土曜日, 12月 14, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その一~その十)

 (その一)『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板)/ 表紙・扉絵(口絵)・目次』と

「一 大いなる初日据りぬ昇るなり 1942・句 1956・1板」



 








『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板/出版者・宝文館/出版年月日・1956)』表紙(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136



 








『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板/出版者・宝文館/出版年月日・1956)』扉絵

(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/4

[目次

1. 大いなる初日据りぬ昇るなり 1942・句 1956・1板

2. 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板

3. この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板

4. もろもろの木に降る春の霙かな 1934・句 1956・1板

5. 春暁や神かと渡る蹄音 1931・句 1956・2板

6. 囀りやあはれなるほど喉ふくれ 1921・句 1956・2板

7. はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板

8. 母の雛最も古りて清くあり 1922・句 1956・3板

9. ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板

10. 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板

11. うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板

12. ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板

13. 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板

14. 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板

15. 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板

16. 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子なる 1922・句 1955・4板

17. 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板

18. 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板

19. 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板

20. 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板

21. 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板

22. 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板

23. とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句

24. 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板

25. 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板

26. 首のべて日を見る雁や蘆の中 1916・句 1955・9板

27. ずんずんと日に秋深むおもひかな 1941・句 1955・9板

28. 秋風や模様のちがふ皿二つ 1914・句 1955・10板

29. 淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 1913・句 1955・10板

30. 梟淋し人の如くに瞑るとき 1919・句 1955・10板

31. 絣着ていつまで老いん破芭蕉 1917・句 1955.11板

32. 磯鷲はかならず巖にとまりけり 1913・句 1955・11板

33. 夕鐘にさめてはねむる枯木かな 1922・句 1955・12板

34. 枯木折つて顔を蔽ふて月に泣かむ 1926・句 1955・12板

35. 雲に来て見事な鳥のだまりいる 1934・句 1955・1板

青天抄板画柵について 神林良吉    ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)


「一 大いなる初日据りぬ昇るなり 1942・句 1956・1板」



 








A図(『青天抄版画巻・宝文館刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/5

 











B図「青天抄板画柵」(『棟方志功全集6/詩歌の柵2/講談社刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

[ 「青天抄板画柵」

 大正・昭和にわたり現代俳句史の上に、美しい伝説的光芒を残した原石鼎の句集より、春夏秋冬にわたる三十五句を選び、板画にした作品である。

 「青天抄板画柵」という題名は、作品中「青天や白き五弁の梨の花」の原石鼎の句からとられた。

 この作品集は「青天抄板画巻」と題されて昭和三十一年八月宝文館より刊行された。

 棟方は、この作品集の後記に・・・栖霞品、猫の足、胸形変についでこの青天抄をつくりました。わたくしはどの句板巻でもそのやうにその人の句の美しさに参ってしまいます。そうしてそれを板画にするのです。わたくしの板画は一生満足の行く板画に成れないで行くということが身上であると思いますから、何巻、何柵、板画いたしましても真当のところまで、進めてできる板画はないと思います。・・・と記している。 ](『棟方志功全集6/詩歌の柵2/講談社刊』)

 上記のA図は、『青天抄版画巻』所収のもの、そして、B図は、「青天抄板画柵」の色刷りのものである。

 また、この石鼎の句については、『青天抄版画巻』では、次のように「原コウ子」が解説している。







https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/5


「一 大いなる初日据りぬ昇るなり 1942・句 1956・1板」の「解説」(「原コウ子」)

(「国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/5


[原 コウ子(はら こうこ)、1896年1月15日 - 1988年6月25日)は、俳人。本名・コウ。旧姓・志賀。

  大阪府貝塚町(現貝塚市)出身。泉南高等女学校(現大阪府立和泉高等学校)卒。1916年より「ホトトギス」投句。原石鼎選の入門欄だった縁で1918年に石鼎と結婚。1951年、石鼎の死没により「鹿火屋」主宰を継承。1974年、高齢のため養子の原裕に同主宰を譲る。句集に『昼顔』『胡卉』『胡色』、著書に『石鼎とともに』がある。 ](「ウィキペディア」)


(参考)

https://masakokusa.exblog.jp/10030263/

[大いなる初日据りぬのぼるなり    原 石鼎

 元旦の日の出のめでたさは、「大いなる初日据りぬ」、もうそれだけで十分である。だが、そこでとどまらないのが石鼎独特の艶やかさに思われる。いったん水平線上に深く息をついで、「のぼるなり」でさらに引き伸ばして読ませるあたりさすがに太陽を生きものの如くゆらめかしてダイナミックである。

 昭和18年1月、掲句の他、<やや高く見えてまどかの初日かな>、<不平消して永久に明るし初日影>の三句を発表して以降、四年間俳句はない。戦争を憂慮しての「句断ち」であったという。やがて、戦争と病苦を乗り越えて、昭和23年には句作を復活した。

 <屠蘇雑煮二日も妻と二人かな>、<昼は日に夜は月星に松の内> ](「草深昌子」稿)


(補記) この「大いなる初日据りぬのぼるなり」(昭和十八年作)は、戦時中の石鼎(五十七歳)の句で、棟方志功も、昭和二十年(一九四五・四十二歳当時)に、戦火を逃れて、富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に疎開する。そこで、「ホトトギスの石鼎・普羅」時代を現出させた「前田普羅」との遭遇があった。そこから、棟方志功は、その昭和三十一年に刊行された『青天抄板画巻」の後記に、「栖霞品、猫の足、胸形変についでこの青天抄をつくりました」と、その第一作「栖霞品(「前田普羅(俳句)・志功(板画))」、そして、それに続く、「猫の足」(「永田耕衣(俳句)・志功(板画)」・「胸形変」(「石田波郷(俳句)」・志功(「板画)」)に続く、それらの総決算的なものが、この、昭和三十一年(一九五六)に刊行された『青天抄板画巻』(上掲「目次」の、その「青天抄板画柵について 神林良吉」の、「神林良吉編」=「神林良吉・海上雅臣」編)こそ、これらの「俳句(「前田普羅・永田耕衣・石田波郷・原石鼎)と板画(「棟方志功」)との合作作品」を産んだ、その中心人物の一人なのであろう。

 この「神林良吉・海上雅臣」と「棟方志功」との、この遭遇(出会い・邂逅)というのは、これらの「俳句(俳諧)」と「絵画(西洋画・日本画)・板画(「版画)」・俳画(「俳句」と「合作」の「草画=即興画」)との、この「合作」(「異質にものの遭遇から生ずるもの第三の世界」)というという新たなる世界(「第三の世界」)を暗示しているように思われる。


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界演(その二・その三)

(その二) 「二 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板」と(その三)「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」

(その二)











「二 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板」

 (『青天抄版画巻・宝文館刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/6







「二 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板」の「解説」(「神林良吉」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/6


[ 神林良吉(「海上雅臣(うながみまさおみ)」)

https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E9%9B%85%E8%87%A3_200000000227221/biography/


 1931年、東京に生まれる。ウナックトウキョウ主宰、国際美術評論家連盟会員(2013年退会)。同時代の作家を対象として批評活動を行い、同時に展覧会開催や作品集刊行等、紹介・普及にも積極的に取り組んでいる。1949年、18歳で棟方志功(当時47歳)の版画を買ったのを縁に、ヴェニス・ビエンナーレ国際大賞を得るまで7年間、棟方志功の画業を整理し、4冊の本をまとめる。1966年、壹番館画廊開設(~1971)。1971年陶芸界の異才八木一夫、トーマス・バイルレ等、伝統と革新の批評テーマを確立。特筆すべきは井上有一に関する一連の仕事で、カタログレゾネ『井上有一全書業』全3巻を編集刊行。2002年、行動的美術評論家の範を示したとして、日本現代芸術振興賞を受賞。17~25歳の間は神林良吉の名で活動した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)・・・『現代美術茶話』より・・・

(海上雅臣)

 一九三一生れ。美術評論家。昭和二十四年~三十七年の間、神林良吉の筆名で句作。石田波郷「現代俳句」編集を手伝う。著者『棟方志功』『パイルレ…都市集合エロス』『井上有一絶筆行』『やきものの現代』他・・・『原石鼎全句集『栞』』所収「鼎談(永田耕衣・小島信夫・海上雅臣)」)  ]





 





「昭和26石鼎庵で(左から)堀越昇(現・原硲)・原コウ子・原石鼎・神林良吉(現・海上良吉)」

(『原石鼎全句集』所収「年譜(昭和26年(1951)石鼎65歳)」) 

 この右端の人物が、「神林良吉(「現・海上雅臣」で、当時、二十歳代ということになる。

この頃に、「石鼎(「鹿火屋」初代主宰)・コウ子(「鹿火屋」二代主宰)・堀越昇(現・原硲=「鹿火屋」三代主宰)と親交があって、俳誌「鹿火屋」の編集事務などに携わっていたのかも知れない(『原石鼎全句集』所収「あとがき(原裕)」で「海上氏と私は、十七・八歳ころ石鼎最後の謦咳に接している。その頃氏は神林良吉、私は堀越昇の本名であった」と記されている。)

 なお、原裕は、石鼎の死後、コウ子の養子となり、原家を継承している。

[ 原石鼎(はらせきてい/(1886―1951)

俳人。島根県塩冶(えんや)村(現出雲(いずも)市)に生まれる。本名鼎(かなえ)。中学時代より歌や俳句をつくり、家業の医を継ごうと京都医学専門学校に学んだが中退して上京し、高浜虚子(きょし)を頼って新聞記者になろうとしたが帰郷を勧められ、吉野山中で兄の医業を手伝う。吉野の自然、人情を詠んだ豪華で強い調子の句が虚子に認められ、大正初頭の『ホトトギス』を飾った。いったん帰郷したが流浪の生活を送り1915年(大正4)上京。ホトトギス社に入り、21年から『鹿火屋(かびや)』を発行主宰。23年ごろから健康を害して神奈川県二宮(にのみや)に隠棲(いんせい)した。句集は『花影(かえい)』(1937)、『定本石鼎句集』(1968)など。(伊澤元美)


 花影(かえい)婆娑(ばさ)と踏むべくありぬ岨(そば)の月

 淋(さび)しさにまた銅鑼(どら)打つや鹿火屋守


『『現代日本文学大系95 現代句集』(1973・筑摩書房)』▽『小室善弘著『俳人原石鼎』(1973・明治書院)』  ](「(日本大百科全書(ニッポニカ)」)

(参考)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000

[「一枝の椿を見むと故郷に」(昭和10年)

昭和10年3月、母危篤の知らせを受けた石鼎が島根に戻り詠んだ句です。





 




(今も残されている石鼎の生家)

(椿の根元には黄色いツワブキも咲いている)  ](「Sekihan Izumo online shop」)


(その三)「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」

 












「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

 






「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」の「解説」(「棟方志功」)

https://river3island.livedoor.blog/archives/22196012.html


[ 「青天観涌(石田波郷)

 青天抄板画巻を見ると、石鼎翁の代表作がよく選ばれているが、雑誌や句集の活字でよむのとちがつた、溌溂たる精気が加わつている。句そのものの精気と別の世界の光にてらされた精気である。私なども他人の画いた絵に賛の句を書かされることがあるが、絵とマッチし、絵を生かし、自分の句にも今までの自分以上のものを出してゆくなどという賛はできたためしがない。

 棟方さんの「青天抄板画柵」は石鼎俳句の真髄を美事にひき出して、相共に一幅の板画としての噴出をなしとげている。石鼎俳句の研究者は板画巻の興味と別に、新しい貴重な文献としてもこの書を蔵さなければならないであろう。

 近頃は何でも大作多作大流行の世の中であるが、俳句はよい句を少し見るのが一番愉しい。

 そういう意味でも「青天抄板画巻」は愉しい「句集」でもある。](「悠々炊事」)

[ 棟方志功(むなかたしこう)/(1903―1975)

版画家。明治36年9月5日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。1932年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。1937年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌1956年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、1964年度朝日文化賞のほか、1970年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50年9月13日東京で没。木版画の代表作は『大和(やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしゃか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1974年鎌倉市に棟方板画美術館(2010年閉館)、1975年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。(小倉忠夫)


『『棟方志功全集』全12巻(1977~1979・講談社)』▽『富永惣一解説『現代日本の美術12 棟方志功』(1975・集英社)』▽『海上雅臣著『棟方志功』(保育社・カラーブックス)』(「(日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「板画の道」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/129

[「板画の道」

目次

自作に想う/p3

万朶譜/p6

大和し美わし/p8

東北鬼門譜/p15

華厳譜/p19

空海のたたえ/p23

観音経/p25

善知鳥/p27

十大弟子/p30

門舞神人頌/p34

鐘溪頌/p36

女人観世音/p37

運命頌/p39

歓喜頌/p43

耶蘇十二使徒/p47

湧然する女者達々/p50

四神板経/p53

炫火頌/p56

板画巻物について/p58

華狩頌/p62

青森頌/p64

柳緑花紅/p66

谷崎歌々板画柵/p70

板画に想う

板経/p74

板血脈/p76

板画道/p77

板画美/p82

点・一線/p85

板頂聞/p89

東洲斉写楽/p97

鳥井清長/p102

喜多川歌磨/p106

小林清親/p113

世持橋及び観蓮橋の拓摺/p117

板画宋槧三世相と板画戎大黒/p121

胸中花/p126

板画とわたくし

板画への径々/p130

板画とわたくし/p142

絵とわたくしと板画/p152

南歓北喜/p159

鯉雨書斉の茶座/p163

求道の記(妙執着)/p170

無情尽/p179

玫瑰の花翳/p182

大蛇韻噺/p189

日本美わし/p195

憑犬/p199

姉小路のその女/p202

仏等然/p206

朴栃翳韻/p209

青天微笑/p211

大拙先生と宗悦先生と銅鑼/p217

棟方志功小伝 神林良吉/p221

板画の道              ]



 






http://www.unac.co.jp/nhk-kouza/nhkkouza_munakata.html


 上記の左側の写真の二人は、「右(棟方志功=七十歳)・左(海上雅臣=四十二歳)」である。右側は、海上雅臣著の一つの『棟方志功』(「保育社刊から―ブックス1977版」)のものである。

 神林良吉(「梅上雅臣」)と棟方志功との出会いは、昭和二十四年(一九四九)、良吉(「雅臣」)が十八歳当時に、当時、四十八歳の、志功の板画を購入したことからスタートとしているようである。

http://www.unac.co.jp/unagami_profile.html

 とすると、その二年後の、先に見てきた「「昭和26石鼎庵で(左から)堀越昇(現・原硲)・原コウ子・原石鼎・神林良吉(現・海上良吉)」の頃には、亡くなる一ん前の石鼎と、戦時中に、富山(現南砺市)に疎開して、前田普羅との深い親交のあった「志功と石鼎」との出会いも、この良吉(「雅臣」)を介在して、スタートしていたのかも知れない。

 事実、上記に紹介した、昭和三十一年(一九五六)に刊行した『板画の道(棟方志功著)』の、その「青天微笑/p211」には、「神林良吉氏とはじめて識りました時、」ということで、志功の「石鼎俳句」開眼の記述がなされている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/115


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その四・その五)

(その四) 「四 もろもろの木に降る春の霙かな 1934・句 1956・1板 」と(その五)「五 

春暁や神かと渡る蹄音 1931・句 1956・2板 」











https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/8

(その四) 「四 もろもろの木に降る春の霙かな 1934・句 1956・1板 





 

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/8


[ 山本健吉(やまもとけんきち)/(1907―1988)

評論家。本名石橋貞吉。父は評論家の石橋忍月(にんげつ)。長崎市に生まれる。慶応義塾大学国文科卒業。在学中、原民喜(たみき)を知り、また折口信夫(おりくちしのぶ)の講義に刺激を受ける。改造社に入社、雑誌『俳句研究』の編集に従事して、俳句批評の基を培った。1939年(昭和14)中村光夫(みつお)らと『批評』を創刊。第一評論集『私小説作家論』(1943)で、私小説作家の肖像を自己の感受性に即して個性的に描き、注目された。その後、『芭蕉(ばしょう)―その鑑賞と批評』(1955~56。芸術院賞)、『純粋俳句』(1952)、『古典と現代文学』(1955。読売文学賞)、『柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)覚書』(1958~61)、『詩の自覚の歴史』(1962)などで、西欧の個性中心の近代文学に活路をみいだすために、日本文学の反個性的な伝統にたたねばならないとする、独自の批評世界を拓(ひら)いた。ほかに『現代文学覚え書』(1956)、また『最新俳句歳時記』全5巻(1971~72)などがある。69年、芸術院会員。83年文化勲章受章。  [古木春哉]

『『山本健吉全集』全16巻(1983~84・講談社)』  ](「(日本大百科全書(ニッポニカ)」)


(参考)

https://masakokusa.exblog.jp/15586413/

[ もろもろの木に降る春の霙かな       昭和9年

  さっきまで糸を引くように、静かに降っていた春雨に風が出てきて、雨の糸も縺れがちになってきた。

 やがて春雨にしては大きな音を立てるものだと思って、戸をあけて見ると、いつしか雪片混じりの霙に変わっている。

 折しも外から帰ってきた者が「おお寒む」と首をすくめる。

 まさに春寒料峭であるが、どことなく「もっと降れ降れ」の気分も沸いてくる。龍太の言うように、「何か人恋しい気分」が春の霙には潜んでいるのかもしれない。

 掲句にも弾むほどではないにしても、冬の霙とは一線を画した明るさが滲み出ている。

 「もろもろの」は「諸々の」であろう、あたり一面にいろいろの木々があって、その木毎に春の霙の降りかかりようが一様でないところが目に見えるようである。

 景を展げて見せるという、意味的な効用もさることながら、「もろもろの」は擬態のようであり、擬音のようであり、視覚、触覚、聴覚すべてに印象される言葉である、同時にその音楽的ひびきが何とも心地好い。

 「モロモロノキニフルハルノミゾレカナ」と一音一音区切るように口誦し、静かにしかも一気に読み下すリズムは、さながら春の霙の降りようのさまそのものであり、春の霙の質感そのものでもある。

 内容と表現が完璧に一致している一句であろう。

 この昭和9年には、他に

   雪に来て美事な鳥のだまり居る

   ぎくぎくと乳(ち)のむあかごや春の潮  

   淋しさは船一つ居る土用浪

 など、まさに見事なる句が目白押しである。

 『花影』の著者年譜は、どの年もながながと状況報告をしているが、昭和9年は「正月、再び秀翠氏に誘はれて湯本へドライヴ三泊して帰る」とのみ記されている。

 又、『原石鼎全句集』には昭和9年の記述はない。

 年譜にあえて書くほどのことが何もない、そのことが石鼎にとって句作りに専念できた年であったことを物語っているのかもしれない。 ](「草深昌子」稿)


(その五) 「五 春暁や神かと渡る蹄音 1931・句 1956・2板 」



 









https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/9

春暁や大なる覚め鮫獲れしといふ (大正五年、「大洗魚来庵にて」)

春暁や芯をつゝみて松細葉    (大正七年)

春暁を目覚めし神や雲にあり   (大正八年)

春暁の今は日のさす松ばかり   (大正十年)

春暁や次第にたかくなく雀    (大正十年)

春暁の一枝に来し日影かな    (大正十一年)

春暁の何ものもなき青みどり   (大正十二年)

春暁や楠の落葉の二三片     (大正十二年)

春暁の卵秘めたる燕かな     (大正十二年)

春暁の牡丹いだける青莟     (大正十三年)

春暁や雨垂音か雀の声か     (昭和五年)

春暁のいかにして覚めし雀かな  (昭和五年)

春暁のからたち垣や深緑     (昭和六年=一九三一)

春暁の路傍を駈けり騎士二人   (昭和六年=一九三一)

※春暁や神かとわたる蹄音    (昭和六年=一九三一)  

春暁や二重カーテンそのまゝに  (昭和八年)

春暁や寝床に思ふ梅の花     (昭和八年)

春暁や土間のひよこの鳴きやみし (昭和十一年)

春暁の日の来れば露光るなり   (昭和十一年)

春暁の明星二つ並びけり     (昭和二十五年)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/9

 上記の、原石庭の「春暁」の二十句は、『原石鼎全句集』に収載されているものの全てである。棟方志功が板画した、「※春暁や神かとわたる蹄音」は、その、昭和六年(一九三一)、石鼎、四十五歳時の作で、この年の事項は、「原石鼎年譜(海上雅臣編)」(『原石鼎全句集・沖積舎刊)』)には記載が無い。

 その前年の項に、「この頃石鼎は吉野山時代の作品の一句一句について詳細な自注を試みた」とあり、この年の連作三句、「春暁のからたち垣や深緑」・「春暁の路傍を駈けり騎士二人」・「※春暁や神かとわたる蹄音」は、これは、明治から大正に改元する頃(二十六歳時)、次兄(軍医)が吉野の鷲家村(東吉野大字鷲家)の村医に赴任したことに伴い、移住した、いわゆる、石鼎が俳句開眼をした「深吉野」が、その背景になっている句なのであろう。

  春暁の路傍を駈けり騎士二人

  ※春暁や神かとわたる蹄音

 この二句に接すると、「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな(蕪村)」が連想されてくるが、蕪村の「京都(鳥羽上皇ま「保元の乱」)」の句ではなく、石鼎の「大和(古代大和・南北朝時代の大和)」を意識しての一句のように解したい。

 そして、この、石鼎の「大和し美(うるわ)し」の俳句の世界は、棟方志功(三十三歳時)の、「大和し美し」(「昭和十一年(一九三六)」)の板画の世界と連動して、それが、さらに、昭和三十一年(一九五六)の、「志功(五十三歳)・石鼎(没後五年)合作集」ともいうべき、『青天抄板画巻(神林良吉編・宝文館刊)』の世界を誕生させたということになる。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その一」)」



 








「大和し美(うるは)し/はじまりの柵)」(1936年(昭11))/24.2×24.2㎝/誌・佐藤一英)

https://www.youtube.com/watch?v=7QdWgmpdjsg

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/18

[ 山とし美し

 大和は国のまほろばたたなづく青柿山

 隠れる大和し美(うるは)し  倭健命

  詩  佐藤一英

  絵  棟方志功

 黄金葉(こがねば)の奢りに散りて沼に

 落つれば、踠(もが)くにつれて底の泥その

 身を裏(うら)み離つなし・・・      ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)








 



「大和し美(うるは)し/故郷の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://www.youtube.com/watch?v=7QdWgmpdjsg

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/19

[ われもまた罪業重くまとひたる

  身にしあればいかでか死をば遁(のが)

    れ得む

  されどわれ故郷(ふるさと)の土に朽ざ

  る悲しきよ

  あゝ陽(ひ)はいまや大和な

  る山紅葉(もみぢ)を耀(かがや)かし

  昔わが遊びし野辺や河(かわ)

  岸(きし)に子供らの影ゆらめか

  す思ひあり・・・

  かしこには一人の男(を)の子、

  他の子らを制して草叢(くさむら)    ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その六・その七)

(その六) 「六 囀りやあはれなるほど喉ふくれ 1921・句 1956・2板 」と(その七)「七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 」












「六 囀りやあはれなるほど喉ふくれ 1921・句 1956・2板 」






 「六 囀りやあはれなるほど喉ふくれ 1921・句 1956・2板 」(『青天抄版画巻・宝文館刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/10


 この句の「解説」は、「京極杜藻」(1894~1985)である。虚子の側近俳人の、豊岡藩主家十四代・元子爵の「京極杞陽」(1908~1981)とは別人物で、大正三年(一九一四)に「ホトトギス・虚子選雑詠」初入選、その翌年、石鼎門に入り、昭和十年(一九三五)に「鹿火屋」発刊と共に同人となり、以来、同門の重鎮の一人である。

 

「六 囀りやあはれなるほど喉ふくれ 1921・句 1956・2板 」の「解説」(「京極杜藻」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/6

  ※囀りやあはれなるほど喉ふくれ(大正十年=一九二一)

  囀りや山の口なる細椿     (同上) 

  囀りや裾合ふるゝ椿やま    (同上)

  囀りや棚田の奥の椿山     (同上)

  囀や一羽のために揺るゝ桑   (同上)


「七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 」



 









A図「七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 」(『青天抄版画巻・宝文館刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/11








 




B図「七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 」(『棟方志功全集6/詩歌の柵2/講談社刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


 

「七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 」の「解説」(原石鼎) (『青天抄版画巻・宝文館刊』・「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/10


   ※はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士(昭和六年=一九三一)

   まき落つる浪とゞろける霞かな  (同上)

   富士か霞めば海に千鳥や酒匂川  (同上)


 この「※はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士」の句は、石鼎の「解説(自句)」によると、「沼津の千本松原までのドライブした時に、芦の湖ほとりより」の「弥生(三月)富士」の句ということになる。

 この頃の石鼎(昭和六年=一九三一、四十五歳)は、昭和改元(一九二六)の前年の頃から、「神経衰弱」(「虚子関係文書」=「麻痺性痴呆症」)に悩まされ、その原因の一端は、大正十年(一九二一、三十五歳)の、石鼎の「鹿火屋」創刊、その当時の石鼎の「ホトトギス=虚子」との、陰に陽にの軋轢が、その要因にあり、虚子との関係は「断絶(石鼎の句の「反逆者」)」状態にあったようである。(『原石鼎全句集(沖積舎刊)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」)


     柿食ふや俳諧我に敵多し       (大正九年=一九二〇)

   うたれ雉子を灯によせて見る霜夜かな (同上)

寒月やわれ白面(はくめん)の反逆者   (同上、前書=「句会席上吟」)  







 






「富嶽頌(ふがくしょう)/表題の柵」(1965年(昭40)詩・草野心平)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/107

https://kamomelog.exblog.jp/33159716/







 


「富嶽頌(ふがくしょう)/三百の龍よの柵」(1965年(昭40)詩・草野心平)

http://dassaishooku.p2.weblife.me/p6/scrap0053.html

[ 三百の龍よ 草野心平

 堅い暗いガランドウのなかで

 コールタールの

 うねりのたうち

 突破口なく

 岩漿(マグマ)よ

 富士を破れ

 遠き火の滝を

 噴きあげよ

 そして三百の

 龍よ

 新しい記念の天に

 あそべ              ](参考『棟方志功全集6/詩歌の柵2』)

 








「富嶽頌(ふがくしょう)/赤富士の柵」(1965年(昭40)詩・草野心平・30.0×77.0㎝)

http://dassaishooku.p2.weblife.me/p6/scrap0053.html

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/110

[ 赤富士

 カーニバルだ

 いろんな雲の

 象のようなニュー

 ギニアのような

 毛刺の大たぶさ

 のような

 飲んだくれて横になつた

 李太白のような

 紫に朱にオレンジに

 ところどころは

 薄墨

 に

 燃え

 るサルビ

 ヤに

 その雲たちの列のま

 したを 赤トンボの

 編隊が進んでいる

 そして向う

 ピカソの赤富士

 詩

 草野心平       ](参考『棟方志功全集6/詩歌の柵2』)


 棟方志功が、「東京都中野区・大和(やまと)町」で、「大和(やもと)し美(うるわ)し版画巻」を制作したのは、昭和十一年(一九三六)、三十三歳の時、そして、「イタリアのヴェニス・ビェンナーレ」で「国際版画大賞」を受賞した、その昭和三十一年(一九五六・五十三歳)に、

「青天抄版画柵(「石鼎(俳句)と志功(板画)の合作」集)が完成した。

 そして、昭和四十一年(一九六六・六十三歳)に、「アメリカ滞在中(前年にダートマス大学で名誉文学博士号を受ける)」に、草野心平の富士を詠んだ十八篇の詩を基にして制作した「富嶽頌(ふがくしょう)」(二十四柵)が、『富士山(草野心平詩集・棟方志功板画)』(「岩崎美術者」)として刊行されることになる。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その二」)」



 








「大和し美(うるは)し/射損の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://www.youtube.com/watch?v=7QdWgmpdjsg

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/19

[ (草叢)を分け

  鶉の巣にぞ

  近づきたれ

  その手には

  上衣(うはぎ)を脱ぎて

  かゝぐ

  また

  かしこには竹の弓もて柿の実を狙へる

  子あり、百舌鳥射損んじての戯れ

  が、

  額 

  汗

  ばむ

  ほど遠からぬ杉の木の

  根本の母は幼児に乳房

  やりつゝこのさまを微笑みて看る

  子供らよ、さきく育てよ、      ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)









 


「大和し美(うるは)し/白猪の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://www.youtube.com/watch?v=7QdWgmpdjsg

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/20

[ 母の背の杉にまさりて

  されどいましら

  猟にいでん齢となりて

  猪の牙を折るとも兄弟の頭を拉(ひし)ぐ

  ことなかれ

  こゝにその兄をば弑(ころせ)り咎めにて父

  には離れとつくに骸さらさん人の子あり

  あゝされど何をか告げむ 世は一瞬にし

  て目覚むれば罪ある身なり

  昨日伊吹は紅葉して

  空を染めたり

  今日見ればかの大なる猪

  のごとく白し

  われ足萎へて彳(ただず)みしとき、農   ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)



原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その八・その九)

(その八) 「八 母の雛最も古りて清くあり 1922・句 1956・3板」と(その九)「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」












(その八) 「八 母の雛最も古りて清くあり 1922・句 1956・3板」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/12







(その八) 「八 母の雛最も古りて清くあり 1922・句 1956・3板」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/12

 

(その八) 「八 母の雛最も古りて清くあり 1922・句 1956・3板」の「解説」(神林良吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/12


   ※母の雛最も古りて清くあり  (大正十一年=一九二二)

   老い雛の白髪もありぬ雛くづに (同上)

   上野下り氏我に日暮れぬ雛の店 (同上)

   雛店の奥の暗さの好ましき   (同上)

 「原石鼎年譜(海上雅臣編)」(『原石鼎全句集・沖積舎刊)』)では、「この年から翌年にかけて「鹿火屋」には橋本健吉(北園克衛)が時折寄稿している。石鼎窟の一室に下宿していた為か。」という記述がある。

 この年譜の「『鹿火屋」には橋本健吉(北園克衛)が時折寄稿している』は、下記のアドレスで、その周辺について紹介されている。

https://company.books-yagi.co.jp/archives/2885


[「鹿火屋」大正11年8月号(第42号)(/は改行) (抜粋)

「無題」

地球はまた/すばらしい/音を立てゝ/限りなき/時の軌道を/ひたはしる

人間は/流れに生息する/バクテリアの如く/地球と/混和ひて/目にもとまらず/ひたはしる/すばらしい勢で/ひたはしる

噫/人間は知らない/人間はわづかに/その生を抱いて/黙々とそら耳をつぶす

私は又/ひろごる/樺色の土なる/其の無限の/香を知る/すべてを/包合する/偉大なる正純の香を/知る・・・

赤熱せる/おお/太陽の流転の驚異・・/私は/彼の火花ちる音を聞く/燃えさかる/燦光の/空気を焼く/香を嗅ぐ・・・

私は――でも/静かである/私はそれを/悲しまない

人間は/この/悩ましいミリウを/忘れ果てて/生きる可く/よぎなくされてゐる・・・

・・・・・・/・・・/・・・・/おゝ/葉裏の/幼蟲は/静かに/呼吸をつゞけてゐる/透明な/からだを/波うたせて/うごめく

私は/かく/生くる者を/おそろしく思ふ/・・・・・

真夏の太陽は

でも/静かに/てらしてゐる・・・・。

(1922・6・2)


「鹿火屋」大正12年4月号(第50号)  (抜粋)

「電柱」

雪解のどぶどろの中に/囚人のごとく突立つた/電柱よ/もぎ取られた体躯。/憎悪と忍従。/その灰色の形相/おまえは/何を叫ばうとするとするのだ。

北風吹く/冬の街路に/高々とおしならんで/おまえは何をさけばうとするのだ/おまえは誰に何を聞かさうとするのだ/雪解のどぶどろの中に/囚人のごとく突立つた/電柱よ

8月号に掲載された「「かくて/永劫につきざる呪詛の亡霊は/焼けたゞれし東雲の空を/灰色の髪をなびかせて/いづくともなく/歩み去る時」と始まる作品「死」には、惨劇の前兆を予期したようなとことがあるが、今回紹介した二篇の詩に、後のモダニズム詩人北園克衛の予兆を探ることは出来ない。やはり、現実に目の当たりにした震災の大破壊が詩人に与えた影響は計り知れないものがあったのだろうか。 」

 また、次のアドレスには、「北園克衛の俳句への情熱─俳句誌「風流陣」と句集『村』」周辺のことが紹介されている。


https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/f5f9e9c3b2e365f90f7f3995172bf7f7

[ 北園克衛の俳句への情熱─俳句誌「風流陣」と句集『村』(抜粋)

 俳句は、関東大震災前に一時俳人原石鼎の元に下宿していたことから、影響を受けたものと思われるが、爪先から頭の天辺まで前衛的な詩人であり続けた北園克衛が、原石鼎の影響があるにせよ、なぜ俳句に魅かれていったのか興味が途絶えることはない。北園克衛の詩は、徹底した反リアリズムであり、そこに生活の残滓や社会感情の思惑など一切が削ぎ落とされている。俳句の非リアリズム性は、北園克衛が生涯希求する「意味によって詩を作らない」、すなわち「詩(ポエジー)によって意味を形成」する方法論と、見事に通底する。つまり北園克衛は、詩と俳句を同じ原理で書き、こう言ってよければ意匠としての別仕立てを行ったに過ぎないのではないだろうか。

「今日の俳句が写実の客観性を尊重するあまり単なるスケッチに陥ちたり、都会化してゆくのは寧ろつまらない。ある一部の人々は都会に住む者にとって、その作品が都会的になるのは当然であると言い、俳句に都会の感覚を導入することが現代の俳人の使命であるように考えている。しかし前者は言うまでもなく単なるリアリストの偏狭さであり、後者は俳句の現代性が素材や技巧のみにあると考えているに過ぎない。もちろん俳句に現代性を与えるには素材や技巧が最も簡易な手段であることを否むものではない。しかし乍らその手段は結局所謂モダアニズムの域を出ないであろう。真の現代性を持つ俳句は更に深く現代の思考性を新しい素材や技巧に先行していなければならない。(北園克衛句集『村』収載の「俳句近感」/初出「風流陣」51号・昭和16年7月20日発行)


 上記文章の初出は、末尾に記したように、詩人たちが中心の俳句誌「風流陣」51号(昭和16年7月20日発行)に記載されている。神奈川近代文学館蔵の「風流陣」の解題記事を執筆した西村将洋によれば、フランス・ハイカイの創始者といわれるポール・ルイ・クーシューが大正9年(1920年)にわが国へ初めて紹介されたのを契機に、昭和10年(1935年)10月1日に創刊された。同号の編集発行人は詩人の岩佐東一郎である。恩地孝四郎が表紙を担当し、「風流陣」の題字のそばにフランス語で<HAIKAI DU JAPON>(日本のハイカイ)と書かれていたように、フランス・ハイカイに接触した当時の日本の先鋭な詩人たちが、花鳥諷詠に反旗を翻し、古典研究と同時に正典としての俳句をもとめたものである。


 「風流陣」創刊号のメンバーといえば、表紙に次のような豪華な詩人(作家)が犇いていて、圧倒される。室生犀星、津村秀松、竹村俊郎、岡崎清一郎、田中冬二、吉川則比古、扇谷義男、亀山勝、八十島稔、川田聡七、荘生春樹、岩佐東一郎、北園克衛、城左門の14名である。北園克衛は、「秋雨」(俳句と思われる)と「純粋俳諧論」を同誌に発表している。奥付に「風流陣小規」として、「社友」10句以内、「誌友」5句以内の規定が掲載されていて、大変興味深い。発行所は、文芸汎論社(東京市品川区大井庚塚町4928)、印刷所は自由通信社(東京市京橋区銀座西3の1)。定価は1冊15銭。ちなみに北園克衛の俳号は、瓦蘭堂だ。


 さて、北園克衛の唯一の句集『村』(瓦蘭堂/1980年)は、詩人藤富康男の編集したものである。この句集には、「風流陣」に掲載した俳句を中心に構成されているが、いくつかの俳句論が併載されているのが面白い。北園克衛は、「風流陣」に多くの俳句論を執筆しているので、その論の片鱗が『村』に見られるのは、よいにちがいない。その『村』の冒頭には、昭和10年11月1日に急逝した兄橋本平八を偲ぶ<ゆく秋や南無黙堂玄悟居士>を掲げ、以下のような作品を収めている。これらの作品について、賛否はさまざまあろうけれど(むろん渚の人も、言いたいことがある)、今回は北園克衛の作品が、どのようなものか紹介して見よう。


荒れし床に梅一輪の日ごろかな

蒼茫と葵の前に訣れけり

佩刀(はいとう)の反りのゆくえや梅の影

恙なき旅の終りや初霞

瓢箪のくびれて下る暑さかな

婆どのの紅をさしたる桃の節(せち)

葛飾やびんぼう川のねむの花

五月雨にエスプリ光るやつれかな

櫓の音の間遠になるや日の盛

天の川僧房くらく眠りける

栗ほすや的皪(てきれき)として晝たけぬ

達磨忌や魚梆(ぎょばん)はるかに響きわたる

荒壁に嘴うつす榾火かな

初富士や葱より高く二三寸

このあたり夢のやうなり風蝶花     ]


 嘗て、下記のアドレスなどで、「前衛派の旗手たち(重信・邦雄・修司・克衛らの周辺)」で、この「北園克衛」周辺を逍遥したことがある。


https://yahantei.blogspot.com/2009/02/blog-post.html


 ここでは、下記のアドレスの「北園克衛・略年譜」を抜粋して掲出して置きたい。

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/67966039530.htm


[ 北園克衛・略年譜  (抜粋)

1902(明治35)年 10月29日、現在の伊勢市朝熊町で橋本安吉・ゑいの次男として誕生。本名、橋本健吉。

1918(大正7)年 3月、宇治山田市立商業学校卒業。

※1920(大正9)年 4月、上京。中央大学専門部経済学科に入学。

※1923(大正12)年11月、兄とともに帰郷。その後、奈良市外都跡村の借家で兄と暮らす。

※1924(大正13)年春、再び上京し、玉村善之助(方久斗)の家で野川孟・野川隆兄弟と出

会う。

※1925(大正14)年1月、『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』2年1集より編輯を行

う。この年、東京府世田ヶ谷町太子堂105で兄と同居。

1926(大正15)年 5月、単位三科のメンバーとなる。魔術主義劇場第1回発表会を開催。


1927(昭和2)年 6月、三科形成芸術展覧会に絵画作品を出品。11月、『薔薇・魔術・学説』の 創刊同人となる。

1928(昭和3)年 1月、上田敏雄、上田保と連名でシュルレアリスムのマニフェスト「A NOTE  DECEMBER 1927」を発表。

7月、北園克衛というペンネームを使い始める。

11月、『衣裳の太陽』の創刊同人となる。

1929(昭和4)年 6月、第一詩集『白のアルバム』(厚生閣書店)を刊行。

1930(昭和5)年 7月、『L’ESPRIT NOUVEAU』創刊、田邊茂一とともに編輯を行う。

1932(昭和7)年 5月、岩本修蔵らとアルクイユのクラブを結成し、『MADAME BLANCHE』を創刊。8月、詩集『若いコロニイ』(ボン書店)を刊行。9月、第19回二科展に《晝の假設》が入選。

1933(昭和8)年 7月、詩集『MA PETITE MAISON』(芝書店)、訳詩集『LES PETITES JUSTES』(ラベ書店)、『天の手袋』(春秋書房)を刊行。 8月、小林栄と結婚する。10月、詩集『圓錘詩集』(ボン書店)を刊行。

1934(昭和9)年 5月、第6回第一美術協会展に《海の背景》を出品。

1935(昭和10)年 5月、日本歯科医学専門学校(日本歯科大学)に職を得る。7月、VOUクラブを結成し、機関誌『VOU』を創刊。

1936(昭和11)年 4月、詩人エズラ・パウンドとのとの文通が始まる。   

8月、詩集『鯤』(民族社)を刊行。

1937(昭和12)年 9月、詩集『夏の手紙』(アオイ書房)を刊行。 

1938(昭和13)年 11月、詩集『サボテン島』(アオイ書房)を刊行。

この頃から、海外の詩誌で紹介されるようになる。 

1939(昭和14)年 12月、詩集『火の菫』(昭森社)を刊行。 

1941(昭和16)年 2月、評論集『ハイブラウの噴水』(昭森社)を刊行。

4月、詩集『固い卵』(文藝汎論社)を刊行。 

1942(昭和17)年 5月、日本文学報国会詩部の幹事 となる。6月、平八の遺稿集『純粋彫刻論』 (昭森社)を編集、刊行。 

1943(昭和18)年 1月、詩集『風土』(昭森社)を刊行。 

1944(昭和19)年 9月、評論集『鄕土詩論』(昭森社) を刊行。 


1945(昭和20)年 6月、妻子のいる三条市へ疎開。8月、終戦の翌日、帰京。 

1950(昭和25)年 二科会理論部の会員となる。 

1951(昭和23)年 4月、詩集『砂の鶯』(協立書店) を刊行。

7月、詩集『黒い火』(昭森社)  を刊行。 

1953(昭和28)年 3月、若いVOUクラブ員の詩誌として『青ガラス』を創刊。

7月、『若いコロニイ』(國文社) を刊行。

9月、評論集『黄いろい楕圓』(宝 文館)を刊行。

12月、ラディゲ訳詩集『火の頬』(白水社) を刊行。 

1954(昭和29)年 4月、詩集『眞晝のレモン』(昭森社)を刊行。

この年、英文詩集『Black Rain』(Divers Press)を刊行。 

1955(昭和30)年 1月、詩集『ヴィナスの貝殻』(國文社)を刊行。 

1956(昭和31)年 2月、第1回VOU形象展を開催、 詩と彫刻を出品する。

9月、詩集『ガラスの口髭』(國文社)を刊行。

12月、『VOU』53号以降、写真作品を継続して発表。 

1958(昭和33)年 4月、第8回モダンアート展に写真を出品。

8月、詩集『青い距離』(パピルス・プレス)を刊行。

この年、前衛詩人協会会長となる。 

1959(昭和34)年 2月、詩集『煙の直線』(國文社)を刊行。

6月、詩集『家』(昭森社)を刊行。 

1960(昭和35)年 5月、前衛詩人協会の会合で8mmフィルム作品を発表。 

1963(昭和38)年 9月、白水社の〈新しい世界の文学シリーズ〉の装幀を始める。 

1964(昭和39)年 2月、短編集『黒い招待券』(MIRA CENTER)を刊行。

10月、ヨーロッパ、アメリカへ旅行。 

1965(昭和40)年 6月、詩集『眼鏡の中の幽霊』(プレス・ビブリオマーヌ)を刊行。

早川書房の書籍の表紙装幀を始める。 

1966(昭和41)年 3月、詩集『空気の箱』(VOUクラブ)を刊行。

この年、造型詩集『moonlight night in a bag』(Editions VOU)を刊行。 

1970(昭和45)年 3月、亀山巌らと古川柳雑誌『ひるご』を刊行。 

1973(昭和48)年 3月、詩集『白の断片』(VOU)を刊行。 

1976(昭和51)年 4月、ハヤカワ・ミステリ文庫の装幀を始める。 

1978(昭和53)年 6月6日、肺がんのため死去。 

1979(昭和54)年 4月、造型詩集『Study of man  by man』(Edizioni Factitum-Art)が刊行される。

6月、藤富保男編集による詩集『BLUE』(Editions VOU)が刊行される。 ]


 この「北園克衛・略年譜」で、「※1923(大正12)年11月、兄とともに帰郷。その後、奈良市外都跡村の借家で兄と暮らす。」に関連して、この年の九月に「関東大地震」があった。この年、石鼎、三十七歳、そして、克衛(橋本健吉)は、二十歳前後の頃である。

 先に掲げた、「原石鼎年譜(海上雅臣編)」(『原石鼎全句集・沖積舎刊)』)の、「この年から翌年にかけて「鹿火屋」には橋本健吉(北園克衛)が時折寄稿している。石鼎窟の一室に下宿していた為か。」は、石鼎が、大正七年(一九一八)に「コウ子」と結婚し、新居を営んだ「東京都麻布竜土町」が、その「原石鼎年譜」にある「石鼎窟」なのかも知れない。

 また、「石鼎(出雲・塩谷市生れ)と克衛(伊勢・朝熊生れ)」とは「同郷」ではないが、この「北園克衛・略年譜」の、関東大地震を遁れて、兄と共に移住した「奈良市外都跡村」は、石鼎の、大正改元(一九一二)時前後に、「兄(軍医)と共に移住した「奈良県吉野鷲家村」との何らかの接点があるのかも知れない。

 とにもかくにも、この頃の「原石鼎」(三十六歳)と「北薗克衛(橋本健吉)=俳号・「瓦蘭堂」)(二十一歳)との、その交遊の一端が、当時の「鹿火屋」(「大正11年8月号(第42号)」・「(大正12年4月号(第50号)」)に、その痕跡を留めていることは特記して置く必要があろう。

 その上で、この「北園克衛・略年譜」の「※1923(大正12)年11月、兄とともに帰郷。その後、奈良市外都跡村の借家で兄と暮らす。」の、この「兄」は、明治・大正・昭和(初期)にかけて、三十八歳の若さで夭逝した、「一木彫(いちぼくほり)・一木造(いちぼくづくり)」の彫刻家として名高い「橋本平吉」(明治三十年=一八九七~昭和十年=一九三五)、その人である。



 








「奈良時代の橋本平八(左)と北園克衛(右)」(「橋本平八の生涯(森本孝)」三重県立美術館))

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55303038376.htm


 この「橋本平八の生涯(森本孝)」(三重県立美術館)に、「※1923(大正12)年11月、兄とともに帰郷。その後、奈良市外都跡村の借家で兄と暮らす。」周辺のことが、下記のとおり記述されている。


[ 1923年(大正12)11月に起った関東大震災のため,平八は北園克衛と故郷に帰り,奈良へ見物に出かけたところ奈良郊外に貸家があったので,2人はしばらくの間ここに住み,奈良近郊の社寺をまわり,平八は仏像について研究を深めている。

平八は1924年(大正13)日本美術院院友に推され,佐藤朝山のアトリエを出て独立することになる。一時帰郷の後,北園克衛と共に府下世田ヶ谷町太子堂105番地に住み,代表的な作品として『少女立像』『成女身』『片履達磨』を制作している。](「橋本平八の生涯(森本孝)」)


  原石鼎と北園克衛(橋本健吉)との交遊関係は、上記の「鹿火屋」(「大正11年8月号(第42号)」・「大正12年4月号(第50号)」)からして明瞭なことなのだが、石鼎と橋本平八

との交遊関係は定かではない。しかし、当時の、北園克衛(橋本健吉)は、謂わば、兄の橋本平八に養われての学徒という境遇からすると、克衛(橋本健吉)より、兄の橋本平八と石鼎との交遊関係が、より濃密であったような感じで無くもない。

 なお、橋本平八周辺については、下記アドレスの「橋本平八の彫刻の精神 ― 木に刻まれた生命と祈りの表現 ― (三上慧稿)」が、貴重なデータを紹介している。

https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/1596



 













(その九) 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」





 






「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48








 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」の「解説」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/13

   乳児匐(は)はせてあそぶけびんや春の汐 (昭和九年=一九三四)

   ※ぎくぎくと乳(ち)のむあかごや春の汐  (同上)

 これらの、昭和九年(一九三四)、石鼎、四十八歳の句は、「春潮・春の汐」(三春)で、この二句は、「乳児・乳(ち)のむあかご」と「春の汐」との取り合わせの句である。一句目の「けぶん・ケブン=キャビン」は、「船室・小屋」、二句目の「ぎくぎく・ギクギク」は、船(舟)が春潮に乗り、その際の「ギクギク・ギシギシ」する、その擬音語と、その船(舟)室で「乳を呑む赤児の吞みっぷり」の、その擬音語を掛けているような用例であろう。





 







「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」(拡大部分図)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

 志功は、この「ぎくぎく」の擬音語に、「はつきり強さと思ひの情を立てた言葉」として、この句を、「人間の生命力、生きてゐる素晴らしい如実なもの」を感じ取っている。

 ここに描かれている「生命力に溢れた女性の乳房を吸っている赤児」」(石鼎の句の「海女」とその「乳房を吸っている赤児」)の像は、まさしく、「棟方志功の根源に位置する母子像」そのものなのであろう。

 そして、その「棟方志功の根源に位置する母子像」の原型は、「棟方」の姓のルーツの「福岡県宗像市の宗像大社」(「宗像の字は古事記や日本書紀において胸肩と記されている」)に起因する、下記の「胸肩(むなかた)妃」・「宗像(むなかた)女妃神」・「弁財天妃」などが、そのルーツのようなである。(『棟方志功全集7女人の柵(1)』所収「胸肩姫」・「胸肩佛妃」「宗像女妃神の柵」)

 その「胸肩姫」には、「津軽は私の郷里で、その弘前市に蛇体を祭っている神様がある。胸肩神社と呼ばれ、弁天様を拝ませてるようだ」とあり、さらに「胸肩佛妃」では、この「御本体(或いは御本尊)は、女性をまもる信仰の象徴として拝まれている。(中略) 江の島の弁財天は、はたかで琵琶をもつ濃艶さですが、この佛神には、新しい今の時代を生きる弁財天の雰囲気をふきこみました」、そして、「宗像女妃神の柵」には、「宗像女神は、水の神様、弁天様なのです。(中略) 宗像神社というのは、女神なのです。(中略) 「むなかた」性を名のっている氏はみんな女の人が主になっています」と、「ファミニスト・棟方志功」の、その「想女連綿」の、いわゆる「棟方女人ワールド」の、その中核となっている記述がある。



 








「胸肩(むなかた)にの柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748138/1/68








 



「宗像(むなかた)女妃神(じょひしん)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748138/1/99







 




「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748140/1/82









 

倭画《禰舞多運行連々絵巻》(抜粋)所収『「志功」金魚と「千哉子」金魚』

https://munakatashiko-museum.jp/2022/04/30/post-6528/

[『称舞多運行連々繪巻』とも表記される肉筆画で、1973年(昭和48年)のねぶたが終了した頃から構想を練り始め、翌年1月2日から三週間かけて描き上げられた[31]。これは二巻組の絵巻仕立てになっており、大きさは縦幅が34.3センチ、長さが二巻合わせて1,721センチである。絵巻物としては珍しく左から右へ描かれており、棟方による自賛や自画像、多数の落款を含む原色燦やかな作品となっている。](「ウィキペディア」) 


 「ウィキペディア」では、棟方志功の「芸術分野」を、[板画(木版画)・倭画(水彩画)・油画(油彩画)・墨書]の四区分にしているが、この「板書・倭絵」そして「柵」などについては、志功は、志功特有の記述をしている。

https://moe.co.jp/shiko-munakata/


[<板画(はんが・ばんが・いたが?)>

わたくしが板画という字を使うので、板と版とどう違うのかと聞く人がいるんですよ。まえまえ、わたくしも板画をはじめたころは、版という字を使っていたんだが板画の心がわかってからは、やっぱり、板画というものは板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだと思いましてね。ほかの人たちの版画とは別な性質から生まれていかなければいけない。板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたわけなんです。〜「花深処無行跡」昭和38年

<倭画(やまとえ)>

鎌倉絵巻は、日本の絵画の最も美事な振舞として、今を進めて居る日本の魂の様に、この美事はつづいて居る。桃山障屏の偉大は、わたくしたち日本の立派な度胸として今に歓喜を血脈させて離れない。日本美術の生命は、鎌倉、桃山に息憤かれ居る。(中略)倭画を、わたくしが創めた所以であります。〜昭和28年5月

※日本画用の絵具で描いた自分の肉筆画作品を棟方は<倭画>と呼び表した。絵巻物や障壁画に代表される伝統的な日本の絵画に対する称賛を込めて「やまと」の語を使用したもの。  ]

https://hanga-museum.jp/static/files/munakata_guideline2013.pdf

「<柵(さく)> 

 棟方によると、「柵」とは四国の巡礼者が寺々に納めるお札のことも意味しているようです。お寺で願いをこめてお札を納めるように、一柵ずつ作品に祈りをこめて、ひたすらに彫っていく棟方の姿勢が、この文字に要約されています。]


 ここで、橋本平八の、『純粋芸術論』と、その作品の一つ「弁財天」を掲げて置きたい。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1068827/1/15


『純粋彫刻論』(目次)









 



「純粋彫刻論」目次

[序 平櫛源太郎  序 喜多武四郎

I 論説篇/3

彫刻の起原/5 純粹彫刻論/8 思索/70 原始精神の文明/75

II 日記篇/131

附録 橋本平八年譜/303

跋 北園克衞       ]








 



「弁財天」(橋本平八作/1927(昭和2)年作/寸法・ H29.0㎝/ 署名・底面:平八作(刻書 )/ 三重県立美術館蔵)

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-

museum/da/detail?mngnum=763633&flg=0&language=jp

[ 七福神のひとりとして庶民の信仰を集めている弁財天の起源は、インドの聖なる河、サラスヴァティーを神格化した女神にさかのぼる。学問や技芸の神とされるが、仏教に取り入れられ、弁舌の才や福財を授ける天女としても崇拝された。インドで誕生してから仏教とともに日本に伝わり、幅広い信仰を集めていくなかで、さまざまな性格をもつこととなった弁財天は、琵琶を手にする二臂(ひ=腕)の天女形のほか、八臂像、六臂像など多様な姿で造形化されることとなる。琵琶を抱いて座す姿であらわされたこの弁財天は、伊勢市朝熊町生まれの彫刻家・橋本平八の作。平八は熱心に古典研究に励んだといわれ、本作は特に法隆寺金堂の飛天像など、白鳳時代の彫刻の影響が指摘されている。

一方で穏やかでありながらも厳しさを感じさせる弁財天の姿に近代的彫刻を追求し続けた平八らしさをみることもできるのではないだろうか。(県立美術館学芸員・道田美貴)](「三重県立美術館」「)

 伊勢生れの「一木彫り」を得意とする「彫刻家」の「橋本平八(1897~1935)」と、津軽生れの「版画=板画」の「板画家」の名も冠せられる「棟方志功(1903~1975)」とは、直接的には、何等の接点もない。

 時代史的にも、橋本平八が棟方志功よりも六歳年長であるが、「版(板)画家・棟方志功」の名を刻んだ「大和し美(うるわ)し」(第十一回国画会展出品作)は、平八が亡くなった翌年(昭和十一年=一九三六)の作である。

 その棟方志功が、「今後、私の作品は版画といわず板画といいます」(随筆集「板散華」)と「板画」を宣言したのは、戦時中の、昭和十七年(一九四二)十一月のことであった。そして、この年の六月に、橋本平八の遺作追悼集ともいえる、上記の『純粋彫刻論』が刊行された。

 そして、そ;れらの中で、[「彫刻家は木材を生殺自在することを天分とするもの」であり、材木を生かし得ない彫刻は死物であるから、「この材木の生かし方に依りその彫刻の良悪は定まる」とした。そして、その「材木の生かし方を知った人が木像の生きたのを造り得る」としている。(「橋本平八の彫刻の精神 ―木に刻まれた生命と祈りの表現― (三上慧稿)」)

 この橋本平八の「木に刻まれた生命と祈り」を表現しようとする「純粋(「完全な」「理想的な」「無限追及的な」)彫刻」)論は、当時の、各分野の創作活動に携わっているものに大きな影響を与えたことは、想像するに難くない。

 棟方志功が、これまでの「版画」から「板画」とするという宣言も、また、その「板画というものは板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだと思いましてね。ほかの人たちの版画とは別な性質から生まれていかなければいけない。板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたわけなんです。」(「花深処無行跡」昭和38年)というのは、やはり、橋本平八の『純粋彫刻論』と深く関わっているものと解したい。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その三」)」











 

「大和し美(うるは)し/美夜受(みやづ)の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21

[(農)夫は稲刈るをいそぎぬたりき

 いま

 彼等は

 榾咄火(ほだび)を

 めぐり新しき

 飯(いひ)ほほば

 らむたゞわれは苦き汁を

 啜れぱよし・・・・

 あゝ美夜受(みやづ)、汝が参らせし

 酒の香ぞこの汁にこもれる心地

 す

 しかれども

 薬も毒と

 變ずるは

 汝(な)

 が柔かきかひ

 なにあらず    ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)










 

「大和し美(うるは)し/百合肌の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21

[ なれはかの夜(よ)、無知なる

  百合花の咎もなく揺るぎて

  悩ませり

  腹太き蜂そのうちに

  情欲を横へ眠りき

  汝の髪に顔を埋め、われ父を

  弑しまつらむ夢にふけりぬ

  いづれか

  罪の深から

  む、母となる人     ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)



0 件のコメント: