水曜日, 8月 23, 2006

回想の蕪村(一~十七)



回想の蕪村2006/08/03

(一)

 蕪村には三大俳詩がある。「北寿老仙をいたむ」(晋我追悼曲)、「春風馬堤曲」そして「澱河歌」である。次のアドレスに、それらの三つについて紹介されている。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

北寿老仙をいたむ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公の黄に薺のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
はなもまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき
                      釈蕪村百拝書

 この「北寿老仙」については、「若き日の蕪村」で見てきたところである。以下のものは、グーグルのブログに再掲したものであるが、参照するときは、エンコードを(Unicode)にして適宜参照していただきたい。この「回想の蕪村」では、この「北寿老仙をいたむ」は従として、その他の二編の俳詩、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を中心として見ていくことにする。

「若き日の蕪村」(その二)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114946097401984177.html

「若き日の蕪村」(その三)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

「若き日の蕪村」(その四)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_08.html

「若き日の蕪村」(その五)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_09.html

「若き日の蕪村」(その六)
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_11.html

(二)

 蕪村の三大俳詩の「春風馬堤曲」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
  
   春風馬堤曲十八首

○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荊与棘塞路
 荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
○渓流石点々 踏石撮香芹
 多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
 無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
○店中有二客 能解江南語
 酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
○呼雛籬外鶏 籬外草満地
 雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
 春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
 本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
 揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
 戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
 待(まつ)春又春
○君不見(みずや)古人太祗が句
   薮入の寝るやひとりの親の側


(三)

 蕪村の三大俳詩の「澱河歌」の全文は次のとおりである。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/txtbuson.html

澱河歌

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

(四)

 「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」の鑑賞に入る前に、この世に始めて「俳詩」というものを定着させたところの潁原退蔵著『蕪村』所収の「春風馬堤曲の源流」(『潁原退蔵著作集第十三巻』所収)が、次のアドレスで紹介されているので、その全文を分説して紹介をしておきたい。なお、潁原退蔵氏のプロフィールは次のとおりである。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/study/ebarataizo.html

(潁原退蔵プロフィール)

潁原退蔵(えばら たいぞう) 国文学者 1894.2.1 - 1948.8.30 長崎県に生まれる。近世文学ことに与謝蕪村研究に比類なき先駆的業績を積んだ碩学、編著『蕪村全集』は今なお金字塔である。 掲載作は、昭和十三年(1938)以降四編の論文を整備して名著『蕪村』(昭和十八年<1943>一月創元社刊)に所収、初めて「俳詩」という項目の確立された画期的論考として知られる。

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その一)

安永六年(1777)の正月、蕪村は『夜半楽』と題した春興の小冊を出した。その中に「春風馬堤曲」十八首と「澱河歌」三首とが収められてある。それは一見俳句と漢詩とを交へて続けたやうなものであるが、実は必ずしもさうではない。言はば一種の自由詩である。しかも格調の高雅、風趣の優婉、連句や漢詩とはおのづから別趣を出すものがあつて、人をして愛誦せしめるに足る。その体は日本韻文史上にも独特の地位を占むべきもので、ひとり形式の特異といふ点のみでなく、一の文藝作品として確かに高度の完成した美を示して居ると言つて宜(よ)い。而(しか)してこの特殊な韻文の形式を、蕪村はどこから学んで来たのであらうか。それとも全く彼が独創的に案出したものであつたらうか。蕪村にはなほ同様な韻文体の作「北寿老仙をいたむ」の一篇が残されてある。下総結城(しもふさゆふき)の人、早見晋我(しんが)の死を悼んだ曲である。晋我が歿したのは延享二年(1745)のことであるから、曲もすなはち当時の作にかゝるものであらう。それは、
 
     北寿老仙をいたむ
 
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
  蒲公の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
  見る人ぞなき
  雉子(きゞす)のあるかひたなきに鳴を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
  へげのけぶりのぱと打ちれば西吹風(にしふくかぜ)の
  はげしくて小竹原真すげはら
  のがるべきかたぞなき
  友ありき河をへだてゝ住にきけふは
  ほろゝともなかぬ
  君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
  我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
  花もまゐらせずすごすごと彳(たゝず)める今宵は
  ことにたふとき
    (晋我五十回忌追善『いそのはな』)
 
といふので、これには漢語の句は全く含まないけれども、その韻律は極めて自由であり、詞章もまた頗る高雅の気に富んで居る。「春風馬堤曲」の源流が夙(はや)くこゝに存することは、何人(なんぴと)もこれを認めるにちがひない。少くとも蕪村の心にはかうした韻文への創作欲が、若い頃から動いて居たのである。ではこの「北寿老仙をいたむ」の風体を、彼はやはり別に学ぶ所があつて得たのであらうか。問題は更に溯らねばならない。

(五)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その二)

俳諧に於ける韻文の一体といへば、誰しも想ひ到るのは支考一派の間に行はれた所謂(いはゆる)仮名詩である。それは支考が自ら新製の一格として世に誇示した所であるが、要するに漢詩の絶句・律の体に倣ひ、十字を以て五言とし、十四字を以て七言とするやうな規矩を設け、更に五十音図の横列によつて仮名の押韻までも試みようとしたものである。その実作は『本朝文鑑』『和漢文操』等にも、特に類を分ち目(もく)を立てて多く収めてあるから、こゝに詳しく説くにも及ばないが、例へば、
 
     逍遙遊 五言   蓮二房
  よしあしの葉の中に   寝れば我さむればとり
  鳥さしはさもあれや   かく痩(やせ)て風味なし
 
     山中尋酒 七言  得巴兮
  門の杉葉に酒をたづぬれば  畚(フゴ)ふり捨(すて)て麦刈にとや
  樽はつれなく店に寝ころびて 臼引音(うすひくおと)の庭にさびしさ
 
     和漢賞花 五言律
  花はよし花ながら    見る人おなじからず
  ぼたんには蝶ねむり   さくらには鳥あそぶ
  たのしさを鼓にさき   さびしさを鐘にちる
  唐にいさ芳野あらば   詩をつくり歌よまむ
 
     和漢賞月 七言律
  我日のもとの明月の夜は   もろこし人も皆こちらむく
  詩には波間の玉をくだきて  哥(うた)に木末の花やちるらん
  雪か山陰の友をおもへば   露も更科の姥(うば)ぞなくなる
  さはれ杜子美が閨にあらずも 芋とし見れば物も思はず
 
の如く八句から成つて居る。に・り・し、ば・や・さ等と、伊列又は阿列の音を句尾に置いて、所謂仮名の韻を押すやうな技巧は、流石(さすが)に支考らしい工案(くあん)ではあるが、ともあれ普通の俳諧とは全く異つた形式を用ゐて、しかもその中に俳味の掬(きく)すべきものがなしとしない。もしこのやうな一体の韻文が、真摯(しんし)な文藝精神の下に展開を遂げたならば、それは俳諧から派生した一の特殊な文藝として、俳文よりももつと注意すべき近世文藝の一分野を占めることが出来たであらう。

(六)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その三)

そして自由な韻律と格調とをもつた新韻文の形式は、明治の新体詩をまたずして十分成長し得た筈である。しかし支考の例のことごとしいあげつらひは、徒(いたづ)らに体制の上に無用の指を立てるやうな事のみに急で、真に文藝的な完成への努力を怠つた。例へば仮名に真名(まな)の韻を用ゐる一格と称して、
 
     田家ノ恋    蓮二房
  さをとめの名のいかにつゆ(露)けき(濃)
  花もかつみのよしやよ(俗)の中
  浅香にあらぬ沼のかげ(影)さへ(副)
  鏡の山のそこにはづ(慚)かし(通)
 
の如く、一句の終に特に漢字を宛てて、こゝに押韻(あふゐん)する方法を案じたりした。のみならずこの漢字についても、俗中は日本紀により、影副は万葉に出で、慚通は真字伊勢物語に基くなどと一々勿体をつけて居る。果ては、
 
     祝草餅    桐左角
  若菜は君が為とよみしかど(廉)  
  蓬はけふの餅につかれしを(塩)
  名も鴬のいろにめでけむ(剣)
  げに花よりと見れば見あかね(兼)
 
の如きかどを廉にしをを塩に宛てるなど、殆ど遊戯文字と選ぶ所のないやうな作までも試みて居る。こゝに至つては折角の万葉の体も、律法の新製も、その愚や及ぶべからずである。
 美濃派の俳人の間には、その後もなほ仮名詩の作は行はれて居た。同派の俳書を繙(ひもと)くならば、享保以後ずつと後年に至るまで、屡々その作が試みられて居ることを知るであらう。中には見るべきものもないのではない。也有(やいう)の『鶉衣』に収むる「鍾馗画讃」や「咄々房挽歌」等も、また仮名詩の流を汲むものであつた。だからやはり仮名の韻を押し、又毎句末に漢字を宛てたりして居るのであるが、「咄々房挽歌」の如きは、
 
  木曽路に仮の旅とて別(わかれ)しが
     武蔵野に、長きうらみとは成ぬる(留)
    呼べばこたふ松の風
    消てもろし水の嶇(=正しくはサンズイヘン)
  わすれめや   茶に語し月雪の夜
  おもはずよ   菊に悲しむ露霜の秋
    庵は鼠の巣にあれて   蝙蝠群て遊
    垣は犬の道あけて    蟋蟀啼て愁
      昔の文なほ残    老の涙まづ流
  よしかけ橋の雪にかゝらば
  招くに魂もかへらんや不(イナヤ)
 
と、句脚に尤(いう)の韻を用ゐる為にかなり無理な点が見られるにもかゝはらず、そのリズムは頗(すこぶ)る自由でしかも一種の高雅な風韻が感ぜられる。又天明・寛政の頃小夜庵五明の門人是胆斎野松は和詩の作を好み、その編した『和詩双帋(わしざうし)』には盧元坊以下の人々の作を集めてあるが、誦するに堪へる佳作も少しとしない。今五明と野松の作一篇づゝを抜いて見よう。

(七)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その四)

  秋香亭の夕顔を題して   小夜庵
  垣根に長く作り垂しは   我が手に墨し窓切らんとや
  月を眺むる便りならねば  いけては壁に花を見る哉
 
     題雨中の桜        野松
  降りくらす桜の雨     雨匂ふ鐘のおと
  蝶と散るもおしむまじ   鳥と笑むも仇(あだ)なるを
  露深く昼をうらみ     霞に立つ俤(おもかげ)も
  物言はん色と見れば    花にもあらで我が心
 
 これらは依然として仮名の韻をふみ、支考の製した旧格を守つて居るが、とにかく発句や連句とは異つた形に於いて一種の詩情を味ははしめる。蕪村の「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」が、俳諧から出た韻文の一格と見られるとすれば、結局それは支考一派のかうした仮名詩に因縁(いんえん)を求めねばならないものだらうか。それにしても支麦(しばく)の平俗を甚しく厭つた蕪村の事である。かりに「春風馬堤曲」を仮名詩の展開の中に位置づけるとしても、彼が直接『本朝文鑑』や『和漢文操』に範を得たとは思はれない。さうかと言つて、也有や五明に学んだ点も見られないのである。
 俳諧に仮名詩の一流が長く伝はつたにしても、蕪村の「春風馬堤曲」は恐らくそれとは没交渉に生れたものであらう。彼の孤高な離俗の精神は、支麦の徒が奉じた俳諧理念と相容れる事は出来なかつた。たとひ仮名詩の中に二、三の詩情豊かなものがあつたにせよ、「春風馬堤曲」はやはり蕪村がひとり住む浪漫的な抒情の世界であつた。しかしかの自由な詩の一格は、必ずしも彼の創案になるものではない。実は夙く享保・元文の交から、江戸俳人の間に仮名詩とは全く別趣な一種の韻文が行はれて居たのである。それらの作品の中で、管見に入つた最も古いものは、享保二十一年(1736)三月刊行の『茶話稿』(紫華坊竹郎撰)に載(の)する左の一篇である。
 
(八)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その五)

     立君の詞   楼川
  よるはありたや   雨夜はいやよ
  ふればふらるゝ   此ふり袖も
  草の野上の     野の花すゝき
  まねきよせたら   まくらにかそよ
  かさにかくれて   ふたりで寝よに
  ござれござれよ   月の出ぬまに
 
 七七調の連続は仮名詩の所謂十四字七言の体に類するが、これは六句から成つて居て、絶句にも律にも当らない。又特に一定の韻をふんだあとも認められない。詠む所は市井卑俚(しせいひり)の景物を捉へて、しかも賤陋猥雑に堕することなく、一脈幽婉可憐の情趣を掬(きく)せしめるものがある。軽妙の才はあるいは也有の『鶉衣拾遺』に収められた仮名詩「辻君」に一籌(いつちう)を輸(ゆ)するかもしれないが、これは小唄めいた律調を交へて、よく俳諧の境地に即して居る。この一作が支考の新製と全く関する所なくして生れたか否か、それは今日から容易に推定を下すことは出来ない。しかし少くとも楼川(ろうせん)の俳系から考へると、彼が故(ことさ)らに所謂田舎蕉門の顰(ひそみ)に倣はうとする筈もない。晩得の『古事記布倶路』にも右の楼川の作を採録して、「仮名詩のやうなれども少し風流あり」と評して、美濃派の作とは似て非なることを認めて居る。今試みにこのやうな作が生れた一の契機について説くならば、当時江戸俳人の間には、従来俳文の体に賦・説・辞・解等の煩雑な形式的分類が行はれながらも、その実体に変化がなく千変一律なのに倦(あ)いて、何等か新しい一体を得ようとする機運が動いて居たのではあるまいか。江戸俳壇に於けるさうした要求に基く動きは、前掲の『茶話稿』に収められた二、三の文章にも認められる。又かの吉原に関する一の俳文集ともいふべき『洞房語園集』(元文三年<1738>刊)の如きも、従来の分類と同様な序・賛・引・頌・説・記等の名目に従つては居るが、実は必ずしもそれらの名目に捉はれない自由な態度が見られるのである。この間から河東節(かとうぶし)の作者が出たりして居るのも、あるいはさうした曲詞にまで俳諧文章の進出を意味するつもりであつたかも知れない。ともあれ楼川の「立君の詞」は、支考の仮名詩に系を引くものとするよりは、新しい俳文の一体を得ようとする江戸俳人の要求に基いたと見るべきであらう。
 芭蕉俳諧に於けるさびや細みは、それが軽みの理念の十分な理解を伴はない場合、あまりに形式的な枯淡閑寂を強ひる傾(かたむき)を生じた。事実「今の芭蕉風といへる句を察するに、古池やのばせをが句の一図(一途)と聞ゆる也」(不角『江戸菅笠』序)と評されねばならなかつた。このやうな実状の間にあつて、沾洲・淡々・不角等の俗情を脱し、しかも蕉風の形骸的枯淡を厭つて、より豊かな抒情の詩を求める人々は、こゝに何等かの新しい発想の形式を欲したであらう。江戸の俳人が一般に複雑な人事趣味を喜んだのも、蕉風以来の単調を破るべき反動である。だがその人事趣味は叙事的であるよりも常に抒情的であつた。新しい俳文の一体として抒情詩の発想を得る事は、彼等の望むところであつたらう。夙(はや)く元禄・宝永の頃に溯つて、素堂の「蓑虫説」や嵐雪の「黒茶碗銘」の如きには、すでに一種の自由な散文詩とも見るべき形式を具へて居た。支考の仮名詩がむしろ理論的に案出されたのに比して、素堂や嵐雪の散文詩は抒情のおのづからなる発露であつた。だから享保期に於ける江戸俳人の新しい詩の発想形式は、こゝにその源流を求めてもよかつたのである。今率直な立言(りふげん)を試みるならば、楼川(ろうせん)の「立君の詞」は即ち素堂・嵐雪の散文詩に発するもので、蕪村の「春風馬堤曲」はまた楼川の詩心を承けるものだと言へないであらうか。少くともある文藝精神の継承展開としてそれは肯定されるであらう。それにしても楼川と蕪村との作の間に、直接的な交渉を認める為には、今少し明確な論拠を与へねばならない。それには年代の近接と格調の相似とで、両者を必然に繋ぐべきなほ幾つかの作品の存在を知ることが必要である。しかし今はまだそこに十分の資料を提供することが出来ない。これまでに知り得たのは、わづかに次の二つの作にすぎない。その一は寛保元年(1741)十二月刊行の『園圃録』(雪香斎尾谷撰)に載するものである。この書は当時の江戸俳人の発句・連句を集録した乾坤二冊、紙数百余丁の大冊であるが、その中に若干の文章をも収めてある。それらの俳文に伍して、次の如き一篇の韻文を見るのである。
 
(九)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その六)

    胡蝶歌   尾谷
  賎(しづ)が小庭の菜種の花は
             乳房とぞ思ふ
  梅の薫りを   紅梅はおぼへたるべし
  風のさそひて散行(ちりゆく)花を
   追ふて行身(ゆくみ)も共に花なるや
             羽もかろげなり
   江南の橘の虫の化すとも伝へし
   本朝にては何か化すらん
             妓女が夏衣も涼しげなれば
  夢の周たる歟(か)
   桔梗朝顔の花にたはれて
             老やわすれぬ
   尾花小萩の花にあそびて
             秋もおぼへぬ
   うとく見るらん   松虫は鳴に
   うらぶれてなけ   蝶よ胡蝶よ
 
 その格調の軽妙自由なのは、楼川の「立君の詞」に比して更に目を刮(かつ)せしめるものがあり、詞章の優雅高逸なのに至つてはもとより遥かに挺(ぬき)んでて居る。今様にあらず、仮名詩にあらず、河東の曲にあらず、別に一体を出して朗々誦するに足るのである。今一つは延享二年(1745)三月、江戸の麦筵(ばくえん)谷茂陵の撰んだ『雛之章』に載せられてある。この書は諸家の雛の句を集めて、終に撰者の独吟歌仙等を添へた小冊子であるが、その中に次の一作が見える。

(一〇)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その七)

  袖浦の歌   依長干行韻  文喬
  けふばかり汐干に見へて
  袖の浦わのうらみ忘れめ
  霞をくゝる山の手の駕籠
  淡かとまよふ海ごしの安房
  烟管くはへて磯より招き
  扇子かざして沖より望む
  君家住何処
  妾住在横塘
 
 長干行は楽府(がふ)の題であるが、これは唐詩選などに収められた崔かう(景ヘンに頁)の作をさして居り、最後の漢句二句は即ち崔_の、長干行百章の起句と承句とをそのまゝ用ゐたのである。忘・房・望・塘と押韻したのなどは、支考の所謂和詩を学んだやうでもあるが、その趣は全く異ると言つて宜い。品川あたりの汐干の景を叙し、最後に漢詩の句をそのまゝ借り来(きた)つて、桑間濮上の情趣を点じた手法は誠に面白い。蕪村の「澱河歌」と通ずる所が極めて多いことは、何人(なんぴと)も直ちに認めるであらう。
「胡蝶歌」の作者尾谷(びこく)は盤谷(ばんこく)の門であり、盤谷は談林系の人である。もとより俳系上蕪村との交渉は全く無い。しかし『園圃録』に見るその交游の範囲は、当時の江戸俳人の知名の士に亙(わた)り、蕪村が江戸にあつた元文・寛保の頃、親しく識ることを得た人々も少くなかつたと思はれる。それらの人々の間には、尾谷の外にもかうした作の試みがなほあつたかも知れない。ともあれ蕪村は当時尾谷のこの作について、恐らく知る所があつたであらう。「袖浦の歌」の作者文喬については、遺憾ながら今全く知る所がない。『雛之章』には序文をものして居り、その序によれば同書の撰にも与(あづか)つて力があつたらしい。而して『雛之章』に句を列ねた人々は、四時観の系に属するものが多いやうで、これまた俳系上蕪村と直接の関係は認められない。しかし四時観の徒は江戸の俳壇に一種の高踏的な態度を持し、所謂(いはゆる)通(つう)を誇つてむしろ趣味に婬する傾(かたむき)があつたとはいへ、譬喩俳諧の末流や支麦(しばく)の平俗とはおのづから選を異(こと)にして居た。『雛之章』にしてもその装幀は細長形の唐本仕立(じたて)で、見るからに高雅な趣味を漂はせて居る。このやうな好みをもつ人々に対して、蕪村はもとより白眼視しては居なかつたであらう。而して文喬の「袖浦の歌」と蕪村の「北寿老仙をいたむ」とは、殆ど時を同じうして成つて居るのである。楼川から尾谷、文喬、蕪村と、彼等の手に成る一種の韻文を通覧する時、その間に一の系脈の存することを肯定し得ないであらうか。少くともそこにある共通の精神が存することは、これを認めるに何人(なんぴと)も吝(やぶさ)かでないであらう。彼等の諸作の単なる先蹤(せんしよう)として、支考の仮名詩や和詩をあげることは差支(さしつかへ)ない。それは年代的に見て確かに先に現はれたものであり、また江戸の俳人たちはその存在を十分知つて居たのだから。現に紀逸の『雑話抄』(宝暦四年<1754>刊)には、「ちかきころ仮名の詩といふことを人々言出(いひいで)侍るを」とあつて、当時江戸に仮名詩が行はれたことを述べて居るのである。さうして彼自ら「たはぶれに作」と言つてあげた数編の作は、四句一章の形式が全く支考の仮名詩と同一である。しかも彼はそれだけで満足せず、和讃の体で三首の作を示し、更に次のやうな一作をものして居る。
 
(一一)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その八)

   放鳥辞
 鶸々 籠中の鶸(ひは) 汝久しく籠にこめられて 雲を乞(こふ)るうらみやむ時なし
 我又久しく病に労(いたづき)て 遠く遊(あそば)ざる愁(うれひ) 日々にあり
 鶸々 籠中の鶸 今汝をもて我にあて 我をして汝を思ふにしのびず
 みづから起(たち)て籠を開て 汝をはなさん
 鶸々 籠中の鶸、五柳先生の古郷をしたへるおもひ 慈鎮和尚の籠上にそゝげるなみだ 律のいましめにかなひて みづから起て籠を開て 汝を放さん
 鶸々 籠中の鶸 今幸にして籠の中をのがれ 野外に遊ぶとも
 飢を貪(むさぼつ)てますら雄の網に入(い)る事なかれ 遠く翔(とび)て箸鷹の爪にかゝる事なかれ
 鶸々 籠中の鶸 長く千歳の松にあそびて 共に千歳のことぶきを囀るべし
 鶸々 籠中の鶸
 
 これは正しく遠く素堂の「蓑虫説」に踵(きびす)を接し、それより更に自在を得た体と言ふべきであらう。紀逸はそれを特に韻文の体とことわつては居ないが、仮名詩や和讃の作につゞけて掲げたのは、やはり普通の俳文とはちがつた作として試みたものだからであると思ふ。即ちこゝにはまた支考の仮名詩の外に、このやうな抒情の発想を求めずに居れない精神があつたのである。それは楼川の「立君の詞」からつゞいた同じ抒情の詩の流(ながれ)であつたらう。
 天明の俳諧が元禄の俳諧に比して特殊とされる性格は、言ふまでもなくそれが近世の新しい浪漫精神に立つ所に求められねばならぬ。その精神はまた芭蕉俳諧に於ける抒情性の新たな発想への要求として動いた。さうした際にあの楼川や尾谷によつて試みられた自由な詩の形が、蕪村の心に大きな魅力となり、また自らさうした詩形の上に彼の新しい抒情を託さうとする誘惑を感じなかつたであらうか。享保以後明和・安永に至るまで、この種の自由詩は少い数ではあるにせよ、これを作り試みる者はなほ絶えなかつたのである。蕪村がそれに倣つて「北寿老仙をいたむ」や「春風馬堤曲」の作をなしたと考へる事は、もはや誤(あやまり)のない推測であらう。それは彼の浪漫精神の現れとして注意されるのみならず、天明俳諧の性格をまた最もよく示す事実でもあつた。蕪村ばかりが作つたのではない。暁台にもまた几董(きとう)の死を悼んだ次の如き一曲の作がある。

(一二)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その九)

    蒿里歌(かうりのうた)
 夜半の鐘の おと絶て めにみるよりも 霜の声 きく耳にこそ しみはすれ 
     友ちどり 呼子鳥 都鳥 はかなし はかなしや みやこ鳥
 きのふ墨水(ぼくすゐ)に杖を曳て
 柳条に月をかなしび
 けふは杖を黄泉に曳て
 弘誓(ぐぜい)の棹哥(たうか)に遊ぶかし
     夜半の鐘の おと絶て むなしき松を まつのかぜ
 聖護院の杜(もり)の空巣には
 妻鳥こそまどふらめ
 難波江の芦の浮巣には
 友鳥こそわぶらめ
     わぶらめやいたいたし   伊丹のいめぢいたいたし
     さらでだもしぐれの雨は降ものを
     心に雲の行かひて晴ぬは誠なるかも
 友ちどり 呼子どり あゝ都鳥はかなしや 都鳥はかなしや
 
 これまた全く自由な形態と発想とをもつた一篇の抒情詩である。又(松村)月渓が池田に滞在中、同地の名物である池田炭・池田酒・猪名川鮎・呉服祭に因(ちな)んで作つたといふ「池田催馬楽(さいばら)」の如きも、
 
     魚
 猪名の笹原を 秋風の驚かして 猪名川の鮎は あはれ 落ち尽したり 酒袋の渋や流れけむ あはれ 渋や流れけむ
 
     炭
 雄櫟(をくのぎ)はつれなしや 兜巾頭(ときんがしら)のかたくなや 雌櫟(めくのぎ)はふすぼりて あはれ 何をもゆる思ひや
 
     酒
 新搾(にひしぼ)りの にほひよしや 待つらむ君は 君は 花に紅葉に もみぢばを 逃げつゝ行かむ 東路(あづまぢ)に 菰(こも)かぶりて行かむ
 
     祭
 呉服(くれは)の御祭の 小酒たふべて 舞ひ狂ふや すぢりもぢりて かざしの袖を あや綾服絹(あやはぎぬ) 紅(くれなゐ)の呉服絹(くれはぎぬ)
 
といふので、催馬楽(さいばら)の調(しらべ)に摸(も)したとはいふものの、実はやはり天明俳人の求めた抒情の新しい詩形であつた。

(一三)

「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵論稿・その十)

明治の新体詩はその発生に於いて全く西洋詩の移植であつたのみならず、その展開もまた西洋詩に影響されることが最も多かつた。初めて新体詩といふ名称の下に公にされたかの『新体詩抄』の序には、
 
 コノ書ニ載スル所ハ詩ニアラズ、歌ニアラズ、而シテ之ヲ詩ト云フハ、泰西ノポヱトリート云フ語、即チ歌ト詩トヲ総称スルノ名ニ当ツルノミ。古(イニシヘ)ヨリイハユル詩ニアラザルナリ。
 
と、明かに泰西の詩に当るべき新体の創始たる事を語つて居る。もとよりその表現が日本語による以上、国語特有の性質––特に韻律的性質を無視することは出来なかつた。だからそのリズムは日本古来の歌謡に普遍な七五、又は五七調がそのまゝ用ゐられたのである。しかもまた、
 
 コノ書中ノ詩歌皆句(ヴエルス)と節(スタンザ)トヲ分チテ書キタルハ、西洋ノ詩集ノ例ニ倣ヘルナリ。
 
とあるので、当時いかに出来るかぎりの西洋詩模倣に努めたかは知られるであらう。このやうにして生れた新体詩である。それが明治から大正を経て今日に至るまで、わが国の詩歌の中で最も西洋的な発想法をとつて来たことは当然とも言へる。けれども当初西洋詩のそのまゝの移植であつたにせよ、そして西洋風の培養を多く受けたにせよ、すでに日本の土に根を下したものである。それが日本的な成長を見るべきは、これまた更に当然なことと言はねばならぬ。明治以来のすぐれた詩人たちの詩が、意識的にも無意識的にも日本の詩としての完成へ向つて進んで来たことは、極めて明かな事実である。さうして日本の詩が真に日本の詩であるべき自覚は、今に於いて最も、高度に要求されて居る。所謂(いはゆる)新体詩は、西洋詩の模倣として発生したにちがひないが、今日から回顧すればそれは単に自由清新な詩形を求める動きにすぎなかつた。日本の詩と詩精神はすでに新体詩以前、遥かに古い世から存して居たのである。しかも明治の詩人たちが求めた自由清新な詩形すら、実は決して新体詩以前に存しないのではなかつた。「春風馬堤曲」の源流を探る間に、その事実は文献的に明かにされた。「日本の詩は日本の詩である」といふ厳(おごそ)かな自覚の下(もと)に、天明俳人の賦した一篇の詩は、いかなる意味で省みられねばならないであらうか。今日の詩人の魂を揺り動かすものが、そこには必ず見出されるにちがひないのである。

(一四)

 「春風馬堤曲」の現代語訳を試みたい。

春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)
(訳)
  私はある日老人を訪ねて故郷に帰った。淀川を渡り
  毛馬堤を歩いて行った。たまたま帰省中の女性に遇った。
  先になったり後になったりして、しばらくして、話し合うようになった。
  容姿端麗の女性で、その端麗さに心を奪われた。
  そんなことで、歌曲十八首を作り、
  その女性の心に託して心情を吐露した。
  題して、「春風馬堤ノ曲」という。

 「謝蕪邨」は与謝蕪村の中国風の表現。「一日」はある日のこと。「耆老」の「耆」は六十歳以上のことで、老人のこと。蕪村は時に六十二歳である。「澱水」は淀川。「嬋娟」は色ぽっいこと。蕪村がこの「歌曲十八首」を「春風馬堤曲」と題したことについては、楽府中の「大堤曲」の曲名に因っており、この詩編が楽府の歌曲スタイルに擬した艶詩であることを示しているという(尾形仂著『蕪村の世界』)。

(一五)

   春風馬堤曲十八首

一 ○やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)
(訳)藪入りで大阪の奉公先を出て、今長柄川にさしかかりました。
二 ○春風や堤長うして家遠し
(訳)春風の中、堤はどこまでも続き、家ははるか彼方です。
三 ○堤下摘芳草 荊与棘塞路
荊棘何無情 裂裙且傷股
(堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊(けい)ト棘(きよく)ト路(みち)ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙(くん)ヲ裂キ且ツ股(こ)ヲ傷ツク)
(訳)堤を下りて芳しい草を摘みますと、棘のある茨が路を塞ぎ、その棘は無情にも裾を裂いて、股を傷つけます。
四 ○渓流石点々 踏石撮香芹
   多謝水上石 教儂不沾裙
(渓流石(いし)点々 石ヲ踏ンデ香芹(かうきん)ヲ撮(と)ル
 多謝ス水上ノ石 儂(われ)ヲシテ裙(くん)ヲ沾(ぬ)ラサザラシム)
(訳)渓流には石が点々とあり、その石を伝わって香りのよい芹を摘む。水上の石に感謝し、そのおかげで裾を濡らさずにすんだのだ。
五 ○一軒の茶見世の柳老(おい)にけり
(訳)一軒の茶店があり、かっての柳も老木になっています。
六 ○茶店の老婆子(らうばす)儂(われ)を見て慇懃に
   無恙(ぶやう)を賀し且(かつ)儂(わ)が春衣を美(ほ)ム
(訳)茶店のお婆さんは、私を見て丁寧に挨拶をして、元気であることを喜び、私の春の晴れ着をほめてくれました。
七 ○店中有二客 能解江南語
   酒銭擲三緡 迎我譲榻去
(店中二客有リ 能(よ)ク解ス江南(かうなん)ノ語
 酒銭三緡(さんびん)ヲ擲(なげう)チ 我ヲ迎ヘ榻(たふ)ヲ譲ツテ去ル)
(訳)茶店には二人のお客がおり、色里の言葉などをよく解していて、酒代を三さしぽんと出して、私に席を譲ってくれました。
八 ○古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来(きた)らず
(訳)古い集落で、二・三軒の家があり、雄猫は雌猫を呼んでいるが、雌猫は現れない。
九 ○呼雛籬外鶏 籬外草満地
   雛飛欲越籬 籬高堕三四
(雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四 )
(訳)垣根の外の鶏が雛を呼び、その垣根の外には草が地に満ちていて、雛が垣根を越えようとしていますが、垣根が高く、三・四羽の雛は越えらず落ちたりしています。

 この「春風馬堤曲」は、第一章(第一場)は、発句体の第一首(一)・第二首(二)と漢詩体の第三首(三)・第四首(四)とから成る。第二章(第二場)は、発句体の第五首(五)、漢文訓読体の第六首(六)そして漢詩体の第七首(七)から成り、第三章(第三場)は、発句体の第八首(八・漢詩文調)と漢詩体の第九首(九)から成っている。第一首(一)の「長柄川」は淀川の分流中津川の古称。第二首(二)の「春風」の読みは「しゅんぷう」ではなく「はるかぜ」としたい(尾形・前掲書)。第三首(三)の「無情」は「妬情」が定稿で推敲されてのものという(尾形・前掲書)。第四首(四)の「香芹」は香りのよい芹のこと。第六首(六)の「美(ほ)ム」も「羨む」を定稿で推敲されたという(尾形・前掲書)。第七首(七)の「江南語」は中国の揚子江以南の土地の総称だが、淀川を「澱水」、曾根崎新地を「北里・北州」と中国風に呼ぶと同じような用例で、遊里(郭)言葉のような意も利かしている(尾形・前掲書)。「三緡(ぴん)」は銭百文をつないだものが一緡で、三百文になる。第八首(八)の「古駅」は、古い宿場のこと。

(一六)

一〇 ○春艸(しゆんさう)路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり我を迎ふ
(訳)春草の野路は三つに分かれ、その中の近道が私を迎えてくれました。
一一 ○たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
    三々は白し記得(きとく)す去年此(この)路(みち)よりす
(訳)蒲公英が咲き、三々五々に黄色い花もあれば白い花もあります。去年もこの路を通ったのを覚えています。
一二 ○憐(あはれ)ミとる蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳をあませり
(訳)懐かしさの余り蒲公英の花を折りとると茎が短く折れて白い乳がでました。
一三 ○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
    慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり
(訳)幼い昔のころがしきりに思いだされ、優しい母の恩が思い起こされてきます。優しい母の懐は、この世のものとは思われいような、別天地の春のようです。
一四 ○春あり成長して浪花にあり
    梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家
    春情まなび得たり浪花風流(ぶり)
(訳)その別天地の春ような母の恩を受けて成長し、今、大阪に住んでいます。その梅が白く咲いている浪波橋のお大尽さんの家に奉公して、その梅の花のように青春を謳歌し、すっかり大阪っ子の華美な暮らしに慣れ親しんでいます。
一五 ○郷を辞し弟(てい)負(そむ)く身三春(さんしゆん)
    本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
(訳)私は故郷を離れ、弟を家に残して、こうして大阪に出て、もう三年目の春を迎えてしまいました。これはまことに、根の親木を忘れて、末の枝先で花を咲かせているだけの接ぎ木の梅のようです。
一六 ○故郷春深し行々(ゆきゆき)て又 行々(ゆきゆく)
    揚柳(やうりう)長堤道漸(やうや)くくだれり
(訳)何と故郷は春の深さの中にあることか。その春のまっただ中を歩き歩き、また歩いて行きますと、柳並木の長い堤の路となって、ようやく下り坂となります。
一七 ○矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)
    戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を
    待(まつ)春又春
(訳)その坂道を下りながら、首を上げるとまぎれもなく故郷の家が見えるではないか。黄昏れ時で、その故郷の家の戸口に、白髪の人が弟を抱いて、私を待っていてくれたのだ。
何時の春でも、そうして待っていてくれたのであろう。
一八 ○君不見(みずや)古人太祗が句
    薮入の寝るやひとりの親の側
(訳)あなたも知っていることでしょう。今は亡き太祗にこんな句があります。「薮入の寝るやひとりの親の側」(藪入りの子が、ひとりの親のそばで、心おきなく寝入っている。)

 「春風馬堤曲」の第四章(第四場)は、発句体の第一〇首(一〇・漢詩文調)と漢文訓読体の第一一首(一一)とから成り、第五章(第五場)は、発句体の第一二首(一二・漢詩文調)と漢文訓読体の第一三首(一三)・第一四首(一四)・第一五首(一五)とから成る。そして、最終の第六章(第六場)が、漢文訓読体の第一六首(一六)・第一七首(一七)と発句体(一八・前書きあり)とから成る。第一〇首の「捷径」は近道のこと。第一一首の「記得す」は覚えているの意。第一二首の「憐みとる」は慈しんでそっと採ること。第一三首の「懐袍」の「袍」は布子の綿入れの意。「別に春あり」は季節や衣服の春の暖かさとは別の愛情の春の暖かさがあったということ。第一四首の「財主の家」は財産のある家(お金持ち)のこと。「浪花橋」は天満と北浜とを結ぶ難波橋。第一五首の「辞す」は去るの意。第一六首の「揚柳」の「揚」はハコヤナギ、「柳」はシダレヤナギで、蕪村の描く中国風邪の山水図の景。第一七首の「矯首」は首を上げること。第一八首の「君不見(君見ズヤ)」は楽府の詩などにしばしば見られる用例という(尾形・前掲書)。

(一七)

澱河歌の現代語訳は次のとおりである。

  澱河歌三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
(訳)春の水は梅の花を浮かべ、南へ流れ、宇治川は淀川と合流する。君、錦のともづなを解かないでください。流れの早さに舟は稲妻のように流されてしまいますから。
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
(訳)宇治川は淀川と合流し、交わり流れ一身のようです。舟の中でも共寝をし一身になりたい。そのまま、大阪に下り、一生大阪人で暮らしたい。
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(訳)君は水に浮かぶ花のようで、その花は水に浮かび、慌ただしく去っていってしまうばかりです。私は川辺の柳のように、その水上に影を投げかけ、その影は水に沈んでついてくこともできません。

 「春風馬堤曲」に比し、漢詩体二章と漢文訓読体一章の計三章とシンプルであり、その対比が著しい。しかし、両者とも女性に代わって作をしているということは共通しており、「春風馬堤曲」が淀川土堤のものであれば、「澱河歌」は文字どおり、淀川そのものの作といえよう。「菟」は宇治川、「澱」は淀川の中国風の表現。「錦纜」は錦のともづなのこと。
「春風馬堤曲」も「澱河歌」も、『夜半楽』に収載され、その目次には、「春風馬堤曲 十八首」・「澱河歌 三首」・「老鶯児 一首」の三編が並べて掲げられており、この三編をもって、一つの組詩のような構成をとっている。この最後の「老鶯児」は次の発句一句である。

○ 春もややあなうぐひすよむかし声

 この三編の組詩は、「春風馬堤曲」は十八章三十二行、「澱河歌」は三章八行、「老鶯児」は一章一行で、章数は、「春風馬堤曲」の六分の一が「澱河歌」、その三分の一が「老鶯児」、そして、行数は、「春風馬堤曲」の四分の一が「澱河歌」、その八分の一が「老鶯児」と、
十分に意図されたものであることが理解される。さらに、「春風馬堤曲」は藪入りの少女に代わってのもの、続く、「澱河歌」はその少女の成人した艶冶な女性に代わってのもの、そして、最後の「老鶯児」が、その晩年の老婦人に代わってのものと、即ち、女の一生のようなことをイメージしてのものともとれなくもないのである。

金曜日, 8月 04, 2006

虚子の実像と虚像(その二十一~三十四)




虚子の実像と虚像(二十一)

○ 一つ根に離れ浮く葉や春の水   (大正三年)

※この日、「日光は其水に落ちて『春先らしい暖さ』と、何処やらまだ風の寒い『春先らしい寒さ』とを見せている情景にあい、「透明な水の底の方の赭つちやけた泥がすいて見え」るのを見つめながら「『水温む』といふ季題の事を」「考へずにはゐられ」なくなり、その後で、「或大きな事実に逢着」「其処に芥とも何ともつかぬ、混雑した中に」「思はぬ方の、づつと遠方の水底に根を下ろしてゐる事」を発見し、覚えず先の句をえた(松井利彦著『大正の俳人たち』所収「俳句の作りやう」、「ホトトギス」大三・三)。

 ここに、虚子の俳句工房の全てが内包している。句作に当たっては、虚子は「ぢつと案じ入る事」・「ちつと眺め入る事」、そして、「季題による気分、情緒にひたり」、「その上で写生による新発見をする」というのが、その制作過程の全てである。この制作過程でのポイントは、上述の虚子の言葉でするならば、「或大きな出来事に逢着」するという、「写生による新発見」ということが上げられよう。そして、虚子の場合は、この「写生による新発見」の、その「或大きな出来事」については、沈黙をしたまま、それを言外に匂わせるということも敢えてしないというのが、その作句上の信条ともいえるものであろう。ここの「或大きな出来事」と「自己の特異の境涯性」とを結合させて、第一期の「ホトトギス」の黄金時代を築き上げていった俳人に、子規よりも二年年上の慶応元年生まれの村上鬼城がいる。

○ 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 (鬼城、「ホトトギス」大正三・一)

 この中七の「石を噛み居る」の、鬼城の「写生による新発見」に、鬼城は胸中の「己の境涯性」というのを詠い上げる。鬼城は、虚子の作句手法をそのまま遵法しながら、虚子とは異質の境涯詠という世界を構築することとなる。鬼城は虚子という俳句の師を得て、見事に開花することとなる。虚子は作句することよりも、他の人の句を鑑賞し、その他の人の句の好さを見抜き、その他の人をその人自身が本来持っているその才能を開花させるところの抜群の「俳人発掘」の才能を有していた。ここに、虚子が碧梧桐らの新傾向の俳句を放逐する原動力があったということは、自他ともに認めるところのものであろう。


(二十二)

○ 曝書風強し赤本飛んで金平怒る  (明治四十一年・「日盛会」第一回)
○ 書函序あり天地玄黄と曝しけり   ( 同 )

 この二句については、「以上二句、八月五日。日盛会。第五回。小庵。尚この会は八月一日第一回を開き殆毎日会して八月三十一日に至る。此時の会者、東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」との留め書きが付されている。この留め書きは重要で、この日盛会といのは、当時の碧梧桐らの「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」の特別鍛錬会のような催しで、この鍛錬会での虚子の作は、この八月五日の二句を皮切りにして八月二十七日(第二十五回)までの代表的な句が、虚子の第一句集『五百句』の中に収録されている。その八月二十三日の日盛会(第二十一回)の三句は次のとおりである。

○ 凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
○ 由(よし)公の墓に参るや供連れて
○ 此墓に系図はじまるや拝みけり

 この一句目の句は、虚子の長律の破調の句として著名で、次のアドレスでのネット鑑賞記事もある。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「去来への親しみ尊敬の念の表れた秀句である。去来は芭蕉の弟子で、自分を小さくすることにかけては天下一品で、生涯芭蕉の弟子として師を敬い続けた謙虚な人であると聞く。またその墓も小さい。この句、この破調が快く響く。虚子はこの句で、自分を小さく虚しくすることの美しさをを詩っているのである。」

 しかし、これらの句の背景には、当時の碧梧桐らの新傾向俳句の定型無視(長律・短律の試行)などの批判を内包してのものと解すべきなのであろう。この二句目の「由公の墓」(この「由公」とは芭蕉が葬られている義仲寺の木曽義仲の「義仲」公の意と解する)
なども痛烈な碧梧桐らへの風刺が内包しているように思えるのである。


(二十三)

○ 金亀子(こがねむし)擲(なげ)うつ闇の深さかな  
(明治四十一年・「日盛会」第十一回)
次のアドレスのネット鑑賞記事は次のとおりである。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「この闇の深さには、外側の闇の深さも勿論あるが、内面の闇の深さというものもそこに当然含まれている。私は秀句というものは外側の自然を内側の自然の合一というものが実現されていると思うのであるが、その意味でこれは秀句である。さてこの『擲つ』というのは物を放り投げるように捨てるというような意味であるが、ある人がこれは板のようなものに投げぶつけたと思っていたと言った。それを聞いて私はびっくりしてしまった。それを正しいとすると、この句は凄いものになる。『黄金虫を板にぶつけて闇の深さかな』となるとこれは凄い。そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる。そしてこの解釈も面白いのである。秀句の条件などすっ飛んでしまいそうである。」

 この「そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる」という指摘は、当時の虚子の碧梧桐らの俳句に対する憤りを内心に有している句と言っても過言ではなかろう。そして、この日盛会に参集したメンバーの、「東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」というのは、いわゆる、碧梧桐らの「俳三昧」(「日本新聞」の「日本俳壇」を活動拠点としていた俳人達)に対して、虚子らの「俳諧散心」(「国民新聞」の「国民俳壇」ほ活動拠点としている俳人達)のメンバーで、前者が当時の多数派とすると少数派ということになる。そして、そのメンバーというのは、虚子一派というよりも、寄り集まりの反碧梧桐派という趣である。この当時は、虚子がタッチしていた
「ホトトギス」に、この両派の句稿が掲載されるなど、決定的な対立状態ではなかったが、この虚子の掲出句などを見ると、虚子自身としては内心忸怩たるものがあったことは想像に難くない。


(二十四)

○ 芳草や黒き烏も濃紫 (虚子・明治三十九年)
○ 黛を濃うせよ草は芳しき(東洋城・明治三十九年)

 この掲出の虚子と東洋城の二句は、明治三十九年三月二十九日の「俳諧散心」の第一回での席題「草芳し」でのものである。この「俳諧散心」について、下記のアドレスで次のように紹介されている。この東洋城は後に虚子と袂を分かち、現に続く俳誌「渋柿」を創刊する。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1-3.htm

「碧梧桐らの一派が『俳三昧』という俳句の鍛錬会を行ったのに対し、虚子も明治三十九年三月十九日、『俳諧散心』なる俳句の鍛錬会を始める。『散心』とは『三昧』と同じ仏語であるが、『三昧』が心を一事に集中するのに対し、『散心』は気の散る事、散乱する心の意味で、あえて碧梧桐とは反対の言葉を選んだのは碧梧桐に対する揶揄の気持ちがあったのであろう。しかし、当初は月曜日に集まって句会を開くという事で『月曜会』と呼ばれていた。三月十九日虚子庵の第一回に集まったのは、東洋城、蝶衣、癖三酔、浅茅、松浜の五人で、第一回の席題は『草芳し』であった。後に東洋城の代表句にあげられる
      黛を濃うせよ草は芳しき
はこの席で作られた。この席での句は後に冊子となり、『芳草集』と題されたが、『ホトトギス』に発表する際、虚子が『俳諧散心』と改めた。これが『俳諧散心』の由来である。又、明治四十一年八月、第二回目の俳諧散心がホトトギス発行所で催された。今回のは毎週月曜日に開催されるのではなく、一日から三十一日まで連日催され、猛暑の中で催されたから『日盛会』と名づけられた。参加者は松根東洋城、岡村癖三酔、岡本松浜、新しく飯田蛇笏が参加していた。この会では

       金亀子擲(なげう)つ闇の深さかな    虚子
       凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり  虚子

などの句が作られている。そして俳諧散心最後の日、虚子は集まった人たちに、現在『国民新聞』に連載している『俳諧師』に全力を傾ける為、暫く俳句を中止すると宣言し、周囲を驚かせた。そのため、虚子が担当していた『国民俳壇』の選者は松根東洋城に委譲している。しかし後に『国民俳壇』をめぐって東洋城は虚子のもとを去ることになる。参考    村山古郷『明治俳壇史』」

(二十五)

○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (大正二年)

この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正9・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。

○ 白日は我が霊なりし落葉かな (水巴・昭和二年)

(二十六)

○ 我を迎ふ旧山河雪を装へり (大正三年)
  
 この掲出句には、「一月。松山に帰着。同日十二日夜、松山公会堂に於て」との留め書き
がある。この大正三年には虚子が「ホトトギス」に投句を懇請して、村上鬼城・渡辺水巴らと「ホトトギス」の第一期黄金時代にその名を連ねている飯田蛇笏の次の傑作句が生まれている。

○ 芋の露連山影を正しうす (蛇笏・「ホトトギス」大正三年)

 この蛇笏の句について、山本健吉は「大正三年作。作者が数え年三十歳の時の句である。現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰か書いていたものを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである」(『現代俳句』)と劇賞した。この蛇笏もまた、碧梧桐らの「新傾向俳句」の中心人物・中塚一碧楼に対して、虚子が「ホトトギス」の牙城の一角に据えた「正しい定型律」の象徴的な俳人として位置づけられるような感慨を抱く。すなわち、「新しい俳句」を求めて、その五七五の定型を完璧なまでに破壊する一碧楼と、虚子の「守旧派」という呼び掛けのもとに、その五七五の定型を「俳諧(連句)の立句(発句)」までに再構築した蛇笏とは、そのスタートとにおいて「早稲田吟社」で句作を共同でしていた連衆でもあった。この両者が、それぞれ、「新派」の一碧楼、「旧派」の蛇笏として競う姿は、さながら、当時の、「碧梧桐と虚子」とが競う姿と二重写しになってくる。虚子は、当時の蛇笏について、「殊に蛇笏君に向つては、君の句の欠点を指摘するものは僕が死んだら誰もあるまい。僕の居る間にどしどし雑詠に投句して、取捨のあとを稽(かんが)へて置いた方が利益であらうといふことをいつた」(『ホトトギス雑詠全集五』大正六年)と、他の「ホトトギス」俳人とは別格化扱いをしている。水巴が主宰誌「曲水」を創刊した同じ大正五年に「キラ丶」(後の「雲母」)を刊行し、虚子調の「ホトトギス」俳句とはニュアンスの異質の蛇笏調の「雲母」俳句を樹立していくのであった。水巴の俳句観が「生命の俳句」ということなら、さしずめ、蛇笏のそれは「霊的に表現されんとする俳句」(「ホトトギス」大正七年の蛇笏の論)とでもいうのであろうか。蛇笏もまた次第に虚子と距離を置いていくこととなる。

(二十七)

○ 一人の強者唯出よ秋の風  (虚子・大正三年)
○ 秋風や森に出合ひし杣が顔 (石鼎・大正二年)
○ 秋風に倒れず淋し肥柄杓  (普羅・大正二年) 

 大正三年一月の「ホトトギス」の「読者諸君」欄に虚子は次のように記した。
「大正二年の俳句界に二の新人を得た。曰、普羅。曰、石鼎」(松井利彦著『大正の俳人たち』)。この二人の新人、前田普羅と原石鼎こそ、虚子が発掘した「ホトトギス」直系の二人の新人ということになろう。碧梧桐らの「新傾向俳句」には荻原井泉水・大須賀乙字などの若きエリートが群れをなし、それらに対抗すべき「ホトトギス」直系の新人俳人を虚子は渇望していたことであろう。そして、村上鬼城・渡辺水巴・飯田蛇笏らにこれらの有望な若手の新人が加わり、子規山脈とは異なった、虚子山脈ともいうべき「ホトトギス」第一期の黄金時代が現出するのである。掲出の一句目は、虚子の巨人願望の句として、当時の虚子自身の投影の句と解したが、それと併せ、当時の虚子の強力な新人俳人の渇望も見え隠れしているように解したい。そして、次の石鼎の句は、大正二年十一月の雑詠で巻頭を占めたもののうちの一句である。この時の作品の中には石鼎の代表句となる次の句などがある。

○ 淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守  (石鼎)
○ 蔓踏んで一山の露動きけり    (普羅)

 掲出の三句目の普羅の句は、その一席となった石鼎に次いで、雑詠欄二席となった普羅の作品の一つである。この二句について次のような鑑賞がなされている。
「前句(石鼎の句)の『秋風や』は、切字を伴っていることもあって、読み手は秋風の冷たさ、淋しさを情緒としてまず持つことを必要とする。そしてその情感の上に立って、森で逢った木樵の恐らく年老いた、そしてとぼとぼ歩む杣の顔つきを思い描くのである。守旧派的発想の典型の句である。これに対し、普羅の句の秋風は冷たく吹き過ぎてゆく風で、その風にも倒れることのなかった肥柄杓を淋しと見たのである。秋風の情緒に立脚しない。ある景の中の強く吹き過ぎる風として捉えている。この用法は大正中期になって大須賀乙字によって理論づけがなされ、昭和期に新興俳句運動の拡がりの中で一般化されるもので、当時としては思い切った新しさで虚子を着目させ、石鼎・普羅ではなく、普羅・石鼎と言わせたのであろう(松井・前掲書)。石鼎は、後に「鹿火屋」を主宰し、この「鹿火屋」は今日に至っている。また、普羅は請われて北陸の「辛夷」を主宰し、その「辛夷」も今日に至っている。このようにして、「ホトトギス」俳句は全国を席巻していくこととなる。


(二十八)

○ 蛇逃げて我を見し眼の草に残る (大正六年)

この句には、「五月十三日、発行所例会。十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」との留め書きがある。この留め書きからすると、何か坂本四方太らの逝去に関連してのものと思われがちであるが、どうもそれらとは全然関係なく、この句は当時の虚子にあっては、曰く付きの問題の孕んでいる一句のようなのである。というのは、この句が作られた後の、六月五日にホトトギス発行所で「月並研究」の座談会があり、その座談会に偶々新傾向俳句の中心人物の大須賀乙字が、この留め書きに出てくる坂本四方太の遺族のことで来訪していて、この座談会に加わり、この掲出句と同時作の虚子の次の句を月並み句として批判した記録が残っているのである(松井・前掲書)。

○ 草の雨蛇の光に晴れにけり    (虚子)
○ 八重の桜ゆさぶる風や木の芽ふく (虚子)

 その記録によると、この虚子の二句について、乙字は次のように批判して、その上、改作案すら提示しているとのことである。 
「この二句は、概括的で且つ主観がはっきりしない。が之を鑑賞する即味ふ方から言へば、その主観を深く穿鑿して見なけりやならない心を起される。其点に先づ不審を打ったのである」。「先づ不審をただして作者に伺ふ事は、蛇の光に草の雨が晴れて来たといふ句の出来た時の作者の心持。・・・」。この乙字の傲慢とも取れる問に虚子は次のように答えている。
「草の雨が晴れかかつて来た時分に蛇の光が強く目に映つたのである」。「一旦雲が晴れかかつてくれば、そこに当る日はもう夏らしい光の強い感じがする。さういふ場合の、日を受けた蛇の光を詠じたのである」。この虚子の説明に対し、乙字は以下(要約)のようなことを主張し、改作案を示すのである。
○光が中心に出来ているなら、「蛇の光」と名詞形にして真中に据えたのでは活動がなくなる。句を作るとはき、最も活動した言葉に表れるのが普通であるのに、蛇の光と活動を消して表現している。一度趣向の篩にかけて作られており、最も感動したものを凝固させている。私が作るなら、蛇が光ったというような、あるいはいつまでも光っているというような、長い時間を持っているような光景は主眼としない。
 そして、乙字はこの句を
   草の雨蛇光り晴れにけり  と改作をすすめている。(松井・前掲書)
 さらに、虚子の自信作の一つの掲出の句に対しても、
○「草に」の「に」がやや曖昧なる語である。「蛇逃げて」も「て」というと、次の起こった事の間に多少の時間を思わせる。それで「蛇逃げつ」と「つ」とした方がよい。(松井・前掲書)

 この座談会があった大正六年当時の俳壇状況というのは、虚子の本格的な俳壇復帰が緒について、「ホトトギス」の勢力は先に見てきたように有力な俳人達の台頭もあり、いわゆる、虚子らの「守旧派」と碧梧桐らの「新傾向俳句」との対立は、「守旧派」の一方的な優勢のうちに推移し、それらの推移を見極めるかのように、虚子は「進むべき俳句の道」を指し示すという最中のことであった。しかも、年齢的にも七歳年下で、実作上の経験もさほどでない乙字が、 堂々と虚子の面前でこれらの「反虚子」・「反守旧派」を主張するのだから、虚子も怒り心頭に発したらしく、この座談会のあった翌月に、再度、乙字を招いて座談会を開き、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」とし、「月並研究」そのものを中止してしまったという(松井・前掲書)。このような、掲出句等のこれらの句の背景というのを垣間見る時に、虚子の反「新傾向俳句」というのは、反「碧梧桐」というよりも、より多く、反「碧梧桐を取り巻く若きエリート俳人達」へのものだったということを如実に物語っているようにも思えるのである。

(二十九)

○ コレラ怖(を)ぢて綺麗に住める女かな (大正三年)
○ コレラ船いつまで沖に繋り居る      (同上)
○ コレラの家を出し人こちらへ来りけり    (同上)

 「以上三句。七月三日。虚子庵例会」との留め書きがある。虚子にしては珍しく「コレラ」というどぎつい措辞で、何やら時事句的な雰囲気の句である。『大正の俳人たち』(松井利彦著)の「中塚一碧楼」のところに、一碧楼が出していた「試作」という俳誌が紹介されていて、その中に次のようなコレラの句がある。

○ コレラ患者が死んだ、麻畑ばかり思ひつづけて (荒川吟波) 

 これらの、いわゆる碧梧桐らの新傾向俳句の一つの「試作」派的な句について、虚子はかなり好意的な一文を「ホトトギス」(大正二・六)に寄せているのである。その要旨は以下のようなものであった。

※碧梧桐らの新傾向俳句は、一つの方向として「今日の如く再び十七字、季題趣味といふ二大約束の上に復帰する」。その二つは「更に驀進の歩を進めて十七字といふ字数の制限をも突破し季題趣味をも撥無し、全然俳句以外の一新詩を創造する」。私(虚子)は「此の第二を選ぶ事は新傾向運動として最も重大の意味あるものとして私(ひそか)に嘱望していた」。そして、「此の第二の結果を産む革命運動として私は寧ろ、『試作』一派の人の上により多くの希望を繋ぐのである」。

 これらの虚子の記述を見ると、虚子は碧梧桐らの新傾向俳句についてもそれを熟知し、「全然俳句以外の一新詩」として、俳句(十七字・季題趣味を基調とする)ではなかなか表現が困難ないわゆる社会的事象などを主題とする、中塚一碧楼らの「試作」の作品には希望を託し、それらについては一定の評価をしていたということが伺えるのである。掲出の虚子のコレラの句も、例えば、掲出の荒川吟波のコレラの句などに触発されて、虚子としては珍しい当時の社会的事象を主題とした句とも解せられなくもないのである。この「試作」に発表した一碧楼の句として、次のような句がある(松井前掲書)。

○ 八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れ   (一碧楼)
○ 啄木は死んだ、この頃の白つつじ  (同上)

 一碧楼のこれらの句は、現代の金子兜太らのいわゆる前衛俳句に近いものであろう。そして、虚子はこれらの一碧楼らの句(俳句というよりも一新詩として)に一定の理解と評価をしていたということは、虚子の実像を知る上で特記しておく必要があろう。


(三十)

○ 老衲(ろうどう)炬燵に在り立春の禽獣裏山に (大正七年)
○ 雨の中に立春大吉の光あり (同)

この二句については、「以上二句。二月十日。発行所例会。会者、京都の玉城、所沢の俳小星、青峰、宵曲、一水、雨葉、しげる、湘海、みずほ、霜山、今更、たけし、鉄鈴、としを、子瓢、夜牛、石鼎」との留め書きがある。この大正七年の頃に来ると、原石鼎の他に「島田青峰・柴田宵曲・中田みずほ・池内たけし・高浜としを」など、その後の「ホトトギス」誌上などでのお馴染みの方の名も見受けられるようになる。この大正七年・八年にかけての、ホトトギス「百年史」のネット関連の記事は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

大正七年(1918) 一月 「俳談会」連載、虚子、破調を試みる
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
八月 「山会」を復活。
九月 第二回其角研究。この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919) 一月 「写生を目的とする季寄せ」(ホトトギス附録)。
二月 「風流懺法後日譚」連載、虚子。
三月 虚子『どんな俳句を作ったらいいか』刊(実業之日本社)。
八月 「写生は俳句の大道である」原月舟(八回連載)。
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。

上記の年表の、大正七年一月「虚子、破調を試みる」とは、掲出の一句目のような句作りを指しているのだろう。さらに注目すべきことは、その九月に、「この年新傾向運動終熄」とある。すなわち、碧梧桐らの新傾向俳句はここに終熄したというのである。そういうことを背景にして、掲出の二句、一句目の「立春の禽獣裏山に」と、二句目の「立春大吉の光あり」とは、なんと、この年の、この「この年新傾向運動終熄」の、それらを背景とする、虚子の心情そのものを詠っていることか。まさに、「ここに虚子あり」という雰囲気である。
(三十一)

○ 藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (大正九年)

この掲出句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがある。先の大正八年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということになろう。この日野草城については、次のアドレスでの紹介記事がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

(日野草城)
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

○ 春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正九年「ホトトギス」)

 掲出の句は、草城の二十歳満たない学生時代の作である。そして、この句が作られた大正九年について、ホトトギス「百年史」には、次のように記している。新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた「海紅」も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、「ホトトギス」の「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。掲出の句の「猫」・「蛇」とは、その「京鹿子」を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。しかし、これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではなかろう。また、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○日野草城 (ひの・そうじょう) 明治34年 昭和31年 京大三高俳句会の創設メンバー。新興俳句に進み、 「旗艦」 創刊。 晩年に同人復籍。

  遠野火や寂しき友と手をつなぐ
  妻も覚めてすこし話や夜半の春
  既にして夜桜となる篝かがりかな
  心ところ 太てん煙のごとく沈みをり
  蚊か遣やり火びの煙の末をながめけり
  粕汁に酔ひし瞼や庵の妻
  冬椿乏しき花を落しけり

大正九年(1920) 一月 乙字没。
二月 「小学読本中にある俳句」連載、鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。
九月 虚子軽微の脳溢血、以後禁酒、雑詠一時蛇笏代選。
十月 雑詠投句二十句を十句とする。
十一月 「京鹿子」創刊。
十二月 「海紅」主宰一碧楼に代わる。

(三十二)

○ 人形まだ生きて動かず傀儡師 (大正十年)

 「一月十一日。新年婦人句会。かな女庵。昨年十月、軽微なる脳溢血にかかり、病後はじめて出席したる句会」との留め書きがある。ここに出てくる「かな女」とは、長谷川かな女のむことであろう。その夫・零余子とともに、「ホトトギス」の一時代を築きあげていったが、大正十一年にはその「ホトトギス」を離脱している。零令子亡き後、昭和五年に「水明」を創刊して、その水明」は現に続いている。掲出の句は当時の虚子の自画像であろう。なお、かな女に関する句は次のとおり。

○ あるじよりかな女が見たし濃山吹    (石鼎・大正四年)
○ 蠅おそろし止まるもの皆に子を産み行く (かな女・大正七年)
○ 行秋や長子なれども家嗣がず      (零余子・大正八年)

 この長谷川かな女については、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○長谷川かな女 (はせがわ・かなじょ) 明治20年 昭和44年 夫・零余子ともども「進むべき俳句の道」 にとりあげられた。 婦人俳句会で活躍。

  切きれ凧だこの敵地へ落ちて鳴りやまず
  羽子板の重きが嬉し突かで立つ
  蚊帳くゞるやこうがいぬきて髪淋し
  空壕に響きて椎の降りにけり
  戸にあたる宿なし犬や夜寒き
  湯がへりを東菊買うて行く妓かな
  戸を搏うつて落ちし簾すだれや初嵐
  呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
  髪かいて額まろさや天てん瓜か粉ふん

 また、ホトトギス「百年史」は下記のとおりである。

大正十年(1921) 五月 「鹿火屋」創刊。
十月 「平明にして余韻ある俳句がよい・客観写生」虚子。
大正十一年(1922) 三月 虚子島村元と九州旅行。
四月 みづほ・風生・誓子・秋桜子・帝大俳句会(東大俳句会)を復活、「破魔矢」創刊。
九月 虚子選『ホトトギス雑詠選集』刊(実業之日本社)。
十一月 京大三高俳句会解散、「京鹿子句会」へ移行。「山茶花」創刊



(三十三)

○ 日覆に松の落葉の生れけり (大正十二年)

 「六月二十八日。風生渡欧送別東大俳句会。発行所。上京中の泊雲出席」との留め書きがある。「風生」は後に「若葉」を主宰する富安風生のこと。「泊雲」は実弟の野村泊月と共に「ホトトギス」雑詠欄の上位を占めて「丹波二泊の時代」を作った西山泊雲のこと。風生も泊雲も虚子に見出され、終始、虚子とその「ホトトギス」の重鎮であった。虚子の掲出の句が、堅実な客観写生の句と解せられるなら、この両者とも、その虚子の堅実な客観写生の句を標榜し、実践し続けた俳人といえるであろう。下記のホトトギス「百年史」にあるとおり、この年の九月一日に関東大震災があり、虚子は鎌倉にあった。この日のことは、『父・高浜虚子』(池内友次郎著)に詳しい。八月には、虚子が一時後継者の一人と目していた島村元が亡くなっている。この島村元の死亡や関東大震災などが原因となり、虚子は「ホトトギス」西遷(「ホトトギス」の経営を京都に移すという案)を決意したという(松井・前掲書)。その「ホトトギス」西遷は日の目を見なかったが、この大正十三年には従来の選者制度を止めて同人制度が設けられ、その同人・課題句選者は次のとおりであった(松井・前掲書)。
(同人) 鳴雪、肋骨、露月、鼠骨、虚吼、繞石、鬼城、蛇笏、泊雲、普羅、石鼎、梧月、温亭、楽堂、青峰、躑躅、王城、泊月、浜人、野鳥、村家、たけし、宵曲
(課題句選者)黙禅、花蓑、野風呂、耕雪、草城、秋桜子、青畝、あきら、公羽
そして、この同人の一人、原田浜人が、当時の虚子が「ホトトギス」俳句として重視していた「客観写生句」(描写句)に対して批判し、離脱していくことになる。一見平穏に見える「ホトトギス」の内部もその実情は混沌としたものだったのである。

○ 一もとの姥子の宿の遅ざくら (風生)
○ 焚きつけて尚広く掃く落葉かな(泊雲)
○ 春水を渉らんとして手をつなぐ(泊月)
○ 一片のなほ空わたす落花かな (元)
○ あるときは一木に凝り夏の雲 (浜人)


大正十二年(1923) 一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924) 一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。


(三十四)

○ 古椿こゝたく落ちて齢かな (大正十五年)

 「二月二十三日。田村木国上京歓迎小集。発行所。二十二日、内藤鳴雪逝く」との留め書きがある。鳴雪は子規より年配で、子規門の大長老だが、虚子と虚子の「ホトトギス」の支援を惜しまなかった。しかし、広く各派の俳人達の交遊関係も厚く、こうした後見人的な支援が どれほど虚子とその「ホトトギス」を支えたものかは、虚子自身が最も知るところであろう。掲出句はその鳴雪の追悼句ではないけれども、当時の虚子の心境を伝えてくれるような一句である。この年、自由律の俳人・尾崎放哉も亡くなっている。この前年には、東大俳句会、京大俳句会に続いて、九大俳句会も結成され、吉岡禅寺洞・芝不器男らが「ホトトギス」に参加してくることとなる。この禅寺洞については、「ホトトギス山脈の人たち」(下記のアドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○吉岡禅寺洞 (よしおか・ぜんじどう) 明治22年 昭和36年 福岡県生まれ。九大俳句会を指導。 「天の川」 の選者として無季欄を設けた。除籍とはなったが、 「ホトトギス」 ゆかりの作家として、芦屋の虚子記念文学館には、 「青空に青海湛へて貝殻伏しぬ」の俳磚 (はいせん) が掲げられた。

  雹ひょう降りし桑の信濃に入りにけり
  ひたすらに精霊舟のすゝみけり
  露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し
  ちぬ釣やまくらがりなるほお 被かむり
  歩きつゝ草矢とばしぬ秋の風
  春光や遠まなざしの矢大臣
  女房の江戸絵顔なり種物屋
  古園や根分菖蒲に日高し

 また、芝不器男については、下記のアドレスで紹介されているが、大正末期昭和初期、俳壇に彗星の如く現れ、子規以来の伝統俳句の良さを高度に発揮した愛媛県出身の俳人である。「不器男」は、論語の「子曰、君子不器」から命名。本名である。二十六歳の短い生涯であった。その生涯に残した句は二百句に充たないという。そのうちの下記の句は虚子の名鑑賞で一躍不動のものとなった一句である。

   あなたなる夜雨の葛のあなたかな

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%8D%E5%99%A8%E7%94%B7


大正十四年(1925) 三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926) 二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

木曜日, 8月 03, 2006

若き日の蕪村(その九)



若き日の蕪村(その九)

(一〇一)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させ、次のとおり独特の蕪村の絵画論を展開している。

○「春風馬堤曲」は、蕪村の故郷毛馬から大阪に出た女が、帰郷して、毛馬の堤にさしかかったときの有様を、漢詩、自由詩、俳句をおりまぜながらうたった、きわめて異色のある詩である。ある意味では、この三種の文体が蕪村の絵画、ことに晩年の謝寅時代の絵画にあらわれている、といえなくもなさそうである。つまり漢詩は、南宗的なものを基調としながら、北宗的なもをまでまじえた蕪村の中国画系統の画、文語体の自由詩は、格調高く迫力にとむ独特の水墨画、そして俳句に対応するものは、俳画を主とした和画系統の画である。

 この漢詩的なスタイルに匹敵する「中国的系統の画」(南画)、自由詩のスタイルに匹敵する「水墨画」(南画と俳画との一体化)、そして、俳句のスタイルに匹敵する「和画系統の画」(「俳画」・「俳諧ものの草画」)の、この三つの蕪村の絵画の区分けは、蕪村の絵画の鑑賞上、大きな示唆を与えてくれる。いや、画俳二道を極めた蕪村の生涯を辿る上での必須のキィワードといっても過言ではなかろう。蕪村が始めて登場するのは、豊島露月が編んだ絵入り俳書、『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」(宰町自画)であった。これは、上記の分類ですると、「和画系統の画」に該当し、それは、二十代前半の江戸時代の蕪村を象徴するものでもあろう。そして、その江戸を後にし、京都に再帰して、丹後に絵の修行に出かけた後、讃岐に赴く。ここで、「階前闘奇 酔春星写」と記した「蘇鉄図襖絵」(現在は屏風に改装)を描く。これは、上記の分類の「水墨画」であり、中国風でもなく、されど、俳画風でもなく、その後の画人・蕪村を暗示するような、丹後・讃岐時代の四十代・五十代前半の蕪村を象徴するようなものであろう。しかし、蕪村のその六十八年の生涯において、上記の分類ですると「中国的系統の画」(南画)が最も多く、それは、当時の時代的な一つの風潮であった、祇園南海・柳沢淇園・彭城百川らの、いわゆる勃興期にあった日本南画の影響を最も多く享受した結果ともいえるであろう。そういう意味で、蕪村は大雅とともに「日本南画の大成者」との名を冠せられるのは至極当然のことではあろう。しかし、上記の分類はあくまでも便法であって、とくに、最晩年の、安永七年(一七七八)以降の落款「謝寅」時代の絵画は、上記の分類を超越して、いわゆる「謝寅時代の絵画」として、上記の分類によることなく、独自に鑑賞されるべきものであろう。そして、この時代のものは、「夜色楼台雪万家図」・「峨嵋露頂図巻」・「春光晴雨図」・「奥の細道屏風」など傑作画が目白押しなのである。まさに、蕪村は晩成の画人であり、俳人であり、そういう意味では、常に研鑽を怠らなかった努力の人であったということを、つくづくと実感する。

(一〇二)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させての、「中国画系統の画、水墨画、俳画を主とした和画系統の画」の三区分のうちの「俳画」(俳諧ものの草画)について見ていきたい。
 安永六年(一七七九)と推定される蕪村の几董宛ての書簡に、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」との一文があり、蕪村は、この「俳画」(俳諧ものの草画)ということにおいて、相当の自信と相当の覚悟を持っていたことが伺えるのである。その俳画の頂点を極めたものが、芭蕉の紀行文『おくのほそ道』に関連するもので、現在、画巻が三巻、屏風一隻、模写一巻が残されており、それらを年代順に列挙すると下記のとおりである。

一 画巻 右応北風来屯需自書干時安永戌戊(七年)夏六月   夜半亭蕪村
二 画巻 安永戌戊(七年)冬十一月写於平安城南夜半亭自書 六十三翁蕪村
三 屏風 安永己亥(八年)秋平安夜半亭蕪村写
四 画巻 右奥細道上下二巻応維駒之需写於洛下夜半亭閑窓干時
安永己玄(八年)冬十月 六十四翁蕪村
五 画巻(模写) 安永丁酉(六年)八月応佐々木季遊之需書
於平安城南夜半亭中 六十二翁蕪村

 この二番目の図巻は、現在、逸翁美術館蔵のもので、上下二巻の十四面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・高館・尿前の関・山刀伐峠・長山重行亭・市振の宿・曽良先行惜別・大聖寺の全昌寺・等栽草庵・大垣近藤如行亭)で構成されている。そして、三番目の屏風が、山形県立美術館蔵のもので、重要文化財に指定されている。この構成は、その六曲に『おくのほそ道』全文を草し、逸翁美術館蔵の図鑑と同じようなスタイルで、九面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・尿前の関・長山重行亭・市振の宿・大垣近藤如行亭)が配置され、全体でまるで一つの画を見るように工夫されている。こういうものは、まさに、画・俳二道を極めて、俳聖・芭蕉の『おくのほさ道』を知り尽くした蕪村ならではの傑作俳画の極地と言えるであろう。そして、蕪村はそのスタートにおいて、露月撰の『卯月庭訓』の「宰町自画」とある「鎌倉誂物」の挿絵(版画)に見られる如く、これらのものを自家薬籠中のものにしていた
ということについては、先に見てきたところのものである。そして、これらの蕪村の生涯の業績は、まさに、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」という趣を深くするのである。

(一〇三)

先に触れた、柿衛文庫所蔵の「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)については、内容的には、古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人の俳人を肖像画的に描き、さらに十三人の代表句も記されており(その画作とは別な時点ではあるが)、俳画の範疇に入るのだろうが、そのスタイルは当時の人物画・肖像画に見られる典型的な筆法(狩野派と土佐派の折衷様式)で、蕪村自身が言っている「俳諧ものの草画」(俳画)とは異質なものであろう。そして、この「俳仙群会図」については、その画賛の「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」との元文年間に制作されたものではなく、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)ということについては、先に触れたところである。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

 この「俳諧ものの草画」(俳画)は、一般的には略画・草筆・減筆などともいわれ、簡略な単純化された表現スタイルをとり、この単純化されたスタイルが、丁度、五・七・五と最小の短詩型表現スタイルの俳句と相通ずるものを有している。そして、この略画・草画はしばしば版本となって、この版本が「翻刻・模刻・改刻」などがなされ、いわゆる、蕪村画の「三十六俳仙図」などは、河東碧梧桐によると、「蕪村『俳諧三十六歌仙』は偽作なり」と完全な否定論までなされるに至っている。しかし、まぎれもなく、蕪村はこれらの「俳諧ものの草画」(俳画)では、そのスタートの時点からその晩年の先に触れた「おくのほそ道」関連の図巻などに至るまで、この面においては傑出した画・俳人であり、この流れが、蕪村門下の月渓・九老・金谷などに引き継がれているのである。さらに、蕪村自身、その源流を探ると、英一蝶・野々口立圃・僧古澗明誉・彭城百川などの影響などを受けており、また、渡辺崋山などの別系統のものもあり、この「俳諧ものの草画」(俳画)という世界も、江戸時代を代表する浮世絵と同じく、一つのジャンルを形成していたということも特記しておく必要があろう。そして、この「俳諧ものの草画」(俳画)において、蕪村は自他共に認める第一人者であったことは言をまたない。

(一〇四)

 蕪村の画業の一つとして、この世にその名をとどめている露月撰『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」も版本の挿絵といってもよいものであろう。この蕪村の挿絵は蕪村俳画の源流といえるもので、この挿絵的な俳画が制作された元文二年(一七三七)当時の、蕪村の肉筆画というものは存在しない。そして、その肉筆画が蕪村作としてその名をとどめているものは、その多くが結城・下館のものであって、その作品は以下のとおりである。

○ 陶淵明山水図       三幅対  子漢   下館・中村家
○ 三浦大助・若松鶴・波鶴図 三幅対  四明   同上
○ 漁夫図          一幅   浪花四明 同上
○ 追羽子図        杉戸絵四面 なし   同上
○ 文微明八勝図     紙本淡彩一巻 伝蕪村模 同上
○ 高砂図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・山中家
○ 人物図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・板谷家
○ 墨梅図         紙本墨画四枚 なし       結城・弘経寺 
○ 楼閣山水図       紙本墨画六枚 なし       同上

 これらの作品が描かれた年代は定かではないが、蕪村の師の早野巴人が亡くなった寛保二年(一七四二)から京に再帰する宝暦元年(一七五一)の約十年間のものであることは確かなところであろう。その落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などからして、これらの作品以外にも相当数の作品を描いたであろうことも容易に想像されるところではある。そして、上記の結城・下館時代の作品のうち、蕪村模写とされている「文微明八勝図」などは、蕪村が本格的に南画を学ぶ切っ掛けになったものであろうと推測されており、この結城・下館時代が、それまでの方向性のなかった蕪村絵画が南画的な方向に舵取りをされた頃であろうといわれている。これらについて、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)では次のように記されている。
○『八種画譜』とは中国の八種の画譜を集めたもので、明末の天啓年間にまとめられて板行され、まもなく、日本にもたらされた。寛文十一年に日本でも困難を克服してようやく翻刻され、さらに宝永七年に再刻された。同じく元禄年間に翻刻された『芥子園画伝』と共に、南画を学ぶものにとっては、それは必要不可欠の教本であった。『芥子園画伝』とは異なり、純粋に南宗的ではないが、それまでよく知られていなかった明画の様式を伝えて、文人墨客に利用され、日本における南画の興隆を促した。関東時代の蕪村は、寛延元年に翻刻されたばかりの『芥子園画伝』の方はまだ見る機会がなかったのではないかと考えられるだけに、『八種画譜』は熱烈に学び、模写をしたことが充分に考えられる。
 
(一〇五)

 「若き日の蕪村」というのは、年代的には、蕪村が京に再帰する宝暦元年(一七五一)以前の、蕪村、三十六歳以前のこととして概略的に使用している。そして、この「若き日の蕪村」時代の初期の絵画の遺品も、また、俳諧(連句・俳句)関連の作品も共に極めて少なく、蕪村がその画俳の二道において真にその名を世に問うて来るのは、京に再帰して、宝暦四年(一七五四)に丹後の宮津行きを決行する以後ということになろう。すなわち、年齢的には、蕪村、四十歳以後ということになる。この四十歳から亡くなる天明三年(一七八三)、六十八歳までの、後半の蕪村の生涯というのは、前半の蕪村の生涯と比して、その情報量も著しく多く、その足跡を辿るということも容易ではあるけれども、いかんせん、その前半の生涯を辿るということは、凡そ至難なことといっても過言ではなかろう。しかし、その前半生の少ない情報を垣間見るだけでも、巷間公然と言われているようなことについて、「果たしてそれは真実なのであろうか」と、そういう洗い直しが必要なのではなかろうかという思いを深くするのである。そのうちの一つとして、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話についても、単に、「洒々落々の『南画』や『俳諧』に身を置いて」のような意味合いで、南画の先駆者たちの、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)と同じようなことなのではなかろうかと・・・、そんな思いもしてくるのである。また、蕪村は己の出生について、「何も語らず、むしろ、それは隠し続けた」ということなどについても、先に触れてきたところであるが、上記の結城・下館時代の絵画作品の落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などを改めて見直すと、蕪村は、「摂津の毛馬の馬堤の遠くに比叡の四明峰を仰ぎ見る」所て生まれ、育ったということをはっきりと語りかけているようにも思えてくるのである。(この時点で、一旦、この「若き日の蕪村」の点と線を結ぶ作業を一区切りとして、「回想の蕪村」ということで、また、違った視点での点と線を結ぶ作業に移ることとしたい。)2006/08/02 一応了。

水曜日, 8月 02, 2006

蕪村の連句(序)



蕪村の連句(序)                                    

 俳諧史上三大俳人といわれる芭蕉・蕪村・一茶の俳句(発句)の数は、井本農吉著の『芭蕉とその方法』(「連句の変化とその考察」)によれば、芭蕉・約一千句、蕪村・約二千八百五十句、そして、一茶は、実に、約一万八千句という。そして、これが連句(俳諧)になると、芭蕉・約三百八十巻、蕪村・約百十二巻、そして、一茶二百五十巻となる。続けて、同著によれば、「大雑把であり伝存の限りのことだが、連句に対して発句の比重の高まる大勢は察せられる」としている。                                

 芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、明治に入り、正岡子規の俳句革新によって、俳諧(連句)が葬り去られる以前において、俳諧(連句)から俳句(発句)へという道筋は、ほぼはっきりとしていたということであろうか。

 これらのことに関して、丸山一彦氏は、「蕪村を契機として、それ以後になると兼題(けんだい)・席題( せきだい)による発句の会が盛んとなり、連句の制作というのはむしろ敬遠される傾向にあり、一茶の連句になると、芭蕉や蕪村のそれと比べて付味も粗雑で作品としても整っていない」との指摘もしている(丸山一彦・「一茶集・連句編」・『完訳日本の古典 蕪村・一茶集』所収)。          

 ということは、俳諧(連句)というものは、芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、それは、蕪村までで、それ以降のものは、芭蕉の俳諧(連句)鑑賞ほどに、その鑑賞に耐えるものは、ほとんど存在しないということがいえるのであろうか。                    

 それにしても、これら三人の俳句(発句)に関する鑑賞・解説の類はほぼ完備されつつあるのに比して、こと連句(俳諧)のそれになると、これは、芭蕉を除いて甚だ未開拓の分野といわざるを得ないのである。蕪村の連句(俳諧)のそれにしても、その全体像を明らかにし、それに、やや詳細な校注を加えたものは、昭和五十年代の、大谷篤蔵・岡田利兵衛・島居清校注・『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)においてであった。そして、個人で、これらの鑑賞・解説の類の、ほぼ全容にわたって挑戦したものは、わずかに、これも、昭和五十年代の、野村一三著『蕪村連句全注釈』を数える以外に、それを例を見ない。                    

 そして、『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆校注・完訳日本の古典58)の「蕪村 連句編」などで、芭蕉とは異質の、高踏的な文人趣味の、いわゆる蕪村調の連句(俳諧)の幾つかについて、それをかいま見るだけで、この文献の少なさが、逆に、無性に、蕪村一派のそれを見たいという衝動にかられてくる。            

 と同時に、これらの蕪村の連句(俳諧)の文献に接してみると、必ずや、昭和の初期の頃刊行された、潁原退蔵編著・『改定 蕪村全集』につきあたる。この著書の、この分野に与えた影響は、それは想像以上に大きなものがある。しかし、その原著に直接接するということも、その刊行以来、半世紀以上が立つ今日において、これもまた、はなはだ困難な状況にあるということも認めざるを得ない。                    

 また、蕪村一派の俳諧(連句)といわず、その一派の俳句(発句)の魅力にとりつかれると、どうしても、これまた、その発句に対すると同程度の連句の世界をかいま見たいという衝動にかられてくるのである。そして、夜半亭二世を継ぐ与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)そして夜半亭三世を継ぐ高井几菫とその周辺の俳人達には、実に、興味を駆り立てる群像が林立しているのである。                      

 いや、それだけではなく、蕪村の連句(俳諧)を知るということは、これは、芭蕉の連句(俳諧)が、どのように変遷していったのかか、さらにはまた、連句(俳諧)が省みられなくなった今日において、その連句(俳諧)の再生ということは可能なのであろうか等の問題点について、何かしら解答が、その中にあるような予感がしてならないのである。                                 
このような観点から、そしてまた、「芭蕉に帰れ」と中興俳諧の中心人物となった蕪村とその周辺の俳人達の群像はどうであったのか、そんなことを問題意識にしながら、蕪村の連句(俳諧)の概括を試みることとする。 この蕪村の連句(俳諧)の概括するに当たっては、その全体像の百十二巻のうちの五十六巻について頭注等を施している、この分野の唯一の古典たる潁原退蔵編著の『改定 蕪村全集(昭和八年改定増補版)』をその中心に据え、その私解的鑑賞を試みることとする。                

 (参考文献)                                           
① 『改定 蕪村全集』・潁原退蔵編著・更生閣・昭和八年改定増補版                ② 『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)・大谷篤蔵・岡田利兵衛・鳥居清校注・集英社・昭和五〇   
③ 『蕪村連句全注釈』・野村一三著・笠間書院・昭和五〇 ④ 『蕪村集 一茶集』(完訳日本の古典58)「蕪村 連句編」・暉峻康隆校注・小学館・昭和五八    
⑤ 『座の文芸 蕪村連句』・暉峻康隆監修・小学館・昭和五三                   ⑥ 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』・中村幸彦著・角川書店・昭和五五                                
(補注)                                             
① 参考文献の校注等については、右の文献等から適宜取捨選択をしており、必ずしも、統一はされていない。 また、⑤の『此ほとり 一夜四歌仙評釈・中村幸彦著』など、詳細な解説がなされているものは、極力、その 著書からの引用するように心がけている。                              
② 特殊文字等の幾つかについて、平仮名を使用している。その箇所については、☆印を付している。