月曜日, 12月 16, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十六・その十七~その二十・二十一)

 (その十六) 「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」と(その十七)「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」











「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」



 



「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句は、大正十一年(一九二二)、石鼎、三十六歳(数え年、三十七歳)時の作で、「奈良にて眼前即景 九句」との前書のある中の一句である。

 人の前に産み落とされし鹿の子かな (「奈良にて眼前即景 九句」)

 ふるひ落つ一片の葉に鹿生る (同上)

 生るゝや親にねぶられ芝鹿の子 (同上)

 ※神の瞳(め)と我瞳あそべる鹿の子かな (同上)

 日と苔のみどりに育ち鹿の子かな (同上)

 鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて (同上)

 鹿の子よ羊朶踏みはづすことなかれ (同上)

 雨の日の親をはなれぬ子鹿かな (同上)

 雨に立つ親をかぎたる子鹿かな (同上)

 これらの九句は、「奈良・春日大社」の、今に「奈良公園」の一角の「鹿苑(ろくえん)」での句なのであろう。

「奈良・春日大社」の祭神の「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」は、鹿島神宮(茨城県)から「神鹿(しんろく)」に乗ってやってきたという、その伝説に由来する「神の使いとして、神社で飼っておく鹿」なのである。

ここで、歳時記では、「鹿(しか)」は「秋(三秋)」、「鹿の子(かのこ・しかのこ)」は「夏(三夏)」の季語となる。


(芭蕉の「鹿(しか)」の句)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿(しか) 芭蕉「笈日記」

女(め)をと鹿(じか)や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」

武蔵野や一寸ほどな鹿(しか)の声 芭蕉「俳諧当世男」

ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま) 芭蕉「五十四郡」

(芭蕉の「鹿(か)の子」の句)

灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉 (芭蕉「笈の小文」)

 

「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子なる 1922・句 1955・4板 」の「解説」(神林良吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句の「解説」は、「神林良吉(海上雅臣)」の、「『「神の瞳(め)とわが瞳(め)あそべる」といふ叙法に、いかにも愛らしい鹿の子のありさまがほうふつと浮かんでくる」というのだが、それはそれとして、そこに、例えば、芭蕉の、「ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま)」の句や、「灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉」の句などを背景にしての、俳人「原石鼎」の「眼前即景」の句と解すると、なお一層、この句の凄さが伝わって来るであろう。


「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」





 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句は、大正六年(一九一七)、石鼎、三十一歳の時の句で、「高浜虚子から『俳句では食べられないから雑誌社へでも世話して上げようと言われ、憤慨してホトトギス社を退社する。東京日々新聞に迎えられ俳句選者として嘱託入社する』(『原石鼎全句集(沖積社刊)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」という、独身時代の句ということになる。

 この句の前後の句は、次のとおりである。

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 当時、「ホトトギス」誌上において、芥川龍之介(俳号=我鬼)が、当時の「ホトトギス」系の俳人(子規・虚子・石鼎)の「写生」の傾向などについての論考を寄稿している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-08

「写生論(芥川龍之介)」(大正七年=一九一八)

「ホトトギス」(二八一号/大正九年=一九二〇・一月号)

 そこで、石鼎の句は、「客観(「自然・もの」を有りのまま叙する)写生=子規」でもなく、「主観(「自然・もの」に対峙する「作句者の感興」を叙する)写生=虚子」、その中庸の、「印象(「自然・もの」を眼前にしての「作句者の印象」を叙する)写生=石鼎」と、「脱『子規』・脱『虚子」」の、その中庸の「石鼎俳句」の世界を認知したということになる。

 これらのことを、上記の三句に照らすと、

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 この一句目の「土恋ふ」、二句目の「押しおよぎけり」、そして、三句目の「生死(せうじ)もわかず」というのは、「子規」でねなく「虚子」でもなく、「石鼎」その人の、「眼前即景」の、その「客体(「四葩」・「大鯉」「梅天」)」から受ける、その「印象」そのものということになる。

 ここで、掲出の、二句目の、

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 この「大鯉」が、「押しおよぎけり」となると、当時(大正六年=一九一七、三十一歳)、独身で、虚子から「ホトトギス」社の退社勧告を受けて、虚子と訣別するような環境下、「石鼎」というイメージではなく、一刀両断に退社勧告を告げる、当時の「虚子」(四十三歳)の、虚子特有のイメージでなくもない。

 当時の「石鼎」について、「(石鼎は)独身だから費用はかからぬが、何分薄給で好きな煙草を吸うこともできぬ。ついにはこぼれ煙草のまじった袂くそを煙管につめて吸うまでに至った。そこで思いあまった揚句、増給を願い出たところ、虚子の容れるところとならず、発行所を去る結果になった。」(水原秋櫻子『高浜虚子』)と(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」)、どうにも、この「大鯉」のイメージとはかけ離れているのである。



 



「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」の「解説」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句の「解説」は棟方志功のものであるが、この大鯉のイメージは、上田秋成の『雨月物語』の「夢応鯉魚」のイメージでとらえている。そして、それは、志功が、昭和十五年(一九四〇、三十七歳)時の「保田與重郎の啓示により制作した秋成の『雨月物語』からの『夢応鯉魚版画柵』」(『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「棟方志功略年譜」)からの、アレンジしたような一図ということになる。



 






『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」(各図、31.8×31.8㎝)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/52

 志功の、この「夢応鯉魚版画柵」は、秋成の、その怪談・怪奇小説の一つの「夢応の鯉魚」を、二十一図の版画に制作したものである。この秋成の「夢応の鯉魚」については、下記アドレスのものなどが参考となる。

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

一 題の柵(第一図) → 

一 名の柵(第二図)

一 扉の柵(第三図)

一 三井寺(第四図・略) → この小説は、「三井寺に興義(こうぎ)といふ僧あ

りけり。絵に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。」からスタートとして、その「三寺寺」が第一図(略)である。

一 興義(第五図・略) → 「三井寺の僧・興義」が、その第二図(略)である。

一 鯉賊(第六図)

一 死床(第七図) → 「ひととせ病にかかりて、七日を経てたちまちに眼を閉ぢ息絶てむなしくなりぬ。」









『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「鯉賊(第三図)=右図」と「死床(第四図)=左図」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/53

一 助殿(すけどの)の館(第八図・略)

一 酒盛(第九図・略) → 「「誰にもあれ一人、檀家の平の助の殿の館(みたち)に詣(まゐり)て告(まうさん)は、『法師こそ不思議に生きはべれ。君今酒を酌み鮮(あざらけ)き鱠(なます)をつくらしめたまふ。しばらく宴を罷(やめ)て寺に詣でさせたまへ。稀有の物がたり聞こえまいらせん。』とて、彼の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露たがはじ。」

一 夢遊(第十図・略) → 「今思へば愚かなる夢ごゞろなりし。されども人の水に浮かぶは、魚のこゝろよきにはしかず。」

一 大魚(第十一図・略) →「傍にひとつの大魚(まな)ありていふ。」

一 御河伯(おんかっぱ・第十二図) → 「前の大魚(まな)に胯がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくづ)を率ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。」











『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「御河伯(おんかっぱ・第九図)」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/55

一 濡裳(第十三図・略)

一 汀(第十四図・略)

一 膳所城(第十五図・略)

一 瀬田橋(第十六図・略)

一 哭叫(なきさけぶ)の図(第十七図) → 『旁等(かたがたら)は興義をわすれたまふか。宥(ゆるさ)せたまへ。寺にかへさせたまへ』

 と連(しきり)に叫びぬれど、人々しらぬ形にもてなして、ただ手を拍(うつ)て喜びたまふ。鱠手(かしはびと)なるものまづ我が両眼を左手の指にてつよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀をとりて、俎盤(まないた)にのぼし既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、

 『仏弟子を害する例ためしやある。我を助けよ助けよ』

と哭(なき)叫びぬれど、聞き入れず。終(つ)ひに切らるゝとおぼえて夢醒めたり。」







 






棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)所収「夢応鯉魚版画柵」の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」→ A図(「拓刷り) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/57

(A図の参考)





 




『雨月物語』 より「夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)」挿絵図(上記の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」に対応する) → B図(「木版印刷図書の挿絵」)

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

『雨月物語』(「国書データベース」)

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014740/31?ln=ja

一 神妙の柵(第十八図・略)くはんが

一 威光の柵(第十九図・略)

一 目次の柵(第二十図)

一 裏の椿(第二十一図・略)








 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」→ C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/49


(参考=説明)

A図(「拓刷り」) → 「拓本刷り板画(版画)」

[「湿拓の手法で、吸湿性のある紙を、写す板画の上にひろげ、水を刷いで密着させ、ブラシや綿でおさえて刻線に紙を押しこみ、乾いたら「たんほ(たんぽ=打包)」に墨汁をつけて叩くと、黒地白ぬきの文字や文様が転写できる。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」」(「自作に想う」)の「脚注」)

「拓本刷りにしたのは、文字が非常に多いのと、同じことばのようなひびきがつながるので、退屈なものになりやすい。普通の板画は左字に彫るのですが、それでは退屈になりやすいから、右字にしようと思ったのです。普通に書くように彫るわけです。それで拓本刷りにしました。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」(「自作に想う」)の「本文(抜粋」)

拓刷り(拓摺り)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e6%8b%93%e5%88%b7%e3%82%8a/

たんぽ(打包)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e3%81%9f%e3%82%93%e3%81%bd/       ]


B図(「木版印刷図書の挿絵」)

[ 『雨月物語』(「国書データベース」)

「記載書名

1.雨月物語(うげつものがたり)(Ugetsumonogatari),内・外・序首・序中・尾

2.雨月(うげつ)(Ugetsu),柱

巻数 巻之一~五

刊写 刊

書写/出版事項 安永5

 〈京都〉梅村/判兵衛

 〈大坂〉野村/長兵衛

形態 22.6×16.0cm   」


「木版印刷の仕組み・歴史・印刷史

https://amix-design.com/asoboad/blog-1234-39587.html   ]


C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

[ 「板画とわたくし (棟方志功)」

「版画に想う(略) / 新版画説(略) / 版画道(略) / 肉筆と板画(略) / 板画道(略) / 版血脈(板血脈) (略) / 点・一線(略) /  板画真義(略) / 板画とわたし(略) / /板画美(略) / 板経(略) / 板画について はじめに(略) 一 板画という字から(略) 二 板画と肉筆画(略) 四 板画の美しさ(略) 四 刷りということ(略) 五 黒と白の美しさ(略)

六 裏彩色(うらさいしき)について(抜粋)

(前略) 白と黒の板画は、あらゆる微妙な韻と、韻のもつれと、深い静けさとを含み、そしてその板面から生ずる自然の濃淡がすべての美しさを余さない幽玄な仕事をあらわすのでありますが、この微妙な板画の「姿」を、別なあり方で表現したいと思ってやってみたのが、「裏彩色板画」であります。

 これは刷った墨の板画の裏から、手彩色(てざいしき)をするのです。このばあい、あまり色彩を数多くつけては。かえって板画をだめにしてしまうことがあります。わたくしは、たいていは、代赭(だいしゃ)と紺の二色を使っています。(後略)

七 国際的な位置(略) ](『棟方志功全集1/物語の柵』所収「板画とわたくし」(抜粋) 』」)


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その七」)」



 








「髪香(かみか)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (見るがご)ときに、その櫛のみこたびは濱

  の白砂(しらさご)に

  半埋る

  を見い

  でむとは

  われは湿りて

  やゝ黒ずみしその櫛を手に受

  けしまゝ茫然たりき(は)

  かくもわれとは縁深く、なれ

  の肉親の一部かと

  思はれしその櫛

  に、あはれなれ

  の

  髪の香さへ嗅ぐ   ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



 








「藻草の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (嗅ぐ)を得で藻草(もぐさ)の香のみ蔽

  はむとは

  亡ぶには七日を待

  た/ず、/

  さ/れ/ど/そ/は/ま/だ

  よし

  愛うすくして罪深から

  む輩(やから)には亡ぶに速き忘れ

  あり          ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十八・その十九)

(その十八) 「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」と(その十九)「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」












「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」




「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この石鼎の句は、昭和十一年(一九三六、五十歳)時の作である。

  夏川のかみに本家しもに分家かな

  夏川のこの上(かみ)に父いましけり

  夏川の大土手を越えてもどりけり

  鮎笛をおろして山日さかんかな

  水に棲んでうす桃色や鮎の口

  この川に鮎は居るかと尋ねけり

  浅みより水脈(みを)へ連るゝ鮎もあり

  ※鮎の背に一抹の朱ありしごとし

 石鼎の故郷は、島根の「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」である。これは、この「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」を流れる、「神戸川(かんどがわ)」(『出雲国風土記』に出てくる「神門川(かむどのがわ)」) の、その一連の「鮎」の句ということになろう。





 







(立久恵峡の霊光寺付近 浮嵐橋を渡ってすぐの場所にあった)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000

[「青々とつづく山あり鮎の里」(昭和4年)

 鹿火屋の創刊で多くを門徒を迎え絶頂にあった石鼎も、母に会いに度々故郷へ帰っていたようです。父との確執で勘当同然となっていた石鼎にとって、いつも暖かく見守ってくれた母は大きな心の支えであったことでしょう。母と、母との思い出がつまった故郷への想いは今も数々の句に見ることができます。]

 この「神戸川」の上流の「立久恵峡の霊光寺付近」の「鮎」の句は、昭和四年(一九二九、四十三歳)時の作で、その「年譜」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収)の、「二月、コウ子と同伴して帰郷、母を見舞い、稲佐の浜に遊ぶ」の頃の作なのであろう。

 上記の、この句の鑑賞文の「父との確執、母への思慕」などの、当時の石鼎の置かれている、その背景が、これらの上記の一連の「鮎の句」に潜んでいる句と解して差し支えなかろう。

「十八 鮎の背に一抹の朱のそのありしごとし 1936・句 1955・5板 」の「解説」(山本健吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この句の解説は、「山本健吉」であるが、その句は、「鮎の背(せ)に(五音)/一沫(いちまつ)の朱(しゅ)・の(八音)/ありし(「三音」=字足らず)の「破調」の句形で、「※鮎の背(せ)に(五音)/一抹(いちまつ)の朱(あか)(七音)/ありしごとし(「六音」=字余り)の、「朱(あか)・ありし」の「あ」、「ありし・ごとし」の「し」と「韻」を踏んでいる、技巧的な句形とは異なっている。

 どちらの句形が、石鼎の最終の句形なのかどうかは、定かではないが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、「※鮎の背に一抹の朱ありしごとし」で、この句形が最終の句形と解すべきなのかも知れない。

 しかし、「ありしごとし」の「ごとし」(比喩的な断定)ではなく、「ありし」(「発句は必ず言ひ切るべし」=「『八雲御抄』・順徳院」の断定の切字)の、さらに「字足らず」の、「言いおほせて何かある」(「『去来抄』・芭蕉」)の余韻の響きを有している、山本健吉の「解説」にある句形の方が、例えば、『去来抄』の松尾芭蕉などが推敲すると、この句形のようにして「治定」するような趣である。

 その上で、山本健吉の、「『あるこどし』ではないのだから、いつそうはかない表現である」という、この「落鮎」の一句の鑑賞としては、首肯できる。


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」



 







十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/23







 この句は、大正三年(一九一四、二十八歳)時の作である。その前後の句は次のとおりである。

  行春の浦に烏のこだまかな

  ※盤石をぬく燈台や夏近し

  この曲浦(うらわ)百家一長の幟かな

 この掲出の、二句目の上五の「盤石(ばんじゃく)」とは、「大きい岩。きわめて堅固な岩々」の意で、中七の「ぬく灯台や」の「ぬく」は、「抜(ぬ)く」(「中身のあるものから抜き取ること」) というよりも、「貫(ぬ・つらぬ)く」(「中身のあるものの中を通すこと」)の意であろう。

 この石鼎の、「盤石をぬく燈台や」の、この、上五から中七にかけての「盤石を・ぬく」の、石鼎の用例(その発見)は、これは、まさしく、当時、二十八歳時の、「俳人・石鼎」の「写生眼」(その「眼前即景」を、一句に仕立てる、その表現の「措辞の巧みさ(言葉の絶妙な用例の発見))」の、その典型を示すものと解して差し支えなかろう。



 









(「出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)」・「海岸沿いには柱状の奇岩が続く」)

https://izumo-kankou.gr.jp/677


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」の「解説」(「京極杜藻」)

 この「解説」(「京極杜藻」)の、「この『ぬく』は岩を貫いて立つてゐる、という意味で、作者の強い主観を表すに相応しい力のある言葉である。この句は出雲日御崎でできたものだが、日の御崎は島根半島の西端で、燈台はその岩の上に立つてゐる。」の評は、そのものずばりという感を大にする。

 この句は、「出雲市駅」前にも、その石碑が建っている。この句が制作された、大正三年(一九一四、二十八歳)の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』所収)には、「一月、『ホトトギス』誌上で、高浜虚子が『大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎』と記す」とある。

 颯爽と、「前田普羅と原石鼎」とが、俳句界に、その雄姿をデビューした、その「石鼎」

の意気込みが感じられる一句である。



 



(出雲市駅 JRの夜行バスから降りると、すぐ目の前に現れる石碑)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その八」)」



 








鷲翼(しゅうよく)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ なれ失ひし悲しみも渡(わたる)の神の

  贄(にへ)となり波にのまれ束の間ぞ

  風、海の衣より起り、波、

  空を行く折しもあれ、忽然と波

  間に消えしなれの顔、その白き

  幻も塒(ねぐら)におりし鳩にはあらで、

  明日(あした)また浮びは出でし

  さるにあはれわがこころにはたゞ

  黒き血に燃え猛る鷲の翼ぞ

  擴ごりたり

  やがてそは贄をのみて跡をも

  見ざるかの暗き走水(はしりみづ)の浪にも  ]

 


 

 








「身胸(みむね)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ まして翔けさりぬ・・・・

  あゝ父の愛喪ひてなほ愛を

  信じゐたりし幼き頃ぞ

  なつかしき

 望みも果てし暗き

 築地(ついぢ)のわが胸にふと

 も香る梅の花、

 そはわがをば

 倭の御衣裳(みそも)

 に移りし肌の香ぞ

 あゝ倭われかつてお身の胸に    ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十・その二十一)

(その二十) 「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」と(その二十一)「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」

「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」





 







「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この掲出の句は、大正四年(一九一五、二十九歳)時の作である。その時の一連の「目高」の句は、次のとおりである。

  花合歓(ねむ)に目高太るや水深し(「自貧居句会席上」)

  谷水に太る目高のありにけり

  蓮蔭に目高の鰭や朝日さす

  ※緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎

  蓮の葉を動かす風や目高散る

  やゝ深く目高に交る小鮒かな

 この年の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』)には、当時の「石鼎」について、次のとおり記している。

[ 懐中無一文になり上京する。夏、ホトトギス社に入社。九月、高浜虚子は「ホトトギス」に連載していた「進むべき俳句の道」の中で石鼎の懇切な批評を行う。大須賀乙字の『碧悟桐句集を手伝う。』

 ここで、改めて、掲出の志功の「板画(版画)」を見ると、この「緋目高」は、当時の、上京時の、「ホトトギス」入社時の頃の、「石鼎」自画像ということになろう。そして、この「蓮の莖」は、当時の、「高浜虚子」が率いる、その「総合誌(俳誌・ホトトギス))」と解すると、その全貌が見えてくる。






「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」の「解説」(「原石鼎」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この句の「解説」は、「石鼎」自身のものであるが、これは、もとより、昭和三十年(一九五五)時の、「棟方志功は一年の歳時に添った石鼎の三十六句を板画にし、『青天抄板画集』を公刊した時の、その時の「自解」ではない。

 「石鼎」が亡くなったのは、昭和二十六年(一九五一、六十五歳)」で、この「石鼎」自身の「自解」は、「石鼎」の生前中の、この句が制作された、「大正四年(一九一五、二十九歳)」時の作に、近接したものと解して差し支えなかろう。


「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」



 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25

 この石鼎の句は、昭和九年(一九三四、四十八歳)時の作で、その前後の句は、次のとおりである。

  船虫の甲ひからせぬ月の巌

  ※淋しさは船一つ居る土用浪

  たそがれを降り出し雨や土用浪

 この前年の「昭和八年(一九三三、四十七歳)」時の、『原石鼎全句集(沖積舎)』の「年譜」には。「一月、勅題『朝の海』に因む筝曲のための作詞依頼を宮城道雄から受け、作詞する。これがラジオで演奏される、とある。」とある。

 この「朝(あした)の海」(原石鼎・作詞)は、次のものである。


[ 朝(あした)の海  石鼎       

 あれすさぶ日のありとも

 波治(おさ)まれる朝の海に如(し)くはなし

 春にあれ 夏にしあれ そは永遠(とことは)に

 秋はさらなり 冬はさらでも 

 日の心 月のこころと ときはかきはに

 八十島(やそしま)かけて 陸(くが)をまもれる  ]




 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板 」(「裏彩色図)→B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


 原石鼎にとって、故郷の海は、出雲の海なのであろうが、棟方志功が、石鼎の「出雲の海」を題材にしたものは見当たらない。唯一、石鼎の没後に刊行された、この『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板)』所収の「板画(A図=白黒図)」と、その「裏彩色板画(B図)」

 などが、棟方志功の「出雲の海」と解して良かろう。

「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」の「解説」(「原コウ子」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25


 この句の「解説」は、「原コウ子」であるが、昭和九年(一九三四、四十八歳)当時は、石鼎の母危篤の報などに接し、「原コウ子」同伴で、たびたび、石鼎は帰郷している。

 この「出雲の海」に連なる、志功の作品の一つに、志功が戦時中に疎開した、富山県西礪波郡福光町(現南砺市)の「立山連峰を望む海岸風景」(「倭絵」=日本画)は、今に遺されている。



 









「立山連峰を望む海岸風景」 1950年頃 NHK富山放送局(南砺市立福光美術館寄託)

https://www.aomori-museum.jp/schedule/11835/

 これは、志功が「倭絵」と称する「日本画」(「板画」に比すると「肉筆画」)である。




 








「日立太平洋図」1972年(昭和47)/油絵(「肉筆画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/101

 これは、志功の、晩年(六十九歳時)の、「油絵(油彩)=肉筆画」の、「日立太平洋図」である。

 志功は、還暦を迎えた、昭和三十八年(一九六三、六十三歳)時に、「東海道棟方板画」の制作に取り掛かり、爾来、「西海道(九州)棟方板画」、「南海道(四国)棟方板画」、「奥海道(関東・東北=奥の細道)棟方板画」、「羽海道(奥羽・羽越=奥の細道)棟方板画」、そして、「アメリカ・カナダ・インド旅行」と、その晩年は、「棟方行脚」に明け暮れる。

 これらの全貌は、『棟方志功全集11/海道の柵』に収録されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/8

 ここで、原石鼎の、冒頭の句の、「淋しさは船一つ居る土用波」の句形は、石鼎自身の句形なのだが、志功は、この上五の「淋しさは」を「寂しさ」の句形にアレンジしている。これは、石鼎の「淋しさ」が、「人間関係における孤独感や人々とのつながりが希薄であることを表す用例=特に、師の「高浜虚子との関係など」と解すると、この棟方志功の、この「寂しさは船一つ居る土用波」の「寂しさ」は、「空間(日本海)や時間(夏の「土用浪」)が虚しく感じられる状態を指す」という、棟方志功の、この句に対する「深い詠み」の一例ということになろう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その九」)」



 









「身裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ 抱かるる思ひに酔ひてお身の

  御衣裳に鎧せり

  わが身裏(みうら)に溢れし力はわれ

  のものならで

  母のごとく温かき

  お身の愛

  にてありしなり

  さるにわれらが力に優る熊(くま)

  曽(そ)建(たける)

  を討ちてより、お身の

  御衣裳をわが妹

  の肌をたのしむ夫(つま)の

  心に感じ         ]  







 







「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵一」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/28

[ けむことをすゝめしもなれなな

  りき

  げに愛するものは勇

  気

  こそ得

  るなれ           ]

 


 










「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵二」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/29

[ わが

  劔もて

  葦を薙ぎゆくうしろよりそ

  を搔き集め、かの袋にあ

  りし火打ちもて火を放

  ちしもなれなりき       ]

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