月曜日, 5月 08, 2006

虚子の実像と虚像(その一~その十)



虚子の実像と虚像(その一)

○ 春雨の衣桁(いかう)に重し恋衣 (明治三十七年)

虚子句集『五百句』(昭和十一年刊)の冒頭の一句である。その「序」で、「ホトトギス五百号の記念に出版するものであって、従って五百句に限った」と、いかにも、大俳諧師・虚子らしいあっさりとした思いきりのよい「序」である。そして、この冒頭の一句が、いわゆる、「俳諧」(連句)でいうところの「恋の句」であり、これまた、大俳諧師・虚子にふさわしいもののように思えてくるのである。そもそも、その「序」で、「範囲は俳句を作り始めた明治二十四五年頃から昭和十年迄」とあり、これまた、その「俳句を作り始めた明治二十四五年」のものは全て除外して、こともあろうに、虚子の師の正岡子規が「連句非文学」として排斥した、その連句の、「花・月」の座に匹敵する人事の座の中心に位置するところの「恋」の座の一句を、実質的な虚子第一句集の『五百句』の、その代表的な五百句のうちの、冒頭の一句にもってきたというのは、ここに、「虚子俳句」の原点(その実像と虚像)があるように思えるのである。すなわち、高浜虚子は、正岡子規の正統な後継者として、「連句とその冒頭の発句」を排斥して、いわゆる、「俳句革新」の、その「俳句」を、それまでの「発句」に代わって、その世界を樹立していった中心的な俳人と見なされているが、それは虚像であって、その実像は、正岡子規が排斥してやまなかった、「連句とその発句」を、当時の多くの俳人がそれを排斥したようには、それを排斥せずに、実は、その核心にあるものを正しく喝破して、逆説的にいえば、再び、「俳句」を俳諧(連句)における「発句」に戻した、その中心的な俳人と位置づけられるように思えるのである。

虚子の実像と虚像(その二)

○ 遠山に日の当りたる枯野かな (明治三十三年)

この句には、「十一月二十五日。虚子庵例会」との留め書きがある。当時の「虚子庵例会」のメンバーは、その前年の句の留め書きなどによると、「九月二十五日。虚子庵例会。会者、鳴雪、碧梧桐、五城、墨水、麦人、潮音、紫人、三子、狐雁、燕洋、森堂、青嵐、三允、竹子、井村、芋村、担々、耕村。後れて肋骨、黄搭、杷栗来る。十月一日、松瀬青々上京、発行所に入る」とあり、その他、「東洋城、井泉水、癖三酔、碧童、水巴、乙字、雉子郎」などの名も見られ、多士多才の顔ぶれだったことが分る。この明治三十三年、虚子二十七歳のときの作は、今に氏の代表作の一つに数えられているものである。この句の主題は、一面の眼前に広がる「枯野」の句であって、この「枯野」は、芭蕉の絶吟ともいわれている、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」以来、最も神聖な季語・季題に数えられるものである。そして、この芭蕉批判の急先鋒者こそ、虚子の師に当る正岡子規その人であった。子規はその『芭蕉雑談』のなかにおいて、いわゆる「蕉風」の「さび」を否定し、主観に堕ちた教訓的に解され易い句を排斥し、その一千余句の芭蕉句中、佳句は僅かに約二百句とまで極論する。そして、この虚子の「枯野」の句ができる三年前の、明治三十年(一八九七)に刊行した『俳人蕪村』において、「いづれの題目といへども蕉風又は蕉風派の俳句に比し、蕪村の積極的なることは蕪村句集を繙く者誰か之を知らざらん」と、その因って立つ地盤を「蕪村派」に置くことを鮮明にする。この「蕪村派子規」の俳句の正しい継承者こそ、子規門の双璧(虚子と碧梧桐)の、もう一人の、河東碧梧桐その人であった。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  (明治二十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句について、子規は、「碧梧桐の特色とすべき処は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし、「之を小幅な油絵に写しなば只地上落ちたる白花の一団と赤花の一団と並べて画けば即ち足れり」、「只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり」と評し(「明治二十九年の俳諧(三)」)、素材を視覚的に俳句の表現に写すという、いわゆる、写生論の一つの実りとして、高く評価しているのである。これに対して、虚子は、「印象明瞭の点に於ては俳句は絵画に若かず」として、「印象明瞭なる句の価値は其印象明瞭といふ一点にのみ存するに非ず、其の印象明瞭を挨つて充分に其の景色の趣味を伝へ得る点にあり」といい(「印象明瞭と余韻」・明治二九)、美的な情趣もしくは余韻を重く見て、後に、「現今の俳句界に嫌たらぬと同時に、其思想が主として天明の積極的方面から発達し変化して来てゐるので、閑寂の方面、消極的方面にあまり手がつけて無いのを遺憾に思ふ」(「現今の俳句界」・明治三六)と、「蕪村派子規」から「芭蕉派虚子」へとそのスタンスを変えることとなる。この掲出の虚子の「枯野」の句については、虚子は未だ「蕪村派子規」の影響下にあったが、芭蕉俳諧を象徴するような、この「枯野」の句を得たことにより、その後、ひたすらに、いわゆる、伝統回帰の「守旧派」の道を邁進するのに比して、碧梧桐もまた、この蕪村俳諧を象徴するような「絵画的」な「椿」の句を得たことにより、さらに、洋画の後期印象派のような、新傾向の俳句を求め、「革新派」の道を邁進することとなる。
そのスタートは、実に、この両者の掲出句をもって始まるように思われるのである。

虚子の実像と虚像(その三)

○ 長き根に秋風を待つ鴨足草(ゆきのした) (明治三十五年)

 この句の後に、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」との留め書きがある。虚子には、「子規逝くや十七日の月明に」という、子規が亡くなるときの追悼吟がある。この追悼吟については、虚子の「子規居士と余」という回想録に詳しい。「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかという心持がした」。 これがこの追悼句の前の虚子の記述である。この記述に見られる、その時の虚子を取り巻く状況や心の動きなどは一切切り捨てて、芭蕉の言葉でするならば、「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」という、「抑制的な表現のうちに余情・余韻を鑑賞者に伝授する」という句作りが、虚子が最も得意とするものであった。そして、この事実に即して最も臨場感のある旧暦十七夜の追悼吟は、この虚子の代表的な句集『五百句』には選句せずに、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」と留め書きを付して、直接的には子規の追悼句とは異質な掲出の句を選句しているところに、虚子一流の極端なまでの「「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」的な姿勢が感知されるのである。この虚子の冷淡なまでの寡黙性が、好悪織り交ぜての「虚子の実像と虚像」とを増幅させる要因ともなっているのであろう。

  から松は淋しき木なり赤蜻蛉(明治三十五年 碧梧桐)

 この碧梧桐の掲出句は子規没後の翌月十日の「日本俳句」(子規亡き後碧梧桐が新聞「日本」のその俳句欄の選者を継承する)に載った句である。ここには師の子規を失った碧梧桐の「淋しさ」が、「秋の日に群れ飛ぶ明るくもはかない赤蜻蛉と、すでに黄葉し落葉しつつあるから松の淋しさを相乗させている」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)として、鑑賞者に伝達されてくる。虚子の掲出句の季語は、古典的な「秋風」(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」・古今集・藤原敏行)であるが、碧梧桐の季語は古典的な「赤蜻蛉」(あかあきつ)ではなく、師の子規の季語の「赤蜻蛉」(あかとんぼ)で、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」(子規)が思いおこされてくる。そして、北原白秋の「落葉松」(大正十年十月)の詩が思い起こされてくる。

  からまつの林を過ぎて
  からまつをしみじみと見き
  からまつはさびしかりけり
  たびゆくはさびしかりけり

 白秋のこの「落葉松」の詩は余りにも人に知られているものであるが、碧梧桐の「から松は淋しき木なり」の、この発見は、白秋のそれに比して、それ程知られてはいないのではなかろうか。そして、この碧梧桐の句は、白秋の詩の、いわゆる「本句取り」手法の句ではなく、まさしく、その創作年次からいって、碧梧桐の新発見ともいえるものであろう。それと同時に、この両者の掲出句を対比して、虚子と碧梧桐は、子規門の双璧とも称されているが、師・子規への思い入れの深さということになると、碧梧桐のそれが虚子よりも上まわるということは、季語の選択の一つを取ってもいえるであろう。そして、子規・虚子・碧梧桐の、この三人の人間模様が、さまざまな、この三人の「実像と虚像」とを、今日まで、増幅させているということは驚くばかりである。


虚子の実像と虚像(その四)

○ 発心の髻(もとどり)を吹く野分かな(明治三十七年)
○ 秋風にふへてはへるや法師蝉(明治三十七年)

この二句については、次のような留め書きがある。「以上二句、八月二十七日、芝田町海水浴場例会。会者、鳴雪、牛歩、碧童、井泉水、癖三酔、つゝじ等」。この「会者」中の「井泉水」は荻原井泉水であり、井泉水は虚子のホトトギス系の俳人ではないけれども、子規のホトトギス系の俳人としてスタートをしたといってもよいのであろう。井泉水自身の次のような回想の記述もあるようである。「一高に入ってから正岡子規を知り『日本新聞』に投稿した。しばらく両刀使いだったが、やがて日本派一辺倒になって、はじめて真剣に句作する心がかたまった。秋声会から日本派に移ってみると全く空気が違うことが感じられた。秋声会は遊戯的だし、日本派は意欲的であった。秋声会は竹冷、愚仏、黄雨などと老人が主体だったが、日本派は壮年が中心だった。子規は私が一高二年生の時死んだが、碧梧桐が三十歳、虚子が二十九歳の若さだった。もっとも私が初めて子規庵の句会に出た時、出席者名簿に住所と年齢を記す、私が十九歳と書いたのを内藤鳴雪が隣からのぞいて『おゝ十代の方がいる』と驚かれた」(上田都史著『近代俳句文学史』)。後に、井泉水は碧梧桐と行動を共にし、「反ホトトギス・反虚子」の立場で、「新傾向俳句」を推進し、さらに、その碧梧桐とも袂を分かち、定型・季語・切字からの自由のもとに「自由律俳句」を唱道し、その中心的な役割を担うが、虚子が没する昭和三十四年当時になると、完全に虚子を中心とする定型(律)俳句の片隅に追いやられて、井泉水が没した昭和五十一年当時になると、もはや井泉水もその自由律俳句も過去の遺産と化し、そして、それすらも食い潰してしまったという印象すら与えるものとなった。即ち、言葉を代えて言うならば、「子規が新しく開拓した俳句の世界は、一人、虚子のみが生き残り、虚子一色の俳句の世界となった」ということである。この「虚子一人勝ち」ということが、判官贔屓も重なって、「虚子嫌い・ホトトギス嫌い」を増幅させ、虚子の虚像が一人歩きしていると言っても過言ではなかろう。虚子・虚子俳句にもいろいろな側面がある。この掲出の一句目の、「発心の髻(もとどり)を吹く野分かな」は、蕪村好きの多い子規門の俳人が好んで句作りするような、いわゆる、蕪村のドラマ趣向のそれであろう。また、二句目の、「秋風にふへてはへるや法師蝉」は、「秋風」と「法師蝉」の「季重り」や、「ふへてはへるや」の、井泉水の言葉でするならば、「秋声会の遊戯的」な句作りと言っても、これまた過言ではなかろう。桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではないけれども、この掲出の二句について、名前を伏せて提示して、この句の作者が、高浜虚子と言い当てるのは、これまた至難なことであろう。ことほどさように、虚子の代表的な句集の『五百句』の、その五百句のうちには、何故これが選句され、そして、何故仰々しく留め書まで付されているのか首を傾げたくなるものが多いのである。そして、その不可思議が、さらに、虚子の虚像を増幅させていることに、思わず苦笑してしまうほどなのである。

虚子の実像と虚像(その五)

○ 鎌とげば藜(あかざ)悲しむけしきかな(明治三十八年)

この句には、「七月二十三日、浅草白泉寺例会。会者、鳴雪、碧童、癖三酔、不喚楼、雉子郎、碧梧桐、水巴、松浜、一転等」との留め書きがある。この会者のうちで、何故か、雉子郎が気にかかるのである。この雉子郎には、川柳史上に名を残している文化勲章受章者の国民的作家の吉川英治こと井上剣花坊門の柳人・吉川雉子郎と、同じく文化勲章受章者の高浜虚子門にあって日本俳壇では名が知られてはいないがホトトギス俳壇ではその名を残している石島雉子郎との、この二人が想起されてくる。

  貧しさもあまりのはては笑ひ合い       雉子郎(吉川雉子郎)
  此(この)巨犬幾人雪に救ひけむ         雉子郎(石島雉子郎)

 この二人の雉子郎の句を見ながら、俳人・虚子は、いわゆる、俳諧(俳句)の三要素の「挨拶・即興・滑稽」(山本健吉の考え方)のうち、この「滑稽」(おどけ・ペーソス)ということにおいては、はなはだ不得手にしていて、こと、その全句業を見ていっても、いわゆる、滑稽味のする句というのは余り残してはいない。このことは、同時に、自ら「俳句は叙景詩である」(「俳句の五十年」)という立場を鮮明にしていて、いわゆる、連句でいうところの「人事句」ということには一定の距離を置いていたということも伺えるのである。その連句の「人事句」というのは、いわゆる「川柳」の世界の母胎のようなものであって、このことからすると、虚子の俳句の世界というのは、その川柳の世界とは最も距離を置いていたということもいえるであろう。この観点から、掲出の雉子郎の二句を見ていくと、やはり、明治三十八年・浅草白泉寺例会の会者の雉子郎は、川柳人・吉川雉子郎ではなく、終生虚子門を通したホトトギスの俳人・石島雉子郎その人のように思われるのである。この石島雉子郎については、次のアドレスなどで紹介されている。

http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/sanpo_fu.html

 このネット記事において、掲出の雉子郎の句を、その師の虚子は「ホトトギス」誌上で次のように鑑賞しているという。

「此句は北国などでは雪中に埋った人を探し出すのに、よく犬を使うことがある。犬は其発達した嗅覚で、雪に踏み迷うた人は勿論、雪中に埋っている人までを探し出すことがあると聞いている。作者は其雪国に在って一疋の大きな犬を見た時に、此大きな犬は幾人の人を雪の中から救ひ出したものであろうと、其勇猛な姿に見惚れ且つ獣の人を救うという事に感動して嘆美した句である」。

 この「此(この)巨犬」というのを比喩的に解すると、虚子その人のようにも解せるし、「幾人雪に救ひけむ」の「幾人」とは、「ホトトギスで虚子に認められた俳人達」とのイメージも髣髴してくる。さて、掲出の虚子の明治三十八年の作についてであるが、「藜(あかざ)悲しむ」と、いわゆる、「藜(あかざ)」を擬人化してのものなのであるが、その擬人化的手法が「俳句は叙景詩である」とする虚子の立場からすると、必ずしも成功しているとはいえないように思えるのである。こういう、例えば、掲出の吉川雉子郎のような、庶民の哀感をストレートに表現する「川柳」の世界や、俳句の世界でいえば、「人間そのものを主たる素材とする」、虚子俳句とは別世界の「人間探求派」のそれに比すると、「虚子俳句の面白みのなさ」が目立ってきて、このことがまた、「虚子の実像」を歪曲して、その結果、「アンチ虚子」の「虚子の虚像」を増大させているといっても良いであろう。


虚子の実像と虚像(その六)

○ 座を挙げて恋ほのめくや歌かるた (明治三十九年)

この句には、「一月六日、新年会。三河島後楽園。会者、癖三酔、松浜、一声、三允、鳴雪、碧梧桐、乙字等」との留め書きがある。この会者の乙字は、日本俳壇史上、「季題・季語・二句一章・写意」等の評論を通して、今なおその名を残している大須賀乙字その人であろう。ネット記事で、「荻原井泉水と『層雲』」(秋尾敏稿)に、次のような興味深い記述がある。

「子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄 を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、ついに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た 子規の遺志を受け継いだのである。 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継いだのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。『日本俳句』に投句、『俳三昧』で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に『俳句界の新傾向』を発表する。俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛びつく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂わせていくこと、それが碧梧桐の理解した『新傾向』である。しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するがすぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中にあった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、その表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進する力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異なる三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ る。大正時代は、『現代』の始まる時期でもあったのである。」

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/kindai/souun.htm

 この記述のうち、「俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもある」の指摘は鋭い。と同時に、この現代の俳壇の構造に深く係わる、「虚子・碧梧桐・乙字」の、この三人が、子規亡き後の、明治三十九年当時、同じ座で切磋琢磨の関係にあったことは特記すべきことであろう。そして、この掲出の虚子の恋の句に見られるように、当時の彼等は、碧梧桐、三十四歳、虚子、三十三歳、そして、乙字、二十五歳、さらに、井泉水、二十三歳と、それぞれが血気盛んな年代であった。これらの若き俳人群像が、今日の日本俳壇に大きな影響を及ぼしていることは、実に驚異的でもある。そして、虚子の「実像と虚像」とは、これらの当時の虚子を取り巻く俳人群像と大きく係わっていることは、これまた多言を要しない。


虚子の実像と虚像(その七)

○ 垣間見る好色者(すきもの)に草芳しき (明治三十九年)
○ 芳草や黒き烏も濃紫 (同)

「以上二句。三月十九日。俳諧散心。第一回。小庵・会者、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ」との留め書きがある。この留め書きにある「俳諧散心」については、虚子の次のような記述がある。「又私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ会合を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、その頃碧梧桐が『俳句三昧』をととなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修業をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた会合でありました。それで私は、三昧(定心)に対して散心といふ仏教の修業の上に二通りあるとかいふその三昧に対して他の一つの散心といふ言葉を選んだわけでありました」(「俳句の五十年」)。ここに、子規の「根岸庵句会」というのは、碧梧桐を中心とする「俳諧三昧」と虚子を中心とする「俳諧散心」とに実質上袂を分かつことになる。しかし、当時は、虚子は俳句よりも小説に関心があり、こと俳句については、子規の後を継いで、新聞「日本」の俳句欄「日本俳句」の選者として、俳句一筋の碧梧桐に委ねるという姿勢があり、この両者の間は決定的な亀裂の状態であったということではなかった。この両者が完全に袂を分かつのは、明治四十五年に至り、虚子が、「ホトトギス」の「雑詠」の選に復帰して、その七月号で、碧梧桐の新傾向の俳句に対する不満を表明した以降ということになろう。そして、この両者の対立の萌芽は、この掲出句の留め書きにある明治三十九年、虚子が「俳諧散心」の会を立ち上げる前の、明治三十六年の「ホトトギス」(九月号)に、碧梧桐が発表した「温泉百句」と、その碧梧桐の句に対する虚子の批判の時に始まると見て良いであろう。この両者の対立というのは、一言でいえば、「趣向的で保守的な虚子の態度と、写生主義に立ち、技巧的で進歩的な碧梧桐の態度との対立であった」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)ということになろうか。この両者の違いを例句で示すと、虚子の句(掲出の二句)は、「空想趣味的、趣向派的、伝統派的、保守派的」ニュアンスが感じられるのに対して、碧梧桐の、この虚子の句と同じ、明治三十九年の「構成的で野心的な作」(加藤楸邨評)とされている次の句に見られるように、碧梧桐のそれは、「写生主義的、技巧派的、現世派的、進歩派的」ニュアンスの強いものであった。

  空(クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰 (明治三十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句の、「空」に「クウ」とルビをつけ、「空をつかむ」を「空をはさむ」(蟹のハサミよりの写生的・技巧的な措辞)とし、それに、ダイナミックな「雲の峰」とマッチさせて、虚子の掲出の二句に比すると、それが、余裕派的な、俳諧散心(臨機応変)的な虚子の姿勢に対して、俳句一筋の、俳諧三昧(探求)的な碧梧桐の姿勢が見てとれ、こと、この掲出句の対比だけですれば、碧梧桐の方の句を佳しとするのが大筋の見方なのではなかろうか。そして、個々に、このような対比をすることなく、虚子と碧梧桐との対比は、「勝ち組み・虚子、負け組み・碧梧桐」と、ジャーナリスティック的に取り上げられるのが多いことには、もうそろそろピリオドを打つべきであろう。

虚子の実像と虚像(その八)

○ 上人の俳諧の灯や灯取虫 (明治三十九年)

「六月十九日、碧梧桐送別句会・星ケ岡茶寮」との留め書きがある。この句は、『人と作品高浜虚子』(清崎敏郎著)の「鑑賞篇」など、よく例句として取り上げられるものの一つで
ある。上記の図書(清崎著)の鑑賞は次のとおりである。
「明治三十九年。六月十九日、碧梧桐が『三千里』の旅に上るのを壮行する句会が星ケ岡
茶寮で催された。その折兼題で作られた句である。もともと、この全国行脚の旅の話は、
真言宗大谷派の管長大谷句仏が、作者に薦めたのだったが、既に小説に対する興味が深く
なっていて、俳行脚といったことに心の動かなかった作者は、碧梧桐を代りに推したの
であった。この旅を機に、所謂新傾向運動がその緒に就き、全国的に流布されることにな
ったわけである。この句の上人は、言うまでもなく大谷句仏である。碧梧桐が全国行脚の
途に上るについて、そのパトロンとも言うべき句仏を脳裏に浮べたのであった。恐らく、
今時分は、灯取虫の来る灯の下で、ゆったりとした上人の生活を自ら窺わせる。句仏は、
以前から、碧梧桐の選を受けていたが、碧梧桐が新傾向に傾くにつれて、その鞭を受ける
をいさぎよしとせず、『我は我』という立場で俳壇に処していた」。
これらの記述により、当時の虚子と碧梧桐との関係が明瞭になってくる。当時の虚子の
の関心事は、俳句ではなく小説にあり、子規没後、虚子がその中心となった「ホトトギス」
は、明治三十八年に夏目漱石の「我が輩は猫である」が掲載されて部数が伸び、小説中心の雑誌に転じようとする状況にあった。それに比して、碧梧桐が俳句欄の選者となった新聞「日本」の投句者数は激減し、「まさか投句哀願の手紙を書くことも手出来なかつた」と碧梧桐自身後日にその「思い出話」に綴っているほど、芳しくなかったようである。こんなことが背景にあって、碧梧桐の全国遍歴の旅の、いわゆる、「三千里」の旅は決行されたのである(栗田靖・前掲書)。これらのことを背景にして、この掲出の虚子の句に接すると、あらかじめ示されている兼題の「灯取虫」で、しかも、碧梧桐の送別句会で、碧梧桐のこの送別の旅のパトロンの一人の「上人」(大谷句仏)を句材にするというのは、冷笑的な姿勢すら感じさせるのである。虚子にしては、それほど意識してのものではないであろうけど、こういう一面と、こういう句作りは、その後の、虚子の実像と虚像を、これまた増幅するものであった。

虚子の実像と虚像(その九)

○ 桐一葉日当りながら落ちにけり   (明治三十九年)
○ 僧遠く一葉しにけり甃(いしただみ) (明治三十九年)


 この留書きは次のとおりである。「以上二句。八月二十七日。俳諧散心。第二十二回。小庵。この掲出の一句目は虚子の代表作の一つでもある。この句の背景などの鑑賞ついて、次のようなものがある(清崎・前掲書)。
「明治三十九年。『俳諧散心』の第二十二回の折の席題『桐一葉』十句中の一句である。当時、碧梧桐とその一門が『俳三昧』を催して、句作の錬磨に努めていたのに対して、虚子とその一門が設けた句修業の道場が『俳諧散心』であった。『三昧』『散心』とい名称が、両者の感情を露出していよう。三月十九日に催された第一回には、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅などの顔が見えている。日の当っている桐の一葉が、つと枝を離れて、ゆるやかに、翩翻として大地に落ちた。日があたったまま、落ちつづけて大地に達したのである。「日当りながら」という把握によって、あの大きな桐の一葉が落ちてくる状態が眼前に彷彿とする。桐の落葉の特徴を描き得ているばかりでなく、極端に単純化することによって、切りとられた自然の小天地が生まれている。作者自身『天地の幽玄な一消息があるかと思ふ』と自負する所以である」。
 この掲出の二句で、句材的に見ていくと、一句目は、「桐一葉」だけなのに比して、二句目は、「僧・桐一葉・甃(いしただみ)」ということになろう。そして、この一句目の傑作句は、二句目に比して、写真用語での、トリミング(不用なものを切り落して、構図を整えること)の利いた切れ味の鋭い一句ということになろう。虚子は、このトリンミングということについて天性的なものを有していて、このトリミングによって、単に、「自然を写生する」ということから一歩進めて、「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というようなことを詠み手に訴えてくる。そして、虚子が一瞬にしてとらえた「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というものが、一つの寓話性のようなもの、この掲出の一句目ですると、「一葉落チテ天下ノ秋ヲ知ル」(文録)というようなものと結びついて、一種異様な深淵な響きを有してくる。こういう響きは、虚子独特のもので、碧梧桐のそれに比するとその相違が歴然としてくる。そして、この相違は、虚子は芭蕉的な世界に相通じて、碧梧桐はより蕪村的世界に相通じているといってもよいであろう。いずれにしても、この掲出の一句目は、虚子の俳句の最右翼を為すような一句であることは間違いなかろう。


虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。