月曜日, 5月 29, 2017

呉春筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」


呉春(月渓)筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」




















                                                                            
雨森章迪賛 紙本墨書一枚 二五・六×三七・三

署名「盟弟雨森章迪慟泣拝書」 印章「章」「迪」(白文連印) 





























                                                                                      

呉春筆 紙本墨画淡彩 一幅 二五・七×一四・三

署名「辛酉十二月廿五日 呉春拝写」 印章「呉」「春」(白文連印)  



 平成二十年(二〇〇八)三月十五日から六月八日(日)にかけてMIHO MUSEUMで開催された春季特別展「与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)」に出品されたものである。

 その図録の「作品解説」(岡田秀之)は次のとおりである。



[ 呉春(松村月渓)が宗匠頭巾をかぶる蕪村の右側からみた姿を描いた作品。落款から没後十八年の享和元年(一八〇一)に、蕪村の命日十二月二十五日に描かれたことがわかる。この図の上部には本来雨森章迪の賛があり、蕪村追善集『から檜葉』天明四年(一七八四)に載る追悼文とほぼ同じで、現在は、絵と賛が別になっている。この作品の外箱には、鉄斎の筆で「謝蕪村翁肖像 呉月渓/雨森章迪画賛 鉄斎外史題」とあり、鉄斎はこの図をもとに蕪村の肖像画を数点描いている。

賛 ()  ]

(『与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169))



 上記の「作品解説(169)」に掲載されている「賛」(漢文)を、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)のもので、読みと簡単な注を付し(括弧書き)掲載して置きたい。



(雨森章迪「賛」)



[ 哭(「画賛」では「奉哭」)

謝蕪村先生(画賛」では「蕪村謝先生」)

先生ノ文(俳諧)()ノ伎ニ於ケル、只独リ描事ニコレ力(つと)メ、晩ニシテ事業愈(いよいよ)長ズ。

刻画(細かく輪郭づけて描く北宗画)似不似ノ論ニ唾シ、終(つひ)ニ模写倣傚(ほうこう=真似)、牽率(一派を率いる)シテ成ル者トハ大イニ異ル。

而シテ自ラ謝氏一家ノ墨()ト称シ、倣然(ごうぜん)トシテ世ト乖張(かいちょう=反旗を張る)ス。

(さなが)ラ婆蘿林(釈迦の入滅した娑羅の林)中ノ最後ノ説法ノ如シ。

六師(六師外道=異端の徒)幺魔(幼魔=心無い輩)、聴ク者益(ますます)(おそ)ル。

今年﨟月(臘月=陰暦十二月)(一瞬=急に)五病ニ罹(かか)リテ卒(しゅつ=死)ス。

嗚呼(ああ)天斯()ノ人ニ殃(わざわい=神の咎め)シ、斯の道に殃ス。

(てき=雨森章迪)ヤ三十年ノ旧盟(旧い同志)ニシテ、楚惜(耐え難い惜別)の念、噬臍(ぜいせい=臍を噛む)尽キズ。

哭詩二章ヲ(てん=供え祀る)シ、聊(いささ)カ悲痛牢騒(ろうそう=牢固たる騒ぎ)ノ万一ヲ

()ブルト云ウ。



江山一墨生痕ヲ溌シ、画禅ニ晤入(ごにゅう)シテ独尊ト称ス。

元是レ天然ノ大才子、周行七歩謝蕪村。



(たちま)チ三冬臥病ノ身ト作()リ、硯墨(けんぼく)ニ親マズ薬ニ惟()レ親ム。

没却(もっきゃく)ス江山筆々ノ春



                          盟弟 雨森章迪拝書  ] 



 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日、六十八歳で没したが、その没後七々日(四十九日)を限りとして、諸家から寄せられた句文・詞章を集めた追善集『から檜葉(上下)』が、その翌年の一月、後に、夜半亭蕪村の後を継ぎ、夜半亭三世となる高井几董によって編まれた。書名は、蕪村の死の翌日に夜半亭で興行した一順追善俳諧の発句「から檜葉の西に折るゝや霜の声(几董)」から取られている。

 上巻には、主として夜半亭・春夜社(几董の社)中の悼句を収め、その跋文は、蕪村が葬られる金福寺の、その金福寺に蕪村が在世中に再興した芭蕉庵の、その再興の要となった樋口道立(漢詩人・江村北海の次男、川越藩京都留守居役の要職にあった儒者にして俳人)が起草している。

 下巻には、暁台の悼句を立句とする几董以下一門の歌仙、さらに杜口・蝶夢・闌更・旧国(大江丸)・無腸(上田秋成)・蓼太らの句文を収め、その跋文は、蕪村が葬られた後に、金福寺境内に蕪村句碑を建立した、蕪村門最大の後援者であった糸物問屋「堺屋」の惣領にして俳人の寺村百池である。蕪村百回忌には、その孫の百遷によって「蕪村翁碑」が、その境内に建立されている。

 この百地の跋文に続いて、上記の、雨森章迪の「哭文・哭詩」が、すなわち、蕪村追悼集『から檜葉』の「上・下」巻の総まとめのスタイルで起草されているのである。

 そして、その「哭文・哭詩」のまえに、その「序文」のようなものが認められている。その章迪の序文(漢文)は次のとおりである。

 上記の「賛」(「哭文・哭詩」)と同じく、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)に因り、その漢文書下し文のものを掲載して置きたい。



(雨森章迪「哭文・哭詩」の「序文」)



[ 夜半謝先生没スルヤ、門生高几董諸子ノ哭歌(こくか)ヲ鳩(あつ)メ、檜葉集ヲ撰ス。句々咸(みな)先生誹諧ノ奇ヲ以テ称嗟ス。呉月渓・梅嵒(ばいがん)亭余ニ謂ヒテ曰ク、先生描画ニ鳴リ、誹諧ニ波余ス。而(しか)モ一言ノ画ニ及ブ橆()シ。遺恨是レ之ヲ何如ト謂ハン。僕等()画業ヲ先生ニ授カリシ者、世ノ識ル所ナリ。今ヤ筆ヲ立テ以テ其ノ妙ヲ言ハント欲スルモ、悲涙洋々トシテ、紙上海ノ如シ。幸イナルカナ君ノ哭詩、都(すべ)テ絵事ニ渉(わた)ル。冀(こいねが)ハクハ之ヲ巻末ニ置キ、僕等ノ筆に代ヘンコトヲ。余謝スルニ疣贅(ゆうぜい)ヲ以テス。可()カズ。併(あわ)セテ同社ノ二三子懇求シ、竟(つい)ニ写シテ呉・嵒二生(にせい)ニ与フルノミ。   ]



 この「序文」に出て来る「呉月渓」は、「呉春」(松村月渓)その人であり、「梅嵒(ばいがん)亭」は、呉春と共に、画業における蕪村門の二大双璧の「紀楳亭(きのばいてい)(俳号・梅亭)である。

 呉春は、蕪村没後、蕪村と交流のあった円山応挙に迎えられ、後に「四条派」を形成し、応挙と共に、「円山・四条派」は、近・現代の京都日本画壇の主流を占めるに至る。また、

楳亭は、天明の大火で近江(大津)に移住し、後に、「近江の蕪村」と称せられるに至る。

 呉春も楳亭も、与謝蕪村門の画人として、当時の京都画壇の一角を占めていたが、同時に、俳人としても、蕪村の夜半亭社中の一角を占めている。そして、何よりも、この両者は、蕪村の臨終の最期を看取ったことが、『から檜葉』()に、次の前書きのある句で物語っている。



  師翁、白梅の一章を吟じ終て両眼を閉(とじ)、今ぞ世を辞す

  べき時也。夜はまだ寒きや、とあるに、万行の涙を払ふて

(あけ)六ツと吼(ほえ)て氷るや鐘の声            月渓

夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり                梅亭



 これに続いて、「奉哭」と題して、夜半亭一門の句が収載されている。この登載の順序は、恐らく、年齢や俳歴などに因っての、序列などを意味していると解せられる。



雪はいさ師走の葉(はて)のねはん哉              田福

(おれ)て悲し請(こふ)(みよ)けさの霜ばしら         鉄僧

師は去りぬ白雲寒きにしの空                 自笑

かなしさや猶(なお)()ぬ雪の筆の跡             維駒

雪にふして栢(かや)の根ぬらす涙かな             百池

(以下略)



  田福は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、一門の最長老格なのであろう。京都五条町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。百池の寺村家とは姻戚関係にあり、宝暦末年までは貞門系の練石門に属し、練石没後蕪村門に投じている。三菓社句会には、明和五年(一七六八)七月より、その名が見える。

 鉄僧は、詳細不明だが、雨森章迪の俳号との説がある(『人物叢書 与謝蕪村《田中善信著》』・「国文白百合27号」所収「蕪村と鉄僧《田中善信稿》」)。それによると、「章迪は医を業としたが、書にも巧みで、京都の金福寺に現存する蕪村の墓碑の文字を書いた人物として知られている。後に蕪村のパトロンとなる百池は彼に書を学んだという。章迪は天明二年の『平安人物史』に毛惟亮の名で医者として登載されている(但し、『平安人物史』には医者の項目はなく、「学者」の部に登載されている)。住所は、「白川橋三条下ル町」である。

 章迪は、天明六年(一七八六)に、享年五十五で没しており、逆算して、享保十六年(一七三一)の頃の生まれとすると、田福に次ぐ、蕪村門の長老ということになる。蕪村門の俳歴からすると、鉄僧が章迪の俳号とすると、明和三年(一七六六)の第一回参加者句会から参加しており、次に出てくる「自笑」と共に最古参ということになる。

 とすると、この鉄僧こと雨森章迪が、この蕪村追悼集『から檜葉』の巻末の「哭文・哭詩」を草することと併せ、金福寺の蕪村墓碑の揮毫をする、その理由が明らかとなって来る。即ち、当時の蕪村の最大の支援者であり理解者であったのが、鉄僧こと雨森章迪ということになる。

 次の自笑(初号は百墨)は京都の人で、浮世草子の出版で有名な八文字屋の三代目である。三菓社句会の初回から加わり、蕪村門での俳歴は長い。後に、寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住している。

 続く、維駒は、蕪村門の最高弟であった黒柳召波の遺児で、安永六年(一七七七)に父の遺句を集めて『春泥句集』、蕪村が没する天明十三年(一七八三)、父の十三回忌に追善集『五車反古』を刊行し、この二書は同門中における維駒の名を重からしめた。この『五車反古』の「序」に、「病(びょう)夜半題(題ス)」と署名し、この『五車反句』の「序」が、蕪村の絶筆となった。

 次の百池は、姓は寺村、名は雅晁、通称は堺屋三右衛門、のち助右衛門と改めた。別号に大来堂など。祖父の代に京に上り、繡匠をもって業とした。河原四条に居を定め、大いに家業を興し、巨万の富を積んだ。父三貫が、蕪村の師の早野巴人門で、三貫自身、蕪村門に投じている。百池は、明和七年(一七七〇)の頃に蕪村門に初号の百稚の名で入門している。蕪村の有力な経済的支援者であると共に、穏健静雅な句風によって同門中に重きをなしている。また、百池没後の多くの遺構類は、「寺村家伝来与謝蕪村関係資料」として、今に遺されている。



 さて、冒頭の「呉春筆・雨森章迪賛の『蕪村画像』」に戻って、呉春が、この「蕪村画像」を描いたのは、蕪村没後十八年の享和元年(一八〇一)で、この時には、賛を書いた雨森章迪(鉄僧)は、天明六年(一七八六)に没している。

 従って、この賛は、呉春が、章迪(鉄僧)の遺構類のものをもって、この「蕪村画像」の上に合作して一幅としたものなのであろう(『与謝蕪村―翔()けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」では「現在は、絵と賛が別になっている」との記述があるが、その一幅となっていた前の形態は、「絵と賛が別々」であったのであろう)。

 最後に、雨森章迪の筆による、蕪村墓碑」(金福寺)を掲載して置きたい。



(補記)



 2015318日(水)~510日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その折出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)は、旧蔵者の「雨森白水」との関連で、最初に、これらを企画し、蒐集したのは、蕪村、そして、呉春と親交の深い、鉄僧こと、雨森章迪ということも、十分に有り得ることであろう。

 なお、『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」に、「処士雨森章迪誌銘」(皆川淇園に因る墓誌銘)が紹介されており、その中に、「無子(子無シ)」とあり、章迪は継嗣を失っており、その継嗣を失った時の賛(「般若心経」)が月渓(呉春)の「羅漢図」にあるようである。また、章迪の「号は多数」で、その中に、寺村百池の別号の「大来堂」もあり、章迪の別号の「大来堂」を百池が譲り受けたのかも知れない。とすると、第一回の「三菓社」句会は、鉄僧(章迪)の「大来堂」で行われたということなのかも知れない(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「鉄僧の居宅大来堂で行われた」としている)。




















(雨森章迪筆 「与謝蕪村墓碑」)






土曜日, 5月 20, 2017

 『平安人物史』上の蕪村と若冲


  『平安人物史』上の蕪村と若冲(「補記」を含む)



 蕪村が明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』に載ったのは、宝暦七年(一七五七)三年間に及ぶ丹後・宮津逗留に終止符を打って、それ以前に寓居していた京都に再帰して十年余りが過ぎた、五十三歳の時であった。

 この宝暦七年(一七五七)から明和五年(一七六八)にかけての蕪村の歩みを振り返ると、讃岐逗留(明和三年=一七六六~明和五年=一七六八)を含む「三菓社時代(宝暦九年=一七五九~明和七年=一七七〇)」ということになろう。

 「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(一七七六)頃までの長期にわたり断続的に用いられている。その前身は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られる、その種の「三果樹」などに由来があるのであろう。

 「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろう。その第一回目の句会は、明和三年(一七六六)六月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の八人である。



(補記)
「鉄僧」を「雨森章迪」の俳号としているのは、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』に因っている。同書の「三菓社句会」の章で、『夏より 三菓社句集』(百池の後裔の寺村家伝来)に基づき当時の三菓社句会の様子の記述が成されている。そこで、「第一回の句会が六月二日鉄僧の居宅大来堂で行われた」と、「大来堂」を鉄僧の居宅としているのだが、後に、「百雉」の名で、この句会のメンバーになる「寺村百池」の別号が「大来堂」で、この「大来堂」は、寺村家と解したい。百池の父「三貫」が、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)門で、「河原町四条に居を定め、繡匠をもって、大いに家業を興し」(「国文学 解釈と鑑賞《19783》」所収「蕪村とその弟子たち《丸山一彦稿》」、その「三貫」の関係で「寺村家」で開催されたものと解したい。

 なお、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展で出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合)の旧蔵者の「雨森白水」は、「雨森章迪」(医者・書家・漢詩人、別号に白山・白隠斎など)と深い関係にある者と解したい。



 この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦九年(一七五九)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦九年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」と、その署名は「東成趙居」である。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れない。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろう。

 この「趙居」は、宝暦七年(一七五七)に丹後宮津を去って京都に再帰してからの蕪村の画号で、宝暦十年(一七六〇)の「謝長庚」が登場して、以後見られなくなる(但し、「趙」という一字の印章は晩年まで用いられている)。

 大雑把な「三果社時代」の画業の中心をなすのは、宝暦十三年(一七六三)から明和三年(一七六〇)にかけての「屏風講(蕪村の屏風など大作を購入する同好会)時代」で、そのメンバーは、三果社のメンバーが基礎になっていたのであろう。

 この屏風講時代に創作された絖本(こうほん・ぬめ張り)・絹本の屏風絵は次の通りである。



○山水図屏風(絖本、出光美術館蔵) 宝暦十三年四月碧雲洞での作。(落款)謝長庚。東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚・春星氏・謝長庚印・春星・東成。

○野馬図屏風(絖本、京都国立博物館蔵) 宝暦十三年八月三果軒および碧雲洞での作。(落款)東成謝春星・東成謝長庚。(印章)春星・謝長庚印。

○山水図屏風(絖本、文化庁蔵) 明和元年夏三果亭での作。(落款)謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・溌墨生痕・三果居士。

○山水図屏風(絖本、個人蔵) 明和九年・十月三果亭での作。(落款)東成謝長庚・謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・謝長庚・謝春星。

○柳塘晩霽図屏風(絖本、フリーア美術館蔵) 明和元年十一月三果亭での作。(落款)謝

長庚・東成謝春星。(印章)謝長庚・謝春星・謝長庚印・春星・溌墨生痕。「柳塘晩霽図 陳霞狂筆ニ擬ス」と記す。

○青楼清遊図屏風(絹本、個人蔵) 明和二年六月作。(落款)春星。

○蘭亭曲水図屏風(絖本、東京国立博物館蔵) 明和二年作。(落款)謝長庚・溌墨生痕・山水自清言。

○草廬三顧・蕭何追韓信図屏風(絖本、野村文華財団蔵) 製作年次不明。(落款)謝長庚。(印章)謝春星・謝長庚。

○龍山勝会・春夜桃李園図屏風(絖本、MOA美術館蔵) 製作年次不明。三果堂での作。(落款)謝長庚、東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚印・謝長庚・謝春星。


(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著・吉川弘文館)』)



 そもそも、宝暦七年(一七五七)、蕪村が四十二歳の時に、丹後宮津から京に再帰する以前の前半生というのは、大阪・江戸・北関東・東北・京都・丹後各地を、一所不在の放浪の日々で、それは同時に、画(画人)・俳(俳人)の二道を極めんとしての修業・修練の日々でもあった。

 そして、その前半生の放浪・修練の日々は、「釈蕪村」と僧籍にある「釈」氏を名乗り、浄土宗の遊行僧として雲水行脚の日々であったとしても差し支えなかろう。

 その放浪の雲水行脚の日々に終止符を打って、還俗して俗姓の「与謝」氏を名乗り、結婚して京都での定住の生活に入ったのは、宝暦十年(一七六〇)の四十五歳の頃で、この時期を境にして、蕪村の絵の落款は「謝長庚」「謝春星」と「謝」氏となり、この「謝」は「与謝」という姓の中国風に一字のものにしたものと解して差し支えなかろう。

 上記の、蕪村の一時代を画することになる屏風講時代の大作は、いずれも、「謝長庚・謝春星」の落款を用いての、京都に定住して創作されたものということになる。そして、蕪村が、名実共に京都の画人として世に認められた証しが、冒頭に掲げた明和七年(一七六八)刊行の『平安人物史』の「画家」の部に、「大西酔月・円山応挙・伊藤若冲・池大雅・蕪村」の順で、全部で十六人中、五番目に搭載されたことが、何よりの証左ということになろう。

 ここで、蕪村と同年(正徳六・寛保元年=一七一六)に誕生した若冲との関連を、「蕪村と若冲関連年表」(『生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』所収)でビックアップすると次のとおりである。



宝暦七年(一七五七)四二歳 (若冲)高遊外、「売茶翁像」(作品一五二)に賛する。(蕪村)九月、鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」(作品二七)を描く。丹後与謝から京に戻る。帰洛後、氏を与謝と改める。

宝暦八年(一七五八)四三歳 (若冲)「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作をはじめる(前年からか)。春、「梅花小禽図」(動植綵絵)。

宝暦十年(一七六〇)四五歳 (若冲)梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅を見る(翌年か)。八月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」(作品一五一)。十一月、「四季花鳥押絵貼屏風」(作品六四)。十二月冬至、「動植綵絵」を見た高遊外から「丹青活手妙通神」の一行書を与えられる。

「髑髏図」(作品七四)に高遊外の賛。(蕪村)六月、「維摩・龍・虎図」(作品五〇)。十二月、「倣王叔明山水図屏風」(作品一四二)。冬、「双馬図」(作品一二六)。この頃、結婚するか。 

宝暦十三年(一七六三)四八歳 (若冲)『売茶翁偈語』に高遊外の肖像を描く。(蕪村)この頃、屏風講をはじめ、屏風を多数制作。

明和二年(一七六五)五〇歳 (若冲)九月十九日、末弟宗寂没(享年不明)。九月二十九日、「釈迦三尊像」三幅(宮内庁三の丸尚蔵館)、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。十一月十一日、宝蔵寺に宗寂の墓建立。十二月二十八日、相国寺と死後永代供養の契約を結ぶ。

明和五年(一七六八)五三歳 (若冲)五月、『玄圃遙華』(作品七九)。十一月一日、東本願寺光遍上人、「動植綵絵」の一覧を相国寺に願い、貸与を許可される。三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「高倉錦小路上ル町」。『素絢帖』(作品七八)跋。

(蕪村)三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「四条烏丸東ヘ入町」。

四月、讃岐を去り、帰京する。五月六日、三果社中句会を再開する。



 上記の「関連年表」で、まずもって注目したいことは、宝暦七年(一七五七)に蕪村が京都に再帰した、その年に、若冲の畢生の傑作シリーズの「動植綵絵」の製作がスタートを切ったということである。この若冲の「動植綵絵」(三十幅)と「釈迦三尊図(三幅対)との全貌は別記の通りである。



 そして、この「動植綵絵」は、明和二年(一七六五)九月に、妻子のいない若冲の跡取りとして期待をかけていた末弟宗寂が亡くなったのを機に、いまだ未完成のままに、「釈迦三尊」(三幅)と「動植綵絵」(二十四幅)を臨済宗相国寺派大本山相国寺に寄進し、生家の伊藤家の菩提寺宝蔵寺(浄土宗)の宗寂の墓を建立している(父母の墓も若冲が建立している)。

 何故、生家の菩提寺宝蔵寺ではなく相国寺に寄進したのかは、若冲より三歳年下の、生涯にわたって精神的支柱と仰いでいた、後の、相国寺百十三世住持となる大典顕常和尚(梅荘顕常)と、その相国寺の塔頭の林光院を住居としていた売茶翁(漢詩人・高遊外、臨済・曹洞の二禅を極め、さらに律学をも修した当代一流の黄檗僧・月海元昭、その僧籍を捨てて、「通仙亭」で煎茶を売る「売茶翁」の名で知られている)との二人の縁に因るものなのであろう。

 この若冲の精神的二大支柱の梅荘顕常と高遊外の二人が、宝暦十年(一七六〇)に、若冲のアトリエ(「独楽窩」でなく「心遠館」か)を訪れて、「将ニ花鳥三十幅ヲ作リ、以テ世ニ遺サントス。而シテ十有五幅既ニ成レリ」((大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」))と、その時に完成していた十五幅を見たとの記事を残している。

 それだけではなく、この時に梅荘顕常に同行していた高遊外は、「宝暦庚辰(十年)冬極月/丹青活手妙通神/八十六翁高遊外書付/若冲隠士」という一行書(書A)を認め、若冲に与えたのである。

この高遊外が「八十六翁」の八十六歳とすると、若冲、四十五歳、梅荘顕常、四十二歳の時となる。即ち、高遊外と若冲・梅荘顕常とは、四十歳以上の歳の開きがあったということになる。

若冲は、この一行書の「丹青活手妙通神(丹青活手の妙神に通ず)」の七文字を二行にわかって印刻し、生涯にわたってそれを使用し続けた。「動植綵絵」においても、別記の「17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」「22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」「23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)に、その印影を見ることが出来る。

 さらに続けると、梅荘顕常の「藤景和画記」には、この「而シテ十有五幅既ニ成レリ」の、その十五幅について、漢字四字の題名をつけて、それぞれに、その図様の解説を漢文で記している。それと、現存する「動植綵絵」(三十幅)を照合すると、別記の「1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」から「12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)」の十二幅は一致し、三幅(「秋扇涼影」「寒華凝凍」「群囲攻昧」)は該当するものがなく、その三幅は「墨画」と明記されている。

 すなわち、若冲の当初のプランでは、着色画(カラー)十五幅と水墨画(モノクロ)十五幅とを対にするものであったが、製作途中で、全てを着色画として、明確に「動植綵絵」の全体にかかわる題名を付して、宝暦十三年(一七六三)に、その二十四幅と「釈迦三尊像」(三幅対)を相国寺に寄進したということになる(『若冲 広がり続ける宇宙(狩野博幸著・角川文庫)』)。

 そして、明和七年(一七七〇)十月、父親の三十三回忌の折りに、自分と父母の戒名と、「動植綵絵」(六幅)を追加し三十幅として、その寄進を完了させ、併せて、永代供養の宿願を刻した位牌を相国寺に寄進したというのが、現存する「釈迦三尊像」「動植綵絵」との顛末ということになる。

 ここで、この「釈迦三尊像」「動植綵絵」の三十三幅は、観音菩薩が「三十三応身」として衆生を救うという教えが意識されているということと、これらの「動植綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化しているという指摘(『生誕三百年記念 若冲百図(小林忠監修)』所収「伊藤若冲の生涯(小林忠稿)」)は、誰しもが実感するものであろう。

 この「動植綵絵」の「綵絵」という語は、単なる彩色を施した絵という意味ではなく、「

仏教的なニュアンスを持っていた(元の仏画で発願者がそれらを綵絵させたと記す用例がある)」という指摘もある(『もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品(佐藤康宏著))

 と同時に、これらの「「釈迦三尊像」「動植綵絵」にかかわる一部始終を見て行くと、若冲の作画の意図というのは、この「動植綵絵」(三十幅)の途次(二十四幅)で寄進した、明和二年(一七六五)九月晦日付け相国寺宛て寄進状(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の、次の大意(原文は漢文)に、全て網羅されていることを実感する。



「私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽根の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、以て一家をなしました。また嘗て張思恭(ちょうしきょう)画くところの釈迦文殊普賢像が巧妙無比なのを見て、何とか摹倣(もほう)したいと思い立ち、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具(しょうごんぐ)として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も百年の形骸を終(つい)に斯の地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。」

 (『若冲(辻惟雄著・講談社学術文庫)) 

    



                                            (印章A  蕪村愛用の遊印「潑墨生痕」)








                                       (書A「一行書 丹青活手妙通神売茶翁作 )



 さて、若冲と蕪村とが、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に、当時勃興しつつあった、新しい写生画的「花鳥画」の旗手として、応挙と若冲、そして、日本の文人画の旗手として、大雅と蕪村とが、当時の京都画壇のビックファイブとして、登載されるに至ったと解して差し支えなかろう。

 そして、当時の若冲の代表的な作品としては、煎茶中興の祖として仰がれている売茶翁(漢詩人・高遊外、法名・月海)をして、「丹青活手妙通神」とまで激賞された、釈迦三尊図(三幅対)と「動植綵絵」(三十幅のうちの二十四幅)、そして、蕪村の代表的な作品としては、

宝暦十年(一七六〇)、還俗して与謝姓を名乗った頃から晩年に至るまで、蕪村が好んで愛用した印章(遊印)の「潑墨生痕(はつぼくせいこん)」が捺されている、屏風講時代ですれば、先に掲げた「山水図屏風」(絖本、出光美術館蔵)、「山水図屏風」(絖本、文化庁蔵)、「柳塘晩霽図屏風」(絖本、フーリア美術館蔵)などが挙げられよう。

 この「柳塘晩霽図」には、「陳霞狂(ちんかきょう)ニ倣フ」の款記があり、その「陳霞狂

(汝文)の「古木短篷(こぼくたんぽう)」と題(落款)する画中に、「潑墨生痕」(白文方印)が捺されており、蕪村はこれに倣ったのではなかろうかと推測されている(『特別展没後二百年記念 与謝蕪村 名作展(大和文華館編)』所収「蕪村画の魅力(早川聞多稿))

 続けて、この「潑墨生痕」の意味について、「『潑墨』とは一般に墨をそそぐやうにして描く水墨画の描法をさすが、ここではその描法から見て、描く勢ひを象徴するものと私には思はれる。そして『生痕』とは生きた跡、生の証(あかし)といふことであらう。つまり「自らの筆勢の裡に生きてゐる証を描きたい」といふ願ひが、この遊印には籠められててゐると、私は想像するのである」(早川聞多・前掲書)としている。

 ここで、この蕪村の「潑墨生痕」(印章A)に、先の、若冲の「寄進状」や、売茶翁が若冲に呈した一行書(A)を重ね合わせると、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に登載された、若冲と蕪村との二人が見事にクローズアップされて来る。



(別記)

動植綵絵(三十幅)宮内庁三の丸尚蔵館蔵

1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)

宝暦七年(一七五七)頃の作(絹本着色)。画面左上に「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」、署名下に「汝鈞」(白文方印)」・「藤氏景和」(朱文方印)。画面右上に「出新意於法度之中」(朱文長方印)。題名「艶霞香風」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

2・梅花小禽図(ばいかしょうきんず)

宝暦八年(一七五八)作(絹本着色)。画面右上に「宝暦戌寅春居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。題名「碧波粉英」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

3・雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)

宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲春若冲居士製」、下に「藤女鈞字景和」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「寒渚聚奇」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

4・秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)

宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲秋若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「野田楽生」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

5・向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)

宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左下に「宝暦己卯仲秋若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「初陽映発」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

6・紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)

宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左中央に「宝暦己卯秋平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「堆雲畳霞」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

7・大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)

宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯年平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「聯歩祝々」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

8・梅花皓月図(ばいかこうげつず)

宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「羅雲寒色」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

9・老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)

宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「芳時媚景」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

10・芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)

宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右下に「心遠館若冲居士造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「芳園翔歩」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

11・老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)

宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「晴旭三唱」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)

宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面左に「心遠館主人若冲写」、画面左に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「隴客来集」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。

13・芦鵞図(ろがず)

宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。署名はなく、画面右に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

14・南天雄鶏図(なんてんゆうけいず

明和二年(一七六五)作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。

15・梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青不知老将至」

16・棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左に「斗米

葊主若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

18・桃花小禽図(とうかしょうきんず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「若冲居士」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

19・雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左下に「錦街若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

20・群鶏図  (ぐんけいず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

21・薔薇小禽図(ばらしょうきんず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「心遠館若冲画」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。

22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年頃(一七六五)の作(絹本着色)。画面右下に「若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)。右中央に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面右下に「斗米

若冲」、下に「藤汝鈞」(白文方印)若冲居士」(朱文円印)。左上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。

24・貝甲図(ばいこうず)

宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「汝鈞」(白文円印)・「若冲居士」(朱文円印)。

25・老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)

明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

26・芦雁図  (ろがんず)

宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。画面右下に「宝暦辛巳春居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。

27・群魚図・蛸(ぐんぎょず・たこ)

明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右中央に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

28・群魚図・鯛(ぐんぎょず・たい)

明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

29・菊花流水図(きっかりゅうすいず

明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。

30・紅葉小禽図(こうようしょうきんず)

明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞印」(白文方印)・「若冲居士」(白文方印)。

釈迦三尊図(三幅対)京都・相国寺蔵

31・釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)

明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。

32・普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)

明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。

33・文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)

明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面左下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。

(『若冲百図 生誕三百年記念(小林忠監修・別冊太陽)』・『若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月(狩野博幸監修・別冊宝島)』)