立秋
6-8 先一葉秋に捨たるうちは哉
七夕
6-9
空に二ツほしきもの有り機道具
6-10 人有や暴風の中を飛ぶ筵
6-11 いなづまや夜と昼との田一枚
6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉
6-13 臺笠も立笠も有り作り萩
6-14 柿畠やけろりと二本休みとし
6-15 鶴の子の額は赤き梢かな
立秋
6-8
先一葉秋に捨たるうちは哉
抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「第五 千づかのいね( 5-48)」
句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。
夕すずみよくぞ男に生れけり 宝井其角(伝) ≫
掲出の句の、主たる季語は、上五の「先(まづ・まず)一葉」の「一葉・ひとは・桐一葉・一葉落つ・桐散る・一葉の秋・桐の秋」(初秋)。「秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。」(「きごさい歳時記」)
そして、従たる季語が、中七・下五に掛けての「秋に捨たるうちは・秋団扇・捨て団扇」(初秋)。「秋風の通うころになって扇、団扇を必要としなくなること。立秋が過ぎても残暑は厳しく、扇や団扇はなかなか離せないもの。扇をしまうころには秋も一気に深まり、空気も身にしむようになってくる。」(「きごさい歳時記」)
さらに、この句の前書の「立秋」も「初秋」の季語で、「子季語」に「秋立つ・秋来る・秋に入る・今朝の秋・今日の秋」などがある。「二十四節気の一つ。文字どおり、秋立つ日であり、四季の節目となる「四立」(立春、立夏、立秋、立冬)の一つ。この日から立冬の前日までが秋である。新暦の八月七日ころにあたる。実際には一年で一番暑いころであるが、朝夕の風音にふと秋の気配を感じるころでもある。≪秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行『古今集』≫ 」(「きごさい歳時記」)
その上で、この抱一の句は、次の嵐雪の辞世吟を想い起こさせる。
一葉ちる咄(トツ)一葉ちる風のうへ(嵐雪『玄峰集(上・下)』巻末)
「句意」は、「今日は、立秋の日。それを知ったのは、先ず、この『桐一葉』、嵐雪先師の『咄(トツ)』の一句、さも有らん、この立秋の『秋立つ』日に、その『桐一葉』は、其角先師の『涼みの団扇』ならず、『捨て団扇』の名が相応しい。」
6-9
空に二ツほしきもの有り機道具
(例句)
天にありて比翼とちぎる二星かな 季吟「山の井」
(例句)
七夕や秋を定むる初めの夜 芭蕉「有磯海」
葛飾応為『女重宝記』五「たなばたまつり」(「すみだ北斎美術館蔵」)
https://serai.jp/event/1002167
「句意」は、「七夕の日、空には、二星(織姫星と彦星の夫婦星)が輝き、願い事に『織姫星の機織り道具が欲しい』と短冊に書いた。」
6-10 人有(あり)や暴風(のわき)の中を飛ぶ筵
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Harunobu_WindyDay/#group1-8
(例句)
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 芭蕉「武蔵曲」
猪もともに吹かるゝ野分かな 芭蕉「蕉翁句集」
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな 蕪村「蕪村句集」
ぽつぽつと馬の爪切る野分かな 一茶「文化句帖」
「句意」は、「隅田川河岸の千束村、そして、それに続く、浅草寺弁天池周辺の『野分』は、その近郊の『吉原』のイメージを彷彿させる『野分の中を歩く二人の女』の人影などは微塵もなく、芭蕉翁の『吹き飛ばす石は浅間の野分かな』の、『吹き飛ばす筵』という光景である。」
6-11 いなづまや夜と昼との田一枚
歌川国芳画「橋立雨中雷」(「ボストン美術館蔵」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc169039
(例句)
稲妻を手にとる闇の紙燭かな 芭蕉「続虚栗」
稲妻に悟らぬ人の貴さよ 芭蕉「己が光」
あの雲は稲妻を待つたより哉 芭蕉「陸奥鵆」
稲妻やかほのところが薄の穂 芭蕉「続猿蓑」
いなづまや闇の方行五位の声 芭蕉「続猿蓑」
稲妻や海の面をひらめかす 芭蕉「蕉翁句集」
いなづまや堅田泊りの宵の空 蕪村「蕪村句集」
稲妻に近くて眠り安からず 夏目漱石「漱石全集」
「句意」は、「江戸っ子の其角先師の『いなづまやきのふは東けふは西』のとおり、この千束村近辺の田に「稲光」が、『夜となく、昼となく、それも、全く同じ、近くの田んぼ』にやって来て、これでは、とても、江戸っ子の「漱石・某」やらの、『稲妻に近くて眠り安からず』なのです。」
6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉
(例句)
声澄みて北斗にひびく砧かな 芭蕉「都曲」
碪打ちて我に聞かせよや坊が妻 芭蕉「野ざらし紀行」
針立や肩に槌うつから衣 芭蕉「江戸新道」
猿引は猿の小袖をきぬた哉 芭蕉「猿舞師」
このふた日きぬた聞えぬ隣かな 蕪村「夜半叟句集」
聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ 夏目漱石「漱石全集」
葛飾応為画「月下砧打ち美人図」( 113.4×31.1/款「應為栄女筆」印「應」(白文方印)/東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034762
6-13 臺笠も立笠も有り作り萩
鈴木其一筆「萩月図襖」(絹本着色 襖(四面)/168.8×68.5cm(各)/東京富士美術館蔵)
https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3579
≪ 萩と月は秋を表す好画題といえよう。左右から伸びた紅白の萩は緩やかな動きをもって、対角線上に配置されている。花房と葉の表現には、輪郭線を引かず色の階調を作る付け立ての技法がとられ、葉の葉脈には金泥が施されている。月下の葉色に変化をつけ、絹地の背景に銀泥を引くことで月光を演出するなど、こうした其一の細部へのこだわりが画面に程よい緊張感をもたらすとともに、江戸琳派特有の美麗で瀟洒な品格を醸し出している。≫
https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html
https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html
(例句)
白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」
一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉「奥の細道」
行々てたふれ伏すとも萩の原 曽良「奥の細道」
小狐の何にむせけむ小萩はら 蕪村「落日庵句集」
萩散りぬ祭も過ぬ立仏 一茶「享和句集」
(補記)「向島百花園について」
その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。
百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。
こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。
鞠鵜は天保2年(1831)8月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。
この庶民の庭に、文政12年(1829)3月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。
この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。≫
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail338.html?sights=mukojimahyakkaen
6-14 柿畠やけろりと二本休みとし
6-15 鶴の子の額は赤き梢かな
この二句は、その「浅草千束村」(千束の里)の柿畑などを見ての句と解する。なお、この「閏八月二十四日」は「文化二年(一八〇五)八月二十四日」、そして、この「文字楼の別荘」は、「新吉原」の妓楼「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)であろう。この「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)については、下記のアドレスなどて触れている。
6-14 柿畠やけろりと二本休みとし
(例句)
里古りて柿の木持たぬ家もなし 芭蕉「蕉翁句集」
祖父(おほぢ)親まごの栄や柿みかむ(蜜柑) 芭蕉「堅田集」
「けろり」(擬態語)の一茶の句(「一茶の俳句データベース」)
http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi
(例句)
鳴た顔けろりかくして猫の恋 一茶『八番日記』
山きじや何に見とれてけろりくわん 一茶『七番日記』
夕雉や何に見とれてけろりくわん 一茶『浅黄空』
けろりくわんとして雁と柳哉 一茶『七番日記』
けろりくわんとして烏と柳哉 一茶『文政版他』
夕立やけろりと立し女郎花 一茶『七番日記』
大水や大昼顔のけろり咲 一茶『七番日記』
名月にけろりと立しかゞし哉 一茶『七番日記』
はつ雪や上野に着ばけろり止 一茶『八番日記』
10はつ雪や腹拵へはけろり止 一茶『自筆本』
11おち葉してけろりと立し土蔵哉 一茶『七番日記』
6-15 鶴の子の額は赤き梢かな
「鶴柿(鶴の恩返し)・昔話(山口昔ばなし9)」
https://ameblo.jp/shufreeter7978/entry-12735136556.html
https://www.yamaguchibank.co.jp/portal/special/story/story09/p03.html
「句意」は、「この柿畠の、二本だけ取り残している柿の木は、渋柿の『吊(つる)柿』用の『鶴子の柿』で、その「梢(木末)」の実(実の「額」)は、たわわに、赤く実っている。」
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