前衛派の旗手たち(重信・邦雄・修司・克衛らの周辺)
(その一)
前衛派の旗手の俳人、高柳重信は、一九二三年の生まれ。同じく、歌人の塚本邦雄は、一九二二年、そして、俳人で歌人の寺山修司は一九三五年の生まれである。年代的には、この三人よりも先輩格である詩人の北園克衛は、一九〇二年の生まれで、二十世紀の初頭にその生を受けた。
この十九世紀から二十世紀への接点の頃、今に、日本俳壇にその名をとどめている二人の俳人が誕生している。その一人は、一九〇〇年のエイプリルフール(四月一日)に生まれた西東三鬼で、もう一人が、一九〇一年の万緑の七月二十四日生まれの中村草田男である。
このお二人は、前衛派とは目されていないが、共に、前衛派のよき理解者であり、また、前衛派と称せられる方々から、そのジャンルを問わずエールを送られ続けてきた俳人でもある。
このお二人と同年代の詩人が北園克衛で、こちらは、今に、前衛派の詩人として、その名を馳せている。そして、二〇〇二年には、「北園克衛生誕百年イベント」も企画され、単に、詩というジャンルだけではなく、多方面に名を馳せ、ネット記事(「ウィキペディア」)
では、次のように紹介されている。
・・・デザイナーであり、イラストレーターでもあり、編集者でもあった。当初は油彩を描き二科展に入選を果たすなど画才にめぐまれ、昭和を通じておびただしい文芸誌書に装丁家・挿画家として関与している。とくにグラフィックデザインやエディトリアルデザインには空間の空きを考慮した独特の魅力がある。多彩な活動を繰り広げる一方で、肩書きは徹底して「詩人」ひとつで通した。
ひるがえって、「重信・邦雄・修司・克衛」の四人に絞って、その焦点化を試みると、克衛がそうであったように、重信・邦雄・修司も、これまた多方面に活躍しており、この四人は、さながら、マルチニストという共通項を有しているといえるであろう。
そして、「俳句・短歌・川柳・詩」というジャンルを見渡したとき、狭い、「俳句・短歌・川柳・詩」という限られた枠内で接するのではなく、それらが、大きな、「アート(芸術)」、そして、「ポエム(詩)」という拡がりのなかで、これらの四人の方に接することこそが、この四人の中核に迫り得る唯一の道なのではないかという思いを深くするのである。
さて、ここでは、そのような大上段に構えることもなく、克衛が、その「肩書きは徹底して『詩人』ひとつで通した」ということであるならば、「重信・邦雄・修司・克衛」の四人もまた、まさに、克衛と同じように、「詩人」という名が最も相応しいように思えてくるのである。
ここで、この四人のうちで、最も先輩格の北園克衛の、その代表作の「単調な空間」(一九五九年作)を紹介しておきたい。この作品については、ネット記事(「ウィキペディア」)
では、次のように紹介されている。
・・・代表作「単調な空間」(1959)はこの詩人の空間認識が結晶したもので、折から世界を席巻していたコンクリート・ポエトリーの関係者の目にとまったが、コンクリティズムの作品とはいえない。処女詩集『白のアルバム』(1929)に収録されている「図形説」がコンクリート・ポエトリー的な要素をもった唯一の作品である。
単調な空間(北園克衛)
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなかの
黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
白
の中の白
の中の黒
の中の黒
の中の黄
の中の黄
の中の白
の中の白
青
の三角
の髭
のガラス
白
の三角
の馬
のパラソル
黒
の三角
の煙
の
ビルディング
黄
の三角
の星
の
ハンカチイフ
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
(その二)
前衛派の旗手の北園克衛について、ネット記事(「ウィキペディア」)では、次のように紹介している。
・・・関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい。
この一九二三年(大正十二)の関東大震災のとき、克衛は二十歳前後であったが、いみじくも、前衛派の俳人、高柳重信が誕生した年でもあった。この重信のネット記事(「ウィキペディア」)は次のとおりである。
・・・高柳重信(たかやなぎ・じゅうしん、1923年1月9日 - 1983年7月8日)は俳人。
東京小石川生れ。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。 早稲田大学専門部法科卒業。学生時代に「早大俳句研究会」に参加、富沢赤黄男(かきお)に師事した。 1958年(昭和33年)に赤黄男、三橋鷹女、高屋窓秋、永田耕衣を擁して「俳句評論」を創刊した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し金子兜太とともに「前衛俳句」の旗手となった。後年、山川蝉夫という別人格を登場させ発想と同時に書ききるという、一行の俳句形式も行った。俳誌「俳句評論」代表。総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任した。 妻、高柳篤子と離婚後、俳人中村苑子と生涯をともにしたが、結婚はしなかった。 歌人の高柳蕗子は篤子との実子。句集に「蕗子」他。「高柳重信全集」(全三巻)などがある。 ・・・
かって、「高柳重信の多行式俳句」ということで、簡単な鑑賞の一試行(下記のアドレス)をしたことがあるが、今回、克衛の代表作「単調な空間」に接して、次の重信の不可思議な作品を想起したのであった。
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_25.html
・・・ ●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●
「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「―」もある。異次元の夜空の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧精神のなせるわざか。(無季)」
上記の「●○★?―」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢さんの解説文である。この句(?)について、藤島敏さんは、次のように解読(?)した。
死死生死
死生死死
エロス?
生死死
―死死生
この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これらの句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」のことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れない。
黒黒白黒
黒白黒黒
星(わからない)
白黒黒
(そうだ)黒黒白
とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」でこの句(?)を鑑賞したい。
虚虚実虚
虚実虚虚
句?
実虚虚
―虚虚実 ・・・
上記の「『高柳重信』の『解読フィルター』の『虚実(論)』」とは、この句の鑑賞前の次の句に関連してのものであった。
・・・ 泣癖の
わが幼年の背を揺すり
激しく尿る
若き叔母上
高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうのである。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味において、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これらの句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句という偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことについて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごときもので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事である。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それを念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったような気がしてならない」。その意味するところのものは十全ではないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくにも、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」との、この二方向から見定める必要があるように思われるのである。 ・・・
ここで、克衛と重信らが目指したものは、この最後の「新しい定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」ということを、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とでも置き換えたいのである。そして、その背後には、克衛が多大な影響を受けたという、ドイツの「バウハウスの造型理念」などが横たわっているという認識である。ここで、「バウハウス」について、ネット記事(「ウィキペディア」)を付記しておきたい。
・・・バウハウス(Bauhaus)は、1919年、ドイツ・ヴァイマル(ワイマール)に設立された美術(工芸・写真・デザイン等を含む)と建築に関する総合的な教育を行った学校。また、その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、ナチスにより1933年に閉校されるまでのわずか14年間であるが、表現傾向はモダニズム建築に大きな影響を与えた。
(その三)
北園克衛、高柳重信と来ると、ここは、寺山修司よりも、年代的にも、ジャンルからいっても、塚本邦雄ということになろう。邦雄は重信よりも三歳年長ということになる。邦雄について、ネット記事(「ウィキペディア」)を次に付記しておきたい。
・・・塚本邦雄(つかもとくにお、1920年8月7日 - 2005年6月9日)は、日本の歌人、詩人、評論家、小説家。作家塚本靑史は長男。滋賀県神崎郡(現東近江市)生まれ。神崎商業学校(現滋賀県立八日市南高等学校)、彦根高等商業学校(現滋賀大学)卒業[1]。1941年、呉海軍工廠に徴用されたときに友人の影響で作歌を始める。1943年、「木槿」に入会。1947年、「日本歌人」に入会し前川佐美雄に師事。長らく無所属を貫いていたが、1986年に短歌結社『玲瓏』を創刊、以後主宰をつとめる。戦後、商社に勤めながら、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー。第二歌集『裝飾樂句』(カデンツァと発音する)、第三歌集『日本人靈歌』以下二十四冊の序数歌集の他に、多くの短歌、俳句、詩、小説、評論を発表した。聖書をこよなく愛読したが、無神論者であったという。門下には荻原裕幸、江畑實、林和清、魚村晋太郎、尾崎まゆみ、楠見朋彦など。近畿大学教授としても後進の育成に励んだ。とりわけ反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性に支えられたその作風によって、『未來』(アララギ系)の岡井隆・『アララギ』の寺山修司等と共に、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与え、その衝撃は穂村弘や荻原裕幸のニューウェーブ短歌にも及んでいる。 よく知られた歌に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」(『水葬物語』巻頭歌)、「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」(『日本人靈歌』巻頭歌)、「突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』)、「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(『感幻樂』)など。作品では一貫して旧字旧仮名を用いた。
このネット記事(「ウィキペディア」)を見ただけで、どうにも、これは、克衛や重信よりも、さらに得体の知れない、いわば「邦雄曼荼羅教」の教祖のようなイメージでなくもない。ここで、上記のネット記事に紹介されている邦雄の「よく知られた歌」とやらを抜き書きしてみたい。
○革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)
これらに語釈を付するとすると、「革命歌作詞家」・「液化してゆくピアノ」・「日本脱出」・「皇帝ペンギン」・「兵士の眼」・「冴ゆる」・「あやむる」などであろうか。しかし、これらの措辞などが理解できたとしても、なかなか、これらの作品に託した邦雄の意図らしきものを感知するのは容易ではなかろう。
また、二首目は、「日本脱出したし□皇帝ペンギンも」と、□のところが一字分空白となっている。三首目は、「突風に生卵割れ、」の句読点がある。また、「擊ち」は旧漢字である。四首目も、「戀はば」と旧漢字で、「冱ゆる」・「あやむる」と旧仮名の文語体が目立つ。そして、何よりも、これらの全てが、いわゆる、短歌の「五七五七七」のリズムではなく、ことごとく、破調のリズムの邦雄節ともいえるものであろう。
ひるがえって、これらの四首を見ていくと、先に、克衛・重信の作品で見てきた、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」(その二で触れた事項)との、この二方向で、邦雄は邦雄のやり方で模索していたということに、気がつくのである。そして、その模索が、克衛や重信と違って、「五七五七七」という伝統的な柵の世界での、ギリギリの挑戦であるところに、何故か、邦雄の歯軋りのようなものも伝わってくるのである。
とまれ、これらの邦雄の作品を鑑賞するのに、克衛・重信の作品と同じように、特に、「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」ということを念頭に置いて、見ていくことが肝要のように思われるのである。
ここで、再び、上記のネット記事(「ウィキペディア」)を見ていくと、「中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』で1951年にデビュー」の、この、殆ど無名に均しかった塚本邦雄を発見して、華々しくデビューさせたところの「中井英夫」という存在も、邦雄の世界を知る上でのキィワードという思いを深くする。
その中井英夫の「沼の底の悲鳴――塚本邦雄・寺山修司の原点――」(「国文学」昭和五一・一)の、その一端について、次に記して置きたい。
・・・歌壇の旧勢力(何といっても敵は、私の畏敬してやまぬ斎藤茂吉、釈迢空の二人を生きながら神社に祭りあげておき、その神主としてもっともらしい神託を下していたのだから、かなうわけがない)にはまだ到底正面から刃向かうことも出来ず、二十六年の十二月号だったか、今年一年のすぐれた歌集を写真入りで二ページ見開きに出すというときにも、なお無名の新人塚本の『水葬物語』を、大それた、そんなところに入れていいものかどうか、おそるおそる社長の木村捨録にお伺いをたてた記憶がある。
・・・塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ、それならばこそ後年、きらびやかな小説や前衛劇に結実したなどとしたり顔にいうことはたやすいだろうが、肝心なのはこの姿勢が初めから共通していること、そしてついに己れの旧作を超えられぬと知ったとき、潔く短歌をやめる決意を持ち続け、一人はすでにそれを実行したこと、これを措いてはあり得ないが、考えて見れば果敢ない話ではないか。
昭和二十六年当時の邦雄がデビューした当時の歌壇の世界というのは、斎藤茂吉や釈迢空という一大巨峰があり、それらに立ち向かうのに、若干、二十九歳の邦雄(修司に至っては未だ十五歳)をデビューさせたというのは、まさに、破天荒のことであったろう。それよりも、この邦雄らの世界というのは、今なお隠然たる影響を行使し続けている斎藤茂吉や釈迢空の世界とは、別次元のものであり、それらの世界の鑑賞と同じレベルで、上記の邦雄らの短歌の世界を鑑賞しようとしても、それは土台無理ということを、まずもって知るべきであろう。その上で、中井英夫の「塚本・寺山の原点というとき、二人ながらその初期の作品が物語性に富み、色彩感覚にあふれ」の、この「物語性に富み・色彩感覚に溢れている」という特性を、邦雄の短歌の世界を鑑賞する上では、有効なキィワードになるということを、まずもって承知して置くべきなのであろう。
ここで、これらのことをまとめて見ると、塚本邦雄の短歌の世界を鑑賞するに当っては、
「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」に、さらに付け加えて、「物語性」と「華麗な色彩曼荼羅」とにも視点を当てながら、それらの作品に接することこそが、まずもって要請されるものだ、とでもなるであろうか。
最後に、この塚本邦雄を発見、そして、デビューさせたところの「中井英夫」について、
ネット記事(「ウィキペディア」)を付記して置こう。
・・・中井 英夫(なかい ひでお、1922年9月17日 - 1993年12月10日)は、日本の短歌編集者、小説家、詩人。推理小説、幻想文学作家。本名は同名。別名に塔晶夫、碧川潭(みどりかわ ふかし)、黒鳥館主人、流薔園園丁、月蝕領主。東京市滝野川区田端に生まれ育つ。父は植物学者で国立科学博物館館長、陸軍司政長官・ジャワ・ボゴール植物園園長、小石川植物園園長等を歴任した東京帝国大学名誉教授の中井猛之進。東京高師附属中(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)で嶋中鵬二や椿實らの知遇を得る。一年浪人して旧制府立高等学校(新制東京都立大学の前身、現在の首都大学東京)に進み、戦時中は学徒動員で市谷の陸軍参謀本部に勤務。東京大学文学部言語学科に復学するが、中退して日本短歌社に勤務、その後角川書店に入社、短歌雑誌を編集する。代表作の長編小説『虚無への供物』は、アンチ・ミステリの傑作として高く評価され、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに日本推理小説の三大奇書に数えられる(現在は竹本健治の『匣の中の失楽』も含めて「四大奇書」とも)。その他にも薔薇や黒鳥を基調とした幻想的な作品を数多く発表した。
(その四)
いよいよ、寺山修司である。「寺山修司の俳句」については、下記のアドレスで簡単な鑑賞を試みた。
http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_26.html
そこで、その最後の鑑賞あたりに次のようことを記した。
○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
(「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている
○ 教師とみる階段の窓雁かへる
(「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)
(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。
○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
(「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。
寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となったものである。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司) ・・・
上記は、修司の俳句についての記述なのであるが、ここでは、歌人としての修司の世界について触れて置きたい。まず、上記の「修司は『第二回短歌研究新人賞特薦』の『チェホフ祭』を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる」の、この「短歌研究新人賞」をプロモーターしたその人は、前回(その三)紹介した、中井英夫、その人なのである。ここで、中井英夫は、次のように記述している(「国文学」昭和五一・一)。
・・・塚本(注・邦雄)には最初から舌を巻き、稟質への危惧はまったくなかったけれども、寺山となると、先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂と、斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題もあって、果して中城(注・ふみ子)に続く特選にすべきか、それとも第二回は該当者なしとして推薦にとどめるべきか、杉山正樹と二人でさんざん迷ったあげく、目次に入れるべき凸版だけは特選と推薦と二つ作っておき、本人に会った最初の印象でどちらかに決めようということになった。そしてまだ黒の学生服に学帽をあみだかぶりにした本人が初めて日本短歌社を訪ねてきたときは、とっさに推薦の方の合図を送ったほどである。
この「先に俳句のほうで天才児と騒がれているという噂」というのは、上述の「人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、『ホトトギス』の高浜虚子主宰をして、『辺境に鉾を進める征虜大将軍』(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する『天狼』の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった」ということと軌を一にする。また、「斎藤正二から注意された、いくつかの類字句の問題」というのは、いわゆる、上述の、「寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの『本句取り』の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ」ということに関連したものであった。
この「本句取り」ということについては、具体的には、上述の、秋元不死男の代表作の、「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」という俳句作品を、「鳥は雁」に、「こきこきこきと」は「コキコキコキと」に、そして、「罐切れば」は「罐詰切れば」にアレンジ(再構成・編曲・脚色など)して、「わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば」という短歌作品を創作することである。
これを「剽窃」(パクリ)と見るか、「等類・類句・同巣=『去来抄』の『前に作りたる句の鋳型に入りて作する句』・『本歌・本句・本説取りの句』」(アレンジ・パロディ)と見るか、古来からさまざまな議論がなされてきたところのものであるが、方向としては、「独創性」を重視する西洋的な「個人創作」を絶対視する立場からは「否定的」に、そして、「連想性」を重視する日本的な「協同・共同創作」も可とする立場からは「肯定的」に解するという傾向にあるのではなかろうか。
これらの「否定的な考え」と「肯定的な考え」とは、一般的に、「俳句」については、「俳句は十七音であり、かつ季語を必須条件とするため、時として類句が生じるのはやむを得ない。偶然の暗合によってまったく同一の句または類句が生じた時は、制作時期の先行を優先条件として、潔く取り消すほかはない。近年の俳句ブームの影響の一として、俳句大会における類句の頻出が見られる」(『俳文学大辞典』・「類句(山崎ひさを)」)という立場の方が多いのではなかろうか。このことは、「短歌」の世界にも均しく見られることのなのかも知れない。
とすると、この立場からするならば、寺山修司の「俳句」や「短歌」というのは、否定的に評価される面が多々あるということと、そして、同時に、その危険性が常に内在しているというところに、「寺山修司の創作工房の特色」があるということは、ここで、どうしても触れて置く必要があるのであろう。
この「寺山修司の創作工房の特色」ということに関連して、修司は、「定型という詩型の俳句・短歌」の創作にあたって、去来のいうところの、「前に作りたる句の鋳型に入りて作する句」、すなわち、「定型という鋳型に入りて作する」ことを、十五歳の頃の「青森高校に入学する」頃から、そういう創作姿勢を持ち続け、そして、そこからスタートしているということなのである。
これらを、上述の作品で具体的に触れてみると、次のとおりとなる。
○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて (修司)
○ 中年や遠くみのれる夜の桃 (西東三鬼)
修司の、「桃太る」は、三鬼の「みのれる桃」。修司の、「桃太る夜は」は、三鬼の「遠くみのれる夜の桃」。修司の「怒りを詩にこめて」の「て留め」は、三鬼の「中年や」の「や切り」にアレンジされていると見ることも可能であろう。
そして、「修司の心の創作工房」というは、まずもって、「五七五」という「定型の鋳型」があって、そこに、「桃・太る・実る・みのる・夜・朝・昼・怒り・嘆き・詩・歌・句」などなど、さまざまな語句や切字を散りばめて、そして、「これで好し」とする「語句・スタイル」を探し当て、それをもって「一句とする」という、そういう姿勢が基本的な作句スタイルのようなのである。
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば(修司)
○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
これらについては、先に触れたところであるが、その上述のものに付け加えて、まずもって、修司の眼前には、「五七五七七」という「定型の鋳型」がある。そして、その「定型の鋳型」を見ていると、私淑する秋元不死男の一句が想起してくるのである。そして、「鳥」は、和歌・連歌の時代から詠い継がれてきたところの、「雁」に変身をするのである。その古典的な「雅語」に対して、ここは、平仮名表記の「こきこきこき」が、「俗語」の無機質的な「コキコキコキ」が絶対的な「擬態語」・「擬音語」(オノマトペ)として動かないものとなってくる。そして、俳句の下五の「罐切れば」は、短歌の下の句(七七)の七の「罐詰切れば」と、これまた、動かない。それらの骨格が出来上がって、その後は、「スラスラスラ」と「わが下宿・北へゆく『雁』・今日見ゆる・『コキコキコキ』と・『罐詰切れば』」が、口をついて出てくるのである。
これらの、修司の「心の創作工房」で推敲に推敲を施した「俳句・短歌」というものを、「類句」の世界、あるいは、「剽窃句」の世界のものとして、一顧だにしないという鑑賞姿勢は許されるのであろうか。その是非は、ここでは、これ以上、触れないこととする。そして、次のことを、どうしても触れて置きたいのである。
これまで見てきたところの、克衛・重信・邦雄の創作の世界が、「新しい定型の重視(形状やパターンに独特の視線を注ぐ空間認識)」と「新しい世界観(ことばの意味よりも文字のかたちなどを重要視する視覚的な造型理念に基づく価値観)」とに、大なり小なり、それらを意識したものと理解されるように、修司もまた、「これらの定型という詩型の短歌・俳句という鋳型の何たるかを知り、それを最高限度に活かし切った類稀なる創作人であった」と、丁度、「克衛・重信・邦雄の創作の世界」との逆接的ともいえるところの、その一変容のような思いを深くするのである。
(その五)
一巡して、再び、克衛とも思ったが、二巡目のトップは、修司でいくこととする。まず、ここで、一九五四年、修司、十八歳のときに、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」を見てみたい(下記の○印。これは、下記のアドレスによっている)。
http://www.d9.dion.ne.jp/~sachiee/
これらの作品を、『寺山修司全歌集』(一九八二年刊)と照らし合わせて見ていくと、一九五九年の、二十二歳のときの、第一歌集『空には本』 (「チエホフ祭」・「冬の斧」・「直覚の空」・「浮浪児」・「熱い茎」・「少年」・「祖国喪失」・「僕のノート」)では、「チエホフ祭」の章(二十七首)以外に分散されて収載されてくる(下記の▲印)。
修司は、この第一歌集『空には本』に先立って、一九五八年に、『われに五月を』を刊行し、それらは、後に、『寺山修司全歌集』では、「初期歌篇」として収載されるのだが、その「初期歌篇」からの「チエホフ祭」のものは下記の△印である。
これらを見ていくと、修司、十八歳のときの、第二回短歌研究新人賞を受賞したところの、「チエホフ祭」の作品群というのは、修司が、青森高校に入学して、俳句・短歌の創作を始めた十五歳の頃から、その受賞に輝いた十八歳までのもののうちの秀歌を網羅していると解せられるのである。
そして、これらの作品には、当時、同時並行して創作していた「俳句」(五七五)を「短歌」(五七五七七)にアレンジ(再構成)したものも、当然のごとくに察知されるのである(下記の※印。その本句の俳句。ここでは二例のみ上げたが、詳細に検討していくと相当数にのぼると思われる)。それに加えて、当時の俳壇の、秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・中村草田男・加藤楸邨・石田波郷・大野林火らのアレンジかというのも、これまた、ここでは指摘をしていないが、相当数にのぼると思われるのである。
これらのことが、修司の名高い「チエホフ祭」の短歌周辺のことなのであるが、その上で、あらためて、下記の作品群を見ていくと、やはり、修司を発見した、中井英夫が驚嘆して賛辞を憚らなかった、その全貌が見えてくる。
ここで、修司が俳句の方で最も傾倒したと思われる秋元不死男や西東三鬼の盟友の平畑静塔の「定型不実論」(『俳人格』所収「不実物語」・「私の定型感入門」)というものに触れて置きたい。
・・・ある意味では俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっている。
・・・俳句の内容(素材と言ってもよい)だとか、中身の思想とかは言ってみれば作詞家の仕事なので、俳人は作詞と歌手を兼ねていると言えぬことはあるまい。
・・・歌手の唄う場面を見聞すると作詞などはそれほど大して役に立っていない。いかに上手にその曲を歌いこなすか、どういう表情で、どんな衣装を着て、どんな身振りで一曲を歌うかに歌手の力倆がかかっているのである。
・・・唄うことは幼児を見れば分かるように、初めは真似ることから始まるのである。真似るということは当然前人の定まった型があって、それを何べんも何べんも繰り返すことである。唄うのは人間自然の本能ではあっても、唄う術は真似することで身に付くのである。
・・・俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかは不詳である。何百年か何千年の昔から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はいないのではないか。
・・・真似することが俳句の定型を何百年支えてきたことを思えば、真似することがどれだけこの定型文化を生んだ原動力であったことか量り知れないくらいである。
・・・これだけ長い間、無数の人間が真似しつづけてゆけるのは、この定型という曲譜が、人間を安心さす力があるからではないか。最高のお手本だから、誰でも彼でもこれに則って真似してゆけるのだ。
・・・毒にも薬にもならぬという諺があるが、真水のように万人が安心して口をつけられるということ、つまり俳句の定型には、もはや毒気も薬気もすっかり洗い落とされてしまって、万人向きに濾過されてしまったあげくの淡白な本質がかもし出されているということである。
長い引用になったが、「俳句・短歌の定型が曲譜で、歌人・俳人は、作詞家兼歌手、若しくは、一介の歌手に過ぎない」という考え方である。ここで、「作詞家兼歌手」と「一介の歌手」との区別は、「本歌・本句・本説取り」を専らとする作家とそうでない作家とを一つの目安とすることも一つの便法であろう。とすると、 その目安の前者は、「一介の歌手」、そして、後者は「作詞家兼歌手」ということになる。
この区分・目安からすると、まさに、歌人・寺山修司も、俳人・寺山修司も、丁度、演歌界の「美空ひばり」のように、抜群の歌手、唄い手ということになる。また、歌人・塚本邦雄や俳人・高柳重信は、短歌、そして、俳句の定型に、もう一度「毒気や薬気」を注入せんとしての「作詞家兼歌手」という形相であろうか。そして、詩人の北園克衛は、さながら「作曲家」というイメージなのである。
これは、極めて大雑把な見方で、それだけに危険な要素を内包しているけれども、要は、「短歌・俳句のオリジナリティ」というのは、「作曲家・作詞家兼歌手・歌手」との三句分
により、それは、それぞれに異なって理解されるべきものではなかろうかという考え方である。
この観点からするならば、歌人・寺山修司の「チエホフ祭」でのデビューに際して、「模倣小僧あらわる」などの凄まじい拒絶反応は、真に、「短歌・俳句の定型」と、そして、「短歌・俳句のオリジナリティ」と、はたまた、「俳人にして歌人・寺山修司」の何たるかを理解しない、曲学阿世の輩ということになるのではなかろうか。
はなはだ、寺山修司贔屓の論理の展開になってしまったが、とにもかくにも、十八歳の寺山修司の下記の作品を、何の色眼鏡を掛けないで、じっくりと味わって欲しとの、この一点につきる。この「寺山修司を抜きにして、現代短歌を語ることはできない」(中井英夫著『黒衣の短歌史』)と、さらに、それを拡げて、「現代俳句についても然り」ということを、ここで特記をして置きたいのである。
(「チエホフ祭」)
○▲マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(「祖国喪失」)
○▲一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(「チエホフ祭」)
○△そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット(『初期歌篇』)
○△胸病みて小鳥のごとき恋を欲る理科学生とこの頃したし(『初期歌篇』)
○△草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ(『初期歌篇』)
○△とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を(『初期歌篇』)
○ わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
○△吊されて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめて読みき(『初期歌篇』)
○△ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん(『初期歌篇』)
○△雲雀の血すこしにじみしわがシャツに時経てもなおさみしき凱歌(『初期歌篇』)
○ 一つかみほど苜蓿うつる水青年の胸は縦の拭くべし
○△俘虜の日の歩幅たもちし彼ならむ青麦踏むをしずかにはやく(『初期歌篇』)
○▲すこしの血のにじみし壁のアジア地図もわれも揺らる汽車通るたび(「祖国喪失」)
○▲※チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび(「チエホフ祭」) (林檎の木ゆさぶりやまず遭いたきとき)
○▲父の遺産のなかに数えむ夕焼はさむざむとどの時よりも見ゆ(「冬の斧」)
○△胸病めばわが谷緑ふかからむスケッチブック閉じて眠れど(『初期歌篇』)
○ すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を超えて来し郵便夫
○▲※桃いれし籠に頬髭おしつけてチェホフの日の電車に揺らる(「チエホフ祭」)(チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き)
○△煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし(『初期歌篇』)
○ うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く
○ わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む
○△ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし(『初期歌篇』)
○▲勝ちながら冬のマラソン一人ゆく町の真上の日曇りおり(「祖国喪失」)
○△海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(『初期歌篇』)
○ 転向後も麦藁帽子のきみのため村のもっとも低き場所萌ゆ
○ やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
○△蝶追いし上級生の寝室にしばらく立てり陽の匂いして(『初期歌篇』)
○▲北へはしる鉄路に立てば胸いづるトロイカもすぐわれを捨てゆく(「冬の斧」)
○△罐に飼うメダカに日ざしさしながら田舎教師の友は留守なり(『初期歌篇』)
○△すぐ軋む木のわがベッドあおむけに記憶を生かす鰯雲あり(『初期歌篇』)
○ ある日わが貶しめたりし天人のため蜥蜴は背中かわきて泳ぐ
○ うしろ手に春の嵐のドアとざし青年はすでにけだものくさき
○ 晩夏光かげりつつ過ぐ死火山を見ていてわれに父の血めざむ
○ 遠く来て毛皮をふんで目の前の青年よわが胸うちたからん
○ 夾竹桃吹きて校舎に暗さあり饒舌の母のひそかににくむ
○▲誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ(「熱い茎」)
○ 刑務所の消燈時間遠く見て一本の根をぬくき終るなり
○ 製粉所に帽子忘れてきしことをふと思い出づ川に沿いつつ
○△ラグビーの頬傷は野で癒ゆるべし自由をすでに怖じぬわれらに(『初期歌篇』)
○ ぬれやすき頬を火山の霧はしりあこがれ遂げず来し真夏の死
○▲夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでもゆけどわが影を出ず(「熱い茎」)
○ 胸にひらく海の花火を見てかえりひとりの鍵を音たてて挿す
○▲わが内の少年かえらざる夜を秋菜煮ており頬をよごして(「少年」)
○▲サ・セ・パリも悲歌にかぞえむ酔いどれの少年と一つのマントのなかに(「少年」)
○▲外套を着れば失うなかにあり豆煮る灯などに照らされて(「冬の斧」)
○▲冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや(「冬の斧」)
○ 墓買いに来し冬の町新しきわれの帽子を映す玻璃あり
○▲口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに(「浮浪児」)
○ 地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり
(その六)
前回(その三)の塚本邦雄のところでは、邦雄の作品については、殆ど触れることが出来なかったので、ここで、そのとき上げた作品の鑑賞などについてより詳しく触れて見たい。
○ 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
○ 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
○ 突風に生卵割れ、かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼(『日本人靈歌』)
○ 馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ(『感幻樂』)
これらの句について、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「坂本邦雄の韻律」として、「切分法・初句七音・結句六音」などの指摘をしている。これらのことについて、次のように記述している。
・・・塚本邦雄の韻律といえば、第一に、句またがりの多用によって五・七・五・七・七のリズムを分断し、あるいは句を強引にくっつけることで、それまでなかった新しい抒情を成立させたことがある。短歌における切分法の導入である。
・・・掲出一首目は、意味通りに読むと「革命歌作詞家に・凭りかかられて・すこしづつ・液化してゆく・ピアノ」となり、十・七・五・七・三のリズムとなる。一方で、従来の短歌のリズムで読むと「革命歌・作詞家に凭り・かかられて・すこしづつ液化して・ゆくピアノ」となる。前者のように読むときも、本来の短歌の律は作品の裏側に張り付いてくる。逆に後者のように読んでも、十分に意味はとれる。これは塚本の句またがりが、文節は容赦なく分断しつつも語はめったに分断しない、という自主規制をかけているからである。
・・・「革命歌作詞家」や「皇帝ペンギン飼育係り」への強い皮肉は、短歌の音数律を基盤とするこのリズムをもってはじめて可能となった。
・・・塚本の律を特徴づける第二の点が初句七音の字余りである。(掲出三首・四首は)七音を入れることで頭が重くなるが、初句に二つの文節を入れるのが容易になり、迫力のある歌となる。『感幻楽』以後の塚本に頻出し、古典歌謡への接近とともに、塚本短歌が伝統的なものと一体化することにつながった。大岡信は、塚本の初句七音に対し、「典雅で斬新な歌謡調」と賛辞を送っている。・・・
続いて、次の二首を例示として、「結句六音」の記述をしている。
○ 夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが(『閑雅空間』)
○ 秋風に思ひ屈することあれど天なるや若き麒麟の面(つら)(『天使の書』)
・・・結句六音は、塚本流のヒステリックな詠嘆である。掲出の二首はともに中期塚本の傑作だが、結句の字足らずは、塚本個人の詠嘆と現代短歌という文芸そのものの詠嘆が重なりあうような場所で、思い切って放たれているようだ。初句七音は多くの若手の真似するところとなったのに対し、結句六音は塚本以外にはまず使えないものである。・・・
塚本邦雄の「切分法・初句七音・結句六音」について、成程と思うと同時に、俳句の世界においても、芭蕉以前の初期俳諧の時代から、「切字・字余り・字足らず・句またがり」というのは、「本歌・本句取り」の技法と同じく、それぞれの俳人が、それぞれのやり方で、実践・試行をし続けてきたものであった。すなわち、決して目新しいものではないのだ。
それよりも、同時代の、前衛俳人・高柳重信が実践した「多行式俳句」の方が、邦雄の「切分法」よりも、より革新的であろう。今、上記の掲出のものについて、それを応用して見ると次のとおりになるであろう。
○革命歌作詞家に
凭りかかられて
すこしづつ
液化してゆく
ピアノ
○日本脱出したし
皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも
○突風に生卵割れ
かつてかく擊ちぬかれたる兵士の眼
○馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで
人戀はば人あやむるこころ
○夢の沖に鶴立ちまよふ
ことばとはいのちを思ひ出づる
よすが
○秋風(しうふう)に
思ひ屈する
ことあれど
天(あめ)なるや
若き
麒麟の
面(つら)
こうなってくると、前衛詩人の北園克衛の次のような詩と重なってくる。
(死と蝙蝠傘の詩)
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の壁
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
また、高柳重信の次のような彼が試行し続けた俳句らしきものにも接近することになろう。
森
の 夜
更 け の
拝
火 の 彌 撒
に
身 を 焼
く 彩
蛾
(その七)
ここで、再び、北園克衛、塚本邦雄、高柳重信、そして、寺山修司の年代というのを見てみると、克衛が、一九〇二年、邦雄が一九二〇年、重信が一九二三年、そして、修治が一九三五年の生まれで、この四人の中では、邦雄と重信とは、殆ど、同時代に成長して、同じような土俵で、そのジャンルの、短歌、そして、俳句の世界に身を投じていたということが窺い知れる。
事実、この二人の交遊は、敗戦直後の混沌とした未曾有の日本の大変革期に始まる。重信は、邦雄をして、「彼は『メトード』という雑誌を出していた。手紙を往復しながら、彼は三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ、僕も、十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意した」と記しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。
重信の第一句集『蕗子』は、一九五〇年、二十七歳のとき刊行された。その「序」は、重信の俳句の師の富沢赤黄雄が草した。そこで、赤黄雄は、次のとおり記述しているという(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)。
・・・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」。
・・・「今後更に、より絵画的造型へ近接するのではないかとさえ考えられる」。
・・・「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否。即ち彼の構成計画は」「常に言葉の不純による詩の時間制の断絶を恐れる詩人本来のものに外ならない」。
・・・「詩の時間制とは」「言葉の有機的統一であろう。即ち彼の言葉の連続性と不連続性の統一を造型性に置こうとする。これが彼の詩の方法である」。
・・・「彼のしばしば採らざるを得ない多行形式の」「必然性がここにある」。
・・・「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」。
・・・「ともあれ高柳重信は、今日この一書を彼の最初の実験として提示した」。
この重信の「詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」という基本的な考え方は、北園克衛らが試行した、「ことばの意味よりも文字のかたちを重要視したり、一行に一語の詩、『連』が三角形になる詩など、形状やパターンに独特の視線を注いで興味深い成果を導いた」ところの、克衛の「抒情・和風・実験の三つの詩群」のうちの、その「実験」の詩群の中に、それらの原型を見ることが可能であろう。
そして、ここで面白いことは、重信が生を享けた、一九二三年の関東大地震に前後して席巻したのが、克衛らの「前衛派」であり、これらのところを、ネット記事(「ウィキペディア」)では、克衛の紹介で、「関東大震災のあと、大正末期から昭和初期にかけて華開いた前衛詩誌文化のなかで活躍、いわゆるモダニズム詩人、前衛詩人の代表格とされる。日本で初めてのシュルレアリスム宣言(連名)を配布したことからシュルレアリスムと関連付けられることが多いが、ごく短期間で離脱し、該当する作品も少量にすぎない。むしろバウハウスの造型理念を視覚的に享受した影響が大きい」と記述しているところである。
ここでは、この関東大地震に前後しての、これらの「前衛派」的な潮流は、単に、克衛らの詩壇だけに認められるところの流れではなく、俳壇では「自由律俳句」、そして、歌壇では「口語自由律短歌」として、一つの潮流となっていくということを付記して置きたい(これらのネット記事(「ウィキペディア」)は、末尾に載せておきたい)。
前衛派の詩人、克衛は、それらの潮流の真っ直中に身を置いていたが、短歌の邦雄も、俳句の重信も、その後に続く、大きな変革期の、大平洋戦争の未曾有の敗戦後に、その先行的な克衛らの前衛派的な試行を、大胆に吸収し、それを発展させるという、そういう時代史的背景下にあったということは、ここで指摘をして置こう。
こういう時代史的背景の中で、先に紹介した、邦雄の次の短歌は、実に暗示的である。
○ 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(『日本人靈歌』巻頭歌)
この「皇帝ペンギン」というのは「天皇」の、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」というのは、「天皇の一臣民」の、その比喩ととらえることも可能であろう。さらに、「皇帝ペンギン」を「古代歌謡から延々と続く日本歌壇」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」を「邦雄を含めての歌人一人ひとり」を暗示していると理解することも可能であろう。それに続けて、この「皇帝ペンギン」を「短歌・俳句という定型」そのものを、そして、「皇帝ペンギン飼育係り」は、「その定型の奴隷のような歌人・俳人」を比喩しているという鑑賞も、これまた、面白かろう。いずれにしろ、この一首の主題は、「日本脱出したし」であり、それは「新しい戦後のスタート」の決意表明でもあろう。
その邦雄の決意表明は、戦後間もない一九五一年(邦雄・二十九歳)の第一歌集『水葬物語』、一九五六年(邦雄・三十四歳)の第二歌集『装飾楽句(カデンツア)』、そして、一九五八年(邦雄・三十六歳)の、この「皇帝ペンギン」を巻頭歌とする、第三歌集『日本人靈歌』として、結実をしてくるのである。この一連の歌人・塚本邦雄の軌跡というのは、壮大なドラマを見る思いがしてくる。
さて、重信の第一句集『蕗子』(一九五〇年・二十七歳)は、「タダ コノマボ ロシノモニフクサン ヴイリエ・ド・リラダン伯爵」という前書きがあり、「逃竄の歌」という題名の下の、次の十六句(連)からのものを冒頭にして始まる。
※
身をそらす虹の
絶巓
処刑台
※
わが来し満月
わが見し満月
わが失脚
※
胸には肋骨
逃竄なりや
旅なりや
※
佇てば傾斜
歩めば傾斜
傾斜の
傾斜
※
裏切りだ
何故だ
薔薇が焦げてゐる
※
恋人の 視線のはづれ
ひそかに 死を娶る
※
のぼるは夕月
負傷を持つてゐる乳房
※
ぽんぽんだりあ
ぱんぱんがある
るんば・たんば
※
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある
※
月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵
※
風が死ぬ
胃の腑の中まで逃げてはきたが
※
何を葬る
掌上の露
足下の露
※
墓標の前
みなうしろむき
その背の眼
※
夜のダ・カボ
ダ・カポのダ・カポ
噴火のダ・カポ
※
終らぬ序曲
終らぬ序曲
終らぬ序曲
※
虹
七線
わが箴言をここに書く
これらの、重信の十六句(連)を見ただけで、二十一歳年長の北園克衛は、「容易ならざる創作人が現われた」と思ったのではなかろうか。そして、三歳年長の塚本邦雄は「好敵手現る」という感慨を懐いたのではなかろうか。十二歳年下の寺山修司は、この句集が刊行された、一九五〇年には、十四歳で、「青森市歌舞伎座に引き取られポーを読みふける」と、いまだ、「俳句・短歌・詩」の世界は未知の世界であったのかも知れない。
なお、この重信の「リラダン伯爵」については、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊」
で紹介されている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0953.html
(自由律俳句)
明治時代後期、河東碧梧桐が新傾向俳句を創作したことに始まる。明治44年(1911年)に荻原井泉水が俳誌『層雲』を主宰し確立された。当初、碧梧桐も層雲に加わっていたがのち離脱した。大正時代になると自由律俳句を代表する俳人として層雲より尾崎放哉、種田山頭火が登場する。一方、層雲を離脱した碧梧桐は大正4年(1915年)、俳誌『海紅』を主宰。中塚一碧楼がこれを継ぎ自由律俳句のもう一つの柱となった。尚、この一碧楼が自由律俳句の創始者とする見方もある。しかしながら、自由律俳句は放哉、山頭火の活躍した大正時代~昭和初期以降衰退している。昭和時代の終盤に放哉に影響を受けた夭折の俳人住宅顕信が登場する。平成に入り、山頭火がクローズアップされ自由律俳句の再評価がなされている。また現実の人物ではないが、いがらしみきお作のぼのぼのに登場するオオサンショウウオのおじいさんが 詠んでいることでもしられる
(口語自由律短歌)
大正13年(1924年)に、石原純の発表した歌が、歌壇において注目を集めた自由律の最初であろう。石原純は、その後、自由律短歌論を展開。やがて、この名称を定着させた。石原の自由律短歌は旧来の文語体ではなく口語体を採用していたため、自由律短歌はそのまま口語短歌運動と結び付き、口語自由律短歌として発展してゆく。昭和時代になると、金子薫園、土岐善麿、前田夕暮も参加し、口語自由律短歌は興隆期を迎える。特に、前田夕暮は、主宰する結社全誌をあげて自由律を提唱し、自由律短歌集を次々と刊行して、口語自由律短歌の代表作を残した。しかし、昭和10年代半ばには、全員、定型歌に復帰している。昭和末期、ライトヴァース短歌と呼ばれた、加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘らが発表した、記号短歌や、散文に近い、字余り・字足らずの多い短歌群は、昭和初期の口語自由律に通じるものとも言えよう。
(その八)
先(その七)に、「この重信の『詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある』という基本的な考え方は、北園克衛らが試行した、『ことばの意味よりも文字のかたちを重要視したり、一行に一語の詩、『連』が三角形になる詩など、形状やパターンに独特の視線を注いで興味深い成果を導いた』ところの、克衛の『抒情・和風・実験の三つの詩群』のうちの、その『実験』の詩群の中に、それらの原型を見ることが可能であろう」ということに触れた。
この克衛の「抒情・和風・実験」というのは、『北園克衛全詩集(藤富保男編)』の「北園克衛の詩を俯瞰する(藤富保男稿)」では、「リリカルな作品・郷土詩の作品・実験的な作品・(その他の傾向の作品)」の四つの詩群に分類している。そして、克衛というと、これらの詩群のうちで、特に、「実験(実験的な作品)」の詩群が夙に知られていると指摘することができよう。
ここで、克衛の「全著作一覧」を、上記の四つの分類に従い、そのうちの「実験(実験的な作品)」の詩群を中心としての概括は次のとおりとなる。
一 「実験(実験的な作品)」の詩群
第一詩集『白のアルバム』(一九二九年刊・二十八歳)・・・「記号説」(白い食器/花/スプウン/春の午後三時/白い/白い/赤い/・・・) 「図形説」(空中運動・水中運動・宇宙論・整形手術・非常な文明・貴婦人・美麗な魔術家・水中映画・空中映画・飛行船の伝説・空中魚)
・・・「この第一詩集は生活と観念を捨て感情的な起伏などを抑え、彼が知的操作によって詩を創造するという態度を打ち出した仕事だと言ってよい」(藤富保男)。
第四詩集『円錐詩集』(一九三三年刊)
第九詩集『固い卵』(一九四一年刊)
第十二詩集『黒い火』(一九五一年刊)・・・「戦後六年目に、ついに北園は彼の詩集のピークと目される『黒い火』を出す」(藤富保男)。※「死と蝙蝠傘の詩」
第十四詩集『真昼のレモン』(一九五四刊)・・・「戦後の暗い隧道を抜けきった北園の安定した高気圧の拡がりを象徴しているかにみえる」(藤富保男)。
第十七詩集『ガラスの口髭』(一九五六年刊)・・・「彼の実験は一見華麗に見えるが、ここでは滅却、消去、削除の方向に狙いを向けているのに注目すべきであろう」(藤富保男)。
第十八詩集『青い距離 パピルス・プレス』(一九五六年刊)
第十九詩集『煙草の直線』(一九五九年刊)・・・「結論的に言うと無調音楽に等しくなる」「このころすでに世界の詩の動きにコンクリート・ポエトリィがさかんになって、彼のこの傾向の詩は外国の詩人たちに多くの注目を受け、ポルトガル語訳の『煙の直線』も出たことを付記しておこう」(藤富保男)。※※「単調な空間」
第二十一詩集『眼鏡のなかの幽霊』(一九六五年刊)
第二十二詩集『空気の箱』(一九六六年刊)
第二十三詩集『Moonlight night in a bag』(一九六六年刊)
第二十五詩集『Study of man by man』(一九七九年刊)
第二十六詩集『BLUE』(一九七九年刊)
第二十七詩集『色彩都市』(一九八一年刊)
第二十八詩集『北園克衛詩集』(一九八一年刊)
第二十九詩集『北園克衛全詩集』(一九八三年刊)
二 リリカルな作品群(抒情)
第二詩集『若いコロニイ』(一九三二年刊)
第三詩集『Ma petite Maison』(一九三三刊)
第六詩集『夏の手紙』(一九三七年刊)
第八詩集『火の菫』(一九三九年刊)
第十一詩集『砂の鶯』(一九五一年刊)
第十三詩集『若いコロニイ(定本)』(一九五三刊)
第十六詩集『ヴイナスの貝殻』(一九五五年刊)
三 郷土詩の作品群(和風)
第五詩集『鯤』(一九三六刊)
第十詩集『風土』(一九四三年刊)
第二十詩集『家』(一九五九年刊)
四 その他の作品群
第七詩集『サボテン島』(一九三八刊)
第十五詩集『BLACK RAIN』(一九五四年刊)
第二十四詩集『白の断片』(一九七三年刊)
『黒い招待券』(一九六四刊)=短編小説集
『句集 村』(一九八〇刊)=句集
『天の手袋』(一九三三刊)=評論集
『句経』(一九三九年刊)=評論集
『ハイプラウの噴水』(一九四一年刊)=評論集
『郷土詩論』(一九四四年刊)=評論集
『黄いろい楕円』(一九五三刊)=評論集
『Les petites justes(ポール・エリュアール)』(一九三三刊)=訳詩集
『恋の唄(ステファン・マラルメ)』(一九三四年刊)=訳詩集
『火の頬(レイモン・ラディゲ)』(一九五三年刊)=訳詩集
上記の膨大の著作集(詩集)のうちで、これまでに、「単調な空間」(※※印・「その一」で紹介)と「死と蝙蝠傘の詩」(※印・「その六」で紹介)の二編の作品に触れたに過ぎない。そして、これらの詩群の克衛の個々の作品に触れることは、これは、まずもって至難と言わざるを得ないであろう。
しかし、幸いのことに、ネットの世界では、克衛の紹介というのは充実しており、それらを活用して、これからますます、この克衛の再評価というのは為されていくものという予感を抱いている。
ここでは、下記のアドレスの「北園克衛文庫」の紹介と、そこで紹介されている「日本の視覚詩の運動について --- VOUとASAを中心に」(建畠晢)のうちの、「コンクリート・ポエトリィ」関連についてのみ、その紹介をしておきたい。
(北園克衛文庫)
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-home.htm
「日本の視覚詩の運動について --- VOUとASAを中心に」(建畠晢)
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-tate.htm
コンクリート・ポエトリーは、その前史を、ステファン・マラルメの「骰子一擲」の語の配列の空間性やアポリネールのカリグラム、ルイス・キャロル、ガートルド・スタイン、エズラ・パウンド、E. E. カミングス、あるいは未来派のタイポグラフィックな表現やダダのコラージュ等に見出すことができる。しかしゴムリンガーらの提唱は、それらの先駆的な試みを、方法論的にさらに徹底させ、詩を純粋に言葉の物質性(音とかたち)の上に位置づけようとするものであった。すなわち、詩の在来のシンタックスや線行による構成の制約から解放して、紙面という一つの空間の中に、文字を、もっぱら視覚面や音響面での効果に寄りながら配置するのである。コンクリートの概念は、したがって言葉は物質であるというテーゼによって、究極的には詩の構造がそのまま詩の内容であることを目ざしたものであるといえる。もっとも実作においては、ゴムリンガーとノイガンドレスの方法はかなり異なっており、前者が構造=内容を文字の配置による「星座」(Konstellation)として実現したのに対し、後者は主にイデオグラムの操作によってグラフィックな空間を強調しようとした。
さて北園の「単調な空間」は4つの章からなるが、例えばその最後の章は次のようなものである。
白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
この作品は一応、行分け詩の体裁をもっているが、彼の詩論にあるように「言葉がもっている一般的な内容や心要性を無視して、言わば言葉を色や線や点のシムボルとして使用」[4]としていること、「いわゆるアレゴリイとかシンボルとかメタファなどを利用して詩を書かないこと、つまり『意味によって詩を作らない』で『詩によって意味を形成』するにとどめる」[5]こと、等の方法において、かなりコンクリート・ポエトリーの概念に近いものであった。ヴィニョーレスの仲介によって、「単調な空間」はノイガンドレスに紹介され、その代表者アロルド・デ・カンポス(Haroldo de Campos)は、1958年にこの詩を日本のコンクリート・ポエトリーとしてサンパウロ州新聞文芸欄にポルトガル語で翻訳発表している。しかしそのような海外での評価にもかかわらず、北園自身はコンクリート・ポエトリーの運動に主体的に参加することはなく、むしろ60年代に入ると、後述するようにコンクリートの“教義”とはおよそ対極的なプラスティック・ポエムを唱えるようになった。
(その九)
三巡目のトップは、前回(その八)に続き、北園克衛でいくこととする。克衛については、死後、『北園克衛 エッセイ集』(二〇〇四年刊)が刊行された。そのうちの「前衛の行方」というのが面白い。
・・・「文学」 いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう。
・・・「音楽」 音楽はその時空の比例を逆転して音響芸術となるべきであろう。
この「文学 ・・・いずれ言語はモールス信号のようなものになるだろう」というのは、もう既に、重信の次のようなもの(その二で紹介)では、「モールス信号のようなもの」といっても良いのではないかと、そんなことを実感する。
・・・ ●●○●
●○●●○
★?
○●●
―○○●
いや、短歌(三十一音字)や俳句(十七音字)の世界では、その作品は氷山のほんの一角で、その海面には、膨大な謎の世界のようなものが蠢いている。その謎めいたものを探りあてる面白さが、短歌や俳句という短詩型の世界の鑑賞の魅力の一つなのかも知れない。
克衛には、『句集 村』というのがあり、俳句にも造詣が深かったのだろう。ネット記事(日刊・この一句)で、坪内稔典の鑑賞ものを目にした。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_1201.html
・・・2002年12月5日 役僧の青き頭巾や冬木立 (季語/冬木立) 北園克衛
役僧は法会などで導師を補助する僧。その役僧が冬木立の道を歩いている。法会などの準備のためだろうか、早足だ。僧の青い頭巾が枯れた木立の中で一層青く鮮やか。
作者は1902年生まれのモダニズムの詩人。詩集に『白のアルバム』などがある。俳句雑誌「風流人」によって俳句も作り、没後の1980年に句集『村』が出た。「瓢箪のくびれて下る暑さかな」「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」「僧坊に病む人のあり大糸瓜」「白塗りの船の行方や鰯雲」「初富士や葱より高く二三寸」「秋晴や土新しき切通し」「古文書をまたよみかへす若葉かな」。これらが『村』にある句だが、初富士を葱畑の彼方に望んだ句の構図がおもしろい。ちなみに、今年は克衛の生誕百年。それで「現代詩手帖」11月号が特集を組んでおり、俳人・小澤實の評論「北園克衛、その俳句」が載っている。(坪内稔典)
ここで、紹介されている、克衛の俳句を抜き書きして見ると次のとおりとなる。
○ 役僧の青き頭巾や冬木立
○ 瓢箪のくびれて下る暑さかな
○ 冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁
○ 僧坊に病む人のあり大糸瓜
○ 白塗りの船の行方や鰯雲
○ 秋晴や土新しき切通し
○ 古文書をまたよみかへす若葉かな
これらの克衛の句作というのは、先(その八)の「抒情・和風・実験」という区分からするならば、「和風」という区分けに入るものなのかも知れない。上記の七句を見て、克衛俳句の特徴は、「切字・切れ」の重視というようなものが窺える。
「役僧の青き頭巾や冬木立」(中七「や」切り)、「瓢箪のくびれて下る暑さかな」(下五の「かな」留め)、「冬瓜と帽子置きあり庫裏の縁」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「僧坊に病む人のあり大糸瓜」(中七「あり」で切れ、二句一章体)、「白塗りの船の行方や鰯雲」(中七「や」切り)、「秋晴や土新しき切通し」(上五「や」切り)、「古文書をまたよみかへす若葉かな」(下五の「かな」留め)と、「や・かな」の古典的な「切字」の多用と、俳句の基本的なスタイルの「二句一章体」(中七で切り、下五の体言留めの二句一章体)を基本にしているという雰囲気である。
もとより、「冬木立・暑さ・冬瓜・大糸瓜・鰯雲・秋晴・若葉」と、これまた、「有季・定型派」の伝統的なスタイルで、「自然諷詠」・「人事諷詠」も一方付かず、「モダニズムの詩人」の、その「モダニズム」を拒否しているような姿勢で、それが却って心地よい雰囲気である。
克衛には、「雪と蕪村の句」・「『古池』と『御手討』」というエッセイがあり、芭蕉よりも蕪村好きということを鮮明にしている。
・・・日本の詩にとって芭蕉のリリシズム(注・芭蕉以前の主知主義のトリピアルに比して)の勝利が果してプラスになったかどうかは疑問である。
・・・蕪村は芭蕉の単純なリリシズムにドラマチックな要素を加えた俳人として代表的な存在である。芭蕉流の俳句が知的な要素をとりもどし、詩としての全体的なアウトラインを回復するために五十年以上の歳月を要したことになる。
・・・明治の俳人子規が蕪村の句に傾倒していたことは周知のところであるが、かれは蕪村の鋭い描写力を学んだにすぎなかった。
・・・子規の写実主義俳句は現代俳句への新しいリアリズムの道を切り開いたが、俳句はふたたび創造性を失うことによって、詩としての全体的なアウトラインをもたないものとなってしまったのである。
この「ドラマチック」ということは、「虚構性」ということであり、詩人・克衛、俳人・重信、歌人・邦雄、そして、マルチニスト詩人・修司も、共通して、蕪村好きということが窺えるのである。ただ、詩人・克衛は、定型の短詩形の「短歌・俳句・川柳」に関して、下記のような一文を、「川柳」というところで綴っており、これらのジャンルと克衛がライフワークとしている「詩」というジャンルでは、相当の距離があるということを明確に自覚していたということは、特記しておく必要があろう。
・・・そもそも俳句とか川柳とかという定型詩(注・短歌も入るだろう)に首をつっこみながら、前衛的な実験をしようとすることは認識不足もいいところであって、まるで現代詩が何のために存在しているのか考えてみたことがないとすれば、川柳長屋(注・短歌、俳句も含めて)に住んでみたところでろくなものの作れるわけがない。
(その十)
一九九八年五月~六月に、群馬県立土屋文明記念文学館で「戦後俳句の光彩 金子兜太・高柳重信」と題する「第五回企画展」が開催された。この文学館の館長は詩人の伊藤信吉である。その伊藤信吉が、「上州地縁において 御案内ひとこと」と題して、次のように綴っている。
・・・
空つ風にわかに玲瓏となるときも 兜太
おお上州! 作者名を伏せて読めばこれは上州人の風土感覚そのもの。と言っても作者は埼玉の人。と言っても埼玉は埼玉ながら群馬と地つづきの感の熊谷の人。おなじ空っ風の吹くその地の人。
暗黒や関東平野に火事一つ 兜太
またしても、おお上州! 遠い日の夜、まっくら闇の野の向うの方に燃えていた火事、音の無くただ燃え立っていた火炎。そうかとおもうと濃い闇の夜の一列の狐火の幻。金子さんの定住漂泊の思いと、即興と造型の同時性の世界。〈地縁同郷〉の人がここに居る。
軍靴に来て/蘆生の/雲雀/絶えにけり 重信
一行句ふうに書き写したけれど、これはもと四行書きの作品。形式破壊、形式革命。会場へ入ってそれを見て下さい。前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し、鮮烈な新世界をひらいた。いたるところのその切口の美。
秋山の/赤城を/忘れ/忘れ果て 重信
郷愁なりや。もともと高柳さんは佐波郡境町に墓地のある人。上州の人。それにしても山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち。
・・・
この詩人・伊藤信吉館長の「御案内ひとこと」での、前衛俳人の雄の金子兜太をして、「即興と造型の同時性の世界」、また、高柳重信をして、「前衛俳句の高柳さんはその多行形式を、四行〈自己定形〉のように形成し」という指摘は、実に、当を得ている。また、「山村暮鳥の形式変革、萩原恭次郎の形式革命。高柳重信の多行変革。おお上州アヴァンギャルドの系譜たち」という指摘も、同郷の詩人ならではという思いがする。
そう言えば、山村暮鳥もまた、「新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度も変容させた詩人はまれであり」といわれている、まさに「形式変革」の人であった。
それにもまして、萩原恭次郎になると、己の政治信条(アナーキズム)と文学信条(ダダイズム)と、その二つの面において、前衛派の先頭に立ち、まさに「形式革命」に殉じた詩人であった。その前衛派の拠点誌の一つの「MAVO(マヴォ)」(村山知義らの「日本の戦前のダダ(美術系統)のグループ」)には、若き日の北園克衛らが参加し、それらは形を変えて克衛らの機関誌「VOU(バウ)」とも繋がって行くのである。
続いて、詩人・伊藤信吉が指摘する高柳重信の「多行変革」とは、戦後の日本俳壇に一大警鐘を鳴らした「多行式俳句」の提示という「多行変革」(重信の師の富沢赤黄男をして「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」と言わしめたところ「多行変革」)を意味しよう。
これらの三人に共通することは、これこそが、詩人・伊藤信吉館長の、「御案内ひとこと」の末尾の言葉、すなわち、「アヴァンギャルドの系譜たち」ということになろう。
「アヴァンギャルド(avant-garde)」とは、一般には、「前衛芸術(または前衛美術)」の意であるが、この「御案内ひとこと」の伊藤信吉の言う「アヴァンギャルドの系譜たち」の「アヴァンギャルド」というのは、広い意味での「保守的な権威に対する『変革・革命』を目指す前衛」ということを意味し、「山村暮鳥・萩原恭次郎・高柳重信」は、その正統な「系譜を継ぐ詩人たち」なのだということを意味しょう。
とすれば、北園克衛も、塚本邦雄も、はたまた、寺山修司もまた、高柳重信と同じく、「アヴァンギャルドの系譜たち」であることにについて、いささかの抵抗も感じないのである。
ここで、山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)と萩原恭次郎の『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」) のネット記事のアドレスとその一端を紹介して置きたい。
山村暮鳥の『雲』(「序」の「結びの一節」)
http://www.nextftp.com/y_misa/bocho/bocho_my.html
・・・芸術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や真実の行為に相対するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが芸術をして真に芸術たらしめるものである。芸術における気稟の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る叙述、表現にをはつてゐるかゐないかは徴頚徹尾、その何かの上に関はる。その妖怪を逃がすな。 それは、だが長い芸術道の体験においてでなくては捕へられないものらしい。何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。
萩原恭次郎『死刑宣告』(「日比谷(詩七篇)」の一篇「地震の日に」。この詩は「関東大震災」のものであろう。そして、この「関東大震災」のあった年に、高柳重信は誕生した。)
http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%AE%A3%E5%91%8A
死に誘ふものは分らない
くぢけてしまつた道路の間に
首がころがつて笑つてゐる
裂かれた肉体がはなれて笑つてゐる
破裂した心臓が
ねぢれた儘 動かない
干からびた苦い血を嘗めて
友よ!
————生きて 生きて…………………
両手をひろげて
その首にかぢりついて
接吻する
血と砂とにむせて乾きついた儘
私は
固く
————————哭く
その肉体に
————————血をそゝぎ
————————血で洗はふ!
砕けてしまつた市街の上に
彼と我との意思は
蒼ざめて発光する
ころがつてゐる首
焼け残つた白骨
残つた生存は
誰にこれからを捧げやうか
干からびた血と血を嘗めて
友よ!
(その十一)
ネット情報というのは、図書などの活字情報と違って、瞬時にして、多種・多様な情報を得ることができるという利点がある。下記のアドレスで、「塚本邦雄さんご逝去 -桑原武夫の俳句第二芸術論-」(2005年6月13日)というものを目にした。
http://www.dotcolumn.net/blog/index.php?p=65
・・・
戦後の代表的歌人で前衛短歌運動を主導し、また紫綬褒章ほか数々の受賞をし、後に近畿大学文学部教授を務めた塚本邦雄さんが6月9日亡くなった。それに関して6月10日付、毎日新聞の「余禄」が目にとまった。その記事を掻い摘んでご紹介したい。
俳句は菊作りのようなもので芸術ではない―戦後間もなくこう断じた仏文学者の桑原武夫の「俳句=第二芸術」論に対し、俳人の高浜虚子は「何番目かと思ったら、俳句もやっと第二芸術になりましたか」と動じなかったといわれる。―中略―塚本邦雄さんも第二芸術論に対し真っ向から打ち返した―中略―現実の写生を重んじる短歌に対し、幻想や虚構を歌って心に響く真実を求めてきた塚本さんは自分の仕事をこうも評する。「同じ100でも10の10倍ではなく、マイナス10とマイナス10をかけてできた100。こちらの方が意味がある」以下略
<このマイナスかけるマイナスの発想が面白い。不屈の前衛文学者らしい言葉だ。>
・・・
塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』が世に出たのは、一九五一年のことであった。当時の日本歌壇は、「近藤芳美、宮柊二たちのリアリズムが支配的であったためか、和綴じ二色刷りのこの異本も、ほとんど歌壇の目につかなかった」という(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)。その巻頭の一首が次の歌である(その三で紹介)。
○ 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ(『水葬物語』巻頭歌)
この歌について、「現代短歌全体にとって象徴的な作品である。ここに表現された作詞家の思惟や態度の貧しさ、、底の浅さや偽善は、一人彼だけではなく、戦後という新しい時代全体の浅はかさを示すものであったろう。ダリの有名な絵を思わせる『液化』も、研ぎ澄まされた批判精神がシュールな形象化を見せた姿に見える。韻律だけでなく、喩法においても、従来の短歌に叛逆を試みて成功している」(『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』)との評を見る。
この「液化してゆくピアノ」は、「ダリの有名な絵を思わせる『液化』」とのことであるが、ここでは、あえて、シュルレアリスムの前衛画家「ダリ」を引き出す必要もないのではなかろうか。ここは、「固体(ピアノ)が液化する(水のように形状をもたないものになる)」ということで、この歌集の題名の『水葬物語』の、あたかも「水中に死体を葬る儀式の物語」を示唆するように、丁度、「固い物が溶けて水に変質し」、「その変質した亡骸の水の弔い」の歌というように理解をいたしたい。
そして、この歌の主題は、「革命歌作詞家に」の初句十音の「革命歌作詞家」にあると解したい。すなわち、「革命歌の作詞家」という理解である。
『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』では、「革命歌・作詞家に凭り」の「五・七音」に読んでも「十分に意味はとれる」というのだが、ここは、そういう二義的にとらえず一義的にとらえたい。そして、この「革命歌・作詞家」という比喩は、ずばり、当時の一世を風靡していた、上述の「近藤芳美、宮柊二たちのリアリズム」の、その「近藤芳美」その人に焦点をあてていると解したい。
『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「否定的近藤芳美論(楠本繁雄稿)」では、当時の、近藤芳美を下記のように記し、その歌を多数引用・鑑賞している。
・・・
昭和二十二年の「新歌人集団」の結成、二十六年の『新選五人』の刊行、そして、同年の「未来」の創刊、と独歩を始めた芳美は、解き放たれた鳥のように戦後の大気の中ではばたくことになった。自らの志向方法を歌壇の大地にはぐくむことは、阻むもののない自由と共に、手ばなしの危険を孕んだものであったと言える。『埃吹く街』『静かなる遺志』『歴史』『冬の銀河』『喚声』・・・と、めまぐるしい時流の中で、独特の家風をうち樹てていった。
○ 臆しつつ伏字よみたる十年(ととせ)前今臆しつつ若き世代に対す(『埃吹く街』)
○ 機関区を捨てて山中にかくれ行く幾日きれぎれに記事は伝へつつ(『静かなる遺志』)
○ 君の如き徒労と言ひてすむならば其の安けきに吾も逃れむ(『歴史』)
○ 無名者の幾億の遺志が今支う平和なりありありと吾が手に支う(『喚声』)
これらの近藤芳美に対して、塚本邦雄は、「芸術前衛、政治前衛、その中で、ぼくには政治前衛というのはまったくの虚妄に等しいもので、文学の上で前衛があるなら、芸術前衛以外にない」(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)
と真っ向から対立するのである。
こういう理解から、掲出の邦雄の歌を次のような鑑賞も許されるのではなかろうか。
・・・戦後の日本に「有用」な世直しの革命の唄が流れ、その作詞に貪るように取り組んだ詩人たちの熱気に凭りかかられて、まさに、美を奏でる黒い固い鍵盤楽器のピアノすら、その旋律を奏でることもかなわず、少しずつ、少しずつ、まるで、液化するように、水の亡霊となって消え失せてしまった。「有用の唄のなかに美はない。美は無用の唄のなかにある」。それ故に、一度、消え失せてしまった、その幻想の水の亡霊を丹念に手で掬いながら、かって、美を奏でた、在りし日のままに、その水の亡霊の「唯美」に、吾が幻想の「唯美」を重ね合わせながら、もう一度、かつての、美を奏でた黒い固い鍵盤楽器の、そのピアノの「幻の旋律」を世におくりたい。
はなはだ飛躍した鑑賞になってしまったが、もっと、シニカル(風刺的)なパロディ風(比喩的)に鑑賞するならば、次のようにもなろうか。
・・・時の流れは、革命歌の作詞家のような、プラス志向の、歌人・近藤芳美一点張りである。黒い固い西洋の鍵盤楽器のピアノすら、この近藤芳美の毒気にあたって、まるで、少しずつ、メロメロと液状の水と化してしまうようだ。これでは、どうにもやりきれない。されば、ここは、マイナス志向の「日陰者」の「役立たず」の「メロメロ節」の「隆達節」(注・安土桃山時代の日蓮宗の僧・隆達の、当時流行していた小歌を集め、自ら作詞・作曲を行い独特な声調のその「隆達節」)でも唸って、その「水葬物語」でも綴ることこそ、「衒学趣味・虚構趣味・唯美趣味・露悪趣味・諧謔趣味・幻想趣味・夢想趣味・男色趣味・高踏趣味・造語趣味・聖書趣味・呪術趣味・叛逆趣味・難渋趣味・韜晦趣味・地獄趣味・虚無趣味・エトセトラ」の「負数の王」こと、この塚本邦雄の使命ではなかろうか。
これもまた、余りにも、独断的の誹りを頂戴することになろうか。とするならば、またまた、振り出しに戻って、不満は不満なのだが、『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』の、次のような鑑賞らしきものを再度付記しておく位が無難であろうか。
・・・ここに表現された作詞家の思惟や態度の貧しさ、底の浅さや偽善は、一人彼だけではなく、戦後という新しい時代全体の浅はかさを示すものであったろう。ダリの有名な絵を思わせる『液化』も、研ぎ澄まされた批判精神がシュールな形象化を見せた姿に見える。韻律だけでなく、喩法においても、従来の短歌に叛逆を試みて成功している。
最後に、戦後の歌壇の、近藤芳美(芸術前衛と政治前衛とを信条とした)と塚本邦雄(政治前衛を否定し芸術前衛に賭けた)との対比は、戦後俳壇の、同じ「造型派」ながら、金子兜太(芸術前衛と社会性直視の造型派)と高柳重信(社会性忌避と芸術前衛の造型派)との対比と、好一対を示すことを付記するともに、近藤芳美と金子兜太の、ネット記事の一端を付記して置きたい。
(近藤芳美の短歌理論=「ウィキペディア」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%8A%B3%E7%BE%8E
「新しき短歌の規定」において、ごてごてした装飾を配した素材主義をとることを宣言。戦後短歌は、人々の生活の実感に基づいたリアリズムによるべきだと主張しつつ、ややもすると宗匠主義に陥ることのあったアララギを内部から批判し、また、当時さかんであった、人民短歌に代表される日本共産党系の歌人についてもその公式主義や安易さを批判した。結果として、アララギ内部では、歌と政治を峻別しないと批判され、左翼からは傍観者と批判されることになる。(注・「新しい短歌の規定」は「新しい短歌とは何か、それは今日有用の歌である」から始まる。)
(金子兜太の造型俳句論=「戦後俳句の現象学的展開(五島高資稿)」)
http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html
その俳句革新の理論的根拠となったのが、昭和三十六年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体への執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての物自体に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた物自体としての世界は「原初的世界」であるがゆえに、そこから再構築される世界はややもすると自我中心的世界になりがちである。
(その十二)
「スキャンダリズムの効用(扇田昭彦稿)」(「国文学」昭和五一・一)で、寺山修司について、次のように記述している。
・・・常識的な区分から考えてみても、「寺山修司とはいったい何者なのか?」という単純な問いの前に、私たちはほとんど絶句せざるをえない。職業ジャンルの上からいえば、彼はまず俳人であり、歌人であり、詩人であり、小説家であり、エッセイストである。さらに彼は放送作家、シナリオライターであり、劇作家、演出家、劇団主宰者、映画監督、競馬評論家、テレビタレント、全国家出少年身許引受け人であり、そのうえ『幻想写真館・犬神家の人々』というユニークな写真集を上梓した写真家でもある。
・・・こうした脱領域的なタイプの創造者は、何事につけても、ひと筋の道をひたむきに禁欲的に歩むことをもって尊しとする日本の伝統的芸術風土のなかでは、たちまち異端児、ないしはイカサマ師として扱われるのがつねである。
・・・大正末期から昭和のはじめにかけて「先駆芸術運動の帝王者」(高見順『昭和文学盛衰史』)と形容され、芸術の諸ジャンルの境界線を攪乱したかつての旺盛な前衛芸術家・村山知義との間に、その世評においてある種の類縁性を感じないわけにはいかないのだ(注・村山知義については「その十」で触れた)。
・・・寺山修司によって、スキャンダリズムはふたたび、あらゆるものの奇想天外な出会いの魅惑と両面価値的なバイタリティーの輝きを本来的に回復したのである。
・・・永遠のスキャンダリストとは、あらゆる価値意識の定着化、固定化を拒否するゆえに、つねに流動的、挑発的、攻撃的であり、永遠に自己完結しない半芸術ないしは非芸術の荒野を駆けぬけていく者のことだ。
・・・だからこそ、こうしたトリックスターに浴びせられるのは、つねに畏怖と嘲笑の二つのことばであろう。だが、あらゆる意味で悲劇的、感傷的な意味あいを排除していえば、それこそが価値攪乱者としての寺山修司にはふさわしく、それこそがトリックスターとしての栄光の孤独、あるいは孤立者の栄光なのである。
永遠のスキャンダリストの寺山修司は、一九八三年五月四日に瞑目した。その瞑目する八ヶ月前の、一九八二年九月一日の「朝日新聞」に、「懐かしのわが家」と題する作品(詩)が掲載された。これが、最後の「遺稿」となってしまった。修司の良き理解者であった、詩人・谷川俊太郎は、次のとおりの、この詩の感想を漏らしたという(『現代詩文庫 続寺山修司詩集』所収「死ぬのは他人ばかりか?(佐々木幹郎稿)」)。
・・・寺山は最後に名作を遺したんだよ。あの一作だけで寺山の詩集は充分だ。「懐かしのわが家」は彼が詩人であったことの証明なんだと思う(谷川俊太郎)。
懐かしのわが家(寺山修司)
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽のいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
ここで、寺山修司の俳句(一句)と短歌(一首)の鑑賞について、心に残ったものを次に付記して置きたい。
(「増殖する俳句歳時記」)
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19980528,19990523,19990911,20000304,20010504,20030310,
20030501,20050301,20060917,20070502,20070622,20080127,
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May 02-2007
アカハタと葱置くベット五月来たる 寺山修司
修司が一九八三年五月四日に亡くなってから、もう二十四年になる。享年四十七歳。十五歳頃から俳句を作りはじめ、やがて短歌へとウエイトを移して行ったことはよく知られている。掲出句は俳誌「暖鳥」に一九五一年から三年余(高校生~大学生)にわたって発表された二百二十一句のなかの一句(「ベット」はそのまま)。当時の修司がアカハタを実際に読んでいたかどうか、私にはわからないし、事実関係はどうでもよろしい。けれども、五〇年代に高校生がいきなり共産党機関紙アカハタをもってくる手つき、彼はすでにして只者ではなかった。いかにも彼らしい。今の時代のアカハタではないのだ。そこへ、葱という日常ありふれた何気ない野菜を添える。ベットの上にさりげなく置かれている他人同士。農業革命でも五月革命でもない。修司流に巧みに計算された取り合わせである。アカハタと葱とはいえ、「生活」とか「くらし」などとこじつけた鬱陶しい解釈なんぞ、修司は最初から拒んでいるだろう。また、アカハタ=修司、葱=母という類推では、あまりにも月並みで陳腐。さわやかな五月にしてはもの悲しい。むしろ、ミシンとコーモリ傘が解剖台の上で偶然出会うという図のパロディではないのか。すでにそういう解釈がなされているのかどうかは知らない。同じ五月の句でも、誰もが引用する「目つむりていても吾を統(注・す)ぶ五月の鷹」も、ほぼ同時期の作である。いろんな意味で、修司には五月がよく似合う。病気をした晩年の修司は、再び俳句をやる意向を周囲にもらしていたが、果してどんな俳句が生まれたであろうか。『寺山修司コレクション1全歌集全句集』(1992)所収。(八木忠栄)
(短歌のお部屋(現代短歌鑑賞日記))
http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/month?id=78957&pg=200212
2002年12月28日(土) 寺山修司の一首 ☆今日の一首☆
☆ 人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ(寺山修司)
***1971年刊『寺山修司全歌集』収録未刊歌集「テーブルの上の荒野」より。
修司は「短歌は、いわば私の質問である」と書いている。
そして、「質問としての短歌さえも自己規定の中から生まれたものであることを知った」と述べ、作歌活動を終えてしまった。
31音の制約の中で質問を発し、それが孤独の中に響いているだけのものであることに気付いているのは、修司だけではないはずだ。
けれども、多くの歌を詠む人は短歌にわかれを告げない。
修司のように31文字の制約を「牢獄」とみなすことも、質問への答えを切実に求めることも諦めたものだけが、短歌という形を愛することができるのだろうか。
この作品のように、文学や生きることに対して、まっすぐな疑問を投げかける歌は心に響く。
この歌が彼の作品の中で人気の高いものであることは当然だと思う。
多くの歌人のなかで、特異な魅力のある修司が短歌に別れを告げてしまったことが惜しまれてならない。
(その十三)
(死と蝙蝠傘の詩)
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
五月
の夜
は雨すら
黒い
壁
は壁のため
の影
にうつり
死
の
泡だつ円錐
の壁
その
湿つた孤独
の
黒い翼
あるひは
黒い
爪
のある髭の偶像
この克衛の「死と蝙蝠傘の詩」は先に(その六)触れたが、『現代詩文庫 北園克衛詩集』所収の「勝算なき戦いのさなかで(篠田一士)」での鑑賞を見てみたい。
・・・題名の「蝙蝠傘」にこだわりながら、この四行詩を順を追って読んでゆけば、辻褄が合わないでもない。
・・・第一連の「その黒い憂愁/の骨/の薔薇」、第二連の「は雨すら/黒い」、第三連の「は壁のため/の影/にうつり」、第四連の「泡だつ円錐/の壁」、そして第五連の「湿った孤独/の/黒い翼」は、それぞれ『蝙蝠傘』とい物体についての大変ウィッティな修辞句として通用するだろう。
・・・言葉を追い、詩行を追うにつれ、いつのまに題名の「死」も「蝙蝠傘」も忘れてしまうというのが、正直な読者の告白ではないだろうか。
・・・題名は忘れ去られ、そのかわりに、連ごとに簡素な、単彩のイメージが視界一面にひろがり、さながら、それらは小宇宙のようになって、読者のまえに立ちはだかりながら、妖しくも寒々とした思いをひたすら掻き立てようとする。
・・・そのとき、すでにイメージはイメージとしての機能をしばらく停止し、現実還元はいうもおろか、その遠い遠いこだまとしてのイメージのためのイメージといった小賢しいからくりなども無用のものにしてしまうのかもしれない。
・・・だからこそ、イメージでなくてオブジェーなのだと、気の早いひとは言い立てるかもしれないが、そう事は簡単に運ばないのである。
・・・いま、われわれの目の前にあるのは、イメージがイメージとしての機能を失い、ほかのなにものかに変容しようとしている「死と蝙蝠傘の詩」の詩行である。各連の第二行、あるいは、第三行には、「の」ではじまる名詞止めの詩句があることに注意してほしい。
・・・もともと、この「の」はおおむね単純な格助詞で、前後の名詞をつなぐ役割を果しているにすぎない。その詩的意味合いの解釈も、ここでは、さしたる難解さはなく、詩連ごとに、それぞれ、まとまりのいい、明解なアナロジーをよびおこすはずである。
・・・ところが、詩行が第三連から第四連、さらに第五連へと移ったとき、この「の」の所在は異常な様相を呈する。すなわち、とるに足らなぬ終助詞にすぎなかった「の」だけで、ひとつの詩行を形づくるのである。
・・・なぜ、「死の/泡だつ円錐/」でなくて、「死/の/泡だつ円錐/」なのか、「その/湿つた孤独の/黒い翼」でなくて、「その/湿つた孤独/の/黒い翼」なのかを考えさせる余裕を与えないまま、読者は、ここで「の」という言葉というよりは、文字、いや、活字を読むのではなく、逆に、この活字というオブジェーに見据えられ、一瞬、ぎょっとした気持に襲われる。
・・・いうまでもなく、「の」そのものには、これといった意味はない。無意味な言葉による詩的言語のオブジェー化、ここに成れりとよろこんでいいのだろうか。
・・・いや、早まってはなるまい。いかに、一行の詩行を形ずる「の」の突出が読者の目を奪おうとも、、その前後にある名詞、あるいは形容詞の持つ効果の方が、より強いことは、どの読者にとっても、まず間違いない共通した経験であろう。
・・・突出した「の」が喚起する効験と、「死」「泡だつ円錐」といった言葉がもたらすそれとでは、たとえ後者の場合、蝙蝠傘のイメージを媒体にするにせよ、かなり異なったものである。前者は純粋に視覚のそれとすれば、後者は、やはり、今日の詩においては月並な詩的言語の用法で、今日の読者の眼ざしは、否応なくみずからの内面へ向うしかないだろう。
・・・「死/の/泡だつ円錐/」という詩連で、最初の二行を横にさっと読み流すことはできても、第三行目の「泡だつ円錐」を前にすれば、読者の視線の流れは、おのずと多少の停滞を見せながら、上から下に、逆の縦の動きへと転換しなくてはならないし、しかも、ここに唱われる「泡だつ円錐」のイメージは、まことにめざましく、にわかに目のまえに、アブストラクトの図形の大輪が花ひらく。
・・・そして、この詩形につづく次行の「の襞」を読むときには、もうわれわれの視線は縦読みに慣らされて、「泡だつ円錐/の襞」とはなんだろうと、仔細気に考え、おのがじし解答を用意する。
・・・そのときだ。もう一度、どの読者も、詩形をさかのぼって、「死/の」の二行を読みかえすのは。このときには、すでに、われわれの視線の動きは、これらの詩行をはじめに読んだときとちがって、ゆっくりと縦に読む。
・・・そして、「死」が、いや、なによりも「の」という文字がわれわれを正面から見据えるという、異常な事態が出来(しゅったい)するのである。
以上は、『現代詩文庫 北園克衛詩集』所収の「勝算なき戦いのさなかで(篠田一士)」での鑑賞(解説)の要約なのであるが、これらをより理解するには、克衛自身が書いた「題・連・行」に関する詩論 (「VOU」八十号)を見ていくと参考になる。
・・・詩作品は形式的には「題」と「行」と「連」によって形成されている。
・・・「行」はビジュアルな作品においてはリズムのためのキィとなる。「行」の長短によってリズムをはやくしたり、あるいはのろくしたりすることができるばかりでなく、非常に短い「行」を連続的に使用してイメージをクリアに定着できる場合が多い。
・・・「行」と「連」との関係は、抽象絵画における色彩とパターンの関係によって説明することができる。
・・・「行」は色彩であり、「連」はパターンにあたるのである。
・・・詩の「行」は圧縮され、単純の極致にまで純化された結晶であるべきである。すべての冗漫な表現をすて、文字のニュアンスなどにかかずらってはならない。こうして、言語を単純な記号にまで追いつめ、そしてこれをスナッピーにマスターすることだけが重要なのである。
・・・ひとつの「行」のなかに2つ以上の色彩をあたえてはならない。
・・・またひとつの「連」に3つ以上の色彩を想像させることは混乱の原因をつくることである。
・・・ひとつの「行」のなかに2つ以上の動詞、形容詞を持つことを避けなければならない。
・・・また漢字はできる限り用いないこと、このことは作品のもつ明快なスピードや柔らかですばやいリズムにも影響する。
・・・詩作品の題名は、作者にとって厄介なもののひとつである。
・・・その題名によってひとびとがその作品のなかにはいっていくことができるような状態に自分自身を調節するモメントとなるような題名をつけるわけである。つまり詩作品とは直接に関係はないのであるが、それと相似するイメージが題名としてそみにあることになる。
・・・自分のテクニックをもたない芸術家などは、芸術家とは言えない。芸術家とは何かを「創造」する人間のことであり、テクニックを無視して芸術は存在することはできないからである(注・塚本邦雄の「短歌は内容なんかじゃない。技術だけです」と同じ)。
・・・詩に対する認識の革命は同時に詩の新しいテクニックの発見でなければならないのが、詩の運命であり、またすべての芸術の運命である。
以上のようなことを前提として、冒頭の克衛の「死と蝙蝠傘の詩」に接すると、次のようなことが浮かび上がってくる。
一 「死と蝙蝠傘の詩」という題は、六連からなるこの作品の内容を直接的には暗示するものではないが、その題名の「死」というのは、四連の「死/の/泡だつ円錐/の襞」などと関連していて、その「蝙蝠傘」というのは、二連の「五月/の夜/は雨すら/黒い」などと関連している。そして、これら全体の六連の作品の総和が、この題名の「詩」というイメージである。
二 この作品は、六連からなり、そして、一連は四行から成っている。
三 この作品の「行」は、単純の極致にまで純化され、「一字から六字」から成り、一字のものは、漢字の「黒」「壁」「死」「爪」と、平仮名の「の」と、これらの一字のものが、突出して、異常な様相を帯びている。
四 これらのそれぞれの「行」は一つの色彩から成り立っている(注・黒と白の場合は墨絵を想起させ、抽象書道に近い)。
五 パターン(型・図像)としての「連」は、一連は(星/憂愁/の骨/の薔薇/など)、二連は(五月/の夜/は雨すら/黒/など)、三連は(壁/は壁のため/の影/など)、四連は(死/の/泡だつ円錐/の壁/など)、五連は(湿った孤独/の/黒い翼/など)、六連は(黒/爪/髭の偶像/など)。
六 「行」と「行」とはたがいに対応しつつ「連」となり、「連」は「連」と対応しつつ、一篇の詩を形成している。
七、ここで、抽象絵画の下記(注)の「カンディンスキーの作品」「マレーヴィチの作品」「モンドリアンの作品」とを一つの基準として見ると、「マレーヴィチの作品」に、その類似性を見る。(注)「非具象的でしばしば不規則な形態の表現を追及したカンディンスキーの作品(様々な色彩の多様な形状が画面いっぱいに展開されている「コンポジション」シリーズなど)、抽象的な形態の徹底した単純化を推し進めたマレーヴィチの作品(1915年頃の「黒の正方形」「黒の円」「黒の十字」「赤の正方形」など、1918年の「白の上の白(の正方形)」)、幾何学的な構成により純粋な調和とリアリティの実現を目指したモンドリアンの作品(1920年頃以降の水平線・垂直線と白黒・三原色)などが代表作とされる。
八 これら詩を創造した北園克衛は、克衛のイメージで創作したものなのであろうが、そのイメージを、この詩に接する者に、ストレートに伝達することはなく、出来上がった、この六連からなる「死と蝙蝠傘の詩」という題の詩を、「オブジェ(言葉の組み合わせによる造形的な作品)として、自由に鑑賞して欲しい」ということのための作品なのであろう。
九 この詩に接して、この詩に託した、この詩の作者の北園克衛の、その時のイメージ(克衛の感情や衝動など)を読み解こうとすることは、この詩の意図していないことで、この詩は、そういう接し方を拒絶し、この詩に接して、その接した者が、自分自身のイメージを自由に創造しなさいという、そういうことが、逆説的ではあるが、この詩の作者の、この作品に託したメッセージということになろう。
十 北園克衛の詩(「実験」という詩群のもの、この「死と蝙蝠傘の詩」もその一つ)というのは、次の「松岡正剛 千夜千冊」の「カジミール・マレーヴィチ『無対象の世界』」と近い世界のものであり、次の一文に接して、これらの図書から、それぞれが、それぞれに咀嚼して、共鳴を得るかどうかの、そういうステップがあるように思える(注・篠田一士は「日本語(表音文字にすぎないはずの平仮名でさえも、漢字の表意性にも似た機能をときとして発揮する)による詩的言語の宿命に対して、勝算なき戦いを挑んだ希有な勇気の持主の絶唱をききとることができるか、どうか、それは読者自身の問題である」と指摘している)。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0471.html
・・・マレーヴィチのシュプレマティズムの全貌が姿をあらわしたのは1927年の大ベルリン美術展である。まさに全員が腰を抜かした。なにしろそこには「白の中の白」「白の中の黒」「黒の中の黒」しか提示されていなかったからだ。これはカンディンスキーの抽象をこえていたし、クレーの自由をはるかにあしらっていた。失神した者はいなかったろうが、言葉を失った者、唸った者、困惑した者、何かを説明しようとして内にこもってしまった者、そして絶賛した者、冷笑した者、罵倒した者、まさに賛否両論というより、震撼たるセンセーションだったのだ。
十一 ジャズ評論家で詩人の清水俊彦(2007年5月21日死去。60年代から80年代にかけ、フリージャズや即興音楽などを音楽雑誌等に紹介。著書に「ジャズ・アヴァンギャルド」「ジャズ・オルタナティヴ」などがある。前衛詩人としての活動でも知られる。視覚詩で知られる北園克衛の詩誌「VOU」において、その理論的支柱となったこともある。2005年青山真治監督のドキュメンタリー映画「AA」に出演)は、「新しいキャンバスの上にブラッシで絵を描くように、北園克衛は原稿用紙の上に単純で鮮明なイメージをもった文字を選び、『たとえばパウル・クレエの絵のような簡潔さをもった詩』を書いた。つまり『意味によって詩(ボエジイ)を作らない』で、『詩(ポエジイ)によって意味を形成』したのである。この実験はあまりに厳しく従来の詩の概念を破壊してしまったので、我が国では不当に過小評価されてきたが、逆に外国では多くのすぐれた理解者に出会った。北園克衛の世界。それは説明ぬきの感覚に、いきなり飛躍する表象や象徴にみちみちている」と克衛の紹介をしている(『現代詩文庫 北園克衛詩集』)。
カジミール・マレーヴィチ(「ウィキペディア」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
ロシア帝国領ウクライナのキエフ近郊の村に生まれる。両親はポーランド人であり、マレーヴィチにはウクライナ語で話し、ポーランド語で書き、後に習得したロシア語で活動を行うという語学的分裂が生まれたとされる。
1910年頃には、ピカソなどのキュビスムや未来派の強い影響を受けて派生した、色彩を多用しプリミティブな要素を持つ「立体=未来派(クボ・フトゥリズム)」と呼ばれる傾向の作品を制作していた。その後の1910年代半ばに作風は一転し、無対象を主義とする「シュプレマティスム(絶対主義)」に達した。
彼が試みたのは、精神・空間の絶対的自由であり、ヨーロッパのモダニズムと「未来派」はここに「シュプレマティスム」という到達点へ至った。彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことに邁進した。作品は『黒の正方形(カンバスに黒い正方形を書いただけの作品)』や『白の上の白(の正方形)』(白く塗った正方形のカンバスの上に、傾けた白い正方形を描いた作品)など、意味を徹底的に排した抽象的作品を追及しており、戦前における抽象絵画の1つの到達点であるとも評価されている。また、その前衛的主張ゆえにロシア構成主義に大きな影響も与えた。
1920年代には、巨大建造物を想起させる『シュプレマティスム・アーキテクトン』シリーズという造形物を設計し構成。この頃、鮮やかな人物画を描くなどやや具象寄りの表現も行う。
やがてスターリン政権下のソ連で美術に対する考え方の保守化が徹底し、前衛芸術運動が否定され、芸術家は弾圧された。「生産主義」に走った多くの同志たちと袂を分かち、マレーヴィチは一介の測量師として写実的な具象絵画に戻り、その一生を終えている。
抽象絵画において最も極限まで達していながら、最終的には、ありふれた具象絵画に戻ったというマレーヴィチの生涯は、政治に翻弄された美術家の姿の典型かもしれないという言い方がされることもあるが、一般には白紙という究極の抽象に達したマレーヴィチには具象への回帰以外に芸術を続ける道がなかったのであるという評価がなされている。また、一見具象に戻ったように見える彼の作品も、それは見かけであり実際には主題の欠如(対象が描かれない)など独特の表現を含んだ非具象画であったとも言うことができる。
(その十四)
前回(その十三)難渋した、北園克衛の「死と蝙蝠傘の詩」の、次の二連目のものを、単独で抜き書きをしたら、克衛は、目を白黒して、絶句するかもしれない。この四行のものは、実に平易で、イメージとして一人歩きして、「死の灰」の「黒い雨」などが定着する怖れがなくもない。
五月
の夜
は雨すら
黒い
しかし、克衛が、これらのフレーズで実験したように、この四行のものを、いわゆる、定型感覚で見ていくと、俳諧(連句)における「短句」(十四字、七・七句)という雰囲気でなくもない。
○ 五月の夜は・雨すら黒い (七・七)
そして、あろうことか、その前の、冒頭の下記の一連目の次の四行のものも、決して、日本古来からの定型感覚を完全には脱していない感じでなくもないのである。すなわち、俳諧(連句)における長句(十七字、五・七・五句)の破調のものと詠めないこともないのである。
星
その黒い憂愁
の骨
の薔薇
○ 星その・黒い憂愁の・骨の薔薇 (四・八・五=五・七・五の破調の句)
ここに、日本古来の「定型の魔力」が、前衛詩人の、西洋の詩人をも魅了した日本の詩人・北園克衛の骨身に沁みているということなのであろうか。これを、俳諧(連句)式に表示すると次のとおりとなる。
○ 星その黒い憂愁の骨の薔薇 (長句、季語=薔薇=初夏、前句)
五月の夜は雨すら黒い (短句、季語=五月=初夏、付句)
そして、この一番目の「長句」が、「連歌・連句」では「発句」と呼ばれ、それが、明治維新後の、正岡子規によって、単独で作句・鑑賞される「俳句」になり、この「付句」の「短句」は、「川柳」の世界などで、今なお、「十四字」として、少数派ではあるが実践し続けられているのである。
ここで大事なことは、前句(この場合、長句)に付句(この場合、短句)をするときに、全く、前句を、丁度、克衛流の「オブジェ(言葉の組み合わせによる造形的な作品)として、自由に鑑賞」して、前句作者のイメージ(作句意図)に関係なく、付句(作句)をしてよろしいということで、むしろ、前句にとらわれることを嫌い(付け過ぎ)、前句の言葉付けや意味付けよりも、余韻・余情に着目しての「匂い付け」がベターということで、一定のスタンスを置くということになる。また、「同字五句去り(三句去り)」とかのルールもあって、前句の「黒い」に、付句の「黒い」は、「これはどうも」ということで敬遠される。
すなわち、俳諧(連句)の流れからいけば、この「死と蝙蝠傘の詩」の一連と二連とでは、「付け過ぎ」の、どうにも、「イメージの飛躍」が乏しいということにもなろう。
そういうことを抜きにしても、克衛らの前衛的なプラスティック・ポエム(造形詩)を、「オブジェ」的に鑑賞するということは、決して、目新しいことではなく、それこそ、「意味がないのは気持いい」ということで(自由自在の付句を奨励するということで)、俳諧(連連句)の基本的な「変化・転じ」ということからも、非常に、近い世界のものだということも実感する。
ここで、高柳重信の次の多行式俳句とその鑑賞(清水哲男)のものを見てみたい。
(「増殖する俳句歳時記」)
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19961105,20000328,20010826,20031126,20081010&tit=高柳重信&tit2=高柳重信の
・・・
November 26-2003 高柳重信
飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな
季語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)
・・・
この「高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法である」という指摘は鋭い。すなわち、「俳諧(連句)と訣別した一句独立した俳句は、俳諧(連句)の付句(後続する句)を予定している発句とは形も内容も峻別すべきであり、それが形として『多行式』になり、その内容は徹底した『切れ』の重視(一語一語の曖昧な使い方は許されない)となる。それが重信の多行式俳句の真意なのである」ということにもなろう。
これらのことは、この重信の句を、次の一行表示にして見ると明瞭になってくる。
○ 飛騨大嘴の啼き鴉風花淡のみことかな (七・五・七・五)
これでは、おそらく「俳句」として未完成の推敲前のものと理解されよう。「字余り」にする必然性もないし、いわゆる、「七五調」の今様調の「いろは歌」の如きで、次のように、
さらに、「七・五」、「七・五」と続く雰囲気である。
○ 飛騨大嘴の啼き鴉 (七・五)
風花淡のみことかな (七・五)
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
ここで、重信の第一句集『蕗子』に寄せた、富沢赤黄男の、その「序」の「俳句といふ短詩を一行詩だと強硬に定義づける人々は、何故に俳句は一行詩でなければならないのかといふその必然を、伝習や技術の上からでなく、その本質にあひわたつて明示する責任をとらねばなるまい」ということを想起する(これらのことは「その七」で触れた)。
重信の「彼の言葉の秩序への極度の追求、純粋の言葉の有機的構成、固定概念の拒否」・「彼の詩の方法は確然と造型性の上に置かれてある」(赤黄男の「序」)という、その重信の「実験」が、必然的に、次のような形と内容になって現出したのである。
○ 飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな
ここまで来て、今度は、北園克衛の実験的な前衛詩と、高柳重信の実験的な前衛俳句との対比であるが、前者の克衛が、「『意味によって詩(ボエジイ)を作らない』で、『詩(ポエジイ)によって意味を形成』している」のに比して(「その十三」で触れた)、後者の重信は、「『意味によって詩(ボエジイ)を作り』、そして、『その詩(ポエジイ)によって新たなる意味をも形成』してくる」とでもなろうか。
これらのことは、関係するところで、折りに触れて、これからも触れていくこととする。
そして、北園克衛、富沢赤黄男、そして、高柳重信をリンクさせる詩人として、数々の前衛的な実験を敢行したところの、吉岡実の存在が浮かびあがってくるのである。その吉岡実のネット記事なども、ここに付記して置きたい。
(諧謔・人体・死・幻・言語――吉岡実のいくつかの詩を読む)
http://po-m.com/inout/id91.htm
吉岡実は、言葉を慎重に取り扱って、死と関わるような暗い諧謔、豊饒なにぎやかさ、不穏なざわめき、他の書き方では存在しない独特な〈詩論〉であるような筋、それから(視覚的あるいは聴覚的な)リズム、あるいはもしかしたら、存在感のある幻のような、グロテスクなあるいは綺麗なものの出現、のあるような詩を書いた、ということをとりあえず言うことはできそうだ。単語の選び方、文の組み立て方、カッコの使い方と位置、行の分け方、詩の始め方・終わらせ方、喋る時のような文体の使用、などが(好む人と好まない人がいるだろうが)興味深い。言語を使ってどれくらい多くのことを成し遂げることができるか、単なる情報(事件、教訓、感情など)を伝達するだけの言語ではなくて、言語の群れそのものが動く物体のように出現してくるかどうか、というのが〈現代詩〉の最大の問題であるとするなら、その問いについて最も真摯に考えた詩人の1人が吉岡実であった、ということは言えるのかもしれない。
(その十五)
高柳重信と塚本邦雄との交遊については先に触れた(その七)。そこで、「重信は、邦雄をして、彼は『メトード』という雑誌を出していた。手紙を往復しながら、彼は三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ、僕も、十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意した」(『現代俳句の世界 金子兜太・高柳重信集』)との紹介を記した。
ここで、重信が、「十七音と等量で今までの俳句と全くちがった詩を決意し」、その結果、多行式のスタイルに到達したのに比して、邦雄は、「三十一音と全く等量の言葉で、今までの短歌とは全然別の詩を書くことを決意して実験をはじめ」、それは、結果的には、重信の「多行式のスタイル」などの形式変革・形式革命にまでは至らなかったということについては、「俳諧(連句)と俳句」、そして「連歌と短歌」との関係からも説明ができるように思われる。
すなわち、重信の俳句の世界においては、明治時代の正岡子規の俳句革新によって、「俳諧(連句)は文学に非ず」ということで、その発句の「俳句」のみが、「短詩形文学の俳句」として扱われるようになり、その一句独立した「俳句」は、子規の二大弟子ともいわれる、高浜虚子の「伝統的定型重視の俳句」と河東碧梧桐の「革新的非定型の自由律俳句」とのシビアな対立葛藤を経ながら、戦後俳壇の流れは、虚子の「ホトトギス」を中心とする「伝統的定型重視の俳句」がその主流を占めるようになる。
そして、昭和の大平洋戦争の敗戦を契機として、戦後の日本俳壇の動向は、戦前・戦中に抑えられていた、新興俳句(反伝統・反ホトトギスの定型重視)や社会性俳句(社会主義的イデオロギーなどに理解を示す進歩的な定型重視)などが、次第に定着してくるのであった。
こういう時代史的な背景のもとに、高柳重信は、正岡子規の俳句革新の原点に戻り、「昔ながらの俳句様式」を、「それを一度形の上でこわしてみることにより」、「俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ」、「同時に新しい俳句表現の可能性を模索した」、その結果が、重信の「多行式俳句」ということになろう(これらのことについては「その十四」で触れた)。
そういう俳句の流れに比して、邦雄が所属する短歌の世界においては、俳句における俳諧(連句)に匹敵する、連歌というものが、江戸時代の松尾芭蕉の出現により姿を消して、
明治時代の、正岡子規の「短歌革新」は、写実主義の導入などの、その内容の革新が主で、その形式革新に至るものではなかった。
勿論、日本俳壇における虚子らの「ホトトギス」に匹敵するところの、斎藤茂吉らの「アララギ」の「写実的、生活密着的歌風」がその主流を占め、その主流のままに、戦前、戦中、戦後へと流れ込み、その間に幾多の短歌革新の傾向は見られても、それらは、ほとんど、定型そのものに踏み入れることなく、それらが、重信の直面した俳句の世界とは大きな相違点であったということは指摘できよう。
そして、このことが、戦後の短歌界の、その前衛短歌の担い手の中心になっていく、塚本邦雄にして、「五・七・五・七・七=三十一音」の「短歌」の「定型」そのものの、「改革・革命・破壊」というところまでは、踏み込めなかった、最大の理由があるものと解したいのである。
ここで、邦雄の興味ある歌論の『序破急急』に触れると、邦雄は、「『万葉』を序に、新古今を『破』に、明星を『急』に、そして最後の『急』を、亡び急ぐ現代の短歌になぞられている」(『戦後歌人論 現代短歌の二十人(加藤将之編)所収「塚本邦雄(甲山幸雄稿)」)という。
「塚本邦雄の後期には、三つの大きなテーマがある。『戦争』、『老い』、『短歌の運命』がこれである」(『斎藤茂吉から塚本邦雄へ(坂井修一著)』)という。この三つのテーマのうち、「短歌の運命」ということについては、そのスタートの時点からその晩年まで、終始変わらぬものであった(下記の作品は、※印と和数字=第一歌集から第二十二歌集の「巻頭首」など、●印=「短歌の運命」を比喩するものなど、※※印=未刊歌集の「巻頭首」を示す。なお、歌集題名は旧字体の漢字をそのまま用いたが、作品の方はその限りではない)。
●革命歌作詞家に凭りかかられて少しづつ液化してゆくピアノ(※一『水葬物語』)
●ゆりかごでおぼへし母国語の母音五つも柩ふかく納めぬ(一『水葬物語』)
○五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだるる(※二『装飾楽句』)
●日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(※三『日本霊歌』)
●出口なき酷暑の墓域、水浴びし墓石定型詩のごとく覚(さ)む(三『日本霊歌』)
○薫製卵はるけき火事の香にみちて母がわれを生みたることを恕す(※四『水銀傳説』)
○雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ(※五『緑色研究』)
○固きカラーに擦れし喉輪のくれなゐのさらばとは永久(とは)に男は(※六『感幻楽』)
●ほほゑみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一台(六『感幻楽』)
○青年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し(※七『星餐図』)
●思ひ出でより離騒心を刺す夏の日のはじめなる瀕死の蛍(七『星餐図』)
●遠き萩それよりとほき空蝉の眸(まみ) 文学の余白と知れど(※八『蒼鬱境』)
○イエスは架りわれはうちふす死のきはを天青金に桃咲きみてり(※九『青き菊の主題』)
●すでにして詩歌黄昏くれなゐのかりがねぞわがこころをわたる(九『青き菊の主題』)
○あはれ知命の命知らざれば束の間の秋銀箔のごとく満ちたり(※一〇『されど遊星』)
●壮年の今ははるけく詩歌てふ白妙の牡丹咲きかたぶけり(※一一『閑雅空間』)
○父となりて父を憶へば麒麟手の鉢をあふるる十月の水(※一二『天變の書』)
●反・反歌論草せむとして夏雲の帯ぶるむらさきを怖れそめつ(※一三『歌人』)
○日向灘いまだ知らねど柑橘の花の底なる一抹の金(※一四『豹變』)
○たましひの声にしたがふわが生のなかばうすあかねの空木岳(※一五『詩歌變』)
●歌すつる一事に懸けて晩秋のある夜うすくれなゐのいかづち(一五『詩歌變』)
●ぬばたまの晩年やわが歌ひたることの結論は「幻を視ず」(一六『不變律』)
○ヒマラヤの罌粟の紺碧 短歌てふこのみじかさの何をたたへむ(※一七『波瀾』)
○すみやかに月日めぐりて六月のうつそみ淡く山河濃きかな(※一八『黄金律』)
○黒葡萄しづくやみたり敗戦のかの日より幾億のしらつゆ(※一九『魔王』)
○音楽を断ち睡りを断つて天然の怒りの言葉冱えつつあり(※二〇『獻身』)
○定家三十「薄雪こほる寂しさの果て」と歌ひき「果て」はあらぬを(※二一『風雅黙示録』)
○今日こそはかへりみなくて刈り払う帝王貝殻細工百本(※二二『汨羅(べきら) 變』)
○闇ながら杉の新芽の匂ひたつ生れし家の門をくぐりぬ(※※『初學歴然』)
○眼裏にかなしみの色堪へつつ壮んなる夏の花に対(むか)へり(※※『透明文法』)
○皮膚つめたく病みゐる朝を惨然と砲響(な)りアメリカ兵の祝日(※※『驟雨修辭學』)
・・・現代の短歌にいくばくを附加し、示唆するかは、僕自身にも全くの疑問であるが、僕はやはり、明日も明後日も、そして生命あるかぎり、この営みを誇りをもつて続けると、あらためて茲に誓はう(一九五一・『水葬物語』・「跋」抜粋)。
・・・今日、短歌はうたがひもなく「呪われた詩」であり、まことに不幸な選ばれた者達の苦しんでたづさはるべき、ひそかな無償の営為ではあるまいか(一九五五・『装飾楽句(カデンツア)』・「跋」抜粋)。
・・・今日定型詩人のもつ使命と愉悦は、魂の、すなはち言葉の美と秩序を喪失した、現代人間社会のいたましい精神像のなかで、しかもなほ、定型詩が原初的にもつ美と秩序を信じ、これを極限までととのへ且つ高めようとする絶えざる緊張と努力にあるだろう(一九五八・『日本霊歌』・「跋」抜粋)。
・・・かつて定型詩はぼくの王国であつた。其処でぼくはすべてを所有し、一切を生み、ことごとく殺戮することができた。今日、短歌はぼくの流刑地であるかも知れない(一九六〇・『水銀傳説』・「跋」抜粋)。
・・・物語を歌つて誕れ、カンデンツァを弾じ、かつ霊歌を誦して人と成り、伝説を創つて命を知り、惑ひつ研究に志し今日にいたつたぼくの、明日描く幻想世界は如何にあるべきか(一九六四・『緑色研究』・「跋」抜粋)。
・・・『感幻楽』とは、つひにして幻を感ずるにとどまつたといふ、自責と含羞の意である(一九六九・『感幻楽』・「跋」抜粋)。
・・・帰去来、この詞が如何に清清しからうと遺された私に帰るべきところは何処にもない(一九七一・『星餐図』・「跋」抜粋)。
・・・「青き菊の主題をおきて待つわれにかへり来よ海の底まで秋」(一九七三・『青き菊の主題』・「跋」抜粋)。
・・・『されど遊星』、されど韻律への愛絶ちがたく、私は永遠に蜜月を夢みてさすらひ続けねばなるまい(一九七五・『されど遊星』・「跋」抜粋)。
・・・「歌」は、他のいかなるものにも、決して換言できない、転換不能の、あまりにも純粋、無限定な価値を有(も)つ魔的存在として、人と共に生き続けてきた(一九七七・『閑雅空間』・「跋」抜粋)。
・・・短歌なる詩形がいかに特殊であり、いかに困難を極め、かつまた日本語の母胎、根幹として、怖るべき力を秘めてゐることが、身に沁みて感じられる。言語芸術は勿論叡智の所産であるが、韻文定型詩が形を成し、生れ出ようとする言語空間は、明らかに知性の介入を許さぬやうな気象學にも、大いに支配されてゐるやうだ。精妙巧緻な技法と、希有の秩序と調和なくしては成立せず、しかも歌はそれらを超えた非合理の、真空状態で一瞬に調べを得るのではなかろうか(一九七九・『天變の書』・「跋」抜粋)。
・・・かつて、今日、短歌は既に亡び去り、存(ながら)へつつあるのは歌人のみと、わが寸懐を披瀝したことがある。人にではなくわれみづからに示す言葉であつた。和歌隆盛の世に歌人として生きることは必ずしも難事ではない。詩歌の澆季に、なほ歌人としての生に徹することこそ、わが業、わが使命と、言ひ聴かすことによつて、その困難な、空しい生を支えて来た永い日日であつた。遠からぬ未来には、その歌人、まことの「歌人(うたびと)」も、恐らく滅び去つてしまふだらう。この不吉な、確信に近い予感が、なほこの後も私を制作に駆り立てよう。そして、永遠の秀歌を遺す悲願は、私を鞭打ち続けるに違ひない(一九八二・『歌人』・「跋」抜粋)。
・・・今日、簡素潔癖な「写生」など、歌界の表面からは消え去つたかに見え、爛漫たる「モダニズム」も亦、探しても容易に見つからぬ状態を呈してゐる。均一化され、歴然たる主義主張の稜角を殊更に磨り卸した、一見非の打ちやうもない、奇妙な作風が蔓延してゐる。あまりにも慢性化して、病名すら判定しがたい。健康無比の歌群は、私を戦慄させ、それに感染したり、同病を病まぬためにも、終始緊張して、豹變に心がけるべきことに思ひ到る次第である(一九八四・『豹變』・「跋」抜粋)。
・・・短歌の五句三十一音なる黄金律は、作者一人一人の詩魂と美学によつて、次次と、古今未曾有の詞華を生み出す可能性を持つてゐる。すべて現れ盡したかに見える二十一世紀寸前の短歌に、いかなる「變」を招き、歌ひ、奏で得るかに懸けることのできるのは、あるひは世紀末歌人の特権であると考へてよからう(一九八六・『詩歌變』・「跋」抜粋)。
・・・短歌と呼ぶ黄金の定詩形が、五句三十一音の、永久不變の律に統べられてゐるからであつた。この当然、この常識化した不可思議に思ひ及ぶ時、私はいまさら、不變の變、あるひは千變の絶対不變とも呼ぶべき形式を、初心に還つて追求、把握すべき決意に迫られる(一九八八・『不變律』・「跋」抜粋)。
・・・明日の凄じい荒天、息を呑むやうな時化、それを待望することこそ、現代短歌の水先案内人の一人として忘るべからざる心構へであらう(一九八九・『波瀾』・「跋」抜粋)。
・・・正・負に焦点をあててあげつらふなら、短歌を含めた韻文定型詩は、すべて「負」を内在させてゐる。二十一世紀を眼前にして、なほ韻文、なほ定型に執するこの志は、しかしながら、単なる負ではない。その相乗によつて「正数」に豹変する「負数」である。拾の自乗によつて生じた百と、マイナス拾の自乗によつて生じたプラス百は、表面的に変ることはないが、実は根本的に異質である。韻文定型詩の負数的性格とは、この正数への変の可能性を秘めた、黄金津的「負」ではなかろうか(一九九一・『黄金律』・「跋」抜粋)
・・・単なる正数的宇宙に浮遊してゐたのは、前衛短歌以前の定型詩であつた。そして負:正逆転の秘を司る三十一音律詩型こそ、まさに〈魔王〉と呼ぶべきであろらう(一九九二・『魔王』・「跋」抜粋)。
・・・「風雅」の底には「国風」「大雅・小雅」がひそんでゐるやうに、「黙示」の底には、新・旧約通じて唯一の「アプカリプス」たる「ヨハネの黙示録」があった(一九九六・『風雅黙示録』・「跋」抜粋)。
・・・空海の書の彼方に、『秘藏実錀』の巻上の序「生れ生れ生れ生れて生(しやう)の始に暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」なる二行ありありと視る。空海の「暗・冥」は、負数の自乗の生む正数が、正数のそれより犯すべからざる勁さを有つことを憶ふ(一九九七・『汨羅(べきら) 變』・「跋」抜粋)。
『塚本邦雄全集』(第一巻・第二巻・第三巻)から上記のものを抜粋した。これらの塚本邦雄の二十二の歌集で、「跋」文がないのは、第八歌集『蒼鬱境』と第二十歌集『獻身』
だけである。それを除いた、これらの二十ジャストの「跋」文の一大パノラマは誠に壮大なドラマである。これらのうちに、戦後の日本歌壇をリードし続けた一大の歌人・塚本邦雄の実像と虚像との、その全貌を確と見定めることができる。そして、それは、「もはや塚本邦雄は前衛派の歌人などではさらさらなく、あろうことか、彼の古代の楚の詩人・屈原が投身自殺した『汨羅(べきら)』で『汨羅の鬼』(水死人)として『水葬』され、高野山の空海の『黄金律教』の歌神の一人として奉られている」かの如きである。
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