土曜日, 7月 01, 2023

第六 潮のおと(6-8~6-15)

    立秋

6-8  先一葉秋に捨たるうちは哉

    七夕

6-9   空に二ツほしきもの有り機道具

6-10 人有や暴風の中を飛ぶ筵

6-11 いなづまや夜と昼との田一枚

6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉

6-13 臺笠も立笠も有り作り萩

6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

 

   立秋

6-8  先一葉秋に捨たるうちは哉

抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  この「団扇図」の「賛」(発句=俳句)は、『屠龍之技』所収「千づかのいね」編の、次の句であろう。

 井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「第五 千づかのいね( 5-48)

 (再掲)

 https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-465-49.html

  この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧()き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

  そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫


 掲出の句の、主たる季語は、上五の「先(まづ・まず)一葉」の「一葉・ひとは・桐一葉・一葉落つ・桐散る・一葉の秋・桐の秋」(初秋)。「秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。」(「きごさい歳時記」)

 そして、従たる季語が、中七・下五に掛けての「秋に捨たるうちは・秋団扇・捨て団扇」(初秋)。「秋風の通うころになって扇、団扇を必要としなくなること。立秋が過ぎても残暑は厳しく、扇や団扇はなかなか離せないもの。扇をしまうころには秋も一気に深まり、空気も身にしむようになってくる。」(「きごさい歳時記」)

 さらに、この句の前書の「立秋」も「初秋」の季語で、「子季語」に「秋立つ・秋来る・秋に入る・今朝の秋・今日の秋」などがある。「二十四節気の一つ。文字どおり、秋立つ日であり、四季の節目となる「四立」(立春、立夏、立秋、立冬)の一つ。この日から立冬の前日までが秋である。新暦の八月七日ころにあたる。実際には一年で一番暑いころであるが、朝夕の風音にふと秋の気配を感じるころでもある。≪秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行『古今集』≫ 」(「きごさい歳時記」)

 その上で、この抱一の句は、次の嵐雪の辞世吟を想い起こさせる。

    辞世

  一葉ちる咄(トツ)一葉ちる風のうへ(嵐雪『玄峰集(上・下)』巻末)

  この「咄(トツ)」は、禅用語で、「激しくしかるときに発する語」の意味に解せられている。

 https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/784f159bc1aeaabff0a65cbff8d547e0

  それと同時に、「驚き怪しむときに発する語」(「デジタル大辞泉」)の意も加味されていると解したい。

「句意」は、「今日は、立秋の日。それを知ったのは、先ず、この『桐一葉』、嵐雪先師の『咄(トツ)』の一句、さも有らん、この立秋の『秋立つ』日に、その『桐一葉』は、其角先師の『涼みの団扇』ならず、『捨て団扇』の名が相応しい。」

 

     七夕

6-9   空に二ツほしきもの有り機道具

 この抱一の句自体の「季語」は、「空に二ツ」の「二つ星・二星(にせい・じせい)」(初秋)。「初秋の季語。陰暦七月七日の七夕に、年に一度天の川を渡って出会う織姫星と彦星のこと。実際の星の名は琴座のベガと鷲座のアルタイル。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

天にありて比翼とちぎる二星かな 季吟「山の井」

  前書の「七夕(たなばた)」(初秋)の季語。「七夕(たなばた)」(初秋)=「夏から秋に季節が変わるころ、『棚機女(たなばたつめ)』と呼ばれる少女が、人里離れた水辺の『棚』の中で『機』を織りながら、水の上を渡って訪れる神を待つという言伝えがある。この『棚』と『機』が『たなばた』の語源である。この言伝えが、奈良時代になって、裁縫上達を願う中国の『乞巧奠』の行事と結びついて、現在の『七夕』の行事になったとされる。中国の『乞巧奠』では五色の糸や針を供えて、星に裁縫の上達を願った。これが発展して七夕の夜にはさまざまの願いごとを短冊に書いて竹に飾るようになった。七夕の夜には、天の川をはさんで、彦星と織姫星が接近することから、年に一度の逢瀬にたとえられ、さまざまな伝説が各地で生まれた。また、七夕は、盆の前のみそぎの行事でもあり、笹竹や供え物を川や海に流し、罪や穢れを祓う儀式も行われた。これが『七夕流し』である。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

七夕や秋を定むる初めの夜   芭蕉「有磯海」

葛飾応為『女重宝記』五「たなばたまつり」(「すみだ北斎美術館蔵」)

https://serai.jp/event/1002167

「句意」は、「七夕の日、空には、二星(織姫星と彦星の夫婦星)が輝き、願い事に『織姫星の機織り道具が欲しい』と短冊に書いた。」

  

6-10 人有(あり)や暴風(のわき)の中を飛ぶ筵

  文化元年(一八〇四)の秋、千束村に居た頃の句で、『軽挙館句藻』の「千束のいね」所収の句で、そこには、「野分(のわき)」との前書を付して、中七の「暴風」に「のわき」と詠ませている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 


鈴木春信画「野分の中を歩く二人の女」(「ボストン美術館蔵」)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Harunobu_WindyDay/#group1-8

  掲出の句の季語は、「暴風(のわき)・野分」(仲秋)。「野の草を吹き分けて通る秋の強い風のこと。主に台風のもたらす風をさす。地方によっては「やまじ」「おしあな」などと呼ぶところもある。『枕草子』(百八十八段)では「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」とあり、野分の翌日はしみじみとした趣があるとする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  芭蕉「武蔵曲」

吹き飛ばす石は浅間の野分かな   芭蕉「更科紀行真蹟」

猪もともに吹かるゝ野分かな    芭蕉「蕉翁句集」

鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな    蕪村「蕪村句集」

ぽつぽつと馬の爪切る野分かな   一茶「文化句帖」

  掲出の抱一の句は、上記の例句の中では、「吹き飛ばす石は浅間の野分かな/芭蕉「更科紀行真蹟」」のイメージに近い。

「句意」は、「隅田川河岸の千束村、そして、それに続く、浅草寺弁天池周辺の『野分』は、その近郊の『吉原』のイメージを彷彿させる『野分の中を歩く二人の女』の人影などは微塵もなく、芭蕉翁の『吹き飛ばす石は浅間の野分かな』の、『吹き飛ばす筵』という光景である。」

  

6-11 いなづまや夜と昼との田一枚

 

歌川国芳画「橋立雨中雷」(「ボストン美術館蔵」)

https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc169039

  掲出の季語は、「いなづま・稲妻(いなずま・いなづま)」(三秋)。「空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

稲妻を手にとる闇の紙燭かな  芭蕉「続虚栗」

稲妻に悟らぬ人の貴さよ    芭蕉「己が光」

あの雲は稲妻を待つたより哉  芭蕉「陸奥鵆」

稲妻やかほのところが薄の穂  芭蕉「続猿蓑」

いなづまや闇の方行五位の声  芭蕉「続猿蓑」

稲妻や海の面をひらめかす   芭蕉「蕉翁句集」

いなづまやきのふは東けふは西 其角「曠野」

いなづまや堅田泊りの宵の空  蕪村「蕪村句集」

稲妻に近くて眠り安からず   夏目漱石「漱石全集」

  抱一の句は、抱一の「其角好き」に因んでの、「いなづまやきのふは東けふは西/其角『曠野』」、そして、「抱一好き」の、「漱石」に因んでの、「稲妻に近くて眠り安からず」の、それらのイメージに近い。

「句意」は、「江戸っ子の其角先師の『いなづまやきのふは東けふは西』のとおり、この千束村近辺の田に「稲光」が、『夜となく、昼となく、それも、全く同じ、近くの田んぼ』にやって来て、これでは、とても、江戸っ子の「漱石・某」やらの、『稲妻に近くて眠り安からず』なのです。」

  

6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉

  掲出の句の「季語」は「きぬた・砧(きぬた)」(三秋)。「木槌で布を和らげるために棒や杵などで打つ台をいう。麻・葛などの繊維はかたいので、打って和らげる。女性の夜なべ仕事とされた。秋の夜長、遠くに聞こえるその音はもののあわれを誘う。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

声澄みて北斗にひびく砧かな      芭蕉「都曲」

碪打ちて我に聞かせよや坊が妻    芭蕉「野ざらし紀行」

針立や肩に槌うつから衣       芭蕉「江戸新道」

猿引は猿の小袖をきぬた哉      芭蕉「猿舞師」

このふた日きぬた聞えぬ隣かな    蕪村「夜半叟句集」

聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ    夏目漱石「漱石全集」


葛飾応為画「月下砧打ち美人図」(  113.4×31.1/款「應為栄女筆」印「應」(白文方印)/東京国立博物館蔵)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034762

 「句意」は、「芭蕉翁の、『碪打ちて我に聞かせよや坊が妻』の『坊が妻』ならず、名も知れない『旅人』に、『砧を貸して』、その『旅人の砧打つ音』を、しんみりと味わっている。」

 

6-13 臺笠も立笠も有り作り萩

 

鈴木其一筆「萩月図襖」(絹本着色 襖(四面)/168.8×68.5cm(各)/東京富士美術館蔵)

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3579

≪ 萩と月は秋を表す好画題といえよう。左右から伸びた紅白の萩は緩やかな動きをもって、対角線上に配置されている。花房と葉の表現には、輪郭線を引かず色の階調を作る付け立ての技法がとられ、葉の葉脈には金泥が施されている。月下の葉色に変化をつけ、絹地の背景に銀泥を引くことで月光を演出するなど、こうした其一の細部へのこだわりが画面に程よい緊張感をもたらすとともに、江戸琳派特有の美麗で瀟洒な品格を醸し出している。≫

 「台笠」=近世、大名行列などのとき、袋に入れ長い棒の先につけて、小者に持たせたかぶり笠。(「デジタル大辞泉」)

 

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

 「立笠(傘)」=江戸時代に用いられた長柄の大傘。ビロードやラシャなどで作った袋に入れ、大名行列などの際に供の者に持たせた。(「精選版 日本国語大辞典」)

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

  掲出の句の「季語」は、「作り萩」の「萩」(初秋)。「紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」

一家に遊女もねたり萩と月   芭蕉「奥の細道」

行々てたふれ伏すとも萩の原  曽良「奥の細道」

小狐の何にむせけむ小萩はら  蕪村「落日庵句集」

萩散りぬ祭も過ぬ立仏     一茶「享和句集」

 「句意」は、「向島に開園した、百花園の秋の『萩見』の趣向も、多種・多彩で、中には、池を這うように「台笠」仕立ての萩、その上に重なるように「立笠」仕立ての萩と、周囲には、秋の七草が靡き、さながら、秋の七草の大名行列のようである。

 

(補記)「向島百花園について」

 https://tesshow.jp/sumida/sight_emukojima_hyakka.html

 ≪ 百花園を造ったのは佐原鞠鵜で、文化元年(1804)のことでした。鞠鵜は宝暦12年(1742)仙台に生まれました。(一説に明和3年生まれ)。天明年間(1781-1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大名に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留町)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・蜀山人(太田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。

その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。

百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。

こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。

鞠鵜は天保2年(18318月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。

この庶民の庭に、文政12年(18293月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。

この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。≫

 

 「東都三十六景 向しま花屋敷七草」(二代歌川広重画/出版者:相ト/国立国会図書館蔵)

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail338.html?sights=mukojimahyakkaen


6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

  『軽挙館句藻(千束のいね)』には、この「6-15 鶴の子の額は赤き梢かな」の前書に、「閏八月二十四日橘千蔭のとおなしく千束の里なる文字楼の別荘に遊びてあまたの柿を植えあつめ給ふ人の許にまかりけるに禅師妙見御所蜂谷その外の名かそへも不尽」が付せられているようである。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)

 この二句は、その「浅草千束村」(千束の里)の柿畑などを見ての句と解する。なお、この「閏八月二十四日」は「文化二年(一八〇五)八月二十四日」、そして、この「文字楼の別荘」は、「新吉原」の妓楼「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)であろう。この「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)については、下記のアドレスなどて触れている。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

  また、「禅師妙見御所蜂谷」というのは、その柿畑に植えられている柿の種類(禅師柿(禅寺丸)・妙見柿(妙丹柿)・御所柿・蜂谷柿)であろう。

 

6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

  「季語」は、「柿」(晩秋)。「カキノキ科の落葉高木。東アジア温帯地方固有の植物で、果実を食用にする。かたい葉は光沢がある。雌雄同株。富有、御所、次郎柿などの甘柿は熟すると黄色が赤くなりそのまま食する。渋柿は、干し柿にすると甘くなる。青い実の渋柿からは、防水防腐に使われる「柿渋」がとれる。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

里古りて柿の木持たぬ家もなし        芭蕉「蕉翁句集」

祖父(おほぢ)親まごの栄や柿みかむ(蜜柑) 芭蕉「堅田集」

 「けろり」=「何事もなかったように平然としているさま、また、図々しいくらい平気なさまを表わす語。」(「精選版 日本国語大辞典」)

「けろり」(擬態語)の一茶の句(「一茶の俳句データベース」)

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

(例句)

鳴た顔けろりかくして猫の恋              一茶『八番日記』

山きじや何に見とれてけろりくわん   一茶『七番日記』

夕雉や何に見とれてけろりくわん   一茶『浅黄空』

けろりくわんとして雁と柳哉             一茶『七番日記』

けろりくわんとして烏と柳哉             一茶『文政版他』

夕立やけろりと立し女郎花                一茶『七番日記』

大水や大昼顔のけろり咲          一茶『七番日記』

名月にけろりと立しかゞし哉             一茶『七番日記』

はつ雪や上野に着ばけろり止             一茶『八番日記』

10はつ雪や腹拵へはけろり止           一茶『自筆本』

11おち葉してけろりと立し土蔵哉    一茶『七番日記』

 「句意」は、「新吉原の遊郭地に近い『千束の里』の一画に、色々な種類の『柿』を植えた畠があって、今や、その収穫も殆ど終わって一休みの状態なのだが、何故か、二本だけ、図々しいくらい、『取っては駄目よ』と、実がたわわのままの木がある。(これはきっと、この『千束の里』の『鳥さんたち食い扶持を遺しているのかも。)』

 

6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

 

「鶴柿(鶴の恩返し)・昔話(山口昔ばなし9)」

https://ameblo.jp/shufreeter7978/entry-12735136556.html

https://www.yamaguchibank.co.jp/portal/special/story/story09/p03.html

 「季語」は、「鶴の子」=「鶴の子柿」(「(鶴の子)柿」=晩秋)・「鶴の子柿の吊し柿」(「鶴の子柿)甘干し=吊し柿/釣柿/干柿/ころ柿」=晩秋)。掲出句の句は、「「鶴の子柿の吊し柿」ではなく、収穫前の柿の木の梢の「鶴の子柿」(晩秋)の句である。(「昔話」の「鶴柿」などに視点を置いての句意などもあるが、ここでは、前句の「柿畠やけろりと二本休みとし」との、連作ものとしての句意にして置きたい)

「句意」は、「この柿畠の、二本だけ取り残している柿の木は、渋柿の『吊(つる)柿』用の『鶴子の柿』で、その「梢(木末)」の実(実の「額」)は、たわわに、赤く実っている。」

 

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