装と匂い袋が配されている。下段には菖蒲模様の袴が見える。右端に置かれているのは能面を入れる面箱と思われ、この部屋の主人公は能を好む人物であるらしい。左隻は、藤蒔絵の衣桁や屏風に、段に胡蝶文、転法輪文、文字散らし文、丸紋散らし文など、多様なデザインの衣装が掛かっている。右手には双六盤があり、盤上や床に石、サイコロ、振り筒が無造作に置かれている。画中屏風には本格的な水墨山水図が描かれており、その筆致が海北派に近いとの指摘がある。本作の作者は不明だが、著色画・水墨画の両方に長けた絵師であったことは間違いない。(『リニューアル・オープン記念展Ⅰ ART in LIFE, LIFE and BEAUTY』、サントリー美術館、2020年) ≫
4-25
来ぬ夜鳴く衛や虎が裾模様
【解説】チドリ科の鳥の総称で留鳥と渡り鳥がある。嘴は短く、色は灰褐色。足を交差させて歩むのが千鳥足。酔っ払いの歩行にたとえられる。
【例句】
星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉「笈の小文」
一疋のはね馬もなし川千鳥 芭蕉「もとの水」
千鳥立更行初夜の日枝おろし 芭蕉「伊賀産湯」
汐汲や千鳥残して帰る海人 鬼貫「七車」
背戸口の入江にのぼる千鳥かな 丈草「猿蓑」
【参考】「虎が雨」=「虎が雨(とらがあめ)/ 仲夏」(陰暦の五月二十八日に降る雨のこと。曾我兄弟の兄、十郎が新田忠常に切り殺されことを、愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言伝えに由来する。)の季語だが、この句では、「虎が裾模様」で、季語としての働きはしていない。さらに、この「袖(すそ)模様」は、「前々句」(4-23)からの「誰が袖」の「袖(そで)模様」の変奏なのである。
「白繻子地紅梅文様描絵小袖 酒井抱一画」(「国立歴史民俗博物館」蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136247
≪酒井抱一(ほういつ)(1761~1828)の筆による描絵小袖である。文様は独特な濃淡で紅梅を描き、梅樹の根元には蒲公英(たんぽぽ)や菫(すみれ)など春の情景が表される。「抱一」の朱印がある。本小袖は、紅梅を全面に見事に描いた小袖意匠としても秀逸であり、絵師が直接小袖に図様を描く描絵小袖の数少ない遺例の一つである。≫
句意=「重陽」の「菊」(「誰が袖」の菊模様の「匂袋」)の句から、「時雨」(「誰が袖図屏風」の「畫から紙」)の句となり、そして、「今」、それらが、「袖」でなく「裾」の、その「虎が雨」の、その「白繻子地紅梅(「虎が雨」の見立て)文様描絵小袖(その「袖」と「裾」絵)の、「虎が雨(「梅」して、「菊」・「千鳥」)」と化している。
(参考)「むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許(其角)」周辺
(句合せ四)
※(謎解き・五十五)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html
四番
兄 粛山
祐成が袖引(き)のばせむら千鳥
弟 (其角)
むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許
(弟句の句意)群千鳥が鳴いている。曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けて行った日も、虎御前とともにあって、その夜は厳しい寒さであったことだろう。
(判詞の要点)両句とも、曽我十郎祐成と祐成と契った遊女の虎御前のことについて詠んだものである。「是は各句合意の躰也。兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍れば、こなたの句、弟なるべし」。判詞中の「冬の夜の川風寒みのうたにて追反せし也」は、紀貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒みちどり鳴くなり」(『拾遺集』)を踏まえている。
(参考)「粛山(しゅくざん)」については、この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」の「粛山」であろう。『句兄弟(上)』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。
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