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土曜日, 4月 08, 2023

「第四 椎の木かげ(4-72~4-73)」

 4-72    うぐひすや雲水の井を水かがみ

 

「白梅鶯・紅葉鹿図 酒井抱一 江戸時代」/絹本著色/(各)23.0cm×22.6cm

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000471/4000474.html

≪ 酒井抱一(1761~1828)は江戸後期の琳派の画家。姫路城主酒井忠仰の二男として生まれる。 狩野派、南蘋派、歌川派、さらに円山派、土佐派にわたる諸派の画風を学んだが、尾形光琳の作品に感銘し、その芸術の復興を志した。文化12(1815)年には光琳の百年忌を営むなど、数々の光琳顕彰を行う。抱一によって江戸に定着した琳派の系脈は、江戸琳派と呼称される。叙情性ゆたかな草花図を得意とした。

この作品は画帖をはがしたものと思われ、白梅鶯図と紅葉鹿図で対をなすものである。色調を抑えた画面は、あくまでも写実を排し、塗抹的な筆致は平面性に徹している。 たおやかな気品を醸す愛すべき小品である。≫(「板橋区立美術館」)

 「雲水(うんすい)」=行雲流水(こううんりゅうすい)、浮雲(ふうん)流水の略で、行脚僧(あんぎゃそう)、雲水僧のこと。修行中の僧が一所にとどまらず、自由に諸国を遍歴し、よき師を求め歩く姿が雲水に例えられた。このような僧の衲衣(のうえ)を雲に、袂(たもと)を霞(かすみ)に例えて行脚僧のことを雲衲霞袂(うんのうかべい)、略して雲衲(うんのう)ともいう。その服装は、網代笠(あじろがさ)、黒衣(こくえ)、手甲脚絆(てっこうきゃはん)、草鞋(わらじ)ばきの姿で、袈裟(けさ)文庫、頭陀袋(ずだぶくろ)を首にかけ、日常生活用具を携行するのを常とした。また一般に、叢林(そうりん)で修行中の僧や、托鉢行(たくはつぎょう)を行っている僧も雲水とよばれる。[石川力山](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 (「句意」周辺)

 この句の前に、「戌午 春興」との前書がある。「戌午」は、「寛政十年(一七九八)」の、「春興」(「正月句会」)の句ということになる。この前年に、抱一は、出家して「等覚院文詮暉真」となり、十一月から十二月に掛けて上洛し(「花洛の細道」)、その年末に、下記(再掲)の「築地安楽寺」ではなく、「浅草寺」北方の「千束村(せんぞくむら)」に居を構えた。

(再掲)

一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居     (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)

  そこで、「花洛の細道」から「蜚遯」(飛んで遁げ帰った)の、その「関西蜚遯人」(抱一の号)から、「千束隠子(千束の隠子)」との号を名乗るようになる。

 この「千束隠子(千束の隠子)」の「隠士」とは、その『軽挙館句藻』の「千づかの稲」の冒頭の、その前書のある、次の『古今和歌集』の本歌取りの一首に因っている。(なお、その前書の「入間郡千束村」は、「浅草裏の千束は豊島群で、抱一の誤記であろ」と『相見香集一』では記している。)

   入間郡千束村ら庵をむすびて

 いとひこす/うき世の外の/柴の戸に/ひとくひとくと/鶯のなく (抱一)

  この抱一の一首は、次の「俳諧」のルーツの「誹諧歌」(『古今和歌集』巻第十九「雑体」)の、その冒頭の、次の一首の「本歌取り」なのである。

 1011  梅の花/ 見にこそきつれ/ うぐひすの/  ひとくひとくと  いとひしもをる(「読人しらず)

 http://www.milord-club.com/Kokin/uta1011.htm

 ≪梅の花を見にきたのに、そこにいるウグイスが 「人が来た、人が来た」と嫌がっている、という歌。お前を見にきたわけじゃない、という感じか。  "ひとくひとく" はウグイスの鳴き声を「人来、人来」と合わせたもの。「をる」はラ変の動詞「居り」の連体形。「こそ」からの係り結びを受けている。 この歌から誹諧歌(はいかいか)がはじまり、それは巻末の 1068番まで五十八首続く。誹諧歌というジャンルは一言で言えば 「品がない歌」の集まりであるが、他の部立ての中のものと厳密には区別がつきにくいものもある。  ≫

 (「句意」)

 「うぐひすや雲水の井を水かがみ」と、この「雲水」(抱一の「等覚院文詮暉真」)の、この「千束の仮寝の宿」の、この飲水の「井」(井戸)に、春を告げる「うぐひす(鶯)」が、あたかも、「水かがみ(水鏡)」するように訪れている。それは、「いとひこす/うき世の外の/柴の戸に/ひとくひとくと/鶯のなく」の、隠遁し、隠棲している、一介の「雲水」の、吾が心境を物語っている。

 (蛇足)

「寛政十年戌午(一七九八)」、抱一、三十八歳の頃の「等覚院殿御一代」に、次のような記述がある。

 ≪ 京都より御帰りの後は、安楽寺(「安楽寺」の詳細不明)におわしますべき筈なるに、竊(ひそか)に御栖隠には御座なされずして、箕輪(「千束」の誤伝)の辺にいとせまき御住居に閑居なり。其後は、浅草観音の境内、弁天の池のほとりに、御幽棲にておわしましける比頃は、大手(「酒田家」の大手門前の上屋敷)へも、御うとうと敷て、御音つれもなかりし也。(注・「濁点・句読点・詠み」と括弧内に「私注」を付す。) ≫(『抱一上人年譜稿(相見香雨著)』)

  そして、「4-67  (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「4-71   (江戸) ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り」、さらに、掲出の「4-72 うぐひすや雲水の井を水かがみ」の、この「雲水」の用例は、下記アドレス(参考)の、「水鶏啼と(歌仙)」(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰)』)、(『笈日記(支考撰)・上巻・「伊賀群」』所収「紀行」)、そして、(『笈日記(支考撰)・下巻・「雲水追善」』)と、深い関わりがあるように思われる。

 https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2023-04-05

 (参考)「水鶏啼と(歌仙)」(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰)』)

 https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%95%89%E9%96%80%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E9%9B%86-%E4%B8%8B/%E6%B0%B4%E9%B6%8F%E5%95%BC%E3%81%A8-%E3%81%AE%E5%B7%BB/

 初表

   隠士山田氏の亭にとどめられて

 水鶏啼(なく)と人のいへばや佐屋泊 芭蕉(「水鶏」で夏、鳥類、水辺。「人」は人倫)

   苗の雫を舟になげ込(こむ)      露川(「苗」で夏。「舟」は水辺)

 朝風にむかふ合羽(かつぱ)を吹たてて   素覧(無季。「合羽」は衣裳)

   追手(おふて)のうちへ走る生もの   芭蕉(無季)

 さかやきに暖簾せりあふ月の秋  露川(「月の秋」で秋、夜分、天象)

   崩(くづれ)てわたる椋鳥の声     素覧(「椋鳥」で秋、鳥類)

初裏

 耕作の事をよくしる初あらし   芭蕉(「初あらし」で秋)

   豆腐あぢなき信濃海道    露川(無季。旅体)

 尻敷の縁(ヘリ)とりござも敷やぶり   素覧(無季)

   雨の降(ふる)日をかきつけにけり  芭蕉(無季。「雨」は降物)

 焙烙のもちにくるしむ蠅の足   露川(「蠅」で夏、虫類。)

   藺(ゐ)を刈あげて門にひろぐる  素覧(「藺を刈」で夏)

 切麦であちらこちらへ呼れあふ  芭蕉(「切麦」で夏)

   お旅の宮のあさき宵月    露川(「宵月」で秋、夜分、天象。神祇)

 うそ寒き言葉の釘に待ぼうけ   素覧(「うそ寒」で秋。恋)

   袖にかなぐる前髪の露    芭蕉(「露」で秋、降物。「袖」は衣裳。恋)

 咲花に二腰はさむ無足人     露川(「咲花」で春、植物、木類。「無足人」は人倫)

   打ひらいたるげんげしま畑  素覧(「げんげ」で春、植物、草類)

二表

 山霞鉢の脚場を見おろして    支考(「山霞」で春、聳物、山類)

   船の自由は半日に行(ゆく)     左次(無季。「船」は水辺)

 月夜にて物事しよき盆の際(きは)    巴丈(「月夜」で秋、夜分、天象)

   かりもり時の瓜を漬込(つけこ    露川(「瓜」で秋)

 三鉦(みつがね)の念仏にうつる秋の風  素覧(「秋の風」で秋。釈教)

   使をよせて門にたたずむ   支考(無季。「使」は人倫)

 我恋は逢て笠とる山もなし    左次(無季。恋)

   年越の夜の殊にうたた寐   巴丈(「年越」で冬。恋。「夜」は夜分)

 扨(さて)は下戸いちこのやうに成にけり 露川(無季。「いちこ」は人倫)

   達者自慢の先に立れて    素覧(無季)

 金剛が一世の時の花盛      支考(「花盛」で春、花、植物、木類)

   つつじに木瓜の照わたる影  左次(「つつじに木瓜」で春、植物、木類)

二裏

 春の野のやたらに広き白河原    巴丈(「春の野」で春)

   三俵つけて馬の鈴音      露川(無季。「馬」は獣類)

 それぞれに男女も置そろへ     素覧(無季。恋。「男女」は人倫)

   よめらぬ先に娘参宮      支考(無季。恋。神祇)

 あり明に百度もかはる秋の空    左次(「あり明」で秋、夜分、天象。神祇)

   畳もにほふ棚の松茸      巴丈(「松茸」で秋。「畳」は居所)

 

『ゆづり物(杜旭自筆・元禄八年成)』の句形(参考)

 二表(2)

 一度は暮して見たき山がすみ    支考

   ふねの自由は半日にゆく    左次

 月夜にて物事しよき盆の前     巴丈

   かりもり時の瓜を漬込     露川

 三鉦の念仏にうつる秋の風     素覧

   小者をやりて門にたたずむ   支考

 我恋は逢うて笠取ル山もなし    左次

   貧はつらきよ〇〇假寐     巴丈

 酒塩に酔ふた心も面白や      露川

   一里や二里の路は朝の間    素覧

 伊勢に居て芝居をしらぬ花盛    支考

   つつじの時はなを長閑也    左次

二裏(2)

 春の野のやたらに広キ白河原    巴丈

   から身で馬はしやんしやんと行 露川

 板葺のゆたかに見ゆるお蔵入    素覧

   山ちかふして薪沢山      支考

  参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

 (『笈日記(支考撰)・上巻・「伊賀群」』

 紀 行

 さや(佐屋)の舟まはりしに、有明の月入はてゝ、みのぢ、あふみ路の山々雪降かゝりていとお(を)かしきに、おそろしく髭生たるものゝふの下部などいふものゝ、やゝもすれば折々舟人をねめいかるぞ、興うしなふ心地せらる。桑名より処々馬に乗て、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて、馬より落ぬ。ものゝ便なきひとり旅さへあるを、「まさなの乗てや」と、馬子にはしかられながら、

    かちならば杖つき坂を落馬哉

 といひけれども、季の言葉なし。雑の句といはんもあしからじ。

                             ばせを

そのゝちいがの人々に此句の脇してみるべきよし申されしを

 

(『笈日記(支考撰)・下巻・「雲水追善」』)

 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00032010#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2923%2C-260%2C12437%2C5191

  


雲水追善

 悼芭蕉翁   尾州熱田 連中

その神な月の二日、しばしとゞめず、今のむかしはかはりぬ。何事もかくとわきまへかぬるなみだ思へばくやし。芭蕉翁、十とせあまりも過ぬらん、いまぞかりし比(ころ)、はじめて此蓬莱宮におはして、「此海に草鞋を捨ん笠時雨」と心をとゞめ、景清が屋しきもちかき桐葉子がもとに、頭陀をおろし給ふより、此道のひじり(聖)とはたのみつれ。木枯の格子あけては、「馬をさへ詠る雪」といひ、やみに舟をうかべて浪の音をなぐさむれば、「海暮て鴨の声ほのかに白し」とのべ、白鳥山に腰をおしてのぼれば、「何やらゆかしすみれ草」となし、松風の里・寝覚の里・かゞ見山・よびつぎ(呼続)の浜・星崎の妙句をかぞへ、終にかたみとなし給ぬと、互に見やり泪の内に、人々一句をのべて、西のそらを拝すのみ。(『日本俳書体系3芭蕉時代三・蕉門俳諧後集』所収「笈日記(上・中・下:支考撰)」)

 

4-73    塩竃のあたりに煙るやなぎ哉

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-18

 (再掲)

 

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 → C図

六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝

落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

【 抱一画には珍しい六曲一双の大画面に、桜と柳(右隻)、および紅葉(左隻)を中心とする、春秋の花卉草木を描いた作品。屏風の下辺に沿って土坡が連なり、その上をそれぞれ春草、秋草が覆って、木々の根元を彩っている。

 桜、柳、紅葉の幹は、濃い墨に緑青をまじえた、強い調子のたらし込みの技法を以て表される。いっぽう、桜の花や蕾、柳の細い葉、土筆、菫、竜胆といった、細部の描写においては、隅々まで神経の行きとどかせた、丁寧な筆づかいをみせる。金箔地を背景に、濃彩で明快な草花を描く琳派の伝統を強く意識しながら、余白を広くとる構図や、草花を描く細やかな筆づかいにも、抱一独特の構成力、描写力が発揮されている。

 「松藤図」屏風(アジア・ソサエティ・ロックフェラー・コレクション)や「四季花鳥図」屏風(陽明文庫・文化十三年)にも見出されるこのような表現を、本図は受け継ぐとみられ、落款の形式や特徴からも、文化年間末から文政前期の作と思われる。

 なお、本図は『酒井抱一画集』(国書刊行会)に載るほか、ブルックリン美術館で一九七五年に開かれた、Japaneese Paintings from the C.D.Center Collection 展カタログの表紙ともなっている。】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(大野智子稿)」)

(芭蕉の「柳」の句)

八九間空で雨降る柳かな    芭蕉「木枯」

青柳の泥にしだるる塩干かな  芭蕉「炭俵」

青柳の我からむすぶ仏かな   芭蕉「翁反古」

小鯛插す柳涼しや海士がつま  芭蕉「船庫集」

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

はれ物に柳のさはるしなへかな 芭蕉「芭蕉庵小文庫」

上記の≪酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)≫は、掲出の「芭蕉の『柳』の句)よりも、次の「花ざかりに京を見やりてよめる」素性法師の一首が参考となろう。

 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/waka23

   花ざかりに京を見やりてよめる

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(素性法師「古今巻第一春歌上56」)

(訳・参考

はるかに見渡すと、緑の柳と薄紅の桜をまじり合わせて、ほかならぬこの都こそが、春の錦(の織物)だったのだ。

『古今和歌集』の詞書によれば、都に近い山に行き、都の春景色を一望して詠んだ歌である。和歌の世界において「錦」といえば、秋山の紅葉をさすのがふつうである。作者は、その「秋の錦」に対して、「春の錦」があるとしたら、それは何なのだろうと考えていた。そして、都の春景色を一望して、自分の住むこの都こそが、さがし求めていた「春の錦」だったのだ、と気づき驚いているのである。)

 (「句」の周辺)

 「軽挙館句藻」では、この句に「融の大臣旧跡は六条本願寺の寺内にあり」との前書が付されている。すなわち、この句の「塩竃」は、「河原院をめぐる伝説を題材とする能」の「融」(世阿弥作)に由来するものである。

 4-17   名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

4-70   鯛の名もとし白河の旅寝哉

4-73   塩竃のあたりに煙るやなぎ哉

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%8D

 「融 (前場) 」 (「ウィキペディア」)

(「僧の登場」)=東国から上洛した旅の僧(ワキ)が登場し、京都六条河原院に着いたことを告げる。

ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ立ち都に上のぼり候 (後略)

(「潮汲みの老人の登場」)=そこに老人(前シテ)がやってきて、河原院の景色をほめるとともに、自らの老いた身を嘆く。前シテは、笑尉(または朝倉尉)の面で、尉髪、水衣、腰蓑、扇という出で立ちである。担桶(たご)を担っている。

シテ〽月もはや、出潮でじおになりて塩竈しおがまの、うらさびわたる景色かな

シテ〽陸奥はいづくはあれど塩竈の、恨みて渡る老いが身の、寄る辺もいさや定めなき、心も澄める水の面おもに、照る月並みを数ふれば、今宵ぞ秋の最中(もなか)なる、げにや移せば塩竈の、月も都の最中かな   (後略)

(僧と潮汲みの老人との問答)=僧が老人に話しかけると、老人は、自分のことを「潮汲み」と名乗る。僧は、海辺でもない都で「潮汲み」というのはおかしいのではないかと問うと、老人は、河原院は融の大臣が昔塩竈の浦の景色を移してきた場所なので、「潮汲み」と言っておかしくないと答える。そのうちに月が出て、2人は唐の詩人賈島の詩句を思い出して感慨にふける。(前略)

シテ「河原の院こそ塩竈の浦候(ぞうろふ)よ、融の大臣おとど陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば

 〽名に流れたる河原の院の、河水かすいをも汲め池水(ちすい)をも汲め、ここ塩竈の浦人なれば、潮汲みとなど思おぼさぬぞや  (後略)

(「前場:河原院の来歴の述懐」)=僧が、老人に、塩竈の浦を都に移した由来を尋ねる。すると、老人は、融の大臣が難波から海水を都まで持ってこさせて塩竈の浦を模した池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。(前略)

〽池辺(ちへん)に淀む溜水(たまりみず)は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松蔭の、月だに住すまで秋風の、音(おと)のみ残るばかりなり、されば歌にも、君まさで、煙絶えにし塩竈の、うら淋(さみ)しくも見えわたるかなと、貫之(つらゆき)も詠ながめて候

地謡〽げにや眺むれば、月のみ満てる塩竈の、うら淋しくも荒れ果つる、後(あと)の世までも塩染(じみ)て、老いの波も返るやらん、あら昔恋しや

地謡〽恋しや恋しやと、慕へども嘆けども、かひも渚の浦千鳥、音(ね)をのみ泣くばかりなり、音をのみ泣くばかりなり 

(「名所教え」)=一転して、僧は老人に、河原院から見える名所を尋ねる。老人は、東に見える音羽山、そこから南の方へ清閑寺、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山、と名所を教えていく。(略)

(「間狂言」)            (略)

「融 (後場) 」 (「ウィキペディア」)

(「待謡」)=僧は、河原院で旅寝をする。(略)

(「融の大臣の亡霊の登場」)=融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。(前略)

シテ〽千重(ちえ)振るや、雪を廻らす雲の袖

地謡〽さすや桂の枝々に

シテ〽光を花と散らすよそほひ

地謡〽ここにも名に立つ白河の波の

シテ〽あら面白や曲水(きょくすい)の盃

地謡〽受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖

(「終曲」)=融の大臣の亡霊は、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。

シテ〽霞む夕べの遠山

地謡〽黛(まゆずみ)の色に三日月の

シテ〽影を舟にもたとへたり

地謡〽また水中の遊魚は

シテ〽釣り針と疑(うたご)ふ

地謡〽雲上(うんしょう)の飛鳥は

シテ〽弓の影とも驚く

地謡〽一輪も降(くだ)らず

シテ〽万水(ばんすい)も昇らず

地謡〽鳥は池辺の樹に宿し

シテ〽魚は月下の波に伏す

地謡〽聞くともあかじ秋の夜の

シテ〽鳥も鳴き

地謡〽鐘も聞こえて

シテ〽月もはや

地謡〽影傾きて明け方の、雲となり雨となる、この光陰に誘はれて、月の都に、入りたまふよそほひ、あら名残り惜しの面影や、名残り惜しの面影

 (「句意」)

 昨年の、十月十四日、築地本願寺で、西本願寺門主文如上人から偏諱を受け、出家した。その答礼の挨拶を兼ね、十一月四日、「京都御住居被成候」の上洛で江戸を立った。

しかし、「同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居  (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)」と、「京都御住居被成候」を放擲し、そして「得度答礼の挨拶」もそこそこに、その十二月十七日(「屠龍之技」の句の前書では「十四日」)に江戸に帰ってきた。

その、自称、当時の「号」の一つとしている、「関西蜚遯人(ひとんじん)」(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)の、その「花洛(鹹く)の細道(旅路)」は、夢幻能「融」(世阿弥)の、「源融」(実在の人物「河原左大臣」=「融の花やかな舞」=出家前の「抱一」)と、その「融の亡霊」(「荒廃した河原院跡の哀しさ」=出家後の「抱一」)とが織り成す、当時の、抱一(それまでの「酒井家の一員としての抱一」=「朱門」から、その後の「雲水・隠者としての抱一」=「白門」)との、その狭間での、当時の抱一の感慨が伝わってくる。

句意それ自体は、「隠棲している吾が身には、この千束の隅田河畔の烟る柳の姿影は、嘗て、「出家得度答礼の挨拶」を兼ねての上洛の際見聞した、夢幻能「融」の、その「河原院(塩竃あたりに烟る柳)」の、その鴨川河畔の「烟る柳」の姿影と重なってくる。」

 

(参考その一) 「源融( みなもとのとおる)弘仁一三~寛平七(822-895) 号:河原左大臣」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tohoru.html

 

嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。

元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。

 題しらず

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰たれゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(古今724)

【通釈】陸奥の「しのぶもぢ摺り」の乱れ模様のように、私の忍ぶ心は誰のせいで乱れようというのか。あなた以外に誰がいよう。ほかの誰のためにも、心を乱そうなどと思わぬ私なのに。

【語釈】◇しのぶもぢずり 陸奥国信夫郡特産の摺り染め布。「しのぶ」は忍ぶ草を用いたゆえとも言う。「もぢずり」は後世「文字摺り」と書かれたが、もとは「捩(も)ぢ摺り」、すなわち「よじれた模様の摺り染め」の意。乱れた模様なので、恋に乱れる心の象徴となる。なお「しのぶ」には「恋を忍ぶ」意が掛かると見ることもできる。◇ならなくに …ではないのに。

【補記】百人一首では普通第四句が「乱れそめにし」となっている。この場合、「そめ」は「染め」「初め」の両義を兼ねることになる。(古今集の非定家系諸本の多くも「乱れそめにし」。百人秀歌は「乱れむと思ふ」。)

 

(参考その二)「抱一の『融』関連句」周辺

 https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

 (再掲)

 4-17  名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

   https://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku402.tooru.html

  句意(その周辺)=「緑樹影沈(ん)では」、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」は、謡曲「融(とおる)」の名調子である。今宵の「名月」、その世阿弥の「融」の背景となっている「伊勢物語第八十一段」の、「塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん」などが、脳裏を去来している。

 


https://yahantei.blogspot.com/2023/04/4-674-71.html

4-70   鯛の名もとし白河の旅寝哉

  https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_27.html

  (句意「その周辺」)

  この句には、「十二月十四日江都にかへり」の前書がある。この」鯛の名もとし白河の旅寝哉」の「鯛の名もとし」の「とし」は「寿(ことぶき)」で、「江戸に帰着『祝いの席』上での『鯛の料理』の『寿(とし)』の意であろう。そして、「白河の旅寝」は、世阿弥の夢幻能「融」の、下記の「融の大臣の亡霊の舞」の「ここにも名に立つ白河」の、その旅路を回想している雰囲気である。

 http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html

 

 

(参考その三)「抱一と仏教」周辺

 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/9-3.pdf

↓

「酒井抱一筆《白蓮図》(細見美術館所蔵)に関する一試論 ―仏画と花鳥画の関係に注目して―(木下明日香稿)」

 (抜粋)

二、抱一と仏教

次に砲一と仏教との関わりについてみていきたい。抱一はどういった経緯で出家をする

ようになったのだろうか。抱一は寛政十一年(一七九七)、西本願寺の文如光暉の関東下

向に際して得度し、等覚院文詮暉真となる。出家の理由は様々に推察されるが、近年では、

井田太郎氏、玉島敏子両氏が、酒井家の跡継ぎ問題に関して、嫡流から遠ざけようとする

周囲からの圧力により、出家せざるを得なかったとする説を出している。

抱一は、出家後すぐに京都・本山へ挨拶に向かうが、西本願寺の寺務方の日記の記述から、病気を理由に西本願寺へは行かなかったことがわかっている。抱一の出家は、信仰心によるものではないと考えられる。

しかし、その後の抱一と仏教の関係は、決して希薄であったわけではない。文化十四年

(一八一七) には、抱一が身請けした遊女、春條(香川?)が剃髪して妙華尼となり、

住居を雨華庵と称するようになった。文政元年(一八一八)には、築地本願寺地中浄立寺

の次男・八十九を十二歳で養子に迎えている。この八十九は、酒井鷺蒲のことで、雨華庵

の二世となる。雨草庵の後継者は、鈴木其一のような有力な弟子や酒井家からではなく、

寺に後継者を求めており、三世の鷺一も、浄栄寺から築地善林寺に嫁した娘の子である。

市ヶ谷浄栄寺の過去帳から、雨華庵が唯信寺と称されていることがわかっている。

天保八年(一八三七)頃、酒井家家老・松下高徐が記した酒井家記録集「等覚院殿御一

代」に、朝夕には仏事も行われていたことが記述される。

また、「彿弟子抱一」、「等覚院前権大僧都文詮暉真写」などの落款を伴う仏画の制作を

行っていることから、抱一は自身が僧であることを意識していたことがうかがえる。また、

雨華庵二代目・酒井鷺蒲は、僧形の《砲一上人像》一幅(シアトル美術館所蔵)を描いて

いること、砲一に関する書物で『砲一上人真蹟鏡』、国立国会図書館所蔵『抱一上人粉本』

のように、砲一は、周囲から、「上人」つまり、僧として認識されていたと考えられる。当初、自らに反して出家せざるを得なかったが、僧としての自分を受け入れるようになっていった様が読み取れる。

 四、抱一の仏画

 《妙音天像》一幅、絹本若色、文化十一年(一八一四)

《観世音像》一幅、絹本著色、妙顕寺、文化十二年(一八一五)

《青面金剛像》一幅、絹本若色、細見美術館、文化十四年(一八一七)

《日課観音像》三十三幅のうち四幅、絹本墨画または紙本塁画、文政七年 (一八二四)

《白衣観音像》一幅、絹本著色

《灑水観音像》一幅、絹本著色、MOA美術館 

火曜日, 4月 04, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-67~4-71」

 4-67    (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜 

 

「佐屋驛渡口、『尾張名所図会』巻7海東・海西郡」(「ウィキペディア」)

≪佐屋宿(さやじゅく)は、佐屋街道の宿場である。現在の愛知県愛西市佐屋町に存在した。佐屋街道最大の宿場であり、佐屋宿から東海道桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。また、ここから津島神社の参拝道が分岐していた。(中略)

 三里の渡しは、佐屋川、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川の順に川を下って桑名宿へ向かう渡船であった。(中略)

 1604年(元禄4年)、松尾芭蕉は江戸から伊賀への帰郷の中、 佐屋の門人であった素覧亭に逗留した折『水鶏(くいな)鳴くと人のいへばや佐屋泊』の句を詠んだ。同席した俳人が芭蕉を偲び、水鶏塚がその地に現在も建立されている。≫(「ウィキペディア」)

 (句意周辺「参考句」)

水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り  芭蕉「笈日記」

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kuina.htm

 ≪元禄7年5月25日夜、芭蕉51歳。最後の帰省の折、佐屋の陰士山田氏の屋敷で露川・素覧と三吟半歌仙を巻いた折の作品。佐屋は愛知県海部郡佐屋町。旧東海道では、名古屋の熱田宮から海上七里を船で桑名に渡るのが普通であったが、もう一つ佐屋まで行って、木曽川の川舟に乗って桑名へ行くというルートもあった。芭蕉最後の旅では、このルートが選択された。 なお、『曾良宛書簡』にこの句を読んだ芭蕉最後の旅の報告記事がある。

 水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。改案後も意味に相違は無い。≫

 (句意「その周辺」)

  抱一の、この京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

 一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居       (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)

 この上記の「十二月三日京地御発駕」の後に続く一句が、京都から尾張までの句はすべて省略して、この「尾張・佐屋宿」での、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」の句ということになる。この「水鳥」は、芭蕉翁の「最後の帰省の折」の、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」の、その「水鶏」を意識しているということは、それほど飛躍した視点ではなかろう。

 (句意)

 嘗て、芭蕉翁が、その最後の旅路の「笈の紀行」の「尾張・佐屋宿」で、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」との一句を遺している。その句に唱和して、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」と、「翁も吾も、この水鳥(水鶏)」で、翁は東国から西国へと、吾は西国から東国へと、「流るゝ春や」(師走の「冬」から睦月の「春」へと)、その流れを、「橋の霜」(この師走の「佐屋宿」の「橋の上」)で、凝視している。

 (蛇足)

 芭蕉翁の、その「尾張・佐屋宿」での「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」は、「東国(仮の宿)から西国(故郷)への佐屋泊り」の一句で、抱一の、それに唱和しての「水鳥は流るゝ春や橋の霜」は、「西国(仮の宿)から東国(故郷)への」一句ということになる。 

  

4-68   (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ

歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)

≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)

 (句意「その周辺」)

 この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。

 「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/

 霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守

         それは松これは亭主

 置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

 (再掲)

 (その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

 

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双

各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

 

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双

各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

 【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ) 

没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)

 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

 (句意)

 江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。

 

4-69    (三保の明神・松原)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

 

「東海名所改正道中記 三保の松原 江尻 静岡迄二り廿七丁」木版画 / 明治 / 日本/歌川広重(三代目)/郵政博物館蔵 (「文化遺産オンライン」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/240543

 

(句意「その周辺」)

 この句には、「十日の夜小舟にとりのり清水の湊をこへ、三穂の明神を遥拝して、絶景言葉につくされず」との前書がある。

 

喜多川歌麿「三保の松原道中」(太田記念美術館蔵)・・・美人画の第一人者、歌麿が描いた錦絵。南畝の狂歌仲間のために作られた。

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo

(句意)

 十二月十日、江尻宿から小舟で清水港を後にして、三保の明神を遥拝し、かねて、狂歌・俳諧の仲間と話題にしていた「三保の松原道中」を決行した。その絶景は、「言葉では尽くされず」、これぞ、「嗚呼、三保の明神・松原や」と、「いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」と吟じたのである。

 

4-70    (江戸)鯛の名もとし白河の旅寝哉

 https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_27.html

 (句意「その周辺」)

 この句には、「十二月十四日江都にかへり」の前書がある。この」鯛の名もとし白河の旅寝哉」の「鯛の名もとし」の「とし」は「寿(ことぶき)」で、「江戸に帰着『祝いの席』上での『鯛の料理』の『寿(とし)』の意であろう。そして、「白河の旅寝」は、世阿弥の夢幻能「融」の、下記の「融の大臣の亡霊の舞」の「ここにも名に立つ白河」の、その旅路を回想している雰囲気である。

 http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%8D

≪ 融の大臣の亡霊の舞

 融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。

 シテ〽千重(ちえ)振るや、雪を廻らす雲の袖

地謡〽さすや桂の枝々に

シテ〽光を花と散らすよそほひ

地謡〽ここにも名に立つ白河の波の

シテ〽あら面白や曲水(きょくすい)の盃

地謡〽受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖


[融]舞いながら何度も振る袖、そして幾重にも降り積む雪。

――袖をさすと、さし交わす桂の枝々に

[融]月の光が花のように散らされる風情。

――ここ都にも陸奥の白河と同じ有名な白川があり、その波が

[融]ああ趣深い、曲水の宴の盃。

[融]盃を受け、遊舞の袖が月の光を受ける。    ≫ (「ウィキペディア」)

 (句意)

 十二月十四日、江戸に帰ってきた。この「出家得度答礼の花洛の細道(旅路)」は、十一月四日に江戸を立って、自称、「関西蜚遯人(ひとんじん)」(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)と自己卑下しつつ、とにもかくにも、帰国祝いの「寿(ことぶき・とし)」の「鯛(たい)」料理に舌鼓みをうちつつ、この「関西蜚遯人(ひとんじん)」の、真冬の「花洛の細道」の、「白河の旅寝」のような出来事を走馬灯のように思い起こしている。

 

4-71    (江戸) ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 

(「句意」周辺)

 この句にも、「十二月十四日江都にかへり」の前書が掛かる二句目の句ということになる。「ゆくとし」は「行く年」(師走の「暮」、「仲冬」の句)、「鶴の歩み」は、下記の「4-11 夕立や静(か)に歩行筏さし(抱一)」と「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺、さらに、「(参考) 『日の春を(百韻)』(貞享三丙寅年正月)」などを背景にしている。そして、「佐谷廻り」は、「4-67    (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜」周辺のことを背景にしているものと解したい。

 (句意)

 十二月十四日、江戸に帰ってきて、もう、師走の暮れと慌ただしい。されど、其角宗匠の「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉」の、その発句と、その「百韻」興行を思い起こしながら、「ゆくとしを鶴の歩みや」と、「ゆったり、静かに、とついつ、とついつ」、「関西蜚遯人(ひとんじん)」(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)の、その「佐谷廻り」(「出家得度答礼の花洛の細道(旅路)」)を反芻しつつ、新しい「日の春」を迎えることにしょう。

 https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-11.html

(再掲)

 4-11 夕立や静(か)に歩行筏さし (第四 椎の木かげ(4-11))

 「句意」(その周辺)

  この句は、抱一の趣向に趣向を凝らした一句である。この句にも、前書の「十鳥千句独吟」が掛かっているようなのだが、肝心の「十鳥」の「鳥」が「ヌケ(ヌキ・抜け・抜句)」(俳諧で、ある語を句の表面に出さないで、余意においてそれをとききかせる句作りの手法。また、その句)の、いわゆる「抜句」の雰囲気なのである。

 さらに、前書の「十鳥千句独吟」の「十鳥」は、この句の前の十句(「4-1」~「4-10」)で、「鶯・雉・燕・杜鵑・翡翠・雁・鵲(山雀)・木菟・鴛鴦・蒼鷹」で、これらを発句として、「十百韻」(千句)が巻かれていると解しても差し支えなかろう。

 とすると、「ヌケ」の手法が「余意を利かせる」手法とすると、これは、「正式(しょうしき・せいしき)俳諧」(「十百韻」)成就後の、その余勢の余章的な「余興(興を添える)俳諧」との範疇に入る、そのような一句(発句)のような雰囲気を有している。

 そして、ずばり、この句は、次の其角の句の、「反転化・捩り・見立て・抜け」などの一句と解したい。

 ※「日の春をさすがに鶴の歩みかな(其角)」=(「丙寅初懐紙」)季語=日の春(新年)の「鶴」を「夕立」(夏)の「鶴」の句に反転化(「反転・捩り・見立て・抜け」)しているか?

 其角の造語による「日の春」(新年)→ 抱一の「夕立」(三夏)→反転

其角の「さすがに」 → 抱一の「静かに」(捩り)

其角の「鶴」 → 抱一の「筏さし(筏士)」(見立て)

其角の「歩み」→ 抱一の「歩行」の造語的詠み(あゆむ)→捩り

  句意は、「猛烈な夕立が襲ってきた。その中を、少しも慌てず、静かに、筏士が、筏の上を歩みながら、筏を漕いでいる。それは、まるで、私淑する其角師匠の『日の春をさすがに鶴の歩みかな』のような風情である。」

 

「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺 → (下記「参考」のアドレス)

  ≪『初懐紙評注』には、「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」とある。

「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。

 日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。季語は「春」で春、天象。「鶴」は鳥類。≫

 

「佐谷廻り」周辺

4-67    (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜 (第四 椎の木かげ(4-67))

(再掲)

≪ 水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り  芭蕉「笈日記」

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kuina.htm

 元禄7年5月25日夜、芭蕉51歳。最後の帰省の折、佐屋の陰士山田氏の屋敷で露川・素覧と三吟半歌仙を巻いた折の作品。佐屋は愛知県海部郡佐屋町。旧東海道では、名古屋の熱田宮から海上七里を船で桑名に渡るのが普通であったが、もう一つ佐屋まで行って、木曽川の川舟に乗って桑名へ行くというルートもあった。芭蕉最後の旅では、このルートが選択された。なお、『曾良宛書簡』にこの句を読んだ芭蕉最後の旅の報告記事がある。

 水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。  ≫

 

(参考)

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%95%89%E9%96%80%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E9%9B%86-%E4%B8%8A/%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%98%A5%E3%82%92-%E3%81%AE%E5%B7%BB/

 「日の春を(百韻)」(貞享三丙寅年正月)

初表

日の春をさすがに鶴の歩ミ哉  其角

  砌(みぎり)に高き去年の桐の実 文鱗

 雪村が柳見にゆく棹さして   枳風

  酒の幌(トバリ)に入(いり)あひの月 コ斎

 秋の山手束(タツカ)の弓の鳥売(うら)ん芳重

  炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

里々の麦ほのかなるむら緑   仙花

  我のる駒に雨おほひせよ   李下

初裏

 朝まだき三嶋を拝む道なれば  挙白

  念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 あさましく連歌の興をさます覧 蚊足

  敵(かたき)よせ来るむら松の声 ちり

 有明の梨打烏帽子着たりける  芭蕉

  うき世の露を宴の見おさめ  筆

 にくまれし宿の木槿(むくげ)の散たびに 文鱗

  後(のち)住む女きぬたうちうち    其角

 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し  コ斎

  命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 法(のり)の土我剃リ髪を埋ミ置(おか)ん 杉風

  はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 さく日より車かぞゆる花の陰  李下

  橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

ニ表

 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

  しづかに酔(よう)て蝶をとる歌 挙白

 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 罌子咲(さき)て情(なさけ)に見ゆる宿なれや 枳風

   はわけの風よ矢箆切(ヤノキリ)に入(いる)コ斎

 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

   あられ月夜のくもる傘    文鱗

 石の戸樋(とひ)鞍馬の坊に音すみて 挙白

   われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 永禄は金(こがね)乏しく松の風  仙花

   近江の田植美濃に耻(はづ)らん 朱絃

 とく起て聞(きき)勝(カチ)にせん時鳥 芳重

   船に茶の湯の浦あはれ也   其角

二裏

 つくしまで人の娘をめしつれて  李下

   弥勒の堂におもひうちふし  枳風

 待(まつ)かひの鐘は墜(オチ)たる草の上 はせを

   友よぶ蟾(ヒキ)の物うきの声    仙花

 雨さへぞいやしかりける鄙(ひな)ぐもり コ斎

   門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白

 理不尽に物くふ武者等(ら)六七騎  芳重

   あら野の牧の御召(ヲメシ)を撰ミに 其角

 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗

   糺(ただす)の飴屋秋さむきなり 李下

 電(いなづま)の木の間を花のこころせば 挙白

   つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 人あまた年とる物をかつぎ行(ゆき)   揚水

   さかもりいさむ金山(かなやま)がはら 朱絃

三表

 此(この)国の武仙を名ある絵にかかせ  其角

   京に汲(くま)する醒井(さめかゐ)の水 コ斎

 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉

   江湖(かうこ)江湖に年よりにけり   仙花

 卯花(うのはな)の皆精(シラゲ)にもよめるかな 芳重

   竹うごかせば雀かたよる   揚水

 南むく葛屋の畑の霜消(きえ)て   不卜

   親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗

 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

   贅(ニエ)に買(かは)るる秋の心は はせを

 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃

   にくき男の鼾(いびき)すむ月  不卜

 苫(とま)の雨袂七里をぬらす覧(らん) 李下

   生駒河内の冬の川づら    揚水

三裏

 水(みづ)車米つく音はあらしにて 其角

   梅はさかりの院(ゐん)々を閉(とづ) 千春

 二月(きさらぎ)の蓬莱人もすさめずや  コ斎

   姉待(まつ)牛のおそき日の影    芳重

 胸あはぬ越の縮(チヂミ)をおりかねて  芭蕉

   おもひあらはに菅(すげ)の刈さし  枳風

 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗

   木魚きこゆる山陰(かげ)にしも   李下

 囚(メシウド)をやがて休むる朝月夜   コ斎

   萩さし出す長がつれあひ   不卜

 問(とひ)し時露と禿(かむろ)に名を付て 千春

   心なからん世は蝉のから   朱絃

 三度(みたび)ふむよし野の桜芳野山 仙化

   あるじは春か草の崩れ屋(や)  李下

名表

 傾城を忘れぬきのふけふことし  文鱗

   経よみ習ふ声のうつくし   芳重

 竹深き笋(たかうな)折に駕籠かりて 挙白

   梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎

 村雨に石の灯(ともしび)ふき消ぬ 峡水

   鮑(あはび)とる夜の沖も静に 仙化

 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき  不卜

   欅よりきて橋造る秋     李下

 信長の治(おさま)れる代や聞ゆらん 揚水

   居士(こじ)とよばるるから国の児(ちご) 文鱗

 紅(くれなゐ)に牡丹十里の香を分(わけて  千春

   雲すむ谷に出る湯をきく   峡水

 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨(すて)  其角

   笑へや三井の若法師ども   コ斎

名裏

 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して  仙化

   管弦をさます宵は泣(なか)るる   芳重

 足引の廬山(ろざん)に泊るさびしさよ  揚水

   千声(ちごゑ)となふる観音の御名(みな) 其角

 舟いくつ涼みながらの川伝い   枳風

   をなごにまじる松の白鷺   峡水

 寝筵(むしろ)の七府(ななふ)に契る花匂へ  不卜

   連衆くははる春ぞ久しき   挙白

      参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店) 

木曜日, 3月 30, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-63~4-66」

 4-63  (洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

 

「花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 / 木村明啓 編 ; 松川安信,四方義休,楳川重寛 図画」所収「巻一・縄手通/大和橋」→「大和大路三条と四条との間にあり。是、白河の流、賀茂川に入る所なり。大和大路にかくるを以て大和橋といふ。石を以て造る橋なり」→ A図

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00528/index.html

 

「都名所之内/四条橋より縄手通大和橋を望 (都名所之内)」(長谷川貞信初代画/綿屋喜兵衛版/中判横絵 紙面17・4×23・5センチ位) → B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/1304796/1/1

 (句意周辺「参考句」)

 布団着て寝たる姿や東山   (嵐雪『枕屏風』)

(『俳家奇人談(竹内玄玄一)』の中で「譬喩(ひゆ)の句難し。この什温厚和平、じつに平安の景なるかな」との評がある嵐雪の代表句)

 嵐雪にふとん着せたり雪の宿  (蕪村『蕪村句稿』) 天明二年(一七八二) 六十七歳

嵐雪にふとん着せたり夜半の雪 (蕪村『夜半叟句集』) 同上 

 東山の梺に住どころ卜したる一音法師に申遣ス

嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉   (蕪村『蕪村句集』) 安永四年(一七七五) 六十歳

 (句意周辺)

 この句の前に、「十一月十八日京着、木屋町にて」の前書がある。新暦では一月の、真冬の、まさに、「布団着て寝て見る山や東山」の光景であろう。「木屋町」は「高瀬川沿いの二条・五条間の地域」で、料理屋や旅籠、酒屋などが軒を連ねている(A図・B図)。イメージとしては、抱一一行は、「縄手通/大和橋」(B図)の旅籠で草鞋を脱いで、丁度、「四条橋より縄手通大和橋を望む」(A図)の、雪の東山を見ているような光景としてとらえたい。

 (句意)

 嵐雪師匠の「布団着て寝たる姿や東山」を、蕪村先達の「嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉」のような吾ら一行は、まさに、「嵐と雪」の後のような寒さの中で、「布団着て寝て見る山や東山」と、これに付け加える感慨の言葉はありません。

 

4-64  (洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

 

松村呉春筆「三十六歌仙」下絵図巻子(部分抜粋図)/ 天明7年(1787)呉春35歳の作品/紙本彩色/松村景文先生家蔵

https://yushukoharu.com/1597/

北村季吟「地主からは木の間の花の都かな」

服部嵐雪「蒲団着て寝たる姿や東山」

(メモ)「清水寺」は俗称で、正しくは「音羽山北観音寺」。蕪村の後継者の一人で、蕪村没後、応挙門の一人として「円山四条派」の画人として名をとどめている呉春作。下絵図であるが、賛書きの二句は、「季吟と嵐雪」の句。季吟の句は、「清水寺唯一の句碑」で、この「地主」とは、本堂の北側の「地主神社」(縁結びの神社)で、そこに、「一本の木に八重一重の花が咲く珍しい桜」があり、その傍らに、この季吟の句碑があるという(『新撰/俳枕5/近畿Ⅱ』)。

(「季語」周辺)

花の都(はなのみやこ)/ 晩春

https://kigosai.sub.jp/001/archives/16574#:~:text=%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%83%BD%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%93%EF%BC%89%20%E6%99%A9%E6%98%A5%20%E2%80%93%20%E5%AD%A3%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98

【子季語】花洛

【解説】都の栄華繁栄を褒め称える言葉で、都の華美なるをいう。東京はもちろんのこと、京都や奈良にもそうした風情がある。

【例句】

地主からは木の間の花の都かな 季吟「花千句」

傘さして駕舁く花の都かな   蓼太「発句類聚」

 

歌川広重 京都名所之内 清水 横大判錦絵 天保5年(1834)頃 山口県立萩美術館・浦上記念館

https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/collection/2017/04/

≪「京都名所之内」は四季折々の京都名所の風景を描いた10枚揃いのシリーズです。このシリーズは『都名所図会(みやこめいしょずえ)』(版本、安永9年刊)や『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』(版本、寛政11年刊)をもとに描かれていることが指摘されており、この作品も『都林泉名勝図会』のなかに類似する挿絵が見出せます。 見ごろを迎えた桜に囲まれる音羽山清水寺と、料亭からそれを眺める客たちの様子が対角線をなすようにして描かれています。≫

 句意(その周辺)

 この句の「滝」は「音羽の滝」として、「清水寺」の名所の一つとなっている。この「柳」は、その寺伝の、「行叡は延鎮に『我、観音の威神力を念じ、千手真言を唱えながら汝を長く待っていた。ここは観音の霊場であり、またこの柳は七仏出世の昔より繁茂する楊柳である。汝、この木で千手観音を刻み、堂舎を建立せよ。汝にこの庵を与え、我これより東国を済度せん』」(下記アドレス)と紹介されている「柳」(楊柳)を指しているのであろう。

https://blog.goshuin.net/1825_01_133/

 

句意

 「清水寺に参りて」(前書)、その「春を待っ」ている「音羽の滝」、そして、その寺の沿革に記されている「柳(楊柳))」等々、これらはすべて、「音羽山北観音寺」の、その「観世音菩薩」の「御手の糸(しるし)」なのだということを実感した。

 

4-65  (洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

歌川広重/「六十余州名勝図会」/「嵐山 渡月橋」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hiroshige-60yosyu/02.html

≪『 六十余州名所図会 』は、浮世絵師 一立齋廣重( 歌川広重 一世)(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作です。/1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけての広重晩年の作で、五畿七道の68か国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69作に、目録1枚を加えた全70枚からなります。/目録には「大日本六十余州名勝図会」と記されています。/ここでの原画は国立国会図書館によります。≫

 句意(その周辺)

 鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)

あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)

築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を

山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)。

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ

から錦やまとにも見ぬ鳥の跡

吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見

山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)

しぐるゝ鷲の羽影や冬の海

きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

 この「花洛の細道」のハイライトの一句ということになる。「花洛」(「花の都」=晩春の「季語」)に対応しての、「六(むつ)の花」(「雪」の異名=晩冬の「季語」)の句ということになる。

 句意

 待望久しい「山の名」も「あらし」の「嵐山」を訪れ、その「大堰川(大井川)・渡月橋・戸奈瀬の滝」は、今や「六つの花」(雪)に覆われ、これぞ、「花洛(花の都)」の「華見(「六つの花」見)」かと、その風情を満喫している。

 (参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

  江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。

歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

 

4-66  (洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

『歌川広重・京都名所之内』嶋原出口之柳 = 天保五年・1834年頃 =(国立国会図書館所蔵)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/kyotomeisyonouchi.html#group1-7

http://sakuwa.com/si20ima.html

 「さらば垣」=京都、島原遊郭の総門の前にある垣。遊女が客を送って来て別れをいう所なのでいう。※俳諧・七柏集(1781)芙蓉園興行「朝朝のともすれば憂さらば垣〈蓼太〉 袖擕錦衾香〈芙蓉〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらば」=別れの挨拶(あいさつ)に用いる語。さようなら。(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらばさらば」=中世後期では「さらばさらば」と重ねた言い方が多く見え、さらに近世中期には「さらばの鳥」のような名詞的用法が生じ、打ち解けた間柄で用いる町人言葉「おさらば」もあらわれた。近世後期になると「さようならば」から生じた「さようなら」が一般化したが、近代以降は文語的な表現として「さらば」が用いられている。(「精選版 日本国語大辞典」)

 「霜の声」=霜のおりた時のしんしんとした感じ。冬の季語。 田舎之句合「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(其角) 《広辞苑・第六版》/あるはずもない音、声が聞こえたように思えることがあります。 霜は空気中の水蒸気が凍りつき、細かな氷の粒となったもの。 氷点下まで冷やされた水蒸気が地表や地表に近い草の葉に触れて結晶化した 氷が霜の正体です。

http://koyomi8.com/doc/mlko/201212090.html

「粟食の焦て匂ふや霜の声〈晉子〉 是嘘妄也。〈略〉其短尺を何かたよりか得て、附会して伝書の証に、偽言ものにして正しからぬ事なり」〔南史‐何遠伝〕→「虚妄」=「事実でないこと。うそ。いつわり。きょぼう。」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「芭蕉の霜の句」

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」

ありがたやいたゞいて踏はしの霜  芭蕉「芭蕉句選」

霜枯に咲くは辛気の花野哉     芭蕉「続山の井」

霜を着て風を敷寝の捨子哉     芭蕉「六百番俳諧発句合」

霜をふんでちんば引まで送りけり  芭蕉「茶のさうし」

火を焚て今宵は屋根の霜消さん   芭蕉「はせを翁略伝」

薬呑むさらでも霜の枕かな     芭蕉「如行集」

さればこそあれたきまゝの霜の宿  芭蕉「笈日記」

かりて寝む案山子の袖や夜半の霜  芭蕉「其木がらし」

夜すがらや竹こほらするけさのしも 芭蕉「真蹟画賛」

 

句意(その周辺)

 旧暦の「(十一月十八日京着、木屋町にて) 布団着て寝て見る山や東山」から、「(十二月二日都を立て吾妻におもむく、鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな」と、この句は、抱一一行の「京都滞在」の最後の日の一句で、十一月末日から十二月初日の頃の句ということになろう。

 句意

 この「洛の旅路(花洛の細道)」の目的地・「京の都」の最終日、「島原」の「さらば垣」に「さらば」(「おさらば」)する時がきた。その「大門・見返り柳・さらば垣」を振り返り見ると、しんしんと霜の降りたような「霜の声」が聴こえてくる。

 蛇足

 この下五の「霜の声」に何かしら仕掛けがほどこされている雰囲気である。この後に、「(佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「(三保の松原・明神)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」とが続く。この仕掛けを詠み解くのには、上記の「芭蕉の霜の句」(殊に、芭蕉の愛弟子・杜国の流刑後の隠棲地を訪れた「さればこそあれたきまゝの霜の宿」)と「其角の霜の句」の「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(「田舎之句合」)などが参考になるのかも知れない。

 

(抱一の「花洛の細道(その六)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

「≪「軽挙館句藻」

 霜月四日、其爪・古檪・紫霓・雁々・晩器などうち連て花洛の旅におもむく ≫」

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃頭) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫ 」

  十一月十八日京着、木屋町にて

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

(洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

(洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

(洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

「≪「軽挙館句藻」

  十二月二日都を立て吾妻におもむく

(鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな

(池鯉鮒の宿) 鳴雁ももらさし宿の大根汁   ≫ 」

(佐谷川)   水鳥は流るゝ春や橋の霜 

(江尻)    置炬燵浪の関もり寝て語れ

(三保の松原・明神) いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

  十二月十四日江都にかへりて

(江戸)    鯛の名もとし白河の旅寝哉

(同)     ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

 (メモ) 京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、その間に、「西本願寺への得度答礼の挨拶」(「痔疾」を理由に抱一・本人は赴かず=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、その他「猶子となった九条家」やら「京都所司代などの関係者」などの挨拶、そして、何よりも、「京都御住居被成候」の、その京都移住などをご破算にすることなどについて、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

 一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居       (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)