月曜日, 3月 10, 2008

虚子の亡霊(四十~四十八)

虚子の亡霊(四十)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その一)

 上記の年譜を見ると、日本俳壇も戦後一新して、もはや「虚子の時代」は終焉したような思いにとらわれる。「春燈」は「人事諷詠」派ともいうべき久保田万太郎の主宰誌、「浜」は臼田亜浪系の大野林火の主宰誌、そして、「風」は戦後の社会性俳句の牙城となった沢木欣一らの主宰誌と、ぞくぞくと虚子の「ホトトギス」系でない俳誌 が誕生してくる。ホトトギス系は、松本たかしの「笛」、皆吉爽雨の「祖谷」、中村草田男の「萬緑」、村上杏史の「柿」であるが、草田男の「萬緑」などは、もはや、虚子の視野外のものといえるであろう。それよりも何よりも、「新俳句人連盟」は、時の戦後の「平和と民主主義」の風潮下にあって、かっての新興俳句やプロレタリア俳句を標榜したアンチ虚子・「ホトトギス」の俳句集団、そして、「俳句人」はその機関誌である。時に、虚子は七十二歳、小諸に疎開していて、九月に「玉藻」を復刊して、軸足を「ホトトギス」より「玉藻」に移していた。こういう時に、桑原武夫の「第二芸術・現代俳句について」(「世界」)が世に問われ、虚子をはじめとするいわゆる日本俳壇を代表する俳人達の「主宰誌・結社・家元俳句」などの実体を晒して、あまつさえ文学・芸術の足を引っ張る「主宰誌・結社・家元俳句」などの社会的悪影響を厳しく指弾したものといえよう。
 桑原武夫が取り上げたその日本俳壇を代表する俳人達とは、「阿波野青畝・中村草田男・日野草城・富安風生・荻原井泉水・飯田蛇笏・松本たかし・臼田亜浪・高浜虚子・水原秋桜子」の面々である。この十名の俳人達は、「井泉水・臼田亜浪」の二人を除いて(この二人も虚子と深い関わりはあるが)、その全てが、虚子そして「ホトトギス」門の俳人達で、いかに、明治・大正・昭和(特に戦前)の俳壇が、「虚子・ホトトギスの時代」であったかということが浮き彫りになってくる。
 この桑原の論稿には、「この十名の選択は、たとえば誓子を落しているように、妥当をかくかもしれぬが、手許にある材料でしたことゆえ諒せられたい。なお現代俳句の新しい試みとして、誓子、秋桜子らの「連作」形式があるが、考えるひまももたなかった」との付記が施されている。この山口誓子も虚子・「ホトトギス」門であり、いわゆる「四S」の、「秋桜子・草田男・誓子・素十」の、その「素十」こと高野素十だけがその名がないが、この論稿の結びのところに、その素十の影すら窺い知れるのである。ここの結びのところは、実に、論旨明快のところで、この論稿の出だしの「うちの子供が国民学校(戦時中の小学校)で」ということと対応しての、いはば、この論稿の全体の結論ともいうべきところなのである。ここを掲載すると下記のとおりである。

「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」

 この「スナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神」とは、秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の「自然の真」を標榜していると指摘された、その代表格の素十の、いわゆる、スナップ・ショット的「草の芽俳句・抹消俳句」への批判と取れなくもないのである。こうして見てくると、この戦後間もなく書かれた、この桑原の論稿は、当時の日本俳壇全体の警鐘であると同時に、その中心に位置するところの、高浜虚子とその「ホトトギス」とを標的としての、一大警鐘であったとも取れなくはないのである。しかし、この桑原のセンセーショナルな警鐘に、日本俳壇の当時の伝統派も革新派も騒然となるのであるが、その中心・中核に位置するところの虚子は、「『第二芸術』といわれて俳人たちは憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところが、十八級特進したんだから結構じゃないか」と平然としていたというのである(桑原武夫『第二芸術』所収「まえがき」)。それを聞いて、桑原は、「戦争中、文学報告会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」と記している(桑原・前掲書)。
 後に、桑原は、昭和五十四年四月号の『俳句』(角川書店)に「虚子についての断片二つ」という題で、「アーティストなどという感じではない。ただ好悪を越えて無視できない客観物として実に大きい。菊池寛は大事業家だが、虚子の前では小さく見えるのではないか。岸信介を連想した方がまだしも近いかも知れない。この政治家は好きな点は一つもないが」と書いているとのことである(中田雅敏著『人と文学 高浜虚子』)。この桑原の指摘は、その「俳句第二芸術論」も論旨明快であるが、実に、「虚子その人」を的確にとらえているものと、改めて、その批評眼の鋭さを思い知ったのである。あの、伝記物を書かせては無類の上手の田辺聖子すら、その『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で、「虚子韜晦(とうかい)」と、その正体をつかむことのできなかった「虚子その人」を、A級戦犯でありながら戦後に総理大臣まで上り詰めた「岸信介を連想した方がまだしも近い」というのは、けだし、桑原の明言であろう。
 これが、日本俳壇の名物俳人の一人として今に名が馳せている西東三鬼に至ると、その桑原の論稿の反駁書で「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である、私はこの点で桑原氏の前に頭を垂れて恥ぢる」との、これまた明言を残しているという(松井利彦著『近代俳論史』所収「第二芸術論への反駁」)。この「鋼鉄製の心臓の所有者」とは、上記の十名の日本を代表する俳人達のなかで、ただ一人、高浜虚子に捧げられるものなのではなかろうか。とにもかくにも、この三鬼の、「現代俳句の大家といはれる人達は鋼鉄製の心臓の所有者で、全く芸術的良心など不必要な人達である」という指摘には、桑原の「俳句第二芸術論」以上に、センセーショナルなる警鐘として受けとめたい。


虚子の亡霊(四十一)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

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「俳句第二芸術論」(その二)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、これまでに何回となく接していたのであるが、今回、講談社学術文庫のものを、他の論稿のものと一緒に目にして、従前のときに抱いたものと違って、この桑原の「俳句第二芸術論」は、正岡子規の「続・俳句革新」というような論稿のものだということを痛感した。この「俳句第二芸術論」は、丁度、子規が明治維新と軌を一にして、その「俳句革新」を成し遂げたように、終戦直後の、大きな時代の変革のときに、桑原が、その子規の「俳句革新」の延長線上に、子規の当時と同じような宗匠俳句然とした沈滞ムードに活を入れようとした論稿という感慨である。こういう感慨を抱いたのは、この講談社学術文庫のものが、昭和五十一年刊行と、それが公になったときから、凡そ三十年という歳月を経てのものであり、その「序」の昭和四十六年の「毎日新聞」に掲載された下記の記事に大きく起因していることと、さらに、「短歌の運命」・「良寛について」・「ものいいについて」・「漢文必修などと」・「みんなの日本語・・・小泉博士の所説について」・「伝統」・「日本文化の考え方」の、いわゆる、「俳句第二芸術論」をはじめとする日本文化論八編が収録されていて、その八編のうちの一つとしての、この「俳句第二芸術論」を目の当たりにして、その「短歌の運命」とともに、これはまさしく、子規の「俳句革新」の二番手の「続・俳句革新」の警鐘だということに思い至ったのである。
 とにもかくにも、昭和四十六年の「毎日新聞」に「流行言」と題した桑原武夫のその記事の全文は下記のとおりである。

桑原武夫「毎日新聞」一九七一年三月十三日付け「流行言」

むかし、昭和一ケタ台のことだが、東大の学生新聞に高浜虚子の散文をほめた短文を書いたことがある。すると間もなく、それを転載してよいかという手統が「ホトトギス」編集部から釆た。そして次号には虚子の一文がのり、自分の散文は俳壇ではあまり評価されていないようだが、具眼の士は認めているのだとして、正宗白鳥、室生犀星の評言をあげ、そのあとに、無名の私の文章が全文掲げられてあった(「ホトトギス」一九三四年五月号)。私の文章が公けの場所に引用され、ほめられたのは、これが最初である。
昭和二十二年ごろ、虚子の言葉というのが私の耳にもとどいた。・・・「第二芸術」といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか。戦争中、文学報国合の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った。
 数年後、ある会で西東三鬼さんに紹介された折り、あなたのおかげで戦後の俳句はよくなってきました、と改まって礼をいわれて恐縮したことがある。「第二芸術」については多くの反論をうけたが、今はほとんど忘れてしまって、虚子、三鬼両家のことしか思い出せない。まことに身勝手なものである.
 そんな私はその後、短詩型文学の動向にしだいに無関心となり、注目を怠っている
(大江健三郎、高橋和巳といった一流の才能は、短詩型文学を志向しないのではないか)。あれだけ人騒がせなことをしておきながら、と怠慢をとがめられるとつらいが、人それぞれ仕事というものがあるので許してほしい。その私に二十五年後の感想を求められても、現状をふまえぬ発言は空疎であろうし、だいいち失礼だろう。
文学は不易の価値を求める、というのが公式であろうが、そうした発言は時として不遜の感をあたえる。今という時にのみつくそうという作品もあるはずだ。後まで残るかどうかは歴史が裁きをつける。そして、当座の仕事をはたして消え去る作品がすべてつまらぬともいえない。批評の仕事はとくにそうである。批評はすペて時評というべきかも知れない。
 敗戦後およそ朝鮮戦争のころまで、焼けあとの実生活は苦しかったが、人々の意識には、窮乏の中のオプチミズムともいうべきものがあった。そこにただよっていた理想と自由への熱意はどこか瑞雲めいていた。依然としてパワー・ポリティツクの支配する世界を身にしみて自覚していない甘さはあったろうが、それを今の繁栄の中のペシミズムの立場から批判してみても、アナクロニズムになる恐れがある。これは当時一世を風靡したすぐれた社会料学者たちの論説について言えることだが、私の貧しい一文もこれらと同じ空の下で書かれたのであった。詩と散文との差異についての考慮が欠けていたことなど至らぬ点は間もなく思い当ったが、金子兜太氏のいわゆる「愚行」をいま自己批判する気にはならない。
ともかく四分の一世紀、歴史は流れた。あのころの雰囲気は近藤芳美氏の文章に巧みに感覚されている。
「・・・瓦礫の街の、澄み切った空の不思議な青さだけが思い出される。地上の貧しさ、苦渋と関わりない不思議な青さだった。「第二芸術論」の一連の文章を二十五年後の今読返しながら、わたしはふとそのような日々の空の色を連想した。議論のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」。
私は、もって瞑すべし、という感動を禁じえず、大好きな句を思い出すのみである。
   いかのばり昨日の空のありどころ    

 これが、桑原武夫の、「俳句第二芸術論」の公表から、「四分の一世紀」(二十五年)経ってからの、氏その人の感慨である。そして、そこに引用されている歌人・近藤芳美の「それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけ書かれ得たものなのだろうか」、そして、「議論のいさぎよいまでの透明さ」という一文に接したときに、あの明治維新という大変革期のに、あの「議論のいさぎよいまでの透明さ」をもって、颯爽と登場した、正岡子規その人がオーバラップしたのである。
ここで、かって、子規その人に無性に憑かれていた当時の、これまた、「四分の一世紀」(二十五年)前の、子規の「俳句革新」(メモ)のものを、その「議論のいさぎよいまでの透明さ」の証しとして、その一部を再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

○ 子規の「俳句革新」というのは、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による」俳句革新運動であった。子規が批判の対象とした、月並(月次)俳句とは、当時の俳諧の宗匠達が開く毎月の例会を意味したが、子規は、それらの月並俳句を「平凡・陳腐・卑俗」として攻撃したのである。                  

○ そして、子規の月並俳句(旧派)の批判と子規らが目指す近代俳句(新派)との違いは、子規は、その『俳句問答』(明治二十九年五月から九月まで「日本」新聞に連載され、後に刊行本となる)において、要約すれば以下のとおりに主張するのである。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    

○答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。

○第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。

○第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。

○第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。   

○第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。


虚子の亡霊(四十二)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その三)

 もとより仏文学者の桑原武夫は俳句が大嫌いというわけでもない。先に紹介した昭和四十七年の毎日新聞の「流行言」のものの一文の最後に、蕪村の「いかのぼり昨日の空のありどころ」を「大好きな句」として引用している。この蕪村の句に接すると、萩原朔太郎の、「僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。(中略)こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ」(『郷愁の詩人与謝蕪村』)が思い起こされてくる。
 桑原にとっては、「敗戦後の諸雑誌にも、戦前と同じように、現代名家の俳句が挿入されている。しかし、雑誌のカットなるものにかつて注目したことのない私は、同じように、最初までこれらのものを殆ど読んだことがなかった」(「第二芸術」の冒頭)
と、萩原朔太郎と同じように、「俳句と言うものに深い興味を持た」ないで、蕪村などには好意を持っていたというのであろう。そして、たまたま、ご子息の「初等科国語」の教科書に掲載されている俳句に関連して、「手許にある材料のうちから現代の名家と思われる十人の俳人の作品を一句ずつ選び、それに無名あるいは半無名の人々の句を五つまぜ、いずれも作者名が消してある」として、「一、優劣の順位をつけ、二、優劣にかかわらず、どれが名家の誰の作品であるか推測をこころみ、三、専門家の十句と普通人の五句との区別がつけられるか」とを実験的に質問を投げ掛けたものがその端緒となっている。その端緒となった十五句は、下記のとおりである。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝
4 粥腹のおぼつかなしや花の山
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく
9 終戦の夜のあけしらむ天の川
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし

 そして、桑原は、「私と友人たちが、さきの十五句を前にして発見したことは、一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねるという事実である」と続け、「そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが、ともかく現代の俳句は、芸術作品自体(句一つ)ではその作者の地位を決定することは困難である」と結論づける。そして、「菊作り」の例と同列視して、「私は現代俳句を『第二芸術』と呼んで、他と区別するのが良いと思う」と、これがいわゆる「俳句第二芸術論」として『流行言』として定着してくるのである。
 ここで、上記の十五句の作者が誰かの種明かしをすると次のとおりとなる。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子

 この十五句の選句のうちで傑作なのは、三句目の草田男の句が誤植のままのもので、その本句は「咳くとヒポクリッとべートヴエンひゞく朝」と、その「ヒポクリット」の「ヒ」が脱落したままのものであった。これに対して、桑原は、その「追記」で、「なぜそんな誤植が生じたのだろうか。ともかくも私の説はこのことによってはくずれない」と、いわゆる、「俳句第二芸術論」の駄目押しまでもしているのである。

虚子の亡霊(四十三)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その四)
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」を詳細に見ていくと、いわゆる大家といわれる俳人たちに対する「裸の王様」的な痛烈な批判の眼を終始貫いているのは見事という他はない。まず、最初に俎上に上げられるのは、勿論、虚子であることは言うまでもない。
「『防風のこゝ迄砂に埋もれしと』という虚子の句が、ある鉄道の雑誌にのった『囀や風少しある峠道』や、『麦踏むやつめたき風の日のつゞく』より優越しているとはどうしても考えられない」とし、次に、「この二句(12・8)は、私たちには『粥腹のおぼつかなしや花の山』などという草城の句よりは詩的に見える」と虚子と袂を分かった反虚子ともいえる日野草城が槍玉に上がっている。
 続いて、「俳句は一々に俳人の名を添えておかぬと区別がつかない」として、「もっとも『爰(ここ)に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り』いうような独善的な形式破壊をするものは井泉水以外になく」と自由律俳句の総帥・井泉水は「独善的な形式破壊」者とされている。そして、草田男は、「『咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝』などというもの欲しげな近代調は草田男以外に見られまいから、これらの作家はすぐ誰にも見分けがついただろう」と誤植のままの「咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝」で、仏文学の桑原から独文に造詣の深い草田男は一顧だにされていないのである。
 亜浪については、「虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ『ホトトギス』の家元、『石楠(しゃくなげ)』の総帥があるのである」と、その例に出された句の紹介もない。そして、比較的好意的に取り上げられている秋桜子についても、「およそ、芸術において、一つのジャンルが他のジャンルに心ひかれ、その方法を学ばんとすることは(注・秋桜子の「絵画に学べ」を指している)、あえてアランを引合いに出すまでもなく、常にその芸術を衰退せしめるはずのものである。しかるにかかる修業法が、その指導者によって説かれるというところに、私は俳句の命脈を示すものを感じる」と容赦をしない。
 その上で、桑原は、「その(注・俳句が)描かんとするものは何か。『自然現象及び自然の変化に影響される生活』、言葉をかえてはっきりいえば、植物的生である。さきに引用した井泉水の文章において、この俳人が現代の人間にとって最も重要な問題、自由を桃と麦という植物によって説明していたことを、読者は思い出すであろう。桃のことは桃にならい、麦のことは麦にならいつつ、植物的生を四号ないし色紙大に写し出すこと、こんにち俳句が誠実にあろうとするとき、必然的にここに帰着せざるを得ないのである」と結論づける。
 かくして、「かかるものは、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも『芸術』という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか」と、桑原の面目躍如という趣である。
 ここに、「小説や近代劇と同じように」と言っているのは、豪華絢爛たる江戸の元禄文化の、「俳諧」=松尾芭蕉、と肩を並べている、「小説」=井原西鶴、近代劇=近松門左衛門を意識しているのかも知れない。
 とにもかくにも、明治維新期の、正岡子規の「俳句革新」に次いで、戦後の昭和維新期の、桑原武夫の「第二」の「俳句革新」の警鐘であったことは、また、その警鐘が鮮やかに的を得たものであったということは、それから、半世紀を遙かに過ぎた今日にでも、実感としてひしひしと感ぜられるところのものであろう。
 なお、桑原の「俳句第二芸術論」に出てくる俳句は、その例示としての下記の十五句(一~十五)の他に、下記の四句(A~D)がある。そして、桑原の「俳句第二芸術論」の公表後の約三十年後に公刊された、桑原の『第二芸術』という図書の解説(多田道太郎稿)で、下記のDについて、名句の評をくだしているが、この句などを、例示の十五句のうちの一つに加えていたならば、さらに、桑原の「俳句第二芸術論」は輝きを増していたことであろう。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)


虚子の亡霊(四十四)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

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「俳句第二芸術論」(その五)
 
 桑原武夫の「俳句第二芸術論」については、さまざまな反駁論が展開されたが、桑原の投げ掛けた衝撃ほどには、その反駁論のインバクトは大きくない。これらの桑原の「俳句第二芸術論」への反駁の詳細については、先に紹介した『近代俳論史』(松井利彦著)に詳しい。その目次のものをあげると、「誓子の反論」・「秋桜子の発言」・「草城の反駁」・「三鬼の反駁」・「京三(不死男)の反論」・「草田男の反論」・「楸邨の反論」などとなっている。この「誓子の反論」については、先に(「虚子の亡霊」五)
触れたところであるが、その出だしのところを再掲しておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52464752.html

※昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。
(「桑原武夫氏へ」)
 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)
 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。
※私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 この「誓子の反論」でも如実に現れているように、桑原の「俳句第二芸術論」は、その桑原の刺激的な挑発に誘導されて、改めて、「俳句とは何か」・「俳句の文学性」ということが問い直されて、戦後の俳句の方向性とその実践に多くのものをもたらしたという、皮肉な現象を生み出したということも指摘できるであろう。これらのことについては、下記のアドレスで、次のようなことが指摘されている。

http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/100_4f6e.html

1.山本健吉「挨拶と滑稽」(「批評」昭和22年12月号)
この論文は、「第二芸術論」と並行して書かれたもので、応答という位置づけではないが、俳句の本質に係わる論考として、幅広い影響を与えた。俳句性(俳句が他のジャンルと違う点)として、「有季・定型・切れ」の三要素があげられる。山本はそのよってくるところは何か、と問い、「滑稽、挨拶、即興」を抽出した。それは発句の要件というべきものであって、現代俳句には必ずしもそぐわないが、「第二芸術論」と相まって、俳人たちを俳句性探究に向かわせる役割を担った。

2.根源俳句
山口誓子は、「天狼」昭和23年1月号において、「人生に労苦し、齢を重ねるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが何を根源とし、如何にして現るるかを体得した」と書いて、俳句の根源について、問いかけた。山口自身は、最初は生命イコール根源とし、後に無我・無心の状態が根源だと変化したが、多くの俳人が俳句の根源について論じ、「内心のメカニズム」「実存的即物性」「抽象の探究」などが論じられた。

3.境涯俳句
境涯俳句とは、人それぞれの境涯、その人の立場や境遇を詠んだ俳句をいう。
狭い意味では、昭和27、8年頃まで貧窮・疾病・障害などのハンディを負った生活から詠まれた句を指す。戦争の影響が、多くの人に重い境涯をもたらしたことの反映でもある。

4.社会性俳句
社会性俳句は、歴史的な社会現象や社会的状況のなかに身を置き、関わりながら詠んだ作品である。狭い意味では、「俳句」昭和28年11月号で、編集長の大野林火が、「俳句と社会性の吟味」を特集して以後の流れを指す。

5.風土俳句
社会性俳句の中で、地方性、風土性の強い俳句を指す。俳句はもともと風土的であるが、特に地方の行事、習俗、自然を詠んだものをいう。

6.前衛俳句
金子兜太が、「俳句」昭和32年2月号に、『俳句の造型について』という俳句創作の方法論に関する論考を発表した。「諷詠や観念投影といった対象と自己を直接結合する方法に対し、直接結合を切り離してその中間に“創る自分”を定置させる」というもので、そこから生まれた流れが「前衛俳句」と呼ばれた。
具体的には、以下のような作品を指す。
 a 有機的統一性のあるイメージが、同時に思想内容として意味を持つ作品
 b 二つのイメージを衝突させたり組み合わせた作品
 c 多元的イメージを一本に連結した作品


虚子の亡霊(四十五)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/


「俳句第二芸術論」(その六)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」は、戦後の「昭和俳句」、そして、平成の現代に続くまさに「現代俳句」そのものの、その因って立つ基盤のようなものとも位置づけられるところの、「純粋俳句」・「根源俳句」・「境涯俳句」・「社会性俳句」・「風土俳句」・「前衛俳句」などとは、別な観点からの、「限界芸術としての俳句」という考え方も提示されて、それらは、現に今なお、現在進行形のままに「俳句とは何か」という問い掛けの一つの応答の態様であり続けている。
 この「限界芸術」ということについて、桑原は、図書という形での『第二芸術』の「まえがき」の中で、次のように述べている。

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

 この「限界芸術」については、次のアドレスでは、下記のように紹介されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~VF8T-MYZW/log/marginalart.html


鶴見俊輔の『限界芸術論』を読んだ。
それによると、芸術には三つの領域があるという。

一つは『純粋芸術(Pure Art)』というもの。
専門的芸術家がいて、それぞれの専門種目の作品の系列に対して親しみを持つ専門的享受者をもつ。
絵画、彫刻、文学などがそれに当たる。

一つは『大衆芸術(Popular Art)』というもの。
専門的芸術家が作りはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。(代表的なのは小室哲哉か?)

一つは『限界芸術(Marginal Art)』というもの。
上の二つよりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を言う。
非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ。
『限界芸術』の代表的芸術家としてあげられるのは、宮沢賢治そしてヨーゼフ・ボイスである。

プロとしての道を通らなかった人のする芸術はすべて、『限界芸術』に含まれる。
年賀状やカラオケ、家族写真や日記などがそうだ。
(ホームページなども限界芸術に含まれる)

『限界芸術』の歴史は長く、基本的には発展していないと『限界芸術論』は言う。
アルタミラの壁画などがその最初の姿であり、芸術の二つの形『大衆芸術』と『純粋芸術』はここから生まれた。
美術の歴史とは基本的に『純粋芸術』の歴史である。『大衆芸術』や『限界芸術』はこのなかに含まれない。

『限界芸術』は芸術の最も基本的な形であると同時に、人間という存在と直接に関わっている領域であるともいえる。人間は元々居る世界から”脱出”すること望み続ける存在だ。
それは空間的な脱出と、時間的な脱出に分けられる。新しい土地に向かって行くこと、新しい状況に変えて行くことではないかと想う。
現在が悲観的であるのは、そのどちらに対しても新しいイメージがわかなくなっているからだ。
(だが一方で、日本人はもともと、そのどちらのイメージも持たずに生きることの出来る民族だが)

イメージが共有される様になり、イメージに対して自由でなくなることは、人間を不可視の鎖につなぐ結果になっている。
今求められているのは、狭いイメージから脱出することなのではないだろうか?
もしかするとイメージそのものからも。

中心に向かうことと限界に向かうことは等しいことだ。
芸術の中心は、”芸術の領域”には常に無い。
二人の”限界芸術”家は芸術の源に帰って行った。

 参考文献:「限界芸術論」 鶴見俊輔著 勁草書房


虚子の亡霊(四十六)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その七)

鶴見俊輔の、『純粋芸術(Pure Art)』・『大衆芸術(Popular Art)』・『限界芸術(Marginal Art)』との三区分に対応させて、「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分に、いわゆる「俳句」というものを区分すると、ここで、桑原武夫の「第二芸術」の「まえがき」で紹介されている、虚子の、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という、虚子の姿勢とその考え方が俄然活きてくるような思いがするのである。
すなわち、虚子は、「ホトトギス」俳句、そして、「虚子俳句」の多くの作品群は、
上記の「純粋俳句」・「大衆俳句」・「限界俳句」という三区分の「限界俳句」に多く属するということを喝破していたのではないかという思いに行き着くのである。
 この虚子の発言について、桑原は、「戦争中、文学報国会の京都集会での傍若無人の態度を思い出し、虚子とはいよいよ不敵な人物だと思った」との感想を述べているが、虚子にとっては、「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」というのは、虚子の嘘偽りのない正直な吐露なのではなかろうか。
 かつて、子規の「俳句革新」について、「書生(アマ)の、書生(アマ)のための、書生(アマチュア)による俳句革新運動」であったと指摘したことがあるが、事実、虚子もまた、そのような感慨を終始抱いていたのではなかろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/53749537.html

 このように虚子の姿勢とその考え方が、「限界芸術」そして「限界俳句」(芸術と生活との境界線にあたる作品。そして、非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ)に基礎を置くという考え方に立てば、虚子のスタート時点での「俳諧須菩提教」、そして、その最晩年の「俳句は極楽の文学(虚子は「文芸」という言葉を使用している)」であるということが、虚子にとって極めて自然な考え方ということになる。ここで、「俳諧須菩提教」について、下記のアドレスのものをもって、その大要を紹介しておきたい。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

☆高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(ズボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の進めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。 参考  村山古郷著「明治俳壇史」

 また、虚子の「極楽の文学(文芸)」について、かって、下記のように指摘したことがあるが、それも再掲をしておきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/52636605.html

☆虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かせるのである。


虚子の亡霊(四十七)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その八)

 桑原武夫の「俳句第二芸術論」をつぶさに見ていくと、この論稿はより多く高浜虚子その人を意識して書かれたものという印象が拭えない。それらは、次のような個所に現れている。

☆「防風のここ迄砂に埋もれしと」という句が、ある鉄道の雑誌にのった「囀や風少しある峠道」や、「麦踏むやつめたき風の日のつゞく」より優越しているとはどうしても考えられない。
☆(注・下記の)3・7・10・11・13(注・虚子の句)などは、私にはまず言葉として何のことかわからない。
☆たとえば虚子、亜浪という独立的芸術家があるのではなく、むしろ「ホトトギス」家元、「石楠」の総帥があるのである。
☆俳人の大部分はいまだに党人である。何々庵何世とはいわないか゛、精神は変わっていない。げんに「読売新聞」八月二十三日号には、俳句講座の広告に「池内友次郎先生(虚子氏令息)指導」とあった。広津和郎先生(柳浪氏令息)などとはいわないであろう。

 この調子である。このような虚子を名指したもの以外に、「ここは虚子を意識しているか」と思われるところが随所に見られる。あまつさえ、下記の虚子のEの句の後に、この論稿の「まとめ」のような、次の一文が続くのである。

☆しかし、菊作りを芸術ということは躊躇される。「芸」というがよい。しいて芸術の名を要求するならば、私は現代俳句を「第二芸術」と呼んで、他と区別するがよいと思う。第二芸術たる限り、もはや何のむつかしい理屈もいらぬわけである。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわず、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。それが現状に即した正直な道であろう。—— 「古風当風中昔、上手は上手下手は下手、いづれを是と弁(わきま)へず、好いた事して遊ぶはしかじ、夢幻の戯言(ざれごと)也」。 

 桑原は、ここで、はっきりと、芭蕉のそれは「第一芸術」であるが、虚子を始めとする「現代俳句」は、「第二芸術」であると決めつけるのである。そして、その張本人は、明治・大正・昭和(戦前)と頂点を極めてきた、高浜虚子の占める割合は大きいというのが、この桑原の「俳句第二芸術論」の骨格であろう。
 なお、先に掲げた句の他に、虚子の本文中に引用されている句(E)も付け加えておくこととする。

1 芽ぐむかと大きな幹を撫でながら       阿波野青畝
2 初蝶の吾を廻りていずこにか
3 咳くとポクリッとべートヴエンひゞく朝    中村草田男
4 粥腹のおぼつかなしや花の山         日野草城
5 夕浪の刻みそめたる夕涼し          富安風生
6 鯛敷やうねりの上の淡路島
7 爰に寝てゐましたといふ山吹生けてあるに泊り 荻原井泉水
8 麦踏むやつめたき風の日のつゞく       飯田蛇笏
9 終戦の夜のあけしらむ天の川         
10 椅子に在り冬日は燃えて近づき来      松本たかし
11 腰立てし焦土の麦に南風荒き        臼田亜浪 
12 囀や風少しある峠道
13 防風のこゝ迄砂に埋もれしと        高浜虚子
14 大揖斐の川面を打ちて氷雨かな
15 柿干して今日の独り居雲もなし       水原秋桜子
A 雪残る頂一つ国ざかひ           正岡子規
B  赤い椿白い椿と落ちにけり         河東碧梧桐
C  砂ぼこりトラック通る夏の道  (桑原武夫のご子息)
D よく見れば空には月がうかんでる      (同上)
E 句を玉とあたゝめてをる炬燵哉        高浜虚子
注・上記の3の「咳くとポクリッと」は「咳くヒポクリット」の誤植のものである。
この「ヒポクリット」は偽善者・猫かぶりの意である。

虚子の亡霊(四十八)

昭和二十一年(1946)
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。

http://www.hototogisu.co.jp/

「俳句第二芸術論」(その九)

桑原武夫の「俳句第二芸術論」で、「芸術」と「芸」とを使い分けしている個所がある。それは秋桜子に関する次の記述である。

☆かかるものは(注・俳句は)、他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしい。しかし、かかる慰戯を現代人が心魂を打ちこむべき芸術と考えうるだろうか。小説や近代劇と同じように、これにも「芸術」という言葉を用いるのは言葉の乱用ではなかろうか(さきに引用した文章で、秋桜子が「芸術」という言葉を用いず、いつも「芸」といっているのは興味深い)。

 確かに、秋桜子が「ホトトギス」を離脱することになったときの論稿の、「自然の真と文芸の真」でも、「芸術」とか「文学」とかという言葉は使用せず、「文芸」という言葉でしている。この秋桜子の「自然の真と文芸の真」に関連する当事者達の、秋桜子・素十、そして、中田みづほにしても、皆さん、錚々たる医学者であり、彼等には、「芸術・文学として俳句」に携わっているという感慨は稀薄ではなかったかという思いを深くする。
そして、高浜虚子もまた、「芸術・文学としての俳句」という意識は希薄ではなかったかという思いを深くする。ここでも、繰返すこととなるが、桑原の「俳句第二芸術論」に対しての、虚子の「自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」という吐露が、虚子にとっては自然なものであり、それよりも、「俳句は俳句」という実作的感慨をより多く抱いていたように思われるのである。
このことは、最晩年の「極楽の文学」(稲畑汀子、そして「ホトトギス」の面々はより多くこの言葉を使用している。『俳句十二か月(稲畑汀子著)』など)において、実に、「極楽の文芸」と言ったかと思うと、直ぐさま、「極楽の文学」と、全く、これまた、枝葉末節のことについて吾は感知せずとでも言うかのように、はたまた、目眩ましのように、チャランポランに使用しているのである(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。そのチャランポランの所を下記に抜き書きをして見たい。

☆私はかつて極楽の文学と地獄の文学という事を言って、文学にこの二種類があるがいずれも存立の価値がある。(中略) 俳句は極楽の文芸であるといふ所以である。(中略) 私が言ふ極楽の文学といふものは逃避の文学であると解する人があるかもしれぬが、必ずしもさうではない。これによつて慰安を得、心の糧を得、以て貧賤と闘ひ、病苦と闘ふ勇気を養ふ事が出来るのである。(後略)(『俳句への道』所収「極楽の文学」)。
☆俳句でない他の文芸に携わって居るものが「花鳥諷詠」を攻撃するなれば聞えるが、俳句を作っている者が「花鳥諷詠」を攻撃するということはおかしい。俳句は季題が生命である。尠(すくな)くとも生命のなかばは季題である。されば私は俳句は花鳥(季題)諷詠の文学であるというのである。(中略)俳句は季題(花鳥)というものを切り離すことの出来ない文芸である。俳句は生活を詠い人生を詠う文芸としては、 そうつき詰めたせっば詰まった(他の文芸が志しているような)ことは詠おうとしても詠えない。(後略)(『俳句への道』所収「花鳥諷詠」)。
☆俳句を知らんと欲すれば俳諧以外の文学を知らねばならぬ、俳諧以外の文学を知ることによって俳句の性質が明らかになって来る。(中略) 他の文芸を知らず、ただ俳句のみを知って、それで他の文芸の長所とする所をも真似て見ようとするのは愚かなことではあるまいか(後略)(『俳句への道』所収「他の文芸と俳句」)。

 上記の無造作にチャランポランに使われている「文学」と「文芸」という用語は、つぶさに見ていくと、「文芸」という用語は「文学」の用語よりも広い概念の用語として使用している感じも受けなくはないが、それほど意識して使い分けしているようにも思えない。しかし、虚子の内心では、「芸術・文学としての俳句」というよりも、より多く「芸能・文芸としての俳句」の方に傾いていたのではないかという思いを深くする。
それは、丁度、鶴見俊輔の、「純粋芸術」・「大衆芸術」・「限界芸術」の三句分に対応させて、「文学」という用例は、「純(粋)文学」と「大衆文学」とを指し、そして、「文芸」のそれは、「「純(粋)文学」と「大衆文学」の他に、「限界文学」をも包含してのものという思いと軌を一にする。勿論、虚子の時代には、「限界芸術」・「限界文学」という概念は存在していなかったが、虚子の言葉でするならば、「俳句とか歌とかいうものは他の文学と違っておって、大衆的なものである」(『俳句への道』所収「客観写生」)と、「大衆文学」に包含して使われていたということであろう。
何故、ここで、執拗に、「芸術・文学としての俳句」と「芸能・文芸としての俳句」との峻別にこだわるかというと、若き日の虚子にまつわる、子規の後継者への依頼を無下に拒絶した、いわゆる、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に連なるという思いに深く関係しているのではないかということに起因している。
ここで、ひとまず、桑原の「俳句第二芸術論」関連のものは了として、次に、明治二十八年当時の、「道灌山事件」に場面を遡ってみたい。

木曜日, 3月 06, 2008

虚子の亡霊(二十六~三十九)

虚子の亡霊(二十六)

ホトトギス百年史

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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

 再び、昭和六年の十月の「秋桜子のホトトギス離脱」関連について、虚子サイドではなく、秋桜子サイドで、『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)のものを抜粋の形で、その詳細について見ていきたい

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その一

水原秋桜子の、『高浜虚子並に周囲の作者達』という回想記は、昭和二十七年十二月に初版が出て、翌年三月にはもう三版を出しているほどの評判の本であった。無理もあるまい。この本は、秋桜子が「渋柿」によって俳句を始めたころから、きびしい研鑽によって「ホトトギス」の有力作家に成長し、やがて虚子に反撥して「ホトトギス」を離脱、「馬酔木」に本拠を定めて、若い作家たちと、俳句近代化の道に歩みでるまでを綿密に回想する、感動的な自伝なのであるから。とくに秋桜子が果敢にも虚子に抵抗し、「ホトトギス」離脱の挙に出たことは、それまで虚子に支配されていた俳句界の閉塞状況をうち破り、新しいさまざまの可能性の出現への突破口をひらいたもので、近代俳句史上最大の事件であり、この本はその裏面を当人が回顧するものとして、世の注目を集めたのである。
 秋桜子を論じたものとして、たとえば、『水原秋桜子』(石田波郷・藤田湘子の共著、桜楓社)があるが、二人の「馬酔木」編集長経験者が書いているこの本も、右の時期については、主としてこの『高浜虚子』にたよっていることがうかがえるのである。「馬酔木」に育った倉橋羊村の『水原秋桜子』(角川書店)「秋桜子とその時代』(講談社)も同様である。淡々とした調子で小説風に書きすすめられ、感動の焦点である虚子との別離にむかって、回想の筆致はしだいにもりあがってゆくが、終始抑制された冷静な書き方はくずれず、逆に説得力にくわえて、信頼度のたかいひとつの人間記録となっているのである。これだけ精細な記述が、すべて秋桜子の記憶力によっていることを思うと、なるほど、旧制の一高に、首席で合格した秀才というにふさわしい強記ぶりだなあと、感服せざるをえないのである。
 この本によって、秋桜子の俳句革新への歩みを概観しておくことは、今日とくに必要なことだろう。「ホトトギス」離脱、「馬酔木」独立と、概念的にお題目のようにくりかえすよりも、その内実の意味や志向をはっきりと確認して、その今日的意義を問いなおすことのほうが、いまは大切だと思われるからである。この本の印象的な何箇所かを読みかえしながら、秋桜子の虚子にたいする態度の推移をふりかえってみよう。まず、秋桜子がはじめて虚子の著書に触れたときの回想である。

※『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)の出だしの部分である。ここの記述においては、「とくに秋桜子が果敢にも虚子に抵抗し、『ホトトギス』離脱の挙に出たことは、それまで虚子に支配されていた俳句界の閉塞状況をうち破り、新しいさまざまの可能性の出現への突破口をひらいたもので、近代俳句史上最大の事件であり、この本はその裏面を当人が回顧するものとして、世の注目を集めたのである」は、これまで触れてきたものと、方向として全く同じものである。

虚子の亡霊(二十七)

ホトトギス百年史

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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その二

佐々木綾華の創刊した「破魔弓」という俳句雑誌の、二号から同人として参加すること
を求められ、承諾する。秋桜子の加入によって「破魔弓」は東大俳句会とつながりができ、すこしずつ増大してゆくが、これがのちに「馬酔木」と改題され、秋桜子の拠点となってゆくわけで、すべての糸がたがいに連繋をもちながら、すこしずつ決定的な結末へ動いてゆくさまは、感動的でさえあるではないか。
 やがて高野素十が秋桜子に俳句を教えろと頼みはじめる。真剣に頼むので向島の百花園に連れてゆき、作った句を批評してやると、研究室のなかでも句帖を示しはじめるようになった。いろいろなことがおこる。関東大震災のこと、石鼎を血清化学教室の句会に呼んだこと、秋桜子が「ホトトギス」雑詠の巻頭になったこと、「ホトトギス」の課題句選者になったこと、「破魔弓」の選句を引き受けたことなどである。秋桜子の俳句の力がしだいに高まって、「ホトトギス」での地位が重要なものとなってきたのであった。だがそうしたうちにも、秋桜子の心にすこしずつ虚子批判の気持ちが芽生えはじめてくるのである。

「ホトトギス」に原田浜人が「写生の主体」という文章を寄せ、「ホトトギスの作者達が客観写生と称して、主観を忘却した句を詠むことを難じた」。虚子はこれを駁する文章、「客観写生の面白味」を書き、「浜人のいふ主観は表面に浮き出たものを指してゐるので、主観といふものはもつと沈潜してゐなければならぬ」と反論する。秋桜子はこの論争を眺めながら、次のような感想を抱いている。

 虚子は、無論俳句が抒情詩であり、主観が中心たるべきことを知つてゐる。しかし決し てそれを言はぬ。言へば初学者の混乱することが眼に見えてゐるからであらう。虚子は、 主観の大切なることは作者自身が勉強によつて知るべきものとしたらしい。これも一つの 教育法である。即ち、鬼城、石鼎、蛇筋、普羅などは皆勉強によつて自己の道をひらき、 つよい主観を句に現はし得た作者達であるが、その時代は割合に短く、泊雲のやうに主観 の乏しい作家の時代に移つて行つた。ある時代はその主観のつよい作者が主流となり、あ る時代は主観よりも観察のすぐれた作者が主流となつて、俳句は次第に向上してゆくもので、虚子はその方針によつて作者達を導く考であつたかも知らぬが、自ら「平凡好き」と言つてゐた如く、主観のつよい句は好まなかつたらしい。かくしてホトトギス全体が平凡 化してゆくことが浜人の如く主観を尊ぶ作者には気に入らなかつたのであらうと思ふ。

※ここのところは、秋桜子と「馬酔木」(前身「破魔弓)との出会いである。そして、無二の親友であった秋桜子と素十との関係が論じられ(これについても先に触れた)、続いて、「ホトトギス」の有力俳人であった、原田浜人(ひんじん)の、「ホトトギス」の「客観写生」に対する批判的立場が紹介されている。そして、この原田浜人は、阿波野青畝の師筋にあたる方で、これらについても、先に、「阿波野青畝の俳句」のところで、触れてきた。そして、虚子の「客観写生」についての、秋桜子の理解が紹介されている。この虚子の「客観写生」の紹介が、ここのポイントで、虚子の「平凡好き」なのは、その作風の「淡泊平明」と併せ、興味の引かれる点である。これらの虚子の姿勢が、後の、「杉田久女のホトトギス除名」の一因にも繋がっているであろう。

虚子の亡霊(二十八)

ホトトギス百年史

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その三

ひややかな虚子

 ついに昭和五年、句集『葛飾』が刊行される。かれは慣例にしたがわず、虚子に序文を乞わないで、自分で序文を書いた。初版五百部は四、五日で売り切れるほどの好評で、すぐに再版が作られる。けれども虚子の反応はひややかであった。
 発行所には虚子がひとりでゐた。原稿をさし出すと、それを受取つたのち、
「葛飾の春の部だけをきのふ読みました。その感想をいひますと・・・」、ここで一寸言葉 をきつたのち「たつたあれだけのものかと思ひました」と言つた。私は、
「まだまだ勉強が足りませんから」と答へたが、心の中では、やはり想像してゐた通りだ と思つた。これは客観写生に対する私の考のちがひ方、句評会の空気の息苦しさに対する 反撥・・・その他が積り積つた結果だらうと考へられた。だからこれはむしろ当然のことなので、私にはあまり刺激を感じない言葉であつた。虚子はまたしばらく黙つてゐてから、
「あなた方の句は、一時どんどん進んで、どう発展するかわからぬやうに見えましたが、こ の頃ではもう底が見えたといふ感じです」と言つた。これもまさにその通りかも知れないと、私は心の中で苦笑しながら返事をしなかつた。
それにしても、まことに虚子のことばは辛辣である。好意をもつ弟子に言うことばではない。秋桜子が感じたように、たしかに何らかの反撥が虚子にあって、それがこうしたあけすけな、感情的な批評を言わせたのであろう。虚子の心が秋桜子を離れているのが目に見えるような挿話ではなかろうか。
(中略)
そうしたなかで、ついに昭和六年、すでに述べた、あの決定的な、みづほ・今夜対談の「ホトトギス」掲載事件がおこるのである。秋桜子と素十の作風を比較し、秋桜子を批判するこの対談が、あからさまに「ホトトギス」にのったのであるから、秋桜子が、怒りかなしむのも無理からぬことである。かれはこのときはじめてはっきりと「ホトトギス」を去る決心をしたのであった。「ホトトギス」でかれははじめて俳句がわかるようになった。その恩を考え、すべてに耐えて「ホトトギス」にいることは、自分の俳句を捨ててしまうことになる。
よき先輩や友人と別れることもつらいことだった。しかしかれはすべてを捨てて、自分の俳句を大切に考えようとするのである。
こう決心しても、完全に「ホトトギス」を離脱するまでにはしばらくの時間が必要だった。吟行会もあり、謡の会もあった。この謡の会は虚子がみなにすすめたもので、素十と秋桜子の問にできた亀裂をとりつくろおうとするためのものだった。それならなぜ、みづほ・今夜の対談を地方誌からわざわざ転載などしたのかと、秋桜子のしこりは大きくなるばかりだった。
完全な別離までの出来事で、もっとも印象的なのは、粕壁でおこなわれた武蔵野探勝会の一挿話である。句会場で、素十が秋桜子に将棋をいどむのである。それを虚子が叱ることなく眺めにくるのである。その場面のあと、秋桜子が川辺にいると、また虚子がやってきて、話しかける。虚子が山会(文章会)への出席をすすめるが、秋桜子は気をひきしめながら、すべてに興味をもてなくなったから休むと答えるのである。虚子に、転載事件についてのうしろめたさと、秋桜子にたいする御機嫌とりのような気持ちがあったのだろうが、いまは秋桜子の決意は不動のものとなっていた。「馬酔木」の若い人々の熱心な声援もあり、秋桜子にはっきりと「ホトトギス」からの「馬酔木」独立の構想が立ったのである。
かれは「馬酔木」に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表する。虚子に挨拶するつもりで家庭俳句会にゆき、披講を命ぜられ、その任をはたす。それを虚子への別れの挨拶どして外に出る。いよいよ秋桜子の自分の道がひらけたのである。若々しい、文芸性の強い俳句への道が、秋桜子にも、また全国の若者たちにも、同時にひらけたのである。子規から虚子へつづき、「ホトトギス」一辺倒におちいっていた近代俳句に、はじめて外光と主観解放のあたらしい扉が押しあけられたのである。秋桜子に披講を命じた虚子は別離を直感したのであろう。虚子の忘られぬ命令であった。

※『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)で、ここには、「ひややかな虚子」という見出しがついている。秋桜子の処女句集『葛飾』対する虚子の姿勢は何とも冷ややかそのものである。虚子が時として見せる辛辣なまでの「非情な冷めた」視点と姿勢である。秋桜子の場合は、この『葛飾』の序を虚子に頼まず、自分で書いたということも、虚子の神経を逆撫でる一因となっているであろう。逆に、後に、「ホトトギス」を除名される杉田久女の場合には、その句集刊行に当たり、虚子の序を懇請に懇請を重ねたにも拘わらず、それを終始冷ややかに拒み・無視し続け、久女の狂乱の原因の一端ともなっている、何とも、嫌らしいほどの虚子の「非情な冷めた」視点と姿勢との一面を見る思いがする。秋桜子の場合は、上記の解説の中にもある通り、虚子と袂を分かち、「ホトトギス」と対峙する「馬酔木」を創刊主宰して、その「馬酔木」に参集した若き俳人達のエネルギーによって、新しい秋桜子の独自の世界を展開することとなる。それに比して、久女の場合は、逆に、過情な虚子一辺倒となり、それ故に、虚子に疎まれ、敬遠され、遠避けられて、あまっさえ、「ホトトギス」を除名され、その後の久女の悲しい生涯を決定づけることとなる。こういう虚子の一面を見るときに、「虚子」という俳号の、その「虚」(虚無・空・ニヒル)ともいうべき、「ニヒルスト・虚子」という一面を、まざまざと見る思いがする。


虚子の亡霊(二十九)

ホトトギス百年史

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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その四

秋桜子の「ホトトギス」離脱は、近代俳句史のもっとも大きな事件であり、俳句の流れを急転させる勇気ある行為であった。それほどに虚子の権威が俳壇を支配していたのであった。それを、温情にあふれる秋桜子が敢行したことはまことに注目すべきことである。ではその離脱の旗印となった秋桜子の文章、「『自然の真』と『文芸上の真』」(「馬酔木」昭和六年十月号に掲載)はどのような内容のものであろうか。
昭和六年二月号の「ホトトギス」に、地方俳誌である「まはぎ」にのった中田みづほ、浜口今夜の「句修業漫談」という対談が転載され、二、三と連載されていったが、その第三回が「秋桜子と素十」と傍注され、秋桜子の作風が、素十と比較して批判されていた。秋桜子の文章はこれにたいする反論の形で書かれているわけである。秋桜子の回想記『高浜虚子』には、みづほ、今夜の批判とそれにたいする感想が次のようにまとめられている。

要するに俳句といふものは、虚心に自然を写すものであつて、私のやうに心をさきにしてはいけないといふのである。(略)素十の作風は、元来個性のうすい素直なものであつたが、一時俳句に遠ざかつてから後の句は、自然のこまかさを写すばかりのものに変つて行き、「もちの葉の落ちたる土にうらがへる」「甘草の芽のとびとびの一と並び」「おほばこの芽や大小の葉三つ」といふやうなものになつて行つた。かういふことは、それまであまり人が試みなかつた為めに、一時はおどろかれるが、やつて見ればなんでもないので、少し俳句的の表現を心得ればすぐにも出来る程度のものである。私達はこれを「草の芽俳句」と言つてゐたが、みづほ、今夜の礼讃するのはこの草の芽俳句なのであつた。

秋桜子はこの批判にたいして、「自然の真」と「文芸上の真」という対立概念を提起して反論するのである。みづほらのほめる、何事の芽はどうなっているかというような句は、自然の真に属し、文芸の上では、まだ掘りだされたままの鉱(あらがね)にすぎない。芸術はその上に厳然たる優越性を備えたものでなければならないと、かれは主張するのである。

一つの花がある。自然の真を文芸上の真と誤認する作家は、その花が何枚の花弁をもち、蕊がどうなっているというようなことを描くが、真の創作家には、その花がかれにはどう見えたかということが問題で、頭のなかにかれ独特の美しき花が創造される。「これを要するに、『文芸上の真』とは、鉱にすぎない『自然の真』が、芸術家の頭の熔鉱炉の中で溶解され、然る後鍛錬され、加工されて、出来上つたものを指すのである」。そこで俳句修業は、自然の真を知る作業をおこなうだけでなく、同時に本を読み、絵画彫刻を見、創作力や想像力を養い、文芸上の真をとらえる力をつけてゆくことにあり、それこそが写生といえるのだと秋桜子はいうのである。

 以上がこの文章の骨子であり、このあとにみづほ説の具体的な批判がなされるが、虚子に最後の狙いをつけたこの文章が、今日の目からみれば、意外なほど素朴で当然の文芸論であつたことにおどろくのである。しかし、このように明確に、自然空間と文芸空間の異なることが発言されたことは、俳句史上かつてないことだった。俳句が近代化し、芸術性を加え、近代文芸的なさまざまの可能性をもつようになるのは、この文章の功績だといえよう。この文章を執筆するさい、秋桜子は周囲の若い俳人たちに決意を伝え、かれらの熱烈な共鳴を得たという。五百部の発行部数だった「馬酔木」は、この文章発表ののち、急激にふえ、昭和七年のはじめには、一千部を超えるにいたった。こうして秋桜子は、若い俳人の支持を得て、虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである。

※秋桜子の「『自然の真』と『文芸上の真』」(「馬酔木」昭和六年十月号に掲載)については、これまでに、いろいろな所でいろいろに見てきた。この『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)で、「自然空間と文芸空間の異なることが発言されたことは、俳句史上かつてないことだった。俳句が近代化し、芸術性を加え、近代文芸的なさまざまの可能性をもつようになるのは、この文章の功績だといえよう」という指摘は一つの見識であろう。それよりも何よりも、「五百部の発行部数だった『馬酔木』は、この文章発表ののち、急激にふえ、昭和七年のはじめには、一千部を超えるにいたった。こうして秋桜子は、若い俳人の支持を得て、虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである」の、「虚子独裁の俳壇に、新しい近代的な天地をうちたてていったのである」という指摘は、そのものズバリという思いを深くする。

虚子の亡霊(三十)

ホトトギス百年史

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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

『高浜虚子』(水原秋桜子)所収「解説」(平井照敏稿)その五

 高浜虚子は、昭和六年十二月の「ホトトギス」に「厭な顔」という短篇を発表している。『高浜虚子全集』の三ページ分におさまる程度の、ごくみじかい小説にすぎないが、秋桜子の離反事件を思いあわさずにはいられぬ、妙なしこりのあとにのこる一篇なのである。
 次のような内容のものだ。信長があるとき桜狩りをした折、召し連れた武士のうちの一人、栗田左近が、重だった将士のことについて信長に耳打ちをする。信長は軽くあしらったが、左近が厭な顔をして引きさがったのが、信長の頭にこびりつく。その後左近は越前に去り、門徒一揆のなかに入って、信長に反抗するよう門徒をそそのかしているという。信長は、光秀、秀吉の手で一揆を平定させ、二、三百騎の首を得るが、左近にだけは会ってみたいと思い、生け捕りを命じ、首尾よく左近を生きたまま捕えて面前に引きすえることができた。

 扱て信長の前に引かれた左近は打ちしほれて面を垂れてゐたが、信長はやさしく、
 「左近、暫くであつたな。何故お前は己に背いて門徒の一揆に加はつたのか。」
 と聞いた。
 左近は矢張り面をふせてゐた。
 「いつかお前が己にささやいたことは、お前の親切からであつたらうといふことは己も想像してゐるが、其の時格別気にもとめて聞かなかつた。併し其の時己がお前の言つたことを耳にとめなかつたのでお前が大変厭な顔をしたことは覚えて居る。」
 左近は矢張り面を伏せて何ともいはなかつた。
 「大方其の為め急に己に背くやうになつたのであらうが、格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」
 左近は少しく口をもぐくさせてゐる様子であつたが、其の顔は信長には見えなかつた。
 「己も折角のお前の言葉に耳を傾けなかつたのは悪かつたが、お前も其の為めに厭な額をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」
 信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。
 「左近を斬つてしまへ。」
 と信長は命令した。

 この短篇を読んで、「馬酔木」側が腹を立て、反撥をしたのは当然のことだろう。『虚子全集』の解題に松井利彦が、「この小説は水原秋桜子が『ホトトギス』を批判したことに対し筆をとった寓意的なもので、 
 もっとも虚子は、左近が秋桜子ではないとはっきり否定したという。これは上村占魚の『後塵を拝す』という随筆集のなかに書かれている話で、昭和二十二年の三月はじめごろ、占魚は京極杞陽と連れだって、小諸に住む虚子を訪ねたという。

 先生は病床にいられたが、思ったより元気であった。私らは小諸に二泊三日を過ごした。
 その一日、杞陽はこんなことを先生にたずねた。
 「以前に書かれた、『厭な顔』の主人公のモデルは秋桜子のことですか」
 「そうではありません。実在する人物ではありますが、秋桜子君のことではありません」
 間髪を入れず先生は答えられた。
 私自身、秋桜子のこととばかり思っていたので、この答えにはちょっと意外な感じをおぼえた。
「俳壇でも秋桜子のことだと思いこんでいるようですから、この話について一文草していいでしょうか」
 「それは、私の死後にして下さい」
と、笑いながら先生は拒まれた。

 占魚は虚子のこのことばによって安心し、このように証言し、言訳がましいことをせぬ虚子を「いかにも先生らしい」としてしのんでいる。たしかに虚子が否定したという事実はあったのだろうし、その事実を疑うわけではないが、虚子の弟子である清崎敏郎が、その著、『高浜虚子』で、この占魚の証言について語りながらも、虚子が「厭な顔」を書く折に、秋桜子のことが頭になかったとは言えなかろうと述べているように、この小説を読むものは、今日でも、やはり秋桜子のことがあてこすられているなと感ぜざるをえないのである。まして秋桜子が「馬酔木」に「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表したのが昭和六年十月、この「厭な顔」の「ホトトギス」発表が、一方月おいた同年十二月であってみれば、当時秋桜子を思いあわさないほうが、かえって不自然だったというべきであろう。

 「馬酔木」側では、秋桜子の離反にたいする「ホトトギス」側からの論難を予想し、誌上に「論争戦線」という欄まで用意して、これを論破しょうとしたようである。けれどもそれはほとんど不要であった。というのも、虚子はこの短篇をひとつ書いただけで、秋桜子の行動を終始黙殺せんとしたからである。小説のなかで、信長は、「左近を斬つてしまへ」と命じた
が、秋桜子は斬られはしなかった。虚子の黙殺に堪え、熱狂的に支持する若い俳人たちに支えられて「馬酔木」を大きく発展させていった。水原産婆学校講堂でおこなわれだした「馬酔木」俳句会は、秋桜子自身による全出句への講評のために評判になり、このころ俳句を志すもので、一度は出席しないものはなかったといわれている。
 もちろん、「馬酔木」の活況のかたわら、「ホトトギス」にも、四Sにつづく、川端茅舎、中村草田男、松本たかしらの進出があり、星野立子、中村汀女、橋本多佳子らの女流の充実、富安風生、山口青邨ら先進の円熟があって、最後の隆盛期を迎えていた。しかし、秋桜子の行動以後、俳句を牽引してゆく真の力は、秋桜子以後の新鋭たちの手に、虚子から決定的に移ってしまったものとみてよいだろう。そして今日、俳句総合誌上で、時代を動かす活動をしている現代俳人の多くは、秋桜子の行動によって開花した流派に育ち、「ホトトギス」に属することのない人々である。
 それにたいして、「ホトトギス」および「ホトトギス」系に属する人々は、一部は現代に順応して脱皮をこころみ、多くは、俳壇の流れと絶縁して、独自のゆき方を守り進んでいるようである。このように昭和六年を境として、俳壇に新しい潮流が生じ、「ホトトギス」の天下の上を、新しい世界によっておおいつつむように展開してゆくのである。
 昭和十二年、虚子はあらたに創設された芸術院の会員に推される。昭和二十九年には、その生涯の業績にたいして文化勲章を授与される。また、昭和三十年からは、「朝日新聞」に「虚子俳話」を連載する。そして、昭和三十四年に没するまで、虚子の権威はゆるがなかったようにみえる。だが、昭和六年以後の俳句史は、虚子と離れたところで展開してゆくのであり、秋桜子以後の新しい世代は、秋桜子の決断がひらいた新しい可能性を追求し、虚子の流れとは異質の方向に現代俳句を切りひらいていったのである。そして、昭和六年以後、終戦までの俳句史で、大きな動向をなすものは、新興俳句の隆盛とその破産、および、人間探求派の出発なのであった。

※虚子の短篇の「厭な顔」についても先に触れた。その中での、「信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。『左近を斬つてしまへ。』と信長は命令した」とは、この信長が虚子であり、右近が秋桜子とすると、これまた、虚子というのは、つくづく「ニヒリスト・虚子」という思いがするし、また、秋桜子を、この右近程度にしか、見ていなかったという、虚子の尊大さだけが浮かび上がってくる。事実、虚子からすれば、秋桜子や、いわゆる「四S」の俳人は、年齢からしてもキャリアからしても、歯牙にも掛けないという距離感にはあったのであろう。しかし、この歯牙にも掛けないような存在の秋桜子の、その「ホトトギス」離脱は、上記の、平井照敏が指摘するように、「秋桜子の行動以後、俳句を牽引してゆく真の力は、秋桜子以後の新鋭たちの手に、虚子から決定的に移ってしまったものとみてよいだろう。そして今日、俳句総合誌上で、時代を動かす活動をしている現代俳人の多くは、秋桜子の行動によって開花した流派に育ち、『ホトトギス』に属することのない人々である」ということは、これまた、ストレートに受容することができるし、また、虚子は決して弱気は見せないが、その後の虚子の言動をつぶさに検証していくと、虚子自身、そういう時代の推移を見て取っていたようにも思えるのである。これらのことについては、折りに触れて触れることにして、平井照敏の「このように昭和六年を境として、俳壇に新しい潮流が生じ、 『ホトトギス』の天下の上を、新しい世界によっておおいつつむように展開してゆくのである」というのは、卓見であるし、共鳴するところ大である。

虚子の亡霊(三十一)

ホトトギス百年史

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(秋桜子「ホトトギス離脱」)

虚子の、短篇小説の「厭な顔」に関連して、先の、「秋桜子はこの小説に対し、『生きてゐる左近』の名で『織田信長公へ』と題した」文を書き、昭和七年二月の『馬酔木』の別冊に掲げて反論している」という、この「生きてゐる左近」という反論の一文を、偶然に、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で目にすることができた。今となっては、なかなか目にすることができない貴重なもので、その関連するところのものを下記に掲載をしておきたい。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)抜粋

  織田信長公へ

謹白、陣中御多事の折から御執筆相成候(あいなりそうろう)。大衆文芸つぶさに拝読仕(つかまつ)り候。いつもながら結構布置の妙を極め、御運筆も神に入りて、何も洩れ聞えざる遠国(をんごく)の武士は、全然架空の御着想とは知るよしもなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑込み仕るべく、又、浜口越州(田辺註・浜口今夜を諷して
いる)高野常州(高野素十)などのへつらひ武士は、額をたゝいて天晴れ御名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりとは申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、こゝは矢張り写生的に御取材遊ばさるゝ方、拙者退進の史実も明かとなりてよろしからんかと、一応愚見開陳仕り候。何はしかれ、日頃の御覚仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたるはなく、厚く御礼申上侯。恐惶謹言。
                             生きてゐる左近
織田右府どの

 この文章ほ「馬酔木」の附録パソフレットに掲載され、(昭和七年二月一日発行)この附録は徹頭徹尾、「ホトトギス」派を材料にした戯文で埋められている。当時流行した「ザッツOK」という流行歌の替歌もあって、
 
「だって云はずにゃいられない
 喧嘩売られたこの身なら」

 秋桜子たちは意気さかんなだけあって、おふざけ気分も活溌だった。

 「使ひたほしたそのあとで  
ぽんとすてるがくせなのよ
  気嫌とりとりついて行く  
みじめな心にゃなれないわ
  いいのね いいのね 誓ってね 
 OK  OK  ザッツ OK 」
  
 「ホトトギス」の俳人の一人、岡田耿陽が、すこぶる銅臭の聞え高いこと、また「日本新名勝俳句」の「風景院賞」 二十句のうちに入った彼の「漂へるものゝかたちや夜光虫」が、すでに二年前の「ホトトギス」雑詠欄に発表された出羽里石(りせき)の「漂へるものゝありけり夜光虫」の剽窃ではないか、などという裏話を曝露したりしている。

虚子の亡霊(三十二)

ホトトギス百年史

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(杉田久女その一)

 秋桜子が「ホトトギス」を離脱した昭和六年の「ホトトギス」の年譜は上記のとおりである。ここに記載はないが、この年に、「ホトトギス」の一女流俳人・杉田久女が、当時の日本俳壇のスター俳人となった久女の代表作「谺して山ほとゝぎすほしいまま」が、「日本新名勝俳句」の二十句のうちの一句として選ばれた年でもある。『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)によると、「このときの応募投句は十万三千二百七句、『俳句史を通じて、空前にして絶後の記録と思われる。最盛期における『ホトトギス』の底力と虚子の絶大の信頼をそこに見ることができる』(増田連『久女ノート』)」とある。この久女の代表作などを含めての「杉田久女」というタイトルでの、久女の長女にあたる俳人・石昌子さんの対談記事が、次のアドレスに掲載されていた。このネット記事は、悲劇の女流俳人・杉田久女を知る上で、必見とも思われるもので、その全体を掲載しておきたい

西日本シティ銀行・地域社会貢献活動 ふるさと歴史シリーズ「北九州に強くなろう」
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/003/01.html
杉田久女   対談:平成4年8月
お話:石 昌子 氏(俳誌個人誌「うつぎ」主宰久女の長女)
聞き手:本田 正寛(元福岡シティ銀行 常務取締役)
司会・文責:元福岡シティ銀行広報室顧問 土居善胤

花衣ぬぐや纏はる紐いろいろ
本田
お元気ですね。

ええ、あちこち出かけるのが好きで、数年前まで自分で運転して出かけていました。でも運転に気をとられると、目がつかれて、これからは若い人に乗せてもらおうと思って、77歳で運転をやめました。
本田
ご判断がとても…。心身ともにお若い(笑)。御自分で俳誌「うつぎ」を主宰していらっしゃる。やはりお母さま、杉田久女の血なんですね。で、今日は久女の御話をおきかせください。いつ頃から久女は俳句に関心を持たれたのですか。

母の兄、赤堀月蟾(げつせん)が零落して失意の身を小倉の久女の家でいやしたときに俳句の手ほどきを受けたのですね。月蟾は俳人の渡辺水巴と親しく、俳書もいろいろ持っていて、それから久女が、干天に水をえたように俳句を吸収したのです。大正5年27歳。私が数え6歳のときですね。
本田
じゃ、久女の俳句の目覚めからご存知で…。

でも、遊びたいだけの子供ですから、芸術としての関心などありませんでしたよ。
本田
久女の句がホトトギスで、俳壇の注目を集めた頃は。

花衣ぬぐや纏はる
紐いろいろ
が大正8年で、私の9歳の頃ですからね。母の俳句が父や私の人生にかかわってくるとは夢にも思いませんでしたよ。
本田
東京日日、大阪毎日新聞が共催した「日本新名勝俳句」に応募して金賞になった有名な句が英彦山(ひこさん)を詠んだ
谺(こだま)して山ほととぎす
ほしいまゝ
でしたね。英彦山に足をはこび、あの神秘な幽邃(ゆうすい)境にとけこんで生まれた句ときいていますが、石さんもご一緒では。

いいえ、独りでいっていました。私と一緒だと、かえって気が散って句ができなかったでしょう。
昭和6年のことで久女のもっとも充実した頃の句ですね。翌7年には、ホトトギス同人に推挙されています。でも私は俳句なんて、あんな短くて、むつかしくて、面白くないものは御免だと思っていました(笑)。
本田
じゃあ、お母さまが俳句の世界でえらい先生だとは思っておられなかった…。

ぜんぜん(笑)。

杉田久女略歴

高浜虚子門下。「ホトトギス」派の閨秀俳人として、大正中期から昭和初期にかけて俳壇に久女旋風をおこした。

杉田久女は本名久(ひさ)。明治23年5月30日、鹿児島市で赤堀廉蔵、さよの三女として出生。

父は鹿児島県庁から明治29年、沖縄県那覇庁へ。ついで明治30年台湾嘉義県、31年台北市に勤務。久は台北で小学卒後41年お茶の水高女を卒業。この間一家上京。42年20歳で画家杉田宇内(うない)(26歳)と結婚。夫の任地小倉に住む。

夫、宇内は愛知県西加茂郡小原村生まれ。杉田家は大庄屋をつとめた素封家で、祖父は県会議員と村長、父も村長をつとめた名望家で、宇内は長男として大切に育てられた。

愛知県第二中学校をへて東京美術学校(現、東京芸大)西洋画科の本科、研究科に進み小倉中学の絵画教師。

久女は才色兼備、書画にも秀でていた。明治44年22歳で長女昌子出生。大正5年次女光子出生。同年零落した次兄・赤堀月蟾(げつせん)が寄留。俳句の手ほどきを受ける。大正6年「ホトトギス」1月号の「台所雑詠」に初出句。

 鯛を料る爼板(まないた)せまき
 師走かな

ほか。5月、飯島みさ子邸の句会で?浜虚子にはじめて会い、長谷川かな女、阿部みどり女を知る。

大正7年、29歳で、「ホトトギス」4月号虚子選「雑詠」に

 艫(とも)の霜に枯枝舞ひ下りし
 鴉(からす)かな

大正8年30歳。毎日新聞懸賞小説に応募した「河畔に棲(す)みて」が選外佳作。代表句の1つ

 花衣ぬぐや纏(まつ)はる
 紐いろいろ

は、この年の作。大正10年斉藤破魔子、のちの中村汀女を知る。大正11年33歳の作が

 足袋(たび)つぐやノラともならず
 教師妻

同年、夫婦はメソジスト教会で受洗。橋本多佳子に俳句の手ほどきをする。昭和6年42歳。前年東京日日、大阪毎日新聞共催の日本新名勝俳句募集に応募した句、

 谺(こだま)して山ほととぎす
 ほしいまゝ

が帝国風景院賞金賞を受け俳壇の話題をさらった。昭和7年43歳で主宰誌「花衣」を創刊(5号にて廃刊)。7月ホトトギス投稿五句が雑詠巻頭となる。

 無憂華の木蔭はいづこ
仏生会

昭和7・8・9年と雑詠巻頭句が続く。
9年6月45歳でホトトギス同人となる。(あふひ・立子・汀女・久女・より江・しづの女、らと)。

昭和11年47歳、門司に虚子の渡欧を見送る。10月、ホトトギス同人を除名される。12年に

 虚子ぎらひかな女嫌ひの
 ひとへ帯

の句がある。この年、長女昌子、石一郎と結婚。以後も「ホトトギス」への投句をつづける。昭和16年次女光子、竹村猛と結婚。昭和21年1月21日、太宰府の県立筑紫保養院で食料難のため栄養障害をおこし腎臓病悪化により逝去。愛知県西加茂郡小原村杉田家の墓地にほおむられる。享年57歳。戒名「無憂院釈久欣妙恒大姉」。

昭和27年、角川書店より「杉田久女句集」刊行。

昭和32年4月、松本市赤堀家墓地に分骨。墓碑銘「久女の墓」は虚子の筆。

宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。戒名、西信院釈慈光照宇居士。


虚子の亡霊(三十三)

ホトトギス百年史

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

(杉田久女その二)

久女をして、一躍、女流俳人のトップに踊り上げさせたところの、この昭和六年の「日本新名勝俳句」の応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」を射止めたものが二十句で、その二十句のうちの一句に、久女の「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」が選ばれたということである。この入選作一万句の中には、当時の名ある俳人は凡そみなその名を止めているし、その「帝国風景院賞」の二十句の作者は、当時の代表的な俳人、あるいは、その作者にとっても、その後の代表作として日本俳壇史上に止めているものと言っても差し支えなかろう。これらの「帝国風景院賞」の二十句が、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)に掲載されており、それらの二十句を下記に再掲をしておきたい。そして、これらの二十人の作者を見ていくと、殆どが「ホトトギス」系の俳人であるし、当時の日本俳壇というのは、イコール、「ホトトギス」という思いを深くする。同時に、その「ホトトギス」の俳句理念、イコール、虚子の俳句理念の「花鳥諷詠」というのが、いかに、一世を風靡をしていたかということを如実に見る思いがする。それらの感慨とともに、この「花鳥諷詠」という俳句理念は、より多く、「自然諷詠」・「風景俳句」に馴染むものという思いを深くする。すなわち、「花鳥諷詠」俳句の世界の限界といっても良いであろう。また、この昭和六年というのが、「ホトトギス」、そして、虚子にとって、その絶頂期であり、この昭和六年を契機として、以後、下り坂に向かうという感慨をも抱くのである。その黄信号を示すものが、いわゆる、「秋桜子のホトトギス離脱」という感慨でもある。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)所収「日本新名勝俳句」の「帝国風景院賞」(二十句)

    阿蘇山
阿蘇の瞼(けん)此処に沈めり谷の梅 大分 古賀晨生
噴火口近くて霧が霧雨が       京都 藤後左右
    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ    福岡 杉田久女
   赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々    東京 水原秋桜子
  大山
笹鳴や春待ち給ふ仏達      鳥取  安部東水
  那智滝
宿とるや月の大滝まのあたり     和歌山 仲岡楽南
  箕面滝
滝の上に水現れて落ちにけり     兵庫  後藤夜半
  球磨川
前舵が笠飛ばしたり山ざくら     朝鮮  広瀬盆城
  阿賀川
下り鮎一聯過ぎぬ薊かげ       東京  川端茅舎
  琵琶湖
さみだれのあまだればかり浮御堂   大阪 阿波野青畝
蘆の芽や志賀のさゞなみやむときなし 兵庫 伊藤疇坪
銀漢や水の近江はしかと秋       同 脇坂筵人
  霞ケ浦
青蘆に夕波かくれゆきにけり     東京 松藤夏山
  屋島
鳥渡る屋島の端山にぎやかに     香川 村尾公羽
野菊より霧立ちのぼる屋島かな     同 田村寿子
  蒲郡海岸
漂えるものゝかたちや夜光虫     愛知 岡田耿陽
  熱海温泉
山越えて伊豆に釆にけり花杏子   神奈川 松本たかし
  三朝温泉
蚕屋の灯のほつほつ消えぬ山かづら 京都 田中王城
  兎和野原
酒の燗する火色なきつゝじかな   兵庫 西山泊雲
  富士駿州裾野
大岩の釆て秋の山隠れけり     静岡 野呂春眠

 上記の二十名について、そのネット記事は下記のアドレスなどで知ることができる。
そして、これらの俳句と全く方向を異なにしている「現代俳句協会」が、これらの俳句についても、その「現代俳句データベース」の中に収集しているのは、実に的を得ているという思いと今後のこの種の先鞭を付けるものという思いを深くする。

古賀晨生(しんせい)下記のアドレスでは(どんしょう)の読み ホトトギス?
http://iris.hita.net/~city/bun/hik/hbunjin.htm

藤後左右  ホトトギス 京大俳句 天街創刊
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/to.htm

杉田久女 ホトトギス 花衣創刊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E7%94%B0%E4%B9%85%E5%A5%B3

水原秋桜子 ホトトギス 馬酔木主宰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E7%A7%8B%E6%A1%9C%E5%AD%90

安部東水 ホトトギス
http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView/BAD0C32234269E0E4925700000117BD6?OpenDocument

仲岡楽南 ホトトギス
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E4%BB%B2%E5%B2%A1%E6%A5%BD%E5%8D%97&PHPSESSID=da93da85f2d6b8704455363b60375e99

後藤夜半 ホトトギス 蘆火主宰
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ko.htm

広瀬盆城 ホトトギス? 
http://blogs.yahoo.co.jp/kamomeza_haikukai/rss.xml

川端茅舎  ホトトギス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D

阿波野青畝 ホトトギス かつらぎ主宰
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E9%87%8E%E9%9D%92%E7%95%9D


伊藤疇坪(ちゅうへい) ホトトギス
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E4%BC%8A%E8%97%A4%E7%96%87%E5%9D%AA&PHPSESSID=fc5aac481af53259ec86c4afd2702d20

脇坂筵人(ていじん) ホトトギス?
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E8%84%87%E5%9D%82%E7%AD%B5%E4%BA%BA&PHPSESSID=8d4c4659d56c4f5b9569e6dd3d55a89b

松藤夏山 ホトトギス?
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20020102,20040826&tit=%E6%9D%BE%E8%97%A4%E5%A4%8F%E5%B1%B1&tit2=%E6%9D%BE%E8%97%A4%E5%A4%8F%E5%B1%B1%E3%81%AE

村尾公羽 ホトトギス?
http://www.haiku-data.jp/author_work_list.php?author_name=%E6%9D%91%E5%B0%BE%E5%85%AC%E7%BE%BD&PHPSESSID=c4bbcab2b24c3bd9e48086e1765a5b01

田村寿子 ホトトギス?
http://www.ami-yacon.jp/yume_haiku_tabi/yume_haiku_tabi_haru_106_utiwa.htm

岡田耿陽 ホトトギス 竹島創刊
http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/115/115.htm

松本たかし ホトトギス 笛主宰
http://www23.big.or.jp/~lereve/saijiki/hito/9.html

田中王城 ホトトギス?

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30415342

西山泊雲 ホトトギス
http://www.eonet.ne.jp/~zarigani/kilp/kilp42.htm

野呂春眠 ホトトギス? 海廊創刊 
http://www3.shizushin.com/anniversary/numajyo100/numajyou39.html

虚子の亡霊(三十四)

ホトトギス百年史

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和三年(1928)
一月 秋桜子「筑波山縁起」発表、連作の始り。
三月 『虚子選雑詠選集』第一集刊(実業之日本社)。
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。

(杉田久女その三)

 虚子が始めて「花鳥諷詠」を提唱した昭和三年の、その二月号の「ホトトギス」に、杉田久女などを中心にした「大正女流俳句の近代的特色」という掲載ものが、このネットの世界において、インターネットの図書館・青空文庫のものを目にすることができる。
これまた、貴重なもので、それを抜粋しながら、「杉田久女の俳句」というものを概括しておきたい。

底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
   1989(平成元)年8月発行
初出:「ホトトギス」
   1928(昭和3)年2月
入力:杉田弘晃
校正:小林繁雄
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000606/files/43591_17038.html
「大正女流俳句の近代的特色」
前期雑詠時代
 大正初期のホトトギス雑詠に於ける婦人俳句は、女らしい情緒の句が大部分であったが、大正七年頃より俄然、純客観写生にめざめ来り、幾多の女流を輩出して近代的特色ある写生句をうむに到った。実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である。
一 近代生活思想をよめる句
(1)[#「(1)」は縦中横] 近代生活をよめる句
 凡そ現代人ほど生活を愛し、生活に興味をもつ者は無い。昔の俳句にも接木とか麦蒔とか人事句は沢山あるが、夫等(それら)は人間を配合した季題の面白味を主としたもので、之に反し近代的な日常生活を中心におき、其真を把握する事に努力して、季感は副の感がある。(中略)
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]戯曲よむ冬夜の食器つけしまま   久女
(ニ)[#「(ニ)」は縦中横]幌にふる雪明るけれ二の替   みどり
 汚れた食器は浸けたまま、戯曲を読み耽る冬夜の妻のくつろいだ心持。(ニ)[#「(ニ)」は縦中横]は近代文芸の一特色なる欧化と都会色。鋭敏な市人の感覚である。二の替を見にゆく道すがら、幌にふる明るい春雪。賑かな馬車のゆきかい。幌の中には盛装の女性が明るい得意な気分をのせて走らせている。行てには華かな芝居の色彩と享楽的な濃い幻想。これこそ華かな都会の情調の句である。
(2)[#「(2)」は縦中横] 近代風俗をよめる句
(イ)[#「(イ)」は縦中横]福引や花瓶の前の知事夫人 静廼女
(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]雪道や降誕祭の窓明り   久女
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]水汲女に門坂急な避暑館   同
(前略)(イ)[#「(イ)」は縦中横]、新年宴会か何ぞの光景で、大花瓶を前の知事夫人を中心に笑いさざめく福引の興。
 (ロ)[#「(ロ)」は縦中横]はクリスマスの光景で、空にはナザレの夜の如く星が輝き会堂の明りが雪道にうつりそりは鈴を鳴らして通る。かかる写実は確かに昔にない異国情趣である。(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]は山荘がかった避暑館へ傭われた水汲女が急な門坂を汗しつつ、にない登る有様と階級意識。(後略)
(3)[#「(3)」は縦中横] 近代思想をよめる句
 近代女性である彼女らはまた大胆に自由に思想感情を吐露している。
(前略)寒風に葱ぬく我に絃歌やめ   久女
 向うの料亭からは賑かな絃歌のさざめきが遊蕩気分を漲らしてくる。赤い灯がつく。こなたには寒風にさらされつつ葱をぬき急く女のうら淋しさ暗さ。葱ぬく我に絃歌やめよ! とは、絶えざる環境の圧迫にしいたげられる者の悲痛な叫びである。遊び楽しむ明るい群れと、苦しむ者の対比。之ぞ近代世相の二方面であろう。須可捨焉乎、絃歌やめ等、かかる幽うつ、激しさを何等の修飾なしに投げ出しているところ、近代句としても、之等は、特異な境をよめる句である。 又、近代人は兎角興奮し易い。従って所謂女らしくない中性句、感想解放の句を見る。(中略)
足袋つぐやノラともならず教師妻   久女
 前の句の明るく享楽的なのに比し此句はくすぶりきった田舎教師の生活を背景としている。暗い灯を吊りおろして古足袋をついでいる彼女の顔は生活にやつれ、瞳はすでに若さを失っている。過渡期のめざめた妻は、色々な悩み、矛盾に包まれつつ尚、伝統と子とを断ちきれず、ただ忍苦と諦観の道をどこ迄もふみしめてゆく。人形の家のノラともならずの中七に苦悩のかげこくひそめている此句は、婦人問題や色々のテーマをもつ社会劇の縮図である。乳責りなく児、葱ぬく我、足袋つぐ妻の句は作者の境遇がうみ出した生活の為めの作句である。世紀末の幽うつ、悩ましさ逃れがたい運命観をさえ裏付けているが、同じ生活境遇のうみ出した句でも、二の替、カルタ、花疲れ等の句は、近代生活の明るさ華やかさ気分等を取扱って、明らかに思想生活の明暗二方面を描き出している。(後略)
二 近代写生の特色
 (1)[#「(1)」は縦中横] 複雑繊細な写生句
 写生の進歩は次第に複雑繊細。写生それ自身に価値をおく様な句が殖えてきた。事物の真の実在を凝視し、力づよく明確に写す事に努力し、従って余韻とかゆとりに乏しい。
(イ)[#「(イ)」は縦中横]うすものかけし屏風に透きて歌麿絵   みどり
(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]枯柳に来し鳥吹かれ飛びにけり   久女
(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]せり上げの菊人形やゆらぎつつ   妙子
 (イ)[#「(イ)」は縦中横]、屏風に打かけた薄物をすけて歌麿の美人画がまざまざと美しく透き見ゆる、という蕉園の絵にでもありそうな光景を目に見る如く写生している。(ロ)[#「(ロ)」は縦中横]、鳥が飛んできて、枯柳に止った。風が吹く。柳と共に吹かれていた鳥は軈(やが)てとび去ったという、一羽の鳥の動作を客観的に叙して、秋夕の身にしむ淋しさを主観ぬきで叙している。(ハ)[#「(ハ)」は縦中横]は舞台にせりあげてくる菊人形を、ゆらぎつつの五字で面白く写生している。(後略)
 (2)[#「(2)」は縦中横] 取扱いの近代化と散文的傾向
(前略)写生の為の写生句。実在の真を習作的に詠んだ詠句も多い。
花びらに深く虫沈め冬のばら   みさ子
蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土   久女
 (3)[#「(3)」は縦中横] 動物写生
 動物写生にも近代元禄天明の差異を見る。
蝶々のかすませにくる広野かな   花讃
縁に出す芋のせいろや蝶々くる   かな女
花大根に蝶漆黒の翅あげて   久女
病蝶や石に翅をまつ平ら   同
凍蝶や桜の霜を身の終り   星布
秋蝶や漆黒うすれ檜葉にとぶ   みさ子
 花讃の句は蝶を点出して広野の長閑さを主観的によみ、かな女のは大正初期の句で之も芋のせい籠にくる蝶の長閑さを主としている。所が花大根の句に到ると、ただ純白の花の上に今し漆黒な蝶が翅をあげてとまった、その動中の一ポイントを捉まえ、一瞬間の姿を活動的に描いた点が新らしい写生句である。次の凍蝶と病蝶とを対比するに凍て蝶が散りしく葉桜の霜に横わっている光景よりも桜の霜を身の終りとして凍ったという作者の蝶をいたむ主観が勝っている。一方のは石上に翅を平らにして、もはや飛ぶ力もない病蝶をじっと凝視している。病蝶に対する何らの主観も読まず、只目に映じる色彩、形、実在の真を明確に描写せんと努力するのみである。秋蝶の句は漆黒にうすれた秋蝶の性質を写す。(後略)
葡萄粒をわたりくねれる毛虫かな   あふひ
怒り蛇の身ほそく立ちし赤さかな   同
白豚や秋日にすいて耳血色   久女
 美しい葡萄粒を這いくねる毛虫。鎌首をあげ身細く怒り立つ蛇の赤さ、秋日にすきとおる白豚の耳の真紅色。従来醜しと怖れられ、厭われた動物をも凝視し忠実にそのものの特質、詩美を見出そうとつとめている。
 (4)[#「(4)」は縦中横] 静物写生
 一個の林檎なり花なりの色彩形襞陰影等、事物の真に感興をもって、繊細如実に描出するのが前期時代静物写生である。(後略)
(5)[#「(5)」は縦中横] 人体の部分写生
 レオナルド・ダ・ヴィンチの名画、モナリザの永遠の謎の微笑を、唇、額、目という風に部分的にひきのばし研究した写真をかつて私は見た。その部分部分は美の極致をつくし、その綜合した顔面は何人も模倣し能わぬ千古の謎のほほえみを形成するのであった。 大正女流俳句も亦、人体の部分写生をしている。而もこれを綜合して永遠の謎の微笑の美しさをのこすや否やは未知数に属するが、かかる人体の部分的写生は昔に見ない所である。
桜餅ふくみえくぼや話しあく   みさ子
夏瘠や粧り濃すぎし引眉毛   和香女
夏瘠や頬もいろどらず束ね髪   久女
 桜餅をふくみ靨(えくぼ)を頬にきざむあどけなさ。一句の中心は季題の桜餅ではなくてえくぼである。次に引眉毛の濃い粧りは夏やせの顔をややけわしく見せ、頬も色彩らぬつかね髪の年増女。之等の句ただ顔面のみを極力描き出している。
笑みとけて寒紅つきし前歯かな   久女
鬢かくや春眠さめし眉重く   同
 寒紅の句は女性の美しい笑というものを取扱ったもので、笑みとけた朱唇と寒紅のついた美しい歯とが描かれてある。
元ゆいかたき冬夜の髪に寝たりけり   みさ子
芥子まくや風にかわきし洗ひ髪   久女
等大正女流は髪そのものを主に詠出で、
涼しさや髪ゆひなほす朝機嫌   りん女
日当りや白髪けづる菊の花   星布
 古の女流は、涼しさ、菊の日向の季感を濃く詠じている。
ゆきあへばもつるる足や土手吹雪   和歌女
(6)[#「(6)」は縦中横] 婦人の姿態をよめる句
 大正女流はその姿態を大胆に描出し、自己表現の写生句を試みている。
ぬかるみやうつむきとりし春着褄   和歌女
病み心地の母とよりそひ林檎むく   みさ子
紫陽花きるや袂くわへて起しつつ   久女
睡蓮や鬢に手あてて水鏡   同
白足袋や帯のかたさにこゞみはく   みどり
 病み心地の母により添い林檎をむく乙女心或は春着の褄をとり、或は水鏡し、金繍の帯のかたさにこごみつつ足袋をはく姿。紫陽花の重いまりを起しつつきらんとする女。かかる姿態のさまざまをよめる句も、繊細な写生練習の一つの方法であった。又動作を如実によめる句は、
手にうけて盆提灯をたゝみけり   みさ子
片足づついざり草とる萩の前   汀女
(7)[#「(7)」は縦中横] 婦人に関した材料をよめる句
 婦人にとって一番親しみぶかい着物の句は古今共頗る多い。元禄の園女は、中将姫の蓮のまんだらを見て、みずから織らぬ更衣を罪ふかしと感じ、或は衣更てはや膝に酒をこぼしけりと佗びしがり、時には汗や埃に汚れた旅衣を花の前に恥かしく思うと詠み、千代女は、「我裾の鳥もあそぶやきそはじめ」と我着物に愛着を感じ、玉藻集には
風流やうらに絵をかく衣更   久女(大阪)
と風流がり、或は「風ながら衣にそめたき柳かな 芳樹」など伝統的な感じを女らしくよみ出ている。さて大正女流は、
くずれ座す汝がまわりの春の帯   なみ女
花衣ずりおちたまる柱かな   和香女
花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\   久女
 春帯をときすてて崩れる如く座っている女と、その周囲の帯との色彩を写生し、柱にぬぎかけた花衣が、衣のおもみにずりおちて柱のもとにたくなっている妖艶さ。花見から戻ってきた女が、花衣を一枚一枚はぎおとす時、腰にしめている色々の紐が、ぬぐ衣にまつわりつくのを小うるさい様な、又花を見てきた甘い疲れぎみもあって、その動作の印象と、複雑な色彩美を耽美的に大胆に言い放っている。それから婦人でなくては親しめぬ材料の簪櫛指輪などの句。
ざら/\と櫛にありけり花埃   みどり
稲刈るや刈株にうく花簪   菊女
春泥に光り沈みし簪かな   かな女
簪のみさしかえて髪や夜桜に   みさ子
茄子もぐや日をてりかへす櫛の峰   久女
 一枚の櫛にざらざらうく花ぼこり。春泥にきらりとぬけおちて光り沈む銀簪。夜桜見にゆく乙女の簪。稲刈る女の花簪が刈株にういて引かかっている光景。いずれも女でなくては。
簪よ櫛よさて世はあつい事   花讃女
笄も櫛も昔やちり椿   羽紅女
麦秋や櫛さへもたぬ一在所   花讃女
 花讃女のとりすました悟りがましい主観の少し厭味らしき。羽紅女の剃髪した時の感慨ぶかさ。麦秋の一村落の、おおまかさに比し近代句はいずれも写実で光景を出している。
手袋ぬぐや指輪の玉のうすぐもり   静廼
ゆく春や珠いつぬけし手の指輪   久女
(8)[#「(8)」は縦中横] 活動的描写
 此の時代の写生は殆どすべてが動的の写生句であるともいってよいが、
よりそへどとてもぬるるよ夕立傘   みどり
葉鶏頭のいだゞきおどる驟雨かな   久女
風あらく石鹸玉とぶ早さかな   すみ女
襟巻のとんで長しや橋の上   あふひ
の如き夕立の激しさ、風のつよさをも説明ぬきの刹那的写生で活かしている。
かるた札おどりおちけりはしご段   和香女
の如きも一枚のかるた札がはね飛ばされて梯子段を勢いよくおちてゆく瞬間の写生で有る。
打水やずんずんいくる紅の花   静廼
 (9)[#「(9)」は縦中横] 光、影を扱える句
かはほりの灯あふつや源氏の間   諸九尼
月見にもかげほしがるや女づれ   千代女
木々の闇に月の飛石二つ三つ   汀女
蝉時雨日斑あびて掃き移る   久女
 三井寺の源氏の間の灯を蝙蝠があおつ情趣。月見にも女はかげをほしがるという千代女の主観。汀女のは木立のかげの闇に月が流れ、飛石が二つ三つ浮き上る様に見えているという印象的な句。
朝顔のかげをまきこむ簾かな   星布女
炭火にかざす手のかげありぬ灰の上   翠女
編物やまつげ目下に秋日かげ   久女
 簾を捲きあげるにつれ朝顔のかげもまきこまれるという客観描写は、炭火にかざす手の影が灰の上にあるのを写生し、まつげのかげがはっきりと印される繊細な写生とも違う。
 (10)[#「(10)」は縦中横] 時間の句
(前略)紫陽花に秋冷いたる信濃かな   久女
 山国の時候の急変と時の経過をよめる句。
(11)[#「(11)」は縦中横] 大景叙景の句
 此時代の句は、習作を主とした為めに、繊細部分的。写生の為めの写生句、単的な描写が全部であるかの如くも思えるが、大景を叙した句も少くない。而し一般的には女流は叙景叙事には男子の如き技量なく、矢はり彼女らの本領は女らしい材料、捉え所、において光っている。(中略)
りんだうや入船見おる小笹原   久女
塀の外へ山茶花ちりぬ冬の町   かな女
蓮さくや暁かけて月の蚊帳   より江
身かはせば色かわる鯉や秋の水   汀女
落葉山一つもえゐて秋社   みどり
大比叡に雷遠のきて行々子   春梢女
 出舟のへりのうす埃。小舟をつれてかかりおる親舟。塀外へちる山茶花のわずかな色彩。蓮池と、月の蚊帳と。男性の句に比してやはり女性らしいみつけどころを捉えている。美しくなだらかである。殊に大池の端の菖蒲の芽は、木版の風景絵の如きうるおいを見せている。古の女流中では天明の星布尼、大景叙景の客観句に富み佳句も少くない。
 (12)[#「(12)」は縦中横] 線の太い句
 習作としての純客観写生から一歩、主観客観合一の境地へ進むと、もはや単なる写生の為めの写生句ではない、線の太い句となるのである。(中略)
父逝くや明星霜の松に尚ほ   久女
山駕にさししねむけや葛の花   せん女
玉芙蓉しぼみつくして後の月   より江
     三 境遇個性をよめる句 
(前略)さうめんや孫にあたりて舅不興   久女
貧しき群におちし心や百合に恥づ   同
貧しき家をめぐる野茨の月尊と   同
 田舎の旧家の複雑した家庭。境遇の矛盾。ノラともなりえず、ホ句に慰藉を求めては、貧しき家をめぐらす野茨の月の純真さに、すべてを忘れ、花衣の色彩の美しさにもこころひかるる、感じ易き久女。子ぼんのうの彼女は、
風邪の子や眉にのび来しひたい髪   久女
 我子への愛着のふかさをうたっている。
 境遇、個性、感情、心持の句についてはもっと詳しく記したいのであるが余り長くなるからすべてを省略する事とした。
(昭和二年十月稿)
(「ホトトギス」昭和三年二月)

(メモ)上記の「大正女流俳句の近代的特色」に接して、この論稿を記述した方が誰なの興味をそそられるところであるが、こういう論稿をものにするだけの、当時の「ホトトギス」の編集に携わるスタッフ陣は充実していたのであろう。当時は、秋桜子などもその一翼を担っていたのであろうか。この論稿の背景には、政治・社会・文化の各方面にわたる大正デモクラシーの影響というのを看守することができる。この論考は大きく、「一 近代生活思想をよめる句」と「二 近代写生の特色」とに分かれているが、その「二 近代写生の特色」に大きなウェートが置かれているのが特徴であろう。そして、それは、当時の「ホトトギス」そして虚子の、「客観写生」という立場からして当然のことでもあろう。いわゆる、この「客観写生」と「花鳥諷詠」とが、「ホトトギス」そして虚子の俳句理念なのであるが、その「花鳥諷詠」については、この年の、昭和三年四月の大阪毎日新聞社講演で始めて提唱されるもので、この当時は、「客観写生」というのがそのバックボーンであったのであろう。これらのことが、この論考の冒頭に記述されている。すなわち、「大正初期のホトトギス雑詠に於ける婦人俳句は、女らしい情緒の句が大部分であったが、大正七年頃より俄然、純客観写生にめざめ来り、幾多の女流を輩出して近代的特色ある写生句をうむに到った。実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である」というのである。それにしても、「実に大正初期雑詠時代は元禄以来の婦人俳句が伝統から一歩、写生へ突出した転換期である」という「元禄時代」、すなわち、「芭蕉の時代」に匹敵するというのは、「それほどのものなのか」という思いと、「そうなのかもしれない」という思いとが半ば交差するような思いにとらわれる。そういう未曾有の有力女流俳人を輩出した、大正そして昭和初頭の俳壇の中にあって、その筆頭格が、杉田久女その人ということになるのであろう。上記の論稿のものの中から、久女の句を抽出すると次のとおりである。

戯曲よむ冬夜の食器つけしまま  久女 
雪道や降誕祭の窓明り      同
水汲女に門坂急な避暑館     同 
寒風に葱ぬく我に絃歌やめ    同 
足袋つぐやノラともならず教師妻 同  
枯柳に来し鳥吹かれ飛びにけり  同 
蔓おこせばむかごこぼれゐし湿り土 同  
花大根に蝶漆黒の翅あげて    同
病蝶や石に翅をまつ平ら     同
白豚や秋日にすいて耳血色    同 
笑みとけて寒紅つきし前歯かな  同 
鬢かくや春眠さめし眉重く    同 
芥子まくや風にかわきし洗ひ髪  同 
紫陽花きるや袂くわへて起しつつ 同
睡蓮や鬢に手あてて水鏡     同
花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\  同 
茄子もぐや日をてりかへす櫛の峰 同 
ゆく春や珠いつぬけし手の指輪  同
葉鶏頭のいだゞきおどる驟雨かな 同
蝉時雨日斑あびて掃き移る    同
編物やまつげ目下に秋日かげ   同
紫陽花に秋冷いたる信濃かな   同
りんだうや入船見おる小笹原   同
父逝くや明星霜の松に尚ほ    同
さうめんや孫にあたりて舅不興  同
貧しき群におちし心や百合に恥づ 同
貧しき家をめぐる野茨の月尊と  同
風邪の子や眉にのび来しひたい髪 同

 これらの句の全てが、虚子の選句で「ホトトギス」に掲載されたものであろうから、いかに、久女が、虚子の信頼を得て、その将来を嘱望されていたのかが一目瞭然という思いがする。ちなみに、後に、女流俳人のトップに踊り出て来る、久女と親交のあった中村汀女の句も見られる。 

片足づついざり草とる萩の前   汀女
木々の闇に月の飛石二つ三つ   同
身かはせば色かわる鯉や秋の水  同
 
 これらの句が、「大正女流俳句の近代的特色」というタイトルで、「ホトトギス」に掲載されたのが、昭和三年の二月、そして、その三年後の、昭和六年に、「『日本新名勝俳句』の応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の『帝国風景院賞』」を射止めたものが二十句で、その二十句のうちの一句」に、久女の代表作の、「谺して山ほとゝぎすほしいまゝ」が選ばれたのだから、文字とおり、久女は、日本女流俳人のトップに踊り出たということになる。そして、それは同時に、久女の、「ホトトギス」、そして、虚子への傾倒振りが、益々狂信的になっていくのも、これまた、自然の成り行きであったろう。こういう時に、久女は、これまた、久女らしい、凝りに凝った主宰誌「花衣」を創刊するのである。一方、虚子の「平凡好き・淡泊・平明好き」は生れつきのものであり、こういう、久女の「非平凡・非淡泊・非平明らしきもの」に接すると虫唾が走ったことであろう。この昭和六年が、「ホトトギス」そして、虚子・久女にとって、その絶頂期であったのであるが、この昭和六年を契機として、「虚子の久女敬遠・久女嫌い」が、一言で言えば、「生理的限界を超えた」ということであろうか、昭和十一年に、「久女、ホトトギス除名」と、全く、久女、そして、虚子にとっても、悲しい結末となってしまうのである。

虚子の亡霊(三十五)


ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和十一年(1936)

二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その四)

「ホトトギス百年史」上においても、この昭和十一年十月の「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」は、何としても異例の一行である。これらのことについては、これまで、直接と間接とを問わず触れて来たところであるが、ここは、「久女ホトトギス同人を除名」に的を絞って、「何故、久女はホトトギス同人を除名されたのか」を、ここもまた、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)を中心として見ていきたい。どうも、その発端は、「好事魔多し」で、杉女の絶頂期のときの、杉女の主宰誌の、昭和七年に刊行した「花衣」に、その原因の多くが隠されているようなのである。まず、気にかかる、当時、「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子と、「ホトトギス」の重鎮で、「ホトトギス」の良識派の代表格の富風生との、両氏の興味ある情報は下記のとおりである。

『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)

久女は、まるで娘を嫁入りさせるような気持で、虚子をはじめ、あちこちへ発送した。
この美しい「おんなの雑誌」は東京だけでなく俳壇の人々を瞠目させたようである。たちまち評判となって、二号のあとがきによれば発行後十日ならずして全部売り切れ、以後は断るのに苦労したという。
 虚子の反応は不明だが、二号で久女は、創刊号に寄せられた讃辞をのせている。「ホトトギス」系の人々の外に、「水原秋桜子」の名を発見して、私たちは驚く。すでに「ホトトギス」と決裂している秋桜子が、「花衣」を讃め「非常に凝った装幀で驚きもし、感服もいたしました。沈丁の絵など(田辺註・挿絵)殊に結構です。家内が第一に残る隈なく拝見して、たちまち愛読者になりました。先(まず)は御祝と御礼まで」と簡略ながら好意ある感想を送っているのを、虚子はどう思って読んだろうか。
「厭な顔」の中で「斬ってしまえ」と言い捨てる独裁専制君主は、案外、こういう「小さな不快」を忘れないのでほないかと私には思われる。のちに久女が句集に虚子の序を幾度乞うても、言を左右にして肯じなかったのも、このへんに「不快」が胚胎していたのかもしれない。
 そのあたりの気くばりをしないところが、久女らしい廉直ぶりであるが。
 久保より江の返事に「御楽しみの事と御察し申します」とあるのは、久女の陶酔気分を感得したのであろう。橋本多佳子は「おなつかしく貴女とお会ひしてをる様で繰返し繰返し拝見してをります」と女学生風に喜びを寄せた。しかし何といってもぬきんでて親切でやさしく、久女と「花衣」を理解し、洞察しているのは富安風生であろう。
 「花衣を有難う。 予告をいただいて居りまして、どんなものが出るかと、心待ちにいたしてゐましたが、今御恵贈にあづかって、覚えずアッと言ひました。これは又、思ひきった凝り方でしたね。表裏の表装挿し絵、文句なしにまことに結構。これ位思ひ切った俳句雑誌が、数ある俳句雑誌の中には、一種くらひ当然あってよかったのです。
いや是非なくては叶はなかったのです。 ただ、玩(もてあそ)んでゐる中に・・・これは決して、悪い意味で申してゐるのではありません。実際『花衣』は読む、なんて、野暮な言ひ方は適しない。玩ぶ、といふのが一番感じが出ると思ふのです。又、それは大変結構だと、私は思ふのです。こんな雑誌が一体立ちゆくか知らといふたよりない気がしてきました。しかしそのおぼろげな不安も創刊の辞を、拝見して拭ひ去られました。あなたの創刊の辞には、発行の時さへ限らず、何の形式にもよらない旨が、始めから断られてゐます。それを甚だ結構に思ひます。さういふ超然とした俳句雑誌が、(個人の気分本位の)一種くらひ、あってもよささうなものだと、かねがね、私などは思ってゐました。縁起でもないことを言ふやうですが、花衣は、仮に創刊号から二号三号位後が続かなかったとしても、それでいゝのだと思ひます。その誕生は決っして無意味ではなかった筈と思ひます。後がつゞくにきまってゐると思はせるやうな、そんながっちりした俳句雑誌なら、何もあへて花衣をまたないのだと、私などは、思ってゐるのです。 しかし、むろん花衣は、だんだん繁栄してゆくでせう。さうあることを祈って居ります。たゞ創刊号のもってゐるこの感じ独特の気分だけは、失っていたゞきたくないと思ひます。これを失っての存続なら・・・ どうでもいゝです。大変失礼な事を申しました。花衣創刊号を手にした今夜、たまたま少し閑暇だったものですから。御心安だてにつひ勝手な事を長々とかいてしまひました。御礼の手紙をかくつもりだったのです」
 風生このとき四十八歳、彼が俳句に志したのは晩かった。三十四歳で、(大正七年)福岡へ為替貯金局局長として赴任したとき、吉岡禅寺洞の手引によってはじめたのである。俳人としてよりも社会人としての人生が長く、そのキャリアと、彼の芸術的感性が結びついて、こんなにゆきとどいた、的確な把捉を示したのではないかと思われる。風生は、この繚乱たる「おんなの花園」、「花衣」を愛したものの如くである。

(メモ)
上記の、杉田久女の創刊主宰誌「花衣」に、「ホトトギス」と袂を分った水原秋桜子が賛辞を寄せているという事実は、やはり、大なり小なり、高浜虚子の「秋桜子憎し」と同時に「杉女憎し」を増大させた一因であることは、それほど的の外れていることではないであろう。久女と秋桜子とは共に、昭和六年の「日本新名勝俳句」の「帝国風景院賞」(二十句)の、その入賞者であり、両者のその作品は、当時の「ホトトギス」そして、日本俳壇の若手の旗手として脚光を浴びていたように、その「帝国風景院賞」(二十句)のうちでも肩を並べて他の作品より以上に脚光を浴びたものであった。

    英彦山
谺して山ほとゝぎすほしいまゝ    福岡 杉田久女
    赤城山
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々    東京 水原秋桜子

これらのことを考慮して、上記のことを言葉を換えて言うならば、当時の虚子が最も恐れた俳人は、この「秋桜子と杉女の二人」であったということと、それが故に、当時の「ホトトギス」の内部統制の意味合いから、秋桜子脱退後の、その脱退を含めての、久女の「ホトトギス」追放というのが、その真相の一つのように思われるのである。
さらに、戦後、逓信省の次官を歴任して、電波管理委員会のトップとして、時のワンマン宰相とわたりあった高級官僚の一人の富安風生が、「ホトトギス」に入会したのは、風生が九州に赴任していた当時、九州の「ホトトギス」の代表格であった、吉岡禅寺洞の薦めによったものであることもよく知られているところであり、この禅寺洞も同時に、「ホトトギス」を除名されているということも、やはり注目すべきことであろう。すなわち、当時の虚子の胸中にあっては、二人の人気俳人の「秋桜子・杉女」そして、反「ホトトギス」的な無季俳句容認者の、これまた著名な、京都の「草城」と九州の「禅寺洞」を追放することにより、先に脱退した秋桜子、さらには、この四人に続く者が居るならば、たとえ、風生などの「ホトトギス」の重鎮であれ、これを容赦はしないという、当時、還暦を過ぎて、六十三歳の虚子の、強烈な内部メッセージこそ、この「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」の真相の一つのように思われるのである。このような観点から、上記の秋桜子や風生の一文を見ていくと、「何故、久女はホトトギス同人を除名されたのか」という謎が、だんだんと透けて見えてくるような思いがしてくる。

虚子の亡霊(三十六)

ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その五)

杉田久女については、狂気じみた自身過剰の「嫌らしき女」という像がまとわりついているが、その像を定着させたのは、久女をモデルとしたとされる、昭和二十八年の「文芸春秋」に掲載された、松本清張の「菊枕」と、昭和三十八年の「小説新潮」に掲載された、吉屋信子の「私の見なかった人『杉田久女』」との、この二作によるところが大きいと、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)では指摘している。そして、この「嫌らしき女」・「嫌らしき女流俳人」・久女を虚像として、「わが愛する女・女流俳人」・久女という視点で、久女その人の実像を探り当てようした、その著こそ、まさに、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)であった。これに続き、平成十五年には、山口青邨門下の「夏草」同人の坂本宮尾による『杉田久女』も刊行され、これまでの「嫌らしき女」・「嫌らしき女流俳人」・久女の像は久女の虚像であり、その実像は、久女と同じく「ホトトギス」を除名された、次の吉岡禅寺洞の言葉のとおり、ずばり、「その師・高浜虚子に忌避され、運命を翻弄された悲しき薄倖な女・女流俳人・杉田久女」ということになろう。

「宗教以上の宗教としていた久女さんの俳句、結局はただ一つ、虚子という本尊によって生かされねばならない人であった。本尊から見放されたら、もう久女さんは死あるか、精神が狂ってしまう外はないであろう」(吉岡禅寺洞「久女の俳句」)。

 この禅寺洞の言葉が紹介されている、坂本宮尾著『杉田久女』の、ここのところの展開は、次の目次のとおりである。

一 まぼろしの句集『磯菜』
序文の懇請  処女句集と序文  『葛飾』上梓のころの秋桜子  久女忌避の動き
須磨寺の俳句大会  「俳句研究」掲載句
二 徳富蘇峰の助力
蘇峰からの手紙  書物展望社  虚子の渡仏  ホトトギス同人削除  「墓に詣り度いと思つてゐる」

 この目次のうち「蘇峰からの手紙」は、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)を一歩進めたもので、「久女伝説」を紐解くキィーともいえる重要な内容を含んでおり、下記に、そこのところを掲載しておきたい。


『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「蘇峰からの手紙」

虚子に手紙を書いても梨の礫で、「ホトトギス」に句がまったく入選しなくなったあたりで、久女は虚子の序文を得ることが困難であると悟った。そこで別のルートからの出版を考えた。
 そのことを裏付ける非常に重要な資料が、最近になって発見された。それは徳富蘇峰が久女に宛てた手紙である。この手紙を石昌子氏は平成七年に久女の五十回忌を修したあと、遺されたノート類を整理しているうちに見つけ、ほんとうに蘇峰のものであるかどうか確認するために、蘇峰記念館に問い合わせたところ、本物であることがわかった。
 徳富蘇峰記念館の学芸貝、高野静子氏は、「便箋二枚に書かれた書簡は秘書八重樫祈美子の字であるが、代筆とことわりがないので、口述筆記の手紙であろう」(『続 蘇峰とその時代』)としている。
今日までの久女研究で、この手紙に言及したものは私の知るかぎりないのだが、久女の同人除名の謎を解く鍵であるように思う。没後五十年を経てこのようなものが発見されたのは、まさに僥倖としか言いようがない。昌子氏の『いのち曼荼羅』に写真版で収められた全文を引用しょう。


 拝啓 愈々御清栄奉賀候
 昨年 貴女より原稿出版に関し御話有之 原稿御送付相成候旨御申越有之候処、其後更らに玉稿到着の儀無之、如何したるかと存居候処、咋二月六日夜 同封致候 松野一夫氏の御手紙と共に到着仕候
 延着の理由は松野氏の御手紙を御覧になれば明白なる如く 当方の怠慢には非ること御了解被成下度候
 本日早速 書物展望社なる出版社に玉稿と共に出版依頼状差出しおき申候間 遠からず同社より何等かの返事有之べしと存候につき御含みおき被下度候
 先は右不取敢申上度如斯御座候 敬具
 昭和十一年二月七日
                       徳富猪一郎
 杉田久子様

 手紙に書かれた内容を順番に整理していこう。蘇峰は松野妄氏の手紙を同封したとあるが、残っているのは蘇峰の手紙だけである。蘇峰に関連する事柄については、高野静子氏の有益なご助言と神奈川県二宮の徳富蘇峰記念館の資料に負うところが多い。ここには池上浩山人の多数の手紙、久女の書簡四通が保管されている。久女を蘇峰に紹介したのは蘇峰の元秘書であった池上浩山人である。まず蘇峰の文面では、「玉稿」となっているだけなので、百パーセント句集の原稿とは断定できないが、久女はこの数年間、なによりも一冊の句集が出したくて奔走していたのであるから、句稿と考えるのが妥当であろう。
 松野一夫氏は宇内の小倉中学での教え子で、上京して帝展入選を果たし、「新青年」の代表的な挿絵画家となった。久女は洋行帰りで華々しく活躍していた松野氏に、表紙の絵を頼んだのであろうか。伸の悪い夫婦と言われた久女と宇内であっても、この句集出版に関しては夫の助力があったと考えてよいだろう。松野氏は夫宇内の教え子であるから、久女が夫に相談なく松野氏に直接頼むはずがない。宇内は学校のため、生徒のためには何をおいても尽力する教師であったから、松野氏も宇内の頼みとあれば忙しくても協力を惜しまなかったであろう。
 蘇峰の文面では、久女の原稿が松野氏のところで滞っていたことが記されている。その理由として考えられるのは、松野氏が創刊した「美」という豪華な総合美術雑誌である。これは昭和十一年十一月に平凡社から刊行されたが、日中戦争へと進んでゆく社会情勢に合わなかったのであろうか、創刊号しか出なかった。松野一夫氏の長男、松野安男東洋大学名誉教授によれば、当時松野家はこの雑誌の編集室のようになり、大勢の人が出入りしていたという。「美」の後記には、「遅くとも本年初頭に於て、発刊の予定でありましたが、不慮の事情の為め斯く出版の遅延致しました事を陳謝致します」と記されている。昭和十一年初頭に発刊予定ならば、十年未は準備で松野氏が多忙であったことは明らかで、そのため久女の原稿を蘇峰に送るのが遅れたということは充分に説明がつく。

虚子の亡霊(三十七)

ホトトギス百年史

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昭和十一年(1936)
二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)。

(杉田久女その六)

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「蘇峰からの手紙」に続き、「書物展望社」について記述されている。そこのところを要約すると、「昭和十年に蘇峰は、書物展望社から出版するように手はずをつけて、久女の原稿を待っていた。そして、虚子はこの蘇峰が創刊した「国民新聞」の俳句欄の選者などもつとめたこともあり、虚子とて頭の上がらない文壇の大御所というような存在であった。しかし、何らかの理由があって、この蘇峰が介在した、久女の原稿は日の目を見なかった」というようなことになろう。それに続けて、「虚子の渡仏」が記述されており、上記の年譜の背景ともなるもので、下記にそれを掲載しておきたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「虚子の渡仏」

一方、虚子は、蘇峰の手紙の九日後、つまり昭和十一年の二月十六日から生涯一度のヨーロッパへの船の旅に出ることになる。留守中の仕事の手配、長旅の支度で虚子は忙殺されていたはずだから、出発前のわずかな期間には久女の出版計画については知る機会がなかったであろう。それから四か月間、虚子は渡仏中で留守となる。今日ほど通信手段が発達していない当時、欧州旅行中に久女の出版のことを知ることはなかったと思う。久女の蘇峰を通しての出版計画は十年に始まったことであり、久女は虚子の留守を見計らったわけではないのだが、はからずも非常に微妙なタイミングでことが進むという結果になってしまったのである。虚子は六月十五日に東京に戻った。久女の出版のことは当然耳に入ったことだろう。「国子の手紙」で、虚子は久女が多くの人に手紙を出していて「その頃文壇で有名であつた人にも出してゐるらしかつた」と述べている。「文壇で有名」と考えると、久女は虚子を門司港で見送ったときに、同船していた横光利一に会った。「鰐怒る上には紅の花鬘 利一」の色紙をもらっている。しかし虚子があえ
て「文壇で有名」を持ち出したこの箇所は、虚子にとって忘れがたい不愉快な出来事、つまり久女が蘇峰の力を頼んだことを指すのではないだろうか。虚子からすれば、留守中に蘇峰の助力を求めて、虚子が序文を書くことをしない、つまり出版を許していない本を出そうとしたように映ったことは想像に難くない。

(メモ)この虚子の渡仏に関連して、久女の常軌を逸した行動が、「箱根丸事件」として喧伝されている。その喧伝される源となっているものが、虚子が戦後に「ホトトギス」(昭和二一・一一)に掲載した「墓に詣り度いと思つてをる」であるということについては、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)で詳細に記述されている。そして、この虚子の記述は、虚子の一方的なものであるということが、どうも、その真相のようなのである。


虚子の亡霊(三十八)

ホトトギス百年史

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昭和十一年(1936)


二月 「熱帯季題小論」虚子(東京日日新聞)。虚子渡欧。西山白雲南方の地名を季題とすることに反対。
四月 虚子ベルリン日本学会で「何故日本人は俳句を作るか」講演。
五月 倫敦PENクラブにて講演。パリでフランス俳諧派と懇談。
八月 虚子『渡仏日記』刊(改造社)。
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
十一月 虚子『句日記』刊(改造社)。「外国の俳句」欄開始。草田男句集『長子』刊。
十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)

(杉田久女その七)

 上記の年譜を見ると、「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」とあるが、この「除名」の表現は、正確には「削除」が正しいようなのである。そして、その一ヶ月後に、「草田男句集『長子』刊」とある。「ホトトギス」からは、関西の代表格の草城、九州の代表格の禅寺洞、そして、女性俳人の代表格の久女の、この三名の名は削除されたが、それに代わるべき、次の世代の中村草田男らが華々しくデビューしてくるのである。虚子は、何かを変革するときには、必ずや、新陳代謝の、新しい俳人達をデビューさせている。碧梧桐との対立の時代には、蛇笏・鬼城らの「ホトトギス第一期黄金時代」を飾る俳人達、そして、名実共に、自分が育成した俳人達を主役とするときには、蛇笏・鬼城らに代わって、「ホトトギス第二期黄金時代」の秋桜子・素十らの、いわゆる「四S」といわれている俳人達のデビューである。そして、その「四S」のうちの、秋桜子・誓子の去った後、「草城・禅寺洞・久女」をも放逐して、次の世代の「茅舎・たかし・草田男・立子・汀女」らの新しい面々を登場させているのである。上記の、「十二月 「年尾古俳諧研究会」(鹿郎・旭川・三重史・九茂茅・清吾・蘇城・涙雨・大馬・青畝・年尾)」なども、そういった、当時の虚子の深慮遠謀の一端を覗かせるものであろう。ここで、『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」の全文を掲載しておきたい。ここに、上記の「十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」の、その真相の全てが隠されているものと理解いたしたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「ホトトギス同人削除」

虚子の帰朝後ほどなく、「ホトトギス」昭和十一年十月号に、同人変更として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、滝本水鳴両君を加ふ」という一頁大の社告が出された。「ホトトギス」は十月号から翌年の九月号までが一巻となっていて、十月は巻の改まる時である。毎年新機軸が出されるのだが、このような社告が出ることは誰も予測していなかったであろう。そのとき「俳句研究」の編集をしていた山本健吉(石橋貞吉)も「あっと驚いた」という突然の除名であった。久女にとって青天の霹靂の処置であった。久女はこのとき四十六歳。
 この社告の「除名」ではなく「削除」という語は、虚子の小説「柿二つ」のなかの一文を思い出させる。すなわち、Kこと虚子が母の病気のために当時在籍していた新聞社(万朝報)に「当分休む」とだけ手紙を書いて帰郷してしまった。やがて新聞社から、「記者席削除」の手紙を受け取った。虚子は退社させられたことに「余りいゝ気はしない」と感想をもらし、「退社を命ず」の代わりに「記者席削除」と通告されたことにこだわりを示し、「一寸変な気がした」と書いている。このときの不快感が虚子の心の奥底に潜んでいて、今度は虚子が三名をホトトギス同人から除名するにあたり、「削除」という文字の与える衝撃を意識しながら、この語を用いたのであろう。
 吉岡禅寺洞と日野草城の同人削除は、新興俳句の推進者であったことが理由とされている。禅寺洞が清原枴童らと創刊した「天の川」は、昭和初期まではホトトギス派の九州探題などといわれていたが、やがて禅寺洞は新興俳句運動に関心を示すようになり、昭和九年には「天の川」で無季俳句を容認することを表明した。草城は「俳句研究」昭和九年四月号で連作「ミヤコ・ホテル」で物議をかもし、昭和十年右には「旗艦」を主宰して、無季俳句を試みた。
 ふたりは「ホトトギス」の同人でありながら、虚子の提唱する花鳥諷詠とは対立する無季俳句を推進する革新派の騎士であった。「ホトトギス」は秋桜子の離脱で打撃を受け、さらに昭和十年五月には誓子も「ホトトギス」と袂を分かち「馬酔木」に移っていた。このような情勢のなかで虚子は、新興俳句に走る禅寺洞と草城を除名した、というのが大方の見方である。
 では虚子一筋に進んできた久女の除名の理由は、なんであったのか。虚子はその理由を明らかにしていないが、虚子の側から見た久女の自己顕示欲の強さ、虚子へのうるさいまでの傾倒、句集出版への執着、そこから発した「常軌を逸」した行動、さらには虚子から離反した秋桜子との交流などがまずあるだろう。また「花衣」の独創的な内容もあったかもしれない。そのような材料がそろって、久女は昭和十年九月から「ホトトギス」にまったく入選しないという状態になっていたことはすでに述べた。わざわざ同人削除までしなくても、久女はすでに事実上「ホトトギス」から締め出されていたのである。
 それにもかかわらず、あえて虚子は久女に最後通牒ともいうべき削除という衝撃を与えた。削除の決定的なきっかけは、そのタイミングからして蘇峰を介しての出版計画とかかわりがある、と私は考えずにはいられない。
 すでに見たように、虚子はかつて蘇峰の新聞社の社員であり、立子のことを頼みに行ってもいるのである。虚子の外遊中にいわば虚子の頭越しの出版を試みた久女は、まさに「斬つてしまへ」ということではなかったか。秋桜子の『葛飾』出版、「ホトトギス」離脱に対して示した虚子の不機嫌な態度からして、蘇峰を通しての句集出版の企てを知ったことが、久女除名をこの時期に断行した要因であったと私は思う。虚子のなかで積もりに積もった反感はここで沸点に達したのである。


虚子の亡霊(三十九)

昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。

(杉田久女その八)

 上記は、「ホトトギス」の昭和二十一年の年譜である。この年の一月二十一日に、杉田久女は、その五十七年の生涯(享年五十七歳)を閉じた。松本清張の「菊枕」には、カルテにあったという「独語独笑」というような、その最期の状態を記しているが、戦後の最も悲残な時代に亡くなった。当時の極度に食料事情の悪い状況下での栄養失調とも、あるいは餓死とも推定されている(平畑静塔「筑紫の配所」)。「何人の言にも決して服従せず」との一文を「杉田久女遺墨」(八月二十八日久女草稿)に遺している久女にとって、自分の意思による餓死と推定することも可能であろう。全ては闇のままである。同年二月に、愛知県小松村松名の嫁ぎ先の杉田家の墓地に納骨された。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。別に、昭和三十二年に、松本市宮淵の実家の赤堀家墓域にも、虚子筆の墓碑銘で分骨されている。虚子は、久女が亡くなった、昭和二十一年の十一月の「ホトトギス」に、「墓に詣り度いと思つてをる」を公表した。さらに、昭和二十三年十二月号の雑誌「文体」に、創作と銘打っての「国子の手紙」をも公表した。この虚子の「国子の手紙」は、生前の久女から虚子宛ての手紙のうちの十九通と電報一通を、人名をイニシュアルに変えて、「放埒と思われる点を省き、さらに必要に応じて平明に書き換えた」と断り書きを施しながら、遺族の長女の方の手紙(二通)とともに、その手紙公開については遺族の了解を得ている(しかし、遺族の方は久女のそれらの手紙の内容は知らされていない)ということで、公表したものであった。そして、この虚子の「国子の手紙」こそ、「狂女・杉田久女」の、いわゆる巷間に喧伝されている「久女伝説」を決定付けるものとなってしまったのである。昭和二十八年の「文芸春秋」の松本清張の「菊枕」も、そして、昭和三十八年の「小説新潮」の吉屋信子の「私の見なかった人『杉田久女』」も、この虚子の「国子の手紙」をベースにし、それを鵜呑みにして創作されたものなのである。後に、遺族の方と松本清張との間には法的な争いもあったとのことであるが、全ての震源地は、久女の終生の師と久女が信じて疑わなかった、高浜虚子その人にあったのであろうか。虚子は、久女の生前にも、「ホトトギスの同人名から削除」して、その死後においても、師・虚子その人に、「狂女・久女の汚名」をも着せられてしまったのであろうか。これらのことについて、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)と『杉田久女』(坂本宮尾著)とに、詳細な検証がなされている。なかでも、『杉田久女』(坂本宮尾著)の「『国子の手紙』再考」は圧巻である。全ての「久女伝説」の謎は、この虚子の「国子の手紙」の中に凝縮されていると言っても、これまた、過言ではなかろう。さらに、遺族の方のご尽力により、昭和二十七年に角川書店から虚子の序文とともに、『杉田久女句集』が刊行されるのであるが、その虚子の「序」というのは、これまた、昭和二十三年の「国子の手紙」の延長線上で書かれたものであり、これらに触れると、さらに、こと「久女伝説」については、虚子は一歩も退かないで、己の正当性のみ誇示しているように思われるのである。そして、これらについても、『花衣ぬぐやまつわる・・・わが愛する杉田久女』(田辺聖子著)と『杉田久女』(坂本宮尾著)とで、その真相の一面を丹念に拾い上げている。ともあれ、上記の昭和二十一年の年譜は、もはや、「虚子の時代」は終焉したということを、その行間に読み取れるのである。そして、この「虚子の時代」が終焉したことと軌を一にして、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表されるのである。ここで、ひとまず、「杉田久女」関連については一応了にして、最期に、この昭和二十一年に公表された、虚子の「墓に詣り度いと思つてゐる」関連についてのものを下記に掲載をしておきたい。

『杉田久女』(坂本宮尾著)所収「墓に詣り度いと思つてをる」

 久女の没後、虚子は「墓に詣り度いと思つてをる」(「ホトトギス」昭二一・一一)という文章で、除名当時の久女の「をかしい」精神状態について書いている。そこから久女の同人除名は、箱根丸での久女の「気違ひ」じみた行動が原因だという推測がなされてきた。箱根丸事件と呼ばれるものである。
 箱根丸事件の概要を記そう。すでに述べたように昭和十一年二月に虚子は日本郵船の箱根丸でヨーロッパに渡航する。「墓に詣り度い・・・」によると、箱根丸が立ち寄った門司港で、往路では、久女は虚子の誕生祝いに立派な鯛を届けた。離れてゆく箱根丸を小倉の俳句合の一団が「虚子渡仏云々」という旗を立てたランチに乗って追いかけ、その先頭に立った久女は周囲の人びとが異様に思うほどハンケチを振りつづけた、「もういゝ加減に離れてくれゝばと思つてゐるのにいつ迄もついて来た。私は初めの問は手を上げて答礼してゐたが其気違ひじみてゐる行動に聊か興がさめて来たので共まま船
室に引つ込んだ」とある。
 帰路では虚子の上陸中に久女が船室を何度も訪れ、機関長の上ノ畑楠窓に「何故に私に逢はしてくれぬのかと言つて泣き叫んで手のつけられぬようすであつたといふ。其時、久女さんが筆を執つて色紙に書いたものだといふものを楠窓氏は私に見せた。其は乱暴な字が書きなぐつてあつて一字も読めなかつた」と虚子は記している。
 箱根丸事件に関しては、北九州在住の増田連氏の詳しい調査がある。増田氏は資料を渉猟し、当時のことを知っている人を熱心に探した。『杉田久女ノート』によると、氏の結論はつぎのようである。
 往路には、久女一行がランチで出帆を見送ったという事実はない、と同行した久女が指導する小倉白菊会の縫野いく代さんが証言している。また帰路は箱根丸は門司には寄港していないことを突き止めた。「一字も読めなかつた」という色紙については、久女が贈った花籠に、虚子たのし花の巴里へ膝栗毛」という短冊(虚子は色紙としているが)が添えられていたことがわかっている。つまり、虚子が「墓に詣り度い・・・」で述べている内容は事実と違うのである。
 村山古郷は、帰路には門司に寄港していないことから、「門司の久女事件にはかなり虚子の記憶ちがいがあったか、あるいは久女を異常な性格の女人と仕立てる底意があったのではないかと邪推されるふしがある」(『昭和俳壇史』)と記している。私も虚子のこの文章は、久女の「異常な性格」を読者にほのめかすために書かれたものであると思う。
 「墓に詣り度い・・・」は二つの部分から構成され、前半は久女、後半は尾形余十老という俳人の死が記してある。余十老は異常に俳句熱心だが成績の振るわないホトトギス会員で、富豪であった。零落し、ついには「道端に倒れて死んだ」ということが語られている。
 昭和二十一年といえば敗戦直後で紙不足の時代であり、「ホトトギス」もわずか三十五頁である。そのなかで虚子は三頁を費やしてわざわざ不幸なふたりの最期を記しているのだが、とても鎮魂の一文とは読みにくいのである。
 虚子は、同人除名後に久女が「ホトトギス」を抜けて、「馬酔木」か「天の川」に移ると思っていたかもしれない。そうすれば除名の理由説明は必要がなかったのだが、久女は「ホトトギス」を離れなかった。そこで虚子は、「手のつけられぬ」久女を印象づけるために、もうひとりの風変わりな俳人と並べて「墓に詣り度い・・・」を書いたのではなかったか。それによって同人削除の問題を久女の狂気にからめて葬ろうとする意図があったのではないか、と思われる。この文章は、当初は虚子の目論みどおり久女の側に一方的に非があるように納得させるのに充分であったが、時を経てそれが事実ではないことを示す証言や資料が現れると、逆に虚子の側の問題点を浮き彫りにすることになった。
 いずれにせよ、箱根丸事件そのものが事件というほどのものではなく、事実が大きく歪められていることが立証された以上、これが久女の同人除名の真の理由ではあり得ない。
 「ホトトギス」誌で大きく同人除名の公告が出されたのは前代未聞のことである。久女はさらし首になったも同然であった。知らずして虚子の逆鱗に触れた久女は、この公告によって俳句の命を絶たれたのである。