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月曜日, 7月 03, 2006

橋本夢道の自由律俳句



橋本夢道の自由律俳句

(その一)

○ 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ  橋本夢道

 『橋本夢道集』(筑摩書房刊『現代日本文学全集91』)の中の一句。この句集が収められている『現代日本文学全集91』の中には、この句の夢道自身の書の色紙が掲載されている。五七五の俳句に比しては勿論のこと、種田山頭火や尾崎放哉などの自由律俳句と比しても、この夢道の自由律俳句は、その異色さにおいては群れを抜いている。そして、その異色さは、この掲出句に見られるように、その発想の異色さにおいて、完全に脱帽せざるを得ないように思われてくるのである。これらの夢道の句を評して、夢道の「愛妻俳句」の一つに数えているものもいる(志摩芳次郎著『現代俳人(一)』)。
 夢道をよく知る志摩芳次郎によれば、この句について、「戦後のあの国民が飢餓線上を彷徨させられたころの作品は、無礼なの妻ではなくて、世の中である」として、この句は、「『無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ』と飄々とうたってのけたところに、かれの俳諧の精神、俳人の本領が現れている」と的確な指摘をしている。 この句は、日本の戦後のどさくさのあの極限状態にあった頃の作で、この句の背後には、そうした日本の極限状態への失望やさまざまな怒りなどが鬱積していたことであろう。そして、そういう極限の時代にあって、こういう句を堂々と作句していた俳人がいたということを忘れてはならないと・・・、この句に接すると何時もそんなことを思うのである。

(その二)

○ うごけば、寒い

 この夢道の自由律俳句、「うごけば、」の「、」を入れても七語で、おそらく、古今東西、一番短い字数の句ではなかろうか。前回の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」が何と長い句形かと思うと、今回の句のように極端に短い句形と、夢道の句はそのスタイルだけとっても千変万化である。しかし、この何とも異様な、この句形の、その背後は、夢道の「俳句弾圧事件」の忘れざる恐ろしい体験に根ざしたところの一句なのである。夢道は、昭和十六年に、その「生活俳句」・「プロレタリア俳句」を理由にして、時の検察ファッショによって逮捕され、獄中生活をおくるのである。この句は、その獄中での一句である。「橋本夢道集」の、、この句の前の句は、「大戦起るこの日のために獄をたまわる」、その後の句は、「面会やわが声涸れて妻眼(まな)ざしを美しくす」である。これらの獄中での連作の一句なのであろう。これらの連作と併せ、この句を味読すると、この「うごけば、寒い」の、この極端に短い句形の必然性が浮かび上がってくる。即ち、これ以上の文字数を使うことすら拒否するような、そんな「寒さ」の中の「夢道」が浮かび上がってくるのである。

(その三)

○ 赤坂の見附も春の紅椿

 この定形の紅椿の句は、型破りの異色の自由律俳人で知られている、橋本夢道の句である。この句には、「予審に行く護送車より」の前書きがある。この句は、新興俳句弾圧事件で獄中生活を余儀なくされていた夢道が、その裁判所に出廷する時の、その護送車よりの一句ということになる。夢道は、その獄中で、「うごけば、寒い」という壮絶な最短詩ともいうべき自由律の俳句作品を残しているが、その夢道が、その護送車より、赤坂見附付近の紅椿を目にした時、「もう、春なのだ」ということを強烈に感じての一句というのが、この句の背景なのであろう。『橋本夢道集』に収録されている、この句の次の句は、「二十四房を出るわが編笠にふり向かず」というものであった。夢道は、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けて、普通の生活に戻る。これらの句の後に、夢道は、「いくさなき人生がきて夏祭」という、これまた、有季の定形の句(終戦直後の句)を収載している。夢道らの自由律俳人の多くが、このような有季の定形の句を自家薬籠のものにしていて、その上での、心の内在律を重視する自由律俳句の世界に身を挺しているということを知るべきであろう。

(その四)

○ 思い出のみつ豆たべあつている妻が妊娠している

 愛妻俳句を数多くのこしている自由律俳人・橋本夢道の句である。夢道は四国の阿波で明治三十六年(一九〇三)に生まれた。大正七年(一九一八)に上京して、江東区深川で肥料問屋などに勤め、後に、銀座に、甘いものの店「月ヶ瀬」を出店して成功を収める。その時の宣伝用の俳句が「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」という。掲出の句の「思い出のみつ豆」も、この「月ヶ瀬」を象徴するような、その「蜜豆」に相違ない。そして、その「蜜豆をたべあつている」妻ともう一人の人物は、この句の作者・夢道その人であろう。「蜜豆」は夏の季語、そして、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」は、五・七・五の定形の句である。しかし、その定形の蜜豆の句よりも、掲出の五・十一・十一の非定形の蜜豆の句の方が何とも魅力的に思えるのは、どうしたことであろうか。そして、五・七・五の定形の句は、それはそれとして、そして、その句心を持しながら、あえて、その定形の器にもりこまない、この掲出の夢道ような句を「俳句」という範疇でとらえることに、いささかの躊躇も感じない。

(その五)

○ ひるすぎぎんぎよううりのこえのゆきすぎるおんなよびとめる

 全文平仮名の何とも異様な橋本夢道の自由律の句である。この句の詠みは、「ひるすぎ・きんぎよううりのこえのゆきすぎる・おんなよびとめる」の「四・十六・八」のリズムであろうか。それとも二句一章体の「ひるすぎきんぎよううりのこえのゆきすぎる・お
んなよびとめる」の「二十・八」のリズムであろうか。とにもかくにも、「五・七・五」の十七音字の俳句の世界からすると、「これは俳句ではなく、より短い自由詩の領域に属するのではなかろうか」という声が上がることは必至のことであろう。しかし、この作者の橋本夢道からすると、「四・十六・八」あるいは「二十・八」の二十八字音とスタイルからすると極めて長いスタイルではあるけれども、その心の「内在律」は極めて俳句の世界のスタイルに近似して、そして、それ以上に、この句の原動力となっている作句する心は、「和歌・連歌」から反旗を翻しての「俳諧自由・俳諧自在」の心が脈打っている主張し、こういう定形からの飛翔を目指しての、そして、「スタイルに拘束されることなく、心の俳諧的
内在のリズムに即応したスタイルの発見」こそ、一つの俳諧の探求の道ではなかろうか、とそんな夢道らの声も聞こえてくるようなのである。例えば、「子の生まれし日・金魚売・来てゐたる」(成瀬桜桃子)の「七・五・五」の破調の十七音字の世界と掲出の夢道の極端の破調の二十八音字の世界とは、同一の円の中に存在しているように思えるのである。

(その六)

○ 父の手紙が今年も深い雪のせいだと貧乏を云うて来る真実なあきらめへ唾をのむ

 橋本夢道の三十六字(音律からするともっと長い)からなる自由律俳句の一つである。もっと長いものもあるのかも知れない。これらの俳句と五・七・五の十七音字の定形律のそれとをどのように理解すれば良いのか・・・、はなはだどうにも答えられないのだが、俳句を知り尽くしている夢道が、「これは私の俳句です」と主張するならば、それを拒む必要もないのではなかろうか。「五七五の十七音字の定形・季語有・切字有」の「俳句」を「もっとも基本的なバターン」のものとして捉え、それらのいずれからも逸脱はしているが、その底に流れている「俳諧心」(滑稽・おどけの心)という一点に絞って、この長い、夢道が「自由律俳句」と名乗る一行詩を、「もっとも基本的なバターン」ものと同じ感覚で、「詠み・鑑賞し・共感する」という、そういうことを、「これは俳句ではない」とのことで、
一顧だににしない昨今の風潮には、どうにも納得がいかないのである。このことは、高柳重信らの多行形式の俳句にも、即、あてはまることであって、「俳諧・俳句」探求に骨身を削り、前人未踏の分野に鍬を入れようとする冒険心を、昨今の俳句に携わるものは何処かに置き忘れてしまったようなのだ。

  馬車は越えゆく
  秋の飛雪
  鉛の丘      高柳重信

 夢道の「自由律」の雪の句、そして重信の「多行式」の雪の句、やはり、俳句を熟知している人のものという印象を強く受けるのである。

(その七)

○ 路地裏しづかになるや黄金バット始まらんとす

 橋本夢道の「黄金バッド」の自由律俳句である。この句の詠みは、「路地裏しずかになるや/黄金バット/始まらんとす」の「十・七・七」の詠みであろう。上十の「や」切りで、無季の句である。そして、「黄金バット」という有季定型の俳句の季語に匹敵するようなキィワードがあり、戦後の間もない頃大流行した紙芝居の「黄金バット」の句として忘れ得ざる句の一つである。自由律俳句では十七音字よりも短いものを「短律」、そして、それよりも長いものを「長律」といわれているが、いわゆる、この句のような「長律」は言葉の省略ということがなく、それだけ、俳句特有の曖昧さがなく、鑑賞者にとっては、鑑賞しやすいという利点がある。しかし、そのことは、同時に、鑑賞者に「余韻・余情」というものを残さないという短所をも具えているということも意味する。ここのところが、いわゆる「長律」を作句する者にとって一番工夫するところのもので、この夢道の「黄金バット」の句ですると、上十の「路地裏しづかになるや」の切り出しに、夢道の工夫の跡を察知することができる。とにもかくも、夢道の自由律俳句のうちの好みの一句である。

(その八)

○ 弾圧来劫暑劫雨日共分裂以後不明

 橋本夢道の全文漢字の自由律俳句である。詠みは定かではないが、「ダンアツキタル・コウショコウウ・ニッキョウブンレツ・イゴフメイ」とでも詠みたい。この句のキィワード(フレーズ)は「日共分裂」であろう。夢道の略年譜に、「昭和五年栗林農夫(一石路)らとプロレタリヤ俳句運動を起す。九年『俳句生活』を創刊し、その編集に従う。十六年俳句事件により検挙され、十八年まで投獄された」とある。この句の「弾圧来」とは、その戦前の俳句弾圧事件を指しているのであろうか。そして、「劫暑劫雨」と「想像を絶するような暑さ・寒さ」を経験したということであろう。そして、戦後になって、やっと念願の生活に根ざした俳句運動に邁進していたら、その運動の支えであった「日本共産党」が分裂してしまったというのであろう。昭和二十五年当時のことであろうか。そして、この異様な全文漢字の夢道の句が収められている句集『無礼なる妻』は昭和二十九年に刊行さたのであった。もう、この句を作句していた頃は、「以後不明」と、それらの運動と一線を画していたのかも知れない。夢道らの俳句について、「あやふさ」が見え隠れして、「愚者の戯言」とのアイロニカルな指摘に接すると、夢道自身、その半生を振り返り、「何と愚者の戯言」であったかと忸怩たる想いが去来するのではなかろうか。しかし、それでもなお、その「愚者の戯言」は、人間の本質、俳諧・俳句の本質について、大きな示唆を与えていてくれているという思いを強くするのである。それは、とりもなおさず、この句でいえば、結句の「以後不明」の四字に、夢道の「諧謔精神」の息吹を感ずることにほかならない

(その九)

○ 葱買て枯木の中を帰りけり    蕪村
○ 酒の香のするこの静かな町を通る 夢道

 夢道のこの句は、昭和二十九年に刊行された『無礼なる妻』の冒頭の一句である。この夢道の句集は句の創作順に編集している、いわゆる、編年体の編集と思われるので、この句は夢道の初期の頃の作品と思われる。一読して、この夢道の句に並列した蕪村の句を想起した。ここで、一つ思いあたることは、蕪村の句は、江戸時代の大阪生まれの京都在住の蕪村の句で、その詠みは「ねぶかこうてかれきのなかをかへりけり」と、いわゆる、文語体の旧仮名遣いの詠みであろう。一方の夢道の句は、正岡子規門の一人の河東碧梧桐の新傾向俳句の流れの自由律俳句で、文語体特有の、「や・かな・けり」などの「切字」を使
用せず、口語体の句が多いのである。夢道のこの句も「さけのかのするこのまちをとおる」と、当時の口語体の詠みなのであろう。そして、蕪村の句のように、この「けり」の「切字」が、俳句特有の「行きて帰る」ところの「余韻・余情」を醸し出すのであるが、この「切字」を使用しない夢道らの自由律の句は、その人の、その心のリズムに即した句作りとなり、はなはだ、恣意的な「内在律」・「感動律」というものに頼りきるのである。そのことが、韻律としての「あやふさ」・「あいまいさ」と直結して、鑑賞者に戸惑いを起させるのであるが、定形律をとらず、口語体重視の立場の自由律の俳句の、それは宿命ともいうべきものであろう。そして、それが故に、自由律俳句は常に傍流にあり、異端の俳句とされているのであった。しかし、外在的・形式的な定形律からの自由、そして、現代語重視の、表現・内容の自由という観点からは、自由律の俳句というものは、極めて自然な、そして、極めて現代的な表現スタイルであるということは認める必要があると思われるのである。そして、「や・かな・けり」という文語体スタイルで、公然と新仮名遣いの俳句が、その主流となりつつある昨今の状況は、もう一度自由律俳句の、その歩みなどを検証する必要があるように思えるのである。

(その十)

○ 「きんかくしを洗いましよう」ユーモレスクにうら悲し

 夢道の句集『無礼なる妻』の後半に収録されている一句である。「きんかくしを洗いましよう」という切り出しの面白さ、その切り出しと「ユーモレスクにうら悲し」との取り合わせの面白さ。とにもかくにも、泣き笑いの滑稽味のする一句である。俳諧(俳句を含めて)の本質を「滑稽・即興・挨拶」と喝破したのは山本健吉であった。その三要素の何れに因っても、この夢道の句は立派な俳諧に深く根をおろした一句ということができよう。しかし、その俳諧(連句)の一番目の発句(十七字定型・季語・切字)から独立した俳句の観点からすると、その母胎の発句の三要素の何れの面においても、逸脱しており、この夢道の句は、発句、そして、俳句というにはいささか抵抗があるということも真実であろう。しかし、翻って、連歌からの自由を目指して俳諧(連句)が誕生し、その俳諧の発句の月並みからの脱却を目指して俳句が誕生し、その俳句の不自由さからの解放を目指しての自由律俳句の誕生は、一つの必然的な流れの中にあったのだ。そして、この自由律俳句がもたらした、俳句の三要素ともされている「十七字定型・季語・切字」に因らなくても、俳諧の精神(滑稽・即興・挨拶)は見事に具現化することができるということの証明は、この夢道の句の一つをとっても、それを証明しているのではなかろうか。とするならば、夢道らの自由律の俳句は俳句に非ずと一蹴することなく、これを「異端の俳句」として、その諧謔的精神を学ぼうとする姿勢こそ、今望まれていると、そんな思いを深くするのである。 

水曜日, 6月 28, 2006

住宅顕信の自由律

住宅顕信の自由律(その一)

自由律俳句について、先の、橋本夢道に続き、尾崎放哉とも種田山頭火とも思っていたが、その放哉に心酔して、昭和六十二年(一九八七)に満二十五歳という若さで夭逝した住宅(すみたく)顕信(けんしん)の自由律俳句が何故か心に過ぎった。顕信は若い世代の方々を中心として根強いファンがおり、それらのことについて『住宅顕信読本』(中央公論新社)での、心に残った「顕信評」のようなものの紹介を兼ねながら、「自由律俳句」と「顕信俳句」というものを見ていきたいということである。

「欠落と過剰」(文芸評論家・仁平勝)

○ ずぶぬれて犬ころ
「顕信の代表作のひとつである。まずはこの句を読みながら、自由律俳句の本質とはなにかという問いを提出してみたい。そしてわたしの用意している答えは、すなわち欠落感である」。

 仁平氏はこの前提として、「自由律とは、定型にとらわれない自由のリズムではない。それなら俳句ではなくて、一行の自由詩になってしまう。自由律俳句とは、定型を前提とした上で、そこから自由になろうとすることだ」と指摘している。このことを極端に押し進めと、「自由律俳句の作家は極めて定型律俳句に関心があり過ぎて、それが故に、その他の定型律俳句の約束の季語とか切字以上に、定型律そのもののリズムを解体しょうとする俳人たち」ということにもなりそうである。そして、このような動きは、単に、自由律俳句の作家だけではなく、例えば、高柳重信らの「多行式俳句」の作家たちによっても試行されたものでもあった。しかし、「多行式俳句」においては、「俳句における切れ」ということをスタイル的に「あれかこれか」したが、自由律俳句においては、それらの「俳句における切れ」ということには無関心で、如何に、「定型律のリズム感」を、仁平氏の言葉ですると「欠落感的なリズム」にするかということに関心が向いていたように思えるのである。その意味で、住宅顕信の生き様そのものが、この「欠落感」と同居し、そして、この「欠落感」こそが、顕信俳句に接する人に、「己の欠落感」というようなものを感知させるように思えるのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑つている顔だ
「こんどはこういう句を前にして、ふたたび自由律俳句の本質とはなにかという問いを考えてみる。するともうひとつの答えとして、それは過剰感であるといってみたくなる」。

 仁平氏は「先の欠落感がメダルの表側とすれば、過剰感はその裏側であり、作者によって放りなげられたメダルは、二通りの着地をするわけだ」との面白い指摘をしている。定型律を解体するには、短くするか(短律)、長くするか(長律)の二通りしかなく、そして、それは、メタルの表と後ろとの関係であって、その本体は「欠落感」・「過剰感」の「定型を解体するという心」なのであろう。そして、その「アンチ定型の心」というのは、多かれ少なかれ誰しもが有しているものであり、自由律俳人、そして、自由律俳人・住宅顕信は、自分の生涯と、その分身の自由律俳句に、その「アンチ定型の心」をもって、描きに描いたという思いがするのである。

○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「一句のなかに『お茶をついでもらう』と『私がいっぱいになる』という二つの文が並列しているように見えるが、『お茶をついでもらう』という前の文は、同時に『私』を省略していて、いわば複文の構造が背後に隠れている。欠落感と過剰感とが同居したような文体といっていい」。

 自由律俳句のスタイルは、上記の短律と長律以外に、その短律と長律とが複合したスタイルもあるというのである。そして、それはより多くスタイルの問題なのであるが、定型律俳句の二句一章体の俳句の「二物衝撃」のような余韻を醸し出しているというのであろう。しかし、これらの仁平氏の自由律俳句の三つの解題の根底は、「アンチ定型の心」ということであり、住宅顕信の「心の動き」を最も的確に表現できるものは、「アンチ定型の心」を充たす、いわゆる「自由律俳句」以外になかったということがいえるのかも知れない。



住宅顕信の自由律(その二)

「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)

○ ずぶぬれて犬ころ
「わずか九音の作品だ。黙読すると心の中で『ず・ぶ・ぬ・れ・て・い・ぬ・こ・ろ』という声がする。それは顕信の声でも、読み手自身の声でもない」。

 岸本氏は、仁平勝氏が「欠落と過剰」で問題にしていることを、聴覚的な音声(黙読を含めて)という視点から論じている。そして、「内言語」(外に、音声や文字となって現れない言語)のことに触れ、文語は「響き」を感じさせ、口語は「声」を感じさせるのに、住宅顕信の句は、口語体の句でありながら響きを感じさせるというのである。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
「この句を黙読するとき、読み手は声にならぬ声で、『鬼とは私のことか・・・』と心の中でつぶやく。そのつぶやきは顕信の声でも読み手自身の声でもない。俳句を黙読するときに脳裏に響く声は、誰の声でもなく、言葉そのものの響きだ」。

 かって、平畑静塔氏は「俳人というのは歌手のようなもので、いかに、五・七・五の定型をうまく歌いこなすかというようなものだ」との俳論を公表したやに記憶している(『俳人格』)。このことに関連させると、自由律俳人の多くは、アンチ定型で、岸本氏のいわれる「俳句(五・七・五)よりも俳句的(アンチ定型)」な、レトッリック的な言葉の響きをその中心に据えており、その限りにおいては上記の岸本氏の指摘には共感するものが多い。これらのことに関連して、岸本氏は、仁平氏の「欠落」としての自由律俳句の「短さ」・「沈黙」の点を強調するが、それは「短さ」・「沈黙」の自由律の「欠落」のもののみならず、自由律の「過剰」という面での「アンチ定型」の作品の表現においても均しく言えることであろう。という条件付きで、次の岸本氏の顕信俳句の指摘は素直に首肯することができるのである。 

「季語も定型も持たない自由律俳句は俳句ではないという人もいる。しかし、定義の問題はさておき、顕信の作品は『短さ』に徹したという点では、俳句よりもさらに俳句的だ。もし俳句でないとすれば、俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か、というべきだろう」。

 この岸本氏の「俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か」ということは、夏石番矢氏のいう「裸の表現」と相通じているのかも知れない。

住宅顕信の自由律(その三)

「俳句と悲劇」(作家・小林恭二)

○ 「一人死亡」というデジタルの冷たい表示
「現代の死をきっちりと言いとめた佳吟だと思う。この句から強く感じられるのは、死を一個の事象として冷静にみつめている気分である。もしこの句を担当医が見たら眉をひそめただろう。まるで舞台裏をみすかされたような気分になって」。

 定型律俳句と自由律俳句との如何を問わず、俳人というのは、その創作の対象物の特性を冷酷なまでに凝視し、驚くべきほどその特性というものを浮き彫りにさせる。自由律俳人・住宅顕信も紛れもなくその俳人の俳眼というものをギラつかせていた。

○ レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた
○ 若さとはこんな淋しい春なのか
○ 心電図淋しい音立てている胸がある
「『捨てられた人形』として自分を客観視した顕信は、ここで自分の内側を覗く作業を開始する。そしてどうにもならない『淋しさ』を覚えている心を発見する」。

 この小林氏の指摘は、「主客の一体化」(歌人・穂村弘)という視点での自由律俳人・住宅顕信俳句の解剖であろう。

○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 父と子でありさびしい星を見ている
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「自分の淋しさをてらうことなく詠めるようになった顕信は、ほぼ同時に子供のことも詠めるようになった。発病、離婚、俳句、闘病、子育て、一時にそんなめくるめく経験をしていた顕信にとって、それまで子はさして大きな要素ではなかったのではないか」。

 自由律俳人・住宅顕信の生涯というものは、他の著名な自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に比しても、その短い生涯であったということにおいては、より以上に過酷なものであったということはいえるのかも知れない。その短い生涯において、「己の世界だけではなく、己の分身の己の子の世界」を、その自由律の俳句の創作の場で活かすことができたということは、大きな僥倖であったようにも思われる。

○ 春風の重い扉だ
「いわゆる俳句的技巧がまったく使われておらず、吐息のようにも聞える」。

 この指摘は、「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)に近い。

○ 氷枕に支えられている天井がある
○ 朝はブラインドの影にしばられていた
○ 窓の冷たい朝月にふれてみる
「この頃は病状が小康状態だったのだろうか。病気の切迫感というより、むしろ俳句としての完成度が目につく」。

 この指摘は、「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)に近い。

○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「『未完成』の最後に置かれた句である。時系列順に編集されているなら、絶詠ということになる。迂闊に名句だとか佳吟だとか言えない不気味な雰囲気がある」。

 この指摘の思いは、「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)と同じものであろう。


住宅顕信の自由律(その四)

「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)

○ 面会謝絶の戸を開けて冬がやってくる
○ 点滴と白い月とがぶらさがっている夜
○ 一つの墓を光らせ墓山夕やけ
○ 退院がのびた日の昼月が窓をのぞく
○ 念仏の口が愚痴をゆうてた
○ 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる(長男初節句)
○ 合掌するその子が蚊をうつ
○ 脈を計っただけの平安な朝です
○ 影もそまつな食事している
○ 消灯の放送があってそれからの月が明るい
○ 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ
○ 月、静かに氷枕の氷がくずれる
○ 淋しい犬の犬らしく尾をふる
○ 地をはっても生きていたいみのむし
○ そこを曲がれば月を背に帰るばかり
○ 朝から待っている雲がその顔になる
○ 捨てられた人形がみせたからくり
○ 背中丸めてねむる明日の夢つつんでおく
○ 年の瀬の足二本洗ってもらう
○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 春風の重い扉だ
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
○ 抱きあげてやれない子の高さに坐る
○ 月が冷たい音落とした
○ ずぶぬれの犬ころ
「住宅顕信との出合いは句集『未完成』でした。広告を見て、版元に直接電話して送ってもらい、一気に読んで合掌しました。・・・・ (上記の)二十五句は『俳句と出合う』で紹介した顕信の作品です」。

 住宅顕信が亡くなったのは、昭和六十二年(一九八七)二月七日、数え歳で二十六歳という夭逝であった。その翌年に、住宅顕信句集『未完成』が刊行され、このときに、俳人・黒田杏子氏と遭遇しているのである。黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」(後に『俳句と出合う』)の八十八名のひとりに、ほとんど無名に近かった住宅顕信を取り上げ、そこで紹介した顕信俳句が上記の二十五句である。それは名うての目利きの黒田杏子氏の目にとまった二十五句であるが、顕信俳句の佳句、二十五句といっても差し支えなかろう。


住宅顕信の自由律(その五)

「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)

○ 影もそまつな食事をしている
○ 思い出の雲がその顔になる
○ 水滴のひとつが笑っている顔だ
○ すぶぬれて犬ころ
「住宅顕信の句の虚飾のなさに動かされて、推奨する文章などをいくつか書いた。とくに最後の句は、なんどもなんども代表作として推薦した。当時、自由律俳句は過去のものだが、住宅顕信は認めてやる、こういう反応を多くの俳人はしていた。いや現在でもそうかもしれない。そして、一時期は住宅顕信に言及していた俳人も、そのうちに住宅顕信をすっかり忘れてしまった。ブランシュというフランス俳人から、住宅顕信の名が出たとき、意外な氣がしたのは、こういう日本の俳句事情があったせいもあるだろう」。

 黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」に住宅顕信を紹介していたころ、住宅顕信の年譜(一九八八年)を見ると、「夏石番矢、長谷川櫂、岸本尚毅、大屋達治、小沢実などの注目を集める」とある。さらに、一九九三年(平成五)に「吉備路文学館にて 夏石番矢『魂の俳句』と村上護『青春俳句は可能か』の講演も」とあり、その翌年の年譜に「見目誠とパトリック・ブランシュ共訳の仏訳住宅顕信句集『未完成』が完成」とあり、上記の夏石番矢氏の一文に出てくる、「ブランシュという俳人」とは、この年譜に出てくるパトリック・ブランシュ氏のことであろう。

○ 洗面器の中のゆがんだ顔すくいあげる
「ついせんだって目の手術をするため一週間入院した。入院は、病気を治療するだけではなく、裸の自分を見つめさせる機会でもあることを、そのさい知った。まして住宅顕信の場合は、生きて退院することの望めない入院である。健康な若者であったころは、社会通念や雑念で見えなくなっていた自分や他者の裸の姿が痛いほどよく見えただろう。このような裸の真実をとらえた自由律俳句が、日本でも海外でも愛されるのは、当然すぎるほど当然なのである」。

 夏石番矢氏は、上記の文章に続いて、「住宅顕信を通して、俳句は裸の真実をとらえるのに適した世界的なジャンルとして成長してゆくのが見えてくるのは、とてもうれしいことだ」と結んでいる。この「裸の真実」、そして、「国境を越える裸の表現」という夏石番矢氏の洞察には、もろ手をあげて賛同いたしたい。

 
住宅顕信の自由律(その六)

「主客の一体化」(歌人・穂村弘)

○ 歩きたい廊下に爽やかな夏の陽がさす
○ 許されたシャワーが朝の虹となる
○ おなべはあたたかい我が家の箸でいただく
○ 四角い僕の夜空にも星が満ちてくる
「これらの句においては『廊下』『シャワー』『おなべ』『夜空』といった日常的な対象が強い憧れ喜びの感情と共に詠まれている」。

 これらの句について、歌人・種村弘氏は「言葉そのものが真に詩的な普遍性をもつところには至っていない」と続ける。

○ 初夏を大きくバッタがとんだ
○ 春夏の重い扉だ
○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「これらの句には、作品背景の特殊性を直接に想像させる言葉は全く含まれていない。読者はこれらを病者の作品とは思わず、単なる日常詠として受け取ることになる。・・・・ いずれの場合も『バッタ』や『扉』や『湯のみ』などの表現対象と『私』がひとつになることで、自分自身の生命感が表現されているわけである」。

 これらの句について、種村氏は、「『ここでは”大きく””重い””いっぱいに”などのありふれた語が不思議な鮮烈さをもって読み手の胸に迫ってくる』と指摘している。

○ 盃にうれしい顔があふれる
「ここでは主客は完全に一体化している、現実に『あふれた』ものは『うれしい顔』ではなく酒であろう。・・・・・ 代表句『ずぶぬれて犬ころ』や『捨てられた人形がみせたからくり』などを、表現対象と『私』との一体化が最も端的に示された例とみることも可能だと思う」。

 これらの「主客一体化」の句として、種村氏は、住宅顕信の代表句、「ずぶぬれて犬ころ」や「捨てられた人形がみせたからくり」などもあげている。

住宅顕信の自由律(その七)

「雨の俳人」(イラストレーター・安西水丸)

○ たいくつな病室の窓に雨をいただく
○ 雨音にめざめてより降りつづく雨
○ 降りはじめた雨の心音
○ 朝をおくらせて窓に降る雨
○ 坐ることができて昼の雨となる
○ 夜の窓に肌寒い雨の曲線
○ 早い雨音の秋が来た病室
○ 牛乳が届かない雨の朝のけだるさ
○ 降れば冷たい春が来るという雨
○ 今日も静かに生きて冬の雨の日の選曲
○ うすぐらい独りの病室の雨音となる
○ 降れば一日雨を見ている窓がある
○ ポストが口あけている雨の往来
○ 梅雨が冷たいストレッチャーに横たわる
○ 淋しさきしませて雨あがりのブランコ
「こうした雨の句を見ていると、たまらなく淋しさがこみ上げてくる。すべての句にじくじくと冷たい雨が降っているようにおもえるのだ。病室」で乳飲み児を育てて、こんな淋しい句を詠んでいたのかとおもうと、たまらくやるせない」。

 続けて、イラストレーター・安西永丸氏は、「確かに放哉にしても山頭火にしても、かれの句に流れているものは、寂寞とした空気だ。それは俳句ではないが、日本の詩人、萩原朔太郎や中原中也、それに立原道造などにも通じるものがある」と続ける。この「寂寞とした空気だ」という指摘は、先の黒田杏子氏の「放哉の句を支えるほんものの孤心、底知れない沈黙の深さ」などと相通じているものなのであろう。

 
住宅顕信の自由律(その八)

「顕信さんの俳句が見せてくれたもの」(映画監督・石井聡互)

○ 若さとはこんな淋しい春なのか
「顕信さんの句、そのほとんどが、一読させていただいただけで、いたたまれなく、痛切、哀切です」。
 この「淋しさ」こそ、住宅顕信の主たるモチーフであった。

○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「そのなんともやりきれない人生の宿命の悲惨さに、私は涙を禁じ得ません」。
 住宅顕信の、「句の中に『淋しい』が張りついている」(作家・長嶋有「『淋しい』という人」)。 

○ 病んで遠い日のせみの声
「病院での孤独な入院闘病生活。日々進行する不治の病。生と死を濃密に見つめる視線と研ぎ澄まされた夜」。
 それは、同時に、「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」と石井氏は続ける。

○ 何もないポケットに手がある
「極端に短い瞬間言葉表現である」。
 これまた、石井氏の「顕信さんに残された時間がないこと、その中で、なんとか自分の創作の極みまで高めたいことの覚悟と焦りなのでしょう」という指摘も鋭い。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
○ 自殺願望、メラメラと燃える火がある
「顕信さんは、寄せてくる過敏な絶望と孤独に押しつぶされることなく、一人の俳人として、最後まで、創作を極めようと神経を研ぎ澄ませていきます」。

○ 深い夜の底に落とした蚊がなく
「宇宙が真空で、絶対孤独の暗闇、『無』に包まれていて、私たちはその『死』の世界では生きられないけれど、そこは同時に、我々の命の大もとが生まれたエネルギーの粒子や波動が眠り、凝縮されている故郷で、いつかは必ず、全員が、独りで、そこに還ってゆかなければなりません」。

○夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「病院での闘病生活の深い夜に沈殿し、『修羅』と『悲』との葛藤にじっと耐え、それを凝縮した果ての、鋭利な極限の集中には、闇の中に胎動し、やがて躍動する命の光の粒子の生成変化、命の大もとの震えが、はっきりと感じられていたのだと思います」。

○両手に星をつかみたい子のバンザイ
「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」。
 と同時に、「言葉を宝石に変える者。それが詩人だとすれば、住宅顕信は、宝石の輝きを自分の生命で刻磨した詩人であった」(コピーライター・真木準「明るい住宅」)。


住宅顕信の自由律(その九)

「夭逝詩人としての顕信」(日本放哉学会々員・見目誠)

○ 病んで遠い日のせみ声
○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
○ とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる
○ 月明り、青い咳する
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「顕信は、二八一個のすぐれた辞世を残すためにのみ短期間、地球上に滞在した熾天使のひとりであった」。
 この見目誠氏はフランス人のパトリック・ブランシュ氏と共訳で住宅顕信の『未完成』を完成した方である。見目氏は続けて、「芭蕉は弟子から句を詠むときの心構えを問われた際、『平生即チ辞世なり』(実に辞世を詠んでいるつもりである)と答えたという。みの世を生きたのはわずか二六ヶ年にもむ満たず、実質的な句作期間としては二年半ほどの時間しかあたえられなかった顕信は、否が応でも芭蕉のこの言葉を実践したことになる」。



「『海市』での顕信」(俳人・藤本一幸)

○ 焼け跡のにごり水流れる
○ 立ちあがればよろめく星空
○ 春風の重い扉だ
○ 一人の灯をあかあかと点けている
○ 月明り、青い咳する
○ 風ひたひたと走り去る人の廊下
○ 月が冷たい音落とした
○ 水音、冬が来ている
○ ずぶぬれて犬ころ
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「感情表現の直截的リズムを重視する自由律俳句の特徴として、言葉のもつインパクトの強烈さと肌で感じる臨場感は、到底定型俳句の及ぶところではない。特に彼の作品は、定型よりもさらに短い『短律』という句法を基調にしているにもかかわらず、切迫した感情が何の不自由さもなく、わずかの音に収まり、それがかえって意味の重さを強める効果を生んでいる」。
 昭和六十年に自由律俳句誌「海市(かいし)」を創刊した藤本義一氏を抜きにしても今日の住宅顕信は語れないであろう。藤本氏は「詩歌の本質的な役目は、とりもなおさず人間に生の喜びを与えるということに尽きる。これまで住宅顕信の記録をずっと追いかけてきた者として、無名の彼が注目され出したことに人一倍の感慨がある。少ない句数ながら命を賭けて生まれた作品は、緩みきった現代の短詩型の世界に一つの衝撃を与えると同時に、同じような病気で苦悩する若者たちに一つの希望を与えるに違いない」と続ける。


住宅顕信の自由律(その十)

「顕信は生きつづける」(岡山大学教授・池畑秀一)

 住宅顕信を語る際に、藤本義一氏の「海市」の仲間の一人の池畑秀一氏をも抜きにしては、今日の住宅顕信は存在しないということになろう。そして、この二人の出逢いとうのも誠に数奇なものという印象を持たざるを得ない。あまつさえ、次のような住宅顕信句碑建立に、池畑秀一氏は奔走するのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
「平成三年十二月、詩人の吉備路文学館山本遺太郎館長を委員長とする『住宅顕信句碑建設委員会』が結成された。俳句の関係者ばかりでなく、多くの方々の署名活動や募金活動により、七回忌の平成五年二月七日、句碑は岡山市京橋西詰旭川緑地に建立された」。

 また、「海市」の井上敏雄氏も住宅顕信にとっては忘れ得ざる俳人の一人であろう。その井上氏の「顕信さんとのご縁」によると、生前にはこのお二人はお逢いする機会もなかったとのことであるが、井上氏が顕信さんのお墓参りにでかけた昭和六十二年四月二十六日に、住宅顕信のお墓の敷地内に、顕信さんの句碑が建立され、それは「病む視線低くつばめが飛ぶ」というものである。このように、陰に陽に、昭和三十六年から昭和六十二年という短い生涯を駆け抜けていた自由律俳人・住宅顕信を見守り続けていた方々のことも、顕信その人以上に心しておくべきこしなのかも知れない。

(住宅顕信年譜)
この年譜は次のアドレスによった。

http://www.city.okayama.okayama.jp/hishokouhou/tokyo/news/14fy/sumitaku/cyuuoukouron/k-sumitaku.htm1961

(昭和36)年3月21日 岡山県岡山市に生まれる。本名・春美。
小学生の頃は、マンガを描く事が好きで、漫画家になりたいと思っていた。
中学卒業後、下田学園調理師学校入学。同時に岡山会館に勤務。5歳年上の女性と知り合い、その後8ヶ月ほど同棲。この頃から詩、宗教書、哲学書に親しむ。
1980(昭和55)年、岡山市役所で清掃の仕事に従事する傍ら、仏教書を熱心に読み、友人と連日のように宗教の話をする。
1982(昭和57)年、9月から中央仏教学院の通信教育を受講。翌年4月修了。
1983(昭和58)年、7月。京都西本願寺で出家得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となる。10月、結婚。自宅の一部を改装し無量寿庵という仏間をつくる。
1984(昭和59)年、2月。急性骨髄性白血病のため岡山市民病院に入院。6月、岡山市役所を休職。長男春樹誕生。妻の実家の希望で離婚。長男は住宅家が引き取り、病室での育児が始まった。この頃より熱心に句作にはげみ、自由律の俳句を耽読。特に尾崎放哉には心酔し、「尾崎放哉全集」を徹底的に読み込む。
1985(昭和60)年、句集「試作帳」を自費出版。自由律俳句誌「海市」に参加。
1986(昭和61)年、「海市」に発表した俳句が反響を呼ぶ。病状悪化。
1987(昭和62)年2月7日、死去。享年25歳。
1988(昭和63)年、弥生書房より住宅顕信句集「未完成」出版。
1989(平成元)年、「俳句とエッセイ」10月号で「住宅顕信の世界」を特集。
1993(平成5)年、岡山市内に句碑「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」建立。
2002(平成14)年、「ちびまるこちゃんの俳句教室」に「ずぶぬれて犬ころ」収録。

日曜日, 3月 19, 2006

荻原井泉水周辺(その一~十五)



荻原井泉水周辺  

(その一)

尾崎放哉、種田山頭火と続けると、次は、このお二人の師にあたる、「層雲」主宰の荻原井泉水のことについて触れたくなってくる。しかし、放哉も山頭火も、その全集を始め、多種多様な文献を目にすることができるが、井泉水になると、その全集は刊行されておらず、井泉水がかかわった著書類は、三百冊以上あるとのことであるが、これらを一望に管見するということは、甚だ困難といわざるを得ないであろう。井泉水というのは、子規・虚子・碧梧桐の、いわゆる子規山脈にも連なっているし、その自由律俳句ということになると、その中心的人物ということになり、さらに、北原白秋との論争や、金田一京助・石川啄木、萩原朔太郎、そして若山牧水などとも交遊があり、とにもかくにも、放哉や山頭火に比して、その九十二歳の長命ということもあり、マルチスターという雰囲気を有している。なんでも、その日記だけで、中学時代から殆ど一日もかかさず記しており、一冊四、五百頁で二十巻近くになるという。それ故に、全集を出すということになると、途方もなく膨大となり、まず引き受ける出版社がないとのことである(『保存版 山頭火(石寒太編)』所収「山頭火を語る」の村上護発言)。
このことは、ネットの世界でもいえることであって、いろいろな情報は目にすることができるが、荻原井泉水の、その明治・大正・昭和の全時代にわたって、あるいは、その主要な分野の、自由律俳句に焦点を絞ってみても、どうにも、焦点が絞れぬままに、その全容はなかなか見えてこないというのが実感なのである。そして、面白いこととには、その自由律俳句に関連しても、井泉水が主宰した、「層雲」関連と、その「層雲」から分離していった「随雲」、そして、その分離の引き金ともなった「層雲自由律」などの結社があり、さらに、その三者が、それぞれホームページを有しており、ますます混乱に歯止めがかからないような雰囲気なのである。その混乱の源を探っていくと、どうも、井泉水がその生涯にわたって心血を注いだ自由律という世界が、「俳句の世界」のものなのか、はたまた、「一行詩の世界」のものなのか、それらのことと大きく関係しているように思えるのである。ここらへんのところに焦点をあてて、上記の「層雲」、「随雲」そして「層雲自由律」のネットの記事などを参考として、井泉水、そして、その周辺の世界を模索していくこととする。

層雲公式ホームページ    http://www.geocities.jp/souunweb/index.htm
自由律俳句の部屋(随雲・随句・草原関連)  http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/index.htm
インターネット創作研究(層雲自由律関連)  http://www.t-i-souken.gr.jp/sousaku/

(その二)

 「層雲公式ホームページ」の「自由律とは」の解説は以下のとおりである。

◆自由律俳句は 一つの段落を持ち、一息で言える程度の長さの詩をコンセプトとして、旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です。文語でも口語でも構いません。一作一律(リズム)の感性を大切にします。自由律俳句は、明治末年、荻原井泉水が従来の有季定型俳句に飽きたらず、俳句革新をめざし提唱したものです。正確には、新傾向俳句を母体として明治44年4月、河東碧梧桐と共に 層雲 を創刊し、その敷衍に努めたのですが、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。自由律俳句は、一般に求道的なものと誤解され、短律の放哉句や、旅と酒を愛した山頭火句を自由律俳句の傾向とみなされておりますが、本来は、層雲創刊号にヘルマン・バールやゲーテの詩を掲げているように、芳醇なロマンを希求するものでした。井泉水は<俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ>と、あくまで俳句の心はポエジーにあると主唱しました。そう言った意味では、層雲の歴史は、日本的ポエジーと(情趣)と西洋的ポエジーの相克であったような気がします。栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句。戦後まもなくの若手作家造反による 河童 。一行詩を標榜して昭和42年 颱、 昭和43年 視界 など。現代詩壇の重鎮であった村野四郎なども文学の出発は 層雲 からでありました。初期には、作家久米正雄、滝井孝作も作品を寄せられ、日本画家の池田遥邨も在籍していました。

 この解説の中で、「旧来の俳句のような約束事形式(5・7・5)や季語などは一切ありません。かたちにとらわれず、自分の言葉で自由に表現する俳句です」・「俳句は印象の詩である」・「俳句の中に詩を求めるのではなく、詩の中に俳句を求めよ」というのは、井泉水が到達した、井泉水俳句観というものなのであろう。しかし、翻って、その俳句観はなかなか意味するものが定かではないのだが、「俳句というよりも、詩(一行詩)である」というニュアンスに近いものなのであろうか。こういった井泉水らの俳句観について、有季・定型俳句の大御所の高浜虚子は、ずばり、「何故に、”俳句”という名称に恋々としているのか」と指摘し、それに対して、井泉水が、「俳句だからこそこれを俳句という」と、禅問答のような応酬をしているのだが(『此の道六十年(荻原井泉水)』所収「伝統ということ」)、どうも、虚子の考え方の方が分かり易いという面では、数倍分かり易いということを実感する。そして、井泉水らの考え方を一歩進めると、虚子がいうように、「”詩”と言うならば、”詩”として肯定しょう」(前掲書)とし、「俳人というよりも詩人」という方がすっきりすると思わるのである。しかし、これらのことに関して、自由律俳句に携わっている方々の中でも、必ずしも、井泉水のこれらの考え方と同じではなく、どうにもすっきりしないのである。

(その三)

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」の解説は以下のとおりである。

◆俳句は五七五の三節に分かれておりますが、 基本的には、<五-七五>、もしくは<五七-五>という二行でもって構成されています。

例えば
 古池や / 蛙とびこむ水の音
 菜の花や / 月は東に日は西に
 やれうつな / 蠅が手をする足をする
 枯れ枝に烏のとまりけり / 秋の暮れ
 御手討ちの夫婦なりしを / 更衣
 これがまあ終の栖か / 雪五尺

このような俳句の考え方を二句一章と言いますが、自由律俳句は、このフォルムを基にしております。

美し骨壺 / 牡丹化られている  井泉水
分け入っても分け入っても / 青い山 山頭火
せきをしても / ひとり 放哉
月が夜 / どこかで硝子がこわれる 鳳車
月の明るさは / 音のない海が動いている 魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が生えた 緑石

◆自由律俳句とは一つの段落をもち、一息で言える程度の一行の詩

 井泉水の俳句の定義というのは、「俳句は短詩の一種であって、特に俳句的表現をするもの」としている(前掲書所収「短詩として」)。この「俳句的表現」ということに関連して、井泉水らの自由律俳句は、この「俳句のかたち」に見られる、いわゆる「二句一章」のスタイルを基本とするということなのであろか。井泉水は、これらに関して、「二行詩」という面白い試行を実践している。そこで、井泉水は、「”新傾向俳句は俳句にあらず、詩である”と批評するものに対して、私は新傾向俳句は俳句の形態たる一行的表現をしたものである。これも詩の一つに違いないが、このほかに俳句と近似したる内容をもって二行的表現をしたる短詩がある。この二つのジャンルを対立せしめることに於て、俳句が俳句たる所以の”俳句性”ということが判然とする。とともに、俳句的表現として無理なものを俳句として作ろうとする”試作”はやめたほうがよろしい。そうした試作を唯一の進歩たる形態と考えて伝統的なる俳句を否定しようとする、当時の進歩派を批判したかったのである」(前掲書所収「二行詩」)と述べている。この井泉水の二行詩は、後に、全く、短詩のそれと同じように、その題名も付されるようになる。

    こだま
「おーい」と淋しい人
「おーい」と淋しい山

 井泉水は、これは、「俳句ではなく、短詩である」とする。これらから類推すると、井泉水らは、題名がなく、一行的表現のものは、俳句的表現の、いわゆる「俳句」というジャンルのものと考えていたことは間違いがない。ちなみに、「雲雀あがり、山の畑に感涙ながす」(黒田忠次郎)と一行書きの俳句に、コンマを入れたものも、「層雲」(第四号第一号)において始めてなされたという(前掲書所収「短詩として」)。(上記の「層雲公式ホームページ」の掲出句のうち、山頭火・放哉の句は、いわゆる「一物仕立て」の句で、一句一章のスタイルのようにも思われる。)

(その四)

前回の「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に関連して、層雲系の「自由律俳句の部屋」は、いわゆる「自由律俳句」に「随句」という名称を冠して、次のような考え方をされている。

1.随句の原点は「感性のひらめき」にあります。感性とは五感で、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚をいいます。これらの体感覚は瞬時にして自覚されるもので、これが「ひらめき」です。人間は何十億といますが、たとえ海外にいても、知人に会えば瞬時にしてそれと識別できます。「ひらめき」が瞬時であるところから、随句は「最短の詩型」をとるのです。
2.随句は感性の所産であります。理性とは基盤を異にし、理屈、感想、意見などを述べるものではありません。だから、文章の形を取らず、韻を成すのです。「最短の詩型」は「最短の韻」でもあります。
3.五感は実感で、実在であるはずです。したがって随句は実体感を表出するはずであります。観念、抽象といった実体のないものの表現は本来のものとは言えないと考えます。
4.随句を機能させるのは日本語(本来の日本語で、大和言葉という人もいる)の特色によります。随句の韻性は3つあり、それは数韻・音韻・意韻です。大和言葉はそれらを具備した言葉です。
5.随句は3節です。「最短の韻」という「最短」は句の長さではなく、句を成す節(フレーズ)数の最少数をいいます。それが3です。句の韻は節相互の共鳴・循環・反響によって、そこに書かれた語内容を超えるものです。

 この、「5」の「随句は3節」ということは、前回の自由律俳句の例でいくと、次のとおりとなる。

美し骨壺 / 牡丹 / 化けられている  井泉水
分け入っても / 分け入っても / 青い山  山頭火
せきを / しても / ひとり   放哉
月が夜 / どこかで硝子が / こわれる   鳳車
月の明るさは / 音のない海が / 動いている  魚眠洞
冬の夕焼 / さびしい指が / 生えた     緑石

この「三節」(三音節)を基本とすることは、全く、「定型律」の世界と基本的には同じということになる。さらに、前回の「層雲公式ホームページ」の「二句一章」のスタイルといい、いわゆる「俳句」の基本的なことは、「定型律」と「自由律」とのそれでは変わりはなく、ただ、字数の違いということにもなりそうである。また、上記の「感性のひらめき」・
「最短の詩型に最短の韻がある」・「大和言葉」といい、これらは、即、「定型律俳句」にも均しくいえることであって、逆接的には、層雲系の「自由律俳句の部屋」の、いわゆる「自由律俳句」(「随句」)は、「定型律俳句」以上に、「定型律」に、少なくとも、「律」(韻律)には拘っているということは指摘できそうである。

(その五)

○ 美し骨壺牡丹化られている  井泉水

「層雲公式ホームページ」の「俳句のかたち」に収載されていた掲出句について、当初、「美しき骨壺牡丹活られている」の誤植かという思いがした。そんな思いから、『現代俳句集』(筑摩書房)所収の「荻原井泉水句集」(昭和二十七年~昭和三十一年)で、この句の所在を調べてみたのだが、この句はそこには集録されてはいなかった。たまたま、ネット関連で、荻原井泉水関連を調べていたら、次のアドレスに、次のような記事に遭遇した。

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/O/ogiwaraseisensui.html

「六本木の交差点から溜池に下る幹道を少しばかり逸れたところにあるこの寺を再び訪れる。季題無用の見解を示した俳人が眠る場所にも、確かに秋の涼しさは漂っている。彼岸を僅かに過ぎたばかりの日曜日にもかかわらず、人影もなく、窪地のように在る塋域から反射された陽が、隣地のビルのガラス面に光って見える。『美しき骨壺牡丹化られている』・・・絶句にある美しい骨壺は、この四角く切りつめられた『荻原家之墓』に納められたのであろうか。」

 この掲出句は、井泉水の絶句ということが判明したまである。その関連記事は次のとおりである。

「荻原藤吉(1884-1976・明治17年-昭和51年)。昭和51年5月20日歿 91歳 (天寿妙法釈随翁居士) 東京・港区六本木・妙像寺。」
「大正2年、新傾向俳句運動を提唱した河東碧梧桐と袂を分かち、『俳句は印象より出発して象徴に向かう傾きがある。俳句は象徴の詩である』と唱えた。『句の魂』を追求し、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の出家遁世の門下生を持ち、精神の閃きを暗示的に詠んだ俳人井泉水。この年の5月20日午後4時17分、脳血栓のため鎌倉山ノ内の自宅で永眠する。」

 そして、次の八句が掲載されていた。

空をあゆむ朗朗と月ひとり

落葉の、これでも路であることは橋があって

枯野に大きなひまわりの花、そこに停車する

尼さま合掌してさようならしてひぐらし

この水年暮るる海へ行く水の音かな (原 泉)

ぶどうむらさき写しおるにぶどうの赤き酒をつぐ

どちら見ても山頭火が歩いた山の秋の雲

つばきは一輪さすもので山にいっぱい (長 流)

 冒頭の絶句とこれらの八句を見て、井泉水の自由律俳句を垣間見る思いがすると同時に、放哉・山頭火のそれと比して、こと実作においては、決して優れているという印象を受けないというのが、率直の感想なのである。

(その六)

「層雲公式ホームページ」の「層雲の歴史」として、下記のとおり簡単な記述がある。

層雲は、明治44年4月創刊。
昭和51年井泉水死後も同人誌として継続しておりましたが、
平成4年8月(946号)に終刊。
同年10月主要同人が結集して 随雲 として浜松で編集発行。
平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。
現在1099号(平成17年5月)に至っています。

 この上記の簡単な記述に、先に触れた「層雲公式ホームページ」の「自由律俳句とは」などの関連記事を重ね合わせると、次のとおりとなる。

○ 層雲は、明治44年4月創刊。大正4年、井泉水の<俳句は印象の詩である>の信念と新傾向俳句志向の碧梧桐は意合わず袂を分かちました。当時は、自由俳句、新しき俳句、不定形俳句などと呼ばれて、自由律俳句とはっきり名称が出来たのは、大正12、3年頃とされていますが、どうも、昭和6年2月号の層雲誌上に井手逸郎の記したものが初めであったようです。大正15年、尾崎放哉死去。同年、放哉句集『大空』刊行。昭和12年、河東碧梧桐死去。昭和15年、山頭火句集『草木塔』刊行、同年、山頭火死去。昭和五年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」の創刊。戦後まもなくの若手作家造反による「河童(昭和22年)」創刊 。一行詩を標榜して昭和42年「颱」創刊。 昭和43年「視界」創刊など。自由律俳句も、井泉水の「層雲」から離脱しての大きな動きがあった。昭和51年、井泉水、91歳で死去。その後、同人誌として継続しておりましたが、平成4年8月(946号)に終刊。同年10月主要同人が結集して「随雲」 として浜松で編集発行。平成13年1月、100号を機に 層雲として復刊。現在1099号(平成17年5月)に至っています。
 
 これら「層雲の歴史」を振り返ってみて、その主要なエポックというものは、次のようになるであろう。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。
二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。
三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。
四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。(なお、「層雲」終刊時のことや「随雲」・「層雲自由律」の誕生のことは、次のアドレスの記事などが参考となる。)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage13.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nobi/newpage12.htm

 これらの明治四十四(一九一一)年から今日(二〇〇六年)までの、その九十五年の「層雲」の歴史、それは、即、「自由律俳句」の歴史ともいえるものであろうが、一般的な理解は、
放哉や山頭火のそれが思い起こされてくるように、大正から昭和初期にかけての、いわゆる、大正デモクラシーの影響下での、有季・定型律俳句の革新を目指してのものという理解で、もはや、過去のものという印象は歪めない。しかし、これらの歴史の一つ一つを見ていくと、正岡子規の俳句革新以降の、その一門の虚子(伝統俳句)の流れと碧梧桐(新傾向俳句)の流れとの中にあって、井泉水らが問題提起をした、「俳句を広い文学(詩)という視点で、再構築する」という課題は、今なお大きな課題であり、その井泉水らが蒔いた種は、今なお、実作の上でも、続けられているということは、やはり、見落としてはならないことなのだということを実感する。

(その七)

 先の「層雲の歴史」の、その主要なエポックの下記について、ネットの記事などを中心として、その俳人群像というものを見ていきたい。

一 明治四十四年、井泉水が中心になって「層雲」の創刊。大正四年、河東碧梧桐・中塚一碧楼らが「海虹」を創刊して分離。

○ 河東碧梧桐(その一)

 碧梧桐については、次のアドレスなどによって紹介されている。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/6788/hekigoto.html

 そこでの紹介記事は下記のとりである。

「近代俳句におけるパイオニアのひとりで、正岡子規の俳句革新運動に加わり、高浜虚子と共に子規門の双璧と称された。明治六年、現在の松山市千舟町に父・河東坤、母・せいの五男として生まれる。本名・ヘイ五郎。父・坤(号・静渓)は松山藩士で藩校・明教館の教授であった。廃藩後は『千舟学舎』を開き、ここで子規も漢学の講義を受け、漢詩の指導も受けていた。
 碧梧桐は、野球をきっかけに中学時代から子規と交わるようになり、同級の虚子と共に子規に兄事した。明治二十三年、発句集を作り、初めて子規の添削を受ける。明治二十九年の子規による碧梧桐・虚子評は、『碧は印象明瞭、虚は空想的浪漫的体質があふれている』とのこと。
 碧梧桐は印象的、絵画的な定型句を作り、子規の提唱した『写生(子規自身は主に「写実」と呼んだが)』を忠実に推進し、明治三十五年の子規没後は、新聞『日本』俳句欄の選者を子規から受け継ぐなど、俳壇の主流の位置を占めていた。
 しかし、明治三十八年頃から『新傾向俳句』に走り始め、明治三十九年から四十四年にかけて前後二回にわけて、『新傾向俳句』を宣伝するための全国遍歴(俳句行脚)を行うなどした。この旅行中、山頭火が下関まで碧梧桐に会いにいったという説もある。
 その後、高浜虚子と激しく対立し、丁々発止のやりとりを繰り広げる。そうして碧梧桐は、さらに定型俳句から離れる傾向を強め、定型や季題にとらわれない『自由律』の句を作りはじめた。あまりにその活動が尖鋭に過ぎ、支持者を失いつつある中、昭和八年三月、還暦祝賀会の席上にて俳壇引退を表明した。主宰する俳誌『ホトトギス』の成功で、俳壇の大家となったライバル・虚子に対する批判的行動であるとみられる。
 昭和十二年二月一日死去(享年六十三歳)。碧梧桐の芸術活動への評価は、今なお、まだまだ低いといわれ、その見直しが迫られている。」

 この紹介記事の末尾の「碧梧桐の再評価」については、『現代日本文学大系一九 高浜虚子 河東碧梧桐 集』(筑摩書房)所収の、「新傾向の俳句」(加藤楸邨稿)などが参考となる。それを一言で要約すると、「定型・季語にたちむかう人間(俳人)にとって、その中心に収斂しようとする方向と、その定型・季語の外にひろがろうとする方向が、同時的に働くものであり、そこに俳句の重層的な微妙な力が存する。そして、この収斂する方向を中心とするのが、高浜虚子らの伝統俳句であり、その解放を中心とするのが、河東碧梧桐らの新傾向俳句である。そして、この後者の、固定概念からの解放と個我の覚醒ということは、俳句という定型詩が、近代に於て必然的にクリアすべき課題であった」ということであろうか。このように理解すると、今日の、金子兜太らを中心とする、いわゆる前衛的な俳句の母胎とも位置づけられるものであろう。そして、その面での、「碧梧桐の再評価」が今こそ待たれるということであろうか。

次のアドレスに、碧梧桐の代表句とその簡単な鑑賞の記事が掲載されている。

http://www.suien.net/hekigodo/kansyo.htm

(八)  

○ 河東碧梧桐(続き・その二)

 復本一郎著『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』の中に、「紅緑と碧梧桐」という章がある。その中での次の記述は、「碧梧桐と虚子の俳句観」を知る上で大変に興味のひかれる個所である。

「日露戦争起り、戦熄(や)むと共に欧州*の思想文物洪水の如く乱*入し来り、文壇は旧套を脱し、俳壇亦動揺せり。而して此に君(碧梧桐)と虚子君の対峙を見る。虚子君は、俳句には俳句の領域あり、十七字小なりと雖も以て吐嘱に足るとなし、其の生命を形態に求めずして内容に求む。而して君は新しき酒は新しき革嚢(ぶくろ)に盛るべしとなし、先ず形式の臼窠(きゅうか・型)を脱して十七字を破壊し以て縦横馳突せんとす。一は内に求め一は外に求む。是に於て両者の見地枘鑿(ぜいさく・食い違う) 相容れず。遂に旗鼓堂々相見ゆるに至る。世人之れを見て豆の殻*を燃するの類ども、是れ聵々(かいかい・世間知らず) の言、両者の交情依然として蜜の如し、戦ふ道に忠なればなり、親むは情に篤ければなり、争うて此に君子なるを見る。両者の唱ふる所、何れか是(ぜ)何れか非(ひ)なるに至ては、未だ容易に断ずべからず、論は百年の後に決せん、其の主義の相違るは斯道に忠なる所、蓋し止むを得ざるなり。」(『碧梧桐句集』佐藤紅緑「序文」・昭和十五年四月刊。なお、上記中、*記の表記は原文は旧漢字。)

 この佐藤紅緑の「序文」の紹介の後で、「俳句という文芸の『新しみ』を、『一(虚子)は内に求め一(碧梧桐)は外に求』めたということなのである。紅緑は、その是非の判定は百年後に委ねているが、今後の俳句史の流れの中にあって、虚子、碧梧桐、それぞれの俳句革新のどちらに軍配が上がるかは、なお定かでない。もちろん、平成十四年(二〇〇二)の時点では、虚子流の俳句が完全に俳壇を席捲しているが、長い俳句史のスパンで見たときに、今後、どのような事態が生じるか、まだまだ予断を許さないであろう」(復本・前掲書の復本指摘)は、全く同感である。

 ○ 蜩に墓冷ゆるまで立ち尽くす  

 この句は、上記の「序文」の末尾にある佐藤紅緑の、碧梧桐への追悼句という(復本・前掲書)。虚子、碧梧桐、そして、この紅緑もまた、子規山脈に連なる俳人であった。全ての種は、明治の、俳句革新の狼煙をあげた、正岡子規に連なっている。

(九)

○ 河東碧梧桐(続き・その三)

 平成十八年二月二十五日に付け「読売新聞」のコラムに次のような記事が掲載されていた。

「昨年死去した歌人の塚本邦雄さんが正と負について語ったことがある。近代短歌が禁忌として避けた技法を大胆に用い、生前は『負数の王』という異名もあった人である。『負数の王で結構だ』と塚本さんは言った。『負の10と負の10を掛けると正の100になる。その100と、正の10を10個集めた100は違う。正を積み重ねたものには陰翳(いんえい)がないのだ』と。」

 昭和十二年に亡くなった俳人・碧梧桐と昨年亡くなった歌人・塚本邦雄とを比するのもどうかと思うが、こと、この「負数の王」ということになると、碧梧桐は、塚本邦雄以上に「負数の王」という趣がする。明治四十四年、井泉水が創刊した「層雲」に参加して、その三年後には袂とを分かち(中塚一碧楼は「層雲」には参加せず)、大正四年に、今度は中塚一碧楼らとともに「海紅」を創刊してその主宰者となったが、その八年後の大正十一年には、その「海紅」を一碧楼に譲って、その翌年、今度は個人誌「碧」を創刊する。その関東大震災があった年、「海紅」の編集部が一碧楼の郷里、岡山県(玉島)に移ると、その「海紅」の東京在住の同人達が「東京俳三昧稿」(代表・風間直得)を刊行し、「碧」はこれと一緒になり、大正十四年に「三昧」が創刊されることになる。その「三昧」を、昭和七年に、風間直得に譲り、その年の一月に、木下笑風らの「壬申帖」に「優退辞」を公表し、そして、翌昭和八年三月二十五日、還暦祝賀会席上において、俳壇引退を表明して、二度と俳壇に戻ることはなかった。その昭和七年の碧梧桐の「優退辞」は次のとおりである(以上、上田都史『近代俳句文学史』による)。

「私はかつて『層雲』から退き、次いで『海紅』から私の名を削りました。『三昧』から勇退するのもほぼ同じような心理でありますが、前二者から退いた時は、まだ何か未解決にのこされているような、疑問の釈けないものが、脳裏の磊塊として残留していました。このたび『三昧』を離脱するについては、もはや何らの磊塊を留めないのであります。それは我々の芸術に関する論理的根拠が明らかにされた、詩的黎明に対する満足だからであろうと思います。我ら自ら一個の敗残者、落伍者として見ることすらが、私の快心事であるほど、私の胸中は明かな光風霽月であります。」

 これらのことについては、上田都史の『近代俳句文学史』に詳述されているが、これらの内容は、昭和六十一年一月から同六十三年一月までの「海程」に連載されたものが中心になっているという。これまた、高浜虚子の「ホトトギス」に比することもどうかという思いがするが、さしずめ、碧梧桐の思いというのは、これらの金子兜太らが代表する「海程」の、いわゆる「現代俳句」という流れの中に、その一端が息づいているようにも解せられる。

(十)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その一)

 「KAIKOH internet」というホームページがある。そのアドレスは次のとおりである。

http://www4.ktplan.jp/~kaikoh/

 このホームページの「海虹社」というところに、次のような記事がある。

「中塚一碧楼(なかつか いっぺきろう) 自由律俳句創始者(広辞苑では自由律俳句の創始者は荻原井泉水とされているが、 資料研究によって自由律俳句を最初に標榜したのは中塚一碧楼であることが 明らかにされている)。師匠関係は、正岡子規→河東碧梧桐→中塚一碧楼となる。 詳しくは、一碧楼物語のコーナーに連載中。」(「一碧楼物語」のコーナーは現在制作中。このホームページは、一碧楼のご子息の中塚檀が中心となっている。)

 荻原井泉水の「層雲」と中塚一碧楼の「海紅」については先に触れたが、「自由律俳句」のネーミングが一碧楼というのは、この一事をしても、一碧楼というのが、井泉水と並ぶ大きな影響力を有していた俳人ということを伺い知ることができる。「俳句の歴史」(四ツ谷龍)では、次のように紹介されている。

「明治・大正時代、多くの文人たちが日本語の文章を口語化する試みに熱中した。旧来の文語は格調に拘泥していたため、話しことばとの間に大きな距離ができており、近代的な思想や論理を表現するのに不適切なものとなっていた。そのため、言文一致の重要性が明らかになってきたのであった。俳句の形式は文語と固く結びついており、俳句への口語の導入は困難であると一般に考えられていた。俳句の各句を構成する5音節、7音節は、文語表現では馴染み深い音数であるが、口語表記はしばしば6音節、8音節などに音数が拡張しようとする傾きを持つためであった。こうした常識に反旗を翻し、俳句に積極的に口語を導入したのが中塚一碧楼であった。必然的にその俳句は、17音という音数にとらわれない、自由な形式をとるようになり、彼は『自由律俳句』の創始者となった。一碧楼は同時に、俳句に季語を必須とするルールを否定した。また指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた。
今日一碧楼の俳句を読むと、誰もがそのあまりの新しさに目を見張ることだろう。彼の句には神秘めかした気取ったところはいささかもないが、口語調の簡明な文体の中に、事物のエッセンスに対する鋭敏な認識を盛り込むことに成功している。彼の俳句は定型俳句のように安定はしておらず、蝋燭の焔のように揺れ動く人間の精神のかたちを、そのまま不定形のかたちの中に実現してみせたのである。

 鏡に映つたわたしがそのまま来た菊見
 掌がすべる白い火鉢よふるさとよ
 乳母は桶の海鼠を見てまた歩いた
 胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり
 秣の一車のかげでささやいて夏の日が来る
 単衣著の母とあらむ朝の窓なり
 刈粟残らずをしまつて倉の白い
 赤ん坊髪生えてうまれ来しぞ夜明け
 畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉
 げに蓬門炎天の一客を迎へ            」

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jippekiro.shtml

(十一)

○ 中塚一碧楼と「海紅」(その二)

 先の「俳句の歴史」(四ツ谷龍)の、「指導者が弟子に対して強力な指導権を発揮する従来の俳句雑誌の制度に疑問を呈し、作家個々の創意を重視すべきであると説いた」ということについては、中塚一碧楼について触れるときは、その中心に据える視点なのかもしれない。子規そして碧梧桐の流れというのは、子規山脈に連なる「座」(志を同じく仲間)というものを中心にして派生したものであった。少なくとも、碧梧桐、そして、「層雲」の荻原井泉水の流れというのは、この「座」というものを中核に据えて、その「座」の仲間(連衆)の切磋琢磨、そして、主宰者の選句・添削というのが必須要件でもあった。しかし、碧梧桐、そして、「海紅」の中塚一碧楼の流れというのは、この日本的な「座」中心というよりも、西洋的な個人の創造性を中心に据えての、「密室の創作性」への傾向を示して、主宰者の選句・添削というのは必須要件ではなく、逆に、これを否定する傾向を有していた。
その「海紅」の創刊号に、次のような一碧楼の記述がある(上田・前掲書)。

「我れらは雑誌『海紅』の発展を望む、もとより切なり、されど雑誌『海紅』は畢竟我等が作物発表機関のみ、我れは更に第一義に於て、我等各自銘々が、他の何物にも関はらざる、直き心の白熱を以て、銘々が作物をして至醇なるものたらしめ、権威あるものたらしめん事を願ふや、いや切なり。・・・我等は虚心に居りたし、我等は勇敢にありたし、而して止まるべからず、我が『海紅』をして海紅型を生ましめる勿れ。」

 一口に、自由律俳句といっても、碧梧桐、井泉水、そして、一碧楼のそれについては、それぞれに異同があり、最も徹底した、より西洋の孤独な密室作業に近い、より自由詩的な自由律俳句という分野は、一碧楼とその「海紅」社の流れのものであろう。そして、この一碧楼は、若き日の飯田蛇笏と下宿を共にして、共に一時期句作を同じくするのであった。この両者が、当時抬頭しつつあった「自然主義文学」の影響化にあったことは特筆しておく必要があろう(上田・前掲書)。と共に、この両者が、一方が、自由律俳句の雄となり、一方が、定型律の牙城の「ホトトギス」の虚子門の一人として、後の定型律の牙城になった「雲母」の創始者としてその雄となったことは、これまた特記しておく必要があろう。


(十二)

二 大正五年、『井泉水句集』、大正十五年、尾崎放哉句集『大空』、昭和十五年、種田山頭火句集『草木塔』の刊行。この当時が、自由律俳句のピーク。

○ 尾崎放哉と種田山頭火

 尾崎放哉と種田山頭火については先に触れた。

(尾崎放哉)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/01/post_1d67.html

(種田山頭火)

http://yahantei.blogzine.jp/world/2006/02/post_f4cc.html

 このお二人と「自由律俳句」を鳥瞰視する上で、次の「自由律俳句を考える」(草間時彦著『近代俳句の流れ』所収)は示唆に富んだものである。

「昨年(平成世四年)、自由律俳誌 『層雲』が終刊となった(註・この『層雲』が再刊の運びとなったことは先に触れた)。『海紅』が残っているとはいえ、新傾向から自由律に至る歴史はここに終わったという感が深い。
新傾向俳句は河東碧梧桐の
  思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇
 の句が新傾向と評されたのに始まる。明治三十九年、『三千里』の旅に出た碧梧桐は、新傾向俳句運動を全国に展開する。そして、定型は崩れ、無季を容認するに及んで、自由律俳句という新しい詩型となるのである。
 自由律俳句のピークはなんと言っても尾崎放哉、種田山頭火の二人である。
  墓のうらに廻る        放哉
  咳をしても一人        〃
  鉄鉢の中へも霰       山頭火
 この作は現代俳人の胸に新鮮な感動を与えて、日本の近代詩の最高傑作と言ってもよいであろう。だが、そのあとが続かなかった。後継者が現れなかったのである。そして、衰退の途を歩むばかりであった。
 何故、後継者が出なかったのだろう。定型俳句の場合は、常に後継者が育って、三百年
の命脈を保ってきた。正岡子規の俳句革命も、新しい俳句を標榜する碧梧桐ではなく、守旧派を名乗る高浜虚子が継承するという形となっている。
 西欧では詩作は孤独な業である。
 しかし、日本の俳句は座から生れる。山頭火も放哉も孤独な作家であった。座に安住出来る人ではなかった。むしろ、西欧型の詩人だったのである。
 座の約束であった季語を否定し、定型を放棄することは、俳句の精神構造の支えである座を否定することでもあった。自由律詩人はそれに気付かなかったようだ。
 私共、定型俳人は、定型、切字、そして季語を守ることによって優れた作品が生れると教えられて来た。そして、疑うところなく守って来た。その流儀に従って前掲の句を”添削”してみょう。
  秋風の墓のうしろに廻りけり
  鉄鉢の中にも霰降りにけり
 どちらが優れているか検討するまでもない。原作の方が桁違いに優れていることは皆さま、よくお判りであろう。同じ詩因を詩にして、非定型、非季語の方が優れているというのは、定型俳人として深く考えた方がよい。座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた。
 そして、山頭火、放哉の天才を生み、今、九十年の歴史の幕を閉じようとしている。その初期に於いては、俳句を新しくしようとする苦闘の歴史でもあったのだ。
 私共、現代俳人は新傾向、自由律俳句をもう一度、見直してみる必要がある。俳句としてばかりでなく、詩としての価値を再評価しなければならない。近代詩の世界で評価すべきなのである。更に現代俳句が自由律俳句から栄養を吸収しているという事実を無視してはいけない。
 それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである。」

 この最後の「それらは、消えゆく自由律俳句へのレクエムである」ということは、やや性急な見方という感を大にするが、「座の約束が万能ではないのである。自由律俳句はそれを成し遂げた」という思いと、「定型律俳人は、常に心に自由律俳人の詩心に思いを新たにし、自由律俳人は、常に定型律俳人が冠している定型という魔力に畏敬の念を払い」、この「定型律と自由律との拮抗したせめぎ合い」の中に、俳句というものの生命は保ち続けられるような、そんな思いがするのである。

(十三)

三 昭和十二年、栗林一石路、橋本夢道のブロレタリヤ俳句の「旗艦」を創刊して分離。

○ 橋本夢道

 この橋本夢道についても先に触れたことがある。

http://yahantei.blogzine.jp/

 今回、荻原井泉水周辺ということで、改めて橋本夢道関連のネットの紹介記事などを見ていって、やはり、自由律俳句において、橋本夢道は、放哉・山頭火に匹敵する俳人であるという思いがした。そして、栗林一石路、橋本夢道らの自由律俳句が、プロレタリヤ俳句という範疇に入ることについて、栗林一石路はともかくとして、こと夢道に関しては、よりリベラリストの俳人という思いがする。と同時に、栗林一石路、橋本夢道らの俳句の系譜が、河東碧梧桐らの「自然主義文学」(リアリズム)の影響下のものに連なるものということについても思いを新たにした。しかし、次のネット記事のように、夢道もまた、放哉や山頭火と同じく、碧梧桐・一碧路らのリアリズムを基調とする自由律俳句と微妙な相違があり、より求道主義的・ロマンチシズム的色彩の荻原井泉水の影響下にあったということを知り、やはり、自由律俳句における、荻原井泉水の影響力というのは、定型律俳句の高浜虚子に匹敵するという感を大にしたのである。

http://www.city.chuo.lg.jp/koho/170115/san0115.html

下記の橋本夢道の紹介記事は、上記のアドレスのものである。

○ 寡作凡作月島蟋蟀(こおろぎ)「ひいひいひい」
○ 動けば寒い

 これは橋本夢道(むどう)が詠んだ俳句です。前の句は字あまりです。後の句は、字たらずといういい方があるのかどうかわかりませんが、そんなところでしょうか。俳句は五七五の十七音の定型句が基本ですが、橋本夢道が詠んだ右の句はこの基本からはずれた自由律の俳句です。
 自由律俳句は、形式を重んずるのではなく、心に内在するもの、感動のほとばしりを率直に詠むことを目指しました。季語の拘束もなく、用語も口語体を用いました。早くは明治四十年代に河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)(明治六年~昭和十二年。伊予松山の生まれ。父は儒者、中学時代正岡子規から野球の手ほどきを受け、やがて俳句の指導を受けるようになりました)が新傾向句の運動を起こしたのが始まりでした。この運動に参加していた荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(明治十七年~昭和五十一年。芝区神明町生まれ。一高、東京帝大言語学科を卒業)は、明治四十四年に河東碧梧桐と相談して句誌『層雲(そううん)』を発行しました。荻原井泉水は定型を壊し、季語を入れない自由律俳句を積極的に推進しました。荻原井泉水の影響のもとに漂白の俳人といわれる尾崎放哉(ほうさい)(明治十八年~大正十五年)、種田山頭火(さんとうか)(明治十五年~昭和十五年)らが現れました。
 橋本夢道は、新聞『万朝報(よろづちょうほう)』に載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ桜散る中をあるく」を読んで感動し、『層雲』に入門しました。
 橋本夢道は、明治三十六(一九○三)年四月、徳島県名東(みょうどう)郡北井上村において、父慶五郎、母タキの五男二女の三男として生まれました。本名を淳一といいました。父は染料の原料となる藍(のちに桑を植え、養蚕に切り替えました)を栽培する農家でした。子沢山で生活は楽ではありませんでした。夢道本人は自分の家を小作農といっていますが、自作農であったという言い伝えもあります。あるいは自作地を持ちながら地主から土地をかりて農事にたずさわる自小作農であったのかもしれません。
 父親は淳一が小学校を卒業するとすぐに奉公に出すつもりでした。進学には大反対でした。当時としてはそれが当たり前のことでした。ところが、淳一の小学校の担任の先生が淳一の才能を認めて是非高等小学校(二年制)への進学を勧め、父親を説得してくれました(漆原伯夫(のりお)著『桃咲く藁家から 橋本夢道伝』)。
 淳一は大正五(一九一六)年高等小学校を卒業しますと、近くの藍商奥村家に丁稚(でっち)奉公に出されました。ここで二年近く奉公していましたが、淳一は人柄と才能を見込まれ東京支店行きを勧められて大正七年一月上京し、深川区一色町一番地の肥料商奥村嘉蔵商店に小僧として住み込むことになりました。母は「淳よ、東京へ行っても盗っ人だけにはなるなよ」といってわが子を送り出したといいます。淳一十五歳の時でした。
 古い仕来りの奥村商店に奉公して使い走りの仕事を三年あまり、大正十一年のある日、先に述べましたように、『万朝報』に載った荻原井泉水の句にふれて感動し、図書館に通い、井泉水の著書を読んで『層雲』に入門しました。
 新聞に掲載された俳句を淳一がたまたま読んだという事ではなく、彼の周囲にはそれなりに俳句に関心をもつような環境があったのです。淳一の叔父は俳句を詠んだ人で、旅先の東京において二十六歳の若さで亡くなっています。また、最初の奉公先、徳島の奥村家の大番頭奥村広助は営業の要として活躍するかたわら、奥村雪野(せつや))の号を持つ俳人でもありました。徳島というところは生活に余裕がある人たちが俳句をたしなみ、よく句会を開く土地柄でした。おそらく、淳一は広助から俳句をすすめられたのでしょう。
 淳一が小学校在学中に詠んだ句「なかなかにみすてかねたり春の夕暮」は、教師たちに賞賛されたといいます。
 小僧といえば、一年間を通して正月と盆の二回の藪入りの時しか休暇を貰えなかったのが普通でしたが、第一次世界大戦も終結した大正十年のころともなれば、日曜日に休暇を与える商店も多くなっていました。淳一は暇を見つけては日曜日に図書館に通うようになりました。一日中図書館に入り浸ることも稀ではなくなりました。図書館に行くとまず備え付けの新聞に眼を通す習わしでした。『万朝報』のコラム「一日一人」欄は毎回必ず眼を通すことにしていました。
 そこに載った荻原井泉水の句「君を待たしたよ櫻散る中をあるく」に釘付けとなったのでした。定型の句に縛られていた淳一にとって気持ちを素直にかつ率直に表現した「君を待たしたよ」のフレーズは新鮮でした。
 一日の仕事を終えて夜のひととき俳句を作ることが日課となりました。投句した一句 「野菊咲き続く日あたりはある山路」が大正十一年二月号の『層雲』に掲載されました。この句は三浦半島を巡遊した時の印象を詠んだものでした。俳号を夢道とし、「ゆめみち」と読ませていました。俳人夢道の誕生といってよいでしょう。
 奥村商店では二十歳になりますと、小僧から若衆となり、真新しい羽織が与えられました。若衆は「わかいし」とよみ、東京でも徳島本店の商習慣を採り入れていました。
 夢道は一人前に遇され、部下を持ち、業務を任されました。この年は大正十二年。関東地方を襲った関東大震災があり、夢道にとっても徴兵検査という大きな出来事がありました。


(十四)

○ 栗林一石路

 自由律俳句の流れの一つとして、大正・昭和のプロレタリア文学の勃興と軌を一にして、栗林一石路・橋本夢道らの、いわゆる「プロレタリア俳句」というジャンルが派生していった。これらのネット関連記事として、次のアドレスに、下記のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q148C100.HTM

【プロレタリア俳句】昭和の初め,反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり,短歌の連作の影響を受け,連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ,新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが,プロレタリア文学理論を句作に導入し,弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ,新興俳句と提携し,橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし,1941年には全員検挙投獄され,廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は,無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために,新興俳句にまでおよび,同じころ,新興俳句派も弾圧された。

 この栗林一石路に関連するネット記事というのは、橋本夢道よりも少なく、ほとんど、他の俳人と一緒のものが多く、その年譜すらまとまったものは見ない。以下、『現代俳句辞典』(「俳句」臨時増刊)によるもの(古沢太穂稿)を掲載しておきたい。

栗林一石路   明治二十七年十月十四日~昭和三十六年五月二十五日、六十六歳。長野県小県群青木村生れ。本名農夫(たみお)。六歳で父を失い母が再婚した栗林の姓を名のる。明治四十四年荻原井泉水が「層雲」を発刊、その革新的精神に共鳴して参加。大正十二年上京して改造社に入り進歩的思想に洗われる一方、層雲の有力作家に成長した。新聞連合社(後の同盟通信)に転じ句集『シャツと雑草』(昭和四)を出す。この頃から層雲にブロレタリアの俳句運動が起りその中心となる。昭和六年層雲を脱し、九年「俳句生活」同人となる。十六年二月俳句事件で検挙され、十八年春出獄後も発表の自由を奪われた。戦後、新俳句人連盟を結成、初代幹事長。以後三十二年肺結核で稲毛額田病院へ入院するまでその代表として活動した。前出句集のほか『行路』(昭和十五)『生活俳句論』(同)『俳句芸術論』(昭和二十三)『俳句と生活』(昭和二十六)『栗林一石路句集』(昭和三十)など。「シャツ雑草にぶつかけておく」「メーデーの腕めくば雨にあたたかし」

 この栗林一石路の「シャツ雑草にぶつかけておく」については、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)で、次のように鑑賞されている。

http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20040316,20040709&tit=栗林一石路&tit2=栗林一石路の

※無季句だが、明らかに夏の情景だ。猛烈な炎天下、もうシャツなんて着てはいられない。辛抱しきれずにしゃにむに脱いで、そこらへんの雑草の上に、かなぐり捨てるように「ぶっかけておく」。まるで「ファィトーッ、イッパーツ、○○○○○○ !」みたいなシーンを思う人もいるかもしれないが、句の背景はあんなに呑気なものじゃない。工事現場でツルハシを振っているのか、荒地でクワを振っているのか。いずれにしても、生活をかけた過酷な労働を詠んだ句である。「ぶっかけておく」という荒々しい表現が、酷暑のなかの肉体労働者の姿を鮮明に写し出し、理不尽な社会への怒りを露にしている。失うものなど、何もない。そんなぎりぎりのところに追いつめられた労働者の肉体が、汗みどろになって発している声なき声なのだ。戦前のプロレタリア俳句運動の代表句として知られるこの一句は、現在にいたるもその訴求力を失ってはいない。これが俳句だろうかだとか、ましてや無季がどうしたのとかいう議論の次元をはるかに越えて、この力強く簡潔な「詩」に圧倒されない人はいないだろう。そして詩とは、本来こうあるべきものなのだ。根底に詩があれば、それが俳句だろうと和歌だろうと、その他の何であろうが構いはしないのである。くどいようだが、俳句や和歌のために詩はあるのではない。逆である。『栗林一石路句集』(1955)所収。(清水哲男)

(十五)

四 昭和二十二年、「河童」、昭和四十二年、「颱」、昭和四十三年、「視界」を創刊・分離。
五 昭和五十一年、井泉水死去。平成四年、「層雲」終刊。同年、「随雲」創刊。平成十三年、「層雲」再刊して、現在に至る。

 これらの、昭和二十二年以降の、「河童」・「視界」の創刊などの動きは、「自由律俳句」という狭い領域での内部的な離反分袂下のものとなり、もはや、大きく、日本俳壇における「定型律俳句と自由律俳句との相克」という、これまでの大きな流れとは異質のものとなってしまった。上田都史氏の言葉を借りてするならば、「現代の俳人の大方は、最早、井泉水、一碧楼亡き後の自由律俳句に、まったく信用をおいていない。有り体に申せば、それは、大きな遺産をただ食い潰しているに過ぎないからである。前方を見ないのは仕方のないこととしても、振り返って真にうしろさえ見ようとしない」(『近代俳句文学史』)という表現に置き替えられるのかもしれない。しかし、これまで、碧梧桐・井泉水、一碧楼らが取組んできた、「新しい俳句」を目指すという俳句革新の流れとそれに対する大きな成果もたらしたということは、現在の、「現代俳句と伝統俳句との相克」という真っ直中にあって、いささかも色褪せるものではなく、ますます、今後その真価が問われていくことであろう。そして、再刊された自由律俳句史「層雲」の下記の「先達の句」にその名を刻んだ俳人達の正しい評価が、今こそ切望されるということであろう。
 
http://www.geocities.jp/souunweb/img/sendatsu/sendatsu.htm

なお、この「先達の句」のうち、最近の自由律俳句の俳人として注目を集めた、住宅謙信については、先に触れたが、下記のアドレスに収載してある。

http://yahantei.blogzine.jp/world/cat2802227/index.html

【層雲の先達者達とその代表句】

荻原井泉水(1884~1976)
 たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く
 太陽のしたにこれは淋しき薊が一本
 空を歩む朗々と月ひとり
 棹さして月のただ中
 わらやふるゆきつもる
 石のしたしさよしぐれけり
 花を花に来て花の中に坐り
 男と女あなさむざむと抱き合ふものか
 ほとももあらはに病む母見るも別れか
 美し骨壺 牡丹化られている

種田山頭火(1884~1976)
 分け入っても分け入っても青い山
 まっすぐな道でさみしい
 うしろすがたのしぐれていくか
 ほろほろ酔うて木の葉ふる
 生死の中の雪ふりしきる
 鉄鉢の中へも霰
 雪へ雪ふるしづけさにをる
 てふてふひらひらいらかをこえた
 おちついて死ねそうな草萌ゆる
 もりもりもりあがる雲へ歩む

尾崎放哉(1885~1925)
 せきをしてもひとり
 入れものが無い両手で受ける
 足のうら洗えば白くなる
 墓のうらに廻る
 こんなよい月を一人で見て寝る
 酔いのさめかけの星が出てゐる
 月夜の葦が折れとる
 障子あけて置く海も暮れきる
 肉がやせて来る太い骨である
 春の山のうしろから烟が出だした

秋山秋紅蓼(1885~1966)
 静かに星が砂のごと湧きいづる空
 かぜがおばなのやまのかたちをふく
 夢の中の女が青い帯しめて来た朝
 夕べの富士の晴れてるを貧しく住む
 梅花無惨散って咲いて散り果てている

芹田鳳車(1885~1954)
 月が夜どこかで硝子がこわれる
 草に寝れば空流る雲の音きこゆ
 一個の物体林檎が一つまあるく黙す
 さくらの花もさききった夜がひっそり
 真昼で止まった時計の時刻が海へ置いてある椅子

青木此君楼(1887~1968)
 蜘蛛が巣をあむ月光にはりわたし
 語りつくしたよう小ぶりになっている雨
 一と足うしろへ牛がうごいた
 ならんで背も同じすずめ
 一と鉢の黄菊

木村緑平(1888~1968)
 こくなに雀がゐる家で貧乏している
 雀が巣に入ったみんなだまってゐろよ
 すずめの春はひろい空が咲いている
 石も木の下がすずしい
 どちらが先に死ぬにしても蝉聴いている

内島北朗(1889~1978)
 花らんまん陶窯を出し壺を抱く
 頭寒足熱今日の空晴れわたる
 わが壺に水を満たし笑う花の一枝を挿す
 窯の火窯をあふれる星空いっぱいの星
 窯に火を放ちことばなかりき

大越吾亦紅(1889~1965)
 山で鳩鳴くむかしから人間いてさびしとおもう
 みるみる積る雪降りオルガンは寂かに聞えるもの
 山の兎の白くなりそうしててっぽうでうたれた
 親にそむく心麦踏みてやはらげり
 雲のうらに僅かに月が見えその程度の明るさの町

大橋裸木(1890~1933)
 陽へ病む
 水にうけて親子三人の三つの桃
 春さきの水平線がすっとあるポスト
 涼む子のおそそがみえたりして涼しいかぎり
 清閑寺ならこうお行きやして春の白雲

野村朱鱗洞(1893~1918)
 かがやきのきはみしら波うち返し
 はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り
 麦は正しく伸びてゆき列をつくりたり
 れうらんのはなのはるひをふらせ
 舟をのぼれば島人の墓が見えわたり

池原魚眠洞(1893~1987)
 月の明るさは音のない海が動いている
 海がばさりともいわず夜が牡丹雪となる
 海が噛みつくように狂う音の二階へ急な階段
 いちにちうちにいて冬の日が部屋の中移ってゆく
 肩寄せて星の暗いのを春と思ってゆく道

栗林一石路(1894~1961)
 シャツ雑草にぶっかけておく
 もう吸う血がない死顔を蚊がはなれてゆく
 鰯くろく焼けたら火を消せと妻
 いくさあらすな花菜風わたる日のにおい
 銭がころげておちつけば音のさびしい灯

家木松郎
 雨にぬれて花びら心もち発熱する
 鏡の底の詩人と話す少女の首
 波から咲いた梅か月は航海する
 未明の杉少女指よりインキ流し
 風が消え村が消え一月の細身の鴉

小澤武二(1896~1966)
 絵の消えた絵馬がかかっていた
 土むずがゆく芽を出し芽を出し
 さつと光りてまた風が草を渡るなり
 死顔に化粧する紅が見あたらない
 二人語れば向日葵やゝに廻りけり

河本緑石(1897~1933)
 冬の夕焼さびしい指が生えた
 あらうみのやねやね
 蛍一つ二つゐる闇へ子を失うてゐる
 迷いあぐんだ街角で枯木になる
 私の胸に黒い夜沼の蛇だ

中原紫童(1899~1963)
 めおとごと終り夜のさゐさゐと雨ふるや
 蛍一つ戸にすがりこの家喪にをる
 水の上に出て鯉の尾ひれ春うごく
 うまのまつ毛のさみしさは春のゆきふる
 さくらちる人形はいつも硝子の中

牧山牧句人(1897~1967)
 一点の不安を女が花を買いたい気持
 音感をそのロマンスグレイとはそんな人新刊書
 麦畑の畝の整然と青い拳銃をうつ
 月と美しい空気が冬は目を病んでいる
 灰皿にして貝殻のすいがらのべに

船木月々紅(1897~1969)
 神は冬をつくりたもう一本の枯葦
 月が静かにさしよればフラスコにある球面
 ハーモニカの音階細長い光を蛍がひく
 四ツの方向から四人が昇って来て絶頂に金色の十字架をたてる
 水の上に浮いて夏の月がやがて水底に沈んでゆくようす

巣山鳴雨(1902~1982)
 二階から魚屋の魚見えて秋に入る雨
 心にも花散りいそぐまこと春なり
 いちにち風がなく日ぐれて白いにわとり
 炭は炎おさめている椿一輪の赤
 秋が空からそして窓から皿には柿

関口父草(1902~1999)
 一草一仏とおもう花の白さよ
 冬がざらざらななかまどでごわす
 風がどぎつく鋭く研ぎしもの持ち
 浪がしらほのかにも荒海の暗さなり
 こごえてこごえはてて月のでている枝という枝

海藤抱壺(1902~1940)
 皿に赤い心臓が深夜の桃
 日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴
 クリストの齢なるこそ女に触れぬ我身こそ
 窓に、私の空はいつも横にある
 夢の中の私も病んでねてゐた

橋本夢道(1903~1974)
 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
 妻よ五十年吾と面白かったと言いなさい
 妻よたった十日余りの兵隊に来た烈しい俺の性欲が銃口を磨いている
 精虫四万の子宮へ浮游する夜をみつめている
 妻をはなれて妻がこいしい夜の大阪の灯や河

和田光利(1903~1991)
 額しろき馬の額あげて夏山幾重
 麦は刈るべし最上の川の押しゆくひかり
 白馬の狂いしづまり緋牡丹の花
 絶巓はさびしにんげんふたり坐る余地なし
 その蛇を打ち樹液したたる枝

井上三喜夫(1904~1990)
 すずめのあとからすずめがきて うめのえだ
 なんでもない そらが うつくしい ばかり
 わたしは かぜに なりたい 春のかぜに
 かがし かがし これで人の子教えにゆくか
 あさり いまはふたをとじ自分を思っている

松尾あつゆき(1908~1985)
 すべなし地に置けば子にむらがる蠅(原爆句抄)
 とんぼう、子を焼く木ひろうてくる
 ほのお、兄をなかによりそうて火になる
 かぜ、子らに火をつけてたばこ一本
 外には二つ、壕の内にも月さしてくるなきがら

筒井茎吉(1907~1996) 
 岸壁の瞑い灯は鯖のぬれて青い雨
 剃刀の感触が鏡のなかの百合の匂いとなる
 酔うた月の裏町のりんごは野性的に囓るべし
 訪ねて雨のさくらの枝が表札のうすらいだ文字
 諍いのあとの冬の苺に添えた楊子

岡野宵火(1916~1951)
 くちづけ、しろいはなしろくくれている
 かさのなかもはなしがあってゆく
 骨壺のおもみいだき膝におきそうして、おる
 わかれてしまえば月にひらひら遠くなりゆく
 べにのついたすいさしが煙って宵になったばかり

平松星童(1926~1987)
 なみだふきながららくがきしている
 あいたいとだけびしょびしょのハガキがいちまい
 遠い祭がきこえる金魚水の中で寂しい花火になる
 裸馬に裸の少年水にぬれ月にぬれていく
 ぽっくり死なれてみればまことに冬がおてんきつづき

飯島翆壺洞(1940~1983) 
 私の内なる丘の春霞に蒼き鹿立てり
 月夜の海がけものの骨あらっている
 美しいけもの罠に陥ち枯野雪ふる
 塚累々ひとの墓うまの墓ちょうの墓
 春の日暮れへ行方不明になった機関車

住宅顕信(1961~1987)
 若さとはこんな淋しい春なのか
 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
 春風の重い扉だ
 ずぶぬれて犬ころ
 とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる

月曜日, 2月 13, 2006

山頭火散策(その一~その十三)



山頭火散策

「つれづれ文庫」の「種田山山頭火」(下記アドレス)のものを抜粋しながら、山頭火の自由律俳句というものを散策してみたい。

http://www.nextftp.com/y_misa/

(その一)

鉢の子

   大正十四年二月、いよいよ出家得度して肥後
   の田舎なる味取観昔堂守となつたが、それは
   まことに山林独住の、しづかといへばしづか
   な、さびしいと思へばさびしい生活であつた。
松はみな枝垂れて南無観世音

松風に明け暮れの鐘撞いて

ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる

   大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負
   うて、行乞流転の旅に出た。
分け入つても分け入つても青い山
 
しとどに濡れてこれは道しるべの石
 
炎天をいただいて乞ひ歩く

   放哉居士の作に和して
鴉啼いてわたしも一人

   生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁
   なり(修証義)
生死の中の雪ふりしきる


 山頭火が亡くなる年(昭和十五年)に刊行された、一代句集『草木塔』の冒頭の章「鉢の子」の冒頭の八句である。「分け入つても分け入つても青い山」、山頭火の代表作でもある。このリズムは「分け入つても(六)分け入つても(六)青い山(五)」の十七音字の破調のようにも思われる。季語はないけれども、「青い山」は、禅林句集などに出てくる、「青山自青山、白雲自白雲」など古来からよく使われている用語で、季語的な働きをしているとも解せられる。「鴉啼いてわたしも一人」は、その「放哉居士の作に和して」の前書きのとおり、放哉の「咳をしても一人」・「鴉がだまって飛んで行った」などが念頭にあろうか。いわゆる、放哉の句の「本句取り」の句、そして、放哉への挨拶句ということになろう。こういうところを見ていくと、山頭火の自由律俳句というのは、それほど、有季・定型の、いわゆる、俳諧が本来有していたものと、全く異質の世界のものではなく、その延長線上のものであるということを実感する。

(その二)

其中一人
 
雨ふるふるさとははだしであるく
 
くりやまで月かげの一人で
 
かるかやへかるかやのゆれてゐる
 
うつりきてお彼岸花の花ざかり

朝焼雨ふる大根まかう

『草木塔』第二章の「其中一人」の冒頭の五句である。この五句のみを見ただけでも、山頭火の自由律俳句というのは、一目瞭然で実に平明な句作りというのが理解できる。およそ、語釈を必要とするものもなく、とりたてて、これらの句の散文的な鑑賞文はかえって煩わしいものとなってこよう。と同時に、漢字の表現よりも平仮名の表現が多く、それがまた、山頭火俳句の特色ともいえるであろう。これらのことについて、「対談 今、なぜ山頭火か」(村上護・石寒太)で、「彼(註・山頭火)は美しい日本語、美しい日本の心というか、そういうものを常に持っていました。ですから、社会的な身なりは、乞食という形で生きながら、心そのものは非常に高貴で、そういう高貴なものを映し出す言葉というのは、鏡みたいなものですね。美しい日本語を使うということに対しては、大変に勉強もしてますし、意識的に使っています」(石寒太編『保存版 山頭火』所収の村上護)と、ここに、山頭火の俳句の大きな特徴を見出すことができそうである。そして、山頭火・放哉の師にあたる「層雲」主宰の荻原井泉水は、言語学者で、国語学者の金田一京助、英語学者の市川三喜らと東大の同窓で、その井泉水の影響を大きく受けているということが指摘できそうである(石寒太編・前掲書)。

(その三)

行乞途上

朝露しつとり行きたい方へ行く
 
ほととぎすあすはあの山こえて行かう
 
笠をぬぎしみじみとぬれ
 
    家を持たない秋がふかうなるばかり
 行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあて
もなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲し
がつてゐた寝床はめぐまれた。
 昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、
そこに移り住むことが出来たのである。
    蔓珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ
 私は酒が好きであり水もまた好きである。昨日までは酒が水より
も好きであつた。今日は酒が好きな程度に於て水も好きである。明
日は水が酒よりも好きになるかも知れない。
 「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かつ
た。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句
がチヤンポンになつてゐる。これからは水のやうな句が多いやうに
と念じてゐる。淡如水――それが私の境涯でなければならないから。
(昭和八年十月十五日、其中庵にて、山頭火)

『草木塔』第三章の「行乞途上」の「あとがき」とその前の三句である。

 「歌人の西行は自分の内面を見つめる意志的な積極性をもって漂泊の旅をした。松尾芭蕉も求道者ではあるが、その旅は弟子を連れての紀行であり、周到に計画された漂泊であったといえる。小林一茶は山頭火と同じようにメモ魔であることは共通しているにしても、江戸と信濃柏原に居所を持った定住型の漂泊者であって放浪の輩ではなかった。故郷に後ろ髪を引かれる思いを心に宿しながら、その白い微光の痛みを感じつつ歩いた山頭火は、旅先のすべてをその薄日の中に見て、世を捨てて求道者たらんとする自分と相克をつづけていた」(石寒太編・前掲書所収「行乞の果てに見た真実(金子兜太稿)」)。

 この金子兜太の山頭火観が、これらの掲出句とその「あとがき」を見ると、つくづくと実感する。

(その四)

山行水行

山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
炎天かくすところなく水のながれくる


旅から旅へ

 飯田にて病む 二句
まこと山国の、山ばかりなる月の
 
あすはかへらうさくらちるちつてくる

 山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウ
とも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することで
あり、歩くことが行ずることに外ならないからである。
 昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近
いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさら
に選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよ
ろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に
於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。
    あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
    あるけば草の実すわれば草の実
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実
をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残す
ことにする。
 私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひ
たいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまよう
てゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦
しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくに
して、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出した
のである。
 在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に
蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在
るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものか
ら逃れようとするのではない。
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。
私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつと
めであり同時に私のねがひである。
(昭和九年の秋、其中庵にて、頭火)

『草木塔』第四章の「山行水行」の一句並びに第五章「旅から旅」の「あとがき」とその前の前書きのある二句である。この山頭火の「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである」の指摘は、詩人の、俳人の、望まれるその姿勢と心掛けを見事に言い当てている。それと同時に、かって、「尾崎放哉探索」で記した、平畑静塔の「俳句の曲譜は定型そのものにあり、俳人は歌手に過ぎない」(『俳人格説』所収「定型不実論」)が思い起こされてくる。

(その五)

雑草風景

   病中 五句
死んでしまへば雑草雨ふる
 
死をまへに涼しい風
 
風鈴の鳴るさへ死のしのびよる
 
おもひおくことはないゆふべの芋の葉ひらひら
 
傷が癒えゆく秋めいた風となつて吹く
 
秋風の水音の石をみがく
 
萩が径へまでたまたま人の来る
 
月へ萱の穂の伸びやう
 
旅はゆふかげの電信棒のつくつくぼうし
 
つきあたれば秋めく海でたたへてゐる
 
 題して『雑草風景』といふ、それは其中庵風景であり、そしてま
た山頭火風景である。
 風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがす
がたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに。
 私は雑草的存在に過ぎないけれどそれで満ち足りてゐる。雑草は
雑草として、生え伸び咲き実り、そして枯れてしまへばそれでよろ
しいのである。
 或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私である
が、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であるこ
とに間違ひはない。
 此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年し
か老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの
多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧
困を恥ぢ入るばかりである。
(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ、山頭火)
『草木塔』第六章の「雑草風景」の「あとがき」とその前の十句である。この「あとがき」の「風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかをりとなり、色が光となるやうに」とは、山頭火の作句上の基本的な姿勢であろう。このこととあわせ、次の山頭火の言葉は、山頭火その人を知るというよりも、詩歌に携わる者の共通言語のようなものに思われる。
「私は最早印象だけでは・・・単に印象を印象として表白することだけでは満足することが出来ないやうになりました。印象に即して印象の奥を探り、そこに秘められた或る物を暗示しななければならないと信じててゐます。そしてそこから象徴詩として俳句が生まれると信じてゐます」(「草上句評の中で」)。

(その六)

柿の葉

自戒
一つあれば事足る鍋の米をとぐ
 
 柿の葉はうつくしい、若葉も青葉も――ことに落葉はうつくし
い。濡れてかがやく柿の落葉に見入るとき、私は造化の妙にうた
れるのである。
 
    あるけば草の実すわれば草の実
    あるけばかつこういそげばかつこう
 
 そのどちらかを捨つべきであらうが、私としてはいづれにも捨
 てがたいものがある。昨年東北地方を旅して、郭公が多いのに驚
 きつつ心ゆくまでその声を聴いた。信濃路では、生れて始めてそ
 の姿さへ観たのであつた。
 
    やつぱり一人がよろしい雑草
    やつぱり一人はさみしい枯草
 
 自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人
句集では許されないでもあるまいと考へて敢て採録した。かうし
た私の心境は解つてもらへると信じてゐる。
(昭和丁丑の夏、其中庵にて 山頭火)

『草木塔』第七章の「柿の葉」の「あとがき」とその前の句である。山頭火が所属していた「層雲」の第一信条が、「一草一木の真実を観取すべし」とのことである(伊藤寛吾著『山頭火を語る』)。この「層雲」主宰の荻原井泉水の、この作句信条を身を挺して実践した人、その人こそ、種田山頭火ということになろう。そして、山頭火は俳人の多くがそうしたように、常に、推敲に推敲を重ねる俳人でもあった。(「推敲」というよりも、山頭火自身、「改作」という言葉を使っており、そのメモ書きのような類型句の多さからすると、山頭火自身の言葉の「改作」いうニュアンスがより妥当なのかもしれない。)

(その七)

銃後

街頭所見
日ざかりの千人針の一針づつ
  戦死者の家
ひつそりとして八ツ手花咲く
遺骨を迎ふ
しぐれつつしづかにも六百五十柱
  遺骨を迎へて
いさましくもかなしくも白い函
遺骨を抱いて帰郷する父親
ぽろぽろしたたる汗がましろな函に
ほまれの家
音は並んで日の丸はたたく
  歓送
これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗
戦傷兵士
足は手は支那に残してふたたび日本に

 『草木塔』第八章「銃後」の前書きのある八句である。
 大正デモクラシーが席巻していた当時、新興俳句・新興川柳の波が押し寄せていた。かし、これらの波は、昭和十五年に前後して、「新興俳句弾圧事件」・「新興川柳弾圧事件」によって、沈黙を余儀なくされた。それは実に、いわゆる大東亜戦争が始まる直前のことであった。山頭火らの自由律俳句というのは、明治末期から大正初期にかけての、河東碧梧桐らの新傾向俳句を母胎としており、無季俳句の志向とあわせ、自由律俳句の進展というのは必然的な流れの一つでもあった。掲出の山頭火の自由律俳句にも、新興俳句・新興川柳の多くがそうであったように、反戦的な響きを有している。掲出の「戦傷兵士」との前書きのある「足は手は支那に残してふたたび日本に」には、新興川柳弾圧事件により、二十九歳の若さで散った、反戦川柳人の鶴彬の「手と足ともいだ丸太にしてかへし」と同じ視点のものであろう。そして、山頭火のこうした一面については、全く等閑視されており、やはり山頭火の全体像を知るうえでは、これらの視点での今後の掘り下げが必要となってこよう。

(その八)

孤寒

  母の四十七回忌
うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする

  
旅心

   妹の家
たまたまたづね来てその泰山木が咲いてゐて


孤寒といふ語は私としても好ましいとは思はないが、私はその
語が表現する限界を彷徨してゐる。私は早くさういふ句境から抜
け出したい。この関頭を透過しなければ、私の句作は無礙自在で
あり得ない。
(孤高といふやうな言葉は多くの場合に於て夜郎自大のシノニム
に過ぎない。)
 私の祖母はずゐぶん長生したが、長生したがためにかへつて没
落転々の憂目を見た。祖母はいつも『業やれ業やれ』と呟いてゐ
た。私もこのごろになつて、句作するとき(恥かしいことには酒
を飲むときも同様に)『業だな業だな』と考へるやうになつた。
祖母の業やれは悲しいあきらめであつたが、私の業だなは寂しい
白覚である。私はその業を甘受してゐる。むしろその業を悦楽し
てゐる。
 
    凩の日の丸二つ二人も出してゐる
    音は並んで日の丸はたたく
 
 二句とも同一の事変現象をうたつた作であるが(季は違つてゐ
たが)、前句は眼から心への、後句は耳から心への印象表現とし
て、どちらも残しておきたい。

    しみじみ食べる飯ばかりの飯である
    草にすわり飯ばかりの飯
 
 やうやくにして改作することが出来た。両句は十年あまりの歳
月を隔ててゐる。その間の生活過程を顧みると、私には感慨深い
ものがある。
(昭和十三年十月、其中庵にて、山頭火)

『草木塔』第八章「孤寒」と第九章「旅心」の母と妹への山頭火の句とその「あとがき」である。そもそも山頭火のこの『草木塔』は、山頭火が十歳のときに、自らの命を絶った母への、その鎮魂のための句集であった。この句集の扉に、「若うして死をいそぎたまへる / 母上の霊前に / 本書を供へまつる」と記されている。山頭火の一生は、乞食の姿で、乞食になりきり、母が亡くなった古里の古い井戸に想いを馳せ、その古里を、そして、血縁の妹さんの家の辺りを放浪する日々でもあった。弟さんも自らの命を絶った。その弟さんが亡くなったときに、この「あとがき」に「業(ごう)やれ、業やれ」が口癖であった祖母も亡くなっている。山頭火の、この句集『草木塔』は、山頭火を廻る、これら山頭火の血縁の方々への鎮魂の句集と位置づけられるのであろう。この『草木塔』は私家版の折本句集七冊を集成したものであった。そして、この句集が刊行されたのは、昭和十五年四月二十八日、そして、その年の十月に、その五十八年の生涯を閉じている。まさに、山頭火の、この五十八年の生涯は、この一代句集『草木塔』の一冊を刊行するための、そのための生涯であったともいえるであろう。

(その九)

鴉

  伊良湖岬
はるばるたづね来て岩鼻一人

   渥美半島
まがると風が海ちかい豌豆畑

   鳳来寺拝登
お山しんしんしづくする真実不虚

    青蓋句屋
花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました

   浜名街道
水のまんなかの道がまつすぐ

   秋葉山中
石に腰を、墓であつたか
 
水たたへたればおよぐ蟇

   天龍川をさかのぼる
水音けふもひとり旅ゆく


   九月、四国巡礼の旅へ
 
鴉とんでゆく水をわたらう
 
 三年ぶりに句稿(昭和十三年七月――十四年九月)を整理
して七十二句ほど拾ひあげた。
 所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。
        (昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて、山頭火)

 山頭火の、この『草木塔』は、大正十四年から昭和十三年までの、それまでの私家版の七冊の句集を集大成したもので、全部で七百一句が収載されている。そして、この句集の刊行は、山頭火が亡くなる昭和十五年四月二十八日で、発行元は東京の八雲書林、部数は七百部とのことであった(石・前掲書所収『「山頭火」世捨て紀行(村上護稿)』)。そして、この句集を刊行した、その昭和十五年の十月十日に、松山市の最後の居所の「一草庵」で、亡くなっている。この『草木塔』以後の作品については、山頭火の最晩年の姿が髣髴としてくるので、その全句を掲出しておきたい。

(その十)

昭和十四年九月~十二月 (その一)

柳ちるもとの乞食になつて歩く
 
石に松が昔ながら散松葉
 (白船居)
海見れば波音ききたくちよいと下車する
 
めうとで水汲む青田あをあを
 (沿道所見)
誰やら休んだらしい秋草をしいて私も
 
まづしいくらしのいちじくうれてきた
 
秋あらき波音の日ねもすあるく

ぬれてついてほんにしづかな雨

 (指月堂草房)
酔ひざめの木の葉ちるなりおちるなり

   宇品乗船
ひよいと四国へ晴れきつてゐる

 
秋晴れの島をばらまいておだやかな

   一洵君と共に石手川にそうて
石を枕に雲のゆくへを
 
見上げて高くうごくともないうごく枝

   松山――太山寺
あすはおまつりのだんじり組みあげて、雲

   横峰拝登
すなほに咲いて白い花なり

山のふかくも鐘おのづから鳴るか
 
落ち葉しつくしたる木の実の赤く

   香園寺慈母観音像
南無観世音おん手したたる水の一すぢ

秋の夜の護摩のほのほの燃えさかるなり
 
あすはおわかれの爪をきりつつ、秋

   奥の院へ(白瀧不動)
お山しぐるる岩に口づけて飲む

   一洵君に、同時に澄太君に
落葉ふみわけほどよい野糞で

 
木の葉ふるふる野糞する
 
蓼に芒を活けそへておわかれの朝
    (十月十五日、みゆきさんに)
朝焼けのうつくしさおわかれする

秋晴るる右左さつさとおわかれ

秋空ただよふ雲の一人となる
 
山のけはしさ流れくる水のれいろう
 
しつかとお骨いだいて山また山
 (某氏に)
山の高さ稲よう熟れた

墓にかこまれて家一つ
 
のぼりつめてすこしくだれど秋ふかき寺
 
水音のうらからまゐる
 
湧いては消えては山の高さの雲の

   一洵君と別れる
上へ下へ別れ去る坂のけはしい紅葉
 
お客といへば私一人の秋雨ふりしきる
 
秋の夜ながれくる水のまんなかを汲む

   十月十六日、雲辺山をめざして
秋の水によねんなく障子を洗ふ
 
山里はひたむきに柿の赤くて
 
のぼるほどに水は澄みてはげしく
 
雨ふる栗負うて来て雑魚に代へて

   十月十七日、雨中雲辺拝登
山寺かさこそ粟を量るらしい音させて
 
雲がちぎれると山門ほのかに

   本山寺
鐘が鳴る通りぬけてひさびさの湯へ
 
秋の水をさかのぼりきて五重の塔
 
秋ふかくまよへる犬がないてまた
 
からだぽりぽり掻いて旅人

   普通寺へ
塔をめあてにまつすぐまゐる

   屏風ヶ浦海岸等
ぬかづけば木の香にほふや秋

   牧水の歌を誦して
秋ただにふかうなるけふも旅ゆく

   小豆島にて
水をよばれる少し塩気あるうまし
 
港はいまし落ちる日の親船小船

   南郷庵
その松の木のゆふ風ふきだした
 
庵主はお留守の木魚をたたく

   放哉墓前
ふたたびここに、雑草供へて

墓に護摩水を、わたしもすすり

   十月廿二日
   寒霞渓へ
ほしうどんほしならべる陽のさゞなみ
 
海はなつかしい墓がならんで

青空の下けふを糞する
 
をんなは駕で男は馬で紅葉ちらほら
 
山は暮れ早い谿の猿さけぶ
 
いただきの青空の昼月

水に聲ある山ふところでねむる

   十月廿三日
風ふけばどこからともなく生きてゐててふてふ

   小豆島よ、さよなら
波音かすかにどうにかならう

   西光寺
散りしくまへのしづかさで大銀杏
 
島はゆたかな里から里へ柿の赤さよ
 
なかなか死ねない彼岸花さく
 (改作追加)
  十月廿五日
枇杷の花やぐみの花や早泊りして
 
そのかみのおもひでの海は濁りて
 (壇ノ浦)
鳴いても山羊はつながれてひとり

(その十一)

昭和十四年九月~十二月 (その二)

   十月廿五日六日
秋ふかみゆく笈もぴつたり身について
 
暮れると寝て明けるよりあるく山また山

かうして旅する日日の木の葉ふるふる

   十月廿六日
木を伐るしきりにしぐるる
 
しぐれて山をまた山を知らない山

からだ投げだしてしぐるる山
 
しぐれて道しるべその字が読めない
 
稲を刈るとや枯れて穂のない稲を
 
里ちかく茶の花のしたしくて

   大窪寺(第八十八番結願所)
ここや打留の水のあふれてゐる

   十月廿七日
泊めてくれない折からの月が行手に

 (廿六日夜)
暮れても宿がない百舌鳥が啼く
 
山柿たわわ水にうつりてさらに赤く
 
あかあか燃える火が、ふと泊る

   十月廿七日
秋山けぶらして炭焼く一人か

   十月廿八日
分け入るみちのすすきほほけた

   空襲警報(防空訓練)
秋風たちまち赤い旗にかはつた

   十月廿八日九日

   野宿
まどろめばふるさとの夢の葦の葉ずれ
 
枯葉しいて月をまうへに
 
夜露しつとりなむつてゐた
 
水にそうていちにちだまつてゆく
 
秋もをはりの蚊がないてまつはるいつぴき
 (へんろ宿)
   野宿
月夜あかるい舟がありその中で寝る
 
ついたところが城跡といふ秋の空
 (土佐泊渡)
ふたたびはわたらない橋のながいながい風

 (吉野橋)
ことしの旅も、六十才と書く

誰もゐない落葉掃きよせてある昼ふかく
 
橋があたらしくをなごやのをんなたち
 
朝は晴れ夕べはくもる旅から旅へ
 
夜をこめておちつけない葦の葉ずれの
 
ちかづく山の、とほざかる山の雑木紅葉の
 
落葉吹きまくる風のよろよろあるく
 
秋の山山ひきずる地下足袋のやぶれ
 
お山にのぼりくだり何かをとしたやうな
 
よい連れがあつて雑木もみぢやひよ鳥や
 
山みち暮れいそぐりんだう
 
こんなに草の実どこの草の実
 
しぐれてぬれて旅ごろもしぼつてはゆく
 
しぐれて人が海を見てゐる
 
波音おだやかな夢のふるさと
 (野宿いろ/\)
秋風こんやも星空のました
 
落葉しいて寝るよりほかなく山のうつくしさ
 
生きの身のいのちかなしく月澄みわたる
 
わがいのちをはるもよろし
 (いつぞやの野宿を)
歩くほかない秋の雨ふりつのる
 
おほらかにおしよせて白波
 (室戸岬へ)
水もころころ山から海へ

 (ごろごろ浜)
夜のからだをぽりぽり掻いてゐる
 
わだつみをまへにわがおべんたうまづしけれども
 (室戸)
あらなみの石蕗の花ざかり
 
われいまここに海の青さのかぎりなし
 
落葉あたたかく噛みしめる御飯のひかり

こんやはひとり波音につつまれて
 (野宿さま/゛\)
食べて寝て月がさしいる岩穴
 
枯草ぬくう寝るとすると蝿もきてゐる
 
月夜あかるく舟があつてその中で寝る
 
泊まるところがないどかりと暮れた
 
すすき原まつぱだかになつて虱をとる
 
かうまでよりすがる蝿をうたうとするか
 
ぼうぼううちよせてわれをうつ
 (太平洋に面して)
 
うちぬけて秋ふかい山の波音
 (東寺)
 
松の木松の木としぐれてくる

 (土佐海岸)
 
ここらで泊らう草の実払ふ
 
ついてくる犬よおまへも宿なしか
 (途上即事)
 
梅干あざやかな飯粒ひかる
 
あなもたいなやお手手のお米こぼれます
 (行乞即事)
 
お手てこぼれるその一粒一粒をいたゞく
 
まぶしくもわが入る山に日も入つた
 
ひなたまぶしく飯ばかりの飯を
 
まぶしくしらみとりつくせない
 
道べり腰をおろして知らない顔ばかり
 
旅のほこりをうちはらふ草のげつそり枯れた
 
秋の旅路の何となくいそぐ
 
石ころそのまま墓にしてある松のよろしさ
 
旅で果てることもほんに秋空
 
ほろほろほろびゆくわたくしの秋
 
一握の米をいただきいただいてまいにちの旅
 
木の実おちてゐる拾ふべし
 
短日暮れかかる笈のおもさよ
 
脚のいたさも海の空は日本晴
 
秋もをはりの蝿となりはひあるく
 
朝の橋をわたるより乞ひはじめる
 
わが手わが足われにあたたかく寝る
 (野宿)
旅の長さ夜どほし犬にほえられて
 
寝ても覚めても夜が長い瀬の音
 
山のするどさそこに昼月をおく
 
びつしり唐黍ほしならべゆたかなかまへ
 
岩ばしる水がたたへて青さ禊する
 
山のしづけさはわが息くさく
 
なんとまつかにもみづりて何の木
 
ほんに小春のあたたかいてふてふ
 
朝まゐりはわたくし一人の銀杏ちりしく
 (大宝寺)
秋風あるいてもあるいても
 
なんとあたたかなしらみをとる
 
供へまつる柿よ林檎よさんらんたり
  (戦死せる高市茂夫氏の遺骨にぬかづいて)
なむあみだぶつなむあみだぶつみあかしまたたく
 
ひなたぢつとして生きぬいてきたといつたやうな
 (或る老人)

(その十二)

昭和十四年十二月~昭和十五年 (その一)

昭和十四年朧月十五日、松山知勇の厚情に甘え、縁に随うて、
当分、或は一生、滞在することになった。
一洵君におんぶされて(もとより身内のことではない)道後の
宿より御幸山の新居に移る。新居は高台にありて閑静、山もよ
く砂もきよく水もうまく、人もわるくないらしい、老漂泊者の
私には分に過ぎた栖家である。よすぎるけれど、すなほに入れ
ていただく。松山の風来居は山口のそれよりうつくしく、そし
てあたたかである。

   一洵君に
おちついてしねさうな草枯るる
  (死ぬることは生まれることよりもむつかしいと、
   老来しみじみ感じないではゐられない)
 
抜けたら抜けたまま歯がない口で
 
山裾やすらかに歯のないくらしも
 
空には風が出る凧あがるあがる
 
凧をあげると春風らしい子供の群

   或る老人
日向ぼこして生きぬいてきたといつたような顔で

   道後温泉湯瀧
朝湯のよろしさもくもくとして順番を待つ
 
大霜の人声のあたたかな日ざし

   護国神社
霜のきびしさ霜をふんでまうでる

   葉
牛が大きくよこたはり師走風ふく
 
寒空とほく夢がちぎれてとぶやうに

   机上水仙花
あすはお正月の一りんひらく
 
あすは元旦の爪でもきらう

   卓上の水仙花
一りん咲けばまた一りんのお正月
 
一人正月の餅も酒もありてそして
 
ひとり焼く焼き餅ひとりでにふくれたる

   このあかつき
   ――元旦、護国神社に参拝して――
このあかつき御手洗水のあふるるを掌に
 
このあかつきの大いなる日の丸へんぽん
 
正月二日あたらしい肥桶かついで

    石手川三句
をんなを岩にピント合してゐる若さ
 
正月三日お寺の方へぶらぶら歩く
 
しぐるるや郵便やさん遠くへ来てくれた
 
かへりはひとりの月があるいつぽんみち
 
ほどよう御飯が炊けて夕焼ける

   行乞途上
干せば乾けばふんどししめてまた歩く

   山口へ―九州へ
こんやはここにて雨ふる春雨
 
何の草ともなく咲いてゐるふるさとは
 
遠ざかるうしろ姿の夕焼けて
 
ほほけすすきがまいにちの旅
 
たばこやにたばこがない寒の雨ふる
 
ふるさとへ冬の海すこしはゆれて

   帰居
こしかたゆくすえ雪あかりする
 
ほつかり覚めて雪

   転一歩
身のまはりかたづけて遠く山なみの雪
 
春が来たわたくしのくりやゆたかにも
 
いま何時ともわからない春雨らしう降る
 
ひとりで酔えば啼くは鶲よ
 
酔うて闇夜の蟇踏むまいぞ
 
月の一枝ぬすませてもらふ

  或る月の一草庵は
雨をためてバケツ一杯の今日は事足る
 
枯れて濡れて草のうつくしさ、朝
 
寝ころべば枯草の春匂ふ
 
酒はしづかに身ぬちをめぐる夜の一人
 
なんときびしい寒の水涸れた
 
一人で事足る鶲啼く
 
塵かと吹けば生きてゐて飛ぶ

   街頭所見千人力
つぎつぎに力をこめて力と書く
 
墓地をとなりによい春が来た

   追懐
目刺あぶればあたまもしつぽもなつかしや

 
おとなりもをとこやもめのかさこそ寒い

   純一居二句
ほんに仲よく寄せ鍋をあたたかく
 
お日さま山からのぞいてお早う

 龍隠寺境内の孝子桜
咲いて一りんほんに一りん
 
膝に酒のこぼるるに逢ひたうなる
 
たまたま人が春に来て大いに笑ふ
 
春の山から惜しみなく伐りだしてくる
 
春の山から伐りだして長い長い木

   わが髯をうたふ
伸ばせば伸びる髯はごましほ
 
干物干して蕾はまだまだかたい
 
水もらひのゆきかへり花咲いて赤く

   道後湯町、宝厳寺
をなごまちのどかなつきあたりは山門
 
早春のおとなりから芹のおひたしを一皿

   自嘲四句
 
春寒ねむれない夜のほころびを縫ふ
 
縫糸なかなか通らないのでちよいと一服
 
やつと糸が通つたところでまた一服
 
糸のもつれのほぐるるにほどに更けて春寒
 
ふりかへる枯野ぼうぼううごくものなく

   老遍路
鈴をふりふりお四国の土になるべく
 
雪もよひたうとう雪になつてしつとり
 
雪あかりのまぶしくも御飯がふく
 
春寒く疵がそのままあかぎりとなり
 
ゆふべかたすみ消えのこる雪のほのかにも
 
聞いてしづかに、ぽとりと落ちた
 
だんだん似てくる癖の、父はもうゐない
 
逢へておわかれの大根もらうてもどる
 
水もぬるんだやうなどんこもをりさうな
 
墓二つ三つ芽ぶかうとしてゐる大樹

(その十三)

昭和十四年十二月~昭和十五年 (その二)

   母の第四十九回忌
たんぽぽちるやしきりにおもふ母の死のこと
 
春の水ゆたかに流るるものを拾ふ
 
春のよるのみほとけのひかり

   路傍の乞食
貰ひ足りて地べたべつたり寝てゐるいびき

   孫がまた生まれたとて
生まれてうれしく掌を握つたりひらいたり

   満州の孫をおもふ
この髯、ひつぱらせたいお手手がある
 
けふはよいたよりがありさうな障子あけとく

   松山城
生えてなずなとして咲いてつつましく
 
ふと触れてなづな華ちる
 
おちついて死ねさうな草萌ゆる
 
てふてふちらちら風に乗つた来た
 
さむざむ降る雨のひとりに籠る
 
干物ひろげる枝から枝のつぼみ
 
春はたまたま客のある日の酒がある
 
与へるもののよろこびの餅をいただく
 
春風のちよいと茶店が出来ました
 
食べものあたたかく手から手へ

   無縁墓碑整理さる
てふてふひらひらひらかうとしてゐる春蘭
 
今日いちにちのおだやかに落ちる日
 
うらうらほろほろ花がちる
 
青麦のなかの街街のなかの青麦
 
春の水の流るるものを追つかけてゆく
 
なければないで、さくら咲きさくら散る
 
ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ
 
名もない草のいのちはやく咲いてむらさき
 
蝿があるいてゐる蝿取紙のふちを
 
降つたり霽たりおのれにかへる
 
しばらく歩かない脚の爪伸びてゐるかな
 
あらしのあとの空のしづもるふかさ

空腹を蚊にくはれてゐる
 
むなしさに堪へて草ふむ草青し
 
草のたくましさは炎天さらにきびしく
 
外米も内米もふつくらふいた
 
誰にも逢はない道がでこぼこ
 
おもひだしては降るよな雨の涼しうなる
 
どこからとなく涼しい風がおはぐろとんぼ
 
かたすみの朝風に播いてをく
 
活けて雑草のやすけさにをる
 
蛙になりきつて跳ぶ

   述懐
この一すぢをみなかみへさかのぼりつつ
 
天の川のあざやかさもひえびえ風ふく
 
月夜の水に明日の外米浸けて寝る
 
ぽとりとおほらかにおちる花

   破戒
もくもく蚊帳のうちひとり飯喰ふ

   雑草礼賛
生えよ伸びよ咲いてゆたかな風のすずしく
 
日ざかりの赤い花のいよいよ赤く
 
雷遠く雨をこぼしてゐる草の葉

   一草庵裡山頭火の盆は
トマトを掌に、みほとけのまへにちちははのまへに
 
盆の月夜の更けてからまゐる足音
 
をりをり顔をみせる月のまんまる
 
よい水音の朝がひろがる
 
朝霧こぼるる畑のものどつさりもろた

   絶食の日
月のひかりのすき腹ふかくしみとほるなり
 
日ざかりの空腹は鳴る
 
食べるものがなければないで涼しい水
 
かなかなかなかなやうやく米買ひに
 
御飯のうまさほろほろこぼれ
 
ゆう焼けしづかなお釜を磨く
 
夕立やお地蔵さんわたしもずぶぬれ
 
蚊帳の中まで夕焼の一人寝てゐる
 
夕焼雲のうつくしければ人の恋しき
 
椰のみどりの青空のふかさ渡る鳥

   禁酒したいが
蝉しぐれの、飲むな飲むなと熊蝉さけぶ
 
とんぼとまつたふたりのあひだに
 
濁れる水の流れつつ澄む
 
朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし
 
掃くほどに散る葉のしづか
 
こころさびしくひとりまた火を焚く
 
芋粥のあつさうまさも秋となつた
 
炎天おもきものを蟻がひきずる
 
待つといふほどでもないゆふべとなりつくつくぼうし
 
打つても打つても蝿がくる蚊もくる蜂もきて
 
月から吹きおろす風のすゞしさに

   仲秋名月
酒はない月しみ/゛\観てをり
 
酒のうまさのとろとろ虫鳴く

   抱壷君の訃報に接して
たへがたくなり踏みあるく草の咲いてゐる
 
貰うて食べ秋ふかく拾ふて喫ふ
 
銭がない物がない歯がない一人
 
祈りて仏にたてまつるお花もひがん
 
朝月のあるぎんなん拾ふ
 
皆懺悔その爪を切るひややかな
 
いつ死ぬる木の実は播いておく
 
水がとんぼがわたしも流れゆく
 
風にみがかれみがかれ澄みわたる月は

   子規忌ちかく
紫苑しみじみ咲きつゞく今日のこのごろとなり
 
けふは仲秋すゝきや団子もお酒もちよつぴり
 
供へまつるお彼岸のお彼岸花のよろしさ
 
夕焼うつくしく今日一日はつつましく
 
ふとふりかへる山から月がのぞいたところ
 
おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく
 
しんじつ一人として雨を観るひとり
 
おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて
 
朝は澄むきつておだやかなながれ一すじ
 
晴れて風が身ぬち吹きぬけて澄む
 
もらうて食べるおいしい有りがたさ
 
生える草の枯れゆく草のとき移る
 
三日月おちかかる城山の城

   先夜今夜の犬猫事件に微苦笑しつゝ一句
   十月五日夜
秋の夜や犬から貰つたり猫に与へたり
 
焼かれる虫の香ひかんばしく

火曜日, 1月 24, 2006

尾崎放哉探索(その一~その二十)



尾崎放哉探索

(その一)

「南郷庵友の会」による「小豆島 尾崎放哉記念館」というホームページ(アドレスは下記)は、尾崎放哉の自由律俳句を知るうえで、「尾崎放哉未発表句」なども収録されており、一度は探索するに十分に価値がある。尾崎放哉が亡くなった、「南郷庵」(みなんごあん)に因んでの、「南郷庵友の会」なのであろうが、私事にわたって恐縮だが、亡くなった兄の俳号が、「南郷庵」(なんごうあん)で、亡くなった兄が、尾崎放哉の、この「南郷庵」
を意識していたことは、その遺されたものなどを整理して、容易に想像できるものであった。しかし、それは、より多く、(吾らの)出生地の字名が、「南郷屋」(みなみごや)であり、亡くなった母の隠居小屋を、その亡くなった兄が、「南郷庵」と命名して、そのことに由来していることが、その俳号の由来なのであった。亡くなった兄は、この「南郷庵」を自分の俳号とするとともに、その亡くなる五年前あたりから、「南郷庵通信」という、タブロイド版などの同人紙などを発行して、それが今になっては、亡き兄の最も貴重な形見となってしまった。そして、その、亡き兄の、その俳号(南郷庵)と、その同人紙(南郷庵通信)を、形のうえでは、弟である小生が引き継いだのだが、その俳号の方は、たまたま使わせていただいているが、その「南郷庵通信」の方は、ホームページ化はしたのであるが、このところ、まったく、放置したままで、どうにも、亡き兄の、小言が聞えてくるようでもある。今回、この「鑑賞広場」を利用させて頂いて、「尾崎放哉探索」ということで、この「小豆島 尾崎放哉記念館」に登載されているものなどを紹介しながら、尾崎放哉の句業などを見てみたいと、そして、それが、七年忌が近づいた亡き兄の供養にもなるかと、この正月に、そんなことを考えていた。
 それとあわせて、「定型・季語象徴論」ということも、このところ、ずうとまとわりついていて、その「定型律俳句」に対する「影」のような「自由律俳句」を見てみたいということも、この「尾崎放哉探索」の、もう一つの伏線でもある。そんなことで、とにもかくにも、どんなものになるのか、いまのところ、さっぱり検討がつきかねるのだが、そのスタートをすることとする。

「小豆島 尾崎放哉記念館」
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/
「南郷庵通信」
http://nangouan.hp.infoseek.co.jp/

(その二)

一燈園時代 大正十二年十一月 ~ 十三年三月
 一燈園は、西田天香によって創設された修養団体であり、創設当時は京都東山鹿が谷にあったが、昭和の初めに現在の地山科に移された。放哉はすべてを捨てて裸一貫となり大正十二年十一月二十三日一燈園に身を投じた。
 激しい肉体労働を中心にした托鉢修行に耐えられずまもなく翌年三月頃知恩院搭頭常称院の寺男になる。漂泊の始まりである。左の建物は当時のまま移設されて現在の一燈園に保存されている。 (「尾崎放哉記念館」記事)

一燈園時代の作品

ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々
牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
皆働きに出てしまひ障子あけた侭の家
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
月夜戻りて長い手紙を書き出す
落ち葉掃き居る人の後ろの往来を知らず
流る風に押され行き海に出る
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ
夕日の中へ力いっぱい馬を追ひかける
花あはただしさの古き橋かかれり
砂浜ヒョコリと人らしいもの出てくる
昼めし云ひに来て竹薮にわれを見透かす
山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る     (「尾崎放哉記念館」収載句)

 これらの掲出句で、「つくづく淋しい影よ動かして見る」などは放哉の例句としてよく引用されるものであろう。そして、「定型律俳句」(五七五の定型律)が俳句の本態であって、その本態の影のようなものが、「自由律俳句」と解する立場からすると、この句などは、どうしても、忘れ得ざる一句ということになる。
 ちなみに、上記のようなことを背景とすると、その一句の鑑賞は、「つくづく己の定型律の影のような自由律の句は淋しい己の心の投影のようでもある。己が動くとその淋しい影もさまざまな形をしめす」とでもなるのであろうか。このような鑑賞も、「俳句判じもの説」として、その「判じもの」のそれとして、それほどの曲解でもないように思われるのである。


(その三)

須磨時代 大正十三年六月 ~ 十四年三月 

常称院を追い出された放哉は、友人住田蓮車の尽力により須磨寺大師堂の堂守となる。かねて念願の「独居無言の生活」の場を得た放哉は、才能をいよいよ輝かし始める。師の井泉水が「放哉君の近作は注意すべきものがある」と褒めたのがこの頃である。
 須磨寺は西日本では名刹として知られ常に参拝者であふれている。井泉水筆による

こんなよい月を一人で見て寝る

の句碑が本堂に向かって左側大師堂との中程にある。放哉句以外に芭蕉、蕪村、一茶、子規、良寛の句碑もある。右の写真はこの大師堂の前で写された放浪時代唯一のものと言われている。
 いくばくかの静謐の生活を得た放哉もあまり長続きせず、又も寺の坊主たちの権力争いに巻き込まれ寺を追われる身となるのである。 (「尾崎放哉記念館」記事)

須磨時代の作品

一日物云はず蝶の影さす
雨の傘たてかけておみくじをひく
お地蔵様に灯をともす秋の花ばかり
たった一人になり切って夕空
高浪うちかへす砂浜に一人を投げ出す
宝物拝観五銭と大書している
何も忘れた気で夏帽をかぶって
潮満ち切ってなくはひぐらし
むっつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる
銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る
夕べひょいと出た一本足の雀よ
人をそしる心をすて豆の皮むく
仏にひまをもらって洗濯している
こんなよい月を一人で見て寝る
底がぬけた杓で水を呑もうとした
なんにもない机の引き出しをあけてみる
犬よちぎれるほど尾をふってくれる
尻からげして葱ぬいている
色鉛筆の青いいろをひっそりけづって居る
にくい顔思い出し石ころをける
漬物桶に塩振ふれと母は産んだか
大空のました帽子かぶらず
紙が字を吸い取らぬようになった
いつまでも忘れられたままで黒い蝙蝠傘
人殺しありし夜の水の流るるさま     (「尾崎放哉記念館」収載句)
 
 平畑静塔氏の「不実物語」(『俳人格』所収「朝顔の臨書」)に次のような定型論に関する示唆に富んだ記述がある。
「俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七字型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっているのである。」
 この「曲譜はもはや定まり切った十七型」ということは、ずばり、「俳句の本態というのは定まり切った十七字型」という、この「十七字型の詩型」こそ「俳句の本態」なのだということではなかろうか。すると、「十七字型ではない自由律俳句」をどのように解すべきなのか。この自由律俳句というのは、「定型律俳句」を実態とすると、その実態の影のようなもので、常に、その実態との関係で見え隠れするという理解である(そもそも、定型律俳句が前提となって、それとの関係で自由律俳句というものは誕生しているということを理解すれば足りる)。このことからすると、自由律俳句は、長い長律(長い影)と短い短律(短い影)とがあることは当然のこととなる。
 上記の放哉の掲出句では、極端な長律も、極端な短律も見られず、丁度。連句の「長句」
(五七五)と短句(七七)の辺りをうろうろしているという雰囲気である。

○ こんなよい 月を一人で 見て寝る  (五・七・五)
○ 尻からげして 葱ぬいている     (七・七)

 ここでも、「五七五」の「定型」と「七七」の「定型」の魔力のようなものを感じる。


(その四)

小浜常高寺時代 大正十五年四月 ~ 大正十四年七月

須磨寺を出た放哉は再び一燈園に舞い戻っていたが、縁有って福井県小浜常高寺の寺男になる。この寺は破産状態で末寺から排斥されていた住職は居候同然の身分であった。当然ここにも長居の出来なかった放哉はわずか二ヶ月あまりで京都に舞い戻るのである。大正十二年の関東大震災以後京都東山に寓居していた荻原井泉水の所に身を寄せた放哉は、かねて一燈園の同人を頼って遠く台湾に行くことを決意していた。しかし井泉水に堅く静止された放哉はもはや海の見える所で死にたいと願うばかりなのである。
 彼の願いに井泉水はかって遍路巡礼をしたことのある小豆島にいる「層雲」同人井上一二に適当な庵を探すことを依頼する。(「尾崎放哉記念館」記事)

小浜常高寺時代の作品

背を汽車通る草ひく顔をあげず
時計が動いている寺の荒れている
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
浪音淋しく三味やめさせている
遠くへ返事して浅野味噌を擂っている
豆を煮つめる自分の一日だった
とかげの美しい色がある廃庭
母のない児の父であったよ
淋しいからだから爪がのび出す
一本のからかさを貸してしまった
小芋ころころはかりをよくしてくれる
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
釘箱の釘がみんな曲っている
お寺の灯遠くて淋しがられる
かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
一人分の米白々と洗ひあげたる
頭をそって帰る青梅たくさん落ちてる
たまらなく笑いこける若い声よ
山寺灯されて見て通る
昼寝の足のうらが見えている訪なう
打ち水落ちつく馬の長い顔だ      (「尾崎放哉記念館」収載句)

 再び、平畑静塔氏の定型論を見ていくと、
「俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかこれは不詳である。何百年か何千年の昔
から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はないではないか」(平畑・前掲書)と続く。
 まさに、同感である。尾崎放哉も、はたまた、種田山頭火も、その師の、荻原井泉水も、「自由律」という独創の曲譜を夢見てそれに挑んだのであろうが、その定型は微動だにするものではなかった。しかし、彼等の血みどろの所業は、その定型律という本態に、影があるということを明瞭にした。そして、振り返って、彼等の所業というのは、
その影の世界を執拗に追い求めたに過ぎないということを、上記の作品群が語っているように想われる。かく解すると、上記の作品群の、放哉の佳句とされている次の作品が、何と「痛々しく」見てとれることか。まさに、誇大妄想にとりつかれたドンキホーテ
のようにも思われてくるのである。

○ 淋しいからだから爪がのび出す

(その五)小豆島・南郷庵時代 大正十四年八月 ~ 大正十五年四月

小豆島・南郷庵時代 

日本人は放浪の詩人が好きである。ふと夢を枯れ野に駆け巡らしているかのようである。ここに改めて一人の放浪の俳人を紹介したい。ここ小豆島が易簀の地となった尾崎放哉である。
 大正時代に自由律の俳句雑誌が創刊された。荻原井泉水主催の「層雲」である。そして層雲から自由なる心の叫びを詠じた二人の俳人が輩出した。一人は種田山頭火であり、もう一人は尾崎放哉である。彼ら二人が在所定まらぬ放浪の身であったことは決して偶然とは思えない。しかし二人の間でその放浪のもつ意味は大いに違っている。山頭火は自ら求めて行乞放浪をし、放哉は傷ついた獣が安住の場所を求めるように各所を漂ったのである。そして最後の安住の地が、ここ小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」だったというわけである。

 これでもう外に動かないでも死なれる 放哉

 小豆島にはもう一つ二十四の瞳館という文学記念館がある。勿論、壷井栄の文学館である。栄の名作「二十四の瞳」は昭和三十年に映画化され大ヒット、この島を一躍全国的に有名にした。栄と夫であり詩人の壷井繁治、またプロレタリア文学作家の黒島伝二ら、小豆島から輩出した三人の文学者達は、山頭火、放哉と同時代の人達である。
 彼ら三人は島の西部、内海地区の出身である。壷井繁治はしばしば人から、同時期に三人もの作家が、この狭い地域から輩出した何か特別の文学的伝統でもあるのか、と質問されることがあったらしい。繁治は後に「わたしと小豆島」と題するエッセイで次のように書いている。 「ここに特別の理由や背景なぞないだろう。もしあるとすれば、思い当たることは、時代の波というものではなかったのか、激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う。所詮郷土というものは若者をいれるにはあまりにも小さな容器であり、小豆島もその例外ではなかった」と。
 もしそうだとすれば時代の波が、この小さな島の青年達を大きな広い世界に押し出し、放哉をこの島のごく小さな世界に押し込めたのではなかったのか。壷井繁治が言うように、この島には文学的伝統も背景もない。しかし文化の匂いのする伝統は宗教的な所に確実に存在する。八十八箇所巡礼、お遍路さんの島である。
 折しも大正末期の激動の時代、アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。
 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った。そのとき小豆島に来島「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄「玄々子」らと共に八十八箇所巡礼を行う。その仏縁から放哉は来島、井上杉本両人の世話を受けつつ、「南郷庵」でその生を終えたのは決して偶然の出来事ではない。 (「尾崎放哉記念館」記事)

 上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、太字にした個所に注目していただきたい。プロレタリア詩人の坪井繁治の、「激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う」の、この指摘は、いわゆる、当時の社会的風潮の「大正デモクラシー」の繁治流の表現なのであろう。この「大正デモクラシー」の波が、当時の全国津々浦々に蔓延していて、こと、俳句の世界においても、この激動の波に乗り、伝統的な「定型律俳句」に反旗を翻したのが、荻原井泉水らの「自由律俳句」ということになろうか。また、それは、「定型律俳句」そのもの世界においても、日野草城や平畑静塔らの「新興俳句」の誕生ということで、内部崩壊の現象も呈していたのであった。さらに、上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、「アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った」との指摘は、井泉水や放哉の置かれた環境を端的に物語るものであろう。この個人的な境涯性と、そして、その当時の社会的風朝の「大正デモクラシー」こそ、「自由律俳句」の誕生の要因であったということは、井泉水や放哉、そして、山頭火のそれを理解することにおいて必須のことであろう。

(その六)

小豆島・南郷庵時代の作品(その一)

眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
西瓜の青さごろごろとみて庵に入る
町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る
島の小娘にお給仕されている
漬物石になりすましは墓のかけである
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
井戸のほとりがぬれて居る夕風
自分をなくしてしまって探して居る
一日風ふく松よお遍路の鈴が来る
白々あけて来る生きていた
蜥蜴の切れた尾がはねている太陽
木槿一日うなづいて居て暮れた
道をおしえてくれる煙管から煙が出ている
朝靄豚が出て来る人が出て来る
迷って来たまんまの犬で居る
夕靄溜まらせて塩浜人居る
障子あけて置く海も暮れ来る
大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ
元日の灯の家内中の顔がある
風にふかれ信心申して居る
淋しい寝る本がない
雀等いちどきにいんでしまった
いれものがない両手でうける     (「尾崎放哉記念館」収載句)

 この末尾の「いれものがない両手でうける」の句は、放哉の傑作句の一句とされ、しばしば例句としてとり上げられる。しかし、それはあくまでも、定型律俳句のそれではなく、自由律俳句のそれとして、とり上げられ、鑑賞されるのが常であった(仁平勝著『俳句が文学になるとき』)。しかし、この句は、「いれものがない /  両手でうける」と、まさに、「七・七」の、連句の短句(七七句)、さらに言えば、川柳でその例を多く見る「十四字」の世界そのもののようにも思えるのである。そして、問題はここからなのである。この放哉の句は、それらの「七七句・十四字」の「定型律」の世界のそれではなく、すなわち、平畑静塔の言葉を借りてするならば、「十七字」あるいは「十四字」という、定型が本来有している「曲譜」に因らず、その「曲譜」を拒否して、「いれものがない」状態にしておいて、「両手でうける」と、「己の肉体」をあたかも、いわゆる「曲譜」・「いれもの」・「うつわ」・「型」として、そこに、あたかも、「定型」の「影」のような「不実の世界」を現出して、それを「パントマイム」のように、無言で演じきっているように思えるのである。これは、容易ならざることである。「己の肉体を責めに責め、極限状態にしなければ、この緊張状態は生まれてこない」。そして、井泉水、放哉、山頭火、はたまた、橋本夢道、さらに降って、住宅謙信らの、いわゆる「自由律俳句」の傑作句とされているものには、この「己の肉体を責めに責め、その極限状態のような、緊張関係の、張り詰めた」トーンというものを有している。これらのことからして、「定型律俳句」の「定型」という、いわゆる「魔法の壺」によらずして、それと同じような「俳句」という「世界」を「創造」・「創作」・「現出」・「作品化」しようとする、いわゆる「自由律俳句」に身を投じることは、それだけの覚悟と、それだけの犠牲を強いられるということは、よくよく心しておくべきことなのであろう。
(追伸  これらのことは、知人の言葉でするならば、「定型律俳句」は「盛りつける器」があるが、「自由律俳句」においては、「盛りつける器」がないということと軌を一にするであろう。)

(その七)

小豆島・南郷庵時代の作品(その二)

つきたての餅をもらって庵主であった
夜中の天井が落ちてこなんだ
お金ほしそうな顔して寒ン空
咳をしても一人
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
ゆうべ底がぬけた柄杓で朝
庵の障子あけて小ざかな買ってる
とっぷり暮れて足を洗って居る
雀が背伸びして覗く庵だよ
これでもう外に動かないでも死なれる
いつも松風を屋根の上にいてねる
身近く夜更けのペンを置く
月夜の足が折れとる
墓のうらに廻る
夜釣りからあけてもどった小さい舟だ
枯れ枝ほきほき折るによし
貧乏して植木鉢並べている
仕事探して歩く町中歩く人ばかり
いつも机の下の一本足である
手の指のほねがやせ出したよ
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置きむせている
すっかり病人になって柳の糸が吹かれる
春の山のうしろから烟が出だした    (「尾崎放哉記念館」収載句)

 「自由律俳句」について、「言う(『言える』)詩形」、そして、「一行詩である」と解する
と、「自由律俳句」は、いわゆる、「俳句」ではなく、「詩」ということになり、その創作者
は、「俳人」ではなく、「詩人」ということになる。すなわち、尾崎放哉は、「詩人」ではあ
るが、「俳人」ではないということになる。しかし、尾崎放哉は、紛れもなく「俳人」であ
って、一般的に「詩人」といわれている人達とは一線を画していることは、自他共に認め
るところのものであろう。これらことについて、上記の放哉作品のうち、その傑作句とさ
れている、「咳をしても一人」を例えて、これは、「俳句」であり、決して、いわゆる、
「一行詩」ではないということを論証すると次のとおりとなる。
 この「咳をしても一人」という、たったの「九字(音字)」は、この作者の放哉が、「俳
句(十七音字)」という詩形は、何も、「言わない(『言えない』)詩形」であるということを
熟知していて、さらに、短いものを意識して用いることによって、「俳句」の本来的に有し
ている「象徴性」というものを最大限に引き出しているということが察知されるのである。
すなわち、尾崎放哉の、上記の作品群というのは、何も「言わない(『言えない』)詩形」
の、いわゆる、「俳句」の世界以外の何ものでもない。さらに、日野草城の言葉でするなら
ば、これらの作品群は、尾崎放哉の「本音のつぶやき」であり、その「本音のつぶやき」
が、象徴化され、その象徴化されることにより、普遍性を帯びてきて、その普遍性が、例
えば、上記の作品群のうちの、「咳をしても一人」でするならば、放哉の、この作品を作
るときの、「言葉で表現できないような孤独感・淋しさ」を、万言の重みをもって、こ
の「九字(音字)」に接する人達に語りかけてくるのである。これは、紛れもなく、「俳
句」の世界のものなのである。ただ、一般的な、いわゆる、「俳句」(十七音字の定型律)
と異質のところは、その定型の意識を前提として、その定型という「魔法の壺」を、そ
の俳句創作の曲譜とすることなく、いわば、「自己の肉体」を俳句創作の曲譜とするこ
とによって、全く、その出来上がったものは、定型という「魔法の壺」に因ったものと
同じようなものを現出しているという、この奇妙な、不可思議な、いわば、「自由律俳
句」という幻影のような世界を、これらの作品群に接する人に強烈に語り掛けてくると
いうことなのである。これらのことについて、俳句評論家の仁平勝は、もっと割り切っ
て、次のように表現している。
「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
 これを一歩進めて、先の知人のメモでするならば、「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』と裏の『破調的俳句』とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」ということにでもなるのであろうか。いずれにしろ、放哉の「自由律俳句」は、「言わない・言えない詩形」の「俳句」の範疇のものであって、「言う・言える詩形」の「一行詩」のものではないことは、上記の放哉の作品群からして明かなところであろう。
(追伸 井泉水・放哉らの「層雲」の自由律俳句は、「一行詩」であるとのニュアンスが強いとの指摘もあるが、仁平の前掲書によれば、より「俳句」のニュアンスに近いものとされている。知人のこれらに関するメモは、いわゆる「一句一章体」の説明で、このメモにある「二句一章体」が「俳句」の基本であるのに比して、「自由律俳句」はより多く一句一章体のものが多いということを言っているように思われる。そして、放哉の句は、「「咳をしても一人」のように、一句一章体のものが多い。さらに、この「一句一章体」・「二句一章体」は、芭蕉の言葉でするならば、「取合わせ」論であって、ここからしても、こと、放哉のそれは、「一行詩」ではなく、より「俳句」の世界のものであるということがいえよう。)

(その八) 尾崎放哉未発表句 (その一)

はじめに
 
ここに公表される放哉の句稿集は、一九九六年七月、鎌倉の荻原海一氏宅にて発見されたと言われるものである。放哉の句稿は散逸したものと思われていただけに、二七二一句に及ぶ句が書き綴られた句稿が発見されたことは、まさに驚くべきことであった。勿論、句稿と「層雲」発表句とは同一視することはできないけれども、井泉水の選に漏れた句の中にも新しい視点で注目すべきものもあるに違いないし、何より今後の放哉の研究に多くの示唆を与える点において、格段に貴重な資料ということができる。
 発見された当時、放哉研究家として長年の実績のある大阪府立高校教員の小山貴子氏が活宇化していたが、このたび当記念館が荻原家からこれを買い取った機会にすべてを掲載する。
小山氏による句稿の整理手順は以下の次第である。
(1)発見された時に綴じられていた束ごとに番号をつける。1から31まであるが、句稿の番号は、句稿中にある「層雲」掲載句をみて、その発表順に従い若い方から付けた。
(2)句稿の中には、井泉水によって、「層雲」掲載時に付けられた題名が記入されている。
(3)旧字体は新字体に直した。
(4)句稿の中には、井泉水への通信文がある。それもそのまま記した。

(「尾崎放哉記念館」記事)

 この貴重な「尾崎放哉未発表句」の全貌を、是非、今後の放哉探索の理解のためにも、一度は触れて欲しいということで、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)との若干の照合をしつつ、以下、紹介をしておくこととする(この「尾崎放哉記念館」記事のなかには、記されていないが、☆印のものが、荻原井泉水が添削したものである)。なお、この「尾崎放哉未発表句」については、平成九年三月三十一日付けの「東京新聞」に報道されている。
 ここで、いわゆる、井泉水が添削を施していることが、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)では、
興味があるとして、これを是とする、俳人・平井照敏、小説家・吉村昭(放哉を主人公にした小説『海は暮れきる』の作家)並びに放哉研究家・瓜生鉄二の考え方と、これを否とする放哉研究家・本田烈の考え方が紹介されているが、「自由律俳句」を「俳句」と解する立場からすれば、その添削(芭蕉の言葉でするならば斧正)は是とされるし、これを「一行詩」と解する立場からすると、その個人の独創性を重視することからして、これには否定的な見解をとることとなろう。そして、荻原井泉水が、尾崎放哉の句に大幅な手入れをしているというこの一事をもってしても、井泉水と放哉とが、己らの「自由律俳句」について、それを「俳句」と解していたことは明白であろう。(ここでも、「句会」などの「座」を媒体としての共同創作的な要素のある「俳句」と、完全に密室での個人的創作を要素とする「一行詩」とでは自ずからその差違が生じて来る。そして、この差違も、実は、「俳句」の正体は、「五七五という定型」が、その曲譜であり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎないという、いわゆる、平畑静塔の「定型不実論」と大きく関係してくると思われるのである。しかし、ここでは、それらのことについては、触れないこととする。また、知人のメモにも、この「放哉未発表句」についてのものがあるが、ここでは、それらについも触れないこととする。また、「放哉未発表句」については、解説を加えないで、「句稿」毎に紹介するに止め、それらの紹介の後で、稿を改めて関連することなどを記述することとする。)

(その九) 尾崎放哉未発表句 (その二)

句稿(1)
※○小浜ニ来て
層雲雑吟 尾崎放哉
小浜のオ寺で

今日来たばかりの土地の犬となじみになってゐる
を世話になる寺をさがして歩くつヽじがまっ盛だ
竹の子竹になって覗きに来る窓である
朝から十銭置いてある留守の長火鉢
其の侭はだしになって庭の草ひきに下りる
和尚とたった二人で呑んで酔って来た
汽車通るま下た草ひく顔をあげず(註・原案)
☆ 背を汽車通る草ひく顔をあげず  
あかるいうちに風呂をもらいに行く海が光る
カンヂキはいて草ひくかげが一日ある
重たい漬物石をくらがりであげとる
僧の白足袋ばかり見て草ひき話す
今日来たばかりで草ひいて居る道をとはれる
石だんあがって行くたそがれの白足袋である
女枕をして兎二角寝てしまった
雑草に海光るお寺のやけ跡(註・原案)  
☆ 雑草に海光るやけ跡  
くらい戸棚をあければ煮豆が腐って居た
たきものたくさん割って心よきくたびれ
竹の子の皮をむいてしまってから淋しい
あたまをそって帰る青梅たくさん落ちてる
そったあたまが夜更けた枕で覚めて居る 放哉
脚気でふくれた足に指をつっこんで見る
手紙入れに行く海風落ちた夕方
たった一人分の米白々と洗ひあげたる(註・原案) 
☆ 一人分の米白白と洗ひあげたる  
草ひけばみゝず出て来る春日ゆるやか
青梅たくさん落ちて居るみどりのくらがり
石だん上る人あり草ひく旅人として
草をぬく泥手がかはく海風の光り(註・原案) 
☆ 草をぬく泥手がかはく海風光り
障子切り張りして守番している顔だ
火ばしを灰に突っこんでいんでしまった
だれも居らぬ部屋に電気がついた 放哉

雑吟  尾崎放哉

かまどが気持よく燃える春朝
時計が呼吸する音を忘れて居た
豆腐屋朝をならし来るよい男だ
爪の土を堀ってから寝てしまう
時計が動いて居る寺の荒れてゐること(註・原案)  
☆ 時計が動いて居る寺の荒れてゐる  
万年筆がもたるゝ漬物臭い手である
和尚茶畑に居て返事するなり
あたへられたるわが机とていとしく
いつからか笑ったことの無い顔をもって居る
洗いものしてしまって自分のからだとなる
木の下掃きつゞけるよいお天気となる
下手な張りやうの侭で障子がかわいてしまった
のびたあごひげなでてのみなつかしみ居る
月夜となってしまった遂に来ぬ人
松葉数えて児等が遊べる術(すべ)を知らず
乞食に話しかける心ある草もゆ(註・原案)  
☆ 乞食に話しかける我となって草もゆ  
血豆をつぶす松の葉を得物とす(註・原案)
☆ 血豆をつぶさう松の葉がある    
考え事をしてゐろ田にしが歩いて居る
風が落ちたまゝの駅であるたんぼの中
朝の青空のその底見せきれず 放哉
寒い顔して会釈し合った
林檎の真ッ赤な皮が切れ/\にむかれた
さっきから晩の烏がないて居る草ひくうしろ
舟の灯を数えてから寺の門をしめる
雪の戸をあけてしめた女の顔
蟻を見付けた大地に顔触れさせて居る
妻が留守の朝からの小雨よろし
障子に針がさしてあるさびた針
障子のひくい穴から可愛いゝ眼を見せる
児の対手をして絵本を面白がってる 放哉
お山の晴れを松葉かき居り声あげんとす
米とぎ居るやあかつきの浪音
たくましい手できざみが上手にまるめられる
たった一軒の町の本屋で寄られる
くるわの中の赤いポストの昼である
和尚が留守の豆をいってるはぢける
するどい風の中で別れようとする
銃音がしてせっせと草をぬいて居る
どんどん泣いてしまった児の顔
晴れて行く傘で肩に乗せられる 放哉
窓に迫り来ろ雑草の勢を見る
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
新緑の山となり山の道となり
ポストに落としたわが手紙の音ばかり
急いで行く径の筍が出て居る
鏡の底のわが顔ひげのばしたり
草花一つ置き夫婦のみの夜更けたる
地図を見て居る小さい島々ある
鶏小舎鶏居らず春なり
たった一つ去年の炭団が残って居る 放哉
怪しからず凍てる夜となり炭団火にして参らす
去年の炭団がいつまでも一つごろ/\して居る
夕ベ煙らして居る家のなかから泣くよ赤ん坊
赤ン坊動いて居る一と間切りの住居
雑踏のなかでなんにも用の無い自分であった
家をたてること話し雑草やかれる
みんな泣いて居る人等にランプが一つ
病人の蜜柑をみんなたべてしまった
めし粒が堅くなって襟に付いて居った
淋しさ足らず求め足らず 放哉
層雲雑吟 尾崎放哉生
樋のこわれをなほし水だらけになってゐる
海いっぱいに尻を向け石だんの草をひいてる
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
猫が斜に出て行った庫裡の昼すぎである
あす朝の茶の芽をつむ約束をして和尚と寝てしまった
フトつばくろを見し朝の一日家を出ず
畳のその焼け焦げの古びたるさへ
麦わら帽のかげの下一日草ひく
きせるがつまってしまったよい天気の一人である
毎朝ごみ捨てに来て若い藪の風に立つ
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
ひょいとさげた土瓶がかるかった
若葉にむっとしてお寺をさがして居る
冷え切ったを茶をのんで別れよう
蚤がとんで見えなくなった古い畳だ
夕陽の庫裡は茶潰をすゝる音ばかり
へりが無い畳の淋しさが広がる
あすの米洗いあげて居る月の障子となる
頭をそって出る小さい町の海風
花火をあげて海に沿ふて小さい町ある 放哉
雑吟 尾崎放哉
ひねもすゼこやら水音がして山寺なりけり
すゝけた障子にわがかげうつる夜となる
山ふところの水遠くひく太い青竹
庫裡の大きな柱に古い五寸釘が打ってある
土瓶がことこと音さして一人よ
どろぼう猫の眼と睨みあってる自分であった
番傘ひらいては干す新緑の寺のしゞま
雨があがったらしい児等が遊んで居る声が近い
魚釣り見て居ろわれに寄りそう人ある
寝ころぶ一人には高い天井がある 5/21
層雲雑吟 尾崎放哉
筍筍いそいで竹になってしまった
大きな古足袋もらってはきなれて居る
白い衣物ばかりたゝんで居る夜である
小さい茶椀で何杯も清水を呑む
かん詰の缶を捨てる早春の藪
留守番をして地震にふられて居る
焼け跡己に芽ぐまぬ木とて無く
落ちそうな大岩の下で清水絶えず
木の芽かゞやきあつい茶を出される
雪ふるにまかせ赤い灯に集ってゐる
歯みがき粉こぼし朝の木の芽の道
バケツがころがって泣く夕風
力いっぱいの二た葉持ちあげたり
夜通し水走る宿で夢を見てゐる
手を振り足を振り朝は新らしい空気
澄み切った空で眼が覚め出す
青梅木の下す鼻値見え来る
白たゝけた爪の色を眼の前にしてゐる
かまどの暗い口に火をつけてやる
静な朝の雀をさがす一つ居る 放哉
せんべい布団にくるまって居る剃り立ての頭である
腹の臍に湯をかけて一人夜中の温泉である(註・原案)   
☆ 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である 
針の小さい光る穴に糸を通す
窓から女の白い手が切手を渡してくれた
病人らしう見て居る庭の雑草
浪音淋しく三味やめさせて居る
豆を水にふくらませて置く春ひと夜
姉妹仲よく針山をかれる 放哉

(「尾崎放哉記念館」収載句)

「障子あけて置く海も暮れ切る」は尾崎放哉の代表句。ところが、この句、原作は「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」だった。これはだらっとして潔さを欠く。添削したのは放哉が師事した荻原井泉水。
 この「放哉全集」第一巻には、井泉水に送られた放哉句二千七百余りが収録されている。私たちが知っていた放哉句は、その句稿から井泉水が選んで発表した一部の作品だった。しかも、井泉水はしばしば大胆な添削をしていた。
 というわけで、この全集によって放哉像が変わるだろう。有名な「咳をしても一人」「月夜の葦が折れとる」などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。
 句稿ではさきの障子の句の後に、「沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた」がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ。

 朝日新聞平成13年12月16日付「日曜書評欄」より「坪内稔典・書評」

(その十) 尾崎放哉未発表句 (その三)

句稿(2)
※○村の呉服屋
層雲雑吟 尾崎放哉

古い汽車の時間表を見て居た二人であった
石のぬく味を雑草に残して去る
蜘妹が巣をつくってる間に水を打ってしまった
はぢめての道の寒夜足になじまず
橋に来てしまって忘れたものがあった
土瓶のどっかにひゞがあるらしい
お寺にすっこんでそれから死んでしまった
豆ばかりたべて腹くだしをして居る
古椅子ひっぱり出して来て痩せこけた腰を下ろす
きせるのらをを代へるだけの用で出て行く
烏がひょいひょいとんで春の日暮れず
一文菓子屋の晩の小さい灯がともる
かぎりなく蟻が出てくる蟻の穴音なく(註・原案)
☆ かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
ネクタイが鏡のなかで結ばれる
いつしか曇る陽の草ひくかげが消えた
古くなった石塔新らしい石塔
木の梅を売る双手を組む
人にだまされてばかり円い夕月ある
いち早く朝を出てしまった船である
水引がたんとたまった浅い箱で 放哉
れいめいの味噌すり鉢がをどること
すりこ木すり鉢にそへて庫裡の朝ある
遠くへ返事して朝の味噌をすって居る
汐干の貝が台所でぶつぶつ云ってる
ほんの一ちょうしで真ッ赤になってるよ
熱のある手を其侭妻に渡す
ころころころがって来た仁丹をたべてしまった
あごひげをそる四角な鏡である
わが歳をかぞえて見る歳になって居た
木の芽を盗みに来る窓で叱らねばならぬ 放哉
柿若葉の頃の二階を人に貸してる
かまどちょろ/\赤い舌出し明けそむ
朝のかまどの前に白いあぐらをくんでる
地震の号外をたゝき付けてとんで行った
読んだ手紙もくべて飯が煮えたった
火消壷の暗に片手をつっこむ
猫に覗かれる朝の女気なし
豆腐をバケツに浮かべて庫裡の夕となる
大がまで煮て居る筍うらの筍
青梅ふみつぶして行く新らしい下駄
かまどが真ッ黒な日あけてるだけの庫裡 放哉
冷酒の酔のまはるをぢっと待って居る
いつもうたって居る竹藪の中の家
吹けど音せぬ尺八の穴が並んで居る
竹藪ほったらかして障子が釘付けにしてある
米をはかる時竹藪の夕陽
あるお茶の葉をむす湯気の中の坊主頭である
老ひくちて居る耳の底の雷鳴
手作りの吹き竹で火を吹けばをこるは(註・原案) 
☆ 手作りの吹き竹で火が起きてくる  
茶わんのかけを気にして話しして居る
冷え切った番茶の出がらしで話さう 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

二十一歳の冬に三度目の肺結核の発症をみて、末期患者となった。絶対安静の身で、私は初めて尾崎放哉の句にふれた。一句一句が私の内部に深く食い入り、死の追った間の中でかすかにゆらぐ光明も見た。死んだ折には、放哉の句集を棺におさめて欲しいと弟に頼んだ。幸いにも実験に近い手術によって死をまぬがれたが、その後も放哉の句は、私と共にある。死とはなにか生とはなにかという問いがそれらの句にあって、私は放哉を主人公とした「海も暮れきる」という小説も書いた。(吉村昭・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十一) 尾崎放哉未発表句 (その四)

句稿(3)
雑吟 尾崎放哉
竹切る音の人が顔を見せない
遊びつかれた児に寝る灯がある
椿の墓道を毎朝掃くことがうれしい
釜の尻光らして春陽に居る
寺はがらんとして今日の落つる陽ある
車屋貧乏くさい自分を見て通った
自分の母が死んで居たことを思ひ出した
白い小犬がどこ迄も一疋ついてくる
たぎる陽の釜のふたをとってやる
犬がもどって来ない夕あかりに立つ 放哉
今朝の花のどの枝を切らう
暮れ切った坊主頭で居る
戻りは傘をかついで帰る橋であった
焼け跡一本の松の木に背をもたせる
蔵の横の残雪に痛む眼ある
時計がなりやむ遠くの時計がなり出す
月が出て居る障子あけんとす
菊の鉢買って来て客とはなして居る
傘をくる/\まはして考え事してゐた
好きな花の椿に絶えず咲かれて住む 放哉
いちにち山椒煮る特佃の香にしみ込んで居る
貧乏徳利をどかりと畳に置く
寺の名大きく書いた傘ばりばり開いて出る
妻を風呂に入れて焚いてやる
雨を光らして提灯ぶらさげて出る
バラの垣が無雑作に咲き出した
桜が葉になって小供が又ふえた
咲き切った桜かな郊外に住む
花の雨つゞきのわらじが乾かぬ
山吹ホキと析れて白い 放哉
朝寝すごして早春の昼めしをたべとる
古本の町の埃をばたばたはたいてゐる
たった一つ残ってゐる紙鳶に青空ある
うしろから襖をしめてもらう泥手である
うす陽一日くもらせて庭石ある
日曜日の一庭を歩いてゐる蔓草
小さい布団で児がふか/\と寝てゐる
埃が立たぬ程の雨の女客ある
笑ふ時の前歯がはえて来たは
から車大きな音させて春夕べ 放哉
処女の手のひらのやうな柿若葉の下に立ってる
蟻にかまれたあとを思い出してはかいてゐる
筍堀った穴にふっくり朝の陽がある
筍堀りに主人の尻について行く
眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る
ごみ捨場に行く道が雑草でいっぱいになった
障子張りかへて若葉に押されてゐる
はでな浴衣きて番茶をほうじてゐる
妻の下駄ひっかけて肴屋の肴見に出る
漬物桶の石がぎっしり押して居る 放哉
お寺はひっそりして国旗出してゐる
みどりの下かげの若い人等の話し
お寺の青梅落ちる頃を児等は知ってゐる
ボタンが落ちた侭でシヤツを着てゐる
わが行く手の提灯一つ来るさま
いっぱいつまってゐる汽車に乗りこんでしまった
水の輪ひろがる山の池の出来事
空っ風の日の児等はどっかへとんで行ってしまった
泥手で金勘定をしてゐる風の中
梅も咲いて居る小さい流れありけり 放哉
(注)「思ひ出してゐる」↓「恩ひ出した」
(「尾崎放哉記念館」収載句)

放哉は、会社づとめに失敗し、病いにもとりつかれて、社会から完全に脱落した、いわゆる東大出エリートだが、その自由律俳句や書簡などによって、息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる。今回発見された二千余句によっても、その態さらに如実のはず。(金子兜太・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)


(その十二) 尾崎放哉未発表句 (その五)

句稿(4)
層雲雑吟  尾崎放哉

芭蕉の広い葉であふがれて居る蒼空
のびた爪切れば可愛いゝわがゆびである
暗がり砂糖をなめたわが舌のよろこび
犬が一生懸命にひく車に見とれる
干した茶を仕舞ふ黒雲に追っかけられる
百姓らしい顔が庫裡の戸をあけた
ごはんを黒焦にして恐縮して居る
味噌汁がたぶづく朝の腹をかゝヘ込んでる
朝のごはんの大根一本をろしてしまった
洗いものがまだ一つ残って居ったは
晩をひっそり杓子を洗ふいろいろな杓子
眼鏡かけなれて青葉
ほったらかしてある池で蛙児となる
板の間をふく朝の尻そばだてたり
漬物くさい手で(一字不明)句を書いて
そろはぬ火ばしの侭で六月になった
今日切りのわが茶椀に別れようとする
書きよい筆でいつも手にとられる
古下駄洗って居るお寺はたれも来ぬ
針箱を片付けてから話す 放哉
暦が留守の畳にほり出してあるきりだ
暦をあけて梅雨の入りを知った顔である
空家の前で長い立話しをして居た
児等が大きくなって別荘守がぼけとる
釘箱の釘がみんな曲って居る
水のつめたさに荷が下ろされて居る
夫婦でくしやめして笑った
二人の親しみの長火鉢があるきり
青梅酢っぱい顔して落ちとる
道でもないところを歩いて居るすみれ 放哉
和尚の不自由な足が夜中の廊下で起きとる
一茎の草ひく蟻の城くづれたり
ひねもす草ひく晩の豆腐屋の声を身の廻りにして居る
草ひくことの毎日のお陽さんである
鳶ひょろひょろ草ひくばかり
一日歩きつゞける着葉ばかりの山道
そっとためいきして若葉に暮れて居る
かたい机でうたゝ寝して居った
提灯と出逢って居る知った人である
蟻にたばこの煙りをふきつける 放哉
かくれたり見えたり山の一つ灯が消えてしまった
送って来てくれた提灯の灯にわかれる
わが眼の前を通る猫の足音無し
お寺の灯遠くて淋しがられる
昼寝起きの妻が留守にして居る
豆を煮つめる一日くつくつ煮つめる(註・原案)
☆ 豆を煮つめる自分の一日だった  
こんな山ふところで耕して居る
二階から下りて来てひるめしにする
火事があった横丁を風呂屋に行く
鍋ずみが洗っても洗ってもとれぬ朝である 放哉
桜の実がにがいこと東京が遠い
煙管をぽんとはたいてよい知恵を出す
顔の紐をゆるめて留守番をしてゐる
淋しい池に来てごはん粒を投げてやる
葉になった桜の下でたばこを吸はう
すねの毛を吹く風を感じ草原
蛙大きな腹を見せ月夜の後ろある
いり豆手づかみにしてこぼれる
蛙を釣って歩るくとぼけた顔だ
花活けかへた日の午后の客あり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

放浪の俳人尾崎放哉。ホトトギス、国民新聞等で素晴しい俳句を発表し、東大を出て若くして保険会社本社課長となり乍ら飲酒癖で追社。再起もことごとく失敗、一燈園での奉仕の生活に心の救いを求めても徹し切れず、寺男を転々として孤独と貧苦と病苦に苛まれて死んだ放哉。その中で詠われた、極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる。稲畑汀子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十三) 尾崎放哉未発表句 (その六)

句稿(5)
層雲雑吟 尾崎放哉

久々海へ出て見る風吹くばかり
半鐘ならされた事無き村のこの海
障子がしめてある海があれて居る
海がよく凪いで居る村の呉服屋
高下駄傘さして豆腐買ひに行くなり
よい月をほり出して村は寝て居る
池水しわよせて京に来て居る
マッチの棒を消す事をしてみる海風
さんざん雨にふられてなじみになってゐる 放哉
筍すくすくのび行く我が窓である
障子の穴から小さい筍盗人を叱る
餅を焼いて居る夜更の変な男である
古釘にいつからぶらさげてあろものを知らず
蜘蛛がすうと下りて来た朝を眼の前にす
銅像に悪口ついて行ってしまったは(註・原案)
☆ 銅像に悪口ついて行ってしまった   
探し物に来て倉の中で読んで居る
雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る
たもとから独楽出して児に廻して見せる
今日も一羽雀が砂あびて居るよ草ひく 放哉
とんぼが羽ふせる大地の静かさふせる
きちんと座って居る朝の竹四五本ある
蛙ころころとなく火の用心をして寝る
破れうちはをはだかの斜にかまへる
所在不明の手紙がこっそり戻って来て居る

只今居る常高等といふオ寺は妙心寺派の禅寺で中々立派なものです(非常に荒廃して居ますが)淀君の末の妹(京極家ニ嫁して)が建立されたもの、問題にならぬ程あれはてゝ居るけれど庭は実に見事なものです淀君の妹といへば美人であったろうと思います、---一人庭の草ムシリをしながら次の九句をつくって見ました 放哉

一と処つヽじが白う咲いて廃庭
廃庭大きな蛙小さな蛙
蛙がとんだりはねたりして池の夜昼
とかげの美くしい色がある廃庭
廃亭に休らうわれは大昔しの人
昔しの朝の風吹かせ一木一石
女がたてた大きなお寺だ
廃庭雑草の侭の数奇を尽す
ホキと折る木の枝よい匂ひがする
○以上、九句廃庭吟御叱正下さりませ

青梅憂然と落ちて見せる
青梅かぢって酒屋の御用きゝが来る
青梅白い歯に喰ひこまれる
節穴さし来る光り尊し
梅雨入りのからかさに竹の葉さはらせる
小供を抱いてお客と話してゐる
児の笑顔を抱いて向けて見せる
折れ釘も叩きこんで箱をつくってしまった
佛のお菓子をもらう小供心である
赤いお盆をまんまろくふいて居る 放哉
蛙たくさんないて居る夜の男と女
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
小鳥よくなれて居て首をかしげる
鳥寵下ろす二の腕の春だ
なつかしさうな鶯遠くへ逃げてはなく
下手くそな鶯よ山路急ぐとせず
雪国の長い家のひさしに逗留してゐる
はるか海を見下ろし茶屋の婆つんぼであった
もるがまヽにつかって居る一つの土瓶
豆のやうな火を堀り出し寒夜もどって居る 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

捨てても捨てても、なお捨てきれぬ思いが句となってこぼれおちる。五七五の韻律や季語の約東ごとをおのずからはみだし、食い破る。これが表現というものであれば……わたしも生きていける。そう思った二十代のわたしにとって、放哉は生きるよすがだった。 極限の短詩型、ことばのミニマル・アート。日本語が放哉を持ったことを、わたしは誇りたい。(上野千鶴子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十四) 尾崎放哉未発表句 (その七)

句稿(6)
層雲雑吟  尾崎放哉

葉桜の暗夜となり蛍なりけり
木槿の垣に沿ふて行く先生の家がある
桜葉になってしまってまだあき家である
葉桜の下で遊びくたびれて居る
木槿の垣から小大がころがり出す
木槿壇の上を豆腐屋の顔が行くよ
木槿の葉のかげで包丁といでいる
松山松のみどり春日ならざるなし
燃えさしに水かける晩の白い煙り
すくすく松のみどりの朝の庭掃く
竹の葉がふる窓で字を習ってゐる
底になった炭俵の腹に手を突っ込む
豆腐屋の美くしい娘が早起きしてゐる
田舎の床屋で立派なひげをはやしてゐる
少しの酒が徳利ふればなる
久し振りに英語の字引の重たさ手にする
池で米とぐかきつばたは紫
池一つ置いて静かなあけくれ
お池のなかの黒ン坊のゐもり
縄が障子にぶつかる元気がよい 放哉
寺に来て居て青葉の大降りとなる
サッとかげる陽ある躑躅まっ盛り
物干で一日躍って居る浴衣
汐ぶくむ夕風に乳房垂れたり
砂山下りて海へ行く人消えたる
芹の水濁らかすもの居て澄み来る(註・原案)  
☆ 芹の水濁らすもの居て澄み来る
桜咲き切って青空風呼ぶさま
青葉日かげの石段高々とある
桜ひとかたまりに咲き落ちて池水
軒の口ガ手をのばす夕月 放哉
借金とりを返して青梅かぢって居る
落葉ふんで来る音が大であった
四角にかり込まれた躑躅がホツ/\花出す
池の朝がはぢまる水すましである
ぱく/\返事をして豆がいれる
落葉どっさり沈めて澄み切った池だ
煙草のけむりが電線にひっかゝる野良は天気
煙草のけむりがひっかゝる高い鼻である
小米花数限りなく白うて
池の冷めたさにごらす米のとぎ水 放哉
土塀に突っかい棒をしてオルガンひいてゐる学校
児にヨジユームを塗ってやる朝の空気だ
黒い衣ものきて後ろ姿を知らずに居た
夜の枕があたまにくっ付いて来る
今朝はどの金魚が死んで居るだらう
話しが間遠になって町の灯を見る
言ふ事があまり多くてだまって居る
小さな人形に小さいかげがある
鯖を一本持って来て竹を切っていんだ
話しずきの方丈にとっつかまって居る 放哉
梅雨暗れの七輪ばたばたあふいで居る
筍くるくるむいてはだかにしてやる
芙莫の小さい提灯が赤うなって来た
石油かんを叩いてへこましてしまった
茶の出がらしが冷えてゐる土瓶である
茶椀の欠けたのが気になってゐる朝である
墨すり流しつヽ思はるること
消し炭手づかみにしてもって来る
たばこを買ってしまって一銭しか残らぬ
山吹真ッ黄な蛇をかくしてゐる 放哉
口笛吹かるゝ四十男妻なし
うつろの心に眼が二つあいてゐる
花火があがる音のたび聞いてゐる
天幕がたゝまれて馬がひかれて行った
一日曇ってゐる手習ひしてゐる
破れたまんまの障子で夏になってゐる
夜がらすに蹄かれても一人
淋しいからだから爪がのび出す
電燈が次の部屋にもって行かれた
重たいこうこ石をあげる朝であった 放哉
髪を切ってしまった人の笑顔である
蛙が手足を張り切て死んでゐる
肉のすき間から風邪をひいてしまった
裸の人等のなかの風呂からあがってくる
屋根草風ある田舎に来てゐる
障子のなかに居る人を知ってゐる
赤ン坊火がついたやうに泣く裏に暮れとる
寝そべってゐる白い足のうらである
板の間光らせて冷へた茶を呑んでゐる
苔がはえて居る墓の字をよまんとす 放哉
襖あけひろげ牡丹生けられたる
たくさんの墓のなか花たててある墓
牡丹あかるくて読まるゝ手紙
山の茂りの人声下りて来る
人を乗せて来た戸板でさっさといんでしまった
米粒一粒もたいなく若葉に居る
汽車でとんで来たばかりの顔である
痛い足をさすりさすり今日もくれて来た
女房大きな腹をしてがぶがぶ番茶を呑んで
物を乞はれて居ろわれは乞食
放哉何くれとなく母の手助けをして女の子である
なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
他人同志が二人で寝起きしてゐる
貧乏ばかりして歳頃となってゐる
わが歳を児のゆびが数へて見せる
橋までついて来た児がいんでしまった
母の無い児の父であったよ
牛乳コトコト煮て妻に病まれてゐる
卵子たくさんこわしてあいそしてくれる
今朝も町はづれの橋に来てみる 放哉
裸ン坊がとんで出る漁師町の児等の昼
波音になれて住む若い夫婦である
渚消されずにある小さい児の足跡
小さい橋に来て荒れとる海が見える(註・原案) 
☆ 小さい橋に来て荒れる海が見える
一本松とて海真ッ平らなり
海の旭日ををがんで二階から下りる
えぼし岩目がけて朝の釣舟をやる
ひとひらの舟に乗る深い海である
島に人柱ばせて海は波打つ
手からこぼれる砂の朝日 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第一巻 句集
定型俳句時代 自由律俳句時代 句稿1 句稿2
 放哉は生前に句集を持つことはなかった。没後すぐ、荻原非泉水によって句集『大空』が編まれ、広く愛唱される放哉はほとんどこれによる。
 然るにこの全集を編むための調査の結果、新聞や雑誌への投稿句が多数確認された。それは大正三年ころまでの定型句でも、以後の自由律の句についても同様である。埋もれていた句が新たに見出されるということは、放哉の句を全面的に読むことはできなかったということである。この巻では、すべての放哉句を、初出の句形で発表順に掲載する。さらに、残存する膨大な句稿も併録する。井泉水主宰の『層雲』ヘの句稿として井泉水宛に送ったもので、これまでにその一部が幾人かの手にあり、存在は知られていたが、一九九六年七月、二七二一句にのぼる句稿が荻原家からまとまった形で発見された。
 全句と句稿を併せ、放哉『句集』としたこの一巻は、多くの読者に瞠目して迎え容れられるに違いない。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十五) 尾崎放哉未発表句 (その八)

句稿(7)
層雲雑吟 尾崎放哉
※○足のうら

妻楊枝噛んでは捨てるなん本でもある
だんだん風が強くなって来て泊る気になって居る
煙草の煙りにごまかされて出て来た顔である
この蟹めと蟹に呼びかけて見る
かはいや小さくても赤い蟹の親ゆび
松かさぼんやりして居る庵にたゝき付けられる
雨のあくる日がよく晴れ松かさからりと落ちる
火が消えて居る火鉢をかきまはしてほり出す
呼び返して見たが話しも無い
海を前に広げて朝から小便ばかりして居る
あらしが一本の柳をもみくちやにする夜明けの橋(註・原案)
☆ あらしが一本の柳に夜明けの橋       
あらしの部屋にはランプが一つ灯いて居る
みんな寝込んで居る家並の上に赤い雲を流し嵐はぢまる
あらしの中のばんめしにする母と子
あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る
あらしのなかの虫一つなく一つなきけり
あらしの晩で椎拾ふ相談が出来た
あらしのあとの小さい鶏頭起してありく
風が落ちた神主の顔に夜があけて居る
よい凪の月無きかゝる夜島島生れし
波にかくれる島にて舟虫はひけり 放哉
芒がどんどんのびて行く島のお天気つゞき
雨の日は遠くから燈台見て居る
ゆっくり歩いても燈台に来てしまった
旅人若く島の芒穂に出でず
風がどこに行ってしまったか海
波のうねりのだんまって居る力
島々皆白波の詞を抱き
白波打ちかへし渚秋なりけり
ひょいと呑んだ茶椀の茶が冷たかった
朝のあついお茶をついで呑む 放哉
いつの間に風が落ちたか暮れとる
石油の匂ひが好きな女であった
水平線をはなれ切った白雲
石炭酸の匂ひがする裏町ぬける
砂山砂から顔出して石塔
道しるべ横さまに打ち込まいでもよさそう
小鳥飼ふ事が上手でだまりこんでゐる
うたが自慢でおばゞ酒をほしがる
朝皃の蔓のさきの命ふるはす
風の藤棚の下ベンチが無い
緋鯉がにじんだ侭で暮れる 放哉
大きな鯉も居る藤も垂れて居る
雨蛙がぴったり手に吸ひ付いた朝風
なぜか逢ひともない人の顔だが
鳶だんだん大きな輪をかいて高いぞ
針箱しまって晩のにぎやかさにかゝる
ボケの花が一番すきな木瓜の花
数えて居るうちに鳩の数がまぎれて来る
そうめん煮すぎて団子にしても喰へる
づいぶん強い風であった柘榴が落ちない
庭下駄庭石にくっ付いて居る 放哉
もう汽車に乗ったかな土瓶がからっぽだ
焼米ゆびからこぼれる音を拾ふ
小包の紐をたんねんにほどいてたばねる
庭石格好よく据えてあすのことにする
風が落ちたやうだ小供の泣く声
ハンケチ洗って干す秋陽となり
蝉がちっとも晴かぬやうになった大松一本
歯みがき粉がこぼれて留守にして居る
墓へ行った足音が今戻って来る
藤棚洩れる秋陽を机の前にす 放哉
海辺の畑の垣とても無く夾竹桃真ッ盛り
石が火になって炭とをこって居る
血を吸ひ足った蚊がころりと死んでしまった
田を植えて行く村の時者さんが通られる
こんな町中の三角の水田であった
(槌か大久保新田、辺りの記憶)
鎌を光らして朝の山にはいる
口をあけないでしまった柘榴だ
洗濯竿にはわがさるまたが一つ
足のうら洗へば白くなる
すら/\書ける手紙で二三本書く 放哉
涼しさ担ひ来し荷を下ろす
石山虫なく陽かげり
石山雨をふるだけふらせて居る
青梅落として居る留守らしい
ざるから尾頭ぴんと出して秋風
自分をなくしてしまって探して居る
帯のうしろに団扇をさしてお婆よく歩く
三味線の稽古して御詠歌をしへて居る
帽子にとまった蛍を知らない
蛍籠の蛍の匂ひ 放哉
河原の蛍が光る部屋に案内される
昼の蛍の襟が赤い兵隊さん
蛍すいすい橋は風ある
叱られた児の眼に蛍がとんで見せる
そんな遠方までとんでもよいか池の蛍
夜更かしてもどる蛍がよく光ること
どうせ濡れてしまったざんざんふりの草の蛍(註・原案)
☆ どうせ濡れてしまった夜空の草の蛍    
風よ高々忘れたような蛍
光らぬやうになった蛍寵吊るして居る
光ること忘れて死んでしまった蛍 放哉(註・原案)
☆ 蛍光らない堅くなってゐる        
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空
はやり風邪で死ぬ人を焼く煙突がいそがしい
大松一本雀に与へ庵ある
大松によりかかる蟻の音全く無し
根も葉も無い話しで田舎の夜が更ける
月の出がをそいからの庵にもどる
への手動かすきりの烏が遠くなってしまった
雨の烏がたまって居て無精者で
蚤とり粉たくさんまいてくしやみして居た
堤へあがる海への道消えたり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第二巻 書簡集
 放哉の書きつづった書簡について、これは一級の文学であるといち早く喝破したのが井泉水であり、没後、間をおかず『層雲』誌上で書簡の提供を呼びかけ発表した。書簡文学の系譜に連なる雄峰と言えるものであろう。俳人放哉はまた一面、手紙の人でもあった。就中、小豆島へ渡ってからは、独居無言と言いつつ、おびただしい書簡を発し、返書を求めた。多いときは一日に三通も同一人に書き送ったりしている。閉ざされた空間に小さく小さく穿たれた、世界への窓のようなものであった。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十六) 尾崎放哉未発表句 (その九)

句稿(8)
層雲雑吟 尾崎放哉

海が少し見へる小さい窓一つもち事たる(註・原案)
☆ 海が少し見へる小さい窓一つもつ   
わが顔があった小さい鏡を買うてもどって来る(註・原案)
☆ わが顔があった小さい鏡買うてもどる   
こゝから浪者きこえぬほどの海の青さの
畳がえしてもらった其の日から庵の主人で居る
わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなって居る
すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ
久し振りに島の朝の木魚叩いて居りけり
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
井戸水汲みに行くまっ昼西瓜がごろごろ寝てゐる
日が暮れゝば寝てしまうくせの窓一つ残し
わが手わが足の泥を洗ひ今日の終り
七輪あふいで居れば飯が出来汁が出来
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
どっと山風に消えたちょろ/\風呂の火
藁をたいた土の匂ひをふと嗅いで寝る
ほりかけの石塔の奥で晩酌やって居る
小さい窓から茶がらをこぼす新月
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
新らしい石塔がたった夜のわれは寝るとす 放哉
をさな心のランプを灯し島の海風
島の墓にはお盆の夕空流れ
晩のかげがうつる項となる二枚の障子
四五人静かにはたらき塩浜くれる
四五本ほちほちくゆらし蚊とり線香
夜更けの麦粉が畳にこぼれた
壁土が落ちること昼の虫なく
炭をもらった夜の火鉢土瓶たぎらす
色々思はるゝ蚊帳のなか虫等と居る
今朝は松の青い葉がたくさんある掃く 放哉
いつも松風を屋根の上にをいて寝る
海辺はをなじなりはひの家々晩の煙りをあげ
洗濯竿をじゃまにして立話して居る
夜中ひやひや起こされて居る窓の海風
船がはいったぞと知らしてゐる窓一つ暮れとる
蚤とぶ朝の畳の裸一貫
店の灯が美くしくてしゃぼん買ひにはいる
松かさも火にして豆が煮えた
屋根の上から見えてゐる山も島の山かな
女の笑ひ声もして盆の墓原 放哉
こんなところに打ってある釘を考えて居る
島人の訛りになれて木槿白き夜の
無暗に打ってある釘をぬく小さな住居とし
大声あげて呼ぶ野良はひろびろ
茄子をもいで来たあんまにもんでもらう
ひとばんでしぼんでしまった白い木槿
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
みんなで汲まれる井戸の水がうまくて真夏
井戸のほとりがぬれて居る夕風
西瓜がつけてある井戸水深々汲み去る 放哉
葬式のかねがなる昼月出て居り
さゝったとげを一人でぬかねばならぬ
麦粉を鼠がねらう夜が長いぞ
わかれてから風邪薬をかって寝にもどる
なん本もマツチの棒を消やし海風に話す(註・原案)
☆ なん本もマッチの棒を消し海風に話す
新らしい釘を打って夏帽をかける
松の葉風無くて淋しい朝よ
山に登れば淋しい村がみんな見える
もらった新芋がある葱があるたべ尽くされず
横顔そっくりの顔がちがって居った 放哉
蚊帳の吊り手の朝風に用なくて居る
腰をろす石をさがす暮れちかく
待って居る手紙が来ぬ炎天がつゞく
夜更けの舟をろす月にひそかなる
漕ぎもどす舟の月夜はなれず
お茶を香むわが茶碗が一つ
よびとめられた晩の道茄子もいでもらう
片眼の女がうりに来る島のくだもの
ボラがたくさん釣れるこの頃の丸い月夜
まっくらなわが庵の中に吸はれる 放哉
夕べもどって来る庵の障子があいて居った
荷萄の種子を吐いて居るランプの下
梅干を大事にしてお粥をたべとる
人来る声してみんな墓場へまがる
土のほこりの窓低き鶏頭
半分よんだ本がなか/\読み切れぬ
畳はく風の針が光って見せる
庭をはいてしまってから海を見てゐる
半紙が二三枚とんで居る庵であった
昼の蚊御佛を礼讃し刺すよ 放哉
白足袋がよくかはいて暮れてしまった
天井のふし穴が一日わたしを覗いて居る
般若心経となへ去る朝の第一燈
海風たんとたもとに入れ晩を遊びに出る児等
恋を啼く虫等のなかでかゞまって寝る
かりそめのたなを吊って乗せるものがたんとある
障子の穴が大きうなって朝晩涼しうて居る
裏山にあがって朝の舟を見てこよう
土瓶の欠けた口に笑はれて居る
麦粉を口いっぱいに頬ばっても一人 放哉
燃えさしに水をかけて泣かせてしまった
東京へ手紙かきあげて島の夜にだかれて寝る
石塔ほる前の家の女がめくらであった
一銭置いてお茶をみんな呑まれてしまった
妻楊子買って来て一本もたいなく抜く
今ばん芋を煮ようか茄子を煮ようかとのみ
京の女を思ひ出す鏡見て居る
扇子を大事にし大事にし蝿を叩く
お経よむ気にもなれず米とぐ日ある
お光りに佛てらされ給ふ朝は 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第三巻 短篇・随想・日記ほか
短欧・短篇・簡想・日記アルバム影印
回想(尾崎並子・沢芳街1森田美恵子・荻原井泉水他)書簡(放哉あて他)
年譜 文献目録 俳句索引
 鳥取県立第一中学校の校友会誌『鳥城』掲載の短歌、随想や、第一高等学校の校友会雑誌に書いた「俺の記」、これまで埋もれていた同誌「非同色」などの小文、草稿「夜汽車」「無量寿仏」、「層雲」に寄せた、小豆島生活の一端を描く「入庵雑記」、簡単な日録ながら最晩年の姿をいきいきと紡佛させる「入庵食記」などを収録。他に参考資料と俳句索引、年譜などを収める。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十七) 尾崎放哉未発表句 (その十)

句稿(9)
層雲雑吟 尾崎放哉

雨の椿に下駄辷らしてたずねて来た (註・原案)  
☆ 雨と椿に下駄辻らしてたづねて来た
何かもの足らぬ晩の蛙がなかぬことであつた
(此島米ヲ産セズ故、水田ナシ)
わが髪の美くしさもてあまして居る(註・原案) 
☆ 髪の美くしさもてあまして居る
浴衣きて来た儘で島の秋となっとる
バケツー杯の月光を汲み込んで置く
閾の溝に秋の襖をはめる
いつも淋しい村が見える入江の向ふ
障子の穴をさがして煙草の煙りが出て行つた
夏帽新らしくて初秋の風
鶏のぬけ毛がとんで来ても秋
藁ぐまにもたれて落ち込んでしまった
波打際に来てゆっくり歩きつゞける
しとしとふる雨の石に字がほってある
淋しくなれば木の葉が躍って見せる
叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る
窓いっぱいの旭日さしこむ眼の前蝿交る事
今朝、五時頃ノ実景デ、ナンダカ馬鹿二サレテ居ル様ナ気ガシマシタ、彼等、第一義諦ヲ知ル筈トデモ云ヒタイ様ナ気持デ、彼等八実二堂々タルモノデス、旭日直射シ来レバ彼等ハ即歓呼ヲ挙ゲテ交ル、
秋風吹断一頭慮(?)
旭暉眼前蒼蝿交
マゾイ偈デスカ、マダ死ネソヲニモアリマセンカ

あく迄満月をむさぼり風邪をひきけり
さあ今日はどこへ行って遊ばう雀等の朝
はちけそうな白いゆびで水蜜桃がむかれる
石のまんなかがほられ水をたゝえる
山ふところの風邪の饒舌
花がいろいろ咲いてみんな売られる花(註・原案)
☆ 花がいろいろ咲いてみんな売られる   
青空の下梨子瓜一つもぐ
塩のからいに驚いて塩をなめて居る
はく程もない朝々の松の葉ばかり
盆芝居の太鼓が遠くで鳴る間がぬけて居てよし 放哉
落葉生きてるやうにとび廻って見せる
枝をはなるゝや落葉行方も知らず
たまさか来るお遍路の笠が見送らるゝ秋は
追憶の夕ベ庭先き蟹がはって見せる
今日はも一つお地蔵さまをこさえねばならぬと石ほる
障子の破れから昼のランブがのぞくも風景
なれてしまへば障子の破れから景色が見える
荒壁ほろほろわが夜の底に落ちる
秋風の石が子を産む話し
投げ出されたやうな西瓜が太って行く 放哉
忘れた頃を木槿又咲く島のよい日和
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞(註・原案)
☆ 壁の新聞の女はいつも泣いて居る  
鴨居とて無暗に釘打ってあるがいとほし
此の釘打った人の力の執念を抜く
われにも乏しき米の首がやせこけた雀よ
下手になく朝もよろし島の鶏
海風に筒抜けられて居るいつも一人
海風至らぬくまもなく一本の大黒往
たまたま窓から顔出せば山羊が居りけり
海風べうべうと町までの夜道 放哉
朝から曇れる日の白木槿に話しかける
うらの畑にはいつて盆花切ってもらう
アイスクリーンを売って歩く島の昼は開けた
うっかり気が付かずに居た火鉢に模様があった
お盆の年寄が休む処とし庵の海風
盆休み雨となりぬ島の小さい家々(註・原案)
☆ 盆休み雨となりた島の小さい家々
島から出たくも無いと云って年とって居る
お盆の墓原灯をつらね淋しやひとかたまり
死ぬ事を忘れ月の舟漕いで居る
朝ばん牛乳を呑んでやせこけて居る 放哉
山々背中にあすの天気をさしあげて居る
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
全く虫等の夜中となりをぢぎして出る
稲妻しきりにする窓焼米かぢる音のみ
蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残ってゐる
屋根瓦すべり落ちんとし年へたるさま
アノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道
島ではぢめての蛇を見て唾吐いてしまった
女手でなんとも出来ない丸い漬物石
早起の島人に芝草をのゝき喜び 放哉
白い両手をついて晩の用をきゝに来て居る
やゝはなれてよくなく蝉が居る朝を高い木
焼米ほつりほつり水呑むわが歯強かりけり
壁にかさねた足の毛を風がゆさふつて居る
すね小僧より下にしか毛が無い秋風
今日は浪音きこえる小窓はなれず
風邪を引いてお経あげずに居ればしんかん
ろうそく立てた跡がいくつも机に出来た
風音ばかりのなかの水汲む
よい墨をもらって朝からうれしい 放哉
すっかりお盆の用意が出来た墓原海へ見せとる
鼠にジャガ芋をたべられて寝て居た
蚊帳の吊り手が一本短かくて辛抱してゐる
白木槿二つ咲きいつも二つ咲き
今日一日は七輪に火をせなんだまヽ
山のやうに芝草刈って山に寝てゐる
草履をはたいてもはたいても浜砂が出る
魚釣りに行く約束をしたが金がなかった
島人みんな寝てしまひ淋しい月だ
窓からさす月となり顔一つもち出す 放哉
友にもらって来た歯磨粉が中々つきない
島の土となりてお盆に参られて居る
小さい船下りて島に来てしまった
茄子を水に清けて置く月夜であった
墓近くなる盆花うろ家家
萩かな桔梗かな美くしくなった盆のわが庵
まっくらな戸に口をあけて秋山の家である
海人の視子が呼びかはし晩になっとる
草履が一つきちんと暮れとる切りだ
犬が逃げて行くかげがチラと晩だ 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

尾崎放哉 明治十八年ー大正十五年 鳥取生まれ
 放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
 亨年四十二歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。記念館は平成六年に当時の南郷庵を復元したものである。(「尾崎放哉記念館」の年譜)

(その十八)

○ すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く
☆ 障子あけて置く海も暮れ切る
○ 自分ばかりの道の冬の石橋
☆ 自分が通ったゞけの冬ざれの石橋
○ 光ることを忘れて死んでしまった蛍
☆ 蛍光らない堅くなってゐる
○ 夕空見てから晩めしにする
☆ 夕空見てから夜食の箸とる
○ 大晦日と暮れた掛取も来てくれぬ
☆ 掛取も来てくれぬ大晦日も独り

 上記の○印の句が放哉の原案。そして、☆印の句がその放哉の句に井泉水が手直しをした句。これらの放哉の原案の句とそれに井泉水が手直した句とを比較すると、いかに、井泉水の手直しが凄かったということが一目瞭然となってくる。ここで、井泉水の添削の特徴としての、「動詞のくり返しによる」独特の構造のものが顕著になってくる。その顕著な一例として、放哉原案では、「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」の一句一章体のスタイルが、井泉水は、「障子あけて置く / 海も暮れ切る」と、前半句と後半句の二句一章体に手直しをするのである。放哉原案は作者の作意が見え見えで、どうにも饒舌で間の抜けている印象であるが、井泉水の手直しの、前半句の「置く」と後半句の「切る」との二重構造が、絶妙の間(ま)を生み出している。すなわち、「前半句の『置く』を文法的に終止形と考えれば、後半句との間に意味の切れ目ができるが、これを連体形と考えるなら、前半句は後半句の『海』の修飾語になり、そのあいまいさからくる宙吊り状態が、この文体ではきわめて効果的に機能している」(仁平・前掲書)ということになる。ここで、関連する事柄を、仁平・前掲書により、その中心となることを付記しておきたい。
「俳句の言葉は、もともと散文的な文法には従わない。それは切れ切れの言葉であるといっていい。その切れの言葉に、一句としての秩序を与えるのが、すなわち五七五という定型律である。その定型律を拒否することで、俳句の言葉は秩序を失い、いわば宙吊りになる。(中略) 放哉は、この宙吊りされた言葉の不安定な緊張感に、俳句としての新鮮な手応えを感じているようだ」(「いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘」に関連して)。
「自由律俳句というのは、文字通り自由に書くことなら、一句は『ころりと横になって今日が終わって居る』と書かれてもいい。しかし放哉が欲したのは、定型からの自由ではなく、定型にたいして不安定な緊張感であった。『横になって』と書けば、言葉が安定してしまう。そのことを放哉は避けている。いや、たんに言葉の問題ではなく、『ころりと横になる』行為そのものを安定させたくないのだ。そして、放哉が手応えを感じている自由律の不安定さは、しがない寺男として暮らす毎日の現実にたいする、自身の気持ちの不安定さであるのかもしれない。自由律俳句を書くことは、定型を選択しながら、つねにその定型から不安定な位置を保とうとすることだ。つまり自由律俳句と自由詩とでは、『自由』というモチーフが最初から違っている。自由律俳句の前提には、定型の意識がある」(「ころりと横になる今日が終わっている」に関連して)。
 そして、これらの「自由律俳句の不安定」というについて、放哉以上に、そのことに意を用いて、放哉のこれらの句を放哉の他の多くの作品のなかから選句して、その句の中核となっているものを見事に察知して、そして、放哉の原句以上に、「自由律俳句の不安定」な作品に仕上げているのは、他ならず、放哉の師の井泉水であるということは、上記の掲出句を見ていけば明らかなところであろう。しかし、ここで、「俳句の本態の曲譜は、五七五という定型そのものにあり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎない」(平畑静塔の「定型不実」論)という、たびたび、この放哉探索で話題にしていることを想起していただきたい。このことは、さらに、別な言葉でするならば、「俳句というものは、純粋に個人の表現と見なしたり、あるいは、個人の表現に価値を置くべきものではないのかもしれない」(坪内稔典『柿喰ふ子規の俳句作法』所収「定型の力」)とのニュアンスに近いものということになろう。これらのことを前提として、上記の掲出句の「歌手(作者)」は、ことごとく、尾崎放哉その人であり、手直しをした井泉水は「振り付け師(選句者)」ということになろうか。この意味で、尾崎放哉は優れた自由律俳句の俳人の一人であったが、同時に、その放哉の優れた素質を見抜き、その素質を見事に開花させたところの、その師の荻原井泉水は、定型律俳句の大立者・高浜虚子に匹敵する位の、凄腕での自由律俳句での「振り付け師(選句者)」であったということは、特筆しておくべきことであろう。

(その十九)

○ きれ凧の糸かかりけり梅の枝 (中学時代・定型の句)
○ 元日や餅二日餅三日餅    (大学時代・破調の「句またがり」の句)
○ 寝そべつて草の青さに物云ふ (須磨時代・破調の「字足らず」の句)
○ 銅像に悪口ついて行つてしまつた (小浜時代・破調の「字余り」の句)
○ 小さな人形に小さいかげがある  (「未発表句」・井泉水の言う奇調の句)

「字余りの句なるものは古来沢山にあり、又さほどの音調を害さないものであるから、自分等は何も十七字といふ字数に縛られるには当らない。(中略) 斯様に音数を観察してみると、将来には是迄の五七五といふ様式は廃れるやうになつて、五七五及び其の字余り、若くは今言ふ奇調の或るものが正調として流行するやうになるかも知れぬ。然し余り長い句法は面白くないからやはり十七八の所に落着くのであらう。なにしろ充分変化する余地はある。而して十七字といふものは変化を容るるに決して狭いものではないのである」
(荻原井泉水「新たに句作する人々と共に」)。
 
 この井泉水の指摘などを引用しながら、俳句評論家の仁平勝は、先(その七)に触れたように次のような持論を展開する。

「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
 
 そして、これを一歩進めて、次のような指摘をしたのであった。

「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』(定型句)と裏の『破調的俳句』(破調句)とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」(その七)。

 ここで、それらの、それぞれの例句をあげると上記の掲出句などがそれに当るであろう。そして、これらの例句に見られるとおり、放哉の句の態様(定型・非定型・リズム)というの
は多種多様であり、一口に、「自由律俳句」とか「一行詩」などとかに区分けをするということは、これまた、レッテル貼りの感じがしなくもないのである。それ以上に、俳人・放哉を、「息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる」(金子兜太)や「その中で詠われた極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる」(稲畑汀子)などの指摘も、放哉の一面を拡大視してのもののようにも思われる。これらのことに関して、坪内稔典の「有名な『咳をしても一人』『月夜の葦が折れとる』などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。句稿ではさきの障子の句の後に、『沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた』がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ」(「その九」の朝日新聞の書評)などは、今後、さらに掘り下げていく必要が必須であろう。
 さしずめ、上記の「元日や餅二日餅三日餅」の句などは、放哉の定型観や滑稽観などを知る上では、もっともっと注目して然るべきもののように思われる。この句を、尾崎放哉ら以上に、アンチ「定型」ということで、「多行式俳句」のスタイルを確立した高柳重信などのスタイルを借用すると次のようになるであろう。

○ 元日や
  餅
  二日
  餅
  三日
  餅

 つくづく、放哉のこの句の面白さなどに脱帽する。

(その二十)

○ 小さな人形に小さいかげがある  (放哉「未発表句」より)

 今回の放哉の「未発表句」のなかで、この掲出句がとりたてて佳句ということではない。ただ、この句が、「俳句とは小さい人形なものであって、その小さな人形にも小さな影をもっている」と、そんなことを、放哉が無意識のちに察知しているように思えたのである。
 放哉の師にあたる荻原井泉水は、正岡子規そして河東碧梧桐に連なる俳人で、その子規の言葉に次のようなものがある。

「世の人あるいは俳句を以て器小なりとす。実に十七字、八字の天地に俯仰する者なればこれを小説、長編の韻文等に比して器の小なる論を俟(ま)たず。されど器の小なるを以てこれを捨てよといふ人あるに至つてはその意を得ざるなり。ここに宝石を納るべきささやかなる函を持つ人あり。その人に向つて『汝何ぞ此の如き小き器を持つて満足する。その小き函を捨てよ。その代りに大なる倉庫を起つべし。巨万の財産は大ななる倉庫に非ざれば納(い)れがたし』と言はんに誰かその愚を笑はざらん。(中略) 俳句の趣味はその簡単なる処にあり。簡単を捨てて複雑に就けよといふ者は終にその簡単の趣味を解せざるの言のみ。落語家曰く大は小を兼ぬるといへども杓子は耳掻の代りを為さずと」(『松蘿玉液』明治二九年)。

 これらの「俳句は小さな器」ということは、「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」などとさまざまに指摘されるところである。そして、この「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」こそ、俳句の最大の特徴であり、これをどう最大限にその効果を発揮させせるかどうかが、ここに俳人の力量が問われる所以があるよに思われるのである。それともう一つ、その「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」は、それらを補うものとして、古来からの「和歌・連歌・俳諧・俳句」の、その歴史が延々と築きあげらてきたところの「伝承的美意識」としての「季題・季語」を、いわば、「象徴語」(シンボル的な核となる言葉)として活用してきたということに思いを新たにするということなのである。すなわち、翻って、「俳句という小さな器」それ自体が、その「簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」が故に、「季題・季語」と同じように、「象徴的なレトッリク(修辞法)」ということで、意識・無意識の如何を問わず、俳人達は活用し、そして、実践してきたのではなかろうかということなのである。この「象徴的なレトッリク(修辞法)」こそ「定型の魔力」の本態なのではなかろうかという思いが拭いされないのである。
 そして、荻原井泉水・尾崎放哉らは、この「象徴語」としての「季語・季題」、そして、
「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」からの「自由」(解放)を目指して、「自由律俳句」の世界に足を踏み入れたのであるが、それは実に、「象徴語」としての「季語・季題」、そして、「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」が、上記の放哉の掲出句でいうならば、「小さな人形」ということになるし、その「小さな影」が「自由律俳句」という思いにとらわれたのである。また、そう理解をして、彼等の「自由律俳句」をしたいという思いにとらわれたのである。
 されば、この長い「尾崎放哉探索」の冒頭に戻って、平畑静塔の「俳人格説」・「定型不実論」を一歩進めて、俳句における「定型・季語象徴論」という考え方を、ここに提示して、平畑静塔が、己の「俳人格説」・「定型不実論」を、へりくだって、「珍説」との語でカムフラージュがしていることに鑑み(『俳人格説』所収「優季論」)、それに倣って、ここでも、その「珍説」の語を以て、カムフラージュをし、それを、この長い「尾崎放哉探索」の結びにもってきたいのである。