金曜日, 3月 23, 2007

其角とその周辺・四(三十三~四十五)


画像:英一蝶

(謎解き・三十三)

○ 蓑虫の音(ね)を聞(きき)に来(こ)よ草の庵 (芭蕉)
○ 枯枝にさがる蓑虫が冬空にしみわたり    (一蝶)

六十 掲出の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。嵐山氏は、この芭蕉の句について、「これは、貞享四年(一六八七)、深川芭蕉庵での吟である。のち、伊賀上野の弟子土芳が新庵を造ったとき、この句を贈って庵は「蓑虫庵」と名づけられた。『悲しげに鳴く蓑虫の声を聞きに、わが庵へ来い』という芭蕉の呼びかけに感動した一蝶は『枯木蓑虫図』を描いて応えた」とし、続けて、次のように記している。「墨一色でよどみなく描かれた絵を見た芭蕉は『まことに丹青淡して情こまやか也。こゝろをゞむれば虫動くがごとく、黄葉落(おつ)るかと疑ふ。耳をたれて是を聴けば、其虫声をなして、秋の風そよそよと寒(さぶ)し』と書き、自句をそえた。ここは、正確には、芭蕉の素堂の「蓑虫説」への「跋」文で、「こゝに何がし朝潮と云有。この事を伝えきゝて」という前文がある。この「何がし朝湖」が、当時の「多賀朝湖」こと、後の、「英一蝶」ということになる(白石・前掲書)。そして、掲出の一朝の句は、「英一蝶年譜」(白石・前掲書)には収載されていないものである。
六十一 上記に続けて、嵐山氏は、次のように綴っている。
○一蝶が三宅島に流罪となったのは元禄十一年(一六九八)で、芭蕉はすでに没している。吉原で遊びまわった罪で十一年の遠流は重すぎるようだが、ならば、其角はどうなるのか。其角は幕府を挑発する句を詠んでいるから流罪すれすれのところにいた。そういった遊び人種中が蕉風の俳趣味を第一としていた。俳諧は俗文学なのである。罪人すれすれのところに成立した。芭蕉を「悪党」としてしまったのは、申し訳ないが、そういう意味であると了解願いたい。芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。芭蕉の凄味は連句の場でぬっと顔を出す。江戸の蕉門は、旗本や豪商にまじって、其角を中心とする遊び人が多かった。芭蕉が没する前年の元禄六年(一六九三)、幕府が出す「生類憐れみの令」はますますエスカレートし、魚釣りが全面禁止となり、釣船営業停止となった。其角はそれをからかった句を詠んでいる。「奥のほそ道」のあとに、芭蕉が旅しようと考えていたのは長崎である。長崎は去来の故郷であった。江戸へ下ったとき、芭蕉の目にとまったのは紅毛人のカピタンであった。長崎はまるごとカピタンの町で、悪所でもあった。貿易港だから、抜荷船が出没し、磔刑、斬首となる者が続出していた。繁栄する都市に犯罪はつきもので、芭蕉の本能は都市をめざす。慾に目がくらみ、身を破滅させてしまうほどの地が芭蕉をひきよせ、そこに俳諧が成立する。山国育ちの芭蕉が、京都、名古屋、江戸を拠点にしたのはむしろ自然であった。蕉門の強さは、門人たちの闘争にあり、各派がはりあって論争したことによる。芭蕉没後、弟子たちが四分五裂したからこそ、最終的に芭蕉が残ったのである。
※多くの示唆に富んだ指摘であるが、芭蕉をして「悪党芭蕉」というのなら、其角・一蝶は、正真正銘の「大悪党」だったことだけは、その顔付きを見ただけでも間違いない。

(芭蕉像)

http://f32.aaa.livedoor.jp/~basyou/basyo/sub1022.htm

(其角像)

http://kikaku.boo.jp/photo.html

(一蝶像)

http://bz5t.asablo.jp/blog/2005/12/28/192720

この画像は不鮮明だが、次の英一蝶が描く「芭蕉像」は自画像にも近いように思われる。

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido112.htm

(謎解き・三十三)

○ 妖(バケ)ながら狐貧しき師走哉     (其角)
○ かくれけり師走の海の鵂(かいつぶり)  (芭蕉)

(六十二) 掲出の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。これらの句は「住捨(すみすて)し幻住庵にはいかなる句をか残されけん、それはそれ、さて世の中をうけたまはるに」の前書きがあり、『己が光』に収載されているものとのことである。これらの句について、嵐山氏は次のとおり記述している。

○其角の句には、師走に化けた狐の貧しき姿を詠んでドラマ性にとみ、花がある。芭蕉は、海にもぐったカイツブリを詠んで、月並みである。芭蕉の句には静寂な孤独があるものの、其角の才気あふれる句に並べると、やぼったくて、かすんでしまう。其角には江戸のしゃれたパワーがある。年があけて元禄五年(一六九二)、芭蕉は曲水へ宛てた手紙(二月十八日吐)に、俳諧者に三等の階級があるとの論を書いている。これを「三等の文」という。
一(最下級) 点取りに夢中になって勝負を争い、風雅の道がわからぬまま俳席をかけずりまわり、さわいでいる営業点者、これにより点者の妻子はぜいたくな生活をし、金銭がたまっていく。

二(第二級) お金持ちの旦那でありながら、目立ったところへは出ず、日夜、二巻三巻と点取りに夢中になり、線香が五分(ぶ)の長さに燃える間に連句一巻をする者。しかし、酒を十分に用意して、貧乏な参加者に飲ませ、点者に金をもうけさせるところはよいとする。
三(第一級) 真の風雅に精進を重ね、他人の評にとらわれず、定家(ていか)の骨髄をさぐり、西行や、中国の白楽天に学び、杜甫の精神で俳諧の道にすすむもの。

※嵐山氏の芭蕉と其角との対比についての見方である。「芭蕉が好きか、其角が好きか」となると、「芭蕉オンリー」で行くと、無性に「其角が恋しく」なるし、「其角オンリー」で行くと、これまた、「芭蕉が恋しく」なってくるという、そんなところであろうか。それにしても、上記の芭蕉の「三等の文」によると、まさしく、芭蕉は、「第一級」の俳諧師と自負していたことであろうが、芭蕉のその見方からすると、其角などは、第二級とも最下級とも思えたのではなかろうか(また、それらしき芭蕉書簡がなくもない)。そして、芭蕉から其角の時代への変遷の過程で、芭蕉のいう、「第一級」の俳諧師は姿を消し、第二級・最下級の俳諧師たちが跋扈していくこととなる。しかし、其角らには、反権威、反権力ということにおいては人後に落ちなかったということだけは顕著に感じる。その其角らが没して、白石悌三氏がいわれるごとく、「悪所に狂い風狂に身をやつす双頭の鷲であった天和の青春は、息の根をとめられ、飼いならされた俳人群は体制内に身分を保障された宗匠として、江戸座を編成し秩序の安定を計る。一蝶が深川の昔を懐かしむ心境を世の常の老境と見なしてはなるまい。牙を抜かれた一蝶が、旧作の『十二ケ月風俗図』の『跋』に『今ヤ此ノ如キ戯画ヲ事トセス』と記したのは享保二年のことであった」(白石・前掲書)。そして、その享保の幕開けの年(享保元年)に、与謝蕪村は誕生する。

※ 芭蕉の「風雅三等之文」などは、次のアドレスのものが面白い。

http://members.jcom.home.ne.jp/fuga-buriki-can/genrokuya-haiku-can3.htm

バショウが、入門して間もないヒコネ(彦根)の藩士キョリク(許六)に宛てた元禄七年二月の書簡には、各地各派の蕉門を比較した辛辣至極な激辛寸評が添えられている。
――キカク(其角)・ランセツ(嵐雪)のエド蕉門は「年々古狸よろしく鞄(つつみ)打ちはやしている」、トウリン(桃隣)は「愚風に心よせ、所々点取り俳諧の詠み口が交ざっている」、センポ(沾圃)は「力なき相撲取りの手合せを見事にしただけ」、ミノ(美濃)蕉門は「かるみを底に置いている。世上につらを出す風雅の罪はゆるしておこう」、ゼゼ蕉門は「跡先見ずに乗放たれている。世の評詞にかかはらぬ志あらはれておかしい」、ヒコネ蕉門は「世上の人をふみつぶすべき勇躰、あっぱれ風雅の武士の手業なるべし」。


(謎解き・三十四)

○ 武士(もののふ)の大根苦き話哉  (芭蕉)
○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)

(六十三) 掲出の一句目の芭蕉の句は、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)よりのものである。この句関連の氏の記述は次のとおりである。

○ 元禄六年(一六九三)三月、猶子桃印が死んだ。六月、幕府は、江戸の不法滞在者をあぶ
り出すために、各町の人別帳を提出させた。町人人口は三十五万人余。桃印は不法滞在者だから、あぶないところだった。七月、八月、九月とたてつづけに「生類憐れみの令」が頻発された。そんな最中に西鶴が没した。閉関した芭蕉は、ようやく『奥の細道』を書き終えた。西鶴についで旧弟子の嵐蘭が四十七歳で死に、其角の父東順も七十二歳で死んだ。冬になると藤堂家藩士藤堂玄虎亭にて表六句の句会がある。芭蕉の発句は、「武士の大根苦き話哉」、終日、大根を食いつつ武士のつきあいの愚痴をきいた。

この芭蕉の「武士の大根苦き話哉」関連の次のアドレスの記事が実に面白い。

http://members.jcom.home.ne.jp/fuga-buriki-can/genrokuya-haiku-can3.htm

○「モノノフノ・ダイコンニガキ・ハナシカナ」の「苦き話」を噛みつぶす思いなどは、あのラ・マンチャ村の老郷士を描いたセルバンテス翁の人生的憤懣を想起させる。
〔セルバンテスとバショウ――ニッポンで言えば、戦国時代の余燼が残る1605年に、滑稽の騎士ドン・キホーテの物語を世に問うたセルバンテスの文学に至るキャリア、それはどうにも波乱万丈で、凄まじかった。――セルバンテスは若き日、レパントの海戦で勇猛果敢に戦ったが、帰路、海賊の捕虜となり、五年間の奴隷生活を余儀なくされた。四度も脱走を試みたがことごとく失敗。また、海戦時の負傷により左手が利かなくなったことを終生の誇りにしたともいう。復員兵としてひどく遅れて祖国スペインに帰還してからのセルバンテスの生涯は、さらに不遇を極めた。三十八才で処女小説や戯曲を書くが作家になれず、十八も年の違う妻を娶ってうまく行かず、四十にして「私は筆を捨て劇作をなげうった。他になすべきことがあったからである」と不本意な就職をする。無敵艦隊の食糧調達人としてアンダルシア地方を彷徨、あげ句の果てに、教会と小麦購入の件で問題を起こして破門され、もっとましな仕事をと国王にアメリカ地域の官職を願い出て「他に適当な職を求められよ」とあっさり拒絶される。代わって、税金の徴収吏の職を得たが、集金を預けた銀行が破産し、五十才のとき投獄された。こうした不遇いっぱいの散々な人生を歩む五十男が、監獄の中から夜空の星を見上げながら、「多数の連中に持てはやされているああいう騎士道に関する群書の、根太(ねだ)のゆるんだ楼閣を覆す」意図を抱いて、あの稀代の風車に突撃する騎士像ドン・キホーテを発想したのである。そこには「跡先見ずに乗放たれている」「風雅の武士」を推奨したバショウ翁と共鳴する、孤立し切って大いに高ぶった一個の精神が認められる。老いてなおのこと、サムライイズムである。ちなみに、「武士の大根苦き話哉」の句は、元禄六年(1693年)冬、バショウが、イガ(伊賀)城付きのトウドウ(藤堂)藩士のトウドウ・ゲンコ(藤堂玄虎)をそのエド上屋敷に訪ねた折の作。大根が苦いのはシニグリンという物質が酵素(ミロシン)の働きで分解し、生じた芥子油による。昔の大根は総じて辛かったらしく、大根といえば辛い印象が強かった。バショウには、「身にしみて大根からし秋の風」(1688年)なんて作もある。〕

(六十四)ここで、たびたび話題となっている其角の「日本の風呂吹といへ比叡山」に関連して、この「比叡山」は、五代将軍綱吉が造営した徳川家の菩提寺でもある寛永寺の根本中堂、すなわち、「東叡山・寛永寺」のその「(東)比叡山」に関連すことのように思えてきたのである。『悪党芭蕉』中にも、「綱吉は、土木マニアでもあって、護国寺、寛永寺根本中堂、湯島聖堂の造営をはじめ、日光東照宮の修復事業とつぎつぎと命じた」とある。これが、『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」になると、「元禄十一年八月二日竣工した東叡山の根本中堂の普請は、徳川時代の前後を通じての大きな造営の一つだが、紀文はそれに要する木材を請け負ったばかりで五十萬両の利益を得たと称せられている。此の時紀文は三十四歳であった」との其角門の俳人千山こと「紀伊国屋文左衛門」に関連する記述がある。この元禄十一年こそ、英一蝶らが流罪となったその年なのである。今までに見てきたところの、其角の、反綱吉、反幕府の姿勢は顕著なものがあり、この観点から、この掲出二句目の句意は、さしずめ、「綱吉が造営した、東叡山根本中堂などは、比叡山の天台根本中堂に比すると、日本天台宗の母山ならず、日本風呂吹き大根の母山のようだ」との、「東叡山根本中堂」と、それを造営した「綱吉」への揶揄を背景にしているように思えてきたのである(なお、この掲出句に関連しては、第十~第十三などを参照)。さて、さて、「五代将軍綱吉と大根」とは、何と大きな接点があったのである。また、綱吉が「東叡山寛永寺根本中堂」を造営したことにより、実質的に、「比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺」の三山は、「東叡山寛永寺」の「輪王寺宮」が統括することにより、それらの揶揄も包含しているように思えてきたのである。

(練馬大根と将軍綱吉)

http://www.city.nerima.tokyo.jp/shiryo/bunkazai/rekishi/goten.html

五代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)であった頃、脚気を患った。その療養のため、陰陽師に占わせたところ「馬」の字のつく土地で療養すると良いという。豊嶋郡の練馬が方角もよいということで、御殿を建て療養した。この時、大根は脚気にもよいとのことで、尾張から種を取り寄せ、近在の百姓、大木金兵衛に作らせたところすばらしい大根が出来、病気もよくなった。将軍となった後も村民に大根を栽培させ、献上させたという。

(寛永寺と徳川将軍家墓)

http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/meisyo/kanneiji.html

天海のあと、三代目からの山主には必ず皇子もしくは天皇の養子がなることになった。これが輪王寺宮(りんのうじのみや)で、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光輪王寺の三山を統轄した。鎌倉幕府は皇子を将軍に迎え、実権は北条氏が執権としてにぎっていた。徳川幕府は、輪王寺宮に皇族を迎えることで、公卿との共生をはかったのである。現在、上野公園の噴水のあるところ、ここは竹の台と呼ばれた処であるが、将軍綱吉によって根本中堂がここに建てられた。輪王寺宮が寝泊まりする本坊はその奥の国立博物館のところにあったのである。

(寛永寺・根本中堂)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA

http://www.asahi-net.or.jp/~dz3y-tyd/tera/kaneiji/kaneiji.html


(謎解き・三十五)

○ 武士(もののふ)の大根苦き話哉 (元禄六年・芭蕉)
○ 初鰹カラシが無くて涙かな     一蝶の贈句
○ そのカラシ効いて涙の鰹かな    基角の答句


(六十五) 掲出の元禄六年の芭蕉の句には、「菜根を喫して終日丈夫に談話す」との前書きがある。この「丈夫」は、「藤堂長兵衛守寿をさす。俳号、玄虎。千五百石で上野藩士」(井本農一校注『松尾芭蕉集(一)』)。中国の『菜根譚』の「丈夫ハ菜根ヲ喫ス」を踏んでいる。
この元禄六年は、芭蕉没年の一年前で、芭蕉・其角・一蝶らにとって大きな出来事があった年でもあった。先にも触れたとおり(第三十四)、三月に、芭蕉の猶子桃印が亡くなり、七月、八月、九月とたてつづけに「生類憐れみの令」が頻発された。そんな最中に、大阪では西鶴が没し(享年五十二歳)、閉関していた芭蕉は、『奥の細道』を書き終える。其角の父東順が七十二歳で亡くなったのは八月二十八日、一蝶の第一次の入牢もこの八月に起こっている。其角は父追悼集の『萩の露』を刊行する。一蝶らの罪因の一つにあげられているのが、この年の夏に江戸市民の間に盛んに流布されていた「馬の物言う」という流言に関してのものであった。この「馬が物言う」についても、先に触れた(第三十)。ちなみに、それを再掲すると次のとおりである。
(第三十・再掲)〔「馬が物を言う牛が物を言うという、戯作を書いただろう」これは将軍綱吉の生類御憐れみの法度を皮肉るもの。馬が物を言うとは将軍綱吉のことを指す。彼は将軍になる前は館林右馬頭と名乗っていた。牛が物を言うとは柳沢吉保のこと、彼の幼名が牛之助だったからだ。〕
この戯作を書いた真犯人は無宿浪人(実は幕臣近藤登之助組与力筑紫新助の弟)筑紫園右衛門といわれ、翌年三月に逮捕され斬首の刑に処せられている(『日本美術絵画全集一六・守影/一蝶』所収「一蝶伝記・一蝶画業」・小林忠稿)。この「馬が物を言う」の一事を取っても、当時のご時勢が、士農工商のいずれの面々においてもも大変なご時勢であったということは容易に想像ができる。掲出の芭蕉の句もそんな時代背景を考えながら鑑賞していくのも、これまた一興であろう。ちなみに、この句は、「武士(もののふ)の大根からしはなしかな」(『金蘭集』)の「苦き」ではなく「からし」の句形のものもある。
(六十六) 続く掲出の二句目(一蝶の贈句)と三句目(其角の答句)について、この両句についても先に触れたが(第三十二)、この両句は、元禄十一年に、一蝶らが再び入牢し、三宅島に流罪になった以降の、一蝶と其角との往復書簡の中でのものらしく、これらが『三橋雑録』で、「一蝶配流ノ後、其角ノ許ヘ送リシ発句ニ、初松魚カラシモナクテ涙カナ 其角カヘシニ、其ノカラシキイテ涙ノ松魚カナ」と収載されているという(小林・前掲書)。そして、その流罪中での、一蝶の作品、「「布晒舞図」についても、それが所蔵されている遠山記念館のアドレスなどを先に紹介したが(第三十一)、その「布晒舞図」を詳細に見ていくと(小林・前掲書)、その落款が、「藤牛麻呂」とある。そして、この「藤牛麻呂」は、一蝶の流罪中時代の三宅島での作品(島一蝶時代の作品)に多く見られる落款なのである。この「藤」は、一蝶の氏が、「藤原」または「多賀」で、その氏の一つの「藤原」の、中国流の一字の姓にしての「藤」と解せられるのだが、この「牛麻呂」とは、「生類憐れみの令」に関しての流言の「馬が物言う。牛が物言う」の「牛」こと、五代将軍綱吉の実権者の一人の御用人・柳沢吉保の幼名・牛之助を捩ったものなのではなかろうか。さらに、先に紹介した、一蝶の「布晒舞図」に関連して、下記のアドレスに、一蝶は、「日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の信者だった」のではないかとの、兵庫女子短大の助教授だった永瀬恵子氏の見解についても触れられているのである(この永瀬説では其角も「日蓮宗不受不施派」とも思われる)。これらのことも、その真偽はともかくとして、一蝶・其角ら(特に、一蝶)を理解するうえで、興味のある貴重なデータの一つであろう。

http://www.ne.jp/asahi/aoyagi/sky/hanabusa1.htm

○一蝶が好んでかいた「雨宿り」を手がかりにして、ユニークな説を打ち出したのが兵庫女子短大の助教授だった永瀬恵子さんだ。 大きなお屋敷の門の軒先で、雨をよける人々がいる。武士もいれば、魚屋、獅子舞(ししまい)、物売り、女、子ども……。雨は等しく、だれにも降りそそぐ。軒の下ではまったく同じ。そこに身分の差はない。
「乗合船図」の例(省略)
 「乗合船図(のりあいぶねず)」も多く描いている。渡し船なのだろうか、やはり多様な人々がいる。坊さん、女、武士……。小さな船に身を預け、目的地に向かう条件はみな同じ。文字通り呉越同舟。船の上で運命共同体になっている。「一見、どこにでも見られる何げない風景のようで、現実にはありえない虚構の風俗である」。永瀬さんは1990年、雑誌「日本美術工芸」に毎月連載した「一蝶拾遺」で、こう述べている。さらに踏み込んで、「日蓮宗不受不施(ふじゅふせ)派の信者だった」という説に答えを見いだした。それが狩野派の破門につながり、権力を批判的にみる姿勢の根底にあったと推測する。不受不施とは、法華経を信仰しない者から施しを受けない、また他宗他派の者に施しを一切しないという宗派のことだ。強い平等思想をもっており、江戸幕府はキリスト教とともに禁教として弾圧。多くの僧を島流しにした。岡山県御津町に今も本山がある。 雨宿り図や乗合船図には、必ずどこかに黒い衣装の坊さんが描かれている。「不受不施を貫いた僧は法中(ほっちゅう)とよばれ、寺を追われて流浪の僧となる。この地下潜伏の法華経の行者、不受不施僧ではないか」。連載で永瀬さんが示した視点と分析は次々と新鮮だった。京都国立博物館の狩野博幸美術室長もかねて、一蝶に不受不施の影をみてきた人だ。「いん庭雑録(いんていざつろく)」という江戸時代の随筆の中で、大田南畝(なんぽ)がそういったと書いてあることも根拠だ。「幕府の役人だった人の言葉です。かなりの信憑性(しんぴょうせい)をみていい」。三宅島で絵を描き続けられたのは、絵の具などの補給に宗派からの支援もあったからではないか、ともいう。一蝶が芭蕉門下で親友だった其角には、「妙(たえ)なりや法(のり)の蓮(はちす)の華経(はないかだ)」という句があり、妙法蓮華経がよみこまれている。「俳句だけでなく、信者たちがもつ結束性によるところも大きかったのではないか」と永瀬さんは書いた。 「四季日待(ひまち)図巻」。一蝶がやはり三宅島で描いた作品だ。その書き込みによれば、島の人ではなく、江戸の友人の求めに応じて描いた。日待ちとは、夜を徹して遊ぶ元禄期の遊楽の様子だが、もともとは潔斎精進して日の出を待つ宗教行事。永瀬さんは、「日待講は同じ信仰をもつ集団の結束を固める意味がある」ことをあげて、この絵をかいた経緯にも宗教的連帯感を感じ取った。

(謎解き・三十六)

一  青のりや浪のうづまく摺小鉢 (暁雲、二十七歳、延宝六年、『江戸新道』)
二  中宿や悪性ものゝ衣がへ (暁雲、二十九歳、延宝八年、『向之岡』)
八  暮春の夜ル土圭(とけい)を縛(シバ)る心哉 (暁夕寥、三十歳、天和元年、『東日記』)
一一 ひるがほの宿冷飯の白くなん咲る (同上)
一五 袖つばめ舞たり蓮の小盞(こさかづき) (暁雲、三十二歳、天和三年、『虚栗』)
一六 うすものゝ羽織網うつほたる哉 (同上)
一七 あさがほに傘(からかさ)干(ほし)ていく程ぞ (同上)
一八 鳴損や人なし嶋のほとゝぎす (同上、『空林風葉』)
一九 採得たし蓮の翡翠花(かはせみ)ながら (暁雲、三十四歳、貞享二年、『一葉賦』)
二二 花に来てあはせばをりの盛哉 (同上、『其袋』)
※  朝寝して桜にとまれ四日の雛(同上・『其袋』)
二三 秋を日に二人時雨の小傘 (暁雲、四十歳、元禄四年、『餞別五百韻』)
※  初松魚(はつがつを)からしもなくて泪かな(配留先にての吟)
二六 牽牛花(あさがほ)のつぼみながらや散あした (七十歳、享保六年、「嵐辞」・『画師姓名冠字類抄』所収)
二七 野分せしばせをは知りつ雨の月 (一蝶、七十二歳、享保八年、「画賛」)
三〇 しばしとて蕣に借す日傘(『画師姓名冠字類抄』)
三二 蝶の夢獏にくわれて何もなし (同上)
三四 舞燕まひやむまでのねぐら哉 (同上)
三六 おのづからいざよふ月のぶん廻し (同上)
三七 清く凄く雪の遊女の朝ゐ顔 (同上)
三八 臼こかす賤(しづ)の男(を)にくし雪の跡 (同上)
三九 呼かけて燗酒一つ鉢叩 (同上)
四四 手鍋する身にや聞さぬか郭公 (同上)

(六十七) 英一蝶(俳号・暁雲)の発句について、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」より、先にその四十四句について見てきた(第二十九~第三十一)。これらの発句について『日本美術絵画全集第十六 守影/一蝶』所収「文献/資料(小林忠編)」では、掲出の句が「一蝶発句二十撰」として収載されている(掲出句のうち、和数字のものは白石前掲書により、※のものは小林・前掲書による)。ここで、あらためてその代表的な発句を見て、一蝶の俳諧関連の作品は、延宝六年(二十七歳)の頃から元禄四年(四十歳)の頃が主で、それと若干の晩年の享保八年(七十二歳)以降の作品が見られるということである。これを、一蝶の画業時代との対比で見ていくと、その画業は、第一期・配流以前(延宝~元禄)、第二期・三宅島時代(元禄~宝永)、第三期・江戸再帰、晩年(宝永~享保)の三区分とされ(小林・前掲書)、その第一期に、すなわち、俳人・其角や嵐雪などの蕉門俳人との交遊関係を通してのものが主であったということができよう。と同時に、その交遊関係からの創作活動ということで、その俳諧への親炙の傾向はうかがい知ることができるが、あくまでも、画業に従たる世界のものであって、俳諧・発句関連を単独の独自の世界として見るには、余りにも作品群が少な過ぎるということはいえるであろう。それにしても、一蝶の場合は、最も油の乗っている四十代から五十代にかけての時代(十一年間)が、流人として絶海孤島の島にあったということは、余りにも、過酷な試練の運命にあったということを思い知るのである。
(六十八) さて、上記の「一蝶発句二十撰」のうち、一蝶(暁雲)、三十二歳のときの、其角編『虚栗』にその三句が入集した頃が、俳諧・発句関連の頂点であったということもできよう。其角が芭蕉門にあって、この『虚栗』を世に問うたのは、実に、その二十三歳のときであり、いかに、其角が芭蕉門にあって飛び抜けた才能の持ち主であったということと、そして、共に、抜群の才能の持ち主である、一蝶と其角とが、相互に、肝胆相照らす同胞に成った、その必然性をも見る思いがするのである。この其角の『虚栗』関連のところを『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、次のように記述している。
○漢詩漢文調を主とした天和期蕉門を代表した撰集である。芭蕉を筆頭に、幻吁(げんく)(大巓和尚)、三峯(高橋文治郎)、杉風(芭蕉のスポンサー)、信徳(京の俳諧師)、卜尺(江戸住、町名主)、嵐蘭(江戸住、武士)、嵐竹(浅草在、嵐蘭の弟)、北鯤(石川氏、桃青二十歌仙の一人)、李下(深川の庵に芭蕉を植えた俳人)、枳風(浄土真宗の説教僧)、仙化(『蛙合』の編者)、才丸(西鶴の弟子)、嵐雪(蕉門の高弟)、木因(大垣の豪商、芭蕉のスポンサー)、東順(其角の父)、宗因(談林派の宗匠)、素道(芭蕉の親友、学識深き教養人)とそうそうたるメンバーである。所収の発句四百三十余、漢句三、連句は歌仙八、二十五句一、三ツ物六で、句は四季別に、「季よせ」ふうに並べられている。ここに出てくる其角の句は、「傘にねぐらかさうやぬれ燕」 この句は、のち『五元集』では、「ねぐらかさうよ」と訂正された。「傘にねぐらかさうよぬれ燕」は、元禄の町衆が好んで口ずさみそうな花がある。雨に濡れた燕を見るたびに、「ほら、この傘に入っておいでよ」とよびかけたくなる。この軽妙な息は芭蕉が晩年にたどりついた「軽み」に通じ、その意味では、其角は芭蕉が到達した地点から出発した俳人といってよい。
※ここに出てくる『虚栗』のメンバーというのは、それは即、芭蕉をとりまく、当時の芭蕉ネットワーク上の人たちといっても良いであろう。そして、一蝶もまたその一人であったといっても良いのであろう。これらのメンバーの全てが、当時の、二十三歳という若輩の、其角に、その撰集の任に当たらせたということは、その責任者ともいえる芭蕉その人の眼識とともに、其角の才能の非凡さを、メンバーの皆が、それを認めていたということに他ならないであろう。

(謎解き・三十七)

ここで、芭蕉俳諧の頂点にあるといわれる、その『猿蓑』(去来・凡兆編、其角序)とそこに入集している其角の句を見ていくことにする。

(六十九)『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……芭蕉の本業は俳諧興行にあり、その総集編が『猿蓑』に結実した。『猿蓑』撰が構想されたのは元禄三年(一六九〇)夏で、芭蕉は四十七歳であった。『ほそ道』の旅から帰ってきたが、まだ、そちらの原稿は仕上げていない。『猿蓑』編集完了までは一年を要した。この間は『ほそ道』の元原稿には手をつけるひまがなかった。なにしろ「俳諧古今集」を編集しようというのだから、芭蕉は全力を傾けた。発句の部は百八人、三百八十二句を収めた。ここで選ばれた百八人が、芭蕉が認定した俳人である。百八という数は、人間の煩悩の数である。百八人の入集のうち七十一人までは一句のみしか入っていない。百八人から落ちた門人は、さぞかし無念の思いであったろう。

(七十) (猿蓑・其角序)

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino.htm

   晋其角序
俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五徳はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹やうになん侍ると申されける。人に成て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍にや*。さればたましゐの入たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出ぬべし。只俳諧に魂の入たらむにこそとて、我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去来凡兆のほしげなるにまかせて書。

(七十一)

(猿蓑・巻之一「冬」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino1.htm

○ あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲    其角
<あれきけと しぐれくるよの かねのこえ>。時雨の降る夜半、「あの鐘の音を聞いて」と遠くの寺の打ち出す鐘の音を抱き合いながら聞く男女二人。(時雨・冬)。上記の人事句的な解よりも、「時雨の降る夜半、折しも遠寺の鐘の音が、『時雨の声に耳を傾けよ』と告げている思いがする」の景気の句とする解の方が妥当かもしれない。

○はつしもに何とおよるぞ船の中    其角
<はつしもに なんとおよるぞ ふねのなか>。「淀にて」の前書きがある。京都伏見にて詠んだ句。「およる」は「寝る」の尊敬語。淀川の三十石舟が大坂から上がってきた。初霜の降りる寒い朝。船中で人々はどう眠ったのかしら? (はつしも・冬)。小唄の「船の中には、何とおよるぞ、苫をしき寝に樽を枕に」(松の葉)を踏まえたものであろう。

○歸花それにもしかん莚切レ     其角
<かえりばな それにもしかん むしろぎれ>。「帰花」は返り咲きの花のこと。そんな花がちらほら咲いている小春日和の日。庭にむしろを敷いて花見としゃれこもうかしら。(帰花・冬)。「それにも」は「時雨かと聞けば木の葉の降るものをそれにもぬるるわが袂かな」(『新古今集』)を踏まえているか。

○雑水のなどころならば冬ごもり    其角
<ぞうすいの などころならば ふゆごもり>。「翁の堅田に閑居を聞て」の前書きがある。「雑水」は「雑炊」のこと。「千鳥なく真野や堅田の菜雑水」(千那)がある。「などころ」は「名所」。其角にとって堅田は父の郷里で、元禄元年10月に千那の案内で堅田を訪れている。一句は、元禄3年のこと。芭蕉翁が堅田に冬籠りと風の頼りに聴いたが、あそこは温かい雑炊の名所だからさぞや暖かい冬を過ごしておられることであろう。ただし、芭蕉は元禄3年9月16日に堅田に行き、そこで風邪を引いて、25日には義仲寺に戻っていて冬ごもりにはなっていなかった。(冬ごもり・冬)。堅田名物「雑魚増水」(七部集打聞)などが知られている。

○寝ごゝろや火燵蒲團のさめぬ内    其角
<ねごころや こたつぶとんの さめぬうち>。コタツにかけていた布団を寝るときに使うというのはほかほかと暖かくて気持ちのよいものだ。ささやかだが至福の時でもある。この句を、膳所に居た芭蕉に送ったところ芭蕉が作ったのが「住みつかぬ旅のこゝろや置火燵」であったといわれている。(火燵布団・冬)。

○この木戸や鎖のさゝれて冬の月    其角
<このきどや じょうのさされて ふゆのとき>。江戸の街の木戸。酔っ払って夜更けて木戸まで来たらすでに錠が下ろされて通れない。江戸の木戸は、卯の刻に開けて、亥の刻に閉める。木戸のそばには木戸番の家族が居て開け閉めを担当した。この句、「柴の戸」と印刷されそうになって芭蕉の強い意見で訂正されたことが「去来抄」にある。(冬の月・冬)。
「鎖のさゝれて」は『平家物語』月見「惣門は鎖のさゝれて候ぞ」による。

○はつ雪や内に居さうな人は誰     其角
<はつゆきや うちにいそうな ひとはたれ>。初雪にうかれて家を出てきたものの、誰だって初雪に家などに居るわけはないので、こうして出てきてはみたものの何処へ行けばよいのか? (はつ雪・冬)。『五元集』には「立徘徊」との前書きがある。『和漢朗詠集』
の「雪似鵞毛飛散乱、人被鶴氅立徘徊」を踏まえているか。

○衰老は簾もあげずに庵の雪      其角
<すいろうは みすもあげずに あんのゆき>。「草庵の留主をとひて」の前書きがある。「香炉峰の雪は簾を揚げて見る」のであるから、当然雪が降ったら簾を揚げるべきを、芭蕉庵の留守をしている老人ときたら、せっかく雪が降ったというのに、簾を下げっぱなしでいる。なんとまあ。一句は、『奥の細道』後の上方滞在で庵主芭蕉の留守する雪の日に見舞ったときの吟。(雪・冬)。この「衰老」を日頃そう自称していた芭蕉自身とする解もある。「香炉峰雪撥簾看」(『和漢朗詠集』)を踏まえているか。

○夜神楽や鼻息白し面ンの内       其角
<よかぐらや はないきしろし めんのうち>。「住吉奉納」の前書きがある。和歌の神様でもあった摂津の住吉神社に奉納した一句。夜神楽を見ていると面の鼻の穴から白い息が噴出している。熱演しているのであろう。(夜神楽・冬)。

○弱法師我門ゆるせ餅の札       其角
<よろぼうし わがかどゆるせ もちのふだ>。「弱法師」は乞食のこと。年末になると現れて民家に餅を所望する。餅をくれる家と、呉れない家を区分する札を貼って歩く。一句は、当方には乞食にやる餅代が無いので貼り札はご勘弁をと言っているのだが、さりとて呉れない札を貼られるのも其角にとっては面子が丸つぶれであったであろうに。(餅の札・冬)。

○やりくれて又やさむしろ歳の暮    其角
<やりくれて またや さむしろ としのくれ>。気前よく人に呉れてやって、いざ年の暮れになってみると自分のものといったらたった一枚のむしろ(筵)だけの素寒貧だ。(歳の暮・冬)。其角の当時の姿が彷彿してくる。

(謎解き・三十八)

(七十二) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……巻頭を冬ではじめ、和歌撰集のように春夏秋冬の順にしなかったところに、俳諧新風をめざすなみななみならぬ工夫が見られる。冬のつぎに春ではなく夏として、冬夏秋春と意表をついた配列である。発句となった「初しぐれ」の句は、『ほそ道』の旅のあと、故郷の伊賀に帰る山中で得た吟である。『ほそ道』続編の吟が、『奥の細道』刊行前に出たことになる。山中で時雨にぬれた猿に出会った芭蕉は、「猿よ、おまえも蓑がほしいのだろう」と思いやった。時雨に濡れそぼった猿の姿に、芭蕉は自分を見ている。『猿蓑』という題はここより採った。『猿蓑』の其角序に、「我翁行脚のころ、伊賀越しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり」とあるのはそのことをさしている。こういう序を書かせると其角はやたらとうまい。

(七十三)

(猿蓑・巻之二「夏」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino2.htm

○有明の面おこすやほとゝぎす     其角
<ありあけの おもておこすや ほととぎす>。百人一首に「時鳥鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣)が参照されている。春の有明に西の空を見れば有明の月が山の端に残っている。ここで時鳥が鳴けば百人一首の情景が再現されるのにと思っていると、本当に時鳥の声。有明の月が面子をほどこした。(ほととぎす・夏)。

○花水にうつしかへたる茂り哉     其角
<はなみずに うつしかえたる しげりかな>。「四月八日詣慈母墓」の前書きがある。其角の母は貞亨4年4月8日死去。前書きの四月八日はこれをさす。墓を覆う若葉の茂り、それが手桶の水に反射している。その水を墓石の花入れに移す。(茂り・夏)。

○屋ね葺(ふき)と並でふける菖蒲哉      其角
<やねふきと ならんでふける しょうぶかな>。「五月三日、わたましせる家にて」の前書きがある。前詞の「わたまし」というのは「転居」のこと。この人は、端午の節句の前の三日に引越しをしたのであるが、あいにく未だ新居の屋根が噴き終えてなかった。そこへ五月五日の節句がきたので、屋根葺きと一緒に菖蒲を葺いたというのである。(菖蒲ふく・夏)。

六尺も力おとしや五月あめ      其角
<ろくしゃくも ちからおとしや さつきあめ>。「七十余の老醫みまかりけるに、弟子共こぞりてなくまゝ、予にいたみの句乞ひける。その老醫いまそかりし時も、さらに見しれる人にあらざりければ、哀(あわれ)にもおもひよらずして、『古来まれなる年にこそ』といへど、とかくゆるさゞりければ」の前書きがある。古稀で死んだ老医への手向けの句を依頼されたものの、当人と一度も会ったことも無いので断ろうとしたがことわれずに作ったというのである。ここに「六尺」は、この医者を生前乗せて運んでいた駕篭かきのこと。医者の死で彼らは失職してしまったのである。だから、力落としなのだろうというのだが、無礼千万な句ではある。しかも、七十と六尺と五月雨と数字を並べた語呂合わせもしている。(五月あめ・夏)

○みじか夜を吉次が冠者に名残哉    其角
<みじかよを きちじがかじゃに なごりかな>。「うとく成人につれて、参宮する從者(ずさ)にはなむけして」の前書きがある。前詞の「うとく成人につれて<うとくなるひとにつれて>」は有徳であるといわれている人に付け人してという意味。若者をこの人につけて伊勢参りをさせるという設定。短い夏の夜どおし若者との別れを惜しんだ。この情況はあたかも源義經が金売り吉次について上京したときとそっくりだというのであるが、ここには男色の匂いがあるようだ。(みじか夜・夏)。


(謎解き・三十九)

(七十四) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……『猿蓑』発句集は「初しぐれ」(冬)の句より入って、「行春」(春)に至る芭蕉の一年間の心境をたどる流れで構成されている。その間にはさまれた百七人は、すでに故人となった藤堂良忠こと蝉吟も入っている。蝉吟は若き日の芭蕉(宗房)の主人で、俳諧の兄である。芭蕉はこの期に及んでも、蝉吟に礼をつくしている。「冬の部」(九十四句)では、芭蕉のつぎは筆頭高弟其角、千那(近江堅田本福寺住職、蕉門歴六年)、丈草(尾張犬山藩士を辞して隠棲)、正秀(近江膳所藩士)、史邦(尾張犬山城侍医、芭蕉を長く逗留させて失職)、尚白、曾良(『奥のほそ道』随行者、幕府巡見使)と、強面を並べている。そのあとが、凡兆、乙州(近江商人)、羽紅(凡兆の妻)、昌房(近江膳所の茶屋)、百歳(伊賀上野の蕉門三十一人衆の一人)、野水(名古屋豪商)とつづき、ここで其角の句が入る。
※『猿蓑』発句集(「乾」巻一~巻四)は、俳諧の古今集といわれるほどに、その構成・配列などの細部にわたって細かい配慮がなされている。発句集の巻頭には、芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」、そして、巻軸に、芭蕉の「行春を近江の人とおしみける」を置き、古人や他門を編入しない純粋に芭蕉一門の撰集となっている。さらに、夏の巻頭には、其角の「有明の面おこすやほととぎす」、秋の巻頭には、素堂(実際には素堂作ではなく、読人不知)、春の巻頭には、露沾の「梅咲(き)て人の怒(いかり)の悔もあり」と、当時の芭蕉を取り巻く最右翼の俳人たちが顔をそろえる。この春の巻頭の露沾は、蕉門客分で最も身分高貴な俳人で、磐城平藩主後継者であったが家老の讒言でその地位を弟に譲り退身し、その門人には、沾徳・露言、露月、沾涼・沾圃など、江戸座の大立者の一人といえるであろう。そして、其角はこれらの大立者と一緒になり、芭蕉亡き後は、その頂点に位置することとなる。一蝶は、この『猿蓑』が編纂された元禄四年当時は、四十歳の頃で、其角の『花摘』や嵐雪の『其袋』などには、その句が入集されているが、この芭蕉俳諧の頂点を極める『猿蓑』には、その名を見出すことはできない。しかし、芭蕉・其角らの人脈とは深い繋がりがあり、この露沾など大名クラスとの交遊関係は、むしろ、其角よりも一蝶の方が華やかであったことであろう。

(七十五)

(猿蓑・巻之三「秋」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino3.htm

○菊を切る跡まばらにもなかりけり    其角
<きくをきる あとまばらにも なかりけり>。今を盛りと咲く菊のこと。少しばかり切ってもさみしくもならない。芭蕉の、「菊の後大根の外更になし」などを意識した句。(菊・秋)。「目もかれず見つつ暮らさん白菊の花より後の花しなければ」(後拾遺集)などを踏まえているか。

※それにしても、『猿蓑』の「秋の部」に入集がこの一句というのは何とも淋しいので、『阿羅野』(巻之四)よりの秋の句を下記に掲載しておきたい。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/arano4.htm

○いなずまやきのふは東けふは西     其角(『阿羅野』巻之四)
<いなづまや きのうはひがし きょうはにし>。稲妻が、昨日はひがしに鳴っていた。そして今日は西の空で鳴っている。稲妻が、通ってくる男を意味するのであれば、一句は、今日もまた自分のところへ来てくれない恨めしい男をも意味する。(いなづま・秋)。「稲妻」は「稲の夫(つま)」の意が込められているか。

○紅葉にはたがおしへける酒の燗     其角(『阿羅野』巻之四)
<もみじには たがおしえける さけのかん>。白居易の詩に「林間に酒をあたためて紅葉を焼く」がある。つまり紅葉を焼いて酒に燗をつけるのだが、そのことを誰が紅葉に教えたというのであろう。(紅葉・秋)。(ネット記事では、「燗」の誤記あり)。

  関の素牛にあひて
○さぞ砧孫六やしき志津屋敷      其角(『阿羅野』巻之四)
<さぞきぬた まごろくやしき しづやしき>。美濃の国関には刀鍛治の名工が何人も出た。そのうちの二人、関孫六<せきのまごろく>と志津三郎兼氏<しづのさぶろうかねうじ>を詠み込んだ句。砧の音を聞くにつけ、素牛(維然)の住む美濃の関では名工二人の刀を打つ音もよみがえって、昔を偲ぶことができるのではないか。(砧・秋)。

  荷兮が室に旅ねする夜、草臥なをせとて、
  箔つけたる土器出されければ
○かはらけの手ぎは見せばや菊の花    其角(『阿羅野』巻之四)
「かはらけ」は「土器」だがここでは陶器。菊の花またはそれに似た文様が描かれていたのであろう。ところで、其角は貞亨5年上方へ旅をしている。その旅の途次、9月17日名古屋の荷兮邸に宿泊している。前詞はそのことを述べた部分である。出された陶器に旅の疲れを取れとばかりになみなみと酒をついでくれたが、土器に描かれた菊の絵が酒のためによく見えないので、それを見たいからぐっと飲み干して菊の花を早く見たいものだ、と菊にかこつけて酒をほめた句。(菊の花。秋)。亭主(荷兮)への挨拶句。

○菊のつゆ凋る人や鬢帽子        同(『阿羅野』巻之四)
<きくのつゆ しおるるひとや びんぼうし>。「鬢帽子」は鉢巻の端が鬢にかかるようなかっこうでをいう。菊に露のかかってかつりんとしている姿は少々尾羽打ち腫らしながらも、昔のよき時代の矜持を守っているような古風な人に似ている。(菊。秋)。


(謎解き・四十)

(七十六) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……其角は芭蕉没後、江戸の花形俳諧師となって、画家の英一蝶や歌舞伎役者の初代市川団十郎らと親しくなり、吉原へ出入りして、酒を飲んで豪遊した。その英一蝶は幕府ににらまれて三宅島へ遠島となり、市川団十郎は、舞台の上で生島半六に惨殺された。其角は赤穂浪士とも交流があり、元禄十六年(一七〇三)、赤穂浪士が自刃したときは「うぐひすにこの芥子酢は涙かな」(冷酷な処罰はうぐいすに芥子酢を与えるようなものだ)と追悼句を詠んだ。其角がうぐいすの声をききながら酒を飲んでいるときに、赤穂浪士の悲報をきいて、自分も芥子酢を飲まされた気分だ、という述懐であった。豪商の紀伊国屋文左門(俳号千山)と親しくなり、菊を贈られた、という話がある。もともと酒好きで遊蕩児であった其角は、芭蕉という重石がはずれると、遊びまくって生活が乱脈となった。孤高清貧で生涯を通した芭蕉にくらべると、其角の放蕩ぶりは目にあまり、句は奇をてらって、衒学的になり師風とはあまりにかけ離れた。
※元禄四年の『猿蓑』刊行時には、其角は三十一歳で、その四十七年の生涯において、その絶頂期にあったともいえるであろう。芭蕉が没するのはこの三年後の元禄七年で、確かに、芭蕉没後の其角は、これらの『猿蓑』に見られる作風から離れ、洒落た趣向や奇抜・奇警な見立てを顕著に重視する作風へと大きく転換する。そして、それは、蕉門の分裂という流れと軌を一にするもので、都会蕉門(其角座・嵐雪座・杉風座など)と田舎蕉門(伊勢派・美濃派など)とに大別するならば、洗練された都会蕉門として江戸座俳諧を君臨していくこととなる。また、元禄四年の『猿蓑』刊行時以降は、元禄六年並びに元禄十一年の、一蝶らの「生類憐れみ令」違反の入牢・流罪の処断などと並行して、身分や階級の差別への批判など、反幕府・反権力的な志向の謎句も多くなってくる。

(七十七)

(猿蓑・巻之四「春」)
※ 下記のアドレスの記事と『榎本其角』(乾裕幸編著・蝸牛俳句文庫)とを参考としている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/shitibusyu/sarumino4.htm

○ むめの木や此一筋を蕗のたう     其角
<むめのきや このひとすじを ふきのとう>。この句は、『俳諧勧進牒』の露沾亭で開かれた正月二九日月次興行<つきなみこうぎょう>の追加句として掲出。梅木に梅の花。その下の径にはフキノトウ。露沾の風流への共感か? (むめ・蕗のたう・春)。「饗応に侍る由、その日はことに長閑にて、園中に芳草をふみ、入口面白かりけるよし、うらやましさに追て加り侍る」との前書きあり。

○百八のかねて迷ひや闇のむめ     其角
<ひゃくはちの かねてまよいや やみのうめ>。かねて持っている百八の煩悩。その煩悩の迷いを晴らす寺の鐘が、闇夜の梅の香りの中を響いてくる。其角らしい技巧の句。(むめ・春)。「「かねて」に「鐘」を掛け、「迷ひや闇」に「闇の梅」を掛けている。

○七種や跡にうかるゝ朝がらす     其角
<ななくさや あとにうかるる あさがらす>。七草粥を作るときには、「七草粥、唐土の鳥と、日本の鳥が渡らぬ先に」と囃したてて作るが、夜が明けてからは「日本のカラス」が中々元気にやっているから面白い。 (七種・春)。

○うすらひやわづかに咲(さけ)る芹の花    其角
<うすらいや わずかにさける せりのはな>。「うすらい」は「薄氷」のこと。川端に薄氷がついている。川の中の芹に花がかすかについている。芹の花はこの時期には咲かないので何かの間違い。(芹・春)。其角にしては珍しい景気の句。

○朧とは松のくろさに月夜かな      其角
<おぼろとは まつのくろさに つきよかな>。春の「朧」というのは、月にかすむ松の黒さを言うのではないか。芭蕉の名句「辛崎の松は花より朧にて」の句が念頭にある。(朧・春)。

○うぐひすや遠路(とおみち)ながら礼がへし    其角
<うぐいすや とおみちながら れいがえし>。「礼がへし」は年賀の挨拶の返礼。正月に遠路はるばる年始の挨拶に来てくれた人への返礼であろう。遠路来てくれたのだから、友なのである。その友に返礼に行くと道すがら新春だから鶯が鳴いている。(うぐひす・春)。

○白魚や海苔は下部(しもべ)のかい合せ     其角
<しらうおや のりはしもべの かいあわせ>。白魚汁には、ちゃんと家僕の買い置いた浅草海苔が付けられる。なんと幸せなことか。其角の家僕は、鵜沢長吉で、後に医者になって長庵先生と号した。(白魚・海苔・春)。

○小坊主や松にかくれて山ざくら    其角
<こぼうずや まつにかくれて やまざくら>。「東叡山にあそぶ」の前書きがある。東叡山は上野の寛永寺。山桜が咲き、小坊主らが忙しそうにしている。庭の松のかげに入ったり出たり。花の寛永寺の賑わい。 (山ざくら・春)。


(謎解き・四十一)

○ 武士(もののふ)の大根苦きはなし哉 (芭蕉『金蘭集』)
○ 武士(もののふ)の臑(すね)に米磨(と)グ霰かな (嵐雪『遠のく』)
○ 渡し舟武士は唯のる彼岸かな (其角『五元集』)

(七十八)掲出一句目の芭蕉の句は、没する一年前の元禄六年の作である(先に第三十五で触れた)。時に、芭蕉、五十歳、嵐雪、四十歳 そして、其角、三十三歳であった。芭蕉も嵐雪も、下級武士の出身で、武士奉公の経験もあり、公然と、反幕府、反武士という風潮化にはない。それに比して、其角の場合は、侍医の家に生まれているが、その侍医の父、東順が芭蕉と親交があり、早くから(十四歳頃)、俳諧を芭蕉に学び、詩学・易を鎌倉円覚寺の大巓和尚に、書は佐々木玄流、画は英一蝶にと、その生い立ちから、当代一流の諸家に師事して、その父の医業は継がなかったが、二十一歳の若さで、俳諧の宗匠として一人立ちをするという、其角は、組織人としてよりも、根っから自由人という生い立ちである。そういう、其角の生い立ちからして、芭蕉や嵐雪のように、当時の封建制度の基礎になっている「士農工商」という身分制度に順応して、その枠内での世界での行動というよりも、当時勃興していた商業資本の拡充に並行しての町人階級の台頭という新しい風潮の中にあって、反権力(反幕府)・反侍(反武士)という姿勢は、其角の生涯を通しての基本的な姿勢であったようにも思われる。掲出の一句目の芭蕉の句も、そして、武家奉公の経験のある二句目の嵐雪の句も、どう見ても、三句目の其角のような「渡し舟武士は唯のる」という、「武士だけが何故に」というシニカルな眼差しでのものではない。逆に、芭蕉も嵐雪も「渡し舟武士は唯のる」という特権の上に胡座をかき、その武士同士のしがらみに汲々として、その鬱積した悲哀を相互に嘗めあっている風情でなくもない。

(七十九)この二月六日付けの「読売新聞」のコラムに次のような記事があった。この「綱吉の悪政の世に生きて、適当に権力にたいして迎合もし」という「芭蕉像」は、その一番弟子ともいわれる「其角像」と対比すると、より鮮明になってくる。
〈悪党芭蕉〉――芭蕉といえば〈俳聖〉が常識だが、嵐山光三郎作品のタイトルはこれだ。が、「この題を見て、偶像破壊の書を想像してはいけない」と選評の山崎正和さん◆「徳川綱吉の悪政の世に生きて、適当に権力にたいして迎合もし、個性強烈な弟子どもを巧みに操縦もして、蕉門という派閥を率いた現実主義者の肖像」と、選評は続く◆〈悪〉といえば、普通は文字通り〈悪い、よこしまな、望ましくない〉だが、例外的には人名などについて、その人が抜群の能力、気力、体力を持っていて恐るべきことを表す接頭語としても使われる◆〈悪源太〉は源義平の通称、〈悪左府〉は藤原頼長の異称。嵐山さんが芭蕉を悪党と呼んだのも単なる悪者の意ではなく、したたかな人柄、手腕に敬意を寄せてのこと◆その書〈悪党芭蕉〉が読売文学賞の評論・伝記賞に選ばれた。東京・神楽坂の飲み屋で受賞の報を受け、祝い酒は7軒はしごして朝まで続いたという。悪党芭蕉は悪党嵐山ならではの作だろう◆奥の細道のように長く芭蕉と歩いてきた人の記念碑に乾杯!
(2007年2月6日 読売新聞)


(謎解き・四十二)

○ 行春や鳥啼き魚(うを)の目は泪 (芭蕉『おくのほそ道』)
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

(八十) 『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)……ここに出てくる鳥や魚への愛情は、野鳥を逃がした「生類憐れみの令」と一致する。芭蕉の旅立ちは、幕府調査官曾良が主役なのだから、『ほそ道』に書かれているように「人々ハ途中に立並びて、後影の見ゆる迄ハと見送(みおくる)」ものではなく、極秘裡にひっそりと行われた。その数少ない見送り人のなかには幕府御用達魚屋の杉風がいた。「魚の目は泪」というのは、魚が泣いているのではなくして、魚屋の杉風が泣いているのである。
※ 『悪党芭蕉』の「生類憐れみの句」の記述の一部であるが、続けて、「芭蕉は、小動物に
憐れみの念を持ち、生活は質素で、そこのところは『期待される元禄市民』であった。この時代は、やたらと華美なる服がはやり、大名に負けず贅沢の極みをつくす商人が登場して、幕府は倹約令を出すほどであったから、芭蕉の貧乏生活は、けちのつけようがない。芭蕉は、時流にのって風雅なる旅人となったのである」というのは、一面の真理をついているだろう。掲出の其角の二句目については、これまでに何回となく触れてきたが(第二十五など)、元禄十六年二月四日の赤穂浪士(子葉・春帆など沾徳・其角門の俳人など)自刃の、その追悼句なのである。芭蕉は、元禄七年十月十二日に没するので、この赤穂浪士の事件には遭遇はしていないが、仮に、この事件に遭遇したとしても、其角のように、その処遇を巡っての批判的な姿勢や、その批判的な姿勢を謎句仕立てにして、世に問うというようなことは、どうにも有り得ないように思われる。そもそも、芭蕉が時の幕府が期待する「期待される元禄市民」であるとするならば、其角は「最も唾棄すべき元禄市民」ということになろう。次のアドレスの「元禄時代をにぎわせた『赤穂事件』では、浪士側に立って彼らを支援するなど反体制的行動も人目を引いた。芭蕉との関係も、アンビバレントな面を多く持ち、尊敬し合う関係と同時にライバルとしての感情も強く持ちあわせていた」という指摘は、実に正鵠を得ている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kikaku.htm

(謎解き・四十三)

○ 鯛は花は見ぬ里もありけりけふの月 (西鶴『句兄弟』)
○ 鯛は花は江戸に生まれてけふの月 (其角『句兄弟』)

(八十一) 元禄七年(一六九四)、芭蕉が没した年に、其角は『句兄弟』を刊行したが、掲出の二句は、その『句兄弟』のもので、これは類似した二つの句を兄と弟にわけて解説した半紙本三冊(上巻・発句合、中巻・亡父東順追悼独吟など、下巻・紀行句など)で、その上巻の三十四番目に収載されているものである。

三十四番

兄 西鶴

鯛は花は見ぬ里もありけりけふの月

弟 其角

鯛は花は江戸に生まれてけふの月

花なき里に心よりて二千里の外の心にかよひ、一句の首尾殊ニ類なし。中七字力をかえて啓栄期か楽に寄たり。されば難波江に生れて、住よしのくまなき月をめで、前の魚のあらけきを釣せて写シ景ヲ嘆スル時ヲのおもひ感今懐古。

末二年浮世の月を見過たり  鶴

と云置けん。折にふれては顔なつかし今は故人の心に成ぬ。

『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、繰り返し、「芭蕉は西鶴が大嫌いであった」との記述をしているが、芭蕉の一番弟子の其角は、この芭蕉が忌み嫌う西鶴とも親しい関係にあり、上記の『句兄弟』での記述のとおり、「折にふれて顔なつかし」との、生き様的には、師の芭蕉よりもより近い関係にあった大先達ともいえるであろう。

○ 驥(き)の歩み二万句の蠅あふぎけり  (其角『五元集』)

(八十二) 『五元集』には、「住吉にて西鶴が矢数俳諧せし時に後見たのみければ」との前書きがある。貞享元年(一六八四)六月五日、西鶴は二万三千五百句の矢数俳諧を成就した。句はその時の祝吟。「驥」は一日に千里を駆ける駿馬。この駿馬が「西鶴」であるという句意であろう。ここのところを、『悪党芭蕉』では次のように記述している。
○芭蕉は西鶴が大嫌いであった。芭蕉は「西鶴の浅ましく下れる姿」とののしっている。西鶴の散文的肌に反発を持っていた。芭蕉にとって西鶴は、うとうべき俗人である。「西鶴の弟子」と聞いただけでも忌み嫌った。こともあろうに、その西鶴のもとに其角が駆けつけて、後見役(見届け役)までつとめたとあっては、本来なら破門であろう。それを平気でやってしまうところに其角の図太さがある。其角はこのとき句を詠んだものの、さすがに芭蕉生前には発表しなかった。その句は『五元集』に、「後見たのみければ」として、「驥(き)の歩み二万句の蠅あふぎけり」とある。「驥」は一日千里を走る名馬で、西鶴のことである。一昼夜で二万三千五百句を詠むといっても、実際は句となるはずもなく、記帳した帳面には筆の線が一本ずつひかれるのみで、聞く者には呪文か経文のごときものであろう。句の内容を無視して、イベントとしての効果を考えているだけだから、一句一句に命をそそぎこむ芭蕉から見ると、俳諧をこわす大愚行である。その後、西鶴は「好色もの」の散文作家に転じて、俳諧を捨てた。其角はこの旅で西鶴と昵懇の仲となった。ただし、西鶴の句を「二万句の蠅」と比喩しており、名句としては扱っていない。其角は「何でも見聞してやろう」という好奇心が強く、芭蕉が毛嫌いしていることは気にしなかった。あるいは、芭蕉の西鶴嫌いは其角の西鶴詣でを知って以後いっそうつのった、と見ることもできる。


(謎解き・四十四)

○ 辛崎の松は花より朧にて  (芭蕉『野ざらし紀行』)

(八十三) 掲出の芭蕉の句は貞享二年、芭蕉、四十二歳の作。『孤松』には、「辛崎の松は花より朧かな」の句形で収載されている。この「朧かな」の句形を捨てて、「朧にて」の、一般には発句には詠むべきでないとされている「にて止まり」の異例の発句として知られている。この芭蕉にしては異例の発句について、西鶴の『俳諧秘蔵抄』に、「此句連歌也と西鶴が嘆じたるなれど桃青(注・芭蕉)は全身俳諧なるものなりと其角が一言に閉口して答なし」との記述が今に残されている。この西鶴と其角とのやりとりは、元禄元年(一六八八)のことで、西鶴、四十七歳、其角、二十八歳の時であった。この時の其角の年譜は次のとおりである(今泉準一著『其角と芭蕉と』)。

○元禄元年(一六八八)二十八歳。三月下旬、芭蕉吉野に至り、其角の「明星や」の句に感じ、其角へ書簡。九月十日、素堂亭残菊の宴。其角も出席、この会果てて、江戸を立ち、上京の旅へ。九月十七日、鳴海知足亭に寄り、晩に名古屋の荷兮亭へ。荷兮宅滞在。関の素牛(惟然)宅訪問。ついで伊勢参宮。その途次、伊勢久居の紫雫宅に寄り、偶吟「角文字やいせの野飼の花薄」を発句に、「偶興廿句」。
十月二日、膳所に、曲翠らと遊び、さらに千那とともに父東順の故郷、堅田へ行き、伯母宗隆尼に逢う。京に入り、季吟邸訪問、歌書の講を受け、また東本願寺門跡一如と交際があった。十月、信徳らと百韻(『新三百韻』)、十月二十日、加生(凡兆)・去来と嵯峨遊吟。大阪の西鶴亭訪問。十一月二十二日、宗隆尼没。十一月二十七日大津の尚白亭を加生とともに訪ね、このあと大津を立ち、荷兮亭。十二月四日、知足亭に寄り、江戸に戻る。

 この年譜を見て、山口素堂・山本荷兮・広瀬惟然・菅沼曲翠・三上千那・江左尚白・向井去来・野沢凡兆など、芭蕉ネットワークの俳人だけではなく、芭蕉の師筋に当た北季吟、貞門・談林派の大立者の伊藤信徳・井原西鶴など、錚々たるたる顔ぶれには一驚させられる。そして、十月に、其角は西鶴に再会して、掲出の句について激賞し、西鶴はそれに対して、「この句は俳諧ではなく、連歌だ」とけなすと、其角は、「桃青(芭蕉)は全身俳諧なるものなり」と反論して、西鶴は閉口したのだという。ここの時の西鶴と其角との再会に関して、西鶴は『西鶴名残の友』で、このように記している。

○我(注・西鶴)はひとり淋しく雀の小弓など取出して手慰みするに。竹の組戸
たゝきて、亭坊(ていぼ)亭坊とよぶ声関東めきたり。誰かと立出るにあんのごとく其角江戸よりのぼりたる旅すがたのかるく。年月の咄しの山富士はふだん雪ながらさらに又おもしろくなつて。露言一昌立志挙白などの無事をたづねて嬉しく。一日語るうちに互いに俳諧の事どもいひ出さぬもしやれたる事ぞかし。

 この一文を見ても、西鶴が二十歳前後離れている、この若い蕉門の俊秀俳諧師・其角にいかに親しみを持っていたかが伝わってくる。この二人は、反侍的な、根かっらの自由人として、肝胆相照らす同胞だという意識が、双方に深く根ざしていたように思われる。しかし、こと、俳諧に関しては、其角は、芭蕉とはアンビバレントな面が多々あっても、また、その創作の面において、師を乗り超えんとする意識をも持ちあわせていたとしても、終生、師・芭蕉を深く尊敬していたということは、十分に窺い知ることができる。

(謎解き・四十五)

○明星や桜定めぬ山かづら (其角『続の原』)
○角文字やいせの野飼の花薄 (其角『其袋』)

(八十四)掲出の一句目は、『続(つづき)の原』(不ト編・元禄元年序)所収。『五元集』では「芳野山ぶみして」の前書きがある。「山かづら」は、山の端にかかる雲。「まだ明けの明星がまたたいている明け方、全山満開の桜の上に、雲がかかり、その桜と雲とが見分けがつかないほど風情のある大景であることか」というような意であろう。(桜・春)。この二重義のない(裏・面のない)、大景把握の叙景句に対して、掲出二句目の句は、同じ叙景句でも、いわゆる談林風の「ヌケ」(句の表面にあらわれないで、それとわかるように暗示する詠み方。ここでは「角文字」がその暗示用語で、「牛」が「ヌケ」となっている)を正面に据えた、典型的な、其角流の「洒落俳諧」の、その「洒落叙景句」とでも名付けたいような句なのである。『其袋』(嵐雪編・元禄三年)所収。「これらも猶俳諧のまくらにはあらじかしと小野過ける比(ころ)」との前書きがある。「角文字」は牛の角文字で「い」。
狂言「い文字」から次の「いせ」(伊勢)を呼びだす。句は「牛」の「抜け」で、「花薄の乱れる伊勢の野で、牛を野飼いにしている。というに過ぎない。手のこんだ談林風の句である」(乾裕幸編著『榎本其角』)。こういう作為過多の句作りは、芭蕉が最も忌み嫌ったものであった。次に、其角の元禄元年の年譜で、「三月下旬、芭蕉吉野に至り、其角の『明星や』の句に感じ、其角へ書簡」というのは、『去来抄』や『句兄弟』の文面にも出てくるもので、その『句兄弟』の記述は次のとおりである。

○明星やさくら定めぬ山かづら、云(いひ)し句、当座はさのみ興感ぜざりしを、芭蕉翁、吉野山にあそべる時、山中の美景にけを(お)され、古き歌どもの信(まこと)感ぜし叙(ツイデ)、明星の山かづらに明(あけ)残るけしき、比(この)句のうらやましく覚えたるよし、文通に申されける。是(これ)をみづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含(ふくみ)はたしか也。

『去来抄』(「先師評」・「おとゝひはあの山こえつ花盛(去来)」関連)の記述は次のとおりである。

○吉野行脚したまひける道よりの文に、或(あるい)は「吉野の花の山」といひ、或は「来れはこれはとばかり」と聞えしに魂を奪はれ、又は其角が「桜さだめよ」といひしに気色(けしき)とられて、吉野にほ句(発句)なかりき。

これらの『句兄弟』・『去来抄』の芭蕉の文(書簡)に関連する記述は、『三冊子』の、次の記述と関連してくる。

○師のいわく「絶景にむかふ時はうばはれて不吐(かなわず。ものを見て取(とる)所を心に留て不消(けさず)、書写して静に句すべし。うばはれぬ心得も有事也。其おもふ処しきりにして猶かなわざる時は書(かき)うつす也。あぐむべからず)となり。

すなわち、芭蕉は、吉野山の桜の大景を目の当たりにして、「絶景にむかふ時はうばはれて不吐(かなわず)」の心境のだが、其角は、こういう大慶景に接しても、「明星や桜定めぬ山かづら」と一句をものにして、今更ながらに、この其角の句を「うらやましく覚えたる」ということで、其角は、「当座はさのみ興感ぜざりしを」、芭蕉のそういう書簡に接して、「みづからの面目になしておもふ時は満山の花にかよひぬべき一句の含(ふくみ)はたしか也」と思うようになった…、ということであろう。そして、こういう句を、芭蕉は其角に期待するのであるが、其角は、その芭蕉の期待に反して、芭蕉が標榜している不作為の「軽み」の句ではなく、作為過多の「洒落風」の句、すなわち、「角文字やいせの野飼の花薄」などの句作りを主眼としてしており、ここに、芭蕉と其角とのアンビバレント(相反する)な面が際立ってくるのである。

それだけではなく、其角の作為過多の「洒落風」の「角文字やいせの野飼の花薄」の句は、当時の俳壇(元禄俳壇)においては、「其角の句の力つよき所」(沾徳)と、「同門他門を問わず取り沙汰され、問題とされた句と位置づけられる」(今泉準一・前掲書)ものとされるのである。ここらへんのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、次のように記述している。

○(芭蕉は)晩年には蕉門を育てるという野心は薄れ、ついて来る者のみに稽古をつけている。「去る者は去れ」という気概がある。したがって軽み」を提唱したときは、昔からの弟子はついていけず離反する者が多く出た。蕉門を運動体としてプロデュースしたのは江戸の其角であった(『俳諧問答』に難点あり)。
○元禄七年にあっては、江戸の其角はすでに芭蕉の人気をぬいていた。芭蕉に入門した其角は、この年三十四歳になっていた。芭蕉は元禄二年(一六八九)から「奥の細道」の旅へ出かけ、そのまま伊賀に行って、江戸へなかなか戻って来ない。芭蕉がいないあいだに江戸の俳諧は変わり、芭蕉は「時代遅れの師範」となり、そのぶん、其角の羽ぶりがよくなった(「夢は枯野をかけ廻る」)。
○人づきあいがよく、宴席を好み、著名人を身内とする術に長(た)けている。蕉門の弟子獲得は、かなりの大物を其角が担当してきた。其角は蕉門の人材ハントを担い、其角ぬきでは蕉門の全国展開はなかった(「蕉門分裂へ」)。

これらのことは、掲出の二句を例として換言するならば、芭蕉が標榜している、作為のない「軽み」(理屈をこねず・古典に頼らず・肩の力を抜いて作句する…『悪党芭蕉』)の句、その「軽み」の句の典型ではないが、其角としては「軽み」の句といっても良い、「明星や桜定めぬ山かづら」のような句作りは、元禄期に入ってくると、「時代遅れ」のものとなりつつあり、「情より知的な・古典や典拠を背景として・渋味な力を誇示しないよりも、伊達闊達な、はっと驚かすような力技をそなえた」、作為的な「洒落風」の、「角文字やいせの野飼の花薄」のような句作りが、「時代の寵児」になりつつあったということになろう。
この時代の趨勢は、ずうと後の蕪村の次のような句にも表われてくる。

○ 角文字のいざ月もよし牛祭 (明和六年・蕪村) 
○ 角文字の筆のはじめや二日月 (安永五年・蕪村)

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