日曜日, 6月 01, 2008

虚子の亡霊(五十五~六十)

虚子の亡霊(七)

虚子の亡霊(五十五)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その一)

○高浜虚子は、子規の持つ蕪村的要素を継承した。虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆虚子は子規門であるから、子規の教えを受けて、芭蕉の俳句よりも蕪村の俳句から、俳句への道に深入りしていったということはいえるであろう。しかし、「子規の持つ蕪村的要素を継承した」というのは、やや、小西先達の、その「雅」(永遠なるもの・完成・正統・伝統・洗練など)と「俗」(新しきもの・無限・非正統・伝統・遊びなど)と「俳諧(雅俗)」との「表現意識史観」とやらの、その考え方からの、飛躍した見方のように思われる傾向がなくもないのである。そもそも、虚子は、子規からの「後継者委嘱」を完全に断るという、いわゆる「道灌山事件」のとおり、子規のやっている「俳句革新」にも「俳句」の世界そのものにも、虚子の言葉でするならば、内心「軽蔑していた」ということで、子規や碧梧桐らの仲間との付き合いで、義理でやっていたというのが、その実情であったとも解せられるのである。
 そういうことで、子規没後の、子規の実質上の承継者は、碧梧桐で、すなわち、小西先達の、「子規の亡くなったあと、主として碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持った」の、その子規門の牙城の、新聞「日本」を碧梧桐が承継して、虚子は、雑誌「ホトトギス」を、(これは子規より継承したというよりも)、虚子その人が柳原極堂より生業として承継したものとの理解の方が正しいのであろう。

 これらについては、「ホトトギス百年史」によれば、次のとおりとなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

明治三十年(1897)
一月 柳原極堂、松山で「ほとゝぎす」創刊。
二月 「俳話数則」連載(1)蕪村研究(2)新時代の俳句啓蒙・全国俳句の情報。
七月 「俳人蕪村」子規、三十一年三月まで連載。
八月 虚子「国民新聞」の俳句欄選者となる
十二月 「俳句分類」連載、子規。根岸にて第一回蕪村忌。
明治三十一年(1898)
三月 正岡子規閲『新俳句』刊(民友社)。
九月 ほとゝぎす発行所、松山から虚子宅(東京市神田区錦町1ー12)に移す。
十月 虚子を発行人として「ほとゝぎす」二巻一号発行。「文学美術漫評」連載、子規。日本美術院設立。
十一月 「小園の記」子規、「浅草寺のくさゞ」連載、虚子、子規派写生文の始まり。
十二月 短文募集、第一回題「山」。

 これらのことは、「ホトトギス」の「軌跡」として、「ホトトギス初代主宰・柳原極堂」で、虚子は「ホトトギス二代主宰・高浜虚子」ということになる。

http://www.hototogisu.co.jp/

 これを別な視点からすると、当時の、虚子の姿というのは、「虚子は俳諧師四分七厘商売人五分三厘」(因みに、「極堂は法学生三分五厘俳諧師三分五厘歌よみ三分」)と、雑誌「ホトトギス」の生業としての経営にその軸足を移していたという理解である(上田都史著『近代俳句文学史』)。そして、その経営の傍ら、当初からの夢の、「俳句」というよりも「小説家」への道を目指していたというのが、当時の虚子の実像ではなかったか。
 とすれば、子規の「俳句」・「蕪村研究」などの全てを碧梧桐が承継して、虚子はそれらからやや距離を置いたところに位置したということで、事実、碧梧桐の、その後の「蕪村」への取り組みは、今にその名を「蕪村顕彰・研究史」に留めているということで、その観点からすると、虚子は、何ら「子規の持つ蕪村的要素を継承」はしていないということになる。
 また、小西先達の「虚子も、子規門である以上、写生をふりかざすのは当然であるが、実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握態度は、伝統的な季題趣味を多く出なかった」という指摘は、やはり、結論は正しい方向にあるものとしても、その結論に至るまでの、いろいろのものが全て省略されているということで、この文章だけを鵜呑みにすると、とんでもない「虚子の虚像」が出来上がってしまう危険性を内包していることであろう。そもそも、小西先生流の、「雅」と「俗」との観点からすると、碧梧桐の「俗」に対して、虚子は「雅」であり、「伝統的な季題趣味を多く出なかった」というのは、当然の帰結であって、ここだけをクローズアップするというのは、これまた危険千万であり、まして、この「季題趣味」と別次元の「写生・客観写生・(主観写生)」とを波状効果のようにして、虚子に対して、「無いものねだり」しても、これは、どうにも詮無いことのように思われるのである。
もっとも、一般的な言葉の「俗」(通俗)の大御所のような存在の高浜虚子の実像を、小西先達の「雅」と「俗」とにより、「子規的な『俗』を否定はしていないのだが、そのほかに『雅』の要素が強く復活してくる」、そういう「俳諧(雅俗)」の世界のものという指摘は、「虚子の実像」を正しく知る上での有力な手がかりになることは間違いないところのものであろう(このことは後述することとする)。

虚子の亡霊(五十六)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その二)

○虚子の立場は、季題趣味に基づくものであるから、当然「既に存在する感じかた」を尊重することになる。昭和二年(一九二七)ごろから、虚子はしきりに「花鳥諷詠」こそ俳句の本質だと説くが、これは、感じかたのみではなく、詠むべき対象にまで、「既に存在する限界」を適用しようとする態度である。既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち「雅」への逆もどりであり、新しい「俗」をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な「俗」を否定はしないのだが、そのほかに「雅」の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに「雅」と「俗」との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち「俳諧」である。換言すれば、虚子は子規がうち建てた「俳句」の理念を、もういちど革新以前の「俳諧」に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

この小西先達の論理の展開は、その「雅」と「俗」との交錯によっての「表現意識史観」によれば、全て正鵠を得たものとなる。即ち、虚子の「季題」観は、「当然『既に存在する感じかた』を尊重する」ところの「雅」の姿勢であり、その「花鳥諷詠」観は、「詠むべき対象にまで、『既に存在する限界』」を適用しようとする」ところの「雅」の領域ということになる。従って、「既に存在する限界のなかで既に存在する感じかたをもって把握してゆく態度は、即ち『雅』への逆もどりであり、新しい『俗』をめざした子規の精神と、方向を異にする。虚子も、もちろん子規的な『俗』を否定はしないのだが、そのほかに『雅』の要素がつよく復活してくるわけなのであって、虚子の立場は、まさに『雅』と『俗』との混合にほかならない。ところで、雅と俗とにまたがる表現は、わたしの定義では、即ち『俳諧』」であるということになる。続いて、「虚子は子規がうち建てた『俳句』の理念を、もういちど革新以前の『俳諧』に逆もどりさせたのである。さらに換言するなら、子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」ということになる。
これらの指摘は確かに正鵠を得たもののように思えるのだが、何かしら釈然としないものが残るのである。その釈然としないものを、その「表現意識史観」などとやらをひとまず脇において、思いつくままに挙げてみると、次のようなことになる。

☆子規の俳句が第一芸術で、虚子の俳句は第二芸術なのか? 同じく、中西先達が「昭和俳人のなかで、確実に幾百年後の俳句史に残ると、いまから断言できるのは、かれ一人である」とする山口誓子の俳句は第一芸術で、それに比して、虚子の俳句は第二芸術なのか? これらを、中西先達の具体的に例示解説を施している俳句で例示するならば、子規の「幾たびも雪の深さを尋ねけり」(一六一)、そして、誓子の「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」(一九四)は、第一芸術で、そして、虚子の「桐一葉日あたりながら落ちにけり」(一七八)は、第二芸術と、これらの具体的な作品に即して、第一芸術と第二芸術とを峻別することが、はたして、できるものなのかどうか?

☆さらに、中西先達が主張する、これらの「第一芸術・第二芸術」というのは、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」が背景にあってのもので、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」として、このことから、「第二芸術は作者と享受者とが圏内に属する」ものと、「作者」と「享受者」との関係からの主張のようなのである。とするならば、子規の俳句も、虚子の俳句も、そして、誓子の俳句も、それらは、「作者と享受者とが圏内に属する」ところの、桑原説の「第二芸術」であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

☆事実、虚子は、桑原武夫の「俳句第二芸術(論)」に対して、桑原先達自身が記しているのだが、「『第二芸術』といわれて俳人たちが憤慨しているが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」(下記のアドレス)ということで、小説家と俳人との二つの顔を有している虚子にとっては、「俳句第二芸術」というのは、それほど違和感もなく受容できたのではなかろうか。即ち、中西先達が指摘する、「(虚子は)子規が第一芸術にしようと努めたものを、第二芸術にひきもどしたのである」というのは、虚子の側からすると、「子規の俳句第一芸術とするところの承継者の碧梧桐一派が、俳句そのものを短詩とやらに解体する方向に進んでいくのを見かねて、それではならじと、俳句の本来的な第二芸術の方向へ舵取りをしたに過ぎない」ということになろう。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

☆さらに、小西先達、そして、桑原先達の、「作者」と「享受者」との関係からの、
「第一芸術・第二芸術」との区分けを、例えば、後に、桑原先達自身が触れられている鶴見俊輔の「純粋芸術・大衆芸術・限界芸術」などにより、もう一歩進めての論理の展開などが必要になってくるのではなかろうか。これらについては、下記に関連するアドレスを記して、桑原先達の『第二芸術』(講談社学術文庫)の「まえがき」の中のものを抜粋しおきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

○短詩型文学については、鶴見俊輔氏の「限界芸術」の考え方を参考にすべきであろう。私は『第二芸術』の中で長谷川如是閑の説に言及しておいたが、鶴見氏のように、芸術を、純粋芸術・大衆芸術・限界芸術の三つに分類することには考え及んでいなかった(『鶴見俊輔著作集』第四巻「芸術の発展」)。しかし、現代の俳句や短歌の作者たちは恐らく限界芸術の領域で仕事をしているということを認めないであろう。なお、最近ドナルド・キーン、梅棹忠夫の両氏は『第二芸術のすすめ』という対談をしておられるが、そこでは『第二芸術』で私が指摘したことは事実であると認めた上で、しかし名声、地位、収入などと無関係な、自分のための文学としての第二芸術は大いに奨励されるべきだとされている(『朝日放送』一九七五年十二月号)。これは長谷川如是閑説と同じ線である。

虚子の亡霊(五十七)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その三)

○わたくしは 『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない。しかし、その「なかま」の人たちの言によると、まことにりっぱな芸術のよしである。「なかま」だけに通用する感じかたでお互に感心しあって、これこそ俳句の精華なりと確信するのは御自由であるけれど、それは、平安期このかたの歌人たちが「作者イコール享受者」の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきたのと同じことであり、特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか。
○近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。
○これでは、せっかく「俳句は=literatureである」と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか。あとでも述べるごとく、いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも「座」において形成され維持されてきたことによるものらしい。複数の人たちが集まった「座」で制作と享受が同時に進められるのだから、わからない点があれば、その場で説明すればよいことだし、ふだん顔なじみの定連であれば、しぜん気心も知れた間がらになってゆくから、いちいち説明するまでもなく、雰囲気で理解できるはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

☆小西先達は、ここにきて、何故に、「『ホトトギス』系統の句に、あまり感心したことがない」と、ことさらに、『ホトトギス』系統の句だけ批判の対象にするのだろうか? その理由とする、「いま俳句の結社は、おそらく八百を超えるのでないかと推測されるが(三六五ペイジ参照)、なぜそれほど多数の結社が必要なのか。これは、俳句の父祖である俳譜が、そもそも『座』において形成され維持されてきたことによるものらしい」というのが、その理由とすると、大なり小なり、小西先達が具体的に例示解説を施している俳句は、ことごとく、いわゆる「座」(結社)と切っても切り放せない関係から生まれたものであろう。即ち、子規は「日本」派・「根岸」派であり、碧梧桐は「子規」門の「海虹」派・「層雲」派・「碧」派・「三昧」派、そして、虚子は同じく「子規」門の「ホトトギス」派ということになる。誓子は「ホトトギス」門の「天狼」派、秋桜子は「ホトトギス」門の「馬酔木」派、楸邨は「馬酔木」門の「寒雷」派、そして、こと俳句実作に限っては、小西甚一先達も「楸邨」門の「寒雷」派ということになる。そして、小西先達が、わざわざ一章(「再追加の章・・・芭蕉の海外旅行」)を起して、「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句(「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に」)と酷評をしたところの作者・金子兜太先達もまた、甚一先達と同門の「寒雷」の「楸邨」門の「海程」派ということになる。

☆ここで、小西先達が、「せっかく『俳句は=literatureである』と言明した子規の大抱負が、どこかへ消えてしまった感じはございませんか」と嘆いても、これまた、小西先達と近い関係にある、尾形仂先達が、俳句は「座の文学」という冊子(講談社学術文庫)を公表しているほどに、「座」=「結社」ということで、「平安期このかたの歌人たちが『作者イコール享受者』の特別な構造をもつ自給自足的共同体のなかで和歌は芸術だと信じてきた」と、同じような環境下に、厳に存在しているものなのだということを、認知するほかはないのではなかろうか。 

☆小西先達が指摘する「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった。ところが、作者と享受者との同圏性が必要とされた結果、俳人たちはそれぞれ結社を作り、結社の内部でしか通用しない規準で制作し批評することになっていった」ということは、桑原先達の「俳句第二芸術」説と全く同じ考え方であり、「近代芸術(桑原説の第一芸術)は、作者と享受者とが同じ圏内に属するものでないことを前提として成立する」ということを前提する限り、どう足掻いても、虚子大先達が認知しているように、「俳句=第二芸術」という結論しか出てこないのではなかろうか。

☆ここで、小西先達の「(俳句の世界とは別の小説の世界の)特別な修行をしない人たちが、漱石や鷗外やドストエフスキイやジイドやロマン・ローランなどの小説に感激する在りかたと、あまりにも違ってやしませんか」というのは、「違ってやしませんか」と問い詰められても、「違っているものを、同じにせいといっても、そんなことは無理じゃありゃしませんか」と口をとがらせるほかはないのではなかろうか。

☆例えば、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、これを、漱石(「吾輩は猫である」など)や鷗外(「高瀬舟」など)やドストエフスキイ(「罪と罰」など)やジイド(「狭き門」など)やロマン・ローラン(「ジャン・クリストフ」など)と同じように鑑賞しろといっても、これは、「そんなことは無理じゃありゃしませんか」というほかはないのではなかろうか。そして、「(俳句の)特別な修業をしない人たち」は、「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄(甚一)」の句について、甚一先達が「わからない」と嘆いた「粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に(兜太)」の句と同じように、この「短日」も、この「や」も、そして、旧仮名遣いの「うたふ」も、韻字留めの「子守唄」も、そして、「短日=季語」も、そして、その定型の「五・七・五」についても、どうにも、「わからなさ」だけがクローズアップされて、暗号か呪文に接しているように思われるのではなかろうか。

☆ここでも、前回と同じことの繰り返しになるが、小西甚一先達の句も、そして、兜太先達の句も、はたまた、子規の句も、虚子の句も、誓子の句も、それらは、『作者と享受者とが圏内に属する』ところの、桑原説の『第二芸術』であるとするのが、より実態に即しての説得力のある考え方なのではなかろうか。

虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四)

○俳句の時代になると、さすがに「座」は消滅するけれど、むかし「座」があった当時の人的な関係は、師匠対門弟・先生対同人・指導者対投句者、ことによれば親分対子分といった西洋に類例のない構造として残り、それが結社として現在まで生き延びたのではないか。不特定多数の人たちを享受者にする西洋の詩とは、そこに根本的な差異がある。虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」
○短歌の世界では、子規系統の『アララギ』が歌壇の主流をなし、その中心となった斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。
(『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「近代」・「主知思潮とその傍流」

☆この「虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた」という指摘は、こと、小西先達の指摘だけではなく、「ホトトギス」の内外にわたって、しばしば目にするところのものであろう。そして、この「跡目相続」について、虚子側を容認するものは殆ど目にしないというのもまた、厳然たる事実ではあろう。しかし、虚子側からすると、このことについては、外野からとやかく言われる筋合いのものではないと、これは、高浜家の財産であり、家業であり、一家相伝のものであるという認識で、それが嫌ならば、「ホトトギス」と縁を絶てばよいのであって、はたまた、「その跡目相続が近代芸術にはあり得ない」などということとは別次元のものとして、議論は平行線のまま噛み合わないことであろう。まして、虚子自身は、「俳句第二芸術論」の容認者であり、極限するならば、いわゆる、「稽古事の俳句」をも容認する立場に位置するものと理解され、何で、こんな余所さまの自明のことに口出しをするのかと、それこそ、「余計お世話ではありゃしませんか」ということになるのではなかろうか。

☆これらのことについて、虚子はお寺の家督相続のような、次のような一文を、「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」に掲載しているのである。

○ホトトギスという寺院は、何十年間私が住持として相当な信者を得て、相当なお寺となっているのでありますから、老後それを年尾に譲って、年尾の力でそれを維持し発展させて行くことにしました。私の老後の隠居の寺院として娘の出してをる玉藻といふ寺を選んだことは、私の信ずる俳句を後ちの世に伝える為には万更愚かな方法であるとも考へないのであります。併し乍ら、決してホトトギスを顧みないと云ふわけではありません。年尾の相談があれば、それに乗り、又、督励する必要があれば督励する事を忘れては居りません。ホトトギスと玉藻とを両輪として私の信じる俳句の法輪を転じて行かうといふ考へは愚かな考へでありませうか、私は今の処さうは考へて居ないのであります。(「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」所収「消息」)

☆こうなると、三十五歳の若さで「文鏡秘府論考」により日本学士院賞を受賞し。単に、日本という枠組みだけではなく世界という枠組みで論陣を張った、日本文学・比較文学の権威者、そして、何よりも、俳諧・俳句を愛した小西甚一先達は、「斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した」と、「歌壇の斎藤茂吉に比して、高浜虚子は何たる無様なことよ」と、繰り返し、繰り返し、その著、『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫)や『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫)で、この「現状を打破せよ」とあいなるのである。しかし、「虚子の亡霊」は今なお健在なのである。このインターネットの時代になって、ネットの世界でもその名を見ることのできる、つい最近の『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)の中で、「ホトトギス」の「虚子→年尾→(汀子)」の「跡目相続」は、「日本の伝統的芸能や文芸の継承」を踏まえたものであり、そして、またしても、虚子が文化勲章を拝受したときの、「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」との、虚子の「俳句第二芸術」を固執する言が出てきたのである。この「天下有用ならず天下無用」の、その「天下無用」とは、かの芭蕉の「夏炉冬扇」と同意義なのであろうが、かの芭蕉は、自ら「乞食の翁」と称するところの無一物の生涯を全うしたところのものであった。それに比して、芭蕉翁を意識したと思われる虚子翁のそれは、何と「ホトトギス」に、余りにも執着しての、そういう限定付きでの、「天下無用」なのではなかろうか。何はともあれ、『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)のものを下記に掲げておきたい(これは、参考情報で、やや虚子サイト寄りの記述が多く見受けられるということを付記しておきたい)。

○日本の伝統的芸能や文芸の技の伝授や習得の方法としては、教授格の師匠、宗匠のもとで修業を積むという形で技術を模倣するか、または盗む、新たに開発するという手段が一般的であった。技術が師匠格の人に及ぶか、師匠が許した場合に独立するという徒弟制度、暖簾分け、という制度が永いこと継承されて来た。中でも秘技や秘術は門外不出とされ、子や孫により代々受け継がれる一子相伝という方法もあった。工芸、舞踊、意、剣道、茶道、和歌や俳諧などにおいても創作の道はそこを通過して行なわれてきた。こうした制度や師弟関係によって長いこと日本の伝統の技と芸とが継承されて来た。高浜虚子は昭和二十九年十一月三日に文化勲章を拝受した。虚子はその日も「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」と述べた。文化勲章の受賞は虚子自身の喜びよりもむしろ俳壇全体の喜びとして受け取られた。「われのみの菊日和とはゆめ思はじ」「詣りたる墓は黙して語らざる」という二句を虚子は詠んだ。あちらこちらで盛大に祝賀会が開催されたが、この句はまた虚子に取っては栄誉ばかりでなく大きな意味を持っていた。虚子が俳句を「天下無用の文学」と位置づけたのもこうした伝統と無縁ではないということを表白したかったのであった。芸術としての文芸に携わることは、社会的にも生活的にも社会的圏外に疎外されることを覚悟せねばならなかった。同時にそれは作家自身の意識では、俗社会を超えた高踏的存在になることであった。そのためには作家達は流派を超えた仲間の意識ともつながり、社会では育たない歌壇、俳壇という持殊な世界を作りあげた。結社を維持する大衆的な美学が要求され、かつそうした意識を育成したのであった。小説家が自意識、自我、個我、個人主義などという言葉を使って文学を考えていたのに虚子はそうした西洋移入の文学用語を駆使することはしなかった。また多くの虚子の小説、或いは写生文が「近代的自我の確立」を直接の軸にして散文観を展開しているわけでもなかった。常に虚子は文壇、歌壇、俳壇という意識で、俳句を特殊な社会に限定して捉えていた。無論、長い虚子の人生の中では常に俳句を文芸ととらえるか、文学としてとらえるかの問題に直面しながら生きてきたことは言うまでもない。芸能は古くは芸態と書き、師について手習いから始めた。それ故に入門を束脩と言った。古くからある技術を学びそれを模倣することを稽古と称して技術の修練に努めた。家元、家本、本家、名取、という芸能関係の言葉は今でも実は派閥や流派を示している。また芸能に携わる人々は座という個有の団体を作っていた。芸能に関しては家元と同じ意味で、家本、座頭と称してきた。師匠という言葉はこうした古い家元制度に関係し深い関わりを演じてきた。 『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)

虚子の亡霊(五十九)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その五)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』の「『虚子観』異聞」ということについては、前回のものでほぼ語り尽くし得たものと思われる。そして、前回のもので、まさしく、今なお「虚子の亡霊」が健在であるということを見てとることができた。これまでに、「虚子の実像と虚像」(一~十五)そして、この「虚子の亡霊」(一~五十九)と見てきたが、次のステップは、「虚子から年尾へ」ということで、虚子の承継者・高浜年尾との関連で、「虚子そしてホトトギス」をフォローしていきたい。ここでは、『俳句の世界(小西甚一著)』の構成に倣い、「追加」と「再追加」を付して、ひとまずは、了とする方向に持っていきたい。

(追加)

(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一

○昭和二十二年作。初案は「咳の子やうたふほかなき子守唄」であった。当時満一歳とすこしの長女を、お守しなくてはならぬことになった。いつものことで、お守そのものには驚かないけれども、あいにく咳がしきりに出て、どうしても寝ついてくれない。私の喉はたいへん好いので、いつもならすぐ寝るのですがね。しかたがない。いつまでも、ゆすぶりながら、子守唄をくり返すよりほかないのである。こんなとき、父親の限界をしみじみ感じますね。しかし、いくら限界を感じても、頼みの網である奥方は帰ってくる模様がない。稿債はしきりに良心を刺戟する。それでも「ねんねんおころり・・・」よりしかたがない。子守唄のメロディは、大人が聴くと、まことにやるせない。そのやるせない身の上を、俳句にしてみた次第。

○ところで、この句を『寒雷』に出したすぐあとで、どうも「咳の子や」が説明すぎると感じた。「咳」とあれば、冬めいた情景も或る程度まで表現されはするが、咳のため寝つかないのだと理由づけたおもむきの方がつよく、把握が何だか浅い。それで、翌月、さっそく「短日や」に修正した句を出したのだが、どうした加減か、初案の方が流布してしまって、本人としては恐縮ものである。「短日や」だと、暮れがたである感じ、何かいそがれるわびしさ、さむざむとした身のほとり、生活の陰影といったもの、いろいろな余情がこもって、初案よりずっと好いつもりですが、どんなものですかね。同様の句で、

 子守する大の男や秋の暮   凸迦

がある。『正風彦根鉢』にあることを、あとから発見したのだが、約二百四十年前のこの発句にくらべて、同じ題材ながら、私の句がたしかに現代俳句の感覚であることだけは、何とか認めていただきたいと、衷心より希望いたします。ついでながら、連歌や俳譜の千句で、千句をめでたく完成したとき、その上さらに数句を「おまけ」としてつける習慣があり、それを術語で「追加」と申します。念のため。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「追加」

☆「(二二九)短日やうたふほかなき子守唄 甚一」の、この「甚一」は、『寒雷』の作家「小西甚一」その人であって、いわずと知れた『俳句の世界(小西甚一著)』のその著者の「甚一」その人である。ここで、先に紹介した、この『俳句の世界』の編集子のものと思われる裏表紙の下記の記述を思い起していただきたいのである。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。
(「虚子の亡霊 五十四」)

☆この記述の「俳諧連歌の第一句である発句」と「子規による革新以後の俳句」とでは、「同列に論じる」ことはできないところの、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という、そもそも、『俳句の世界(小西甚一著)』の、最も中核の問題に思い至るのである。すなわち、下記の二句は、「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」という問い掛けである。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮     凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄   甚一

☆この凸迦と甚一の二句、「五七五」の定型、「秋の暮」と「短日」の季語、そして、「大の男や」の「や」と「短日や」の「や」の切字など、その形から見ても、その内容から見ても、この「両者は別々の異質の世界のものなのであろうか」?

☆もし、これが「両者は別々の異質の世界のものではない」という見地に立つと、『俳句の世界(小西甚一著)』の次の構成(目次)はガタガタと崩壊してしまうのである。
第一部 俳諧の時代(第一章 古い俳諧 ~  第八章 幕末へ)
第二部 俳句の時代(第一章 子規の革新 ~ 第五章 人間への郷愁)

☆これらの答の方向について、興味のある方は、是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、その探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「追加」の要点でもある。

虚子の亡霊(六十)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その六)

(再追加)

☆『俳句の世界(小西甚一著)』には、再追加の章(芭蕉の海外旅行)として、前回に紹介した二句のほかに、金子兜太の句が、「前衛俳句」として紹介されている。それを前回の二句に加えると、次のとおりとなる。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

☆この兜太の句について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、下記(抜粋)のとおり、詳細な記述があり、これがまた、この著書のまとめともなっている。

○戦後の「俳句史」として俳壇の「動向」を採りあげようとするとき、書くだけの「動向」がほとんど無いのである。もし書くとすれば、たぶん「前衛俳句」とよばれた動きが唯一のものらしい。前衛の運動は、俳句だけに限らず、ほかの文芸ジャンルでも、美術でも、演劇でも、音楽でも、舞踊でも生花でもさかんに試作ないし試演されたし、いまでもそれほど下火ではない。さて、俳句における前衛とは、どんな表現か。ひとつ例を挙げてみよう。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に   兜太

 金子兜太は前衛俳句の代表的作家であると同時に俳壇随一の論客であって、ブルドーザーさながらの馬力で論敵を押しっぶす武者ぶりは、当代の壮観といってよい。右の句は、現代俳句協会から一九六三年度の最優秀作として表彰されたものである。この句に対し、わたくしは、さっぱりわからないと文句をつけた。そもそも俳句は、わからなくてはいけないわけでない。わからなくても、良い句は、やはり良い句なのである。ところが、その「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ちこまれたからだ・・・とわたくしは論じた。それは『寒雷』二五〇号(一九六四年四月号)に掲載され、兜太君がどの程度に怒るかなと心待ちにするうち、果然かれは、期待以上の激怒ぶりを見せてくれた。同誌の二五二号(同年六月)で、前衛俳句は甚一なんかの理解よりもずっとよくイメィジを消化した結果の表現なのだから、叙述に慣れてきた人には難解だとしても、慣れたら次第にわかりやすいものになるはずだ・・・と反論したわけだが、この論戦の中心点を紹介することは、近代俳句から現代俳句への流れを大観することにもなるので、それをこの本の「まとめ」に代用させていただく。

○西洋における近代文芸と現代文芸の間には、大きい差がある。近代、つまり十九世紀までの詩や小説は、作者が何かの思想をもち、その思想を表現するため、描写したり、叙述したり、表明したり、解説したり、小説なら人物・背景を設定したり、筋の展開を構成したりする。享受者は、それらの表現を分析しながら、作者の意図に追ってゆき、最後に「これだ!」と断言できる思想的焦点、つまり主題が把握されたとき、享受は完成される。ある小説の主題が「愛の犯罪性」だとか、いや「旧倫理の復権」だとかいった類の議論は、作品のなかに埋めこまれた主題を掘り出すことが享受ないし批評だとする通念に基づくもので、近代文芸に対してはそれが正当なゆきかたであった。ところが、二十世紀、つまり現代に入ってから、作者が表現を主題に縛りつけない行きかたの作品、極端なものになると、はじめから主題もたない作品までが出現することになった。主題の発掘を専業とした従来の解釈屋さんにとっては、たいへん困った事態に相違ない。

○詩は、かならずしもわからなくてはいけないわけではない。しかし、その「わからなさ」が、とりとめのない行方不明では困る。「粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に」は、村野四郎氏が「詩性雑感」のなかで、

 これはぜんぜん問題にならない。作者自身、そのアナロジーに自信がないんです。
ですから、読んだ人もみんな、てんでんばらばらで、めちゃくちゃなことをいっている。ロ-ルシャツハ・テストというのがありましてね。紙の上にインクを落として、つぶしたようなシンメトリックなシミを見せて、「これは何に見えるか」と聞いてみて、答える人の性格をテストするという実験ですが、俳句もあんなインクのシミみたいじゃ困るんです。どうにでもとれるというものじゃ、困るんですよ。

と評されたごとく(『女性俳句』一九六四年第四号)、困りものなのである。村野氏の批評は、前衛の俳句の表現は、視覚的イメィジと論理的イメィジとを比喩(メタファ)の技法で調和させようとするものだが、それは、ひとつのものと他のものとの類似相をつかむこと(アナロジイ)に依存するから、もしアナロジイが確かでないと、構成はバラバラになり、アナロジイに普遍性を欠くと、詩としての意味が無くなる・・・とするコンテクストのなかでなされたものである。

○一九六〇年代から、解釈や批評は享受者側からの参加なしに成立しないとする立場の「受容美学」(Rezeptionsasthetik)が提唱され、いまではこれを無視した批評理論は通用しかねるところまで定着したが、その代表的な論者であるヴォルフガング・イザー教授やハンス・ロベルト・ヤウス教授は連歌も俳諧も御存知ないらしい。もし連歌や俳譜の研究によって支持されるならば、受容美学は、もっとその地歩を確かにするはずである。「享受者が自分で補充しなくてはならない」俳句表現の特質を指摘したドナルド・キーン教授の論は(一二〇ペイジ参照)、十年ほど早く出すぎたのかもしれない。去来の「岩端(はな)やここにもひとり月の客」に対して、芭蕉は作者白身の解釈を否定し、別の解釈でなくてはいけないと、批評したところ、去来は先生はたいしたものだと感服した(一八六ペイジ参照)。

○これは、芭蕉が受容美学よりもおよそ二百七十年も先行する新解釈理論をどうして案出できたのかと驚歎するには及ばないのであって、前句の作意を無視することがむしろ手柄になる連歌や俳譜の世界では、当然すぎる師弟のやりとりであった。 切れながらどこかで結びつき、続きながらどこかで切れる速断的表現は、西洋の詩人にと
って非常な魅力があるらしい。先年、フランス文学の阿部良雄氏が、一九六〇年にハーヴァード大学の雑誌に出たわたくしの論文について、ジャック・ルーボーさんが質問してきたので、回答してやりたいのだが・・・といって来訪された。わたくしの論文は、おもに『新古今和歌集』を材料として、勅撰集における歌の配列が連断性をもち、イメィジの連想と進行がそれを助けることについて述べたものだが、どんなお役に立ったのか見当がつかなかった。

○ルーボーさんの研究は、一九六九年に論文"Sur le Shin Kokinshu" としてChange誌に掲載され、それが田中淳一氏の訳で『海』誌(中央公論社)の一九七四年四月号に出た。そこまでは単なる知識の交流で、どうといったことも無いのだが、一九七一年、パリのガリマール社からRENGAと題する小冊子が刊行され、わたくしは非常に驚かされた。それは、オクタヴィオ・パス、エドワルド・サンギイネティ、チャールズ・トムリンソン、それにジャック・ルーボーの四詩人が、スペイン語・イタリー語・英語・フランス語でそれぞれ付けていった連歌だったからである。アメリカでも評判になったらしくて、フランス語の解説を含め全体を英訳したものが、すぐにニューヨークでも出版された。

○日本には、和漢連句とか漢和連句とかよばれるものがあり、漢詩の五言句と和様の五七五句・七七句を付け交ぜてゆくのだが、西伊英仏連句とは、空前の試みであった。これが酔狂人の出来心で作られたものでないことは、連歌の適切な解説ぶりでも判るけれど、それよりも、ルーボーさんが以前から連歌を研究し、連歌表現に先行するものとして『新古今和歌集』まで分析した慎重さを見るがよろしい。さきに述べたルーボーさんの論文の最後の部分は「水無瀬三吟」の検討である。連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい。とくに、芭蕉は、門下に対し「発句は君たちの作にもわたし以上のがある。しかし、連句にかけては、わたくしの芸だね」と語ったほど、連句に自信があった。再度の海外旅行を芭蕉はけっして迷惑がらないはずである。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「再追加の章」

☆長い長い引用(抜粋)になってしまったが、これでも相当の部分カットしているのである。そして、そのカットがある故に、この著者の意図するところが十分に伝わらないことが誠に詮無く、その詮無いことに自虐するような思いでもある。これまた、
是非、『俳句の世界(小西甚一著)』に直接触れて、「俳諧(発句)」・「俳句」・「前衛俳句」にどの探索をすることをお勧めしたいのである。これが、この「再追加」の要点でもある。

☆ここで、当初の掲出の三句を再掲して、若干の感想めいたものを付記しておきたい。

「俳諧連歌の第一句である発句」
  子守する大の男や秋の暮          凸迦
「子規による革新以後の俳句」
短日やうたふほかなき子守唄        甚一
「前衛俳句」
  粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この三句で、まぎれもなく、兜太の句は、「子規による革新以後の俳句」として、「俳諧連歌の第一句である発句」とは「異質の世界」であることを付記しておきたい。
 そしてまた、「連歌が、イマジズムの形成における俳句と同様、これからの西洋詩に何かの作用を及ぼすかどうかは、いまのところ不明である。しかし、仮に、受容美学と対応する新しい作品が西洋詩のなかで生まれたならば、日本の詩人諸公は、その新しい詩をまねる替りに、どうか連歌なり俳譜なりを直接に勉強していただきたい」
ということは、小西大先達の遺言として重く受けとめ、このことを、ここに付記しておきたい。
(追記)『俳句の世界(小西甚一著)』の著者は、平成十九年(二〇〇七)年五月二十六日に永眠。享年九十一歳であった。なお、下記のアドレスなどに詳しい(なお、『俳句の世界(小西甚一著)』については、その抜粋について、OCRなどによったが、誤記などが多いことを付記しておきたい)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E7%94%9A%E4%B8%80

虚子の亡霊(四十九~五十四)

虚子の亡霊(五)


虚子の亡霊(四十九) 道灌山事件(その一)

ホトトギス「百年史」の年譜は「明治三十年一月 柳原極堂、松山で『ほとゝぎす』創刊」より始まり、明治二十八年の子規と虚子との「道灌山事件」の記載はない。ここで、「子規年譜」の当該年については、下記のとおりの記述がある。

http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

(子規略年譜)

明治28年(1895)   28歳

4月、日清戦争従軍記者として遼東半島に渡り、金州、旅順に赴く。金州で藤野古曰の死を知る。「陣中日記」を『日本』に連載する。5月4日、従軍中の森鴎外を訪ねる。17日、帰国の船中で喀血。23日、神戸に上陸し、直ちに県立神戸病院に入院。一時重体に陥る。7月、須磨保養院に転院。8月20日退院。28日、松山の漱石の下宿に移り50日余を過ごす。極堂ら地元の松風会会員と連日句会を開き、漱石も加わる。10月、松山を離れ、広島、大阪、奈良を経て帰京。12月、虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる。

http://www.shikian.or.jp/sikian2.htm

この十二月の、「虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが断られる」というのが、いわゆる「道灌山事件」と呼ばれるもので、次のアドレスのもので、その全容を知ることができる。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

☆俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」これに対して子規は瓢亭あての書簡に「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス 宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院

上記が、いわゆる「道灌山事件」の全容なのであるが、その後、子規自身も、「獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」などで、虚子も、「子規居士と余」などで、この「道灌山事件」については記述しているのであるが、「何故に、子規と虚子とで決定的に意見が相違して、何故に、虚子は頑なに子規の依頼を拒絶したのか」という、その真相になると、これがどうにもウヤムヤなのである。
このウヤムヤの所に、前回までの、虚子は「芸能・文芸としての俳句」という「第二芸術的」な俳句観を有していたのに、子規は「芸術・文学としての俳句」、すなわち、「第一芸術的」な俳句観を、虚子に無理強いをしたので、虚子はこれを拒絶する他は術がなかったと理解すると、何となく、この子規と虚子との「道灌山事件」の背景が見えてくるような思いがするのである。


虚子の亡霊(五十) 道灌山事件(その二)

 子規と虚子との「道灌山事件」というのは、明治二十八年と、もはや遠い歴史の中に埋没したかに思えたのだが、この平成十六年に、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)が刊行され、全く新しい視点での「道灌山事件」の背景を論述されたのであった。この「全く新しい視点」ということは、その「あとがき」の言葉でするならば、
「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立が、「道灌山事件」の背景とするところの、とにもかくにも大胆な推理と仮説とに基づくものを指していることに他ならない。 
この「子規の連句否定論」と「虚子の連句肯定論」との対立の推理と仮説は、さらに、例えば、子規の『俳諧大要』の最終尾の「連句」の項の、「ある部分は、子規の依頼の下でゴーストライターとして虚子が書いているのではなかろうか」(同書所収「『俳諧大要』(子規)最終尾の不審」)と、さらに大胆な推理と仮説を提示することとなる。
 この著者は、古典(芭蕉・蕪村・一茶など)もの、現代(素十など)もの、連句(芭蕉連句鑑賞など)ものと、こと、「古典・連句・俳句・ホトトギス」全般にわたって論述することに、その最右翼に位置することは、まずは多くの人が肯定するところであろう。そして、通説的な見解よりも、独創的な異説などもしばしば見られ、例えば、その著の『蕪村の手紙』所収の、「『北寿老仙をいたむ』の製作時期」・「『北寿老仙をいたむ』の解釈の流れ」などの論稿は、今や、通説的にもなりつつ状況にあるといっても過言ではなかろう。
 虚子・素十に師事し、俳誌 「雪」を主宰し、「ホトトギス」同人でもあり、東洋大学の学長も歴任した、この著者が、最新刊のものとして、この『夕顔の花——虚子の連句論——』を世に問うたということは、今後、この著を巡って、どのように、例えば、子規と虚子との「道灌山事件」などの真相があばかれていくのか、大変に興味のそそられるところである。
 ここで、ネット記事で、東大総長・文部大臣も歴任した現代俳人の一躍を担う有馬朗人の上記の村松友次のものと交差する「読売新聞」での記事のものを、次のアドレスのものにより紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆正岡子規は俳諧連句の発句を独立させて俳句とした。と同時に多数の人で作る連句は、西欧の個人主義的芸術論に合わないと考え切り捨てたのである。一方子規の第一の後継者である虚子は連句を大切にしていた。---子規が虚子に後継者になってくれと懇願するが、虚子が断ったという有名な道灌山事件のことである。その結果、子規は虚子を破門したと思われるにもかかわらず、一生両者の親密な関係は代わらなかった。
「読売新聞」2004.08.08朝刊 有馬朗人「本よみうり堂」より抜粋。 


虚子の亡霊(五十一) 道灌山事件(その三)

この「道灌山事件」とは別項で、「虚子・年尾の連句論」に触れる予定なので、ここでは、『夕顔の花——虚子の連句論——』(村松友次著)の詳細については後述といたしたい。そして、ここでは、明治二十八年の「道灌山事件」の頃の子規の句について、
次のアドレス(『春星』連載中の中川みえ氏の稿)のものを紹介しておきたい。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/9280/shikiku/shikiku5.htm#shikiku52

☆ 語りけり大つごもりの来ぬところ  子規
    漱石虚子来る
漱石が来て虚子が来て大三十日   同上
    漱石来るべき約あり
梅活けて君待つ庵の大三十日    同上
足柄はさぞ寒かったでこざんしよう 同上

 明治二十八年作。

 漱石はこの年五月、神戸病院に入院中の子規に、病気見舞かたがた「小子近頃俳文に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と手紙で言って来た。第一回の句稿を九月二十三日に送って来たのを嚆矢として、三十二年十月十七日まて三十五回に渡って膨大な数の句を子規のもとに送って、批評と添削を乞うた。
粟津則雄氏は「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編)の解説でこのことに触れて、
ロンドン留学の前年、明治三十二年の十月まで、これほどの数の句稿を送り続けるのは、ただ作句熱と言うだけでは片付くまい。もちろん、ひとつには、俳句が、手紙とちがって、自分の経験や印象や感慨を端的直載に示しうるからだろうが、同時にそこには、病床の子規を楽しませたいという心配りが働いていたと見るべきだろう。
と述べておられる。
 漱石は句稿に添えた手紙の中で、この年十二月に上京する旨伝えて来た。この時期漱石には縁談があって、そのことなども子規に手紙で相談していたようである。
 漱石は十二月二十七日に上京して、翌日、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合をし、婚約した。
 大みそかに訪ねて来るという漱石を、子規は梅を活けて、こたつをあたためて、楽しみに持っていたのである。
 大みそかには虚子も訪ねてきた。
 この月の幾日かに、子規は道潅山の茶店に虚子を誘い、先に須磨で言い出した後継委嘱問題を改めて切り出して、虚子の意向を問い正した。
 文学者になるためには、何よりも学問をすることだ、と説く子規に、厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない、と虚子は答えた。会談は決裂した。
 子規と虚子の間は少々ぎくしゃくしたが、それでも大みそかに虚子はやって来た。子規は最も信頼する友漱石と、一番好きてあった虚子の来訪を心待ちにしていたのである。
 漱石は一月七日まで東京に滞在して、子規庵初句会(一月三日)にも出席した。
 この年を振り返って、子規は次のように記している。
  明治二十八年といふ歳は日本の国が世界に紹介せられた大切な年であると同時に而かも反対に自分の一身は取っては殆ど生命を奪はれた程の不吉な大切な年である。しかし乍らそれ程一身に大切な年であるにかかはらず俳句の上には殆ど著しい影響は受けなかった様に思ふ。(略)幾多の智識と感情とは永久に余の心に印記せられたことであらうがそれは俳句の上に何等の影響をも及ぼさなかった。七月頃神戸の病院にあって病の少しく快くなった時傍に居た碧梧桐が課題の俳句百首許りを作らうと言ふのを聞て自分も一日に四十題許りを作った。其時に何だか少し進歩したかの様に思ふて自分で嬉しかつたのは嘘であらう。二ヶ月程も全く死んで居た俳句が僅かに蘇ったと云ふ迄の事て此年は病余の勢力甚だ振はなかった。尤も秋の末に二三日奈良めぐりをして矢鱈に駄句を吐いたのは自分に取っては非常に嬉しかった。
(獺祭書屋俳句帖上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ)

時に、子規、二十九歳、漱石、二十八歳、虚子は若干二十二歳であった。当時の虚子は、虚子の言葉でするならば、「放浪の一書生」(『子規居士と余』)で、今の言葉でするならば、「ニート族」(若年無業者)の代表格のようなものであろう。子規とて、書生上がりの「日本新聞」などの「フリーター」(請負文筆業)という趣で、漱石はというと、丁度、その小説の「坊っちゃん」の主人公のように、松山中学校の英語の

教師という身分であった。しかし、この三人が、いや、この三人を取り巻く、いわば、「子規塾」の面々が、日本の文化・芸術・文学の一翼を担うものに成長していくとは、
誠に、何とも痛快極まるものと思えてならない。そして、これも、虚子の言葉なのであるが、子規をして、「余はいつも其事を思ひ出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考へずにはゐられぬのである」(前掲書)という、この子規の存在は極めて大きいという感慨を抱くのである。
 ここらへんのことについて、先に紹介した次のアドレスで、これまた、「読売新聞」のコラムの記事を是非紹介をしておきたい。

http://art-random.main.jp/samescale/085-1.html

☆高浜虚子には、独特なユーモアをたたえた句がある。5枚の葉をつけた、ひと枝だの笹がある。「初雪や綺麗に笹の五六枚」等々、葉の1枚ずつに俳句が書かれている。東京にいた24歳の正岡子規が郷里・松山の友、17歳の高浜虚子に贈った。「飯が食えぬから」と虚子が文学の志を捨てようとしているらしい。人づてに聞いた子規がこの笹を添えて手紙を送ったのは、1982年1月のことである。「食ヘヌニ困ルト仰セアラバ 小生衰ヘタリト雖 貴兄ニ半碗ノ飯ヲ分タン」。「目的物ヲ手ニ入レル為ニ費スベキ最後ノ租税ハ 生命ナリ」。3年前に血を吐き、四年後には病床につく人が友に寄せた言葉は、悲しいまでに温かい。この笹の枝を子規は、「心竹」と呼んでいる。ささ(笹)いな贈り物だという。心の丈でもあったのだろう。虚子の胸深くに心竹は根を張り、近代詩歌の美しい実りとなった詩業を支えたに違いない。
「読売新聞」2004.01.01朝刊「編集手帳」より抜粋。


虚子の亡霊(五十二) 道灌山事件(その四)

ネットの記事は雲隠れをするときがある。一度、雲隠れをしてしまうとなかなか出てこない。かつて、「俳句第二芸術論」について触れていたときに、桑原武夫が高浜虚子の、俳句ではなく、その小説について褒めたことがあり、その桑原の初評論ともいえるようなものが、虚子の「ホトトギス」に掲載されたことがあり、その桑原のものを、ネットの記事で見た覚えがあるのだが、どうにも、それが雲隠れして、それを探すことができなかったのである。
 それが、しばらく、この虚子のものを休んでいたら、まるでその休みを止めて、また続けるようにとの催促をするように、そのネット記事が偶然に眼前に現れてきたのである。その記事は、次のアドレスのもので、「小さな耳鼻科診療所での話です」というタイトルのブログ記事のものであったのだ。今度は、雲隠れしないように、その前後の関連するところを、ここに再掲をしておくこととしたい。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

317.俳談(その1)

センセは、俳句をすなる。パソコンを使い始めて5年。俳句を始めて4年。ちょうど、「俳句とは」を考えたくなる時期にきたようだ。
乱雑に突っ込まれた本棚を見てみると、それなりに俳句入門の本が並んでいる。鷹羽狩行、稲畑汀子、阿部肖人、藤田湘子、我が師匠の大串章。先生方の言わんとされることが理解できれば俳句ももう少し上手くなれたのであろうか。句集もそれなりに積んである....
悪あがきついでに「俳句への道」高浜虚子(岩波文庫)を読むことにした。本の後半の研究座談会が面白そうだったので、そこから読み始めた。ところが、いきなりこんな文に出会った。
「近頃の人は、四五年俳句を作って見て、すぐ、『俳句とは』という議論をしたがる。そういう人が多い。こういう人は長続きしない。やがてその議論はかげをひそめるばかりかその人もかげをひそめる。」と、ある。ガーン!!!虚子先生は厳しい。
とはいえ、「私はしばらく俳論、俳話のやうなものは書かないでをりました。..」と、いいながら「玉藻」(主宰、星野立子)に、俳話を載せた。(昭和27年)ここでの俳論、俳話がまとめられたのが、この文庫である。「私の信じる俳句というのもは斯様なのもであるということを書き残して置くのもである。」と序にある。

なんたってセンセはミーハーである。いくら大虚子先生のお話でも、まず、愉快そうなところかに目をつける。まず、研究座談会の章から。

虚子は、子規のところに手紙を出したのも「文学の志しがあるから宜しくたのむ」と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった。「我が輩は猫である」がホトトギスに載る。漱石が小説家としてどんどん有名になっていく。

「漱石のその後の小説を先生はどういう風に感じられますか」と、弟子の深見けん二。虚子のこの質問に対する答えは、愉快である。「漱石の作品は高いのもがあります。だが、写生文という見地からは同調しかねるものもあります。」さーすが、客観写生の虚子先生である。そして、虚子は小説を書いたのである。けん二は、虚子の小説を「写生文」と、言い切っていろいろ質問しているが、虚子は「小説というより写生文という方がいいかもしれません」と答えているが小説の中ではという意味で言っているのである。「写生文は事実を曲げてはいけない。事実に重きをおかなければならない。その上に、心の深みがあらわれるように来るようにならなければならない。私は写生文からはいって行く小説というものを考えています」と、フィクションを否定している。花鳥諷詠の説明を聞いてるようだ。

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、この流れは、現在では、まだ大きな流れではありませんが、しかし、将来は本流と合体するかも知れないし...」ごにょごにょ....。あは。虚子先生、負けん気が強いですね。そして、小説への憧れがいじらしい。

「お父さん、最近『虹』とか、『椿物語』とか、いろいろの範囲の女性を書かれるようですが、お父さんの女性観といったのもをひとつ」と、秦に聞かれた。
「さあ、私は女の人と深くつきあっていませんからね。..小説家といっても、そんなに、女の人と深くつきあうことは出来んでしょう。大抵は、小説家が、自分で作ってしまうのでしょう。」
「里見さんなんかは、そうでもないらしいんですが」と、今井千鶴子。
「少しはつき合わないと書けないのでしょうか」と、なんとカワユイきょしせんせい。
虚子先生は、やはり小説より俳句ですよね。きっぱり。

(余白に)

☆ここのところでは、「虚子は、子規のところに手紙を出したのも『文学の志しがあるから宜しくたのむ』と、いうことで、俳句をしたいというわけではなかったらしい。本心は小説を書きたかったらしい。虚子は俳句を軽蔑していたのに、子規が俳句を作るので自然と俳句を作るようになった」というところは、いわゆる、子規と虚子との「道灌山事件」の背景を知る上で、非常に重要なものと思われる。すなわち、子規の在世中には、虚子は、「俳句を軽蔑していて、文学=小説」という考えを持っていて、「小説家」になろうとする道を選んでいた。そして、子規も当初は小説家を夢見ていたのであるが、幸田露伴に草稿などを見て頂いて、余り色よい返事が貰えず、当初の小説家の夢を断念して、俳句分類などの「古俳諧」探求への俳句の道へと方向転換をしたのであった。そういうことが背景にあって、虚子は、「文学者になるためには、何よりも学問をすることだ」と説く子規に、「厭でたまらない学問をしてまで文学者になろうとは思わない」と、いわゆる、子規の「後継委嘱」を断るという、これが、「道灌山事件」の真相だということなのであろう。そして、子規没後、子規の「俳句革新」の承継は、碧梧桐がして、虚子は小説家の道を歩むこととなる。しかし、虚子の小説家の道は、なかなか思うようにはことが進まなかった。そんなこともあって、たまたま、当時の碧梧桐の第一芸術的「新傾向俳句」を良しとはせず、ここは、第二芸術的な「伝統俳句」に立ち戻るべしとして、再び、俳句の方に軸足を移して、何時の間にやら、「虚子の俳句」、イコール、「俳句」というようになっていったということが、大雑把な見方であるが、その後の虚子の生き様と日本俳壇の流れだったといえるのではなかろうか。そして、上記のネット記事の紹介にもあるとおり、虚子は、その当初の、第一芸術の、「文学」=「小説」、その小説家の道は断念せず、その創作活動を終始続けていたというのが、俳壇の大御所・虚子の、もう一つの素顔であったということは特記しておく必要があろう。

虚子の亡霊(五十三) 道灌山事件(その五)

 前回に続いて、下記のアドレスの、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。ここに、桑原武夫の「俳句第二芸術論」ではなく、「虚子の散文」と題する一文が紹介されていたのである。

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

初心者が考える俳句とは、について書いてみようと思ったのだが、虚子先生の小説に話が流れたので、続けてみよう。(昨日、早速ありがたい読者から、「虚子は食えない男だと思う。まさに自分でも詠んでいるように『悪人』だね。」という忠告あり。いいえ、恋人にするつもりないから.......御安心を!)

「ただ、今のところ文壇からみれば傍流であって、..」と、自分の小説を虚子先生らしからぬ弱きでつぶやいているのだが、なんと、虚子の小説に大賛辞を送っている人がいたんですね。(百鳥2001 10月号『虚子と戦争』渡辺伸一郎著参考)

誰だと思いますか?桑原武夫。わかりますね、あの俳句第二芸術論を発表した(「世界」昭和22年)桑原武夫です。曰く、現代俳句は、その感覚や用語がせまい俳壇の中でしか通用しないきわめて特殊なものである。普遍的な享受を前提とする「第一芸術」でなく、「第二芸術」とされるものであると、主張しました。これに対して当時、俳壇は憤然としたそうです。

読者の指摘どうり「食えない男」の虚子先生は「いいんじゃあないの。自分達が俳句を始めたころは、せいぜい第二十芸術ぐらいだったから、それを十八級特進させてくれたんだから結構なことじゃあないか」と、涼しい顔をしていたとか。でも、これって大人の余裕というより本音かもしれませんね。俳句を軽蔑していたと、御本人が言っているくらいですから。第一、ウイットで返すという御性格でもなさそうだしィ。

その、俳壇にとって憎き相手の桑原博士が、虚子の小説を誉めたのです。(「虚子の散文」と題して東京帝国大学新聞に掲載された。1934年1月)

「私はいまフランスものを訳しているが、その分析的な文章に慣れた眼でみると、日本文は解体するか、いきづまるものが多いのだが、この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵し、フランス写実派の正統はわが国ではそれを受け継いだはずの自然主義作家よりも、むしろ当時その反対の立場にあった人によって示されたくらいだ。....著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある。....」と、エールを送っている。もちろん、この文章は、ホトトギスに転載された。虚子先生の「最後には勝つ」という人生観に、更に自信をもたれたでしょうね。そうだ、桑原武夫も同じく、虚子先生はイジワルと決めつけている..な。

ここで、不思議なのは、桑原武夫が書いている「著者は句と文とによって、はっきり態度を違えて立ち向かっている。.....これは、珍しい例ではないかと思う。」という下りである。
虚子は「写生文は事実を偽って書くのは卑怯ですよ。写生文がそういう根底に立ってそれが積み重なって、自然に小説としての構成を成してくるのは差し支えないでしょう。....面白くするために容易に事実を曲げるということはしない。」と言っている小説観と、口すっぱく主張している「客観写生」は、意味するところが共通しており「態度を違えて」ないのではなかろうか。

「客観写生ということに努めていると、その客観描写を透して主観が浸透して出てくる。作者の主観は隠すことが出来ないのであって客観写生の技量が進むにつれて主観が擡げてくる。」この虚子の主張と矛盾しないように思うし、あまりにも虚子らしい文章観であり散文であると思ったのであるが、いかがであろう。そして、あっぱれな頑固者だなとも思ったのだが.....。

(余白に)

☆これまでに数多くの「虚子論」というものを目にすることができるが、それらの多くは、どう足掻いても、田辺聖子の言葉でするならば、「虚子韜晦」と、その全貌を垣間見ることすらも困難のような、その「実像と虚像」との狭間に翻弄されている思いを深くさせられるものが多いのである。それらに比すると、上記の「小さな耳鼻科診療所での話です」と題するものの、この随想風のネット記事のものは、「高浜虚子」の一番中核に位置するものを見事に見据えているという思いを深くするのである。それと同時に、このネット記事で紹介されている、いわゆる「俳句第二芸術論」の著者の桑原武夫という評論家も、正しく、虚子その人を見据えていたという思いを深くする。桑原が、上記の「虚子の散文」という一文は、戦前も戦前の昭和九年に書かれたもので、桑原が「俳句第二芸術論」を草したのは、戦後のどさくさの、昭和二十一年のことであり、桑原は、終始一貫して、「俳人・小説家」としての「高浜虚子」という人を見据え続けてきたといっても差し支えなかろう。
その「小説家」(散文)の「虚子」の特徴として、「この文章(ホトトギスに掲載された『釧路港』1933年)ばかりは強靱で、それを支える思想がよほどしっかりしている。その点はモーパッサンに匹敵」するというのである。この虚子の文章(そしてその思想)の「強靱さ」(ネット記事の耳鼻咽喉科医の言葉でするならば「頑固者」)というのは、例えば、子規の「後継委嘱」を断り、子規をして絶望の局地に追いやったところの、いわゆる「道灌山事件」の背後にある最も根っ子の部分にあたるところのものであろう。この虚子の「強靱さ」(「頑固者」)というものをキィーワードとすると、虚子に係わる様々な「謎」が解明されてくるような思いがする。すなわち、子規と虚子との「道灌山事件」の謎は勿論、碧梧桐との「新傾向俳句」を巡る対立の謎も、秋桜子の「ホトトギス脱会」の背景の謎も、さらにまた、杉田久女らの「ホトトギス除名」の真相を巡る謎も、全ては、虚子の頑なまでの、その「強靱さ」(「頑固者」)に起因があると言って決して過言ではなかろう。
さらに、桑原の、「詩人の文章はどうしても詠嘆的になりがちで、文章をささえる思想が感情になりやすい。......観察写実から出発した作家は完成に近づくと、無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これは、実に、「虚子」その人と、その「創作活動」(小説と俳句)の中心を、見事に射抜いている、けだし、達眼という思いを深くするのである。このことは、上記のネット記事の基になっている、虚子の『俳句への道』の「研究座談会」のものですると、すなわち、虚子の句に対しての平畑静塔の言葉ですると、「痴呆的」という言葉と一致するものであろう。この、桑原の言葉でするならば、「無私の眼をもって見た澄明な景色のうちに何か不気味なものを感じさせるものである。そして、人間の感情にしてもむしろ冷淡な意地悪なものがよけいに沁み出る傾向がある」という指摘は、これこそ、「虚子の実像」という思いを深くするのである。これこそ、虚子と秋桜子とを巡る虚子の小説の「厭な顔」、そして、虚子と久女を巡る「久女伝説」を誕生させたところの虚子の小説の「国子の手紙」の根底に流れているものであろう。


虚子の亡霊(五十四) 道灌山事件(その六)

今回も、「小さな耳鼻科診療所での話です」の、その続きである。

http://www.geocities.jp/kayo_clinic/geodiary.311-320.html

「小さな耳鼻科診療所での話です」(続き)

虚子先生の「俳句への道」を頭をたれながら正座して読んでいたのである(ほんまかな)が、虚子大先生をぼろくそに無視(?)する評論家もいるようです。

「俳句の世界」(講談社学術文庫)の、小西甚一氏。「実は、虚子の写生は看板であって、中味はかなり主観的なものを含み、しかもその把握は伝統的な季題趣味を多く出なかった。木の実植うといへば直ちに人里離れた場所、白い髭をのばした隠者ふうの人物などを連想する行き方で、碧梧桐とは正反対の立場である。子規が第一芸術にしようと努めたのもを第二芸術にひきもどしたのである。」言いますね、コニシさん。
小西氏は、どうも楸邨と友人関係、その師と縁戚関係にあり、私情がたぶんに入った評論のようにも思うが、たぶんに半官びいきにも聞える。虚子のライバルとされた、結果的に俳句界に大きな足跡を残さなかった碧梧桐からの流れをくむ自由律の俳句への応援は温かい。ただ、「定型俳句があっての自由律俳句でなんでしてね。父親の脛を齧ることによって父親無用論を主張できる道楽息子と別ものではありません。」と、その限界を述べている。

ところが、虚子は「俳句への道」のなかで、「自らいい俳句を作らないで。俳句論をするものがある。そういうのは絶対に資格がない。俳句では。作る人が論ずる人であり得ない場合は多いが、論ずる人は、作家であるべきである。」と、痛快に反論しているので、これも愉快である。(小西氏も激辛評論の阿部氏も俳句作者としては、凡作の域をでなかったようだ。)
また、俳句を作る者に対しても理論を先立てることを戒めている。「私は理論はあとから来るほうがいいと考えている。少なくとも創作家というのもはそうあるべきものだと考えている。理論に導かれて創作をしようと試むるのもは迫力のあるものは出来ない。それよりも何物かに導かれるような感じの上に何ものも忘れて創作をする。出来て後にその創作の中から理論を見出す。創作家の理論というのはそんなものであるべきだと思う。」だそうな。

ということで、資格のないセンセの俳談は終わり。...

(余白に)

☆ここで、小西甚一著『俳句の世界』(講談社学術文庫)について触れられている。この著は、後世に永く伝えられる名著の部類に入るものであろう。その裏表紙に、編集子のものと思われる、次のような一文が付せられている。

○名著『日本文藝史』に先行して執筆された本書において、著者は「雅」と「俗」の交錯によって各時代の芸術が形成されたとする独創的な表現意識史観を提唱した。俳諧連歌の第一句である発句と、子規による革新以後の俳句を同列に論じることの誤りをただし、俳諧と俳句の本質的な差を、文学史の流れを見すえた鋭い史眼で明らかにする。俳句鑑賞に新機軸を拓き、俳句史はこの一冊で十分と絶讃された不朽の書。

 確かに、こういうものは、「不朽の書」といえるものなのであろうが(また、この著者の業績は、この著書の解説者の平井照敏氏が記しているとおり、「大碩学」の名が最も相応しいのかも知れないが)、それでもなおかつ、この著者以後の者は、この著を乗り越えていかなければならないのであろう。
 そういう観点に立って、この著の「高浜虚子」関連(「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」)のみに焦点を絞って、それをつぶさに見ていくと、この著者一流の、連句でいうところの、ここは「飛躍し過ぎではないか」というところが、散見されるように思われるのである。これらのことについて、稿を改めて、その幾つかについて見ていくことにする。

高屋窓秋の「白い夏野」(一~)

(後列 →  石橋辰之助・水原秋桜子・石田波郷・高屋窓秋)
高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当
時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、
何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構
成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作
俳句の鑑賞のように味わうことができる。

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、その「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じように後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面
白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものであるが、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑
賞を目にすることができるが(下記のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やはり、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そんな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡
な「白」の基調というのが、どうにももどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html

高屋窓秋の「白い夏野」(二)

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されている。



○ 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
○ 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
○ 頭の中で白い夏野となつてゐる
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということが分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろう。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃であったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記をしておきたい。

高屋窓秋の「白い夏野」(三)



○ 虻とんで海のひかりにまぎれざる
○ 舞い澄める虻一点のほがらかに
○ あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、やはり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜していく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめた川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめたのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

蒲公英

○ 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
○ 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもって反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。
☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これまでの擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

○ 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
○ たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もなく清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも響いてくる趣でなくもない。

高屋窓秋の「白い夏野」(五)



○ 洗面の水のながれて露と合う
○ 露の玉朝餉のひまもくずれざる
○ 雑草の露のひかりに電車くる
○ 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。この「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのものを見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつらねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。
☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める。
☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどるものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。
☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」などに比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないという印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める」ということを痛感するのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(六)

さくらの風景

○ さくら咲き丘はみどりにまるくある
○ 花と子ら日はその上にひと日降る
○ 灰色の街に風吹きさくらちる
○ いま人が死にゆく家も花のかげ
○ 静かなるさくらも墓も空のもと
○ ちるさくら海青ければ海へちる

「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青ければ海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(七)

山鳩

○ 山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
○ 山鳩よみればまわりに雪がふる
○ 雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
○ 鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によって、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すはたらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみはじめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉でするならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)



○ ある朝の大きな街に雪ふれる
○ 朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○ 山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○ 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降りつつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるように川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これらの句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そして、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思いを深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○ 菊の花月あわくさし数えあかぬ
○ 月に照る木の葉に顔をよせている
○ 月光をふめば遠くに土応う
○ 月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○ 月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○ 菊の花月射しその葉枯れている
○ 月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○ 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたのか、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやその異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえしていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのである。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのあるものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句していると、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものにものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とはいえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのである。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○ 海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○ 北の空北海の冷え涯ぞなき
○ 日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○ 氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○ 夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想していたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そして、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。


はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋

高屋窓秋の「白い夏野」(一~十)

高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当
時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、
何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構
成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作
俳句の鑑賞のように味わうことができる。

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白
い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子
は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、そ
の「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、
「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象
派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この
第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じよう
に後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものである
が、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑賞を目にすることができるが(下記
のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、
「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な
「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やは
り、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象
的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そ
んな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感
知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡な「白」の基調というのが、どうにも
もどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html

高屋窓秋の「白い夏野」(二)

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑
摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 
富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されて
いる。



○ 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
○ 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
○ 頭の中で白い夏野となつてゐる
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということ
が分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりであ
る。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離
脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、
「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろ
う。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意
図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の
為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句
集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃で
あったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記を
しておきたい。

高屋窓秋の「白い夏野」(三)



○ 虻とんで海のひかりにまぎれざる
○ 舞い澄める虻一点のほがらかに
○ あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

 「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入
学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年
(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句
は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和
十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との
別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、
『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、や
はり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜し
ていく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一
糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめ
た川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
 その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬
酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、
その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめ
たのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

蒲公英

○ 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
○ 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもっ
て反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。
☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これま
での擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の
「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中
村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

○ 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
○ たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい
言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この
上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もな
く清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた
俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも
響いてくる趣でなくもない。

高屋窓秋の「白い夏野」(五)



○ 洗面の水のながれて露と合う
○ 露の玉朝餉のひまもくずれざる
○ 雑草の露のひかりに電車くる
○ 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。こ
の「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのもの
を見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、
連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつ
らねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。
☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作
を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと
同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝
集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱め
る。
☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどる
ものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。
☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作
俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」
と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の
生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知
される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」など
に比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないと
いう印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集
し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱め
る」ということを痛感するのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(六)

さくらの風景

○ さくら咲き丘はみどりにまるくある
○ 花と子ら日はその上にひと日降る
○ 灰色の街に風吹きさくらちる
○ いま人が死にゆく家も花のかげ
○ 静かなるさくらも墓も空のもと
○ ちるさくら海青ければ海へちる

「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今
に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名
を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子
が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも
動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が
発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ
海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
 これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心
象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心
象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句
目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道
へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青け
れば海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、
抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海
(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象
徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるの
である。

高屋窓秋の「白い夏野」(七)

山鳩

○ 山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
○ 山鳩よみればまわりに雪がふる
○ 雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
○ 鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残して
いる(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連
作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によっ
て、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻
色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すは
たらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみは
じめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図
でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗
に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形
がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起
されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別
して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い
人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉で
するならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋
の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱
な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原
稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この
窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小
鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)



○ ある朝の大きな街に雪ふれる
○ 朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○ 山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○ 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順
序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降り
つつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるよう
に川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもって
いることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これら
の句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そし
て、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指
摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。
詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思い
を深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴
く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○ 菊の花月あわくさし数えあかぬ
○ 月に照る木の葉に顔をよせている
○ 月光をふめば遠くに土応う
○ 月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○ 月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○ 菊の花月射しその葉枯れている
○ 月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○ 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたの
か、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の
三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座
六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土
が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやそ
の異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえし
ていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別して
いたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのであ
る。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や
花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのある
ものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないの
である」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、
前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句している
と、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものに
ものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、
前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とは
いえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝
統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・
俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのであ
る。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○北の空北海の冷え涯ぞなき
○日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽
象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの
句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七
字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・
回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想し
ていたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象
性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象
の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』
を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知ら
ない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の
処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言
うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そ
して、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛と
それらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造
の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の
句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。

はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋