日曜日, 7月 30, 2023

第六 潮のおと(6-27~6-30)

     初幟を祝ひて

6-27 (ウシ)を餌に釣上げたりな吹ながし

  季語は「吹きながし」(初夏)。「(うし・カイ)」=去勢された牛。[字音] カイ、[字訓] うし。」(「普及版 字通」)

  前書の「初幟を祝ひて」は、「男児の初節句を祝って立てる幟。また、その祝い」のこと。掲出句の「吹きながし」は、下記の「武家の端午の節句(尚武の節句)」=「五色の吹き流し+家紋の幟+絵幟(「鍾馗」幟など)の「五色の吹き流し」で、「商家の端午の節句(鯉のぼり)=鯉の吹き流し)」ではない。

 

歌川広重(初代)「名所江戸百景/水道橋駿河台/大判錦絵 /安政4(1857)(国立国会図書館デジタルコレクション)

https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/data/post-42.html

https://hiroshige-ena.jp/collections/major-works/7

≪《名所江戸百景》は、広重の絶筆となった揃物です。近接拡大したモティーフを手前に描き極端なまでに遠近を強調する構図は、晩年の広重が多用したものです。現在“子どもの日”として馴染み深い端午の節句ですが、庶民にも親しまれる行事として広まったのは江戸時代のこと。端午の節句は古代中国の行事に由来し、日本では厄払いの儀式と結びつき、中世に入って男児の成長を祝う節句として定着していきました。画中の遠景に見えるように、江戸の武家屋敷では五色の吹き流しや幟(のぼり)を立てました。その前面に鯉のぼりが、ひときわ大きく描かれています。町人の家では幟飾りを揚げることが禁じられていたため、代わって鯉のぼりが立てられるようになりました。鯉のぼりは5月の江戸の風物詩でした。富士山よりも高く、力強く天に上るこの作品の鯉の姿は、安政の大地震(1855年発生)の被害を受けた町の復興を象徴しているともいわれています。≫(「中山道広重美術館」解説)

 

:歌川広重画「水道橋駿河台(全体図)」=「商家の端午の節句(鯉のぼり)=鯉の吹き流し)

:同上の「部分図」=「武家の端午の節句(尚武の節句)」=「五色の吹き流し+家紋の幟+絵幟(「鍾馗」幟など)

 「句意」は、「五月の端午の節句に、江戸の市中では、『鯉の吹き流し』が威勢良いが、ここ、旗本の武家の、端午の節句(尚武の節句)では、去勢された牛を餌に釣り上げたような、『鯉のぼり』に非ざる『形なき巨大な吹き流し』のみが、風に靡いている。」


6-28  やよ水鶏さいたる門を敲とは

  「季語」は、「水鶏」(三夏)。「夏、水辺の蘆の茂みや水田などに隠れて、キョッキョッキョキョと高音で鳴く鳥。古来、歌に多く詠まれてきたのは緋水鶏で、その鳴声が、戸を叩くようだとして『水鶏叩く』といわれる。」(「きごさい歳時記」)

(参考歌)

水鶏だにたゝけば明くる夏の夜を心短き人や帰りし 「よみ人しらず『古今六帖』」

水鶏だに敲く音せば槙のとを心遣にもあけて見てまし「和泉式部『家集』」

 「水鶏はたたく」=「くひなのうちたたきたるは 誰が門さしてとあはれにおぼゆ」(紫式部「源氏物語」) 


「水鶏にだまされて・部分図 (石川豊信)({高橋浮世絵コレクション})

https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/1527

≪ 「だまされて姿はつかし水鶏(くいな)かな」 蚊帳の中から出て立つ、あられもなき姿の女。手に団扇をもち、気ぜわしく寝所から出てきたようすがうかがわれる。夏の鳥である水鶏は、古来「叩く」と形容される鳴き声で知られるところから、図は待ち人が来て戸を叩く音と鳥の鳴き声を勘違いした女の心模様と仕草とを、絵画化したものとわかる。 石川豊信は奥村政信の影響を受けながら人気絵師の仲間入りを果した。紅摺絵と呼ばれる簡素な色摺版画の時代に、本図のようにセクシャルな「あぶな絵」を含む数多くの美人画を世に送り出している。≫(「慶応義塾大学メディアデジタルコレクション」)

 「句意」は、「『水鶏はたたく月下の門』、今、まさに、水鶏が、この狭い、水の裂け目を叩いている。」

  

6-29  突ふるせ神の切けん此藜(あかざ)

 季語=「藜(あかざ)(三夏)=「藜(アカザ)は、北海道から沖縄まで全国的に分布するアカザ科の一年草で、若葉には赤色の粉粒が密集するのでわかりやすい。人里周辺の畑や荒地などで見られる。茎は乾燥すると固くなるため、昔から杖として利用されてきた。近縁の種としては、葉が白くなるシロザが存在する。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

やどりせむ藜の杖になる日まで  芭蕉「笈日記」

おもひ出や藜の杖の肩過ぎぬ   大魯「題葉集」

漱石自筆の猫画「あかざと黒猫図」=神奈川近代文学館蔵

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20160520003948.html

 子規の「藜」の句

 https://fudemaka57.exblog.jp/25786955/

 しくるゝや藜の杖のそまる迄  「子規・ 時雨」

わびしさや藜にかゝる夏の月  「子規・夏の月」

五月雨は藜の色にしくれけり  「子規・五月雨」

五月雨は藜の色を時雨けり   「子規・五月雨」

空寺や藜箒木など茂る     「子規・草茂る」

箒木にまじりて青き藜哉    「子規・藜」

老かはで藜の杖にのこしけり   「子規・ 藜」

 「句意」は、「この神が切り割いて作ってくれた」、この『藜(あかざ)の杖』よ、どうか、この旅路の最期まで、突き古していただきことよ。」

 

6-30  売薬が黒き扇の暑かな

  季語は「暑さ()(三夏)。「売薬」は、「あらかじめ調剤しておいて売る薬、また、その薬売る人」のこと。「黒き扇」は、「黒い(「厄災から身を守る」という意があるとされる)、紙扇の『夏扇』」で『蝙蝠扇』(「蝙蝠」=「コウモリ」=「幸守り・幸盛り」で吉祥ものの意もあるとされている)ともいわれる。

 「句意」は、「この暑さの『売薬』には、何はともあれ、身近にある、『災厄から身を守る』という「黒い」、そして、団扇ではなく、『幸守り・幸盛り』の意が込められているという『蝙蝠扇』で、当面凌ぐとするか。」

  この抱一の句は、其角の「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら」(『去来抄(「同門評」)) の句に関連しての、「聞句(ききく)(「謎句」「謎句仕立て」など)の系統に属する句で、句意が人によって、色々に取れる、多義性の「句作り」といえよう。そして、この「謎句」については、その背景に、その時代の「世相・風俗」などの「風刺」的な作意と深く関与しているものが多く、この句も、当時の、次の「枇杷葉湯(ようとう)売り」(鍬形蕙斎画)などと深く関与している一句なのかも知れない。

 ちなみに、この「枇杷葉湯(ようとう)売り」を描いた「鍬形蕙斎」(浮世絵師・北尾政美)は、「太田南畝・亀田鵬斎・谷文晁」らと共に、抱一と深い関係にある「八尾善」(『江戸流行料理通』発刊)の常連メンバーの一人でもある。

(参考)

 「近世職人尽絵詞」中「枇杷葉湯売り」(鍬形蕙斎画)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/481541

https://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10309097502.html

≪ 「江戸の生業・枇杷葉湯売り」 

  枇杷黄なり空はあやめの花曇り  素堂

 江戸の頃は現在では考も及ばないような商いがいくつかあります。そのひとつが枇杷葉湯(ビワヨウトウ)売りです。

 広辞苑によれば、

『ビワ』の葉に肉桂・甘草・莪蒁(がじゅつ)・甘茶などを細かく切って混ぜ合わせたもの煎汁。清涼飲料として用い、暑気あたりや痢病を防ぐ効能がある。京都烏丸に本家があり、江戸では馬喰町山口屋又三郎の店がこれを扱い宣伝用に路傍で無料で飲ませた』

 とありますが、天明元年(1781年)には、江戸の街を売り始めたといいます。

  『真っ黒になって商う烏丸』(柳多留57)

  『真っ昼間目ばかり光る烏丸』』(柳多留121)

 4月上旬から8月下旬までの商いです。

  『売りながら枇杷葉湯は達くらみ』(俳諧ケイ20)

 中には夏の暑さにあてられる枇杷葉湯売りも出ます。

 精選版 日本国語辞典 小学館)には

『山口屋又三郎が販売した。「本家京都烏丸、枇杷葉湯山口又三郎」と記した長方形の箱の中に、茶釜・茶碗などを入れ、天秤で担いで、往来で煎じて飲ませた…、店頭に調整していたものを通行人には無料で飲ませた』 とあります。 (以下略) ≫ 

土曜日, 7月 22, 2023

第六 潮のおと(6-21~6-26)

    是齢文化丙寅春二月二十九日

    晋子の百年忌たるにより、

肖像百幅を畫き、上に一句を

題して人々にまゐらせける。

又追幅の一句をなす。

6-21 囀れや魔佛一如の花むしろ

6-22 田から田に降りゆく雨の蛙かな

6-23 護田鳥の鳴く木屋が置場や宵の月

6-24 剖葦や燈火もるゝ夜の川

6-25 鷲の棲む其木末とは柏餅

6-26 さきのぼる葵の花や段階子

 

    是齢文化丙寅春二月二十九日

    晋子の百年忌たるにより、

肖像百幅を畫き、上に一句を

題して人々にまゐらせける。

又追幅の一句をなす。

6-21 囀れや魔佛一如の花むしろ

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

 (再掲)

 


酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

 ≪「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

  この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。

 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

 一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)

二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)

三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)

四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

  この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

 【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

  この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。

 そして、次のように続ける。

 【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。

 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

   乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)

  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

  この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。

 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。

 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。

 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。

 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。   ≫

  掲出句の前書の「是齢文化丙寅春二月二十九日晋子の百年忌たるにより、肖像百幅を畫き、上に一句を題して人々にまゐらせける。又追幅の一句をなす」の「文化丙寅春二月二十九日」は、「文化三年(一八〇六)二月二十九日」、抱一、四十六歳の時である。

 この句もまた、季語が、上五の「囀れ(囀り)(三春)と、下五の「花むしろ()(晩春)

と二つあるが、主たる季語は、上五「や切り」の「囀れ(囀り)(三春)と解したい。

 この中七の「魔佛一如」は、「魔界の魔王と仏界の仏とは全く同一であって、別のものではない」(『仏教語大辞典』)の意で、「魔仏一如絵詞(詞書5段,絵4)」や、謡曲「善界」の「もとより魔仏一如にて凡聖不二なり」などに由来があるようである。

 其角没後の追善集『類柑子』に収載されている「歌の島幷恋の丸」にも、「風雅の狐狸なれば、弶(わな)をのがれて産業となる事、和光同塵のことはり、魔仏一如の見ゆる成べし」という一節があり、それを踏まえてのものとの解もある(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

 「句意」は、「魔仏一如のごとく、魔の花も仏の花も、皆々咲き誇る一面の花野に、一筋の光明を照らすように、高らかな囀りを聞かせてほしい。(その「囀り」は、「晋子終焉記」

(『類柑子』)所収)の「其角」先師の一声に違いない。)

 

6-22 田から田に降りゆく雨の蛙かな

 此(この)ほたる田ごとの月にくらべみん (芭蕉「元禄元年/1688/みづのかほ」)

元日は田ごとの日こそ恋しけれ      (芭蕉「元禄2/1689/真蹟懐紙」)

帰る雁(かり)田毎の月のくもる夜に          (蕪村「年次未詳/1775/蕪村句集」)

さみだれや田ごとの闇と成にけり     (蕪村「安永4/1775/新花摘」)

さつき雨田毎の闇となりにけり      (蕪村「安永4/1775/蕪村句集」)

落水(おとしみず)田ごとのやみとなりにけり(蕪村「安永4/1775/自筆句帳」)

月に聞(きき)蛙(かわず)ながむる田面(たのも)(蕪村「安永4/1775/自筆句帳」)

  掲出句の「季語」は「変える(買わず)」(見張る)。「宝谷」というイメージは、芭蕉の「田ごとの月・田ごとの日」、そして、蕪村の「田毎の月・田ごとの闇/さみだれと田ごと・さつき梅と田毎/田毎の月と蛙」などの「本句取り」(唱和と反転化)の一句として鑑賞もあろう。

「句意」は、「ここ隅田川近郊の千束の里にも、田に水が張られ、蛙が一斉に鳴き始める季節となった。殊に、降り続く雨の田は、これぞ、田から田へ、田ごとの『蛙』の合唱の趣である。」

 


歌川広重【六十余州名所図会 信濃 更科田毎月 鏡台山】

https://matsutanka.seesaa.net/article/387138900.html

  

6-23 護田鳥(ばん)の鳴く木屋が置場や宵の月

 季語は「護田鳥(うすべ)・鷭(ばん)の古名・溝五位(みぞごい)の異名」(「鷭」=三夏)。「鷭の笑い()」=「鷭の低い鳴き声を笑い声に例えた言い回し」=「鷭(バン)の体長はハトくらいの大きさ。腋と下尾の白斑が目立つ。全国の池、湖沼、水田、湿地等で繁殖する。草の中や水辺を歩いたり水を泳いで餌を漁る。尾を高く上げクルルクルルとよく鳴きながら泳ぎ、水面を足で蹴って助走してから飛び立つ。この草の中でクルルクルルと鳴く声は『鷭の笑い』と言われてきた。(「増殖する俳句歳時記/ May 132016)

 


絵本江戸土産の第二編の『深川木場(ふかがわきば)』」(初代「広重」画)

http://arasan.sakura.ne.jp/wpr/?p=339

≪「この辺、材木屋の園(その)多きにより、名を木場(きば)という。その園中(えんちゅう)おのおの山水(さんすい)のながめありて風流の地と称せり。」≫

 「句意」は、「ここ深川の木屋の置き場には、夏の宵の月が掛かっている。折から、水辺の鷭(ばん)が、『クルルクルル』と、『日がクルルクルル』とも、『クルルクルル・ケケケッ』と『鷭の笑い声』のようにも聞こえて来る。」

  

6-24 剖葦や燈火もるゝ夜の川

  この句の季語は、次句が「柏餅」(初夏)の句で、それからすると、この上五の「剖(割き・さき)葦」は、「青葦簾=青簾」(三夏)と解したい。下五の「夜の川」との「取り合わせ」の句と解すると「納涼船」(晩夏)の「青簾」の


「『東京二十景」より 荒川の月(赤羽)』」(「川瀬巴水 (1883-1957)/東京国立近代美術館蔵)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/53038

 「句意」は、「青葦の漉き割りする家の燈火も、納涼船の青簾の燈火も、今、まさに、この夜の、隅田川(旧荒川)の面に、漏れ照らしている。」

 

6-25 鷲の棲む其木末とは柏餅

  季語は「柏餅」(初夏)。「鷲」も「三冬」の季語だが、ここは、「柏餅」(初夏)の、「鷲の棲む其木末()」で、季語の働きはしていない。

 この句の、上五と中七の「鷲の棲む其木末」とは、次の凡兆の句が相応しい。(「きごさい歳時記」)

 鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ   凡兆「猿蓑」

 

「名所江戸百景 深川洲崎十万坪(「歌川広重」画/東京富士美術館蔵)

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=10184

 「句意」は、「ここ、江戸、深川洲崎十万坪の、それを支配する、鳥の王者・『大鷲の棲む木末』には、『五月冨士』ならず『五月の柏餅』が、時節的に似つかわしい。。」

 

6-26 さきのぼる葵の花や段階子

 季語は「葵の花」(仲夏)。「段梯子(「だんばしご)」は、「幅の広い板をつけたはしご状の階段」のこと(「デジタル大辞泉」)。この句は、「見立て」(「俳諧で、あるものを他になぞらえて句をつくること」)の面白さを狙っての一句と解したい。

「句意」は、「葵の花が、中天に向かって、段梯子のように、上へ上へと、咲き上っている。」

 


酒井抱一筆「立葵紫陽花に蜻蛉図」(「十二か月花鳥図・六月」・宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

https://my-art.jp/?mode=f9

 

木曜日, 7月 20, 2023

第六 潮のおと(6-16~6-20)

    霜葉紅於二月花

6-16  もみぢ折人や車の酔ざまし

 

『山行』杜牧

http://chugokugo-script.net/kanshi/sankou.html

  前書の「霜葉紅於二月花」は、杜牧(とぼく)の「山行(さんこう)」の、次の七言絶句の第四句のものである。

遠上寒山石径斜 (遠く寒山に上れば石径《せっけい》斜《ななめ》なり)

白雲生処有人家 (白雲生ずる処《ところ》人家有り)

停車坐愛楓林晩 (車を停めて坐《そぞろ》に愛す楓林の晩)

霜葉紅于二月花 (霜葉は二月の花よりも紅《くれない》なり)

 「霜葉」は「霜にあたった葉」で紅葉した葉っぱのこと、「二月の花」は「旧暦二月のころ咲く花」(桃の花)の意である。

 掲出の句の季語は「もみぢ」(紅葉)、「晩秋」の季語である。この中五の「人や車の」は、「山行」(杜牧)の三句目の「停車坐愛楓林晩 (車を停めて坐《そぞろ》に愛す楓林の晩)」を踏まえてのものなのであろう。その漢詩に、謡曲「紅葉狩り」の詞章の「。夢ばし覚ましたもうなよ.夢ばし覚まし.たもうなよ。」などわ利かせていると解せられる。

 また、上五の「紅葉折る」というのは、「紅葉を折る」という動作というよりも、「紅葉狩り」(「紅葉見に出て、愉しむ」)という意での用例なのであろう。

 「句意」は、「漢詩『山行』(杜牧)の『霜葉紅於二月花』よろしく、紅葉狩りに出かけて、ついつい、その紅葉のように赤ら顔となり、乗り物から降りて、酔い覚ましをしていると、謡曲の『紅葉狩り』の、「夢ばし覚ましたもうなよ.夢ばし覚まし.たもうなよ」などのセリフが口を突いて出てくる。」

     歳暮

6-17  ちよと鳴けとしくれ竹の庭雀

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-10

 (再掲)

 

酒井抱一筆「竹雀図」(『絵手鑑帖・七十二図・静嘉堂文庫美術館蔵』の五十四図)紙本墨画淡彩 「抱一筆」(墨書) 「文詮」(朱文内瓢外方印)  C

【 このような様々な主題・技法の作品を寄せ集めた作品形式のひとつのアイディアとして、『光琳百図(後編)』所載の雑画セット全二十四図をあげておきたい。このセットの形状は画帖であったかは不明ながら、そのなかに「富士山図」「竹雀図」「寒山拾得図」「大黒天図」「梅図」「芙蓉図」などが含まれ、様式は抱一の『絵手鑑』と異なるものの、主題など共通点も多い。もちろん『絵手鑑』は江戸時代の画帖の大きな流れのなかに位置する作品であるが、光琳のこのような作品からも形式や編集の方法を学んでいるのではないかと思われる。 】(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一筆『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)

  掲出の句の季語は、中七の「としのくれ竹」の「年の暮れ(歳暮)(暮・仲冬)。この「年の暮れ(歳暮)」と「くれ()竹=呉竹=中国から伝来した竹の一種=くれたけ=こちく(胡竹)=それで作った横笛」とを掛けての用例である。

 この上五の「ちよと鳴け」の「ちよ」も、雀の鳴き声の「ちよ」と、「行く年・来る年」の、次の「新しい年も『千代(千世)』=『千年。また、非常に長い年月。ちとせ』に『永久の栄え』よ」との意が掛けられている。

「句意」は、「この歳暮の草庵の狭庭の呉竹に群れ雀が鳴いている。その「ちよ・ちょ」との鳴き声は、この「太平の世が永久に栄あれ」と、「ちよ(千代)に・やちよ(八千代)に」と鳴いている。」

 

    読王充論衝

6-18 わか草や鶴の踏(ふみ)たる跡は皆

≪ 三つ典拠がある。第一は、『論衝(ろんこう)累害(るいがい)篇の「牛馬根を践()み、刀鎌(たうけん)を割れば、生ぜし者育たず」である。同書は,後漢の王充が『論語』など先行する思想書に反駁を唱えたものである。第二は、北宋の林和靖が仕官せぬまま、隠棲して生涯娶らず、梅を妻とし、鶴を子としたという故事である。第三は、貞享三年(一六八八)、其角が新年を悠然と歩む鶴を詠んだ「日の春をさすがに鶴の歩み哉」(『丙寅初懐紙』)である。

 抱一句は、「牛馬が根を踏みつけたら万物は育たないが、鶴が歩んだあとからは若草が生えている」と『論衝』を反転している。この鶴を介して、林和靖から隠遁、其角から新年のめでたさへと連想は広がるのだが、『論衝』の累害篇そのものは色あいが異なる。累害とは中傷を意味し、この一篇は累害について思索をめぐらせ、吉祥性とは径庭(けいてい)がある。抱一は出家したのち、市井をさまよっていた時期の句であることを知る後世の立場からは、中傷されて出家、隠遁したが、文人的な生活を送ることで再生し、なんとかるでたく春を迎えた、と一抹の苦さを観察したくなる。

 林和靖は西湖(浙江省)のほとり、抱一は浅草寺の弁天池あるいは隅田川のほとり、ともに水辺に隠れ住んだことも重ねられているのかもしれない。実感に裏打ちされた抱一自身の陰翳が、韜晦の彼方に見えるような一句である。陰翳に満ちた場と、それに応ずるような内たる陰翳。抱一において、『論衝』が推奨した詩歌を学習する効果は、其角を通じ、このように開花していったのである。≫(『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)p134)

 掲出の句の季語は「わか草=若草」(晩春)なのだが、其角の「日の春(三春新年)をさすがに鶴(三冬)の歩み哉」(丙寅初懐紙)の「本句取り」(「唱和」と「反転」)の句と解すると、この「若草(晩春)→わか草(新年)」の「新年」の詠草となり、「若草」(晩春新年)と「鶴」(三冬)との「取り合わせ」の一句ということになる。

「鶴」も季語(三冬)だが、この句の「鶴」は「若草(晩春)→わか草(新年)」を踏む鶴」で、季語の働きはしていない。

 この句は、前書の「読王充論衝」の意が分からないと、その真意は十全でないのかも知れないが、其角の「日の春(三春→新年)をさすがに鶴(三冬)の歩み哉」の「本句取り」(「唱和」と「反転」)の句と解しても、この句のイメージは伝わって来る。

   日の春をさすがに鶴の歩(あゆ)みかな  (其角)

  わか草や鶴の踏(ふみ)たる跡は皆    (抱一)

 「句意」は、「若草の新芽が萌え出ずる、この新春の日に、鶴が悠然と歩いている。その姿は、冬の間に、その根を踏みつけないようにと、ゆったりと歩んでいたことを証するように、一面の若野と化している。」

 

安藤広重画「名所江戸百景」のうち「蓑輪 金杉 三河しま」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-21

 

        初子の日、長浦とゆふ所にて

6-19  松眞木も引けや若菜の茹加減

 前書の「初子の日、長浦とゆふ所にて」の、「初子の日」は、「新年」の季語で、「正月の最初の子の日。古く、野外に出て小松引きをしたり、若菜を摘んだりして遊び、子の日の遊びと呼んだ。初子の日」のことである。そして、「長浦とゆふ所にて」は、「百花園」の近くの「長浦神社」(墨田区東向島)付近のことであろう。

 

喜多川歌麿「絵本四季花」より『若菜摘み』 寛政13年〈1801年〉 (ボストン美術館蔵)

https://www.benricho.org/koyomi/nanakusa-wakana.html

  掲出の句の季語は、「若菜」(新年)で、「七種粥に入れる菜の総称。新春の菜は香りが強く精気に満ちている。その気をいただいて、一年を健やかに過ごそうというのが七種粥。春の七草は芹、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)をいう。今ではパックにしてスーパーなどで売られている。」(「きごさい歳時記」)

 この句には、蕉門の、次の「例句」(「きごさい歳時記」)などが、似つかわしい。

 (例句)

蒟蒻に今日は売かつ若菜哉    芭蕉「俳諧薦獅子集」

霜は苦に雪に楽する若菜哉   嵐雪「きれぎれ」

老の身に青みくはゆる若菜かな 去来「追鳥狩」

つみすてゝ踏付がたき若な哉  路通「猿蓑」

 「句意」は、「今日は、新春の『初子の日』、「七種粥」の日だ、「芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)」と、ここ、東向島の『長浦神社』付近の野で摘んだんものだ。その「七種粥」も、丁度、良い「茹で上がりだ。」 そろそろ、松飾りの『松真木』も、御用納めの時だ。」


6-20  乙鳥の棚うちつけよ花のやど

 

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035815

(同上:部分拡大図)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-17

≪ 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。

この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。

 燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」

 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」

 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」

 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」

 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」

 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」

 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」

 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」  ≫

  「花の宿」(晩春・「花の咲き盛る家屋敷のこと」)も季語だが、この句の主たる季語は、上五の「乙鳥や」の「乙鳥」(仲春)で、この「花の宿」は、「花の咲き初めるころの家屋敷」の、仲春の景に解したい。

「句意」は、「初燕が行き交うころとなった。その初雀の巣作りの棚を、どうか、その花が咲き初めた家の一角に、作っていただきたい。」

 

(追記) 「乙鳥の棚うちつけよ花のやど」句周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

 (再掲)

 

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 ≪ デンバー美術館所蔵となっている、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)は、まさしく、「桜」と「柳」とを主題としたものである。

  乙鳥の塵をうごかす柳かな    其角 (『五元集』)

  花びらの山を動かす桜哉     抱一 (『屠龍之技』)

  見渡せば柳桜をこきまぜて

       都ぞ春の錦なりける  素性法師(『新古今』巻一)   

  其角句と抱一句を「唱和」(抱一句は其角句の「本句取り」)とすると、この二句は、素性法師の「本歌取り」の句ということになる。其角はともかくとして、抱一は、この句に唱和し、それを反転させる際に、間違いなく、この素性法師の古歌が、その反転の要因になっていることは、上記のように並列してみると明瞭になってくる。

 この素性法師の歌には「 花ざかりに京を見やりてよめる」との前書きがある。抱一は、それを「江戸の太平の世を見やりてよめる」と反転しているのかも知れない。 ≫

 

土曜日, 7月 01, 2023

第六 潮のおと(6-8~6-15)

    立秋

6-8  先一葉秋に捨たるうちは哉

    七夕

6-9   空に二ツほしきもの有り機道具

6-10 人有や暴風の中を飛ぶ筵

6-11 いなづまや夜と昼との田一枚

6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉

6-13 臺笠も立笠も有り作り萩

6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

 

   立秋

6-8  先一葉秋に捨たるうちは哉

抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  この「団扇図」の「賛」(発句=俳句)は、『屠龍之技』所収「千づかのいね」編の、次の句であろう。

 井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「第五 千づかのいね( 5-48)

 (再掲)

 https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-465-49.html

  この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧()き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

  そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫


 掲出の句の、主たる季語は、上五の「先(まづ・まず)一葉」の「一葉・ひとは・桐一葉・一葉落つ・桐散る・一葉の秋・桐の秋」(初秋)。「秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。」(「きごさい歳時記」)

 そして、従たる季語が、中七・下五に掛けての「秋に捨たるうちは・秋団扇・捨て団扇」(初秋)。「秋風の通うころになって扇、団扇を必要としなくなること。立秋が過ぎても残暑は厳しく、扇や団扇はなかなか離せないもの。扇をしまうころには秋も一気に深まり、空気も身にしむようになってくる。」(「きごさい歳時記」)

 さらに、この句の前書の「立秋」も「初秋」の季語で、「子季語」に「秋立つ・秋来る・秋に入る・今朝の秋・今日の秋」などがある。「二十四節気の一つ。文字どおり、秋立つ日であり、四季の節目となる「四立」(立春、立夏、立秋、立冬)の一つ。この日から立冬の前日までが秋である。新暦の八月七日ころにあたる。実際には一年で一番暑いころであるが、朝夕の風音にふと秋の気配を感じるころでもある。≪秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行『古今集』≫ 」(「きごさい歳時記」)

 その上で、この抱一の句は、次の嵐雪の辞世吟を想い起こさせる。

    辞世

  一葉ちる咄(トツ)一葉ちる風のうへ(嵐雪『玄峰集(上・下)』巻末)

  この「咄(トツ)」は、禅用語で、「激しくしかるときに発する語」の意味に解せられている。

 https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/784f159bc1aeaabff0a65cbff8d547e0

  それと同時に、「驚き怪しむときに発する語」(「デジタル大辞泉」)の意も加味されていると解したい。

「句意」は、「今日は、立秋の日。それを知ったのは、先ず、この『桐一葉』、嵐雪先師の『咄(トツ)』の一句、さも有らん、この立秋の『秋立つ』日に、その『桐一葉』は、其角先師の『涼みの団扇』ならず、『捨て団扇』の名が相応しい。」

 

     七夕

6-9   空に二ツほしきもの有り機道具

 この抱一の句自体の「季語」は、「空に二ツ」の「二つ星・二星(にせい・じせい)」(初秋)。「初秋の季語。陰暦七月七日の七夕に、年に一度天の川を渡って出会う織姫星と彦星のこと。実際の星の名は琴座のベガと鷲座のアルタイル。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

天にありて比翼とちぎる二星かな 季吟「山の井」

  前書の「七夕(たなばた)」(初秋)の季語。「七夕(たなばた)」(初秋)=「夏から秋に季節が変わるころ、『棚機女(たなばたつめ)』と呼ばれる少女が、人里離れた水辺の『棚』の中で『機』を織りながら、水の上を渡って訪れる神を待つという言伝えがある。この『棚』と『機』が『たなばた』の語源である。この言伝えが、奈良時代になって、裁縫上達を願う中国の『乞巧奠』の行事と結びついて、現在の『七夕』の行事になったとされる。中国の『乞巧奠』では五色の糸や針を供えて、星に裁縫の上達を願った。これが発展して七夕の夜にはさまざまの願いごとを短冊に書いて竹に飾るようになった。七夕の夜には、天の川をはさんで、彦星と織姫星が接近することから、年に一度の逢瀬にたとえられ、さまざまな伝説が各地で生まれた。また、七夕は、盆の前のみそぎの行事でもあり、笹竹や供え物を川や海に流し、罪や穢れを祓う儀式も行われた。これが『七夕流し』である。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

七夕や秋を定むる初めの夜   芭蕉「有磯海」

葛飾応為『女重宝記』五「たなばたまつり」(「すみだ北斎美術館蔵」)

https://serai.jp/event/1002167

「句意」は、「七夕の日、空には、二星(織姫星と彦星の夫婦星)が輝き、願い事に『織姫星の機織り道具が欲しい』と短冊に書いた。」

  

6-10 人有(あり)や暴風(のわき)の中を飛ぶ筵

  文化元年(一八〇四)の秋、千束村に居た頃の句で、『軽挙館句藻』の「千束のいね」所収の句で、そこには、「野分(のわき)」との前書を付して、中七の「暴風」に「のわき」と詠ませている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 


鈴木春信画「野分の中を歩く二人の女」(「ボストン美術館蔵」)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Harunobu_WindyDay/#group1-8

  掲出の句の季語は、「暴風(のわき)・野分」(仲秋)。「野の草を吹き分けて通る秋の強い風のこと。主に台風のもたらす風をさす。地方によっては「やまじ」「おしあな」などと呼ぶところもある。『枕草子』(百八十八段)では「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」とあり、野分の翌日はしみじみとした趣があるとする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  芭蕉「武蔵曲」

吹き飛ばす石は浅間の野分かな   芭蕉「更科紀行真蹟」

猪もともに吹かるゝ野分かな    芭蕉「蕉翁句集」

鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな    蕪村「蕪村句集」

ぽつぽつと馬の爪切る野分かな   一茶「文化句帖」

  掲出の抱一の句は、上記の例句の中では、「吹き飛ばす石は浅間の野分かな/芭蕉「更科紀行真蹟」」のイメージに近い。

「句意」は、「隅田川河岸の千束村、そして、それに続く、浅草寺弁天池周辺の『野分』は、その近郊の『吉原』のイメージを彷彿させる『野分の中を歩く二人の女』の人影などは微塵もなく、芭蕉翁の『吹き飛ばす石は浅間の野分かな』の、『吹き飛ばす筵』という光景である。」

  

6-11 いなづまや夜と昼との田一枚

 

歌川国芳画「橋立雨中雷」(「ボストン美術館蔵」)

https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc169039

  掲出の季語は、「いなづま・稲妻(いなずま・いなづま)」(三秋)。「空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

稲妻を手にとる闇の紙燭かな  芭蕉「続虚栗」

稲妻に悟らぬ人の貴さよ    芭蕉「己が光」

あの雲は稲妻を待つたより哉  芭蕉「陸奥鵆」

稲妻やかほのところが薄の穂  芭蕉「続猿蓑」

いなづまや闇の方行五位の声  芭蕉「続猿蓑」

稲妻や海の面をひらめかす   芭蕉「蕉翁句集」

いなづまやきのふは東けふは西 其角「曠野」

いなづまや堅田泊りの宵の空  蕪村「蕪村句集」

稲妻に近くて眠り安からず   夏目漱石「漱石全集」

  抱一の句は、抱一の「其角好き」に因んでの、「いなづまやきのふは東けふは西/其角『曠野』」、そして、「抱一好き」の、「漱石」に因んでの、「稲妻に近くて眠り安からず」の、それらのイメージに近い。

「句意」は、「江戸っ子の其角先師の『いなづまやきのふは東けふは西』のとおり、この千束村近辺の田に「稲光」が、『夜となく、昼となく、それも、全く同じ、近くの田んぼ』にやって来て、これでは、とても、江戸っ子の「漱石・某」やらの、『稲妻に近くて眠り安からず』なのです。」

  

6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉

  掲出の句の「季語」は「きぬた・砧(きぬた)」(三秋)。「木槌で布を和らげるために棒や杵などで打つ台をいう。麻・葛などの繊維はかたいので、打って和らげる。女性の夜なべ仕事とされた。秋の夜長、遠くに聞こえるその音はもののあわれを誘う。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

声澄みて北斗にひびく砧かな      芭蕉「都曲」

碪打ちて我に聞かせよや坊が妻    芭蕉「野ざらし紀行」

針立や肩に槌うつから衣       芭蕉「江戸新道」

猿引は猿の小袖をきぬた哉      芭蕉「猿舞師」

このふた日きぬた聞えぬ隣かな    蕪村「夜半叟句集」

聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ    夏目漱石「漱石全集」


葛飾応為画「月下砧打ち美人図」(  113.4×31.1/款「應為栄女筆」印「應」(白文方印)/東京国立博物館蔵)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034762

 「句意」は、「芭蕉翁の、『碪打ちて我に聞かせよや坊が妻』の『坊が妻』ならず、名も知れない『旅人』に、『砧を貸して』、その『旅人の砧打つ音』を、しんみりと味わっている。」

 

6-13 臺笠も立笠も有り作り萩

 

鈴木其一筆「萩月図襖」(絹本着色 襖(四面)/168.8×68.5cm(各)/東京富士美術館蔵)

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3579

≪ 萩と月は秋を表す好画題といえよう。左右から伸びた紅白の萩は緩やかな動きをもって、対角線上に配置されている。花房と葉の表現には、輪郭線を引かず色の階調を作る付け立ての技法がとられ、葉の葉脈には金泥が施されている。月下の葉色に変化をつけ、絹地の背景に銀泥を引くことで月光を演出するなど、こうした其一の細部へのこだわりが画面に程よい緊張感をもたらすとともに、江戸琳派特有の美麗で瀟洒な品格を醸し出している。≫

 「台笠」=近世、大名行列などのとき、袋に入れ長い棒の先につけて、小者に持たせたかぶり笠。(「デジタル大辞泉」)

 

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

 「立笠(傘)」=江戸時代に用いられた長柄の大傘。ビロードやラシャなどで作った袋に入れ、大名行列などの際に供の者に持たせた。(「精選版 日本国語大辞典」)

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

  掲出の句の「季語」は、「作り萩」の「萩」(初秋)。「紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」

一家に遊女もねたり萩と月   芭蕉「奥の細道」

行々てたふれ伏すとも萩の原  曽良「奥の細道」

小狐の何にむせけむ小萩はら  蕪村「落日庵句集」

萩散りぬ祭も過ぬ立仏     一茶「享和句集」

 「句意」は、「向島に開園した、百花園の秋の『萩見』の趣向も、多種・多彩で、中には、池を這うように「台笠」仕立ての萩、その上に重なるように「立笠」仕立ての萩と、周囲には、秋の七草が靡き、さながら、秋の七草の大名行列のようである。

 

(補記)「向島百花園について」

 https://tesshow.jp/sumida/sight_emukojima_hyakka.html

 ≪ 百花園を造ったのは佐原鞠鵜で、文化元年(1804)のことでした。鞠鵜は宝暦12年(1742)仙台に生まれました。(一説に明和3年生まれ)。天明年間(1781-1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大名に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留町)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・蜀山人(太田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。

その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。

百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。

こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。

鞠鵜は天保2年(18318月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。

この庶民の庭に、文政12年(18293月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。

この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。≫

 

 「東都三十六景 向しま花屋敷七草」(二代歌川広重画/出版者:相ト/国立国会図書館蔵)

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail338.html?sights=mukojimahyakkaen


6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

  『軽挙館句藻(千束のいね)』には、この「6-15 鶴の子の額は赤き梢かな」の前書に、「閏八月二十四日橘千蔭のとおなしく千束の里なる文字楼の別荘に遊びてあまたの柿を植えあつめ給ふ人の許にまかりけるに禅師妙見御所蜂谷その外の名かそへも不尽」が付せられているようである。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)

 この二句は、その「浅草千束村」(千束の里)の柿畑などを見ての句と解する。なお、この「閏八月二十四日」は「文化二年(一八〇五)八月二十四日」、そして、この「文字楼の別荘」は、「新吉原」の妓楼「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)であろう。この「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)については、下記のアドレスなどて触れている。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

  また、「禅師妙見御所蜂谷」というのは、その柿畑に植えられている柿の種類(禅師柿(禅寺丸)・妙見柿(妙丹柿)・御所柿・蜂谷柿)であろう。

 

6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

  「季語」は、「柿」(晩秋)。「カキノキ科の落葉高木。東アジア温帯地方固有の植物で、果実を食用にする。かたい葉は光沢がある。雌雄同株。富有、御所、次郎柿などの甘柿は熟すると黄色が赤くなりそのまま食する。渋柿は、干し柿にすると甘くなる。青い実の渋柿からは、防水防腐に使われる「柿渋」がとれる。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

里古りて柿の木持たぬ家もなし        芭蕉「蕉翁句集」

祖父(おほぢ)親まごの栄や柿みかむ(蜜柑) 芭蕉「堅田集」

 「けろり」=「何事もなかったように平然としているさま、また、図々しいくらい平気なさまを表わす語。」(「精選版 日本国語大辞典」)

「けろり」(擬態語)の一茶の句(「一茶の俳句データベース」)

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

(例句)

鳴た顔けろりかくして猫の恋              一茶『八番日記』

山きじや何に見とれてけろりくわん   一茶『七番日記』

夕雉や何に見とれてけろりくわん   一茶『浅黄空』

けろりくわんとして雁と柳哉             一茶『七番日記』

けろりくわんとして烏と柳哉             一茶『文政版他』

夕立やけろりと立し女郎花                一茶『七番日記』

大水や大昼顔のけろり咲          一茶『七番日記』

名月にけろりと立しかゞし哉             一茶『七番日記』

はつ雪や上野に着ばけろり止             一茶『八番日記』

10はつ雪や腹拵へはけろり止           一茶『自筆本』

11おち葉してけろりと立し土蔵哉    一茶『七番日記』

 「句意」は、「新吉原の遊郭地に近い『千束の里』の一画に、色々な種類の『柿』を植えた畠があって、今や、その収穫も殆ど終わって一休みの状態なのだが、何故か、二本だけ、図々しいくらい、『取っては駄目よ』と、実がたわわのままの木がある。(これはきっと、この『千束の里』の『鳥さんたち食い扶持を遺しているのかも。)』

 

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

 

「鶴柿(鶴の恩返し)・昔話(山口昔ばなし9)」

https://ameblo.jp/shufreeter7978/entry-12735136556.html

https://www.yamaguchibank.co.jp/portal/special/story/story09/p03.html

 「季語」は、「鶴の子」=「鶴の子柿」(「(鶴の子)柿」=晩秋)・「鶴の子柿の吊し柿」(「鶴の子柿)甘干し=吊し柿/釣柿/干柿/ころ柿」=晩秋)。掲出句の句は、「「鶴の子柿の吊し柿」ではなく、収穫前の柿の木の梢の「鶴の子柿」(晩秋)の句である。(「昔話」の「鶴柿」などに視点を置いての句意などもあるが、ここでは、前句の「柿畠やけろりと二本休みとし」との、連作ものとしての句意にして置きたい)

「句意」は、「この柿畠の、二本だけ取り残している柿の木は、渋柿の『吊(つる)柿』用の『鶴子の柿』で、その「梢(木末)」の実(実の「額」)は、たわわに、赤く実っている。」