一年好景須君記
5-19 口切りや南天あかしうめ白し
5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた
5-21 胡麻節を軒端の梅のつぼみ哉
5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に
5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進
5-24 人影や月になりゆく夕桜
荷尽已無擎雨蓋=荷(はす)尽き/已(すで)に雨擎(ささ)ぐ/蓋(かさ)無し
菊残猶有傲霜枝=菊残(おとろ)え/猶(なお)霜驕(おご)る/枝(えだ)有り
一年好景君須記=一年の好景(こうけい)/君須(すべから)く/記(しる)すべし
正是橙黄橘緑時=正に是れ/橙(とう)は黄に/橘(きつ)は緑なる/時(とき)
(現代語訳)
蓮の葉は枯れてしまい、雨を受けていた傘も、今は無い。
菊の花は凋み、何本かの枝が霜に耐えて伸びている。
一年のうちのよい眺めを、ぜひ記憶に留めてほしい。
特に今、ユズは黄色く色づきミカンはまだ緑色の季節を。
「白梅擬」
https://hanazukusi.exblog.jp/17196719/
これが、「白梅」(初春)と詠ませると、「口切り(茶事)」の句ではなく、「初釜」の句となり、上五の「口切りや」と齟齬をきたすことになる。
吾妹子(わぎもこ)を客に口切る夕哉 (同上)
炉開きに道也の釜を贈りけり (同上)
炉開きや仏間に隣る四畳半 (同上)
梅の花千家の会に参りたり (夏目漱石・明治三十二年)
粗略ならぬ服紗さばきや梅の主 (同上)
「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」などの「漱石の俳句観」を指摘して、「漱石はアイデアとレトリックといった芸のかぎりを駆使して、奔放に無頼に句で遊んだのである」と喝破している。
この「漱石の俳句観」は、そっくり、其角の「洒落風俳諧」にどっぷりと浸かっている「抱一の俳句観(俳諧観)」と同一線上にある。というよりも、夏目漱石の俳句の世界は、抱一の俳句の世界の二番煎じという感じで無くもない。
季語は「百両」(「万両・千両・十両」=ヤブコウジ科、「百両」=カラタチバナ、「一両」=アリドオシの「実万両」の三冬の季語。
「【万両・千両・百両・十両・一両】全て実在する植物!それぞれの違いは?」
https://www.kankitsukeip.com/entry/2020/11/11/193503
◎名前の由来(千両):百両より多くの実を付けるため。また万両より実が少ないため。
◎名前の由来(百両):江戸時代に流行した園芸品種が百両単位の値段で取引されていたため。
◎名前の由来(十両):百両より実が少ないため。また実の美しさが金十両に値するとされていたため。
◎名前の由来(一両):万両や千両とともに「千両万両有り通し」として植えられ、縁起物として扱われたため。
「句意」は、この絵図は、「万両・千両・百両・十両・一両」の、「百両」を描いたものとして、その落款に、その年の「関手がた」(「関所通(とおり・とほり)手形」)と同じく、「身元証明書」のように、「百両」という賛を施した。
よし原に師走女はなかりけり
百両と書ひたり年の関手形
この一句目の季語は「節季候」、二句目の季語は「師走女」、三句目のそれは「百両」で、この「百両」は、お金の「百両」と兼ねての用例である。この三句目の「関手形」も、例えば、「吉原」の妓楼とかと何らかの関係のある用例なのかも知れない。
ここでは、この「関手形」を、この前年の、寛政九年(一七九六)の、「出家答礼の上洛」と関係するものとして捉えると、次のような句意となってくる。
(例句)
https://fudemaka57.exblog.jp/29220330/
おさがりの雫莟むや梅若し 酒井抱一
十団子に気のつく梅の莟かな 建部巣兆
もどかしき梅二三日の莟かな 加藤曉台
「今はまだ、目覚めの前・・・ 花の季節(2月)になると、あたりの山々全体が、梅の花で薄化粧した様に、ほんのり白く染まります。」
https://minabe.net/barcharu/hana01.html
「墨譜の例」(「折線・曲線」は旋律の動き、「墨点」が「胡麻点」)
http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/47-e0e5.html
5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に
物種の袋ぬらしつ春のあめ 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中を流るゝ大河かな 蕪村 「蕪村遺稿」
春雨や人住ミて煙壁を洩る 蕪村 「蕪村句集」
春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やもの書ぬ身のあハれなる 蕪村 「蕪村句集」
はるさめや暮なんとしてけふも有 蕪村 「蕪村句集」
春雨やものがたりゆく簑と傘 蕪村 「蕪村句集」
柴漬の沈みもやらで春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」
はるさめや綱が袂に小ぢようちん 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中におぼろの清水哉 蕪村 「蕪村句集」
「かるた(歌留多)」も「新年」の季語だが、ここは「かるたの鬼」(「歌留多」に精魂を傾けている人)」の意で、下五の「綱の手に」と結びついて、能・謡曲「羅生門」に由来のある一句ということになる。
この上五の「はるさめや」の「はるさめ」もまた、「羅生門」の詞章の一節である。
《頼光詞「いかに面々。さしたる興も候はねども。この春雨の昨日今日。晴間も見えぬつれつれに。今日も暮れぬと告げ取る。声も寂しき入相の鐘。
『能楽絵図』「羅生門」/絵師:月岡耕漁 判型:大判錦絵/出版:明治34年(1901)/所蔵:立命館ARC/所蔵番号:arcUP1001.
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/jl2016/2016/11/post-66.html
(解説)
≪ 耕漁の『能楽図絵』の内の一枚。渡辺綱(ワキ)が鬼神(シテ)に斬りかかろうとする場面を描く。
能『羅生門』は観世小次郎の作。大江山で酒呑童子を退治した後、源頼光と藤原保昌が頼光四天王を集めて酒宴を開く。渡辺綱はその席で保昌から羅生門に鬼が出るという噂を聞くが信じず、その真相を確かめるために羅生門へ向かう。羅生門に到着した綱が証拠の金札を置いて帰ろうとした時、背後から鬼神に襲われる。応戦した綱は鬼の腕を斬りおとす。鬼は「時を待ってまた取ろう」と言い残して空へ消える。
大江山伝説と綱の鬼退治伝説に時系列の繋がりをつけたのはこの能『羅生門』が最初である。それにより名前こそついていないものの後世の伝説に登場する茨木童子に相当する鬼が誕生したのもこの謡曲『羅生門』である。この説は時代が下るにつれて広く人口に膾炙し、江戸時代天和元年頃成立した『前太平記』にも記述が見られる。(菅)
「句意」は、春雨のしとしとと降り続く日の「新春」の集い、常連の「俳鬼・画鬼・酒鬼・債鬼・餓鬼・等々」の面々が、「歌留多」遊びを興じている。その勝負は、「鬼女」の異名を持つ「歌留多の鬼」が、「姓は渡辺・名は綱」を自称する「花札の鬼」に惨敗したようである。
5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進
その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)
麦めしにやつるゝ恋か猫の妻 芭蕉 「猿蓑」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉
「江戸広小路」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋 正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)
私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
「またうど」は「全人」でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文) 安居正浩≫(「芭蕉会議」)
喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/)
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/
「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。
5-24 人影や月になりゆく夕桜
馬にてむかへられて
白雲や花に成りゆく顔は嵯峨(其角「五元集」)
『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。
この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫(「詩あきんど」)
初代歌川広重「東都名所 吉原仲之町夜桜」 シカゴ美術館
https://intojapanwaraku.com/culture/194738/
≪吉原遊郭の桜は、寛保元(1741)年春、茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが評判になり、翌年からは桜の木を植え、花の時期が過ぎると抜き去るのが恒例になりました。延享2(1745)年には、桜の木の下に山吹を植えて周りを青竹の垣根で囲い、夜は雪洞(ぼんぼり)に灯をともして夜桜も楽しめるようになりました。電気がなく、油も貴重だった時代、アミューズメントパーク・吉原遊郭の夜桜の花見は、江戸の人々にとっては、とても幻想的なものであったと思われます。この期間は、普段は吉原遊郭に立ち入ることができない一般の女性にも開放されていたのだとか。江戸の人々だけではなく、地方からの観光客や参勤交代で江戸に来た武士など大勢の人々が、評判の桜を一目見ようと、吉原遊郭を訪れたのです!≫(「和楽」)
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