火曜日, 1月 09, 2007

回想の蕪村(六・六十六~七十)



回想の蕪村六

(六十六~七十)

 これまで、『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」のうち、異色の俳詩といわれている「「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を見てきた。ここで、『夜半楽』の巻軸の句(巻物の軸に近い部分。すなわち一巻の末尾。巻中の最も優れた句)の「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)に触れることにする。『蕪村全集(一)』(講談社)の句意等は次のとおりである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

季語=うぐひす(春)。「あな憂」と掛ける。語釈 ○春もやゝ=下に「闌(た)け」を利かせる。○むかし声=老いた声。句意=春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ。すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって。老鶯の声に託し、蕉風全盛の今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、一四八八(註・次の句)との照応を完成させた。 

○ 祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師

季語=歳旦(春)。歳旦開きに作る句。語釈 ○祇園会=京都八坂神社の祭礼。六月七日から七日間。鉾の上での鉦・笛・太鼓の囃しが名物。○秋風=秋風楽。雅楽曲の一。○音律=雅楽の音の調子。○さび・しをり=蕉門亜流の遵法する俳諧理念。○春興盛席=華やかな初春の俳席。○吾妻の人の口質=江戸座の亡師巴人の詠みぶり。したり皃=得意げな表情。「歳旦をしたり」と掛ける。句意=こんな古くさい掛け詞を織り込んだ歳旦句を、さもうまくやったとばかり得意顔をしている俳諧師よ、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとの抱負を裏返した、自嘲的自画像。

(六十七)

『蕪村全集(一)』(発句)は、尾形仂氏が担当したので、上記の句意等の解説は、尾形仂氏のものと理解して差し支えなかろう。ここで、『蕪村の世界』(尾形仂著)の解説などを見ていくことにする。
○「春もやゝ」の句は、『夜半楽』の総巻軸として、「春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ、すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって」と、老鶯の声にかこつけ、蕉風花ざかりの今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、巻頭の「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」との照応を完成したもの。その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである(『蕪村の世界』)。
※蕪村の安永六年の春興帖・『夜半楽』が極めて構成的に編集されていることについては、これまで見てきたところであり、その意味で、「巻頭の『歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師』との照応を完成したもの」という指摘は十分に首肯できる。しかし、その他に、蕪村の脳裏には、蕪村の初撰集の『宇都宮歳旦帖』の軸句に登場する「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の鶯(そして、この鶯は、蕪村のその後の「歳旦帖・春興帖」には陰に陽に登場する)、その鶯との照応もあったことであろう(このことについては、前にも触れたが、ここでも、それらのことについて下記に再掲をしておきたい)。さらに、「その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである」という指摘については、これはより多く、「蕉門亜流全盛の俳壇」というよりも、これまでの自分を含めての「夜半亭一門俳諧」についての、安永六年の年頭に当たっての新たなスタート点の確認というような意味合いを有していることも付記しておきたい。
※ これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである(「回想の蕪村」四十一・再掲)。

(六十八)

○ かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春(『明和辛卯春』・巻頭句)
○ 鶯の粗々がましき初音かな(同上・軸句)
○ 出る杭を打うとしたりや柳哉(同上)

 蕪村が五十五歳で夜半亭二世を継いだ翌年の明和八年(一七七一)の、襲号を記念して編んだ春興帖の巻頭句と軸句(二句)である。そして、それから六年後の安永七年(一七七七)の春興帖の巻頭句と軸句は次のとおりである。

○ 歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師(『夜半楽』・巻頭句)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(同上・軸句)

『蕪村の世界』(尾形仂著)では、この『明和辛卯春』と『夜半楽』とを視野に入れながら、上記の『夜半楽』所収の巻頭句と軸句との鑑賞を試み(上記六十六・六十七)、さらに、上記の『明和辛卯春』の軸句の一つの「鶯の粗々がましき初音かな」について、次のように鑑賞している。

○初音の鶯がまだホウホケキョウと正しく鳴くことができず、お粗末さまといった鳴き声だという、一見初鶯に優しい愛情を寄せたと取れる句の裏面からは、新参の宗匠として初の歳旦帖を出しは出したが、いかにも不十分な出来でお見苦しい次第だという、謙遜の挨拶の寓意が伝わってくる。
 
 そして、もう一つの軸句の「出る杭を打うとしたりや柳哉」について、次のような鑑賞文を続けている。

○そうなれば、この句もまた、単なる嘱目ではなく、「打(うた)うと」とする主体は京
俳壇の古参宗匠たち、「柳」に自身を擬した新参宗匠としての挨拶の句、ということになってくる。生意気にしゃしゃり出た邪魔者、エィ、頭をたたいてやれ、というところかも知れませんが、どっこい、私は今芽吹こうとしている柳、大きくなっても、”風の柳”で、けっして皆様方にさからったり邪魔になったりしませんので、何分にもお手柔らかに、どなた様もよろしく、といった具合に。その卑下の挨拶の裏には、むろん、旧套一新、新しい一歩を踏み出そうとの意を寓した巻頭吟(註・「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春」の句)に応ずる、これから芽吹こうとする者の決意が隠されている。あえて「打(うた)うとしたりや」という民謡調の俗語表現を採ったのも、「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや」という巻頭吟のおどけた身ぶりに応じ、そうした寓意を笑いに紛らわせようがたるではなかったか。

 蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」は、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調・構成を帯び、そこに収載されている「巻頭句」や「軸句」も、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調と寓意とを秘めているということであろうか。かく解することによって、安永六年の春興帖『夜半楽』とそこに収載されている二大俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」、そして、その最後を飾る総巻軸句の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」に、蕪村が託した創意というのが見えてくる。

(六十九)

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)


 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)

(七十)

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(安永四年・『続明烏』・『新虚栗』)
○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(安永六年『夜半楽』軸句)


 安永四年の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのものであることは言をまたないであろう。芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。安永五年の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」も、所詮、「憂い・老懶」が増すばかりと、その最後に持ってきたのではなかろうか。