木曜日, 3月 22, 2007

其角とその周辺・二(十~二十)


画像:松尾芭蕉

(謎解き・十)

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

二十三 この其角の難解句(謎句)の「鮫の髄」について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

「春の残雪の季節に山の中腹から麓にかけて見られる残雪の縞模様や残雪と谷や森が織りなすがほわほわした感じを形容したようですね。 其角は小諸あたりから残雪の浅間山や四阿山をながめたのでしょうか。疑問:鮫の骨は軟骨でそれ自体柔らかい。その中にさらに柔らかい骨髄が入っているのか。ふにゅふにゅ感を強調するため、もしも存在したらという言葉の洒落かも。」

この情報とあわせ、『其角俳句評釈』の著を持つ、河東碧梧桐の「『三千里』北海道(抄)」の
アドレスとその記事の一部が付せられていた。

http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-42kh-sanzenri-17.htm

「倶知安で蝦夷富士の一点一画もまぎれない晴々としたのを仰ぐ。雪は中腹以上に残っておって、中腹以下は谷々にうねうねした鮫の髄を残しておる。」

上記で、この「残雪」は、「雪形」・「雪占」(ゆきうら)との別称があり、「山や野に消え残る雪の形によって、農作業の時期を測り、また、その年の豊凶を占う」もので、古来から、地方・地方で、いろいろな伝承が今に残されている。関西から関東(宇都宮)へ移住されて、精神科の医師で、俳句の実作と評論に大きな足跡を残した、平畑静塔氏に次の「雪占」の句がある。

○ みちばたに名は何といふ残雪か (静塔・『栃木集』・「日光」)

次のアドレスで、これらの「雪形」写真を見ることができる。

http://www.scenicbyway.jp/2004backnumber/special/back/200403/special_s2.html

 蘭氏の「鮫の髄」の「髄」関連の疑問は、「この髄は、脊髄で、その残雪が序々に消えていき、鮫(全体の形)→鮫の脊髄(一部溶けた形)→鮫の髄(さらに溶けた形)との洒落ともとれなくもない」。ただ、この「雪形」・「雪占」の句とすると、「千曲川春ゆく水や」というよりも「浅間山春めく峰や」のスタイルになると思うのだが、それらも、ひっくるめて(それらを「省略」の技法で省略して)のものともとれなくもない。

いずれにしろ、これらのところに、この謎句を解くヒントが隠されているように思われる。

さて、これまた、蘭氏より紹介のあった、『其角俳句と江戸の春』(半藤一利著)を手にして、「日本」に関する次の一句(その解説を含めて)が目に入ってきたのである。

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)
※ とにかく何のことやらさっぱりの句である。(中略) 「大根」の名はどこから? これが、なんと、『日本書記』なんである。(中略) 句の比叡山とは、こりゃ、天台宗の総本山の延暦寺のことだよ、と思い当った。この寺院は昔は天台根本三千坊を豪語していた。この「台根」すなわちダイコンで、また、大根の千切り三千本と、其角は大いにシャレてつくったな、と判定した。当っているかどうか、保証できぬ。それにしても、意地悪く、下手に洒落た句であることよ。(半藤・前掲書)

ここで、またまた、蘭さん始め、『日本書記』・『古事記』に造詣のある狸さんなどの「俳諧ネット」のお知恵を拝借したいのである。

(謎解き・十一)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)

二十四 この半藤一利さんが、「とにかく何のことやらさっぱりの句である」と嘆いた句についての、
蘭氏の解は次のとおりである。

※「日本の」と大きく出たのは、比叡山が日本仏教の母山ということでしょう。
ネット記事【比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、また、日本仏教の母山でもあります。この比叡山は多くの名僧・高僧を輩出しました。浄土宗の法然上人、日蓮宗の日蓮上人、浄土真宗の親鸞聖人、曹洞宗の道元禅師、臨済宗の栄西禅師等々、後に日本仏教の各宗派をお開きになった開祖・宗祖が一度は比叡山に登り、その修行の中で悟りを開かれたことから、仏教の母山と呼ばれています。】
比叡山では、現在、秋の紅葉祭と除夜の鐘で、大根炊きをして参詣者にふるまっているようです。場所は例の天台根本中堂前。今でも多くの寺が大根炊をしており、母山の昔からの行事なのでしょう。

http://network.biwako-visitors.jp/event/event_3457_city101.html
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/yamanobe/02.html

風呂吹と大根炊は、厳密には料理として違うのでしょうが、大根を炊き、あつあつを食べることが共通しています。 其角はこの状態と寺に対する思いを句に仕立てたのでしょうか。
ほめている(比叡山は精進料理のチャンピオン、風呂吹大根も日本一だ)か、ちゃかして、けなしている(比叡山は日本仏教の母山というが、仏教界、僧侶の堕落はどうだ、幕府の手先となり葬式仏教に成り下がり、修行もしないで大根炊きばかりしているなら、日本
一の風呂吹きとでも改名したらどうだ)か、どちらかでしょうか。私は後者のような気がします。

汀女教の狸氏の情報は次のとおり。

※比叡山、日本仏教の母山ということで、そういえば親鸞上人も若き日修行され、その後山を降り、法然上人に師事、都を出て新潟から茨城へ・・・など読んだ記憶があります。
うちは浄土真宗なので、もっと親鸞上人のことを知りたかったからです。とはいえ、やはり汀女宗なので、「といへ」に反応してしまいました。

○ 延着といへ春暁の関門に    汀女

(自選自解汀女集より)「長旅の夜汽車、どこかで事故があって、私の列車はいつのまにか、相当に延着のまま下関に着いた。たとえ、それにしても、またそれゆえにこそ、いっそう今ここまで着き得たことがうれしいのであった。(中略)関門海峡を越えることは、九州生まれの私には、いつもながら特別の感情を持たせるようである。」

とあり、其角さんの句も、比叡山に到着したうれしさと感慨を詠んでいるのかなと、まず読んでみました。(たとえ、日本の風呂吹、それにしても風呂吹大根、またそれゆえにこそ、いっそう、比叡山、ああ比叡山に来たもんだ。)

この蘭・狸両氏の「大根」説と違う観点の解ありやと、ネット情報を検索したところ、「伊勢の風呂吹き」(蒸し風呂)に関するものが出てきた。

http://members.jcom.home.ne.jp/3111223201/mutama/mutama4/mutama4no03.htm#d3no12

○ 聲を直して戻る風呂吹 (武玉川四篇)
 
※『研究』では、「風呂吹」を「風呂吹き大根(あるいは蕪)」の意味に解釈しており、それでも意味が通じないことはないのですが、わたしは、この「風呂吹」は、本来の意味の、蒸し風呂で吹くことではないかと思います。『甲陽軍鑑』に、「風呂はいづれ國にも候へ共、伊勢風呂と申。子細は伊勢の國衆ほど、熱き風呂を好みて能く吹き申さるゝにつけて…」とあり、これは蒸し風呂で吹いて風を送り、熱い風で、吹かれた身体の部分を熱くすることです。

http://beth.nara-edu.ac.jp/NYOHITSU/ny01-035.htm

風邪の時などには、加湿器や蒸気吸入器で、ノドを潤し、温めますね。この句では、蒸し風呂で吹いて、ノドを十分に潤(うるお)すとともに温め、風邪の声か、寒声などで傷めた声を、治したのでしょう。

また、謡曲「楊貴妃」関連の次のものなども貴重な情報のようにも思われる。

http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Nohpage/NohSenryu/Nohsen07Yokihi/NohSenryu07.html

○ やまとことばはおくびにも貴妃出さず (柳樽十九・2)
○ 日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ (柳樽二十・25)
○ 三千の一は日本のまわしもの     (柳筥二・24)

ここで、「大根」説と「蒸し風呂」説との、どちらに、一票を投ずるかと、振り出しに戻って、この其角の句が集録されている原典にあたったところ、その原典の『五元集』の、簡単な校注などが施されている、『其角発句集』(坎窩久蔵校訂・文化十一年版)には、次のとおりの校注が施されていたのである。

※叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也。

これは、全く、半藤一利さんと同じもので、半藤さんも、これにあやかったのだということで、どうやら、多数説は、この「風呂吹き」は「大根」のようである。しかし、『武玉川』などの「蒸し風呂」説も、まだまだ、捨てがたい。

(謎解き・十二)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山           (『五元集』)
○ 日の本のふろ吹(ふき)といへ比叡山(ひえのやま)(『古典文学大系本』)

二十五 其角の謎句の一つ、「日本の風呂吹といへ比叡山」について、その「日本」と「風呂吹」とに目が行って、どうも、「比叡山」をおろそかにしていたきらいが無くもない。たまたま目にした、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』によると「比叡山」(ひえいざん)ではなく(ひえのやま)とルビが付せられているのである。これだと、其角三百回忌の今日に相応しい、そして、「奇計・奇抜」な「其角」に相応しい、もう一つの鑑賞案が浮かんできたのである。この「比叡山」(ひえのやま)は、「比叡山」(ひえいざん)と「ひえのやま」(相撲取りの四股名などで相手を冷やかし気分で使っている。そして、「冷え症」、あるいは「身も心も寒さで冷えてしまった」人への語り掛けの措辞)が掛けられているのではないかと、そういう思いが去来したのである。これだと、この謎句の表面の句意などは次のとおりになる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」の、「日の本」一の、熱々の「風呂吹」き「大根」を所望せよ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

さらに、「はなやかな伊達を好み、鬼面人を驚かす巧みな技をもち、たった十七文字のなかにそれを見事に滑りこませる、さらに雑学に富み、伝統の和歌といわず、漢詩といわず、下世話な物語といわず、謡曲狂言といわず、古典文学といわず、手当たり次第に自家薬籠中のものとして句に織り込んでいる」(半藤・前掲書)、異才中の大異才、「晋其角」は、この句の背後に、謡曲「楊貴妃」を、こっそりと滑りこませているのではなかろうか。この唐土の絶世美女・楊貴妃は、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」と玄宗皇帝を愛の虜にし、中国の歴史を大きく転換してしまった歴史上の大女傑である。そして、この楊貴妃は、日本において、謡曲「楊貴妃」の中で、日本名は、「熱田明神」として、一世を風靡するに至っているのである。江戸時代の其角研究家の「坎窩久蔵」は、其角の「日本の風呂吹といへ比叡山」の句を、「叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也」と喝破したが、それを、さらに飛躍させて、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」をも、この句は内包しているという解こそ、其角三百回忌の今日に相応しい、奇抜・奇計な解なのではなかろうか。その観点での背後の句意は次のとおりとなる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」で、「中国」の「楊貴妃」の「日本」での化身の「熱田明神」の如きの絶世の美女を湯女にして、「日の本」一の、熱々の「風呂吹き」の「蒸し風呂」で、身を委ねなされ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

どうにも、この「楊貴妃」関連の「風呂吹き」(蒸し風呂)の鑑賞こそ、何故か、吾らの愛する其角さんに、最も相応しいように思われるのだが、とにもかくにも、「日本の風呂吹といへ比叡山」の一つの鑑賞案として、その末端に忍びこませておきたい。

さて、これらの鑑賞の切っ掛けを与えてくれた、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』
(安井小洒編 石川真弘・木村三四五校注)を含む全十六巻のデータベースが、この平成の御代になり、誕生したという。下記は、そのアドレスと、その紹介文である(このCD-ROM版をご使用されている方は、是非、ご一報を賜わりたいのである)。

http://imidas.shueisha.co.jp/haiku/

※『古典俳文学大系』全16巻は、芭蕉・蕪村・一茶のみならず、貞門、談林、蕉門から化政・天保期に至るまでの室町、江戸期の主要な撰集や俳論・俳文、書簡を網羅した画期的な企画である。当社より1970年から72年に刊行されて以来、いまなお、俳文学全体を俯瞰しうる基本的文献として、多くの研究者・愛好家に広く活用され、高い評価を得ている。
本企画は、この全16巻の書籍データと増補8集を1枚のCD-ROMに収めることにより、これらの優れた業績を21世紀に甦らせ、さらには、句・連句・作者・出典等のインデックスの作成とその検索システムを開発して、あらたなデータベースの構築を企図するものである。俳文学の表現研究のみならず、国語学の語彙研究、地域文化研究、また、俳句実作をも飛躍的に高める必須のツールとして、研究者・実作者・愛好家に長く愛用されよう。


(謎解き・十三)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山  (其角)


二十六 この其角の句について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

※其角は江戸の出身と思っていたら近江だという記事をみて、ネットの地図で調べてみました。其角の父は堅田の出身で膳所藩の医師。堅田は琵琶湖の南。その南隣が平安時代からにぎわったという雄琴温泉。雄琴温泉は、東が琵琶湖の畔、比叡山の山麓で昔は男の遊び場だった。南隣は、比叡山坂本(明智光秀の坂本城があったところ)。風呂吹は、蒸し風呂を吹くこととして。これをふまえて、くだんの句を解釈すると、「比叡山の麓の雄琴温泉の繁盛ぶりを見ていると、あたかも比叡山が雄琴温泉の風呂吹きをしているように思えることよ。日の本の風呂吹きだ。」風呂はもともと寺僧との関係から出て来たようですね。ネット記事。【「風呂」という言葉はどこから来たのかというと、昔、僧侶が風呂屋者(ふろやもの)という人たちに石や土の室(むろ)を築かせ、ここに蒸風呂を作らせたことが始まりと言われます。】また【風呂屋者とは、風呂屋にいた遊女。ふろおんな。湯女ゆな。】ともあります。若い頃大阪に赴任したとき、最初の社内旅行が雄琴温泉でした。雄琴温泉に行くというとみんなにやつくのです。その理由は行ってわかりました。後者の意味の風呂屋者が商売をしそうな施設がきらきらとたくさんあって、うぶなわたくしは、恥ずかしかったです。信長が焼き討ちした頃とか、比叡山のすすんだ僧たちも通っていたのでしょうか。寺の風呂として。其角さんの句は、どうも男の遊び場の方にすぐ結びついてしまうようです。
※また、先の狸氏の解の添書きのような形で、「『日本の風呂吹』がやはり謎です。琵琶湖が風呂で、焼き討ちに遭ったり、なにかとトラブルな叡山を風呂釜吹きに見立てているのかいないのか、そんな感じをうけました。『大根』が日本書記をみるときの注目ポイントとなりました」。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

先のこの句の「鮫」についても、活字情報(大曲駒村編著『川柳大辞典』(上)・粕谷宏紀編『川柳大辞典』)で、次のようなものもある。

※鮫=柳沢吉保の室、お鮫の方。吉保は将軍綱吉の殊遇を受け、小姓組より寛永元年には大和郡山で十五万石に封せられた。更に一躍百万石の太守たらんとし、其の室お鮫の方をして種々にたくらまさせ、遂に甲斐、信濃で百万石を追って与ふるであろうとの墨付けを得るに至った。其の上、自分の子甲斐守は将軍の御胤なりと称し、改めて将軍の養子としょうとしたが、御台所並びに井伊、本多、榊原等諸氏の忠臣の為に陰謀は破られ、吉保は隠居謹慎を命ぜられ、本領だけは辛うじて安堵するを得たという俗説がある。
○ 鮫が出て百万石を丸で呑み(柳多留一〇八)
○ 鮫の煮こごり百出して召すところ(柳多留一四五)
○ 鮫すでに百万石ものむところ 

どうも、際限なく「謎は謎を呼ぶ」という雰囲気でもある。


(謎解き・十四)

○ うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな (其角『五元集』)
○ 鶯の目はからし酢の涙かな (其角『芭蕉盥』)

二十七 其角の「赤穂浪士の初七日」に詠んだ句とされている。掲出の二句のうち、一般には一句目の『五元集』のもので知られている。その『五元集』には、次のような前書きがある。「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(「漢文」の詠みは『古典文学大系本』)。そして、この句の後に、「富森春帆、大高子葉、神崎竹平、これらが名は焦尾琴にも残リ聞えける也」との添書きが付せられている。この添書きの「富森春帆」は「富森助右衛門」、「大高子葉」は「大高源吾」、そして、「神崎竹平」は「神崎与五郎」で、「焦尾琴にも残リ聞えける也」とは、其角選集の「焦尾琴にその句と名が記されている」、即ち、この三人は「其角門の俳人」であるということを付記しているのである。この三人の他に「萱野三平」(俳号・涓泉)も其角門の俳人である。先の、「千曲川春ゆく水や鮫の髄」の「鮫」に関連しての「柳沢吉保」も当時の幕政の中心人物である。下記のアドレスでの「忠臣蔵と元禄群像」(中江克己稿)のうち、其角と其角門の俳人に関連する人達を抜き書きすると次のとおりとなる。

http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict005.htm

徳川綱吉(性急な処断) 柳沢吉保(幕政の実権を握った側用人) 土屋主税(討入りの物音を聞いた隣家の主) 浅野内匠頭(悲劇のはじまり) 吉良上野介(斬りつけられた理由) 大石内蔵助 (昼行灯が咲かせた武士道の華) 富森助右衛門(大目付への討入り報告) 大高源五(「煤竹売り」の俳人) 神崎与五郎(「吾妻下り堪忍袋」) 萱野三平(悲しき自刃) 荻生徂徠(赤穂浪士の切腹) 室鳩巣(四十七士は「義士」)

さて、掲出の其角の句、「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」は、『古今集』巻二の大伴黒主の作「春雨のふるは涙かさくら花ちるをおしまぬ人しなければ」を本歌取りしての、西山宗因の「からし酢にふるは泪か桜鯛」の句を本句取りししての一句という(半藤・前掲書)。「そこで、『うぐひすに』の句である。『蕉影余韻』(昭和五年)という文献によれば、浪士自刃の初七日に詠まれたものであるそうな。それにしても、『なみだ』で悼句であることはわかっても、あとは難解にすぎて、見当もつかない」(半藤・前掲書)と、匙を投げている。前書きの観点からすると、それほどの難解句とも思われないのだが、これは、謎句(難解句)の部類に入るのであろうか。別な句形のもの(掲出の『芭蕉盥』の句)もあるし、前書き、そして、添書きからして、難解句ではあるかも知れないが、決して、謎そのものを目的としているような「謎句」ではないであろう。この其角の句は、「赤穂浪士に切腹を命じた」、時の幕府に対する、其角の痛烈な批判の句といって差し支えなかろう。それは、上記のアドレスの「赤穂浪士たちは翌元禄十六年二月四日、切腹を命じられる。主君の仇討ちをしながらも、『天下の法に照らせば罪人』とされたのだ。そうした幕府の処断に、批判の声もあった。『忠孝の二字を羽虫が食いにけり 世を逆さまに裁く老中』、この狂歌は、その一例である」の、この狂歌のようなものと解したい。
(この掲出の其角の「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」の句について、自由解やら感想やら、何なりと情報をお寄せいただきたいのである。)

(謎解き・十五)

○ 花の仇(あだ)月を重ねて雪で打ち (柳二七)
○ 花の仇雪で打ちたる本望さ     (柳五九)
○ 花の敵(かたき)を雪で打つ本望さ (柳二七)

二十八 ○「花」はいずれの句も、花(桜)が咲く月、つまり旧暦三月を意味する。三月のことを「花月」「花つ月」「花見月」ともいう。浅野内匠頭が江戸城で刃傷沙汰および切腹したのは元禄十四年三月十四日、すなわち花が咲く月であった。そのときの仇(敵)を、月を重ねた後に雪の日に討った。望みがかなって満足である。「花」(花月)と「雪」で、四季おりおりのよき眺め、風雅の趣きである「雪月花」が完成することになる。その点でも「本望」であった(北嶋広敏著『江戸川柳で見る忠臣蔵物語』)。
※この「謎句を解く」のスタート時点の「月花や日本にまはる舌の先」(『俳諧桃桜』)の「月花」も、この「花月」と同じく旧暦三月の意と解することもできよう。「花月」と「雪」とで、「雪月花」の「風雅が完成」して、「本望」を遂げたということも、謎解きの定石として理解しておく一つであろう。

○ 大手が二十四からめてが二十三 (柳二三)
○ 忠義にも表のかたは孝の数   (柳九一)
○ ねぼけたで四百七人ほどに見え (柳一一)

二十九 ○「表門組」は大石内蔵助が指揮し、原惣右衛門と間瀬久太夫が補佐した。堀部弥兵衛、大高源吾、武林唯七、間十次郎などが表門組に属し、その人数は二十四名であった。一方、二十三名で構成された裏門組は、大石主税が大将をつとめ、吉田忠左衛門と小野寺十内が補佐した。二句目は中国の「二十四孝」を反映させている。三句目の「四百七人」は、討ち入った赤穂浪士は、四十七人で、その「四」と「七」とを生かし、「四百七人」とすることで討ち入りを暗示している(北嶋・前掲書)。
※この数詞のトリックも「謎解き」の定石の一つであろう。

○ 一世(いっせ)二世(にせ)すてて三世(さんぜ)の仇を討ち(柳五〇)
○ 一世二世去つて夜討ちの本望さ (柳五〇)
○ 百四十一世重なる仇を討ち (柳九五)

三十 ○「子は一世、夫婦は二世、主従は三世」ということわざがある。親子の関係はこの世かぎりのもの、夫婦の関係は現世(現在)と来世(未来)にわたるもの。主従の関係は三世(過去・現在・未来)にわたるものという意味。赤穂浪士たちは一世(親子の縁)、二世(夫婦の縁)を捨てて、三世(主従関係)の仇討ちをした。二句目の「去る」には離縁するという意味があり、その意味も加味されているようである。一世二世を捨て(そして離縁し)、主の仇討ちができて本望である。なお、大石内蔵助は討ち入りに先立ち、妻と離縁している。四十七人で三世の仇を討った。だから四十七×三=百四十一世というわけである(北嶋・前掲書)。
※川柳の特質は「うがち」をその一つとしているといわれる。「うがち」とは、「あらゆる事象に穴をあけ、人が気づかないこと、見落としていることを拾いあげ、五七五・十七文字をもって、われわれの目の前に突き出して見せる。しかし、ありふれた『うがち』では人を感心させることはできない。えぐり出したものをそのまま見せたのでは読む人の心を動かすことはできない。穴をどうやってあけ、隠れた部分をどうやって見せるか、そこが決めてになる」(北嶋・前掲書)。其角の「謎句」は、上記に見てきた、掲出の柳人の凡なる「うがち」の域をはるかに超えて、非凡なる超弩級の「うがち」の世界と換言することもできよう。

(謎解き・十六)

○ なき跡もなお塩梅の芽独活かな  沾徳
○ 鶯にこのからし酢はなみだかな  其角
○ 枝葉まで名こりの霜の光りかな  沾洲
○ その骨の名は空にある雲雀かな  貞佐

三十一 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、元禄十五年十二月十四日、正確には翌十五日の未明(寅の刻)のことであった。そして、翌元禄十六年二月四日に、切腹を命じられる。掲出の四句については、先の奴氏の情報で、次のような添書きが付してある。
「翌年春(註・元禄十七年か?)の追悼会での発句以下四句。沾徳の句からするとこの日酒の肴に季節の和え物が出されていたのでしょうか。其角、沾徳の句には義士に対する思いがどこか酸っぱいものに感じられたのでしょう。なお其角の句はうぐいす、からしすと韻を踏んでいます。」
この添書きとともに、次のような文面で、赤穂浪士の討ち入り当日に、其角らは、忘年会をやっていて、その忘年会の席上で、その討ち入りを知ったとの記事とその記事の基になっているアドレスが紹介されていた。
「討ち入り当日の事は其角が秋田の知人に当てた手紙に詳しく載っています。これによると当夜は杉風、嵐雪と忘年会をやっていたようですね。文面から興奮覚めやらぬ思いが伺われます。」

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013357&VOL_NUM=00000&KOMA=95&ITYPE=0

この記事は、明治四十一年に刊行された、元禄山人著『赤穂義士四十七士譚』(「第十六回大高源吾忠雄の事並に其角」)に紹介されているもので、実は、ここに紹介されている、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、実は、真っ赤な偽書ということなのである(半藤・前掲書)。確かに、この書面に出て来る、「我が雪と思へばかろし笠の上」は、元禄五年刊行の『雑談集』に出てくるもので、さらに、大高源吾の句とされている「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句も其角の句ということである(半藤・前掲書)。次の大高源吾(書面では「子葉」)から沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)、さらには、その書面の次の「かくて其翌年の春交はりふかき人々合歓堂にて追悼ありその時の発句」として、紹介されている、上記の掲出の四句についても、その一同に会しての追悼句会でのものなのかどうか、はなはだ、あやふやの文面のようなのである。とにもかくにも、掲出句の作者、水間沾徳・宝井其角・桑岡貞佐・貴志沾州の四人は、芭蕉没後の江戸俳壇を牛耳った江戸座の大宗匠達で、赤穂浪士の代表的な俳人・大高子葉(源吾)と密接な俳人ではあったのであろう。なお、其角の「からし酢」に関連するかどうかはともかくとして、「卯月の筍、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我さへ精進物の立がたになれば、東湖、仙水等とうなづきあひて」との前書きのある、次の一句があるとのことである(半藤・前掲書)

○ 初鰹江戸のからしは四季の汁 (子葉)


(謎解き・十七)

○ 大高の紙へ其角が別れの句(柳九五)
○ 煤払いのあした汚れた名を雪(そそ)ぎ(柳九五)
○ 竹売りの秀句子葉の名がしげり (柳一一四)
○ 宝舟夢のようだと其角言い (しげり柳)

三十二 一句目は、両国橋で其角と源吾とが出合い、其角が、「年の瀬や水の流れも人の身も」と詠み、源吾が「あした待たるるその宝船」と応答した場面の句。二句目の煤払いの句は、煤竹売りに変装していた源吾が、その翌日討ち入りを果たして汚名を返上したとの句。三句目も、竹売りの源吾が「宝船の句」で、その号の「子葉」を繁らせたというもの。四句目は、源吾の「宝船の句」と関連させ、赤穂浪士の討ち入りの成功が「夢のようだ」と其角をして言わしめたもの。しかし、これらは、いずれも、虚構の作り話に基づくもののようなのである(北嶋・前掲書)。なお、上記の一句目・二句目が集録されている『柳樽九十五篇』は、一茶が没した文政十年(一八二七)刊行で、「仮名手本忠臣蔵」の特集号となっている。
三十三 上記の其角と源吾とが登場する歌舞伎は、「松浦の太鼓」で、次のアドレスなどで詳しい(その一部を抜粋しておきたい。その抜粋中、「発句」と「挙句」の説明が、「連句」の定石の説明でないのが、これまた、虚構の作り話めいていて面白い)。

http://kairos.web.infoseek.co.jp/kabuki33.htm

○赤穂浪士の一人で、師走のすす払いの笹売りに身をやつす大高源吾(中村橋之助・成駒屋)は茶の湯や俳句をたしなむ風流人、両国橋のたもとで久々に俳諧の師匠の宝井其角(坂東弥十郎・大和屋)に出会います。其角は縁台を持ち出して世間話をし、源吾があまりにみすぼらしい格好をしているので、松浦の殿様から頂いた紋付を着せてあげます。そして別れる時源吾に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句(ほっく)します。その心はと云うと、源吾は「あしたまたるるその宝船」と挙句(あげく)して去ります。其角は源吾が討ち入りを断念したのだと読みました。しかし源吾は、本当は明日討入りのため、吉良邸の周りを探索に来ていたのでした。
○翌日の夜、吉良邸に隣接する肥前平戸藩の松浦鎮信(中村勘三郎・中村屋)の屋敷で句会が催され、和やかに進んでいたのですが、其角の口利きで松浦家の屋敷に奉公に上がっていた源吾の妹お縫(おぬい=中村勘太郎・中村屋)がお茶を立てているのを見た殿様は機嫌が悪くなってしまいます。さらに追い討ちを駆ける様に其角が昨日源吾に会った話しをし、赤穂浪士も見下げたものだと嘆きます。鎮信は軍学者の山鹿素行(やまがそこう)の下で同門だった赤穂の大石内蔵助が、松浦邸隣家の吉良上野介をいつまでも討たないことに腹を立て、そんな腰抜けどもに連なる者を屋敷に置いておくわけにはいかないと云います。其角はお縫いを伴って帰ることにし、ふと、昨日の源吾の挙句を口にします。それを耳にした殿様は二人を呼び止め、突然「わかった」と膝を打ちます。けげんな顔をする其角。とその時、太鼓の音が聞こえてきます。特徴のある打ち方(山鹿流)に気が付いた殿様は大喜びです。そこへ家来がやって来て赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったことを知らせます。それでこそ赤穂浪士だ、武士道は地に落ちていないと喜び、帰りかける二人を呼び戻して詫び、火事装束の用意と馬を用意しろと叫ぶのでした。
○ここは松浦藩の玄関先、赤穂浪士の助太刀をすると馬で飛び出さんばかりの殿様を家臣が押しとどめていると、討ち入りの装束をした大高源吾が現れ挙句の意味を理解してくれた事を喜び、そして吉良義央の首を討ち取り、本懐を遂げた経過報告をします。其角が源吾に時世の句を所望すると「山を抜く力も折れて松の雪」と詠み、風流人として生涯を締めくくる覚悟に殿様・松浦鎮信は感じ入るのでした。

(謎解き・十八)

○ 泉岳寺他宗もみんな引き受ける (柳一九)
○ いろはにほへどちりぬるは泉岳寺 (柳九五)

三十三 一句目は、泉岳寺は曹洞宗のお寺であるが、いろいろな宗派の赤穂浪士たちを一括埋葬しているの句。二句目は泉岳寺に葬られた「いろは四十七士」の句。この泉岳寺について、奴氏からのメッセージに次のような添書きがあった。
「『類柑子』は其角の手になるものですか? 行尊の墓参りの帰りに泉岳寺に寄ったことが出ていますね。」 
『類柑子』は、宝永四年(一七〇七)に刊行された、沾洲・秋色・青流(空)編による、其角の遺稿集である。柴田宵曲著『蕉門の人々』(「其角」)に、次のような『類柑子』(「松の塵」)の、其角の遺稿文が収められている。
「文月十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等の俤、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そぞろに心頭にかかれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおほひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草になして、亡霊聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。」
この其角の一文により、赤穂四十七士の新盆の元禄十六年当時の泉岳寺が、「墓所参詣を許さず、草の丈でその墓所が見えない」という、時の幕府の赤穂四十七士への姿勢を如実に見ることができる。彼等は時の幕府に楯突いた、いわゆる、犯罪者であるという、この事実である。そういう厳しい情勢の中で、其角は敢然と挑戦しているのである。

三十四 この『類柑子』に出てくる「上行寺」は、其角の菩提寺なのだが、永井荷風の『断腸亭日乗』(昭和三十一年十一月二十九日)に、「(前略)其車にて白金上行寺及高野山某寺に至り写真撮影。(後略)」とあり、『日和下駄』には、「日本榎高野山の向側なる上行寺は、其角の墓ある故に人の知る処である。私は本堂に立つてゐる崖の上から摺鉢の底のやうなこの上行寺の墓地全体を覗き見る有様をば、其角の墓諸共に忘れがたく思つてゐる」(「崖」)とある。江戸・東京と連なる大きな文芸史の一角を占める、永井荷風が、その江戸・東京の文芸史の元祖のような、宝井其角と深いつながりがあるのである。そして、荷風が愛して止まなかった、この上行寺付近は、開発のラッシユで、「寺は神奈川県伊勢原市に移転し、一緒に其角の墓も江戸を離れてしまったという」(半藤・前掲書)。
この伊勢原市に移転した「上行寺」が、次のアドレスの、「其角三百回文学忌 ホームページ」というサイトで、「上行寺」・「其角墓」・「其角木像」などをつぶさに見ることができるのである。この管理人の二上貴夫氏は次のように記している。

○このサイトを制作・管理している、二上貴夫(フタカミキフウ)です。或る年の暮れでしたか、神田の古書店を歩いていて見つけた勝峯晋風編『其角全集』を読み、はじめて日本に固有の文芸「俳諧」がある事を知りました。「俳諧」を知るには実作しか無いと思い、それで平成元年頃より、俳句・連句を作り川柳も読み始めました。
それまで、石原吉郎の詩を読んで詩を書いた事はあったのですが、俳句・連句の文体と詩の文体とはかなりちがいますね、それに暫く戸惑いながらの実作でした。そこまでして「俳諧」の実作に打ち込んだのは、「其角には何か在る」と思ったからですが、其角全集を読めるようになるには、発句連句を作るという体験から入るほか無いと思ったからです。
そうこうして、六年ほど前、神奈川県の秦野へ移り住みましたところ、其角の墓が在る上行寺は車で15分の近くだと知りました。奇縁を感じました。それで、ご住職にお話をうかがうと、墓は無縁仏になっておりお寺で草取りをしているとの事で、其角三百回忌をする者もいないらしいとのこと。本当にダレもいないのだと思うと信じ難い気持ちがこみ上げて、これは故人への敬意としてどんなにささやかなものでも三百回忌の追善をしようと思いました。

http://kikaku.boo.jp/tuizen.html

(謎解き・十九)

○ 夕立や田をみめぐりの神ならば (其角『五元集』)
○ 三巡(めぐ)りの日向ぼこしに出たりけり (一茶『七番日記』)

三十五 其角のこの句には、「牛島三めぐりの神前に雨乞ひするものにかはりて」との前書きがあり、さらに、添書きに「翌日雨ふる」とある。「三囲(めぐり)」神社の「みめぐり」と「見巡(めぐり)り」の「みめぐり」と「恵(めぐ)み(の夕立)」の「めぐみ」とを掛け、さらに、「折句」スタイルで、上五文字の頭の「ゆ」、中七文字の「た」、下五文字の「か」で、「ゆたか(豊か)」の語を折り込んで、夕立の「豊か」と豊作の「豊か」を祈願した、どうにも、「言葉遊戯」の句というよりも、「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」「そらみつ大和の國は……言靈の幸ふ國と語り繼ぎ言ひ繼がひけり」(『万葉集』)の、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術師」のような趣なのである。そして、其角のこの呪術は験を表わして、「翌日雨降る」と相成り、俳諧師・宝井其角の名は江戸中に広まったというのである。その其角去って、およそ百年後の、一茶が、大の其角ファンなのであるが、その其角を偲んで、隅田堤の下の、この三囲稲荷神社に赴いたところ、「雨ではなく日向の真っ盛り」の、それであったというのが、掲出の一茶の句である。一茶には、もう一つ、「十五夜や田を三巡りの神の雨」(文化二年)との「三巡り」の句があるというのだが(半藤一利著『一茶俳句と遊ぶ』・『其角俳句と江戸の春』)、由緒のある「古典俳文学大系本十五巻」(集英社)の『一茶集』(丸山一彦他校注)には、掲出の句は収載されているが、こちらのものは収載されていない。
さて、その其角去って、三百年、一茶去って、約二百年後の、平成十九年(二〇〇七)の「三囲稲荷神社」周辺の蘭氏のレポートは下記のとおりである。

○ 隅田川は、あいかわらずゆうゆうと流れていた。都鳥がいっぱい流れに身を任せて浮かんでいる。

  行水の何にとどまる海苔の味    其角
  隅田川とはにたゆたへ冬鴎     春蘭

駒形橋を渡って川岸を北上する。日陰で北風がよけいに身にしみる。言問橋の通りを横切って川と平行の道を北に進む。三囲稲荷神社の鳥居が見えて来た。こここそ、この旅を思いつく発端となった其角の雨乞いの句が詠まれた所だ。句碑と説明が社殿の真ん前にあった。

  遊ふた地や田を見めぐりの神ならば 其角

ただちに夕立が降ったという説と翌日という説があるが、其角の『五元集』には「翌日雨ふる」と後書がある。

  みめぐりの社ぐるりと冬木風    春蘭

其角は門人と吉原に行く途中だったという。其角の住いは茅場町、そこから猪牙舟に乗って隅田川をさかのぼり、丁度対岸の山谷堀に進路を変えるところが三囲神社あたりで、参詣のために一度舟を降りたのだろう。山谷堀に入り込む舟が込み合っていて一時休憩の場でもあったのだろうか。トイレ休憩を詠んだ川柳もあるがおげれつなので書かない。雨乞いしたあと、其角はまた舟に乗って山谷堀に入り、吉原に向かったであろう。私もその後を追う。今は言問橋がある。川にぷかぷか浮かんでいる都鳥を間近に見て、その大きさに改めて驚いた。君たちはあひるか。

  其の後をいざ言問とはん都鳥    春蘭

言問橋を渡って隅田公園をちょっと北上すると待乳山聖天に出る。ここは、その昔、山谷堀、吉原への目印となっていたという。山谷堀はすっかり埋め立てられ(暗渠?)長い公園となっている。桜の木が植えられており、ところどころに老人が朝から座ってひなたぼっこをしている。どういう訳か男性としか合わない。 

以下、文章は省略して、歌・句のみ記しておきたい。

(土手の伊勢屋)

  臨休の貼紙まえに侘び立てば
      土手の伊勢屋にあたる北風  春蘭

(吉原大門)

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉     其角
  鯛は花江戸に生まれてけふの月    同
  呼び込みの声はやさしく金瓶梅   春蘭
  太夫とはマイフェアレディと心得よ  同
  冬日影苦界浄土の夢があと      同 

(吉原神社&吉原弁財天)

  白菊のはなにひきなくおく露は
     なき人しのぶなみだなりけり 智栄 

  この廓や月雪花も三菩薩      黒澤槭翠?

  日本では観音菩薩は女郎なり    春蘭
  寒影や花のよし原なごりの碑     同
  紅楼は夢か弁天寒を裂く       同

(鷲神社・大音寺)

  梅が香や乞食の家ものぞかるる   其角

(飛不動・寿永寺・日黄不動尊・浄閑寺)  

  寒風に匂ふ紫煙や無縁塚      春蘭

(三ノ輪商店街)

  十五から酒をのみ出てけふの月   其角
  白菜に一本付けておかめ蕎麦    春蘭

(都電荒川線)
  
  北風や道路に負ける荒川線     春蘭
  春隣都電でのぼる飛鳥山       同
  早稲田まで揺られてさめる寒の酒   同 

 
(謎解き・二十)

○ 立馬(たつうま)の曰(いわく)は猿の華心(其角『五元集』)

三十六 この掲出句には、「意馬心猿の解」という前書きがある。この「意馬心猿」は、「仏 。妄念や煩悩(ぼんのう)が激しく、心の乱れが抑えられないのを、奔馬や野猿が騒ぐのを抑えがたいさまにたとえた語」(『大辞林』)との仏教用語である。そして、この「解」には「解釈」と「分解」との二義があるという(今泉準一『其角と芭蕉と』)。この「分解」の意に解すると、この掲出句は、「意馬心猿」の「意」が分解されて、「立つ馬の」の「立」と、「曰くは」の「曰」と、「猿の心」の「心」の三つに分解して、一句の中に、「立(裁)ち入れ」(詠み込まれ)られているとともに、さらに、「馬・心・猿」の三字をも「立(裁)ち入」(詠み込まれ)られているのである。このようなある語(ある字)を一句の中に入れて詠むのを、和歌では「隠題(かくしだい)」、俳諧では、「立(裁)ち入れ」と呼ばれている(今泉・前掲書)。この句もまた、これらの「言葉遊戯」の句を超越して、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術」のような趣なのである。すなわち、この前書きの「解」を「解釈」としてとらえて、この句の表面的な解釈は「馬が突然立ち上がるのは、それはそれなりに、曰く(意味)があって、それは、いわば、猿のさかりのついた浮気心と同じようなものだ」ということになる。そして、その背後には、「その猿の本能的な華(花)心が、種族の維持につながり」、そのことは強いては、「動物の生命現象の根底に存在するものだ」と、「言挙げの呪術師」の宝井其角は、「人間とて同じことであって、『意馬心猿』に徹し、極端な『戒律主義』に走ることは、まかりならない」ということを、この句に託しているのだという(今泉・前掲書)。其角の「謎句」の実態というのは、こういう、「言葉のレトリック(修字法・美辞麗句)」という世界を超越して、「言挙げの呪術」(神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念。まじない・魔法・魔術など)の世界に近いもののように思われてくるのである。
(ここで、「歌仙」の三十六句の「挙句」という感じなのであるが、さらに、「続けられる」ところまで、続行することとする。)

○ けさたんとのめや菖(あやめ)の富田酒(とんだざけ)(其角『五元集拾遺』)

三十七 「今朝はたんと(十分に)呑めや菖蒲の(五月五日の端午の節句に万病を治す菖蒲酒の)富田酒(薬効に「富んだ」富田名産の「富田酒」を)」と、「十五から酒を呑み出てけふの月」の句をものにした酒好きの其角にふさわしい上戸の気持のよく現れた句であろう(今泉・前掲書)。「富田酒」に「富田名産の酒」と「菖蒲の薬効に富んだ酒」を掛けているが、其角にしては、それほど難解句というほどでもなかろう。ところが、この句は、「廻文」(「かいもん」又は「かいぶん」とも読む)との前書きがあり、いわゆる、「和歌・俳諧などで、上から読んでも下から逆に読んでも同じ音になるように作ってある文句。『たけやぶやけた』の類」の「廻文」形式の句なのである。どうにも、江戸の俳諧師の大立者・宝井其角というのは、変幻自在で、なかなか、その尻尾がつかめないのである。

○ 乾ヤ 兌 坎 震 離ス 艮 坤 巽  (其角『五元集拾遺』)

三十九 前書きに「格枝亭柱がくしに」とあり、添書きに「空や秋水ゆりはなす山おろしと御よみ候へ。下の字自然にまいり候こそ弥三五郎にて候」とある。「乾(けん)ヤ 兌(だ)  坎(かん) 震(しん) 離(り)ス 艮(ごん) 坤(こん) 巽(そん)」は、これは、『易教』の「八卦」なのだという。これを『易教』で読むと、「乾(天=空)ヤ 兌(秋) 坎(水) 震 離ス 艮(山) 坤(地) 巽(風)」となり、「空や秋水ゆりはなす山おろし」となり、「下の字自然にまいり候こそ弥三五郎(注・からくり人形の名)にて候」で、「艮(山) 坤(地) 巽(風)」は、「山おろし」と読んで欲しいということなのだそうである(今泉・前掲書)。前書きにある「格枝(其角の晩年の弟子)亭」・「柱がくし(柱の飾り)に」ということで、弟子の「格枝亭」の柱に飾りとして掛ける短冊のようなものに、『易教』の八卦の文字を組み合わせて、「易教文字」の発句という趣なのであろう。たしかに、こういうものを柱に掛けておくと、何かしら、空間芸術の趣がしてきて、これまた、「言挙げの呪術」的なスペースに思えてくる。しかし、これを、其角の発句集(俳句集)の『五元集拾遺』に集録すべきものなのかどうか、はなはだ、首を傾げたくなってくるのである。こういうことが、「其角の句は謎句が多い。難解句だらけだ。其角の句は幻術的で、衒学的だ」と、其角在世当時から、さまざまな風評を巻き起こす、その要因の一つになっているのであろう。

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