木曜日, 2月 08, 2007

其角とその周辺・一(一~九)


画像:蕪村筆「俳人群会図」

(謎解き・その一)

○ わが庵は月と花との間なり (古川柳)

一 「月と花」とは、俳諧(連句)の二大季題で、「月の定座」・「花の定座」として特別扱いを受けている。歌仙でいえば、「二花三月」で、「花」は裏の十一句目、名残の裏の五句目で、引き上げることはあっても、こぼすことはない。また、「月」は、表の五句目、裏の七句目、名残の表の十一句目で、引き上げることもこぼすことも自在である。この表の五句目の「月」の句と裏の十一句目の「花」の句の後に、「恋」の句を、そして、裏の十一句目の「花」の句と、名残の表の十一句目の「月」の句の間に、「恋」の句を登場させるのが、定石となっている。この、「俳諧」の「月・花」の「定座」ということを背景にしての、発句(俳句)や付句(川柳)は、数多くの例句を見ることができる。

二 俳句も川柳も、その母胎は「俳諧」(連句)ということを前提として、今日の「川柳」は、柄井川柳の登場以後の、いわゆる、『柳多留』等に収録されている「古川柳」が、その宝庫であることは、言をまたない。この「古川柳」での、「月・花」の句に、次のようなものがある。

○ つきはなのじようざ五丁の徳場なり (『柳多留』十二篇)
○ 月花を明りで見るは仲の町(『柳多留』四三篇)
○ 月花はいけん雪には追だされ(『柳多留』四四篇)
○ 月花はおやじ小言の定座也(『柳多留』十九篇)

三 これらの「古川柳」に見られる「月・花」との、「月」とは、「吉原における月の紋日」、
「花」とは、「仲の町の夜桜」と解されている(『川柳大辞典』)。

四 以上を前提として、冒頭の、「わが庵は月と花との間なり」の句意は、「私の庵は、吉原の月の紋日に代表される吉原と、その夜桜を代表する仲の町の間にあります」(そして、この句の背景には、私の順番の「恋」の句の場面の、その住処(箇所)は、月の定座と花の定座との間に挿まれております)ということにでもなるのであろうか。

○ 月花もなくて酒のむひとり哉 (芭蕉)

五 『曠野』(『泊船集』・『蕉翁句集』)に、「酒のみ居たる人の絵に」と前書きのある、芭蕉の発句(俳句)である。この句について、「いわゆる風流を愛する人は、月が美しいといっては酒を飲み、花が咲いたといっては酒を飲むが、この画中の人物はそんな通俗的な風流を避けて、ただひとり酒を飲んでいることだ。季語はなく、無季の句」として、さらに、
「『月花』は秋の月と春の花のことであるが、俳諧では大切にされている。風雅道のことにも用いる。『月花』とすれば『雑』の句となる」(井本農一・掘信夫注解『松尾芭蕉集』・「新編日本古典文学全集」小学館)としている。

六 ところが、『曠野集』(巻之一)には、「花 三十句」として、この芭蕉の句が、その二十九句目に、花の句として登場しているのである。そして、「○絵 この絵は現存不明。句から想像される所は、背景など一切なくて、うちくつろいで酒盃を挙げる人物一人がぽつんと描かれていたのだろう。○月花 季の扱いとしては春の句になる。▽人間がひとり酒を飲んでいる。見る所、月を楽しむというのでもなく、花をめでてというのでもないようだ。これはもう風流の域を超えた人物なのかもしれない。だが、なお風流の世界にとどまる自分たちとしては、月につけ花につけ楽しむ酒で、ようやく落ち着くような気持がするのである。この方のほうが立派ですね。季語『花』」(白石悌三・上野洋三校注『芭蕉七部集』・「新日本古典文学大系」岩波書店)との校注が施されているのである。芭蕉自身、この句は、この『曠野集』(巻之一)の「花 三十句」の一句として、「花」(春)の句として理解していることは、ほぼ間違いないところのものであろう。

○ 月花の初(はじめ)は琵琶の木どり哉 (釣雪)

七 さて、この句は、『曠野集』(巻之二)に、「歳旦」としてまとめられているものの一句である。「▽おおざっぱに琵琶の形に成形した用材。さらに細工を施し装飾を加えて、あの美しい楽器がうまれる。年頭にこのようなものを見ると、これからの風雅の数々が予想されて心楽しいことだ。季語『月花の初』」(白石悌三・上野洋三校注・前掲書)として、この句は、「春」の「花」の句ではなく、「月花の初」の「歳旦」(新年)の句ということになのである。

○ 月花や日本にまはる舌の先 (畔石)

八 さて、この掲出句は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が、元文四年(一七三九年・巴人六十四歳、蕪村二十四歳)に、宋阿の師、其角(宝永四年二月二十九日没)・嵐雪(宝永四年十月十三日没)の両師の三十三回忌にあたり手向けた追善集『俳諧 桃桜』所収の発句(俳句)の一句である。この掲出句の「月花や」の「月・花」は、上記(一・二・三・四・五・六・七)に鑑みて、いわゆる、「川柳」的な、「月(吉原)」・「花(仲の町)」との、当時の世相史的なことにおいて鑑賞すべきものなのか、それとも、其角・嵐雪の師である芭蕉の発句のように、「秋の月」・「春の花」の両方を意味する「雑」の句として鑑賞すへきものなのか、はたまた、それを、俳諧的な「花の座」(「花」は春)・「月の座」(「秋」の月だけではなく、四季の「月」が可)として、「花」の句にウエートを置いたものと理解すべきものなのか、それとも、「月花の初」の句として、「新年句会」(歳旦句会)のものとして鑑賞すべきものなのかどうか、はなはだ、困惑するのである。

九 芭蕉→其角・嵐雪→巴人・蕪村→(一茶)・(川柳)→俳句革新・川柳革新・・・という俳諧史の流れにおいて、確かに、「其角・嵐雪→巴人・蕪村」の時代においては、いわゆる、「比喩俳諧」として、「表面的な世界」と「その背後の世界」との、二方向でのアプローチが必須のような世界でもあった。このような時代史的な背景の上にたって、上記の、「月花や日本にまはる舌の先」を鑑賞すると、「表面的な世界」の鑑賞としては、上記の芭蕉時代のような鑑賞(上記の五・六・七)とあわせ、上記の川柳時代のような鑑賞(一・二・三・四)とが、その背景にあるということなのであろうか。

十 と解しても、これらは、「月・花」の「上五」に関してであって、句そのものの、「月花や日本にまはる舌の先」の、その「中七」の「日本」も、「下五」の「舌の先」も、どうにも、これは、作者以外には、理解不能のような、そんなものなのであろうか。何故か、この、夜半亭宋阿門の、京都在住の、名も知らぬ「畔石」という俳人が、「この句の謎を解いて下さい」と、そんな「催促」を、強いているような、そんな錯覚すら覚えるのである。というわけで、この句の表面的な理解は、「月花の初」の句と解して、「今年初めての月・花の連句興行において、さぞかし、日本中、到る所で、この『座』におけるように、花とか月とかの、風雅とやらの『言葉のやりとり』が、それぞれ『連衆』の『舌の先』で、展開されるであろう」とでも解しておきたい。そして、その背後の意味においては、「月の吉原と、花の仲町の、その『月と花』には、『日本堤』を通っていかなければならず、その『日本堤』に行く口実を、言葉巧みに『舌の先』で述べている」というようにも、解しておきたい。

○ わが庵は月と花との間なり     (古川柳)
● 天の原ふりさけみればかすがなる
       三笠の山に出でし月かも (阿部仲麻呂)
● 我庵は都のたつみしかぞすむ
       世を宇治山と人はいふなり (喜撰法師)
● 花の色はうつりにけりないたづらに
       我身世にふるながめせしまに (小野小町)

十一 振り出しに戻って、冒頭の「わが庵は月と花との間なり」(古川柳)は、あにはからんや、百人一首の、阿部仲麻呂の「天の原ふりさけみればかすがなる三笠の山に出でし月かも」の「月」と小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに」の「花」との間に挟まれている、喜撰法師の「我庵は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」の、その「わが庵」という解もあるようなのである(池田弥三郎『百人一首』)。ここまでくると、川柳なり、俳句なるものの一句を鑑賞するということは、その句意を「あれかこれか」と解釈するというようなことではなく、その一句に秘められた「謎」のようなものを、いわば、作者の「こころ」(当の本人さえ把握困難のような「こころ」)のようなものを、「あれかこれか」と「謎解き」をするようなものかと思えてきたのである。

十二 と解すると、これはまた、「俳諧(連句・俳句・川柳)は、楽しみ」(「老後の御楽(タノシミ)ニ可被成候」)という、「芭蕉語録」(芭蕉書簡)が、その本態なのであろうか。確かに、これ以上の「知的遊戯」(「知人の語録」)は、他にないのかも知れない。されば、歌仙興行でいけば、十二句目の、「恋」の句も終わり、「月の定座」ということで、この「謎解き」は、しばし、中断して、またの「楽しみ」といたしたい。

(謎解き・その二)

○ 目には青葉山時鳥初鰹      (山口素堂)
○ 目には青葉切りで句のなき京の夏(柳多留二八篇)
○ 目と耳はいいが口には銭がいり (柳多留三十篇)
○ 目と山と耳と口との名句也  (柳多留三十六篇) 
○ 目には雪手には青葉の年の暮れ (出目金)
○ 目には目を足には足を罪と罰  (兔)

十三 とにかく、「柳多留」の「名も無き」・「川柳子」たちは、芭蕉であれ素堂であれ、どんなものでも、見事に料理してしまう。「目には青葉、耳には時鳥の鳴き声、口には旬の初鰹」と、「まさに、初夏の風情」を見事に、十七字化する。しかし、こんどは、「目・耳・口」から「手」の句も登場した。「手」があるならば、「足」もあるだろうと、「罪と罰」の一句、これも、久々の快心作という趣なのである。

○ 目には青葉山時鳥初鰹      (山口素堂)

十四 とした上で、この掲出の名句は、「目には青葉・(耳には)山時鳥・(口には)初鰹」と「六・七・五」の詠みと、その詠みに伴う、鑑賞の仕方が一般的だが、これは、「目には青葉山・(耳には)時鳥・(口には)初鰹」と、詠みは、ともかくとして、句意は、「青葉」ではなく、「青葉山」と理解すべきなのではなかろうか。

○ わが庵は月と花との間なり (古川柳)
○ 月花や日本にまはる舌の先 (「俳諧桃桜」・畦石)

十五 奴さんの謎句は、「わが庵は月と花との間なり」であった。兔の数年越しの謎句は、「月花や日本にまはる舌の先」であった。そして、偶然に、この謎句同士が一緒になって、これらの謎句の「月花」関連については、イメージが鮮明になりつつある。しかし、依然として、兔の謎句の「日本」と「舌の先」とは、藪の中である。インターネットの情報を駆使していくと、相当の所までは、その謎解きの核心に迫られる思いがするのだが、この面での「楽しみ」も格別である。

(謎解き・その三)

   空道和尚いかなるか
是汝が俳諧と問はれ
しに即答
○ 庭前に白く咲いたる椿哉   (鬼貫)
   馬上吟
○ 道のべの木槿は馬にくはれけり(芭蕉)
○ 煮売り屋の柱は馬にくはれけり(川柳子)

十六 俳句(発句)に前書きがあるがものがあるが。川柳(付句)にはほとんど前書きのあるものを目にしない。鬼貫の句について、「第一句は詞書によって見ると、所謂、柳は緑花は紅といふやうな、禅の悟りめいた事を表はしたものと見る」(潁原退蔵著『俳諧評釈上』)と「詞書」(ことばがき)の用例をしていてる。だが、芭蕉の句については、「紀行(註・『野ざらし紀行』)には、『馬上吟』と前書がついている」(潁原・前掲書)と「前書」(まえがき)の用例をしている。そして、この芭蕉の句について、「自分の乗つてゐる馬が、馬子が一寸立止まつてゐる間か何かに、路傍の木槿をばくりと一口食つてしまつた眼前の即景を、そのまま句にしたのである。これは『出る杭はうたれる』といふ教訓的の寓意があるやうに解するのは誤つてゐる。ある説に芭蕉の禅の師である仏頂和尚が、芭蕉に俳諧の如き綺語を弄することを戒められた所、芭蕉は『俳諧は只今日目前の事にて候』といつて此の句を即吟した。すると和尚は『善哉々々俳諧もかかる深意あるものにこそ』と感じて、以後は芭蕉の俳諧を制しなかつたと伝へてゐる。これは恐らく実説ではあるまいが、少くとも此の句の真意を領した逸話として面白い。この句には確かに一種禅味を帯びたところがある」としている。さらに、掲出の鬼貫の句と比較して、「(註・鬼貫の句)の如く、芸術的感激の希薄な結果、ひとりよがりの理屈やいや味に陥るものが多い。然るに此の句(註・芭蕉の句)は流石に禅理を説き示そうなどといいふいや味は全くなく、ただ眼前の即景を淡々と描き去つてゐる。箇中の妙味はそこにある。素堂(註・山口素堂)はすでにこの紀行の序に『山路来ての菫、道ばたの木槿こそ此の吟行の秀逸たるべけれ』と評し、許六(註・森川許六)は『歴代滑稽伝』の中に、談林を見破つてはじめて正風体を見届け、躬恒(註・凡河内躬恒)・貫之(註・紀貫之)の本情を探つた句だと称賛してゐる」(潁原・前掲書)。
 ことほどさように、この芭蕉の句が、「躬恒(註・凡河内躬恒)・貫之(註・紀貫之)の本情を探つた句だと称賛してゐる」とまでされているのである。これは一にかかって、掲出の鬼貫の「詞書」(前書き)が、長々と禅味臭いのに対して、芭蕉のそれは「馬上吟」といかにも何の衒いもないような俳諧的なそれに因るところが大と思われるのである。それが故かどうか、川柳子たちは、この芭蕉の句に対して、掲出句のように、「馬は道のべの木槿なんかを食わず、煮売り屋の柱を食ったんじゃないか」と痛烈に風刺の句を今に残しているのである。

(謎解き・その四)

笠は長途の雨にほころび、 紙衣はとまり
とまりのあらしにもめたり。侘つくしたる
わび人、我さへあはれにおぼえける。むか
し狂歌の才士、此国にたどりし事を、
不図おもひ出て申侍る。
○ 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉    芭蕉

十七 「前書(まえがき) 和歌・連俳用語。『詞書』(ことばがき)とも。和歌や連歌・俳諧の発句の前に置かれ、主としてその成立事情を記した文章。一般に和歌では『詞書』、俳諧では『前書』と呼ぶ場合が多いが、その逆の例もあり明確な区別はない。和歌や発句が贈答・挨拶など作品成立の当座性との関わりが深いため、それを散文で補うことが必要とされた。元来は実用的な記録を目的としたものであるが、在原業平の長文の詞書は歌物語との関わりで注目され、また歌学書では『詞書にゆずる格』が詠歌の一体とされている。俳諧においても、多く発句の趣向を明らかにするために、成立事情などを記した断り書きにすぎないが、長文の和文脈で綴られたものや漢詩文を用いたもの、謡曲調をそのまま引用したものなど様々なバリエーションがある。特に蕉門では、一種のレトリックとして前書による表現の可能性に着目し、これを説明書きとは区別して『発句の光を掲ぐる前書』(『宇多法師』)と呼び、『前書並びに文章等蕉門の手柄あり』(『旅寝論』)と自負していた」(『俳文学大辞典』)。なるほど、掲出の、『冬の日』の冒頭の歌仙の、その前書き付きの、芭蕉の発句などを見ると、「レトリック」(修辞法)重視の蕉門の姿勢が見えてくる。この芭蕉の句の「前書き」と発句に出てくる、「狂歌」と「狂句」という用例で、この「狂句」
は、「俳諧の中国風の言葉」だそうだが(上野洋三他・前掲書)、後に、「川柳」と同意義に用いられており、ここも、「発句」(俳句)そのものではなく、「狂句」(川柳)の方にウェートを置いて鑑賞した方が、より、このときの芭蕉の姿勢に近いのではなかろうか。

(謎解き・その五)

○ 待ちかねて  月代(さかやき)妻に剃らせけり
○ 夜も寝ずに  かるたに痩する松の内
○ 顔出して   大黒舞の昼休み
○ 空寝入(り)   して追ひにくき顔の蠅
○ どこやらが  女房の留守は拍子抜(け)
○ もも尻に   なつて異見を聞く我が子

十八『奈良土産』(元禄七---一六九四刊)所収の「笠附け」である。「笠附け」は、五文字で出題し、その五文字に、十二字で付句をするのである。別名、「烏帽子附け」・「冠附け」・「五文字附け」・「かしら附け」など。雲鼓の『西国船』((元禄十五---一七〇二刊)に、「一句一句の頓作、心の機(はたらき)、詞の軽口あたらしきを賞翫して」とある(渡辺信一郎著『江戸文学の粋・短詩型文学・前句附け』)。『奈良土産』が刊行された元禄七年には、芭蕉が五十一歳の生涯を閉じた。『西国船』が刊行された元禄十五年には、「幕府、俳諧の笠附けを禁止」とある。いかに、この種の「前句附け」が爆発的に流行していたかが察知される。(ここで、半歌仙が終わり、名残の表へと続いていく)。

(謎解き・その六)

○ 真 はたごやの  一間は橋をこえて行(く)
○ 草 はたごやで  親の内ほど起(こ)さるる
○ 真 寒声(かんせい)の  足まで潮が満って来る
○ 草 寒声の        外のものじゃと追出され

十九 これも「笠附け」であるが、伊勢地方のそれは「伊勢冠句」として特に名高い。一日に一題を出し、翌日に入選作を発表する形式で、毎日数千句も投句されたという(渡辺・前掲書)。掲出のものも、「伊勢冠句」の一つで、ここに、掲載されている「真」は俳諧のそれで、「草」は今でいう川柳の「雑俳」とのことである(渡辺・前掲書)。この頃になると、五文字の笠題の字数は流動化してくるという(『俳文学大辞典』)。この掲出句は、享保十二年(一七二七)の「五柳」点(選)のものである。この享保十二年には、「伊勢一句立が流行。幕末に及ぶ」と俳諧史の年譜にあるが(『俳文学大辞典』)、この「伊勢一句立」と「伊勢冠句」は同意義と解して差し支えなかろう。

(謎解き・その七)

○ 行水 の 肌は奈良にもさらし兼ね
○ 行水 を 夕立が来てうめていく
○ 行水 の 始末も京が美しい

二〇 これも伊勢冠句で、おおむね川柳点的な作風が多い(渡辺・前掲書)。行水は信仰的な潔斎の意味もあって、当時は必ずしも夏の季題ではなかったが、次第に市井の風物詩として夏の「季題」として定着してくる。しかし、「行水」は「ぎょうずい」の詠みなのか、それとも「ゆくみず」の詠みなのか、なかなか判然としない場合が多い。先の『俳諧桃桜』の発句の部の冒頭の句の「月花や日本にまはる舌の先」(畔石)の次に、「行水の枯木に花の深みどり」(南岫)という句が続く。また、其角追悼句集にふさわしく、「行水の雑談集や花かたみ」(潭考)などの句も見られる。そして、其角の次の句を背景とした次の句も登場する。

○ 行水や何にとどまる海苔の味 (其角『早舟の記』)
○ 行水やともに消えゆく海苔の味(巴井『俳諧桃桜』)

この其角の『早舟の記』は、次のアドレスで見ることができる。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

ところが、この「俳諧ネット」でも、次のような「海苔」の句が登場したのである。

○ 目算は味付け海苔を敷き詰めて(狸『俳諧ネット』) 

この「海苔」の句は、次のような解説が施されていた。
「自分は形勢判断で地を数えるときに、三かける四の十二目の面積を一枚として、一、二、三、四、五と数えています。五枚で六十目、六枚で七十二目といった感じです。十二目のサイズが海苔サイズに近いと思い、いい加減な句でしたが、十二目単位でぺたぺたと数えてみると、速く、また模様の大きさなどがたちどころに分かり、大雑把に形勢がつかめますので、足りなければがんばり、余裕なら、ヨセてしまう、といった方針がたてられるので、上手の石もいなせるようになるのではと思われます」。この句も、この解説と一諸でないと理解困難な謎句の範疇に入るものであろう。

さて、この謎句的な句の範疇に入ると思われる、上記の「其角」・「巴井」、さらには、「南岫」・「潭考」の句について、「これは、このように解せるのではないか」という情報があったら、是非、その情報をお寄せいただきたい(こういうものは、どれが正解などということではなく、「こういう解もある。こういう考えもできる」ということが、これらの謎句の背景のようである)。       

(謎解き・その八)

○ 行水や何にとどまる海苔の味 (其角『早舟の記』)
(蘭解読・「行く水は何にもとどまらないように見えて、海苔の味に大きな影響を与える。海苔の味としてとどまる」という意か。)
○ 行水やともに消えゆく海苔の味(巴井『俳諧桃桜』)
(蘭解読・其角の句の本句取りで、「最近の海苔は昔ほどうまくなくなった。やはり行く水のせいか」という意か。)

二一 掲出の謎句の一つの解読が、「活字」の世界と「ネット」の世界の両方に精通している蘭氏には、常人が「年」単位のものは「月」単位、「月」単位のものは「日」単位、そして、「日」単位のものは「分」単位で、把握できるようなのである。しかし、まだまだ、「連歌・連句・俳諧・俳句・川柳」の分野においては、ネットの世界のデータは少なく、蘭氏の、これまで培った活字の世界のデータが、その背後にあるのであろう。ネット世界のデータの一つとして、先に紹介した、下記のアドレスの其角の「早舟の記」(其角三百回忌記念シンポジュウム)の一番末尾の「早舟の記解説へ」というところをチェックすると、二上貴夫氏のレジュメ(其角資料)が出てくる。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

この二上貴夫氏のレジュメを見ていくと、掲出の其角の「行水や何にとどまる海苔の味」について、「『行く水や』の発句は、鴨長明『方丈記』の『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある、人と栖と、又かくのごとし』を引いている。世の無常を嘆いているよりも、今々に発生し留まる海苔の味を噛みしめるべきであろうと言うわけだ」が、その背景にあるとし、「伝統的無常観と其角流あはれの始まり」について、実に、興味のある見解を示しているのである。それ以上に、次の二上氏の指摘は、誠に同感と、そして、その卓見を基礎に置かなければならないことを痛感したのである。

※今のこの現在とは、「何にとゝまる海苔の味」と其角が感じ取った途中途中の《モノ》であり発生の《トキ》であり、その瞬間瞬間の充実した《ミ》であって、それが無常の味である。「一瞬の櫓をおさへて生路を勘破ス」これが其角の感じた無常(あはれ)であり、其角の俳味であった。決して時間が止まるような永遠や無境界や陶酔と言った悟りの境地などではなく、ありのままの正覚現象である。しかし、この其角流のあはれを判定し得る者は、同時代にもそれ以降にも、冨永半次郎(1883-1965)が現れるまで居なかった。冨永氏の著書は、戦前昭和19年に中央公論社より『剣道に於ける道』を出したのみで、アカデミズムにもジャーナリズムにも無縁であったため、一般には全く知られていない。其角三百回忌記念シンポジウムに当たって、かつて冨永氏の勉強会に出席されて学ばれたという小谷幸雄氏より、「生中心の人間学-冨永半次郎の其角論」と題した講義をいただいた次第である(二上貴夫稿「早舟の記・解説」)。

※※この「アカデミズムにもジャーナリズムにも無縁」の世界にこそ、今後の「ネット」世界の一つの重要な羅針盤があるように思えるのである。

(謎解き・九)

◯ 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有(『桃青門弟独吟二十歌仙』)

二十二 この「謎句を解く」のスタートは、「生角」(「ナマカク」とも「キカク」とも詠む)の別号を持つ奴氏の「わが庵は月と花との間なり」の問題提起を切っ掛けとしてであった。たまたま、「俳諧桃桜」で、「月花や日本にまはる舌の先」(畔石)を、どのように鑑賞すべきかということとあわせ、同じような関心を持っている同胞が身近にいたという親しみをこめてのメッセージのようなものであった。この「月花や日本にまはる舌の先」に関心を持った当時には、「月花」に関する手掛かりになるような目ぼしいデータは集まらなかったのだが、このところ、この「月花」に関するデータが自然と向こうから飛び込んでくるのには、どうにも、「目を白黒」する思いなのである。そして、「謎句」の元祖のような、其角さんが、昨年(二〇〇六年)で、丁度、その三百回忌にあたり、このネットで、江戸博物館で行われた、その三百回忌のシンポジュウムの「早船の記」のレジュメ(二上貴夫稿)を目にして、「生角」さんと同じ位に、その元祖の、「其角」さんに関心を持ち始めたというのが、現在の心境でもある。掲出の句は、その「其角」さんの「月花」の句で、芭蕉が、「芭蕉」の号よりも「桃青」の号を多く使用していた当時の、いわゆる「虚栗」(みなしぐり)時代の「漢詩文・破調」の一句といえよう。この句の解説(二上貴夫稿)は次のとおりである。

※其角の父・竹下東順は医をもって本多某候に仕え、歌・俳諧は由良正春門であり、東順は長子其角に医師としての素養と当代最高の教養をつけさせようとしたようだ。しかし其角は、結局は医師にはならず「月花ヲ医ス」俳諧師の道を選んだ。

このことと、先の奴氏の「其角」の号の由来の次のメッセージをダブらせると、「俳諧師・其角」という像の一端が浮かんでくる。

※「易経 其角(そのつの)を晋(すす)む維用(これもって)邑を伐ときはあやふけれども吉咎なし貞なれば吝なり / 角はかしらの上にあるものなり / すすむに先だつものなり / 剛(つよき)のいたりとす / このコウは晋(すすむ)の卦の上にあるがゆえに進に極(すぐる)ときはさはがしくいそぐのあやまちありとす / 又剛に極るがゆえに猛くしてものをそこなふのあやまちありとす」。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

この掲出の句は、「其角」の号の由来をメッセージしてくれたところの奴氏が、「どうにもわからない」という謎句である。こういう句を発句として、これに脇句を付けるとしたら、
どのようなものになるのか。俳諧(連句)は、前句を鑑賞して、その鑑賞の上に立って、付句を考案するから、「謎句」であろうが、何であろうが、たとえ、それが、「美しい誤解」と喧伝されようが、一定の、意思決定をしなければならない。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)
   鰆東風吹く江戸の紋様 (兎)