木曜日, 5月 25, 2023

第五 千づかの稲(5-40~5-45)

         辛酉春興

 今や誹諧峰の如くに起り、

 麻のごとくにみだれ、

 その糸口を知らず。

5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年

    榎島参詣

5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

    悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち

5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

         会式

5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙

 

 辛酉春興

 今や誹諧峰の如くに起り、

 麻のごとくにみだれ、

 その糸口を知らず。

5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg

≪「松永貞徳(まつながていとく)

[]元亀2(1571).京都

[]承応2(1653).11.15. 京都

江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。

歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)


 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

 

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)

貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。

 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。

 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会))に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

 (補記一)「 木下長嘯子と松永貞徳」

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

 (補記二)「『東風流(あずまふり)』俳諧」・「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)・「中興俳諧(革新運動)」

 https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

 

    榎島参詣

5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

  季語は「さくら貝(桜貝)(三春)=「淡い紅色の可憐な貝。波打ち際に桜の花びらのように漂着する。古くから歌にも詠まれてきた。浜辺によく打ち上げられる貝で、大きさは二センチから三センチくらい。形は楕円に近い扇形で薄い扁平。光沢があり、その名のように桜色をしている。貝殻が美しいので貝殻細工に利用される。」(「きごさい歳時記」)

 (例歌・例句)

 吹く風に花咲く波のをるたびに桜貝寄る三島江の浦  西行『夫木和歌抄』

口あくは花の笑かはさくら貝            弘永『「毛吹草」

 「島同者」=「島=榎島・江の島」、「同者・同社=連れ立って社寺を参詣・巡拝する旅人。遍路。巡礼。道衆。」(「デジタル大辞泉」)

 

「冨嶽三十六景 相州江の嶌」葛飾北斎筆

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_35.htm

≪北斎には珍しく、誇張や演出をほどこさない自然な景観を描いている。干潮時に江の島は片瀬海岸と陸続きとなるが、ちょうど砂洲の参道が現れ始めたのか、参詣者は皆これからお参りに行くところである。土産物屋や旅籠が立ち並ぶ様子も写実的である。画面の下辺を霞で縁取ったのは、聖域を表現するための瑞雲としてであろうか。波打ち際のきらめきや波の泡の描写が秀逸である。

※江の島(神奈川県藤沢市)

相模湾の海上にある江の島は、砂嘴(さし)で対岸の片瀬村とつながる陸繋島であり、徒歩で参詣が可能であった。図中に描かれた三重塔は、江島神社上之宮の塔であり、元禄7年(1694)に創建された。≫(「山梨県立美術館」)

(例句)

 江のしま

日を拝む蜑(あま)のふるへや初嵐   服部嵐雪(「陸奥衛」)

江の島を台にも見るや国の春      馬場存義(「古来庵句集」)

江の島や傘さしかけし夏肴       建部巣兆(「寂砂子集」)

 「句意」は、「江の島」を参詣する「全ての巡礼者」よ、その一人ひとりの手に、「国の春」と「島の春」を象徴する、この「江の島」の「桜貝」を手にして欲しい。

  

   悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

  前書の「悼無同」の「無同」については不詳であるが、『屠龍之技』所収「第一 こがねのこま」に「無同剃髪しける時」との前書のある「よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな」という句が収載されている。

 そして、その『屠龍之技』の句の原典となる『軽挙館句藻』の第一句集「梶の音」に「寛政三年三月我物か剃髪を祝ひて」の前書で、この句が収載れている。

 これらからすると、「無同」という俳人は、「寛政三年(一七九一)三月」に「我物」という俳号から剃髪して「無同」と改号したように思われる。

 この前年の、寛政二年(一七九〇)七月十七日に、抱一の実兄の「忠以」が急逝(三十六歳)し、抱一の甥の「忠道」が家督を継ぐことになる。この時、抱一、三十歳、そして、この実兄の急逝により、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除」の結果、実質的に抱一は「酒井家」から放逐されて、寛政九年(一九二七)には「出家」という途を選ばざるを得なかったということになる。

 この「無同」という俳人は、おそらく、抱一の俳諧の二人の師「柳澤米翁・佐藤晩得」と関係の深い俳人で、同時に、「銀鵞」の俳号を有する亡き兄の「忠以」とも関係の深い俳人のように思われる。

    無同剃髪しける時

1-24   よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな (「寛政三年(一七九一)」・抱一・三十一歳)

    悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」・抱一・四十一歳)

  この、抱一、三十一歳時の「無同剃髪しける時」の句と、抱一・の四十一歳時の掲出の句を並列して見ると、前句の「桜ん坊」と、後句の「鼻くそ餅」の、この「談林俳諧」(宗因・西鶴流)の「古風・古調」を可とする「東風流」(春来・米翁・晩得)の、「卑俗・卑近な見立てや捩りの洒落・言語遊戯を駆使した俳諧)の趣向を凝らした用例を感知させる。

 この、凡そ追悼句に相応しくない「鼻くそ餅」は、「花供曽餅」(釈迦の入滅の日に行われる涅槃会において供物にされる鏡餅などを用いたあられ)の、「捩り」(もとの表現を変えて滑稽または寓意(ぐうい)的にしたもの)の用例である。

 

「花供曽餅」(「お釈迦様の鼻くそ」)

https://www.mbs.jp/kyoto-chishin/kyotocolumn/souvenir/83464.shtml

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

  「季語」は、「鼻くそ餅」(涅槃会に供える「花供曽」餅「仲春」)。「涅槃会(仲春)」は、「釈迦が沙羅双樹の下に入滅した日にちなむ法要。旧暦の二月十五日であるが、新暦の二月十五日あるいは三月十五日に執り行われる。各寺院では涅槃図を掲げ、釈迦の最後の説法を収めた「遺教経」を読誦する。参詣者には涅槃だんごなどがふるまわれる。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

神垣やおもひもかけず涅槃像  芭蕉「曠野」

涅槃会や皺手合する数珠の音  芭蕉「続猿蓑」

 「句意」は、古き俳諧仲間の「無同」が、「涅槃会」を前にして亡くなった。その「初七日」に、「涅槃会」のお供えの「お釈迦様の鼻くそ餅(花供曽)」を供えようとしたが、間に合わなかった。

  

5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち

  この句には「悼無同」の前書は掛からないであろう。季語は「名月」(仲秋)。「旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

名月や池をめぐりて夜もすがら   芭蕉「孤松」

名月や北国日和定めなき      芭蕉「奥の細道」

命こそ芋種よ又今日の月      芭蕉「千宜理記」

たんだすめ住めば都ぞけふの月   芭蕉「続山の井」

木をきりて本口みるやけふの月   芭蕉「江戸通り町」

蒼海の浪酒臭しけふの月      芭蕉「坂東太郎」

盃にみつの名をのむこよひ哉    芭蕉「真蹟集覧」

名月の見所問ん旅寝せん      芭蕉「荊口句帳」

三井寺の門たゝかばやけふの月   芭蕉「酉の雲」

名月はふたつ過ても瀬田の月    芭蕉「酉の雲」

名月や海にむかかへば七小町    芭蕉「初蝉」

明月や座にうつくしき顔もなし   芭蕉「初蝉」

名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁  芭蕉「初蝉」 

名月に麓の霧や田のくもり     芭蕉「続猿蓑」

明月の出るや五十一ヶ条     芭蕉「庭竈集」

名月の花かと見えて棉畠     芭蕉「続猿蓑」

名月や門に指しくる潮頭     芭蕉「三日月日記」

名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉「射水川」

「八聲(やごえ・やごゑ)の鶏(とり)」=「暁に何度も鳴く鶏。」

※六条修理大夫集(1123頃)「またじ今は八声の鳥もなきぬ也何おどろかすくひな成らん」

(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「月下尾花図」 酒井抱一筆/江戸時代/18-19c/絹本著色/H-98.9 W-40.1 (MIHO MUSEUM」蔵)

https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000654.htm

≪旧暦8月15日は仲秋の名月。この時期、台風や霧雨で空気が湿ったり、小雨の降ったあと、移動性高気圧におおわれて晴れた夜間に冷え込みがあったりして、霧が発生しやすい。「十二カ月花鳥図」のようにとりどりの秋草や虫などの小動物も描かれていないが、たらし込みの技法で描かれたススキに、夜霧に浮かぶ名月を取り合わせ、俳諧にも親しんだ抱一らしい、しっとりとした詩情に充たされた作品である。≫(MIHO MUSEUM)

 「句意」は、今日は「仲秋の名月」である。この見事な月も、暁に何度も鳴く「鶏」の「八聲(やごえ)」の、その「咽」(鶏聲=かくせい)の、その名調子の「うち()」に、退場して行く。

  

5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

 季語は、「きくの宿」の「菊」(三秋)。「キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

菊の香や奈良には古き仏達      芭蕉「杉風宛書簡」

菊の花咲くや石屋の石の間   芭蕉「翁草」

琴箱や古物店の背戸の菊    芭蕉「住吉物語」

白菊の目にたてゝ見る塵もなし   芭蕉「笈日記」

手燭して色失へる黄菊かな              蕪村「夜半叟句集」

黄菊白菊其の外の名はなくもなが  嵐雪「其袋」

 「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋众妙)は、1812年(文化9年)に成立した、囲碁家元・林家11世林元美編纂による、日本の最も代表的な詰碁の古典。「内容が妙に高遠ではなく、アマチュアにも容易に受け入れられて、しかもそんじょそこらの実戦に現れそうな形が少なくない」(前田陳爾)という、基本的な詰碁と手筋が集められているのが特徴である。 囲碁の四大古典(玄玄碁経、官子譜、囲碁発陽論)の一つに数えられている。四大古典の中では、玄玄碁経と共に取り組みやすいものとされている。そのため、初心者から学べる死活・手筋問題集として再三にわたって出版されてきた。」(「ウィキペディア」)

  この上五の「きくの宿」の「きく」は、季語の「菊」と、囲碁の「言うことをきく」「(相手の利かしや全局的な注文に対し、素直もしくは我慢して受けること))が掛けられている。

 「句意」は、家の庭に「菊」が見事に咲いている。そこの「家の主」が囲碁教本の「碁経衆妙(ごきょうしゅうみょう)」を見ている。その「主」は、囲碁の「攻め」よりも「受け」の「相手の手筋を素直に『きく』」タイプの、温厚な風情である。

 

「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋众妙)

https://haocjd.rexperrlu.xyz/index.php?main_page=product_info&products_id=64804

 

         会式

5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙

   この句の季語は、前書の「会式」が無いと「花」(晩春)であるが、この前書の「会式(えしき)=御会式=御命講(おめいこう/おめいかう)」(晩秋)で、この前書の「会式」と句中の「花」が合体して、「会式桜」(晩秋)となる。

 「会式(えしき)」=「御会式(ごえいしき)」=≪〘名〙 (「お」は接頭語。「会式(えしき)」は法会の儀式の意) 日蓮宗で日蓮の忌日(一〇月一三日)に行なう法会。御命講(おめいこう)。大御影供(おみえいく)。《季・秋》 ※雑俳・柳多留‐一六三(1838‐40)「御会式の蛇籠五色の餠を呑」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

 (例句)

御命講や油のやうな酒五升        芭蕉「小文庫」

御命講や顱(あたま)のあをき新比丘尼  許六「韻塞」  

 「会式桜(えしきざくら)」=≪〘名〙 (会式の頃に咲くところからいう) サクラ(コヒガンザクラか)の秋咲きの園芸品種。陰暦一〇月頃、狂い花の咲く一重桜。とくに、東京谷中の領玄寺のものが有名。※東都歳事記(1838)一〇月一三日「日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて、十月に花咲く。この故に会式さくらといふ」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「会式桜」(「日蓮宗谷中領玄寺」) (「精選版 日本国語大辞典」)

 

「谷中領玄寺」(「会式桜」)

https://yaokami.jp/1135602/

 「吉野紙(よしのがみ)」=≪大和(やまと)国(奈良県)の吉野地方で漉()かれる和紙の総称。この地方の紙漉きは、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が村人に教えたのに始まるとの伝説があるほど古く、奈良紙の伝統が国中(くんなか)(大和平野)からしだいに山中(さんちゅう)(吉野川上流)へ移ってきたものである。室町時代に上質の雑用紙であった奈良紙は、やわら紙として名高く、また江戸時代になってからは吉野の国栖(くず)(国樔とも書く)や丹生(にう)で漉かれた同質の薄紙が、漆漉()しの名で世に知られた。薄くてじょうぶなため、その名のとおり漆や油を漉すのに適し、また美しいために装飾品や菓子などの包み紙にも重宝された。同質の紙には紀伊国(和歌山県)の音無(おとなし)紙、美濃(みの)国(岐阜県)や土佐国(高知県)の典具帖(てんぐじょう)、羽前国(山形県)の麻布(あさぶ)紙などがあり、これらはごく薄手の代表的な楮紙(こうぞがみ)である。吉野郡ではこのほかに、宇陀(うだ)紙という厚手の楮紙や、三栖(みす)紙という薄紙など多くの種類の和紙が漉かれたが、これらを総称して吉野紙という。谷崎潤一郎の小説『吉野葛(くず)』に吉野紙の紙漉き村の描写があるように、現代も国の文化財保存技術者に指定された少数の漉き家に、伝統技術が受け継がれている。[町田誠之]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ))

 「佛力(ぶつりき)」=≪〘名〙 仏語。仏の持つ不思議な通力(つうりき)や功力(くりき)。※将門記(940頃か)「速に仏力に仰せて彼の賊難を払ひたまへ」 〔日葡辞書(1603‐04)〕≫(「精選版 日本国語大辞典」)

「句意」は、ここ「千束」の里近くの「谷中領玄寺」で、十月十三日の「御会式」の法会がある。その境内では「会式桜」が咲き、その本堂では、「吉野紙」で造られた「花万灯」が飾られるという。まだ、それらを見ていないが、これは、さぞかし、「御功力」のあることであろう。

 (補記一)「御会式」の「花万灯」

 

http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_okaishiki_zouka.html

 ≪ 日蓮大聖人は、弘安(こうあん)五年(一二八二)十月十三日辰(たつ)の刻(こく)(午前八時頃)、住み慣れた身延(みのぶ)の地を離れ、常陸国(ひたちのくに)(今の茨城県)へと湯治(とうじ)に向かう途中、武蔵国池上(むさしのくにいけがみ)(今の東京都大田(おおた)区池上)の檀越(だんおつ)(信者)・池上宗仲(いけがみむねなか)邸にて忍難弘通(にんなんぐずう)の生涯を終えられました。この時、大地が揺()れ動き庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。

  このような言い伝えから、お会式法要やお逮夜(たいや)の時、白・赤・ピンクの紙で作られた桜の花を、割竹(わりだけ)などでできた長い竿に付けた造花を、本堂の内部や万灯と呼ばれる塔型や行灯(あんどん)型などの大きな明かりの上部に、四方八方に垂らし飾り付け、大聖人のご命日を偲(しの)び、報恩(ほうおん)感謝の心をこめて行うお会式(えしき)を鮮(あざ)やかに彩(いろど)っています。

  江戸時代の風俗事物について書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には「これ(お会式)を行う者、家内の諸所に紙の造花を挟(はさ)む故に、当月(十月)上旬より、三都(江戸・京都・大阪)ともこれ(造花)を売る。長さ三尺(じやく)(約九十センチ)ばかり。江戸にてはここに藤の造り花を付けたるもあり。花は吉野紙。広がり二寸(すん)(約六センチ)ばかり。周(まわ)りの耳を淡紅にし染め、赤あるいは黄紙」と記されており、また当時の年中行事について書かれた『東都歳時記(とうとさいじき)』には、「法会(ほうえ)(お会式)の間、一宗(法華宗)の寺院は仏壇をかがや()かし、造花を挿し荘厳は目を驚かしむ」とあり、法華宗寺院のお会式の壮麗な様子を伝えています。

  また、池上の大聖人ご入滅(にゅうめつ)の地には今も「お会式桜」と呼ばれる桜の樹があり、旧暦の十月(現在の十一月頃)にはきれいな花を咲かせることで知られています。一般にお会式桜と呼ばれるのは、八重桜の一種で十月桜(じゅうがつざぐら)と呼ばれる種類だそうです。花は中輪、八重咲きで淡紅色。開花期は十月頃から咲き始め、冬の間も小さい花が断続的に咲き、翌春四月上旬にもたくさんの花を咲かせるという珍しい桜です。春の花のほうが秋の花より大きいそうです。≫(「布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より」)

 

(補記二) 「吉野花会式(よしのはなえしき/よしののはなゑしき)/ 晩春」

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/9825

 ≪【子季語】 鬼踊

【解説】 四月十一日、十二日、奈良県吉野町金峯山寺(蔵王堂)で行われる法会。蔵王権現の神木である吉野山の桜を神前に供える儀式。竹林院から大名行列や稚児行列が練り歩く。蔵王堂前では、大護摩が焚かれ、堂内では鬼踊が行われる。吉野の春の最大行事である。

【例句】

花会式かへりは国栖に宿らんか  原石鼎「花影」≫ (「きごさい歳時記」)

 

日曜日, 5月 21, 2023

第五 千づかの稲(5-34~5-39)

 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ


 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

 ≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)

 


「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html

 https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

≪「英一蝶画譜」

あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を/\。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

 

「朝妻舟」(鈴木春信作)

 

「朝妻舟」(歌川広重作)

 

「近江名所図会 朝妻舟」

https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  この句の季語は、「藤(藤なみ)(晩春)、「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

くたびれて宿借るころや藤の花     芭蕉「笈の小文」

水影やむささびわたる藤の棚  其角「皮籠摺」

蓑虫のさがりはじめつ藤の花  去来「北の山」

しなへよく畳へ置くや藤の花  太祇「太祇句選後篇」

月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村「連句会草稿」

藤の花雲の梯(かけはし)かかるなり 蕪村「落日庵句集」

しら藤や奈良は久しき宮造り  召波「春泥発句集」

藤の花長うして雨ふらんとす  正岡子規「子規全集」

 「句意」は、この古人の旧き時代に描いた「朝妻舟」の、その「藤浪」(風に吹かれて波のように揺れ動く、藤の花)の、その「藤紫」は、少しも色褪せずに、今に、その美しさを奏でている。

 (補記)

 https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/6221b2da59c4b7f54e40659163a44dbb

 英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

  この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、

ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。

 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。

 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。

 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。

 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。

 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。

 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

 この句には、「朝妻ぶねの賛」の「前書」は掛からないようである。『俳文俳句集(日本名著全集第二十七巻)所収「屠龍之技」)』では、「朝妻ぶねの賛/5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆」と、それに続く「5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)」の間には、一行が空白となっており、この句は、前句とは直接の関わりのない一句と解したい。

 この句の季語は「鵑(ほととぎす)(三夏)で、「聞()そめて・鵑(ほととぎす)(初夏)

の「初鳴きの鵑(ほととぎす)」の句ということになる。

 (例句)

いつも初音ましてはつ音の時鳥   横井也有(「 蘿葉集」)

聞かぬとし有も命ぞ蜀魂      横井也有 (「蘿葉集」)

ほととぎす宿借るころの藤の花   芭蕉

春過てなつかぬ鳥や杜鵑      蕪村(「蕪村句集」)

我汝を待こと久し時鳥       一茶(「文化句帳」)

 


「子規 /杜鵑花(ほととぎす/さつき)」葛飾北斎筆/江戸時代・19世紀/中判 錦絵(「東京国立博物館蔵」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482420

 「句意」は、初夏を告げる「子規(ほととぎす)」の一声を聞き初めた頃、その鳴き声を聞かない夜も、これまた、その「忍び音」を耳にしないということで、これまた艶な情趣を伝えてくる。

 

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

 「きりはたり」は、「きりはたりちょう」=「機(はた)を織る音を表わす語。また、ハタオリムシなどの声を表わす。きりはたり。※光悦本謡曲・松虫(1514頃)「面白や、千種にすだく虫の音も、はた織音のきりはたりちゃう、きりはたりちゃう」(「精選版 日本国語大辞典」)

 http://benijo514.blog118.fc2.com/blog-entry-14.html

≪秋の虫は和歌に詠まれ、機織り虫との古名がありました。キリギリス、あるいはスイッチョとも言われますが、その鳴き声が機織りの音に似ているからだとされています。また、秋の虫は、冬に備えて機を織り着物のほつれを綴るよう、人に注意を促すように鳴くものとして、中世では能にも謡い込まれています。

  能『錦木』(世阿弥作)より

     きりはたりちやうちやう きりはたりちやうちやう

        はたおり松虫きりぎりす つづりさせよと鳴く虫の(以下略)

 能『松虫』(作者不詳)より

     千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちやう

        つづりさせちやうきりぎりす(以下略)

 近代の詩人もまた「きり、はたり‥‥」と機音を歌っています。

   上田敏 創作詩『汽車に乗りて』より

       (前略)

     きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう

     筬(をさ)の音やゝにへだゝり、(後略)

 

   北原白秋 歌集『桐の花』より

     きりはたり はたりちやうちやう

       血の色の 棺衣(かけぎ)織るとよ 悲しき機(はた)よ  ≫

 

「能楽図絵」「松虫」/月岡耕漁筆/立命館大学

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0922

 http://www.syuneikai.net/matsumushi.htm

 ≪ 松虫(まつむし)

【分類】四番目物 (雑能)

【作者】不詳

【主人公】前シテ:市人、後シテ:男の亡霊

【あらすじ】(仕舞〔クセ〕の部分は上線部、仕舞〔キリ〕の部分は下線部です。)

摂津国(大阪府)阿部野のあたりに住み、市に出て酒を売っている男がいました。そこへ毎日のように、若い男が友達と連れ立って来て、酒宴をして帰ります。今日もその男たちがやって来たので、酒売りは、月の出るまで帰らぬように引き止めます。男たちは、酒を酌み交わし、白楽天の詩を吟じ、この市で得た友情をたたえます。その言葉の中で「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、その訳を尋ねます。すると一人の男が、次のような物語りを始めます。昔、この阿倍野の原を連れ立って歩いている二人の若者がありました。その一人が、松虫の音に魅せられて、草むらの中に分け入ったまま帰って来ません。そこで、もう一人の男が探しに行くと、先ほどの男が草の上で死んでいました。死ぬ時はいっしょにと思っていた男は、泣く泣く友の死骸を土中に埋め、今もなお、松虫の音に友を偲んでいるのだと話し、自分こそその亡霊であると明かして立ち去ります。

<中入>

 酒売りは、やって来た土地の人から、二人の男の物語を聞きます。そこで、その夜、酒売りが回向をしていると、かの亡霊が現れ、回向を感謝し、友と酒宴をして楽しんだ思い出を語ります。そして、千草にすだく虫の音に興じて舞ったりしますが、暁とともに名残を惜しみつつ姿をかくします。

【詞章】(仕舞〔クセ〕の部分と仕舞〔キリ〕の部分の抜粋です。)

〔クセ〕

一樹の蔭の宿りも.他生の緑と聞くものを。一河の流れ。汲みて知る。その心浅からめや。奥山の。深谷のしたの菊の水汲めども。汲めどもよも尽きじ。流水の杯は手まず。遮れる心なり。されば廬山のいにしえ。虎渓を去らぬ室の戸の。その戒めを破りしも。志しを浅からぬ。思の露の玉水の.渓せきを出でし道とかや。それは賢きいにしえの。世もたけ心冴えて。道ある友人のかずかず。積善の余慶家家に。あまねく広き道とかや。今は濁世の人間。ことに拙なきわれらにて。心も移ろうや。菊を湛え竹葉の。世は皆醉えりさらば.われひとり醒めもせで。万木皆もみじせり。ただ松虫のひとり音に。友を待ち詠をなして。舞い奏で遊ばん。

〔キリ〕

 面白や。千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。つずり刺せちょうきりぎりすひぐらし。いろいろの色音の中に。別きて我が忍ぶ。松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声。冥々たり。すはや難波の鐘も明方の。あさまにもなりぬべき.さらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草ぼうぼうたる朝の原の。草ぼうぼうたる朝の原。虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん。≫

  この句の季語は、「きりはたり=きりぎりす(初秋)/虫撰み=秋の虫(三秋)」で、「きりはたり=きりぎりす(初秋)」の一句であろう。

 (例句)

むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉「奥の細道」

白髪ぬく枕の下やきりぎりす   芭蕉「泊船集」

淋しさや釘にかけたるきりぎりす 芭蕉「草庵集」

朝な朝な手習ひすゝむきりぎりす 芭蕉「入日記」

猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉「蕉翁句集」

常燈や壁あたたかにきりぎりす  嵐雪「其角」

きりぎりす啼や出立の膳の下   丈草「菊の道」

きりぎりすなくや夜寒の芋俵   許六「正風彦根躰」

 「句意」は、「千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。」は、能「松虫」の、名調子であるが、吾輩のお供の「提燈持(もち)」も、今や、「きりぎりす」やら「鈴虫」やら、秋の千草にすだく「虫撰み」に夢中になっている。

  

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

  この句の季語は「星の竹/七夕」=「棚機、棚機つ女、七夕祭、星祭、星祝、星の手向け、星の秋、星今宵、星の歌」、「天の川、梶の葉、硯洗、庭の立琴、星合、牽牛、織女、鵲の橋、乞巧奠」(初秋)の一句である。

 (例句)

七夕や秋を定むる初めの夜             芭蕉 「有磯海」

七夕のあはぬこゝろや雨中天          芭蕉 「続山の井」

高水に星も旅寝や岩の上   芭蕉 「真蹟」

七夕やまづ寄合うて踊初め             惟然 「惟然坊句集」

七夕や賀茂川わたる牛車               嵐雪 「砂つばめ」

恋さまざま願ひの糸も白きより      蕪村 「夜半叟」

七夕に願ひの一つ涼しかれ             成美 「成美家集」

七夕や灯さぬ舟の見えてゆく          臼田亜浪 「亜浪句鈔」

うれしさや七夕竹の中を行く        正岡子規 「子規句集」

 

『東都歳時記』「第四巻所収『七夕(武蔵七夕))』」(早稲田大学図書館 (Waseda University Library))

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05102/ru04_05102_0004/ru04_05102_0004_p0003.jpg

 「句意」は、今日は、七月七日の「星合」の日である。江戸の、その夕焼けの空は、その「星合の竹」で埋め尽くされている。吾が兄事する「夜半翁」(「蕪村翁」)は、「恋さまざま願ひの糸も白きより」の一句を遺しているが、それに和して、「逢ふやいかに夜のにしきの星の竹」を呈したい。

  

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

 この句の前書の「東陽山」とは、下記のアドレスの、「台東区竜泉町にある正燈寺(もみぢ寺)」のようである。

https://tesshow.jp/taito/temple_ryusen_shoto.html

 ≪正燈寺(龍泉寺町七〇番地)

京都妙心寺末、東陽山と號す。本尊釋迦如来。(大正十二年九月焼失)承應三年、溝口出雲守宣直禅宗に歸依し、徳大師、顯妙院二寺の古跡地の百姓持であつたのを買受けて寺地に充て松平市正正勝に諸堂宇を建立し、大圓寶鑑國師を請じて開山とした。これ當寺の濫觴で、はじめ正燈庵と號したが、元禄元年今の寺號に改めた。寛政年中諸堂大破に及び開基家竝に總檀家合議の上取崩し、假堂を設置し、文政十年合議の上諸堂宇を再建したが、かの安政二年十月二日の大地震に皆潰滅し、同六年庫裏を再建したが、これ亦大正十二年の大震火災に焼失した。災禍を蒙ること尠からずといはねばならぬ。當寺は往時紅葉の名所であつて、高雄の苗を植ゑたので「高雄の紅葉」と呼ばれ、品川海晏寺に劣らずと稱せられたことは江戸砂子、新編江戸志、江戸名所圖會、江戸名所花暦に見えて人の知る所であるが、數箇度の變災もその因を爲したのであらう、今は全くその俤もとどめなくなつてしまつた。(「下谷區史」より)≫

この「正燈寺(紅葉寺)」は、下記のアドレスの通り、当時の俳人の「加舎白雄」や「小林一茶」も、一句吟じているようである。

 http://urawa0328.babymilk.jp/sitamati/syoutouji.html

 ≪正燈寺は京都の高雄からもみじを移植し、名所図会に「もみじ寺」として登場する程の景勝地であった。

 加舎白雄は正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正灯寺

門に入て紅葉かざゝぬ人ぞなき  『しら雄句集』

 文化元年(1804年)10月25日、小林一茶も正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正統寺にて

  散紅葉流ぬ水は翌のためか    『文化句帖』(文化元年10月) ≫

 この「正燈寺」は、下記のアドレスの通り、「近所の吉原遊郭に遊ぶ客」と深い関わりのあった所なのである。

 https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E7%87%88%E5%AF%BA

 ≪東京都台東区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は東陽山。昔は紅葉の名所で、その見物を口実にして近所の吉原遊郭に遊ぶ客が多かった。≫

 

『 江戸名所図会(えどめいしょずえ)』所収「6-17-10 /東陽山正燈寺」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/edo-meisyozue/17.html#group1-10

 「句意」は、「紅葉」の季節と相成った。その「紅葉の名所」の、ここ、「東陽山正燈寺」付近では、「このころ人もふところ手」の、思案気な「懐手(ふところて)」の「吉原通いの男衆」を目にすることだ。

  

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ

  季語は「としのくれ(年の暮れ)(仲冬・暮)。「十二月も押し詰まった年の終わりをいう。十二月の中旬頃から正月の準備を始める地方も多く、その頃から年の暮の実感が湧いてくる。現代ではクリスマスが終わったあたりからその感が強くなる。」(「きごさい歳時記)

 【例句】

年暮れぬ笠きて草履はきながら  芭蕉「野ざらし紀行」

成にけりなりにけり迄年の暮   芭蕉「江戸広小路」

わすれ草菜飯に摘まん年の暮   芭蕉「江戸蛇之鮓」 

めでたき人のかずにも入む老のくれ 芭蕉「栞集」

月雪とのさばりけらしとしの昏   芭蕉「続虚栗」

旧里や臍の緒に泣としの暮     芭蕉「笈の小文」

皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮 芭蕉「幽蘭集」

これや世の煤にそまらぬ古合子   芭蕉「勧進牒」

古法眼出どころあはれ年の暮    芭蕉「三つのかほ」

盗人に逢うたよも有年のくれ    芭蕉「有磯海」

蛤のいける甲斐あれとしの暮    芭蕉「薦獅子集」

分別の底たゝきけり年の昏(くれ) 芭蕉「翁草」

  「歳暮」((仲冬・暮)も季語。「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。」(「きごさい歳時記」)

  抱一の自撰集句集『屠龍之技』は、抱一の自筆句稿(句日記)『軽挙館句藻』に基づいており、その句稿(句集)の各句集名は「居住地」に由来があり、その各句集の句の配列は、四季別(新年・春・夏・秋・冬・歳暮)の順序になっている。

 それらかすると、この句の前書の「歳暮」は「年の暮れ」の意で、季語としての「歳暮」(お歳暮/歳暮祝ひ/歳暮の礼/歳暮返し)の意の用例ではないように思われる。

 と同時に、この句は、この前年の、次の「歳暮」(年の暮れ)の句に対応しているように思われる。

 5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた(寛政十年戌午「歳暮」)

  さらに、この句は、次の前書のある句とも対応しているように思われる。

       老驥伏櫪/志在千里

            烈士暮年/壯心不已()

5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな(寛政十一年己未「夏」)

  この句の前書は、≪「老驥伏櫪/志在千里/烈士暮年/壯心不已()」の、「老驥伏櫪/志在千里」は、「老驥(ろうき)(れき)に伏()すとも志(こころざし)千里(せんり)に在()り」で、「(「曹操碣石篇」の「老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壮心未已」による語) 駿馬は老いて厩(うまや)につながれても、なお千里を走ることを思うこと。英雄、俊傑の老いてもなお志を高くもって英気の衰えないさまのたとえ。老驥千里を思う。仮名草子・可笑記(1642)四「実に老驥櫪に伏して心ざし千里といへり、いはんやわかきこの身をや」」(「精選版 日本国語大辞典」)≫の意と解した。

 「句意」は、吉原に近い千束の里に引っ越した一昨年の「歳暮」の句は、「百両」が欲しいと、「百両と書(かひ)たり年の関手がた」の句だった。そして、不惑の年を前にした昨年には、「老驥(ろうき)(れき)に伏()すとも志(こころざし)千里(せんり)に在()り」との心意気で、「唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな」との、老馬なれど「志は千里を往かん」との一句だった。そして、不惑の年の、今年の最後の、この「歳暮」にあたっては、「どうにもこうにも、一日一文(現価の十二・三円の無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、されど、『志は千里を往かん』と老馬に鞭を打ちつつも、その心意気が一日一日と萎えていくような『年の暮れ』であることよ。」

 (蛇足)

 「老驥伏櫪/志在千里」を「関羽千里行」(『三国志演義』)に置き換えての、「この歳末に、この不惑の年の一年を振り返ってみると、一日一文(無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、一日一日が、まるで、『関羽千里行』のような、苦難の一年であったことを実感する。」というような解もあろう。 

月曜日, 5月 15, 2023

第五 千づかの稲(5-29~5-33)

                庚申春興

5-29 汐澹桶は沖のかすみや汲に行

     読抱朴子

5-30 首延て霞を呑か嶺のつる

5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月

5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 

                庚申春興

5-29 汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲に行

 前書の「庚申春興」は、「康申=寛政十二年(一八〇〇)、春興=新年句会」で、抱一、四十歳時の、新年句会での一句ということになる。

 この句の「季語」は、「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

春なれや名もなき山の薄霞   芭蕉「野ざらし紀行」

大比叡やしの字を引て一霞   芭蕉「江戸広小路」

はなを出て松へしみこむ霞かな 嵐雪「玄峰集」

橋桁や日はさしながら夕霞   北枝「卯辰集」

狂ひても霞をいでぬ野駒かな  沾徳「合歓の花道」

高麗船のよらで過行霞かな   蕪村「蕪村句集」

草霞み水に声なき日ぐれ哉   蕪村「蕪村句集」

山寺や撞そこなひの鐘霞む   蕪村「題苑集」

指南車を胡地に引去ル霞哉   蕪村「蕪村句集」

 「汐澹桶(たご)」=「汐汲桶」=「『田子桶』とも言います。昔塩を作るために海水を汲んだ桶のことで、小道具としては直径22~23センチ、高さ24センチほど、外側は銀箔でまかれ群青で浪の模様を描き、内側は水の入っているように群青色で塗ってあります。

能の松風ではこれを車に乗せ曳いてきます。踊りでは割竹に紅白の布を巻いた棒の両端に、60センチほどの紐4本で桶を下げて、これを肩に担いで使う事が多いです。」(「玉井流日本舞踊教室」)

 

月岡耕漁「能楽図絵」より「松風」(「ウィキペディア」)

≪『松風』(まつかぜ)は能楽作品の一つである。成立は室町時代。観阿弥のオリジナルを世阿弥が改修したと考えられる。須磨に流された貴公子と海人との深交を記した『撰集抄』・『源氏物語』の説話、及び『古今和歌集』の在原行平の歌を元にした秋の曲である。

 シテ:海人松風の霊、

ツレ:海人村雨(松風の妹)の霊、

ワキ:旅の僧、

アイ:里の男。正面先に松の作り物。

ワキとアイの応対により、海辺の松は松風、村雨姉妹の旧跡であると説明される。作り物の潮汲み車が置かれ、一声があり、松風と村雨の姉妹が登場する。村雨は水桶を持つ。姉妹は在原行平との恋の日々を舞い、謡い、松風は大鼓前で床几に腰掛け、村雨はその後ろに座る。

 ワキ僧はこの二人に対し、海人の家を一夜の宿とさせてくれぬかと乞う。三人の会話の内に、須磨に流された貴公子在原行平と海人の姉妹が恋を結んだ次第が語られる。美しい姉妹の容貌も恋情も身分違いの前には如何ともし難く、結局一途な恋は実ることがなかった。ここで姉妹は実は自分達がその昔の姉妹の霊であると打ち明け、平座する。

 後ジテは行平形見の烏帽子と狩衣をまとい、ツレと共に叶わなかった恋と行平を偲び舞う。やがて、「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来ん」(在原行平)の歌に始まる中ノ舞から心が激して破ノ舞となり、夜明けと共に霊は去って行く。

 『帰る波の音の、須磨の浦かけて、吹くやうしろの山颪、関路の鳥も声声に、夢も後なく夜も明けて、村雨と聞きしもけさ見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)。熊野と共に賞賛された能であり、熊野の春、松風の秋、熊野の花、松風の月と好対照をなしている。≫

酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-20

 ≪「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)≫

  この抱一の「松風村雨図」では、後ろの立ち姿の女性(村雨?)が「汐汲桶(しおくみおけ)(「汐澹桶(たご)」・「田子桶」)を肩にしている(その前の「烏帽子」を手に立膝の女性の着物の柄には「千鳥」と「松」が描かれており「松風」のように思われる。(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

「句意」は、この新年の「康申春興」に際して、正に「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)を実感する。思い起こせば、早世した、実兄の姫路藩酒井家二代当主・酒井忠以(茶号=宗雅、俳号=銀鵝)の庇護のもとに、吾が画人としてのスタートの「松風村雨図」を描いたのは、天明五年(一七八五)、二十五歳のことであった。あの「松村村雨図」は、「能・松風」の主役の「松風」に、「姉()」の茶人「宗雅(忠以)(立膝の「女性」)と「妹()」俳人「朴綾・朴龍(抱一)(立姿の「汐汲桶」を担ぐ女性)の、その「在りし日々」の姿なのである。その「在りしの日々」の、その「二人の面影」は、「汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲(くみ)に行(ゆく)」の如くに、つくづくと、「松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)の一節が耳底にこだましてくるのである。

     読抱朴子

5-30 首延て霞を呑か嶺のつる

5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月

5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 この「前書」の「抱朴子」は、孔子・孟子の「孔孟思想」(「儒家思想」)に続く、「老荘思想」(「諸子百家」の「道家思想」)に深い関係のある「神仙思想」を著わした「抱朴子」(晋の葛洪の著書。内篇20篇、外篇50篇が伝わる)の、その「道家思想」のバイブルのようなものなのであろう。

ここでは、その「抱朴子」に深く立ち入らず、前句の「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)に続く、その一つの「抱朴子を読む」ということで、その鑑賞を深めていきたい。

     読抱朴子

5-30 首延て霞を呑か嶺のつる

  季語は「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

 「つる()」も季語(三春)だが、ここは、『抱朴子』の、次の一節を踏まえての「千歳の鶴」の用例で、季語としての「鶴」(三冬)の用例ではない。

http://www2.otani.ac.jp/~gikan/4_1situ2_4.html

 「千歳之鶴、随時而鳴、能登於木。其未千載者、終不集於樹上也。」(『抱朴子』内篇 對俗巻第三)

(千歳の鶴、時に随いて鳴き、能く木に登る。其の未だ千載ならざる者は、終いに樹上に集わず。)

 

「州浜に松、鶴亀図」(酒井抱一筆/三幅/個人蔵

≪抱一は、寛政九年(一七九七)末、浅草寺北の千束村に転居し役七年住んだ。新出の本図中幅には「千束陰居士庭柏子」と款しており、この間の作である。「冥々居」と「抱一」円印を両方捺すが、抱一の号を用いるのもこの転居の頃からである。吉祥性の高い蓬莱の定まった図様の中にも、松籟など着実に琳派風を習得してきたのを見ることができる。≫

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「38 作品解説」の「図版解説」(松尾和子稿))」)

 「句意」は、「抱朴子」を拾い読みしていると、「仙人学んで至るべし」などの「仙人」や、「長寿」の象徴である「松・鶴・亀」などに関しての記述が見られる。この「嶺の鶴」は、その「抱朴子」のいう「千歳の鶴」で、おそらく、その長い首を伸ばして、「不老不死の仙人」が食べている、この霊気新たなる「霞」を食べて長寿を保っているのであろう。 


5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月

  この句にも、前書の「読抱朴子」が掛かるのかも知れないが、この句は「狂言」の「仁王」に由来があるように思われる。

 季語は「おぼろ月」(三春)=「春の夜の朧な月をいう。澄んだ秋の月に対し、春の月は水蒸気のベールがかかったように見える。暈のかかることもある。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

藥盜む女やは有(あり)おぼろ月  蕪村「蕪村句集」

 ≪「薬盗む女」=嫦娥=不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ蟾蜍(ヒキガエル)になった仙女=『嫦娥奔月』(じょうがほんげつ)の「本説(伝説)取り」の句とされている。≫(『蕪村全集一・講談社』所収「858頭注」など)

 

「能楽図絵」「狂言 仁王」(「立命館大学」蔵)

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0992

 ≪「仁王」=狂言の曲名。雑狂言。賭()け事に負け無一文になった博打(ばくち)打ち(シテ)が、国元を出奔する前に知り合いのところに寄ると、事情を聞いた知人は、博打打ちを仁王に仕立て参詣(さんけい)人から供え物をとる知恵を授ける。そして仁王の扮装(ふんそう)をさせ上野に立たせると、知人は大ぜいの参詣人を連れてき、まず「さくら」になって刀を供えて願い事をする。それにつられた参詣人たちは着物や金銭などを次々に供え、願をかけて帰っていく。上々の首尾に調子にのった博打打ちが、もうひと稼ぎと待ち受けているところに、足の悪い男が登場して、仁王の御利益(ごりやく)にすがって治そうと、仁王の身体をなで回すうち、仁王が動くので偽者と気づき、追い込む。博打打ちが目をむき口をかっと開いた「仁王立ち」の姿や、参詣人たちの当意即妙の願い事などが理屈抜きに楽しい作品。[油谷光雄]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「句意」は、「嫦娥奔月」(じょうがほんげつ)の、「暈(かさ)=光の輪=光背」のかかった「朧(おぼろ)月」が中天に輝いている。そこには、「抱朴子」の「仙人」ならず、「仙女・嫦娥」(『淮南子(えなんじ/わいなんし)』)が隠れ住んでいるという。その「暈(かさ)=光の輪=光背」を背負った「狂言」の「仁王」(「博打打ちが、供物詐欺を企んで「仁王」に化ける)の、その『阿吽(あうん)の仁王」の、『吽(有無の「無」)の仁王』 ではなく、『阿(有無の「有」の仁王))の仁王』の、その「筆(遣い)(図柄=口をかっと開いた「仁王立ち」の姿)であることよ。

  

5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子

  前書の「「読抱朴子」の一群の作品として、この「抱朴子」の「長寿の松」、それらが、宋の時代の「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」の「松竹梅」(「清廉潔白・節操」の象徴)となり、その系譜から日本では「松竹梅」(「目出度い・吉祥もの」の象徴)として、慶事には必須のものとなってくる。

 

「松竹梅図屏風」立林何帠(げい)/江戸時代・18世紀/紙本金地着色/133.9×149.1/21/東京国立博物館蔵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558890

≪マッシュルームのような形の松葉の表現が特徴的です。梅と松が重なるように描くのは、おそらく意図的にそうしたと思われ、なんらかの手本によっているのでしょう。何帠は、尾形乾山(おがたけんざん)の江戸における弟子で、光琳の画風を継承した画家です。≫(「文化遺産オンライン」)

 この句の季語は「梅」(初春)=「梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。」(「きごさい歳時記」)

「松」=「色変へ()ぬ松」(晩秋)、「松飾る」(/仲冬)、「松の内」(新年)、「初松風」(新年)などで、この句の「松」は、「梅」の咲く頃の、初春の「松」だが、「抱朴子」の「松」と解すると、仙人の住む「蓬莱山・蓬莱」(新年)の「松」のイメージである。

「金砂子」=「金箔(きんぱく)を細かい粉にしたもの。蒔絵(まきえ)、襖(ふすま)、絵画などにおしたり、散らして用いる。金粉。」(「精選版 日本国語大辞典」)

 (例句)

年立(としたつ)や日の出を前の舟の松      (年立・新年) 一茶(「文化句帳」)

松竹(まつたけ)の行合(ゆきあい)の間より初日哉 (初日・新年) 一茶(「寛政句帖」)

蓬莱(ほうらい)や只三文の御代の松       (蓬莱・新年) 一茶(「七番日記」)

犬の子やかくれんぼする門()松        (門松・新年) 一茶(「七番日記」)

正月やよ所()に咲ても梅の花         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)

長閑しや梅はなく()もお正月         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)

正月や村の小すみの梅の花           (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)

 「句意」は、慶事の日の床の間に「蓬莱山の長寿の松」の絵図が掛けられている。庭には、慶事の日に相応しい、新春の「梅の花」が、「昏れ行く、金砂子を散らしたような夕映え」の中に咲いている。

 (蛇足)

 一茶の例句のように、正月に咲く「早咲きの梅の花」として、この「昏行く梅や」を捉えることも、さらに、抱一と同時代の、同じ「光琳・乾山」の流れの「琳派」の画人・「立林何帠」の「松竹梅図屏風」に似せての、「松梅図」の一句としての「句意」もあろう。その「句意」は、正月の「蓬莱の松」に、「金砂子」を撒き散らして、光琳の描く「早咲きの紅白の梅の花」を、豪奢に仕立てたいと念じている。

  

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 


「竹返し」(「デジタル大辞泉」)

≪ 伝承的な子供の遊びの一。長さ15センチ、幅2センチほどの竹べら数本を上に投げて手の甲で受け、そのまま滑り落として全部を表か裏かにそろえることを競う。竹なんご、六歌仙などともいう。≫(「デジタル大辞泉」)

 5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子 

 「松竹梅」の、「松と梅」の句である。 

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

  前句(5-32)の「松と梅」の句に続きの、「松竹梅」の「竹」だけの一句である。この句の「下五」の「竹かへし」は、「竹片を用いる日本の子供の遊戯」の「竹返し」の一句のようである。

 http://ohanashi-donguri.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-a954.html

 ≪ 「竹かえしのうた」

1)ひと投げ ふた投げ みー投げ よ投げ   →「投げ」

  いつやの むーすこさん

  なーんで やっこらせ ここのー とんで

  大阪見物 みーつがよ

2)ひと立で ふた立で みー立で よ立で   →「立で」

  いつやの むーすこさん

  なーんで やっこらせ ここのー とんで

  大阪見物 みーつがよ

3)ひとねじ ふたねじ みーねじ よねじ   →「捩じ」

  いつやの むーすこさん 

  なーんで やっこらせ ここのー とんで

  大阪見物 みーつがよ

4)ひとわけ ふたわけ みーわけ よわけ   →「分け」

  いつやの むーすこさん

  なーんで やっこらせ ここのー とんで

  大阪見物 みーつがよ

5)ひときり ふたきり みーきり よきり   →「切り」

  いつやの むーすこさん

  なーんで やっこらせ ここのー とんで

  大阪見物 みーつがよ                ≫

  この句の季語は、「はるさめ(春雨)(三春)=「春に降る雨の中でも、こまやかに降りつづく雨をいう。一雨ごとに木の芽、花の芽がふくらみ生き物達が活発に動き出す。「三冊子」では旧暦の正月から二月の初めに降るのを春の雨。それ以降は春雨と区別している。」(「ぎごさい歳時記」)

 (例句)

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど          蕪村 「蕪村句集」

物種の袋ぬらしつ春のあめ             蕪村 「蕪村句集」

春雨の中を流るゝ大河かな             蕪村 「蕪村遺稿」

春雨や人住ミて煙壁を洩る             蕪村 「蕪村句集」

春雨や身にふる頭巾着たりけり      蕪村 「蕪村句集」

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど          蕪村 「蕪村句集」

滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨             蕪村 「蕪村句集」

春雨やもの書ぬ身のあハれなる      蕪村 「蕪村句集」

はるさめや暮なんとしてけふも有   蕪村 「蕪村句集」

春雨やものがたりゆく簑と傘          蕪村 「蕪村句集」

柴漬の沈みもやらで春の雨             蕪村 「蕪村句集」

春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」

はるさめや綱が袂に小ぢようちん   蕪村 「蕪村句集」

春雨の中におぼろの清水哉             蕪村 「蕪村句集」

 

「竹返し殿(おしのび殿さんぽ)(「福島県立博物館」)

https://twitter.com/fukushimamuseum/status/1258917098350313472

 春雨や身にふる頭巾着たりけり      蕪村 「蕪村句集」

≪春雨が艶の情趣を醸し出している。ふと気がつけば、老いたわが身は冬の古頭巾をかぶって、まだ外界と不調和の冬の姿の身のままであることよ。 ≫(『蕪村全集一・講談社』所収「432頭注」など)

 

「句意」は、「春雨」が艶な情趣を醸し出している。ここ千束の近くの吉原の茶屋で、子供の遊びの「竹返し」を、その「竹返しの童唄」を唱じながら、ひと時を童心に帰っている。今や、その「竹返し」の、「投げ」の、数枚の「筏」のような「竹べら」を、手の甲の乗せて、それを上に投げ、手で掴むという場面である。何とも、出家後の「京都移住」を放棄して、「関西蜚遯人」と自嘲しつつ、今や、「抱朴子」の「仙人」の境地とは雲泥の、「千束の隠士・抱一堂屠龍」の、何とも、形容し難い姿であることよ。

 

(蛇足)

 「抱一」の号の初見は、寛政十年(一七九八)、『軽挙館句藻』所収「千づかの稲」の内表紙(序章扉)に、「抱一堂稿」と記し、同年の秋に書かれた『哲阿弥句藻』の「跋」の署名に「千束の隠士 抱一堂屠龍」と記したことに由っており、その記載から、当初のそれは「堂号・庵号」だったことが分かる。

 そして、その出典は、「営魄(えいはく)に載()りて一(いつ)を抱(いだ)き、能()く離るること無からんか」(『老子』十章)、「是(これ)を以て聖人は、一(いち)を抱()いて天下の式(しき)と為()る」(同二十二章)、老子の言としてみえる「衛生(えいせい)の経(けい)は、能()く一(いち)を抱(いだ)かんか」(『荘子』「康桑楚篇」)のいずれかであると、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では記述している(同書p93)

 それらに、『屠龍之技』所収「第五 千づかいね」の「読抱朴子」の前書を有する「5-30 首延て霞を呑か嶺のつる/5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月/5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子/5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし」の四句なども、その号の由来と何らかの関わりがあるように思われる。