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日曜日, 7月 02, 2006

宮沢賢治の俳句



宮沢賢治の俳句(その一)

○ 秋田より菊の隠密はい(ひ)り候

石寒太著の『宮沢賢治の俳句』(「PHP研究所」刊)は、この種のものでは最も本格的な最も基本的な著書と位置づけて差し支えなかろう。この句の鑑賞で、著者は、句意として「秋田から、はるばるやってきた菊の隠密が、いま入国つかまつりましたぞ、と、いう意。『はいり』は『はひり』の誤記である」とし、「『菊』と『隠密』の取り合わせは、意外性があって面白い。詩人でなければできない句で、俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”ととられても仕方がない」との評をしている(同著「賢治俳句の鑑賞」)。この賢治の句とその評を見ながら、藤沢周平の次の一節が脳裏をかすめた。
「賢治について、私が懐くもっとも手近なイメージは夢想家である。しかしそれはローレンス・ブロックの表現をかりれば”力ずくで伝えたいメッセージ”というわけではない。むしろ、遅疑逡巡しながらのひとりごとである。(中略) 夢想家でなければ、北上川の岸辺をイギリス海岸と名づけ、岩手をイーハトブと呼び、自分たちの農業研究会を羅須地人協会と命名することがあるだろうか。そして夢想家とは少年の別名ではなかろうか」(『ふるさとへ廻る六部は』所収「岩手夢幻紀行」)。
 この賢治の菊の句の背景は、「昭和八年十月、賢治が参与会員であった『秋香会』という菊づくりの会より出品された一本一本の菊の鉢に、これらの俳句をつけて贈ろうという意図にもとづき、企画された、賢治の、菊の挨拶句である」(石・前掲書所収「賢治の俳句の世界」)とのことである。ここで、俳諧・俳句の三要素として、「挨拶・滑稽・即興」とした山本健吉の観点(『純粋俳句』)からすれば、先の「俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”」ととらえないで、夢想家・賢治ならでは奇警・奇抜の句として、丁度、大文豪・夏目漱石の俳句に匹敵する大詩人・宮沢賢治の代表作として大いに喧伝したい衝動にかられるのである。

宮沢賢治の俳句(その二)

○ 魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり
○ 斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり
○ 緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊
○ 水霜(みずしも)もたもちて菊の重さかな
○ 大管(たいかん)の一日ゆたかに旋(めぐり)けり

宮沢賢治の菊に関する連作句は全部で十六句ある(『校本 宮沢賢治全集』)。この菊の連作句ができた経過を見ると大変に面白い。要約すると次のようなことがその背景となっている。「宮沢賢治は石川啄木以上に名の高い人になるだろうと、そのような世評を聞いて、賢治が審査員となっていた『菊花品評会』の副賞の一つに、賢治に俳句を作らせ、それを短冊に揮毫して貰って、受賞者に贈呈しようとしたこと。賢治は『俳句は専門外で、まして、短冊に筆で書くことはできない』旨固辞したが、賢治の母親がたまたまその時におられて、『短冊まで持ってきて依頼されているのだから、お受けしたら』ということで、
その『菊花品評会』の関係者の依頼を引き受けたという。そして、当時は、賢治の晩年の頃で、身体の調子も悪く、寝たり起きたりの状態であったのだが、賢治は一生懸命に、俳句らしきものを、新聞紙に筆で揮毫の練習をしていたとのこと。それらの、短冊形の障子紙に書かれていたものが、これらの菊の十六句のようなのである」(石・前掲書)。いかにも、賢治と賢治を取り巻く人々らしいと、それらの背景を知ると、とたん、これらの賢治の菊の句が親しいものとなってくる。しかし、掲出の句の、「魚灯・斑猫・緑礬・狼星・水霜・
大管」の、この用語は、およそ、俳句の世界というよりも、賢治曼荼羅の、賢治の詩の世界のものといえよう。「魚灯」(脂肪分の多い魚からとった油を用いてのランブ)、「斑猫」(まだらの模様の猫)、「緑礬」(酸化二次鉱物とか)、「狼星」(星のシリウス)、「水霜」(賢治の好きな気象用語)、「大管」(「太管」のことで和菊の管物の名とか)と、こういう句を、副賞として、賢治自筆の短冊が今に残っていたら、どんなに面白いことか。とにもかくにも、賢治の俳句というものは、これらの句の背景となっているようなことが、その背後にあって、いわゆる、俳句として、これを鑑賞しようとすること自体が、はなはだ、賢治にとっては、予想だにしていなかったということだけは間違いない。

宮沢賢治の俳句(その三)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな

『宮沢賢治』(石寒太著)によれば、賢治の俳句は次の三つに分類することができる。一番目は大正十三・四年頃のものと、昭和八年に三十八歳で他界するまでの二年間前後の頃のもので、先に見てきた菊の連作作品以外の一般作品。二番目はいわゆる菊の連作作品。そして、三番目がいわゆる連句の付句のような作品である。そして、この掲出の三句は一番目の、全部で十五句ある一般作品に該当し、大正十三年の賢治が二十八歳頃の作品で、俳句作品としては一番初期の頃のものである。というのは、口語詩「五輪峠」が誕生したのが、その年で、その詩稿の余白にメモ(習作)のように、この掲出の三句が記されているとのことである(石・前掲書)。その詩「五輪峠」(『春と修羅(第二集)』作品十六番)の、掲出句に関係するところを抜粋すると次のとおりである。

○ 向ふは岩と松との高み
  その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる
○ あゝこゝは
  五輪の塔があるために
  五輪峠といふんだな
  ぼくはまた
  峠がみんなで五つあつて
  地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと
  たつたいままで思つてゐた
○ いま前に展く暗いものは
  まさしく北上の平野である
  薄墨いろの雲につらなり
  酵母の雲に朧ろにされて
  海と湛える藍と銀との平野である
○ つつじやこならの潅木も
  まっくろな温石いしも
  みんないっしょにまだらになる
 
 この「五輪峠」は賢治の母郷のような遠野市・江刺市にまたがる「種山ヶ原」の峠で、賢治の「風の又三郎」の由来にも関係する賢治の心の奥深く根ざしている象徴的な原風景なのである。と解してくると、掲出の句のイメージが鮮明となってくる。「岩も松も、そして、(五輪)峠の上の空もどんよりとした霙空である。その五輪峠の五輪の塔(卒塔婆)の彼方の北上平野も霙が降っている。そして、躑躅(つつじ)や小楢、温石石(暖をとるために使われる石)すらも全てが霙の中である」というようなイメージなのであるが、口語詩「五輪峠」がスケールの大きい叙事詩的なダイナミックな叙法なのに対して、どうにも、掲出の句に見られる十七音字の世界が窮屈極まりないものと思われてくるのである。これらの掲出の俳句らしきものの三句は、俳句というよりも、叙事詩「五輪峠」の詩稿の覚書き的なメモ(習作)そのものと解した方がよさそうである。

宮沢賢治の俳句(その四)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな
○ おもむろに屠者は呪したり雪の風
○ 鮫の黒肉(み)わびしく凍るひなかすぎ
○ 霜光のかげら(ろ)ふ走る月の沢
○ 西東ゆげ這ふ菊の根元かな
○ 鳥屋根を歩く音して明けにけり
● 風の湖乗り切れば落角(おとしづの)の浜
● 鳥の眼にあやしきものや落し角
△ 自炊子の烈火にかけし目刺かな(石原鬼灯の句)
● 目刺焼く宿りや雨の花冷に
● 鷹(原文は異体字)呼ぶやはるかに秋の涛猛り
● 蟇ひたすら月に迫りけり(村上鬼城の「蟇一驀月に迫りけり」の本句取りの句)
● ごみごみと降る雪ぞらの暖さ

上記の十五句が『校本 宮沢賢治全集(第六巻)』所収の賢治の一般作品句の全てで、そのうち、△印のものは「国民新聞」(明治四十三年四月十六日付け松根東洋城選)に掲載された「雲母」系の俳人の石原鬼灯の句と判明され、賢治の句からは除外されたものという(石・前掲書)。そして、●印は「賢治の作品か否かまだ確定的には決定していない」という(石・前掲書)。また、先に見てきたように、ほぼ賢治の作品とされている○印のものも、賢治の詩稿の余白のメモ(習作)のようなものであって、「賢治にもこの種のものがあるのか」程度の理解で差し支えないのかも知れない。それと同時に、詩人・宮沢賢治は、この△印の句などを毛筆で習字の手習いの素材としていたということであり(石・前掲書)、やはり当時の「国民新聞」の俳句欄などには目を通していて、多いに俳句という世界に関心を持っていたということ知ればこと足りるのかも知れない。さらに、「蟇ひたすら月に迫りけり」は村上鬼城の本句取りの句であって、この種のものとして、従前、賢治の句とされていた「大石の二つに割れて冬ざるゝ」は、村上鬼城の「大石や二つに割れて冬ざるゝ」の一字違いのもので、賢治の本句取りの句というよりも、村上鬼城そのものの作ということで除外されたという(石・前掲書)。これらのことからして、宮沢賢治が、高浜虚子に見出され、境涯俳人として脚光を浴びていた村上鬼城の俳句などに多くの関心を持っていたということを知るだけで十分なのかも知れない。その上で、上記の十五句を見ていくと、詩人・宮沢賢治の好みというものが判然としてくる。「霙・温石石・屠者・鮫・霜光・西東・鳥・落し角・目刺・はい鷹・蟇・雪ぞら」など、賢治の詩の特徴の一つの「心象スケッチ」の詩稿ともいうべきものの原初的なスタイルを、これらのメモ(習作)に見る思いがするのである。

宮沢賢治の俳句(その五)

○緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす首座の菊(十字屋書店・全集)
◎緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊(筑摩書房・校本全集)
○斑猫(はんみょう)は二客の菊に眠りけり(十字屋書店・全集)
◎斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)してかほる霜夜をめぐりけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)して小菊の鉢をならべけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)してあしたの菊を陳べけり(筑摩書房・校本全集)
○徐ろに他国の菊もかほりけり(十字屋書店・全集)
◎夜となりて他国の菊もかほりけり(筑摩書房・校本全集)
○たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊屋形(十字屋書店・全集)
◎たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊の丈(筑摩書房・校本全集)
□狼星(ろうせい)をうかゞふ菊の夜更かな(両方の全集に収載)
□灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ(同上)
□たそがれてなまめく菊のけはひかな(同上)
□その菊を探りて旅へ罷るなり(同上)
□秋田より菊の隠密はいり候(同上)
□花はみな四方に贈りて菊日和(同上)
□水霜をたもちて菊の重さかな(同上)
△菊株の湯気を漂ふ羽虫かな(筑摩書房・校本全集)
△狼星(ろうせい)をうかゞふ菊のあるじかな(同上)
△大管の一日ゆたかに旋りけり(同上)
●集まればなまめく菊のけはひかな(十字屋書店・全集)
●霜ふらで屋形の菊も明けにけり(同上)
●霜ふらで昴と菊と夜半を経ぬ(同上)
●水霜のかげろふとなる今朝の菊(同上)
●客去りて湯気だつ菊の根もとかな(同上)
●菊を案じ星にみとるる霜夜かな(同上)
●水霜や切口かほる菊ばたけ(同上)

宮沢賢治の俳句のうち第二分類の菊の連作句の全てである。これらの菊の連作句は昭和八年十月の花巻で開かれた菊品評会の副賞として授与するために、賢治が病床の身にありながら、その一年前あたりからノートなどにメモされていたものの全てで、現在、賢治の菊の連作句としているものは、『校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房刊・昭和四八~五二)に収載されている十六句(◎・□・△印)である。そして、これらの作品を推敲する過程において、賢治自身が最終的には推敲して最終稿とした句が六句(◎印)、そして最終の推敲の過程において削除したものと思われる句が七句(●印)で、これらは『宮沢賢治全集』(十字屋書店刊・昭和一四~一九)に収載されている。賢治はこれらの菊の連作句のいくつかの句を菊品評会の副賞として、短冊にしたため、それがその時の入賞者に手渡された年(昭和八年)の、その一ヶ月後の九月に永眠する。そういう意味において、これらの菊の連作句は、宮沢賢治の絶句ともいうべきものであろう。そして、これらの菊の連作句の推敲過程をつぶさに見ていくと、凄まじい賢治の創作にかかわる推敲姿勢ということを思い知るのである。

宮沢賢治の俳句(その六)

○ おのおのに弦をはじきて賀やすらん   清
   風の太郎が北となるころ       圭
  一姫ははや客分の餅買ひに       清
   電車が渡る橋も灯れり        圭
  ほんもののセロと電車がおもちやにて  圭 

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入る連句・付句の三組みのうちの一つである。これはいわゆる連句の歌仙(三十六句からなる連句、表・六句、裏・十二句、名残の表・十二句、名残の裏・六句)のうちの表・六句のものと解せられる。この表六句は藤原嘉藤治氏宛書簡(昭和五年十二月一日)に記載されているもので、賢治、三十四歳の作ということになる。この藤原嘉藤治氏は『宮沢賢治全集』(十字屋書店)などで高村光太郎らと一緒に編集委員の一人となっている方である。賢治は大正十年(二十五歳)~昭和元年(三十歳)まで花巻農学校で教鞭をとるが、その頃、隣接して花巻高等女学校で音楽の教鞭をとっておられた方が藤原嘉藤治氏である(賢治の代表作の「永訣の朝」の妹の方もこの学校に奉職していた)。賢治もオルガンやセロを本格的に習っていて、いろいろと藤原嘉藤治氏との交遊関係は密なるものがあったのであろう。この表・六句の作者名の、「清」は賢治の弟の清六氏のそれと解されるが、本人は自分の作ではなく、賢治が「清」と「圭」との両方の名を使っての、いわゆる両吟(二人でする連句)の形での、実質的には賢治の独吟(一人でする連句)であろうということである(石・前掲書)。この六句の冒頭の発句には、「季語・切字」が必須なのであるが、賢治は第一分類の一般的な俳句作品でもそうなのだが、季語は全く無視して作句しているのが特徴である。ただ、この表の六句は、「藤原御曹子満一歳の賀に」という前書きがあり、贈答連句としては、相当に手慣れたものという印象を受ける。二番目の脇句は賢治の童話の傑作「風の又三郎」を連想させ、六句目(折端)はこれまた「セロ弾きのゴーシュ」を連想させる。いずれにしろ、正岡子規の俳句革新以来、連句は片隅に追いやられ、俳句オンリーとなっていた当時において、賢治が連句に興味を持っていて、その連句のうちの代表的な歌仙の、表の六句を、実質独吟のものを、あたかも、二人でする両吟の形で、「藤原御曹司満一歳の賀に」の前書きを付与して、今に残されているということは、実に特筆されるべきことであろう。それだけではなく、作品の内容からして、賢治の「連句・俳句」の作品のなかでも、この表・六句は一番見応えがある作品のように解せられる。


宮沢賢治の俳句(その七)

○ 大根のひくには惜しきしげりかな
    稲上げ馬にあきつ飛びつゝ
 或ハ 痩せ土ながら根も四尺あり     圭

○ 膝ついたそがれダリヤや菊盛り
    雪早池峰(ゆきはやちね)に二度降りて消え
 或ハ 町の方にて楽隊の音

○ 湯あがりの肌や羽山に初紅葉
    滝のこなたに邪魔な堂あり
 或ハ 水禽園の鳥ひとしきり

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入いる連句・付句の三組のうちの二つ目のものである。これらのものについては、佐藤二岳氏宛書簡(昭和三年十月三十日)の中に記載されている。
この佐藤二岳氏は俳人で本名は隆房氏で、これは、いわゆる、文音(手紙などでやりとりする)連句の長句(五七五の句形)と短句(七七の句形)との応答のものと思われる。そして、一番目の短句に「圭」とあるのは、宮沢賢治の号で、このことからすると、これらの長句の作者は佐藤二岳氏で、その二岳氏の長句に、二通りの短句の付句を宮沢賢治がしたためたもののように思える。この長句と短句との付合は、普通は長句の季語に合わせて同じ季の季語を用いるのが普通なのであるが、これまた、宮沢賢治はそういう決まり(式目)には拘泥していない。そして、どの付句(短句)も、前句(長句)の景を的確にとらえていて、どちらかというと疎句(離れ過ぎの句)というよりも親句(付き過ぎの句)的な付け方である。とくに、この掲出の三番目の「滝のこなたに邪魔な堂あり」は、前句の「初紅葉を観賞するのに邪魔な堂あり」と、滑稽味のある面白い付けである。なにはともあれ、「連句非文学論」(正岡子規の主張)の風潮の中にあって、東北の一隅にいて、こういう文音連句に、宮沢賢治が興じていたということは驚きであるとともに、宮沢賢治を取り巻く二・三の俳友・先輩がおられて、詩や童話の創作の傍ら、セロやオルガンにも興を示すとともに、俳句や連句などにも貪欲に取組み、その指導を仰いでいたということが、賢治の短い生涯にあって、一つの光明を投げ掛けているように思われる。

宮沢賢治の俳句(その八)

○  神の丼は流石に涸れぬ旱(ひでり)かな   無価
     垣めぐりくる水引きの笠       賢治
○  広告の風船玉や雲の峰          無価
     凶作沙汰も汗と流るゝ        賢治
○  あせる程負ける将棋や明易き       無価
     浜のトラックひた過ぐる音      賢治
○  橋下りて川原歩くや夏の月        無価
     遁 げたる鹿のいづちあるらん     賢治
○  飲むからに酒旨くなき暑さかな      無価
       予報は外(そ)れし雲のつばくら     賢治
○  忘れずよ二十八日虎が雨         無価
    その張りはなきこの里の湯女      賢治
○  三味線の皮に狂ひや五月雨        無価
     名入りの団扇はや出きて来る     賢治
○  夏まつり男女の浴衣かな        無価
     訓練主事は三の笛吹く       賢治
○  どゞ一 を芸者に書かす団扇かな    無価
     古びし池に河鹿なきつゝ      賢治
○  引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍     無価
     繭の高値も焼石に水        賢治

宮沢賢治の俳句の第三分類に入る連句・付句の作品のうちの最も本格的なものである。二句の付合で、俳人の大橋無価氏の長句に宮沢賢治が短句の付句をしたものである。大橋無価氏は賢治の父親とも親交のあった医師で、岩手県医師会長、そして、花巻町長を一期勤めた花巻人物誌に残る傑物である。これらの両者の付合の作品は、「東北砕石工場花巻出張所用箋」に書かれているもので、この東北砕石工場には賢治が三十五歳の時に技師として勤めたところで、その頃(昭和六年)のものなのであろう。賢治のこれらの付句は、無価氏の長句の季語の季に合わせて、同じ季の季語を使ってのものも見受けられるが、総じて、季語には拘らないという姿勢は、これらの付句においてもいえる。しかし、俳人として地方の名士でもあった無価氏の長句に、実に手慣れた付句で、こういう付合の記録が残されているということは、相当、両者の間にはこうしたやりとりがあったのであろうと推測される。それにしても、世故に通じている無価氏の「芸者・遊女」などの句に、どう見ても世故には長けていないと思われる賢治が堂々と渡り合っているのは何とも妙であるし、また、賢治の別な一面を垣間見る思いすらするのである。それは、「侘び・寂び」の俳聖・芭蕉が、こと連句の付合においては、「恋句」の名手であったようなことと軌を一にするものなのかもしれない。


宮沢賢治の俳句(その九)

○ ごたごたや女角力の旅帰り
 稲熟れ初めし日高野のひる

宮沢賢治には十四の手帳が今に残されている。この長句と短句との付合は「兄弟像手帳」に記されており、「車中にて」の前書きが付与してある。何時頃の作か定かではないが、賢治がある時の車中での一時を、このような連句の付合をメモしながら旅をしていたということは興味がそそられるところである。賢治が亡くなったのは昭和八年(一九八三三)のことであるが、昭和十六年の頃(「俳句研究第八巻第八号(昭和十六年八月)東北車中三吟」)の、柳叟(柳田国男)・迢空(折口信夫)・善麿(土岐善麿)の三吟による「赤頭巾の歌仙」と題する歌仙がある。柳田国男は民族学者・俳諧研究家、折口信夫は民族学者・歌人、そして、土岐善麿は歌人として、今なお、三人とも教祖とも崇められている超一流の日本を代表する国文学者としての共通項を有している。この三人による歌仙にも、賢治のこの付合と似たような場面が出てくる。

オ 発句   麦踏むや一人かぶらぬ赤頭巾     善麿
  脇     こだまをかへす山咲(ワラ)ふ也    迢空
  第三   宗任の田打ち桜と見つれども     柳叟
ナオ五    この潟を埋めてしまふ秋風に     善麿
  六     更地を買へば相撲うるさき     迢空

 詩人・宮沢賢治とこれらの超一流の国文学者(柳叟・迢空・善麿)との関係というのはそれほど密なるものがあったということは寡聞にして知らないが、当時の車中などにおいては、
外の景色などを見ながら、こういう歌仙などに興じられるような豊かな時間を持つことができたということは、容易に想像ができるところである。と同時に、当時の車中においては、「稲熟れ初めし」光景や、「麦踏む」光景などを常に目にしていて、更には、「角力・女角力」などの巡業などが大きな娯楽であったということもこれらの付合や歌仙から容易に類推することもできよう。そして、詩人で童話作家として、今にその名を轟かしている宮沢賢治が、このような当時の風物詩をリアルにこのような付合の形で今に残していてくれているということは、大詩人・童話作家の宮沢賢治ではなく、日常の個人としての賢治その人のありのままを見る思いがして、その点で、賢治のこれらの付合や俳句に非常な親近感を覚えるのである。



宮沢賢治の俳句(その十)

○ 灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ    風耿 

この掲出句は宮沢賢治の第二分類の菊の連作句のうちの一句である。この句の賢治の自筆の短冊が『宮沢賢治の俳句』(石寒太著)などで目にすることができる。「菊」といえば秋の代表的な季語であるが、賢治は何時ものことながら、季語には無頓着(無頓着というよりも季語に拘泥することを嫌っているようにもとれる)で、「夏葉の菊」と夏の句として作句している。賢治は短歌からスタートとして、「詩・童話」の世界に入り、数々の独自の世界を築いていった。そして、三十八年という短い生涯の最期にあっても、辞世の次の二首の短歌を残して永別した。

○ 方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
○ 病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし

 この賢治の短歌の世界に比して、賢治の俳句の世界というのは、量・質的に比べようもなく、賢治にとってはほんの手遊びの程度のものであったが、冒頭の掲出句に見られる通りに、俳句の号として「風耿(ふうこう)」を用いており、連句の付合においては先に触れた通りに、「圭」というものを用いていて、決して無関心であったわけではない。そして、賢治の俳句・連句との交友関係として、鎌田一相・河本義行(自由律俳句)・大橋無価・草刈兵衛の各氏などが上げられ(石・前掲書)、これまでの作品でも見てきた通りに、賢治自身、この俳句・連句の世界というものを、一つの詩稿のヒントを得るためのメモとして、あるいは、日常生活の一断面を即興的にこれらの句形に託するという形において、やはり、その生涯において、それに慣れ親しんでいたということはいえそうである。そして、特筆しておきたいことは、単に、俳句だけではなく、連句の付合などに興味を示し、その面での作品が今に残され、それらの作品は数こそ少ないが、賢治の一面を知る上で貴重なものであり、この意味において、これらの賢治の「俳句・連句・付句」の再評価というのは、これからもっとなされて然るべきものと思われるのである。

○ 引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍  無価
   繭の高値も焼け石に水     賢治

 無価氏の長句(五七五の句)は「引け過ぎ」(遊女が張り店から引き揚げること)の句。その前句に付けての賢治の短句(七七の句)は「繭の高値も焼け石に水」(繭が高く売れたのにそれも焼け石に水だった)というのである。この句を作句している賢治のことを想うと何故かほのぼのとしてくるのである。

土曜日, 7月 01, 2006

藤沢周平の俳句



藤沢周平の俳句(その一)

○ 蜩や高熱の額暮るゝなり (「梅坂」より)
○ 春蝉やこゝら武蔵野影とゞむ(「のびどめ」より)

平成十六(二〇〇四)年も去ろうとしている。十二月二十九日と三十日に、モンテカルロテレビ祭・ゴールドニンフ賞を受賞したという、藤沢周平原作の「蝉しぐれ」が再放送された。第一部「嵐」、第二部「罠」そして第三部「歳月」と三部構成であった。そのテレビの新聞での紹介に、「藤沢周平原作、黒土三男脚本、佐藤幹夫演出。郡奉行の文四郎(内野聖陽)は、前藩主の側室で初恋の相手のふく(水野真紀)に二十年ぶりに再会した。十五歳の時の文四郎(森脇史登)は、当時十三歳だったふく(伊藤未希)と淡い恋をはぐくんでいた。だが文四郎が十九歳の時、農民のために働いてきた義父の助左右衛門(勝野洋)がぬれぎぬを着せられ切腹。文四郎は義母の登世(竹下景子)と長屋へ転居し、江戸に奉公に出ていたふくは藩主に気に入れられて藩主の子供も身ごもる」とあった。藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に、「句集」として、「『梅坂』より」に五十四句、「『のびどめ』より」に五十句、そして「拾遺」として七句の百十一句が収載されている。その「初出控」によると、「梅坂」寄稿句は、昭和二十八年六月号から昭和三十年八月号、そして「のびどめ」寄稿句は、昭和二十八年十月号から昭和二十九年九月号と、作家・藤沢周平誕生以前の結核療養時代(現・東京都東村山市の篠田病院林間荘)の、これらの俳句創作に打ち込んでいたのは年月にして二年程度のことであった。これらの俳句の多くは、同じ、結核を病み、その病苦をひたすら綴った石田波郷らの、いわゆる「療養俳句」の流れの中に入るものなのであろう。石田波郷の頂点の句集といわれる『惜命』(昭和二十五年刊)、そして、『定稿惜命』(昭和三十二年刊)は、必ずや、藤沢周平こと小菅留治は目にしていたことであろう。その藤沢周平の原点は、この石田波郷の「惜命」ということからスタートとするといって過言ではなかろう。そして、それは、掲出句の「蜩」や「春蝉」のように、人間の定めのような寂寥感を漂わせているものであった。

藤沢周平の俳句(その二)

○ 花合歓や畦を溢るゝ雨後の水(「拾遺」)
○ 花合歓や灌漑溝みな溢れをり(「梅坂」より)

藤沢周平の「蝉しぐれ」の舞台は、架空の藩・梅坂藩である。この梅坂藩の「梅坂」は、周平の闘病生活時代に、俳句創作に打ち込んだ、静岡県の俳誌「梅坂(うなさか)」に由来があるという。この俳誌 「梅坂」は水原秋桜子の高弟の一人である、「馬酔木」同人の百合山羽公が主宰するものであった。百合山羽公は大正十一(一九二二)年に高浜虚子の「ホトトギス」に入門し、昭和四(一九二八)年にその雑詠巻頭にもなり、虚子に見出された俳人の一人であるが、昭和六年の水原秋桜子の「ホトトギス」離脱にともない、秋桜子と行を共にし た俳人で、戦後の昭和二十一年に俳誌 「あやめ」を創刊主宰し、この「あやめ」が、周平が所属した俳誌 「梅坂」の前身である。その俳誌 「海坂」に周平が投句していた花合歓の句が、掲出の下記の句である。それは昭和三十年以前の、作家・藤沢周平以前の、常時肺結核で死と直面するような日々の中の小菅留治その人であった。そして、平成八年の、周平の晩年に到り、戦後間もない昭和二十四年当時に赴任していた生まれ故郷の隣りの町の出羽(山形県鶴岡市)の湯田川中学校に建立を依頼されていた「藤沢周平記念碑」に寄稿した周平の句が、掲出の冒頭のものである。即ち、この掲出の冒頭の句は、いわば、藤沢周平の忘れ形見ともいえる「花合歓」の句であり、それは、まだ、作家・藤沢周平が誕生する以前の、およそ三十年余以上の前の、肺結核で療養していた一療養者の掲出の二番目の花合歓の句に由来のあるものなのであろう。このように見てくると、山本周五郎、そして、司馬遼太郎と並び称せられる名うて時代物の作家・藤沢周平の原点は、まぎれもなく、この療養時代の、この掲出の二番目の花合歓の句にあるのであろう。その藤沢周平の記念碑は次のアドレスで見られる。
http://www.yutagawaonsen.com/fujisawa.html

藤沢周平の俳句(その三)

○ 友もわれも五十路に出羽の稲みのる(「拾遺」)

作家・藤沢周平がこのペンネームでスタートとしたのは、ネットの年譜によると昭和四十年(一九六五)、三十五歳の時であった。その二年前に亡くした奥様の出身地名の「藤沢」からの命名という。そして、藤沢周平が第三十八回直木賞を受賞したのが、昭和四十八年(一九七三)、四十六歳のときであった。この掲出句の「五十路」を迎えた頃は、「オール読物新人賞選考委員」(四十九歳の時)、「直木三十五賞選考委員」(五十八歳の時)と、作家・藤沢周平の絶頂期の頃と解して差し支えなかろう。出羽(山形県)は藤沢周平の生まれ故郷である。
ここで育ち、ここで学び、ここで二年間の教職に立ち、ここで病を得て、東京の病院に入院したのが、昭和二十八年(一九五三)、二十六歳の時であった。この病院の俳句愛好会の俳誌が「のびどめ」であり、そして、この病院にて静岡県の俳誌 「海坂」に投句を始めたのである。さらに、俳句から詩へと、その病院内の詩の会の「波紋」に参加して、それらの詩の創作も、藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に収載されている。

  一枚の枯葉が
  悲しく落ちた夜

  野にも山にも
  雪が降つた
  雪は音もなく地上を白くした   「白夜」の抜粋

 この雪の降る白夜の風景は、周平の生まれ故郷の出羽が脳裏にあることであろう。周平はこの出羽を離れて、東京で業界紙に職を得て、その仕事を何度か替えながら二度と出羽に帰ることはなかった。その出羽への望郷の思いは、その出発点の俳句にも、さらには、詩にも、そして、その名を不動のものにした時代物の小説の分野においても、色濃く宿している。そして、この掲出句は、五十路を迎えて、懐かしき出羽の幼友達とその稲穂の稔れる出羽の大地を目にしたときの感慨の句であろう。藤沢周平の年譜は次のアドレスのものに詳しい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nsfujisawa3record.html

藤沢周平の俳句(その四)

○ 梅雨寒の旅路はるばる母来ませり  (藤沢周平)
○ 春夕べ襖に手をかけ母来給ふ    (石田波郷)

当時の結核病というのは、最も恐れられていた病気で完全治癒は絶望視されていて、幸いに軽快に赴いても社会復帰はまず叶わないものと一般的に見られていた。こういう宿痾というものを抱えての療養所生活というものは実に暗澹たるものであったろう。こういう療養所が各地に設立され、そこでは盛んに句作が行われ、その「療養俳句のメッカ」とも称せられていたのが、石田波郷が療養していた東京都下の清瀬村国立東京療養所(清瀬療養所)である。ここで、石田波郷は昭和二十四年四月号の「現代俳句」に「屍の眺め」五十句を発表し、そして、これが後に集大成され、昭和二十五年刊の句集『惜命』として結集され、これは療養俳句のバイブルとも称されるものであった。また、その石田波郷が所属していた水原秋桜子主宰の「馬酔木」でもこの療養俳句は盛んであり、藤沢周平が参加した百合山羽公主宰の「海坂」もこの「馬酔木」系の俳誌 であり、単に療養俳句の中心的な俳人としてだけではなく、「馬酔木」系の「鶴」の主宰者として、当時の昭和俳壇の代表的俳人としての石田波郷の名は一世を風靡していたものであった。その石田波郷の随想に「母来り給ふ」というものがあり、その随想の中に記されている句が掲出の二句目の波郷の句である。その他、波郷のこの療養所生活時代の母の句はどれもよく知られた句であり、これらの波郷の療養時代の母の句について、同じ療養生活をおくり、同じ療養俳句に携わり、同じ「馬酔木」系の俳誌に投句していた藤沢周平は、意識・無意識とを問わず、それらが脳裏の片隅にあったであろうことは容易に想像ができるところのものである。藤沢周平は一言も石田波郷については触れてはいないが、この掲出句の一句目の藤沢周平の母の句は、石田波郷の影響下にあったということを素直に語りかけているように思われる。また、そういう観点での藤沢周平俳句の鑑賞というのが、必須のように思われるのである。

藤沢周平の俳句(その五)

○ 水争ふ兄を残して帰りけり(「梅坂」より)
○ 水争ふ声亡父に似て貧農夫(同上)

ネットで芭蕉の「おくのほそ道」関連のものを見ていたら、次のような記事に出合った。
「鶴岡は徳川四天王の一人酒井忠勝を家祖とする、庄内藩十三万八千石の城下町である。母は、作家藤沢周平氏の熱狂的なファンである。『用心棒日月抄』や『三屋清左衛門残日録』に登場する海坂藩が、氏の郷里庄内藩をモデルにしていることを知って以来、鶴岡は母のあこがれの町になった。その鶴岡城跡を歩く。さほど広くもない平城の跡は、鶴岡公園と呼ばれている。お堀にはカルガモの親子が遊び、柳の古木が静かに影を落している。しっとりとして落ち着きのある公園であった。城跡のはずれに記念碑があって、『雪の降る町』が鶴岡で生れたことを知った。触れるとメロディが流れる仕掛けである。『又八郎も歩みし城の風清し』感激の城跡を歩いた母の一句である。因みに又八郎は、『用心棒日月抄』シリーズの主人公で、五十騎町に住んでいた。」そして、象潟のところには、「幕末秋田の有志が決死隊をつくって庄内藩へ斬りこんだ折り、決意のため熊野神社でもとどりを切った、と記された碑が境内に立っていた。いきさつはよく分からないが、世に知られた鳥海山系の水争い以外にも、秋田県と山形県にはどうやら反目の歴史があるらしい。」
こういうネットの記事は楽しい。藤沢周平の作品の背景と一つとなっている鶴岡市も酒田市も芭蕉の「おくのほそ道」と切っても切れない関係のある土地というのを再認識すると共に、それらの農村地帯においては、深刻な「水争い」が絶えなかったという思いを強くしたのである。藤沢周平の「半生の記」には、その療養時代に、家長たる長兄の副業の失敗などによる帰郷のことなどは記されているが、掲出句に見られる「水争い」のことについては記されていない。しかし、「家長たる長兄」のことや、周平の生まれ故郷の庄内藩の農村の「水争い」に思いを馳せるとき、周平の数々の作品の背景のイメージが鮮烈となってくる。藤沢周平の時代物の作品を、芭蕉の「おくのほそ道」の時代とイメージをタブらせて見ていくのも一興である。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.oka.urban.ne.jp/home/suisho/hito/index.html

藤沢周平の俳句(その六)

○ 閑古啼くこゝは金峰の麓村(「拾遺」)

「私が生まれた山形では、五月は一年の中のもっともかがやかしい季節だった。野と山を覆う青葉若葉の上を日が照りわたり、丘では郭公鳥が鳴いた」(『ふるさとへ廻る六部は』より)。藤沢さんにとって金峰山は母の懐のような存在であっただろう。『海坂藩』には金峰山を思わせる山がしばしば登場する。今回は『三月の鮠』(文春文庫「玄鳥」から)を紹介したい。城下の西を流れる川をさかのぼっていくと丘に突きあたる。その丘は小高い山を背にし、小楢やえごの木、また欅の大樹などの林をぬけてゆくと杉の木立ちに囲まれた社があらわれる。旧暦の三月は今の四月中旬から五月の季節である。『三月の鮠』には五月の金峰山と神社を連想させる箇所がたくさん出てくる。たとえば、『新緑を日に光らせている木木の斜面はかなり急で、傾斜の先は眩しい光が澱む空に消えている。』。『社前の、砂まじりの広場は塵ひとつなく掃き清められていて、杉の巨木に取りかこまれた神域は少し暗く、すがすがしい空気に満たされていた。』など、金峰の登山道や神社が浮かんでくる。この神社の別当は『神室山』の本社から派遣された山伏である。神室山はこの地方の山岳修験の聖地で、この小説の女主人公はこの山へ逃げようとしたが、追手の目をくらますためこの城下近くの山へ身を隠したのである。かつては修験場として栄えたという金峰山のイメージを彷彿させる。他の作品にも多く登場する金峰山は『海坂藩』の重要な舞台となっているのである」。これはネットで紹介されていた藤沢周平の生まれ故郷の金峰山に懐かれて閉村となった旧黄金村(現在の鶴岡市大字高坂字盾の下)と架空の藩の海坂藩に登場してくる金峰山と思われる山のイメージの描写である。そして、この掲出句は、架空の梅坂藩のそれではなく、藤沢周平の終世脳裏に焼き付いていて離れなかった実在した旧黄金村そのもののイメージなのである。藤沢周平はその出発点の療養時代に俳句と取り組み、その後、その俳句の世界と袂を分かったが、折りに触れて、俳句を創作し、その一部が、「拾遺」という形で今に残されているのである。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199805.html

藤沢周平の俳句(その七)

○ 春水のほとりにいつまで泣く子かも(「海坂」より)
○ 秋の川芥も石もあらはれて(「のびどめ」より)

藤沢周平の架空の藩・海坂藩の山が周平の生まれ故郷の金峰山をモデルとしているならば、その海坂藩に登場してくる川や橋などもまた周平の脳裏には生まれ故郷の川などがイメージとしてあることであろう。周平の地元の周平を愛する人達がそれらのことについてネットで紹介している。そして、周平の創作上の数々の架空の風物が、周平の生まれ故郷の実在する風物と重ねあわさるとき、たったの十七音字の、たったの二年たかだかの周平の療養時代の俳句が、実に鮮やかに、その架空の風物と実在する風物との橋渡しをしてくれることに、今更ながらのように俳句の持つ一面を思い知るのである。掲出の周平の川の句は、それはそのまま周平の創作上の川の背景となっているものであろう。ここでも、周平のモデルとしている実在の川や橋のネット上の記載やそのアドレスを紹介しておきたい。
「『海坂藩』に必ず登場する風物といえば、川とそれに架かっている橋が挙げられる。城下の真中には「五間川」が流れ、さらに東にも西にも大小の川がある。橋にも千鳥橋とか河鹿橋といった洒落た名前がついている。『五間川』は内川と重なり、主人公が渡っているのは、内川のあの橋だろうか、などと想像するのも楽しみのひとつである。また、町の西側を流れる川は青龍寺川で、例えば『ただ一撃』には主人公の刈谷範兵衛が川原で石を拾ったり、釣りをしたりする川として登場する。青龍寺川は藤沢さんの生家のすぐ前を流れていて、泳いだり、雑魚しめをしたりした想い出深い川である。五間川という一定の名は付けられていないが、『海坂』ものの重要な舞台としてよく登場する。」
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199807.html

藤沢周平の俳句(その八)

○ はまなすや砂丘に漁歌もなく帰る(「のびどめ」より)
○ 冬潮の哭けととどろく夜の宿(「拾遺」)

「『海坂藩』は三方を山に囲まれていて、残りの一方には海がひらけている。その海が近いので、港町から朝とれた新鮮な魚が城下に届く。『三屋清左衛門残日録』に登場する小料理屋・涌井で出される魚の料理がこの小説に彩りを与えていることは周知のことである。例えば『まだ脚を動かしている蟹』は味噌汁で食べ、『クチボソと呼ばれるマガレイ』は焼き、『ハタハタ』は田楽にする。清左衛門が風邪で寝込むと嫁の里江が『カナガシラ』を味噌汁にて食べさせるなどなどである。海坂藩は海の幸にも恵まれた城下として藤沢さんは描いている。」「『龍を見た男』(新潮文庫)には油戸の漁師が出てくる。源四郎という荒くれ者の漁師と、彼の獲った魚を鶴ヶ岡や大山に売りにゆく、働き者で信心深いおりくという女房の話である。甥が海にのまれて死んでしまっているし、源四郎も霧の夜、漆黒の闇の中、港を見失う。浜中の沖にまで流された源四郎を助けたのは善宝寺の龍神だった。このように海は人間に大いなる幸を与える一方で、災いも与えてきたのである。」
 これらも、ネットの世界で紹介されている藤沢周平の時代物の創作に登場する海の風景の背景である。藤沢周平のデビュー作ともいえる葛飾北斎を描いた小説のタイトルは「溟い海」であり、海もまた周平にとっては生まれ故郷の出羽の日本海のイメージであろう。

  異国ではない 古い海辺の町
  のんびりしてゐるやうで敏感な町
  変屈ではあったが
  重い海風が街街の屋根から私を覗いてゐた (「余感」よりの抜粋)

 掲出の海の句もこの詩の延長線上にある。上記のネットのアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199811.html

藤沢周平の俳句(その九)

○ 黒南風(くろはえ)の潮ビキニの日より病む

藤沢周平には、六代将軍・家宣に仕えた儒者の新井白石を主人公にした『市塵』や俳人・一茶を主人公にした『一茶』など実在の人物を実に鮮やかに描いたもがある。最後の遺作となった米沢藩の上杉鷹山の財政改革などを主題とした『漆の実のみのる国』などは、司馬遼太郎の晩年の『この国の形』などに匹敵するほどの、現代の日本への遺言のような警鐘ようにも思われる。また、周平が療養時代の前の二年ほど教職にあった頃の教え子達へのその後の書簡などを見ていくと、わが国の農業政策の政治の貧困を指摘するものなどが目につく。そのような、現実の政治・経済・社会に対する周平の視線は鋭い。掲出の句は、昭和二十九年(一九五四)の当時の日本に大きな衝撃を与えたビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の、いわゆる「ビキニの死の灰」をテーマとしたものであろう。時に、藤沢周平こと小菅留治は二十七歳で、東京都下の東村山で療養生活三年目を迎える頃であった。日々、死と直面するような日々にあって、ひたすら、俳句創作に打ち込んでいた頃のものである。この頃は療養所の中の詩の会「波紋」にも参加し、詩の創作などにも打ち込んでいた。

此の雨の中から
私はもつと美しい物語を作つて見たい
忘れ去られるのは使ひはたした玩具だけだど
そして世界の隅隅で
それらの玩具は忘れ去られて良いのだという物語を
――。                   (「街で」よりの抜粋)

それから十年後の昭和四十年(一九六五)、藤沢周平のペンネームで、作家・藤沢周平の数々の「美しい物語」が誕生するのである。

藤沢周平の俳句(その十)

○ 夕雲や桐の花房咲きにほひ (「海坂」より)
○ 桐の花葬りの楽の遠かりけり ( 同上 ) 
○ 桐の花踏み葬列が通るなり  ( 同上 )
○ 葬列に桐の花の香かむさりぬ ( 同上 )
○ 桐の花咲く邑に病みロマ書読む ( 同上 )
○ 桐咲くや掌触るゝのみの病者の愛 (同上)

藤沢周平には桐の花の句が多い。桐の花は夏の季語である。豊臣家の紋だったこともあるのだろうか、どことなく滅びを象徴するような儚い印象のする花である。そして、同時に療養時代の周平を象徴するような花でもある。いや、藤沢周平の六十九年の生涯において、一番似つかわしい花は、合歓の花か、この桐の花として、何時も生と死を直視して創作活動を続けた周平にとって、「桐の一葉」と共に滅びいくものの儚さを象徴するような淡い紫の「桐の花」が似合うように思われる。平成九年(一九九七)九月一日に発見された奥様あての「書き残すこと」は、平成六年前後の亡くなる三年前あたりに書かれたものらしい。
それを見ると、周平はこの療養時代以後、何時も人間の定めのような滅びいくものの儚さというものを凝視続けてきたように思えてならない。
「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことをすべて和子にやってもらったが、特に昭和六十二年に肝炎をわずらってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出のときの附きそい、病院に行くときの世話、電話の応対、寝具の日干しなどを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。そのおかげで、病身にもかかわらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることができた。思い残すことはない。ありがとう。」
 今回、藤沢周平の俳句周辺のものを見ていく過程で、周平に対する女性ファンの多いのには改めて驚いたのであった。それと同時に、作家・藤沢周平というのは、どことなく、性格俳優の「宇野重吉」似という印象であったのだが、実は、若き日の教職にあった頃の小菅留治という実像は、二枚目俳優の「佐田啓二」似に近いものだったいうことも新しい驚きであった(藤沢周平全集別巻「仰げば尊し(福沢一郎稿)」)。それを裏付けるように、この全集ものの別巻に掲載されている教職・療養時代の写真は、掲出句に見られる陰鬱なイメージとは正反対に、実に爽やかな、丁度、「蝉しぐれ」の主人公の牧文四郎のような颯爽たるイメージなのである。そういう藤沢周平こと、小菅留治の実像らしきものに接したとき、これらの掲出句の鑑賞にあたっても、単に、療養時代の特殊な環境下の創作活動だったと、その境涯性を強調することなく、その底流に流れている、後世に数々の傑作小説を生む原動力のような「激しい詩魂」というものに焦点をあてて鑑賞すべきなのではなかろうかということを最後に付記しておきたい。

芥川龍之介の句



芥川龍之介の句(その一)

○ 古池や河童飛びこむ水の音

答 少なくとも予は欲せざるを能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は如何?
答 「古池や蛙飛びこむ水の音」
問 君はその詩を佳作なりと倣(な)すや?
答 予は必しも悪作なりと倣さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩離陸たるべし。

 上記の問答は、現在の「芥川賞」で偶像化されている小説家・芥川龍之介の小説「河童」の中の問答の一節である。河童国の自殺した詩人・トックをして、龍之介は、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池や河童飛びこむ水の音」にすると、より一層佳句となると言わしめているのである。龍之介には「続芭蕉記」という創作もあり、そこでは、「彼(芭蕉)は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と、逆接的な大賛辞を呈しているのである。龍之介にとっては、正岡子規も高浜虚子も、更には、龍之介を世に出した恩師ともいうべき夏目漱石すらも、こと、俳句においては眼中になく、たた゜、芭蕉とその門人の凡兆らのみに、多くの関心を示したのであった。蕪村については、潁原退蔵が編纂した『芭蕉全集』に、その「序」を呈しているが、その作品の多くは目にしていなかったし、一茶についても、ほとんど、その作品に目を通しているという形跡は見あたらない。龍之介は生前に、五百六十句ほどの俳句を創作して、そのうちの、七十七句のみを、昭和二年に刊行した『澄江堂句集』に収録したという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。七十七句と厳選に厳選を施したこと、そして、昭和二年に、その句集を刊行したということは、昭和俳諧史のスタートは、龍之介の俳句をもってスタートしたともいえる。

芥川龍之介の句(その二)

○ 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

「この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。七月二十四日の午後一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の短冊を渡して言った。『伯母さんこれをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからと言ってわたしてください』これが彼の最後の言葉となった。『下島さん』は主治医下島勲であり、乞食俳人井月を世に紹介した人である。彼はヴェロナールおよびジャールの到死量を仰いで寝たのである。短冊には『自嘲』と前書して、この句が書かれてあった」(山本健吉著『現代俳句』)。彼のデビュー作として夏目漱石に激賞された短編小説の「鼻」の主人公の禅智内供の「細長い腸詰めような鼻」すらも連想させる。この句について、「鼻に託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱であろう」
(山本・前掲書)と山本健吉は評している。龍之介が自殺したのは、昭和二年(一九二七)の三十五歳という若さであった。そして、この辞世の句とされている句も、この同じ年に刊行された『澄江堂句集』に収録されているのである。この昭和二年は台湾銀行の休業が発端となっての金融恐慌が勃発した年である。龍之介は「或る旧友へ送る手記」で、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」との言葉を残している。何か、龍之介が生きていた時代、そして、その後の、日本が辿る時代を予感しているような響きすら有している。

芥川龍之介の句(その三)

○ 更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁

この句には、「田舎びとは夜のあることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。夜とはともし火にも照らされたるものを。この田舎は闇のけうとかりければ」との前書きが付与してある。さらに、この句は、大正十一年九月八日付けの真野友彦あての手紙にも書かれており、その頃の作とされている(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、山本健吉は、「小島政二郎氏がこの句には、芭蕉の『夏の夜や崩れて明けし冷やし物』が透いて見えると言ったのは、当時芥川と句を見せ合った人の言葉だけあって、よく見透かしている」(山本・前掲書)と、この句の背景について指摘している。芭蕉の「崩れた冷やし物」を、龍之介は「上ぬるみけり泥鰌汁」と置き換えているのである。また、芭蕉が「夏の夜や崩れて明けし」を、龍之介は「更くる夜を上ぬるみけり」と逆付けを試みているのである。こういう本句取りの、換骨奪胎的な手法は、龍之介の生みの親でもある夏目漱石の俳句においても、顕著に見られるものであった。それ以上に、この本句取りの手法というのは、永い俳諧(連句)の歴史を省みて、芭蕉を始め多くの俳人が金科玉条としてきたものであった。そして、そういう技法上のこと以外に、芭蕉の句においても、夜を徹しての宴(俳諧興行)の後の侘びしさのようなものを漂わせているが、龍之介のこの句に至っては、その前書きにある「闇のけうとかりければ」と「気怠い雰囲気」が、芭蕉の句以上にストレートに伝わってくるのは、龍之介の神経が極度に研ぎ澄まされていて、何時か破綻を来すような、言葉では表現できないような不安に苛まれていたということを暗示しているように思えるのである。そして、こういう龍之介の当時の姿は、彼の描く小説よりも、より以上に、七十七句と、極端に厳選した『澄江堂句集』の句の中に、より多く真相が見え隠れしているように思えるのである。

芥川龍之介の句(その四)

○ 兎も片耳垂るる大暑かな   (龍之介)
○ 芥川龍之介仏大暑かな    (万太郎)

龍之介の掲出句には「破調」との前書きがある。「兎も」が四字で「字足らず」の破調を、わざわざ前書きにしているのである。それは、「片耳垂るる」で、それで、「両耳でなく片耳だけの字足らずの破調」と言葉遊びを楽しんでいるのである。そして、龍之介の知己の一人の久保田万太郎のこの句には「昭和三年七月三日」との前書きがある。龍之介が服毒自殺したのは、その前年であり、これは一周忌の追悼句ということになる。この万太郎の句は、龍之介の掲出の破調の句を意識していることは勿論である。意識しているというよりも、龍之介の破調の句の「本句取り」の句と言って差し支えなかろう。追悼句の名手とされている万太郎は、また、「情にウエート」を置いての作句を得意とした。それに比して、龍之介はこの掲出句のように「知にウェート」を置いた作句を得意とした。そして、両者に共通していることは、共に、当時の俳壇の「ホトトギス」調とか「馬酔木」調とかとは無縁で、江戸の古俳諧、そして、子規が痛罵・排斥した、月並俳句的技法を自家薬籠中の物にしているということである。このことは、両者とも意識していて、龍之介は万太郎の句集『道芝』(昭和二年刊)の「序」で、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであろう」と指摘している。この指摘は、龍之介にも均しく当てはまることであろう。

芥川龍之介の句(その五)

○ 木がらしや東京の日のありどころ  (龍之介)
○ 東京に凩の吹きすさぶかな     (万太郎)

龍之介の大正六年の作。龍之介には「木枯し」の句が多い。その龍之介の「木枯し」の句は、彼の代表句とされている「木がらしや目刺にのこる海のいろ」で見ていくこととして、この掲出句では、「東京の日のありどころ」に注目したい。この「日のありどころ」は、蕪村の「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」を意識していることであろう(同趣旨、山本健吉著『現代俳句』)。この蕪村の句について、萩原朔太郎の「『きのふの空の有りどころ』という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。『きのふの空』はすでに『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの凧が揚がっている。すなわち言えば、常に変化する空間(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しげに、窮窿(きゅうりゅう)の上に実在しているのである」との指摘をしている。山本健吉は、この萩原朔太郎の指摘を紹介しながら、「龍之介のこの句にも、凩の空にかかる東京の白っぽい太陽に、作者の郷愁と追慕とが凝結しているというべきであろうか」と、生粋の東京ッ子・芥川龍之介の「東京という彼の故郷の、心を締めつける光景だ」という評を下している(山本・前掲書)。その龍之介が俳句の方では一目も二目を置いてていた同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破していた。この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、この龍之介の掲出句を含めて、龍之介俳句の全てにも均しく言えることであろう。そして、万太郎の掲出句は、昭和十五年の作。龍之介が亡くなって十三年という年月を経てのものである。しかし、この句の背景には、亡き同胞の龍之介の掲出の句が脳裏にあったことは想像に難くない。

芥川龍之介の句(その六)

○ 木がらしや目刺にのこる海のいろ      龍之介
○ 海に出て木枯(こがらし)帰るところなし   山口誓子
○ 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音   池西言水

一句目は龍之介の大正七年作。二句目は「ホトトギス」の「四S」(秋桜子・素十・誓子・青畝)の関東の「秋桜子・素十」に比しての関西の「誓子・青畝」といわれた誓子の昭和十九年作(「四S」の呼称は昭和三年に山口青邨が用いた)。そして、三句目の言水の句は元禄三年の『都曲』に出てくる。この言水の句は言水の句で最も人口に膾炙されているもので、この句をして「木枯の言水」と異名されているほどである。古典に造詣の深い龍之介はこの言水の句が意識下にあったことであろう(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、改めて、この龍之介の掲出の句を鑑賞すると「上五や切り」の「下五体言止め」の最も安定した典型的なスタイルで、言水の「中七切字」の「下五体言止め」よりも古典的な雰囲気を有していることと、「目刺にのこる海のいろ」の鋭い把握は、画・俳二道を極めた蕪村の画人的な眼すら感じさせるということである。この句は龍之介の自慢の句の一つで、小島政二郎宛ての書簡などにも書き添えられているという(山本・前掲書)。そして、この二句目の誓子の句も、誓子の傑作句の一つに上げられるもので、この句の背景にも、言水の句が見え隠れしているが、さらに、龍之介の掲出の句も意識下にあるのではなかろうか。そして、この誓子の句は、太平洋戦争の真っ直中の作句で、「野を吹き木の葉を落としながら吹きすさんで行った木枯しは、何も吹くもののない海上に出て消え失せるのでのである」(山本・前掲書)と、その時代の背景すら、この句に接する者に語りかけてくるのである。そして、木枯しの句は、言水、龍之介、そして、誓子に至って、その頂点に達したように思われるのである。

芥川龍之介の句(その七)

初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき

龍之介のこの掲出句は、蕪村の「うつつなき抓(つま)ミごころの胡蝶かな」が意識下にあるであろう。小説の神様といわれて、龍之介も脱帽していた志賀直哉の蕪村に関連しての龍之介論がある。「大蛾の『十便』を互いに讃め合った時、芥川君は『十便』に対し『十宣』を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある『時雨るるや』の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の『化けさうなの傘』と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅より蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った」(山本健吉著『現代俳句』所収、志賀直哉「沓掛にて」)。続いて、山本健吉は「彼(龍之介)がもっとも敬慕したのは芭蕉であり、もっとも愛惜したのは丈草と凡兆とであった」(山本・前掲書)と指摘している。これらのことは、龍之介の特質を実に的確にとらえていて、龍之介は「好きな人」を「嫌いだ」と逆説的な表現をすることが多いことと、俳句の方では、蕪村よりも芭蕉とその蕉門の丈草と凡兆との句に精通していたということは自他共に認めるほどだったのである。その背景には、当時はまだ、画人・蕪村は喧伝されていたが、俳人・蕪村については、「蕪村句集」なども完備しておらず、昭和八年に刊行された潁原退蔵編の『蕪村全集』が出て、始めて、俳人・蕪村の全貌が明らかになったということもあるであろう。そして、龍之介はこの潁原退蔵編の『蕪村全集』に「序」を寄せていて、「わたしはあなたの蕪村全集を得たならば、かう言う知的好奇心の為に(「蕪村も一朝一夕になったわけではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきりと知りたい」という前文を指している)、夜長をも忘れるのに違ひありません」と、まるで子供が玩具を渇望するよにその刊行を待ち望んでいたのである。志賀直哉が指摘した「龍之介は大雅より蕪村に近い人だったのではないか」、そして、「同時に蕪村よりも大雅が好きだった」という指摘は、「龍之介は気質的にも蕪村に近い人で、それが故に、あたかも自己を見ているようで蕪村を敬遠していた」ともとれなくもないのである。ただ決定的に両者が相違することは、龍之介が早熟な天才肌の人であったの対して、蕪村は老成の努力肌の達人であったということであろう。とにもかくにも、龍之介は、「芭蕉」オンリーのような姿勢をとりながら、内実、この掲出句のように、俳人・蕪村にもどっぷりと浸っていたのである。

芥川龍之介の句(その八)

○ たんたんの咳を出したる夜寒かな
○ 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 龍之介には自分の子を詠んだ句が多い。家庭を顧みない「火宅の人」(擅一雄の小説の題名)のような無頼派のイメージはないけれども、早熟な夭逝した鬼才というイメージから、家庭人というイメージは浮かんで来ない。しかし、小説と違って、十七音字という極めて短小な俳句の世界においては、その人の境涯が浮き彫りになってくるのに、しばしば遭遇する。龍之介のこういう句に接すると、これもまた龍之介の一面かと、「芥川が死んだのは、芥川があまりにも真面目であった為である。あまりにも鋭敏なモラル・センスを持っていた為である」(小宮豊隆)という指摘も素直に受け入れられるように思えてくるのである。この掲出の一句目には、「越後より来れる婢、当歳の児を『たんたん』と云ふ」との前書きがある。この「たんたん」というのは、越後の方言的な、または、幼児の仕草などから来る愛称的な、一種の「造語」的なものなのであろう。そして、二句目には、「妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつつ」という前書きがある。この句については、大正十三年四月十日夜の日付のある小沢碧童(俳人)あての手紙の「半月ばかり女中の一人もゐない為、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」と文章の後に書かれているという(山本・前掲書)。この二つの句について、山本健吉は「『咳一つ』といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。その、ひんやりとするような不安と驚きが出ているのが、おもしろいのである」として、この二つの句のうち、二句目よりも一句目を優れているとしている(山本・前掲書)。しかし、龍之介は自選の定本句集『澄江堂句集』には、この二句目は棄てて、一句目を収載しているのである。この二つの句は、それぞれ前書きが付与してある句なのであるが、その前書きが付与してある句として、この一句目の「たんたん」という造語的な句に、より多く、龍之介は愛惜していたということと、そして、いかにも、この「たんたん」という造語的な語句が「吾が子」というイメージをストレートに伝えていて、ここは、龍之介の選句を是としたいのである。

芥川龍之介の句(その九)

○ 青蛙おのれもペンキ塗りたてか(龍之介)
○ 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな(龍之介)
○ 影像(すがた)のかりゅうど(ジュール・ルナール)
○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)

大正デモクラシーの洗礼を受けた芥川龍之介と江戸時代の与謝蕪村とでは、その王朝趣味、怪奇趣味という点では類似点を多く見ることができるが、決定的に西洋文明と真正面に対峙した点において、龍之介の世界がより多く現代人にアッピールするものを有していることは多言を要しないであろう。龍之介には、アフォリズム的(箴言的・警句的)な短編小説『侏儒の言葉』という著書がある。「わたしは神を信じてゐない。しかし、神経を信じてゐる」。「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」。掲出の第一句目の「雨蛙」の句、これは、まぎれもなく、龍之介の「わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」の毒々しい病的な神経の句である。この二句目に至っては、「彼の異常にとぎすまされた神経が生んだ幻想である」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。そして、この句は、「我鬼が龍之介とは知らなかった飯田蛇笏は『無名の俳人によって力作された逸品』とほめ、虚子は『特異な境地の句』といって賞賛した」という(志摩・前掲書)。蛇笏も虚子も名うての選句の達人であるから、龍之介の俳句の卓越性というのを見抜き、そして、その真価を認めていたということであろう。しかし、こういう異常に研ぎ澄まされた神経によって作句していた龍之介が、何時か破綻するということも予知されるような二句でもある。ちなみに、フランスの作家、ジュール・ルナールの『博物誌』のこの三句目は、自分自身を「影像(すがた)のかりゅうど」と表現しているが、同じアフォリズムでも、自然に対する愛情や温かい洞察の眼が感じられる。それに比して、龍之介は、自然や生き物が自分の分身として痛々しいほど神経が繊細でギラギラとしていて自嘲しているように思われるのである。そして、同じ、「ぜんまい」の比喩でも、この四句目の川端茅舎の「ぜんまい」の句は、虚子に、「花鳥諷詠真骨頂漢」と讃えられた「茅舎浄土」ともいわれる、「静寂・静浄の境地」・「茅舎がきずきあげた美の世界」(志摩・前掲書)が詠みとれるのである。龍之介は優れたアフォリズムを残し、優れた俳句をも残した類い希なる才能の持主であったが、
ルナールや川端茅舎ほど、そのアフォリズムにおいても俳句においても、後世に影響を与えるものではなかったということはいえるであろう。

芥川龍之介の句(その十)

○ 松風をうつつに聞くよ夏帽子
○ 明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす
○ しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
○ 切支丹坂を下り来る寒さかな

山本健吉著『現代俳句』の中で、正岡子規の「鶏頭は十四五本もありぬべし」の句鑑賞に次の一節がある。「志摩芳次郎に至っては、『花見客十四五人は居りぬべし』『はぜ舟の十四五艘はありぬべし』など愚句を並べ立てて、鶏頭の句の揺るぎなさを否定しょうとする」。
この一節に登場する志摩芳次郎は、その著『現代俳人伝(二)』の中で、上記の掲出の四句について、「芥川の絶唱」として高く評価している。これらの四句については、「震災の後増上寺のほとりを過ぐ」との前書きがある。この前書きにある関東大震災は大正十二年(一九二三)九月のことであった。これらの四句について、志摩芳次郎は「芥川は、芭蕉や『猿簑』から、俳句の美しいリズムを学んだ。茂吉によって、文芸上の形式美にたいする目をひらいたかれは、その内奥美を芭蕉から学びとっている」として、「芭蕉に直結する唯一の現代俳人であった」とまで指摘している。とにもかくにも、この志摩芳次郎の指摘をまつまでもなく、龍之介が芭蕉に心酔して、こと俳句の創作においては、芭蕉を模範としていたということは、その『澄江堂句集』に収載されている七十七句に均しく当てはまるように思えるのである。そして、同時に、この掲出句に見られるように、大正時代の東京に限りない思慕を懐き、そして、その東京という龍之介の心の故郷への鎮魂の句ともいうべき、そのような哀調のリズムが、龍之介の俳句の根底に流れているように思えるのである。志摩芳次郎は、この掲出の一句目に、「地獄図絵を現出した震火災悪夢」を「うつつに聞く」龍之介を見て、その二句目で、「芭蕉の『野を横に馬引むけよほとゝぎす』と形が似ているが、声調は芥川の句のほうが、はるかに美しい」とし、その三句目で、「冬ざれのわびしい風景をうたって、これほど情趣をもりあげた句を知らない」としいる。そして、その四句目で、「この句を口ずさむと、とんとんと、自分が坂を下りてくるような気持になる」と絶賛しているのである。龍之介はかって、俳句の同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破した。そして、この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、つくづく、これらの龍之介の掲出句にも、そして、龍之介俳句の全てにも均しく言えるということを再確認する思いなのである。