月曜日, 11月 20, 2006

回想の蕪村(五・五十一~六十五)



回想の蕪村五・五十~六十五

(五十)

安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。

「澱河曲」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
  款 右澱河歌曲 蕪村
  印 東成(白文方印)
  賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願並枕長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去ること
    すみやか也
    妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす

「澱河歌」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  款 夜半翁蕪村
  印 趙 大居(白文方印)
  賛 澱河歌 夏
    若たけやはしもとの遊
    女ありやなし
    澱河歌 春
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願同寝長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去事すみ
    やか也
    妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす

(五十一)

 ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず


(五十二)

 先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
 そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。

(五十三)

 蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。

(五十四)

○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
  今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
  舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)

 上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。

○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。

 ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。


○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)

(五十五)

○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)

(五十六)

○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
 南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。

(五十七)

○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。

あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
  梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら

 この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。

(五十八)

○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。

(五十九)

○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。

(六十)

○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱  錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。

(六十一)

 先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。

○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候

 この漢詩の前に、次のような一節がある。

○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。 

 この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。

(六十二)

○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。 
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。

(六十三)

○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。

(六十四)

○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。

※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村 表    ※(発句) 
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)    月居      ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓       ※(第三) 
十日の月の出(いで)おはしけり      鉄僧      ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  裏    ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白      ※(月) 
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人          几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春        大魯      ※(挙句) 

 この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。

○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。

(六十五)

○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。

水曜日, 10月 18, 2006

三橋鷹女の俳句(一~十)



三橋鷹女の句(その一)


三橋鷹女のことについてインターネットでどのように紹介されているか調べていたら、
簡潔にして要を得たものとして、次のように紹介されていたのものに出会った。


http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/M/mitsuhashitakajo.html


このホームページは「文学者掃苔録」というタイトルのものの中のもので、各県別に心
に残る文学者の物故者の紹介のものであり、是非一見に値するものであり、その永い間の
取り組みの労につくづくと頭の下がる思いをしたのである。このことに思いをあらたにし
て、「三橋鷹女の句(鑑賞)」の冒頭に、そのまま掲載することにした(なお、算用数字な
どは、これまでのものと統一するため和数字などに置き換えた)。


http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html


三橋たか子(一八九九~一九七二・明治三二年~-昭和四七年)
昭和四七年四月七日歿 七二歳 (善福院佳詠鷹大姉) 千葉県成田市田町・白髪庵墓地
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます


(羊歯地獄自序)
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり (向日葵)
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (魚の鰭)
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となって踊りけり (白骨)
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み (羊歯地獄)


ここに、紹介されている、鷹女の第四句集『羊歯地獄』のその「自序」に始めて接した
ときの驚きを今でも鮮明に覚えている。そして、この「「生きて 書け----」ということ
が、どんなに支えとなったことであろうか。ここに紹介されている鷹女の六句も、現代女
流俳人として群れを抜く鷹女の一端を紹介するものとして、忘れ得ざる句として、どれほ
ど口ずさんだことであることか。やはり、この六句を冒頭にもってきたい。(なお、上記
の六句目は「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」と一字空白の原文のものに訂正させてい
ただいた。)

三橋鷹女の句(その二)

○ しんじつは醜男にありて九月来る
○ 九月来る醜男のこゑの澄みとほり
○ 九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
○ 九月来る醜男のかたへ明く広く
○ 九月来る醜男が吾にうつくしい

これらの鷹女の句は、昭和十一年の「俳句研究(十月号)」(山本健吉編集)誌上の「ひ
るがほと醜男」という連作のもののうちの五句である(中村苑子稿「三橋鷹女私論」)。昭
和十一年(一九三六)というと、鷹女、三十八歳のときで、俳誌 「紺」の創刊に加わり、
女流俳句欄の選句を担当と、その年譜にある(『三橋鷹女全集(二)』)。その年譜によれば、
昭和九年(一九三四)に、「思いを残しながら、夫・剣三と共に『鹿火屋』を退会。剣三が
同人として在籍する小野蕪子主宰の『鶏頭陣』に出句。この頃より東鷹女と改名」とある。
鷹女が短歌より俳句に転向したのは、同年譜によれば、大正十五年(一九二六)、二十八
歳のときで、その頃の俳号は、東文恵。そして、東文恵で本格的に俳句に打ち込んだのは、
昭和四年(一九二九)、鷹女、三十一歳のときの、原石鼎主宰の「鹿火屋」に入会した以後
ということになるのであろうか。鷹女は終生、自分の主宰誌を持たなかったし、鷹女の名
を不動のものにした、その第四句集『羊歯地獄』(「その一」でその「自序」を紹介)は、
昭和三十六年(一九六一)、六十三歳のときで、それは、多行式俳句に先鞭をつけた高柳重
信らが中心となっていた「俳句評論社」から刊行されたものであった。すなわち、三橋鷹
女が、今日の鷹女俳句というものを決定づけたものは、富沢赤黄男や高柳重信らの、いわ
ゆる前衛俳句とも称せられる仲間とともにあるように思えるのであるが、しかし、その年
譜を辿ってみると、やはり、その師筋は、「鹿火屋」の原石鼎や原コウ子にあるといっても
よいのかもしれない。
そして、掲出の醜男の句は、その「鹿火屋」を退会した直後のころの作句なのである。
これらの句のいくつかについては、鷹女の第一句集『向日葵』にも収載されている。しか
し、この第一句集『向日葵』の鷹女の傑作句は、次の句がその筆頭にあげられるであろう。

○ 日本の我はをみなや明治節

この句は、「風ふね」(昭和四年~九年)という章にあるもののなかのもので、まさに、
鷹女の「鹿火屋」時代のものなのである。この「鹿火屋」時代の傑作句が、鷹女の原点と
もいえるものなのではなかろうか。それにしても、冒頭の掲出の醜男の五句は、何とも痛
烈な、何とも直裁的な、それでいて、何とも俳諧的なことと、まずもって度肝も抜かれる
思いがするのである。


三橋鷹女の句(その三)

○ 焼山に大きな手を挙げ男の子吾子
○ 子の真顔焼山に佇ち国原を
○ 焼山に瞳かがやき言(こと)いひき
○ 焼山の陽はまぶしかり母と子に
○ 木瓜赤く焼山に陽のかぎろはず

「吾子府立第四中を了ふ」との前書きのある五句である。三橋鷹女の第一句集『向日葵』
は、「花笠」(大正十三年~昭和三年・十句)、「風ふね」(昭和四年~九年・三十四句)、「い
そぎんちゃく」(昭和十年~十一年・五十八句)、「蛾」(昭和十二年~十三年・百九句)、
「ひまわり」(昭和十四年~十五年・百二十九句)の、所収句数は三百四十句からなる。そ
して、掲出の五句は、その「ひまわり」所収の句である。
これらの鷹女の句は、鷹女のその当時の「女として、妻として、母として」のその境涯
を詠った、いわゆる「境涯詠」の句といっても良かろう。そして、鷹女というと、例えば、
同じ『向日葵』所収の句でも、次のような句が鷹女の句として取り上げられ、そして、掲
出のような境涯詠を取り上げることは皆無に均しいのである。

○ 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(「いそぎんちゃく」)
○ カンナ緋に黄に愛憎の文字をちらす(同上)
○ 初嵐して人の機嫌はとれませぬ(同上)
○ つはぶきはだんまりの花嫌ひな花(同上)
○ 詩に痩せて二月の渚をゆくはわたし(「蛾」)

これらの句に見られる強烈な「自我」の固執とその「自我」を貫き通そうとする壮絶な
緊張感、そして、その根底に流れる「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)こそ、終生、鷹女
の俳句の根底を貫き通したものに違いない。しかし、その「ナルシシズム」より以上に、
鷹女は、明治・大正、そして、昭和を生き抜いた、その時代の、その「時代の申し子」の
ような鷹女の一面を度外視しては、鷹女の、その「ナルシシズム」という一面のみ浮き彫
りにされて、その全体像が見えてこないような懸念がしてならないのである。三橋鷹女の
句の、その原点にあるのは、鷹女自身が句にしている、次の句こそ、鷹女の、そして、鷹
女の俳句の全てを物語るもののように思えるのである。

○ 日本の我はをみなや明治節(「風ふね」)


三橋鷹女の句(その四)

鷹女の第二句集『魚の鰭(ひれ)』とは不思議な句集である。第一句集の『向日葵』と同じ
年代に作句されたものを、その『向日葵』に収載しなかった句を、次の三期に分けて、そ
れを逆年別に編纂した、いわば、第一句集『向日葵』が姉とすれば、この第二句集『魚の
鰭』は妹のような、そんな関係にある句集といえる。
「菊」 二二七句 昭和一四年~一五年
「幻影」 一八四句 昭和一一年~一三年
「春雷」 二〇八句 昭和 三年~一〇年

○ 棕櫚の髭苅る陽春の夫婦かな 「春雷」

この仲睦まじい夫婦は、俳人・謙三と俳人・鷹女の姿であろう。このお二人は鴛鴦の俳
人仲間といっても差し支えないのであろう。鷹女は多くのことを夫・謙三から学びとり、
そして、終生、夫・謙三は鷹女の才能を高く評価していたのであろう。そして、この掲出
句のユーモアに溢れた句が、ナルシシズムの権化のような鷹女その人の句であるというこ
とは特記すべきことと思われるのである。

○ この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 「幻影」

この「幻影」所収の句は、鷹女の傑作句としてしばしばとりあげられるものである。そ
して、鷹女の傑作句の多くが、その第一句集『向日葵』に収載されていることに鑑みて、
この句が、第二句集『魚の鰭』に収載されているのは、当時、多くの俳人が試みた「連作
俳句」(水原秋桜子らの提唱の一句一句視点を変えての連作的作句)の「幻影」と題する句の
中の一句であることが、その理由の一つに上げられるのであろう。この句が連作句の一つ
として、その直前の句は「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来(こ)」という王朝風のものであり、
それが掲出句のような、鷹女「その人の自我」への集中へと昇華するのである。この昇華
こそ、その後の鷹女俳句を決定づけるものであった。

○ 秋風や水より淡き魚のひれ 「菊」
○ 秋風の水面をゆくは魚の鰭か 「菊」

これらの句は、その第二句集の「魚の鰭」の由来ともなっている、当時の鷹女の自信作
でもあるのであろう。鷹女俳句の直情的な作風とともに、もう一つの独特の色彩感覚と象
徴的把握の作風は、これらの掲出句から感知することは容易であるし、晩年になると、こ
の独特の色彩感覚と象徴的把握の作風が、独特の鷹女的言語空間を産み出すこととなるの
である。


三橋鷹女の句(その五)


○ 子を恋へり夏夜獣のごとく醒め (敗戦 三句)
  夏浪か子等哭く声か聴え来る
  花南瓜黄濃しかんばせ蔽うて哭く

○ ひとり子の生死も知らず凍て睡る (夫 剣三、患者診療中突然多量の吐血して卒倒し
                        重体となる。病名胃潰瘍)

○ 胼割れの指に孤独の血が滲む(一週間後再び危篤に陥る)
○ 藷粥や一家といへども唯二人(二三ヶ月を経て稍愁眉をひらく)
○ 焼け凍てて摘むべき草もあらざりき(一月は子の誕生日なれば、七草にちなみせめて雑
                       草など摘みて粥を祝はんとせしも・・・)


○ あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり(昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還)


これらの句は、鷹女の第三句集『白骨』に収載されている句のうちの「敗戦」から「吾子
生還」までの八句を収載されているままに掲出したものである。これらの句が収載されて
いる第三句集『白骨』には「前書き」が付与されている句が多く、さながら、鷹女の日々
の記録を見るような思いがする。そして、俳句にはこのような日々の心の記録をとどめ置
くという一面をも有している。ここには、俳人・鷹女というよりも、一生活者・鷹女の嘘
偽らざる日常の諷詠が収載されているといって差し支えないものであろう。
この鷹女の第三句集『白骨』には、実に、昭和十六年(四十三歳)から昭和二十六年(五十
三歳)までの句が収載されていて、この間、鷹女はどの結社にも属さず、その後記には、「詠
ひ詠ひながら、その後十年の歳月を過去とした今も尚、しみじみとさびしい心が私を詠は
しめている。ひたすらに詠ひ重ね、しづかに詠ひ終るであらう日の我が身の在りかたをひ
そかに思ふ」と記している。

○ 白露や死んでゆく日も帯しめて (昭和二五年)
○ 死にがたし生き耐へがたし晩夏光 (昭和二六年)
○ 白骨の手足が戦ぐ落葉季 (同上)
○ かなしびの満ちて風船舞ひあがる (同上)

鷹女の俳句は、その第一句集『向日葵』において殆ど完成の域にあったが、この第三句
集『白骨』を得て、一種異様な幻想的な「生と死、そして、老い」の世界が主たるモチー
フとなってくるのである。

三橋鷹女の句(その六)

一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます(羊歯地獄自序)

三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』は、多行式俳句のスタイルに先鞭をつけた高柳重信ら
が関係する「俳句研究社」から昭和三十六年に刊行された。鷹女は戦前に原石鼎らの俳誌
「鹿火屋」などに所属したことがあるが、戦後は、全くの無所属で、それでいて、女流俳
人の四T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子、そして、鷹女)の一人として、その名を不動
のものにしていた。そして、その鷹女の俳句を高く評価して、そして、富沢赤黄男主宰の
「薔薇」に勧誘したその人が、前衛俳句の先端を行く高柳重信らであったということは、
重信らの眼識の確かさとともに、第三句集『白骨』以後の新しい鷹女俳句の誕生のために
も、素晴らしい僥倖であったということを思わざるを得ない。

○ 羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ (昭和三十五年)
○ 青焔の あすは紅焔の夜啼き羊歯 (同上)
○ 拷問の谿底煮ゆる 谷間羊歯 (同上)
○ 噴煙や しはがれ羊歯を腰に巻き (同上)
○ あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄 (同上)

これらの『羊歯地獄』の「羊歯」は鷹女にとって何を意味するのであろうか・・・・。
この「羊歯」は、鷹女が昭和二十八年(五十五歳)のときに参加した、高柳重信らが師と仰ぐ、
富沢赤黄男主宰の「薔薇」の、その「薔薇」に対する新たなる鷹女の詩的挑戦の象徴とし
ての「羊歯」ではなかろうか。既に、五十五歳という年齢で、そして、女流俳人として四
Tの一人として、揺るぎないものを確立しながら、それらの過去の全てと訣別して、己の
新しい俳句創造のために、赤黄男・重信らに対して新しい挑戦をいどんだ鷹女の、激しい
までの「ナルシシズム」を、これらの掲出の句から詠みとることはできないであろうか。
そして、その上で、冒頭の『羊歯地獄』の鷹女の「自序」を目にするとき、鷹女が何を考
え、何に挑戦しようとしていたかが、明瞭に語りかけてくるのである。


三橋鷹女の句(その七)

               

                   註=『ぶな=原題漢字』は記号表記になって表示されるので、
                  「平仮名」表記と記号表記が混在している。

三橋鷹女の第五句集『橅』は亡くなる二年前の昭和四十五年に「俳句研究社」から刊行
された。鷹女の句集はいずれも独特の編集をされて刊行されるのが常であるが、この最晩
年の最後の句集『橅』は「追悼篇」(九八句)と「自愛篇」(一三一句)とからなる。

○ 老翁や泪たまれば啼きにけり (追悼篇)
○ 田螺鳴く一村低く旗垂らし (同上)

「”自虐”をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあわせを掴みとりながら長い歳月を費し
て来た私の過去であった・・・。」( 序)
「追悼篇」は三橋鷹女自身への、自分に捧げる追悼の句以外のなにものでもない。生き
ながらにして、自分自身に追悼句を捧げる鷹女とは、これまた鷹女自身の業のように棲み
ついている「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)と、その裏返しである「自虐」への追悼(鎮
魂)以外のなにものでもない。

○ ひれ伏して湖水を蒼くあおくせり (自愛篇)
○ 花菜より花菜へ闇の闇ぐるま (同上)

「これからの私は、”自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕き
ながら、日月の流れにながれ添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか・・・。」
夫で俳人の三橋剣三は妻であり俳人の三橋鷹女に「七十にして己れの欲するところに従
えども矩を踰えず」(孔子)の言葉を呈している。鷹女のいわれる「自愛」とはこの「矩を踰
えず」ということであったろう。そして、それは、「自然・他者への挑戦ではなく、自然・
他者への帰依」のような、そんな意味合いも込められていよう。
この最後の最晩年の第五句集は、夫で俳人の三橋剣三と永い交友関係(しかし、生前の初
対面は『橅』発刊の一年前)にあった俳人・永田耕衣に捧げられたものなのかもしれない。
「豪雪が歇んだあとの橅の梢から、雫がとめどもなく落ち続ける・・・。
止んだ、と思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける・・・。
その雫の一粒一粒を拾ひ集めて一書と成し、『橅』と名付けまた。」( 後記)

三橋鷹女は、この句集刊行の二年後の昭和四十七年四月七日に七十四歳で永眠した。


三橋鷹女の句(その八)

○ 鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ (羊歯地獄)
○ 生と死といづれか一つ額の花 (同上)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (ぶな=原題は漢字)
○ 大寒の死漁を招く髪洗ひ (同上)
○ 椿落つむかしむかしの川ながれ (同上)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (ぶな以後)
○ たそがれは常に水色死処ばかり (同上)
○ をちこちに死者のこゑする蕗のたう (同上)
○ 夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠 (同上)
○ 枯木山枯木を折れば骨の匂ひ (同上)


「白露や死んでゆく日も帯しめて」(『白骨』)を作句したのは昭和二十五年の鷹女・五十
二歳のときであった。この句の死の幻影には、「老いながら椿となつて踊りけり」(『白骨』・
昭和二五年)の、「日本の我はをみなや明治節」(『向日葵』・昭和九年頃)の「明治生まれの
華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念が波打っている。しかし、掲出の句の冒頭の「鳴き
急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ」(昭和二十七年)の死の幻影は「生きとして生けるものの」の
切ないまでの諦観が迫ってくる。「生と死といずれか一つ額の花」(昭和二十七年)にも「は
ぎすすき地に栖むものらの哭き悲しむ」の「地に栖むものの」の慟哭が響いてくる。「いま
は老い蟇は祠をあとにせり」(追悼篇)・「大寒の死漁を招く髪洗ひ」(自愛篇)・「椿落つむか
しむかしの川ながれ」(自愛篇)には、「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念
も、「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観も、さらには、「地に栖むものの」の
慟哭の響きも、もはや影を潜め、「超現実の幻想の世界」への安らぎにも似た俳人・鷹女の
遊泳の姿影が見えてくるのである。そして、その鷹女の遊泳は、「藤垂れてこの世のものの
老婆佇つ」(十三章)・「たそがれは常に水色死処ばかり」(十三章)・「をちこちに死者のこゑ
する蕗のたう」(花盛り)・「夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠」(遺作二十三章)・「枯木山枯
木を折れば骨の匂ひ」(遺作二十三章)と、もはや前人未踏の「鷹女の詩魂」の世界へと誘っ
てくれるのである。

そして、これらの鷹女の一句一句を見ていくときに、あの『羊歯地獄』の「自序」の「生
きて、書け・・・」という言葉が、谺(こだま)のように響いてくるのである。


三橋鷹女の句(その九)

○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に (昭和一二~一三)
○ 椿落ち椿落ち心老いゆくか (昭和二一~二二)
○ 百日紅何年後は老婆たち (昭和二三)
○ 梅雨めきて薔薇を視るとき老いめきて (昭和二四)
○ 仙人掌に跼まれば老ぐんぐんと (昭和二五)
○ 女老いて七夕竹に結ぶうた (同上)
○ 老境や四葩を写す水の底 (同上)
○ 老いながら椿となって踊りけり (同上)
○ 菫野に来て老い恥をさらしけり (昭和二六)
○ 菜の花やこの身このまま老ゆるべく (同上)
○ セル軽く俳諧われを老いしめし (同上)
○ 鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ (昭和二八)
○ 老婆切株となる枯原にて (昭和三三)
○ 老婆の祭典 紅茸に魚糞を盛り (昭和三五)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (追悼編)
○ 老鶯や泪たまれば啼きにけり (同上)
○ 老後とや荒海にして鯛泳ぐ (自愛篇)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (十三章)

三橋鷹女の終生のテーマは「生(エロス)と死(タナトス)」とその狭間における「”をみな”
としてのナルシシズム」であった。そして、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴
的な「老い」もまた、鷹女の終生にわたって追い求めたものであった。その「老い」の語
を鷹女の作品の中から始めて見るのは、掲出の第一句の四十歳前後のことであった。そし
て、掲出の第三句の五十歳以後、俄然、この「老い」の語が、「女の香のわが香をきいてゐ
る涅槃」(昭和一二~一三)の「”をみな”としてのナルシシズム」の反動的な裏返しとしての
テーマとして、鷹女の眼前に踊り出てくるのである。そして、掲出の最後の句、「藤垂れて
この世のものの老婆佇つ」は、昭和四十六年、鷹女が亡くなる一年前の、七十三歳のとき
のものであった。この句の「この世のもの」とは、これまたその反動的な裏返しの「あの
世のもの」というイメージが去来してくる。


○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ


この掲出の第一句と最後の句との間には、三十年という永い歳月が横たわっている。そ
れはさながら、「”をみな”の一生」という言葉に置き換えても差し支えないであろう。そし
て、この二つの句を並列して鑑賞するとはに、鷹女の象徴的な第四句集『羊歯地獄』の次
の一句が去来して来るのである。


○ 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股はさみ (昭和三五年)

「墜ちてゆく 墜ちてゆく 炎ゆる夕日」を両股で挟み止めようとする、六十二歳にな
んなんとする鷹女の、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な所作が眼前に迫っ
てくるのである。こういう鷹女の句に接するとき、つくづくと、鷹女のその強烈な詩魂と
いうものに圧倒される思いがするのである。


三橋鷹女の句(その十)

三橋鷹女は生前に五つの句集を編んだ。『向日葵』・『魚の鰭』・『白骨』(はっこつ)・『羊歯
地獄』、そして、『ぶな=原題は漢字』である。これらの句集に収載されている句の他に、
最晩年の句の未収録の作品六十六句が、「ぶな以後」として、『三橋鷹女全集(第一巻)』に収
載されている。

○ 寝みだれて豊葦原は雪の中(十三章)

「豊葦原」は「豊葦原瑞穂国」の「日本国の美称」である。鷹女はその豊葦原の雪の中
の中を寝みだれの姿で彷徨しているのである。


○ 棘の木を植ゑ西方は花盛り(花盛り)

「西方」は「西方浄土」の「阿弥陀仏の浄土」である。鷹女はその阿弥陀仏の浄土の花
盛りの中を彷徨しているのである。


○ 曼珠沙華うしろ向いても曼珠沙華(十五章)

「曼珠沙華」は梵語で「赤い花」の意で、「死人花」とも「天蓋花」との別称を持つ花で
ある。鷹女はその赤い赤い曼珠沙華の咲き満つる野の中を彷徨しているのである。


○ 千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作二十三章)

この「遺作二十三章」(二十三句の意)は、鷹女の没後、病臥していた枕の下から発見され
たものという(中村苑子稿「解題」)。この「千の虫鳴く一匹の狂い鳴き」の「一匹の狂い鳴
く」、その一匹の虫は、鷹女の自画像であろう。


○ 寒満月にこぶしひらく赤ん坊(遺作二十三章)

「遺作二十三章」の最後を飾る一句である。「こぶし(拳)をひらく赤ん坊」・・・、鷹女の
まいた種は今や芽となり、その芽はまた新しい芽となり、決して絶ゆることはないであろ
う。


(註) これらの鑑賞は『三橋鷹女全集(立風書房刊行)』(第一巻・第二巻)に因った。これら
の鑑賞をすすめながら、三橋鷹女の前にも、そして、三橋鷹女亡き後の今後も、この鷹女
を超ゆる俳人(女流俳人に限定することなく)に遭遇することは至難のことかもしれないと
いう印象すら抱いたのである。なお、上記の『ぶな=原題は漢字』の漢字表記のものは、
記号で表示されいるものもある。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)



回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。



(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。
  
 
(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html


(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。


(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

火曜日, 9月 19, 2006

回想の蕪村(二十七~四十)



回想の蕪村

(二十七)

 ここで、蕪村の代表的な「歳旦帖」・「春興帖」とこの安永六年(一七七七)の「春興帖」・『夜半楽』とを対比して見ていくこととする。まず、蕪村の初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』との関連を見てみたい。

『寛保四年宇都宮歳旦帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○仮綴本一冊。表題に「寛保四甲子歳旦歳暮吟」とある。寛保四年、蕪村二十九歳の春、野州宇都宮の佐藤露鳩一派と提携して編んだ歳旦帖。蕪村自身の撰集としては最初のものであり、板下も蕪村であろう。集中に旧号「宰鳥」と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう。

 この「集中に旧号『宰鳥』と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう」の、蕪村の号を初めて使用した、この歳旦帖の巻軸の句は次のとおりである。

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら

 この鶯の句に対応するように、蕪村、六十二歳の『夜半楽』には、「老鶯児」とわざわざ題を起こして、次の一句をまさに巻軸の句(最も中核となる句)として配置しているのである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

 蕪村が、「歳旦帖」・「春興帖」を編むときに、若き日の、蕪村、二十九歳の春に編んだ、
初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』が常に脳裏にあったことは想像に難くない。さらに、その初歳旦帖の表題には、「渓霜蕪村輯」の初使用の号の「蕪村」の編集であることを明記しているが、『夜半樂』の奥付けにも、「門人 宰鳥校」とあり、この「宰鳥」は、宇都宮歳旦帖を編んだ頃の号で、江戸に出てきた頃の号の「宰町」の次の号であり、蕪村はしばしば、前号などを併記するという傾向が見られることも注目すべであろう。

(二十八)

 明和七年(一七七〇)三月、蕪村、五十七歳のとき、夜半亭一世の跡を継いで、夜半亭二世を襲名する。六月から九月まで三菓社句会を開き、十月に、夜半亭社中句会に改める。翌、明和八年春に、夜半亭歳旦帖『明和辛卯春』を刊行する。

『明和辛卯春』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○横本一冊。明和七年三月、亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が翌八年春に編んだ春興帖で、板下も蕪村自筆。前年の襲号の披露を兼ね、夜半亭一門の実力を広く世に示そうとした上梓したもの。版元は京都橘仙堂。蕪村・召波・子曳の三つ物に始まり、一派の歌仙二巻、および諸家の旦暮吟を収める。蕪村門としては、召波・子曳・几董・馬南(大魯)・鉄僧・晋才・鳥西・自笑・雨遠・斗文・呑獅・田福らのほかに、貝錦・徳羽らの福原社中、鷺喬・鶴英らの伏水社中が名を列ねている。また歌仙には、一門にまじり、大祗や竹護(嵐山)が加わっていることも注目を引く。そのほか、存義・買明・楼川・百万・田女らの旧知の江戸俳人も句を寄せ、さらに浪花の銀獅・鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子らの俳優連が華やかな彩りを添えている点も蕪村らしい。

 この『明和辛卯春』は、蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」のうちで質・量的に最も充実したものであろう。『宇都宮歳旦帖』と同じく、「歳旦三つ物」で始まり、「歳旦」・「歳暮」・「春興」等の句のほかに、子曳・蕪村・大祗・几董・馬南(大魯)による歌仙と蕪村・田福・斗文・自笑・大祗・鳥西・鉄僧・羅雲・貫山の歌仙の二巻を収載している。これらの当時の夜半亭一門の俳人の中で、後の『夜半楽』には、大祗・召波は既に亡くなって、その名は見られない。蕪村は、この『明和辛卯春』では、歌仙・三つ物では「蕪村」の号で、俳句(地発句)には「夜半亭」の号と、ここでも二つの号を使いわけしている。ここでも、蕪村の鶯の句が登場してくる。

○ 鶯を雀歟(か)と見しそれも春     (春興)
○ 鶯の粗相(そそう)がましき初音かな  (春興追加)

(二十九)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のとき、その六月に、宋阿三十三回忌追善法要を営み、追善集『むかしを今』を編纂・刊行した。そこで、「されば今我門にしめすところは、阿叟(あそう)の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」(だから今、私が門下に教え示すのは、師の宋阿の大らかな語調を模範とせず、もっぱら芭蕉の侘び・撓(しほ)りを慕い)と記している。そして、この「蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」は、その三年後の『夜半楽』においては、「蕉門のさびしほりは 春興ノ席ヲ避クベシ」と、再び「阿叟(あそう)の磊落なる語勢」と自由闊達さへと転換している。この背後には、明和八年(一七七一)に相次いで没した、大祗・召波への思い入れやその悲しみにともすると埋没しそうな境地からの転換なども見え隠れしている。

『安永三年春帖』解題(雲英末雄稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。安永甲午(三年)春。橘仙堂版。後補表紙があるが、題簽や墨書による書名はない。内題に「安永甲午歳旦」とあり、安永三年の歳旦三つ物を巻頭におく蕪村の春興帖である。板下も蕪村の自筆。(中略) 蕪村自身も巻頭の歳旦三つ物の他、宰町・蕪村両号を用いて発句六句を入集している。また、自笑・我則・月渓らの門下の人々の発句に合わせて蕪村が俳画を十六点描いており、蕪村の俳画資料として、質的な面でも、量的な面でもきわめて重要なものである。

 この『安永三年春帖』には、蕪村の鶯の句は見られないが、この巻末に下記の蕪村の句が三句続き、その末尾を飾っている句は、鶯を含めての鳥の句と解して差し支えなかろう。

○ 日は日くれよ夜は夜あけよと啼(なく)蛙
○ つゝじ野やあらぬところに麦畠
○ 鳥飢(うゑ)て花踏(ふみ)こぼす山ざくら

(三十)

 安永三年(一七七四)に次いで、安永四年の『安永四年春帖』も今に残されている。

『安永三年春帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。橘仙堂版。表紙に仮題「安永俳句集」と墨書するが、内題に「安永乙未歳旦」とあり、安永四年の蕪村の春興帖である。板下も蕪村自筆。蕪村の俳画を豊富に収録した『安永三年春帖』に比較すると、挿絵はわずか一点で物足りないが、内容的には紙数も出句者もふえて、さらに充実したものになっている。但馬出石社中、入佐麓社中、淀社中など、各地に蕪村社中が形成され、これに几董の春夜楼社中、大魯の芦陰舎社中らが加わり、賑やかな顔ぶれである。歳旦三つ物に始まり、一門社友の旦暮吟の春興句を集め、巻末に一門の歌仙一巻を収める。集中には旧知の江戸俳人のほか、大雅堂の作が見え、また二柳・旧国・蓼太・樗良・暁台ら中興諸名家も句を寄せ、巻軸には蕪村の春興十一句を列記してあるのも注目に値する。

 この『安永三年春帖』に句を寄せていた大雅堂(池大雅)は、翌安永五年に没する。なお、巻軸の蕪村の春興十一句は次のとおりである。その中には鶯の句も見られる。

○ 梅折(をり)て皺手にかこつかほ(を)り哉
○ 鳥さしを尻目に藪の梅咲(さき)ぬ
○ 紅梅や比丘より劣る比丘尼寺
○ 陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)
○ 留守守(もり)て鶯遠く聞(きく)日かな
○ 捨(すて)やらで柳さしけり雨のひま
○ ぬなわ(は)生ふ池のみかさや春の雨
○ 春月や印金堂の木の間より
○ 雉子打(うち)てもどる家路の日は高し
○ 木瓜の陰に皃(かほ)類(たぐ)ひ住(すむ)きゞす哉
○ 帆虱のふどしに流さむ春の海(註・長文の前書き省略)

(三十一)

 さて、安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』について二つの解題を示しておきたい。

『夜半楽』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○俳諧撰集。半紙本一冊。蕪村編の春興帖。京都、橘仙堂。書名は蕪村が継承した夜半亭による。奥付には安永六年正月とあり、蕪村が夜半亭宋阿の門にあったときの旧号を用い「宰鳥」と記している。新年早々の発刊を企画したようだが、実際の刊行は安永六年二月下旬になってのことであったらしい。半葉九行割の罫引料紙使用。板下は蕪村自筆。まず、前書き付きの蕪村発句「歳旦をしたり皃(かほ)なる俳諧師」による正月初会の一順歌仙一巻を掲げ、次に、道立・維駒・月居・月渓・百池・大魯・几董ら、蕪村門の高足による春興雑題四十三句を収めている。さらに蕪村作の「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章、「老鶯児」一章(句)の三部作がある。高雅洒脱な体裁、蕪村門のみによるという統一感、蕪村作の特異な新体の詩篇を収めていることなどが特色である。

 この『夜半楽』は大別すると、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)」と「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首)・老鶯児(一首)」の二部構成から成っている。歳旦帖・春興帖的には、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・老鶯児(一首)」の構成で、「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首))という特異な新体の詩篇が、次の「老鶯児」の前書き的な序章的な構成との理解もできよう。そういう意味で、この解題にあるとおり、「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章そして「老鶯児」一章(句)は三部作の構成と理解すべきなのであろう。

(三十二)

「夜半楽」の三部作について(清水孝之稿)
○安永六年(一七七七)蕪村六十二歳の春興帖として橘仙堂から刊行された『夜半楽』は、編集も板下も蕪村一人の手に成った小冊子(半紙本一冊)である。標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる。目録に「歌仙一巻・春興雑題四十三首(社中の発句)・春風馬堤ノ曲十八首・澱河ノ歌三首・老鶯児一首」とあり、『夜半楽』のすべてである。「安永丁酉初会」の巻頭歌仙の序は、和漢句四行を並べ、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質にならはんとて」と宣言し、三部作最後に「老鶯児」と題した「春もやゝあなうぐひすよむかし声」という懐旧句を置き「門人宰鳥校」と署名した。「宰町」に続く若き日の蕪村の旧号である。青春回想のロマンチシズムから、故園への郷愁の俳詩「春風馬堤ノ曲」と「澱河ノ歌」が成ったもののようだ。前年の暮一人娘を結婚させ作者は、その安心感と空虚感とから「容姿嬋娟(せんけん)。痴情可憐」き藪入り娘を造型したものに違いない。「浪花を出(いで)てより親里迄の道行(みちゆき)にて、…… 実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」(二月廿三日付書簡)と自ら制作の動機を解説した。彼は日本の詩人としての誇りを持って和漢諸体の詩形をないまぜ、親友の大祗の発句まで活用するという離れ業をみせて、空前絶後の連作叙事詩を創作し、またその郷愁を一篇の詩情に託した。それらは決して漢詩の模倣や追随ではなく、海彼(かいひ)国の影響を超えた、見事な日本文学史上の達成であった。

 この解題の、「標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる」という指摘は、この『夜半楽』の序文の「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」ということとも符合し、また、当時の浄瑠璃(江戸浄瑠璃の「河東節」など)の隆盛などから見て、これだけが全てではないとしても、おそらく、蕪村の脳裏にあったことは、これまた想像に難くない。なお、浄瑠璃一般及び河東節については、次のアドレスに紹介されている。

浄瑠璃一般

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83

河東節

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%AF%80


(三十三)

 古来、蕪村の『夜半楽』について、その契機となっている由来などについて、さまざまな解が試みられているが、この『夜半楽』が、その序文(「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」)並びに蕪村前の旧号「宰鳥」をその奥付けに記載していることは、かっての関東出遊時代の若き日を回想をして、この安永六年(一七七七)の春興帖を編んだことだけは間違いない。そして、この関東出遊時代に、それまでの宰町の号を宰鳥の号に改号し、その宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻が収載されているものが、蕪村の師の宋阿(早野巴人)が、元文四年(一七三九)に、其角(宝永四年二月二十九日没)並びに嵐雪(宝永四年十月十三日没)両師の三十三回忌にあたり手向けた追善集『俳諧 桃桜(上・下)』である。この『俳諧 桃桜』については、「若き日の蕪村」ということで、先に、触れたところである。
 ここで、その『俳諧 桃桜』に収載されている宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻の関連するところを抜粋してみると次のとおりである。

(発句) 
摺鉢のみそみめぐりや寺の霜

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(歌仙・「染る間の」巻)

発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114941283079793798.html

(歌仙「枯てだに」の巻) 省略

(三十四)

 蕪村の『夜半楽』は、蕪村が二十四歳の頃の宰鳥時代の『俳諧 桃桜』(宋阿撰集)とも深いつながりがあると思われるのだが、これらのことに関して、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿『蕪村全集七』所収「月報五」)を以下分節してその全文を紹介しておきたい。

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その一

○かって夏の季語「河骨(こうほね)」の例句を探していて、嵐雪に、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『玄峰集』)という句があることに気がついた。一句は、宝永四年(一七〇七)、その春に没した其角を悼んだもので、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」に初出。この句に接した時、蕪村が安永六年(一七七七)の春興帖に『夜半楽』と名付けるにあたって、この句がヒントになったのではないかと、ふと思った。はたしてそれは思い付きに過ぎないのであろうか。蕪村の『夜半楽』という書名について、尾形仂氏は「夜半が夜半亭を意味していることはいうまでもない」とした上で、「春風馬堤曲」「澱河歌」など、本来楽曲であった中国の楽府題詩に擬した作品を含むことから、「春をことほぐ夜半亭の楽曲の意」とし、さらに「ひそかなる夜半の楽しみといった意味」をこめたものと、その意味を明からにしておられる(『蕪村の世界』)。『夜半楽』の内容に即した解釈として、まことに懇切な解といってよかろう。だが、蕪村は「夜半楽」ということばを何から得たのかという問題になると、まだ検討の余地が残っているように思われるのである。

 この嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」の句が、嵐雪の其角追悼句とするならば、先に紹介した、其角・嵐雪三十三回忌追善集『俳諧 桃桜』と深いかかわりのあるの一句ということになる。そして、その『俳諧 桃桜』こそ、 蕪村が宰鳥時代に、師の宋阿に同行して、其角・嵐雪に連なる各地(結城・高崎・松井田・下館・関宿など)の夜半亭宋阿一門の俳人たちと歌仙興行をした記念すべき撰集であった(その下巻は宰鳥の板下といわれている)。当然、其角・嵐雪三十三回忌追善集を編むため、その撰集者の夜半亭一世の宋阿とその助手役のような宰鳥こと蕪村は、この嵐雪の句を熟知していたことであろう。蕪村が宰鳥の名で、この『俳諧 桃桜』に収めている発句の、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」の句の「みそみ」(三十三)が、其角・嵐雪の三十三回忌を意識してのものであることは言をまたない。そして、この句こそ、現に残されている「宰鳥」の号での初出の作なのである。そして、繰り返すことになるが、『夜半楽』の奥付けには、蕪村は、「門人 宰鳥校」と記しているのである。これらのことからして、『夜半楽』の書名の由来の一つとして、嵐雪の其角追悼の句の、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」があったのではないかということについては賛意を表したい。

(三十五)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その二

○ところで、「夜半楽」ということばは、蕪村以前から存在した。清水孝之氏は『夜半楽』の書名の由来として、享保十年(一七二五)に刊行された同名の河東節正本集の存在を挙げておられるが(新潮日本古典集成『与謝蕪村集』など)、地歌にも「夜半楽」という曲があり、その曲名は上方歌の伝本曲一覧『歌系図』(天明二年刊)にも記されている。さらに古くは雅楽の曲名として知られた。その名は謡曲の詞章にも『天鼓』『梅枝(うめがえ)』などに見えていて、たとえその楽の音を実際に聞いたことはなかったにしても、近世の知識人にとって耳遠いことばではなかったと思われる。嵐雪の「川骨や」の句もまた、謡曲『経政』の「手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽」の一曲によったものとみてよく、一句の意は、夜中、旧友の死を悼み夜半楽の曲を奏ででいると、撥音もしめりがち、萼片が花弁を包み込むようにヒッソリと咲いている河骨の花の姿も、その撥音に応じてまるで悲しみに凋んでいるように見える、といったところであろうか。

 この嵐雪の「『川骨や』の句もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」の指摘を、「蕪村の『夜半楽』もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」と、そっくり置き換えても差し支えないような雰囲気である。嵐雪が旧友・其角を失ったように、蕪村にとっても、この『夜半楽』を起草する当時にあっては、俳諧の無二の旧友、大祗・召波、そして、絵画のよきライバルであった大雅までも失っているのである。それらの意気消沈するような日々にあって、これではならじと、安永六年(一七七七)年の年頭に当たっての春興帖の『夜半楽』のその序章のような形で、次の、「祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは 不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず) 蕉門のさびしをりは 
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし) さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」を置き、そして、異色の俳詩「春風馬堤曲」の末尾に、「君不見(みずや)古人太祗が句  薮入の寝るやひとりの親の側」の、太祗の句で結んでいるのである。とにもかくにも、嵐雪の「夜半楽」の句は、謡曲「経政」の「夜半楽」などを介して、蕪村の「夜半楽」にも大きな影を投げかけていると解して差し支えなかろう。
(追伸)星春乃さんが、能楽「難波梅」や雅楽「春鶯囀」との関連で、蕪村の『夜半楽』の構成を考察しているが、それは一つの卓見であろう。そして、単に、「難波梅」や「春鶯囀」だけではなく、さらに、『天鼓』・『梅枝(うめがえ)』・『経政』などの広範囲において考察れさると、一つの大きな参考データとなってこよう(但し、蕪村の『夜半楽』の構成を、これらの能楽・雅楽の世界に当て嵌めてみるという視点よりも、その逆に、「能楽・雅楽を前提として、蕪村の『夜半楽』の世界の一つの鑑賞を試みる」という、いわば自由解的な柔軟な視点が必要になってくるように思われる)。

(三十六)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その三

○そうした「夜半楽」の流れをたどってみると、何も『夜半楽』の書名と嵐雪の句とを結びつけるまでもあるまいと考えることもできる。だが、嵐雪、そして其角は蕪村の師宋阿(巴人)が師事した俳人、宋阿は嵐雪(玄峰居士)の三十三回忌追善の独吟歌仙で、「玄峰居士にほひのこりて花の雲」の名残の花の句を手向け、蕪村はそれを受けて、安永三年の宋阿三十三回忌追善に、「花の雲三たびかさねて雲の峯」の追悼句を詠んでいるが、それらの句のもとになったのは、嵐雪の其角追悼句、「晋化(ふけ)去りぬ匂ひのこりて花の雲」であった(蕪村「宋阿三十三回忌追悼句文」など)。むろん、この句も「川骨や」の句同様、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」中に収まる。してみると、先の思い付きもまんざら捨てたものでねないような気がしてくる。ちなみに、「川骨や」の句のすぐ前には、「樒売(うり)あなうの花の食を見る」という句が見える。「あな憂」と「卯の花」との秀句。それは、『夜半楽』の秀句、「春もややあなうぐひすよむかし声」の「あな憂」と「うぐひす」との秀句を思わないでもない。

 若き日の二十四歳頃の蕪村の、「宰鳥」がこの世に登場するのは、その師・宋阿(巴人)が編んだ、其角・嵐雪三十三回忌追善集の『俳諧 桃桜』においてであった。それは、元文四年(一七三九)のことであった。そして、回想のときを迎えた五十九歳の蕪村が、その『俳諧 桃桜』を編んだ師の、その宋阿(巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』を刊行したのは、安永三年(一七七四)のことであった。そして、その三年後の安永七年に、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」そして発句の「老鶯児」の三部作を含む夜半亭一門の春興帖『夜半楽』が誕生するのである。これらは、全て、一つの延長線上のものであるという理解は極めて自然のことであろう。(なお、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)では、安永三年の宋阿三十三回忌追善『むかしを今』収載の蕪村の句を、「花の雲三たびかさねて雲の峯」としているが、「花の雲三重(みへ)に襲(かさ)ねて雲の峯」の句形がより適しよう。また、この『むかしを今』については、別稿で見ていくこととする)。

(三十七)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その四

○それはともかく、一方は追悼の句、一方はめでたい春興帖の題名、両者はどれほどつながりがあるというのか、句意も『夜半楽』の内容とさほど関連があるように見えないが、その点についてはどうかと問いかけられると、いささか心もとない。むろん、蕪村は嵐雪の「川骨や」の句から「夜半楽」ということばを思い付いたまでのこと、「夜半楽」の内容とは関わらないといえば、それですむ。しかし、私にはどうもそれだけではないような気がしてならないのである。『夜半楽』に懐旧の情が著しいことは、しばしば説かれるところだが、その懐旧は、幼年時代のみならず、関東を漂泊した青春時代をも含むものでもあろう。『夜半楽』巻頭の歌仙の前書には、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」と記されている。この「吾妻の人」を安東次男氏『与謝蕪村』や本全集第四巻一六五ページの頭注に従い「亡師巴人」とみなすならば、そこに当時流行した似非芭蕉流の俳諧への批判とともに、亡師巴人への追慕の念を読み取ることもできるはず。その追慕の思いを、ともに亡師ゆかりの、其角を追悼した嵐雪の句のことばで応じたところに、俳諧師らしい工夫があったといえなくもない。 

 これまでに、蕪村の主だった歳旦帖や春興帖について見てきた。そこには、それぞれ特有の工夫を施しているのだが、例えば、『安永三年春帖』においては、蕪村の俳画が十六点も収載されており、さらに、『安永四年春帖』においては、蕪村の初撰集として名高い『寛保四年宇都宮歳旦帖』と同じ体裁で、「三つ物」と「東君」(歳旦の季題)などから始まり、その巻軸には蕪村の春興十一句(『寛保四年宇都宮歳旦帖』では初出の「蕪村」の号でする「鶯」の一句)を列記しているのである。これらを詳細に見ていくと、これらの歳旦帖や春興帖を編むときには、必ず、蕪村は往年のそれらとの比較検討をして、しかる後に、その年度の新しい新基軸を打ち出しているということが伺えるのである。例えば、『安永三年春帖』の春興帖には、蕪村の初出の号とされている「宰町」の号をもっての発句が見られ、それは、この『夜半楽』においては、その「宰町」の次の号の「宰鳥」の号が、その奥書において見られるなど、幾多の類似志向が見られるのである。そして、先にも触れたところであるが、この安永三年(一七七二四)には、宋阿(夜半亭巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』が刊行され、それは、まさに、蕪村の「関東を漂泊した青春時代」を回想してのものであり、それはとりもなおさず、其角・嵐雪・巴人と連なる夜半亭俳諧の足跡を踏まえるものであった。ここでも、繰り返すこととなるが、この『夜半楽』を編むに当たって、蕪村は、「関東を漂泊した青春時代」の数々の回想の「其角・嵐雪・巴人」に連なる俳諧作品などの足跡というものを辿り、例えば、嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『類柑子』・『玄峰集』所収)の句などは、この「夜半楽」という用例だけではなく、この「撥」などの用例も、大きく、その『夜半楽』に影響を及ぼしているように思えるのである。

(三十八)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その五

○さらに憶測を重ねれば、当時の蕪村は「川骨や撥に凋(しぼ)める」の思いとも無縁ではなかった。既に太祗・召波らの盟友を失い、とりわけ前年の暮には一人娘を嫁がせたばかりである。身辺にしのびよる寂寥、空虚感。『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来るように思えるのだが、はたしてどうであろうか。
 
 蕪村が夜半亭二世となったのが明和七年(一七七〇)、五十五歳のときのであった。そして、その翌年の明和八年八月五日に、蕪村の無二の盟友にして、夜半亭門の有力指導者であった、炭太祗が世を去る。その翌年に刊行された『太祗句選』の序で、蕪村は太祗について次のように記している。

※仏を拝むにもほ句し、神にぬかづくにも発句せり、されば祗が句集の草稿を打ちかさね見るに、あなおびただし、人の彳(たたず)める肩ばかりくらべおぼゆ。
(訳)太祗は仏様を拝むに際しても発句を作り、神前にぬかずくに際しても発句を作りました。ですから、太祗の句集を重ねてみますと、大変な分量で、人の立っている肩ほどの高さにも達するありさまでした。

 そして、その太祗に続き、夜半亭門で蕪村が最も信頼を置いていた、黒柳召波が十二月七日に没する。召波の七回忌に際して刊行された召波句集『春泥句集』に、蕪村は長い序文を寄せているが、その中で召波の臨終について蕪村は次のように記している。

※をしむべし、一旦病にふして起つことあたはず、形容日々にかじけ、湯薬ほどこすべからず、預(あらかじ)め終焉の期をさし、余を招きて手を握りて曰く、恨らくは叟とともに流行を同じくせざることを、と言ひ終りて、涙潸然(さんぜん)として泉下に帰きしぬ。余三たび泣きて曰く、我が俳諧西せり、我が俳諧西せり。
(訳)惜しいことに一旦病に伏して、もう起つことができませんでした。姿は日毎に痩せ衰え、薬ももうほどこしようがありませんでした。召波は予め死期を悟ったのでしょうか、私(蕪村)を招いて、手を握り次のように言いました。「残念なことには、あなたとともに俳風を変えることもできずに、それが心残りです」と言い終わりて、涙をさめざめと流しながら、亡くなってしまいました。私は一度・二度・三度と亡き伏して、召波に言いました。「私の俳諧はあなたとともに滅んでしまった。私の俳諧は滅んでしまった」と。

 太祗・召波に続き、『夜半楽』を刊行する一年前の、安永五年四月十三日に、絵画の面で、蕪村と共に、南画の双璧ともいわれた、池大雅が没する。さらに、その年の暮れの十二月には、一人娘の結婚と、その結婚も間もなく破綻するという兆候の中にあって、当時の蕪村の「身辺にしのびよる寂寥、空虚感」というのは、如何ばかりであったことか。「『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来る」という指摘は、容易に想像のできるところのものであろう。

(三十九)

 『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その「序」を分節して紹介しておきたい。

『むかしを今』・「序」(その一)

○亡師宋阿の翁は業を雪中庵にうけて、百里・琴風が輩と鼎のごとくそばたち、ともに新意をふるひ、作家の聞(きこ)えめでたく、当時のひとゆすりて三子の風調に化しけるとぞ。おのおの流行の魁首にして、尋常のくはだて望むべきはにはあらざめり。師やむかし、武江の石町(こくちやう)なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎(やど)りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老(おい)の寝ざめのうき中にも、予とゝもにはいかい(俳諧)をかたりて、世のうへのさかごとなどまじらへきこゆれば、耳をつぶしておろかなるさまに見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
(訳)亡き師の宋阿先生はその俳諧を嵐雪に教わり。百里・琴風と共に三本の鼎の如き存在でした。ともに新風を振るい、当時の俳諧師として名を馳せ、多くの俳人たちがその三人の俳風を基調といたしました。おのおの当時の俳風の主のような存在で、一寸やそっとではその三人の域には近づけないようなありさまでした。宋阿先生は、昔、江戸の石町の鐘楼が高くそびえている傍に、みすぼらしい住まいを構えて、市中で閑静な暮らしを楽しんでいました。寒い霜夜の鐘の音に驚いて、老人の寝覚めの憂き思いのときなどには、私(蕪村)とともによく俳諧のことなどについて語り合いをしました。その中でうっかり世間の小賢しい話などをまじえて話をいたしますと、先生は耳を塞いで、愚かなる様を見せて、そういう話に耳もかさず、大変に高潔な先生でありました。
 
 先に「若き日の蕪村」において、蕪村が江戸の日本橋石町の鐘楼の宋阿の夜半亭に居た頃について触れた。そのアドレスとそころのところを再掲しておきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_22.html

※寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、「宋阿の京都滞在中に面識があったのではないか」ということについては、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(四十)

『むかしを今』・「序」(その二)

○ある夜危坐して予にしめして曰(いはく)、夫(それ)俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有(ある)べしとぞ。予此(一)棒下に頓悟して、やゝはひかい(俳諧)の自在をしれり。されば今我門にしめすところは、阿叟の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是(これ)外虚に背(そむき)て内実に応ずる也。これを俳諧禅と云ひ、伝心の法といふ。わきまへざる人は、師の道にそむける罪おそろしなど沙汰し聞(きこ)ゆ。しかあるに、今此(この)ふた巻の可(歌)仙は、かのさび・しほ(を)りをはなれ、ひたすら阿叟の口質に倣(なら)ひ、これを霊位に奉(たてまつり)て、みそ三(み)めぐりの遠きを追ひ、強い(しひ)て師のいまそかりける時の看をなすとてふことを、門下の人々とゝもに申(まほし)ほどきぬ
(訳)ある夜、先生(宋阿)はあらたまって正座し、私(蕪村)に次のような教えを示されました。「そもそも俳諧の道は、絶対に師の作風にこだわってはならないものである。そのときどきで変化し、前後とはくっきりと違ったものでなければならない」ということでした。私はこの一つの教えのもとに、はっと目を開かれる思いがいたしまして、それによって「俳諧自在」という境地を悟りました。だから今、私が自分の門下のひとに教え示すものは、私の師の宋阿の大らかな語調にならわず、もっぱら、芭蕉の寂び、撓(しをり)を慕って、俳諧を芭蕉の時代に帰したいということでした。これは、外面では自分の直接の師に背くように思われますが、内面では、真実、師の教えに従っているということなのです。これは俳諧禅と言ってもよく、また、以心伝心の法と言ってもよいでしょう。これらのことを理解しない人は、私のことを、師の道に背いていて、その罪は重いなどと、言い触らしています。そんなこともありまして、今回の、この歌仙二巻においては、芭蕉の寂び、撓(しをり)を離れ、一途に、先生の語調に倣いまして、それを霊前に捧げたいと思います。先生の三十三回忌の遠き日のことを慕い、強いては、先生が御在世の時のことに思いを新たにしまして、ここに先生の礼に尽くすことを、門下の人々とともに弁明することとしたのです。
 
 ここで、『夜半楽』の冒頭の序文を、もう一度再掲してみたい。

※祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

 これらのことからして、安永三年(一七七四)の巴人三十三回忌の『むかしを今』(序)と安永六年(一七七七)の夜半亭春興帖の『夜半楽』(序)とは、実は全く同一線上のものといつてもよかろう。そして、この『夜半楽』を刊行したときが、蕪村、六十二歳のときで、いみじくも、それは、元文三年(一七三八)の『夜半亭歳旦帖』を編んだ巴人(このとき、巴人、六十二歳、蕪村は宰町の号で、二十三歳)と同じ年齢と一致するのである。これらのことから、「『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。確かに、そういう理解もできるかも知れないが(そういうことが言外にあるかも知れないが)、ここでは、文面通りに、「若々しき吾妻(東国)の人の口質」(関東出遊時代の若々しき東国人に帰り、その時の作風で)という理解にとどめておきたい。

回想の蕪村(十八~二十六)



(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。

水曜日, 8月 23, 2006

回想の蕪村(一~十七)



回想の蕪村2006/08/03

(一)

 蕪村には三大俳詩がある。「北寿老仙をいたむ」(晋我追悼曲)、「春風馬堤曲」そして「澱河歌」である。次のアドレスに、それらの三つについて紹介されている。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

北寿老仙をいたむ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき
                      釈蕪村百拝書

 この「北寿老仙」については、「若き日の蕪村」で見てきたところである。以下のものは、グーグルのブログに再掲したものであるが、参照するときは、エンコードを(Unicode)にして適宜参照していただきたい。この「回想の蕪村」では、この「北寿老仙をいたむ」は従として、その他の二編の俳詩、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を中心として見ていくことにする。

「若き日の蕪村」(その二)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114946097401984177.html

「若き日の蕪村」(その三)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

「若き日の蕪村」(その四)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

「若き日の蕪村」(その五)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_09.html

「若き日の蕪村」(その六)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_11.html

(二)

 蕪村の三大俳詩の「春風馬堤曲」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
  
   春風馬堤曲十八首

○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路
 荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
○渓流石点々 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
 無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
 雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
 揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
 待(まつ)春又春
○君不見(みずや)古人太祗が句
   薮入の寝るやひとりの親の側


(三)

 蕪村の三大俳詩の「澱河歌」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

澱河歌

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(四)

 「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」の鑑賞に入る前に、この世に始めて「俳詩」というものを定着させたところの潁原退蔵著『蕪村』所収の「春風馬堤曲の源流」(『潁原退蔵著作集第十三巻』所収)が、次のアドレスで紹介されているので、その全文を分説して紹介をしておきたい。なお、潁原退蔵氏のプロフィールは次のとおりである。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/ebarataizo.html

(潁原退蔵プロフィール)

潁原退蔵(えばら たいぞう) 国文学者 1894.2.1 - 1948.8.30 長崎県に生まれる。近世文学ことに与謝蕪村研究に比類なき先駆的業績を積んだ碩学、編著『蕪村全集』は今なお金字塔である。 掲載作は、昭和十三年(1938)以降四編の論文を整備して名著『蕪村』(昭和十八年<1943>一月創元社刊)に所収、初めて「俳詩」という項目の確立された画期的論考として知られる。

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その一)

安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜(よ)い。而(しか)してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城(しもふさゆふき)の人、早見晋我(しんが)の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、
 
     北寿老仙をいたむ
 
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
    (晋我五十回忌追善『いそのはな』)
 
といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙(はや)くこゝに存することは、何人(なんぴと)もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。

(五)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その二)

俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂(いはゆる)仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目(もく)を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、
 
     逍遙遊 五言   蓮二房
  よしあしの葉の中に   寝れば我さむればとり
  鳥さしはさもあれや   かく痩(やせ)て風味なし
 
     山中尋酒 七言  得巴兮
  門の杉葉に酒をたづぬれば  畚(フゴ)ふり捨(すて)て麦刈にとや
  樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音(うすひくおと)の庭にさびしさ
 
     和漢賞花 五言律
  花はよし花ながら    見る人おなじからず
  ぼたんには蝶ねむり   さくらには鳥あそぶ
  たのしさを鼓にさき   さびしさを鐘にちる
  唐にいさ芳野あらば   詩をつくり歌よまむ
 
     和漢賞月 七言律
  我日のもとの明月の夜は   もろこし人も皆こちらむく
  詩には波間の玉をくだきて  哥(うた)に木末の花やちるらん
  雪か山陰の友をおもへば   露も更科の姥(うば)ぞなくなる
  さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず
 
の如く八句から成つて居る。に・り・し、ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石(さすが)に支考らしい工案(くあん)ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬(きく)すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯(しんし)な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。

(六)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その三)

そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒(いたづ)らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名(まな)の韻を用ゐる一格と称して、
 
     田家ノ恋    蓮二房
  さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
  花もかつみのよしやよ(俗)の中
  浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
  鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)
 
の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻(あふゐん)する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、
 
     祝草餅    桐左角
  若菜は君が為とよみしかど(廉)  
  蓬はけふの餅につかれしを(塩)
  名も鴬のいろにめでけむ(剣)
  げに花よりと見れば見あかね(兼)
 
の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
 美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙(ひもと)くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有(やいう)の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、
 
  木曽路に仮の旅とて別(わかれ)しが
     武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
    呼べばこたふ松の風
    消てもろし水の嶇(=正しくはサンズイヘン)
  わすれめや   茶に語し月雪の夜
  おもはずよ   菊に悲しむ露霜の秋
    庵は鼠の巣にあれて   蝙蝠群て遊
    垣は犬の道あけて    蟋蟀啼て愁
      昔の文なほ残    老の涙まづ流
  よしかけ橋の雪にかゝらば
  招くに魂もかへらんや不(イナヤ)
 
と、句脚に尤(いう)の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗(すこぶ)る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋(わしざうし)』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。

(七)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その四)

  秋香亭の夕顔を題して   小夜庵
  垣根に長く作り垂しは   我が手に墨し窓切らんとや
  月を眺むる便りならねば  いけては壁に花を見る哉
 
     題雨中の桜        野松
  降りくらす桜の雨     雨匂ふ鐘のおと
  蝶と散るもおしむまじ   鳥と笑むも仇(あだ)なるを
  露深く昼をうらみ     霞に立つ俤(おもかげ)も
  物言はん色と見れば    花にもあらで我が心
 
 これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁(いんえん)を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦(しばく)の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
 俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載(の)する左の一篇である。
 
(八)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その五)

     立君の詞   楼川
  よるはありたや   雨夜はいやよ
  ふればふらるゝ   此ふり袖も
  草の野上の     野の花すゝき
  まねきよせたら   まくらにかそよ
  かさにかくれて   ふたりで寝よに
  ござれござれよ   月の出ぬまに
 
 七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚(しせいひり)の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬(きく)せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌(いつちう)を輸(ゆ)するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川(ろうせん)の俳系から考へると、彼が故(ことさ)らに所謂田舎蕉門の顰(ひそみ)に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦(あ)いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年<1738>刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節(かとうぶし)の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
 芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾(かたむき)を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙(はや)く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言(りふげん)を試みるならば、楼川(ろうせん)の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。
 
(九)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その六)

    胡蝶歌   尾谷
  賎(しづ)が小庭の菜種の花は
             乳房とぞ思ふ
  梅の薫りを   紅梅はおぼへたるべし
  風のさそひて散行(ちりゆく)花を
   追ふて行身(ゆくみ)も共に花なるや
             羽もかろげなり
   江南の橘の虫の化すとも伝へし
   本朝にては何か化すらん
             妓女が夏衣も涼しげなれば
  夢の周たる歟(か)
   桔梗朝顔の花にたはれて
             老やわすれぬ
   尾花小萩の花にあそびて
             秋もおぼへぬ
   うとく見るらん   松虫は鳴に
   うらぶれてなけ   蝶よ胡蝶よ
 
 その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮(かつ)せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺(ぬき)んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵(ばくえん)谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。

(一〇)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その七)

  袖浦の歌   依長干行韻  文喬
  けふばかり汐干に見へて
  袖の浦わのうらみ忘れめ
  霞をくゝる山の手の駕籠
  淡かとまよふ海ごしの安房
  烟管くはへて磯より招き
  扇子かざして沖より望む
  君家住何処
  妾住在横塘
 
 長干行は楽府(がふ)の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔かう(景ヘンに頁)の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔_の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来(きた)つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人(なんぴと)も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷(びこく)は盤谷(ばんこく)の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙(わた)り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与(あづか)つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂(いはゆる)通(つう)を誇つてむしろ趣味に婬する傾(かたむき)があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦(しばく)の平俗とはおのづから選を異(こと)にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立(じたて)で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人(なんぴと)も吝(やぶさ)かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤(せんしよう)として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支(さしつかへ)ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年<1754>刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出(いひいで)侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。
 
(一一)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その八)

   放鳥辞
 鶸々 籠中の鶸(ひは) 汝久しく籠にこめられて 雲を乞(こふ)るうらみやむ時なし
 我又久しく病に労(いたづき)て 遠く遊(あそば)ざる愁(うれひ) 日々にあり
 鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
 みづから起(たち)て籠を開て 汝をはなさん
 鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
 鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
 飢を貪(むさぼつ)てますら雄の網に入(い)る事なかれ 遠く翔(とび)て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
 鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
 鶸々 籠中の鶸
 
 これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵(きびす)を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流(ながれ)であつたらう。
 天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤(あやまり)のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董(きとう)の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。

(一二)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その九)

    蒿里歌(かうりのうた)
 夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ 
     友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
 きのふ墨水(ぼくすゐ)に杖を曳て
 柳条に月をかなしび
 けふは杖を黄泉に曳て
 弘誓(ぐぜい)の棹哥(たうか)に遊ぶかし
     夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
 聖護院の杜(もり)の空巣には
 妻鳥こそまどふらめ
 難波江の芦の浮巣には
 友鳥こそわぶらめ
     わぶらめやいたいたし   伊丹のいめぢいたいたし
     さらでだもしぐれの雨は降ものを
     心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
 友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや
 
 これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因(ちな)んで作つたといふ「池田催馬楽(さいばら)」の如きも、
 
     魚
 猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ
 
     炭
 雄櫟(をくのぎ)はつれなしや 兜巾頭(ときんがしら)のかたくなや 雌櫟(めくのぎ)はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや
 
     酒
 新搾(にひしぼ)りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路(あづまぢ)に 菰(こも)かぶりて行かむ
 
     祭
 呉服(くれは)の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹(あやはぎぬ) 紅(くれなゐ)の呉服絹(くれはぎぬ)
 
といふので、催馬楽(さいばら)の調(しらべ)に摸(も)したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。

(一三)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その十)

明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、
 
 コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古(イニシヘ)ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。
 
と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質––特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、
 
 コノ書中ノ詩歌皆句(ヴエルス)と節(スタンザ)トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。
 
とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂(いはゆる)新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳(おごそ)かな自覚の下(もと)に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。

(一四)

 「春風馬堤曲」の現代語訳を試みたい。

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
(訳)
  私はある日老人を訪ねて故郷に帰った。淀川を渡り
  毛馬堤を歩いて行った。たまたま帰省中の女性に遇った。
  先になったり後になったりして、しばらくして、話し合うようになった。
  容姿端麗の女性で、その端麗さに心を奪われた。
  そんなことで、歌曲十八首を作り、
  その女性の心に託して心情を吐露した。
  題して、「春風馬堤ノ曲」という。

 「謝蕪邨」は与謝蕪村の中国風の表現。「一日」はある日のこと。「耆老」の「耆」は六十歳以上のことで、老人のこと。蕪村は時に六十二歳である。「澱水」は淀川。「嬋娟」は色ぽっいこと。蕪村がこの「歌曲十八首」を「春風馬堤曲」と題したことについては、楽府中の「大堤曲」の曲名に因っており、この詩編が楽府の歌曲スタイルに擬した艶詩であることを示しているという(尾形仂著『蕪村の世界』)。

(一五)

   春風馬堤曲十八首

一 ○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
(訳)藪入りで大阪の奉公先を出て、今長柄川にさしかかりました。
二 ○春風や堤長うして家遠し
(訳)春風の中、堤はどこまでも続き、家ははるか彼方です。
三 ○堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
(訳)堤を下りて芳しい草を摘みますと、棘のある茨が路を塞ぎ、その棘は無情にも裾を裂いて、股を傷つけます。
四 ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
(訳)渓流には石が点々とあり、その石を伝わって香りのよい芹を摘む。水上の石に感謝し、そのおかげで裾を濡らさずにすんだのだ。
五 ○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
(訳)一軒の茶店があり、かっての柳も老木になっています。
六 ○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
   無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(訳)茶店のお婆さんは、私を見て丁寧に挨拶をして、元気であることを喜び、私の春の晴れ着をほめてくれました。
七 ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
(訳)茶店には二人のお客がおり、色里の言葉などをよく解していて、酒代を三さしぽんと出して、私に席を譲ってくれました。
八 ○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
(訳)古い集落で、二・三軒の家があり、雄猫は雌猫を呼んでいるが、雌猫は現れない。
九 ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
(訳)垣根の外の鶏が雛を呼び、その垣根の外には草が地に満ちていて、雛が垣根を越えようとしていますが、垣根が高く、三・四羽の雛は越えらず落ちたりしています。

 この「春風馬堤曲」は、第一章(第一場)は、発句体の第一首(一)・第二首(二)と漢詩体の第三首(三)・第四首(四)とから成る。第二章(第二場)は、発句体の第五首(五)、漢文訓読体の第六首(六)そして漢詩体の第七首(七)から成り、第三章(第三場)は、発句体の第八首(八・漢詩文調)と漢詩体の第九首(九)から成っている。第一首(一)の「長柄川」は淀川の分流中津川の古称。第二首(二)の「春風」の読みは「しゅんぷう」ではなく「はるかぜ」としたい(尾形・前掲書)。第三首(三)の「無情」は「妬情」が定稿で推敲されてのものという(尾形・前掲書)。第四首(四)の「香芹」は香りのよい芹のこと。第六首(六)の「美(ほ)ム」も「羨む」を定稿で推敲されたという(尾形・前掲書)。第七首(七)の「江南語」は中国の揚子江以南の土地の総称だが、淀川を「澱水」、曾根崎新地を「北里・北州」と中国風に呼ぶと同じような用例で、遊里(郭)言葉のような意も利かしている(尾形・前掲書)。「三緡(ぴん)」は銭百文をつないだものが一緡で、三百文になる。第八首(八)の「古駅」は、古い宿場のこと。

(一六)

一〇 ○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
(訳)春草の野路は三つに分かれ、その中の近道が私を迎えてくれました。
一一 ○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
    三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
(訳)蒲公英が咲き、三々五々に黄色い花もあれば白い花もあります。去年もこの路を通ったのを覚えています。
一二 ○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
(訳)懐かしさの余り蒲公英の花を折りとると茎が短く折れて白い乳がでました。
一三 ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
    慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
(訳)幼い昔のころがしきりに思いだされ、優しい母の恩が思い起こされてきます。優しい母の懐は、この世のものとは思われいような、別天地の春のようです。
一四 ○春あり成長して浪花にあり
    梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
    春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
(訳)その別天地の春ような母の恩を受けて成長し、今、大阪に住んでいます。その梅が白く咲いている浪波橋のお大尽さんの家に奉公して、その梅の花のように青春を謳歌し、すっかり大阪っ子の華美な暮らしに慣れ親しんでいます。
一五 ○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
    本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
(訳)私は故郷を離れ、弟を家に残して、こうして大阪に出て、もう三年目の春を迎えてしまいました。これはまことに、根の親木を忘れて、末の枝先で花を咲かせているだけの接ぎ木の梅のようです。
一六 ○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
    揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
(訳)何と故郷は春の深さの中にあることか。その春のまっただ中を歩き歩き、また歩いて行きますと、柳並木の長い堤の路となって、ようやく下り坂となります。
一七 ○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
    戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
    待(まつ)春又春
(訳)その坂道を下りながら、首を上げるとまぎれもなく故郷の家が見えるではないか。黄昏れ時で、その故郷の家の戸口に、白髪の人が弟を抱いて、私を待っていてくれたのだ。
何時の春でも、そうして待っていてくれたのであろう。
一八 ○君不見(みずや)古人太祗が句
    薮入の寝るやひとりの親の側
(訳)あなたも知っていることでしょう。今は亡き太祗にこんな句があります。「薮入の寝るやひとりの親の側」(藪入りの子が、ひとりの親のそばで、心おきなく寝入っている。)

 「春風馬堤曲」の第四章(第四場)は、発句体の第一〇首(一〇・漢詩文調)と漢文訓読体の第一一首(一一)とから成り、第五章(第五場)は、発句体の第一二首(一二・漢詩文調)と漢文訓読体の第一三首(一三)・第一四首(一四)・第一五首(一五)とから成る。そして、最終の第六章(第六場)が、漢文訓読体の第一六首(一六)・第一七首(一七)と発句体(一八・前書きあり)とから成る。第一〇首の「捷径」は近道のこと。第一一首の「記得す」は覚えているの意。第一二首の「憐みとる」は慈しんでそっと採ること。第一三首の「懐袍」の「袍」は布子の綿入れの意。「別に春あり」は季節や衣服の春の暖かさとは別の愛情の春の暖かさがあったということ。第一四首の「財主の家」は財産のある家(お金持ち)のこと。「浪花橋」は天満と北浜とを結ぶ難波橋。第一五首の「辞す」は去るの意。第一六首の「揚柳」の「揚」はハコヤナギ、「柳」はシダレヤナギで、蕪村の描く中国風邪の山水図の景。第一七首の「矯首」は首を上げること。第一八首の「君不見(君見ズヤ)」は楽府の詩などにしばしば見られる用例という(尾形・前掲書)。

(一七)

澱河歌の現代語訳は次のとおりである。

  澱河歌三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
(訳)春の水は梅の花を浮かべ、南へ流れ、宇治川は淀川と合流する。君、錦のともづなを解かないでください。流れの早さに舟は稲妻のように流されてしまいますから。
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
(訳)宇治川は淀川と合流し、交わり流れ一身のようです。舟の中でも共寝をし一身になりたい。そのまま、大阪に下り、一生大阪人で暮らしたい。
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(訳)君は水に浮かぶ花のようで、その花は水に浮かび、慌ただしく去っていってしまうばかりです。私は川辺の柳のように、その水上に影を投げかけ、その影は水に沈んでついてくこともできません。

 「春風馬堤曲」に比し、漢詩体二章と漢文訓読体一章の計三章とシンプルであり、その対比が著しい。しかし、両者とも女性に代わって作をしているということは共通しており、「春風馬堤曲」が淀川土堤のものであれば、「澱河歌」は文字どおり、淀川そのものの作といえよう。「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。
「春風馬堤曲」も「澱河歌」も、『夜半楽』に収載され、その目次には、「春風馬堤曲 十八首」・「澱河歌 三首」・「老鶯児 一首」の三編が並べて掲げられており、この三編をもって、一つの組詩のような構成をとっている。この最後の「老鶯児」は次の発句一句である。

○ 春もややあなうぐひすよむかし声

 この三編の組詩は、「春風馬堤曲」は十八章三十二行、「澱河歌」は三章八行、「老鶯児」は一章一行で、章数は、「春風馬堤曲」の六分の一が「澱河歌」、その三分の一が「老鶯児」、そして、行数は、「春風馬堤曲」の四分の一が「澱河歌」、その八分の一が「老鶯児」と、
十分に意図されたものであることが理解される。さらに、「春風馬堤曲」は藪入りの少女に代わってのもの、続く、「澱河歌」はその少女の成人した艶冶な女性に代わってのもの、そして、最後の「老鶯児」が、その晩年の老婦人に代わってのものと、即ち、女の一生のようなことをイメージしてのものともとれなくもないのである。

金曜日, 8月 04, 2006

虚子の実像と虚像(その二十一~三十四)




虚子の実像と虚像(二十一)

○ 一つ根に離れ浮く葉や春の水   (大正三年)

※この日、「日光は其水に落ちて『春先らしい暖さ』と、何処やらまだ風の寒い『春先らしい寒さ』とを見せている情景にあい、「透明な水の底の方の赭つちやけた泥がすいて見え」るのを見つめながら「『水温む』といふ季題の事を」「考へずにはゐられ」なくなり、その後で、「或大きな事実に逢着」「其処に芥とも何ともつかぬ、混雑した中に」「思はぬ方の、づつと遠方の水底に根を下ろしてゐる事」を発見し、覚えず先の句をえた(松井利彦著『大正の俳人たち』所収「俳句の作りやう」、「ホトトギス」大三・三)。

 ここに、虚子の俳句工房の全てが内包している。句作に当たっては、虚子は「ぢつと案じ入る事」・「ちつと眺め入る事」、そして、「季題による気分、情緒にひたり」、「その上で写生による新発見をする」というのが、その制作過程の全てである。この制作過程でのポイントは、上述の虚子の言葉でするならば、「或大きな出来事に逢着」するという、「写生による新発見」ということが上げられよう。そして、虚子の場合は、この「写生による新発見」の、その「或大きな出来事」については、沈黙をしたまま、それを言外に匂わせるということも敢えてしないというのが、その作句上の信条ともいえるものであろう。ここの「或大きな出来事」と「自己の特異の境涯性」とを結合させて、第一期の「ホトトギス」の黄金時代を築き上げていった俳人に、子規よりも二年年上の慶応元年生まれの村上鬼城がいる。

○ 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 (鬼城、「ホトトギス」大正三・一)

 この中七の「石を噛み居る」の、鬼城の「写生による新発見」に、鬼城は胸中の「己の境涯性」というのを詠い上げる。鬼城は、虚子の作句手法をそのまま遵法しながら、虚子とは異質の境涯詠という世界を構築することとなる。鬼城は虚子という俳句の師を得て、見事に開花することとなる。虚子は作句することよりも、他の人の句を鑑賞し、その他の人の句の好さを見抜き、その他の人をその人自身が本来持っているその才能を開花させるところの抜群の「俳人発掘」の才能を有していた。ここに、虚子が碧梧桐らの新傾向の俳句を放逐する原動力があったということは、自他ともに認めるところのものであろう。


(二十二)

○ 曝書風強し赤本飛んで金平怒る  (明治四十一年・「日盛会」第一回)
○ 書函序あり天地玄黄と曝しけり   ( 同 )

 この二句については、「以上二句、八月五日。日盛会。第五回。小庵。尚この会は八月一日第一回を開き殆毎日会して八月三十一日に至る。此時の会者、東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」との留め書きが付されている。この留め書きは重要で、この日盛会といのは、当時の碧梧桐らの「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」の特別鍛錬会のような催しで、この鍛錬会での虚子の作は、この八月五日の二句を皮切りにして八月二十七日(第二十五回)までの代表的な句が、虚子の第一句集『五百句』の中に収録されている。その八月二十三日の日盛会(第二十一回)の三句は次のとおりである。

○ 凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
○ 由(よし)公の墓に参るや供連れて
○ 此墓に系図はじまるや拝みけり

 この一句目の句は、虚子の長律の破調の句として著名で、次のアドレスでのネット鑑賞記事もある。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「去来への親しみ尊敬の念の表れた秀句である。去来は芭蕉の弟子で、自分を小さくすることにかけては天下一品で、生涯芭蕉の弟子として師を敬い続けた謙虚な人であると聞く。またその墓も小さい。この句、この破調が快く響く。虚子はこの句で、自分を小さく虚しくすることの美しさをを詩っているのである。」

 しかし、これらの句の背景には、当時の碧梧桐らの新傾向俳句の定型無視(長律・短律の試行)などの批判を内包してのものと解すべきなのであろう。この二句目の「由公の墓」(この「由公」とは芭蕉が葬られている義仲寺の木曽義仲の「義仲」公の意と解する)
なども痛烈な碧梧桐らへの風刺が内包しているように思えるのである。


(二十三)

○ 金亀子(こがねむし)擲(なげ)うつ闇の深さかな  
(明治四十一年・「日盛会」第十一回)
次のアドレスのネット鑑賞記事は次のとおりである。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「この闇の深さには、外側の闇の深さも勿論あるが、内面の闇の深さというものもそこに当然含まれている。私は秀句というものは外側の自然を内側の自然の合一というものが実現されていると思うのであるが、その意味でこれは秀句である。さてこの『擲つ』というのは物を放り投げるように捨てるというような意味であるが、ある人がこれは板のようなものに投げぶつけたと思っていたと言った。それを聞いて私はびっくりしてしまった。それを正しいとすると、この句は凄いものになる。『黄金虫を板にぶつけて闇の深さかな』となるとこれは凄い。そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる。そしてこの解釈も面白いのである。秀句の条件などすっ飛んでしまいそうである。」

 この「そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる」という指摘は、当時の虚子の碧梧桐らの俳句に対する憤りを内心に有している句と言っても過言ではなかろう。そして、この日盛会に参集したメンバーの、「東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」というのは、いわゆる、碧梧桐らの「俳三昧」(「日本新聞」の「日本俳壇」を活動拠点としていた俳人達)に対して、虚子らの「俳諧散心」(「国民新聞」の「国民俳壇」ほ活動拠点としている俳人達)のメンバーで、前者が当時の多数派とすると少数派ということになる。そして、そのメンバーというのは、虚子一派というよりも、寄り集まりの反碧梧桐派という趣である。この当時は、虚子がタッチしていた
「ホトトギス」に、この両派の句稿が掲載されるなど、決定的な対立状態ではなかったが、この虚子の掲出句などを見ると、虚子自身としては内心忸怩たるものがあったことは想像に難くない。


(二十四)

○ 芳草や黒き烏も濃紫 (虚子・明治三十九年)
○ 黛を濃うせよ草は芳しき(東洋城・明治三十九年)

 この掲出の虚子と東洋城の二句は、明治三十九年三月二十九日の「俳諧散心」の第一回での席題「草芳し」でのものである。この「俳諧散心」について、下記のアドレスで次のように紹介されている。この東洋城は後に虚子と袂を分かち、現に続く俳誌「渋柿」を創刊する。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1-3.htm

「碧梧桐らの一派が『俳三昧』という俳句の鍛錬会を行ったのに対し、虚子も明治三十九年三月十九日、『俳諧散心』なる俳句の鍛錬会を始める。『散心』とは『三昧』と同じ仏語であるが、『三昧』が心を一事に集中するのに対し、『散心』は気の散る事、散乱する心の意味で、あえて碧梧桐とは反対の言葉を選んだのは碧梧桐に対する揶揄の気持ちがあったのであろう。しかし、当初は月曜日に集まって句会を開くという事で『月曜会』と呼ばれていた。三月十九日虚子庵の第一回に集まったのは、東洋城、蝶衣、癖三酔、浅茅、松浜の五人で、第一回の席題は『草芳し』であった。後に東洋城の代表句にあげられる
      黛を濃うせよ草は芳しき
はこの席で作られた。この席での句は後に冊子となり、『芳草集』と題されたが、『ホトトギス』に発表する際、虚子が『俳諧散心』と改めた。これが『俳諧散心』の由来である。又、明治四十一年八月、第二回目の俳諧散心がホトトギス発行所で催された。今回のは毎週月曜日に開催されるのではなく、一日から三十一日まで連日催され、猛暑の中で催されたから『日盛会』と名づけられた。参加者は松根東洋城、岡村癖三酔、岡本松浜、新しく飯田蛇笏が参加していた。この会では

       金亀子擲(なげう)つ闇の深さかな    虚子
       凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり  虚子

などの句が作られている。そして俳諧散心最後の日、虚子は集まった人たちに、現在『国民新聞』に連載している『俳諧師』に全力を傾ける為、暫く俳句を中止すると宣言し、周囲を驚かせた。そのため、虚子が担当していた『国民俳壇』の選者は松根東洋城に委譲している。しかし後に『国民俳壇』をめぐって東洋城は虚子のもとを去ることになる。参考    村山古郷『明治俳壇史』」

(二十五)

○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (大正二年)

この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正9・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。

○ 白日は我が霊なりし落葉かな (水巴・昭和二年)

(二十六)

○ 我を迎ふ旧山河雪を装へり (大正三年)
  
 この掲出句には、「一月。松山に帰着。同日十二日夜、松山公会堂に於て」との留め書き
がある。この大正三年には虚子が「ホトトギス」に投句を懇請して、村上鬼城・渡辺水巴らと「ホトトギス」の第一期黄金時代にその名を連ねている飯田蛇笏の次の傑作句が生まれている。

○ 芋の露連山影を正しうす (蛇笏・「ホトトギス」大正三年)

 この蛇笏の句について、山本健吉は「大正三年作。作者が数え年三十歳の時の句である。現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰か書いていたものを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである」(『現代俳句』)と劇賞した。この蛇笏もまた、碧梧桐らの「新傾向俳句」の中心人物・中塚一碧楼に対して、虚子が「ホトトギス」の牙城の一角に据えた「正しい定型律」の象徴的な俳人として位置づけられるような感慨を抱く。すなわち、「新しい俳句」を求めて、その五七五の定型を完璧なまでに破壊する一碧楼と、虚子の「守旧派」という呼び掛けのもとに、その五七五の定型を「俳諧(連句)の立句(発句)」までに再構築した蛇笏とは、そのスタートとにおいて「早稲田吟社」で句作を共同でしていた連衆でもあった。この両者が、それぞれ、「新派」の一碧楼、「旧派」の蛇笏として競う姿は、さながら、当時の、「碧梧桐と虚子」とが競う姿と二重写しになってくる。虚子は、当時の蛇笏について、「殊に蛇笏君に向つては、君の句の欠点を指摘するものは僕が死んだら誰もあるまい。僕の居る間にどしどし雑詠に投句して、取捨のあとを稽(かんが)へて置いた方が利益であらうといふことをいつた」(『ホトトギス雑詠全集五』大正六年)と、他の「ホトトギス」俳人とは別格化扱いをしている。水巴が主宰誌「曲水」を創刊した同じ大正五年に「キラ丶」(後の「雲母」)を刊行し、虚子調の「ホトトギス」俳句とはニュアンスの異質の蛇笏調の「雲母」俳句を樹立していくのであった。水巴の俳句観が「生命の俳句」ということなら、さしずめ、蛇笏のそれは「霊的に表現されんとする俳句」(「ホトトギス」大正七年の蛇笏の論)とでもいうのであろうか。蛇笏もまた次第に虚子と距離を置いていくこととなる。

(二十七)

○ 一人の強者唯出よ秋の風  (虚子・大正三年)
○ 秋風や森に出合ひし杣が顔 (石鼎・大正二年)
○ 秋風に倒れず淋し肥柄杓  (普羅・大正二年) 

 大正三年一月の「ホトトギス」の「読者諸君」欄に虚子は次のように記した。
「大正二年の俳句界に二の新人を得た。曰、普羅。曰、石鼎」(松井利彦著『大正の俳人たち』)。この二人の新人、前田普羅と原石鼎こそ、虚子が発掘した「ホトトギス」直系の二人の新人ということになろう。碧梧桐らの「新傾向俳句」には荻原井泉水・大須賀乙字などの若きエリートが群れをなし、それらに対抗すべき「ホトトギス」直系の新人俳人を虚子は渇望していたことであろう。そして、村上鬼城・渡辺水巴・飯田蛇笏らにこれらの有望な若手の新人が加わり、子規山脈とは異なった、虚子山脈ともいうべき「ホトトギス」第一期の黄金時代が現出するのである。掲出の一句目は、虚子の巨人願望の句として、当時の虚子自身の投影の句と解したが、それと併せ、当時の虚子の強力な新人俳人の渇望も見え隠れしているように解したい。そして、次の石鼎の句は、大正二年十一月の雑詠で巻頭を占めたもののうちの一句である。この時の作品の中には石鼎の代表句となる次の句などがある。

○ 淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守  (石鼎)
○ 蔓踏んで一山の露動きけり    (普羅)

 掲出の三句目の普羅の句は、その一席となった石鼎に次いで、雑詠欄二席となった普羅の作品の一つである。この二句について次のような鑑賞がなされている。
「前句(石鼎の句)の『秋風や』は、切字を伴っていることもあって、読み手は秋風の冷たさ、淋しさを情緒としてまず持つことを必要とする。そしてその情感の上に立って、森で逢った木樵の恐らく年老いた、そしてとぼとぼ歩む杣の顔つきを思い描くのである。守旧派的発想の典型の句である。これに対し、普羅の句の秋風は冷たく吹き過ぎてゆく風で、その風にも倒れることのなかった肥柄杓を淋しと見たのである。秋風の情緒に立脚しない。ある景の中の強く吹き過ぎる風として捉えている。この用法は大正中期になって大須賀乙字によって理論づけがなされ、昭和期に新興俳句運動の拡がりの中で一般化されるもので、当時としては思い切った新しさで虚子を着目させ、石鼎・普羅ではなく、普羅・石鼎と言わせたのであろう(松井・前掲書)。石鼎は、後に「鹿火屋」を主宰し、この「鹿火屋」は今日に至っている。また、普羅は請われて北陸の「辛夷」を主宰し、その「辛夷」も今日に至っている。このようにして、「ホトトギス」俳句は全国を席巻していくこととなる。


(二十八)

○ 蛇逃げて我を見し眼の草に残る (大正六年)

この句には、「五月十三日、発行所例会。十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」との留め書きがある。この留め書きからすると、何か坂本四方太らの逝去に関連してのものと思われがちであるが、どうもそれらとは全然関係なく、この句は当時の虚子にあっては、曰く付きの問題の孕んでいる一句のようなのである。というのは、この句が作られた後の、六月五日にホトトギス発行所で「月並研究」の座談会があり、その座談会に偶々新傾向俳句の中心人物の大須賀乙字が、この留め書きに出てくる坂本四方太の遺族のことで来訪していて、この座談会に加わり、この掲出句と同時作の虚子の次の句を月並み句として批判した記録が残っているのである(松井・前掲書)。

○ 草の雨蛇の光に晴れにけり    (虚子)
○ 八重の桜ゆさぶる風や木の芽ふく (虚子)

 その記録によると、この虚子の二句について、乙字は次のように批判して、その上、改作案すら提示しているとのことである。 
「この二句は、概括的で且つ主観がはっきりしない。が之を鑑賞する即味ふ方から言へば、その主観を深く穿鑿して見なけりやならない心を起される。其点に先づ不審を打ったのである」。「先づ不審をただして作者に伺ふ事は、蛇の光に草の雨が晴れて来たといふ句の出来た時の作者の心持。・・・」。この乙字の傲慢とも取れる問に虚子は次のように答えている。
「草の雨が晴れかかつて来た時分に蛇の光が強く目に映つたのである」。「一旦雲が晴れかかつてくれば、そこに当る日はもう夏らしい光の強い感じがする。さういふ場合の、日を受けた蛇の光を詠じたのである」。この虚子の説明に対し、乙字は以下(要約)のようなことを主張し、改作案を示すのである。
○光が中心に出来ているなら、「蛇の光」と名詞形にして真中に据えたのでは活動がなくなる。句を作るとはき、最も活動した言葉に表れるのが普通であるのに、蛇の光と活動を消して表現している。一度趣向の篩にかけて作られており、最も感動したものを凝固させている。私が作るなら、蛇が光ったというような、あるいはいつまでも光っているというような、長い時間を持っているような光景は主眼としない。
 そして、乙字はこの句を
   草の雨蛇光り晴れにけり  と改作をすすめている。(松井・前掲書)
 さらに、虚子の自信作の一つの掲出の句に対しても、
○「草に」の「に」がやや曖昧なる語である。「蛇逃げて」も「て」というと、次の起こった事の間に多少の時間を思わせる。それで「蛇逃げつ」と「つ」とした方がよい。(松井・前掲書)

 この座談会があった大正六年当時の俳壇状況というのは、虚子の本格的な俳壇復帰が緒について、「ホトトギス」の勢力は先に見てきたように有力な俳人達の台頭もあり、いわゆる、虚子らの「守旧派」と碧梧桐らの「新傾向俳句」との対立は、「守旧派」の一方的な優勢のうちに推移し、それらの推移を見極めるかのように、虚子は「進むべき俳句の道」を指し示すという最中のことであった。しかも、年齢的にも七歳年下で、実作上の経験もさほどでない乙字が、 堂々と虚子の面前でこれらの「反虚子」・「反守旧派」を主張するのだから、虚子も怒り心頭に発したらしく、この座談会のあった翌月に、再度、乙字を招いて座談会を開き、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」とし、「月並研究」そのものを中止してしまったという(松井・前掲書)。このような、掲出句等のこれらの句の背景というのを垣間見る時に、虚子の反「新傾向俳句」というのは、反「碧梧桐」というよりも、より多く、反「碧梧桐を取り巻く若きエリート俳人達」へのものだったということを如実に物語っているようにも思えるのである。

(二十九)

○ コレラ怖(を)ぢて綺麗に住める女かな (大正三年)
○ コレラ船いつまで沖に繋り居る      (同上)
○ コレラの家を出し人こちらへ来りけり    (同上)

 「以上三句。七月三日。虚子庵例会」との留め書きがある。虚子にしては珍しく「コレラ」というどぎつい措辞で、何やら時事句的な雰囲気の句である。『大正の俳人たち』(松井利彦著)の「中塚一碧楼」のところに、一碧楼が出していた「試作」という俳誌が紹介されていて、その中に次のようなコレラの句がある。

○ コレラ患者が死んだ、麻畑ばかり思ひつづけて (荒川吟波) 

 これらの、いわゆる碧梧桐らの新傾向俳句の一つの「試作」派的な句について、虚子はかなり好意的な一文を「ホトトギス」(大正二・六)に寄せているのである。その要旨は以下のようなものであった。

※碧梧桐らの新傾向俳句は、一つの方向として「今日の如く再び十七字、季題趣味といふ二大約束の上に復帰する」。その二つは「更に驀進の歩を進めて十七字といふ字数の制限をも突破し季題趣味をも撥無し、全然俳句以外の一新詩を創造する」。私(虚子)は「此の第二を選ぶ事は新傾向運動として最も重大の意味あるものとして私(ひそか)に嘱望していた」。そして、「此の第二の結果を産む革命運動として私は寧ろ、『試作』一派の人の上により多くの希望を繋ぐのである」。

 これらの虚子の記述を見ると、虚子は碧梧桐らの新傾向俳句についてもそれを熟知し、「全然俳句以外の一新詩」として、俳句(十七字・季題趣味を基調とする)ではなかなか表現が困難ないわゆる社会的事象などを主題とする、中塚一碧楼らの「試作」の作品には希望を託し、それらについては一定の評価をしていたということが伺えるのである。掲出の虚子のコレラの句も、例えば、掲出の荒川吟波のコレラの句などに触発されて、虚子としては珍しい当時の社会的事象を主題とした句とも解せられなくもないのである。この「試作」に発表した一碧楼の句として、次のような句がある(松井前掲書)。

○ 八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れ   (一碧楼)
○ 啄木は死んだ、この頃の白つつじ  (同上)

 一碧楼のこれらの句は、現代の金子兜太らのいわゆる前衛俳句に近いものであろう。そして、虚子はこれらの一碧楼らの句(俳句というよりも一新詩として)に一定の理解と評価をしていたということは、虚子の実像を知る上で特記しておく必要があろう。


(三十)

○ 老衲(ろうどう)炬燵に在り立春の禽獣裏山に (大正七年)
○ 雨の中に立春大吉の光あり (同)

この二句については、「以上二句。二月十日。発行所例会。会者、京都の玉城、所沢の俳小星、青峰、宵曲、一水、雨葉、しげる、湘海、みずほ、霜山、今更、たけし、鉄鈴、としを、子瓢、夜牛、石鼎」との留め書きがある。この大正七年の頃に来ると、原石鼎の他に「島田青峰・柴田宵曲・中田みずほ・池内たけし・高浜としを」など、その後の「ホトトギス」誌上などでのお馴染みの方の名も見受けられるようになる。この大正七年・八年にかけての、ホトトギス「百年史」のネット関連の記事は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

大正七年(1918) 一月 「俳談会」連載、虚子、破調を試みる
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
八月 「山会」を復活。
九月 第二回其角研究。この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919) 一月 「写生を目的とする季寄せ」(ホトトギス附録)。
二月 「風流懺法後日譚」連載、虚子。
三月 虚子『どんな俳句を作ったらいいか』刊(実業之日本社)。
八月 「写生は俳句の大道である」原月舟(八回連載)。
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。

上記の年表の、大正七年一月「虚子、破調を試みる」とは、掲出の一句目のような句作りを指しているのだろう。さらに注目すべきことは、その九月に、「この年新傾向運動終熄」とある。すなわち、碧梧桐らの新傾向俳句はここに終熄したというのである。そういうことを背景にして、掲出の二句、一句目の「立春の禽獣裏山に」と、二句目の「立春大吉の光あり」とは、なんと、この年の、この「この年新傾向運動終熄」の、それらを背景とする、虚子の心情そのものを詠っていることか。まさに、「ここに虚子あり」という雰囲気である。
(三十一)

○ 藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (大正九年)

この掲出句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがある。先の大正八年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということになろう。この日野草城については、次のアドレスでの紹介記事がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

(日野草城)
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

○ 春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正九年「ホトトギス」)

 掲出の句は、草城の二十歳満たない学生時代の作である。そして、この句が作られた大正九年について、ホトトギス「百年史」には、次のように記している。新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた「海紅」も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、「ホトトギス」の「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。掲出の句の「猫」・「蛇」とは、その「京鹿子」を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。しかし、これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではなかろう。また、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○日野草城 (ひの・そうじょう) 明治34年 昭和31年 京大三高俳句会の創設メンバー。新興俳句に進み、 「旗艦」 創刊。 晩年に同人復籍。

  遠野火や寂しき友と手をつなぐ
  妻も覚めてすこし話や夜半の春
  既にして夜桜となる篝かがりかな
  心ところ 太てん煙のごとく沈みをり
  蚊か遣やり火びの煙の末をながめけり
  粕汁に酔ひし瞼や庵の妻
  冬椿乏しき花を落しけり

大正九年(1920) 一月 乙字没。
二月 「小学読本中にある俳句」連載、鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。
九月 虚子軽微の脳溢血、以後禁酒、雑詠一時蛇笏代選。
十月 雑詠投句二十句を十句とする。
十一月 「京鹿子」創刊。
十二月 「海紅」主宰一碧楼に代わる。

(三十二)

○ 人形まだ生きて動かず傀儡師 (大正十年)

 「一月十一日。新年婦人句会。かな女庵。昨年十月、軽微なる脳溢血にかかり、病後はじめて出席したる句会」との留め書きがある。ここに出てくる「かな女」とは、長谷川かな女のむことであろう。その夫・零余子とともに、「ホトトギス」の一時代を築きあげていったが、大正十一年にはその「ホトトギス」を離脱している。零令子亡き後、昭和五年に「水明」を創刊して、その水明」は現に続いている。掲出の句は当時の虚子の自画像であろう。なお、かな女に関する句は次のとおり。

○ あるじよりかな女が見たし濃山吹    (石鼎・大正四年)
○ 蠅おそろし止まるもの皆に子を産み行く (かな女・大正七年)
○ 行秋や長子なれども家嗣がず      (零余子・大正八年)

 この長谷川かな女については、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○長谷川かな女 (はせがわ・かなじょ) 明治20年 昭和44年 夫・零余子ともども「進むべき俳句の道」 にとりあげられた。 婦人俳句会で活躍。

  切きれ凧だこの敵地へ落ちて鳴りやまず
  羽子板の重きが嬉し突かで立つ
  蚊帳くゞるやこうがいぬきて髪淋し
  空壕に響きて椎の降りにけり
  戸にあたる宿なし犬や夜寒き
  湯がへりを東菊買うて行く妓かな
  戸を搏うつて落ちし簾すだれや初嵐
  呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
  髪かいて額まろさや天てん瓜か粉ふん

 また、ホトトギス「百年史」は下記のとおりである。

大正十年(1921) 五月 「鹿火屋」創刊。
十月 「平明にして余韻ある俳句がよい・客観写生」虚子。
大正十一年(1922) 三月 虚子島村元と九州旅行。
四月 みづほ・風生・誓子・秋桜子・帝大俳句会(東大俳句会)を復活、「破魔矢」創刊。
九月 虚子選『ホトトギス雑詠選集』刊(実業之日本社)。
十一月 京大三高俳句会解散、「京鹿子句会」へ移行。「山茶花」創刊



(三十三)

○ 日覆に松の落葉の生れけり (大正十二年)

 「六月二十八日。風生渡欧送別東大俳句会。発行所。上京中の泊雲出席」との留め書きがある。「風生」は後に「若葉」を主宰する富安風生のこと。「泊雲」は実弟の野村泊月と共に「ホトトギス」雑詠欄の上位を占めて「丹波二泊の時代」を作った西山泊雲のこと。風生も泊雲も虚子に見出され、終始、虚子とその「ホトトギス」の重鎮であった。虚子の掲出の句が、堅実な客観写生の句と解せられるなら、この両者とも、その虚子の堅実な客観写生の句を標榜し、実践し続けた俳人といえるであろう。下記のホトトギス「百年史」にあるとおり、この年の九月一日に関東大震災があり、虚子は鎌倉にあった。この日のことは、『父・高浜虚子』(池内友次郎著)に詳しい。八月には、虚子が一時後継者の一人と目していた島村元が亡くなっている。この島村元の死亡や関東大震災などが原因となり、虚子は「ホトトギス」西遷(「ホトトギス」の経営を京都に移すという案)を決意したという(松井・前掲書)。その「ホトトギス」西遷は日の目を見なかったが、この大正十三年には従来の選者制度を止めて同人制度が設けられ、その同人・課題句選者は次のとおりであった(松井・前掲書)。
(同人) 鳴雪、肋骨、露月、鼠骨、虚吼、繞石、鬼城、蛇笏、泊雲、普羅、石鼎、梧月、温亭、楽堂、青峰、躑躅、王城、泊月、浜人、野鳥、村家、たけし、宵曲
(課題句選者)黙禅、花蓑、野風呂、耕雪、草城、秋桜子、青畝、あきら、公羽
そして、この同人の一人、原田浜人が、当時の虚子が「ホトトギス」俳句として重視していた「客観写生句」(描写句)に対して批判し、離脱していくことになる。一見平穏に見える「ホトトギス」の内部もその実情は混沌としたものだったのである。

○ 一もとの姥子の宿の遅ざくら (風生)
○ 焚きつけて尚広く掃く落葉かな(泊雲)
○ 春水を渉らんとして手をつなぐ(泊月)
○ 一片のなほ空わたす落花かな (元)
○ あるときは一木に凝り夏の雲 (浜人)


大正十二年(1923) 一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924) 一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。


(三十四)

○ 古椿こゝたく落ちて齢かな (大正十五年)

 「二月二十三日。田村木国上京歓迎小集。発行所。二十二日、内藤鳴雪逝く」との留め書きがある。鳴雪は子規より年配で、子規門の大長老だが、虚子と虚子の「ホトトギス」の支援を惜しまなかった。しかし、広く各派の俳人達の交遊関係も厚く、こうした後見人的な支援が どれほど虚子とその「ホトトギス」を支えたものかは、虚子自身が最も知るところであろう。掲出句はその鳴雪の追悼句ではないけれども、当時の虚子の心境を伝えてくれるような一句である。この年、自由律の俳人・尾崎放哉も亡くなっている。この前年には、東大俳句会、京大俳句会に続いて、九大俳句会も結成され、吉岡禅寺洞・芝不器男らが「ホトトギス」に参加してくることとなる。この禅寺洞については、「ホトトギス山脈の人たち」(下記のアドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○吉岡禅寺洞 (よしおか・ぜんじどう) 明治22年 昭和36年 福岡県生まれ。九大俳句会を指導。 「天の川」 の選者として無季欄を設けた。除籍とはなったが、 「ホトトギス」 ゆかりの作家として、芦屋の虚子記念文学館には、 「青空に青海湛へて貝殻伏しぬ」の俳磚 (はいせん) が掲げられた。

  雹ひょう降りし桑の信濃に入りにけり
  ひたすらに精霊舟のすゝみけり
  露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し
  ちぬ釣やまくらがりなるほお 被かむり
  歩きつゝ草矢とばしぬ秋の風
  春光や遠まなざしの矢大臣
  女房の江戸絵顔なり種物屋
  古園や根分菖蒲に日高し

 また、芝不器男については、下記のアドレスで紹介されているが、大正末期昭和初期、俳壇に彗星の如く現れ、子規以来の伝統俳句の良さを高度に発揮した愛媛県出身の俳人である。「不器男」は、論語の「子曰、君子不器」から命名。本名である。二十六歳の短い生涯であった。その生涯に残した句は二百句に充たないという。そのうちの下記の句は虚子の名鑑賞で一躍不動のものとなった一句である。

   あなたなる夜雨の葛のあなたかな

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%8D%E5%99%A8%E7%94%B7


大正十四年(1925) 三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926) 二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。