水曜日, 10月 18, 2006

三橋鷹女の俳句(一~十)



三橋鷹女の句(その一)


三橋鷹女のことについてインターネットでどのように紹介されているか調べていたら、
簡潔にして要を得たものとして、次のように紹介されていたのものに出会った。


http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/M/mitsuhashitakajo.html


このホームページは「文学者掃苔録」というタイトルのものの中のもので、各県別に心
に残る文学者の物故者の紹介のものであり、是非一見に値するものであり、その永い間の
取り組みの労につくづくと頭の下がる思いをしたのである。このことに思いをあらたにし
て、「三橋鷹女の句(鑑賞)」の冒頭に、そのまま掲載することにした(なお、算用数字な
どは、これまでのものと統一するため和数字などに置き換えた)。


http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html


三橋たか子(一八九九~一九七二・明治三二年~-昭和四七年)
昭和四七年四月七日歿 七二歳 (善福院佳詠鷹大姉) 千葉県成田市田町・白髪庵墓地
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます


(羊歯地獄自序)
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり (向日葵)
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (魚の鰭)
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となって踊りけり (白骨)
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み (羊歯地獄)


ここに、紹介されている、鷹女の第四句集『羊歯地獄』のその「自序」に始めて接した
ときの驚きを今でも鮮明に覚えている。そして、この「「生きて 書け----」ということ
が、どんなに支えとなったことであろうか。ここに紹介されている鷹女の六句も、現代女
流俳人として群れを抜く鷹女の一端を紹介するものとして、忘れ得ざる句として、どれほ
ど口ずさんだことであることか。やはり、この六句を冒頭にもってきたい。(なお、上記
の六句目は「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」と一字空白の原文のものに訂正させてい
ただいた。)

三橋鷹女の句(その二)

○ しんじつは醜男にありて九月来る
○ 九月来る醜男のこゑの澄みとほり
○ 九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
○ 九月来る醜男のかたへ明く広く
○ 九月来る醜男が吾にうつくしい

これらの鷹女の句は、昭和十一年の「俳句研究(十月号)」(山本健吉編集)誌上の「ひ
るがほと醜男」という連作のもののうちの五句である(中村苑子稿「三橋鷹女私論」)。昭
和十一年(一九三六)というと、鷹女、三十八歳のときで、俳誌 「紺」の創刊に加わり、
女流俳句欄の選句を担当と、その年譜にある(『三橋鷹女全集(二)』)。その年譜によれば、
昭和九年(一九三四)に、「思いを残しながら、夫・剣三と共に『鹿火屋』を退会。剣三が
同人として在籍する小野蕪子主宰の『鶏頭陣』に出句。この頃より東鷹女と改名」とある。
鷹女が短歌より俳句に転向したのは、同年譜によれば、大正十五年(一九二六)、二十八
歳のときで、その頃の俳号は、東文恵。そして、東文恵で本格的に俳句に打ち込んだのは、
昭和四年(一九二九)、鷹女、三十一歳のときの、原石鼎主宰の「鹿火屋」に入会した以後
ということになるのであろうか。鷹女は終生、自分の主宰誌を持たなかったし、鷹女の名
を不動のものにした、その第四句集『羊歯地獄』(「その一」でその「自序」を紹介)は、
昭和三十六年(一九六一)、六十三歳のときで、それは、多行式俳句に先鞭をつけた高柳重
信らが中心となっていた「俳句評論社」から刊行されたものであった。すなわち、三橋鷹
女が、今日の鷹女俳句というものを決定づけたものは、富沢赤黄男や高柳重信らの、いわ
ゆる前衛俳句とも称せられる仲間とともにあるように思えるのであるが、しかし、その年
譜を辿ってみると、やはり、その師筋は、「鹿火屋」の原石鼎や原コウ子にあるといっても
よいのかもしれない。
そして、掲出の醜男の句は、その「鹿火屋」を退会した直後のころの作句なのである。
これらの句のいくつかについては、鷹女の第一句集『向日葵』にも収載されている。しか
し、この第一句集『向日葵』の鷹女の傑作句は、次の句がその筆頭にあげられるであろう。

○ 日本の我はをみなや明治節

この句は、「風ふね」(昭和四年~九年)という章にあるもののなかのもので、まさに、
鷹女の「鹿火屋」時代のものなのである。この「鹿火屋」時代の傑作句が、鷹女の原点と
もいえるものなのではなかろうか。それにしても、冒頭の掲出の醜男の五句は、何とも痛
烈な、何とも直裁的な、それでいて、何とも俳諧的なことと、まずもって度肝も抜かれる
思いがするのである。


三橋鷹女の句(その三)

○ 焼山に大きな手を挙げ男の子吾子
○ 子の真顔焼山に佇ち国原を
○ 焼山に瞳かがやき言(こと)いひき
○ 焼山の陽はまぶしかり母と子に
○ 木瓜赤く焼山に陽のかぎろはず

「吾子府立第四中を了ふ」との前書きのある五句である。三橋鷹女の第一句集『向日葵』
は、「花笠」(大正十三年~昭和三年・十句)、「風ふね」(昭和四年~九年・三十四句)、「い
そぎんちゃく」(昭和十年~十一年・五十八句)、「蛾」(昭和十二年~十三年・百九句)、
「ひまわり」(昭和十四年~十五年・百二十九句)の、所収句数は三百四十句からなる。そ
して、掲出の五句は、その「ひまわり」所収の句である。
これらの鷹女の句は、鷹女のその当時の「女として、妻として、母として」のその境涯
を詠った、いわゆる「境涯詠」の句といっても良かろう。そして、鷹女というと、例えば、
同じ『向日葵』所収の句でも、次のような句が鷹女の句として取り上げられ、そして、掲
出のような境涯詠を取り上げることは皆無に均しいのである。

○ 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(「いそぎんちゃく」)
○ カンナ緋に黄に愛憎の文字をちらす(同上)
○ 初嵐して人の機嫌はとれませぬ(同上)
○ つはぶきはだんまりの花嫌ひな花(同上)
○ 詩に痩せて二月の渚をゆくはわたし(「蛾」)

これらの句に見られる強烈な「自我」の固執とその「自我」を貫き通そうとする壮絶な
緊張感、そして、その根底に流れる「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)こそ、終生、鷹女
の俳句の根底を貫き通したものに違いない。しかし、その「ナルシシズム」より以上に、
鷹女は、明治・大正、そして、昭和を生き抜いた、その時代の、その「時代の申し子」の
ような鷹女の一面を度外視しては、鷹女の、その「ナルシシズム」という一面のみ浮き彫
りにされて、その全体像が見えてこないような懸念がしてならないのである。三橋鷹女の
句の、その原点にあるのは、鷹女自身が句にしている、次の句こそ、鷹女の、そして、鷹
女の俳句の全てを物語るもののように思えるのである。

○ 日本の我はをみなや明治節(「風ふね」)


三橋鷹女の句(その四)

鷹女の第二句集『魚の鰭(ひれ)』とは不思議な句集である。第一句集の『向日葵』と同じ
年代に作句されたものを、その『向日葵』に収載しなかった句を、次の三期に分けて、そ
れを逆年別に編纂した、いわば、第一句集『向日葵』が姉とすれば、この第二句集『魚の
鰭』は妹のような、そんな関係にある句集といえる。
「菊」 二二七句 昭和一四年~一五年
「幻影」 一八四句 昭和一一年~一三年
「春雷」 二〇八句 昭和 三年~一〇年

○ 棕櫚の髭苅る陽春の夫婦かな 「春雷」

この仲睦まじい夫婦は、俳人・謙三と俳人・鷹女の姿であろう。このお二人は鴛鴦の俳
人仲間といっても差し支えないのであろう。鷹女は多くのことを夫・謙三から学びとり、
そして、終生、夫・謙三は鷹女の才能を高く評価していたのであろう。そして、この掲出
句のユーモアに溢れた句が、ナルシシズムの権化のような鷹女その人の句であるというこ
とは特記すべきことと思われるのである。

○ この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 「幻影」

この「幻影」所収の句は、鷹女の傑作句としてしばしばとりあげられるものである。そ
して、鷹女の傑作句の多くが、その第一句集『向日葵』に収載されていることに鑑みて、
この句が、第二句集『魚の鰭』に収載されているのは、当時、多くの俳人が試みた「連作
俳句」(水原秋桜子らの提唱の一句一句視点を変えての連作的作句)の「幻影」と題する句の
中の一句であることが、その理由の一つに上げられるのであろう。この句が連作句の一つ
として、その直前の句は「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来(こ)」という王朝風のものであり、
それが掲出句のような、鷹女「その人の自我」への集中へと昇華するのである。この昇華
こそ、その後の鷹女俳句を決定づけるものであった。

○ 秋風や水より淡き魚のひれ 「菊」
○ 秋風の水面をゆくは魚の鰭か 「菊」

これらの句は、その第二句集の「魚の鰭」の由来ともなっている、当時の鷹女の自信作
でもあるのであろう。鷹女俳句の直情的な作風とともに、もう一つの独特の色彩感覚と象
徴的把握の作風は、これらの掲出句から感知することは容易であるし、晩年になると、こ
の独特の色彩感覚と象徴的把握の作風が、独特の鷹女的言語空間を産み出すこととなるの
である。


三橋鷹女の句(その五)


○ 子を恋へり夏夜獣のごとく醒め (敗戦 三句)
  夏浪か子等哭く声か聴え来る
  花南瓜黄濃しかんばせ蔽うて哭く

○ ひとり子の生死も知らず凍て睡る (夫 剣三、患者診療中突然多量の吐血して卒倒し
                        重体となる。病名胃潰瘍)

○ 胼割れの指に孤独の血が滲む(一週間後再び危篤に陥る)
○ 藷粥や一家といへども唯二人(二三ヶ月を経て稍愁眉をひらく)
○ 焼け凍てて摘むべき草もあらざりき(一月は子の誕生日なれば、七草にちなみせめて雑
                       草など摘みて粥を祝はんとせしも・・・)


○ あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり(昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還)


これらの句は、鷹女の第三句集『白骨』に収載されている句のうちの「敗戦」から「吾子
生還」までの八句を収載されているままに掲出したものである。これらの句が収載されて
いる第三句集『白骨』には「前書き」が付与されている句が多く、さながら、鷹女の日々
の記録を見るような思いがする。そして、俳句にはこのような日々の心の記録をとどめ置
くという一面をも有している。ここには、俳人・鷹女というよりも、一生活者・鷹女の嘘
偽らざる日常の諷詠が収載されているといって差し支えないものであろう。
この鷹女の第三句集『白骨』には、実に、昭和十六年(四十三歳)から昭和二十六年(五十
三歳)までの句が収載されていて、この間、鷹女はどの結社にも属さず、その後記には、「詠
ひ詠ひながら、その後十年の歳月を過去とした今も尚、しみじみとさびしい心が私を詠は
しめている。ひたすらに詠ひ重ね、しづかに詠ひ終るであらう日の我が身の在りかたをひ
そかに思ふ」と記している。

○ 白露や死んでゆく日も帯しめて (昭和二五年)
○ 死にがたし生き耐へがたし晩夏光 (昭和二六年)
○ 白骨の手足が戦ぐ落葉季 (同上)
○ かなしびの満ちて風船舞ひあがる (同上)

鷹女の俳句は、その第一句集『向日葵』において殆ど完成の域にあったが、この第三句
集『白骨』を得て、一種異様な幻想的な「生と死、そして、老い」の世界が主たるモチー
フとなってくるのである。

三橋鷹女の句(その六)

一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます(羊歯地獄自序)

三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』は、多行式俳句のスタイルに先鞭をつけた高柳重信ら
が関係する「俳句研究社」から昭和三十六年に刊行された。鷹女は戦前に原石鼎らの俳誌
「鹿火屋」などに所属したことがあるが、戦後は、全くの無所属で、それでいて、女流俳
人の四T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子、そして、鷹女)の一人として、その名を不動
のものにしていた。そして、その鷹女の俳句を高く評価して、そして、富沢赤黄男主宰の
「薔薇」に勧誘したその人が、前衛俳句の先端を行く高柳重信らであったということは、
重信らの眼識の確かさとともに、第三句集『白骨』以後の新しい鷹女俳句の誕生のために
も、素晴らしい僥倖であったということを思わざるを得ない。

○ 羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ (昭和三十五年)
○ 青焔の あすは紅焔の夜啼き羊歯 (同上)
○ 拷問の谿底煮ゆる 谷間羊歯 (同上)
○ 噴煙や しはがれ羊歯を腰に巻き (同上)
○ あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄 (同上)

これらの『羊歯地獄』の「羊歯」は鷹女にとって何を意味するのであろうか・・・・。
この「羊歯」は、鷹女が昭和二十八年(五十五歳)のときに参加した、高柳重信らが師と仰ぐ、
富沢赤黄男主宰の「薔薇」の、その「薔薇」に対する新たなる鷹女の詩的挑戦の象徴とし
ての「羊歯」ではなかろうか。既に、五十五歳という年齢で、そして、女流俳人として四
Tの一人として、揺るぎないものを確立しながら、それらの過去の全てと訣別して、己の
新しい俳句創造のために、赤黄男・重信らに対して新しい挑戦をいどんだ鷹女の、激しい
までの「ナルシシズム」を、これらの掲出の句から詠みとることはできないであろうか。
そして、その上で、冒頭の『羊歯地獄』の鷹女の「自序」を目にするとき、鷹女が何を考
え、何に挑戦しようとしていたかが、明瞭に語りかけてくるのである。


三橋鷹女の句(その七)

               

                   註=『ぶな=原題漢字』は記号表記になって表示されるので、
                  「平仮名」表記と記号表記が混在している。

三橋鷹女の第五句集『橅』は亡くなる二年前の昭和四十五年に「俳句研究社」から刊行
された。鷹女の句集はいずれも独特の編集をされて刊行されるのが常であるが、この最晩
年の最後の句集『橅』は「追悼篇」(九八句)と「自愛篇」(一三一句)とからなる。

○ 老翁や泪たまれば啼きにけり (追悼篇)
○ 田螺鳴く一村低く旗垂らし (同上)

「”自虐”をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあわせを掴みとりながら長い歳月を費し
て来た私の過去であった・・・。」( 序)
「追悼篇」は三橋鷹女自身への、自分に捧げる追悼の句以外のなにものでもない。生き
ながらにして、自分自身に追悼句を捧げる鷹女とは、これまた鷹女自身の業のように棲み
ついている「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)と、その裏返しである「自虐」への追悼(鎮
魂)以外のなにものでもない。

○ ひれ伏して湖水を蒼くあおくせり (自愛篇)
○ 花菜より花菜へ闇の闇ぐるま (同上)

「これからの私は、”自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕き
ながら、日月の流れにながれ添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか・・・。」
夫で俳人の三橋剣三は妻であり俳人の三橋鷹女に「七十にして己れの欲するところに従
えども矩を踰えず」(孔子)の言葉を呈している。鷹女のいわれる「自愛」とはこの「矩を踰
えず」ということであったろう。そして、それは、「自然・他者への挑戦ではなく、自然・
他者への帰依」のような、そんな意味合いも込められていよう。
この最後の最晩年の第五句集は、夫で俳人の三橋剣三と永い交友関係(しかし、生前の初
対面は『橅』発刊の一年前)にあった俳人・永田耕衣に捧げられたものなのかもしれない。
「豪雪が歇んだあとの橅の梢から、雫がとめどもなく落ち続ける・・・。
止んだ、と思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける・・・。
その雫の一粒一粒を拾ひ集めて一書と成し、『橅』と名付けまた。」( 後記)

三橋鷹女は、この句集刊行の二年後の昭和四十七年四月七日に七十四歳で永眠した。


三橋鷹女の句(その八)

○ 鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ (羊歯地獄)
○ 生と死といづれか一つ額の花 (同上)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (ぶな=原題は漢字)
○ 大寒の死漁を招く髪洗ひ (同上)
○ 椿落つむかしむかしの川ながれ (同上)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (ぶな以後)
○ たそがれは常に水色死処ばかり (同上)
○ をちこちに死者のこゑする蕗のたう (同上)
○ 夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠 (同上)
○ 枯木山枯木を折れば骨の匂ひ (同上)


「白露や死んでゆく日も帯しめて」(『白骨』)を作句したのは昭和二十五年の鷹女・五十
二歳のときであった。この句の死の幻影には、「老いながら椿となつて踊りけり」(『白骨』・
昭和二五年)の、「日本の我はをみなや明治節」(『向日葵』・昭和九年頃)の「明治生まれの
華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念が波打っている。しかし、掲出の句の冒頭の「鳴き
急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ」(昭和二十七年)の死の幻影は「生きとして生けるものの」の
切ないまでの諦観が迫ってくる。「生と死といずれか一つ額の花」(昭和二十七年)にも「は
ぎすすき地に栖むものらの哭き悲しむ」の「地に栖むものの」の慟哭が響いてくる。「いま
は老い蟇は祠をあとにせり」(追悼篇)・「大寒の死漁を招く髪洗ひ」(自愛篇)・「椿落つむか
しむかしの川ながれ」(自愛篇)には、「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念
も、「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観も、さらには、「地に栖むものの」の
慟哭の響きも、もはや影を潜め、「超現実の幻想の世界」への安らぎにも似た俳人・鷹女の
遊泳の姿影が見えてくるのである。そして、その鷹女の遊泳は、「藤垂れてこの世のものの
老婆佇つ」(十三章)・「たそがれは常に水色死処ばかり」(十三章)・「をちこちに死者のこゑ
する蕗のたう」(花盛り)・「夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠」(遺作二十三章)・「枯木山枯
木を折れば骨の匂ひ」(遺作二十三章)と、もはや前人未踏の「鷹女の詩魂」の世界へと誘っ
てくれるのである。

そして、これらの鷹女の一句一句を見ていくときに、あの『羊歯地獄』の「自序」の「生
きて、書け・・・」という言葉が、谺(こだま)のように響いてくるのである。


三橋鷹女の句(その九)

○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に (昭和一二~一三)
○ 椿落ち椿落ち心老いゆくか (昭和二一~二二)
○ 百日紅何年後は老婆たち (昭和二三)
○ 梅雨めきて薔薇を視るとき老いめきて (昭和二四)
○ 仙人掌に跼まれば老ぐんぐんと (昭和二五)
○ 女老いて七夕竹に結ぶうた (同上)
○ 老境や四葩を写す水の底 (同上)
○ 老いながら椿となって踊りけり (同上)
○ 菫野に来て老い恥をさらしけり (昭和二六)
○ 菜の花やこの身このまま老ゆるべく (同上)
○ セル軽く俳諧われを老いしめし (同上)
○ 鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ (昭和二八)
○ 老婆切株となる枯原にて (昭和三三)
○ 老婆の祭典 紅茸に魚糞を盛り (昭和三五)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (追悼編)
○ 老鶯や泪たまれば啼きにけり (同上)
○ 老後とや荒海にして鯛泳ぐ (自愛篇)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (十三章)

三橋鷹女の終生のテーマは「生(エロス)と死(タナトス)」とその狭間における「”をみな”
としてのナルシシズム」であった。そして、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴
的な「老い」もまた、鷹女の終生にわたって追い求めたものであった。その「老い」の語
を鷹女の作品の中から始めて見るのは、掲出の第一句の四十歳前後のことであった。そし
て、掲出の第三句の五十歳以後、俄然、この「老い」の語が、「女の香のわが香をきいてゐ
る涅槃」(昭和一二~一三)の「”をみな”としてのナルシシズム」の反動的な裏返しとしての
テーマとして、鷹女の眼前に踊り出てくるのである。そして、掲出の最後の句、「藤垂れて
この世のものの老婆佇つ」は、昭和四十六年、鷹女が亡くなる一年前の、七十三歳のとき
のものであった。この句の「この世のもの」とは、これまたその反動的な裏返しの「あの
世のもの」というイメージが去来してくる。


○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ


この掲出の第一句と最後の句との間には、三十年という永い歳月が横たわっている。そ
れはさながら、「”をみな”の一生」という言葉に置き換えても差し支えないであろう。そし
て、この二つの句を並列して鑑賞するとはに、鷹女の象徴的な第四句集『羊歯地獄』の次
の一句が去来して来るのである。


○ 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股はさみ (昭和三五年)

「墜ちてゆく 墜ちてゆく 炎ゆる夕日」を両股で挟み止めようとする、六十二歳にな
んなんとする鷹女の、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な所作が眼前に迫っ
てくるのである。こういう鷹女の句に接するとき、つくづくと、鷹女のその強烈な詩魂と
いうものに圧倒される思いがするのである。


三橋鷹女の句(その十)

三橋鷹女は生前に五つの句集を編んだ。『向日葵』・『魚の鰭』・『白骨』(はっこつ)・『羊歯
地獄』、そして、『ぶな=原題は漢字』である。これらの句集に収載されている句の他に、
最晩年の句の未収録の作品六十六句が、「ぶな以後」として、『三橋鷹女全集(第一巻)』に収
載されている。

○ 寝みだれて豊葦原は雪の中(十三章)

「豊葦原」は「豊葦原瑞穂国」の「日本国の美称」である。鷹女はその豊葦原の雪の中
の中を寝みだれの姿で彷徨しているのである。


○ 棘の木を植ゑ西方は花盛り(花盛り)

「西方」は「西方浄土」の「阿弥陀仏の浄土」である。鷹女はその阿弥陀仏の浄土の花
盛りの中を彷徨しているのである。


○ 曼珠沙華うしろ向いても曼珠沙華(十五章)

「曼珠沙華」は梵語で「赤い花」の意で、「死人花」とも「天蓋花」との別称を持つ花で
ある。鷹女はその赤い赤い曼珠沙華の咲き満つる野の中を彷徨しているのである。


○ 千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作二十三章)

この「遺作二十三章」(二十三句の意)は、鷹女の没後、病臥していた枕の下から発見され
たものという(中村苑子稿「解題」)。この「千の虫鳴く一匹の狂い鳴き」の「一匹の狂い鳴
く」、その一匹の虫は、鷹女の自画像であろう。


○ 寒満月にこぶしひらく赤ん坊(遺作二十三章)

「遺作二十三章」の最後を飾る一句である。「こぶし(拳)をひらく赤ん坊」・・・、鷹女の
まいた種は今や芽となり、その芽はまた新しい芽となり、決して絶ゆることはないであろ
う。


(註) これらの鑑賞は『三橋鷹女全集(立風書房刊行)』(第一巻・第二巻)に因った。これら
の鑑賞をすすめながら、三橋鷹女の前にも、そして、三橋鷹女亡き後の今後も、この鷹女
を超ゆる俳人(女流俳人に限定することなく)に遭遇することは至難のことかもしれないと
いう印象すら抱いたのである。なお、上記の『ぶな=原題は漢字』の漢字表記のものは、
記号で表示されいるものもある。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)



回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。



(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。
  
 
(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html


(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。


(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。