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月曜日, 6月 19, 2023

第五 千づかの稲(5-55~58)

     末白の一周忌に

5-55 ひとめぐり廻りて居るたかへ哉

5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

    年尾

5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)

5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

 

   末白の一周忌に

5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉

5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

 「ひとめぐり廻(めぐ)りて居(いて)るたかへ哉」の「たかへ」が季語と思われるが、この「たかへ」を、「たかべ」(三夏)と解すると、「ズキ目タカベ科の硬骨魚。地方によってシャカ、ベント、ホタとも。体長二十五センチに達する。背面は青緑色で幅広い黄色縦帯が特徴。夏場、焼魚にして美味。」(「きごさい歳時記」)の、魚の句となる。

 しかし、これは、次句の「月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ」の「うき寐の鳥(浮寐鳥)」(三冬)と解すると、「毎年越冬のため、毎年日本に渡ってきて川や湖沼で一冬を過ごす水鳥の群れ。鴨・雁・鳰・鴛鴦・白鳥などが、水面に浮かんで眠るさまをいう。おおかたは羽根に首を突っ込みまるまった姿で浮いている。」(「きごさい歳時記」)の、鳥の句ということになる。

 ここは、この「たかへ」を「水鳥」(三冬)の一種と解して置きたい。

「水鳥」(《子季語》水禽/≪解説≫水上に暮らす鳥の総称である。この、水鳥がもっとも多く観察できるのが冬である。鴨、雁、白鳥、都鳥、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、家鴨(あひる)も含まれる。)(「きごさい歳時記」)

(例句)

水鳥や堤灯遠き西の京      蕪村「新五子稿」

水鳥を吹きあつめたり山おろし  蕪村「新五子稿」

水鳥や百姓ながら弓矢取     蕪村「新五子稿」

水鳥やさすがに雨をうちそむき  暁台「暁台句集」

水鳥のどちらへも行ず暮にけり  一茶「享和句帖」

「雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ)」/尾形光琳 /江戸時代/18世紀初頭/紙本金地着色/2曲1隻/156.0×171.6cm/岡田美術館蔵

https://www.okada-museum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting23.html

≪金箔の地に青い水面が切り込む背景が用意され、その前面に、鴨や雁などの水鳥が13羽、空を飛び、あるいは地上で休んでいます。降り止んだばかりなのか、松の木や草の葉に雪が白く積もっており、金色に輝く空や地面は、雪晴れのまばゆい光に映えていることを示しているのでしょう。 尾形光琳(1658〜1716)は、雁金屋(かりがねや)という京都の高級呉服店に生まれ育ち、工芸的なデザイン感覚を身につけて育ちました。署名には、歌枕の「蝉の小川」(瀬見の小川)に由来し、都の画家であることを雅に名乗った「蝉川(せみがわ)」が使われています。≫(「岡田美術館」)

 「末白の一周忌に」の「末白」も不詳。

 5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉

 「句意」は、「親しい俳人・末白の一周忌、末白が愛しんだ水鳥が、この池を一巡りして、正面に居座りて、凝視している。」

 5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

 「句意」は、「折から、中天には月の昼が懸かり、末白の一周忌もさることながら、亡くなった人の数を、この池辺の浮寝鳥の水鳥を数えるように、指を折っている。」

  

   年尾

5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)

5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

  「前書」の「年尾(年の尾)」(年の終わり、十二月も押し詰まったころ)も季語(仲冬・暮)だが、「5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)」の句の「季語」は「としの夜(年の夜)」(大晦日の夜。除夜ともいう。一年のけじめの日であり、その年の息災を感謝し、来る年の家内安全を願う夜である。)の大晦日(仲冬・暮)の句である。

 この「としの夜」の平仮名の表記は、「年の夜」と「都市(江戸)の夜」とを掛けての用例なのかも知れない。また、「犬の兒(顔)」の「兒(顔)は、「前書」の「年の尾」の「尾」との対応なのかも知れない。

 

葛飾北斎も餅つきの風景をユーモラスに描いています。のびすぎぃ!!(『北斎漫画』十二巻より「餅は餅屋」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/3

 5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)

「句意」は、「今日は大晦日、今年最後の夜、大掃除や餅つきなど、新年を迎えるための準備で忙殺されている。庭には焚火が焚かれ、所在投げ犬の顔を浮かび上がらせている」

 5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

 

画像右下に見える紋付の荷物はどこかの大名のお歳暮でしょう(『東都歳事記』「歳暮交加図」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/8

  この句の季語は、「歳暮」(仲冬・暮)で、「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。お世話になった人、会社の上司、習い事の師などに贈る。夏のお中元と同様、日本人の大切な習慣である。」(「きごさい歳時記」)

「句意」は、「植木屋が、歳暮周りの挨拶にやってきた。新年の飾りなどの仕事も一段落して、その合間の挨拶周りで、その半纏には、新年の如月の梅の香がしていてる。」

(参考) 「二十四節季」と「季節区分」(「四季」「五季」「六季」「十七季」「旧暦」「新暦」など)

 https://kigosai.sub.jp/kigoken3.html

四季=「春・夏・秋・冬」

五季=「春・夏・秋・冬・新年」

六季=「春・夏・秋・冬・暮・新年」

十七季=「(初春・仲春・晩春・三春)・(初夏・仲夏・晩夏・三夏)・(初秋・仲秋・晩秋・三秋)・(初冬・仲冬・晩冬・三冬)・(新年)」

木曜日, 6月 15, 2023

第五 千づかの稲(5-50~54)

    永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

    をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊


   永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

   をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟


 「東都名所 永代橋全図」広重初代/木版/文化−天保期(1815-1842)

 https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=52306

 

「江戸名所図会 永代橋」

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪  上の挿絵の中央が永代橋(えいたいばし)です。中央を流れる川は隅田川(浅草川)で、左から隅田川に流れ込む川は日本橋川(新川)です。日本橋川に架かる橋は豊海橋(とよみばし)です。≫

 

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会の時代の永代橋は、右の地図のオレンジの楕円の位置、つまり、現在より200m程上流にありました。≫

 「五兵衛舟」=「銭屋五兵衛」の「北前船」(日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称)に積荷などをする小型の「手漕ぎ舟」の意であろう。「銭屋五兵衛」関連については、下記のアドレスのものが参考になる。

 https://www.zenigo.jp/zenigo/5/

 「鱸」=「鱸(すずき)三秋」=「(子季語)せいご、ふつこ、川鱸、海鱸、木つ葉、鱸網 (解説)スズキ科に属する海魚で、北海道から九州に至る沿岸や近海に広く分布する。ボラなどのように成長とともに呼び名が変わるので、出世魚の名がある。刺身、洗膾、塩焼きにして食する。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

打つ櫂に鱸はねたり淵の色   其角「句兄弟」

釣り上ぐる鱸や闇に太刀の影  支考「川琴集」

釣り上げし鱸の巨口玉や吐く  蕪村「蕪村句集」

百日の鯉切り尽きて鱸かな   蕪村「蕪村句集」

 「冬鴎(ふゆかもめ)三冬」=チドリ目カモメ亜科の鳥の総称。鴎、海猫、百合鴎などの種類があり秋渡来する冬鳥である。鴎はみな冬鳥であるからわざわざ冬鴎ということもないのだが、従来無季とされていたので冬鴎とされた。(「きごさい歳時記」)

 「句意」=季語は、冬鳥の「鴎」が渡来する晩秋の、前書の「鱸」(三秋)を前提にしてのものと解したい。「句意」は、「隅田川の永代橋で見事な銀鱸を釣り上げた。その銀鱸を覗き込むように、渡来してきたばかりの冬鳥の鴎が飛翔している。その晩秋から初冬にかけての鴎の風情は、折からの津軽経由の『北前船』に荷揚げや積荷をする「銭屋(銭屋五兵衛)」の持ち舟の「五兵衛舟」が連れてきたような趣がする。」

 

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

  季語は「朝顔」(初秋)=朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。日本人はこの花に秋の訪れを感じてきた。奈良時代薬として遣唐使により日本にもたらされた。江戸時代には観賞用として栽培されるようになった。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。(「きごさい歳時記」)

(例句)

朝貌や昼は錠おろす門の垣      芭蕉「炭俵」

あさがほに我は飯くふおとこ哉    芭蕉「虚栗」

あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

朝顔は酒盛知らぬさかりかな     芭蕉「笈日記」

蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也 芭蕉「続虚栗」

蕣や是も又我が友ならず       芭蕉「今日の昔」

三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん    芭蕉「虚栗」

わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉「真蹟懐紙」

僧朝顔幾死かへる法の松       芭蕉「甲子吟行」

朝がほや一輪深き淵のいろ      蕪村「蕪村句集」(例句)

 

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-29

 ≪ 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。≫

 あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

白雲や花に成行顔は嵯峨       其角「五元集」

  其角の「白雲や花に成行顔は嵯峨」は、芭蕉の「あさがほの花に鳴行蚊のよわり」の本句取りの一句であろう。この其角の句は、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 ≪ 護国寺にあそぶ時、馬にてむかへられて

   白雲や花に成行顔は嵯峨  (『五元集』)

  「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。

 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。

 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫

  掲出の、抱一の「朝がほや花の底なる蟻ひとつ」は、この芭蕉と其角の本句取りの一句と解したい。

 「句意」は、「芭蕉翁は「朝顔」の句で『花に鳴行(なりゆく)蚊のよわり』と吟じた。それに対して、其角祖師は『花に成行顔は嵯峨」と唱和した。されば、芭蕉翁・其角祖師に唱和して、『朝がほ(「蚊」・「嵯峨の釈迦如来」」) や「花の底」には「蟻一つ(一匹)」』と唱和したい。』

 

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

 季語は「新蕎麦」(晩秋)=蕎麦の実が熟すより一か月ほど早く刈り取った蕎麦粉。熟す前の蕎麦ゆえに青みがありその風味を賞する。一日も早く初物を味わうことにこだわった江戸っ子に好まれた。最近では、今年取れた蕎麦という意味でも使われる。「蕎麦刈」は冬の季語。(「きごさい歳時記」)

(例句)

堂頭の新そばに出る麓かな    丈草「笈日記」

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀   蕪村「夜半叟句集」

江戸店や初そばがきに袴客    一茶「一茶句帖」

 この「呼子鳥」(晩春)の季語であるが、季語としての「呼子鳥」(「万葉集」や「古今集」にも出てくるが、貎鳥同様、この鳥も何の鳥であるかはわかっていない。鶫、鶯、郭公など諸説あるがどれも不確か。猿の声という説もある。)ではなく、「新蕎麦の頃の晩秋の鳥」一般の意でのものであろう。

(例句)

雫たる山路のませんよぶこ鳥    重頼「犬子集」

むつかしや猿にしておけ呼子鳥   其角「五元集脱漏」

役なしの我を何とて呼子鳥     一茶「九番日記」

 

「江戸名所道化盡(歌川広景筆)」所収 「九・湯島天神の台」(「東京都立図書館」蔵)

https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-010

 https://www.sankei.com/article/20170119-24TLY6LKLRMHBIYL7ZSVCVD2J4/

 ≪ 舞台は江戸・湯島天神の境内。不忍池が見える高台の風光明媚(めいび)な地。そばの出前をしている男が犬に足をかまれ、侍の頭にそばをぶちまけてしまう。ズッコケてしまった侍をお供の者が見て大笑い。背景の風景がきれいなだけに、こっけいさが際立つ。

 この錦絵は、広景の代表作「江戸名所道戯尽」シリーズの一つ「湯嶋天神の台」だ。「江戸名所道戯尽」は1859年から61年にかけて制作された50点からなる作品で、ちゃめっ気たっぷりの表現が特徴的。「本郷御守殿前」という作品は、突然の夕立に3人の男が肩車をして1本の傘に入ろうとする場面を描写。傘はところどころで破れ、下で支える男の不満そうな表情がおかしく、あきれるほどばかばかしい。≫

「句意」は、「初物好きの江戸っ子の『新蕎麦』の、その『掛けふだ(看板)』が早くも蕎麦屋に掛かった。折しも、空には、それを呼ぶかのように、名も知れない『呼子鳥』が鳴いている。」


    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

  「前書」の「良夜瓢雨驟雨」は、「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」(『老子(第二十三章)』など)に由来するもので、抱一の代表作に数えられている「夏秋草図屏風」(重要文化財 /二曲一双/紙本銀地着色/東京国立博物館蔵)は、この漢詩文の一節を表現したものとされている。

 https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1992/

 

酒井抱一「夏秋草図屏風」重要文化財 二曲一双 紙本銀地着色 江戸時代・文政4(1821)年ごろ 各164.5×181.8cm 東京国立博物館蔵

≪ 俳諧をたしなんでいた抱一は、あらかじめ考えていた「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」の言葉をもとに、月のきれいな秋の夜と激しい風雨の後の野を描きました。右隻は夕立の後で左隻は野分(のわけ。今でいう台風)の後。銀地は、右隻では雨を、左隻では月夜を表し、右から左にかけて過ぎ行く季節を、繊細な草花で表現しました。本来、右隻から左隻にかけて春夏秋冬を描く屏風も二曲一双では自由になり、抱一はその特性を最大限生かして傑作をものにしたのです。≫(「和楽WEB」)

  この抱一の傑作画は、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時の作で、掲出の抱一の句は、寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時頃のものとすると、抱一は、この「中秋良夜瓢風驟雨」という命題を、実に、二十年という長い年月の末に、その具象化を試みたということになる。

 そして、この「前書」の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」は「仲秋」の季語で、「子季語」に「良宵・佳宵」、「関連季語」に「名月」、意味するところのものは「月の明るい美しい夜のことだが、主として旧暦八月十五日の中秋の名月の夜を指す。」(「きごさい歳時記」)

 「瓢雨驟雨」は、『老子(第二十三章)』の「瓢風驟雨」に由来する、抱一の造語のように思われる。

 https://blog.mage8.com/roushi-23

 ≪(原文)

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

(書き下し文)

希言(きげん)は自然なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。孰(た)れかこれを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚(な)お久しきこと能わず、而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦(ま)たこれを得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。≫『老子(第二十三章)』

 「飄風(ひょうふう)は朝を終えず」=「瓢風は朝まで続かず」→「瓢雨・秋驟雨」(仲秋)

「驟雨(しゅうう)は日を終えず」=「驟雨も一日中続かない」→「驟雨・夕立」(三夏)

 「句意」周辺

 季語は、前書の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」(仲秋)、「宵寐(良宵の宵寝)・月(良宵の月=旧暦八月十五日の中秋の名月)」(仲秋)」で、「仲秋」の「名月」の句ということになる。

そこに、前書の「瓢雨驟雨」を加味すると、これは「雨月」(仲秋・「中秋の名月が雨のために眺められないこと。名月が見られないの を惜しむ気持ちがある)の句の方が、より相応しい。

句意は、「今日は仲秋の名月の日、生憎の雨で、宵寝をして、雨の名月を夢見ることにしょう。」

(補記) 能「雨月」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/ugetsu

 前シテ   老人  じつは神の化身

後シテ   神職の老人(住吉明神の憑霊)

ツレ       姥  じつは神の化身

ワキ       西行法師

アイ       眷属の神

 ≪ 鎌倉初期。西行(ワキ)は歌神・住吉明神へ参詣のため、住吉の里に赴く。今夜の宿を願って訪れた一軒の庵には、雨音の風情を楽しむ翁(前シテ)と、月光を愛でる姥(ツレ)の、風流な老夫婦が住んでいた。屋根を葺くべきか、葺かぬべきか。そう嘆じる翁の言葉は、期せずして歌の下句となった。これに上句を付けたならば宿を貸そうと言う翁へ、西行は二人の美学を汲み、見事な上句を付ける。しみじみとした夜、雨音かと聞き紛う松風の声に耳を傾け、秋の風情を楽しんでいた三人。やがて夜は更け、夫婦は眠りにつこうと言うと、そのまま姿を消してしまう。実はこの夫婦こそ、住吉明神の化身であった。

 やがて、西行の前に、神職に憑依した住吉明神(後シテ)が現れた。明神は歌道の奥義を示し、西行こそ和歌を語り合うべき友だと告げる。閑かに舞を舞い、歌も舞も心の表れだと明かす明神。明神は、この神託を疑わぬよう言い遺すと、天に昇ってゆくのだった。≫

 (追記) 「夏秋草図屏風」

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

↓

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-26


抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

↓

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-28

 

「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

↓

なhttps://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

 

「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

↓

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

 

抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

↓

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

  

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊

 

「菊慈童図」(酒井抱一筆/足立区千住個人蔵)

http://jmapps.ne.jp/adachitokyo/det.html?data_id=15560

≪ 抱一の作品中で未表装のまま伝来した希少な例である。やわらかな画風で抱一の比較的若い時代の作品と推定される。画題の菊慈童は菊の露を飲んで不老不死の仙人になった童の伝説を描く。俳賛は「やまに居て 七百とせや きくの酒」で、慈童がすむ魏の酈縣山(れっけんざん)と、その年齢「七百歳」、不老長寿の菊葉の水を表している。≫(「足立区立郷土博物館」)

  掲出の句の季語は、「渓の菊」の「菊」(三秋)。この「渓(たに)」が、「渓谷・幽谷」の「菊慈童」が流刑された「酈縣山(れっけんざん)」を連想させる。

  山中や菊はたおらぬ湯の匂 (芭蕉『おくの細道』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno33.htm

 ≪ 謡曲『菊慈童』に、周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話。これを題材として、薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いないと、宿屋の主人桃妖への挨拶吟。≫(「芭蕉発句全集」)

  ちなみに、「虫も千代経ん」の「虫」も「三秋」の季語。

  蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 (芭蕉『続虚栗』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/minomusi.htm

 ≪ 貞亨4年秋、深川芭蕉庵での作。芭蕉は、この句をもって秋の虫の音を聴く会を開くべく俳友に芭蕉庵へ来るようにさそったのである。このとき、嵐雪にも届けられたが、かれは、「蓑虫を聞きに行く辞」なるものを書いて「何も音無し稲うちくふて螽<いなご>哉」なる句を添えたという話が残っている。

 なお、伊賀上野の服部土芳は、貞亨5年3月4日庵を開き、些中庵<さちゅうあん>と名づけたが、3月11日、折りしも『笈の小文』の途次伊賀上野に立ち寄った芭蕉をそこに招き句会を開いた。このとき芭蕉は一枚の絵を土芳にプレゼントし、その画讃にこの句があったので、特に蕉翁に許しを得て、この庵を「蓑虫庵」と改名したという。また、このときの句会の發句がこの句であったので、庵名をこのように変えたという説もあって判然としない。≫(「芭蕉発句全集」)

 「句意」は、「能・謡曲・長唄」にも取り上げられている「菊慈童」(「菊慈童」伝説)は、奥深い山中の露の「菊の露」を飲んで「千代」の「不老長寿」を賜ったが、この深い渓間の「虫」(「蓑虫庵」の連集)も、「菊の露」ならず「菊の霧」を飲んで「千代」までの「佳吟」を遺すことであろう。

 (補記) 能「菊慈童」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/kikujidou

 (前シテ) 周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童

シテ        同(不老長寿の身)

ワキ       魏の文帝の勅使

ワキツレ              勅使の従者 【2人】

(ワキツレ)          周の穆王の官人

(ワキツレ)          輿を担ぐ役人 【2人】

 ≪〔中国 周の時代。誤って王の枕を跨いだ王の寵童・慈童(前シテ)は、酈縣山へ配流となる。彼が流刑地へ続く唯一の橋を渡り終えるや、非情にも橋を切り落とした警護の官人(ワキツレ)。慈童は、王の形見の枕を抱きつつ、ひとり山中に取り残されるのだった。〕

 それから七百年が経った魏の時代。酈縣山麓から霊水が湧き出たとの報せに、勅使(ワキ・ワキツレ)が現地へ派遣される。すると、山中には一軒の庵があり、中には一人の童子(シテ)がいた。彼こそ、かの慈童のなれの果て。実は彼は、形見の枕に添えられた妙文を菊の葉に書きつけ、そこから滴る雫を飲んだことで、不老不死の身となっていたのだ。慈童は〔妙文の功徳を勅使に説いて聞かせると〕、不老長寿の薬の酒を讃えつつ上機嫌で舞い戯れ、妙文を勅使に捧げて帝の安寧を言祝ぐのだった。≫

土曜日, 6月 03, 2023

第五 千づかの稲(5-46~5-49)

     門(文)覚上人の院宣を持来たる

     處畫たるに

5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな

     李笠翁になろふて

5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士

5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ

5-49 水になる自剃盥や雲のみね

 

     門(文)覚上人の院宣を持来たる

     處畫たるに

5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな


「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)(「ウィキペディア」)

 門(文)覚上人(「ウィキペディア」)

 文覚(「もんがく、生没年不詳])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

 (中略)

『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする。いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有のドラマチックな脚色がなされていると言える。 

 (中略)

 那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在し、滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就するシーンがよく描かれる。この滝は2011年(平成23年)の紀伊半島大水害で消滅した。

 

 上記の「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)は、『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」の場面のものである。これに続く、「文覚被流」や「福原院宣」の、流刑地の「伊豆」から「福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした」場面を、抱一が描いたのであろう。そして、その画に「賛」をして欲しいと頼まれて、一句認めた「賛」が掲出句ということになろう。

   伊豆千鳥その足あとの力かな

 「季語」は、「千鳥」(三冬)。「チドリ科の鳥の総称で留鳥と渡り鳥がある。嘴は短く、色は灰褐色。足を交差させて歩むのが千鳥足。酔っ払いの歩行にたとえられる。」(「季語さい歳時記」)

(例句)

星崎の闇を見よとや啼千鳥         芭蕉「笈の小文」

一疋のはね馬もなし川千鳥   芭蕉「もとの水」

千鳥立更行初夜の日枝おろし  芭蕉「伊賀産湯」

 「文覚忌」(初秋)も季語で、「陰暦七月二十日、真言宗の僧文覚の忌日。もと北面の武士で遠藤盛遠。袈裟御前を誤って殺し出家、熊野で苦行した。神護寺復興、東大寺大修理を主導したほか、頼朝の挙兵を助成。幕府開創後重用された。晩年隠岐に流刑。終焉のことは不明。」(「季語さい歳時記」)

 「前書」との一体性を重視すると、「文覚忌」(初秋)の一句としての「句意」もあろう。

「句意」は、歌舞伎・浄瑠璃の外題にもなっている「文覚上人」の、流刑地、伊豆での「源頼朝」に「後白河法皇の平氏追討の院宣」をもたらした場面も一幅の絵にした。その絵に「賛をせよ」というので、「伊豆千鳥その足あとの力かな」(伊豆の浜辺の千鳥の足跡は、伊豆と福原とを八日間で往復し、平家追悼の院宣を持って帰ってきた「荒行法師」として名高い「文覚上人」の力強い足跡のように見える。)の一句を「賛」した。

 

     李笠翁になろふて

5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

  上記のアドレスでは、この前書(「李笠翁になろふて」)は、この句に続く「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」と「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」にも掛かるものと解したが、季語の観点からすると、「5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士」(春)、「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」(夏)、そして、「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」(夏)で、この前書は、「5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士」(春)にのみ掛かるものとして鑑賞したい。

 「李笠翁」

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

 ≪ この「李笠翁」(李漁)については、百科事典(マイペディア)などでは、次のとおり紹介されているが、与謝蕪村と池大雅の競作画帖「十便(大雅画)十宣(蕪村画)図」(国宝)の主題が、李笠翁の山居「伊園」における漢詩に基づくものであるということと、蕪村や大雅に大きな影響を与えた『芥子園画伝』(中国、清初に刊行された画譜)の「序」を起草した、その人こそ「李笠翁(李漁)」ということの方が、上記の抱一の句の前書きには相応しいのかも知れない。

 https://kotobank.jp/word/李漁-148469

 【「李笠翁」(李漁)→中国,明末清初の劇作家。字は笠翁(りゅうおう)。江蘇省の出身。明滅亡後清に仕えず終わる。自作の戯曲を上演し全国の名家を巡遊。自由で大胆な表現で恋愛や滑稽(こっけい)を扱った《笠翁十種曲》,口語短編小説集《無声戯》,戯曲論,演出論を含む随筆集《閑情偶寄》などがある。日本には18世紀初頭に伝えられ,読本(よみほん)などに影響を与えた。】≫

 

『古今画藪、後八種』(宋紫石画)「笠翁居室図式」(第八巻)「尺幅窓図式」(「早稲田大学図書館蔵・高村光雲旧蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_b0132/bunko08_b0132_0008/bunko08_b0132_0008_p0014.jpg

 ≪ 抱一は、歌川豊春に「浮世絵」、宋紫石に「漢画(明画)」を習ったされ(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収「屠龍之技(贅川他石稿)」)、その宋紫石の『古今画藪』に、上記の「閑情偶奇」のものが、上記のとおりに翻刻され、掲載されている。

 この「尺幅窓図式」とは、「窓枠を掛幅に見立て、窓の外の風景を絵として楽しむ趣向をあらわしている」図ということになる。ここで、抱一の、「李笠翁になろふて」を前書きとする「一幅の春掛ものやまどの冨士」の句意は明瞭になってくる。すなわち、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう」ということになる。 ≫

 「季語」は「春」(三春)。「句意」は、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう。」

  

5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

 ≪ この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧(わ)き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫

 「季語」は、「門(かど)涼み・納涼(すずみ)」(晩夏)。「句意」は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている。」

  

5-49 水になる自剃盥や雲のみね

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

 ≪ 季語は「雲のみね(峰)」(聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。盛夏の季語)、「自剃盥」というのは、剃髪用の盥というようなことであろう。句意は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」

  香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰  宝井其角(『五元集』)

 この句は、抱一俳諧の師筋として敬愛して止まない其角の「雲の峰」の句である。表面的な句意は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」というようなことであろう。

 しかし、この句の背景は、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。

すなわち、其角は、この句に、当時の其角の時代(元禄時代)の、「将軍綱吉の『生類憐れみの令』による犬保護の世相と、犬の増長ぶりを諷している」(『其角と芭蕉と(今泉準一著)』)というのである。

 とすると、抱一の、この「水になる自剃盥や雲のみね」の句も、抱一の寛政時代の「松平定信の寛政の改革」と、自己に降り掛かった、その「寛政時代(寛政九年)の出家」が、その背景にあると解しても、それほど違和感もなかろう。

 ここまで来ると。この句の、意表を突く上五の「水になる」というのは、抱一の、当時の「時代風詩」と「己の自画像」と読めなくもない。

 すなわち、この句の「雲の峯」は、「寛政の改革の出版統制や風紀統制」など、また、抱一自身の「若き日の青雲の志」などが、その背景にあると解すると、この句の上五の「水になる」は、文字とおり、それらの「青雲の志」が、「水になる」ということになろう ≫

 「季語」は、「雲のみね(峰)」(三夏)。「句意」は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」 

 

木曜日, 5月 25, 2023

第五 千づかの稲(5-40~5-45)

         辛酉春興

 今や誹諧峰の如くに起り、

 麻のごとくにみだれ、

 その糸口を知らず。

5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年

    榎島参詣

5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

    悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち

5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

         会式

5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙

 

 辛酉春興

 今や誹諧峰の如くに起り、

 麻のごとくにみだれ、

 その糸口を知らず。

5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg

≪「松永貞徳(まつながていとく)

[生]元亀2(1571).京都

[没]承応2(1653).11.15. 京都

江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。

歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)


 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

 

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)

貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。

 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。

 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

 (補記一)「 木下長嘯子と松永貞徳」

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

 (補記二)「『東風流(あずまふり)』俳諧」・「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)・「中興俳諧(革新運動)」

 https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

 

    榎島参詣

5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

  季語は「さくら貝(桜貝)」(三春)=「淡い紅色の可憐な貝。波打ち際に桜の花びらのように漂着する。古くから歌にも詠まれてきた。浜辺によく打ち上げられる貝で、大きさは二センチから三センチくらい。形は楕円に近い扇形で薄い扁平。光沢があり、その名のように桜色をしている。貝殻が美しいので貝殻細工に利用される。」(「きごさい歳時記」)

 (例歌・例句)

 吹く風に花咲く波のをるたびに桜貝寄る三島江の浦  西行『夫木和歌抄』

口あくは花の笑かはさくら貝            弘永『「毛吹草」

 「島同者」=「島=榎島・江の島」、「同者・同社=連れ立って社寺を参詣・巡拝する旅人。遍路。巡礼。道衆。」(「デジタル大辞泉」)

 

「冨嶽三十六景 相州江の嶌」葛飾北斎筆

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_35.htm

≪北斎には珍しく、誇張や演出をほどこさない自然な景観を描いている。干潮時に江の島は片瀬海岸と陸続きとなるが、ちょうど砂洲の参道が現れ始めたのか、参詣者は皆これからお参りに行くところである。土産物屋や旅籠が立ち並ぶ様子も写実的である。画面の下辺を霞で縁取ったのは、聖域を表現するための瑞雲としてであろうか。波打ち際のきらめきや波の泡の描写が秀逸である。

※江の島(神奈川県藤沢市)

相模湾の海上にある江の島は、砂嘴(さし)で対岸の片瀬村とつながる陸繋島であり、徒歩で参詣が可能であった。図中に描かれた三重塔は、江島神社上之宮の塔であり、元禄7年(1694)に創建された。≫(「山梨県立美術館」)

(例句)

 江のしま

日を拝む蜑(あま)のふるへや初嵐   服部嵐雪(「陸奥衛」)

江の島を台にも見るや国の春      馬場存義(「古来庵句集」)

江の島や傘さしかけし夏肴       建部巣兆(「寂砂子集」)

 「句意」は、「江の島」を参詣する「全ての巡礼者」よ、その一人ひとりの手に、「国の春」と「島の春」を象徴する、この「江の島」の「桜貝」を手にして欲しい。

  

   悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

  前書の「悼無同」の「無同」については不詳であるが、『屠龍之技』所収「第一 こがねのこま」に「無同剃髪しける時」との前書のある「よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな」という句が収載されている。

 そして、その『屠龍之技』の句の原典となる『軽挙館句藻』の第一句集「梶の音」に「寛政三年三月我物か剃髪を祝ひて」の前書で、この句が収載れている。

 これらからすると、「無同」という俳人は、「寛政三年(一七九一)三月」に「我物」という俳号から剃髪して「無同」と改号したように思われる。

 この前年の、寛政二年(一七九〇)七月十七日に、抱一の実兄の「忠以」が急逝(三十六歳)し、抱一の甥の「忠道」が家督を継ぐことになる。この時、抱一、三十歳、そして、この実兄の急逝により、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除」の結果、実質的に抱一は「酒井家」から放逐されて、寛政九年(一九二七)には「出家」という途を選ばざるを得なかったということになる。

 この「無同」という俳人は、おそらく、抱一の俳諧の二人の師「柳澤米翁・佐藤晩得」と関係の深い俳人で、同時に、「銀鵞」の俳号を有する亡き兄の「忠以」とも関係の深い俳人のように思われる。

    無同剃髪しける時

1-24   よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな (「寛政三年(一七九一)」・抱一・三十一歳)

    悼無同

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」・抱一・四十一歳)

  この、抱一、三十一歳時の「無同剃髪しける時」の句と、抱一・の四十一歳時の掲出の句を並列して見ると、前句の「桜ん坊」と、後句の「鼻くそ餅」の、この「談林俳諧」(宗因・西鶴流)の「古風・古調」を可とする「東風流」(春来・米翁・晩得)の、「卑俗・卑近な見立てや捩りの洒落・言語遊戯を駆使した俳諧)の趣向を凝らした用例を感知させる。

 この、凡そ追悼句に相応しくない「鼻くそ餅」は、「花供曽餅」(釈迦の入滅の日に行われる涅槃会において供物にされる鏡餅などを用いたあられ)の、「捩り」(もとの表現を変えて滑稽または寓意(ぐうい)的にしたもの)の用例である。

 

「花供曽餅」(「お釈迦様の鼻くそ」)

https://www.mbs.jp/kyoto-chishin/kyotocolumn/souvenir/83464.shtml

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

  「季語」は、「鼻くそ餅」(涅槃会に供える「花供曽」餅「仲春」)。「涅槃会(仲春)」は、「釈迦が沙羅双樹の下に入滅した日にちなむ法要。旧暦の二月十五日であるが、新暦の二月十五日あるいは三月十五日に執り行われる。各寺院では涅槃図を掲げ、釈迦の最後の説法を収めた「遺教経」を読誦する。参詣者には涅槃だんごなどがふるまわれる。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

神垣やおもひもかけず涅槃像  芭蕉「曠野」

涅槃会や皺手合する数珠の音  芭蕉「続猿蓑」

 「句意」は、古き俳諧仲間の「無同」が、「涅槃会」を前にして亡くなった。その「初七日」に、「涅槃会」のお供えの「お釈迦様の鼻くそ餅(花供曽)」を供えようとしたが、間に合わなかった。

  

5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち

  この句には「悼無同」の前書は掛からないであろう。季語は「名月」(仲秋)。「旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

名月や池をめぐりて夜もすがら   芭蕉「孤松」

名月や北国日和定めなき      芭蕉「奥の細道」

命こそ芋種よ又今日の月      芭蕉「千宜理記」

たんだすめ住めば都ぞけふの月   芭蕉「続山の井」

木をきりて本口みるやけふの月   芭蕉「江戸通り町」

蒼海の浪酒臭しけふの月      芭蕉「坂東太郎」

盃にみつの名をのむこよひ哉    芭蕉「真蹟集覧」

名月の見所問ん旅寝せん      芭蕉「荊口句帳」

三井寺の門たゝかばやけふの月   芭蕉「酉の雲」

名月はふたつ過ても瀬田の月    芭蕉「酉の雲」

名月や海にむかかへば七小町    芭蕉「初蝉」

明月や座にうつくしき顔もなし   芭蕉「初蝉」

名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁  芭蕉「初蝉」 

名月に麓の霧や田のくもり     芭蕉「続猿蓑」

明月の出るや五十一ヶ条     芭蕉「庭竈集」

名月の花かと見えて棉畠     芭蕉「続猿蓑」

名月や門に指しくる潮頭     芭蕉「三日月日記」

名月の夜やおもおもと茶臼山   芭蕉「射水川」

「八聲(やごえ・やごゑ)の鶏(とり)」=「暁に何度も鳴く鶏。」

※六条修理大夫集(1123頃)「またじ今は八声の鳥もなきぬ也何おどろかすくひな成らん」

(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「月下尾花図」 酒井抱一筆/江戸時代/18-19c/絹本著色/H-98.9 W-40.1 (「MIHO MUSEUM」蔵)

https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000654.htm

≪旧暦8月15日は仲秋の名月。この時期、台風や霧雨で空気が湿ったり、小雨の降ったあと、移動性高気圧におおわれて晴れた夜間に冷え込みがあったりして、霧が発生しやすい。「十二カ月花鳥図」のようにとりどりの秋草や虫などの小動物も描かれていないが、たらし込みの技法で描かれたススキに、夜霧に浮かぶ名月を取り合わせ、俳諧にも親しんだ抱一らしい、しっとりとした詩情に充たされた作品である。≫(「MIHO MUSEUM」)

 「句意」は、今日は「仲秋の名月」である。この見事な月も、暁に何度も鳴く「鶏」の「八聲(やごえ)」の、その「咽」(鶏聲=かくせい)の、その名調子の「うち(内)」に、退場して行く。

  

5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

 季語は、「きくの宿」の「菊」(三秋)。「キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

菊の香や奈良には古き仏達      芭蕉「杉風宛書簡」

菊の花咲くや石屋の石の間   芭蕉「翁草」

琴箱や古物店の背戸の菊    芭蕉「住吉物語」

白菊の目にたてゝ見る塵もなし   芭蕉「笈日記」

手燭して色失へる黄菊かな              蕪村「夜半叟句集」

黄菊白菊其の外の名はなくもなが  嵐雪「其袋」

 「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)は、1812年(文化9年)に成立した、囲碁家元・林家11世林元美編纂による、日本の最も代表的な詰碁の古典。「内容が妙に高遠ではなく、アマチュアにも容易に受け入れられて、しかもそんじょそこらの実戦に現れそうな形が少なくない」(前田陳爾)という、基本的な詰碁と手筋が集められているのが特徴である。 囲碁の四大古典(玄玄碁経、官子譜、囲碁発陽論)の一つに数えられている。四大古典の中では、玄玄碁経と共に取り組みやすいものとされている。そのため、初心者から学べる死活・手筋問題集として再三にわたって出版されてきた。」(「ウィキペディア」)

  この上五の「きくの宿」の「きく」は、季語の「菊」と、囲碁の「言うことをきく」「(相手の利かしや全局的な注文に対し、素直もしくは我慢して受けること))が掛けられている。

 「句意」は、家の庭に「菊」が見事に咲いている。そこの「家の主」が囲碁教本の「碁経衆妙(ごきょうしゅうみょう)」を見ている。その「主」は、囲碁の「攻め」よりも「受け」の「相手の手筋を素直に『きく』」タイプの、温厚な風情である。

 

「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)

https://haocjd.rexperrlu.xyz/index.php?main_page=product_info&products_id=64804

 

         会式

5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙

   この句の季語は、前書の「会式」が無いと「花」(晩春)であるが、この前書の「会式(えしき)=御会式=御命講(おめいこう/おめいかう)」(晩秋)で、この前書の「会式」と句中の「花」が合体して、「会式桜」(晩秋)となる。

 「会式(えしき)」=「御会式(ごえいしき)」=≪〘名〙 (「お」は接頭語。「会式(えしき)」は法会の儀式の意) 日蓮宗で日蓮の忌日(一〇月一三日)に行なう法会。御命講(おめいこう)。大御影供(おみえいく)。《季・秋》 ※雑俳・柳多留‐一六三(1838‐40)「御会式の蛇籠五色の餠を呑」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

 (例句)

御命講や油のやうな酒五升        芭蕉「小文庫」

御命講や顱(あたま)のあをき新比丘尼  許六「韻塞」  

 「会式桜(えしきざくら)」=≪〘名〙 (会式の頃に咲くところからいう) サクラ(コヒガンザクラか)の秋咲きの園芸品種。陰暦一〇月頃、狂い花の咲く一重桜。とくに、東京谷中の領玄寺のものが有名。※東都歳事記(1838)一〇月一三日「日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて、十月に花咲く。この故に会式さくらといふ」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「会式桜」(「日蓮宗谷中領玄寺」) (「精選版 日本国語大辞典」)

 

「谷中領玄寺」(「会式桜」)

https://yaokami.jp/1135602/

 「吉野紙(よしのがみ)」=≪大和(やまと)国(奈良県)の吉野地方で漉(す)かれる和紙の総称。この地方の紙漉きは、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が村人に教えたのに始まるとの伝説があるほど古く、奈良紙の伝統が国中(くんなか)(大和平野)からしだいに山中(さんちゅう)(吉野川上流)へ移ってきたものである。室町時代に上質の雑用紙であった奈良紙は、やわら紙として名高く、また江戸時代になってからは吉野の国栖(くず)(国樔とも書く)や丹生(にう)で漉かれた同質の薄紙が、漆漉(こ)しの名で世に知られた。薄くてじょうぶなため、その名のとおり漆や油を漉すのに適し、また美しいために装飾品や菓子などの包み紙にも重宝された。同質の紙には紀伊国(和歌山県)の音無(おとなし)紙、美濃(みの)国(岐阜県)や土佐国(高知県)の典具帖(てんぐじょう)、羽前国(山形県)の麻布(あさぶ)紙などがあり、これらはごく薄手の代表的な楮紙(こうぞがみ)である。吉野郡ではこのほかに、宇陀(うだ)紙という厚手の楮紙や、三栖(みす)紙という薄紙など多くの種類の和紙が漉かれたが、これらを総称して吉野紙という。谷崎潤一郎の小説『吉野葛(くず)』に吉野紙の紙漉き村の描写があるように、現代も国の文化財保存技術者に指定された少数の漉き家に、伝統技術が受け継がれている。[町田誠之]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「佛力(ぶつりき)」=≪〘名〙 仏語。仏の持つ不思議な通力(つうりき)や功力(くりき)。※将門記(940頃か)「速に仏力に仰せて彼の賊難を払ひたまへ」 〔日葡辞書(1603‐04)〕≫(「精選版 日本国語大辞典」)

「句意」は、ここ「千束」の里近くの「谷中領玄寺」で、十月十三日の「御会式」の法会がある。その境内では「会式桜」が咲き、その本堂では、「吉野紙」で造られた「花万灯」が飾られるという。まだ、それらを見ていないが、これは、さぞかし、「御功力」のあることであろう。

 (補記一)「御会式」の「花万灯」

 

http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_okaishiki_zouka.html

 ≪ 日蓮大聖人は、弘安(こうあん)五年(一二八二)十月十三日辰(たつ)の刻(こく)(午前八時頃)、住み慣れた身延(みのぶ)の地を離れ、常陸国(ひたちのくに)(今の茨城県)へと湯治(とうじ)に向かう途中、武蔵国池上(むさしのくにいけがみ)(今の東京都大田(おおた)区池上)の檀越(だんおつ)(信者)・池上宗仲(いけがみむねなか)邸にて忍難弘通(にんなんぐずう)の生涯を終えられました。この時、大地が揺(ゆ)れ動き庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。

  このような言い伝えから、お会式法要やお逮夜(たいや)の時、白・赤・ピンクの紙で作られた桜の花を、割竹(わりだけ)などでできた長い竿に付けた造花を、本堂の内部や万灯と呼ばれる塔型や行灯(あんどん)型などの大きな明かりの上部に、四方八方に垂らし飾り付け、大聖人のご命日を偲(しの)び、報恩(ほうおん)感謝の心をこめて行うお会式(えしき)を鮮(あざ)やかに彩(いろど)っています。

  江戸時代の風俗事物について書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には「これ(お会式)を行う者、家内の諸所に紙の造花を挟(はさ)む故に、当月(十月)上旬より、三都(江戸・京都・大阪)ともこれ(造花)を売る。長さ三尺(じやく)(約九十センチ)ばかり。江戸にてはここに藤の造り花を付けたるもあり。花は吉野紙。広がり二寸(すん)(約六センチ)ばかり。周(まわ)りの耳を淡紅にし染め、赤あるいは黄紙」と記されており、また当時の年中行事について書かれた『東都歳時記(とうとさいじき)』には、「法会(ほうえ)(お会式)の間、一宗(法華宗)の寺院は仏壇をかがや(輝)かし、造花を挿し荘厳は目を驚かしむ」とあり、法華宗寺院のお会式の壮麗な様子を伝えています。

  また、池上の大聖人ご入滅(にゅうめつ)の地には今も「お会式桜」と呼ばれる桜の樹があり、旧暦の十月(現在の十一月頃)にはきれいな花を咲かせることで知られています。一般にお会式桜と呼ばれるのは、八重桜の一種で十月桜(じゅうがつざぐら)と呼ばれる種類だそうです。花は中輪、八重咲きで淡紅色。開花期は十月頃から咲き始め、冬の間も小さい花が断続的に咲き、翌春四月上旬にもたくさんの花を咲かせるという珍しい桜です。春の花のほうが秋の花より大きいそうです。≫(「布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より」)

 

(補記二) 「吉野花会式(よしのはなえしき/よしののはなゑしき)/ 晩春」

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/9825

 ≪【子季語】 鬼踊

【解説】 四月十一日、十二日、奈良県吉野町金峯山寺(蔵王堂)で行われる法会。蔵王権現の神木である吉野山の桜を神前に供える儀式。竹林院から大名行列や稚児行列が練り歩く。蔵王堂前では、大護摩が焚かれ、堂内では鬼踊が行われる。吉野の春の最大行事である。

【例句】

花会式かへりは国栖に宿らんか  原石鼎「花影」≫ (「きごさい歳時記」)

 

日曜日, 5月 21, 2023

第五 千づかの稲(5-34~5-39)

 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ


 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

 ≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596年 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180年 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652年 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)

 


「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html

 https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

≪「英一蝶画譜」

あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を/\。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

 

「朝妻舟」(鈴木春信作)

 

「朝妻舟」(歌川広重作)

 

「近江名所図会 朝妻舟」

https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  この句の季語は、「藤(藤なみ)」(晩春)、「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

くたびれて宿借るころや藤の花     芭蕉「笈の小文」

水影やむささびわたる藤の棚  其角「皮籠摺」

蓑虫のさがりはじめつ藤の花  去来「北の山」

しなへよく畳へ置くや藤の花  太祇「太祇句選後篇」

月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村「連句会草稿」

藤の花雲の梯(かけはし)かかるなり 蕪村「落日庵句集」

しら藤や奈良は久しき宮造り  召波「春泥発句集」

藤の花長うして雨ふらんとす  正岡子規「子規全集」

 「句意」は、この古人の旧き時代に描いた「朝妻舟」の、その「藤浪」(風に吹かれて波のように揺れ動く、藤の花)の、その「藤紫」は、少しも色褪せずに、今に、その美しさを奏でている。

 (補記)

 https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/6221b2da59c4b7f54e40659163a44dbb

 英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

  この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、

ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。

 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。

 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。

 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。

 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。

 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。

 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

 この句には、「朝妻ぶねの賛」の「前書」は掛からないようである。『俳文俳句集(日本名著全集第二十七巻)所収「屠龍之技」)』では、「朝妻ぶねの賛/5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆」と、それに続く「5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)」の間には、一行が空白となっており、この句は、前句とは直接の関わりのない一句と解したい。

 この句の季語は「鵑(ほととぎす)」(三夏)で、「聞(き)そめて・鵑(ほととぎす)」(初夏)

の「初鳴きの鵑(ほととぎす)」の句ということになる。

 (例句)

いつも初音ましてはつ音の時鳥   横井也有(「 蘿葉集」)

聞かぬとし有も命ぞ蜀魂      横井也有 (「蘿葉集」)

ほととぎす宿借るころの藤の花   芭蕉

春過てなつかぬ鳥や杜鵑      蕪村(「蕪村句集」)

我汝を待こと久し時鳥       一茶(「文化句帳」)

 


「子規 /杜鵑花(ほととぎす/さつき)」葛飾北斎筆/江戸時代・19世紀/中判 錦絵(「東京国立博物館蔵」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482420

 「句意」は、初夏を告げる「子規(ほととぎす)」の一声を聞き初めた頃、その鳴き声を聞かない夜も、これまた、その「忍び音」を耳にしないということで、これまた艶な情趣を伝えてくる。

 

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

 「きりはたり」は、「きりはたりちょう」=「機(はた)を織る音を表わす語。また、ハタオリムシなどの声を表わす。きりはたり。※光悦本謡曲・松虫(1514頃)「面白や、千種にすだく虫の音も、はた織音のきりはたりちゃう、きりはたりちゃう」(「精選版 日本国語大辞典」)

 http://benijo514.blog118.fc2.com/blog-entry-14.html

≪秋の虫は和歌に詠まれ、機織り虫との古名がありました。キリギリス、あるいはスイッチョとも言われますが、その鳴き声が機織りの音に似ているからだとされています。また、秋の虫は、冬に備えて機を織り着物のほつれを綴るよう、人に注意を促すように鳴くものとして、中世では能にも謡い込まれています。

  能『錦木』(世阿弥作)より

     きりはたりちやうちやう きりはたりちやうちやう

        はたおり松虫きりぎりす つづりさせよと鳴く虫の(以下略)

 能『松虫』(作者不詳)より

     千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちやう

        つづりさせちやうきりぎりす(以下略)

 近代の詩人もまた「きり、はたり‥‥」と機音を歌っています。

   上田敏 創作詩『汽車に乗りて』より

       (前略)

     きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう

     筬(をさ)の音やゝにへだゝり、(後略)

 

   北原白秋 歌集『桐の花』より

     きりはたり はたりちやうちやう

       血の色の 棺衣(かけぎ)織るとよ 悲しき機(はた)よ  ≫

 

「能楽図絵」「松虫」/月岡耕漁筆/立命館大学

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0922

 http://www.syuneikai.net/matsumushi.htm

 ≪ 松虫(まつむし)

【分類】四番目物 (雑能)

【作者】不詳

【主人公】前シテ:市人、後シテ:男の亡霊

【あらすじ】(仕舞〔クセ〕の部分は上線部、仕舞〔キリ〕の部分は下線部です。)

摂津国(大阪府)阿部野のあたりに住み、市に出て酒を売っている男がいました。そこへ毎日のように、若い男が友達と連れ立って来て、酒宴をして帰ります。今日もその男たちがやって来たので、酒売りは、月の出るまで帰らぬように引き止めます。男たちは、酒を酌み交わし、白楽天の詩を吟じ、この市で得た友情をたたえます。その言葉の中で「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、その訳を尋ねます。すると一人の男が、次のような物語りを始めます。昔、この阿倍野の原を連れ立って歩いている二人の若者がありました。その一人が、松虫の音に魅せられて、草むらの中に分け入ったまま帰って来ません。そこで、もう一人の男が探しに行くと、先ほどの男が草の上で死んでいました。死ぬ時はいっしょにと思っていた男は、泣く泣く友の死骸を土中に埋め、今もなお、松虫の音に友を偲んでいるのだと話し、自分こそその亡霊であると明かして立ち去ります。

<中入>

 酒売りは、やって来た土地の人から、二人の男の物語を聞きます。そこで、その夜、酒売りが回向をしていると、かの亡霊が現れ、回向を感謝し、友と酒宴をして楽しんだ思い出を語ります。そして、千草にすだく虫の音に興じて舞ったりしますが、暁とともに名残を惜しみつつ姿をかくします。

【詞章】(仕舞〔クセ〕の部分と仕舞〔キリ〕の部分の抜粋です。)

〔クセ〕

一樹の蔭の宿りも.他生の緑と聞くものを。一河の流れ。汲みて知る。その心浅からめや。奥山の。深谷のしたの菊の水汲めども。汲めどもよも尽きじ。流水の杯は手まず。遮れる心なり。されば廬山のいにしえ。虎渓を去らぬ室の戸の。その戒めを破りしも。志しを浅からぬ。思の露の玉水の.渓せきを出でし道とかや。それは賢きいにしえの。世もたけ心冴えて。道ある友人のかずかず。積善の余慶家家に。あまねく広き道とかや。今は濁世の人間。ことに拙なきわれらにて。心も移ろうや。菊を湛え竹葉の。世は皆醉えりさらば.われひとり醒めもせで。万木皆もみじせり。ただ松虫のひとり音に。友を待ち詠をなして。舞い奏で遊ばん。

〔キリ〕

 面白や。千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。つずり刺せちょうきりぎりすひぐらし。いろいろの色音の中に。別きて我が忍ぶ。松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声。冥々たり。すはや難波の鐘も明方の。あさまにもなりぬべき.さらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草ぼうぼうたる朝の原の。草ぼうぼうたる朝の原。虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん。≫

  この句の季語は、「きりはたり=きりぎりす(初秋)/虫撰み=秋の虫(三秋)」で、「きりはたり=きりぎりす(初秋)」の一句であろう。

 (例句)

むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉「奥の細道」

白髪ぬく枕の下やきりぎりす   芭蕉「泊船集」

淋しさや釘にかけたるきりぎりす 芭蕉「草庵集」

朝な朝な手習ひすゝむきりぎりす 芭蕉「入日記」

猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉「蕉翁句集」

常燈や壁あたたかにきりぎりす  嵐雪「其角」

きりぎりす啼や出立の膳の下   丈草「菊の道」

きりぎりすなくや夜寒の芋俵   許六「正風彦根躰」

 「句意」は、「千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。」は、能「松虫」の、名調子であるが、吾輩のお供の「提燈持(もち)」も、今や、「きりぎりす」やら「鈴虫」やら、秋の千草にすだく「虫撰み」に夢中になっている。

  

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

  この句の季語は「星の竹/七夕」=「棚機、棚機つ女、七夕祭、星祭、星祝、星の手向け、星の秋、星今宵、星の歌」、「天の川、梶の葉、硯洗、庭の立琴、星合、牽牛、織女、鵲の橋、乞巧奠」(初秋)の一句である。

 (例句)

七夕や秋を定むる初めの夜             芭蕉 「有磯海」

七夕のあはぬこゝろや雨中天          芭蕉 「続山の井」

高水に星も旅寝や岩の上   芭蕉 「真蹟」

七夕やまづ寄合うて踊初め             惟然 「惟然坊句集」

七夕や賀茂川わたる牛車               嵐雪 「砂つばめ」

恋さまざま願ひの糸も白きより      蕪村 「夜半叟」

七夕に願ひの一つ涼しかれ             成美 「成美家集」

七夕や灯さぬ舟の見えてゆく          臼田亜浪 「亜浪句鈔」

うれしさや七夕竹の中を行く        正岡子規 「子規句集」

 

『東都歳時記』「第四巻所収『七夕(武蔵七夕))』」(早稲田大学図書館 (Waseda University Library))

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05102/ru04_05102_0004/ru04_05102_0004_p0003.jpg

 「句意」は、今日は、七月七日の「星合」の日である。江戸の、その夕焼けの空は、その「星合の竹」で埋め尽くされている。吾が兄事する「夜半翁」(「蕪村翁」)は、「恋さまざま願ひの糸も白きより」の一句を遺しているが、それに和して、「逢ふやいかに夜のにしきの星の竹」を呈したい。

  

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

 この句の前書の「東陽山」とは、下記のアドレスの、「台東区竜泉町にある正燈寺(もみぢ寺)」のようである。

https://tesshow.jp/taito/temple_ryusen_shoto.html

 ≪正燈寺(龍泉寺町七〇番地)

京都妙心寺末、東陽山と號す。本尊釋迦如来。(大正十二年九月焼失)承應三年、溝口出雲守宣直禅宗に歸依し、徳大師、顯妙院二寺の古跡地の百姓持であつたのを買受けて寺地に充て松平市正正勝に諸堂宇を建立し、大圓寶鑑國師を請じて開山とした。これ當寺の濫觴で、はじめ正燈庵と號したが、元禄元年今の寺號に改めた。寛政年中諸堂大破に及び開基家竝に總檀家合議の上取崩し、假堂を設置し、文政十年合議の上諸堂宇を再建したが、かの安政二年十月二日の大地震に皆潰滅し、同六年庫裏を再建したが、これ亦大正十二年の大震火災に焼失した。災禍を蒙ること尠からずといはねばならぬ。當寺は往時紅葉の名所であつて、高雄の苗を植ゑたので「高雄の紅葉」と呼ばれ、品川海晏寺に劣らずと稱せられたことは江戸砂子、新編江戸志、江戸名所圖會、江戸名所花暦に見えて人の知る所であるが、數箇度の變災もその因を爲したのであらう、今は全くその俤もとどめなくなつてしまつた。(「下谷區史」より)≫

この「正燈寺(紅葉寺)」は、下記のアドレスの通り、当時の俳人の「加舎白雄」や「小林一茶」も、一句吟じているようである。

 http://urawa0328.babymilk.jp/sitamati/syoutouji.html

 ≪正燈寺は京都の高雄からもみじを移植し、名所図会に「もみじ寺」として登場する程の景勝地であった。

 加舎白雄は正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正灯寺

門に入て紅葉かざゝぬ人ぞなき  『しら雄句集』

 文化元年(1804年)10月25日、小林一茶も正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正統寺にて

  散紅葉流ぬ水は翌のためか    『文化句帖』(文化元年10月) ≫

 この「正燈寺」は、下記のアドレスの通り、「近所の吉原遊郭に遊ぶ客」と深い関わりのあった所なのである。

 https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E7%87%88%E5%AF%BA

 ≪東京都台東区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は東陽山。昔は紅葉の名所で、その見物を口実にして近所の吉原遊郭に遊ぶ客が多かった。≫

 

『 江戸名所図会(えどめいしょずえ)』所収「6-17-10 /東陽山正燈寺」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/edo-meisyozue/17.html#group1-10

 「句意」は、「紅葉」の季節と相成った。その「紅葉の名所」の、ここ、「東陽山正燈寺」付近では、「このころ人もふところ手」の、思案気な「懐手(ふところて)」の「吉原通いの男衆」を目にすることだ。

  

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ

  季語は「としのくれ(年の暮れ)」(仲冬・暮)。「十二月も押し詰まった年の終わりをいう。十二月の中旬頃から正月の準備を始める地方も多く、その頃から年の暮の実感が湧いてくる。現代ではクリスマスが終わったあたりからその感が強くなる。」(「きごさい歳時記)

 【例句】

年暮れぬ笠きて草履はきながら  芭蕉「野ざらし紀行」

成にけりなりにけり迄年の暮   芭蕉「江戸広小路」

わすれ草菜飯に摘まん年の暮   芭蕉「江戸蛇之鮓」 

めでたき人のかずにも入む老のくれ 芭蕉「栞集」

月雪とのさばりけらしとしの昏   芭蕉「続虚栗」

旧里や臍の緒に泣としの暮     芭蕉「笈の小文」

皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮 芭蕉「幽蘭集」

これや世の煤にそまらぬ古合子   芭蕉「勧進牒」

古法眼出どころあはれ年の暮    芭蕉「三つのかほ」

盗人に逢うたよも有年のくれ    芭蕉「有磯海」

蛤のいける甲斐あれとしの暮    芭蕉「薦獅子集」

分別の底たゝきけり年の昏(くれ) 芭蕉「翁草」

  「歳暮」((仲冬・暮)も季語。「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。」(「きごさい歳時記」)

  抱一の自撰集句集『屠龍之技』は、抱一の自筆句稿(句日記)『軽挙館句藻』に基づいており、その句稿(句集)の各句集名は「居住地」に由来があり、その各句集の句の配列は、四季別(新年・春・夏・秋・冬・歳暮)の順序になっている。

 それらかすると、この句の前書の「歳暮」は「年の暮れ」の意で、季語としての「歳暮」(お歳暮/歳暮祝ひ/歳暮の礼/歳暮返し)の意の用例ではないように思われる。

 と同時に、この句は、この前年の、次の「歳暮」(年の暮れ)の句に対応しているように思われる。

 5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた(寛政十年戌午「歳暮」)

  さらに、この句は、次の前書のある句とも対応しているように思われる。

       老驥伏櫪/志在千里

            烈士暮年/壯心不已(止)

5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな(寛政十一年己未「夏」)

  この句の前書は、≪「老驥伏櫪/志在千里/烈士暮年/壯心不已(止)」の、「老驥伏櫪/志在千里」は、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏(ふ)すとも志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り」で、「(「曹操‐碣石篇」の「老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壮心未已」による語) 駿馬は老いて厩(うまや)につながれても、なお千里を走ることを思うこと。英雄、俊傑の老いてもなお志を高くもって英気の衰えないさまのたとえ。老驥千里を思う。※仮名草子・可笑記(1642)四「実に老驥櫪に伏して心ざし千里といへり、いはんやわかきこの身をや」」(「精選版 日本国語大辞典」)≫の意と解した。

 「句意」は、吉原に近い千束の里に引っ越した一昨年の「歳暮」の句は、「百両」が欲しいと、「百両と書(かひ)たり年の関手がた」の句だった。そして、不惑の年を前にした昨年には、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏(ふ)すとも志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り」との心意気で、「唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな」との、老馬なれど「志は千里を往かん」との一句だった。そして、不惑の年の、今年の最後の、この「歳暮」にあたっては、「どうにもこうにも、一日一文(現価の十二・三円の無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、されど、『志は千里を往かん』と老馬に鞭を打ちつつも、その心意気が一日一日と萎えていくような『年の暮れ』であることよ。」

 (蛇足)

 「老驥伏櫪/志在千里」を「関羽千里行」(『三国志演義』)に置き換えての、「この歳末に、この不惑の年の一年を振り返ってみると、一日一文(無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、一日一日が、まるで、『関羽千里行』のような、苦難の一年であったことを実感する。」というような解もあろう。