日曜日, 5月 21, 2023

第五 千づかの稲(5-34~5-39)

 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ


 朝妻ぶねの賛

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

 ≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)

 


「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html

 https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

≪「英一蝶画譜」

あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を/\。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

 

「朝妻舟」(鈴木春信作)

 

「朝妻舟」(歌川広重作)

 

「近江名所図会 朝妻舟」

https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

  この句の季語は、「藤(藤なみ)(晩春)、「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

くたびれて宿借るころや藤の花     芭蕉「笈の小文」

水影やむささびわたる藤の棚  其角「皮籠摺」

蓑虫のさがりはじめつ藤の花  去来「北の山」

しなへよく畳へ置くや藤の花  太祇「太祇句選後篇」

月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村「連句会草稿」

藤の花雲の梯(かけはし)かかるなり 蕪村「落日庵句集」

しら藤や奈良は久しき宮造り  召波「春泥発句集」

藤の花長うして雨ふらんとす  正岡子規「子規全集」

 「句意」は、この古人の旧き時代に描いた「朝妻舟」の、その「藤浪」(風に吹かれて波のように揺れ動く、藤の花)の、その「藤紫」は、少しも色褪せずに、今に、その美しさを奏でている。

 (補記)

 https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/6221b2da59c4b7f54e40659163a44dbb

 英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

  この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、

ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。

 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。

 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。

 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。

 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。

 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。

 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  

5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

 この句には、「朝妻ぶねの賛」の「前書」は掛からないようである。『俳文俳句集(日本名著全集第二十七巻)所収「屠龍之技」)』では、「朝妻ぶねの賛/5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆」と、それに続く「5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)」の間には、一行が空白となっており、この句は、前句とは直接の関わりのない一句と解したい。

 この句の季語は「鵑(ほととぎす)(三夏)で、「聞()そめて・鵑(ほととぎす)(初夏)

の「初鳴きの鵑(ほととぎす)」の句ということになる。

 (例句)

いつも初音ましてはつ音の時鳥   横井也有(「 蘿葉集」)

聞かぬとし有も命ぞ蜀魂      横井也有 (「蘿葉集」)

ほととぎす宿借るころの藤の花   芭蕉

春過てなつかぬ鳥や杜鵑      蕪村(「蕪村句集」)

我汝を待こと久し時鳥       一茶(「文化句帳」)

 


「子規 /杜鵑花(ほととぎす/さつき)」葛飾北斎筆/江戸時代・19世紀/中判 錦絵(「東京国立博物館蔵」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482420

 「句意」は、初夏を告げる「子規(ほととぎす)」の一声を聞き初めた頃、その鳴き声を聞かない夜も、これまた、その「忍び音」を耳にしないということで、これまた艶な情趣を伝えてくる。

 

5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

 「きりはたり」は、「きりはたりちょう」=「機(はた)を織る音を表わす語。また、ハタオリムシなどの声を表わす。きりはたり。※光悦本謡曲・松虫(1514頃)「面白や、千種にすだく虫の音も、はた織音のきりはたりちゃう、きりはたりちゃう」(「精選版 日本国語大辞典」)

 http://benijo514.blog118.fc2.com/blog-entry-14.html

≪秋の虫は和歌に詠まれ、機織り虫との古名がありました。キリギリス、あるいはスイッチョとも言われますが、その鳴き声が機織りの音に似ているからだとされています。また、秋の虫は、冬に備えて機を織り着物のほつれを綴るよう、人に注意を促すように鳴くものとして、中世では能にも謡い込まれています。

  能『錦木』(世阿弥作)より

     きりはたりちやうちやう きりはたりちやうちやう

        はたおり松虫きりぎりす つづりさせよと鳴く虫の(以下略)

 能『松虫』(作者不詳)より

     千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちやう

        つづりさせちやうきりぎりす(以下略)

 近代の詩人もまた「きり、はたり‥‥」と機音を歌っています。

   上田敏 創作詩『汽車に乗りて』より

       (前略)

     きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう

     筬(をさ)の音やゝにへだゝり、(後略)

 

   北原白秋 歌集『桐の花』より

     きりはたり はたりちやうちやう

       血の色の 棺衣(かけぎ)織るとよ 悲しき機(はた)よ  ≫

 

「能楽図絵」「松虫」/月岡耕漁筆/立命館大学

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0922

 http://www.syuneikai.net/matsumushi.htm

 ≪ 松虫(まつむし)

【分類】四番目物 (雑能)

【作者】不詳

【主人公】前シテ:市人、後シテ:男の亡霊

【あらすじ】(仕舞〔クセ〕の部分は上線部、仕舞〔キリ〕の部分は下線部です。)

摂津国(大阪府)阿部野のあたりに住み、市に出て酒を売っている男がいました。そこへ毎日のように、若い男が友達と連れ立って来て、酒宴をして帰ります。今日もその男たちがやって来たので、酒売りは、月の出るまで帰らぬように引き止めます。男たちは、酒を酌み交わし、白楽天の詩を吟じ、この市で得た友情をたたえます。その言葉の中で「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、その訳を尋ねます。すると一人の男が、次のような物語りを始めます。昔、この阿倍野の原を連れ立って歩いている二人の若者がありました。その一人が、松虫の音に魅せられて、草むらの中に分け入ったまま帰って来ません。そこで、もう一人の男が探しに行くと、先ほどの男が草の上で死んでいました。死ぬ時はいっしょにと思っていた男は、泣く泣く友の死骸を土中に埋め、今もなお、松虫の音に友を偲んでいるのだと話し、自分こそその亡霊であると明かして立ち去ります。

<中入>

 酒売りは、やって来た土地の人から、二人の男の物語を聞きます。そこで、その夜、酒売りが回向をしていると、かの亡霊が現れ、回向を感謝し、友と酒宴をして楽しんだ思い出を語ります。そして、千草にすだく虫の音に興じて舞ったりしますが、暁とともに名残を惜しみつつ姿をかくします。

【詞章】(仕舞〔クセ〕の部分と仕舞〔キリ〕の部分の抜粋です。)

〔クセ〕

一樹の蔭の宿りも.他生の緑と聞くものを。一河の流れ。汲みて知る。その心浅からめや。奥山の。深谷のしたの菊の水汲めども。汲めどもよも尽きじ。流水の杯は手まず。遮れる心なり。されば廬山のいにしえ。虎渓を去らぬ室の戸の。その戒めを破りしも。志しを浅からぬ。思の露の玉水の.渓せきを出でし道とかや。それは賢きいにしえの。世もたけ心冴えて。道ある友人のかずかず。積善の余慶家家に。あまねく広き道とかや。今は濁世の人間。ことに拙なきわれらにて。心も移ろうや。菊を湛え竹葉の。世は皆醉えりさらば.われひとり醒めもせで。万木皆もみじせり。ただ松虫のひとり音に。友を待ち詠をなして。舞い奏で遊ばん。

〔キリ〕

 面白や。千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。つずり刺せちょうきりぎりすひぐらし。いろいろの色音の中に。別きて我が忍ぶ。松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声。冥々たり。すはや難波の鐘も明方の。あさまにもなりぬべき.さらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草ぼうぼうたる朝の原の。草ぼうぼうたる朝の原。虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん。≫

  この句の季語は、「きりはたり=きりぎりす(初秋)/虫撰み=秋の虫(三秋)」で、「きりはたり=きりぎりす(初秋)」の一句であろう。

 (例句)

むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉「奥の細道」

白髪ぬく枕の下やきりぎりす   芭蕉「泊船集」

淋しさや釘にかけたるきりぎりす 芭蕉「草庵集」

朝な朝な手習ひすゝむきりぎりす 芭蕉「入日記」

猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉「蕉翁句集」

常燈や壁あたたかにきりぎりす  嵐雪「其角」

きりぎりす啼や出立の膳の下   丈草「菊の道」

きりぎりすなくや夜寒の芋俵   許六「正風彦根躰」

 「句意」は、「千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。」は、能「松虫」の、名調子であるが、吾輩のお供の「提燈持(もち)」も、今や、「きりぎりす」やら「鈴虫」やら、秋の千草にすだく「虫撰み」に夢中になっている。

  

5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

  この句の季語は「星の竹/七夕」=「棚機、棚機つ女、七夕祭、星祭、星祝、星の手向け、星の秋、星今宵、星の歌」、「天の川、梶の葉、硯洗、庭の立琴、星合、牽牛、織女、鵲の橋、乞巧奠」(初秋)の一句である。

 (例句)

七夕や秋を定むる初めの夜             芭蕉 「有磯海」

七夕のあはぬこゝろや雨中天          芭蕉 「続山の井」

高水に星も旅寝や岩の上   芭蕉 「真蹟」

七夕やまづ寄合うて踊初め             惟然 「惟然坊句集」

七夕や賀茂川わたる牛車               嵐雪 「砂つばめ」

恋さまざま願ひの糸も白きより      蕪村 「夜半叟」

七夕に願ひの一つ涼しかれ             成美 「成美家集」

七夕や灯さぬ舟の見えてゆく          臼田亜浪 「亜浪句鈔」

うれしさや七夕竹の中を行く        正岡子規 「子規句集」

 

『東都歳時記』「第四巻所収『七夕(武蔵七夕))』」(早稲田大学図書館 (Waseda University Library))

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05102/ru04_05102_0004/ru04_05102_0004_p0003.jpg

 「句意」は、今日は、七月七日の「星合」の日である。江戸の、その夕焼けの空は、その「星合の竹」で埋め尽くされている。吾が兄事する「夜半翁」(「蕪村翁」)は、「恋さまざま願ひの糸も白きより」の一句を遺しているが、それに和して、「逢ふやいかに夜のにしきの星の竹」を呈したい。

  

         東陽山

5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

 この句の前書の「東陽山」とは、下記のアドレスの、「台東区竜泉町にある正燈寺(もみぢ寺)」のようである。

https://tesshow.jp/taito/temple_ryusen_shoto.html

 ≪正燈寺(龍泉寺町七〇番地)

京都妙心寺末、東陽山と號す。本尊釋迦如来。(大正十二年九月焼失)承應三年、溝口出雲守宣直禅宗に歸依し、徳大師、顯妙院二寺の古跡地の百姓持であつたのを買受けて寺地に充て松平市正正勝に諸堂宇を建立し、大圓寶鑑國師を請じて開山とした。これ當寺の濫觴で、はじめ正燈庵と號したが、元禄元年今の寺號に改めた。寛政年中諸堂大破に及び開基家竝に總檀家合議の上取崩し、假堂を設置し、文政十年合議の上諸堂宇を再建したが、かの安政二年十月二日の大地震に皆潰滅し、同六年庫裏を再建したが、これ亦大正十二年の大震火災に焼失した。災禍を蒙ること尠からずといはねばならぬ。當寺は往時紅葉の名所であつて、高雄の苗を植ゑたので「高雄の紅葉」と呼ばれ、品川海晏寺に劣らずと稱せられたことは江戸砂子、新編江戸志、江戸名所圖會、江戸名所花暦に見えて人の知る所であるが、數箇度の變災もその因を爲したのであらう、今は全くその俤もとどめなくなつてしまつた。(「下谷區史」より)≫

この「正燈寺(紅葉寺)」は、下記のアドレスの通り、当時の俳人の「加舎白雄」や「小林一茶」も、一句吟じているようである。

 http://urawa0328.babymilk.jp/sitamati/syoutouji.html

 ≪正燈寺は京都の高雄からもみじを移植し、名所図会に「もみじ寺」として登場する程の景勝地であった。

 加舎白雄は正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正灯寺

門に入て紅葉かざゝぬ人ぞなき  『しら雄句集』

 文化元年(1804年)10月25日、小林一茶も正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正統寺にて

  散紅葉流ぬ水は翌のためか    『文化句帖』(文化元年10月) ≫

 この「正燈寺」は、下記のアドレスの通り、「近所の吉原遊郭に遊ぶ客」と深い関わりのあった所なのである。

 https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E7%87%88%E5%AF%BA

 ≪東京都台東区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は東陽山。昔は紅葉の名所で、その見物を口実にして近所の吉原遊郭に遊ぶ客が多かった。≫

 

『 江戸名所図会(えどめいしょずえ)』所収「6-17-10 /東陽山正燈寺」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/edo-meisyozue/17.html#group1-10

 「句意」は、「紅葉」の季節と相成った。その「紅葉の名所」の、ここ、「東陽山正燈寺」付近では、「このころ人もふところ手」の、思案気な「懐手(ふところて)」の「吉原通いの男衆」を目にすることだ。

  

   歳暮

5-39 一文の日行千里としのくれ

  季語は「としのくれ(年の暮れ)(仲冬・暮)。「十二月も押し詰まった年の終わりをいう。十二月の中旬頃から正月の準備を始める地方も多く、その頃から年の暮の実感が湧いてくる。現代ではクリスマスが終わったあたりからその感が強くなる。」(「きごさい歳時記)

 【例句】

年暮れぬ笠きて草履はきながら  芭蕉「野ざらし紀行」

成にけりなりにけり迄年の暮   芭蕉「江戸広小路」

わすれ草菜飯に摘まん年の暮   芭蕉「江戸蛇之鮓」 

めでたき人のかずにも入む老のくれ 芭蕉「栞集」

月雪とのさばりけらしとしの昏   芭蕉「続虚栗」

旧里や臍の緒に泣としの暮     芭蕉「笈の小文」

皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮 芭蕉「幽蘭集」

これや世の煤にそまらぬ古合子   芭蕉「勧進牒」

古法眼出どころあはれ年の暮    芭蕉「三つのかほ」

盗人に逢うたよも有年のくれ    芭蕉「有磯海」

蛤のいける甲斐あれとしの暮    芭蕉「薦獅子集」

分別の底たゝきけり年の昏(くれ) 芭蕉「翁草」

  「歳暮」((仲冬・暮)も季語。「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。」(「きごさい歳時記」)

  抱一の自撰集句集『屠龍之技』は、抱一の自筆句稿(句日記)『軽挙館句藻』に基づいており、その句稿(句集)の各句集名は「居住地」に由来があり、その各句集の句の配列は、四季別(新年・春・夏・秋・冬・歳暮)の順序になっている。

 それらかすると、この句の前書の「歳暮」は「年の暮れ」の意で、季語としての「歳暮」(お歳暮/歳暮祝ひ/歳暮の礼/歳暮返し)の意の用例ではないように思われる。

 と同時に、この句は、この前年の、次の「歳暮」(年の暮れ)の句に対応しているように思われる。

 5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた(寛政十年戌午「歳暮」)

  さらに、この句は、次の前書のある句とも対応しているように思われる。

       老驥伏櫪/志在千里

            烈士暮年/壯心不已()

5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな(寛政十一年己未「夏」)

  この句の前書は、≪「老驥伏櫪/志在千里/烈士暮年/壯心不已()」の、「老驥伏櫪/志在千里」は、「老驥(ろうき)(れき)に伏()すとも志(こころざし)千里(せんり)に在()り」で、「(「曹操碣石篇」の「老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壮心未已」による語) 駿馬は老いて厩(うまや)につながれても、なお千里を走ることを思うこと。英雄、俊傑の老いてもなお志を高くもって英気の衰えないさまのたとえ。老驥千里を思う。仮名草子・可笑記(1642)四「実に老驥櫪に伏して心ざし千里といへり、いはんやわかきこの身をや」」(「精選版 日本国語大辞典」)≫の意と解した。

 「句意」は、吉原に近い千束の里に引っ越した一昨年の「歳暮」の句は、「百両」が欲しいと、「百両と書(かひ)たり年の関手がた」の句だった。そして、不惑の年を前にした昨年には、「老驥(ろうき)(れき)に伏()すとも志(こころざし)千里(せんり)に在()り」との心意気で、「唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな」との、老馬なれど「志は千里を往かん」との一句だった。そして、不惑の年の、今年の最後の、この「歳暮」にあたっては、「どうにもこうにも、一日一文(現価の十二・三円の無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、されど、『志は千里を往かん』と老馬に鞭を打ちつつも、その心意気が一日一日と萎えていくような『年の暮れ』であることよ。」

 (蛇足)

 「老驥伏櫪/志在千里」を「関羽千里行」(『三国志演義』)に置き換えての、「この歳末に、この不惑の年の一年を振り返ってみると、一日一文(無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、一日一日が、まるで、『関羽千里行』のような、苦難の一年であったことを実感する。」というような解もあろう。 

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