土曜日, 3月 24, 2007

其角とその周辺・五(四十六~五十五)



(謎解き・四十六)

○ 新月やいつを昔の男山 (其角『いつを昔』)

『いつを昔』(其角編・元禄三年刊)所収。「同講の心を 心の月をあらはして鷲の御山の跡を尋(たずね)ん」との前書きがある。「同講」は「舎利講」のこと。「舎利講を 願はくは心の月をあらはして鷲の御山の跡を照さむ」(藤原良経『秋篠月清集』)、「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」を踏まえている。「新月」に「心月」を掛けている。
句意は、「心月のような新月の明るく照らす男山を見ていると、何時のことを昔というのだろうか、昔も今も少しも変わりはない」というようなことであろうか。この句の中七の「いつを昔」が、書名の由来となっている。(新月・秋)。この『いつを昔』の序文は、去来が書いている。

一 俳諧に力なき輩(やから)
  此(この)集のうちへ かたく
  入(はいる)べからざる也

この去来の幕府の高札に見立ての序は、後の『沾徳随筆』の「芭蕉発句はよき句あれどうすし。薄き所を得たる作者也。其角はつよき程の句に、ばせをは力及ばず」と一脈通ずるニュアンスでなくもない。芭蕉没後、其角と去来・許六との間に、「其角が芭蕉の遺風に従わない」ということで、『俳諧問答』(許六編)でそのやり取りが記述されているが、芭蕉在世中の元禄三年当時においても、其角は芭蕉の作風(不作為の薄き句)とは方向を異なにして、洒落風の作風(作為の強き句)に軸足を置き、そのことは、芭蕉・去来を始め、蕉門の面々は、これを認めていたといっても過言ではなかろう。ここで、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)は、次のような興味ある記述をしている。

○『いつを昔』は、其角の好みによる東西名句選で、普通の四季別類題によらず「十題百句」「交題百句」とつづいて行く。その二句目に、「凩(こがらし)に二日の月の吹きちるか」(荷兮)が入っている。荷兮は名古屋連衆のリーダーで、『冬の日』『春の日』『阿羅野』と芭蕉七部集の三部を編集した才人である。この「凩に……」の句は、荷兮の代表句であり、「凩の荷兮」と呼ばれた。しかし芭蕉は、この句を「作為」があるとして認めなかった。凩が吹いて、二日の空の月は、こなごなに吹き散ってしまう、という水晶のような吟で、二日という、さして見ばえのしない日を詠みこんだところに力がある。「吹き散るか」という語が強い。その「二日の月」という人を驚かす選択に芭蕉は「作為」を見た。こうなると、「うまい句」や「はっと驚かす句」は、すべて「作為」があるとされてしまい、蕉門の俳人には、芭蕉の評に異をはさむ者も出てくる。荷兮がその一人となっていく。

其角の図太さは、師の芭蕉が、「これはまずい」ということであっても、頑として自説を押しを通すだけの器量が備わっていた。そして、其角の師たる芭蕉も、其角に対しては、正面から其角の非を諭すという姿勢は取らなかった。それだけではなく、「自分にないものを其角が有している」ということを正しく見抜いていたともいえるであろう。其角はそういう芭蕉を、これまた正しく見抜き、終生、芭蕉を師と仰ぎ、師の下を離れることなく、その最期を看取ったのであった。それに比して、荷兮は芭蕉から離反していく。芭蕉との離反は、俳人・荷兮の寿命を縮め、目標を失ったように、晩年には、昌達として連歌師に転進し、不遇のうちに没した。しかし、この荷兮の「作為ある句」を良しとし、荷兮を高く評価し、荷兮離反後も、荷兮と同じく「作為ある句」の世界を確立していた、その人こそ、其角であったということもできょう。


(謎解き・四十七)

『いつを昔』(其角編・元禄三年刊)所収の其角の句には傑作句が多い。『榎本其角』(乾裕幸編著)を参考にしながら、その幾つかを見ていきたい。

○ しばらくもやさし枯木の夕附(ゆうづく)日 (其角『いつを昔』)

「芭蕉翁の旧草」との前書きがある。「旧草」とは昔住んでいた草庵のこと。句意は、「芭蕉師の旧庵の枯れ木に、ひとときの間やさしい夕陽の光が差し込めている」。この「やさし」には芭蕉師の面影を宿しているか。其角にしては作為過剰にならず、芭蕉好みの一句。其角は、何でも自分本位の句作りに邁進するのではなく、俳諧自在で、「時・所・人」に応じて作句するだけの器量と能力を有していたということか。こういう其角の俳諧自在的な配慮は、芭蕉から離反していく荷兮などの面々は有していなかった。其角の好みによる東西名句選の『いつを昔』に、芭蕉師が閲覧するであろうことを予期してか、こういう、芭蕉師の好みの、しかも、芭蕉旧庵を主題にしての一句を、何の衒いもなく入集しているのが、いかにも、其角らしい。(枯木・冬)。

○ からびたる三井の二王や冬木立 (其角『いつを昔』)

「遊園城寺」との前書きがある。「園城寺」は三井寺。「冬木立の中、古い三井寺にふさわしく、山門の仁王像はからびきって枯淡な趣をたたえている。一句の命は『からびたる』の一語に尽きる。からびた仁王に冬木立を取合わせたのは其角の手柄。蕉風の秀句と称すべきである」(乾・前掲書)。(冬木立・冬)。潁原退蔵著『俳諧評釈』で「其角のすぐれた詩人的素質がみられる。蕪村の『三井寺の日は午にせまる若楓』と宣い対照をなした句だ」との指摘がある。これも、芭蕉好みの句。其角にはこういう詩人的資質が底流に迸っており、そこのところが、芭蕉の本質に通ずるものがあり、荷兮のように無下にはせずに、常に特別視していたということであろうか。それは即、「芭蕉だけが其角の真の姿を見抜いていた」ということもできるのかも知れない。ちなみに、芭蕉にも、「三井寺の門たゝかばや今日の月」の「三井寺」を主題にした句がある。謡曲「三井寺」の「今夜は八月十五夜名月」の場面の「月の誘はおのづから、舟はこがれ出づらん、舟人もこがれ出づらん」や賈島の詩の「僧は敲く月下の門」などを背景とした句である。其角の側からすると、こういう芭蕉の句は、好みの句であって、其角は、『雑談集』に「於大津義仲寺庵」との前書きを付して収載している。この芭蕉の句は元禄四年秋の作とされ(井本農一他校注『松尾芭蕉集(一)』)。うがった見方をすれば、芭蕉が掲出の其角の句を念頭においてのものとも理解できるのである。

○ 若鳥もあやなきねにもホトゝギス (其角『いつを昔』)

「あやなき」ははっきりしないこと。「ね」は音。句意は、「若鳥がまだはっきり分からないような声で鳴いている。それでも、ホトトギスの声らしいところを宿している」。ホトトギスの異名の「あやなし鳥」を背景とした句であろう。(ホトトギス・夏)。やや作為的なところもあるが、それほど嫌味はない。芭蕉の師風を頑なに遵守し、決して器用ではない武骨者の去来が、この其角の『いつを昔』の「序」を書いているが、去来に「序」を依頼する其角の器量の広さと巧みさとともに、当時の俳諧の作風から見て、この句なども去来始め蕉門の面々にそれほど違和感を与えるものではなかったであろう。

○ 人うとし雉(きじ)をとがむる犬の声 (其角『いつを昔』)

「草庵」との前書きがある。「守家一犬迎人吠」(『和漢朗詠集』都良香)を踏まえているという(乾・前掲書)。句意は、「訪れる人とてなく、犬がなくのは、雉子を見咎めてのことである。そんな辺鄙なところなのです」。この句には、犬公方・綱吉の「生類憐れみの令」への風刺を含んでいないであろう。『和漢朗詠集』の背景を度外視しても、一句として鑑賞し得る。「人うとし」を浮き上がらせるために、「雉(きじ)をとがむる犬の声」というのが、いかにも、ドラマティツクで、荷兮の作風と同じく作為が先行する感じがしなくもないが、それが嫌味ではない。(雉・春)。

○ 鼠にもやがてなじまん冬籠(ふゆごもり) (其角『いつを昔』)

「居をうつして」との前書きがある。「今度越して来た新宅は、鼠がうろちょろと出没する。今年はここで冬籠りするのであるが、新しい鼠どもにもやがてなじむことであろうよ。旧宅にも鼠はいただろうが、新宅の鼠とは初対面という気分である」(乾・前掲書)。(冬籠・冬)。其角の「切られたる夢は誠か蚤の跡」(『花摘』)に、芭蕉は「彼は定家の卿也」と、「さしてもなき事をことごとしくいひつらね」ることのできる独特の才能を見て取り、歌作りの名人の藤原定家に擬している。こういう句を見ると、芭蕉の批評眼の凄さを思い知る。芭蕉の「冬籠」の句で、「金屏の松の古さよ冬籠」(元禄六年許六宛書簡など)がある。「金屏の松の古さよ」の見立てや、即興的な情趣は、これも、其角側からすれば、其角好みの一句ということになろう。ともすると、其角の句の鑑賞は、芭蕉の視点からのものを多く見かけるが、逆に、其角の視点からの芭蕉の句の鑑賞というのも、これまた一興と思われる。

(謎解き・四十八)

○ 木兎(ミミヅク)の独(ひとり)わらひや秋の昏(くれ) (其角『いつを昔』)
○ 帆かけぶねあれやかた田の冬げしき (其角『いつを昔』)
○ 病雁(やむかり)の夜さむに落(おち)て旅ね哉 (芭蕉『猿蓑』)

掲出の一句目。「けうがる我が旅すがた」との前書きがある。「木兎は赤い頭巾を着せられて諸鳥をとらえる囮にされる。秋の夕暮れ、そぞろ寂しさのつのる中にも、赤い頭巾をかぶったわが旅姿は、まるで木兎そっくりだわいと、つい独り笑いがこみあげてくる。寂しさにおかしさを織りまぜた佳句である」(乾・前掲書)。(秋の昏・秋)。其角の自嘲の一句。「おかしさとわびしさと」、まさに、佳句。「赤い頭巾を着せられて諸鳥をとらえる囮」の「木兎」の比喩が、まさに、当時の其角を彷彿させる。
掲出の二句目。「十月二日、膳所水楼にて」との前書きがある。「元禄元年(一六八八)十月二日、曲翠・素葉と膳所水楼に遊んだ折の吟。『かた田』は堅田。滋賀県大津市、琵琶湖西岸。古くから湖上交通の要所であった。水楼に登って琵琶湖上を見渡すと帆かけ舟が見える。あれが堅田の冬景色として欠くことの出来ないものだ、の意。大雑把な描きように風情がある」(乾・前掲書)。(冬げしき・冬)。「大雑把な描きように風情がある」というよりも、「大景把握の冴えを見せる感興の一句」と解したい。何の技巧も弄さず、実景を抉り出す其角の確かな俳眼を見せつけるような一句である。こういう其角の句に接すると、近江をこよなく愛した芭蕉と、その近江俳人の一人・東順を父とする其角とは、単に、師弟の関係にあったというよりも、真に、親しい関係にあった俳人同士という思いがしてくる。
掲出の三句目。『猿蓑』には「堅田にて」、また『横平楽』には「堅田にふしやみて」という前書きがある。また、『枯尾花』の其角の「芭蕉終焉記」に「心をのどめて思ふいち日もなかりければ、心気いつしかに衰微して、病ム雁のかた田におりて旅ね哉と苦しみけん」との記述がある。「秋も深まって夜の寒さがしみじみと身にせまる今晩である。と、病気らしい弱った雁の鳴き声が聞え、どこか近くに降りたらしい様子である。そんなあわれなさまを感じながら、雁と同じように孤独で病身の自分も、秋の夜をわびしく旅寝するのである。季節といい、情景といい、またわが身の境涯といい、むひとしお旅愁の心に沁みることだ」(井本他・前掲書)。其角好みの一句といえよう。
『去来抄』によれば『猿蓑』撰集のとき、この句と「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉」との句について、どちらを入集すべきかに関しての、撰者の去来と凡兆との間の論争の記述が見られる。「作者の志」を高く評価する去来は「病雁の」の句を、「句の働き・情景の新鮮さ」を高く評価する凡兆は「海士の屋は」の句を主張した。その後芭蕉は「病雁と小海老などと同じ事に論じけり」と笑ったという。この「病雁」は「病む芭蕉」の比喩と理解して、掲出一句目の其角の「木兎」の自画像との比喩とが、好一対のように思えてくる。さらに、「病雁の」の芭蕉の句は、「堅田にて」の前書きがあり、「堅田落雁」を意識した作意の句であり、「病雁」・「夜寒」・「旅寝」の道具立ての面からも、師たる芭蕉と弟子たる芭蕉の比喩の一句として、掲出一句目と三句目とは、「句兄弟」のような関係のものと理解したい。さらに、掲出二句目の其角の「堅田」の句と、掲出三句目の芭蕉の「堅田」の句についても、同じ「近江堅田」の旅中吟ということで、これも「句兄弟」のようなものとの理解をいたしたい。
ここらへんのところを、其角と芭蕉との年譜を見ていくと、其角の近江・堅田行きは、元禄元年(一六八八)十月で、芭蕉はその翌年の元禄二年に「おくのほそ道」の旅を決行して、十二月末に、近江・膳所で越年する。時に(元禄三年)、其角は、三十歳、この四月十五日に、『いつを昔』を刊行する。一方の芭蕉は、四十七歳、三月中旬に、膳所にて、「木の本に汁も膾(なます)も桜哉」を立句にして曲翠・珍碩と三吟歌仙。この頃より「かるみ」・「不易流行」の語を口にするようになる(今泉・前掲書)。四月には、幻住庵に入り、持病の下血に悩んでいることの如行宛ての書簡などがある。八月に『ひさご集』を刊行し、九月二十六日に、「『ひさご集』ノ事、キ角などは心に入不申候様ニ承候」(芭蕉宛曽良書簡)と、芭蕉と其角との俳諧観などの相違が浮き彫りになってくる。これらのことを背景として、掲出の三句を鑑賞していくと、当時の其角や芭蕉の思いの一端というのが伝わってくる。

(謎解き・四十九)

○ 蟷螂(かまきり)の尋常(じんじょう)に死ぬ枯野哉 (其角『いつを昔』)

『五元集』には「霊山のみちにて」の前書きを付している。「殺生禁断の霊山の有難さ。枯野の中に、むごたらしく殺されせず、事故死もせず、寿命を全うして自然死した蟷螂の死骸が落ちている。『尋常に死ぬ』ことの少ない虫けらの自然死に感動したのである」(乾・前掲書)。(枯野・冬)。そのままずばりの「尋常に死ぬ」が何とも其角らしい。「うづみ火の南
をきけや蟋蟀(きりぎりす」と其角の虫の句が続く。

○ 寝る恩に門の雪はく乞食哉 (其角『いつを昔』)

「寒山の讃」の前書きがある。「寒山」は中国唐の僧。「拾得」(じっとく)とともにその飄逸な姿がよく画題とされる。「門前に寝かせてもうら恩返しに、門前の雪を乞食が掃いている」という景。「禅寺に泊めてもらうと、翌朝、寝たあたりを掃除して出る常例を背景とする」(乾・前掲書)。(雪・冬)。乞食は家に泊まっての礼返しではなく、門前に寝るのだろうけど、その礼返しという見立ての面白さを狙っているのだろう。其角の釈教の句。

○ 大虚涼し禅師の指のゆく所 (其角『いつを昔』)

「布袋の讃」との前書きがある。「布袋」は中国唐の禅僧、布嚢を背負った絵で知られる。句はその絵の讃。「指のゆく所」は指先を弾いて注意を喚起する仏教の禅指を匂わせるか(乾・前掲書)。「虚空に向けられた布袋禅師の指の指すところ、涼しさが満ちあふれている」。
(涼し・夏)。「大虚涼し」と「禅師の指のゆく所」の取合わせの奇抜さを狙っている。これも釈教の句。

○ 鈴虫の松明(たいまつ)さきへ荷(にな)はせて (其角『いつを昔』)

「夜過山 沖津にて」の前書きがある。「沖津」は興津。現在の静岡県清水氏。東海道五十三次の一。『東海道名所記』の「由井より興津へ」の項に「駅路鈴声夜直山」(和漢朗詠集)の詩を挙げる。句はこの「鈴声」を鈴虫の声に変えた(乾・前掲書)。「松明を先へ荷わせてゆくと、松明の先の方から鈴虫の声が聞えてくる」。(鈴虫・秋)。旅と題しての句。

○ いざ汲(くま)ん年の酒屋のうはだまり (其角『いつを昔』)

「うはだまり」は濁り酒の上澄み。『催馬原』の「此の殿の、奥の酒屋のうはだまり」を背景としている句。「さあ酌もう、この新年のめでたい酒の上澄みを」。(年の酒・新年)。酒と題して句。

○ かたつぶり酒の肴に這はせけり (其角『いつを昔』)

「草庵薄酒の興 友五に対す」の前書きがある。「友五」は江戸の蕉門の俳人。「薄酒」は味の薄いまずい酒。蝸牛(かたつむり)は別名を舞々とも言いそれなどを意識しているとも解せられる。「何のご馳走もないので、蝸牛でも舞々這わせて、それをご馳走にむして酒でも飲もう」。(かたつぶり・夏)。「即興の軽い句として面白い。其角の磊落な風格が偲ばれる句である」(潁原・前掲書)。これも酒と題しての句。

○ 名月や居酒のまんと頬(ホウ)かぶり (其角『いつを昔』)

「居酒」は居酒屋の酒。『仁勢物語』の「おかし男、ほうかむりして、奈良の都かすかの里に酒のみにいきけり」を踏まえている(乾・前掲書)。「この名月に、頬被りして居酒屋に行き、酒を飲もう」。(名月・秋)。「かたつぶり酒の肴に這せけり」の次に掲載している酒の句。

○ 清滝や渋柿さはす我(わが)意(こころ)  (其角『いつを昔』)

「清滝」は京都の清滝川。「さはす」は柿の実の渋を取り去ること。「清滝川の清流、渋柿をさわすように、わが心もさわされる思いがする」。(渋柿・秋)。「渋柿さはす」と「我(わが)情(こころ)」を「さはす」(洗い清める)との面白さを狙っている。「嵯峨遊吟」と題しての句。

○ 蜑(あま)のかるかぶ菜おかしやみるめなき (其角『いつを昔』)

「蜑」は海士。ここは海女。「かぶ菜」は蕪。「みるめなき」は「海松布(みるめ)なき」に「見る目なき」の言い掛け。『古今集』の「みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海人のあしたゆくくる」(小野小町)を踏まえている。この歌の「かれな」(離(か)れな)を「かぶ菜」のもじり、「逢うことのない」の意の「みるめなき」の転じなど技巧を凝らしての一句。
「海女が海松布(みるめ)でなく蕪を刈っているのが何とも可笑しい」。(かぶ菜・冬)。取り立てて句にすることもないようなことを、単に、技巧に技巧を施した言葉遊びの句は、芭蕉は敬遠することであろう。膳所の湖上吟の一句。

(謎解き・五十)

○ 山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉 (其角『いつを昔』)

「とにかくにもてあつかふはこゝろなりけり 光俊」の前書きがある。「山がらの廻すくるみのとにかくにもてあつかふはこゝろなりけり」(『夫木和歌抄』巻二十七・光俊朝臣)を踏まえている。訓読みの「やまがら(山雀))」と音読みの「さんりょう(三両)」を掛けている。これは当時の「三両一歩」の「座頭金」(高利)を風刺した句である。座頭金は幕府が盲人の保護政策として高利貸しの営業を認め、後に高利の代名詞に「三両一歩」の語が生じたことによる(今泉・前掲書)。また、「山雀利口」(小利口で実際の役に立たないもの)で、師走の遣り繰りに困って、利子を一歩(一歩は一両の四分の一)を先払いして、二両三歩を手にしたが、山雀小利口で、前書きの光俊の歌にあるように「もてあつかふ」(始末に困る)ということになるというのである(今泉・前掲書)。表面的な句意は、「山稜鳥の異名を持つ山雀は胡桃をころころ廻してもてあそぶ習性があるが、その足の一歩でこの師走の忙しい時に、胡桃をもてあそんでいる」。そして、その背後の意味は、「その山雀と同じように、山雀小利口で、師走の資金繰りに困って、山陵鳥ならず、三両を一歩の利子という高利で座頭金を借りて、利子を前払いして、当座の遣り繰りをころころと胡桃のように廻しているが、とどのつまりは、そんな遣り繰りはうまくいかず、仕舞いには、どうにも始末が困ってしまうことになる」というようなことである。これは、其角の「聞えがたき」(意味が分からない)句の、いわゆる「謎句」の範疇に入る句の一つであろう。この種の謎句は、「洒落風」ともいわれ、「一般に芭蕉没後、とくに顕著になる其角独特の作風をさし、武士口調のもじり、世相の風刺などにその一例が見られる」(今泉・前掲書)ところのものであろう。この種の其角の世相風刺などのの句として、前にもその幾つかは紹介したが、次のようなものがある。

○ 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (『五元集』。「見張りの役人に山吹色の小判を与えれば、漁獲禁止の川で、鯉をとっても大目に見てくれる。)
○ 炉開きや汝をよぶは金の事 (『五元集』。大名が炉開きに出入りの町人を呼んで、御用金を申しつける。)
○ 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (『骨董集・山東京伝著』。「元禄六年駒形に殺生禁断の碑立。今なほ存せり。右の句を考るに、哀江頭は杜子美が七言古詩の題なり。哀江の字義をとり此碑立ては、此川の魚のかなしむことはあるまじといへるこゝろならん。蛍の光に碑文をてらすを、車胤が故事などにおもひよせたる歟」。この記述に対し、「京伝の『車胤が故事』は例の『蛍の光、窓の雪』の故事であるが、これは関係なく読んでよいであろう。もし蛍の光で碑文が読めると解すると、京伝も『此碑では』の語のもつ含みも口にしないだけでわかっていたのかも知れない。京伝の時代は、元禄時代の大らかさがない。うっかり、この句の含みまで書いたら、とんでもないことになる世の中であったことを知ってやる必要があろう」と「今泉・前掲書」では解説している。)
○ 窓銭のうき世を咄(けな)すゆき見哉 (『蕉尾琴』。「窓銭」は窓一つにいくらとかかる税金。「うき世」は「浮世」と「憂き世」とを掛けている。窓銭のかかる憂きことの多い浮世の話をしながら雪見をしている。)
○ 夕顔にあはれをかけよ売名号 (『焦尾琴』。「夕顔」は『源氏物語』「夕顔」に出てくる夕顔の君で、頭ノ中将に贈った歌「山がつが垣根荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえている。「売名号」は佛あるいは菩薩の名を書いた名号を書いた札を売ることで、高価に売買されていた。この句には、「祐天和尚に申す」との前書きがあり、綱吉の母桂昌院の尊信を受けていた高位の僧・祐天和尚への風刺句で、「源氏物語の夕顔のようなことにならぬように、祐天和尚の売り名号が高値で売られているのだから、その高値にふさわしく、民衆のことにも、哀れをかけて欲しい」というような意であろう。)
○ 衣なる銭ともいさや玉まつり (『五元集』。「棚経よみにまいられし僧の、袖よりおひねりを落しける、かの授記品の有無価宝珠と説せ給ふ心をおもひて」の前書きがある。「衣なる銭」は、この衣の袖に入れたおひねり(銭を紙で包んでひねったもの)。「お盆の魂祀りのお布施を僧は衣に入れ、それを落としたことに気づかず、大金ならそんなこともなかろうに。ささやかなお金でも、一般庶民には、なけなしのお金を包んだことだろうに」のような意であろう。)

こういう、お金にかかわることや、当時の世相風刺の句は、其角の師の芭蕉は勿論のこと、他の蕉門の面々の中でも、こういうことを主題にした俳人を見付けることは困難であろう。いや、後に、『日本永代蔵』や『世間胸算用』などの「浮世物」などの小説の世界を切り開いていた、談林派の俳諧師・西鶴のものでも、こういうものは、お目にかかれないであろう。こういう、当時の世相風刺の句というのは、其角の独壇場といっても良いであろう。そして、この種の世相風刺の句は、時に、為政者批判のものとなり、それ故に、それをカムフラージュしての正体不明の、いわゆる、謎句が、其角関連の句集の中には随所に見られることになる。これまで、見てきた、其角の名句が数多く見られる、元禄三年刊の『いつを昔』の中にも、「山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉」などの、いわゆる、謎句も見られるが、まだ、どちらかとゆうと、言葉遊びの謎句という趣で、其角の俳友でもあった、英一蝶らの流刑後に見られる、顕著な為政者批判の謎句は、元禄十一年以降に多くなってくる。

(謎解き・五十一)

蘭氏より、国立国会図書館のデジタルライブラリに其角の『句兄弟』が掲載されているということとあわせ、次のような貴重なデータの紹介があった。こころのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、「『予が句先にして、師の句弟と分け、その換骨をさとし侍る』と解説した。ここには、作意が働いた其角の伊達と、閑寂をよしとする芭蕉の差がよく示されている。これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」として、これを、その著の結びとしている。以下、これらのこととあわせ、其角の『句兄弟』を見ていくことにする。
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 其角は『句兄弟』の最後に三十九番目の句として、自分と芭蕉の句を並べ、自分を兄、芭蕉を弟としている。『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。これをもって其角はあえて蕉門の分裂の引き金を引いたのだとする論者もいるようだ。この二句に関しては、『句兄弟』に其角の評、『三冊子』に芭蕉の評、『十論為弁抄』に支考の評が載っている。其角の評の後段の意味がよくわからないが、両者の俳諧観の違いがここに尽きているのかも知れない。支考は両者の本質を見抜いているようだ。
※『句兄弟』三十九番
   兄 晋子
 聲かれて猿の歯白し峯の月
   弟 芭蕉
 塩鯛の歯茎も寒し魚の店
  (or 塩鯛の歯茎は寒し魚の棚)
●其角『句兄弟』 其角の評
※原文:是こそ冬の月といふべきに山猿叫んで山月落と作りなせる物すごき巴峡の猿によせて峯の月と申したるなり。沽衣聲と作りし詩の余情ともいふべくや。此の句(芭蕉が)感心のよしにて塩鯛の歯むき出したるの冷しくや思ひよせられけん。衰零の形にたとへなして、老の果、年の暮とも置かれぬべき五文字を、魚の店と置かれたるに活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし。
 此の句は猿の歯と申せしに合せられたるにはあらず。只かたはらに侍る人海士の歯の白きはいかに猫の歯冷しくてなどと似て似ぬ思ひよりの発句には成まじき事。ともに作意をかすめ侍るゆへ予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る師説もさのごとく聞こえ侍るゆへ自評を用ひずして句法をのぶ。此の後反転して猫の歯白し蜑の歯いやしなどと侍るとも発句の一躰備へたらん人には等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず意味風雅ともに皆をのれが錬磨なれば発句一つのぬしにならん人は尤も兄弟のわかちをしるべし。
※換骨:古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。
●土芳『三冊子』 芭蕉の評
※原文:塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此の句、師いはく。思ひ出すと句に成るもの自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹 といふこそ、心の骨折、人のしらぬ所也。又いはく、猿の歯白し峯の月 といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我老吟也。下を魚の棚とただ言いたるも自句也といへり。
※解釈:この句について師(芭蕉)は、その情景を思い出すと自然に句になるような作品は苦心したのではないから自賛に値しないと言った。鎌倉を生きて出けん初鰹(葛の松原)という句を詠んだときの自分の心中の苦心はいかばかりであったことか、それは人の知らないところだ。聲かれて猿の歯白し峯の月 という句は其角作だ(が同様であろう)。塩鯛の歯ぐきの句は自分の老吟である。下を魚の棚とただ平凡に言った点も(鎌倉の句や其角の句とは違い)自分流の句であると言った。
●支考『十論為弁抄』 支考の評
※原文:されば其角の猿の歯は、例の詩をたづね、歌をさがして、枯れてといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり。祖翁の塩鯛は、塩鯛のみにして、俳諧する人もせぬ人も女子も童部(わらんべ)もいふべけれど、たとひ十知の上手とても及ばぬ所は下の五文字なり。ここに初心と名人との、口にいふ所はおなじなれど。意にしる所の千里なるを信ずべし。
 今いふ其角も、我輩も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも魚の棚を行き過ぎて、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入りをたくむべし。祖翁は、其日、其時に神々の荒の吹つくしてさざゐも見えず、干あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其の頃の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部もすべき魚の棚をいひて、夏爐冬扇のさびをたのしめるは、優遊自然の道人にして、一道建立の元祖ならざらんや。
※参考文献
(1) 『句兄弟』in 珍書百種. 第1巻 / 宮崎三昧編,春陽堂, 明27.8
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(2)『三冊子』、連歌論集俳論集 日本古典文学大系 岩波書店
(3)『三冊子』、日本名著全集 芭蕉全集

(謎解き・五十二)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

一番
   兄 貞室
 これはこれはとばかり花の吉野山
   弟 晋子(其角)
 これはこれはとばかり散るも桜哉

※其角の『句兄弟』は、この貞室との発句合わせで始まる。発句合わせは句合わせともいい、発句(まれには付句)を左右に番(つが)え、優劣を競うもの。判者が勝負を定め、判詞を添えるのが普通の形態である。元禄七年(一六九四)に刊行された、其角の『句兄弟』は、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)。安原貞室は、慶長一五(一六一〇)~寛文一三(一六七三)。京都の生まれ。初め松江重頼に親炙したが、のちに松永貞徳直門の正統派と見なされた。芭蕉らの蕉風俳人に高く買われたことで特に著名である。芭蕉の『笈の小文』の吉野山の条に、「かの貞室が『是はこれは』と打ちなぐりたるに、われはいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし」と記し、また俳諧七部集の『阿羅野』の巻頭に据えた句こそ、この掲出の貞室の句である。其角が、この貞室の句を、この『句兄弟』の発句合わせの冒頭に持ってきたのも、これらの芭蕉との関連なども十分に考慮してのものであろう。この『句兄弟』が刊行された元禄七年の十一月十二日に芭蕉は亡くなるが、其角は、その中巻に、芭蕉の「東順伝」を収載するなど、芭蕉がこの著を閲覧することを前提としての上梓であり、其角一流の細かい配慮も随所に見られるのである。そして、この『句兄弟』に収載されているものは、句相互の優劣を競うというよりも、其角の「本句取り」(意識的に先人の句の用語・語句などを取り入れて作ること)と思われる句(あるいは句相互の制作年次などに基づいて)などを、発句合わせの形態で記述しているようにも思えるのである。そして、この「本句取り」(本歌取り・本説取り)の芭蕉の句も、その『笈の小文』に見られるのである。それは、芭蕉が伊勢神宮に参詣した際の「何の木の花とは知らず匂ひかな」の句で、これは『西行法師家集』の「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる」の「本歌取り」として夙に知られているものなのである。ここらへんのところを、この掲出の貞室の句や、この貞室の句の芭蕉の感慨の文とあわせ、本句取りの見本のような芭蕉の句が見られる『笈の小文』を背景にしての、この其角編の『句兄弟』そのものが、其角らの蕉門の師である芭蕉の基本的な姿勢を踏まえてのものであるということを、其角自身も、そして、この『句兄弟』に接する者の大方が十分に察知させるだけの配慮を、其角は十分に意識しているということを垣間見る思いがするのである。と同時に、掲出の二句の番の句(兄・弟)の判詞のような其角の記述も、判詞というよりも、其角の掲出の句(弟)が貞室の掲出の句(兄)をどのように、「本句取り」をしたのかの、すなわち、どのように、「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること)をしたのかの、その解説文の趣なのである。そういう観点から、この其角の判詞を見ていくと、この貞室の句が、「これはこれはとばかり」と中七の中間で句切れている異体さをそっくり踏襲して、それに続く「花の吉野山」を、「ちるもと桜のうへにうつしたる本 逃句なるべし」と、連句でいう「逃句・遁句」(前句を軽く受け、あらたな展開をうながす付け方)的な手法で、その創作工房の内幕を披露しているということなのであろう。それよりもなによりも、この判詞の後半の部分は、芭蕉に高く評価されたとされている、先にふれた(第四十五)自作の、「明星や桜定めぬ山かづら」の自賛の記述であり、ここらへんのところも、この『句兄弟』が、芭蕉の目に触れることを十分に意識したものであろう。
※※このように、この其角の『句兄弟』は、芭蕉の最晩年にその刊行を企画されたものではあるが、師の芭蕉がここに記述されている全てについて十分に目を通すことをあらかじめ前提にしてのものと理解され(また、そういうことを前提としての編纂者・其角の細かい配慮が随所に見られ)、その発句合わせの最後の三十九番で、「兄・聲かれて猿の歯白し峯の月(晋子)」、「弟・塩鯛の歯茎も寒し魚の店(芭蕉)」とし、その判詞で、「予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る」などの記述も、師・芭蕉に嫌悪感を抱かせるようなものではなかったであろう。まして、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎)の「これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」ということについて、これをストレートに受容することだけは躊躇せざるを得ないのである。また、元禄五年十二月三日付け意専宛ての芭蕉書簡に、其角の掲出の句の後に、「愚句」として、「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」を記しており、創作年次からしても、芭蕉は、其角の掲出の句を意識して作句していることは事実であろう。これらのことから、其角の『句兄弟』の第三十九番の、「兄(其角)・弟(芭蕉)」という配列も、其角は、決して、師の芭蕉を蔑ろにしていないことだけはいえるであろう(ここらへんのところは、後にその第三十九番のところで再度触れることにする)。

※安原貞室のネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の記事は次のとおり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E5%AE%A4

安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。
1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」。


(謎解き・五十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二番
   兄 拾穂軒
 地主からは木の間の花の都かな
   弟 (其角)
 京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶

この「拾穂軒」とは何者なのであろうか。『俳文学大辞典』(角川書店)には、「拾穂軒」の項目はない。『総合芭蕉辞典』(雄山閣)には、この項目こそはないが、「季吟」の解説文の中に、「北村氏。通称、久助。別号を拾穂軒(しゅうすいけん)・湖月亭などと称した」とあり、この掲出の句の作者、拾穂軒は、芭蕉の師とされている、北村季吟その人ということになる(ちなみに、『俳文学大辞典』の「北村季吟」の解説には「拾穂」の別号は見られる)。また、ネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)では、次のように紹介され、別号として拾穂軒の名が記されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%AD%A3%E5%90%9F

北村 季吟(きたむら きぎん、1625年1月19日(寛永元年12月11日) - 1705年8月4日(宝永2年6月15日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。(経歴) 出身は近江国野洲郡北村。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、「山之井」の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業(しみずだにさねなり)に和歌、歌学を学んだことで、「土佐日記抄」、「伊勢物語拾穂抄」、「源氏物語湖月抄」などの注釈書をあらわし、1689年(元禄2年)には歌学方として幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。俳諧は貞門派の域を出なかったが、「新続犬筑波集」、「続連珠」、「季吟十会集」の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。

さて、其角は、季吟の掲出句について、「老師名高き句也」と記している。この「老師」とは「師の芭蕉の師」というようなことであろう。其角の師の芭蕉とこの季吟との関係については、一般には、「芭蕉が一時期季吟を師としたことは確実である。しかし、その時期や二人の関係がどの程度のものであったかは不明である。現存の資料からは密接な師弟関係はうかがえない。少なくとも、芭蕉の俳諧は季吟の影響と無関係に成立したといってもよかろう」(『総合芭蕉事典』)というようなことである。しかし、芭蕉の筆頭の弟子の其角が、その『句兄弟』の発句合わせの二番目に、この季吟を取り上げ、そして、「老師」という名を冠している事実は、季吟と芭蕉との師弟関係を、「現存の資料からは密接な師弟関係はうかがえない」というものを、もっと一歩進めて積極的なものと位置づけても良いのではなかろうか。次に、「名高き句也」と、「地主からは木の間の花の都かな」を記述しているが、この句は、延宝三年八月(『花千句』)のもので(『俳句講座二』所収「北村季吟(野村貴次稿)」)、この延宝三年(一六七五)の前年あたりに、其角は、「芭蕉門に入る(『元禄宝永珍話』)。この前後に、嵐雪・嵐蘭らも入門」(今泉・前掲書)と、俳人・其角のスタートの年とも重なってくるのである。こういう芭蕉や其角の年譜から見ていくと、季吟とこの掲出句などは、芭蕉・其角、そして、蕉門の面々といろいろとクロスしているという趣がする。この掲出句については、スタンダードな参考書の『評釈江戸文学叢書 俳諧名作集(潁原退蔵著)』(講談社)に取り上げられている(また、拾穂軒の別号も記載も見られる)。これによると、「花盛りの頃地主権現(ぢしゅごんげん)の高みから、花の都を見下ろして景色である。それを謡曲の文によって、木の間の花から花の都へと続けたのが句の面白い所。これは『花千句』の巻頭の発句で、正立は、『残る雪かと見ゆる白壁』という脇をつけて居る」との解説が施されている。また、頭注には、「地主 ヂシュ 京都東山清水寺の鎮守の神なる地主権現のこと。謡曲田村に『あらあら面白の地主の花の景色やな。桜の木の間に漏る月の』とある。これらの解説から、其角の「反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたるなり」などの記述の背景が明らかととなってくる。それにしても、この掲出の其角の句(原文には其角の名は空白となっている)、「京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶」は、何とも華麗で、スケールが大きく、いかにも、洒落風俳諧の頭領たる其角らしい句であることか。この発句合わせを見て、つくづくと、其角の換骨の真骨頂を見る思いがする。と同時に、芭蕉も其角も、こういう貞門俳諧の縁語や掛詞などの言葉の技巧を駆使したものからスタートとし、そして、後の、芭蕉の時代になっても、このような貞門俳諧の流れというのは、その本流にあったということは付記しておく必要があろう。さらには、こういう言葉の技巧を最大限に駆使した俳人こそ、其角その人であったということもいえるのかも知れない。

(謎解き・五十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三番
  兄 素堂
 又これより青葉一見となりにけり
   弟 (其角)
 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

『句兄弟』の三番手は山口素堂である。素堂のネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の記事は次のとおりである。

※山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。
[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。

素堂はいわずと知れた、芭蕉と同じく季吟門で、芭蕉より二歳年長の、芭蕉の終世の信頼を置いていた同僚ともいうべき俳人であった。其角(十四歳)が芭蕉門に入門した延宝二年(一六七四)には、三十三歳で、季吟らとの歓迎百韻を今に残している。終始、蕉門にあっては、芭蕉の客分として別格扱いであった。其角とも親しく、其角が二十三歳のときに刊行した『虚栗』では、漢学に強い素堂は、そのバックボーンのような役割を果たしたともいえるであろう。貞享四年(一六八七)の其角の『続虚栗』では「序」を草し、この年には帰郷(『笈の小文』)する芭蕉に餞別の句詩(句餞別)を贈っている。其角の『句兄弟』は、芭蕉の亡くなる元禄七年に刊行されるのだが、この年は、素堂は妻の喪中で、芭蕉が亡くなったときには、大阪に下向せず、江戸で、湖春・露沾・杉風・素龍・桃隣・萍水・岱水・野坡・利牛・利合らと芭蕉追善歌仙を興行している(ここに登場する湖春は、この『句兄弟』の二番手登場する芭蕉の師の季吟の長男である)。また、其角のこの『句兄弟』の冒頭を飾る、「これはこれはとばかり花の吉野山」(貞室)の句が入集されている『阿羅野』には、素堂の傑作句も多く入集されている。この『阿羅野』を編集したのは、尾張蕉門の筆頭俳人であった作為の俳人、荷兮その人であり、ここらへんのところにも、荷兮贔屓の其角のおぼろな影が透いて見えてくる。いずれにしろ、この『句兄弟』の三番手に素堂を持ってきたことは、其角の師の芭蕉への配慮が背景にあることは、これまた透いて見えてくるのである。素堂の『阿羅野』に入集されている句は次のとおりである。

○目には青葉山ほとゝぎす初がつほ (素堂『阿羅野』)
○池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (素堂『阿羅野』)
○綿の花たまたま蘭に似たるかな (素堂『阿羅野』)
○名もしらぬ小草花咲野菊哉 (素堂『阿羅野』)
○唐土に富士あらばけふの月もみよ (素堂『阿羅野』)
○麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (素堂『阿羅野』)

なお、芭蕉と素堂との交流略年譜は次のアドレスのものに詳しい。

http://homepage3.nifty.com/hakushu/sodou-bashou-kouryuu.htm

さて、掲出の素堂の句であるが、素堂の『とくとくの句合』には、次のとおりで掲載されている。

http://homepage3.nifty.com/hakushu/sodou-tokutoku.htm

※其 五   初  夏
左  土龍躓竹子
右  洛陽の花終りける頃
    亦是より若葉一見と成にけり
左、躓の字よろし。
右は其角が句兄弟に見えたり。下の五文字異風ながら不為不可、可為持。

この「青葉一見」は、謡曲の「一見せばやと存じ候」、「亦これより」なども謡曲の口調を背景にしてのものであろう。また、上記の素堂の『とくとくの句合』により、「洛陽の花終りける頃」の感興の一句ということで、素堂自身は「下の五文字異風ながら不為不可、可為持」に対して、其角は、華麗な「つつじ」と「哉留め」で「下五字の云かへにて強弱の躰を分つものなり」とは、いかにも其角らしい思いがする。この素堂の『とくとくの句合』は、芭蕉も其角も没した後の、素堂の最晩年(七十歳の頃)に編まれたもので、素堂没後の享保二十年(一七三五)に刊行されている。これらの其角の『句兄弟』、そして、素堂の『とくとくの句合』を見ていくと、其角が、延宝八年(一六八〇)に、桃青(芭蕉)判詞を得て、杉風編の『常磐屋之句合』と合わせて『俳諧合』として刊行した『田舎句合』などが想起されてくる。この其角の初句合わせともいうべき『田舎句合』は、其角が自作の発句五十句を、「ねりまの農夫」と「かさいの野人」の名で、左右二十五番に合わせ、各番ごとに芭蕉による勝負の判定と判詞を添えたもので、この『田舎句合』で、芭蕉は「予先年吟(季吟)先生にまみえて此事を尋ね侍れば」などの文面があり、当時の芭蕉とそのの師の季吟との関係などが伺えるなど、当時の芭蕉の俳諧観や其角観などが如実に出ている画期的なものとされている(『総合芭蕉事典』)。そもそも、芭蕉が亡くなる年に刊行された、この『句兄弟』は、その其角の処女句合わせの『田舎句合』と、其角の句合わせの「姉妹編」ともいうべき、それらを念頭に置いたことは想像に難くない。そして、芭蕉・其角亡き後、そのお二人の師弟関係を一番よく熟知している素堂が、自分の俳諧関連の総決算として、『とくとくの句合』を、その最晩年に編んだということは、何かしら因縁めいた趣すらしてくるのである。ともあれ、其角が、その『句兄弟』の三番手に、師の最も敬愛して止まなかった素堂を持ってきたということも、これまた、其角の師の芭蕉への配慮だったという思いを深くするのである。


(謎解き・五十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

四番
   兄 粛山
 祐成か袖引(き)のばせむら千鳥
   弟 (其角)
 むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許

この「祐成か袖引のばせむら千鳥」の作者の「粛山」とは何者か。『俳文学大辞典』にも『総合芭蕉事典』でも目にすることはできない。この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」に出てくる、この「粛山」その人なのであろう。『句兄弟』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、先に(第二十二の四十二)触れた松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。その先に触れたところを下記に再掲しておきたい。

再掲(謎解き・二十二)
○ 御秘蔵に墨をすらせて梅見哉 (其角『五元集』)
四十二 『五元集』の冒頭の句である。「四十の賀し給へる家にて」の前書きがある。この四十歳の祝宴の家は、松平隠岐守の重臣・久松粛山の邸宅といわれている。「御秘蔵」は殿様御寵愛の御小姓であろうか。その御小姓に墨をすらせて悠然と梅見をしている光景である。こういう句から、しばしば、其角は、幇間俳人などとの風評の中にある。しかし、実態は、一俳諧師の其角が大名クラスの貴人と対等に渡り合って、むしろ、その御寵愛の御小姓を顎で使っているような、反骨・其角の真骨頂の句と解すべきなのであろう。

この久松粛山について、下記のアドレスで紹介されている。「愛媛の偉人・賢人」の紹介のもので、後に、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐と続く「(愛媛)俳句王国」が今に続いているが、その元祖のような「高名の士」とももいえるであろう。

http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/031.htm

さて、掲出の粛山と其角との二句、これは『曽我物語』で名高い「曽我兄弟の仇討ち」の「祐成」と「虎が雨」の句であろう。「虎が雨」の季語の解説には、「陰暦五月二十八日は曽我兄弟が討たれた日で、この日降る雨は、十郎祐成の愛人、大礒の遊女虎御前の涙が雨になったという言い伝えがある。俗説から出た古風な季題だが、それなりに面白く、いまも俳句に詠まれることが多い。なお、奥州南部地方では、この日三粒でも雨が降ると、曽我の雨といって、曽我五郎が苗代を踏み荒らすといい、それを防ぐために苗じるしに竹を立てる」(『日本大歳時記』)とある。例句として、蕉門俳人の路通や小林一茶のパトロンの一人でもあった成美の句が掲載されている。

○ 草紙見て涙たらすや虎が雨  (路通)
○ 夜の音は恨むに似たり虎が雨 (成美)

この一茶のパトロンの夏目成美なども江戸蔵前の札差で豪商であるが、其角を取り巻くパトロン群は、この粛山始め紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門と実に豪華絢爛たるものである(これらについては、下記のアドレス(第三十二)などで触れた)。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_23.html

それにしても、粛山の句(兄)を「本句取り」にしての其角の句(弟)は、その判詞に、「兄の句に寒しといふ字を含みて聞へ侍れハ(ば)こなたの句弟なるへ(べ)し」にあるが、句の言外の「寒し」の意を感じとっての、いわゆる、連句の「匂付け」のごときものの趣がする。また、この四番手に、久松粛山を持ってきたのも、いかにも、気配りの其角らしい思いがする。なお、『曽我物語』関連のものは、下記のアドレスに詳しい。

曽我兄弟の仇討ち

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1#.E9.96.A2.E9.80.A3.E9.A0.85.E7.9B.AE

曽我祐成

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E7%A5%90%E6%88%90

虎御前

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%BE%A1%E5%89%8D

金曜日, 3月 23, 2007

其角とその周辺・四(三十三~四十五)


画像:英一蝶

(謎解き・三十三)

○ 蓑虫の音(ね)を聞(きき)に来(こ)よ草の庵 (芭蕉)
○ 枯枝にさがる蓑虫が冬空にしみわたり    (一蝶)

六十 掲出の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。嵐山氏は、この芭蕉の句について、「これは、貞享四年(一六八七)、深川芭蕉庵での吟である。のち、伊賀上野の弟子土芳が新庵を造ったとき、この句を贈って庵は「蓑虫庵」と名づけられた。『悲しげに鳴く蓑虫の声を聞きに、わが庵へ来い』という芭蕉の呼びかけに感動した一蝶は『枯木蓑虫図』を描いて応えた」とし、続けて、次のように記している。「墨一色でよどみなく描かれた絵を見た芭蕉は『まことに丹青淡して情こまやか也。こゝろをゞむれば虫動くがごとく、黄葉落(おつ)るかと疑ふ。耳をたれて是を聴けば、其虫声をなして、秋の風そよそよと寒(さぶ)し』と書き、自句をそえた。ここは、正確には、芭蕉の素堂の「蓑虫説」への「跋」文で、「こゝに何がし朝潮と云有。この事を伝えきゝて」という前文がある。この「何がし朝湖」が、当時の「多賀朝湖」こと、後の、「英一蝶」ということになる(白石・前掲書)。そして、掲出の一朝の句は、「英一蝶年譜」(白石・前掲書)には収載されていないものである。
六十一 上記に続けて、嵐山氏は、次のように綴っている。
○一蝶が三宅島に流罪となったのは元禄十一年(一六九八)で、芭蕉はすでに没している。吉原で遊びまわった罪で十一年の遠流は重すぎるようだが、ならば、其角はどうなるのか。其角は幕府を挑発する句を詠んでいるから流罪すれすれのところにいた。そういった遊び人種中が蕉風の俳趣味を第一としていた。俳諧は俗文学なのである。罪人すれすれのところに成立した。芭蕉を「悪党」としてしまったのは、申し訳ないが、そういう意味であると了解願いたい。芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。芭蕉の凄味は連句の場でぬっと顔を出す。江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。芭蕉が没する前年の元禄六年(一六九三)、幕府が出す「生類憐れみの令」はますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣船営業停止となった。其角はそれをからかった句を詠んでいる。「奥のほそ道」のあとに、芭蕉が旅しようと考えていたのは長崎である。長崎は去来の故郷であった。江戸へ下ったとき、芭蕉の目にとまったのは紅毛人のカピタンであった。長崎はまるごとカピタンの町で、悪所でもあった。貿易港だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となる者が続出していた。繁栄する都市に犯罪はつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。慾に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が成立する。山国育ちの芭蕉が、京都、名古屋、江戸を拠点にしたのはむしろ自然であった。蕉門の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。
※多くの示唆に富んだ指摘であるが、芭蕉をして「悪党芭蕉」というのなら、其角・一蝶は、正真正銘の「大悪党」だったことだけは、その顔付きを見ただけでも間違いない。

(芭蕉像)

http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1022.htm

(其角像)

http://kikaku.boo.jp/photo.html

(一蝶像)

http://bz5t.asablo.jp/blog/2005/12/28/192720

この画像は不鮮明だが、次の英一蝶が描く「芭蕉像」は自画像にも近いように思われる。

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido112.htm

(謎解き・三十三)

○ 妖(バケ)ながら狐貧しき師走哉     (其角)
○ かくれけり師走の海の鵂(かいつぶり)  (芭蕉)

(六十二) 掲出の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。これらの句は「住捨(すみすて)し幻住庵にはいかなる句をか残されけん、それはそれ、さて世の中をうけたまはるに」の前書きがあり、『己が光』に収載されているものとのことである。これらの句について、嵐山氏は次のとおり記述している。

○其角の句には、師走に化けた狐の貧しき姿を詠んでドラマ性にとみ、花がある。芭蕉は、海にもぐったカイツブリを詠んで、月並みである。芭蕉の句には静寂な孤独があるものの、其角の才気あふれる句に並べると、やぼったくて、かすんでしまう。其角には江戸のしゃれたパワーがある。年があけて元禄五年(一六九二)、芭蕉は曲水へ宛てた手紙(二月十八日吐)に、俳諧者に三等の階級があるとの論を書いている。これを「三等の文」という。
一(最下級) 点取りに夢中になって勝負を争い、風雅の道がわからぬまま俳席をかけずりまわり、さわいでいる営業点者、これにより点者の妻子はぜいたくな生活をし、金銭がたまっていく。

二(第二級) お金持ちの旦那でありながら、目立ったところへは出ず、日夜、二巻三巻と点取りに夢中になり、線香が五分(ぶ)の長さに燃える間に連句一巻をする者。しかし、酒を十分に用意して、貧乏な参加者に飲ませ、点者に金をもうけさせるところはよいとする。
三(第一級) 真の風雅に精進を重ね、他人の評にとらわれず、定家(ていか)の骨髄をさぐり、西行や、中国の白楽天に学び、杜甫の精神で俳諧の道にすすむもの。

※嵐山氏の芭蕉と其角との対比についての見方である。「芭蕉が好きか、其角が好きか」となると、「芭蕉オンリー」で行くと、無性に「其角が恋しく」なるし、「其角オンリー」で行くと、これまた、「芭蕉が恋しく」なってくるという、そんなところであろうか。それにしても、上記の芭蕉の「三等の文」によると、まさしく、芭蕉は、「第一級」の俳諧師と自負していたことであろうが、芭蕉のその見方からすると、其角などは、第二級とも最下級とも思えたのではなかろうか(また、それらしき芭蕉書簡がなくもない)。そして、芭蕉から其角の時代への変遷の過程で、芭蕉のいう、「第一級」の俳諧師は姿を消し、第二級・最下級の俳諧師たちが跋扈していくこととなる。しかし、其角らには、反権威、反権力ということにおいては人後に落ちなかったということだけは顕著に感じる。その其角らが没して、白石悌三氏がいわれるごとく、「悪所に狂い風狂に身をやつす双頭の鷲であった天和の青春は、息の根をとめられ、飼いならされた俳人群は体制内に身分を保障された宗匠として、江戸座を編成し秩序の安定を計る。一蝶が深川の昔を懐かしむ心境を世の常の老境と見なしてはなるまい。牙を抜かれた一蝶が、旧作の『十二ケ月風俗図』の『跋』に『今ヤ此ノ如キ戯画ヲ事トセス』と記したのは享保二年のことであった」(白石・前掲書)。そして、その享保の幕開けの年(享保元年)に、与謝蕪村は誕生する。

※ 芭蕉の「風雅三等之文」などは、次のアドレスのものが面白い。

http://members.jcom.home.ne.jp/fuga-buriki-can/genrokuya-haiku-can3.htm

バショウが、入門して間もないヒコネ(彦根)の藩士キョリク(許六)に宛てた元禄七年二月の書簡には、各地各派の蕉門を比較した辛辣至極な激辛寸評が添えられている。
――キカク(其角)・ランセツ(嵐雪)のエド蕉門は「年々古狸よろしく鞄(つつみ)打ちはやしている」、トウリン(桃隣)は「愚風に心よせ、所々点取り俳諧の詠み口が交ざっている」、センポ(沾圃)は「力なき相撲取りの手合せを見事にしただけ」、ミノ(美濃)蕉門は「かるみを底に置いている。世上につらを出す風雅の罪はゆるしておこう」、ゼゼ蕉門は「跡先見ずに乗放たれている。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしい」、ヒコネ蕉門は「世上の人をふみつぶすべき勇躰、あっぱれ風雅の武士の手業なるべし」。


(謎解き・三十四)

○ 武士(もののふ)の大根苦き話哉  (芭蕉)
○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)

(六十三) 掲出の一句目の芭蕉の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。この句関連の氏の記述は次のとおりである。

○ 元禄六年(一六九三)三月、猶子桃印が死んだ。六月、幕府は、江戸の不法滞在者をあぶ
り出すために、各町の人別帳を提出させた。町人人口は三十五万人余。桃印は不法滞在者だから、あぶないところだった。七月、八月、九月とたてつづけに「生類憐れみの令」が頻発された。そんな最中に西鶴が没した。閉関した芭蕉は、ようやく『奥の細道』を書き終えた。西鶴についで旧弟子の嵐蘭が四十七歳で死に、其角の父東順も七十二歳で死んだ。冬になると藤堂家藩士藤堂玄虎亭にて表六句の句会がある。芭蕉の発句は、「武士の大根苦き話哉」、終日、大根を食いつつ武士のつきあいの愚痴をきいた。

この芭蕉の「武士の大根苦き話哉」関連の次のアドレスの記事が実に面白い。

http://members.jcom.home.ne.jp/fuga-buriki-can/genrokuya-haiku-can3.htm

○「モノノフノ・ダイコンニガキ・ハナシカナ」の「苦き話」を噛みつぶす思いなどは、あのラ・マンチャ村の老郷士を描いたセルバンテス翁の人生的憤懣を想起させる。
〔セルバンテスとバショウ――ニッポンで言えば、戦国時代の余燼が残る1605年に、滑稽の騎士ドン・キホーテの物語を世に問うたセルバンテスの文学に至るキャリア、それはどうにも波乱万丈で、凄まじかった。――セルバンテスは若き日、レパントの海戦で勇猛果敢に戦ったが、帰路、海賊の捕虜となり、五年間の奴隷生活を余儀なくされた。四度も脱走を試みたがことごとく失敗。また、海戦時の負傷により左手が利かなくなったことを終生の誇りにしたともいう。復員兵としてひどく遅れて祖国スペインに帰還してからのセルバンテスの生涯は、さらに不遇を極めた。三十八才で処女小説や戯曲を書くが作家になれず、十八も年の違う妻を娶ってうまく行かず、四十にして「私は筆を捨て劇作をなげうった。他になすべきことがあったからである」と不本意な就職をする。無敵艦隊の食糧調達人としてアンダルシア地方を彷徨、あげ句の果てに、教会と小麦購入の件で問題を起こして破門され、もっとましな仕事をと国王にアメリカ地域の官職を願い出て「他に適当な職を求められよ」とあっさり拒絶される。代わって、税金の徴収吏の職を得たが、集金を預けた銀行が破産し、五十才のとき投獄された。こうした不遇いっぱいの散々な人生を歩む五十男が、監獄の中から夜空の星を見上げながら、「多数の連中に持てはやされているああいう騎士道に関する群書の、根太(ねだ)のゆるんだ楼閣を覆す」意図を抱いて、あの稀代の風車に突撃する騎士像ドン・キホーテを発想したのである。そこには「跡先見ずに乗放たれている」「風雅の武士」を推奨したバショウ翁と共鳴する、孤立し切って大いに高ぶった一個の精神が認められる。老いてなおのこと、サムライイズムである。ちなみに、「武士の大根苦き話哉」の句は、元禄六年(1693年)冬、バショウが、イガ(伊賀)城付きのトウドウ(藤堂)藩士のトウドウ・ゲンコ(藤堂玄虎)をそのエド上屋敷に訪ねた折の作。大根が苦いのはシニグリンという物質が酵素(ミロシン)の働きで分解し、生じた芥子油による。昔の大根は総じて辛かったらしく、大根といえば辛い印象が強かった。バショウには、「身にしみて大根からし秋の風」(1688年)なんて作もある。〕

(六十四)ここで、たびたび話題となっている其角の「日本の風呂吹といへ比叡山」に関連して、この「比叡山」は、五代将軍綱吉が造営した徳川家の菩提寺でもある寛永寺の根本中堂、すなわち、「東叡山・寛永寺」のその「(東)比叡山」に関連すことのように思えてきたのである。『悪党芭蕉』中にも、「綱吉は、土木マニアでもあって、護国寺、寛永寺根本中堂、湯島聖堂の造営をはじめ、日光東照宮の修復事業とつぎつぎと命じた」とある。これが、『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」になると、「元禄十一年八月二日竣工した東叡山の根本中堂の普請は、徳川時代の前後を通じての大きな造営の一つだが、紀文はそれに要する木材を請け負ったばかりで五十萬両の利益を得たと称せられている。此の時紀文は三十四歳であった」との其角門の俳人千山こと「紀伊国屋文左衛門」に関連する記述がある。この元禄十一年こそ、英一蝶らが流罪となったその年なのである。今までに見てきたところの、其角の、反綱吉、反幕府の姿勢は顕著なものがあり、この観点から、この掲出二句目の句意は、さしずめ、「綱吉が造営した、東叡山根本中堂などは、比叡山の天台根本中堂に比すると、日本天台宗の母山ならず、日本風呂吹き大根の母山のようだ」との、「東叡山根本中堂」と、それを造営した「綱吉」への揶揄を背景にしているように思えてきたのである(なお、この掲出句に関連しては、第十~第十三などを参照)。さて、さて、「五代将軍綱吉と大根」とは、何と大きな接点があったのである。また、綱吉が「東叡山寛永寺根本中堂」を造営したことにより、実質的に、「比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺」の三山は、「東叡山寛永寺」の「輪王寺宮」が統括することにより、それらの揶揄も包含しているように思えてきたのである。

(練馬大根と将軍綱吉)

http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/rekishi/goten.html

五代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)であった頃、脚気を患った。その療養のため、陰陽師に占わせたところ「馬」の字のつく土地で療養すると良いという。豊嶋郡の練馬が方角もよいということで、御殿を建て療養した。この時、大根は脚気にもよいとのことで、尾張から種を取り寄せ、近在の百姓、大木金兵衛に作らせたところすばらしい大根が出来、病気もよくなった。将軍となった後も村民に大根を栽培させ、献上させたという。

(寛永寺と徳川将軍家墓)

http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/kanneiji.html

天海のあと、三代目からの山主には必ず皇子もしくは天皇の養子がなることになった。これが輪王寺宮(りんのうじのみや)で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の三山を統轄した。鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権としてにぎっていた。徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生をはかったのである。現在、上野公園の噴水のあるところ、ここは竹の台と呼ばれた処であるが、将軍綱吉によって根本中堂がここに建てられた。輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにあったのである。

(寛永寺・根本中堂)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA

http://www.asahi-net.or.jp/~dz3y-tyd/tera/kaneiji/kaneiji.html


(謎解き・三十五)

○ 武士(もののふ)の大根苦き話哉 (元禄六年・芭蕉)
○ 初鰹カラシが無くて涙かな     一蝶の贈句
○ そのカラシ効いて涙の鰹かな    基角の答句


(六十五) 掲出の元禄六年の芭蕉の句には、「菜根を喫して終日丈夫に談話す」との前書きがある。この「丈夫」は、「藤堂長兵衛守寿をさす。俳号、玄虎。千五百石で上野藩士」(井本農一校注『松尾芭蕉集(一)』)。中国の『菜根譚』の「丈夫ハ菜根ヲ喫ス」を踏んでいる。
この元禄六年は、芭蕉没年の一年前で、芭蕉・其角・一蝶らにとって大きな出来事があった年でもあった。先にも触れたとおり(第三十四)、三月に、芭蕉の猶子桃印が亡くなり、七月、八月、九月とたてつづけに「生類憐れみの令」が頻発された。そんな最中に、大阪では西鶴が没し(享年五十二歳)、閉関していた芭蕉は、『奥の細道』を書き終える。其角の父東順が七十二歳で亡くなったのは八月二十八日、一蝶の第一次の入牢もこの八月に起こっている。其角は父追悼集の『萩の露』を刊行する。一蝶らの罪因の一つにあげられているのが、この年の夏に江戸市民の間に盛んに流布されていた「馬の物言う」という流言に関してのものであった。この「馬が物言う」についても、先に触れた(第三十)。ちなみに、それを再掲すると次のとおりである。
(第三十・再掲)〔「馬が物を言う牛が物を言うという、戯作を書いただろう」これは将軍綱吉の生類御憐れみの法度を皮肉るもの。馬が物を言うとは将軍綱吉のことを指す。彼は将軍になる前は館林右馬頭と名乗っていた。牛が物を言うとは柳沢吉保のこと、彼の幼名が牛之助だったからだ。〕
この戯作を書いた真犯人は無宿浪人(実は幕臣近藤登之助組与力筑紫新助の弟)筑紫園右衛門といわれ、翌年三月に逮捕され斬首の刑に処せられている(『日本美術絵画全集一六・守影/一蝶』所収「一蝶伝記・一蝶画業」・小林忠稿)。この「馬が物を言う」の一事を取っても、当時のご時勢が、士農工商のいずれの面々においてもも大変なご時勢であったということは容易に想像ができる。掲出の芭蕉の句もそんな時代背景を考えながら鑑賞していくのも、これまた一興であろう。ちなみに、この句は、「武士(もののふ)の大根からしはなしかな」(『金蘭集』)の「苦き」ではなく「からし」の句形のものもある。
(六十六) 続く掲出の二句目(一蝶の贈句)と三句目(其角の答句)について、この両句についても先に触れたが(第三十二)、この両句は、元禄十一年に、一蝶らが再び入牢し、三宅島に流罪になった以降の、一蝶と其角との往復書簡の中でのものらしく、これらが『三橋雑録』で、「一蝶配流ノ後、其角ノ許ヘ送リシ発句ニ、初松魚カラシモナクテ涙カナ 其角カヘシニ、其ノカラシキイテ涙ノ松魚カナ」と収載されているという(小林・前掲書)。そして、その流罪中での、一蝶の作品、「「布晒舞図」についても、それが所蔵されている遠山記念館のアドレスなどを先に紹介したが(第三十一)、その「布晒舞図」を詳細に見ていくと(小林・前掲書)、その落款が、「藤牛麻呂」とある。そして、この「藤牛麻呂」は、一蝶の流罪中時代の三宅島での作品(島一蝶時代の作品)に多く見られる落款なのである。この「藤」は、一蝶の氏が、「藤原」または「多賀」で、その氏の一つの「藤原」の、中国流の一字の姓にしての「藤」と解せられるのだが、この「牛麻呂」とは、「生類憐れみの令」に関しての流言の「馬が物言う。牛が物言う」の「牛」こと、五代将軍綱吉の実権者の一人の御用人・柳沢吉保の幼名・牛之助を捩ったものなのではなかろうか。さらに、先に紹介した、一蝶の「布晒舞図」に関連して、下記のアドレスに、一蝶は、「日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の信者だった」のではないかとの、兵庫女子短大の助教授だった永瀬恵子氏の見解についても触れられているのである(この永瀬説では其角も「日蓮宗不受不施派」とも思われる)。これらのことも、その真偽はともかくとして、一蝶・其角ら(特に、一蝶)を理解するうえで、興味のある貴重なデータの一つであろう。

http://www.ne.jp/asahi/aoyagi/sky/hanabusa1.htm

○一蝶が好んでかいた「雨宿り」を手がかりにして、ユニークな説を打ち出したのが兵庫女子短大の助教授だった永瀬恵子さんだ。 大きなお屋敷の門の軒先で、雨をよける人々がいる。武士もいれば、魚屋、獅子舞(ししまい)、物売り、女、子ども……。雨は等しく、だれにも降りそそぐ。軒の下ではまったく同じ。そこに身分の差はない。
「乗合船図」の例(省略)
 「乗合船図(のりあいぶねず)」も多く描いている。渡し船なのだろうか、やはり多様な人々がいる。坊さん、女、武士……。小さな船に身を預け、目的地に向かう条件はみな同じ。文字通り呉越同舟。船の上で運命共同体になっている。「一見、どこにでも見られる何げない風景のようで、現実にはありえない虚構の風俗である」。永瀬さんは1990年、雑誌「日本美術工芸」に毎月連載した「一蝶拾遺」で、こう述べている。さらに踏み込んで、「日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の信者だった」という説に答えを見いだした。それが狩野派の破門につながり、権力を批判的にみる姿勢の根底にあったと推測する。不受不施とは、法華経を信仰しない者から施しを受けない、また他宗他派の者に施しを一切しないという宗派のことだ。強い平等思想をもっており、江戸幕府はキリスト教とともに禁教として弾圧。多くの僧を島流しにした。岡山県御津町に今も本山がある。 雨宿り図や乗合船図には、必ずどこかに黒い衣装の坊さんが描かれている。「不受不施を貫いた僧は法中(ほっちゅう)とよばれ、寺を追われて流浪の僧となる。この地下潜伏の法華経の行者、不受不施僧ではないか」。連載で永瀬さんが示した視点と分析は次々と新鮮だった。京都国立博物館の狩野博幸美術室長もかねて、一蝶に不受不施の影をみてきた人だ。「いん庭雑録(いんていざつろく)」という江戸時代の随筆の中で、大田南畝(なんぽ)がそういったと書いてあることも根拠だ。「幕府の役人だった人の言葉です。かなりの信憑性(しんぴょうせい)をみていい」。三宅島で絵を描き続けられたのは、絵の具などの補給に宗派からの支援もあったからではないか、ともいう。一蝶が芭蕉門下で親友だった其角には、「妙(たえ)なりや法(のり)の蓮(はちす)の華経(はないかだ)」という句があり、妙法蓮華経がよみこまれている。「俳句だけでなく、信者たちがもつ結束性によるところも大きかったのではないか」と永瀬さんは書いた。 「四季日待(ひまち)図巻」。一蝶がやはり三宅島で描いた作品だ。その書き込みによれば、島の人ではなく、江戸の友人の求めに応じて描いた。日待ちとは、夜を徹して遊ぶ元禄期の遊楽の様子だが、もともとは潔斎精進して日の出を待つ宗教行事。永瀬さんは、「日待講は同じ信仰をもつ集団の結束を固める意味がある」ことをあげて、この絵をかいた経緯にも宗教的連帯感を感じ取った。

(謎解き・三十六)

一  青のりや浪のうづまく摺小鉢 (暁雲、二十七歳、延宝六年、『江戸新道』)
二  中宿や悪性ものゝ衣がへ (暁雲、二十九歳、延宝八年、『向之岡』)
八  暮春の夜ル土圭(とけい)を縛(シバ)る心哉 (暁夕寥、三十歳、天和元年、『東日記』)
一一 ひるがほの宿冷飯の白くなん咲る (同上)
一五 袖つばめ舞たり蓮の小盞(こさかづき) (暁雲、三十二歳、天和三年、『虚栗』)
一六 うすものゝ羽織網うつほたる哉 (同上)
一七 あさがほに傘(からかさ)干(ほし)ていく程ぞ (同上)
一八 鳴損や人なし嶋のほとゝぎす (同上、『空林風葉』)
一九 採得たし蓮の翡翠花(かはせみ)ながら (暁雲、三十四歳、貞享二年、『一葉賦』)
二二 花に来てあはせばをりの盛哉 (同上、『其袋』)
※  朝寝して桜にとまれ四日の雛(同上・『其袋』)
二三 秋を日に二人時雨の小傘 (暁雲、四十歳、元禄四年、『餞別五百韻』)
※  初松魚(はつがつを)からしもなくて泪かな(配留先にての吟)
二六 牽牛花(あさがほ)のつぼみながらや散あした (七十歳、享保六年、「嵐辞」・『画師姓名冠字類抄』所収)
二七 野分せしばせをは知りつ雨の月 (一蝶、七十二歳、享保八年、「画賛」)
三〇 しばしとて蕣に借す日傘(『画師姓名冠字類抄』)
三二 蝶の夢獏にくわれて何もなし (同上)
三四 舞燕まひやむまでのねぐら哉 (同上)
三六 おのづからいざよふ月のぶん廻し (同上)
三七 清く凄く雪の遊女の朝ゐ顔 (同上)
三八 臼こかす賤(しづ)の男(を)にくし雪の跡 (同上)
三九 呼かけて燗酒一つ鉢叩 (同上)
四四 手鍋する身にや聞さぬか郭公 (同上)

(六十七) 英一蝶(俳号・暁雲)の発句について、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」より、先にその四十四句について見てきた(第二十九~第三十一)。これらの発句について『日本美術絵画全集第十六 守影/一蝶』所収「文献/資料(小林忠編)」では、掲出の句が「一蝶発句二十撰」として収載されている(掲出句のうち、和数字のものは白石前掲書により、※のものは小林・前掲書による)。ここで、あらためてその代表的な発句を見て、一蝶の俳諧関連の作品は、延宝六年(二十七歳)の頃から元禄四年(四十歳)の頃が主で、それと若干の晩年の享保八年(七十二歳)以降の作品が見られるということである。これを、一蝶の画業時代との対比で見ていくと、その画業は、第一期・配流以前(延宝~元禄)、第二期・三宅島時代(元禄~宝永)、第三期・江戸再帰、晩年(宝永~享保)の三区分とされ(小林・前掲書)、その第一期に、すなわち、俳人・其角や嵐雪などの蕉門俳人との交遊関係を通してのものが主であったということができよう。と同時に、その交遊関係からの創作活動ということで、その俳諧への親炙の傾向はうかがい知ることができるが、あくまでも、画業に従たる世界のものであって、俳諧・発句関連を単独の独自の世界として見るには、余りにも作品群が少な過ぎるということはいえるであろう。それにしても、一蝶の場合は、最も油の乗っている四十代から五十代にかけての時代(十一年間)が、流人として絶海孤島の島にあったということは、余りにも、過酷な試練の運命にあったということを思い知るのである。
(六十八) さて、上記の「一蝶発句二十撰」のうち、一蝶(暁雲)、三十二歳のときの、其角編『虚栗』にその三句が入集した頃が、俳諧・発句関連の頂点であったということもできよう。其角が芭蕉門にあって、この『虚栗』を世に問うたのは、実に、その二十三歳のときであり、いかに、其角が芭蕉門にあって飛び抜けた才能の持ち主であったということと、そして、共に、抜群の才能の持ち主である、一蝶と其角とが、相互に、肝胆相照らす同胞に成った、その必然性をも見る思いがするのである。この其角の『虚栗』関連のところを『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、次のように記述している。
○漢詩漢文調を主とした天和期蕉門を代表した撰集である。芭蕉を筆頭に、幻吁(げんく)(大巓和尚)、三峯(高橋文治郎)、杉風(芭蕉のスポンサー)、信徳(京の俳諧師)、卜尺(江戸住、町名主)、嵐蘭(江戸住、武士)、嵐竹(浅草在、嵐蘭の弟)、北鯤(石川氏、桃青二十歌仙の一人)、李下(深川の庵に芭蕉を植えた俳人)、枳風(浄土真宗の説教僧)、仙化(『蛙合』の編者)、才丸(西鶴の弟子)、嵐雪(蕉門の高弟)、木因(大垣の豪商、芭蕉のスポンサー)、東順(其角の父)、宗因(談林派の宗匠)、素道(芭蕉の親友、学識深き教養人)とそうそうたるメンバーである。所収の発句四百三十余、漢句三、連句は歌仙八、二十五句一、三ツ物六で、句は四季別に、「季よせ」ふうに並べられている。ここに出てくる其角の句は、「傘にねぐらかさうやぬれ燕」 この句は、のち『五元集』では、「ねぐらかさうよ」と訂正された。「傘にねぐらかさうよぬれ燕」は、元禄の町衆が好んで口ずさみそうな花がある。雨に濡れた燕を見るたびに、「ほら、この傘に入っておいでよ」とよびかけたくなる。この軽妙な息は芭蕉が晩年にたどりついた「軽み」に通じ、その意味では、其角は芭蕉が到達した地点から出発した俳人といってよい。
※ここに出てくる『虚栗』のメンバーというのは、それは即、芭蕉をとりまく、当時の芭蕉ネットワーク上の人たちといっても良いであろう。そして、一蝶もまたその一人であったといっても良いのであろう。これらのメンバーの全てが、当時の、二十三歳という若輩の、其角に、その撰集の任に当たらせたということは、その責任者ともいえる芭蕉その人の眼識とともに、其角の才能の非凡さを、メンバーの皆が、それを認めていたということに他ならないであろう。

(謎解き・三十七)

ここで、芭蕉俳諧の頂点にあるといわれる、その『猿蓑』(去来・凡兆編、其角序)とそこに入集している其角の句を見ていくことにする。

(六十九)『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……芭蕉の本業は俳諧興行にあり、その総集編が『猿蓑』に結実した。『猿蓑』撰が構想されたのは元禄三年(一六九〇)夏で、芭蕉は四十七歳であった。『ほそ道』の旅から帰ってきたが、まだ、そちらの原稿は仕上げていない。『猿蓑』編集完了までは一年を要した。この間は『ほそ道』の元原稿には手をつけるひまがなかった。なにしろ「俳諧古今集」を編集しようというのだから、芭蕉は全力を傾けた。発句の部は百八人、三百八十二句を収めた。ここで選ばれた百八人が、芭蕉が認定した俳人である。百八という数は、人間の煩悩の数である。百八人の入集のうち七十一人までは一句のみしか入っていない。百八人から落ちた門人は、さぞかし無念の思いであったろう。

(七十) (猿蓑・其角序)

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino.htm

   晋其角序
俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや*。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。

(七十一)

(猿蓑・巻之一「冬」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino1.htm

○ あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲    其角
<あれきけと しぐれくるよの かねのこえ>。時雨の降る夜半、「あの鐘の音を聞いて」と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。(時雨・冬)。上記の人事句的な解よりも、「時雨の降る夜半、折しも遠寺の鐘の音が、『時雨の声に耳を傾けよ』と告げている思いがする」の景気の句とする解の方が妥当かもしれない。

○はつしもに何とおよるぞ船の中    其角
<はつしもに なんとおよるぞ ふねのなか>。「淀にて」の前書きがある。京都伏見にて詠んだ句。「およる」は「寝る」の尊敬語。淀川の三十石舟が大坂から上がってきた。初霜の降りる寒い朝。船中で人々はどう眠ったのかしら? (はつしも・冬)。小唄の「船の中には、何とおよるぞ、苫をしき寝に樽を枕に」(松の葉)を踏まえたものであろう。

○歸花それにもしかん莚切レ     其角
<かえりばな それにもしかん むしろぎれ>。「帰花」は返り咲きの花のこと。そんな花がちらほら咲いている小春日和の日。庭にむしろを敷いて花見としゃれこもうかしら。(帰花・冬)。「それにも」は「時雨かと聞けば木の葉の降るものをそれにもぬるるわが袂かな」(『新古今集』)を踏まえているか。

○雑水のなどころならば冬ごもり    其角
<ぞうすいの などころならば ふゆごもり>。「翁の堅田に閑居を聞て」の前書きがある。「雑水」は「雑炊」のこと。「千鳥なく真野や堅田の菜雑水」(千那)がある。「などころ」は「名所」。其角にとって堅田は父の郷里で、元禄元年10月に千那の案内で堅田を訪れている。一句は、元禄3年のこと。芭蕉翁が堅田に冬籠りと風の頼りに聴いたが、あそこは温かい雑炊の名所だからさぞや暖かい冬を過ごしておられることであろう。ただし、芭蕉は元禄3年9月16日に堅田に行き、そこで風邪を引いて、25日には義仲寺に戻っていて冬ごもりにはなっていなかった。(冬ごもり・冬)。堅田名物「雑魚増水」(七部集打聞)などが知られている。

○寝ごゝろや火燵蒲團のさめぬ内    其角
<ねごころや こたつぶとんの さめぬうち>。コタツにかけていた布団を寝るときに使うというのはほかほかと暖かくて気持ちのよいものだ。ささやかだが至福の時でもある。この句を、膳所に居た芭蕉に送ったところ芭蕉が作ったのが「住みつかぬ旅のこゝろや置火燵」であったといわれている。(火燵布団・冬)。

○この木戸や鎖のさゝれて冬の月    其角
<このきどや じょうのさされて ふゆのとき>。江戸の街の木戸。酔っ払って夜更けて木戸まで来たらすでに錠が下ろされて通れない。江戸の木戸は、卯の刻に開けて、亥の刻に閉める。木戸のそばには木戸番の家族が居て開け閉めを担当した。この句、「柴の戸」と印刷されそうになって芭蕉の強い意見で訂正されたことが「去来抄」にある。(冬の月・冬)。
「鎖のさゝれて」は『平家物語』月見「惣門は鎖のさゝれて候ぞ」による。

○はつ雪や内に居さうな人は誰     其角
<はつゆきや うちにいそうな ひとはたれ>。初雪にうかれて家を出てきたものの、誰だって初雪に家などに居るわけはないので、こうして出てきてはみたものの何処へ行けばよいのか? (はつ雪・冬)。『五元集』には「立徘徊」との前書きがある。『和漢朗詠集』
の「雪似鵞毛飛散乱、人被鶴氅立徘徊」を踏まえているか。

○衰老は簾もあげずに庵の雪      其角
<すいろうは みすもあげずに あんのゆき>。「草庵の留主をとひて」の前書きがある。「香炉峰の雪は簾を揚げて見る」のであるから、当然雪が降ったら簾を揚げるべきを、芭蕉庵の留守をしている老人ときたら、せっかく雪が降ったというのに、簾を下げっぱなしでいる。なんとまあ。一句は、『奥の細道』後の上方滞在で庵主芭蕉の留守する雪の日に見舞ったときの吟。(雪・冬)。この「衰老」を日頃そう自称していた芭蕉自身とする解もある。「香炉峰雪撥簾看」(『和漢朗詠集』)を踏まえているか。

○夜神楽や鼻息白し面ンの内       其角
<よかぐらや はないきしろし めんのうち>。「住吉奉納」の前書きがある。和歌の神様でもあった摂津の住吉神社に奉納した一句。夜神楽を見ていると面の鼻の穴から白い息が噴出している。熱演しているのであろう。(夜神楽・冬)。

○弱法師我門ゆるせ餅の札       其角
<よろぼうし わがかどゆるせ もちのふだ>。「弱法師」は乞食のこと。年末になると現れて民家に餅を所望する。餅をくれる家と、呉れない家を区分する札を貼って歩く。一句は、当方には乞食にやる餅代が無いので貼り札はご勘弁をと言っているのだが、さりとて呉れない札を貼られるのも其角にとっては面子が丸つぶれであったであろうに。(餅の札・冬)。

○やりくれて又やさむしろ歳の暮    其角
<やりくれて またや さむしろ としのくれ>。気前よく人に呉れてやって、いざ年の暮れになってみると自分のものといったらたった一枚のむしろ(筵)だけの素寒貧だ。(歳の暮・冬)。其角の当時の姿が彷彿してくる。

(謎解き・三十八)

(七十二) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……巻頭を冬ではじめ、和歌撰集のように春夏秋冬の順にしなかったところに、俳諧新風をめざすなみななみならぬ工夫が見られる。冬のつぎに春ではなく夏として、冬夏秋春と意表をついた配列である。発句となった「初しぐれ」の句は、『ほそ道』の旅のあと、故郷の伊賀に帰る山中で得た吟である。『ほそ道』続編の吟が、『奥の細道』刊行前に出たことになる。山中で時雨にぬれた猿に出会った芭蕉は、「猿よ、おまえも蓑がほしいのだろう」と思いやった。時雨に濡れそぼった猿の姿に、芭蕉は自分を見ている。『猿蓑』という題はここより採った。『猿蓑』の其角序に、「我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり」とあるのはそのことをさしている。こういう序を書かせると其角はやたらとうまい。

(七十三)

(猿蓑・巻之二「夏」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino2.htm

○有明の面おこすやほとゝぎす     其角
<ありあけの おもておこすや ほととぎす>。百人一首に「時鳥鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣)が参照されている。春の有明に西の空を見れば有明の月が山の端に残っている。ここで時鳥が鳴けば百人一首の情景が再現されるのにと思っていると、本当に時鳥の声。有明の月が面子をほどこした。(ほととぎす・夏)。

○花水にうつしかへたる茂り哉     其角
<はなみずに うつしかえたる しげりかな>。「四月八日詣慈母墓」の前書きがある。其角の母は貞亨4年4月8日死去。前書きの四月八日はこれをさす。墓を覆う若葉の茂り、それが手桶の水に反射している。その水を墓石の花入れに移す。(茂り・夏)。

○屋ね葺(ふき)と並でふける菖蒲哉      其角
<やねふきと ならんでふける しょうぶかな>。「五月三日、わたましせる家にて」の前書きがある。前詞の「わたまし」というのは「転居」のこと。この人は、端午の節句の前の三日に引越しをしたのであるが、あいにく未だ新居の屋根が噴き終えてなかった。そこへ五月五日の節句がきたので、屋根葺きと一緒に菖蒲を葺いたというのである。(菖蒲ふく・夏)。

六尺も力おとしや五月あめ      其角
<ろくしゃくも ちからおとしや さつきあめ>。「七十余の老醫みまかりけるに、弟子共こぞりてなくまゝ、予にいたみの句乞ひける。その老醫いまそかりし時も、さらに見しれる人にあらざりければ、哀(あわれ)にもおもひよらずして、『古来まれなる年にこそ』といへど、とかくゆるさゞりければ」の前書きがある。古稀で死んだ老医への手向けの句を依頼されたものの、当人と一度も会ったことも無いので断ろうとしたがことわれずに作ったというのである。ここに「六尺」は、この医者を生前乗せて運んでいた駕篭かきのこと。医者の死で彼らは失職してしまったのである。だから、力落としなのだろうというのだが、無礼千万な句ではある。しかも、七十と六尺と五月雨と数字を並べた語呂合わせもしている。(五月あめ・夏)

○みじか夜を吉次が冠者に名残哉    其角
<みじかよを きちじがかじゃに なごりかな>。「うとく成人につれて、参宮する從者(ずさ)にはなむけして」の前書きがある。前詞の「うとく成人につれて<うとくなるひとにつれて>」は有徳であるといわれている人に付け人してという意味。若者をこの人につけて伊勢参りをさせるという設定。短い夏の夜どおし若者との別れを惜しんだ。この情況はあたかも源義經が金売り吉次について上京したときとそっくりだというのであるが、ここには男色の匂いがあるようだ。(みじか夜・夏)。


(謎解き・三十九)

(七十四) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……『猿蓑』発句集は「初しぐれ」(冬)の句より入って、「行春」(春)に至る芭蕉の一年間の心境をたどる流れで構成されている。その間にはさまれた百七人は、すでに故人となった藤堂良忠こと蝉吟も入っている。蝉吟は若き日の芭蕉(宗房)の主人で、俳諧の兄である。芭蕉はこの期に及んでも、蝉吟に礼をつくしている。「冬の部」(九十四句)では、芭蕉のつぎは筆頭高弟其角、千那(近江堅田本福寺住職、蕉門歴六年)、丈草(尾張犬山藩士を辞して隠棲)、正秀(近江膳所藩士)、史邦(尾張犬山城侍医、芭蕉を長く逗留させて失職)、尚白、曾良(『奥のほそ道』随行者、幕府巡見使)と、強面を並べている。そのあとが、凡兆、乙州(近江商人)、羽紅(凡兆の妻)、昌房(近江膳所の茶屋)、百歳(伊賀上野の蕉門三十一人衆の一人)、野水(名古屋豪商)とつづき、ここで其角の句が入る。
※『猿蓑』発句集(「乾」巻一~巻四)は、俳諧の古今集といわれるほどに、その構成・配列などの細部にわたって細かい配慮がなされている。発句集の巻頭には、芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」、そして、巻軸に、芭蕉の「行春を近江の人とおしみける」を置き、古人や他門を編入しない純粋に芭蕉一門の撰集となっている。さらに、夏の巻頭には、其角の「有明の面おこすやほととぎす」、秋の巻頭には、素堂(実際には素堂作ではなく、読人不知)、春の巻頭には、露沾の「梅咲(き)て人の怒(いかり)の悔もあり」と、当時の芭蕉を取り巻く最右翼の俳人たちが顔をそろえる。この春の巻頭の露沾は、蕉門客分で最も身分高貴な俳人で、磐城平藩主後継者であったが家老の讒言でその地位を弟に譲り退身し、その門人には、沾徳・露言、露月、沾涼・沾圃など、江戸座の大立者の一人といえるであろう。そして、其角はこれらの大立者と一緒になり、芭蕉亡き後は、その頂点に位置することとなる。一蝶は、この『猿蓑』が編纂された元禄四年当時は、四十歳の頃で、其角の『花摘』や嵐雪の『其袋』などには、その句が入集されているが、この芭蕉俳諧の頂点を極める『猿蓑』には、その名を見出すことはできない。しかし、芭蕉・其角らの人脈とは深い繋がりがあり、この露沾など大名クラスとの交遊関係は、むしろ、其角よりも一蝶の方が華やかであったことであろう。

(七十五)

(猿蓑・巻之三「秋」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino3.htm

○菊を切る跡まばらにもなかりけり    其角
<きくをきる あとまばらにも なかりけり>。今を盛りと咲く菊のこと。少しばかり切ってもさみしくもならない。芭蕉の、「菊の後大根の外更になし」などを意識した句。(菊・秋)。「目もかれず見つつ暮らさん白菊の花より後の花しなければ」(後拾遺集)などを踏まえているか。

※それにしても、『猿蓑』の「秋の部」に入集がこの一句というのは何とも淋しいので、『阿羅野』(巻之四)よりの秋の句を下記に掲載しておきたい。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/arano4.htm

○いなずまやきのふは東けふは西     其角(『阿羅野』巻之四)
<いなづまや きのうはひがし きょうはにし>。稲妻が、昨日はひがしに鳴っていた。そして今日は西の空で鳴っている。稲妻が、通ってくる男を意味するのであれば、一句は、今日もまた自分のところへ来てくれない恨めしい男をも意味する。(いなづま・秋)。「稲妻」は「稲の夫(つま)」の意が込められているか。

○紅葉にはたがおしへける酒の燗     其角(『阿羅野』巻之四)
<もみじには たがおしえける さけのかん>。白居易の詩に「林間に酒をあたためて紅葉を焼く」がある。つまり紅葉を焼いて酒に燗をつけるのだが、そのことを誰が紅葉に教えたというのであろう。(紅葉・秋)。(ネット記事では、「燗」の誤記あり)。

  関の素牛にあひて
○さぞ砧孫六やしき志津屋敷      其角(『阿羅野』巻之四)
<さぞきぬた まごろくやしき しづやしき>。美濃の国関には刀鍛治の名工が何人も出た。そのうちの二人、関孫六<せきのまごろく>と志津三郎兼氏<しづのさぶろうかねうじ>を詠み込んだ句。砧の音を聞くにつけ、素牛(維然)の住む美濃の関では名工二人の刀を打つ音もよみがえって、昔を偲ぶことができるのではないか。(砧・秋)。

  荷兮が室に旅ねする夜、草臥なをせとて、
  箔つけたる土器出されければ
○かはらけの手ぎは見せばや菊の花    其角(『阿羅野』巻之四)
「かはらけ」は「土器」だがここでは陶器。菊の花またはそれに似た文様が描かれていたのであろう。ところで、其角は貞亨5年上方へ旅をしている。その旅の途次、9月17日名古屋の荷兮邸に宿泊している。前詞はそのことを述べた部分である。出された陶器に旅の疲れを取れとばかりになみなみと酒をついでくれたが、土器に描かれた菊の絵が酒のためによく見えないので、それを見たいからぐっと飲み干して菊の花を早く見たいものだ、と菊にかこつけて酒をほめた句。(菊の花。秋)。亭主(荷兮)への挨拶句。

○菊のつゆ凋る人や鬢帽子        同(『阿羅野』巻之四)
<きくのつゆ しおるるひとや びんぼうし>。「鬢帽子」は鉢巻の端が鬢にかかるようなかっこうでをいう。菊に露のかかってかつりんとしている姿は少々尾羽打ち腫らしながらも、昔のよき時代の矜持を守っているような古風な人に似ている。(菊。秋)。


(謎解き・四十)

(七十六) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……其角は芭蕉没後、江戸の花形俳諧師となって、画家の英一蝶や歌舞伎役者の初代市川団十郎らと親しくなり、吉原へ出入りして、酒を飲んで豪遊した。その英一蝶は幕府ににらまれて三宅島へ遠島となり、市川団十郎は、舞台の上で生島半六に惨殺された。其角は赤穂浪士とも交流があり、元禄十六年(一七〇三)、赤穂浪士が自刃したときは「うぐひすにこの芥子酢は涙かな」(冷酷な処罰はうぐいすに芥子酢を与えるようなものだ)と追悼句を詠んだ。其角がうぐいすの声をききながら酒を飲んでいるときに、赤穂浪士の悲報をきいて、自分も芥子酢を飲まされた気分だ、という述懐であった。豪商の紀伊国屋文左門(俳号千山)と親しくなり、菊を贈られた、という話がある。もともと酒好きで遊蕩児であった其角は、芭蕉という重石がはずれると、遊びまくって生活が乱脈となった。孤高清貧で生涯を通した芭蕉にくらべると、其角の放蕩ぶりは目にあまり、句は奇をてらって、衒学的になり師風とはあまりにかけ離れた。
※元禄四年の『猿蓑』刊行時には、其角は三十一歳で、その四十七年の生涯において、その絶頂期にあったともいえるであろう。芭蕉が没するのはこの三年後の元禄七年で、確かに、芭蕉没後の其角は、これらの『猿蓑』に見られる作風から離れ、洒落た趣向や奇抜・奇警な見立てを顕著に重視する作風へと大きく転換する。そして、それは、蕉門の分裂という流れと軌を一にするもので、都会蕉門(其角座・嵐雪座・杉風座など)と田舎蕉門(伊勢派・美濃派など)とに大別するならば、洗練された都会蕉門として江戸座俳諧を君臨していくこととなる。また、元禄四年の『猿蓑』刊行時以降は、元禄六年並びに元禄十一年の、一蝶らの「生類憐れみ令」違反の入牢・流罪の処断などと並行して、身分や階級の差別への批判など、反幕府・反権力的な志向の謎句も多くなってくる。

(七十七)

(猿蓑・巻之四「春」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino4.htm

○ むめの木や此一筋を蕗のたう     其角
<むめのきや このひとすじを ふきのとう>。この句は、『俳諧勧進牒』の露沾亭で開かれた正月二九日月次興行<つきなみこうぎょう>の追加句として掲出。梅木に梅の花。その下の径にはフキノトウ。露沾の風流への共感か? (むめ・蕗のたう・春)。「饗応に侍る由、その日はことに長閑にて、園中に芳草をふみ、入口面白かりけるよし、うらやましさに追て加り侍る」との前書きあり。

○百八のかねて迷ひや闇のむめ     其角
<ひゃくはちの かねてまよいや やみのうめ>。かねて持っている百八の煩悩。その煩悩の迷いを晴らす寺の鐘が、闇夜の梅の香りの中を響いてくる。其角らしい技巧の句。(むめ・春)。「「かねて」に「鐘」を掛け、「迷ひや闇」に「闇の梅」を掛けている。

○七種や跡にうかるゝ朝がらす     其角
<ななくさや あとにうかるる あさがらす>。七草粥を作るときには、「七草粥、唐土の鳥と、日本の鳥が渡らぬ先に」と囃したてて作るが、夜が明けてからは「日本のカラス」が中々元気にやっているから面白い。 (七種・春)。

○うすらひやわづかに咲(さけ)る芹の花    其角
<うすらいや わずかにさける せりのはな>。「うすらい」は「薄氷」のこと。川端に薄氷がついている。川の中の芹に花がかすかについている。芹の花はこの時期には咲かないので何かの間違い。(芹・春)。其角にしては珍しい景気の句。

○朧とは松のくろさに月夜かな      其角
<おぼろとは まつのくろさに つきよかな>。春の「朧」というのは、月にかすむ松の黒さを言うのではないか。芭蕉の名句「辛崎の松は花より朧にて」の句が念頭にある。(朧・春)。

○うぐひすや遠路(とおみち)ながら礼がへし    其角
<うぐいすや とおみちながら れいがえし>。「礼がへし」は年賀の挨拶の返礼。正月に遠路はるばる年始の挨拶に来てくれた人への返礼であろう。遠路来てくれたのだから、友なのである。その友に返礼に行くと道すがら新春だから鶯が鳴いている。(うぐひす・春)。

○白魚や海苔は下部(しもべ)のかい合せ     其角
<しらうおや のりはしもべの かいあわせ>。白魚汁には、ちゃんと家僕の買い置いた浅草海苔が付けられる。なんと幸せなことか。其角の家僕は、鵜沢長吉で、後に医者になって長庵先生と号した。(白魚・海苔・春)。

○小坊主や松にかくれて山ざくら    其角
<こぼうずや まつにかくれて やまざくら>。「東叡山にあそぶ」の前書きがある。東叡山は上野の寛永寺。山桜が咲き、小坊主らが忙しそうにしている。庭の松のかげに入ったり出たり。花の寛永寺の賑わい。 (山ざくら・春)。


(謎解き・四十一)

○ 武士(もののふ)の大根苦きはなし哉 (芭蕉『金蘭集』)
○ 武士(もののふ)の臑(すね)に米磨(と)グ霰かな (嵐雪『遠のく』)
○ 渡し舟武士は唯のる彼岸かな (其角『五元集』)

(七十八)掲出一句目の芭蕉の句は、没する一年前の元禄六年の作である(先に第三十五で触れた)。時に、芭蕉、五十歳、嵐雪、四十歳 そして、其角、三十三歳であった。芭蕉も嵐雪も、下級武士の出身で、武士奉公の経験もあり、公然と、反幕府、反武士という風潮化にはない。それに比して、其角の場合は、侍医の家に生まれているが、その侍医の父、東順が芭蕉と親交があり、早くから(十四歳頃)、俳諧を芭蕉に学び、詩学・易を鎌倉円覚寺の大巓和尚に、書は佐々木玄流、画は英一蝶にと、その生い立ちから、当代一流の諸家に師事して、その父の医業は継がなかったが、二十一歳の若さで、俳諧の宗匠として一人立ちをするという、其角は、組織人としてよりも、根っから自由人という生い立ちである。そういう、其角の生い立ちからして、芭蕉や嵐雪のように、当時の封建制度の基礎になっている「士農工商」という身分制度に順応して、その枠内での世界での行動というよりも、当時勃興していた商業資本の拡充に並行しての町人階級の台頭という新しい風潮の中にあって、反権力(反幕府)・反侍(反武士)という姿勢は、其角の生涯を通しての基本的な姿勢であったようにも思われる。掲出の一句目の芭蕉の句も、そして、武家奉公の経験のある二句目の嵐雪の句も、どう見ても、三句目の其角のような「渡し舟武士は唯のる」という、「武士だけが何故に」というシニカルな眼差しでのものではない。逆に、芭蕉も嵐雪も「渡し舟武士は唯のる」という特権の上に胡座をかき、その武士同士のしがらみに汲々として、その鬱積した悲哀を相互に嘗めあっている風情でなくもない。

(七十九)この二月六日付けの「読売新聞」のコラムに次のような記事があった。この「綱吉の悪政の世に生きて、適当に権力にたいして迎合もし」という「芭蕉像」は、その一番弟子ともいわれる「其角像」と対比すると、より鮮明になってくる。
〈悪党芭蕉〉――芭蕉といえば〈俳聖〉が常識だが、嵐山光三郎作品のタイトルはこれだ。が、「この題を見て、偶像破壊の書を想像してはいけない」と選評の山崎正和さん◆「徳川綱吉の悪政の世に生きて、適当に権力にたいして迎合もし、個性強烈な弟子どもを巧みに操縦もして、蕉門という派閥を率いた現実主義者の肖像」と、選評は続く◆〈悪〉といえば、普通は文字通り〈悪い、よこしまな、望ましくない〉だが、例外的には人名などについて、その人が抜群の能力、気力、体力を持っていて恐るべきことを表す接頭語としても使われる◆〈悪源太〉は源義平の通称、〈悪左府〉は藤原頼長の異称。嵐山さんが芭蕉を悪党と呼んだのも単なる悪者の意ではなく、したたかな人柄、手腕に敬意を寄せてのこと◆その書〈悪党芭蕉〉が読売文学賞の評論・伝記賞に選ばれた。東京・神楽坂の飲み屋で受賞の報を受け、祝い酒は7軒はしごして朝まで続いたという。悪党芭蕉は悪党嵐山ならではの作だろう◆奥の細道のように長く芭蕉と歩いてきた人の記念碑に乾杯!
(2007年2月6日 読売新聞)


(謎解き・四十二)

○ 行春や鳥啼き魚(うを)の目は泪 (芭蕉『おくのほそ道』)
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

(八十) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……ここに出てくる鳥や魚への愛情は、野鳥を逃がした「生類憐れみの令」と一致する。芭蕉の旅立ちは、幕府調査官曾良が主役なのだから、『ほそ道』に書かれているように「人々ハ途中に立並びて、後影の見ゆる迄ハと見送(みおくる)」ものではなく、極秘裡にひっそりと行われた。その数少ない見送り人のなかには幕府御用達魚屋の杉風がいた。「魚の目は泪」というのは、魚が泣いているのではなくして、魚屋の杉風が泣いているのである。
※ 『悪党芭蕉』の「生類憐れみの句」の記述の一部であるが、続けて、「芭蕉は、小動物に
憐れみの念を持ち、生活は質素で、そこのところは『期待される元禄市民』であった。この時代は、やたらと華美なる服がはやり、大名に負けず贅沢の極みをつくす商人が登場して、幕府は倹約令を出すほどであったから、芭蕉の貧乏生活は、けちのつけようがない。芭蕉は、時流にのって風雅なる旅人となったのである」というのは、一面の真理をついているだろう。掲出の其角の二句目については、これまでに何回となく触れてきたが(第二十五など)、元禄十六年二月四日の赤穂浪士(子葉・春帆など沾徳・其角門の俳人など)自刃の、その追悼句なのである。芭蕉は、元禄七年十月十二日に没するので、この赤穂浪士の事件には遭遇はしていないが、仮に、この事件に遭遇したとしても、其角のように、その処遇を巡っての批判的な姿勢や、その批判的な姿勢を謎句仕立てにして、世に問うというようなことは、どうにも有り得ないように思われる。そもそも、芭蕉が時の幕府が期待する「期待される元禄市民」であるとするならば、其角は「最も唾棄すべき元禄市民」ということになろう。次のアドレスの「元禄時代をにぎわせた『赤穂事件』では、浪士側に立って彼らを支援するなど反体制的行動も人目を引いた。芭蕉との関係も、アンビバレントな面を多く持ち、尊敬し合う関係と同時にライバルとしての感情も強く持ちあわせていた」という指摘は、実に正鵠を得ている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kikaku.htm

(謎解き・四十三)

○ 鯛は花は見ぬ里もありけりけふの月 (西鶴『句兄弟』)
○ 鯛は花は江戸に生まれてけふの月 (其角『句兄弟』)

(八十一) 元禄七年(一六九四)、芭蕉が没した年に、其角は『句兄弟』を刊行したが、掲出の二句は、その『句兄弟』のもので、これは類似した二つの句を兄と弟にわけて解説した半紙本三冊(上巻・発句合、中巻・亡父東順追悼独吟など、下巻・紀行句など)で、その上巻の三十四番目に収載されているものである。

三十四番

兄 西鶴

鯛は花は見ぬ里もありけりけふの月

弟 其角

鯛は花は江戸に生まれてけふの月

花なき里に心よりて二千里の外の心にかよひ、一句の首尾殊ニ類なし。中七字力をかえて啓栄期か楽に寄たり。されば難波江に生れて、住よしのくまなき月をめで、前の魚のあらけきを釣せて写シ景ヲ嘆スル時ヲのおもひ感今懐古。

末二年浮世の月を見過たり  鶴

と云置けん。折にふれては顔なつかし今は故人の心に成ぬ。

『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、繰り返し、「芭蕉は西鶴が大嫌いであった」との記述をしているが、芭蕉の一番弟子の其角は、この芭蕉が忌み嫌う西鶴とも親しい関係にあり、上記の『句兄弟』での記述のとおり、「折にふれて顔なつかし」との、生き様的には、師の芭蕉よりもより近い関係にあった大先達ともいえるであろう。

○ 驥(き)の歩み二万句の蠅あふぎけり  (其角『五元集』)

(八十二) 『五元集』には、「住吉にて西鶴が矢数俳諧せし時に後見たのみければ」との前書きがある。貞享元年(一六八四)六月五日、西鶴は二万三千五百句の矢数俳諧を成就した。句はその時の祝吟。「驥」は一日に千里を駆ける駿馬。この駿馬が「西鶴」であるという句意であろう。ここのところを、『悪党芭蕉』では次のように記述している。
○芭蕉は西鶴が大嫌いであった。芭蕉は「西鶴の浅ましく下れる姿」とののしっている。西鶴の散文的肌に反発を持っていた。芭蕉にとって西鶴は、うとうべき俗人である。「西鶴の弟子」と聞いただけでも忌み嫌った。こともあろうに、その西鶴のもとに其角が駆けつけて、後見役(見届け役)までつとめたとあっては、本来なら破門であろう。それを平気でやってしまうところに其角の図太さがある。其角はこのとき句を詠んだものの、さすがに芭蕉生前には発表しなかった。その句は『五元集』に、「後見たのみければ」として、「驥(き)の歩み二万句の蠅あふぎけり」とある。「驥」は一日千里を走る名馬で、西鶴のことである。一昼夜で二万三千五百句を詠むといっても、実際は句となるはずもなく、記帳した帳面には筆の線が一本ずつひかれるのみで、聞く者には呪文か経文のごときものであろう。句の内容を無視して、イベントとしての効果を考えているだけだから、一句一句に命をそそぎこむ芭蕉から見ると、俳諧をこわす大愚行である。その後、西鶴は「好色もの」の散文作家に転じて、俳諧を捨てた。其角はこの旅で西鶴と昵懇の仲となった。ただし、西鶴の句を「二万句の蠅」と比喩しており、名句としては扱っていない。其角は「何でも見聞してやろう」という好奇心が強く、芭蕉が毛嫌いしていることは気にしなかった。あるいは、芭蕉の西鶴嫌いは其角の西鶴詣でを知って以後いっそうつのった、と見ることもできる。


(謎解き・四十四)

○ 辛崎の松は花より朧にて  (芭蕉『野ざらし紀行』)

(八十三) 掲出の芭蕉の句は貞享二年、芭蕉、四十二歳の作。『孤松』には、「辛崎の松は花より朧かな」の句形で収載されている。この「朧かな」の句形を捨てて、「朧にて」の、一般には発句には詠むべきでないとされている「にて止まり」の異例の発句として知られている。この芭蕉にしては異例の発句について、西鶴の『俳諧秘蔵抄』に、「此句連歌也と西鶴が嘆じたるなれど桃青(注・芭蕉)は全身俳諧なるものなりと其角が一言に閉口して答なし」との記述が今に残されている。この西鶴と其角とのやりとりは、元禄元年(一六八八)のことで、西鶴、四十七歳、其角、二十八歳の時であった。この時の其角の年譜は次のとおりである(今泉準一著『其角と芭蕉と』)。

○元禄元年(一六八八)二十八歳。三月下旬、芭蕉吉野に至り、其角の「明星や」の句に感じ、其角へ書簡。九月十日、素堂亭残菊の宴。其角も出席、この会果てて、江戸を立ち、上京の旅へ。九月十七日、鳴海知足亭に寄り、晩に名古屋の荷兮亭へ。荷兮宅滞在。関の素牛(惟然)宅訪問。ついで伊勢参宮。その途次、伊勢久居の紫雫宅に寄り、偶吟「角文字やいせの野飼の花薄」を発句に、「偶興廿句」。
十月二日、膳所に、曲翠らと遊び、さらに千那とともに父東順の故郷、堅田へ行き、伯母宗隆尼に逢う。京に入り、季吟邸訪問、歌書の講を受け、また東本願寺門跡一如と交際があった。十月、信徳らと百韻(『新三百韻』)、十月二十日、加生(凡兆)・去来と嵯峨遊吟。大阪の西鶴亭訪問。十一月二十二日、宗隆尼没。十一月二十七日大津の尚白亭を加生とともに訪ね、このあと大津を立ち、荷兮亭。十二月四日、知足亭に寄り、江戸に戻る。

 この年譜を見て、山口素堂・山本荷兮・広瀬惟然・菅沼曲翠・三上千那・江左尚白・向井去来・野沢凡兆など、芭蕉ネットワークの俳人だけではなく、芭蕉の師筋に当た北季吟、貞門・談林派の大立者の伊藤信徳・井原西鶴など、錚々たるたる顔ぶれには一驚させられる。そして、十月に、其角は西鶴に再会して、掲出の句について激賞し、西鶴はそれに対して、「この句は俳諧ではなく、連歌だ」とけなすと、其角は、「桃青(芭蕉)は全身俳諧なるものなり」と反論して、西鶴は閉口したのだという。ここの時の西鶴と其角との再会に関して、西鶴は『西鶴名残の友』で、このように記している。

○我(注・西鶴)はひとり淋しく雀の小弓など取出して手慰みするに。竹の組戸
たゝきて、亭坊(ていぼ)亭坊とよぶ声関東めきたり。誰かと立出るにあんのごとく其角江戸よりのぼりたる旅すがたのかるく。年月の咄しの山富士はふだん雪ながらさらに又おもしろくなつて。露言一昌立志挙白などの無事をたづねて嬉しく。一日語るうちに互いに俳諧の事どもいひ出さぬもしやれたる事ぞかし。

 この一文を見ても、西鶴が二十歳前後離れている、この若い蕉門の俊秀俳諧師・其角にいかに親しみを持っていたかが伝わってくる。この二人は、反侍的な、根かっらの自由人として、肝胆相照らす同胞だという意識が、双方に深く根ざしていたように思われる。しかし、こと、俳諧に関しては、其角は、芭蕉とはアンビバレントな面が多々あっても、また、その創作の面において、師を乗り超えんとする意識をも持ちあわせていたとしても、終生、師・芭蕉を深く尊敬していたということは、十分に窺い知ることができる。

(謎解き・四十五)

○明星や桜定めぬ山かづら (其角『続の原』)
○角文字やいせの野飼の花薄 (其角『其袋』)

(八十四)掲出の一句目は、『続(つづき)の原』(不ト編・元禄元年序)所収。『五元集』では「芳野山ぶみして」の前書きがある。「山かづら」は、山の端にかかる雲。「まだ明けの明星がまたたいている明け方、全山満開の桜の上に、雲がかかり、その桜と雲とが見分けがつかないほど風情のある大景であることか」というような意であろう。(桜・春)。この二重義のない(裏・面のない)、大景把握の叙景句に対して、掲出二句目の句は、同じ叙景句でも、いわゆる談林風の「ヌケ」(句の表面にあらわれないで、それとわかるように暗示する詠み方。ここでは「角文字」がその暗示用語で、「牛」が「ヌケ」となっている)を正面に据えた、典型的な、其角流の「洒落俳諧」の、その「洒落叙景句」とでも名付けたいような句なのである。『其袋』(嵐雪編・元禄三年)所収。「これらも猶俳諧のまくらにはあらじかしと小野過ける比(ころ)」との前書きがある。「角文字」は牛の角文字で「い」。
狂言「い文字」から次の「いせ」(伊勢)を呼びだす。句は「牛」の「抜け」で、「花薄の乱れる伊勢の野で、牛を野飼いにしている。というに過ぎない。手のこんだ談林風の句である」(乾裕幸編著『榎本其角』)。こういう作為過多の句作りは、芭蕉が最も忌み嫌ったものであった。次に、其角の元禄元年の年譜で、「三月下旬、芭蕉吉野に至り、其角の『明星や』の句に感じ、其角へ書簡」というのは、『去来抄』や『句兄弟』の文面にも出てくるもので、その『句兄弟』の記述は次のとおりである。

○明星やさくら定めぬ山かづら、云(いひ)し句、当座はさのみ興感ぜざりしを、芭蕉翁、吉野山にあそべる時、山中の美景にけを(お)され、古き歌どもの信(まこと)感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明(あけ)残るけしき、比(この)句のうらやましく覚えたるよし、文通に申されける。是(これ)をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含(ふくみ)はたしか也。

『去来抄』(「先師評」・「おとゝひはあの山こえつ花盛(去来)」関連)の記述は次のとおりである。

○吉野行脚したまひける道よりの文に、或(あるい)は「吉野の花の山」といひ、或は「来れはこれはとばかり」と聞えしに魂を奪はれ、又は其角が「桜さだめよ」といひしに気色(けしき)とられて、吉野にほ句(発句)なかりき。

これらの『句兄弟』・『去来抄』の芭蕉の文(書簡)に関連する記述は、『三冊子』の、次の記述と関連してくる。

○師のいわく「絶景にむかふ時はうばはれて不吐(かなわず。ものを見て取(とる)所を心に留て不消(けさず)、書写して静に句すべし。うばはれぬ心得も有事也。其おもふ処しきりにして猶かなわざる時は書(かき)うつす也。あぐむべからず)となり。

すなわち、芭蕉は、吉野山の桜の大景を目の当たりにして、「絶景にむかふ時はうばはれて不吐(かなわず)」の心境のだが、其角は、こういう大慶景に接しても、「明星や桜定めぬ山かづら」と一句をものにして、今更ながらに、この其角の句を「うらやましく覚えたる」ということで、其角は、「当座はさのみ興感ぜざりしを」、芭蕉のそういう書簡に接して、「みづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含(ふくみ)はたしか也」と思うようになった…、ということであろう。そして、こういう句を、芭蕉は其角に期待するのであるが、其角は、その芭蕉の期待に反して、芭蕉が標榜している不作為の「軽み」の句ではなく、作為過多の「洒落風」の句、すなわち、「角文字やいせの野飼の花薄」などの句作りを主眼としてしており、ここに、芭蕉と其角とのアンビバレント(相反する)な面が際立ってくるのである。

それだけではなく、其角の作為過多の「洒落風」の「角文字やいせの野飼の花薄」の句は、当時の俳壇(元禄俳壇)においては、「其角の句の力つよき所」(沾徳)と、「同門他門を問わず取り沙汰され、問題とされた句と位置づけられる」(今泉準一・前掲書)ものとされるのである。ここらへんのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、次のように記述している。

○(芭蕉は)晩年には蕉門を育てるという野心は薄れ、ついて来る者のみに稽古をつけている。「去る者は去れ」という気概がある。したがって軽み」を提唱したときは、昔からの弟子はついていけず離反する者が多く出た。蕉門を運動体としてプロデュースしたのは江戸の其角であった(『俳諧問答』に難点あり)。
○元禄七年にあっては、江戸の其角はすでに芭蕉の人気をぬいていた。芭蕉に入門した其角は、この年三十四歳になっていた。芭蕉は元禄二年(一六八九)から「奥の細道」の旅へ出かけ、そのまま伊賀に行って、江戸へなかなか戻って来ない。芭蕉がいないあいだに江戸の俳諧は変わり、芭蕉は「時代遅れの師範」となり、そのぶん、其角の羽ぶりがよくなった(「夢は枯野をかけ廻る」)。
○人づきあいがよく、宴席を好み、著名人を身内とする術に長(た)けている。蕉門の弟子獲得は、かなりの大物を其角が担当してきた。其角は蕉門の人材ハントを担い、其角ぬきでは蕉門の全国展開はなかった(「蕉門分裂へ」)。

これらのことは、掲出の二句を例として換言するならば、芭蕉が標榜している、作為のない「軽み」(理屈をこねず・古典に頼らず・肩の力を抜いて作句する…『悪党芭蕉』)の句、その「軽み」の句の典型ではないが、其角としては「軽み」の句といっても良い、「明星や桜定めぬ山かづら」のような句作りは、元禄期に入ってくると、「時代遅れ」のものとなりつつあり、「情より知的な・古典や典拠を背景として・渋味な力を誇示しないよりも、伊達闊達な、はっと驚かすような力技をそなえた」、作為的な「洒落風」の、「角文字やいせの野飼の花薄」のような句作りが、「時代の寵児」になりつつあったということになろう。
この時代の趨勢は、ずうと後の蕪村の次のような句にも表われてくる。

○ 角文字のいざ月もよし牛祭 (明和六年・蕪村) 
○ 角文字の筆のはじめや二日月 (安永五年・蕪村)

其角とその周辺・三(二十一~三十二)


画像:其角

(謎解き・二十一)

○ 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (其角『五元集』)
○ 夕顔にあはれをかけよ売名号 (其角『五元集』)
○ 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (其角『五元集』)

四十 この掲出の三句は、『五元集』では、一句目が「春」、二句・三句目が「夏」と分かれて掲載されているが、その『五元集』のもとになっている『焦尾琴』の「早船の記」では、次のように掲載されているうちの三句である。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

   其引 所の産を寄て
※行水や何にとゝまる海苔の味   其角
朝皃の下紐ひちて蜆とり      午寂
雨雲や簀に干海苔の片明り     文士
幕洗ふ川辺の比や郭公       序令
椎の木に衣たゝむや村時雨     同
浮島の親仁組也余情川       景□(けいれん)
すまふ取ゆかしき顔や松浦潟    同
建坪の願ひにみせつ小萩はら    白獅
※幸清か霧のまかきや昔松     其角
※鯉に義は山吹の瀬やしらぬ分   同
さなきたに鯉も浮出て十三夜    秋航
雷の撥のうはさや花八手      百里
夕月や女中に薄き川屋敷      同
村雨や川をへたてゝつく丶丶し   甫盛
後からくらう成けり土筆      堤亭
揚麩には祐天もなし昏の鴫     朝叟
※夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号 其角
 河上に音楽あり
笙の肱是も帆に張夏木立       午寂
お手かけの菫屋敷は栄螺哉      同
 こまかたに舟をよせて
※此碑ては江を哀(カナシ)まぬ蛍哉 其角
若手共もぬけの舟や更る月      楓子

さて、この掲出の一句目の、「鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分」は、「綾瀬の御留川(漁獲禁止の川)の名物の山吹鯉を獲るのに、見張りの役人に少々山吹色の小判を与えれば、見て見ぬふりをしてくれる」という世相風刺(当時の幕政の腐敗の風刺)の句のようなのである(今泉・前掲書)。二句目の「夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号」は、『五元集』では、「裕天和尚に申す」との前書きがあり、この裕天和尚は、当時の五代将軍綱吉の母桂昌院の尊信を受け、隅田川東岸の牛島を去って、一躍高位の僧となられた方で、その「裕天和尚に申す」という形での、「売名号」(仏あるいは菩薩の名号を書いた札で、書き手によって御利益がある)の御利益のように、民衆に「哀れをかけよ」としての、これまた、当時の幕政への不満に基づく風刺の句のようなのである。この「夕顔」は、『源氏物語』の「夕顔」の「山がつが垣穂荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえているとのことである(今泉・前掲書)。そして、三句目の「此碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉」は、「この殺生禁断の碑のお蔭で何となく不景気で、川の流れを眺めながら哀れに感じないのは蛍だけ」という意の、当時の五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるという(半藤・前掲書)。其角の謎句には、このような当時の幕政への痛烈な風刺の句があり、その意味では、其角は、終始一貫して、反権力・反権威の反骨の俳人という姿勢を貫いている。こういう句の背後にあるものを、当時の人でも察知できる者と、察知できない者と、完全に二分されていたのであろう。そして、その背後にあるものを察知できない者は、其角の句を「奇想・奇抜・意味不明」の世界のものとして排斥していったということは、容易に想像のできるところのものである。

○ 香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰 (其角『五元集』)
○ まとふどな犬ふみつけて猫の恋 (芭蕉『菊の道』)

四十一 掲出の一句目の其角の句は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」という意であろう。この句の背後には、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。さらに、この句の真意は、「将軍綱吉の生類憐れみの令による犬保護の世相を背景とし、犬の増長ぶりを諷している」という(今泉・前掲書)。と解すると、これまた、其角の時の幕政への痛烈な風刺の句ということになる。それに比して、其角の師匠の芭蕉の二句目の犬の句は、「恋に切なく身を焦がす猫が、おっとり寝そべっている犬を踏みつけてうろつきまわっている」と、主題は「猫の恋」で実にのんびりとした穏やかな光景である。この「まとふど」は、「全人(またいびと)」の「純朴で正直な人」から転じての「とんま・偶直な」という意とのことである(井本農一他注解『松尾芭蕉集』)。いずれにしろ、ここには、其角のような、時の幕政への痛烈な風刺の句というニュアンスは感知されない。芭蕉もまた、反権力・反権威ということにおいては、人後に落ちない「隠棲の大宗匠」という雰囲気だが、どちらかというと、「おくのほそ道」に関わる「芭蕉隠密説」も流布されるように、「親幕府」という趣だが、こと、その蕉門第一の高弟・其角は、「反幕府」という趣なのが、何とも好対照なのである。ちなみに、芭蕉もまた、其角と同様に、綱吉の「生類憐れみの令」の御時世の元禄の俳人であったことは、付言する必要もなかろう。

(謎解き・二十二)

○ 御秘蔵に墨をすらせて梅見哉 (其角『五元集』)

四十二 『五元集』の冒頭の句である。「四十の賀し給へる家にて」の前書きがある。この四十歳の祝宴の家は、松平隠岐守の重臣・久松粛山の邸宅といわれている。「御秘蔵」は殿様御寵愛の御小姓であろうか。その御小姓に墨をすらせて悠然と梅見をしている光景である。こういう句から、しばしば、其角は、幇間俳人などとの風評の中にある。しかし、実態は、一俳諧師の其角が大名クラスの貴人と対等に渡り合って、むしろ、その御寵愛の御小姓を顎で使っているような、反骨・其角の真骨頂の句と解すべきなのであろう。

○ 炉開や汝をよぶは金の事  (其角『五元集』)

四十三 「三年成就の囲(かこい)に入(いる)」との前書きがある。「この句は、かなり人口に膾炙しているが、前書のあることに気づかず、其角が炉開きをするとて門人を呼び集め、実はお前を呼んだのは金の相談だ、というようなことを露骨に言い放った如くに思われている」(今泉・前掲書)。しかし、実態は、これまた、この古注にある、「諸侯方の金をかりに町人をよびし也。さればこそ汝とすゑたり」のとおり、世相風刺(当時の武家階級の露骨な町人階級への無理強いなどの風刺)の句なのであろう(今泉・前掲書)。前書きの「囲」は茶室の数寄屋と同意で、三年も日数を費やしての、贅を尽くしての「貴賓を招待」するために茶室を新築し、炉開きに招くのを口実として、実はその新築費用を町人(富豪)に出費させるという、そういうことを背景とした句なのである。さらに、これは、当時の五代将軍綱吉を迎えるための前田綱紀候などの例などが背景にあり、その茶室に其角も招かれて、この句の背景にあるようなことを実際に見聞して、「これはやりきれない」という其角の反骨の裏返しの句と理解すべきなのであろう(今泉・前掲書)。それが、よりによって、一般には、其角本人が無理強いをしたような風評が立つことは、其角にとっては、やり切れないことであったろう。

○ 起きて聞けこのほととぎす市兵衛記 (其角『五元集』)

四十四 この句には、「禄を給はりたる事世に聞え侍るを」との前書きがある。この「市兵衛記」については、次のアドレスで、その詳細を知ることができる。

http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/tenji/hitobito/ichibee/ichibee.htm

この「市兵衛記」では、市原市の姉崎妙経寺にある、この「其角句碑」を見ることができる。次のアドレスものは、市兵衛の子孫、斎藤家十三代目 斎藤孝三氏の書かれたものである。

http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/siryou/itibeeki/itibeeki.htm

この掲出句の意は、「惰眠をむさぼることなく、ちゃんと、起きて、この市兵衛記に出てくる、忠僕・市兵衛の哀切極まりのない、ほととぎすのような鳴き声を聞きなさい。市兵衛は、その忠僕が故に、禄を給わったと評判だが、その禄を給わったくらいで、一見落着というようなものではない」というようなことであろうか。「何が市兵衛というこの悪意のない人間をこのような非惨に追いやったか、世の人よ、とくにその直接の責任者たる為政者よ、『起きてきけ』『このほととぎす』を、と其角が訴えている句意がおのずから出てこよう」(今泉準一著『元禄俳人宝井其角』)。この句もまた、其角の時の為政者に対する痛烈な「風刺」の句とういよりも、「怒りのメッセージ」ともいえるものであろう。これらの三句に、五代将軍綱吉の幕政、さらには、当時の「公卿・大夫(大名)・士・庶人・土民百姓・工・商」の階級制度への、其角の、冷徹な批判の眼を見ることができる。

(謎解き・二十三)

○ たらちねに借銭乞ひはなかりけり (其角『類柑子』)
○ 子のだだにたらちねの恩を知り (柳樽八九)

四十五 『類柑子』は、宝永四年(一七〇七)に刊行された、沾洲・秋色・青流(空)編による、其角の遺稿集である。その「松の塵」に、次の其角の遺文が収められている。
「文月十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等の俤、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そぞろに心頭にかかれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおほひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草になして、亡霊聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。」
ここまでは、先に紹介したところであるが(第一八・三十三)、この後、其角は次のように続ける。
「およそ人間のあだなることを観ずれば、我々の腹の中に屎(し)と慾との外の物なし。『五輪五体は人の体、何のへだてのあるべきや』とか、かの傀儡(かいらい)に唄ひけん。公卿・大夫・士・庶人・土民百姓・工・商、乃至(ないし)三界万霊等この屎慾(しよく)を覆はんとて、冠を正し、太刀はき、裃を着て、馬に召す。法衣・法服の其品(そのしな)まちまちなりといへども、生前の蝸名蠅利(かみようようり)なり」とし、その次に、掲出の其角の句が記されているのである。
この掲出句の「たらちね」は「母」とか「親」の意である。「借銭乞ひ」は「借金取り」で、この其角の句には、いわゆる季語はない。句意は、「親は子の借金を取ろうとはしない。それが親の情愛というものだ」くらいのものであろう。これは、今日の「川柳」と解して差し支えなかろう。二句目の『柳樽』の「たらちね」の句(子がだだをこねて、始めて親の恩というのを知る)の句(川柳)の元祖のような「穿ち」の一句と解して差し支えなかろう。
ここで、其角の遺文というのを見てみると、上段(第一八・三十三)は、赤穂浪士(子葉、春帆、竹平等)を悼んだもので、当時の泉岳寺での其角の感想文である。この遺文の末尾の方の「修羅道」(六道の一。阿修羅の住む、争いや怒りの絶えない世界。また、そういう生存のあり方。阿修羅道。修羅界) というところに、其角は決して赤穂浪士を無条件に賛美しているのではなく、そのような「争いや怒り」に巻き込まれてしまった彼等への「情愛」というものが基礎になっており、これが末尾の句と結びついてくるのであろう。さて、その後段であるが、「我々の腹の中に屎(し)と慾との外の物なし」とは、医術を志した其角らしく、「人間の正体というのは屎(くそ)と慾(よく)だけだ」と、実に冷徹なラジカルな視点である。そして、その視点は、「公卿・大夫・士・庶人・土民百姓・工・商」という、当時の身分制度への批判を内包し、それらは、人間の「屎慾(しよく)を覆はん」としてのものと断じているのである。続けて、「冠を正し、太刀はき、裃を着て、馬に召す。法衣・法服の其品(そのしな)まちまちなりといへども、生前の蝸名蠅利(かみようようり)なり」と、当時の高位・高官・寺僧への批判と結びつき、どんなに、彼等が、権威を持って、盛装で外面を繕っても、人間の「情愛」というもの抜きにしては、所詮、それらは、蝸名蠅利(蝸牛や蠅程度の小さな名利)でしかないと、ここでもまた、掲出の句の無私・無限の「情愛」というものと結びついてくる。これらの根底にあるのは、先の「起きて聞けこのほととぎす市兵衛記」、さらには、赤穂浪士への、「うぐひすに此(この)芥子酢はなみだ哉」と結びつき、其角の、当時の為政者に対する痛切な痛憤とも言えるものなのであろう。そして、この其角の痛憤は、一歩間違えば、其角の絵画の師匠ともいわれている英一蝶が「島流し」に断罪されたように、時の為政者によって、処断の対象になったであろうことは想像に難くない。

(謎解き・二十四)

○ なきあとも猶塩梅の芽独活哉  (沾徳『橋南』) 
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

四十六 さて、ここでまた、其角の赤穂浪士の追悼句の「うぐひすに此(この)芥子酢はなみだ哉」の句に戻りたい。上記の掲出二句について、沾徳撰『橋南』に収録されているということは、蘭氏の次のメッセージにおいてであった。

「私が見ている復本一郎(俳号 鬼ヶ城)『俳句忠臣蔵』では、沾徳撰『橋南』(はしみなみ)という版本の完本を氏が昭和五十四年に発見したとあります。『橋南』が発刊(自主規制の禁書か)されたのは宝永二年(一七〇五)と考えられ、追悼会は元禄十六年の一回忌としています。沾徳、沾洲らと義士春帆、子葉らとの六吟歌仙『小屋の戯』を載せ、そのあとに、俳人達の義士俳人追悼の句が三十三句並んでいます。最初の六句は、

   君臣塩梅しれる人は誰。子葉、春帆、竹平、涓泉等也。
 なきあとも猶塩梅の芽独活哉  沾徳
 うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 其角
 枝葉迄なごりの霜のひかり哉  沾洲
 ちるはなは皆男にてなみだかな (宣雨)
 落着に人を泣かせてたまつばき 暁松
 その骨の名は空にある雲雀哉  貞佐
 (中略)  右於合歓堂写之 」

 この復本一郎著『俳句忠臣蔵』を参考にしての、掲出二句の句意などは以下のとおりとなろう。

この沾徳の「なきあとも猶(なほ)塩梅(あんばい)の芽独活哉」については、まず、その「塩梅」は、前書きの「塩梅」と共に、義士に関連する「赤穂塩」がイメージ化され、その「塩加減が丁度良い」というような意であろう。「独活」は春の季語で、「芽独活」は、「冬から初春にかけて、根の尖った処に紫の苗が出る。これを俗に免宇土(めうど)という」(『本朝食鑑』)。句意は「芽独活を、上手に調理された調味汁(たれ)で食そう、義士俳人達の義挙を偲びびつつ、というのであろう」(復本・前掲書)。続けて、復本氏は、次の其角の掲出の句について、「沾徳は『なきあとも猶塩梅の芽独活哉』と詠んだが、鶯を聞きながら、子葉が『江戸のからしは四季の汗』と詠んで、初夏の鰹を食べた、その『からし』を用いて『芥子酢』を作り、沾徳と一緒に春の『芽独活』につけて食べよう、それにしても、辛すぎて、汗ならぬ涙が出てきてしょうがない」(復本・前掲書)と鑑賞している。しかし、其角のこの句については、「沾徳は『なきあとも猶塩梅の芽独活哉』と詠んだが、そんな生易しいことではない。今回の義士への切腹の幕府の処断はこの芥子酢のように辛くて、今鳴いている鶯のように、子葉らの義士達は鳴きながら涙を滂沱していることであろう」と、この「芥子酢」に幕府の今回の措置の比喩のように理解しての鑑賞も可能であろう。なお、末尾の「合歓堂」は、沾徳の庵号で、この三十三句の追悼句のうち、作者名のない句が二句あり、それについては、「忽卒の間にまとめられたためであろう。二つの中の一句(『ちるはなの』・注、上記の括弧書きの句)の方は、其角遺稿『類柑子』(宝永四年刊)によって宣雨の句であることがわかる」(復本・前掲書)としているが、うがった見方をするならば、この作者名のない二句については、幕府への抗議のように取られるのを危惧して、名は記さなかったとの推量も可能であろう。

○ 故赤穂之城主浅野長矩之旧臣大石内蔵之助等四十七人報讐之後、官裁下令伏刃之悼。
うぐひすに此芥子酢はなみだ哉    
  万世のさえづり黄舌をひるがえして、肺肝をつらぬく。気味、よく泪をすゝりあげたり。
  二月十日            晋其角
             

四十七 昭和五年(一九三〇)に刊行された、伊藤松宇編の『蕉影余韻』に、掲出の「二月十日」付けの其角の懐紙が掲載されているという(復本・前掲書)。赤穂浪士の討ち入りがあったのは、元禄十五年十二月十四日、切腹の「官裁」が下ったのが、翌元禄十六年二月四日で、この懐紙の日付の「二月十日」は、元禄十六年二月十日、すなわち、義士の切腹からわずか七日目のものと解せられる。この前書きと添書きは、其角の没後に刊行された遺稿句集『五元集』(旨原編・延享四年刊)所収のものとほぼ同じであるが、細部は異なっている(『五元集』のものについては、第十四・二十七を参照)。この前書きの「漢文」体のものは、其角のものではなく、時の大学頭の林信篤の事件の概要を述べた部分とのことで(今泉・前掲書)、其角はその林信篤の漢文体のものを、そのまま借用し、次に、其角の追悼句、そして、その追悼句の添書きのようなスタイルで、次に、其角の和文が記されているという体裁になっている。そして、この其角の和文と其角の句関連で、先に、蘭氏より次のようなメッセージが寄せられていたのである。

○ネットの其角三百回文学忌というページでは、句の字面の意味を「鶯に摺餌を与えるところを間違えて芥子酢を食わせたような酷さだ」とし、詞書の引用元と後注の解釈が載っています。

【『文選』(もんぜん)の「三良詩」に「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷ル」を踏み、後註を読めば、赤穂事件により切腹させられた富森春帆、大高子葉、神崎竹平の三人を「三良」に擬しているのが分かるだろう。】

http://kikaku.boo.jp/hokku.html

上の句の字面の意味解釈に私はちょっと違和感(摺餌と芥子酢の間違えが無理がある)があり、以下のように解釈しました。

初春に出回る小松菜や水菜などの若いものはうぐいす菜とよばれる。ゆがいた小松菜にささみを入れてごま油を少々、三杯酢やゴマダレで食べるとうまいとか。今うちにもうぐいす菜があったので、芥子酢で食べてみました。たしかに芥子がきつく涙目になりました。
それで私の解釈は、「この早春に厳しい裁断が下り死んでいった赤穂浪士を思いながら、うぐいす菜を芥子酢で食べていたら涙が出てきたよ」。

ウグイス(江戸川柳鳥の吹き寄せでの分類)
http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/senryu_1.htm

(謎解き・二十五)

○ 初鰹江戸のからしは四季の汁 (子葉『二つ竹』)
○ なきあとも猶塩梅の芽独活哉  (沾徳『橋南』) 
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

四十八 掲出の一句目は、義士俳人の大高源五こと子葉が編纂した『二つ竹』(元禄十五年刊。討ち入りの七カ月前)所収の子葉の句である。この句には、「卯月の筍(たかんな)、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我(注・江戸の俳人貞佐)さへ精進物の立(たち)かたになれば、東潮(注・江戸の俳人)、仙水(注・江戸の俳人)等とうなづきて」との前書きがある。この前書き・句意については、「京都には、陰暦四月の筍、陰暦八月には松茸、そして、豆腐は一年中あって、それを自慢にしているが、江戸生れの俳人・貞佐も、京都の精進物贔屓になられて、そこで、江戸の俳人、東潮・仙水の賛意を得て、江戸は何といっても『鰹』ということでの一句です。この初鰹を、京都の四季を代表する豆腐と同じくらいに味わいのある、江戸の四季を代表する芥子を汁に、食べる・・・、これこそ、江戸第一の味自慢だろう」というようなことであろうか。そして、掲出の二句目と三句目は、その義士俳人子葉等の一回忌追善集『橋南』(宝永二年刊)に掲載されているもので、これらについては先に触れた(第二十四・四十六)。ここでは、これらの二句(掲出二句目・三句目)は、一句目の子葉の「初鰹江戸のからしは四季の汁」を念頭においてのものであろうということを特に付記しておきたい。

四十九 そして、この掲出の其角の三句目、「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」は、上記の一回忌追善の前に、その初七日の日付(元禄十六年二月十日)の懐紙に既に記録されており、さらに、其角亡き後の遺稿句集『五元集』(延享四年刊)にも収録されていることについても触れた(第二十四・四十七)。そして、初七日の日付の懐紙のものと『五元集』のものとには、前書きが付与されており、その中で、最も詳細なものは、『五元集』のものであり、その前書きをここで再掲しておきたい。
「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(注・この漢文の詠みは『古典文学大系本』によっている)。
この前書きの漢文のものは、時の大学頭の林信篤の記述文のままで、この林信篤や室鳩巣は、赤穂浪士の行動を義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げる事はできずとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張するなど、識者の間でも、その処断の対応は大きく二分したのであった。そういう中にあって、其角は、林信篤の「義挙による助命」とも、荻生徂徠の「武士の体面を重んじた上での切腹」とも、そういう形式的にこれらの行動を見ることなく、その漢文に続く和文の基礎になっている、『文選』(もんぜん)の「三良詩」の「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷ル」という、「殉死という無理に強いられた三人の善良な臣のむごさ、とその死を素朴に悲しんでいる詩」(今泉・前掲書)の、その詩人の眼をもって、この一句を俳人仲間の子葉等に献じていることは特に付記しておく必要があろう。また、そういう観点からの句意の理解の仕方もあるであろう。その句意の理解の一つとして、「鶯が鳴いている。その鶯の化身のような仲間が大きな政争に巻き込まれ、まるで、鶯の目に辛子酢を与えられるような酷さで、その生を絶ってしまった。彼等の目にも、そして、彼等を取り巻く我等の目にも、涙は滂沱として止まることは知らない」との解も付記しておきたい。

(謎解き・二十六)

○ 梅が香や隣は荻生惣右衛門 (其角)

四十九 この掲出句の、「荻生惣右衛門」とは、時の将軍・徳川綱吉の御用人の柳沢吉保のブレーンでもあった「荻生徂徠」その人である。この句は、其角の自選句集ともいうべき『五元集』には収載されていない。夏目漱石に「徂徠其角並んで住めり梅の花」という句があり、それに由来があるという句で紹介され、「実際、其角は日本橋茅場町で荻生惣右衛門こと荻生徂徠と隣合わせに住んでいたときがある」(半藤・前掲書)ということなのである。
この掲出句の徂徠と其角とは、「落語や浪曲の演目である『徂徠豆腐』は貧窮時代の徂徠と人情家の豆腐屋夫婦の心のふれあいを描いた名作である。現在は立川志の輔の演出が高名」の頃のものであろう。なお、下記のアドレスの「荻生徂徠」の赤穂浪士の処分裁定関連のものは、下記のとおりである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0

○元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡(注・林信篤)をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。礼に基づいて心を調節し、義に基づいて行動を決定する。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての恥を知るものである。それは自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである。だが、それは彼らのみに限られたこと、つまり私の論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良義央を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされようし、また、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである。」と私義切腹論を主張し、「徂徠擬律書」として上申。結果的に採択されるに至った。禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。礼に基づいて心を調節し、義に基づいて行動を決定する。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての恥を知るものである。それは自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである。だが、それは彼らのみに限られたこと、つまり私の論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良義央を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされようし、また、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである。」と私義切腹論を主張し、「徂徠擬律書」として上申。結果的に採択されるに至った。

また、林信篤のものは、下記のとおりである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E5%B2%A1

○一六八〇年(延宝八年)林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後八代吉宗まで五代にわたり将軍の下で幕府の文書関係の行政に参与し、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かった。朝鮮通信使の応接にもかかわっている。また「武徳大成記」などの編纂に従事し、林家の官学的傾向をつよめた。一六九一年(元禄四年)それまで上野不忍池湖畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したにあわせて大学頭に任じられ、以後林家が世襲した。それまで僧形で勤めていた儒官も終わりを告げた。

五十 幕府の学問の責任者である大学頭の林信篤にも、さらには、その官学の主流ではないけれども、時の幕藩体制の一角に参与していた旧知の荻生徂徠にも加担せず、其角はより一人の人間として、林信篤流に「義士」として賞賛する立場ではなく、さりとて、荻生徂徠流に、「武士の礼でもって切腹に処す」などという、「公が私に優先する」立場ではなく、「悲しみを悲しみ」としてありのままに「事の信」を見ようとする詩人の魂と、その「悲しみ」の根底にある幕藩体制や身分制度などの鋭い批判精神が、時として、其角の句の根底に流れていて、さしずめ、旧知の俳人であった、大高子葉等の赤穂浪士の切腹に関連しての、「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」の句と、その一連の「前書き」などは、その其角の人間性と批判精神が顕著に宿しているものとして、その筆頭にあげられるべきものなのであろう。

(謎解き・二十七)

○ 山をぬく力も折れて松の雪 (子葉)

五十一 この掲出の赤穂浪士の大高源吾こと子葉の句は、その俳諧の師匠でもあった水間沾徳の『沾徳随筆』の所収のものである(復本・前掲書)。これに関して、先に、次のアドレスに関連するものとして、次のように記した(第十六・三十一)。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013357&VOL_NUM=00000&KOMA=95&ITYPE=0

※この記事は、明治四十一年に刊行された、元禄山人著『赤穂義士四十七士譚』(「第十六回大高源吾忠雄の事並に其角」)に紹介されているもので、実は、ここに紹介されている、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、実は、真っ赤な偽書ということなのである(半藤・前掲書)。確かに、この書面に出て来る、「我が雪と思へばかろし笠の上」は、元禄五年刊行の『雑談集』に出てくるもので、さらに、大高源吾の句とされている「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句も其角の句ということである(半藤・前掲書)。次の大高源吾(書面では「子葉」)から沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)、さらには、その書面の次の「かくて其翌年の春交はりふかき人々合歓堂にて追悼ありその時の発句」として、紹介されている、上記の掲出の四句についても、その一同に会しての追悼句会でのものなのかどうか、はなはだ、あやふやの文面のようなのである。

この上記の記載中、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、偽書として、その次の、沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)は、上記の『沾徳随筆』に収載されているものであって、この書面の信憑性はすこぶる高いとされている(復本・前掲書)。この書面が事実とすると、討ち入りは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の寅の上刻(午後四時頃)、引き上げたのは卯の刻(午前六時頃)とされており、その泉岳寺へ引き上げて間もない頃のものということになる。果たして、あれだけの大きな事件の後で、それだけの余裕があったものかどうか、疑問がなくもない。

○ 山をさくちからも折れて松の雪 (子葉)

五十二 その疑問とともに、実は、『沾徳随筆』に出てくる子葉の「山をぬく力も折れて松の雪」は、上記の掲出のような句形のものもあり、こちらは、元禄十五年(一七〇二)十二月七日に、子葉が母親宛に送った書簡中の中に記載されているものなのである(復本・前掲書)。

○ さて、私事、金のたんざくに、名めうじ書(かき)しるしに、かたおもてには、じせい書付申候、
  山をさくちからも折れて松の雪
  右之通りいたし、さげ申候。     『赤穂浪士資料』(中央義士会編・雄山閣)

「金の短冊に、名と氏を記し、その片方に辞世を書き付け申し上げました」と、子葉こと大高源五は、討ち入りの一週間前に、母親宛に辞世の句として上記の句形のものを送っているのである。この句については、中国の故事に見える言葉「力抜山兮気蓋世」(『史記』)に由来があるとされている(復本・前掲書)。この故事に由来があるとするならば、『沾徳随筆』に出てくる、「山をぬく力も折れて松の雪」の方がその典拠に近い句形ということになる。そして、その故事と辞世の句としての句意は、「山を引き抜くほどの力で、一世を蓋(おお)うほどの気合いで、討ち入りを果たし、その初心の操を完遂した後、操木の松の雪折れのような、そんな気持です」とでもなるのであろうか。

○ 子葉末期
梅でのむ茶屋も有(ある)べし死出の山

この「子葉末期」(子葉辞世)の句は、其角の遺稿集『類柑子』に出てくるもので、これが「正真正銘の辞世と言ってよい」(復本・前掲書)と、こちらのものは子葉が切腹前にしたためたものとされている。句意は、「これから死出の山に赴くが、その死出の山にも梅が咲き、その梅を見ながら酒を飲むことができる茶屋もあるだろう」とでも解しておきたい。この正真正銘の辞世の句も「死出の山」の「山」で、『沾徳随筆』に出てくる、「山をぬく力も折れて松の雪」などの「山」と一脈通い合うものがあるような趣ではある。これらの子葉こと大高源五の句を見ていくと、当時の俳壇の頂点に位置した、其角・沾徳が、その「子葉」の名を留めているように、俳人としての力量は相当なものがあり、また、その戒名の「刃無一剣居士」にふさわしいような武士像が浮かび上がってくる。享年三十二歳とか、やはり、今に語り継がれているその理由が見えてくる趣もしてくる。

(謎解き・二十八)

○ うぐひすや朝日綱張(はる)壁の穴     沾徳
   辛夷が覗く渓の奥行          沾洲
  滝の淀春ずれるほど広どりて       香山
   振(ふるい)はじめは傘持が袖      春帆(富森氏)
  湯あがりの耳は城下へ城の月       子葉(大高氏)
   いやがるものを裏で踊らす       涓水(菅野氏)

五十三 沾徳編『橋南』所収の「小屋の戯」との前書きのある歌仙のうちの表の六句である。この『橋南』は、復本一郎氏の所蔵本で、氏は、「当時の出版取締り令を考慮しての自主規制本、すなわち、私家版二部のみを作成して、公刊を控えた一種の禁書であると推定する」としている(復本・前掲書)。復本氏は、早くに、『芭蕉の弟子たち』(復本一郎編・昭和五十七年刊)所収の「宝井其角」で、この『橋南』に触れ、さらに、『笑いと謎』(復本一郎著・昭和五十九年刊)で「新出・赤穂義士の俳書」として、この『橋南』について紹介している。そして、平成三年刊の『俳句忠臣蔵』(復本一郎著)で、「沾徳撰『橋南』禁書夢譚」として、上記のとおり「禁書に近い自主規制本」との判断をしているのである。今回、この『橋南』の三十三句の追悼句のうち、其角の「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」も収載されていることに鑑みて、氏のこの推定の判断は蓋し自然のようにも思われるのである。いや、それ以上に、其角のこの句の鑑賞にあたっては、このような情勢下のものであるということを前提として鑑賞されて然るべきという思いを深くするのである。
五十四 ここで、掲出の「小屋の戯」との前書きのある歌仙のうち、その表の六句について、復本氏のものを参考として一応の句意などを記しておきたい。まず、前書きの「小屋の戯」は、「沾徳自らの日本橋南の家を卑下しての措辞」(復本・前掲書)で、宗匠の沾徳の発句での沾徳一門の歌仙と解して差し支えなかろう。その沾徳の発句は、「鶯の声が聞えてくる。この粗末の小屋の壁の穴から朝日があたかも綱のように差し込んでいる」。そして、この沾徳の発句を受けての脇句は、宗匠代行のような沾洲が、「その庭の一角には造作したところの渓があって、その渓の奥行のところに辛夷が咲いていて、結構な風情です」と応えているのだろう。転じの第三は香山で、作庭の渓から郊外の滝へと転じている。「春が過ぎ去って行こうとして日中にあって、滝の滝壺の広さを測っている」のような意であろうか。ここで、軽く易く付ける第四を、義士俳人の一人の春帆(富森助右衛門)が、「貴人に傘を差し掛けている傘持が、滝の飛沫に濡れるので、袖をまず振っている」という光景であろう。ここで五句目の「二花三月」の最初の「月の定座」を子葉(大高源五)が担当し、子葉が沾徳一門にあって、それなりの実績のある俳人であるということを窺い知ることいができる。「その貴人は宿に帰られて風呂に入られ、その湯上がりの耳には、城下町のざわめきが聞えてきて、折から城の上には月がかかっている」というところであろう。そして、表の六句目(折端)は、萱野三平こと涓水で、前句の「湯上がりの耳」を「踊り女」と「見立て替え」して、「湯上がりの踊り女に踊りを強要する」という光景であろう。沾徳は、かって、一門の主要な仲間であった、これら三人の義士たちと興行した歌仙を、その追悼の意味合いを込めて、義士俳人一回忌追善集として刊行を予定していた『橋南』に収載して、「これもてなして、香花(仏前に供える香と花)のたよりとす」としたのであろう。そして、これらの一連の義士俳人たちへの追善集などを見ていって、これら大高源五を筆頭とする義士俳人たちは、其角よりも沾徳に近い俳人たちであったということは、これまた、窺い知ることができるところのものであろう。

(謎解き・二十九)

一  青のりや浪のうづまく摺小鉢 (暁雲、二十七歳、延宝六年、『江戸新道』)
二  中宿や悪性ものゝ衣がへ (暁雲、二十九歳、延宝八年、『向之岡』)
三  藺殻(いがら)の平太朝比奈粽が一族たり (同上)
四  はなりけり仙人すべる山西瓜 (同上)
五  菜の花や在郷坊主のをみなえし (暁夕寥、二十九歳、延宝八年、『軒端の独活』)
六  唐がらしの女調(シラベ)音高し摺子鉢 (同上)
七  詩酒家々煙草(タバコ)俳を釣ン良夜の月 (同上)
八  暮春の夜ル土圭を縛(シバ)る心哉 (暁夕寥、三十歳、天和元年、『東日記』)
九  しどろ里そば刈男こととはん (同上)

五十五 ここで、其角と親交のあった画人・英一蝶(俳号・暁雲)のことについて触れることとする。掲出の句は、白石悌三遺稿集ともいうべき『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」(年譜は内藤和子氏のものを白石悌三氏が補訂している)の発句四十四句(順に応じて紹介)のうちの九句である。一蝶が何時芭蕉門ニ入ったのかは定かではないが、上記の『東日記』(言水編)に入集された頃なのかもしれない。其角より十歳ほど年長であるが、芭蕉門では其角と相弟子の関係のようである(白石・前掲書)。この一蝶は、元禄六年に、「民部・半兵衛らと共謀、本庄資俊に遊女大蔵を身請させる。八月十五日、町奉行北条安房守の詮議により、入牢。二ヶ月後に釈放される」。元禄十一年に、「再び入牢、十二月二日(或いは十二日)三宅島に流罪となる。民部・半兵衛は三宅島で越年後、八丈島に送られる」とある。この三宅島に流罪となった理由について、先に、蘭氏より紹介のあった次のサイトでは、以下のとおりの記事が見られる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6

○当時幕府は、元禄文化華やかな、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛清しようと試みていた感がある。 元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。同年中に、"上は大名から町人に至るまで、江戸で大人気の有名人であり、著名文化人であり芸人でもあったスーパースター。ミスター遊び人。"であった一蝶が、見せしめのターゲットにされ逮捕された、と考えるのは推理しすぎであろうか。三宅島流しに至る経緯であるが、彼が作品中で"時の権力者柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した"件を風刺したから。町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、生類憐みの令違反とされた(同年、追加条例として"釣り道具の販売禁止令"すらも出ている。) 「"馬がもの言う"という歌を広めたから」=放送禁止歌謡。 芸でお座敷を盛り上げて、とあるお大名(旗本)をそそのかせて、勢いで花魁を身請け(つまり武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまったら、実はその殿様は綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守だったから、とも伝わる。(表高家旗本の六角家。当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により1967年頃閉門蟄居命令」が確認される六角広治か。広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は守護大名六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系)。などの諸説があるが、正式な罪状として採用されたのは、上記2項目の"釣り罪"であるらしい。


(謎解き・三十)

一〇 柴にかへけん蚕婦(サンブ)が籮(フゴ)の忘レ児 (暁雲、三十一歳、天和二年、『武蔵曲』)
一一 ひるがほの宿冷飯の白くなん咲る (同上)
一二 盞ヲ漕ゲ芋を餌にして月ヲ釣ン (同上)
一三 雪辱(ハズカ)し夜ルかつらぎの蝮姿 (同上)
一四 田螺とられて蝸牛の益なきやうらやむ (暁雲、三十一歳、天和二年)
一五 袖つばめ舞たり蓮の小盞 (暁雲、三十二歳、天和三年、『虚栗』)
一六 うすものゝ羽織網うつほたる哉 (同上)
一七 あさがほに傘干ていく程ぞ (同上)
一八 鳴損や人なし嶋のほとゝぎす (同上、『空林風葉』)
一九 採得たし蓮の翡翠花ながら (暁雲、三十四歳、貞享二年、『一葉賦』)
二〇 芭蕉葉に箴(シイン)さす女心哉 (同上)
二一 花に来て袷羽織のさかりかな (暁雲、三十九歳、元禄三年、『花摘』)
二二 花に来てあはせばをりの盛哉 (同上、『其袋』)
二三 秋を日に二人時雨の小傘 (暁雲、四十歳、元禄四年、『餞別五百韻』)
二四 うすものゝ羽織網うつ蛍かな (暁雲、四十一歳、元禄五年、『一字幽蘭集』)

五十六 掲出の句は、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」四十四句のうちの十五句である。年代的に天和二年(一八六二)から元禄四年(一六九一)までのものである。
この天和時代というのは、いわゆる芭蕉の『虚栗』の、漢詩文調時代でもある。一蝶もその流行下の俳人であった。貞享三年に、「この年より本庄安芸守資俊(桂昌院の甥)の吉原通いが始まり、仏師民部、のち絵師朝湖、医師半兵衛がとりまきとなって、茗荷屋の遊女大蔵を取り持つという」(白石・前掲書)とあり、この「絵師朝潮」が一蝶のことであろう。この年に、芭蕉の「古池吟」の『蛙合』(仙化撰)が刊行されている。元禄七年に、「十月十二日、芭蕉没。五十一歳。追悼集『枯尾花』(其角編)に暁雲の句なし」とあり、時に、一蝶、四十三歳であった。流罪になる前年の元禄十年に、「六角越前守広治(桂昌院の姻戚で、本庄資俊の義弟にも当る)に到仕・蟄居の厳命下る。和応(朝潮の遊里における通名)・民部、半兵衛と吉原通いの途中に殺人を犯したとも、三人の取持ちで菱屋の遊女小幡を身請けしたともいう」とある。これらの英一蝶の年譜に出てくる、桂昌院は八代将軍綱吉の母で、「男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、生類憐みの令発令に関わったとされる」と下記のアドレスの記事にあり、一蝶らの流罪の背景に見え隠れしている人物の一人でもある。

(桂昌院)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%8C%E9%99%A2

また、次のアドレスのもの(「流されびとと英一蝶」)は、これらの背景を語るものとして参考となる。ここに出てくる、「遊扇・角蝶」というのは、上記の年譜に出てくる「民部・半兵衛」の遊里の名であろう。当時、一蝶の画号は、「朝潮・蝶古」で、この「角蝶」(半兵衛)は、俳諧を「其角」に、絵画を「蝶古」(一蝶)に学んでおり、その師筋の関連のものともいわれている(村松梢風著『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」)。
(「流されびとと英一蝶」・三)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido111.htm

○しかしこんなことで挫けるような一蝶ではなかった。遊び仲間の有力な大名たちの裏工作もあり、自由を回復するとすぐに派手な遊蕩生活を始めた。高位の人々や豪商を背景にした驕慢な振る舞いは、神も仏も恐れない大尽遊び。人々は眉をひそめた。「お仕置きにもいっこうに懲りていない」「またも派手に遊んでる」「もはや放置できない。」幕府は決断した。元禄十一年にまたもや彼を拘置したのである。その理由は彼が描いた〔朝妻舟〕という絵にあった。それは近江国坂田郡朝妻の港から、琵琶湖を大津まで渡る舟があり、白拍子が客を誘う情景を描いたもの。その画の中の女がときの将軍綱吉の側用人として絶大な権力を持つ、柳沢吉保の妻に似ているというもの。この吉保の妻をひそかに将軍綱吉が愛している。世間ではまことしやかに噂されていた。そんなときの画だったからたまらない。 これは綱吉を揶揄したものとされたのである。この島流しの罪状話はいくつもある。諸説入り乱れてはっきりしていない。もう一つの逮捕理由は「馬が物を言う牛が物を言うという、戯作を書いただろう」これは将軍綱吉の生類御憐れみの法度を皮肉るもの。馬が物を言うとは将軍綱吉のことを指す。彼は将軍になる前は館林右馬頭と名乗っていた。牛が物を言うとは柳沢吉保のこと、彼の幼名が牛之助だったからだ。この戯作は英一蝶はまったく知らないことなので『私どもはまったく知りません』と否定し続けていのだが、町奉行所の役人は『これまでの行状からみて、その方らの仕業に違いない。神妙にいたせ。』と、強引に牢屋送りにしてしまったという。ようするに逮捕理由は何でもよかった。あまりにも目に余る遊蕩ぶりが彼らの罪だと云うべきだろう。そして元禄十二年(1699)十二月に三宅島に島流しにされたのである。一蝶は四十八才になっていた。遊蕩仲間の遊扇と角蝶も八丈島に流されてしまった。遊扇は四十五才、角蝶は三十五才だった。英一蝶らが霊岸島から島送りの船に乗る日がきた。親友の宝井基角も大勢の見送りの中にいる。一蝶は友の厚誼に感謝して涙を流した。そして『三宅島はクサヤの名産地です。流人はクサヤを作らされるそうだ。島に生えている椎の葉を私は干物のエラに挟むから、もし江戸の魚屋で椎の葉をつけたクサヤを見つけたら、私がまだ元気でいると思ってください。』と告げたという。
クサヤはむろ鯵のひらきで作った伊豆諸島の特産品である。鯵の臓物で汁を作り、それに浸して日干しをするため、独特の強烈な匂いを放つ。味は絶品だが匂いのために人により好みが分かれる。クサヤの名前はその匂いからきている。

(「流されびとと英一蝶」・一)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido109.htm

(「流されびとと英一蝶」・二)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm

(謎解き・三十一)

二五 たがかけのたがたがかけて帰るらん (一蝶、六十九歳、享保五年、「画賛」)
二六 牽牛花のつぼみながらや散あした (七十歳、享保六年、「嵐辞」・『画師姓名冠字類抄』所収)
二七 野分せしばせをは知りつ雨の月 (一蝶、七十二歳、享保八年、「画賛」)
二八 たが謂や一夜に月のたりひづみ (同上)
二九 嚏の腹も帒も秋の風 (『画師姓名冠字類抄』)
三〇 しばしとて蕣に借す日傘 (同上)
三一 罪も霜も消なん道の杖木履 (同上)
三二 蝶の夢獏にくわれて何もなし (同上)
三三 大津絵に負なん老の流れ足 (同上)
三四 舞燕まひやむまでのねぐら哉 (同上)
三五 はり物の相人にならぬ柳哉 (同上)
三六 おのづからいざよふ月のぶん廻し (同上)
三七 清く凄く雪の遊女の朝ゐ顔 (同上)
三八 臼こかす賤の男にくし雪の跡 (同上)
三九 呼かけて燗酒一つ鉢叩 (同上)
四〇 この砌左り鎌倉すじ鰹 (同上・『温故集』)
四一 燕やあだしあだ波かへる浪 (同上・『東風流』)
四二 いつ聞を古声にせん郭公 (同上)
四三 憎さげや臼きらしかす雪の趾 (同上)
四四 手鍋する身にや聞さぬか郭公 (同上)

五十七 掲出の句は、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」四十四句のうちの二十句である。この二十五句目の「たがかけのたがたがかけて帰るらん」(一蝶)に、其角は「身をうすのめと思ひきる世に」と唱和したことが享保五年の年譜にある(白石・前掲書)。三十六句目の「おのづからいざよふ月のぶん廻し」は、『仮名世説』に、「英一蝶晩年に及びて、手ふるへて月など画くにぶんまわしを用ひたるが、それしもこころのままにもあらざりければ」と、晩年の一蝶の自画像であろう。白石悌三氏は一蝶について次のとおり記している。
○今日に残る英一蝶の名は赦免後のものであるが、彼にとってその日々はもはや余生にすぎなかった。其角の周辺では、あたかも彼が江戸を追われた元禄十一年ごろから連衆の交替が起り、天和の息吹を知らない新世代によって他愛もない言語遊戯が洒落風俳諧の名で行われる。そうした最中に、しかも其角没後に帰還した一蝶が、「浦島太郎」と我が身をかこったのは無理もない。悪所に狂い風狂に身をやつす双頭の鷲であった天和の青春は、息の根をとめられ、飼いならされた俳人群は体制内に身分を保障された宗匠として、江戸座を編成し秩序の安定を計る。一蝶が深川の昔を懐かしむ心境を世の常の老境と見なしてはなるまい。牙を抜かれた一蝶が、旧作の「十二ケ月風俗図」の「跋」に「今ヤ此ノ如キ戯画ヲ事トセス」と記したのは享保二年のことであった(白石・前掲書)。

五十八 次のアドレスの「美の巨人たち」で、一蝶の「布晒舞図」(埼玉県川島町遠山記念館蔵)が見られる。なお、このネットの記事では、「幇間・一蝶」が強調されているが、当時の幇間というのは、現代のように男芸者として、卑しむべき職業というよりも、「遊びやイベントのディレクター(演出者)」のような趣で、一蝶らのそれは、職業的幇間というよりも、傑出した芸能の士(タレント)で、当時の豪華絢爛とした吉原文化の一躍を担っていたマルチスター的存在であったということは付記しておく必要があろう。幇間・一蝶と同じく、「幇間・其角」というイメージもあり、現に、高浜虚子なども、「私は其角が幇間的なところの外に何かありはしなかったかと思う。芭蕉の亡くなる時に其角が駆けつけて諸事を一人で取り行っている。去来を始め多くの門人が黙ってそのなすがままに任せている。これは彼が才走っているばかりでなく、何か皆に推重されるところがありはしなかったかと思う」(『其角研究』)という理解である。これは、幇間・其角ということを前提として、その「幇間・其角」以外に、「何か」があるということを指摘しているのだが、そもそも、当時の幇間の認識が、虚子時代の幇間と同一視している点において、誤解されやすい面がなくもない。

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/050416.htm

(謎解き・三十二)

○ 初鰹カラシが無くて涙かな     一蝶の贈句
○ そのカラシ効いて涙の鰹かな    基角の答句

五十九 掲出の句は、下記アドレスの「流されびとと英一蝶」(四)によるものである。

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido112.htm

五十九 ここで、一蝶の句とされている「初鰹カラシが無くて涙かな」は、かって見てきた、赤穂浪士の大高源五こと子葉の「初鰹江戸のからしは四季の汁」(『二つの竹』)とどうにも似通っているのである。さらに、其角の句とされている「そのカラシ効いて涙の鰹かな」の句は、これまでに何回か話題になったところの、其角の赤穂浪士の俳人の子葉らに対する追悼句の「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」(『橋南』)とこれまたその類相句の趣なのである(これらの句については、第二十五・四十八など参照)。赤穂浪士の俳人・大高子葉らと其角との関連のものは、数々の偽書簡やらフィクションがあり、どうにもミステリーに包まれているのだが、それ以上に、英一蝶と其角との関連とになると、ミステリーの中のミステリーという趣なのである。ここで、上記のネット記事の「流されびとと英一蝶」の参考文献の一つにあげられている『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」により、元禄元年の英一蝶を取り巻く、その群像を年齢順にあげて見ると、芭蕉(四十五歳)、一蝶(三十七歳)、遊扇(三十五歳)、柳沢出羽守(三十一歳)、佐々木文山(三十歳)、其角(二十七歳)、角蝶(二十五歳)、紀伊国屋文左衛門(二十四歳)、奈良屋茂左衛門(十九歳)となる。芭蕉は、一蝶と其角との俳諧の師匠ということであげたが、これらの豪華絢爛とした「伊達風」の吉原文化(快楽主義)に耽溺したグループとは正反対の反吉原文化とも位置付けられる「侘び・寂び」を基調としての「閑寂」な「ストイック(禁欲主義)」的な世界へ身を投じた人物との理解てよいのかもしれない。逆説的にいえば、芭蕉らの、極端な「ストイック(禁欲主義)」の世界への反動として、年齢的にも世代的にも、次の一蝶や其角らの「快楽・刹那主義」的世界であったとの見方もできるのかもしれない。いずれにしろ、一蝶・其角を取り巻く群像は、元禄江戸文化の頂点にあったことだけは間違いない。

(其角・一蝶を巡る群像)

其角
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92
寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。
一蝶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6
承応元年(1652年) - 享保9年(1724年)は、江戸時代の絵師。本名は「多賀信香」(もしくは藤原信香)か。幼名は猪三郎、次右衛門、助之丞。多賀朝湖、号暁雲、藤原信香、牛麻呂など別名多数。
紀伊国屋文左衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E5%B1%8B%E6%96%87%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
寛文9年(1669年)? - 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)は、日本の江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。
奈良屋茂左衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B1%8B%E8%8C%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
江戸時代中期の江戸の材木商。通称奈良茂(ならも)。姓は神田。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624年-1644年)以降、代々江戸深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。
柳沢出羽守(吉保)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D
万治元年12月8日(1658年12月31日) - 正徳4年11月2日(1714年12月8日))は、江戸時代前期の幕府側用人、譜代大名。はじめは小身の小姓であったが、第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。官位は従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)。
佐々木文山http://www.db.fks.ed.jp/txt/10090.002/html/00162.html

江戸時代中期の書家として代表的な佐々木文山(一六五九~一七三五)である。文山は、磐城平藩主・内藤政樹に召抱えられていた能書家であった。
○ 遊扇http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm
鎌倉仏師より二十二代目に当る大仏師・民部の遊里名。
角蝶
http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm「色の村田の中将や」と在原業平に譬えられた美男子の商人・村田半兵衛の遊里名。

木曜日, 3月 22, 2007

其角とその周辺・二(十~二十)


画像:松尾芭蕉

(謎解き・十)

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

二十三 この其角の難解句(謎句)の「鮫の髄」について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

「春の残雪の季節に山の中腹から麓にかけて見られる残雪の縞模様や残雪と谷や森が織りなすがほわほわした感じを形容したようですね。 其角は小諸あたりから残雪の浅間山や四阿山をながめたのでしょうか。疑問:鮫の骨は軟骨でそれ自体柔らかい。その中にさらに柔らかい骨髄が入っているのか。ふにゅふにゅ感を強調するため、もしも存在したらという言葉の洒落かも。」

この情報とあわせ、『其角俳句評釈』の著を持つ、河東碧梧桐の「『三千里』北海道(抄)」の
アドレスとその記事の一部が付せられていた。

http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-42kh-sanzenri-17.htm

「倶知安で蝦夷富士の一点一画もまぎれない晴々としたのを仰ぐ。雪は中腹以上に残っておって、中腹以下は谷々にうねうねした鮫の髄を残しておる。」

上記で、この「残雪」は、「雪形」・「雪占」(ゆきうら)との別称があり、「山や野に消え残る雪の形によって、農作業の時期を測り、また、その年の豊凶を占う」もので、古来から、地方・地方で、いろいろな伝承が今に残されている。関西から関東(宇都宮)へ移住されて、精神科の医師で、俳句の実作と評論に大きな足跡を残した、平畑静塔氏に次の「雪占」の句がある。

○ みちばたに名は何といふ残雪か (静塔・『栃木集』・「日光」)

次のアドレスで、これらの「雪形」写真を見ることができる。

http://www.scenicbyway.jp/2004backnumber/special/back/200403/special_s2.html

 蘭氏の「鮫の髄」の「髄」関連の疑問は、「この髄は、脊髄で、その残雪が序々に消えていき、鮫(全体の形)→鮫の脊髄(一部溶けた形)→鮫の髄(さらに溶けた形)との洒落ともとれなくもない」。ただ、この「雪形」・「雪占」の句とすると、「千曲川春ゆく水や」というよりも「浅間山春めく峰や」のスタイルになると思うのだが、それらも、ひっくるめて(それらを「省略」の技法で省略して)のものともとれなくもない。

いずれにしろ、これらのところに、この謎句を解くヒントが隠されているように思われる。

さて、これまた、蘭氏より紹介のあった、『其角俳句と江戸の春』(半藤一利著)を手にして、「日本」に関する次の一句(その解説を含めて)が目に入ってきたのである。

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)
※ とにかく何のことやらさっぱりの句である。(中略) 「大根」の名はどこから? これが、なんと、『日本書記』なんである。(中略) 句の比叡山とは、こりゃ、天台宗の総本山の延暦寺のことだよ、と思い当った。この寺院は昔は天台根本三千坊を豪語していた。この「台根」すなわちダイコンで、また、大根の千切り三千本と、其角は大いにシャレてつくったな、と判定した。当っているかどうか、保証できぬ。それにしても、意地悪く、下手に洒落た句であることよ。(半藤・前掲書)

ここで、またまた、蘭さん始め、『日本書記』・『古事記』に造詣のある狸さんなどの「俳諧ネット」のお知恵を拝借したいのである。

(謎解き・十一)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)

二十四 この半藤一利さんが、「とにかく何のことやらさっぱりの句である」と嘆いた句についての、
蘭氏の解は次のとおりである。

※「日本の」と大きく出たのは、比叡山が日本仏教の母山ということでしょう。
ネット記事【比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、また、日本仏教の母山でもあります。この比叡山は多くの名僧・高僧を輩出しました。浄土宗の法然上人、日蓮宗の日蓮上人、浄土真宗の親鸞聖人、曹洞宗の道元禅師、臨済宗の栄西禅師等々、後に日本仏教の各宗派をお開きになった開祖・宗祖が一度は比叡山に登り、その修行の中で悟りを開かれたことから、仏教の母山と呼ばれています。】
比叡山では、現在、秋の紅葉祭と除夜の鐘で、大根炊きをして参詣者にふるまっているようです。場所は例の天台根本中堂前。今でも多くの寺が大根炊をしており、母山の昔からの行事なのでしょう。

http://network.biwako-visitors.jp/event/event_3457_city101.html
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/yamanobe/02.html

風呂吹と大根炊は、厳密には料理として違うのでしょうが、大根を炊き、あつあつを食べることが共通しています。 其角はこの状態と寺に対する思いを句に仕立てたのでしょうか。
ほめている(比叡山は精進料理のチャンピオン、風呂吹大根も日本一だ)か、ちゃかして、けなしている(比叡山は日本仏教の母山というが、仏教界、僧侶の堕落はどうだ、幕府の手先となり葬式仏教に成り下がり、修行もしないで大根炊きばかりしているなら、日本
一の風呂吹きとでも改名したらどうだ)か、どちらかでしょうか。私は後者のような気がします。

汀女教の狸氏の情報は次のとおり。

※比叡山、日本仏教の母山ということで、そういえば親鸞上人も若き日修行され、その後山を降り、法然上人に師事、都を出て新潟から茨城へ・・・など読んだ記憶があります。
うちは浄土真宗なので、もっと親鸞上人のことを知りたかったからです。とはいえ、やはり汀女宗なので、「といへ」に反応してしまいました。

○ 延着といへ春暁の関門に    汀女

(自選自解汀女集より)「長旅の夜汽車、どこかで事故があって、私の列車はいつのまにか、相当に延着のまま下関に着いた。たとえ、それにしても、またそれゆえにこそ、いっそう今ここまで着き得たことがうれしいのであった。(中略)関門海峡を越えることは、九州生まれの私には、いつもながら特別の感情を持たせるようである。」

とあり、其角さんの句も、比叡山に到着したうれしさと感慨を詠んでいるのかなと、まず読んでみました。(たとえ、日本の風呂吹、それにしても風呂吹大根、またそれゆえにこそ、いっそう、比叡山、ああ比叡山に来たもんだ。)

この蘭・狸両氏の「大根」説と違う観点の解ありやと、ネット情報を検索したところ、「伊勢の風呂吹き」(蒸し風呂)に関するものが出てきた。

http://members.jcom.home.ne.jp/3111223201/mutama/mutama4/mutama4no03.htm#d3no12

○ 聲を直して戻る風呂吹 (武玉川四篇)
 
※『研究』では、「風呂吹」を「風呂吹き大根(あるいは蕪)」の意味に解釈しており、それでも意味が通じないことはないのですが、わたしは、この「風呂吹」は、本来の意味の、蒸し風呂で吹くことではないかと思います。『甲陽軍鑑』に、「風呂はいづれ國にも候へ共、伊勢風呂と申。子細は伊勢の國衆ほど、熱き風呂を好みて能く吹き申さるゝにつけて…」とあり、これは蒸し風呂で吹いて風を送り、熱い風で、吹かれた身体の部分を熱くすることです。

http://beth.nara-edu.ac.jp/NYOHITSU/ny01-035.htm

風邪の時などには、加湿器や蒸気吸入器で、ノドを潤し、温めますね。この句では、蒸し風呂で吹いて、ノドを十分に潤(うるお)すとともに温め、風邪の声か、寒声などで傷めた声を、治したのでしょう。

また、謡曲「楊貴妃」関連の次のものなども貴重な情報のようにも思われる。

http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Nohpage/NohSenryu/Nohsen07Yokihi/NohSenryu07.html

○ やまとことばはおくびにも貴妃出さず (柳樽十九・2)
○ 日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ (柳樽二十・25)
○ 三千の一は日本のまわしもの     (柳筥二・24)

ここで、「大根」説と「蒸し風呂」説との、どちらに、一票を投ずるかと、振り出しに戻って、この其角の句が集録されている原典にあたったところ、その原典の『五元集』の、簡単な校注などが施されている、『其角発句集』(坎窩久蔵校訂・文化十一年版)には、次のとおりの校注が施されていたのである。

※叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也。

これは、全く、半藤一利さんと同じもので、半藤さんも、これにあやかったのだということで、どうやら、多数説は、この「風呂吹き」は「大根」のようである。しかし、『武玉川』などの「蒸し風呂」説も、まだまだ、捨てがたい。

(謎解き・十二)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山           (『五元集』)
○ 日の本のふろ吹(ふき)といへ比叡山(ひえのやま)(『古典文学大系本』)

二十五 其角の謎句の一つ、「日本の風呂吹といへ比叡山」について、その「日本」と「風呂吹」とに目が行って、どうも、「比叡山」をおろそかにしていたきらいが無くもない。たまたま目にした、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』によると「比叡山」(ひえいざん)ではなく(ひえのやま)とルビが付せられているのである。これだと、其角三百回忌の今日に相応しい、そして、「奇計・奇抜」な「其角」に相応しい、もう一つの鑑賞案が浮かんできたのである。この「比叡山」(ひえのやま)は、「比叡山」(ひえいざん)と「ひえのやま」(相撲取りの四股名などで相手を冷やかし気分で使っている。そして、「冷え症」、あるいは「身も心も寒さで冷えてしまった」人への語り掛けの措辞)が掛けられているのではないかと、そういう思いが去来したのである。これだと、この謎句の表面の句意などは次のとおりになる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」の、「日の本」一の、熱々の「風呂吹」き「大根」を所望せよ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

さらに、「はなやかな伊達を好み、鬼面人を驚かす巧みな技をもち、たった十七文字のなかにそれを見事に滑りこませる、さらに雑学に富み、伝統の和歌といわず、漢詩といわず、下世話な物語といわず、謡曲狂言といわず、古典文学といわず、手当たり次第に自家薬籠中のものとして句に織り込んでいる」(半藤・前掲書)、異才中の大異才、「晋其角」は、この句の背後に、謡曲「楊貴妃」を、こっそりと滑りこませているのではなかろうか。この唐土の絶世美女・楊貴妃は、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」と玄宗皇帝を愛の虜にし、中国の歴史を大きく転換してしまった歴史上の大女傑である。そして、この楊貴妃は、日本において、謡曲「楊貴妃」の中で、日本名は、「熱田明神」として、一世を風靡するに至っているのである。江戸時代の其角研究家の「坎窩久蔵」は、其角の「日本の風呂吹といへ比叡山」の句を、「叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也」と喝破したが、それを、さらに飛躍させて、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」をも、この句は内包しているという解こそ、其角三百回忌の今日に相応しい、奇抜・奇計な解なのではなかろうか。その観点での背後の句意は次のとおりとなる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」で、「中国」の「楊貴妃」の「日本」での化身の「熱田明神」の如きの絶世の美女を湯女にして、「日の本」一の、熱々の「風呂吹き」の「蒸し風呂」で、身を委ねなされ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

どうにも、この「楊貴妃」関連の「風呂吹き」(蒸し風呂)の鑑賞こそ、何故か、吾らの愛する其角さんに、最も相応しいように思われるのだが、とにもかくにも、「日本の風呂吹といへ比叡山」の一つの鑑賞案として、その末端に忍びこませておきたい。

さて、これらの鑑賞の切っ掛けを与えてくれた、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』
(安井小洒編 石川真弘・木村三四五校注)を含む全十六巻のデータベースが、この平成の御代になり、誕生したという。下記は、そのアドレスと、その紹介文である(このCD-ROM版をご使用されている方は、是非、ご一報を賜わりたいのである)。

http://imidas.shueisha.co.jp/haiku/

※『古典俳文学大系』全16巻は、芭蕉・蕪村・一茶のみならず、貞門、談林、蕉門から化政・天保期に至るまでの室町、江戸期の主要な撰集や俳論・俳文、書簡を網羅した画期的な企画である。当社より1970年から72年に刊行されて以来、いまなお、俳文学全体を俯瞰しうる基本的文献として、多くの研究者・愛好家に広く活用され、高い評価を得ている。
本企画は、この全16巻の書籍データと増補8集を1枚のCD-ROMに収めることにより、これらの優れた業績を21世紀に甦らせ、さらには、句・連句・作者・出典等のインデックスの作成とその検索システムを開発して、あらたなデータベースの構築を企図するものである。俳文学の表現研究のみならず、国語学の語彙研究、地域文化研究、また、俳句実作をも飛躍的に高める必須のツールとして、研究者・実作者・愛好家に長く愛用されよう。


(謎解き・十三)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山  (其角)


二十六 この其角の句について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

※其角は江戸の出身と思っていたら近江だという記事をみて、ネットの地図で調べてみました。其角の父は堅田の出身で膳所藩の医師。堅田は琵琶湖の南。その南隣が平安時代からにぎわったという雄琴温泉。雄琴温泉は、東が琵琶湖の畔、比叡山の山麓で昔は男の遊び場だった。南隣は、比叡山坂本(明智光秀の坂本城があったところ)。風呂吹は、蒸し風呂を吹くこととして。これをふまえて、くだんの句を解釈すると、「比叡山の麓の雄琴温泉の繁盛ぶりを見ていると、あたかも比叡山が雄琴温泉の風呂吹きをしているように思えることよ。日の本の風呂吹きだ。」風呂はもともと寺僧との関係から出て来たようですね。ネット記事。【「風呂」という言葉はどこから来たのかというと、昔、僧侶が風呂屋者(ふろやもの)という人たちに石や土の室(むろ)を築かせ、ここに蒸風呂を作らせたことが始まりと言われます。】また【風呂屋者とは、風呂屋にいた遊女。ふろおんな。湯女ゆな。】ともあります。若い頃大阪に赴任したとき、最初の社内旅行が雄琴温泉でした。雄琴温泉に行くというとみんなにやつくのです。その理由は行ってわかりました。後者の意味の風呂屋者が商売をしそうな施設がきらきらとたくさんあって、うぶなわたくしは、恥ずかしかったです。信長が焼き討ちした頃とか、比叡山のすすんだ僧たちも通っていたのでしょうか。寺の風呂として。其角さんの句は、どうも男の遊び場の方にすぐ結びついてしまうようです。
※また、先の狸氏の解の添書きのような形で、「『日本の風呂吹』がやはり謎です。琵琶湖が風呂で、焼き討ちに遭ったり、なにかとトラブルな叡山を風呂釜吹きに見立てているのかいないのか、そんな感じをうけました。『大根』が日本書記をみるときの注目ポイントとなりました」。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

先のこの句の「鮫」についても、活字情報(大曲駒村編著『川柳大辞典』(上)・粕谷宏紀編『川柳大辞典』)で、次のようなものもある。

※鮫=柳沢吉保の室、お鮫の方。吉保は将軍綱吉の殊遇を受け、小姓組より寛永元年には大和郡山で十五万石に封せられた。更に一躍百万石の太守たらんとし、其の室お鮫の方をして種々にたくらまさせ、遂に甲斐、信濃で百万石を追って与ふるであろうとの墨付けを得るに至った。其の上、自分の子甲斐守は将軍の御胤なりと称し、改めて将軍の養子としょうとしたが、御台所並びに井伊、本多、榊原等諸氏の忠臣の為に陰謀は破られ、吉保は隠居謹慎を命ぜられ、本領だけは辛うじて安堵するを得たという俗説がある。
○ 鮫が出て百万石を丸で呑み(柳多留一〇八)
○ 鮫の煮こごり百出して召すところ(柳多留一四五)
○ 鮫すでに百万石ものむところ 

どうも、際限なく「謎は謎を呼ぶ」という雰囲気でもある。


(謎解き・十四)

○ うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな (其角『五元集』)
○ 鶯の目はからし酢の涙かな (其角『芭蕉盥』)

二十七 其角の「赤穂浪士の初七日」に詠んだ句とされている。掲出の二句のうち、一般には一句目の『五元集』のもので知られている。その『五元集』には、次のような前書きがある。「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(「漢文」の詠みは『古典文学大系本』)。そして、この句の後に、「富森春帆、大高子葉、神崎竹平、これらが名は焦尾琴にも残リ聞えける也」との添書きが付せられている。この添書きの「富森春帆」は「富森助右衛門」、「大高子葉」は「大高源吾」、そして、「神崎竹平」は「神崎与五郎」で、「焦尾琴にも残リ聞えける也」とは、其角選集の「焦尾琴にその句と名が記されている」、即ち、この三人は「其角門の俳人」であるということを付記しているのである。この三人の他に「萱野三平」(俳号・涓泉)も其角門の俳人である。先の、「千曲川春ゆく水や鮫の髄」の「鮫」に関連しての「柳沢吉保」も当時の幕政の中心人物である。下記のアドレスでの「忠臣蔵と元禄群像」(中江克己稿)のうち、其角と其角門の俳人に関連する人達を抜き書きすると次のとおりとなる。

http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict005.htm

徳川綱吉(性急な処断) 柳沢吉保(幕政の実権を握った側用人) 土屋主税(討入りの物音を聞いた隣家の主) 浅野内匠頭(悲劇のはじまり) 吉良上野介(斬りつけられた理由) 大石内蔵助 (昼行灯が咲かせた武士道の華) 富森助右衛門(大目付への討入り報告) 大高源五(「煤竹売り」の俳人) 神崎与五郎(「吾妻下り堪忍袋」) 萱野三平(悲しき自刃) 荻生徂徠(赤穂浪士の切腹) 室鳩巣(四十七士は「義士」)

さて、掲出の其角の句、「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」は、『古今集』巻二の大伴黒主の作「春雨のふるは涙かさくら花ちるをおしまぬ人しなければ」を本歌取りしての、西山宗因の「からし酢にふるは泪か桜鯛」の句を本句取りししての一句という(半藤・前掲書)。「そこで、『うぐひすに』の句である。『蕉影余韻』(昭和五年)という文献によれば、浪士自刃の初七日に詠まれたものであるそうな。それにしても、『なみだ』で悼句であることはわかっても、あとは難解にすぎて、見当もつかない」(半藤・前掲書)と、匙を投げている。前書きの観点からすると、それほどの難解句とも思われないのだが、これは、謎句(難解句)の部類に入るのであろうか。別な句形のもの(掲出の『芭蕉盥』の句)もあるし、前書き、そして、添書きからして、難解句ではあるかも知れないが、決して、謎そのものを目的としているような「謎句」ではないであろう。この其角の句は、「赤穂浪士に切腹を命じた」、時の幕府に対する、其角の痛烈な批判の句といって差し支えなかろう。それは、上記のアドレスの「赤穂浪士たちは翌元禄十六年二月四日、切腹を命じられる。主君の仇討ちをしながらも、『天下の法に照らせば罪人』とされたのだ。そうした幕府の処断に、批判の声もあった。『忠孝の二字を羽虫が食いにけり 世を逆さまに裁く老中』、この狂歌は、その一例である」の、この狂歌のようなものと解したい。
(この掲出の其角の「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」の句について、自由解やら感想やら、何なりと情報をお寄せいただきたいのである。)

(謎解き・十五)

○ 花の仇(あだ)月を重ねて雪で打ち (柳二七)
○ 花の仇雪で打ちたる本望さ     (柳五九)
○ 花の敵(かたき)を雪で打つ本望さ (柳二七)

二十八 ○「花」はいずれの句も、花(桜)が咲く月、つまり旧暦三月を意味する。三月のことを「花月」「花つ月」「花見月」ともいう。浅野内匠頭が江戸城で刃傷沙汰および切腹したのは元禄十四年三月十四日、すなわち花が咲く月であった。そのときの仇(敵)を、月を重ねた後に雪の日に討った。望みがかなって満足である。「花」(花月)と「雪」で、四季おりおりのよき眺め、風雅の趣きである「雪月花」が完成することになる。その点でも「本望」であった(北嶋広敏著『江戸川柳で見る忠臣蔵物語』)。
※この「謎句を解く」のスタート時点の「月花や日本にまはる舌の先」(『俳諧桃桜』)の「月花」も、この「花月」と同じく旧暦三月の意と解することもできよう。「花月」と「雪」とで、「雪月花」の「風雅が完成」して、「本望」を遂げたということも、謎解きの定石として理解しておく一つであろう。

○ 大手が二十四からめてが二十三 (柳二三)
○ 忠義にも表のかたは孝の数   (柳九一)
○ ねぼけたで四百七人ほどに見え (柳一一)

二十九 ○「表門組」は大石内蔵助が指揮し、原惣右衛門と間瀬久太夫が補佐した。堀部弥兵衛、大高源吾、武林唯七、間十次郎などが表門組に属し、その人数は二十四名であった。一方、二十三名で構成された裏門組は、大石主税が大将をつとめ、吉田忠左衛門と小野寺十内が補佐した。二句目は中国の「二十四孝」を反映させている。三句目の「四百七人」は、討ち入った赤穂浪士は、四十七人で、その「四」と「七」とを生かし、「四百七人」とすることで討ち入りを暗示している(北嶋・前掲書)。
※この数詞のトリックも「謎解き」の定石の一つであろう。

○ 一世(いっせ)二世(にせ)すてて三世(さんぜ)の仇を討ち(柳五〇)
○ 一世二世去つて夜討ちの本望さ (柳五〇)
○ 百四十一世重なる仇を討ち (柳九五)

三十 ○「子は一世、夫婦は二世、主従は三世」ということわざがある。親子の関係はこの世かぎりのもの、夫婦の関係は現世(現在)と来世(未来)にわたるもの。主従の関係は三世(過去・現在・未来)にわたるものという意味。赤穂浪士たちは一世(親子の縁)、二世(夫婦の縁)を捨てて、三世(主従関係)の仇討ちをした。二句目の「去る」には離縁するという意味があり、その意味も加味されているようである。一世二世を捨て(そして離縁し)、主の仇討ちができて本望である。なお、大石内蔵助は討ち入りに先立ち、妻と離縁している。四十七人で三世の仇を討った。だから四十七×三=百四十一世というわけである(北嶋・前掲書)。
※川柳の特質は「うがち」をその一つとしているといわれる。「うがち」とは、「あらゆる事象に穴をあけ、人が気づかないこと、見落としていることを拾いあげ、五七五・十七文字をもって、われわれの目の前に突き出して見せる。しかし、ありふれた『うがち』では人を感心させることはできない。えぐり出したものをそのまま見せたのでは読む人の心を動かすことはできない。穴をどうやってあけ、隠れた部分をどうやって見せるか、そこが決めてになる」(北嶋・前掲書)。其角の「謎句」は、上記に見てきた、掲出の柳人の凡なる「うがち」の域をはるかに超えて、非凡なる超弩級の「うがち」の世界と換言することもできよう。

(謎解き・十六)

○ なき跡もなお塩梅の芽独活かな  沾徳
○ 鶯にこのからし酢はなみだかな  其角
○ 枝葉まで名こりの霜の光りかな  沾洲
○ その骨の名は空にある雲雀かな  貞佐

三十一 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、元禄十五年十二月十四日、正確には翌十五日の未明(寅の刻)のことであった。そして、翌元禄十六年二月四日に、切腹を命じられる。掲出の四句については、先の奴氏の情報で、次のような添書きが付してある。
「翌年春(註・元禄十七年か?)の追悼会での発句以下四句。沾徳の句からするとこの日酒の肴に季節の和え物が出されていたのでしょうか。其角、沾徳の句には義士に対する思いがどこか酸っぱいものに感じられたのでしょう。なお其角の句はうぐいす、からしすと韻を踏んでいます。」
この添書きとともに、次のような文面で、赤穂浪士の討ち入り当日に、其角らは、忘年会をやっていて、その忘年会の席上で、その討ち入りを知ったとの記事とその記事の基になっているアドレスが紹介されていた。
「討ち入り当日の事は其角が秋田の知人に当てた手紙に詳しく載っています。これによると当夜は杉風、嵐雪と忘年会をやっていたようですね。文面から興奮覚めやらぬ思いが伺われます。」

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013357&VOL_NUM=00000&KOMA=95&ITYPE=0

この記事は、明治四十一年に刊行された、元禄山人著『赤穂義士四十七士譚』(「第十六回大高源吾忠雄の事並に其角」)に紹介されているもので、実は、ここに紹介されている、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、実は、真っ赤な偽書ということなのである(半藤・前掲書)。確かに、この書面に出て来る、「我が雪と思へばかろし笠の上」は、元禄五年刊行の『雑談集』に出てくるもので、さらに、大高源吾の句とされている「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句も其角の句ということである(半藤・前掲書)。次の大高源吾(書面では「子葉」)から沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)、さらには、その書面の次の「かくて其翌年の春交はりふかき人々合歓堂にて追悼ありその時の発句」として、紹介されている、上記の掲出の四句についても、その一同に会しての追悼句会でのものなのかどうか、はなはだ、あやふやの文面のようなのである。とにもかくにも、掲出句の作者、水間沾徳・宝井其角・桑岡貞佐・貴志沾州の四人は、芭蕉没後の江戸俳壇を牛耳った江戸座の大宗匠達で、赤穂浪士の代表的な俳人・大高子葉(源吾)と密接な俳人ではあったのであろう。なお、其角の「からし酢」に関連するかどうかはともかくとして、「卯月の筍、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我さへ精進物の立がたになれば、東湖、仙水等とうなづきあひて」との前書きのある、次の一句があるとのことである(半藤・前掲書)

○ 初鰹江戸のからしは四季の汁 (子葉)


(謎解き・十七)

○ 大高の紙へ其角が別れの句(柳九五)
○ 煤払いのあした汚れた名を雪(そそ)ぎ(柳九五)
○ 竹売りの秀句子葉の名がしげり (柳一一四)
○ 宝舟夢のようだと其角言い (しげり柳)

三十二 一句目は、両国橋で其角と源吾とが出合い、其角が、「年の瀬や水の流れも人の身も」と詠み、源吾が「あした待たるるその宝船」と応答した場面の句。二句目の煤払いの句は、煤竹売りに変装していた源吾が、その翌日討ち入りを果たして汚名を返上したとの句。三句目も、竹売りの源吾が「宝船の句」で、その号の「子葉」を繁らせたというもの。四句目は、源吾の「宝船の句」と関連させ、赤穂浪士の討ち入りの成功が「夢のようだ」と其角をして言わしめたもの。しかし、これらは、いずれも、虚構の作り話に基づくもののようなのである(北嶋・前掲書)。なお、上記の一句目・二句目が集録されている『柳樽九十五篇』は、一茶が没した文政十年(一八二七)刊行で、「仮名手本忠臣蔵」の特集号となっている。
三十三 上記の其角と源吾とが登場する歌舞伎は、「松浦の太鼓」で、次のアドレスなどで詳しい(その一部を抜粋しておきたい。その抜粋中、「発句」と「挙句」の説明が、「連句」の定石の説明でないのが、これまた、虚構の作り話めいていて面白い)。

http://kairos.web.infoseek.co.jp/kabuki33.htm

○赤穂浪士の一人で、師走のすす払いの笹売りに身をやつす大高源吾(中村橋之助・成駒屋)は茶の湯や俳句をたしなむ風流人、両国橋のたもとで久々に俳諧の師匠の宝井其角(坂東弥十郎・大和屋)に出会います。其角は縁台を持ち出して世間話をし、源吾があまりにみすぼらしい格好をしているので、松浦の殿様から頂いた紋付を着せてあげます。そして別れる時源吾に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句(ほっく)します。その心はと云うと、源吾は「あしたまたるるその宝船」と挙句(あげく)して去ります。其角は源吾が討ち入りを断念したのだと読みました。しかし源吾は、本当は明日討入りのため、吉良邸の周りを探索に来ていたのでした。
○翌日の夜、吉良邸に隣接する肥前平戸藩の松浦鎮信(中村勘三郎・中村屋)の屋敷で句会が催され、和やかに進んでいたのですが、其角の口利きで松浦家の屋敷に奉公に上がっていた源吾の妹お縫(おぬい=中村勘太郎・中村屋)がお茶を立てているのを見た殿様は機嫌が悪くなってしまいます。さらに追い討ちを駆ける様に其角が昨日源吾に会った話しをし、赤穂浪士も見下げたものだと嘆きます。鎮信は軍学者の山鹿素行(やまがそこう)の下で同門だった赤穂の大石内蔵助が、松浦邸隣家の吉良上野介をいつまでも討たないことに腹を立て、そんな腰抜けどもに連なる者を屋敷に置いておくわけにはいかないと云います。其角はお縫いを伴って帰ることにし、ふと、昨日の源吾の挙句を口にします。それを耳にした殿様は二人を呼び止め、突然「わかった」と膝を打ちます。けげんな顔をする其角。とその時、太鼓の音が聞こえてきます。特徴のある打ち方(山鹿流)に気が付いた殿様は大喜びです。そこへ家来がやって来て赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったことを知らせます。それでこそ赤穂浪士だ、武士道は地に落ちていないと喜び、帰りかける二人を呼び戻して詫び、火事装束の用意と馬を用意しろと叫ぶのでした。
○ここは松浦藩の玄関先、赤穂浪士の助太刀をすると馬で飛び出さんばかりの殿様を家臣が押しとどめていると、討ち入りの装束をした大高源吾が現れ挙句の意味を理解してくれた事を喜び、そして吉良義央の首を討ち取り、本懐を遂げた経過報告をします。其角が源吾に時世の句を所望すると「山を抜く力も折れて松の雪」と詠み、風流人として生涯を締めくくる覚悟に殿様・松浦鎮信は感じ入るのでした。

(謎解き・十八)

○ 泉岳寺他宗もみんな引き受ける (柳一九)
○ いろはにほへどちりぬるは泉岳寺 (柳九五)

三十三 一句目は、泉岳寺は曹洞宗のお寺であるが、いろいろな宗派の赤穂浪士たちを一括埋葬しているの句。二句目は泉岳寺に葬られた「いろは四十七士」の句。この泉岳寺について、奴氏からのメッセージに次のような添書きがあった。
「『類柑子』は其角の手になるものですか? 行尊の墓参りの帰りに泉岳寺に寄ったことが出ていますね。」 
『類柑子』は、宝永四年(一七〇七)に刊行された、沾洲・秋色・青流(空)編による、其角の遺稿集である。柴田宵曲著『蕉門の人々』(「其角」)に、次のような『類柑子』(「松の塵」)の、其角の遺稿文が収められている。
「文月十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等の俤、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そぞろに心頭にかかれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおほひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草になして、亡霊聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。」
この其角の一文により、赤穂四十七士の新盆の元禄十六年当時の泉岳寺が、「墓所参詣を許さず、草の丈でその墓所が見えない」という、時の幕府の赤穂四十七士への姿勢を如実に見ることができる。彼等は時の幕府に楯突いた、いわゆる、犯罪者であるという、この事実である。そういう厳しい情勢の中で、其角は敢然と挑戦しているのである。

三十四 この『類柑子』に出てくる「上行寺」は、其角の菩提寺なのだが、永井荷風の『断腸亭日乗』(昭和三十一年十一月二十九日)に、「(前略)其車にて白金上行寺及高野山某寺に至り写真撮影。(後略)」とあり、『日和下駄』には、「日本榎高野山の向側なる上行寺は、其角の墓ある故に人の知る処である。私は本堂に立つてゐる崖の上から摺鉢の底のやうなこの上行寺の墓地全体を覗き見る有様をば、其角の墓諸共に忘れがたく思つてゐる」(「崖」)とある。江戸・東京と連なる大きな文芸史の一角を占める、永井荷風が、その江戸・東京の文芸史の元祖のような、宝井其角と深いつながりがあるのである。そして、荷風が愛して止まなかった、この上行寺付近は、開発のラッシユで、「寺は神奈川県伊勢原市に移転し、一緒に其角の墓も江戸を離れてしまったという」(半藤・前掲書)。
この伊勢原市に移転した「上行寺」が、次のアドレスの、「其角三百回文学忌 ホームページ」というサイトで、「上行寺」・「其角墓」・「其角木像」などをつぶさに見ることができるのである。この管理人の二上貴夫氏は次のように記している。

○このサイトを制作・管理している、二上貴夫(フタカミキフウ)です。或る年の暮れでしたか、神田の古書店を歩いていて見つけた勝峯晋風編『其角全集』を読み、はじめて日本に固有の文芸「俳諧」がある事を知りました。「俳諧」を知るには実作しか無いと思い、それで平成元年頃より、俳句・連句を作り川柳も読み始めました。
それまで、石原吉郎の詩を読んで詩を書いた事はあったのですが、俳句・連句の文体と詩の文体とはかなりちがいますね、それに暫く戸惑いながらの実作でした。そこまでして「俳諧」の実作に打ち込んだのは、「其角には何か在る」と思ったからですが、其角全集を読めるようになるには、発句連句を作るという体験から入るほか無いと思ったからです。
そうこうして、六年ほど前、神奈川県の秦野へ移り住みましたところ、其角の墓が在る上行寺は車で15分の近くだと知りました。奇縁を感じました。それで、ご住職にお話をうかがうと、墓は無縁仏になっておりお寺で草取りをしているとの事で、其角三百回忌をする者もいないらしいとのこと。本当にダレもいないのだと思うと信じ難い気持ちがこみ上げて、これは故人への敬意としてどんなにささやかなものでも三百回忌の追善をしようと思いました。

http://kikaku.boo.jp/tuizen.html

(謎解き・十九)

○ 夕立や田をみめぐりの神ならば (其角『五元集』)
○ 三巡(めぐ)りの日向ぼこしに出たりけり (一茶『七番日記』)

三十五 其角のこの句には、「牛島三めぐりの神前に雨乞ひするものにかはりて」との前書きがあり、さらに、添書きに「翌日雨ふる」とある。「三囲(めぐり)」神社の「みめぐり」と「見巡(めぐり)り」の「みめぐり」と「恵(めぐ)み(の夕立)」の「めぐみ」とを掛け、さらに、「折句」スタイルで、上五文字の頭の「ゆ」、中七文字の「た」、下五文字の「か」で、「ゆたか(豊か)」の語を折り込んで、夕立の「豊か」と豊作の「豊か」を祈願した、どうにも、「言葉遊戯」の句というよりも、「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」「そらみつ大和の國は……言靈の幸ふ國と語り繼ぎ言ひ繼がひけり」(『万葉集』)の、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術師」のような趣なのである。そして、其角のこの呪術は験を表わして、「翌日雨降る」と相成り、俳諧師・宝井其角の名は江戸中に広まったというのである。その其角去って、およそ百年後の、一茶が、大の其角ファンなのであるが、その其角を偲んで、隅田堤の下の、この三囲稲荷神社に赴いたところ、「雨ではなく日向の真っ盛り」の、それであったというのが、掲出の一茶の句である。一茶には、もう一つ、「十五夜や田を三巡りの神の雨」(文化二年)との「三巡り」の句があるというのだが(半藤一利著『一茶俳句と遊ぶ』・『其角俳句と江戸の春』)、由緒のある「古典俳文学大系本十五巻」(集英社)の『一茶集』(丸山一彦他校注)には、掲出の句は収載されているが、こちらのものは収載されていない。
さて、その其角去って、三百年、一茶去って、約二百年後の、平成十九年(二〇〇七)の「三囲稲荷神社」周辺の蘭氏のレポートは下記のとおりである。

○ 隅田川は、あいかわらずゆうゆうと流れていた。都鳥がいっぱい流れに身を任せて浮かんでいる。

  行水の何にとどまる海苔の味    其角
  隅田川とはにたゆたへ冬鴎     春蘭

駒形橋を渡って川岸を北上する。日陰で北風がよけいに身にしみる。言問橋の通りを横切って川と平行の道を北に進む。三囲稲荷神社の鳥居が見えて来た。こここそ、この旅を思いつく発端となった其角の雨乞いの句が詠まれた所だ。句碑と説明が社殿の真ん前にあった。

  遊ふた地や田を見めぐりの神ならば 其角

ただちに夕立が降ったという説と翌日という説があるが、其角の『五元集』には「翌日雨ふる」と後書がある。

  みめぐりの社ぐるりと冬木風    春蘭

其角は門人と吉原に行く途中だったという。其角の住いは茅場町、そこから猪牙舟に乗って隅田川をさかのぼり、丁度対岸の山谷堀に進路を変えるところが三囲神社あたりで、参詣のために一度舟を降りたのだろう。山谷堀に入り込む舟が込み合っていて一時休憩の場でもあったのだろうか。トイレ休憩を詠んだ川柳もあるがおげれつなので書かない。雨乞いしたあと、其角はまた舟に乗って山谷堀に入り、吉原に向かったであろう。私もその後を追う。今は言問橋がある。川にぷかぷか浮かんでいる都鳥を間近に見て、その大きさに改めて驚いた。君たちはあひるか。

  其の後をいざ言問とはん都鳥    春蘭

言問橋を渡って隅田公園をちょっと北上すると待乳山聖天に出る。ここは、その昔、山谷堀、吉原への目印となっていたという。山谷堀はすっかり埋め立てられ(暗渠?)長い公園となっている。桜の木が植えられており、ところどころに老人が朝から座ってひなたぼっこをしている。どういう訳か男性としか合わない。 

以下、文章は省略して、歌・句のみ記しておきたい。

(土手の伊勢屋)

  臨休の貼紙まえに侘び立てば
      土手の伊勢屋にあたる北風  春蘭

(吉原大門)

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉     其角
  鯛は花江戸に生まれてけふの月    同
  呼び込みの声はやさしく金瓶梅   春蘭
  太夫とはマイフェアレディと心得よ  同
  冬日影苦界浄土の夢があと      同 

(吉原神社&吉原弁財天)

  白菊のはなにひきなくおく露は
     なき人しのぶなみだなりけり 智栄 

  この廓や月雪花も三菩薩      黒澤槭翠?

  日本では観音菩薩は女郎なり    春蘭
  寒影や花のよし原なごりの碑     同
  紅楼は夢か弁天寒を裂く       同

(鷲神社・大音寺)

  梅が香や乞食の家ものぞかるる   其角

(飛不動・寿永寺・日黄不動尊・浄閑寺)  

  寒風に匂ふ紫煙や無縁塚      春蘭

(三ノ輪商店街)

  十五から酒をのみ出てけふの月   其角
  白菜に一本付けておかめ蕎麦    春蘭

(都電荒川線)
  
  北風や道路に負ける荒川線     春蘭
  春隣都電でのぼる飛鳥山       同
  早稲田まで揺られてさめる寒の酒   同 

 
(謎解き・二十)

○ 立馬(たつうま)の曰(いわく)は猿の華心(其角『五元集』)

三十六 この掲出句には、「意馬心猿の解」という前書きがある。この「意馬心猿」は、「仏 。妄念や煩悩(ぼんのう)が激しく、心の乱れが抑えられないのを、奔馬や野猿が騒ぐのを抑えがたいさまにたとえた語」(『大辞林』)との仏教用語である。そして、この「解」には「解釈」と「分解」との二義があるという(今泉準一『其角と芭蕉と』)。この「分解」の意に解すると、この掲出句は、「意馬心猿」の「意」が分解されて、「立つ馬の」の「立」と、「曰くは」の「曰」と、「猿の心」の「心」の三つに分解して、一句の中に、「立(裁)ち入れ」(詠み込まれ)られているとともに、さらに、「馬・心・猿」の三字をも「立(裁)ち入」(詠み込まれ)られているのである。このようなある語(ある字)を一句の中に入れて詠むのを、和歌では「隠題(かくしだい)」、俳諧では、「立(裁)ち入れ」と呼ばれている(今泉・前掲書)。この句もまた、これらの「言葉遊戯」の句を超越して、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術」のような趣なのである。すなわち、この前書きの「解」を「解釈」としてとらえて、この句の表面的な解釈は「馬が突然立ち上がるのは、それはそれなりに、曰く(意味)があって、それは、いわば、猿のさかりのついた浮気心と同じようなものだ」ということになる。そして、その背後には、「その猿の本能的な華(花)心が、種族の維持につながり」、そのことは強いては、「動物の生命現象の根底に存在するものだ」と、「言挙げの呪術師」の宝井其角は、「人間とて同じことであって、『意馬心猿』に徹し、極端な『戒律主義』に走ることは、まかりならない」ということを、この句に託しているのだという(今泉・前掲書)。其角の「謎句」の実態というのは、こういう、「言葉のレトリック(修字法・美辞麗句)」という世界を超越して、「言挙げの呪術」(神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念。まじない・魔法・魔術など)の世界に近いもののように思われてくるのである。
(ここで、「歌仙」の三十六句の「挙句」という感じなのであるが、さらに、「続けられる」ところまで、続行することとする。)

○ けさたんとのめや菖(あやめ)の富田酒(とんだざけ)(其角『五元集拾遺』)

三十七 「今朝はたんと(十分に)呑めや菖蒲の(五月五日の端午の節句に万病を治す菖蒲酒の)富田酒(薬効に「富んだ」富田名産の「富田酒」を)」と、「十五から酒を呑み出てけふの月」の句をものにした酒好きの其角にふさわしい上戸の気持のよく現れた句であろう(今泉・前掲書)。「富田酒」に「富田名産の酒」と「菖蒲の薬効に富んだ酒」を掛けているが、其角にしては、それほど難解句というほどでもなかろう。ところが、この句は、「廻文」(「かいもん」又は「かいぶん」とも読む)との前書きがあり、いわゆる、「和歌・俳諧などで、上から読んでも下から逆に読んでも同じ音になるように作ってある文句。『たけやぶやけた』の類」の「廻文」形式の句なのである。どうにも、江戸の俳諧師の大立者・宝井其角というのは、変幻自在で、なかなか、その尻尾がつかめないのである。

○ 乾ヤ 兌 坎 震 離ス 艮 坤 巽  (其角『五元集拾遺』)

三十九 前書きに「格枝亭柱がくしに」とあり、添書きに「空や秋水ゆりはなす山おろしと御よみ候へ。下の字自然にまいり候こそ弥三五郎にて候」とある。「乾(けん)ヤ 兌(だ)  坎(かん) 震(しん) 離(り)ス 艮(ごん) 坤(こん) 巽(そん)」は、これは、『易教』の「八卦」なのだという。これを『易教』で読むと、「乾(天=空)ヤ 兌(秋) 坎(水) 震 離ス 艮(山) 坤(地) 巽(風)」となり、「空や秋水ゆりはなす山おろし」となり、「下の字自然にまいり候こそ弥三五郎(注・からくり人形の名)にて候」で、「艮(山) 坤(地) 巽(風)」は、「山おろし」と読んで欲しいということなのだそうである(今泉・前掲書)。前書きにある「格枝(其角の晩年の弟子)亭」・「柱がくし(柱の飾り)に」ということで、弟子の「格枝亭」の柱に飾りとして掛ける短冊のようなものに、『易教』の八卦の文字を組み合わせて、「易教文字」の発句という趣なのであろう。たしかに、こういうものを柱に掛けておくと、何かしら、空間芸術の趣がしてきて、これまた、「言挙げの呪術」的なスペースに思えてくる。しかし、これを、其角の発句集(俳句集)の『五元集拾遺』に集録すべきものなのかどうか、はなはだ、首を傾げたくなってくるのである。こういうことが、「其角の句は謎句が多い。難解句だらけだ。其角の句は幻術的で、衒学的だ」と、其角在世当時から、さまざまな風評を巻き起こす、その要因の一つになっているのであろう。