木曜日, 5月 04, 2023

第五 千づかの稲(5-19~5-24)

     一年好景須君記

5-19 口切りや南天あかしうめ白し

5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた

5-21 胡麻節を軒端の梅のつぼみ哉

5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に

5-23 から貓()や蝶噛む時の獅子奮進

5-24 人影や月になりゆく夕桜

  この六句の前書にある「一年好景須君記」は、「贈劉景文(劉景文に贈る):蘇軾」の「一年好景君須記=一年の好景(こうけい)/君須(すべから)く/記(しる)すべし」の一節に因っている。

 https://kanshi.roudokus.com/ryuukeibun.html

    贈劉景文 蘇軾=劉景文に贈る 蘇軾

 荷尽已無擎雨蓋=荷(はす)尽き/已(すで)に雨擎(ささ)ぐ/蓋(かさ)無し

菊残猶有傲霜枝=菊残(おとろ)え/猶(なお)霜驕(おご)る/枝(えだ)有り

一年好景君須記=一年の好景(こうけい)/君須(すべから)く/記(しる)すべし

正是橙黄橘緑時=正に是れ/橙(とう)は黄に/橘(きつ)は緑なる/時(とき)

(現代語訳)

 蓮の葉は枯れてしまい、雨を受けていた傘も、今は無い。

 菊の花は凋み、何本かの枝が霜に耐えて伸びている。

 一年のうちのよい眺めを、ぜひ記憶に留めてほしい。

 特に今、ユズは黄色く色づきミカンはまだ緑色の季節を。

 (「句意」周辺)

 5-19 口切りや南天あかしうめ白し

  季語は「口切り」(初冬)。「南天(南天の実)(三冬)も「梅擬(白梅擬)(晩秋)も季語だが、ここは、「口切りの茶事(炉開き)(陰暦十月最初の亥の日の炉開き)の「茶花」の「南天の実の赤」と「白梅擬の白」との「取り合わせ」の句。

 「口切(くちきり)/初冬」=その年の新茶を葉のまま陶器の壺に入れ、口を封じて保存する。冬にその封を切り、茶臼でひいて茶をたてる。口切の茶事として客を招いてふるまう。もっとも晴れがましい茶会として、しつらいや装いに気を配る。

 「南天の実(なんてんのみ)/三冬」=初夏の頃白い小花を穂状につけるが、これが小粒の球形の実になる。枝先に群がった実は晩秋から初冬に真っ赤に色づく。「難を転ずる」に通じることから、鬼門や水周りに植えたり、縁起物として正月飾や祝い事に用いられる。

 「梅擬(うめもどき)・白梅擬/」晩秋」=モチノキ科の落葉低木で、北海道を除く日本各地の山地に自生する。とくに、谷筋や湿地に多い。庭木としても鑑賞し、初夏に薄紫の小さな花が咲く。実ははじめ青いが晩秋には深紅となる。

 「句意」は、今日の陰暦十月最初の亥の日の「口切りの茶事」で、その「茶花」は、赤い「南天の実」と白い「白梅擬」の取り合せである。その「白梅擬」が、初春を告げる「茶花」の「白梅」の如き風情を醸し出している。

 

「白梅擬」

https://hanazukusi.exblog.jp/17196719/

 (補記)

  この句の趣向は、「口切りや南天あかしうめ白し」の、「口切り」(初冬)、「南天の実」(三冬)、そして、「うめ白し」の、この「うめ」が「白梅」(初春)でなく、「白梅擬」(晩秋)と洒落風のレトリック(修辞上の技巧)を利かせているところにある。

 これが、「白梅」(初春)と詠ませると、「口切り(茶事)」の句ではなく、「初釜」の句となり、上五の「口切りや」と齟齬をきたすことになる。

  口切りや南天の実の赤き頃 (夏目漱石・明治二十八年)

 吾妹子(わぎもこ)を客に口切る夕哉 (同上)

 炉開きに道也の釜を贈りけり (同上)

 炉開きや仏間に隣る四畳半 (同上)

 梅の花千家の会に参りたり (夏目漱石・明治三十二年)

 粗略ならぬ服紗さばきや梅の主 (同上)

  『漱石俳句を愉しむ(半藤一利著・PHP新書)』で、漱石の愛弟子の一人の寺田寅彦の『漱石俳句研究(岩波書店)』を紹介しながら、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」

「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」などの「漱石の俳句観」を指摘して、「漱石はアイデアとレトリックといった芸のかぎりを駆使して、奔放に無頼に句で遊んだのである」と喝破している。

 この「漱石の俳句観」は、そっくり、其角の「洒落風俳諧」にどっぷりと浸かっている「抱一の俳句観(俳諧観)」と同一線上にある。というよりも、夏目漱石の俳句の世界は、抱一の俳句の世界の二番煎じという感じで無くもない。

  抱一は発句を読んで梅の花 (夏目漱石・明治三十二年)

 5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた 

 季語は「百両」(「万両・千両・十両」=ヤブコウジ科、「百両」=カラタチバナ、「一両」=アリドオシの「実万両」の三冬の季語。

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/3276

 「万両(まんりょう、まんりやう)/実万両=三冬」=ヤブコウジ科の常緑低木で、葉の下に直径六ミリ位の実をつける。まれに黄色や白い実をつける品種があり、黄実万両、白実万両と呼ばれる。千両と共に正月の縁起物として飾られる。万両(マンリョウ)は、ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑小低木で、関東以西から沖縄までの常緑樹林内に自生している。センリョウ同様に、縁起物とされ、鉢植え栽培や庭に植栽されている。縁起植物としては、万両(マンリョウ)や千両(センリョウ)の他に、百両としてカラタチバナが、十両としてヤブコウジが、一両としてアリドオシがあてられている。

 「関手がた」=「関手形」=「関所通(とおり・とほり)手形」=江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた。関所切手。関手形。関所札。関札。関所手形。手形。(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「【万両・千両・百両・十両・一両】全て実在する植物!それぞれの違いは?」

https://www.kankitsukeip.com/entry/2020/11/11/193503

 ◎名前の由来(万両):千両よりも実が赤く大きいため。また千両より多くの実を付けるため。

◎名前の由来(千両):百両より多くの実を付けるため。また万両より実が少ないため。

◎名前の由来(百両):江戸時代に流行した園芸品種が百両単位の値段で取引されていたため。

◎名前の由来(十両):百両より実が少ないため。また実の美しさが金十両に値するとされていたため。

◎名前の由来(一両):万両や千両とともに「千両万両有り通し」として植えられ、縁起物として扱われたため。

「句意」は、この絵図は、「万両・千両・百両・十両・一両」の、「百両」を描いたものとして、その落款に、その年の「関手がた」(「関所通(とおり・とほり)手形」)と同じく、「身元証明書」のように、「百両」という賛を施した。

 (補記)

  『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』によると、この句は、寛政十年(一七九七)の末で「歳末」と題しての、次の三句のうちの一句ということになる(「軽挙館句藻」)

  韓神(からかみ)の拍子はいかに節季候(せつきぞろ)

 よし原に師走女はなかりけり

 百両と書ひたり年の関手形

  そして、上記の二句目の「師走女」=「化粧っけのない女性」で、この三句目の句は、「年越しの物要り」を詠んだものとして、これらの句は「吉原近くの歳末の光景」であるとしている。

 この一句目の季語は「節季候」、二句目の季語は「師走女」、三句目のそれは「百両」で、この「百両」は、お金の「百両」と兼ねての用例である。この三句目の「関手形」も、例えば、「吉原」の妓楼とかと何らかの関係のある用例なのかも知れない。

 ここでは、この「関手形」を、この前年の、寛政九年(一七九六)の、「出家答礼の上洛」と関係するものとして捉えると、次のような句意となってくる。

  (句意)

  寛政十年(一七九七)の「歳暮」の「吉原」で、その年越しに「百両」は欲しいと、そんな思いをめぐらしながら、この庭先の「実万両・実千両」とも「実百両」とも思えるものを見ていると、昨年の、寛政九年(一七九六)の師走にかけての、真冬の「出家答礼の上洛」路での、さまざまなことが思いおこされてくる。 あの時も、その出発時に「百両」は欲しいと、その上洛時の「関手がた」()などを見ながら、そんなことを思いつつ、「万両・千両・百両・十両・一両」と、この「実万両・実百両」を見ている。

 5-21 胡麻節を軒端の梅のつぼみ哉

  季語は「梅のつぼみ」=「梅蕾(ばいらい・梅蕾(つぼ・ふふ))」=「冬萌」(晩冬)

(例句)

https://fudemaka57.exblog.jp/29220330/

 おさがりの雫莟むや梅若し    酒井抱一

 十団子に気のつく梅の莟かな   建部巣兆

 もどかしき梅二三日の莟かな   加藤曉台

 

「今はまだ、目覚めの前・・・ 花の季節(2月)になると、あたりの山々全体が、梅の花で薄化粧した様に、ほんのり白く染まります。」

https://minabe.net/barcharu/hana01.html

 「胡麻節(ごまぶし)」=「胡麻点」=謡物の文句の傍につけた、曲節を明らかにするための点。ふしはかせ。墨譜(ぼくふ)(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「墨譜の例」(「折線・曲線」は旋律の動き、「墨点」が「胡麻点」)

http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/47-e0e5.html

  「句意」は、屋根の下の「軒端」に、枝を張っている「軒端の梅」も、まだ、蕾のままで、それは、まさに、「謡物」の「墨譜」の「胡麻節」のようで、まもなく、「百花の魁(さきがけ)」の、梅の開花を奏でることでしょう。

  

5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に

  季語は「はるさめ(春雨)(三春)。「春に降る雨の中でも、こまやかに降りつづく雨をいう。一雨ごとに木の芽、花の芽がふくらみ生き物達が活発に動き出す。「三冊子」では旧暦の正月から二月の初めに降るのを春の雨。それ以降は春雨と区別している。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

 春雨や小磯の小貝ぬるゝほど          蕪村 「蕪村句集」

物種の袋ぬらしつ春のあめ             蕪村 「蕪村句集」

春雨の中を流るゝ大河かな             蕪村 「蕪村遺稿」

春雨や人住ミて煙壁を洩る             蕪村 「蕪村句集」

春雨や身にふる頭巾着たりけり      蕪村 「蕪村句集」

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど          蕪村 「蕪村句集」

滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨             蕪村 「蕪村句集」

春雨やもの書ぬ身のあハれなる      蕪村 「蕪村句集」

はるさめや暮なんとしてけふも有   蕪村 「蕪村句集」

春雨やものがたりゆく簑と傘          蕪村 「蕪村句集」

柴漬の沈みもやらで春の雨             蕪村 「蕪村句集」

春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」

はるさめや綱が袂に小ぢようちん   蕪村 「蕪村句集」

春雨の中におぼろの清水哉             蕪村 「蕪村句集」

 「かるた(歌留多)」も「新年」の季語だが、ここは「かるたの鬼」(「歌留多」に精魂を傾けている人)」の意で、下五の「綱の手に」と結びついて、能・謡曲「羅生門」に由来のある一句ということになる。

 この上五の「はるさめや」の「はるさめ」もまた、「羅生門」の詞章の一節である。

 http://idolapedia.sakura.ne.jp/cgi-bin/song.cgi?mode=text&title=%97%85%90%B6%96%E5

《頼光詞「いかに面々。さしたる興も候はねども。この春雨の昨日今日。晴間も見えぬつれつれに。今日も暮れぬと告げ取る。声も寂しき入相の鐘。

 上歌地「つくつくと。春の長雨の寂しきは。春の長雨の寂しきは。しのぶにつたふ。軒の玉水音すごく。独ながむる夕まぐれ。ともなひ語らふ諸人に。御酒をすゝめて盃を。とりとりなれや梓弓。やたけ心の一つなる。つはものゝ交はり頼みある中の酒宴かな。》

 

『能楽絵図』「羅生門」/絵師:月岡耕漁 判型:大判錦絵/出版:明治34(1901)/所蔵:立命館ARC/所蔵番号:arcUP1001.

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/jl2016/2016/11/post-66.html

(解説)

 ≪ 耕漁の『能楽図絵』の内の一枚。渡辺綱(ワキ)が鬼神(シテ)に斬りかかろうとする場面を描く。

能『羅生門』は観世小次郎の作。大江山で酒呑童子を退治した後、源頼光と藤原保昌が頼光四天王を集めて酒宴を開く。渡辺綱はその席で保昌から羅生門に鬼が出るという噂を聞くが信じず、その真相を確かめるために羅生門へ向かう。羅生門に到着した綱が証拠の金札を置いて帰ろうとした時、背後から鬼神に襲われる。応戦した綱は鬼の腕を斬りおとす。鬼は「時を待ってまた取ろう」と言い残して空へ消える。

大江山伝説と綱の鬼退治伝説に時系列の繋がりをつけたのはこの能『羅生門』が最初である。それにより名前こそついていないものの後世の伝説に登場する茨木童子に相当する鬼が誕生したのもこの謡曲『羅生門』である。この説は時代が下るにつれて広く人口に膾炙し、江戸時代天和元年頃成立した『前太平記』にも記述が見られる。(菅)

 「句意」は、春雨のしとしとと降り続く日の「新春」の集い、常連の「俳鬼・画鬼・酒鬼・債鬼・餓鬼・等々」の面々が、「歌留多」遊びを興じている。その勝負は、「鬼女」の異名を持つ「歌留多の鬼」が、「姓は渡辺・名は綱」を自称する「花札の鬼」に惨敗したようである。

5-23 から貓()や蝶噛む時の獅子奮進

  季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓()や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。

 その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

 (例句)

 猫の恋やむとき閨の朧月             芭蕉 「をのが光」

麦めしにやつるゝ恋か猫の妻          芭蕉 「猿蓑」

猫の妻竃の崩れより通ひけり          芭蕉  「江戸広小路」

まとふどな犬ふみつけて猫の恋      芭蕉 「茶のさうし」

羽二重の膝に飽きてや猫の恋          支考 「東華集」

おそろしや石垣崩す猫の恋             正岡子規 「子規句集」

恋猫の眼ばかりに痩せにけり          夏目漱石 「漱石全集」

  掲出の抱一の「から貓()や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

 http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

 ≪ 句意は「恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ」

 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。

「またうど」は「全人」でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。

そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。

 この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文) 安居正浩≫(「芭蕉会議」)

 

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又(ColBase)/https://colbase.nich.go.jp/

https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。

 (補記)

  この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。

  

5-24 人影や月になりゆく夕桜

  季語は「桜・夕桜」(晩春)。「月」(三秋)も季語だが、ここは、「夕桜」から「夜桜」への時分の推移をあらわしている用例であろう。

 「朝桜」=朝露を帯びて咲いている清らかな桜。夜桜。《季・春》※俳諧・いつを昔(1690)十題百句「朝桜よし野深しや夕ざくら〈去来〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「夜桜」=① 夜の桜の花。また、夜に桜の花を見物すること。朝桜。《季・春》※謡曲・西行桜(1430頃)「よそはまだ小倉の、山陰に残る夜桜の、花の枕の夢は覚めにけり」② 特に、江戸新吉原、仲の町の通りに植えられた桜。雪洞(ぼんぼり)をともして、夜遊びの客をさそった。→(メモ・「吉原の夜桜」=「夜桜」の派生季語) ※雑俳・柳多留‐七(1772)「夜さくらは年寄の見る物でなし」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「夕桜」=夕方にながめる桜。夕闇の中に咲いている桜。《季・春》※俳諧・いつを昔(1690)十題百句「朝桜よし野深しや夕ざくら〈去来〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

 (例句)

  護国寺にあそぶ時、

 馬にてむかへられて

白雲や花に成りゆく顔は嵯峨(其角「五元集」)

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 ≪「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。

 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。

 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫(「詩あきんど」)

 

初代歌川広重「東都名所 吉原仲之町夜桜」 シカゴ美術館

https://intojapanwaraku.com/culture/194738/

≪吉原遊郭の桜は、寛保元(1741)年春、茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが評判になり、翌年からは桜の木を植え、花の時期が過ぎると抜き去るのが恒例になりました。延享21745)年には、桜の木の下に山吹を植えて周りを青竹の垣根で囲い、夜は雪洞(ぼんぼり)に灯をともして夜桜も楽しめるようになりました。電気がなく、油も貴重だった時代、アミューズメントパーク・吉原遊郭の夜桜の花見は、江戸の人々にとっては、とても幻想的なものであったと思われます。この期間は、普段は吉原遊郭に立ち入ることができない一般の女性にも開放されていたのだとか。江戸の人々だけではなく、地方からの観光客や参勤交代で江戸に来た武士など大勢の人々が、評判の桜を一目見ようと、吉原遊郭を訪れたのです!≫(「和楽」)

  「句意」は、「吉原の夜桜」見学の「人影」が押し寄せ、月が上るにつれて、「夕桜」から「夜桜」へと、その幻想的な夜の世界をパノラマ化して行く。 

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