日曜日, 9月 14, 2008

藤後左右の俳句

藤後左右の俳句

(その一)

○ 噴火口近くて霧が霧雨が 

 戦前の新興俳句の拠点となった「京大俳句」にその名が見られる藤後左右の句である。この句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句である。「帝国風景院賞」に輝いた句というのは、いずれもその作者の代表句と目されるもので、この句もまた藤後左右の名を今にとどめているその一端を担っているものといってもよいのかも知れない。「京大俳句」というと、アンチ「ホトトギス」という感がどうしても拭えないが、「京大俳句」の多く面々が、高浜虚子の「ホトトギス」に投句していて、その「ホトトギス」から巣立っていたということは特記しておく必要があろう。後に、昭和十五年に、いわゆる、「京大俳句弾圧事件」で、その主要メンバーは検挙されることとなるが、藤後左右は、その頃には、「京大俳句」の投句関係は休止の状態であったことから、たまたま、検挙はまぬかれたという(『中田亮編集「京大俳句」と「天狼」の時代』、以下『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』)。ちなみに、「京大俳句弾圧事件」で検挙された面々は次のとおりである。

第一次…昭和十五年二月十四日
井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)、北尾一水(仁智栄坊)
第二次…昭和十五年五月三日
石橋辰之助、和田平四郎(辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、渡辺威徳(白泉)、堀内薫
第三次…昭和十五年八月三十一日
斎藤敬直(西東三鬼)

(その二)

○ 秋晴やゑがかれてゆく淀城址

 『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「虚子歓迎句会が京大内でひらかれて、(注・掲出句の記載あり)、という句を虚子選に選ばれ、それから俳句に迷い込んで終った」とあり、この掲出の句が藤後左右の虚子選の処女作のようである。その年度は、「その翌年春私(注・平畑静塔)の実家和歌浦に椎霞(注・野平椎霞)と来遊し、加太・紀三井寺・道成寺と案内して作った句がホトトギス巻頭になり、一躍新人の名を高くしたのである」とあり、これは「平畑静塔略年譜(中田亮編集)」(『平畑静塔全句集』所収)によると、昭和五年(一九三〇)ということになる。藤後左右は、明治四十一年(一九〇八)の生れで、平畑静塔(明治三十八年生れ)より三歳年下である。この年譜にある昭和五年は、静塔、二十五歳の時で、藤後左右は、若干、二十二歳で、「ホトトギス」の巻頭作家になったということがうかがえる。ちなみに、昭和六年の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いのは、二十三歳のときで、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「天才作家の名を以て知られるに至った仁である」と、一躍華々しい新人としてデビューすることとなる。この藤後左右のデビューを見ると、当時の高浜虚子が、日野草城の後釜として、京都に、「ホトトギス」の牙城の再構築を図るべく、この藤後左右などに力を入れていたかということを垣間見る思いがする。

(その三)

○ 和歌の人花のくもりに海苔とれる
○ 加太の海の浪のり舟で和布刈り
○ たかんなに幾千の竹生ひ立てる

『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で紹介されている、藤後左右の、昭和六年に「ホトトギス」巻頭となった三句である。この掲出の一句目の「和歌の人」は、平畑静塔の実家の「和歌(の)浦の人」の略であろうか。この一句だけでは、何とも、「和歌の人」というのが意味不明という雰囲気である。二句目の「加太の海の」の字余りも気に掛かる。一句目の句形からすると、「加太の海浪のり舟で和布刈り」だが、こちらを字余りにするなら、一句目の「和歌の人」も、「和歌浦の人」か「和歌の浦」とか、その地名が読みとれるものにして欲しいという気持ちになってくる。三句目の、「たかんな」は、本来、「竹の子」の意味だが、ここは「竹林・竹藪」の意味なのであろうか。また、「生ひ立てる」は、散文的には、「生ひ、且つ、立てる」の意味なのであろうか。この三句を見て、藤後左右の俳句というのは、一句目の「海苔とれる」の「とれり」、二句目の「和布刈り」の「刈り」、そして、三句目の「生ひ立てる」の、「事物の動作・作用・存在・性質・状態について叙述する」の用言形などに特色がある感じである。これは、これまでの、「噴火口近くて霧が霧雨が」(その一の「帝国風景院賞」に輝いた句)では、「霧が霧雨が」と、「霧」と「霧雨」をリフレンさせての面白さ、「秋晴やゑがかれてゆく淀城址」(その二の処女作)では、この「ゑがかれてゆく」という一連の動作を表わす中七の面白さとなって現われている。そして、これらの句を選句した、高浜虚子の、「平明・平凡・平易」ということに加えて、「その人らしさ」ということにおいて、この動きのある用言のスタイルに、虚子の視点が動いたようにもとれるのである。とにもかくにも、当時、「ホトトギス」の巻頭をとるということは、俳人として認められたということを意味して、そして、それを、一・二年の医学生の余技のような句が、それを成し遂げたのだから、さぞかし本人もその周囲の人達も驚いたことは間違いない。

(その四)

○ 横町をふさいで来るよ外套着て
○ 室内を暖炉煙突大まがり


 この藤後左右の句(ホトトギス雑詠)に関連して、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で、次のように記述している。次の静塔の記述のうちで、「虚子は左右の句を佳しとしているのに比して、秋桜子はいただけない」(要約)としていることと、左右自身が、「自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えることもなかった位の無造作無頓着な日常であった」(抜粋)という指摘は、「さもありなん」という思いを深くする。

○左右の俳句(ホトトギス雑詠)を、あの理想主義の文芸至上の秋桜子が高くは買わなかったのは当然である。この野暮ったくいささか卑俗で、俳句のみが表現出来る機知と滑稽の作品を、そのまま当時の馬酔木にもって来ても一向見栄えはしなかったであろう。左右は当時自己の作品に対して自負する言動は毛頭もなかった。果たして自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えたこともなかった位の気造作無頓着な日常であった。(中略) 私達の京大俳句の後期から殆ど俳句を作らず、又殆ど一文も執筆しなかったので、京大俳句事件には全く埃をかぶらずにすんだのは幸いであった。戦後自由律口語に近い俳句を発表したが、それも一時で殆ど沈黙し、数年前から鹿児島志布志市で精神病院まで建てて悠々とやっている。恐らく遠い南の果てで、ときどき私んどの俳句を見て「静塔もっと人のやらぬ俳句が出来ぬものかな」とぶつぶつ独り言をいっているのであろう。好漢長命をうたがわない。

(その五)

○ 大文字へみどりの梅雨をかけわたし (左右)
○ 徐々に徐々に月下の俘虜として進む (静塔)
○ 美しき少女なり献金に應ぜんか   (三山)
○ 山陰線英霊一基づつの訣れ     (白文字)
○ 赤十字ありて端なりキャンプ村   (椎霞)
○ 沙羅の花深山の宮の静けさに    (素逝)
○ 撞かんとす除夜の大鐘まのあたり  (北人)

 日野草城・鈴鹿野風呂らが大正9年(一九二〇)に京大三高俳句会の機関誌として創刊した「京鹿子」は、昭和八年(一九三三)に、平畑静塔・井上白文地・中村三山らによって新しい機関誌「京大俳句」へと衣替えして創刊された。これらのことについては、下記のアドレスのネット記事で紹介されている。掲出の一句目の藤後左右の句は、そこで紹介されているものである。『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』初期のグループ」によると、創刊当時の所属系統などは、次のとおりである(その創刊時の主立ったメンバーの句などについて、同じネット記事で紹介されていたものを上記の二句目から七句目に掲載しておく)。この左右の掲出句を見ても、左右は、その俳友の多くは「京大俳句」の面々であったが、その所属系統的には、「ホトトギス」系の俳人と言っても過言ではなかろう。

[ホトトギス・馬酔木]中村三山(東大)・井上白文字(京大文)・平畑静塔(京大・医)・藤後左右(京大・医)・野平椎霞(京大・医)
[ホトトギス]長谷川素逝(京大・工)・井上北人(京大・工)・田畑比古(京都在住)
[その他]寺野保人(京都在住)

http://www.shibunkaku.co.jp/artm/kyoudai/index.html

(京大俳句の光芒――京大三高俳句会・「京鹿子」から戦後の再出発まで)

昭和8年1月、京大三高俳句会の機関誌として創刊された「京鹿子」が鈴鹿野風呂の個人誌に改組されたのを受け、平畑静塔・井上白文地・中村三山ら若手同人達によって新しい機関誌「京大俳句」が創刊されました。作風の自由と批判の自由を内容とする「自由主義」を掲げた同誌は、やがて当時俳壇におこった新興俳句運動の一拠点となり、理論的、実践的両面において新しい俳句の確立を目指しました。また、学外にも門戸をひろげたことにより西東三鬼・三谷昭・高屋窓秋・渡辺白泉ら有力作家が続々入会。定型、季、連作、戦争俳句などの問題と正面から取り組み、新興俳句運動の尖鋭的存在として活動しました。 しかし昭和8年の京大滝川事件、12年の廬溝橋事件と戦争一色となる社会情勢の中、俳壇におけるこの革新的な気運は、不運にも治安維持法による取締りの対象とされました。そして昭和15年2月から3回にわたって「京大俳句」の主要メンバー計15名が特高警察に検挙されます。これを皮切りに全国の新興俳誌がつぎつぎと弾圧を受けることとなり、新興俳句運動は壊滅せざるを得ませんでした。戦後、俳壇再編成の動きのなか、山口誓子を中心とする俳誌「天狼」が創刊されました。戦時中沈黙を余儀なくされていた新興俳句の俳人達の再出発は、現代俳句の確立に大いに貢献することとなりました。弾圧により「京大俳句 」が終刊してから60年。本展では、「京大俳句」を中心に青年作家たちの情熱から生まれ、俳壇を席巻した新興俳句運動をたどり、昭和という激動の時代に輝いた俳句世界を紹介します。

(その六)

○ スラバヤを出しな軍刀にけつまづいた
○ 沈没船のマストが背伸びして見送る
○ 昨日の魚雷はとふり向くはるか

 藤後左右は、句集は出していないようである(昭和五十六年当時の『藤後左右句集』など晩年に句集刊行)。昭和三十二年刊行の『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』(筑摩書房)所収の「藤後左右集」の作者紹介の記述は次のとおりである。

○明治四十一年鹿児島に生る。本名惣兵衛、職業医師。昭和三年野風呂に入門、「ホトトギス」に投句。虚子に師事す。同六年三山白文地静塔素逝椎霞と「京大俳句」を興す。誌業句作に勤勉ならず常に静塔の叱責を受く。同七年京大医学部卒、松尾内科に入り市立京都病院に奉職。いはほ播水と蜻蛉会に出席、ために新興俳句弾圧の目を逃る。同十八年小スンダ列島に出征、後郷里に開業す。未だ句集を編むに至らず、現在郷土誌「天街」に拠る。

 掲出の三句は、その『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』のものである。これらの句は、「ホトトギス」や「蜻蛉会」に投句したものではなかろう。まぎれもなく、静塔らの「京大俳句」の世界のものであろう。この一句目の「スラバヤ」は、昭和十七年(一九四二)の「スラバヤ沖海戦」のそれであろうか。『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「スラバヤ沖海戦(-おきかいせん 1942年2月27-28日)とは太平洋戦争中、 インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合軍が迎撃した海戦。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった」と紹介されている。
 とすると、この句は、昭和十五年の「京大俳句弾圧事件」以後のもので、左右が「小スンダ列島に出征」していた頃の作であろうか。ここには、それまでの、「ホトトギス」に投句していた左右の影はない。左右は、戦後、いわゆる、「ホトトギス」の「花鳥諷詠」の世界から、この掲出句に見られるような、無季の戦争批判の、より多く「前衛俳句」や「社会性俳句」の世界へと脱皮していったのであろうか。次のネット記事では、次のように紹介されている(なお、同ネット記事によると、1991年6月11日没。)。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-4-ta.htm

○終戦後の昭和26年5月、郷里で「天街」を発行主宰している。昭和30年8月に、大阪で波止影夫が「芭蕉」を創刊すると、左右も参加。「芭蕉」は、「天街」「青玄」「薔薇」「激浪」「琴座」などの、旧京大俳句系の参加が多い俳誌だった。左右の俳風は、「京大俳句」に参加していた経緯からも判るように、前衛俳句を中心とし、また社会性俳句にも意欲を燃やした。句集に「熊襲ソング」(1986)「藤後左右句集」(1981)他。

(その七)

○ 裁判長浜が消えたから貝も消えました
○ 裁判長ナミノコガイと云っておいしい貝でした
○ 裁判長浜と貝をかえして欲しいのです
○ 裁判長浜と子供を返して下さい

 藤後左右については、活字(図書)情報よりもネット(ウェブ)情報の方が充実しているのかも知れない。しかし、どちらかというと、戦後の藤後左右を中心として、それは「京大俳句」の新興俳句系の俳人にウェートを置いて紹介されている印象でもある。下記のネット記事のものについても、その年譜のとおり、先に(その六)紹介した年譜の「虚子に師事す」などは、記述されておらず、そこで、紹介されている句(掲出句)などを見ても、完全な「反ホトトギス」系の俳人としてのものであろう。この掲出句は、昭和四十六年当時、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任して、その闘争の過程で得た〈裁判長シリーズ〉のものなのであろうか。ここには、戦前の、「ホトトギス」の巻頭を得た頃の藤後左右の影はない。

http://www.k3.dion.ne.jp/~scarabee/sukajin-ta.htm

○1908年1月21日、鹿児島県曽於郡志布志町の生まれ。俳人。本名、惣兵衛。志布志中学―七高(鹿児島)―京都帝大医学部卒。近世文学研究者の暉峻康隆と同郷。昭和初頭より句作を開始し、「ホトトギス」巻頭を獲得。一躍脚光を浴びる。昭和8年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊に参加。昭和18年、応召し、ジョホールバルで終戦、レンパン島で捕虜生活を送る。昭和21年5月復員。昭和22年、郷里で開業。昭和26年、「天街」創刊主宰。昭和46年、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任。この闘争をへて得た〈裁判長シリーズ〉は有名。昭和47年、南日本文化賞。1991年7月11日没。享年83歳。〈著書〉句集『熊襲ソング』(天街発行所、昭43.7)『藤後左右句集』(永田書房、昭56.6、のち再刊、ユニカラー、昭56.10)『ナミノコ貝』(現代俳句協会、昭61.10)『藤後左右全句集』(ジャプラン、平3.9)〔参考〕国武十六夜『私説・藤後左右』(永田書房、昭57.8)

 この年譜中の「志布志湾開発反対闘争」は、下記のアドレスに詳しい。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/53/rn1983-319.html

(その八)

○ 萩の野は集つてゆき山となる

 この掲出句について、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20001104,20040816,20051110&tit=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3&tit2=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E3%81%AE

○高校の数学の時間に、「演繹(deduction)」「帰納(induction)」という考え方を習った。掲句は四方から「萩の野」が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって「山」になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である。かつての「ホトトギス」で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている。そう言われて見回してみると、俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、「萩」なる季語は存在する。しかし、ここで「萩」は他の季語とどのようにでも交換可能だ。「菊」でもよいし「百合」でもよろしい。すなわち、左右の「萩」は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが「なるほど」と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない。とまあ、せっかくの三連休中に屁理屈をこねまわして御迷惑かと思うが、俳句という文芸様式を考える上では、こんな感想も一興かと……。『熊襲ソング』所収。

 この清水哲男さんの鑑賞文に接して、この掲出句は、昭和四十三年に刊行された『熊襲ソング』所収のものであることが分かる。そして、「かつての『ホトトギス』で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている」とあり、戦前の、昭和六年当時の「ホトトギス」投句時代の作品であることも分かる。この「当時の俳人たちを驚かせた一句」ということの理由を、清水哲男さんは、「『萩の野』が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって『山』になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である」として、「俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、『萩』なる季語は存在する。しかし、ここで『萩』は他の季語とどのようにでも交換可能だ。『菊』でもよいし『百合』でもよろしい。すなわち、左右の『萩』は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが『なるほど』と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない」と、明解な、藤後左右俳句の評を下している。この「帰納法的な叙景句」という理解は、戦前の藤後左右の俳句の特徴をよくとらえている感を大にする。左右は医師であり、医師特有の「帰納法」的な視点での作句で、この点で、他の多くの俳人の演繹的な視点での作句と味わいの違ったものを現出している。さらに、この帰納法的な作句では、「季語は絶対的な要件でない」との指摘は、戦後の左右の前衛俳句・社会性俳句の無季俳句への転向を見ていくと、大きな示唆を含んでいる。この清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞は、最もその中枢を貫いているものという思いを深くした。

(その九)

○ 新樹並びなさい写真撮りますよ

この掲出句は、下記のアドレスの「かごしま近代文学館」のネット記事のものである。ここで、戦後の、藤後左右の俳句観などが紹介されている。

http://www.kinmeru.or.jp/literature/WebRefresher/view.cgi?DIR=020&TITLE=%93%A1%8C%E3%8D%B6%89E%81w%90V%8E%F7%82%C8%82%E7%82%D1%82%C8%82%B3%82%A2%81xH18.1.5

○藤後左右『新樹ならびなさい』1989(平成元)年 ジャプラン
 1930(昭和5)年、当時、水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十ら四Sの独占時代だった「ホトトギス」の巻頭を飾り、一躍俳句界のスターとして登場した藤後左右は、徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました。その理念を左右自身の中で定着させたのが1980(昭和55)年、鹿児島の大隅湖畔で詠んだ
「新樹並びなさい写真撮りますよ」
の句でした。この句について左右は、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」(『新樹ならびなさい』あとがき)と述べています。左右3作目の出版となった本書は、この句から名前を付けました。この句集を口語俳句六・八・六型の「実験作品」と左右は述べていますが、他にも
「みんな自生のつつじです丘ごとです」
「春の下駄お元気ですねといわれちゃった」など、左右らしい自由な句が並んでいます。

 この左右の紹介記事で、「徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました」の、この「口語俳句六・八・六型」と、先に、左右の無季俳句というものを見て、今度は、「五・七・五」の定型破壊と突き進んでいるのは、戦前の「ホトトギス」出身の俳人とは別人かという趣すらしてくる。おそらく、「ホトトギス」巻頭俳人のうちでも、ここまで、徹底した、新しい俳句の世界を模索していった方は、皆無なのではなかろうか。また、この掲出句について、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」という左右の思いは、この「自然といかに取り組むかというのが句作根本理念」ということに関連して、左右が、そのスタート時点で師事した、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の「花鳥諷詠」俳句の世界の、新しいステップという感慨を、左右自身抱いていたような感が拭えないのである。

(その十)

○ 夏山と溶岩(ラバ)の色とはわかれけり    左右
○ 溶岩(ラバ)色を重ねて古りて冬ざれて    年尾
○ 溶岩に秋風の吹きわたりけり        虚子

 掲出の三句は、下記のアドレスの「桜島句碑めぐり」からのものである。

http://www4.synapse.ne.jp/mokka/tabi/040417/040417kuhi.htm

 この一句目の「溶岩」に「ラバ」のルビ付きの左右の句は、戦前の「ホトトギス」投句時代のものであろう。上記のネット記事では、「志布志出身の藤後左右の句碑が雄大な桜島をバックに、東屋のある展望所に建立されています。溶岩を英・独語読みで「らば」と読んで初めて句に用いたのも、この藤後左右でした」とあり、この「溶岩」を「ラバ」と詠むのは、当時においては新鮮であったのだろう。この句も、左右の「帰納法」的な作句で、
「夏山の遠景の美しい青い色と、近景の溶岩の茶褐色の色とは、画然と一線を画している」というような句意であろうか。この句は、季語の「夏山」と実景の「溶岩」とを対比させて、夏山の焦点化に成功している一句であろう。掲出の二句目は、虚子のご子息の高浜年尾の句で、やはり、「溶岩」を「ラバ」と詠んでのものである。この年尾の句の「溶岩」は、多分に、左右の「溶岩」の句を意識してのものであろうか。これ以後、「溶岩」を「ラバ」との外来語的な詠みをしばしば見掛けるようになる。その先例的な句が、この一句目の左右の句と言っても良いのかも知れない。しかし、左右そして年尾の師匠に当る「ホトトギス」の総帥・高浜虚子は、同じ、桜島を詠んでも、掲出の三句目のとおり、「溶岩」は「ようがん」の詠みであり、自分が選句した、地元の鹿児島出身の左右の「溶岩」を「ラバ」とする詠みは採ってはいない。その上で、これらの掲出の三句を見て、三句目の虚子の、一句一章的な、「溶岩」の句というよりも「秋風」の句に、他の二句よりも共感を覚えるのである。そして、その背景には、芭蕉の「おくのほそ道」での名吟、「石山の石より白し秋の風」の、その「秋風」の本意、それは、現代俳句ですれば、山口誓子の「ひとり膝を抱けば秋風また秋風」の、この「秋風」の本意、「身に沁みてあわれを添える」風情が、詠み手に直に伝わってくるからに他ならない。そして、それは、先の清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞(その八)からすると、「なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ」ということに関連してくるのであろう。このことに関して、ここでも繰り返すこととなるが、左右の俳句の季語感というのは、例えば、この一句目の、季語の「夏山」と、実景の「溶岩」に、外来語の「ラバ」とルビを振っての、この並列的な句作りに、決して、左右は、「夏山」の季語としての本意などは眼中にないのである。どちらかというと、この時の、左右の心を動かしたのは、「溶岩」の、その非情緒的な、地下の「マグマ」の結晶物を、いかに表現するかということでもあったのかも知れない。そして、それが、「マグマ」に匹敵するような外来語の「ラバ」という詠みになって、それが、この一句の生命線にもなっているのである。藤後左右は、そのスタートの時点から、これまでに余り見かけなかった新しい視点と新しい造語感覚をもって、それが、当時の虚子の目にとまったのであるが、戦争で句作を中断して、戦後に、左右の多くの仲間の「前衛俳句・社会性俳句」の世界に直面して、完全に、脱「虚子」の世界へと移行した典型的な俳人といって差し支えないのであろう。そして、藤後左右の俳句は、その「戦前」の俳句と、その「戦後」の俳句とは、全然異質の世界のものという理解をして、その上で、改めて「藤後左右の俳句」の全体像を把握するという、二段ステップの鑑賞方法が強いられるような思いを深くする。