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金曜日, 8月 04, 2006

虚子の実像と虚像(その二十一~三十四)




虚子の実像と虚像(二十一)

○ 一つ根に離れ浮く葉や春の水   (大正三年)

※この日、「日光は其水に落ちて『春先らしい暖さ』と、何処やらまだ風の寒い『春先らしい寒さ』とを見せている情景にあい、「透明な水の底の方の赭つちやけた泥がすいて見え」るのを見つめながら「『水温む』といふ季題の事を」「考へずにはゐられ」なくなり、その後で、「或大きな事実に逢着」「其処に芥とも何ともつかぬ、混雑した中に」「思はぬ方の、づつと遠方の水底に根を下ろしてゐる事」を発見し、覚えず先の句をえた(松井利彦著『大正の俳人たち』所収「俳句の作りやう」、「ホトトギス」大三・三)。

 ここに、虚子の俳句工房の全てが内包している。句作に当たっては、虚子は「ぢつと案じ入る事」・「ちつと眺め入る事」、そして、「季題による気分、情緒にひたり」、「その上で写生による新発見をする」というのが、その制作過程の全てである。この制作過程でのポイントは、上述の虚子の言葉でするならば、「或大きな出来事に逢着」するという、「写生による新発見」ということが上げられよう。そして、虚子の場合は、この「写生による新発見」の、その「或大きな出来事」については、沈黙をしたまま、それを言外に匂わせるということも敢えてしないというのが、その作句上の信条ともいえるものであろう。ここの「或大きな出来事」と「自己の特異の境涯性」とを結合させて、第一期の「ホトトギス」の黄金時代を築き上げていった俳人に、子規よりも二年年上の慶応元年生まれの村上鬼城がいる。

○ 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉 (鬼城、「ホトトギス」大正三・一)

 この中七の「石を噛み居る」の、鬼城の「写生による新発見」に、鬼城は胸中の「己の境涯性」というのを詠い上げる。鬼城は、虚子の作句手法をそのまま遵法しながら、虚子とは異質の境涯詠という世界を構築することとなる。鬼城は虚子という俳句の師を得て、見事に開花することとなる。虚子は作句することよりも、他の人の句を鑑賞し、その他の人の句の好さを見抜き、その他の人をその人自身が本来持っているその才能を開花させるところの抜群の「俳人発掘」の才能を有していた。ここに、虚子が碧梧桐らの新傾向の俳句を放逐する原動力があったということは、自他ともに認めるところのものであろう。


(二十二)

○ 曝書風強し赤本飛んで金平怒る  (明治四十一年・「日盛会」第一回)
○ 書函序あり天地玄黄と曝しけり   ( 同 )

 この二句については、「以上二句、八月五日。日盛会。第五回。小庵。尚この会は八月一日第一回を開き殆毎日会して八月三十一日に至る。此時の会者、東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」との留め書きが付されている。この留め書きは重要で、この日盛会といのは、当時の碧梧桐らの「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」の特別鍛錬会のような催しで、この鍛錬会での虚子の作は、この八月五日の二句を皮切りにして八月二十七日(第二十五回)までの代表的な句が、虚子の第一句集『五百句』の中に収録されている。その八月二十三日の日盛会(第二十一回)の三句は次のとおりである。

○ 凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり
○ 由(よし)公の墓に参るや供連れて
○ 此墓に系図はじまるや拝みけり

 この一句目の句は、虚子の長律の破調の句として著名で、次のアドレスでのネット鑑賞記事もある。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「去来への親しみ尊敬の念の表れた秀句である。去来は芭蕉の弟子で、自分を小さくすることにかけては天下一品で、生涯芭蕉の弟子として師を敬い続けた謙虚な人であると聞く。またその墓も小さい。この句、この破調が快く響く。虚子はこの句で、自分を小さく虚しくすることの美しさをを詩っているのである。」

 しかし、これらの句の背景には、当時の碧梧桐らの新傾向俳句の定型無視(長律・短律の試行)などの批判を内包してのものと解すべきなのであろう。この二句目の「由公の墓」(この「由公」とは芭蕉が葬られている義仲寺の木曽義仲の「義仲」公の意と解する)
なども痛烈な碧梧桐らへの風刺が内包しているように思えるのである。


(二十三)

○ 金亀子(こがねむし)擲(なげ)うつ闇の深さかな  
(明治四十一年・「日盛会」第十一回)
次のアドレスのネット鑑賞記事は次のとおりである。

http://nagano.cool.ne.jp/kuuon/KYOSI/KYOSI.21.html

「この闇の深さには、外側の闇の深さも勿論あるが、内面の闇の深さというものもそこに当然含まれている。私は秀句というものは外側の自然を内側の自然の合一というものが実現されていると思うのであるが、その意味でこれは秀句である。さてこの『擲つ』というのは物を放り投げるように捨てるというような意味であるが、ある人がこれは板のようなものに投げぶつけたと思っていたと言った。それを聞いて私はびっくりしてしまった。それを正しいとすると、この句は凄いものになる。『黄金虫を板にぶつけて闇の深さかな』となるとこれは凄い。そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる。そしてこの解釈も面白いのである。秀句の条件などすっ飛んでしまいそうである。」

 この「そうなるとこの闇はもう全部内側の闇である。そして激しい句となる」という指摘は、当時の虚子の碧梧桐らの俳句に対する憤りを内心に有している句と言っても過言ではなかろう。そして、この日盛会に参集したメンバーの、「東洋城、癖三酔、松浜、水巴、蛇笏、三允、香村、眉月、蝶衣等」というのは、いわゆる、碧梧桐らの「俳三昧」(「日本新聞」の「日本俳壇」を活動拠点としていた俳人達)に対して、虚子らの「俳諧散心」(「国民新聞」の「国民俳壇」ほ活動拠点としている俳人達)のメンバーで、前者が当時の多数派とすると少数派ということになる。そして、そのメンバーというのは、虚子一派というよりも、寄り集まりの反碧梧桐派という趣である。この当時は、虚子がタッチしていた
「ホトトギス」に、この両派の句稿が掲載されるなど、決定的な対立状態ではなかったが、この虚子の掲出句などを見ると、虚子自身としては内心忸怩たるものがあったことは想像に難くない。


(二十四)

○ 芳草や黒き烏も濃紫 (虚子・明治三十九年)
○ 黛を濃うせよ草は芳しき(東洋城・明治三十九年)

 この掲出の虚子と東洋城の二句は、明治三十九年三月二十九日の「俳諧散心」の第一回での席題「草芳し」でのものである。この「俳諧散心」について、下記のアドレスで次のように紹介されている。この東洋城は後に虚子と袂を分かち、現に続く俳誌「渋柿」を創刊する。


http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1-3.htm

「碧梧桐らの一派が『俳三昧』という俳句の鍛錬会を行ったのに対し、虚子も明治三十九年三月十九日、『俳諧散心』なる俳句の鍛錬会を始める。『散心』とは『三昧』と同じ仏語であるが、『三昧』が心を一事に集中するのに対し、『散心』は気の散る事、散乱する心の意味で、あえて碧梧桐とは反対の言葉を選んだのは碧梧桐に対する揶揄の気持ちがあったのであろう。しかし、当初は月曜日に集まって句会を開くという事で『月曜会』と呼ばれていた。三月十九日虚子庵の第一回に集まったのは、東洋城、蝶衣、癖三酔、浅茅、松浜の五人で、第一回の席題は『草芳し』であった。後に東洋城の代表句にあげられる
      黛を濃うせよ草は芳しき
はこの席で作られた。この席での句は後に冊子となり、『芳草集』と題されたが、『ホトトギス』に発表する際、虚子が『俳諧散心』と改めた。これが『俳諧散心』の由来である。又、明治四十一年八月、第二回目の俳諧散心がホトトギス発行所で催された。今回のは毎週月曜日に開催されるのではなく、一日から三十一日まで連日催され、猛暑の中で催されたから『日盛会』と名づけられた。参加者は松根東洋城、岡村癖三酔、岡本松浜、新しく飯田蛇笏が参加していた。この会では

       金亀子擲(なげう)つ闇の深さかな    虚子
       凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり  虚子

などの句が作られている。そして俳諧散心最後の日、虚子は集まった人たちに、現在『国民新聞』に連載している『俳諧師』に全力を傾ける為、暫く俳句を中止すると宣言し、周囲を驚かせた。そのため、虚子が担当していた『国民俳壇』の選者は松根東洋城に委譲している。しかし後に『国民俳壇』をめぐって東洋城は虚子のもとを去ることになる。参考    村山古郷『明治俳壇史』」

(二十五)

○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (大正二年)

この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正9・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。

○ 白日は我が霊なりし落葉かな (水巴・昭和二年)

(二十六)

○ 我を迎ふ旧山河雪を装へり (大正三年)
  
 この掲出句には、「一月。松山に帰着。同日十二日夜、松山公会堂に於て」との留め書き
がある。この大正三年には虚子が「ホトトギス」に投句を懇請して、村上鬼城・渡辺水巴らと「ホトトギス」の第一期黄金時代にその名を連ねている飯田蛇笏の次の傑作句が生まれている。

○ 芋の露連山影を正しうす (蛇笏・「ホトトギス」大正三年)

 この蛇笏の句について、山本健吉は「大正三年作。作者が数え年三十歳の時の句である。現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰か書いていたものを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである」(『現代俳句』)と劇賞した。この蛇笏もまた、碧梧桐らの「新傾向俳句」の中心人物・中塚一碧楼に対して、虚子が「ホトトギス」の牙城の一角に据えた「正しい定型律」の象徴的な俳人として位置づけられるような感慨を抱く。すなわち、「新しい俳句」を求めて、その五七五の定型を完璧なまでに破壊する一碧楼と、虚子の「守旧派」という呼び掛けのもとに、その五七五の定型を「俳諧(連句)の立句(発句)」までに再構築した蛇笏とは、そのスタートとにおいて「早稲田吟社」で句作を共同でしていた連衆でもあった。この両者が、それぞれ、「新派」の一碧楼、「旧派」の蛇笏として競う姿は、さながら、当時の、「碧梧桐と虚子」とが競う姿と二重写しになってくる。虚子は、当時の蛇笏について、「殊に蛇笏君に向つては、君の句の欠点を指摘するものは僕が死んだら誰もあるまい。僕の居る間にどしどし雑詠に投句して、取捨のあとを稽(かんが)へて置いた方が利益であらうといふことをいつた」(『ホトトギス雑詠全集五』大正六年)と、他の「ホトトギス」俳人とは別格化扱いをしている。水巴が主宰誌「曲水」を創刊した同じ大正五年に「キラ丶」(後の「雲母」)を刊行し、虚子調の「ホトトギス」俳句とはニュアンスの異質の蛇笏調の「雲母」俳句を樹立していくのであった。水巴の俳句観が「生命の俳句」ということなら、さしずめ、蛇笏のそれは「霊的に表現されんとする俳句」(「ホトトギス」大正七年の蛇笏の論)とでもいうのであろうか。蛇笏もまた次第に虚子と距離を置いていくこととなる。

(二十七)

○ 一人の強者唯出よ秋の風  (虚子・大正三年)
○ 秋風や森に出合ひし杣が顔 (石鼎・大正二年)
○ 秋風に倒れず淋し肥柄杓  (普羅・大正二年) 

 大正三年一月の「ホトトギス」の「読者諸君」欄に虚子は次のように記した。
「大正二年の俳句界に二の新人を得た。曰、普羅。曰、石鼎」(松井利彦著『大正の俳人たち』)。この二人の新人、前田普羅と原石鼎こそ、虚子が発掘した「ホトトギス」直系の二人の新人ということになろう。碧梧桐らの「新傾向俳句」には荻原井泉水・大須賀乙字などの若きエリートが群れをなし、それらに対抗すべき「ホトトギス」直系の新人俳人を虚子は渇望していたことであろう。そして、村上鬼城・渡辺水巴・飯田蛇笏らにこれらの有望な若手の新人が加わり、子規山脈とは異なった、虚子山脈ともいうべき「ホトトギス」第一期の黄金時代が現出するのである。掲出の一句目は、虚子の巨人願望の句として、当時の虚子自身の投影の句と解したが、それと併せ、当時の虚子の強力な新人俳人の渇望も見え隠れしているように解したい。そして、次の石鼎の句は、大正二年十一月の雑詠で巻頭を占めたもののうちの一句である。この時の作品の中には石鼎の代表句となる次の句などがある。

○ 淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守  (石鼎)
○ 蔓踏んで一山の露動きけり    (普羅)

 掲出の三句目の普羅の句は、その一席となった石鼎に次いで、雑詠欄二席となった普羅の作品の一つである。この二句について次のような鑑賞がなされている。
「前句(石鼎の句)の『秋風や』は、切字を伴っていることもあって、読み手は秋風の冷たさ、淋しさを情緒としてまず持つことを必要とする。そしてその情感の上に立って、森で逢った木樵の恐らく年老いた、そしてとぼとぼ歩む杣の顔つきを思い描くのである。守旧派的発想の典型の句である。これに対し、普羅の句の秋風は冷たく吹き過ぎてゆく風で、その風にも倒れることのなかった肥柄杓を淋しと見たのである。秋風の情緒に立脚しない。ある景の中の強く吹き過ぎる風として捉えている。この用法は大正中期になって大須賀乙字によって理論づけがなされ、昭和期に新興俳句運動の拡がりの中で一般化されるもので、当時としては思い切った新しさで虚子を着目させ、石鼎・普羅ではなく、普羅・石鼎と言わせたのであろう(松井・前掲書)。石鼎は、後に「鹿火屋」を主宰し、この「鹿火屋」は今日に至っている。また、普羅は請われて北陸の「辛夷」を主宰し、その「辛夷」も今日に至っている。このようにして、「ホトトギス」俳句は全国を席巻していくこととなる。


(二十八)

○ 蛇逃げて我を見し眼の草に残る (大正六年)

この句には、「五月十三日、発行所例会。十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」との留め書きがある。この留め書きからすると、何か坂本四方太らの逝去に関連してのものと思われがちであるが、どうもそれらとは全然関係なく、この句は当時の虚子にあっては、曰く付きの問題の孕んでいる一句のようなのである。というのは、この句が作られた後の、六月五日にホトトギス発行所で「月並研究」の座談会があり、その座談会に偶々新傾向俳句の中心人物の大須賀乙字が、この留め書きに出てくる坂本四方太の遺族のことで来訪していて、この座談会に加わり、この掲出句と同時作の虚子の次の句を月並み句として批判した記録が残っているのである(松井・前掲書)。

○ 草の雨蛇の光に晴れにけり    (虚子)
○ 八重の桜ゆさぶる風や木の芽ふく (虚子)

 その記録によると、この虚子の二句について、乙字は次のように批判して、その上、改作案すら提示しているとのことである。 
「この二句は、概括的で且つ主観がはっきりしない。が之を鑑賞する即味ふ方から言へば、その主観を深く穿鑿して見なけりやならない心を起される。其点に先づ不審を打ったのである」。「先づ不審をただして作者に伺ふ事は、蛇の光に草の雨が晴れて来たといふ句の出来た時の作者の心持。・・・」。この乙字の傲慢とも取れる問に虚子は次のように答えている。
「草の雨が晴れかかつて来た時分に蛇の光が強く目に映つたのである」。「一旦雲が晴れかかつてくれば、そこに当る日はもう夏らしい光の強い感じがする。さういふ場合の、日を受けた蛇の光を詠じたのである」。この虚子の説明に対し、乙字は以下(要約)のようなことを主張し、改作案を示すのである。
○光が中心に出来ているなら、「蛇の光」と名詞形にして真中に据えたのでは活動がなくなる。句を作るとはき、最も活動した言葉に表れるのが普通であるのに、蛇の光と活動を消して表現している。一度趣向の篩にかけて作られており、最も感動したものを凝固させている。私が作るなら、蛇が光ったというような、あるいはいつまでも光っているというような、長い時間を持っているような光景は主眼としない。
 そして、乙字はこの句を
   草の雨蛇光り晴れにけり  と改作をすすめている。(松井・前掲書)
 さらに、虚子の自信作の一つの掲出の句に対しても、
○「草に」の「に」がやや曖昧なる語である。「蛇逃げて」も「て」というと、次の起こった事の間に多少の時間を思わせる。それで「蛇逃げつ」と「つ」とした方がよい。(松井・前掲書)

 この座談会があった大正六年当時の俳壇状況というのは、虚子の本格的な俳壇復帰が緒について、「ホトトギス」の勢力は先に見てきたように有力な俳人達の台頭もあり、いわゆる、虚子らの「守旧派」と碧梧桐らの「新傾向俳句」との対立は、「守旧派」の一方的な優勢のうちに推移し、それらの推移を見極めるかのように、虚子は「進むべき俳句の道」を指し示すという最中のことであった。しかも、年齢的にも七歳年下で、実作上の経験もさほどでない乙字が、 堂々と虚子の面前でこれらの「反虚子」・「反守旧派」を主張するのだから、虚子も怒り心頭に発したらしく、この座談会のあった翌月に、再度、乙字を招いて座談会を開き、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」とし、「月並研究」そのものを中止してしまったという(松井・前掲書)。このような、掲出句等のこれらの句の背景というのを垣間見る時に、虚子の反「新傾向俳句」というのは、反「碧梧桐」というよりも、より多く、反「碧梧桐を取り巻く若きエリート俳人達」へのものだったということを如実に物語っているようにも思えるのである。

(二十九)

○ コレラ怖(を)ぢて綺麗に住める女かな (大正三年)
○ コレラ船いつまで沖に繋り居る      (同上)
○ コレラの家を出し人こちらへ来りけり    (同上)

 「以上三句。七月三日。虚子庵例会」との留め書きがある。虚子にしては珍しく「コレラ」というどぎつい措辞で、何やら時事句的な雰囲気の句である。『大正の俳人たち』(松井利彦著)の「中塚一碧楼」のところに、一碧楼が出していた「試作」という俳誌が紹介されていて、その中に次のようなコレラの句がある。

○ コレラ患者が死んだ、麻畑ばかり思ひつづけて (荒川吟波) 

 これらの、いわゆる碧梧桐らの新傾向俳句の一つの「試作」派的な句について、虚子はかなり好意的な一文を「ホトトギス」(大正二・六)に寄せているのである。その要旨は以下のようなものであった。

※碧梧桐らの新傾向俳句は、一つの方向として「今日の如く再び十七字、季題趣味といふ二大約束の上に復帰する」。その二つは「更に驀進の歩を進めて十七字といふ字数の制限をも突破し季題趣味をも撥無し、全然俳句以外の一新詩を創造する」。私(虚子)は「此の第二を選ぶ事は新傾向運動として最も重大の意味あるものとして私(ひそか)に嘱望していた」。そして、「此の第二の結果を産む革命運動として私は寧ろ、『試作』一派の人の上により多くの希望を繋ぐのである」。

 これらの虚子の記述を見ると、虚子は碧梧桐らの新傾向俳句についてもそれを熟知し、「全然俳句以外の一新詩」として、俳句(十七字・季題趣味を基調とする)ではなかなか表現が困難ないわゆる社会的事象などを主題とする、中塚一碧楼らの「試作」の作品には希望を託し、それらについては一定の評価をしていたということが伺えるのである。掲出の虚子のコレラの句も、例えば、掲出の荒川吟波のコレラの句などに触発されて、虚子としては珍しい当時の社会的事象を主題とした句とも解せられなくもないのである。この「試作」に発表した一碧楼の句として、次のような句がある(松井前掲書)。

○ 八百庄は酔ひ死にし葉柳垂れ   (一碧楼)
○ 啄木は死んだ、この頃の白つつじ  (同上)

 一碧楼のこれらの句は、現代の金子兜太らのいわゆる前衛俳句に近いものであろう。そして、虚子はこれらの一碧楼らの句(俳句というよりも一新詩として)に一定の理解と評価をしていたということは、虚子の実像を知る上で特記しておく必要があろう。


(三十)

○ 老衲(ろうどう)炬燵に在り立春の禽獣裏山に (大正七年)
○ 雨の中に立春大吉の光あり (同)

この二句については、「以上二句。二月十日。発行所例会。会者、京都の玉城、所沢の俳小星、青峰、宵曲、一水、雨葉、しげる、湘海、みずほ、霜山、今更、たけし、鉄鈴、としを、子瓢、夜牛、石鼎」との留め書きがある。この大正七年の頃に来ると、原石鼎の他に「島田青峰・柴田宵曲・中田みずほ・池内たけし・高浜としを」など、その後の「ホトトギス」誌上などでのお馴染みの方の名も見受けられるようになる。この大正七年・八年にかけての、ホトトギス「百年史」のネット関連の記事は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

大正七年(1918) 一月 「俳談会」連載、虚子、破調を試みる
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
八月 「山会」を復活。
九月 第二回其角研究。この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919) 一月 「写生を目的とする季寄せ」(ホトトギス附録)。
二月 「風流懺法後日譚」連載、虚子。
三月 虚子『どんな俳句を作ったらいいか』刊(実業之日本社)。
八月 「写生は俳句の大道である」原月舟(八回連載)。
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。

上記の年表の、大正七年一月「虚子、破調を試みる」とは、掲出の一句目のような句作りを指しているのだろう。さらに注目すべきことは、その九月に、「この年新傾向運動終熄」とある。すなわち、碧梧桐らの新傾向俳句はここに終熄したというのである。そういうことを背景にして、掲出の二句、一句目の「立春の禽獣裏山に」と、二句目の「立春大吉の光あり」とは、なんと、この年の、この「この年新傾向運動終熄」の、それらを背景とする、虚子の心情そのものを詠っていることか。まさに、「ここに虚子あり」という雰囲気である。
(三十一)

○ 藤の根に猫蛇(べうだ)相搏(う)つ妖々と  (大正九年)

この掲出句には、「五月十日、京大三高俳句会。京都円山公園、あけぼの楼」の留め書きがある。先の大正八年のホトトギス「百年史」の年譜で、「草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)」とあり、この日野草城・鈴鹿野風呂らの「京大三高俳句会」での作ということになろう。この日野草城については、次のアドレスでの紹介記事がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

(日野草城)
東京上野(東京都台東区上野)に生まれる。京都大学の学生時代に「京大三高俳句会」を結成。1924年(大正13年)京大法科を卒業しサラリーマンとなる。 高浜虚子の『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭となり注目を集める。1929年(昭和4年)には28歳で『ホトトギス』同人となる。1934年(昭和9年)『俳句研究』に新婚初夜を描いた連作の「ミヤコホテル」を発表、俳壇を騒然とさせた。 この「ミヤコホテル」はフィクションだったが、ここからいわゆるミヤコホテル論争が起きた。中村草田男、久保田万太郎が非難し、室生犀星が擁護にまわった。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒となった。1935年(昭和10年)東京の『走馬燈』、大阪の『青嶺』、神戸の『ひよどり』の三誌を統合し、『旗艦』を創刊主宰する。無季俳句を容認し、虚子と袂を分かった。翌1936年(昭和11年)『ホトトギス』同人より除籍となる。戦後1949年(昭和24年)大阪府池田市に転居し、『青玄』を創刊主宰。1946年(昭和21年)肺結核を発症。以後の10数年は病床にあった。

○ 春愁にたへぬ夜はする化粧かな (草城・大正九年「ホトトギス」)

 掲出の句は、草城の二十歳満たない学生時代の作である。そして、この句が作られた大正九年について、ホトトギス「百年史」には、次のように記している。新傾向俳句の理論的な支柱でもあった大須賀乙字が四十歳の若さで夭逝した。また、碧梧桐が携わっていた「海紅」も碧梧桐の手を離れ、自由律俳句の中塚一碧楼に代わる。虚子も体調を崩し、一時、「ホトトギス」の「雑詠」選も蛇笏に代わるが揺るぎもしない。そして、それらを背景として、日野草城らは「京鹿子」を創刊し、華々しくデビューしていくことになる。掲出の句の「猫」・「蛇」とは、その「京鹿子」を創刊した、草城と野風呂の両者のようにも思えてくる。しかし、これらの草城や野風呂を俳壇にデビューさせた虚子の眼力は並大抵のものではなかろう。また、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○日野草城 (ひの・そうじょう) 明治34年 昭和31年 京大三高俳句会の創設メンバー。新興俳句に進み、 「旗艦」 創刊。 晩年に同人復籍。

  遠野火や寂しき友と手をつなぐ
  妻も覚めてすこし話や夜半の春
  既にして夜桜となる篝かがりかな
  心ところ 太てん煙のごとく沈みをり
  蚊か遣やり火びの煙の末をながめけり
  粕汁に酔ひし瞼や庵の妻
  冬椿乏しき花を落しけり

大正九年(1920) 一月 乙字没。
二月 「小学読本中にある俳句」連載、鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。
九月 虚子軽微の脳溢血、以後禁酒、雑詠一時蛇笏代選。
十月 雑詠投句二十句を十句とする。
十一月 「京鹿子」創刊。
十二月 「海紅」主宰一碧楼に代わる。

(三十二)

○ 人形まだ生きて動かず傀儡師 (大正十年)

 「一月十一日。新年婦人句会。かな女庵。昨年十月、軽微なる脳溢血にかかり、病後はじめて出席したる句会」との留め書きがある。ここに出てくる「かな女」とは、長谷川かな女のむことであろう。その夫・零余子とともに、「ホトトギス」の一時代を築きあげていったが、大正十一年にはその「ホトトギス」を離脱している。零令子亡き後、昭和五年に「水明」を創刊して、その水明」は現に続いている。掲出の句は当時の虚子の自画像であろう。なお、かな女に関する句は次のとおり。

○ あるじよりかな女が見たし濃山吹    (石鼎・大正四年)
○ 蠅おそろし止まるもの皆に子を産み行く (かな女・大正七年)
○ 行秋や長子なれども家嗣がず      (零余子・大正八年)

 この長谷川かな女については、「ホトトギス山脈の俳人たち」(下記アドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○長谷川かな女 (はせがわ・かなじょ) 明治20年 昭和44年 夫・零余子ともども「進むべき俳句の道」 にとりあげられた。 婦人俳句会で活躍。

  切きれ凧だこの敵地へ落ちて鳴りやまず
  羽子板の重きが嬉し突かで立つ
  蚊帳くゞるやこうがいぬきて髪淋し
  空壕に響きて椎の降りにけり
  戸にあたる宿なし犬や夜寒き
  湯がへりを東菊買うて行く妓かな
  戸を搏うつて落ちし簾すだれや初嵐
  呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉
  髪かいて額まろさや天てん瓜か粉ふん

 また、ホトトギス「百年史」は下記のとおりである。

大正十年(1921) 五月 「鹿火屋」創刊。
十月 「平明にして余韻ある俳句がよい・客観写生」虚子。
大正十一年(1922) 三月 虚子島村元と九州旅行。
四月 みづほ・風生・誓子・秋桜子・帝大俳句会(東大俳句会)を復活、「破魔矢」創刊。
九月 虚子選『ホトトギス雑詠選集』刊(実業之日本社)。
十一月 京大三高俳句会解散、「京鹿子句会」へ移行。「山茶花」創刊



(三十三)

○ 日覆に松の落葉の生れけり (大正十二年)

 「六月二十八日。風生渡欧送別東大俳句会。発行所。上京中の泊雲出席」との留め書きがある。「風生」は後に「若葉」を主宰する富安風生のこと。「泊雲」は実弟の野村泊月と共に「ホトトギス」雑詠欄の上位を占めて「丹波二泊の時代」を作った西山泊雲のこと。風生も泊雲も虚子に見出され、終始、虚子とその「ホトトギス」の重鎮であった。虚子の掲出の句が、堅実な客観写生の句と解せられるなら、この両者とも、その虚子の堅実な客観写生の句を標榜し、実践し続けた俳人といえるであろう。下記のホトトギス「百年史」にあるとおり、この年の九月一日に関東大震災があり、虚子は鎌倉にあった。この日のことは、『父・高浜虚子』(池内友次郎著)に詳しい。八月には、虚子が一時後継者の一人と目していた島村元が亡くなっている。この島村元の死亡や関東大震災などが原因となり、虚子は「ホトトギス」西遷(「ホトトギス」の経営を京都に移すという案)を決意したという(松井・前掲書)。その「ホトトギス」西遷は日の目を見なかったが、この大正十三年には従来の選者制度を止めて同人制度が設けられ、その同人・課題句選者は次のとおりであった(松井・前掲書)。
(同人) 鳴雪、肋骨、露月、鼠骨、虚吼、繞石、鬼城、蛇笏、泊雲、普羅、石鼎、梧月、温亭、楽堂、青峰、躑躅、王城、泊月、浜人、野鳥、村家、たけし、宵曲
(課題句選者)黙禅、花蓑、野風呂、耕雪、草城、秋桜子、青畝、あきら、公羽
そして、この同人の一人、原田浜人が、当時の虚子が「ホトトギス」俳句として重視していた「客観写生句」(描写句)に対して批判し、離脱していくことになる。一見平穏に見える「ホトトギス」の内部もその実情は混沌としたものだったのである。

○ 一もとの姥子の宿の遅ざくら (風生)
○ 焚きつけて尚広く掃く落葉かな(泊雲)
○ 春水を渉らんとして手をつなぐ(泊月)
○ 一片のなほ空わたす落花かな (元)
○ あるときは一木に凝り夏の雲 (浜人)


大正十二年(1923) 一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924) 一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。


(三十四)

○ 古椿こゝたく落ちて齢かな (大正十五年)

 「二月二十三日。田村木国上京歓迎小集。発行所。二十二日、内藤鳴雪逝く」との留め書きがある。鳴雪は子規より年配で、子規門の大長老だが、虚子と虚子の「ホトトギス」の支援を惜しまなかった。しかし、広く各派の俳人達の交遊関係も厚く、こうした後見人的な支援が どれほど虚子とその「ホトトギス」を支えたものかは、虚子自身が最も知るところであろう。掲出句はその鳴雪の追悼句ではないけれども、当時の虚子の心境を伝えてくれるような一句である。この年、自由律の俳人・尾崎放哉も亡くなっている。この前年には、東大俳句会、京大俳句会に続いて、九大俳句会も結成され、吉岡禅寺洞・芝不器男らが「ホトトギス」に参加してくることとなる。この禅寺洞については、「ホトトギス山脈の人たち」(下記のアドレス)で次のように紹介されている。

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/hototogisu_kyosi_100nin_meika.html

○吉岡禅寺洞 (よしおか・ぜんじどう) 明治22年 昭和36年 福岡県生まれ。九大俳句会を指導。 「天の川」 の選者として無季欄を設けた。除籍とはなったが、 「ホトトギス」 ゆかりの作家として、芦屋の虚子記念文学館には、 「青空に青海湛へて貝殻伏しぬ」の俳磚 (はいせん) が掲げられた。

  雹ひょう降りし桑の信濃に入りにけり
  ひたすらに精霊舟のすゝみけり
  露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し
  ちぬ釣やまくらがりなるほお 被かむり
  歩きつゝ草矢とばしぬ秋の風
  春光や遠まなざしの矢大臣
  女房の江戸絵顔なり種物屋
  古園や根分菖蒲に日高し

 また、芝不器男については、下記のアドレスで紹介されているが、大正末期昭和初期、俳壇に彗星の如く現れ、子規以来の伝統俳句の良さを高度に発揮した愛媛県出身の俳人である。「不器男」は、論語の「子曰、君子不器」から命名。本名である。二十六歳の短い生涯であった。その生涯に残した句は二百句に充たないという。そのうちの下記の句は虚子の名鑑賞で一躍不動のものとなった一句である。

   あなたなる夜雨の葛のあなたかな

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%8D%E5%99%A8%E7%94%B7


大正十四年(1925) 三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926) 二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

金曜日, 6月 23, 2006

虚子の実像と虚像(その十六~その二十)




虚子の実像と虚像(その十六)

○ 苔寺の苔をついばむ小鳥かな  虚子

 たまたま「江戸俳諧を読む(飯田龍太・大岡信・尾形仂「座談会」)」(「文学」昭和五十五・三月号)を見ていたら、掲出の句に遭遇した。飯田さんの発言で、「苔寺へ行きましたら、『苔寺の苔をついばむ小鳥かな』と書いてある、びっくりするような大きな屏風があるんですよ。それで『虚子』とあるでしょう。とたんに、貫禄がつきましてね、見事だなと。」
 これらのところは、「無名か署名か」というところで、またまた、飯田さんの発言で、「作品の醍醐味は風化するほど楽しいという感じを持っているのです。たとえば高浜虚子の場合、戦前の悪評はひどいものですからね。ところが戦後だんだん評価が高まってくるわけでしょう。つまりそれにともなう俗世間的な要素が、だんだん時間とともに風化していくと、結局あとに浮かび上がってくるものは作品だけだという感じ。俳句のかなり大事な要素じゃないか」ということで、「俳句は、五七五だけの、経歴とか署名なしに、一句で立っている」のが大事という過程で、その後に、この掲出の句と上段の発言となり、「署名はなくて良し」、この掲出句のように、「署名があればさらに楽しい」というような展開となる。
 これらの座談会の発言を見ていて、「虚子ほど悪評と好評とが相半ばする俳人はいない」ということと、「虚子の句ほど佳句なのか駄句なのか見分けがつかない」ということを実感させられたのであった。これらのことが、この虚子のタイトルの「虚子の実像と虚像」との背景の一端ともなっている。
 さて、掲出の一句は、「季語は苔、『かな』の切れ字、一句一章体のリズム重視の定型感、
平明な表現、苔寺への挨拶句(存問性)、その場に臨んでの即興性、デッサン力のある写生」と虚子俳句の全てが網羅されているといっても過言ではなかろう。しかし、この句は、さきほどの飯田龍太さんのいわれる「一句で立っている」かどうかというと、とたんに首を傾げたくなるのである。上記の座談会の見巧者のお三方も、この句はどちらかというと虚子の駄句の方に入るというニュアンスのそれであった。そこで、大岡信さんが、「この句はお遊びですね。コの語呂合わせをまず楽しんだんだろうという気がしますね」との発言をなされたのである。その大岡さんの発言の、「苔寺」の「コ」、「苔をついばむ」の「コ」、
そして「小鳥かな」の「コ」と、実に、虚子らの「ホトトギス」の俳人達が拒否して止まない、いわゆる「知巧的」な「言葉遊び」の句作りがその背景に隠されていたのである。そして、しばしば、虚子その人はいろいろの試行をしていて、それを一切どちらかというと寡黙でカムフラージュしているのである。それと同時に、虚子その人は、余り「佳句とか駄句とか」の視点の世界とは無縁のところに自分を置いていたのかもしれない。というよりも、「佳句でもない駄句でもない普通の中庸な句」というのを標榜し、それを「ホトトギス」の俳句の信条にしていたようにも思われるのである。
 この掲出句も、その「佳句でも駄句でもない普通の中庸な句」と当初思ったのだが、先ほどの大岡さんの「知巧的」な「言葉遊び」の句という指摘で、やはり、高浜虚子という俳人は、苔寺に、この掲出句を、己が虚子の署名のもとに、今に遺しているその一端を思い知ったのである。

虚子の実像と虚像(その十七)

○ 年を以て巨人としたり歩み去る (大正二年)
○ 草を摘む子の野を渡る巨人かな (大正十四年)

 掲出の一句目の「年の歩みを巨人の歩みと感じている発想」に比して、二句目の巨人は「この巨人は例えば、ガリバーに出てくる巨人のようなもので、この句の巨人より」、一句目の巨人の方が、「空想味が濃い」という鑑賞がある(清崎敏郎・前掲書)。
 この「空想」を「観念または心像」と理解すると、確かに、二句目の巨人よりも一句目の巨人の方が、意外感のある着想で、「空想味が濃い」ということになるのかもしれない。
しかし、一句目の巨人は、「年」を「巨人」と擬人化したもので、二句目の巨人は文字とおり「巨人」(大男)のことで、その「巨人」(大男)が「草を摘む子の野を渡る」と結合して(取り合わせになると)、一句目の擬人化の句よりも、何か、スィフトの「ガリバー旅行記」を見ているような錯覚に誘われ、こちらの方がより「空想味が濃い」句のようにも鑑賞できるのである。そして、この両句の巨人とも、いわゆる、古俳諧でいうところの「見立て」(対象を他のものになぞらえて表現すること)のそれといえるであろう。この「見立て」は談林俳諧などで顕著に見られる俳諧(付合)の技法の一つであるが、虚子の句には、この見立ての応用による句作りをしばしば目にすることができる。
 そして、この「見立て」の応用は、しばしば、「寓意」(他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと)性を帯びてくる。例えば、この二句とも、当時の、虚子の俳壇復帰、そして、碧梧桐らの新傾向俳句に対する伝統俳句固守への確固たる挑戦と併せ鑑賞すると、その頭領たる虚子その人の像が浮かび上がってくる。しばしば、虚子の句は、極端過ぎるほど平明であるが故に、その平明さが逆に深読みを誘発して、往々にして、「寓意性」を帯びてくるということは、実に、不可思議なことでもある。それと併せ、虚子その人の「寡黙性」と相俟って、ますます、その「寓意性」が「巨人化」して来るという印象なのである。ここにも、今日の「虚子の実像と虚像」とを増幅させている大きな要因が見え隠れしている。
(付記)この掲出句の「巨人」をゴヤの傑作絵画の「巨人」の比喩と理解できなくもない。しかし、おそらく、虚子はそういう意識は全くないであろう。しかし、そういう比喩を誘う何かを、これらの句が醸し出しているというのが、上記の「見立て」・「寓意性」の虚子俳句の一つの特徴なようなものと結びついてくるという思いがするのである。
 なお、このゴヤの「巨人」については、次のアドレスで紹介されている。

http://fulesuko.com/contents7.html

※「フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス」の「巨人」と題された作品。一八〇八年~一二年のもの。巨人はどこへ向かっているのだろう? 対ナポレオンとの戦争中に描かれたのだが、いろいろな解釈があるみたいです。この巨人はナポレオンである、運命の力である、ナポレオン軍に抵抗せよという鼓舞である、文学の作品に基づいて描かれたなどなど。


虚子の実像と虚像(その十八)

○ 一人の強者唯出よ秋の風 (大正三年)
○ 秋風や最善の力唯尽す  (大正三年)

 句集『五百句』に「以上二句。九月六日、虚子庵例会」との留め書きがある句である。この両句も、先に紹介した、「春風や闘志いだきて丘に立つ」や「年を以て巨人としたり歩み去る」などの句が思い起こされてくる。掲出の二句は、いずれも「秋風」の句で、虚子の俳壇復帰の背景のある「春風や闘志いだきて丘に立つ」の「春風」と表裏一体を為すような句作りである。そもそも「春風」にしても「秋風」にしても、古来から親しまれている連歌・俳諧に通ずる古典的な季語・季題といえるものであろうが、それに取り合わせるものとして、当時の、虚子の胸中に去来していた、最も卑近な、最も世俗的ともいうべき、「碧梧桐らの新傾向俳句に対する守旧派宣言」を持ってきたというのが、これまた、どうにも虚子らしいという思いがする。そして、これらの句の背景については、虚子の俳壇復帰と「ホトトギス」の経営の立て直し(夏目漱石の朝日新聞入社などによる「ホトトギス」読者の減少など)などに直面し、あまつさえ、健康状態なども思わしくなく、虚子にとっては一つの苦難の局面であった。その「ホトトギス」の雑詠欄の復活なども、旧子規門にあって、比較的虚子に親しい、松瀬青々や青木月斗などに協力を求めて断れるなど、何もかも独力でやらなければならないような環境下にあったようである(松井利彦著『大正の俳人たち』)。当時の虚子の次のような「自恃」への思いの記述がある。
「私は今も尚ほ自己の力を信じます。私のする事は私自身に於て絶対的価値を有するのでありまして、何人も此をどうする事も出来ないのであります。けれども私は又斯ういふ事をも信じ無ければならぬといひます。世の中は大きな一つの力、其は私の力でも何人の力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立し時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一つの大きな力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立した時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一の大きな力がある許りでもあります」(「私の近況」、「ホトトギス」大二・三)。
 一句を鑑賞するということは、何もその句の背景などをあれこれと斟酌する必要はないのであろうが、当時のこれらの句が収載されていた「ホトトギス」掲載の虚子のものなどを併せて読みながら鑑賞すると、「俳句は季題趣味の世界」と律していると思われる虚子の世界というのは、あにはからんや、「ストレートな感情表現と季の言葉との重層関係において自己の心の消息を伝達するもの」という確固とした信念を内に秘めているということを思い知るのである。

虚子の実像と虚像(その十九)

○ 鎌倉を驚かしたる余寒あり (大正三年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正三年。二月一日、虚子庵(鎌倉・大町)での例会の出句である。鎌倉というところは、寒さが強くない温暖の地である。が、春になって、もう大分暖かになった時分だのに、不意に又寒さが襲ってきた。鎌倉の住人である我、人共に、その寒さに驚いたことであった。作者自身、「鎌倉に住んで居る人を驚かしたのでありますが、それを『鎌倉を驚かし』といったところが俳諧的である」と自解しているが、こういう風に省略して、敢て舌足らずな言い方をしたところに・・・一種の擬人法・・・、この句の技巧もあれば、俳諧的な面白みもある。鎌倉移住は、始めは家族ぐるみ避寒の積りで一冬を過すということであったが、やがて、その地に定住することになった。それは、古蹟殊にお寺の沢山あることなどが、愛着深かった京都に似ているところであり、又、京都とは違った、淡彩で素朴な趣が・・・当時は・・・捨てがたからであった。
 
 この晩年の虚子門の清崎敏郎氏の鑑賞は、いかにも「ホトトギス」流の無味乾燥なそれであって、一向に心に訴えてくるものが希薄のように思われる。それに比して、「ホトトギス」門ではない、能村登四郎氏の次の鑑賞(「俳句研究」平成元年三月号)は素直に訴えてくるものがある。
    
※鎌倉は虚子が永く住んだので故郷の松山以上に愛着をもっていた土地であろう。海を抱き後は山に囲まれた鎌倉は、冬暖かく夏涼しい土地である。その暖かいはずの鎌倉に立春も過ぎたというのに突然底冷えのする寒さが襲ってきたのである。この句は虚子が四十一歳の時で別に寒さにこたえるような年齢ではないから、とにかくよほどの寒さだったのだろうと思う。この鎌倉を他の土地の名と置き換えてても全く感じが出ない。鎌倉という土地に歴史的な重みがあり、「いざ鎌倉」とか「鎌倉方」といえばすぐ鎌倉幕府を思い出させるので、どこか物々しさを感じさせる。それを充分意識の上に置いての虚子の悪戯ごころが見えてくる。

 この「虚子の悪戯ごころ」というのが、この句のポイントであろう。そして、この「虚子の悪戯ごころ」ということに、虚子の「ホトトギス」の面々は余り気がついてない風潮のようなのである。

虚子の実像と虚像(その二十)

○ 此松の下に佇めば露の我  (大正六年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正六年。この句には、「十月十五日・・・兄の法事を済ませた翌日・・・風早柳原(松山在)に向ふ。雨。川一つ隔てたる西ノ下は余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。空空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其橋の傍に老松あり」という傍書がある。幼時郷居した風早村松ノ下の家のほとりには、一株の老松があって、子供の自分には、よく其松の下に遊びに行ったものである。今度三十数年経って来てみると、その松は依然として鬱然と聳え立っている。今、こうしてこの老松の下に佇んでいると、そぞろに幼時が思い出されて、回旧の情にとざされるのである。「露の我」というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない。だが、この下五に、回旧の情にとざされている作者の心持が抒情的にのべられていることは言うを俟つまい。
 
 この掲出句については、この鑑賞文を読みながら、芭蕉の貞享四年(一六八七7)の『笈の小文』の旅で故郷に帰って詠んだ「古里や臍のをに泣〈く〉としのくれ」や、芭蕉が亡くなる元禄七年(一六九四)の最後の旅で詠んだ「家はみな杖に白髪の墓参り」(『続猿蓑』所収)などの句が思い起こされてくる。事実、この句が作られた翌年の大正七年に、虚子は『進むべき俳句の道』と『俳句はかく解しかく味う』を刊行し、この後書において、「要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差し支えない」とし、その最後を飾る言葉として、「『芭蕉の文学』である俳句の解釈はこれを以て終りとする」と明確に断言しているのである。即ち、虚子の師の子規は、この芭蕉を否定し、蕪村再発見をその因って立つ地盤にしたが、当時の碧梧桐らの「新傾向の俳句」に対して、「守旧派」のもとに、その師の子規の名実共に正しい後継者と自負する虚子が、師の子規が再発見した蕪村ではなく、今日、一つの常識とも化している「俳句は即ち芭蕉の文学である」と断定した、その虚子の眼力というのは、これは並大抵のものではないということを実感する。そして、この掲出句なども、「俳句は即ち芭蕉の文学である」の延長線上のものであろう。そういう大きな俳句観に立ってこの句に接すると、虚子の胸中には、上記の鑑賞文に見られる「『露の我』というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない」などの生やさしいものではなかろう。「露からすぐに涙を連想して」、それは大いに結構である。「俳句というのは、和歌・連歌・俳諧に通ずる伝統的なもので、その伝統に裏打ちされた季語というのは、俳句の金科玉条のものである」という意識は、虚子の不動のものであったろう。そういう虚子の意識を目の当たりにするとき、やはり。当時の碧梧桐らの新傾向の俳句がこの虚子の不動の姿勢に圧倒されてしまうであろうことは、この掲出句などに接して、つくづく実感するのである。

虚子の実像と虚像(その十一~その十五)




虚子の実像と虚像(十一)

 ここで、虚子の第一句集ともいうべき『五百句』の鑑賞を少し離れて、ネット記事などを中心して、子規・漱石・碧梧桐・虚子などの関連について見ていくことにする。
次のアドレスの「俳句雑学ホーム」に、「子規の明治二十九年の俳句界に見る虚子と碧梧桐」と題してのものがある。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1.htm


○子規の評論に「明治二十九年の俳句界」がある。内容は、明治二十八年頃から俳句がようやく文壇および世間の注意を惹き始め、新聞雑誌がしきりに俳句を載せ始めた事。また、俳句自体についても前年に比して著しく進化し変化してきた事を指摘している。
その中で子規一門の作家論を述べているのだが、特に有名なのが虚子と碧梧桐の作風について述べた部分である。その冒頭で「明治二十九年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり。」と指摘し、

  しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く
  窓の灯にしたひよりつ払う下駄の雪
  盗んだる案山子の笠に雨急なり
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

の虚子の句を挙げている。これは芭蕉の述べた「飛花落葉」の一瞬を捉えるのではなく、長い時間にわたる出来事を詠もうとする行き方である。また、「虚子が成したる特色の一つとして見るべきはこの外に人事を詠じたる事なり。」とも指摘し、

  屠蘇臭くして酒に若(し)かざる憤り
  老後の子賢にして筆始めかな
  年の暮の盗人に孝なるがあり

などを挙げ虚子の時間的俳句は蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」や「打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな」の二句に影響されたと説く。最後に虚子の句全般的特色を、人事を詠むにも複雑な人事または新奇な主観を現そうとし、天然を詠ずるにも複雑さにおいて新奇を出そうとする、と説明している。

一方の碧梧桐については、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし

  赤い椿白い椿と落ちにけり
  乳あらはに女房の単衣襟浅き
  白足袋にいと薄き紺のゆかりかな
  炉開いて灰つめたく火の消えんとす

などを挙げている。これらについては「其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七文字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」として印象明瞭の句が碧梧桐の特長と述べている。

以上のことを見てくると、子規の提唱した写生においては、碧梧桐の行き方に進展が見られる。虚子の「新奇」については、碧梧桐も「ほととぎす3号」に「所謂新調」との題で、虚子論を展開している。「所謂新調は虚子之を創め、子規子之を公にせり。」と新調の創始者を虚子であるとし、その新調を鳴雪は危ぶんでおり、自分もまた「新調の放縦自在なる、是れ或いは人を誤まるの原因ならざるか。」と危惧する旨を言い、更に新調の矛盾を指摘し新調を模倣する事を戒めている。
そのことについては、志田義秀氏が「虚子氏とても子規の薫陶に育ったものである以上、客観的な静澄な境地をも詠じてはいるが、それは氏本来のものではない。碧梧桐氏の写実的なるに対して氏はどこまでも理想的であった。碧梧桐氏が端的に鋭敏な感覚を働かせるに対して、氏は瞑想的であり、低徊的である。従って其の好尚は、主観的な複雑な人事とか時間的な事物とか、いわば小説的な内容に向かっていた。」と述べている。
しかしである。碧梧桐と言えば、後々、「新傾向俳句」を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら「旧守派」を唱え、「新傾向俳句」に対して伝統俳句を守りつつ、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである。

参考  清崎敏郎・川崎展宏著「虚子物語」有斐閣ブックス
山口誓子・松井利彦・他著「高浜虚子研究」右文書院

※この最後の「碧梧桐と言えば、後々、『新傾向俳句』を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら『旧守派』を唱え、『新傾向俳句』に対して伝統俳句を守りつつ、『客観写生』『花鳥諷詠』を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである」ということについては特記して置く必要があろう。

虚子の実像と虚像(十二)

明治三十八年、虚子三十二歳のとき、「ホトトギス」に、「俳諧スボタ経」(発表時の表記)というものを掲載した。これらのことについて、次のアドレスで次のとおり紹介されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

○高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(スボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の勧めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。
参考     村山故郷著「明治俳壇史」

※この「俳諧須菩提(スボダ)経」というのは、終世、虚子が持ち続けた俳句信条ともいうべきものであろう。このタイトルの「須菩提(スボダ)」(しゅぼだい)というのは、釈迦の十大弟子の一人で、それが「俳句の世界」の中心に鎮座する「俳諧仏」の「長広舌」を筆録するという形をとっている。後の、虚子の小説「続俳諧師」(明治四十二年)の中に「俳諧ホケ経」というのが出て来るが、それは「俳諧須菩提(ズボダ)経」の形を変えたものである。そこで、「俳諧を信ずる人は上手であろうが下手であろうが、唯之にすがればよい」
というのが、その要約的なことである。「古人の句に三嘆し、朝暮工夫して古人の境まで到達する、これ俳句道に入ったもの。自分はできなくても古人の句の味がわかり、四時の循環に趣味を悟るみの、これ俳句道に入ったもの。句作はしないが評釈によって一句二句合点のいくのも俳句道」というのが、「俳諧須菩提(スボダ)経」の最後の場面である。すなわち、「俳句の功得は無量である。仏の手にすがって、『や・かな』の門をくぐればよい。上手下手は差別の側、平等の側に立って俳句の功徳を歓喜し愛楽せよ。その後に差別の側に立って、勇猛精進せよ。難行苦行せよ。悟れずとも進まずとも、この一道に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」というのが、虚子の俳句信条ということになる。

虚子の実像と虚像(十三)

 子規がその後継者として考えていた人は虚子その人である。しかし、虚子は子規のその申し出を断った。子規の没後、子規が選をしていた「日本」新聞の俳句欄は碧梧桐が継ぐ。虚子は「ホトトギス」の経営にあたり、その関心事はもっぱら小説の方にあった。虚子が「ホトトギス」に雑詠を復活して俳壇に復帰するのは明治四十五年のことである。その背景には、碧梧桐らの新傾向俳句が、非定型、季語の否定の傾向を帯び、これでは子規が進めていた俳句革新は横道に逸れるということ察知して、これではならじと「守旧派」の旗印のもとに、子規の遺業を継ぐという道筋を辿る。これらの前提となる、明治二十八年の死期の迫った子規が虚子に後継者の申し出をする、いわゆる「道灌山山事件」について、
次のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

○俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。
 ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。
明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して
「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。
この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。
 そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。
 その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は
「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」
と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。
「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」
 これに対して子規は瓢亭あての書簡に
「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。
 道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス
宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院


虚子の実像と虚像(十四)

○ 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城 (大正二年一月十九日)
○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (同年二月十日)

 この二句については、次のアドレスでそれぞれ次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

(掲出の一句目)

大正二年一月十九日鎌倉虚子庵句会の作。碧梧桐らの新傾向派に対する虚子の旧守の姿勢を現している。「法の城」「とは「法城」の事。仏語で仏法のことを言う。人々が心のよりどころとするので城にたとえるのである。霜が降れば、霜のような心もとないものでも、それを恃みに厳しく仏法(伝統俳句)を守る。と言うのが句意。
虚子はこの句を得た感想を
「余はこの一句を得て初めて今日の運座も為甲斐があったやうに感じたのであった。時雨の句を作る時からだんだんと熱し来た余の感情が初めて形を供へてこの句を為したように感じたのであった。」
と述べている。このことは五・七・五の定型を破壊しなくても、季節感を希薄にしなくても、自分の感情と俳句を重ね合わせることが出来る実感をもてたと言う事で、「今日の運座の為甲斐があった。」と述べたのだと思う。そして
「寺!それは全体どういふものであらう。俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所。足が一度山門をくぐると其の処はもう何人の犯す事も許されぬ別個の天地である。」
「かかる法域によって浮世に対している僧徒のことを思うと、それがこの頃の余の心持にぴったりと合って一種の感激を覚えるのでる。法の城!法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、其の処に冷たき寒き彼等の生を護っているのである。彼等は何によって其の城を守るのであらう。曰く、風が吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落ち葉がすれば落ち葉を楯とし、花が咲けば花を楯として。」
と言う、現在の心境である、俳句を守る、俳句を他の文芸、西洋文芸の影響から守るという硬い決意が伺える。
参考      松井利彦著「大正の俳人たち」 富士見書房
        川崎展宏、清崎敏郎著「虚子物語」有斐閣書房

(掲出の二句目)

大正二年二月の句。「霜降れば霜を楯とす法の城」と共に、碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した時の決意を表した句。「此れも彼の『法の城』の句と共に現在の余の心の消息である。余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ、句意は多言を要さぬことである。」(暫くぶりの句作・ほととぎす)と自ら語っている。大野林火はこの句について「この二句は(春風やと霜降ればの二句)巷間有名な程、さしてすぐれた句だとは思われない。両句ともに、虚子の俳句復活という、歴史的背景で有名なのであり、それを除けば両句とも内容概念的、詩情また豊かといえぬ。」(新稿高浜虚子・明治書院)と述べている。
参考    松井利彦著「大正の俳人たち」富士見書房
      大野林火「新稿高浜虚子」明治書院

虚子の実像と虚像(十五)

○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (虚子・大正二年)
○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの (草田男・昭和三十七年)

 掲出の一句目の虚子の句については先に触れた。「碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した」ときの虚子の「余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ」という挑戦的状的な決意表明の句である。そして、この掲出の二句目の草田男の句は、その虚子の「ホトトギス」門にあって、いろいろな変遷や経過はあったにしても、その「ホトトギス」の一時代を画した中村草田男の昭和三十七年当時の、かっての盟友ともいうべき「現代俳句協会」分裂に際しての金子兜太らへの挑戦状ともいうべき句なのである。この草田男の句は、たまたま、地方紙「下野新聞」の「季(とき)のううた」(平成十八年五月十八日)に掲載されたものである。この句の解説(評論家・村上護)は次のとおりである。
「五月中旬ごろ南方から渡来する夏鳥がホトトギス。その鳴き声に特色がある。血を吐くがごとき強烈さは、時に人を震え上がらせる。蕪村は『ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に』と町の上を真っすぐ突っ切って渡るさまを詠んだ。そこに妥協の余地はない。掲出句も挑戦的で、『敵は必ず斬るべきもの』とは穏やかではない。昭和三十七年の作で、文芸上の論敵を情け容赦なく粉砕する宣戦布告の一句だ」。
 それにしても、この俳句王国といわれる愛媛出身の子規山脈にも連なり、そして師弟の関係にあった、虚子と草田男との挑戦状的な句を並列してみて、改めて、虚子の句の表面の装いとその内情との隔たりの違いということに唖然とする思いと、それに比して、草田男のこの掲出句のストレートさはこれまた「虚子と同じ俳句という土俵上のものなのか」と疑いたくなるようなそんな両者の隔たりを感じたのであった。ひるがえって、今日、俳句という土俵を考えると、この掲出の句で、一句目の虚子の句のような世界がそれとされ、そして、この二句目の草田男の句のような世界は、ともすると異端視される傾向が今なお続いているであろう。そして、今なお、この虚子の世界即俳句の世界といわしめているその根底には、厳然と、虚子がその生涯にわたって精魂を傾けたところの「ホトトギス」という出版活動があったということは、これまた、誰もが均しく認めるところのものであろう。そういう観点から、この草田男の「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」の、夏鳥の「ホトトギス」ではなく、虚子の携わった雑誌(俳誌)の「ホトトギス」が、碧梧桐を始め、どれだけの「敵は必ず斬るべきもの」で「斬り倒してきた」かは、この虚子と草田男との句を同時に鑑賞してみて、今さらながらに実感をするのである。

月曜日, 5月 08, 2006

虚子の実像と虚像(その一~その十)



虚子の実像と虚像(その一)

○ 春雨の衣桁(いかう)に重し恋衣 (明治三十七年)

虚子句集『五百句』(昭和十一年刊)の冒頭の一句である。その「序」で、「ホトトギス五百号の記念に出版するものであって、従って五百句に限った」と、いかにも、大俳諧師・虚子らしいあっさりとした思いきりのよい「序」である。そして、この冒頭の一句が、いわゆる、「俳諧」(連句)でいうところの「恋の句」であり、これまた、大俳諧師・虚子にふさわしいもののように思えてくるのである。そもそも、その「序」で、「範囲は俳句を作り始めた明治二十四五年頃から昭和十年迄」とあり、これまた、その「俳句を作り始めた明治二十四五年」のものは全て除外して、こともあろうに、虚子の師の正岡子規が「連句非文学」として排斥した、その連句の、「花・月」の座に匹敵する人事の座の中心に位置するところの「恋」の座の一句を、実質的な虚子第一句集の『五百句』の、その代表的な五百句のうちの、冒頭の一句にもってきたというのは、ここに、「虚子俳句」の原点(その実像と虚像)があるように思えるのである。すなわち、高浜虚子は、正岡子規の正統な後継者として、「連句とその冒頭の発句」を排斥して、いわゆる、「俳句革新」の、その「俳句」を、それまでの「発句」に代わって、その世界を樹立していった中心的な俳人と見なされているが、それは虚像であって、その実像は、正岡子規が排斥してやまなかった、「連句とその発句」を、当時の多くの俳人がそれを排斥したようには、それを排斥せずに、実は、その核心にあるものを正しく喝破して、逆説的にいえば、再び、「俳句」を俳諧(連句)における「発句」に戻した、その中心的な俳人と位置づけられるように思えるのである。

虚子の実像と虚像(その二)

○ 遠山に日の当りたる枯野かな (明治三十三年)

この句には、「十一月二十五日。虚子庵例会」との留め書きがある。当時の「虚子庵例会」のメンバーは、その前年の句の留め書きなどによると、「九月二十五日。虚子庵例会。会者、鳴雪、碧梧桐、五城、墨水、麦人、潮音、紫人、三子、狐雁、燕洋、森堂、青嵐、三允、竹子、井村、芋村、担々、耕村。後れて肋骨、黄搭、杷栗来る。十月一日、松瀬青々上京、発行所に入る」とあり、その他、「東洋城、井泉水、癖三酔、碧童、水巴、乙字、雉子郎」などの名も見られ、多士多才の顔ぶれだったことが分る。この明治三十三年、虚子二十七歳のときの作は、今に氏の代表作の一つに数えられているものである。この句の主題は、一面の眼前に広がる「枯野」の句であって、この「枯野」は、芭蕉の絶吟ともいわれている、「旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」以来、最も神聖な季語・季題に数えられるものである。そして、この芭蕉批判の急先鋒者こそ、虚子の師に当る正岡子規その人であった。子規はその『芭蕉雑談』のなかにおいて、いわゆる「蕉風」の「さび」を否定し、主観に堕ちた教訓的に解され易い句を排斥し、その一千余句の芭蕉句中、佳句は僅かに約二百句とまで極論する。そして、この虚子の「枯野」の句ができる三年前の、明治三十年(一八九七)に刊行した『俳人蕪村』において、「いづれの題目といへども蕉風又は蕉風派の俳句に比し、蕪村の積極的なることは蕪村句集を繙く者誰か之を知らざらん」と、その因って立つ地盤を「蕪村派」に置くことを鮮明にする。この「蕪村派子規」の俳句の正しい継承者こそ、子規門の双璧(虚子と碧梧桐)の、もう一人の、河東碧梧桐その人であった。

  赤い椿白い椿と落ちにけり  (明治二十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句について、子規は、「碧梧桐の特色とすべき処は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし、「之を小幅な油絵に写しなば只地上落ちたる白花の一団と赤花の一団と並べて画けば即ち足れり」、「只紅白二団の花を眼前に観るが如く感ずる処に満足するなり」と評し(「明治二十九年の俳諧(三)」)、素材を視覚的に俳句の表現に写すという、いわゆる、写生論の一つの実りとして、高く評価しているのである。これに対して、虚子は、「印象明瞭の点に於ては俳句は絵画に若かず」として、「印象明瞭なる句の価値は其印象明瞭といふ一点にのみ存するに非ず、其の印象明瞭を挨つて充分に其の景色の趣味を伝へ得る点にあり」といい(「印象明瞭と余韻」・明治二九)、美的な情趣もしくは余韻を重く見て、後に、「現今の俳句界に嫌たらぬと同時に、其思想が主として天明の積極的方面から発達し変化して来てゐるので、閑寂の方面、消極的方面にあまり手がつけて無いのを遺憾に思ふ」(「現今の俳句界」・明治三六)と、「蕪村派子規」から「芭蕉派虚子」へとそのスタンスを変えることとなる。この掲出の虚子の「枯野」の句については、虚子は未だ「蕪村派子規」の影響下にあったが、芭蕉俳諧を象徴するような、この「枯野」の句を得たことにより、その後、ひたすらに、いわゆる、伝統回帰の「守旧派」の道を邁進するのに比して、碧梧桐もまた、この蕪村俳諧を象徴するような「絵画的」な「椿」の句を得たことにより、さらに、洋画の後期印象派のような、新傾向の俳句を求め、「革新派」の道を邁進することとなる。
そのスタートは、実に、この両者の掲出句をもって始まるように思われるのである。

虚子の実像と虚像(その三)

○ 長き根に秋風を待つ鴨足草(ゆきのした) (明治三十五年)

 この句の後に、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」との留め書きがある。虚子には、「子規逝くや十七日の月明に」という、子規が亡くなるときの追悼吟がある。この追悼吟については、虚子の「子規居士と余」という回想録に詳しい。「余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門を出た。その時であった。さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰(のぼ)りつつあるのではないかという心持がした」。 これがこの追悼句の前の虚子の記述である。この記述に見られる、その時の虚子を取り巻く状況や心の動きなどは一切切り捨てて、芭蕉の言葉でするならば、「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」という、「抑制的な表現のうちに余情・余韻を鑑賞者に伝授する」という句作りが、虚子が最も得意とするものであった。そして、この事実に即して最も臨場感のある旧暦十七夜の追悼吟は、この虚子の代表的な句集『五百句』には選句せずに、「横浜俳句会。此の年九月十九日、子規没」と留め書きを付して、直接的には子規の追悼句とは異質な掲出の句を選句しているところに、虚子一流の極端なまでの「「謂(いひ)応(おほ)せて何か有(ある)」的な姿勢が感知されるのである。この虚子の冷淡なまでの寡黙性が、好悪織り交ぜての「虚子の実像と虚像」とを増幅させる要因ともなっているのであろう。

  から松は淋しき木なり赤蜻蛉(明治三十五年 碧梧桐)

 この碧梧桐の掲出句は子規没後の翌月十日の「日本俳句」(子規亡き後碧梧桐が新聞「日本」のその俳句欄の選者を継承する)に載った句である。ここには師の子規を失った碧梧桐の「淋しさ」が、「秋の日に群れ飛ぶ明るくもはかない赤蜻蛉と、すでに黄葉し落葉しつつあるから松の淋しさを相乗させている」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)として、鑑賞者に伝達されてくる。虚子の掲出句の季語は、古典的な「秋風」(「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」・古今集・藤原敏行)であるが、碧梧桐の季語は古典的な「赤蜻蛉」(あかあきつ)ではなく、師の子規の季語の「赤蜻蛉」(あかとんぼ)で、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」(子規)が思いおこされてくる。そして、北原白秋の「落葉松」(大正十年十月)の詩が思い起こされてくる。

  からまつの林を過ぎて
  からまつをしみじみと見き
  からまつはさびしかりけり
  たびゆくはさびしかりけり

 白秋のこの「落葉松」の詩は余りにも人に知られているものであるが、碧梧桐の「から松は淋しき木なり」の、この発見は、白秋のそれに比して、それ程知られてはいないのではなかろうか。そして、この碧梧桐の句は、白秋の詩の、いわゆる「本句取り」手法の句ではなく、まさしく、その創作年次からいって、碧梧桐の新発見ともいえるものであろう。それと同時に、この両者の掲出句を対比して、虚子と碧梧桐は、子規門の双璧とも称されているが、師・子規への思い入れの深さということになると、碧梧桐のそれが虚子よりも上まわるということは、季語の選択の一つを取ってもいえるであろう。そして、子規・虚子・碧梧桐の、この三人の人間模様が、さまざまな、この三人の「実像と虚像」とを、今日まで、増幅させているということは驚くばかりである。


虚子の実像と虚像(その四)

○ 発心の髻(もとどり)を吹く野分かな(明治三十七年)
○ 秋風にふへてはへるや法師蝉(明治三十七年)

この二句については、次のような留め書きがある。「以上二句、八月二十七日、芝田町海水浴場例会。会者、鳴雪、牛歩、碧童、井泉水、癖三酔、つゝじ等」。この「会者」中の「井泉水」は荻原井泉水であり、井泉水は虚子のホトトギス系の俳人ではないけれども、子規のホトトギス系の俳人としてスタートをしたといってもよいのであろう。井泉水自身の次のような回想の記述もあるようである。「一高に入ってから正岡子規を知り『日本新聞』に投稿した。しばらく両刀使いだったが、やがて日本派一辺倒になって、はじめて真剣に句作する心がかたまった。秋声会から日本派に移ってみると全く空気が違うことが感じられた。秋声会は遊戯的だし、日本派は意欲的であった。秋声会は竹冷、愚仏、黄雨などと老人が主体だったが、日本派は壮年が中心だった。子規は私が一高二年生の時死んだが、碧梧桐が三十歳、虚子が二十九歳の若さだった。もっとも私が初めて子規庵の句会に出た時、出席者名簿に住所と年齢を記す、私が十九歳と書いたのを内藤鳴雪が隣からのぞいて『おゝ十代の方がいる』と驚かれた」(上田都史著『近代俳句文学史』)。後に、井泉水は碧梧桐と行動を共にし、「反ホトトギス・反虚子」の立場で、「新傾向俳句」を推進し、さらに、その碧梧桐とも袂を分かち、定型・季語・切字からの自由のもとに「自由律俳句」を唱道し、その中心的な役割を担うが、虚子が没する昭和三十四年当時になると、完全に虚子を中心とする定型(律)俳句の片隅に追いやられて、井泉水が没した昭和五十一年当時になると、もはや井泉水もその自由律俳句も過去の遺産と化し、そして、それすらも食い潰してしまったという印象すら与えるものとなった。即ち、言葉を代えて言うならば、「子規が新しく開拓した俳句の世界は、一人、虚子のみが生き残り、虚子一色の俳句の世界となった」ということである。この「虚子一人勝ち」ということが、判官贔屓も重なって、「虚子嫌い・ホトトギス嫌い」を増幅させ、虚子の虚像が一人歩きしていると言っても過言ではなかろう。虚子・虚子俳句にもいろいろな側面がある。この掲出の一句目の、「発心の髻(もとどり)を吹く野分かな」は、蕪村好きの多い子規門の俳人が好んで句作りするような、いわゆる、蕪村のドラマ趣向のそれであろう。また、二句目の、「秋風にふへてはへるや法師蝉」は、「秋風」と「法師蝉」の「季重り」や、「ふへてはへるや」の、井泉水の言葉でするならば、「秋声会の遊戯的」な句作りと言っても、これまた過言ではなかろう。桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではないけれども、この掲出の二句について、名前を伏せて提示して、この句の作者が、高浜虚子と言い当てるのは、これまた至難なことであろう。ことほどさように、虚子の代表的な句集の『五百句』の、その五百句のうちには、何故これが選句され、そして、何故仰々しく留め書まで付されているのか首を傾げたくなるものが多いのである。そして、その不可思議が、さらに、虚子の虚像を増幅させていることに、思わず苦笑してしまうほどなのである。

虚子の実像と虚像(その五)

○ 鎌とげば藜(あかざ)悲しむけしきかな(明治三十八年)

この句には、「七月二十三日、浅草白泉寺例会。会者、鳴雪、碧童、癖三酔、不喚楼、雉子郎、碧梧桐、水巴、松浜、一転等」との留め書きがある。この会者のうちで、何故か、雉子郎が気にかかるのである。この雉子郎には、川柳史上に名を残している文化勲章受章者の国民的作家の吉川英治こと井上剣花坊門の柳人・吉川雉子郎と、同じく文化勲章受章者の高浜虚子門にあって日本俳壇では名が知られてはいないがホトトギス俳壇ではその名を残している石島雉子郎との、この二人が想起されてくる。

  貧しさもあまりのはては笑ひ合い       雉子郎(吉川雉子郎)
  此(この)巨犬幾人雪に救ひけむ         雉子郎(石島雉子郎)

 この二人の雉子郎の句を見ながら、俳人・虚子は、いわゆる、俳諧(俳句)の三要素の「挨拶・即興・滑稽」(山本健吉の考え方)のうち、この「滑稽」(おどけ・ペーソス)ということにおいては、はなはだ不得手にしていて、こと、その全句業を見ていっても、いわゆる、滑稽味のする句というのは余り残してはいない。このことは、同時に、自ら「俳句は叙景詩である」(「俳句の五十年」)という立場を鮮明にしていて、いわゆる、連句でいうところの「人事句」ということには一定の距離を置いていたということも伺えるのである。その連句の「人事句」というのは、いわゆる「川柳」の世界の母胎のようなものであって、このことからすると、虚子の俳句の世界というのは、その川柳の世界とは最も距離を置いていたということもいえるであろう。この観点から、掲出の雉子郎の二句を見ていくと、やはり、明治三十八年・浅草白泉寺例会の会者の雉子郎は、川柳人・吉川雉子郎ではなく、終生虚子門を通したホトトギスの俳人・石島雉子郎その人のように思われるのである。この石島雉子郎については、次のアドレスなどで紹介されている。

http://www2.famille.ne.jp/~sai-hsj/sanpo_fu.html

 このネット記事において、掲出の雉子郎の句を、その師の虚子は「ホトトギス」誌上で次のように鑑賞しているという。

「此句は北国などでは雪中に埋った人を探し出すのに、よく犬を使うことがある。犬は其発達した嗅覚で、雪に踏み迷うた人は勿論、雪中に埋っている人までを探し出すことがあると聞いている。作者は其雪国に在って一疋の大きな犬を見た時に、此大きな犬は幾人の人を雪の中から救ひ出したものであろうと、其勇猛な姿に見惚れ且つ獣の人を救うという事に感動して嘆美した句である」。

 この「此(この)巨犬」というのを比喩的に解すると、虚子その人のようにも解せるし、「幾人雪に救ひけむ」の「幾人」とは、「ホトトギスで虚子に認められた俳人達」とのイメージも髣髴してくる。さて、掲出の虚子の明治三十八年の作についてであるが、「藜(あかざ)悲しむ」と、いわゆる、「藜(あかざ)」を擬人化してのものなのであるが、その擬人化的手法が「俳句は叙景詩である」とする虚子の立場からすると、必ずしも成功しているとはいえないように思えるのである。こういう、例えば、掲出の吉川雉子郎のような、庶民の哀感をストレートに表現する「川柳」の世界や、俳句の世界でいえば、「人間そのものを主たる素材とする」、虚子俳句とは別世界の「人間探求派」のそれに比すると、「虚子俳句の面白みのなさ」が目立ってきて、このことがまた、「虚子の実像」を歪曲して、その結果、「アンチ虚子」の「虚子の虚像」を増大させているといっても良いであろう。


虚子の実像と虚像(その六)

○ 座を挙げて恋ほのめくや歌かるた (明治三十九年)

この句には、「一月六日、新年会。三河島後楽園。会者、癖三酔、松浜、一声、三允、鳴雪、碧梧桐、乙字等」との留め書きがある。この会者の乙字は、日本俳壇史上、「季題・季語・二句一章・写意」等の評論を通して、今なおその名を残している大須賀乙字その人であろう。ネット記事で、「荻原井泉水と『層雲』」(秋尾敏稿)に、次のような興味深い記述がある。

「子規の没後、虚子は『ホトトギス』に写生文や俳体詩の欄 を増やして総合文芸誌としての性格を強め、明治四一年、ついに俳句との決別を図る。虚子は、文学全般の革新を夢見た 子規の遺志を受け継いだのである。 一方、新聞『日本』の俳句欄を担当した碧梧桐は、明治三九年、その俳句欄を廃し、全国俳句行脚に旅立つ。碧梧桐は、俳句を一流の文学たらしめようとした子規の遺志を受け継いだのである。彼はそのための方法論を探索し続けた。その碧梧桐の前に、大須賀乙字が現れる。『日本俳句』に投句、『俳三昧』で鍛えた乙字は、優れた理論家でもあった。古典に暗示性の強い句を見出し、それを根拠に『俳句界の新傾向』を発表する。俳句の新たな展開を考えていた碧梧桐は、乙字の論に飛びつく。碧梧桐は乙字の論に、季題を背景として心情や情緒を暗示させる方法を読み取った。人事を詠み、そこに詩情を漂わせていくこと、それが碧梧桐の理解した『新傾向』である。しかし、それは乙字の意図とはかなりずれた解釈であった。新しい俳句の展開を目指した碧梧桐は、明治四四年に荻原井泉水が創刊した『層雲』に加わる。乙字も最初参加するがすぐに去っていく。乙字の考える俳句の理想は、古典の中にあった。新傾向は乙字の求める俳句ではなくなっていった。大正元年、虚子が『ホトトギス』に俳句を復活させる。碧梧桐らの新傾向に異を唱え、自ら守旧派を名乗って、俳句の正統を守ろうとしたのである。しかし乙字は、その虚子にも異を唱える。虚子は、文芸の中での俳句の立場を限定し、その表現法を単純化する。そのことが、俳句の大衆化を推進する力となるのであるが、しかし俳句の深淵を深く信じた乙字から見れば、虚子の俳句観は物足りないものであったろう。 かくして大正元年、虚子と碧梧桐と乙字は、俳壇に、異なる三つの立場を形成する。その対立が、大正期の俳句に多様性をもたらし、さまざまな俳誌を生み出す原動力となる。 俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもあ る。大正時代は、『現代』の始まる時期でもあったのである。」

http://www.asahi-net.or.jp/~CF9B-AKO/kindai/souun.htm

 この記述のうち、「俳句の分限を守り、その大衆化に向かう虚子、古典俳句の普遍性を信じる乙字、俳句の詩としての可能性をどこまでも追求する碧梧桐。この図式は、実は現代の俳壇の構造でもある」の指摘は鋭い。と同時に、この現代の俳壇の構造に深く係わる、「虚子・碧梧桐・乙字」の、この三人が、子規亡き後の、明治三十九年当時、同じ座で切磋琢磨の関係にあったことは特記すべきことであろう。そして、この掲出の虚子の恋の句に見られるように、当時の彼等は、碧梧桐、三十四歳、虚子、三十三歳、そして、乙字、二十五歳、さらに、井泉水、二十三歳と、それぞれが血気盛んな年代であった。これらの若き俳人群像が、今日の日本俳壇に大きな影響を及ぼしていることは、実に驚異的でもある。そして、虚子の「実像と虚像」とは、これらの当時の虚子を取り巻く俳人群像と大きく係わっていることは、これまた多言を要しない。


虚子の実像と虚像(その七)

○ 垣間見る好色者(すきもの)に草芳しき (明治三十九年)
○ 芳草や黒き烏も濃紫 (同)

「以上二句。三月十九日。俳諧散心。第一回。小庵・会者、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅。尚この俳諧散心の会は翌明治四十年一月二十八日に至り四十一回に及ぶ」との留め書きがある。この留め書きにある「俳諧散心」については、虚子の次のような記述がある。「又私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ会合を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、その頃碧梧桐が『俳句三昧』をととなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修業をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた会合でありました。それで私は、三昧(定心)に対して散心といふ仏教の修業の上に二通りあるとかいふその三昧に対して他の一つの散心といふ言葉を選んだわけでありました」(「俳句の五十年」)。ここに、子規の「根岸庵句会」というのは、碧梧桐を中心とする「俳諧三昧」と虚子を中心とする「俳諧散心」とに実質上袂を分かつことになる。しかし、当時は、虚子は俳句よりも小説に関心があり、こと俳句については、子規の後を継いで、新聞「日本」の俳句欄「日本俳句」の選者として、俳句一筋の碧梧桐に委ねるという姿勢があり、この両者の間は決定的な亀裂の状態であったということではなかった。この両者が完全に袂を分かつのは、明治四十五年に至り、虚子が、「ホトトギス」の「雑詠」の選に復帰して、その七月号で、碧梧桐の新傾向の俳句に対する不満を表明した以降ということになろう。そして、この両者の対立の萌芽は、この掲出句の留め書きにある明治三十九年、虚子が「俳諧散心」の会を立ち上げる前の、明治三十六年の「ホトトギス」(九月号)に、碧梧桐が発表した「温泉百句」と、その碧梧桐の句に対する虚子の批判の時に始まると見て良いであろう。この両者の対立というのは、一言でいえば、「趣向的で保守的な虚子の態度と、写生主義に立ち、技巧的で進歩的な碧梧桐の態度との対立であった」(栗田靖著『河東碧梧桐の基礎的研究』)ということになろうか。この両者の違いを例句で示すと、虚子の句(掲出の二句)は、「空想趣味的、趣向派的、伝統派的、保守派的」ニュアンスが感じられるのに対して、碧梧桐の、この虚子の句と同じ、明治三十九年の「構成的で野心的な作」(加藤楸邨評)とされている次の句に見られるように、碧梧桐のそれは、「写生主義的、技巧派的、現世派的、進歩派的」ニュアンスの強いものであった。

  空(クウ)をはさむ蟹死にをるや雲の峰 (明治三十九年 碧梧桐)

 この碧梧桐の句の、「空」に「クウ」とルビをつけ、「空をつかむ」を「空をはさむ」(蟹のハサミよりの写生的・技巧的な措辞)とし、それに、ダイナミックな「雲の峰」とマッチさせて、虚子の掲出の二句に比すると、それが、余裕派的な、俳諧散心(臨機応変)的な虚子の姿勢に対して、俳句一筋の、俳諧三昧(探求)的な碧梧桐の姿勢が見てとれ、こと、この掲出句の対比だけですれば、碧梧桐の方の句を佳しとするのが大筋の見方なのではなかろうか。そして、個々に、このような対比をすることなく、虚子と碧梧桐との対比は、「勝ち組み・虚子、負け組み・碧梧桐」と、ジャーナリスティック的に取り上げられるのが多いことには、もうそろそろピリオドを打つべきであろう。

虚子の実像と虚像(その八)

○ 上人の俳諧の灯や灯取虫 (明治三十九年)

「六月十九日、碧梧桐送別句会・星ケ岡茶寮」との留め書きがある。この句は、『人と作品高浜虚子』(清崎敏郎著)の「鑑賞篇」など、よく例句として取り上げられるものの一つで
ある。上記の図書(清崎著)の鑑賞は次のとおりである。
「明治三十九年。六月十九日、碧梧桐が『三千里』の旅に上るのを壮行する句会が星ケ岡
茶寮で催された。その折兼題で作られた句である。もともと、この全国行脚の旅の話は、
真言宗大谷派の管長大谷句仏が、作者に薦めたのだったが、既に小説に対する興味が深く
なっていて、俳行脚といったことに心の動かなかった作者は、碧梧桐を代りに推したの
であった。この旅を機に、所謂新傾向運動がその緒に就き、全国的に流布されることにな
ったわけである。この句の上人は、言うまでもなく大谷句仏である。碧梧桐が全国行脚の
途に上るについて、そのパトロンとも言うべき句仏を脳裏に浮べたのであった。恐らく、
今時分は、灯取虫の来る灯の下で、ゆったりとした上人の生活を自ら窺わせる。句仏は、
以前から、碧梧桐の選を受けていたが、碧梧桐が新傾向に傾くにつれて、その鞭を受ける
をいさぎよしとせず、『我は我』という立場で俳壇に処していた」。
これらの記述により、当時の虚子と碧梧桐との関係が明瞭になってくる。当時の虚子の
の関心事は、俳句ではなく小説にあり、子規没後、虚子がその中心となった「ホトトギス」
は、明治三十八年に夏目漱石の「我が輩は猫である」が掲載されて部数が伸び、小説中心の雑誌に転じようとする状況にあった。それに比して、碧梧桐が俳句欄の選者となった新聞「日本」の投句者数は激減し、「まさか投句哀願の手紙を書くことも手出来なかつた」と碧梧桐自身後日にその「思い出話」に綴っているほど、芳しくなかったようである。こんなことが背景にあって、碧梧桐の全国遍歴の旅の、いわゆる、「三千里」の旅は決行されたのである(栗田靖・前掲書)。これらのことを背景にして、この掲出の虚子の句に接すると、あらかじめ示されている兼題の「灯取虫」で、しかも、碧梧桐の送別句会で、碧梧桐のこの送別の旅のパトロンの一人の「上人」(大谷句仏)を句材にするというのは、冷笑的な姿勢すら感じさせるのである。虚子にしては、それほど意識してのものではないであろうけど、こういう一面と、こういう句作りは、その後の、虚子の実像と虚像を、これまた増幅するものであった。

虚子の実像と虚像(その九)

○ 桐一葉日当りながら落ちにけり   (明治三十九年)
○ 僧遠く一葉しにけり甃(いしただみ) (明治三十九年)


 この留書きは次のとおりである。「以上二句。八月二十七日。俳諧散心。第二十二回。小庵。この掲出の一句目は虚子の代表作の一つでもある。この句の背景などの鑑賞ついて、次のようなものがある(清崎・前掲書)。
「明治三十九年。『俳諧散心』の第二十二回の折の席題『桐一葉』十句中の一句である。当時、碧梧桐とその一門が『俳三昧』を催して、句作の錬磨に努めていたのに対して、虚子とその一門が設けた句修業の道場が『俳諧散心』であった。『三昧』『散心』とい名称が、両者の感情を露出していよう。三月十九日に催された第一回には、蝶衣、東洋城、癖三酔、松浜、浅茅などの顔が見えている。日の当っている桐の一葉が、つと枝を離れて、ゆるやかに、翩翻として大地に落ちた。日があたったまま、落ちつづけて大地に達したのである。「日当りながら」という把握によって、あの大きな桐の一葉が落ちてくる状態が眼前に彷彿とする。桐の落葉の特徴を描き得ているばかりでなく、極端に単純化することによって、切りとられた自然の小天地が生まれている。作者自身『天地の幽玄な一消息があるかと思ふ』と自負する所以である」。
 この掲出の二句で、句材的に見ていくと、一句目は、「桐一葉」だけなのに比して、二句目は、「僧・桐一葉・甃(いしただみ)」ということになろう。そして、この一句目の傑作句は、二句目に比して、写真用語での、トリミング(不用なものを切り落して、構図を整えること)の利いた切れ味の鋭い一句ということになろう。虚子は、このトリンミングということについて天性的なものを有していて、このトリミングによって、単に、「自然を写生する」ということから一歩進めて、「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というようなことを詠み手に訴えてくる。そして、虚子が一瞬にしてとらえた「自然の小天地・天地の幽玄な一消息・宇宙観」というものが、一つの寓話性のようなもの、この掲出の一句目ですると、「一葉落チテ天下ノ秋ヲ知ル」(文録)というようなものと結びついて、一種異様な深淵な響きを有してくる。こういう響きは、虚子独特のもので、碧梧桐のそれに比するとその相違が歴然としてくる。そして、この相違は、虚子は芭蕉的な世界に相通じて、碧梧桐はより蕪村的世界に相通じているといってもよいであろう。いずれにしても、この掲出の一句目は、虚子の俳句の最右翼を為すような一句であることは間違いなかろう。


虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。