ラベル 現代俳人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 現代俳人 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

水曜日, 10月 22, 2008

後藤夜半の俳句

後藤夜半の俳句

(その一)

○ 木瓜の実をはなさぬ枝のか細さよ  後藤夜半
○ 木瓜の実の重さを枝に見出でけり  後藤比奈夫

 後藤夜半(ごとう・やはん)は、明治二十八年(一八九五)一月大阪市生れ。虚子門、臼田亜浪に師事。関西にあって「諷詠」を主宰した。昭和五十一年(一九七六)年八月逝去。享年八十一歳。代表句に「滝の上に水現れて落ちにけり」「端居して遠きところに心置く」がある。
 後藤比奈夫(ごとう・ひなお)は、大正六年(一九一七)四月大阪出身。後藤夜半は父。「諷詠」を夜半より継承主宰。代表句に「しゃぼん玉ゆがみふくらみ時歪む」「見もせざる花野の涯をまた思ふ」がある。

上記の掲出句とその作者紹介は、下記のアドレスのネットのもの(風胡山房・結城音彦)である。

http://hukosanbo.exblog.jp/6342196

この後藤夜半については、ここに紹介されている「滝の上に水現れて落ちにけり」の句が夙に喧伝されているのに比して、夜半その人になると、活字情報もネット情報も極端に少なくなってくる。これらのことは、例えば、『現代俳句』(山本健吉著)・『近代俳句の鑑賞と批評』(大野林火著)・『近代俳人』(沢木欣一著)・『俳句大観』(麻生磯次他著)などにその名を見ることができないことと大きく関係しているのかも知れない。ネット情報では、唯一、下記のアドレスの、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男稿)で、本格的な鑑賞文(七句)を目にすることができる。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

 ここでは、この「増殖する俳句歳時記」を足掛かりにして、後藤夜半の俳句の世界(特に、その第一句集『翆黛』を中心にして)を垣間見ていきたい。

(その二)

○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[これぞ夜半の代表句。出世作。力強い滝の様子が、簡潔に描かれている。昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品だ。私は好きだが、この句については昔から毀誉褒貶がある。たとえば作家・高橋治は「さして感動もしなければ、後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」と言い、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」(「並々ならぬ捨象」ふらんす堂文庫『破れ傘』栞)と酷評している。そうだろうか。そうだとしても、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ。『青き獅子』所収。(清水哲男)]

 この[昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品]という指摘は、しばしば見掛けるところのものであるが、この夜半の句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句で、それが、何時の間にか、「ホトトギス」の巻頭を得た句と伝承されているものと解したい。そして、この句は、「箕面の瀧」での作句で、「兵庫 後藤夜半」で発表されたものである。この時の夜半の入選句が、もう一つあり、それは下記のとおりである。

○ ことごとく瀧に向へる床几かな 兵庫 後藤夜半

 この「箕面の瀧」は、「摂津名所図会(巻六)」でも紹介されており、そこには、「本社より十八町奥にあり。巌頭(がんとう)より飛潟(ひしゃ)して。石面を走り落つる事凡(すべ)て十六丈。瀧壷(たきつぼ)より泡を飛す事珠(たま)をちらすがごとく、霧を噴(は)く事雲の如し。日光これを燭(しょく)してさいさん目を奪ふ」と記されている。そして、この「摂津名所図会(巻六)」の散文を目にしながら、この夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」に接すると、恐ろしく夜半の写生眼の凄さを思い知るのである。そして、この写生眼の凄さを、清水哲男さんは、「これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ」として、この句に一票を投じ、それに対して、高橋治さんは、
「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」と、この句の背後にある、虚子流の「客観写生」というものを見てとって、どうにも酷評したい衝動にかられるということなのであろう。ここで、改めて冒頭の掲出の句を見てみると、「瀧の上・水現れて・落ちにけり」と、これほど、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」した句というのは、なかなかお目にはかかれないのではなかろうか。ここまで来ると、やはり、後藤夜半というのは並の俳人ではないという印象を受けると同時に、虚子の言う「客観写生」というのは、この夜半の句のように、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」したところの「写生」を指しているとも解せられるのである。換言して言うならば、この虚子流の「客観写生」の見本のような句こそ、この夜半の冒頭の掲出のものという印象を深くするのである。そして、同じ、この「客観写生」の句でも、同時の入選作の「ことごとく瀧に向へる床几かな」の句になると、瀧の句というよりも「床几」の句として、何か、その「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」が、「陳腐化」(ありふれていて平凡過ぎる)に思えてくるのである。このことは、冒頭の夜半の傑作句を含めて、虚子流の「客観写生」の句というのは、一歩誤ると、この「陳腐化」・「痴呆化」のみが目立ち過ぎるという危険性を内包していると言うことも特記して置く必要があるのかも知れない。

(上記の記述のうちで、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)

(その三)

○ 滝の上に水現れて落ちにけり

 この句に関しては、いろいろなネット記事を目にした。それらのうち、以下のアドレスのものを三点(抜粋または全文)を掲載しておきたい。

次のアドレスの「直観こそがすべて・ 私の俳句論」(抜粋)は、「写生」との関連のもので、前回(その二)の補足として恰好のものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/frommarl/47409417.html

瀧の上に水現れて落ちにけり         後藤夜半

 この句は大阪箕面の滝を読んだもので、「写生」のお手本としてよくひきあいに出されるらしいのですが、「滝の上から水が現われる。」という表現が常人には思いつかず、面白い、というよりも小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させるような気がします。もちろん、この方は立派な大人だと思いますが。
 
次のアドレス「リハビリスト 波平の日記・俳句は季節を語る…後藤夜半 他」は、「天声人語」(2007年の天声人語か?)に紹介されたものを中心としており、夜半の一側面を知る上で参考となるものである。

http://blogs.yahoo.co.jp/rehabilist/29809253.html

天声人語 3月11日(日)

温雅な句風で知られた後藤夜半(やはん)に〈跼(かが)み見るもののありつつ暖し〉がある。春先、地面に多彩な命がうごめき出す。土を割って出た草花や、這(は)い出してきた虫を、作者は身をかがめ、いつくしむように見つめている。

 暖冬を引き継いだこの春、命の蠢動(しゅんどう)はいつになく気ぜわしい。春の虫の代表格モンシロチョウの初見が、松山市では平年より28日も早かったそうだ。初めて見かけるチョウを「初(はつ)蝶(ちょう)」といい、俳句の季語にもなっている。〈初蝶やいのち溢(あふ)れて落ちつかず 春一〉。

 冬が暖かかった今年、虫たちはさぞ生命力旺盛と思いきや、そうでもないことを動物学者、日高敏隆さんの随筆に教えられた。日高さんによれば、多くの虫にとって冬の寒さは必要不可欠なのだという。

 休眠する虫たちは、5度以下の低温にさらされることで、春を迎えるための変化が体内で進む。チョウの場合、寒い時期を十分に過ごせなかったサナギは、卵もあまり産めない、ひ弱な成虫になってしまうそうだ(『春の数えかた』新潮文庫)。

 暖冬が続けば、多くの虫は滅びてしまうかも知れない。休眠せずに、寒さにじっと耐えているゴキブリのたぐいばかりが生き残る、と日高さんは案じている。冬は寒く、夏は暑く。季節がきちんと尽くされることが自然界には大切なのだ。

 啓蟄(けいちつ)もすぎた日、夜半(やはん)をまねて、春の土に目を留めてみるのも興がある。〈地虫出てはや弱腰と強腰と 祐里〉。押し出しのいいやつ、恐縮しているやつ、黙々たるやつ……。うごめく中に、誰かに似た虫がいるかもしれない。

夜半の代表句は「瀧の上に水現れて落ちにけり」でしょうが、折角なので調べると、大阪出身、庶民的、長命、春のようなお人柄、しかも「花音痴」を嘆くところなど、親近感を覚えざるを得ません(個人的感慨で相済みません…)。

大阪はこのへん柳散るところ      後藤夜半
春立つと古き言葉の韻よし  *(「ひびき」と読むらしいです)
見て覺え見て覺え今日沙羅の花  

 最後に、次のアドレスの「高峯秀樹の「俳句千夜一夜」・第一話 私の印象に残る俳句百句」については、高峯秀樹さんの「百句選」(アイウエオの句順)で、夜半の冒頭の掲出句が選ばれていることに注目いたしたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/takamine0408/11372240.html

俳句の話を始めるに当って芭蕉から現代に至る共鳴する百句を挙げてみた。

秋の航一大紺円盤の中          中村草田男
蟻の道雲の峰よりつづきけん       小林一茶
あをあをと瀧うらがへる野分かな     角川春樹
青蛙おのれもペンキ塗りたてか      芥川龍之介
赤い椿白い椿と落ちにけり        河東碧梧桐
愛されずして沖遠く泳ぐなり       藤田湘子
あの月をとってくれろと泣く子哉     小林一茶
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る     中村汀女
荒海や佐渡によこたふ天河        松尾芭蕉
生きかはり死にかはりして打つ田かな   村上鬼城

いくたびも雪の深さを尋ねけり      正岡子規
一枚の餅のごとくに雪残る        川端芽舎
羅や人悲します恋をして         鈴木真砂女
海に出て木枯帰るところなし       山口誓子
炎天の遠き帆やわがこころの帆      山口誓子
塩田に百日筋目つけ通し         澤木欣一
おそるべき君等の乳房夏来る       西東三鬼
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺       正岡子規
学問のさびしさに堪え炭をつぐ      山口誓子
葛城の山懐に寝釈迦かな         阿波野青畝

川底に蝌蚪の大国ありにけり       村上鬼城
神田川祭のなかをながれけり       久保田万太郎
狐火を詠む卒翁でございかな       阿波野青畝
草餅を焼く天平の色に焼く        有馬朗人
鶏頭の十四五本もありぬべし       正岡子規
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ   金子兜太
木がらしや目刺にのこる湖の色      芥川龍之介
黒猫の子のぞろぞろと月夜かな      飯田龍太
是がまあつひの栖か雪五尺        小林一茶
雉子の眸のかうかうとして売られけり   加藤楸邨

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり      飯田蛇笏
月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり   荻原井泉水
月光にいのち死にゆくひとと寝る     橋本多佳子
恋猫の恋する猫で押し通す        永田耕衣
去年今年貫く棒の如きもの        高浜虚子
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守     原 石鼎
寒や母地のアセチレン風に泣き      秋元不死男
しぐるるや鼠のわたる琴の上       与謝蕪村
さわやかにおのが濁りをぬけし鯉     皆吉爽雨
閑さや岩にしみ入蝉の声         松尾芭蕉

しづかなるいちにちなりし障子かな    長谷川素逝
死なうかと囁かれしは螢の夜       鈴木真砂女
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり      森 澄雄
白露や死んでゆく日も帯締めて      三橋鷹女
しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原鳳作
せきをしてもひとり           尾崎放哉
ぜんまいののの字ばかりの寂光土     川端芽舎
大根引大根で道を教えけり        小林一茶
鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな      室生犀星
瀧落ちて群青世界とどろけり       水原秋桜子

瀧の上に水現れて落ちにけり       後藤夜半
蛸壺やはかなき夢を夏の月        松尾芭蕉
たとふれば独楽のはじける如くなり    高浜虚子
足袋つぐやノラともならず教師妻     杉田久女
魂も乳房も秋は腕の中          宇多貴代子
チゝポゝと鼓打たうよ花月夜       松本たかし
地吹雪と別に星空ありにけり       稲畑汀子
ちるさくら海あおければ海へちる     高屋窓秋
蝶墜ちて大音響の結氷期         富沢赤黄男
頂上や殊に野菊の吹かれ居り       原 石鼎

月天心貧しき町を通りけり        与謝蕪村
つきぬけて天上の紺曼珠沙華       山口誓子
天瓜粉しんじつ吾子は無一物       鷹羽狩行
永き日のにはとり柵を越えにけり     芝 不器男
永き日や相触れし手は触れしまま     日野草城
菜の花や月は東に日は西に        与謝蕪村
白梅のあと紅梅の深空あり        飯田龍太
羽子板の重きが嬉し突かで立つ      長谷川かな女
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
春風や闘志いだきて丘に立つ       高浜虚子

春の海終日のたりのたりかな       与謝蕪村
万緑の中や吾子の歯生え初むる      中村草田男
万緑や死は一弾を以て足る        上田五千石
雲雀より空にやすらふ峠哉        松尾芭蕉
ほろほろ酔うて木の葉降る        種田山頭火
まさをなる空よりしだれざくらかな    富安風生
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎     竹下しづの女
水枕ガバリと寒い海がある        西東三鬼
峰雲の贅肉ロダンなら削る        山口誓子
牝去れば枯芝の犬皆去れり        阿部みどり女

初場所やかの伊之助の白き髭       久保田万太郎
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ      杉田久女
ひっぱれる糸まっすぐや甲虫       高野素十
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな    山口青邨
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき    桂 信子
蒲団開け貝のごとくに妻を入れ      野見山朱鳥
冬蜂の死にどころなく歩きけり      村上鬼城
雲雀より空にやすらふ峠哉        松尾芭蕉
降る雪や明治は遠くなりにけり      中村草田男
山国の蝶を荒しと思はずや        高浜虚子

山又山山桜又山桜            阿波野青畝
夕月や脈うつ桃をてのひらに       伊藤通明
雪はげし抱かれて息のつまりしこと    橋本多佳子
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり    久保田万太郎
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜     桂 信子
横顔のままで子規ゐる百回忌       松井利彦
われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず    野澤節子
彎曲し火傷し爆心地のマラソン      金子兜太
をみなとはかかるものかも春の闇     日野草城
をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏

(その四)

○ 大阪はこのへん柳散るところ

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[名句もいいけれど、技巧的に優れた作品ばかり読んでいると、だんだん疲れてくる。飽きてしまう。そのようなときに、夜半はいい。ホッとさせられる。夜半は、生涯「都会の人」ではなく「町の人」(日野草城)だったから、一時期をのぞいて、ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを嫌った。芸術家ではなく、芸人だった。生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した。自筆の短冊を写真で見たことがあるが、いまどきの女の子の丸字の先駆けのようにも思える。ちっとも偉そうな字ではないのである。昭和51年初秋、柳の散り初めるころに没。享年81歳。『底紅』所収。(清水哲男)]

 この句が収載されている『底紅』は、昭和五十三年に刊行された夜半の遺句集である。この清水哲男さんの鑑賞の、「芸術家ではなく、芸人だった」という指摘は、夜半の一面をよくとらえている。確かに、当時の、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」とは一線を画しているように思われる。この四Sのうちでは、やはり、関西を拠点としている阿波野青畝に近いということで、総じて、関西系の俳人は、東京を中心とする関東系の俳人よりも、清水さんの指摘するように、「ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを」を嫌うという性行を有しているのかも知れない。この夜半の句に接すると、夜半と同じく「生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した」ところの、川柳六大家の一人の岸本水府の、「道頓堀の雨に別れて以来なり」や「大阪はよいところなり橋の雨」などが思い起されてくる。水府は、明治二十五年(一八九二)、そして、夜半は、明治二十八年(一八九五)の生まれ、水府が三歳年上ということになる。水府は三重県の生まれであるが、その本格川柳を標榜した『番傘』は大坂を拠点とするものであった。夜半は大坂の生まれであるが、兵庫なども生活圏であるし、この二人の共通点は、清水さんの指摘するところの、「大阪の土地や文化をこよなく愛した」ということに尽きるのではなかろうか。そして、夜半も水府も、これまた、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」という共通項を有しているのではなかろうか。そして、その「芸人だった」ということは、「落語、浪曲、漫才、コント、曲芸、手品」などの、他の芸人と呼ばれると同じ世界での、「庶民派」の、そして、また、「何でもござれの芸達者」という雰囲気を有しているという印象を深くするのである。

(その五)

○ 鰻の日なりし見知らぬ出前持

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[いつものようにいつもの店から出前をとったら、見知らぬ出前持が届けに来た。思わずいぶかしげな顔をすると、察した相手が「臨時なんですよ。丑の日なもんで」と言った。なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ。『底紅』所収。(清水哲男)]

 後藤夜半というと、高浜虚子流の「客観写生」で、即、「花鳥諷詠」の「風景俳句」が得意と思われがちであるが、実は、そうではなくて、この掲出句のように「人事諷詠」句をも得意として、先(その四)に紹介したとおり、「何でもござれの芸達者」の俳人というのが、夜半の全体像なのであろう。この掲出句などは、「鰻の日なりし」(七音字)と「見知らぬ出前持」(九音字)とを無造作に結合したような感じなのであるが、これまた、清水哲男さんが指摘するように、「なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ」と絶讃したくなる。これらのことについて、水原秋桜子の「後藤夜半論」(「ホトトギス」昭和四年十二月号)での指摘が参考となる(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)。以下、その要点を記して置きたい。

[秋桜子は、夜半をして「選球眼ある強打者」として選句範囲が広く正しいことを讃え、また、夜半俳句のもつ領域の広さ、すなわち、一 取材が天然・人事を網羅、二 自由な表現法 三 その表現方法の幅の広さを指摘した。古典的優美の単一化を特徴とし、その完成度の高さは無類である。]

 この「古典的優美の単一化」ということについては、鷹羽狩行は、「芝不器男・後藤夜半の二人は、折からの流行とはいえ、万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」ということと関係して、夜半の第一句集『翆黛』の特徴となっているものの指摘であろう(鷹羽狩行稿・前掲書)」。
 これらの「古典的優美」ということはひとまず置いて、その「単一化」と、清水さんの指摘する「その底に庶民の粋が感じられる」というのは、終生変わらぬ夜半俳句の一つの特徴だったということは、ここで指摘をして置きたい。

(その六)

○ 薄日とは美しきもの帰り花

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[冬でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)]

 この後藤夜半の句は、清水哲男さんが指摘するように、季語の「帰り花」の句ではなく、「薄日」(「冬の日の薄日」)の句なのである。これが、ずばり、「冬日」になると、夜半の師の高浜虚子の名句が目白押しである。以下、虚子のそれらを拾うと下記のとおりである。

『五百五十句』
「旗のごとなびく冬日をふと見たり」「冬日柔らか冬木柔らか何れぞや」「冬日濃しなべて生きとし生けるもの」
『六百五十句』
「やはらかき餅の如くに冬日かな」「大空の片隅にある冬日かな」「地球一万余回転冬日にこにこ」「我が庭や冬日健康冬木健康」「薮の中冬日見えたり見えなんだり」   

 虚子には、これらの「冬日」(季語)の句はあっても、「薄日」(「冬の日の薄日」)そのものの句となるとその例を目にすることはない。しかし、それらしき名句になると、そのスタートの頃からの、その作句例を見ることができる。

『五百句』
「遠山に日の当りたる枯野かな」「冬帝先づ日をなげかけて駒ヶ嶽」 

 後藤夜半が、これらの虚子の「冬日」の句やそれらしきその周辺の作句例を知らない筈がない。しかし、夜半は、師の虚子に多くのものを学びながら、決して、虚子の二番煎じには甘えていない。虚子が「冬日」なら、夜半は「(冬日の)薄日」に着眼するのである。それは、清水さんの指摘ですると、「冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である」ということになる。この「芸の人・夜半」ということを一番熟知して人は、ずばり、夜半の師の虚子ではなかったろうか。ともすると、後藤夜半は、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」などの背後に隠れて、余り、仰々しく目立たない存在であるが、虚子その人は、いわゆる、四Sと持て囃されている俳人以上に、この夜半の「何でもござれの芸の人」の、その力量を正しく見抜いていたように思われるのである。

(その七)

○ ひらきたる秋の扇の花鳥かな

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[花鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)]

 「扇」というのは夏の季語で、「団扇」とか「扇」は夏のものとして一般的に理解されるということなのであろうか。これは「扇子」の類で、日本舞踊などに使う「舞扇」になるとまた別な趣がしてくる。この後藤夜半の句は、「秋の扇」の句で、やはり、季語を意識した扇で、「季節遅れの扇」と理解すべきなのであろう。すると、やはり、清水さんの鑑賞の、ここの「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるというのは、季語的な理解からすると決して飛躍したものではなかろう。まして、季語を重視する「ホトトギス」流の俳句の鑑賞においては、素直な理解というべきなのかも知れない。と解すると、この夜半の句は、随分と、アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)的な雰囲気の句ということになる。清水さんは、「作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ」と、随分と「ホトトギス」流の風雅的・高踏的・人生観的な鑑賞をしているけれども、ここは、ずばり、「秋の日に、盛りを過ぎた女性が、季節遅れの扇を開いて、その扇の図柄が華やかな花鳥のものだった」という、俳諧が本来的に有していた、諧謔的な滑稽の句というのが、最も素直な鑑賞のようにも思われるのである。こういう視点は、当時の「ホトトギス」の四Sといわれた、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」という名だたる俳人達が持ち合わせていないもので、そういう意味においては、後藤夜半という作家は、四Sの俳人達以上に、俳諧・俳句の本来的に有していたものに立脚しての本格的な俳人であったという思いを深くするのである。と解した上で、この「花鳥」というのも、どうも、高浜虚子が盛んに唱えていた「花鳥諷詠」の「花鳥」という雰囲気をも醸し出している感じで、この掲出の句は、「秋の日の句会で、花鳥諷詠の俳人達が、季節遅れの扇をパタパタさせていて、その扇の図柄が、何と花鳥であったよ」という鑑賞も許されるのではなかろうか。ことほど左様に、夜半の俳句というのは、水原秋桜子が、「その表現方法の幅の広さ」を指摘していたが、その「幅の広い」表現方法に対応して、「幅の広い」鑑賞を許容するような印象を深くするのである。ちなみに、この句が掲載されている『青い獅子』は、夜半の第二句集で、それは昭和三十七年(一九六二)に刊行されており、夜半は、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」(『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」)と総括されるけれども、十分に、「虚子の花鳥諷詠の功罪」を知り尽くしていて、その上での、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解をして置きたいのである。
(この掲出の句は、夜半の第一句集『翆黛』の「昭和四年」に収載されており、夜半の初期の句ということになる。そして、この『翆黛』所収の句は「ホトトギス」の虚子の選を仰いだものであり、この掲出句も虚子選ということになろう。すると、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解は、飛躍し過ぎというきらいがなくもない。)
(先のその二で、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)

(その八)

○ 香水やまぬがれがたく老けたまひ

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[香水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)]

 この夜半の句は誠に面白い句である。清水哲男さんは、「名状しがたい気持ちになっている」「生きとし生ける物すべて」「悟りでもなければ解脱でもない」「人間としての成り行きというものである」などと、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」ところの夜半の目眩ましに戸惑っているけれども、この句もまた、「ひらきたる秋の扇の花鳥かな」(その七)と同じように、夜半の、「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な視点が匂ってくるのである。ずばり、この大袈裟な表現の「まぬがれがたく」も、何とも意表を突く尊敬語的な「老けたまひ」も、これらは、夜半の「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な、そして、夜半俳句の特徴ともなっている「その表現方法の幅の広さ」の世界のものと理解をしたいのである。まず、「香水や」の上五の「や」切りの句で、これは香水(夏の季語)の句であろう。そして、中七・下五の「まぬがれがたく老けたまひ」が、何とも、嫌みではない諧謔の「微苦笑」を誘うのである。こういう世界は、夜半の師の虚子も、そして、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」にも、最も欠けていたものであろう。こういう夜半の、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」の、その「芸の細やかさ」ということには、目を見張る思いがするのである。


(その九)

○ つく息にわづかに遅れ滴れり

 この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE

[まったき静寂のなか、水の滴る音だけがしている。ふと気がつくと、自分の呼吸に正確に少し遅れて滴っている。それだけのことだが、身体の弱かった作者ならではの鋭い感覚が刻みつけられていて、さすがだと思う。病者に特有な神経のありようだ。ところで、これはどのような水の滴りなのだろうか。雨漏りだろうと、私は読んでおきたい。いまでこそ雨漏りするのはナゴヤドームくらいのものだが(笑)、昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった。『青き獅子』所収。(清水哲男)]

 この夜半の句は、滴り(夏の季語)の句であろう。語源は「下垂る」で、崖の岩肌を伝わった水や、苔に沁み込んだ水が、下に落ちる、その雫を「滴り」というのが、その本意である。とすると、清水哲男さんの、「雨漏り」の「滴り」と解して、「昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった」という鑑賞は、人事句をも得意として夜半のその一面に焦点を当て過ぎたきらいがなくもない。ここは、やはり、季語を重視し、吟行を常とする「花鳥諷詠」俳人・夜半の、例えば、その代表句の、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の、その「箕面の瀧」辺りでの、吟行句とも理解できよう。その理解の前提になるのは、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が、実に、瀧の落下するさまを、一瞬、「時間が静止」したように、スローモーションに切り取った、その絶妙な「俳眼の冴え」にあることと、この掲出の句の、「つく息にわづかに遅れ滴れり」の、この「吐息と滴り」との、「一瞬、時間が静止したような、そのスローモーションに切り取った、その絶妙な『俳眼・俳耳(?)の冴え』」が、実に、一致するような思いがすることに起因するのである。とした上で、この掲出の句は、「炎暑の箕面の瀧の山道を、汗を拭き拭き歩きながら、休憩をとり、息を弾ませていると、その急な吐息に、僅かに遅れるように岩間の滴りの音がする」というイメージである。ちなみに、箕面の瀧周辺には、多くの歌碑・句碑があり、この夜半の聴覚的な掲出の句と方向を同じくするものとして、「苔ふかきみのおの山の杉の戸にただ声きけば鹿の音ばかり(鴨長明)」などがある。

(その十)

○ 翆黛とひもすがらある桜狩 (昭和四年)

 夜半の第一句集『翆黛』の命名の由来になっている句であろうか。「昭和四年」の中に収載されている。「翆黛」というのは、本来の意味は、「みどりのまゆずみ。また、それをほどこした美しいまゆ」のことであるが、転じて、「みどりにかすむ山のけしき」の意に用いられる。ここは、この「みどりにかすむ山のけしき」の意であろう。この掲出の句の季語は「桜狩」で、「桜花をたずねあるいて観賞すること。もと、観桜しながら行なった鷹狩の称」の意で、ここは、「桜花をたずねあるいて観賞すること」の用例であろう。この掲出の句は、この季語の「桜狩」の句と解せられるが、その「桜狩」の二字以上に、この第一句集『翆黛』の命名の由来になっている「翆黛」の二字が、この作句のときの、夜半の心中を占めていたのではなかろうか。「桜狩」の句は、古来から無数の句が献じられているが、こと、「翆黛」との関連の句ということになると、これは、この夜半の、この句がその先鞭をつけるといっても過言ではなかろう。すなわち、「翆黛」という、「春のやまのみどりにかすむ山のけしき」を発見したのは、夜半その人であり、夜半は、こういう、古来から誰も手を付けなかったような世界を、実に、さりげなく、それは、敢て目立たないような視点で、自由自在に駆使していたということは特記して置く必要があろう。言葉を換えて言うならば、この「翆黛」などは、「桜狩」に匹敵する、春の季語として認知しても差し支えないようなものであろう。ということが、夜半が、その第一句集に、季語として認知しても良いような「翆黛」という二字を冠した所以なのではなかろうかという思いなのである。夜半の「ホトトギス」の次の世代の中村草田男が、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句で、夏の季語の「万緑」を発見したように、夜半の、この「翆黛とひもすがらある桜狩」の句をもって、「翆黛」という、美しい春の季語を認知しても良いのではなかろうか。この夜半の句に接して、つくづくとそんな思いにとらわれているのである。

(夜半の第一句集『翆黛』は、年代別に編集されており、大正十三年から昭和八年の、十年間の「ホトトギス」雑詠に出詠したものが収載されている。当初、この『翆黛』所収の年代別の句を、その背景となっている「ホトトギス」の年譜の関連で、鑑賞したいという意図があったが、清水哲男さんのネットの世界の「増殖する作句歳時記」の「後藤夜半」の鑑賞ものに惹かれて、ついつい、その方向にウエートを置いてしまった。当初に意図した『翆黛』の句集を中心としてのものは、また、後の機会にと、このことを付記して置きたい。)
(上記の掲出句の「翆黛」について、『近代俳句大観(明治書院)』では、「比叡山麓の大原里の寂光院のほとりに翆黛という小山がある」との記述がある。)

(その十一)

○ 底紅の咲く隣にもまなむすめ

 後藤夜半の忌日(八月二十九日)を「底紅忌」という(『俳文学大辞典』)。俳人の中でも、この「底紅忌」を知っている方は、少数派なのではなかろうか。そもそも、この「底紅」というのが、例えば、『広辞苑』にも出ていなくて、歳時記にでも、例えば、索引欄の項目には出ていなくて、基本季語の、その同類季語などに小さく出ている代物なのである。この季語については、夜半の句の多くのことについて示唆を受けた、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)に、次の「高山れおな」さんの句の鑑賞で知った。それをアドレスと共に全文を掲げておきたい。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20051015,20051014,20051013&tit=20051015&today=20051015&tit2=2005%E5%B9%B410%E6%9C%8815%E6%97%A5%E3%81%AE

[高山れおな
底紅や人類老いて傘の下
季語は「底紅(そこべに)」で秋。「木槿(むくげ)」のこと。なるほど、木槿の花は中央の「底」の部分が「紅」色をしている。句の前書きによれば、若くして世を去った俳人・摂津幸彦七回忌法要の折りの作句だ。「蕭々たる冷雨、満目の木槿」だったという。それでなくとも心の沈む法要の日に、冷たい雨が降りつづき、しかも折りからたくさんの底紅が咲いていた。『和漢三才図絵』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあるように、昔から底紅(木槿)ははかないものの例えとされてきた。冷雨に底紅。参列した人たちはみな「傘」をさしていたわけだが、作者は自分も含めて、そこにいた人たちを「人類」とまとめている。すなわち人間の命のはかなさの前では、人それぞれの性や顔かたちの違いや個性や思想のそれなどにはほとんど意味が無く、生きて集まってきた人たちは「人類」と一括りに感じられると言うのである。その「人類」が故人の生きた日よりもさらに「老いて」「傘の下」に、いまこうして黙々と立っているのだ。虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ。思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる。『荒東雜詩』(2005)所収。(清水哲男)]

この「底紅」とは、「木槿」の別称なのである。「木槿」ということになると、清水さんの上記の鑑賞にある、「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」との「はかない」ものの例えのような花なのである。そして、上記の「高山れおな」さんの句が、その「底紅」と「傘の下(冷雨)」の句であるならば、掲出の夜半の句は、「底紅」と「まなむすめ(愛娘)」の句なのである。清水さんは、上記の「高山れおな」さんの句に、「虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」と評しているが、同じく、夜半の掲出の句も、「命短し 恋せよ 乙女」のような、「自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」というような感慨を均しく受けるのである。そして、その感慨が、「高山れおな」さんの句のように、例えば、清水さんが受けた「思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる」ような深刻なものではなく、さりげなく、しみじみとした渋味のような、そんな感慨を抱かせるのである。それぞれの好みにもよるのだろうが、こういう夜半の世界というのは、知れば知るほど、何ともいえない味わい深いものとなって、何かの折りに、口について出てくるのである。ちなみに、この「底紅」は、夜半の遺句集の『底紅』に、その名が冠せられている。


(その十二)

○ 萩黄葉(もみじ)しぬ朽葉(くちば)しぬ落葉(おちば)しぬ

後藤夜半の句鑑賞については、『近代俳句大観(明治書院)』で、皆吉爽雨さんの『翆黛』(後藤夜半第一句集)を中心としたものがある。そのうちの一句である。その鑑賞で印象深いところは、次のようなことである。

[完了の「ぬ」が三ところに重なっている。その度に読む者は息をとどめて、黄葉をした、朽葉をした、落葉をしたと一々順を追うて辿ってゆく。かくて最後に「落葉しぬ」で終に萩落葉の土に帰したさま、枯萩となり果てたさまに眼を心を落ち着けて嘆息するのである。]

 確かに、この「黄葉(もみじ)しぬ」・「朽葉(くちば)しぬ」・「落葉(おちば)しぬ」というのは、「黄葉→朽葉→落葉」という一連の「落葉」の比較的永い「時」の経過を、三つの断面により切り取り、それを読む者に提示して、そこに、「枯萩となり果てたさま」をまざまざと見せつける、その夜半の写生眼というものには、驚きの念を禁じ得ない。この夜半の写生眼は、その代表作の、「滝の上(え)に水現われて落ちにけり」で、こちらは、滝が落下する一連の短い「時」の経過を、「水現われて」と「落ちにけり」の二つの断面で、その全てを見せつけるという、その「「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」ということと軌を一にする。さらに、この掲出句では、「萩・黄葉・朽葉・落葉」という季語を、いわゆる「季重なり」ということなどは眼中になく、また、完了の「ぬ」の、いわゆる「三段切れ」ということなども眼中になく、まさに、秋桜子の指摘する、「自由な表現法・その表現方法の幅の広さ・古典的優美の単一化」 (「ホトトギス」昭和四年十二月号所収「後藤夜半論(水原秋桜子稿)」)ということ共に、その「完成度の高さは無類である」という思いを深くするのである。夜半は、昭和二十三年に「花鳥集」を創刊主宰して、後に、昭和二十八年に、それを「諷詠」と改題して、それが、現に、そのご子息の著名な俳人の後藤比奈夫に継承されている。その「花鳥」といい「諷詠」といい、それは、夜半の師の高浜虚子の「花鳥諷詠」に因るものなのであろうが、その「諷詠」の根本にあるのは、芭蕉の「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」という「朗唱・調べ・リズム」重視ということであろう。そして、この夜半の掲出句は、破調のリズムであるが、その「朗唱・調べ・リズム」という、その「諷詠」という面において、これまた、その「完成度の高さは無類である」という思いを実感するのである。

(その十三)

○ 乙訓(おとくに)の四方(よも)の藪なり畑打(はたけうち)
○ 国栖人(くずびと)の面(おもて)を焦(こが)す夜振(よぶり)かな

 掲出の一句目の「乙訓(おとくに)」は、京都府乙訓郡の地名。二句目の「国栖(くず)」は、上代の奈良県である大和の国にあった村の名であるという(『近代俳句大観(明治書院)』)。一句目の季語は「畑打(はたけうち・はたうち)」(春の種まきにそなえて畑を耕すこと)で「春」。二句目のそれは「夜振(よぶり)」(照明などを使って川魚をとること)で「夏」。この二句とも、後藤夜半の第一句集『翆黛』所収の句で、固有名詞の「地名」と畑や川で業をする「季語」との組み合わせの作で、水原秋桜子の「古典的優美の単一化」、そして、鷹羽狩行の「万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)という指摘が、これらの夜半の句には色濃く宿っている雰囲気を醸し出している。これらの二句についても、実に、夜半の視点が明確で、そして、それが実に的を得ているのである。この一句目は、「筍の里で知られている乙訓の里の四方の藪」を描写し、次に、それらに囲まれた小さな「畑」を浮き彫りにして、さらに、その小さな畑に、ぽつんと一人の農作業に従事している「人」を配置して、その三段階の描写が実に鮮やかで、この夜半の描写は、あたかも、寺田寅彦の、「俳諧連句の映画のモンタージュ的構成に近いとする説」を思い起させるのである。この二句目についても、その「モンタージュ的構成」的視点での描写(写生)は同じで、その視点が、一句目の「遠近」から「近景」へのものに比して、その逆の、「近景」から「遠景」の描写(写生)という違いがある。まず、「古代の国栖という深吉野の里の吉野川で作業をする漁人の顔」が、「夜振り」の「松明」で赤く照らせられているところの「近景(部分像)」を提示して、その「近景(部分像)」から一転して、「吉野川での夜振り」という「遠景(全体像)」へと場面転回をする、その
「映画のモンタージュ的構成」的な描写(写生)が、何とも鮮やかなのである。夜半をして、その師の高浜虚子の唱える「客観写生」の権化と称する指摘も多々見掛けるが、その虚子流の「客観写生」というよりも、夜半が新境地を開拓したところの、「映像的・モンタージュ的写生」ともいうべき、新しい世界のものという印象を強く受けるのである。

(その十四)

○ 滝水の遅るるごとく落つるあり
○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり

掲出の二句とも、夜半の第一句集『翆黛』所収の句。この二句目の句は、夜半の代表作ということで夙に知られているが、この一句目の句は、二句目の句に比してそれほど人口に膾炙されていない。この二句を並列して見て、一句目の句は、「滝の落下点の滝壺から滝の落ち口へ」との「映像的・モンタージュ的写生」的な句で、この二句目は、その逆の「滝の落ち口から滝の落下点の滝壺へ」の「映像的・モンタージュ的写生」的な句ということになろう。これは、同時点の作なのであろうか。『翆黛』所収の順では、二句目の次に、一句目の句が記載されており、まず、二句目の句が出来て、次に、その逆の視点の一句目の句が出来たというのが、一般的な鑑賞であろうか。そして、滝を見て、上から下の、二句目の視点というのは、何らの違和感を感じないのであるが、この一句目のように、下から上の、「滝水の遅るるごとく落つる」という、この把握は、どうにも唖然とする思いがしてくるのである。「滝壺に水が落下する。それを凝視していると、次から次へと、先の水の後を追うように、それは、一瞬、一瞬、遅るるごとく落ちてくる」と、そして、それは、「落ちにけり」ではなく、「落つるあり」と、すなわち、「それはためらいにも似た滝水の落ちようだ」とでも言うのであろうか。こういう把握は、とても、並の俳人ができるものではないという思いを深くする。ただ、この二句を並列して、二句目の句が、一読して、「滝の落下の様の時間的・空間的把握」に脱帽するのだが、この一句目の句は、さらに、「落ち急いでいる、その一瞬・一瞬の水そのものを写し取っており」、その「表現の妙技のわざ」(皆吉爽雨)には、真に「驚きに値する」(皆吉爽雨)という思いを深くするのである。この二句目の夜半の代表作について、「小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させる」との鑑賞も見てきたが(その三)、この一句目の句については、「小学生は、どうにも理解できない」のではなかろうか。というよりも、「後藤夜半のこの表現の妙技のわざを知らない大人達にも、どうにも理解できない」のではなかろうか。「こうした滝の二作だけでも、俳句の名手としての作者の名は後代に残る」(皆吉爽雨)という指摘には、諸手を挙げて賛同いたしたい。なお、この二句目の夜半の代表作について、その上五の「滝の上に」は、「滝の上(うえ)に」の字余りの詠みではなく、「滝の上(へ)に」の詠みこそ、リズム重視の「諷詠派」の後藤夜半の真骨頂であろう(と解すると、この句もまた、とても、「小学生が見たまま思いつきそうな」句ではなく、この詠みにも、夜半の作意が働いていると解したい)。

(その十五)

次のアドレスのネット記事(「きのふはけふのものがたり」)で、「夜半忌」(「底紅忌」)についての、次のようなものを目にした。

http://ipsenon.at.webry.info/200509/article_1.html

[  道のべに牡丹散りてかくれなし
  滝の上に水現れて落ちにけり
  ひらきたる秋の扇の花鳥かな
  曼珠沙華消えたる茎のならびけり
  逢ひがたく逢ひ得し一人静かな
  端居して遠きところに心置く

明治28年(1895)大阪生れ。12歳で句作をはじめ、18歳の時、「ホトトギス」に投句。
昭和6年「蘆火」を創刊するが、病のため同9年廃刊する。
昭和23年53歳で「花鳥集」を創刊主宰。5年後に「諷詠」と改称。
昭和51年(1976)8月29日逝去、81歳。

虚子の「花鳥諷詠」から出発しているが、時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む。「諷詠」は、息・後藤比奈夫が継承している。]

また、たまたま目にしてた『馬場あき子 短歌その形と心』(日本放送出版協会)で、歌人の上田三四二の次の一首を知った。

○ 滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す


 この上田三四二の歌について、馬場あき子は次のような鑑賞をしている。

[滝をうたった歌は少なくないと思いますが、那智の滝の景観は特別な印象を受けます。それはここにもうたわれているように、滝の水が「空のくぼみにあらはれて」という滝を仰ぐ位置からの感興とその落下の勢いの激しさ爽やかさにあるでしょう。独特な、そういう滝を題材としてうたい据えたいと思う時、そこに表現の工夫という苦しみが生まれることも当然です。「那智の滝」のような、先人もすでに多くうたっている題材に対(むか)う時はそのくらいの覚悟がいります。この歌は那智の滝を見た人なら誰しも感銘を新たにする歌と思いますが、そうでなくても、那智の滝の相を読者に見せしめ、その、空を引きずりおろすような力強い勢いの轟然たる爽やかさを感受させるでしょう。仰ぎみる高い巌壁(がんぺき)と巌壁との間に、まつ青な空のくぼみがあり、そのくぼみを満たし溢れるように、流動的な水の団塊があらわれ、激しい勢いで落下する。その力は、空まで引きずりおろしてしまいそうな勢いなのです。表現としては「空のくぼみにあらはれて」とか、「空ひきおろしざま」にというような言葉を生むのに苦心があり、多くの人の熟知や、古来うたわれてきたものを新たに題材化しようとする時の表現の迫力があるといえるでしょう。]

 この上田三四二は俳句にも造詣が深く、おそらく、後藤夜半の代表作の「滝の上に水現れて落ちにけり」は熟知していたのではなかろうか。そして、その夜半の俳句の二番煎じではなく、馬場あき子が指摘するように、「表現としては『空のくぼみにあらはれて』とか、『空ひきおろしざま』にというような言葉を生むのに苦心があり」との、これまた、夜半と同じく、上田三四二の「表現の妙技のわざ」をまざまざと見る思いがするのである。

 ここで、ネット記事(「きのふはけふのものがたり」)の、夜半に捧げられた「時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む」という、この夜半の全体像が、上田三四二と二重写しになってくる思いがしてくるのである。

 さらに、ここまできて、またまた、後藤夜半と上田三四二との接点を、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊『上田三四二 短歌一生』で見る思いがしたのである。その接点となる個所を次に抜粋しておきたい。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0627.html

[三四二は短歌を「日本語の底荷」だと言った。短歌だけではなく俳句も底荷であると言う。つねに俳句に理解を示した歌人でもあった。底荷というのは船の底に積まれる荷物のことで、バラストという。運賃には関係がない。が、これによって船は嵐のなかでも暴風のなかでも航行できる。
 バラストに対応しているのはマストである。帆である。かつてもいまも、短歌をマストにする運動も歌人の矜持もあったけれど、三四二は短歌をあくまでバラストとみなしてきた。「短歌は帆となって現代の日本語という言葉の船を推し進める力を持たない」とも書いている。たしかに、現代の日本語を推進しているのは短歌や俳句ではなく、詩ですらなくて、ポップミュージックや吉本興業やガキの言い回しであろう。
 三四二は、短歌がそういう目に付く役割をもたなくとも、「現代の日本語というこの活気はあるがきわめて猥雑な船を、転覆から救う目に見えない力」となればいいのではないか、そういう磨かれた言葉のためのバラストになればいいと考えている。こういう人を貴色というのである。]
[短歌の言葉は手拭だというのである。手拭をしぼるときに最後の一しぼりを加えると、きりっとなる。生け花の根じめを見ても、上手の手になったものはきりっとしている。短歌もそういうもので、言葉を手拭のようにしぼらなければならない。
 しかし、ここで大事なことは言葉は手拭のようにふだんは実用の言葉なんだということである。花も野に乱れ咲き、勝手に枯れているものなんだということである。それを短歌にしたり生け花にするには、実用の言葉をしぼることなのだ。
 たとえば、短歌は焼き物だともいう。土も釉薬も自分のものではないが、作っているうちに得分が出てくる。けれども、最後はこれが窯に入って火を浴びて出てくるところが本当の得分なのだ。その得分を見て、また作歌の本来に戻っていかなければならない。
 こういうことがわかってくるには、ともかく窯から出て人目に晒されてきた秀歌をたくさん読むことである。そうすると、どんな歌が「うつり」のよい歌であるかがだんだんわかってくる。その「うつり」が発止と言葉になっているかどうか、そこが見えてくれば歌は見えてくる。]
[歌とは「時にただよふ」という、この一事であったとおもう。これはどのように「さま」を詠むかということに尽きている。
 昭和49年、上田三四二は那智の滝に来て、こんな歌を詠んだ。この「さま」こそが短歌なのである。
  滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す ]

これらの上田三四二に関する長い引用の、「日本語の底荷(バラスト)」・「言葉を手拭のようにしぼらなければならない」・「時にただよふ」・「どのように『さま』を詠むかということに尽きる」ということは、例えば、上掲の「きのふはけふのものがたり」での後藤夜半の六句に接しただけでも、後藤夜半は、上田三四二と同じような世界に居たということを実感するのである。いや、年代的にいえば、優れた歌人・上田三四二は、優れた俳人・後藤夜半と同じような世界に居たというのが、より正鵠を得ていると解したいのである。

日曜日, 9月 14, 2008

藤後左右の俳句

藤後左右の俳句

(その一)

○ 噴火口近くて霧が霧雨が 

 戦前の新興俳句の拠点となった「京大俳句」にその名が見られる藤後左右の句である。この句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句である。「帝国風景院賞」に輝いた句というのは、いずれもその作者の代表句と目されるもので、この句もまた藤後左右の名を今にとどめているその一端を担っているものといってもよいのかも知れない。「京大俳句」というと、アンチ「ホトトギス」という感がどうしても拭えないが、「京大俳句」の多く面々が、高浜虚子の「ホトトギス」に投句していて、その「ホトトギス」から巣立っていたということは特記しておく必要があろう。後に、昭和十五年に、いわゆる、「京大俳句弾圧事件」で、その主要メンバーは検挙されることとなるが、藤後左右は、その頃には、「京大俳句」の投句関係は休止の状態であったことから、たまたま、検挙はまぬかれたという(『中田亮編集「京大俳句」と「天狼」の時代』、以下『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』)。ちなみに、「京大俳句弾圧事件」で検挙された面々は次のとおりである。

第一次…昭和十五年二月十四日
井上隆證(白文地)、中村修次郎(三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(静塔)、宮崎彦吉(戎人)、福永和夫(波止影夫)、北尾一水(仁智栄坊)
第二次…昭和十五年五月三日
石橋辰之助、和田平四郎(辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、渡辺威徳(白泉)、堀内薫
第三次…昭和十五年八月三十一日
斎藤敬直(西東三鬼)

(その二)

○ 秋晴やゑがかれてゆく淀城址

 『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「虚子歓迎句会が京大内でひらかれて、(注・掲出句の記載あり)、という句を虚子選に選ばれ、それから俳句に迷い込んで終った」とあり、この掲出の句が藤後左右の虚子選の処女作のようである。その年度は、「その翌年春私(注・平畑静塔)の実家和歌浦に椎霞(注・野平椎霞)と来遊し、加太・紀三井寺・道成寺と案内して作った句がホトトギス巻頭になり、一躍新人の名を高くしたのである」とあり、これは「平畑静塔略年譜(中田亮編集)」(『平畑静塔全句集』所収)によると、昭和五年(一九三〇)ということになる。藤後左右は、明治四十一年(一九〇八)の生れで、平畑静塔(明治三十八年生れ)より三歳年下である。この年譜にある昭和五年は、静塔、二十五歳の時で、藤後左右は、若干、二十二歳で、「ホトトギス」の巻頭作家になったということがうかがえる。ちなみに、昭和六年の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いのは、二十三歳のときで、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」によると、「天才作家の名を以て知られるに至った仁である」と、一躍華々しい新人としてデビューすることとなる。この藤後左右のデビューを見ると、当時の高浜虚子が、日野草城の後釜として、京都に、「ホトトギス」の牙城の再構築を図るべく、この藤後左右などに力を入れていたかということを垣間見る思いがする。

(その三)

○ 和歌の人花のくもりに海苔とれる
○ 加太の海の浪のり舟で和布刈り
○ たかんなに幾千の竹生ひ立てる

『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で紹介されている、藤後左右の、昭和六年に「ホトトギス」巻頭となった三句である。この掲出の一句目の「和歌の人」は、平畑静塔の実家の「和歌(の)浦の人」の略であろうか。この一句だけでは、何とも、「和歌の人」というのが意味不明という雰囲気である。二句目の「加太の海の」の字余りも気に掛かる。一句目の句形からすると、「加太の海浪のり舟で和布刈り」だが、こちらを字余りにするなら、一句目の「和歌の人」も、「和歌浦の人」か「和歌の浦」とか、その地名が読みとれるものにして欲しいという気持ちになってくる。三句目の、「たかんな」は、本来、「竹の子」の意味だが、ここは「竹林・竹藪」の意味なのであろうか。また、「生ひ立てる」は、散文的には、「生ひ、且つ、立てる」の意味なのであろうか。この三句を見て、藤後左右の俳句というのは、一句目の「海苔とれる」の「とれり」、二句目の「和布刈り」の「刈り」、そして、三句目の「生ひ立てる」の、「事物の動作・作用・存在・性質・状態について叙述する」の用言形などに特色がある感じである。これは、これまでの、「噴火口近くて霧が霧雨が」(その一の「帝国風景院賞」に輝いた句)では、「霧が霧雨が」と、「霧」と「霧雨」をリフレンさせての面白さ、「秋晴やゑがかれてゆく淀城址」(その二の処女作)では、この「ゑがかれてゆく」という一連の動作を表わす中七の面白さとなって現われている。そして、これらの句を選句した、高浜虚子の、「平明・平凡・平易」ということに加えて、「その人らしさ」ということにおいて、この動きのある用言のスタイルに、虚子の視点が動いたようにもとれるのである。とにもかくにも、当時、「ホトトギス」の巻頭をとるということは、俳人として認められたということを意味して、そして、それを、一・二年の医学生の余技のような句が、それを成し遂げたのだから、さぞかし本人もその周囲の人達も驚いたことは間違いない。

(その四)

○ 横町をふさいで来るよ外套着て
○ 室内を暖炉煙突大まがり


 この藤後左右の句(ホトトギス雑詠)に関連して、『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』備忘」で、次のように記述している。次の静塔の記述のうちで、「虚子は左右の句を佳しとしているのに比して、秋桜子はいただけない」(要約)としていることと、左右自身が、「自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えることもなかった位の無造作無頓着な日常であった」(抜粋)という指摘は、「さもありなん」という思いを深くする。

○左右の俳句(ホトトギス雑詠)を、あの理想主義の文芸至上の秋桜子が高くは買わなかったのは当然である。この野暮ったくいささか卑俗で、俳句のみが表現出来る機知と滑稽の作品を、そのまま当時の馬酔木にもって来ても一向見栄えはしなかったであろう。左右は当時自己の作品に対して自負する言動は毛頭もなかった。果たして自分の作品が当時のホトトギスでもてるのは何故だかとも考えたこともなかった位の気造作無頓着な日常であった。(中略) 私達の京大俳句の後期から殆ど俳句を作らず、又殆ど一文も執筆しなかったので、京大俳句事件には全く埃をかぶらずにすんだのは幸いであった。戦後自由律口語に近い俳句を発表したが、それも一時で殆ど沈黙し、数年前から鹿児島志布志市で精神病院まで建てて悠々とやっている。恐らく遠い南の果てで、ときどき私んどの俳句を見て「静塔もっと人のやらぬ俳句が出来ぬものかな」とぶつぶつ独り言をいっているのであろう。好漢長命をうたがわない。

(その五)

○ 大文字へみどりの梅雨をかけわたし (左右)
○ 徐々に徐々に月下の俘虜として進む (静塔)
○ 美しき少女なり献金に應ぜんか   (三山)
○ 山陰線英霊一基づつの訣れ     (白文字)
○ 赤十字ありて端なりキャンプ村   (椎霞)
○ 沙羅の花深山の宮の静けさに    (素逝)
○ 撞かんとす除夜の大鐘まのあたり  (北人)

 日野草城・鈴鹿野風呂らが大正9年(一九二〇)に京大三高俳句会の機関誌として創刊した「京鹿子」は、昭和八年(一九三三)に、平畑静塔・井上白文地・中村三山らによって新しい機関誌「京大俳句」へと衣替えして創刊された。これらのことについては、下記のアドレスのネット記事で紹介されている。掲出の一句目の藤後左右の句は、そこで紹介されているものである。『平畑静塔俳論集(中田亮編集)』所収「『京大俳句』初期のグループ」によると、創刊当時の所属系統などは、次のとおりである(その創刊時の主立ったメンバーの句などについて、同じネット記事で紹介されていたものを上記の二句目から七句目に掲載しておく)。この左右の掲出句を見ても、左右は、その俳友の多くは「京大俳句」の面々であったが、その所属系統的には、「ホトトギス」系の俳人と言っても過言ではなかろう。

[ホトトギス・馬酔木]中村三山(東大)・井上白文字(京大文)・平畑静塔(京大・医)・藤後左右(京大・医)・野平椎霞(京大・医)
[ホトトギス]長谷川素逝(京大・工)・井上北人(京大・工)・田畑比古(京都在住)
[その他]寺野保人(京都在住)

http://www.shibunkaku.co.jp/artm/kyoudai/index.html

(京大俳句の光芒――京大三高俳句会・「京鹿子」から戦後の再出発まで)

昭和8年1月、京大三高俳句会の機関誌として創刊された「京鹿子」が鈴鹿野風呂の個人誌に改組されたのを受け、平畑静塔・井上白文地・中村三山ら若手同人達によって新しい機関誌「京大俳句」が創刊されました。作風の自由と批判の自由を内容とする「自由主義」を掲げた同誌は、やがて当時俳壇におこった新興俳句運動の一拠点となり、理論的、実践的両面において新しい俳句の確立を目指しました。また、学外にも門戸をひろげたことにより西東三鬼・三谷昭・高屋窓秋・渡辺白泉ら有力作家が続々入会。定型、季、連作、戦争俳句などの問題と正面から取り組み、新興俳句運動の尖鋭的存在として活動しました。 しかし昭和8年の京大滝川事件、12年の廬溝橋事件と戦争一色となる社会情勢の中、俳壇におけるこの革新的な気運は、不運にも治安維持法による取締りの対象とされました。そして昭和15年2月から3回にわたって「京大俳句」の主要メンバー計15名が特高警察に検挙されます。これを皮切りに全国の新興俳誌がつぎつぎと弾圧を受けることとなり、新興俳句運動は壊滅せざるを得ませんでした。戦後、俳壇再編成の動きのなか、山口誓子を中心とする俳誌「天狼」が創刊されました。戦時中沈黙を余儀なくされていた新興俳句の俳人達の再出発は、現代俳句の確立に大いに貢献することとなりました。弾圧により「京大俳句 」が終刊してから60年。本展では、「京大俳句」を中心に青年作家たちの情熱から生まれ、俳壇を席巻した新興俳句運動をたどり、昭和という激動の時代に輝いた俳句世界を紹介します。

(その六)

○ スラバヤを出しな軍刀にけつまづいた
○ 沈没船のマストが背伸びして見送る
○ 昨日の魚雷はとふり向くはるか

 藤後左右は、句集は出していないようである(昭和五十六年当時の『藤後左右句集』など晩年に句集刊行)。昭和三十二年刊行の『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』(筑摩書房)所収の「藤後左右集」の作者紹介の記述は次のとおりである。

○明治四十一年鹿児島に生る。本名惣兵衛、職業医師。昭和三年野風呂に入門、「ホトトギス」に投句。虚子に師事す。同六年三山白文地静塔素逝椎霞と「京大俳句」を興す。誌業句作に勤勉ならず常に静塔の叱責を受く。同七年京大医学部卒、松尾内科に入り市立京都病院に奉職。いはほ播水と蜻蛉会に出席、ために新興俳句弾圧の目を逃る。同十八年小スンダ列島に出征、後郷里に開業す。未だ句集を編むに至らず、現在郷土誌「天街」に拠る。

 掲出の三句は、その『現代俳句集(現代日本文学全集九一)』のものである。これらの句は、「ホトトギス」や「蜻蛉会」に投句したものではなかろう。まぎれもなく、静塔らの「京大俳句」の世界のものであろう。この一句目の「スラバヤ」は、昭和十七年(一九四二)の「スラバヤ沖海戦」のそれであろうか。『ウィキペディア(Wikipedia)』では、「スラバヤ沖海戦(-おきかいせん 1942年2月27-28日)とは太平洋戦争中、 インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合軍が迎撃した海戦。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった」と紹介されている。
 とすると、この句は、昭和十五年の「京大俳句弾圧事件」以後のもので、左右が「小スンダ列島に出征」していた頃の作であろうか。ここには、それまでの、「ホトトギス」に投句していた左右の影はない。左右は、戦後、いわゆる、「ホトトギス」の「花鳥諷詠」の世界から、この掲出句に見られるような、無季の戦争批判の、より多く「前衛俳句」や「社会性俳句」の世界へと脱皮していったのであろうか。次のネット記事では、次のように紹介されている(なお、同ネット記事によると、1991年6月11日没。)。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-4-ta.htm

○終戦後の昭和26年5月、郷里で「天街」を発行主宰している。昭和30年8月に、大阪で波止影夫が「芭蕉」を創刊すると、左右も参加。「芭蕉」は、「天街」「青玄」「薔薇」「激浪」「琴座」などの、旧京大俳句系の参加が多い俳誌だった。左右の俳風は、「京大俳句」に参加していた経緯からも判るように、前衛俳句を中心とし、また社会性俳句にも意欲を燃やした。句集に「熊襲ソング」(1986)「藤後左右句集」(1981)他。

(その七)

○ 裁判長浜が消えたから貝も消えました
○ 裁判長ナミノコガイと云っておいしい貝でした
○ 裁判長浜と貝をかえして欲しいのです
○ 裁判長浜と子供を返して下さい

 藤後左右については、活字(図書)情報よりもネット(ウェブ)情報の方が充実しているのかも知れない。しかし、どちらかというと、戦後の藤後左右を中心として、それは「京大俳句」の新興俳句系の俳人にウェートを置いて紹介されている印象でもある。下記のネット記事のものについても、その年譜のとおり、先に(その六)紹介した年譜の「虚子に師事す」などは、記述されておらず、そこで、紹介されている句(掲出句)などを見ても、完全な「反ホトトギス」系の俳人としてのものであろう。この掲出句は、昭和四十六年当時、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任して、その闘争の過程で得た〈裁判長シリーズ〉のものなのであろうか。ここには、戦前の、「ホトトギス」の巻頭を得た頃の藤後左右の影はない。

http://www.k3.dion.ne.jp/~scarabee/sukajin-ta.htm

○1908年1月21日、鹿児島県曽於郡志布志町の生まれ。俳人。本名、惣兵衛。志布志中学―七高(鹿児島)―京都帝大医学部卒。近世文学研究者の暉峻康隆と同郷。昭和初頭より句作を開始し、「ホトトギス」巻頭を獲得。一躍脚光を浴びる。昭和8年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊に参加。昭和18年、応召し、ジョホールバルで終戦、レンパン島で捕虜生活を送る。昭和21年5月復員。昭和22年、郷里で開業。昭和26年、「天街」創刊主宰。昭和46年、志布志湾公害反対連絡協議会会長に就任。この闘争をへて得た〈裁判長シリーズ〉は有名。昭和47年、南日本文化賞。1991年7月11日没。享年83歳。〈著書〉句集『熊襲ソング』(天街発行所、昭43.7)『藤後左右句集』(永田書房、昭56.6、のち再刊、ユニカラー、昭56.10)『ナミノコ貝』(現代俳句協会、昭61.10)『藤後左右全句集』(ジャプラン、平3.9)〔参考〕国武十六夜『私説・藤後左右』(永田書房、昭57.8)

 この年譜中の「志布志湾開発反対闘争」は、下記のアドレスに詳しい。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/53/rn1983-319.html

(その八)

○ 萩の野は集つてゆき山となる

 この掲出句について、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)さんの鑑賞は次のとおりである。

http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20001104,20040816,20051110&tit=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3&tit2=%E8%97%A4%E5%BE%8C%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E3%81%AE

○高校の数学の時間に、「演繹(deduction)」「帰納(induction)」という考え方を習った。掲句は四方から「萩の野」が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって「山」になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である。かつての「ホトトギス」で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている。そう言われて見回してみると、俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、「萩」なる季語は存在する。しかし、ここで「萩」は他の季語とどのようにでも交換可能だ。「菊」でもよいし「百合」でもよろしい。すなわち、左右の「萩」は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが「なるほど」と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない。とまあ、せっかくの三連休中に屁理屈をこねまわして御迷惑かと思うが、俳句という文芸様式を考える上では、こんな感想も一興かと……。『熊襲ソング』所収。

 この清水哲男さんの鑑賞文に接して、この掲出句は、昭和四十三年に刊行された『熊襲ソング』所収のものであることが分かる。そして、「かつての『ホトトギス』で、中村草田男と並び称された藤後左右(とうご・さゆう)の技ありの一句だ。当時の俳人たちを驚かせた一句だと、山本健吉が書いている」とあり、戦前の、昭和六年当時の「ホトトギス」投句時代の作品であることも分かる。この「当時の俳人たちを驚かせた一句」ということの理由を、清水哲男さんは、「『萩の野』が傾斜面をのぼっていき、それらが集まって『山』になったと言うのだから、典型的な帰納法による叙景である」として、「俳句は演繹による作句法が圧倒的に多いことに気がつく。演繹法は前提をまず認めなければ話にならないので、前提の正しさを保証するために、たとえば有季定型なる約束事があったりする。なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ。人々が掲句に驚いたのは、彼がこの保証書を無意識にもせよ引き裂いているからだろう。たしかに、『萩』なる季語は存在する。しかし、ここで『萩』は他の季語とどのようにでも交換可能だ。『菊』でもよいし『百合』でもよろしい。すなわち、左右の『萩』は演繹法における絶対の前提ではなく、帰納法での特殊な前提の位置にある。具体例をあげるまでもなく、名句の季語は絶対であり動かせない。掲句には誰でもが『なるほど』と感心はするけれど、それ以上に感情移入できないのは、このように絶対の前提を欠いているからである。たしかに技はあるが、実がない」と、明解な、藤後左右俳句の評を下している。この「帰納法的な叙景句」という理解は、戦前の藤後左右の俳句の特徴をよくとらえている感を大にする。左右は医師であり、医師特有の「帰納法」的な視点での作句で、この点で、他の多くの俳人の演繹的な視点での作句と味わいの違ったものを現出している。さらに、この帰納法的な作句では、「季語は絶対的な要件でない」との指摘は、戦後の左右の前衛俳句・社会性俳句の無季俳句への転向を見ていくと、大きな示唆を含んでいる。この清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞は、最もその中枢を貫いているものという思いを深くした。

(その九)

○ 新樹並びなさい写真撮りますよ

この掲出句は、下記のアドレスの「かごしま近代文学館」のネット記事のものである。ここで、戦後の、藤後左右の俳句観などが紹介されている。

http://www.kinmeru.or.jp/literature/WebRefresher/view.cgi?DIR=020&TITLE=%93%A1%8C%E3%8D%B6%89E%81w%90V%8E%F7%82%C8%82%E7%82%D1%82%C8%82%B3%82%A2%81xH18.1.5

○藤後左右『新樹ならびなさい』1989(平成元)年 ジャプラン
 1930(昭和5)年、当時、水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝・高野素十ら四Sの独占時代だった「ホトトギス」の巻頭を飾り、一躍俳句界のスターとして登場した藤後左右は、徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました。その理念を左右自身の中で定着させたのが1980(昭和55)年、鹿児島の大隅湖畔で詠んだ
「新樹並びなさい写真撮りますよ」
の句でした。この句について左右は、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」(『新樹ならびなさい』あとがき)と述べています。左右3作目の出版となった本書は、この句から名前を付けました。この句集を口語俳句六・八・六型の「実験作品」と左右は述べていますが、他にも
「みんな自生のつつじです丘ごとです」
「春の下駄お元気ですねといわれちゃった」など、左右らしい自由な句が並んでいます。

 この左右の紹介記事で、「徐々に五・七・五の俳句の型に疑問を覚え始めます。そして、後年、口語俳句六・八・六型を提唱していきました」の、この「口語俳句六・八・六型」と、先に、左右の無季俳句というものを見て、今度は、「五・七・五」の定型破壊と突き進んでいるのは、戦前の「ホトトギス」出身の俳人とは別人かという趣すらしてくる。おそらく、「ホトトギス」巻頭俳人のうちでも、ここまで、徹底した、新しい俳句の世界を模索していった方は、皆無なのではなかろうか。また、この掲出句について、「出来たときには蟻地獄から這いあがったような気がした。自然といかに取り組むかというのが句作根本理念であった私にとって、この作品はまさに左右開眼の句だと思っている」という左右の思いは、この「自然といかに取り組むかというのが句作根本理念」ということに関連して、左右が、そのスタート時点で師事した、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の「花鳥諷詠」俳句の世界の、新しいステップという感慨を、左右自身抱いていたような感が拭えないのである。

(その十)

○ 夏山と溶岩(ラバ)の色とはわかれけり    左右
○ 溶岩(ラバ)色を重ねて古りて冬ざれて    年尾
○ 溶岩に秋風の吹きわたりけり        虚子

 掲出の三句は、下記のアドレスの「桜島句碑めぐり」からのものである。

http://www4.synapse.ne.jp/mokka/tabi/040417/040417kuhi.htm

 この一句目の「溶岩」に「ラバ」のルビ付きの左右の句は、戦前の「ホトトギス」投句時代のものであろう。上記のネット記事では、「志布志出身の藤後左右の句碑が雄大な桜島をバックに、東屋のある展望所に建立されています。溶岩を英・独語読みで「らば」と読んで初めて句に用いたのも、この藤後左右でした」とあり、この「溶岩」を「ラバ」と詠むのは、当時においては新鮮であったのだろう。この句も、左右の「帰納法」的な作句で、
「夏山の遠景の美しい青い色と、近景の溶岩の茶褐色の色とは、画然と一線を画している」というような句意であろうか。この句は、季語の「夏山」と実景の「溶岩」とを対比させて、夏山の焦点化に成功している一句であろう。掲出の二句目は、虚子のご子息の高浜年尾の句で、やはり、「溶岩」を「ラバ」と詠んでのものである。この年尾の句の「溶岩」は、多分に、左右の「溶岩」の句を意識してのものであろうか。これ以後、「溶岩」を「ラバ」との外来語的な詠みをしばしば見掛けるようになる。その先例的な句が、この一句目の左右の句と言っても良いのかも知れない。しかし、左右そして年尾の師匠に当る「ホトトギス」の総帥・高浜虚子は、同じ、桜島を詠んでも、掲出の三句目のとおり、「溶岩」は「ようがん」の詠みであり、自分が選句した、地元の鹿児島出身の左右の「溶岩」を「ラバ」とする詠みは採ってはいない。その上で、これらの掲出の三句を見て、三句目の虚子の、一句一章的な、「溶岩」の句というよりも「秋風」の句に、他の二句よりも共感を覚えるのである。そして、その背景には、芭蕉の「おくのほそ道」での名吟、「石山の石より白し秋の風」の、その「秋風」の本意、それは、現代俳句ですれば、山口誓子の「ひとり膝を抱けば秋風また秋風」の、この「秋風」の本意、「身に沁みてあわれを添える」風情が、詠み手に直に伝わってくるからに他ならない。そして、それは、先の清水哲男さんの藤後左右俳句の鑑賞(その八)からすると、「なかでも季語は、演繹的作法になくてはならない保証書のようなものだ」ということに関連してくるのであろう。このことに関して、ここでも繰り返すこととなるが、左右の俳句の季語感というのは、例えば、この一句目の、季語の「夏山」と、実景の「溶岩」に、外来語の「ラバ」とルビを振っての、この並列的な句作りに、決して、左右は、「夏山」の季語としての本意などは眼中にないのである。どちらかというと、この時の、左右の心を動かしたのは、「溶岩」の、その非情緒的な、地下の「マグマ」の結晶物を、いかに表現するかということでもあったのかも知れない。そして、それが、「マグマ」に匹敵するような外来語の「ラバ」という詠みになって、それが、この一句の生命線にもなっているのである。藤後左右は、そのスタートの時点から、これまでに余り見かけなかった新しい視点と新しい造語感覚をもって、それが、当時の虚子の目にとまったのであるが、戦争で句作を中断して、戦後に、左右の多くの仲間の「前衛俳句・社会性俳句」の世界に直面して、完全に、脱「虚子」の世界へと移行した典型的な俳人といって差し支えないのであろう。そして、藤後左右の俳句は、その「戦前」の俳句と、その「戦後」の俳句とは、全然異質の世界のものという理解をして、その上で、改めて「藤後左右の俳句」の全体像を把握するという、二段ステップの鑑賞方法が強いられるような思いを深くする。

木曜日, 8月 07, 2008

「たかし楽土」の世界(一~十)



「たかし楽土」の世界



○ 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 

 松本たかしの、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」(「優秀句・金牌賞」の百三十三句のうちの最優秀句)を射止めたものが二十句で、この句は、その二十句のうちの一句ということになる。
 「日本新名勝」の百三十三景のうちの「温泉」の部の「熱海温泉」の句である。「熱海温泉」の句というよりも「伊豆・天城山」の句という感じでなくもない。川端康成の名作「伊豆の踊子」は、昭和元年(一九二六)の作。上五の「山越えて」も、「伊豆へ来にけり」も、そして、下五の季語が、「花杏」の措辞ではなく「花杏子」というのも、どことなく、康成の「伊豆の踊子」を連想させる。
「たかし」は、明治三十九年(一九〇六)生れ、昭和三十一年(一九五六)没。東京都神田猿楽町出身で神奈川県鎌倉市浄明寺に住んでいた事もある。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人となる。能役者の名家に生まれたが、病身のため能役者を断念。平明な言葉で、気品に富む美しい句を残した。昭和二十八年(一九五三)、第五回読売文学賞の詩歌俳句賞を『石魂』で受賞。弟に能楽師の松本惠雄(人間国宝)。
 
○ 温泉(ゆ)煙のまた濃くなりし椿かな

 この句も、『日本新名勝俳句』の「温泉」の部の「熱海温泉」の句で、こちらは入選句である。とりたてて、熱海温泉での句というよりも、とある温泉に浸りながら印象鮮明な椿の花を見たという句であろうか。たかしは、川端茅舎とともに、「四S」(秋桜子・誓子・青畝・素十)以後の「ホトトギス」を背負う俳人と称されるが、この二人は、確かに、「四S」の俳人達とは異質の世界での、いわば、茅舎が「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)とするならば、たかしは「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)という印象を深くするが、この句の、この感覚的に鋭い椿の把握は、その後の「たかし楽土」の世界の片鱗を垣間見せてくれる思いを深くする。
 虚子は、和三年(一九二八)四月に、大阪毎日新聞社講演で始めて、「花鳥諷詠」ということを提唱して、爾来、亡くなる昭和三十四年(一九五九)まで、「俳句は花鳥諷詠詩」ということの提唱とその実践をし続けてきた俳人であるが、虚子が胸中に抱いて「花鳥諷詠」の世界というのは、いわゆる、「四S」の世界のものではなく、茅舎の「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)、そして、たかしの「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)に、より近いものだったのではなかろうか。

○ チチポポと鼓打たふよ花月夜

 昭和十三年(一九三八)の作。たかしは宝生流能役者松本長(ながし)の長男。松本家は代々幕府に仕える能役者の名門である。たかしは大正三年(一九一四)、九歳のとき初舞台を踏んだという。その舞台稽古をつけてくれた方は、宝生流の家元、宝生九郎という。そして、能の稽古一筋に歩み、中等教育は全て私塾に通って習得したという。十五歳の頃、身体に異変を感じ、「肺炎カタル」ということで、専心療養の途につく。そして、父の手引きで、大正七年(一九二二)、十七歳の頃、高浜虚子の門に入り、「ホトトギス」に投句するようになる。たかしは、将来を能役者の道ではなく、俳人の道へと歩むこととなる。しかし、その胸中には、能役者の松本家の思いがたぎっていたことであろう。この掲出句の「チチポポ」は鼓の擬音語であると共に、能の象徴的な用語ということになろう。そして、「花月夜に、鼓を打ち、能を舞いながら、一夜過ごさん」と、これこそ、「たかし楽土」の象徴的な句であろう。

○ 夢に舞ふ能美しや冬籠
 
 昭和十六年(一九四一)作。もはや、能楽の道を断念したたかしにとっては、「夢の中で舞う」ほかは術がなかったのであろう。というよりも、たかしにとって能楽とは終生まとわりついて離れない妄執のようなものであったろう。その妄執の夢幻の中で、「能を舞う」、その「美しさ」に、さぞかし、「現実に能を舞うことのできない」吾が身を、責め立てたことであろう。しかし、そういう悲愁は、一切、胸中に閉じこめて、夢幻の境地に彷徨うような「たかし楽土」となって、いわば、夢幻能のような美的世界を訴えかけてくる。この季語の「冬籠」の、「堪え忍ぶ」たかしが、即、「さればこそ、『たかし楽土』」という、その「楽土」の正体なのであろう。

○ 金魚大鱗夕焼の空の如きあり

 『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の一句。茅舎とたかしとは、共に、「如し」の直喩を得意とする作家で、その多用と共に、その句境から、しばしば、「茅舎浄土」、「たかし楽土」と並称される。山本健吉は、「茅舎が形象の中に寓意を含んで絢爛たるのに対して、たかしはただひたすら感覚的と言えるかも知れない。つまりたかしの比喩は『物の見えたるひかり』(芭蕉)をずばりととらえた時出てくるのだ。比喩とは言わば間接的な叙法であるが、そのような間接叙法を直接叙法以上に直接的、端的に駆使し得た時、それは始めて生きるのである」(『現代俳句』)と指摘している。豪華な一匹の金魚を、「夕焼の空」(夕焼けの鮮やかな色彩の変化)の「如きあり」(それを目の当たりにしている)と、「たかしの直喩の代表的な作品」であろう。確かに、こういう句に接すると、芭蕉の「物の見えたるひかり」をとらえた句ということを実感する。

○ 芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり

 『松本たかし句集』の昭和七年作。当時の年譜に、「春から梅雨にかけて神経症で弱る。ホトトギス雑詠への投句もこの三、四ヶ月は怠るといふことが、凡そ毎年の例となる」との記述がある。たかしの宿痾は、この神経症(ノイローゼ)と結核(肺炎カタル)とであった。芥子の花は濃厚に見えて淡泊な美しい花だ。そして、芥子の花は、たかしの宿痾が毎年昂じる頃咲く花だ。この句の「まぬがれがたく」とは、「今年もまた」という、たかしの絶叫でもあろう。しかし、その絶叫は、悶え苦しむ絶叫ではなく、淡泊な可憐な一日花の芥子の花のように、己の傷つきやすいことを知りながら、その傷つきやすいことを愛隣しているような、溜め息にも似た吐息のような雰囲気である。すなわち、「楽土」の吐息とでも言うのであろうか。たかしは決して絶叫はしない。また、その病的な神経から来る歪んだ異常性の強い句もない。たかしの句は、内面の葛藤を止揚したような、安らぎの「楽土」の世界のものであるという思いを深くする。

○ 萩むらに夕影乗りし鶏頭かな
○ 我去れば鶏頭も去りゆきにけり
○ 鶏頭の夕影並び走るなり

『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の鶏頭の三句。一句目、「夕日の中の白い花の萩叢の中の赤き鶏頭」、二句目、その「観照を尽している我とその客体の鶏頭との極み」、そして、三句目、「並び走るのは、鶏頭を染めた夕日とその影」、この三句を見ただけでも、たかしの美的感覚というのを、まざまざと見せつけられる思いがする。と同時に、師の虚子の、「客観写生」、そして、「花鳥諷詠」の一典型という思いがしてくる。虚子は、茅舎をして、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したが、たかしもまた、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠することができよう。秋桜子去り、誓子去った、昭和十年代に、虚子が、「茅舎とたかしを得た」というのは、当時の虚子の偽らざる心境であろう。それにしても、「茅舎浄土」の茅舎に比して、「たかし楽土」のたかしの影が薄いのが、どうにも気になるところでもある。

○ まひまひの円輝きて椿泛(う)く

 『鷹』所収の昭和十二年作。「まいまい」は鼓虫。関東では「水澄し」ともいう。ところが、「関西」では「水澄し」を「あめんぼ(水馬)」ともいう。偶然なのかどうか、能役者の家系に生まれたたかしが「鼓虫」(まいまい)の句というのは、何か因縁めいてくる。たかしは、この「鼓虫」(まいまい)に、真紅の落花して水に浮いている椿の花を対比して、一句にしている。「鼓虫」(まいまい)は、六・七ミリの光沢のある黒い瓜実状の虫で、ここにも、たかしの感性的な色彩的な視点がある。そして、ここにもまた、「たかし楽土」という世界が顕現化してくる。これが、茅舎になると、茅舎は「あめんぼ(水馬)」の句で、「水馬大法輪を転じけり」(「大法輪とはお釈迦様が説かれた偉大なる教え(法・真理)」)と、こちらは、「茅舎浄土」という世界という雰囲気である。しかし、この両者は、師の虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」の教えのもとに、小さな小さな水虫の実景をそのままに写して、「たかし楽土」、そして、「茅舎浄土」という、独特の世界を構築しているのが、何とも、ここでも、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したくなる。

○ 微禄しつつ敢て驕奢や寒牡丹

 昭和十三年の作。微禄は貧乏、驕奢は贅沢くらいの意であろうか。寒牡丹に託してのたかしの自画像の一句か。昭和十一年(一九三六)の二・二六事件を切っ掛けとして軍部の独裁が進行しつつある暗い時代であった。そういう時代にあっても、「たかし楽土」の世界は終始そのペースを崩していない。たかしは生涯生業には就かなかった。病弱の身で、家産を譲られたわけでもなく、生活は、それこそ、「微禄」という現状にあって、終始、「驕奢」を好む江戸っ子的な浪費者でもあった。たかしは能役者の途を閉ざされ、俳人としてその生涯を全うすることとなるが、その俳句をとおして、多くの庇護者に恵まれていた。思えば、川端茅舎の「茅舎浄土」の「浄土」は、「穢れ・不浄」に比するものとすると、松本たかしの「たかし楽土」の「楽土」は、「苦悩・煩悩」にでも比するものであろうか。と共に、当時の満州国建国の理念とされた「王道楽土」(理想国家・ユートピア・楽園)の、その「楽土」ということもその背景にあろうか。それよりも何よりも、虚子は晩年に至って、「俳句は極楽の文学である」ということを提唱するのであるが、この虚子の「極楽の文学」の、その中味は、茅舎の「浄土」と、たかしの「楽土」が、その背景にあるように思えてならない。

○ 夜長星低くぞ燃ゆる崎を高み 
○ 宵闇に漁火鶴翼の陣を張り
○ 灯台光指揮し鯖火の動きそむ
○ 海(わだ)中に都ありとぞ鯖火もゆ
○ 漁火の海の都も夜中かな

 『火明』(昭和二十八年刊)所収の「足摺岬」二十九句のうちの五句である。戦後、たかしは病弱の身を呈して、たびたび遠出の旅をしている。昭和二十八年(一九五三)には、名古屋・岐阜・中津川・下諏訪・松山、そして、高知の足摺岬まで足を伸している。掲出の句はその時の作である。もうこの時には、僚友の川端茅舎はいない(昭和十六年に没している)。何故か、茅舎亡き後の、昭和十六年以降に、たかしの遠出の旅行吟が生彩を放ってくる。昭和十九年(一九四四)の戦時中に、名古屋・豊橋・飯田を経て、冬の天竜渓谷を訪れ、そこで「天竜渓谷」二十三句を得る。「冬山の我を挟みて倒れ来る」・「冬山の倒れかかるを支え行く」・「冬山の囲みを破り射す日あり」など、真冬の天竜渓谷の厳しい姿を、激しい気迫をもってとらえている。たかしは、これらの俳句を持って、これが自分の戦争俳句だと揚言したとか。とにもかくにも、これらの旅行吟には、いわゆる、虚子流の「花鳥諷詠俳句」に見られない、気息の充実感と緊迫感とにみなぎっている。 そして、戦後の、たかしの旅行吟、例えば、掲出の「足摺岬」での句なども、まさしく、戦時下にあっての、たかしの旅行吟の集大成の句といっても過言ではなかろう。茅舎は、師の虚子の絶頂期に、「花鳥諷詠真骨頂漢」のまま没したが、たかしは、師の虚子の晩年を仰ぎ見ながら、脱「たかし楽土」という世界の一端を垣間見せながら、昭和三十一年(一九五六)に五十歳で没した。虚子はその三年後の昭和三十四年(一九五九)に、その八十六年の生涯を閉じた。

日曜日, 6月 01, 2008

高屋窓秋の「白い夏野」(一~)

(後列 →  石橋辰之助・水原秋桜子・石田波郷・高屋窓秋)
高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当
時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、
何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構
成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作
俳句の鑑賞のように味わうことができる。

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、その「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じように後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面
白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものであるが、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑
賞を目にすることができるが(下記のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やはり、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そんな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡
な「白」の基調というのが、どうにももどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html

高屋窓秋の「白い夏野」(二)

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されている。

雑

○ 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
○ 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
○ 頭の中で白い夏野となつてゐる
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということが分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろう。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃であったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記をしておきたい。

高屋窓秋の「白い夏野」(三)

虻

○ 虻とんで海のひかりにまぎれざる
○ 舞い澄める虻一点のほがらかに
○ あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、やはり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜していく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめた川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめたのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

蒲公英

○ 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
○ 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもって反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。
☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これまでの擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

○ 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
○ たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もなく清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも響いてくる趣でなくもない。

高屋窓秋の「白い夏野」(五)

露

○ 洗面の水のながれて露と合う
○ 露の玉朝餉のひまもくずれざる
○ 雑草の露のひかりに電車くる
○ 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。この「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのものを見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつらねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。
☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める。
☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどるものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。
☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」などに比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないという印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱める」ということを痛感するのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(六)

さくらの風景

○ さくら咲き丘はみどりにまるくある
○ 花と子ら日はその上にひと日降る
○ 灰色の街に風吹きさくらちる
○ いま人が死にゆく家も花のかげ
○ 静かなるさくらも墓も空のもと
○ ちるさくら海青ければ海へちる

「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青ければ海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(七)

山鳩

○ 山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
○ 山鳩よみればまわりに雪がふる
○ 雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
○ 鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によって、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すはたらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみはじめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉でするならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)

雪

○ ある朝の大きな街に雪ふれる
○ 朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○ 山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○ 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降りつつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるように川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これらの句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そして、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思いを深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○ 菊の花月あわくさし数えあかぬ
○ 月に照る木の葉に顔をよせている
○ 月光をふめば遠くに土応う
○ 月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○ 月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○ 菊の花月射しその葉枯れている
○ 月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○ 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたのか、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやその異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえしていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのである。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのあるものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句していると、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものにものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とはいえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのである。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○ 海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○ 北の空北海の冷え涯ぞなき
○ 日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○ 氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○ 夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想していたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そして、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。


はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋

高屋窓秋の「白い夏野」(一~十)

高屋窓秋の「白い夏野」(一)

 戦前の「新興俳句弾圧事件」で、若き俳人の何人かが獄中生活を余儀なくされていた頃、句作を断って、当
時の新しい理想国家・満州へと旅発った「馬酔木」の俊秀俳人・高屋窓秋の、その第一句集『白い夏野』は、
何とも、魅力に溢れたものの一つである。
 この句集は、編年体でも季題別でもなく、丁度、自由詩のような「題」が付せられていて、そして、その構
成と軌を一にして、自由詩を鑑賞するような、そんな感じで、そのまとめられた「題」の数句を、丁度、連作
俳句の鑑賞のように味わうことができる。

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 窓秋の『白い夏野』の、冒頭の「三章」という題の三句である。この三句の共通語は「白い」である。「白
い青空」・「白い夏野」・「白い靄」、それは窓秋の心象風景なのであろう。窓秋が師事した、水原秋桜子
は、虚子の「ホトトギス」の流れを汲み、その「ホトトギス」を脱会して、「馬酔木」を主宰した後でも、そ
の「季題・季語」重視は変わらなかったが、その秋桜子門の窓秋にとっては、その「季題・季語」とかは、
「落葉」・「夏野」・「靄」と、もう従たる位置に追いやられている。それよりも、秋桜子の俳句は後期印象
派のような色調の鮮やかな句風を得意とするに比して、窓秋は、水墨画の「黒・白」の、その「白」を、この
第一句集『白い夏野』では多用しているという、面白い対比を見せてくれる。
 そして、窓秋の「白」の世界は、決して従前の水墨画の「白」の世界ではなく、やはり、秋桜子と同じよう
に後期印象派の西洋画的な「白」の世界であるというのが、何とも面白いという印象を受けるのである。
 この二句目の、「頭の中で白い夏野となつている」は、窓秋の代表作として夙に知られているものである
が、この句について、「戦争を目前にした若き日の絶望の表現」という鑑賞を目にすることができるが(下記
のアドレス参照)、そういうニュアンスに近いものなのかも知れない。しかし、この三句目の「白い靄」に、
「朝の(白い)ミルク」と、一句目・二句目の暗喩的・抽象的な「白」の世界も、極めて、嘱目的・具象的な
「白」と表裏一体をなしているところに、窓秋の「白」の世界があると理解をいたしたい。すなわち、やは
り、窓秋は、秋桜子の「馬酔木」の俳人であり、「青空・落葉」・「夏野」・「靄・ミルク」を嘱目的・具象
的に把握し、そして、その把握の上に、それらの全てを独特の「白」一色のベールで覆ってしまうような、そ
んな作句スタイルという理解である。
 こういう理解の上に立って、上記の三句では、やはり、一句目・二句目に、窓秋の新しい「白」の世界を感
知できるのであるが、三句目には、やはり「馬酔木」の一俳人の、平凡な「白」の基調というのが、どうにも
もどかしい思いを抱くのである。

http://touki.cocolog-nifty.com/haiku/2004/11/post_2.html

高屋窓秋の「白い夏野」(二)

三章

○ 我が思う白い青空と落葉ふる
○ 頭の中で白い夏野となつている
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 前回に紹介した、この「三章」の三句は、昭和三十二年刊行の『現代日本文学全集九一 現代俳句集』(筑
摩書房)所収の「高屋窓秋集」に掲載されたものである。これが、昭和六十年刊行の『現代俳句の世界十六 
富沢赤黄男 高屋窓秋 渡邊白泉』(朝日新聞社)所収の「高屋窓秋集」によると、次のとおりに改編されて
いる。

雑

○ 秋の蚊に腹はもたゝぬ昼餉かな   昭六
○ 我が思う白い青空ト落葉ふる    昭七
○ 頭の中で白い夏野となつてゐる
○ 白い靄に朝のミルクを売りにくる

 この改編の経過は定かではないが、この改編後のもので、これらの句が、昭和六・七年頃の作句ということ
が分かる。「ホトトギス百年史」(アドレスは下記)により、その当時の日本俳壇の動向は次のとおりであ
る。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
一月 「要領を説く」青畝。「季節の文字で」誓子。
三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
五月 誓子句集『凍港』刊。碧梧桐「日本及日本人」の選者を退く。

 上記の年譜の、「(昭和六年)十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離
脱」のとおり、窓秋の第一句集『白い夏野』(昭和十一年刊行)は、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、
「馬酔木」を本格的に主宰した、その年度以降の作句のものが収載されていると理解しても差し支えなかろ
う。そして、このことを、この句集を繙くときにその前提として知っておいた方が、より当時の窓秋の創作意
図などの鑑賞を容易にするということも特記しておく必要があろう。
 さらには、上記の年譜を見ていくと、「(昭和六年)一月 『プロレタリア俳句』創刊。『俳句に志す人の
為に』諸家掲載」・「(昭和七年)三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。『花衣』」創刊。五月 誓子句
集『凍港』刊。碧梧桐『日本及日本人』の選者を退く」など、まさに、日本の俳壇の大きな節目の年度の頃で
あったということも、この窓秋の第一句集『白い夏野』のバックグラウンドとして、やはり、ここで、特記を
しておきたい。

高屋窓秋の「白い夏野」(三)

虻

○ 虻とんで海のひかりにまぎれざる
○ 舞い澄める虻一点のほがらかに
○ あるときは部屋に入りきて虻失せぬ

 「虻」と題するものの三句である。昭和六年(一九三一)の年譜には、「二十一歳 法政大学文学部へ入
学。『馬酔木』発行所へ出入りするようになり、編集などを手伝う」とある(朝日文庫)。また、昭和十一年
(一九三六)のそれには、「二十六歳 法政大学卒業。句集『白い夏野』(龍星閣)刊」とある。掲出の句
は、窓秋の二十一歳から二十六歳の頃の作句と、やはり、青春の影を色濃く宿している三句である。その昭和
十年の年譜には、「二十五歳 『馬酔木』同人を辞し、俳句から離れる」とある。後に、窓秋は、秋桜子との
別れについて、「秋桜子が宮内省侍医寮御用係を仰付けられたことと、当時の国情の推移とを思いあわせ、
『馬酔木』の中で勝手なことはできない、秋桜子に迷惑がかかる」(朝日文庫)とのことを記しているが、や
はり、この掲出の三句にも、青春の鬱積した思いとともに、当時の、満州事変などの軍国主義の道へと傾斜し
ていく国情などが見え隠れしている思いを深くする。
 と同時に、当時の「馬酔木」の集団というのは、「反虚子・反ホトトギス・反花鳥諷詠」ということで、一
糸乱れぬ結束下にあった。そして、その「ホトトギス」には、虚子をして「花鳥諷詠真骨頂漢」と驚嘆せしめ
た川端茅舎(昭和六年当時三十四歳)が健在であった。
 その茅舎の句に、「蟷螂や虻の碧眼かい抱き」という「蟷螂と虻」の句があるが、反花鳥諷詠派の若き「馬
酔木」の俊秀・窓秋の、当時、絶頂期にあった、「ホトトギス」牙城の、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎への、
その挑戦とそれでいて思慕にも似た一種の語り掛けのような思いが、これらの三句に接して一瞬脳裏をかすめ
たのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(四)

蒲公英

○ 蒲公英の穂絮(ほわた)とぶなり恍惚と
○ 蒲公英の茎のあらわに残りけり

『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の「水原秋桜子」のところに、次のような記述がある。

☆すっかり月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』に対し、近代的な新鮮さをもっ
て反省を要求した先覚者は、水原秋桜子である。
☆秋桜子の第一句集『葛飾』(一九三〇)は、その当時の若い俳人たちを魅惑し去ったものであって、これま
での擦りきれた「俳句めかしさ」に満足できない俳句青年たちにとっては、ひとつの聖典であった。

 窓秋もまた、上記の秋桜子に憧れた「当時の若い俳人たち」の一人であったのであろう。しかし、上記の
「月竝(つきなみ)派的な枠のなかに後退した感じの『ホトトギス』」の中にも、川端茅舎・松本たかし・中
村草田男という次代を担う俳人たちが活躍していた。

○ 蒲公英のかたさや海の日一輪   (草田男『火の鳥』)
○ たんぽぽの咲き据りたる芝生かな (たかし『松本たかし句集』)

 この草田男の句について、秋桜子は、「『海の日も一輪』は、当然のことを言いながら、実にひびきのよい
言葉であり、それがおのずから蒲公英の一輪だけであることを示している。巧い言い方であると同時に、この
上もなく清新な感じに満ちている」と評している(『日本大歳時記』)。窓秋の掲出の二句も、「この上もな
く清新な感じに満ちている」。そして、秋桜子は、何よりも、この「清新さ」ということ俳句信条にしていた
俳人であった。窓秋は、俳人のスタートとして、良き時に、良き師に恵まれたということを、この二句からも
響いてくる趣でなくもない。

高屋窓秋の「白い夏野」(五)

露

○ 洗面の水のながれて露と合う
○ 露の玉朝餉のひまもくずれざる
○ 雑草の露のひかりに電車くる
○ 野の露に濡れたる靴をひとの前

 「露」と題する四句である。これは、当時、秋桜子ら唱道していた「連作俳句」のものなのであろうか。こ
の「連作俳句」などについて、『俳句の世界——発生から現代まで』(小西甚一著)の関連するところのもの
を見てみたい。

☆昭和六年は、秋桜子四十歳である。まさにはたらきざかりで、かれの活動ぶりはめざましかった。とくに、
連作俳句を唱道したことは、注目に値する。従来の一句きりにすべてを表現する行きかたのほかに、数句をつ
らねて、ひとつのまとまった句境を構成する手法がひらかれたことは、俳句史上でも特筆されてよい。
☆連作俳句は、たいへんな反響を示した。山口誓子・日野草城・吉岡禅寺洞などは、それぞれの立場から連作
を論じ、また実践した。秋桜子の連作は、画家がある構図をもち、それにしたがって印象をまとめてゆくのと
同様のおもむきを感じさせるもので、いちばん本格的だといってよい。
☆この連作形式には、俳句として根本的な疑問がある。そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝
集し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱め
る。
☆しかるに連作は、感じたところを隈なく叙述しようとするものであり、俳句本来の性格と逆の方向をたどる
ものである。その結果、一句のもつ表現性が稀薄となり、だらしなく散文かしていく危なさを含む。
☆これらの弱みを持つ連作俳句が、あまり永く栄えなかったのは、あるいは当然であったかもしれない。連作
俳句の流行はおよそ十年で、昭和十五年ごろからは、次第に姿を消してゆくのである。

 この「連作俳句」に関する記述を読んだ後で、窓秋の掲出の四句を見てみると、一句目の「洗面の水と露」
と二句目の「朝餉と露」、そして、三句目の「雑草の露と電車」と四句目の「野の露と靴」と、ある「一日の
生活」の断面を「露」との関連で、「隈なく叙述」している、いわゆる、「連作俳句」のものというのが感知
される。と同時に、丁度、同じ頃(昭和六年)に作られた、川端茅舎の、「金剛の露ひとつぶや石の上」など
に比すると、窓秋の、この掲出の四句の全てと比しても、とても、茅舎の「露」の一句に太刀打ちできないと
いう印象を受ける。すなわち、上記の小西博士の、「そもそも俳句表現は、感じとったところをぎりぎり凝集
し、その精髄だけを直接に感覚させようとするもので、叙述の要素がまじってくることは、その表現を弱め
る」ということを痛感するのである。

高屋窓秋の「白い夏野」(六)

さくらの風景

○ さくら咲き丘はみどりにまるくある
○ 花と子ら日はその上にひと日降る
○ 灰色の街に風吹きさくらちる
○ いま人が死にゆく家も花のかげ
○ 静かなるさくらも墓も空のもと
○ ちるさくら海青ければ海へちる

「さくらの風景」と題する六句である。この六句のうちで、最後の「ちるさくら海青ければ海へちる」は、今
に窓秋の傑作句として語り継がれている。そして、窓秋とともに、「馬酔木」の俊秀三羽烏として今にその名
を留める波郷は、窓秋の「頭の中で白い夏野となっている」(前出「白い夏野(一)」)について、「秋桜子
が窓秋のこの句を認めて『馬酔木』雑詠の上位に置いたのは不思議に思えるが、若い時代の情熱が秋桜子をも
動かしたとみればよいのである」として、「新しい俳句界の陣頭に立つ『馬酔木』に、いち早くこういう句が
発表されたことの意義はふかいのである」(『俳句講座六』)と評しているが、この「ちるさくら海青ければ
海へちる」も、全く、その波郷の評があてはまることであろう。
 これらの「さくら」は、現実の「桜」を目の当たりにしての嘱目的な写生の句ではない。それは、窓秋の心
象風景の「さくら」である。一句目の「丘はみどりにまるくある」と「平和を象徴するような『さくら』の心
象風景」、二句目も、「日はその上にひと日降る」と「花と子」の「平安に満ちた心象風景」、それが、三句
目から五句目になると、「灰色の街」・「人が死にゆく家」・「さくらも墓も」と俄然陰鬱な「軍国主義の道
へと傾斜していく」当時の国情をも透写するような「心象風景」となってくる。そして、「ちるさくら海青け
れば海にちる」となると、「頭の中で白い夏野となっている」と同じように、具象的な「さくら」の風景が、
抽象的な「さくら」の風景となり、後の、「きけわだつみの声」のように、若き「英霊(さくら)」が「海
(神)」(わだつみ・わたつみ)」に消えてゆくことを暗示するまでの象徴性を帯びてくる。そして、その象
徴性は、何故か空恐ろしいほどの感性の鋭さと、その鋭さだけがとらえる透徹性のようなものを感知させるの
である。

高屋窓秋の「白い夏野」(七)

山鳩

○ 山鳩のふと鳴くこゑを雪の日に
○ 山鳩よみればまわりに雪がふる
○ 雪ずりぬ羽音が冴えて耳に鳴り
○ 鳩ゆきぬ雪昏(く)れ羽音よみがえる

掲出の二句目が夙に知られているものである。この窓秋の句について、石田波郷は次のような鑑賞文を残して
いる(『俳句講座六』)。

☆「山鳩」の句は(掲出二句目)、雪と山鳩の二つのイメージを、彼が頭の中でさまざまに構成して見せた連
作の一句である。しかし他の三句が忘れられても、この一句だけは、その確かな具象性と美しい抒情によっ
て、代表句として残るのである。鑑賞者はわがままだが、同時にきびしいともいえるのである。山鳩の栗胡麻
色の羽が、周囲から浮き出して目にうつる。「山鳩よ」という呼びかけは、読者の頭の中に山鳩を呼び出すは
たらきをする。「みればまわりに雪がふる」その山鳩の羽色をかすめるように、しんしんと雪が降りつつみは
じめたではないか。

 また、波郷は、窓秋について、このようにも記している。

☆私(波郷)は、窓秋が喫茶店でモーツァルトなどを聴きながら、一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図
でもひくように創り出すのをいつも見ていた。 時には五句の字数までが揃って、五句の文字が縦も横も綺麗
に並んでいたこともある。そうするために字数を揃えるべく句を直すことさえあった。連作という新しい詩形
がほんとうに必要なのは、結局は窓秋ただ一人だったのである。

これらの波郷の鑑賞文に接して、窓秋と全くの同時代の、詩人で建築家であった、四季派の立原道造が思い起
されてくる。窓秋は明治四十三年の生れ、道造は大正三年の生れで、道造が後輩であるが、窓秋が俳壇と訣別
して遠く満州の地に赴任した翌年の昭和十四年に、二十四歳という若さで他界している。道造の詩には、若い
人のみが許される、「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」とが、美しい、波郷の言葉で
するならば、「一枚の原稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作されている。そして、窓秋
の、二十六歳の時に刊行した、窓秋の青春の句集『白い夏野』は、これは、まぎれもなく、窓秋の、その陰鬱
な時代の到来する夜明けの、若き詩人だけが許される透明な詩心で把握した、「夢みたもの」の、「一枚の原
稿紙に丹念な文字で一句一句製図でもひくように」創作したものの痕跡のように思われてくるのである。この
窓秋の「山鳩」は、次の道造の「優しき歌」の、その「夢みたものは……」の、その「青い翼の一羽の 小
鳥」のように思えるのである。

夢みたものは……  立原道造

夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

高屋窓秋の「白い夏野」(八)

雪

○ ある朝の大きな街に雪ふれる
○ 朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○ 山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○ 降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順
序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降り
つつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるよう
に川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもって
いることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これら
の句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そし
て、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指
摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。
詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思い
を深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴
く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○ 菊の花月あわくさし数えあかぬ
○ 月に照る木の葉に顔をよせている
○ 月光をふめば遠くに土応う
○ 月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○ 月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○ 菊の花月射しその葉枯れている
○ 月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○ 虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたの
か、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の
三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座
六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土
が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやそ
の異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえし
ていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別して
いたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのであ
る。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や
花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのある
ものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないの
である」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、
前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句している
と、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものに
ものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、
前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とは
いえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝
統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・
俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのであ
る。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)


高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○北の空北海の冷え涯ぞなき
○日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽
象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの
句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七
字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・
回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想し
ていたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象
性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象
の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』
を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知ら
ない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の
処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言
うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そ
して、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛と
それらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造
の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の
句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。

はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋

火曜日, 11月 13, 2007

阿波野青畝の俳句

阿波野青畝の俳句(一)

一 虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(第一句集『萬両』)

※初出「ホトトギス」(大正七・一)。秋(虫)。耳が遠かった作者は、自然読書に心を注ぐようになり、『万葉集』などに感情をたかぶらせた。虫が鳴きはじめた秋の夜、読書力もまして夜を徹して書物に親しみ心の昂ぶりをおさえかねているさま。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※阿波野青畝略年譜(その一)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

明治32年 (1899)2月10日 奈良県高市郡高取町に生まれる。
      旧姓 橋本。長治の四男。本名 敏雄。(大正12年阿波野貞と結婚、改姓)
大正 4年 県立畝傍中学在学中郡山中学教師原田浜人を知る。卒業後しばらく京都にい       
      たが、兄が亡くなり帰郷。幼時からの難聴のため、進学をあきらめる。
大正 6年 秋、浜人居で奈良来遊の高浜虚子と初対面。同じ難聴の村上鬼城を例にして
      激励される。しかし、指導を受ける浜人の影響もあって、虚子に客観写生に   
      ついて不満を述べるが、虚子から「大成する上に」「暫く手段として写生の 
      練磨を試みるよう」、諭される。
大正 7年 11月 八木銀行に勤務。
大正11年 野村泊月の「山茶花」に投句。
大正12年 大阪市西区京町堀上通りの商家阿波野家に入る。この頃から「ホトトギス」 
      成績好調、翌年課題句選者となる。牧渓の画の簡素に魅かれ、俳句の形式
      を生かす途は簡素化だと考えた。写生の習練によって、「玄々妙々の隠微を 
      もつ自然と肌をふれる歓び」を知る。
昭和 3年 秋には、山口青邨が秋桜子、素十、誓子、青畝と並べて四Sの一人に挙げ、    
      一躍有名になった。
昭和 4年 1月、郷里大和の俳人達によって「かつらぎ」創刊、請われて選者となった。
      その年、「ホトトギス」同人。
昭和 6年 『万両』刊。第一句集。

阿波野青畝の俳句(二)

二 住吉に住みなす空は花火かな(第二句集『国原』)

※昭和七年作。住吉公園の近いところに仮寓しているので、夜空に揚がる花火が美しく見えた。景気よくポンポンひびくと興にのる。住みよい土地だとおもう。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

※阿波野青畝略年譜(その二)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和14年 この頃から連句を始める。虚子あるいは柳田国男と歌仙を巻く。
昭和17年 『国原』刊。
昭和20年 空襲で大阪の本宅を焼かれ、西宮の甲子園に移り住む。
昭和21年 「かつらぎ」復活し、発行人となる。
昭和22年 カトリックに入信、夙川教会にて受洗。霊名アシジの聖フランシスコ。
      『定本青畝句集』刊。
昭和26年 「ホトトギス」の雑詠選が虚子から年尾に移り、同誌への投句をやめる。

阿波野青畝の俳句(三)

三 端居して濁世(じょくせ)なかなかおもしろや(第三句集『春の鳶』)

※昭和二二年作。混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの浮世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

四 老人の跣(はだし)の指のまばらかな(第四句集『紅葉の賀』)
※昭和二九年作。ある老人を見た。よく鍛えたからだらしいけれど痩せこけて肉がなかった。跣になった足を見てそれがよくわかる。五指の間隙にすごみがある。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

五 寒波急日本は細くなりしまま(第五句集『甲子園』)
※昭和三一年作。気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以来痩せ細ったのは人間だけでなく、国も急激の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

六 懐手して説くなかれ三島の死(第六句集『旅塵を払ふ』)
※1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。

七 澄江堂句集は紙魚(しみ)のいのちかな(第七句集『不勝簪』)
※昭和四九年作。芥川龍之介は俳句をたしなんで澄江堂句集を出した。貴重な初版を持っている。たまたま其を書架より抜いた。紙魚が慌てた。姿を消して隠れた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

八 寒鯉の大きな吐息万事休(第八句集『あなたこなた』)

九 出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり(第九句集『除夜』)

※阿波野青畝略年譜(その三)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和27年 『春の鳶』刊。
昭和37年 『紅葉の賀』刊。
昭和47年 『甲子園』刊。
昭和48年 第七回蛇笏賞、西宮市民賞を受賞。
昭和49年 大阪芸術賞を受賞。俳人協会顧問。
昭和50年 勲四等瑞宝章を受章
昭和52年 『旅塵を払ふ』刊。
昭和55年 『不勝簪』刊。
昭和58年 『あなたこなた』刊。
昭和61年 『除夜』刊。

阿波野青畝の俳句(四)

十  狐火を詠む卒翁でございかな(第十句集『西湖』)

十一 隼を一過せしめて寒鴉(第十一句集『宇宙』)

※(季語/寒鴉)空に隼、地上に寒鴉のいる光景だ。隼を見上げる鴉の目は緊張している。この句、阿波野の遺句集『宇宙』(1993年11月)から引いた。青畝は92年12月、93歳で死去した。青畝が死去して15年になるが、このところこの俳人が話題になることはあまりない。全集のようなものも出る気配がない。この人、亡くなるまで俳句一筋であった。大阪の市井の俳人であったのだが、今から見てこの人の魅力は何だろうか。もちろん、若い日には4Sと呼ばれて脚光を浴びた。晩年も長老俳人として厚く遇された。だが、その青畝の俳句世界の解明は進んでいるとは思われない。数年間の活動をめどに青畝研究会のようなものを発足させたいのだが、やってみようという人はいないだろうか。(坪内稔典)  

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub07_0102.html

※阿波野青畝略年譜(その四)

http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

平成 2年 森田峠に「かつらぎ」主宰を譲り名誉主宰。
平成 3年 『わたしの俳画集』刊。国際俳句交流協会顧問。「詩歌文学館賞」を受賞。 
      11月入院。 12月22日心不全により逝去。(享年九十三歳)
      夙川教会にて葬儀ミサ。


阿波野青畝の俳句(五)

十二 口開いて矢大臣よし初詣(『萬両』)

初出「ホトトギス」(大正十・四)。新年(初詣)。初詣に参った神社に、弓矢を手にした祭神を守る矢大臣の人形が左右に置かれている。少し口をあけ何かを語りかけようとするその大臣の古雅の顔立ち。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※大正十一年作。野村泊月を京都に訪ねて八坂さんに詣でた。若い頃の印象はいまも変わらない。口を閉じた矢大臣は青年であるが。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△年齢の入った年譜は次のとおり。掲出の作は、二十三歳の時。二十五歳で「ホトトギス」の課題句選者となっているのだから、青畝の早熟さは目を引く。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

阿波野青畝 年表
明治32年 2月10日 0歳 父橋本長治、母かねの五男として高取町上子島に生まれる、本名敏雄。
明治38年 6歳 高取町の土佐小学校に入学、耳病治療するも治らず。
明治43年 11歳 母死去。
大正 2年 14歳 県立畝傍中学校入学。
大正 4年 16歳 書店の店頭で「ホトトギス」を求め県下郡山中学校教師原田浜人に俳句を学ぶ。
大正 6年 18歳 大和郡山の原田浜人宅の句会で高浜虚子に出会う。
大正 7年 19歳 県立畝傍中学校卒業、難聴のため進学を諦め、八木銀行に入行。
大正 8年 20歳 虚子に客観写生に対する不満を訴える手紙を出す。返書に写生の修練は将来「大成する上に大事」であることを「暫く手段として写生の鍛錬を試みる」ことをさとされる。
大正12年 24歳 大阪市西区の阿波野貞と結婚。
大正13年 25歳 若くして「ホトトギス」の課題句選者となる。
昭和 3年 29歳 山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになる。長女多美子生まれる。
昭和 4年 30歳 郷里大和の俳人たちから請われ奈良県八木町で発刊している「かつらぎ」の主宰となる。「ホトトギス」同人。
昭和 6年 32歳 第1句集「萬両」を刊行し名実とみにあがった。
昭和 8年 34歳 妻貞死去、阿波野秀と結婚。
昭和15年 41歳 父死去。
昭和20年 46歳 3月大阪の自宅戦災で焼失、西宮市甲子園に移る。妻秀死去。
昭和21年 47歳 戦時下の統制令で他誌と合併した「かつらぎ」復活。田代といと結婚。
昭和22年 48歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ。
昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去。
昭和34年 60歳 虚子死去。
昭和38年 64歳 俳人協会顧問となる。
昭和44年 70歳 「よみうり俳壇」(大阪本社版)選者。
昭和48年 74歳 第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞受賞。
昭和49年 75歳 大阪府芸術賞受賞。
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

阿波野青畝の俳句(六)

○虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児 (大正七年作)

※19歳の時に、「虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児」と詠んだといわれています。
畝傍中学時代に、郡山中学の英語教師・原田浜人に句作の指導を受けていて、郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師弟の間柄になりました。のちに高浜虚子から、「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」と言われるほどに耳疾そのものが、青畝の俳句にしみじみとした哀歓をただよわせるに至っています。(阿波野青畝概略)
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

○ 聾青畝面かぶらされ福の神 (昭和五十年作)

※十日戎のみやげのお多福の面が家にあった。孫たちを相手にその面を顔につけると大声を出して笑った。つんぼ戎は作者だ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 病葉の一つの音の前後かな (昭和五十年作)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△上記の虚子の「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」
という指摘は、青畝俳句の一面をついている。


阿波野青畝の俳句(七)

○ 葛城の山懐に寝釈迦かな (昭和三年作)

※初出「ホトトギス」(昭和三・六)。春(寝釈迦)。大和の名山である葛城。この山につつまれて小寺がある。その寺中で寝釈迦の図を見ている。涅槃の釈迦。永遠の眠りはこの葛城の麓がふさわしい(『近代俳句集』所収「阿波野青畝集(松井利彦稿)」)。さらに、その「補注」で次のとおり記述されている。

※大和高取出身の作者が、親しくしていた小寺の寝釈迦を詠んだ。山本健吉は、この句について、「青畝の代表作として喧伝されている」「寝釈迦像はおおむね大きく画面いっぱいに描かれ、その廻りに小さく鳥獣虫魚の悲しむ姿が添えられるのであるが、この句葛城山をバックにして格別雄大に寝釈迦像がはっきり浮かび上がってくる。それとともに『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている(『現代俳句』)と評し、小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている点に言及している(「補注」二七六)。

△この青畝の「小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている」ということについては、虚子が素十をして、「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」という、いわゆる、虚子が推奨して止まなかった「客観写生」ということに含めても良いものであろう。しかし、青畝のそれは、素十のそれに比して、健吉が指摘する、「『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている」と、その主観がより濃厚に句に滲み出てくるという相違があるのであろう。そして、この両者の違いは、次のアドレスの、次のような対比として、指摘することも可能であろう。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

「素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる『厳密な意味における写生』と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます」。

また、そのことが、青畝俳句の叙情性として、次のようにも指摘されることとなる。

「昭和3年、青畝の叙情性が最もよく表現された一句が、『葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな』です。葛城山は古くから多くの神話を持ち、また修験の聖地でもありました。葛城山が持つ神秘的な光景から写生でありながら、その句は無限の広がりを持っています。まさに俳句の聖人でありました。山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになりました。この句が誌名となり、昭和4年1月、郷里の俳人たちの要請で「かつらぎ」を創刊し、青畝は主宰となりました」(上記のアドレスの紹介記事)。
とにもかくにも、青畝、二十九歳のときの、この作品が、その翌年の、青畝の主宰誌「かつらぎ」を誕生させ、平成二年の、青畝、九十一歳のときの、その「かつらぎ」を森田峠に譲り、名誉主宰となり、平成四年に、その九十三歳の生涯を閉じるまでの、そのバックボーンであり続けた、青畝の代表作であるとしても、それは過言ではなかろう。

阿波野青畝の俳句(八)

○ 八方に走りにげたり放屁虫(へひりむし) (大正十五年)
○ なつかしの濁世(じょくせ)の雨や涅槃像 (大正十五年)

※以上の二句は青畝君の句である。この両句にも共通した特色を認めることが出来る。「八方に」の句は放胆に滑稽的に叙してあるが放屁虫のうろたえて其辺に臭い匂いを出して直ちに逃げ失せてしまったところを「八方に走り逃げた」という風に叙したのは青畝君のやゝ空想的な想像力が左様にせしめ左様に叙せしめたものである。而もその放屁虫のすばやい行動並びにいかにもくさい臭気が四方八方に飛散する模様が適切に描かれてある。その言葉の空想的、想像的ではあるが、而も事実をおろそかにしないでよく之を描き得たという感じがする。次に「なつかし」の句は涅槃会の日に雨の降っているとうたゞそれ丈の景色に過ぎないが、それをこの作者は濁世の雨と云った。その心持を探って見ると、つらい悲しい醜悪な世の中ではあるが、而もどうもこれを離れ去ることは出来ない。離れよう離れようと思えば淋しさにたえぬ。やはり濁世と知りながら人なつかしい心持を持っているという事がうかゞわれる。しかも雨が静かに降っている。なんとなくものなつかしい。今降る雨にも濁世の姿がある。しかもその濁世は自分にとってなつかしい濁世である。涅槃像は仏様の成仏された姿が描いてあるのであるが、しかもその仏もなお濁世と云ってこの世を穢土(えど)とせられたのであるけれども然しやはりその濁世にすんでいる人々をあわれみいつくしまれたのである。自分は涅槃像に対して清い仏の世界を欣求(ごんぐ)する心はつよいけれども、尚又もの静かに降るこの濁世の雨はなつかしいと云う心持を叙したのである。そういう心持は現世に対していだいている作者の心持であって、耳の遠い身体の丈夫でない、しかもその家庭というものは青畝君の思う通りにならない、なんとなく現世をいとわしく感ずる心持がしながらも、やはりいとわしく思うその現世はなつかしい、と云うこの作者の心持が土台になって出来た句であろう。両句とも感情的な空想的な点は共通といって良い。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』所収「虚子」評)

△上記は青畝の掲出の二句についての虚子評(大正十五年十二月)であるが、「選も又創作なり」とする虚子を浮き彫りにするような見事なものである。と同時に。虚子の「客観写生」というものは、即、「主観写生」というものを排斥しているのではなく、「作者が小さい造化となって小さい天地を創造する」(『虚子俳話』)という、極めて、上記の青畝俳句の特色の、「感情的・空想的」な世界と交差しているところの、虚子一流の「万物の相に迫り得る」ところの「客観写生」というようなことなのであろう。それが故に、青畝は、昭和二十六年の、 虚子の「ホトトギス」選者引退まで、虚子のもとにあって、ひたすら、虚子の世界にあっての、その精進であったのである。

阿波野青畝の俳句(九)

○ 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)

※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和五年(1930)
二月 「山会の記」として文章会の記録を載せはじめる。芝不器男没。
四月 秋桜子句集『葛飾』刊、連作の流行。
六月 「玉藻」「夏草」「旗」創刊。虚子「立子へ」を「玉藻」に連載。
八月 第一回武蔵野探勝会。
十一月 第四回関西俳句大会(名古屋)にて虚子「古壷新酒」を講演。
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

 さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。

http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html

※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。

 ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。

阿波野青畝の俳句(十)

○ 座について庭の万両憑きにけり (青畝・昭和六年)
○ 降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男・昭和六年)
○ しんしんと雪降る空に鳶の笛 (茅舎・昭和六年)

△この青畝と草田男の句は、「ホトトギス」(昭和六年五月)の「雑詠句評会」に掲載されたものである。この年、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、いわゆる 四S(秋桜子・誓子・青畝・素十)の、次の世代の、「草田男・茅舎・たかし」が台頭してくることとなる。
この時の、句評などは次のとおりである。

※(青畝の句)花蓑 万両がつやつやと赤らんでいるだけで外には格別目につくものもない冬枯の庭である。万両の赤い色は光線の加減で変化して見える程に艶々しい。偶々客となって座敷に通され、座についてみると恰度まともに万両が見えて、つやつやした赤い色が自分にのりうつっているようであると云うのでしょう。静かで而もけやけやしい万両の趣をしみじみ味わうことが出来る。この作者の今度の句は万両ばかり詠んでいるが、どの句にもそれぞれ万両の深い味が捉えられている。
(草田男の句)秋桜子 同じ雪を題材として、これは又別の深い趣のある句である。雪が所謂鵞毛に似て降りしきる空を仰いでいると、何となく遠い昔を思う感じが胸に湧いて来る。今から二十年余り前、明治の頃にはよく深い雪が降った。そうして子供であった我々は外套を着、脛を埋めて学校へよろこび出掛けものである。今はそういう大雪には逢うよしもないが、今空を埋めて降って来る雪を眺めていると、あの子供の頃の明治時代が偲ばれる。思えば明治は遠くなったものだという感慨が作者の胸に湧き起って、此の句が出来たものだと思う。此の句は全体として隙きがないが、殊に「降る雪や」という五字が巧みだと思う。これは目の飛雪の光景をよく現わし、その空の暗さを現わし、従って自然に昔を追憶する心を引き出すもとになっているのである。
虚子 降る雪に隔てられて明治という時代が遠く回想されるというのである。情と景とが互いに助けて居る。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

阿波野青畝の俳句(十一)

○ 夕遍路奪衣婆(だつえぼ)のゐるうしろより (昭和十八年)

※虚子 閻魔王の祭っている傍に奪衣婆の像がある。其辺をうろうろしていた遍路が、其奪衣婆のうしろから出て来た、というのである。夕遍路という言葉は既に使い古るされているが、此場合よく利いている。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
△「ホトトギス」の昭和十四年から二十年までの年譜は下記のとおりである。昭和十四年には、草田男・波郷・楸邨らの「人間探求派」が登場してくる。また、「京大俳句弾圧事件」が勃発し、俳句もまた思想統制の時代に突入していった。昭和十六年には、「日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅」とあり、「自由律・無季俳句」も俳句の一分野と容認されるけれども、それらのものも含め、反「ホトトギス」的傾向の強い「新興俳句」は壊滅状態となっていく。昭和十七年に、かって「ホトトギス」の有力俳人であった日野草城が俳壇を去り、「ホトトギス」を離脱した、秋桜子の「馬酔木」の有力俳人の、加藤楸邨・石田波郷らも「新興俳句」系俳人とも見なされ、その「馬酔木」を離脱していく。虚子、そして、「ホトトギス」周辺も、これらの戦時下の影響を色濃く受容することとなるが、そういう戦時下での中での、青畝の一句である。どことなく陰鬱な「奪衣婆」と、どうにも疲れ切ったような「遍路」と、青畝の句としては、何とも陰鬱な句の部類に入ろう。やはり、当時の陰鬱な時代相というものが見え隠れしている一句である。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和十四年(1939)
一月 ホトトギスで難解俳句が問題となる。
二月 蒲郡にて第一回「日本探勝会」。四月、熱帯季題から地名を除く。素逝句集『砲車』刊。
五月 俳諧詩「池内庄四郎九州四国武者修業日記」虚子(「誹諧」)。「花鳥」創刊。茅舎句集『華厳』刊。
六月 「はがき句会」(七十回連載)はじまる。
八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
九月 泉鏡花没。
十月 虚子編『支那事変句集』刊(三省堂)。田中王城没。
昭和十五年(1940)
一月 『ホトトギス雑詠選集・夏の部』刊(改造社)。「連句礼賛」虚子。
二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。
四月 「天香」創刊(三号で潰される)。
六月 虚子編集『季寄せ』刊(三省堂)。
八月 三鬼検挙さる。
十月 種田山頭火没。「寒雷」創刊。「俳話新涼」代表的俳句作家約五十名。
昭和十六年(1941)
二月 日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅。
五月 虚子選『新選ホトトギス雑詠全集一』刊(中央出版協会・昭和十七年までに全九冊刊)。
六月 虚子満鮮旅行。虚子編『子規句集』刊(岩波文庫)。虚子の句の翻訳(仏・英・独)にポルトガル語・中国語加わる。
七月 川端茅舎没。
八月 虚子選『ホトトギス雑詠選集・秋の部』刊(改造社)。
十二月 大平洋戦争始まる。
昭和十七年(1942)
一月 草城俳壇から退く。
二月 「子規の句解釈」連載、虚子。
三月 虚子『句日記』(昭和十一~十五年)刊(中央出版協会)。
五月 楸邨・波郷「馬酔木」を離れる。虚子『立子へ』刊(桜井書店)。
六月 日本俳句作家協会が日本文学報国会俳句部会に改組、虚子部長となる。
七月 虚子編『武蔵野探勝上』刊(甲鳥書林・昭和十八年三月までに全三冊)。
八月 脚本「時宗」虚子(九月に中村吉右衛門、歌舞伎座、昭和十八年五月南座上演)。八月、「夏炉」創刊。
九月 「ひいらぎ」創刊。
十二月 「連句も亦花鳥諷詠-年尾へ-」虚子(「誹諧」)。虚子『俳句の五十年』刊(中央公論社)。
昭和十八年(1943)
二月 大谷句仏没。
三月 用紙不足のため雑詠三段組となる。
六月 『ホトトギス雑詠選集冬の部』刊(改造社)。
十月 虚子『五百五十句』刊(桜井書店)。東大ホトトギス会学徒出陣壮行会。
十一月 虚子脚本「嵯峨日記」上演(吉右衛門、歌舞伎座)。虚子森田愛子を訪ひ伊賀で芭蕉二百五十年忌。
十二月 芦屋月若町の年尾居にて『猿蓑』輪講開始(旭川・鹿郎・年尾・蘇城・大馬・三重史・青畝・涙雨・九茂茅)。
昭和十九年(1944)
六月 「玉藻」「誹諧」資材不足のため「ホトトギス」に合併。
九月 虚子小諸小山栄一に高木晴子とともに疎開。
十月 「鹿笛」「京鹿子」合併し「比枝」となる。
昭和二十年(1945)
三月 立子小諸へ疎開。
六月 戦局急迫のため「ホトトギス」休刊(九月まで)。
八月 芦屋の年尾居空襲で全焼、和田山古屋敷香葎方へ疎開。終戦。
九月 虚子、姨捨の月を見る。
十月 ホトトギス仮事務所岡安迷子宅に、発行所は丸ビル。
十一月 虚子北陸・但馬・丹波の旅。
十二月 「俳句ポエム」連載、佐川雨人。

阿波野青畝の俳句(十二)

○ 芽柳に焦都やはらぎそめむとす (昭和二十一年)
※戦禍に灰燼となった都市を焦都という。造語である。柳も黒柳だと思った。根が生きていたので芽を出した。私も柳によって復興の元気が湧いた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 伐口に大円盤や山笑ふ (昭和二十一年)
※森林は伐採されて急に明るい天地に変じた。ぷんと木の香をはなつ伐口は汚れなき円盤をならべる。まことに陽気な山になった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 端居して濁世なかなかおもしろや (昭和二十二年)
※混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 夜燕はものやはらげに羽ばたきぬ (昭和二十三年)
※燕は夜になると巣にやすらぐ。そして産卵もする。子がかえれば親が席をゆずる。巣のへりにとまりながら哺育する親の姿勢は尊い。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 手より手へわたされてゆき雲雀の巣 (昭和二十三年)
※麦畑の多いところを歩いていた。雲雀の鳴くまひるは明るい。一人が巣を発見して手にとった。雲雀の巣にちがいないといって渡された。軽かった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 枯るるもの枯るるならひに石蕗枯るる (昭和二十四年)
※石蕗が咲けば黄がひき立つ。長く咲いたあとは絮がついて汚れて見える。そのじぶんどんな草も木も茶いろに枯れるのだ。石蕗も同じこと。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の戦後(昭和二十一~二十四年)の「自註自解」の六句である。これらの六句は、戦時中の陰鬱な調子とは違って、明るい調子の、青畝の、「この世を達観し、いやに澄ましていた」と、俳人特有の戯けにも似た自画像が浮かび上がってくる。しかし、下記の「ホトトギス」の年譜にあるとおり、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)や「現代俳句協会設立」など、日本俳壇は、新しい転換期の最中にあった。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十一年(1946)
一月  「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月  「祖谷」創刊。
五月  「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月  小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月  夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月  長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月  「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月  虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。
昭和二十二年(1947)
一月  「踏青」創刊。
二月  虚子『六百句』刊。(青柿堂)。「誹諧」に二句の連句開始。
三月  「極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月  「風花」「早蕨」創刊。
六月  新俳句人連盟分裂。
九月  現代俳句協会設立。ホトトギス社合資会社となる。(代表社員年尾)。
十月  虚子小諸から鎌倉へ帰る。
十一月  虚子比叡山にて亡母五十年忌。琵琶湖船上句会。
十二月  虚子『虹』刊(苦楽社)。誓子「馬酔木」脱退。
昭和二十三年(1948)
一月  「天狼」「勾玉」「諷詠」「七曜」創刊。
三月  「游魚」「木の実」創刊。年尾「句帖」開始。
四月  『虚子京遊句録』刊。(富書店)。
六月  虚子・年尾・立子ら氷川丸で北海道旅行。
八月  朝日俳壇復活し虚子選者となる。
十一月  「山火」創刊。
昭和二十四年(1949)
一月  「みそさざい」創刊。
二月  虚子「雑詠解」連載、『喜寿艶』刊(創元社)。
三月  青木月斗没。「郁子」創刊。
四月  「雨月」創刊。
六月  「雑詠解」「俳画」一般募集開始。佐藤紅録没。
十月  「裸子」「青玄」創刊。
昭和二十五年(1950)
一月  「樟」創刊。
四月  第二芸術論に対し「俳句も芸術になりましたか」と虚子答える。
七月  鎌倉虚子庵にて東西稽古会(新人会.春菜会)。
十月  「誹諧」終刊。

阿波野青畝の俳句(十三)

○ 春空に虚子説法図描きけり (昭和四十年)
※かすむ大空が映写幕のようにさまざまな思い出をうかべて亡師を慕った。釈迦説法図があるごとく虚子からの教えがまざまざと感じられる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝年譜中、「昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去」・「昭和34年 60歳 虚子死去」の、その虚子を主題とした句である。青畝の代表句の「葛城の山懐に寝釈迦かな」(昭和三年)にも見られる仏教と深く係わりのある「虚子説法図」というのが青畝の世界という趣である。と同時に、青畝の俳句というのは、この昭和三年当時の、初期の作句姿勢を微動だにさせていないのは、驚異的ですらある。

○ 一章の聖句を附して日記果つ (昭和三十八年)
※一年を経過した日記はさすがによごされ他人の目にふれさせたくないものだ。ぱらぱらと操ってみて懐旧する。最後へ箴言ょ附して締め括った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 燭を持ち黒き我ある野分かな (昭和三十九年)
※停電して困った。たよりない蝋燭を手にして台風の用心に立ってゆく。畳の浮くような足許に自分の影法師がお化けめいて動きだすさま。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝俳句の特色の「涅槃会・釈迦説法図」などの仏教関連の用語と共に、青畝年譜の「昭和22年 48
歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ」の、カトリック関連の用語が、戦後の青畝の俳句に見られるようになる。この「仏教・カトリック」と、それらが渾然としている境地も、青畝ならではという思いを深くする。そして、青畝の俳句というのは、その作句の主題を、単に「仏教」とか「カトリック」とかに峻別することなく、それらが、広義の「信仰」という世界と宥和していて、それらが、あたかも、虚子の言う「俳句は極楽の文字」(下記年譜の「昭和二十八年一月」)と極めて近い世界のものという思いを深くするのである。
なお、「ホトトギス」年譜(昭和二十六年~昭和三十四年)は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十六年(1951)
一月 「みちのく」創刊。俳文学会発足。
三月 年尾雑詠選者に。「句日記」虚子、「句帖」年尾。
六月 虚子『椿子物語』刊(中央公論社)。「春潮」創刊。
七月 山中湖畔で稽古会。
八月 竹下しづの女没。
九月 子規五十年式典。
十一月 臼田亜浪没。
十二月 原石鼎没。『年尾句集』刊(新樹社)。「ホトトギス五百号史」宵曲.虚子。
昭和二十七年(1952)
一月 虚子選「雑詠選集予選稿」開始。昭和三十四年四月まで連載(昭和十二年十月~二十年二月の雑詠の再選)。
三月 久米三汀没。
四月 「随問随答」再開(虚子・年尾のち真下善太郎)。
六月 角川書店「俳句」創刊。
十一月 『虚子秀句』刊(中央公論社)。
十二月 山本健吉『純粋俳句』刊。
昭和二十八年(1953)
一月 「俳句は極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月 子規・虚子師弟句碑建立(須磨)。
九月 点字版『喜寿艶』『椿子物語』刊(毎日新聞社)。
十月 虚子逆修法会(比叡山横川)。
昭和二十九年(1954)
一月 「思ひ出・折々」年尾(昭和三十年十二月まで連載)。
八月 前田普羅没。寒川鼠骨没。
九月 中村吉右衛門没。
十月 『虚子自選句集』四季四冊刊(創元文庫)。
十一月 虚子文化勲章受賞。
昭和三十年(1955)
一月 虚子『俳句への道』刊(岩波書店)。「陽炎」創刊。
四月 虚子朝日新聞に「虚子俳話」を連載。
五月 『虚子自伝』刊(朝日新聞)。「藍」創刊。草城同人に復帰。雑詠投句、二句から三句にふえる。
六月 「恵那」創刊。虚子『六百五十句』刊(角川書店)。
八月 「雪舟」創刊。
十月 「草紅葉」創刊。「能登塩田」沢木欣一(「俳句」)、社会性俳句論議。
昭和三十一年(1956)
一月 日野草城没。
二月 「思ひ出づるままに」連載、年尾。
四月 「雑詠句評」始まる。「運河」創刊。兜太「本格俳句-その序」を「俳句研究」に書く、これより造型俳句論始まる。
五月 松本たかし没。
九月 「ゆし満」創刊。
十月 関西稽古会(堅田)。
十一月 虚子『虹、椿子物語他三篇』刊(角川書店)。
昭和三十二年(1957)
一月 「年輪」「桃杏」創刊。
五月 「芹」創刊。
十月 柳原極堂没。
十二月 『年尾句集』刊(大正五年以後の句、新樹社)。
昭和三十三年(1958)
二月 『虚子俳話』刊(東都書房)。
三月 「俳句評論」創刊。独訳『虚子俳句集』刊(東京日独協会)。
五月 「菜殻火」(朱鳥)「青」(爽波)「山火」(蓼汀)「年輪」(鶏二)四誌連合を作る。
十二月 『自選自筆短冊図譜虚子百句』刊(便利堂)。
昭和三十四年(1959)
四月 一日十時二十分、虚子脳幹部出血。八日、虚子没。立子、年尾朝日俳壇臨時選者となる。永井荷風没。
五月 虚子選「雑詠選集予選稿」、昭和二十三年三月号分で終了。安保闘争。


阿波野青畝の俳句(十四)

○ 寒波急日本は細くなりしまま (昭和三十一年)
※気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以後痩せ細ったのは人間だけでなく、国も寒波の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△同じ虚子の信頼の厚かった素十の「近景俳句」に比して、青畝のそれは「大景・遠景俳句の趣でなくもない。そして、虚子・素十の俳句に比して、青畝俳句は、俳諧が本来的に有していた滑稽味というものをその底流に宿しているという感を深くする。

○ しらべよき歌を妬むや実朝忌 (昭和三十三年)
※詩歌はつねに声調を主にする。金槐集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△虚子の俳句観というのは、「花鳥諷詠」と「客観写生」との、この二つによって支えられていると言って良いであろう。そして、「客観写生」ということは、素十的な、リアリズムの極致のような「客観写生」もあれば、青畝的な極めて底流に主観的なものを宿しての表面的な「客観写生」と、そのニュアンスは様々である。そして、もう一つの「花鳥諷詠」というニュアンスも千差万別なのであるが、青畝のそれは「花鳥諷詠」の「諷詠」にウェートが置かれたもののような、そんな印象を受けるのである。それは、端的に、掲出句の措辞の「しらべよき句」ということになろう。この「しらべよき句」ということは、青畝俳句の大きな特徴の一つである。

○ 時雨忌や言を容れざる一人去る (昭和三十七年)
※芭蕉の命日に句友があつまって修したあとで論争をしたことがあった。昔なら破門といったかもしれぬが、黙ってその人は席を蹴って去った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△四Sの俳人は、東の秋桜子・素十に対して、西の誓子・青畝という図式になろう。同時に、論の秋桜子・誓子に比して、作の素十・青畝という図式もあろう。特に、知的な構成派の誓子に比して、青畝は情的な非構成派という印象でなくもない。しかし、虚子がそうであったように、こと、芭蕉派ということになると、青畝もその一人ということになろう。掲出句の「時雨忌」と「言を容れざる一人去る」というのが、虚子と袂を分かった、どちらかというと、蕪村派の秋桜子の印象でなくもないのが、この掲出句に接しての感想である(勿論、この「言を容れざる一人去る」の席を蹴った俳人は、秋桜子ではなかろうが、こと、虚子と秋桜子との図式を想定すると、そんな思いがしてくるというだけである)。

○ イースターエッグ立ちしが二度立たず (昭和四十年)
※復活祭に鶏卵をいろどる習慣がある。こころみに玉子を立てたが偶然に立ったので喝采される。も一度立てようと工夫しても駄目だった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝がカトリックに入信したのは、戦後間もない昭和二十二年(青畝、四十八歳)、そして、虚子が「ホトトギス」選者引退に伴い、その投句を止めたのが、昭和二十六年(青畝、五十二歳)、そして、終世の師の虚子が亡くなった、昭和三十四年(青畝、六十歳)は、青畝年譜上重要な特記事項であろう。青畝の俳句の世界は、虚子の俳句信条の「花鳥諷詠」と「客観写生」との、青畝流の一実践であったとう思いを深くするが、こと、この掲出句に見られるような、カトリック的な世界は、虚子とは無縁のもので、虚子没後は、虚子以上に、虚子が晩年に唱えた「極楽としての俳句」の世界というのを、身を呈して実践していったという印象を深くするのである。

阿波野青畝の俳句(十五)

○ 寒明けば七十の賀が走り寄る (昭和四十四年)
※大寒が明けてまもなく二月十日の誕生日。しかも古稀が記念されるとは駆足のようだ。わが健康をしみじみ感謝した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 鯥五郎鯥十郎も泥仕合 (昭和五十年)
※有明海の干潟をみると鯥がはねている。まことに活発なのでふと曽我五郎十郎の敵討ちという語呂合せをして右の句を成した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 病葉(わくらば)の一つの音の前後かな (昭和五十年)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 福笑大いなる手で抑えられ (昭和五十一年)
※お多福の目や口をならべる遊びで目隠しでやるから変な顔ができる。演者が大きな手でひろげながら模索するのを見ると笑いころげるのだ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 噴水に人生縮図まのあたり (昭和五十二年)
※オスロ市内のフログネル公園に珍しい噴水が多い。グスタフ・ピーケランの創った彫刻群は人間の一生をまとめた。噴水は西洋が秀れている。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の昭和五十年代の句である(その年譜は下記のとおり)。青畝は、九十三歳と長命であったが、その晩年の作風も、この掲出句のように、虚子が晩年に唱えた、「極楽の文芸」として「俳句」の世界に悠々と身を置いていたことは想像に難くない。虚子の言う「極楽の文芸としての俳句」ということは、「俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢ひ極楽の文学になる。如何に窮乏の生活に居ても如何に病苦に悩んでゐても、一度心を花鳥風月に寄する事によつてその生活苦を忘れ、仮令一瞬時と雖も極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるといふ所以である」(『俳句への道』)ということに要約できるであろう。虚子の終生の俳句信条というのは、「客観写生」「花鳥諷詠」「存問」「極楽の文芸」ということに要約することができるのであるが、この虚子の最後に到達した、「極楽の文芸」としての「俳句の世界」の一つの典型が、青畝の俳句に脈打っているということは、管見ではあるが、そんな思いを深くするのである。

(青畝の晩年の年譜)
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

月曜日, 10月 08, 2007

水原秋桜子の俳句(一~十五)



水原秋桜子の俳句

(一)

○高嶺星蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり (『葛飾』)

 大正十四年作。この大正十四年のごろから、秋桜子の作風は、これまでの「ホトトギス」的な写生句を脱して、「作者の感情の起伏を、いかにして一句の調べのうえに表わすか」という主観的傾向を帯びてくる。この掲出句でいうならば、「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」という把握は、「ホトトギス」流の自然を客観的に描写する写生の句というよりも、「高嶺星」(高嶺の空に輝いている星)の下に、夜更けの灯り一つない「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」と、秋桜子のこの時の心を強く刺激した感動のようなものを見事に表現している。秋桜子は、「ホトトギス」の作家で、原石鼎の「淋しさに又銅鑼うつや鹿火屋守」などに惹かれたというが、石鼎の「景情一致」というような姿勢がうかがえる。

(二)

○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (『葛飾』)

 大正十五年作。秋桜子の第一句集『葛飾』は、葛飾の土地が多くその主題になっていることに由来があることは、その「序」に記されている。秋桜子は東京神田の生まれの、生粋の江戸っ子という面と、それが故の近郊の葛飾の地への愛着というものは想像以上のものがある。そして、それは、「水郷の風趣があり、真間川から岐れる水が、家々の前に掘をつくって、蓮が咲き、垣根に桃や連翹の咲き乱れる」と幼年時代に足を伸ばした回想の土地・葛飾という思いであろう。この掲出句も、決して、昭和十五年当時の現実の葛飾の風景というよりも、秋桜子の心の奥底に眠っている瑞穂の国の日本の原風景ともいうべきそれであろう。

(三)

○ 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (『葛飾』)

 大正十五年作・神田生まれの、生粋の江戸っ子の秋桜子に帰省(故郷に帰る)ということがあてはまるのかどうか、はなはだあやしいという思いがしてくる。この句は夏の季語の「帰省」の題詠なのであろう。当時の「ホトトギス」のものは、この種の題詠によるものと思われるのである。秋桜子はこの種の連想しての句作りを得意とする俳人であった。この句集『葛飾』の「葛飾」に由来がある句についても、過去の経験などに基づく連想で、秋桜子らしく一幅の風景画に仕立てている句が多いようである。この掲出の句についても、「桑の葉の照る」夏の猛暑の中を「堪えて」帰省するという帰省子の姿が髣髴としてくる。
こういう実景というよりも、秋桜子のイメージの中に再構成された景は、この種の実景よりも、リアリティを持ってくるのは不思議なことでもある。

(四)

○ 青春のすぎにしこころ苺喰ふ  (『葛飾』)

 大正十五年作。絵画に風景画と人物画という区分けがある。この区分けですると、秋桜子は風景画を得意とする俳人であって、人物画や自分の心の内面を表白するとことを得意とする俳人ではないということはいえるであろう。そういう中にあって、この掲出句は秋桜子には珍しい感情表白の句といえるであろう。時に、秋桜子は三十五歳で、本業の方においては医学博士の学位を受け、俳句の方においても、虚子より「ホトトギス」創刊三十周年記念の企画などを委託されるなど、順風満帆という趣の頃である。しかし、そういう中にあって、やはり「青春は終わった」という感慨であろうか。この年、東大俳句会・ホトトギスで一緒に活動していた山口誓子が東大を卒業し、関西の住友合資会社に勤務することとなる。この掲出句には、秋桜子よりも十歳前後若い誓子などの影響も感知される。

(五)

○ むさしのの空真青なる落葉かな (『葛飾』)

大正十五年作。上田敏訳『海潮音』の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(ベルレーヌ「落葉」)のように、「落葉」の句というのも「うら悲し」のものが多い。そういう中にあって、秋桜子の掲出の「落葉」の句は、「空真青」の中のそれであって、「うら悲し」というような感情表白の句ではなく、色彩の鮮やかな風景画を見るような思いがしてくる。上五の「むさしのの」という流れるようなリズムと相俟って、当時の黄葉・紅葉の雑木林の武蔵野の一角が眼前に浮かんでくるようである。もし、秋桜子のこの時の感情の動きのようなことに着眼すると、青春の甘い感傷というよりも、幼年・青春期を通じて、慣れ親しんだ、葛飾、そして、武蔵野へのノスタルジー(郷愁)のようなものであろう。

(六)

○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (『葛飾』)  

 昭和二年作。赤城山での句で、秋桜子の代表作の一つである。山本健吉の『現代俳句』で次のように紹介されている。「彼の作品が在来の俳句的情から抜け出ていかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかと言うことだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画は、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらしたことは、特筆しておかなければならない。在来の寂(さび)・栞(しおり)ではとらえられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである」。確かに、「風景俳句」とか「写生俳句」とかではなく、新しい感覚の西洋画的な「印象俳句」というものが感知される。葉を落ちつくした樹木に啄木鳥が叩いている音すら聞こえてくるようである。

(七)

○ 追羽子に舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ  (『葛飾』)

 昭和二年作。この年の一月に山口青邨・高野素十らと共に三浦三崎に吟行した時の作品である。「せまい町筋では追羽子が盛で、林檎の上には紅い凧もあがってゐた。まづ魚市場へゆき、漁船から魚を揚げる景を見たのち、渡し舟で城ヶ島へ渡った。砂浜には蒲公英が咲き、いま潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」(石田波郷・藤田湘子著『水原秋桜子』)。この秋桜子の回想文からすると掲出の句は実景での作ではないことが了知される。追羽子の光景は三崎港のものであり、鮫の光景は城ヶ島でのものである。その鮫も実際は、「潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」ということなのであるが、それを「舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ」と、実景以上に現実感のある表現で一句を構成しているのである。こういう句作りが、秋桜子が最も得意とし、最も多用したものであったということは、特記しておく必要があろう。

(八)

○ 来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり (『葛飾』)

 昭和二年作。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んで、大和路の古寺と仏像に深く心にうたれ、大和吟行を思いたったという。秋桜子の大和吟行関連の作には秀句が多い。この句は東大寺の一名法華堂ともいわれている三月堂での作という(藤田湘子・前掲書)。しかし、この句には、その三月堂もその仏像も詠われてはいない。万葉集以来この古都、この古寺周辺の馬酔木の花とその日の光をとらえて、いかにも秋桜子らしい格調のある一句に仕立てている。大和路の春は馬酔木の花盛りである。その花盛りの中にあって、この古都、この古寺を巡る、さまざまな「来し方」に思いを巡らして、こういう懐古憧憬の抒情味の風景俳句は、秋桜子の独壇場であるとともに、秋桜子が主宰する「馬酔木」俳句の一つの特徴でもあろう。

(九)

○ 蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ (『葛飾』)

 昭和三年作。前年に続く大和路での句。この年には大和路に吟行した記録がないので回想句であろうという(藤田湘子・前掲書)。この句について、「この句は山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現し得ているつもりであるが、『春いづこ』だけは感傷があらわに出すぎていけないと思っている」(俳句になる風景)と作者が言っているのに対して、この「作者(秋桜子)の考え方とは反対に、私(山本健吉)は『春いづこ』の座五は動かぬ」との評がある(山本・前掲書)。作者自身は、唐招提寺の「春らしい景物のない講堂のほとり」の景に主眼を置いて、「春いづこ」は不満なのであろうが、この「春いづこ」の詠嘆が、唐招提寺の栄枯盛衰を物語るものとして、この「座五は動かぬ」との評を是といたしたい。実際に蟇が鳴いたかという穿鑿は抜きにして、ここに「蟇ないて」の上五を持ってきたのは、やはり、秋桜子ならではであろう。

(一〇)

○ 利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな (『葛飾』)

 昭和五年作。この句は大利根から江戸川に分かれる千葉の関宿での作という(藤田・前掲書)。「『とねがわの……』という大らかな詠い出しが、すでに懐旧の情をさそう。つづいて『ふるきみなとのはちすかな』と叙述的ながら大景をしだいに絞りあげて、蓮の花に焦点を集中していく手法は、起伏を抑えたリズムと相俟って実に効果的である。秋桜子俳句は、構成的で構成の華麗に目を奪われることがしばしばである」(藤田・前掲書)。まさに、秋桜子の俳句はその中心に「素材を巧みに構成する」ということを何よりも重視していることは、この句をもってしても明瞭なところであろう。そして、秋桜子とともに「四S」の一人の山口誓子も、この「素材を巧みに構成する」ということには群れを抜いている俳人であった。ともすると、秋桜子俳句は、「短歌的・抒情的・詠嘆的」(山本健吉)と見なされがちだが、基本において、「構成的・知的」であることにおいて、誓子と共通項を有していることは、ここで強調しておく必要があろう。

(一一)

○ 鳥総松(とぶさまつ)枯野の犬が来てねむる (『新樹』)

昭和六年作。「鳥総松」は新年の季語、そして、「枯野」は三冬の季語。秋桜子にしては珍しい季重なりの句である。山口誓子にも、「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」(昭和二十年作)と「枯れ野の犬」の名句があり、秋桜子の句と「枯野の犬」の双璧とされている(藤田・人と作品)。掲出の秋桜子の句について、「作者としては、あまりそれらしい構図も考えず、見たものを見たものとして写生したと思う。つまり無心の一句。それだけに、ゆっくりと渋味が滲み出るような趣がある」(藤田・秋桜子の秀句)との評もある。しかし、この掲出の句も、秋桜子らしい構成的に工夫した句で、「鳥総松」と「枯野の犬」との取り合わせは、無心の写生の一句とは思われない。そもそも、「枯野の犬」というのが、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「枯野」と、俳諧・俳句の象徴的な季語と結びついて、想像以上のイメージの拡がりを見せてくれる。そういう、イメージの拡がりを狙っての、季重なりの構成的な一句として理解をいたしたい。そして、そのことが、後に、即物・構成派の山口誓子の掲出の「枯野の犬」の句と併せ、その双璧として、今に、詠み繋がれているその中核にあるもののように思われる。

秋桜子の俳句

(一二)

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり (『秋苑』)

 昭和九年作。「菊は秋桜子にとって欠かせぬ素材で、全句集にのこる菊の句は、菊日和など類縁の作を含めると百五十二句にのぼる。これは梅の句の百七十六句に次ぐ多さで、春秋の双璧をなしている。ちなみに桜は五十九句と、意外に少ない」(藤田・秋桜子の秀句)。

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり
○ 菊かをりこゝろしづかに朝に居る
○ 菊かをり金槐集を措きがたき
○ 菊しろし芭蕉も詠みぬ白菊を
○ 菊の甕藍もて描きし魚ひとつ

 『秋苑』に収載されている昭和九年の菊連作の五句である。この五句のなかでは、やはり、掲出の句が「リズム・構成・色彩感覚」の面において群を抜いていよう。「白菊の白妙」とはいかにも秋桜子らしい「きれい寂」(山本謙吉の「秋桜子の俳句の『きれい寂』で使われた言葉で、「寂の本質の中に含む華麗さ」などの用例)を感じさせる一句である。秋桜子の代表句の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(昭和二十三年作)と双璧をなす句といっ
てもよかろう。

(一三)

○ 狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ (『岩礁』)

 昭和十二年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)に次のような一節がある。
「彼が『葛飾』でうち立て、また連作俳句さえ試みて、現実よりも純粋な主情の色と光とを描き出そうとしたのは、(略) ヨーロッパの印象派、それに学んで日本でも多彩な洋画の世界を創り出した、安井曾太郎や梅原龍三郎や佐伯祐三などの世界を知り、強く惹かれる心を持っていたからだ。あるいはまた、(略) 琳派の絵や工芸が秋桜子の好みに近い、それも、宗達、光悦、乾山と並べてみて、秋桜子の世界は光琳だろう。」
 掲出の句は、「佐伯祐三遺作展」と題する八句連作のうちの一句である。佐伯祐三は昭和三年にパリ郊外で客死している。ともすると、秋桜子の俳句は、「きれい寂」の「寂の本質の中に含む華麗さ」という面で鑑賞されがちだが、佐伯祐三らの「現実よりも純粋な主情の色と光」という面での鑑賞がより要求されてくるであろう。

(一四)

○ 初日さす松はむさし野にのこる松 (『蘆刈』)

 昭和十四年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)は、次のように続く。
「もう一つ、これは畫ではないが、利休の寂を逸脱して大名茶にしてしまったとして責められる利休門の高弟、古田織部、織部門の高弟で「きれい寂」の評判を取った小堀遠州などの世界である。「きれい寂」とは、寂の本質の中に含む華麗さを取り出して言うので、本来利休の侘数寄の中にも潜むものであるが、取り立てては小堀遠州の好みを指す。利休の侘数寄は、織部の大名数寄を経て、遠州で「きれい寂」に到達する。(略)織部好みの角鉢や角蓋物や、茶碗などを見て、これこそ「きれい寂」を創り出す基であり、これは秋桜子の目指す理想的芸境に近いのではないかと思う。」
 秋桜子の陶器趣味や茶道趣味は、その句を追っていくだけでも十分に察せられるのであるが、この掲出の句は陶器作家の富本憲吉の工房の裏の林の見事な赤松を想像しつつの一句という(藤田・「人と作品」)。この掲出句でも鮮明なように、秋桜子俳句の根底には、佐伯祐三らの油絵的な世界ではなく、極めて高雅・典麗な「きれい寂」に通ずる日本画的な世界であるということができよう。ここには、佐伯祐三的な世界の影はない。

(一五)

○ 陶窯(かま)が噴く火の暮れゆけば青葉木莵(あおばずく) (『古鏡』)

 昭和十六年作。当時、秋桜子は富本憲吉の陶房をよく訪れている。先に触れた「初日さす松はむさし野にのこる松」について、次のような自解をのこしている。「陶器工房の側に、高い赤松が立っていた。雑木林の中からただ一本空にのびているもので、武蔵野にのこる美しい松の中でも、これほどのものはすくないであろうと思われた。先生は仕事に疲れると、いつも梢を眺めておられた」(藤田・秋桜子の秀句)。この掲出の句もその陶房でのものであろう。この頃は、同時に、中西悟堂の「日本野鳥の会」の探鳥行に同行して、野鳥の句を多く残している。この作の前年の昭和十五年には、いわる、京大俳句弾圧事件が起こり、第二次世界大戦の勃発の前夜のような状態であった。当時の秋桜子の陶窯や野鳥の句などが多くなるのも、そのような当時の思想弾圧などの社会的風潮と大きく関係しているのかも知れない。