後藤夜半の俳句
(その一)
○ 木瓜の実をはなさぬ枝のか細さよ 後藤夜半
○ 木瓜の実の重さを枝に見出でけり 後藤比奈夫
後藤夜半(ごとう・やはん)は、明治二十八年(一八九五)一月大阪市生れ。虚子門、臼田亜浪に師事。関西にあって「諷詠」を主宰した。昭和五十一年(一九七六)年八月逝去。享年八十一歳。代表句に「滝の上に水現れて落ちにけり」「端居して遠きところに心置く」がある。
後藤比奈夫(ごとう・ひなお)は、大正六年(一九一七)四月大阪出身。後藤夜半は父。「諷詠」を夜半より継承主宰。代表句に「しゃぼん玉ゆがみふくらみ時歪む」「見もせざる花野の涯をまた思ふ」がある。
上記の掲出句とその作者紹介は、下記のアドレスのネットのもの(風胡山房・結城音彦)である。
http://hukosanbo.exblog.jp/6342196
この後藤夜半については、ここに紹介されている「滝の上に水現れて落ちにけり」の句が夙に喧伝されているのに比して、夜半その人になると、活字情報もネット情報も極端に少なくなってくる。これらのことは、例えば、『現代俳句』(山本健吉著)・『近代俳句の鑑賞と批評』(大野林火著)・『近代俳人』(沢木欣一著)・『俳句大観』(麻生磯次他著)などにその名を見ることができないことと大きく関係しているのかも知れない。ネット情報では、唯一、下記のアドレスの、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男稿)で、本格的な鑑賞文(七句)を目にすることができる。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
ここでは、この「増殖する俳句歳時記」を足掛かりにして、後藤夜半の俳句の世界(特に、その第一句集『翆黛』を中心にして)を垣間見ていきたい。
(その二)
○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[これぞ夜半の代表句。出世作。力強い滝の様子が、簡潔に描かれている。昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品だ。私は好きだが、この句については昔から毀誉褒貶がある。たとえば作家・高橋治は「さして感動もしなければ、後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」と言い、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」(「並々ならぬ捨象」ふらんす堂文庫『破れ傘』栞)と酷評している。そうだろうか。そうだとしても、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ。『青き獅子』所収。(清水哲男)]
この[昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品]という指摘は、しばしば見掛けるところのものであるが、この夜半の句は、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた二十句のうちの一句で、それが、何時の間にか、「ホトトギス」の巻頭を得た句と伝承されているものと解したい。そして、この句は、「箕面の瀧」での作句で、「兵庫 後藤夜半」で発表されたものである。この時の夜半の入選句が、もう一つあり、それは下記のとおりである。
○ ことごとく瀧に向へる床几かな 兵庫 後藤夜半
この「箕面の瀧」は、「摂津名所図会(巻六)」でも紹介されており、そこには、「本社より十八町奥にあり。巌頭(がんとう)より飛潟(ひしゃ)して。石面を走り落つる事凡(すべ)て十六丈。瀧壷(たきつぼ)より泡を飛す事珠(たま)をちらすがごとく、霧を噴(は)く事雲の如し。日光これを燭(しょく)してさいさん目を奪ふ」と記されている。そして、この「摂津名所図会(巻六)」の散文を目にしながら、この夜半の「滝の上に水現れて落ちにけり」に接すると、恐ろしく夜半の写生眼の凄さを思い知るのである。そして、この写生眼の凄さを、清水哲男さんは、「これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ」として、この句に一票を投じ、それに対して、高橋治さんは、
「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」と、この句の背後にある、虚子流の「客観写生」というものを見てとって、どうにも酷評したい衝動にかられるということなのであろう。ここで、改めて冒頭の掲出の句を見てみると、「瀧の上・水現れて・落ちにけり」と、これほど、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」した句というのは、なかなかお目にはかかれないのではなかろうか。ここまで来ると、やはり、後藤夜半というのは並の俳人ではないという印象を受けると同時に、虚子の言う「客観写生」というのは、この夜半の句のように、「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」したところの「写生」を指しているとも解せられるのである。換言して言うならば、この虚子流の「客観写生」の見本のような句こそ、この夜半の冒頭の掲出のものという印象を深くするのである。そして、同じ、この「客観写生」の句でも、同時の入選作の「ことごとく瀧に向へる床几かな」の句になると、瀧の句というよりも「床几」の句として、何か、その「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」が、「陳腐化」(ありふれていて平凡過ぎる)に思えてくるのである。このことは、冒頭の夜半の傑作句を含めて、虚子流の「客観写生」の句というのは、一歩誤ると、この「陳腐化」・「痴呆化」のみが目立ち過ぎるという危険性を内包していると言うことも特記して置く必要があるのかも知れない。
(上記の記述のうちで、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)
(その三)
○ 滝の上に水現れて落ちにけり
この句に関しては、いろいろなネット記事を目にした。それらのうち、以下のアドレスのものを三点(抜粋または全文)を掲載しておきたい。
次のアドレスの「直観こそがすべて・ 私の俳句論」(抜粋)は、「写生」との関連のもので、前回(その二)の補足として恰好のものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/frommarl/47409417.html
瀧の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
この句は大阪箕面の滝を読んだもので、「写生」のお手本としてよくひきあいに出されるらしいのですが、「滝の上から水が現われる。」という表現が常人には思いつかず、面白い、というよりも小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させるような気がします。もちろん、この方は立派な大人だと思いますが。
次のアドレス「リハビリスト 波平の日記・俳句は季節を語る…後藤夜半 他」は、「天声人語」(2007年の天声人語か?)に紹介されたものを中心としており、夜半の一側面を知る上で参考となるものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/rehabilist/29809253.html
天声人語 3月11日(日)
温雅な句風で知られた後藤夜半(やはん)に〈跼(かが)み見るもののありつつ暖し〉がある。春先、地面に多彩な命がうごめき出す。土を割って出た草花や、這(は)い出してきた虫を、作者は身をかがめ、いつくしむように見つめている。
暖冬を引き継いだこの春、命の蠢動(しゅんどう)はいつになく気ぜわしい。春の虫の代表格モンシロチョウの初見が、松山市では平年より28日も早かったそうだ。初めて見かけるチョウを「初(はつ)蝶(ちょう)」といい、俳句の季語にもなっている。〈初蝶やいのち溢(あふ)れて落ちつかず 春一〉。
冬が暖かかった今年、虫たちはさぞ生命力旺盛と思いきや、そうでもないことを動物学者、日高敏隆さんの随筆に教えられた。日高さんによれば、多くの虫にとって冬の寒さは必要不可欠なのだという。
休眠する虫たちは、5度以下の低温にさらされることで、春を迎えるための変化が体内で進む。チョウの場合、寒い時期を十分に過ごせなかったサナギは、卵もあまり産めない、ひ弱な成虫になってしまうそうだ(『春の数えかた』新潮文庫)。
暖冬が続けば、多くの虫は滅びてしまうかも知れない。休眠せずに、寒さにじっと耐えているゴキブリのたぐいばかりが生き残る、と日高さんは案じている。冬は寒く、夏は暑く。季節がきちんと尽くされることが自然界には大切なのだ。
啓蟄(けいちつ)もすぎた日、夜半(やはん)をまねて、春の土に目を留めてみるのも興がある。〈地虫出てはや弱腰と強腰と 祐里〉。押し出しのいいやつ、恐縮しているやつ、黙々たるやつ……。うごめく中に、誰かに似た虫がいるかもしれない。
夜半の代表句は「瀧の上に水現れて落ちにけり」でしょうが、折角なので調べると、大阪出身、庶民的、長命、春のようなお人柄、しかも「花音痴」を嘆くところなど、親近感を覚えざるを得ません(個人的感慨で相済みません…)。
大阪はこのへん柳散るところ 後藤夜半
春立つと古き言葉の韻よし *(「ひびき」と読むらしいです)
見て覺え見て覺え今日沙羅の花
最後に、次のアドレスの「高峯秀樹の「俳句千夜一夜」・第一話 私の印象に残る俳句百句」については、高峯秀樹さんの「百句選」(アイウエオの句順)で、夜半の冒頭の掲出句が選ばれていることに注目いたしたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/takamine0408/11372240.html
俳句の話を始めるに当って芭蕉から現代に至る共鳴する百句を挙げてみた。
秋の航一大紺円盤の中 中村草田男
蟻の道雲の峰よりつづきけん 小林一茶
あをあをと瀧うらがへる野分かな 角川春樹
青蛙おのれもペンキ塗りたてか 芥川龍之介
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
あの月をとってくれろと泣く子哉 小林一茶
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る 中村汀女
荒海や佐渡によこたふ天河 松尾芭蕉
生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城
いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規
一枚の餅のごとくに雪残る 川端芽舎
羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子
炎天の遠き帆やわがこころの帆 山口誓子
塩田に百日筋目つけ通し 澤木欣一
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
学問のさびしさに堪え炭をつぐ 山口誓子
葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝
川底に蝌蚪の大国ありにけり 村上鬼城
神田川祭のなかをながれけり 久保田万太郎
狐火を詠む卒翁でございかな 阿波野青畝
草餅を焼く天平の色に焼く 有馬朗人
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太
木がらしや目刺にのこる湖の色 芥川龍之介
黒猫の子のぞろぞろと月夜かな 飯田龍太
是がまあつひの栖か雪五尺 小林一茶
雉子の眸のかうかうとして売られけり 加藤楸邨
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏
月光しみじみとこうろぎ雌を抱くなり 荻原井泉水
月光にいのち死にゆくひとと寝る 橋本多佳子
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 原 石鼎
寒や母地のアセチレン風に泣き 秋元不死男
しぐるるや鼠のわたる琴の上 与謝蕪村
さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
閑さや岩にしみ入蝉の声 松尾芭蕉
しづかなるいちにちなりし障子かな 長谷川素逝
死なうかと囁かれしは螢の夜 鈴木真砂女
除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 森 澄雄
白露や死んでゆく日も帯締めて 三橋鷹女
しんしんと肺碧きまで海の旅 篠原鳳作
せきをしてもひとり 尾崎放哉
ぜんまいののの字ばかりの寂光土 川端芽舎
大根引大根で道を教えけり 小林一茶
鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな 室生犀星
瀧落ちて群青世界とどろけり 水原秋桜子
瀧の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半
蛸壺やはかなき夢を夏の月 松尾芭蕉
たとふれば独楽のはじける如くなり 高浜虚子
足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女
魂も乳房も秋は腕の中 宇多貴代子
チゝポゝと鼓打たうよ花月夜 松本たかし
地吹雪と別に星空ありにけり 稲畑汀子
ちるさくら海あおければ海へちる 高屋窓秋
蝶墜ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男
頂上や殊に野菊の吹かれ居り 原 石鼎
月天心貧しき町を通りけり 与謝蕪村
つきぬけて天上の紺曼珠沙華 山口誓子
天瓜粉しんじつ吾子は無一物 鷹羽狩行
永き日のにはとり柵を越えにけり 芝 不器男
永き日や相触れし手は触れしまま 日野草城
菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村
白梅のあと紅梅の深空あり 飯田龍太
羽子板の重きが嬉し突かで立つ 長谷川かな女
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 杉田久女
春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子
春の海終日のたりのたりかな 与謝蕪村
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
万緑や死は一弾を以て足る 上田五千石
雲雀より空にやすらふ峠哉 松尾芭蕉
ほろほろ酔うて木の葉降る 種田山頭火
まさをなる空よりしだれざくらかな 富安風生
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎 竹下しづの女
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
峰雲の贅肉ロダンなら削る 山口誓子
牝去れば枯芝の犬皆去れり 阿部みどり女
初場所やかの伊之助の白き髭 久保田万太郎
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ 杉田久女
ひっぱれる糸まっすぐや甲虫 高野素十
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな 山口青邨
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂 信子
蒲団開け貝のごとくに妻を入れ 野見山朱鳥
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
雲雀より空にやすらふ峠哉 松尾芭蕉
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
山国の蝶を荒しと思はずや 高浜虚子
山又山山桜又山桜 阿波野青畝
夕月や脈うつ桃をてのひらに 伊藤通明
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多佳子
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 桂 信子
横顔のままで子規ゐる百回忌 松井利彦
われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず 野澤節子
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
をみなとはかかるものかも春の闇 日野草城
をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏
(その四)
○ 大阪はこのへん柳散るところ
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[名句もいいけれど、技巧的に優れた作品ばかり読んでいると、だんだん疲れてくる。飽きてしまう。そのようなときに、夜半はいい。ホッとさせられる。夜半は、生涯「都会の人」ではなく「町の人」(日野草城)だったから、一時期をのぞいて、ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを嫌った。芸術家ではなく、芸人だった。生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した。自筆の短冊を写真で見たことがあるが、いまどきの女の子の丸字の先駆けのようにも思える。ちっとも偉そうな字ではないのである。昭和51年初秋、柳の散り初めるころに没。享年81歳。『底紅』所収。(清水哲男)]
この句が収載されている『底紅』は、昭和五十三年に刊行された夜半の遺句集である。この清水哲男さんの鑑賞の、「芸術家ではなく、芸人だった」という指摘は、夜半の一面をよくとらえている。確かに、当時の、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」とは一線を画しているように思われる。この四Sのうちでは、やはり、関西を拠点としている阿波野青畝に近いということで、総じて、関西系の俳人は、東京を中心とする関東系の俳人よりも、清水さんの指摘するように、「ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを」を嫌うという性行を有しているのかも知れない。この夜半の句に接すると、夜半と同じく「生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した」ところの、川柳六大家の一人の岸本水府の、「道頓堀の雨に別れて以来なり」や「大阪はよいところなり橋の雨」などが思い起されてくる。水府は、明治二十五年(一八九二)、そして、夜半は、明治二十八年(一八九五)の生まれ、水府が三歳年上ということになる。水府は三重県の生まれであるが、その本格川柳を標榜した『番傘』は大坂を拠点とするものであった。夜半は大坂の生まれであるが、兵庫なども生活圏であるし、この二人の共通点は、清水さんの指摘するところの、「大阪の土地や文化をこよなく愛した」ということに尽きるのではなかろうか。そして、夜半も水府も、これまた、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」という共通項を有しているのではなかろうか。そして、その「芸人だった」ということは、「落語、浪曲、漫才、コント、曲芸、手品」などの、他の芸人と呼ばれると同じ世界での、「庶民派」の、そして、また、「何でもござれの芸達者」という雰囲気を有しているという印象を深くするのである。
(その五)
○ 鰻の日なりし見知らぬ出前持
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[いつものようにいつもの店から出前をとったら、見知らぬ出前持が届けに来た。思わずいぶかしげな顔をすると、察した相手が「臨時なんですよ。丑の日なもんで」と言った。なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ。『底紅』所収。(清水哲男)]
後藤夜半というと、高浜虚子流の「客観写生」で、即、「花鳥諷詠」の「風景俳句」が得意と思われがちであるが、実は、そうではなくて、この掲出句のように「人事諷詠」句をも得意として、先(その四)に紹介したとおり、「何でもござれの芸達者」の俳人というのが、夜半の全体像なのであろう。この掲出句などは、「鰻の日なりし」(七音字)と「見知らぬ出前持」(九音字)とを無造作に結合したような感じなのであるが、これまた、清水哲男さんが指摘するように、「なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ」と絶讃したくなる。これらのことについて、水原秋桜子の「後藤夜半論」(「ホトトギス」昭和四年十二月号)での指摘が参考となる(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)。以下、その要点を記して置きたい。
[秋桜子は、夜半をして「選球眼ある強打者」として選句範囲が広く正しいことを讃え、また、夜半俳句のもつ領域の広さ、すなわち、一 取材が天然・人事を網羅、二 自由な表現法 三 その表現方法の幅の広さを指摘した。古典的優美の単一化を特徴とし、その完成度の高さは無類である。]
この「古典的優美の単一化」ということについては、鷹羽狩行は、「芝不器男・後藤夜半の二人は、折からの流行とはいえ、万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」ということと関係して、夜半の第一句集『翆黛』の特徴となっているものの指摘であろう(鷹羽狩行稿・前掲書)」。
これらの「古典的優美」ということはひとまず置いて、その「単一化」と、清水さんの指摘する「その底に庶民の粋が感じられる」というのは、終生変わらぬ夜半俳句の一つの特徴だったということは、ここで指摘をして置きたい。
(その六)
○ 薄日とは美しきもの帰り花
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[冬でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)]
この後藤夜半の句は、清水哲男さんが指摘するように、季語の「帰り花」の句ではなく、「薄日」(「冬の日の薄日」)の句なのである。これが、ずばり、「冬日」になると、夜半の師の高浜虚子の名句が目白押しである。以下、虚子のそれらを拾うと下記のとおりである。
『五百五十句』
「旗のごとなびく冬日をふと見たり」「冬日柔らか冬木柔らか何れぞや」「冬日濃しなべて生きとし生けるもの」
『六百五十句』
「やはらかき餅の如くに冬日かな」「大空の片隅にある冬日かな」「地球一万余回転冬日にこにこ」「我が庭や冬日健康冬木健康」「薮の中冬日見えたり見えなんだり」
虚子には、これらの「冬日」(季語)の句はあっても、「薄日」(「冬の日の薄日」)そのものの句となるとその例を目にすることはない。しかし、それらしき名句になると、そのスタートの頃からの、その作句例を見ることができる。
『五百句』
「遠山に日の当りたる枯野かな」「冬帝先づ日をなげかけて駒ヶ嶽」
後藤夜半が、これらの虚子の「冬日」の句やそれらしきその周辺の作句例を知らない筈がない。しかし、夜半は、師の虚子に多くのものを学びながら、決して、虚子の二番煎じには甘えていない。虚子が「冬日」なら、夜半は「(冬日の)薄日」に着眼するのである。それは、清水さんの指摘ですると、「冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である」ということになる。この「芸の人・夜半」ということを一番熟知して人は、ずばり、夜半の師の虚子ではなかったろうか。ともすると、後藤夜半は、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」などの背後に隠れて、余り、仰々しく目立たない存在であるが、虚子その人は、いわゆる、四Sと持て囃されている俳人以上に、この夜半の「何でもござれの芸の人」の、その力量を正しく見抜いていたように思われるのである。
(その七)
○ ひらきたる秋の扇の花鳥かな
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[花鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)]
「扇」というのは夏の季語で、「団扇」とか「扇」は夏のものとして一般的に理解されるということなのであろうか。これは「扇子」の類で、日本舞踊などに使う「舞扇」になるとまた別な趣がしてくる。この後藤夜半の句は、「秋の扇」の句で、やはり、季語を意識した扇で、「季節遅れの扇」と理解すべきなのであろう。すると、やはり、清水さんの鑑賞の、ここの「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるというのは、季語的な理解からすると決して飛躍したものではなかろう。まして、季語を重視する「ホトトギス」流の俳句の鑑賞においては、素直な理解というべきなのかも知れない。と解すると、この夜半の句は、随分と、アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)的な雰囲気の句ということになる。清水さんは、「作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ」と、随分と「ホトトギス」流の風雅的・高踏的・人生観的な鑑賞をしているけれども、ここは、ずばり、「秋の日に、盛りを過ぎた女性が、季節遅れの扇を開いて、その扇の図柄が華やかな花鳥のものだった」という、俳諧が本来的に有していた、諧謔的な滑稽の句というのが、最も素直な鑑賞のようにも思われるのである。こういう視点は、当時の「ホトトギス」の四Sといわれた、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」という名だたる俳人達が持ち合わせていないもので、そういう意味においては、後藤夜半という作家は、四Sの俳人達以上に、俳諧・俳句の本来的に有していたものに立脚しての本格的な俳人であったという思いを深くするのである。と解した上で、この「花鳥」というのも、どうも、高浜虚子が盛んに唱えていた「花鳥諷詠」の「花鳥」という雰囲気をも醸し出している感じで、この掲出の句は、「秋の日の句会で、花鳥諷詠の俳人達が、季節遅れの扇をパタパタさせていて、その扇の図柄が、何と花鳥であったよ」という鑑賞も許されるのではなかろうか。ことほど左様に、夜半の俳句というのは、水原秋桜子が、「その表現方法の幅の広さ」を指摘していたが、その「幅の広い」表現方法に対応して、「幅の広い」鑑賞を許容するような印象を深くするのである。ちなみに、この句が掲載されている『青い獅子』は、夜半の第二句集で、それは昭和三十七年(一九六二)に刊行されており、夜半は、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」(『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」)と総括されるけれども、十分に、「虚子の花鳥諷詠の功罪」を知り尽くしていて、その上での、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解をして置きたいのである。
(この掲出の句は、夜半の第一句集『翆黛』の「昭和四年」に収載されており、夜半の初期の句ということになる。そして、この『翆黛』所収の句は「ホトトギス」の虚子の選を仰いだものであり、この掲出句も虚子選ということになろう。すると、師の虚子の「花鳥諷詠」への風刺句という理解は、飛躍し過ぎというきらいがなくもない。)
(先のその二で、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が「ホトトギス」の巻頭となったのは伝承されてのものであろうと記述したが、昭和六年の九月号で「瀧水の遅るるごとく落つるあり」を含めて巻頭となっているとの記述が、『俳文学大辞典』所収「後藤夜半(大槻一郎稿)」にある。)
(その八)
○ 香水やまぬがれがたく老けたまひ
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[香水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)]
この夜半の句は誠に面白い句である。清水哲男さんは、「名状しがたい気持ちになっている」「生きとし生ける物すべて」「悟りでもなければ解脱でもない」「人間としての成り行きというものである」などと、「生涯虚子の教えを守って花鳥諷詠・客観写生を貫き通した」ところの夜半の目眩ましに戸惑っているけれども、この句もまた、「ひらきたる秋の扇の花鳥かな」(その七)と同じように、夜半の、「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な視点が匂ってくるのである。ずばり、この大袈裟な表現の「まぬがれがたく」も、何とも意表を突く尊敬語的な「老けたまひ」も、これらは、夜半の「アイロニー(イロニー・風刺・諧謔)」的な、そして、夜半俳句の特徴ともなっている「その表現方法の幅の広さ」の世界のものと理解をしたいのである。まず、「香水や」の上五の「や」切りの句で、これは香水(夏の季語)の句であろう。そして、中七・下五の「まぬがれがたく老けたまひ」が、何とも、嫌みではない諧謔の「微苦笑」を誘うのである。こういう世界は、夜半の師の虚子も、そして、四Sといわれる、「水原秋桜子・山口誓子・高野素十・阿波野青畝」にも、最も欠けていたものであろう。こういう夜半の、清水さんの指摘する、「芸術家ではなく、芸人だった」の、その「芸の細やかさ」ということには、目を見張る思いがするのである。
(その九)
○ つく息にわづかに遅れ滴れり
この句の清水哲男さんの鑑賞は次のとおりである。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19960904,19960923,19961213,19970108,19970204,19970609,19970702,19970722,19971222,19980525,19981228,19990110,19990428,19990629,19991022,20000201,20000409,20000625,20000802,20000913,20001024,20010103,20010511,20010922,20020531,20021127,20040711,20050801,20050918,20080802&tit=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A&tit2=%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%A4%9C%E5%8D%8A%E3%81%AE
[まったき静寂のなか、水の滴る音だけがしている。ふと気がつくと、自分の呼吸に正確に少し遅れて滴っている。それだけのことだが、身体の弱かった作者ならではの鋭い感覚が刻みつけられていて、さすがだと思う。病者に特有な神経のありようだ。ところで、これはどのような水の滴りなのだろうか。雨漏りだろうと、私は読んでおきたい。いまでこそ雨漏りするのはナゴヤドームくらいのものだが(笑)、昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった。『青き獅子』所収。(清水哲男)]
この夜半の句は、滴り(夏の季語)の句であろう。語源は「下垂る」で、崖の岩肌を伝わった水や、苔に沁み込んだ水が、下に落ちる、その雫を「滴り」というのが、その本意である。とすると、清水哲男さんの、「雨漏り」の「滴り」と解して、「昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった」という鑑賞は、人事句をも得意として夜半のその一面に焦点を当て過ぎたきらいがなくもない。ここは、やはり、季語を重視し、吟行を常とする「花鳥諷詠」俳人・夜半の、例えば、その代表句の、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の、その「箕面の瀧」辺りでの、吟行句とも理解できよう。その理解の前提になるのは、「瀧の上に水現れて落ちにけり」の句が、実に、瀧の落下するさまを、一瞬、「時間が静止」したように、スローモーションに切り取った、その絶妙な「俳眼の冴え」にあることと、この掲出の句の、「つく息にわづかに遅れ滴れり」の、この「吐息と滴り」との、「一瞬、時間が静止したような、そのスローモーションに切り取った、その絶妙な『俳眼・俳耳(?)の冴え』」が、実に、一致するような思いがすることに起因するのである。とした上で、この掲出の句は、「炎暑の箕面の瀧の山道を、汗を拭き拭き歩きながら、休憩をとり、息を弾ませていると、その急な吐息に、僅かに遅れるように岩間の滴りの音がする」というイメージである。ちなみに、箕面の瀧周辺には、多くの歌碑・句碑があり、この夜半の聴覚的な掲出の句と方向を同じくするものとして、「苔ふかきみのおの山の杉の戸にただ声きけば鹿の音ばかり(鴨長明)」などがある。
(その十)
○ 翆黛とひもすがらある桜狩 (昭和四年)
夜半の第一句集『翆黛』の命名の由来になっている句であろうか。「昭和四年」の中に収載されている。「翆黛」というのは、本来の意味は、「みどりのまゆずみ。また、それをほどこした美しいまゆ」のことであるが、転じて、「みどりにかすむ山のけしき」の意に用いられる。ここは、この「みどりにかすむ山のけしき」の意であろう。この掲出の句の季語は「桜狩」で、「桜花をたずねあるいて観賞すること。もと、観桜しながら行なった鷹狩の称」の意で、ここは、「桜花をたずねあるいて観賞すること」の用例であろう。この掲出の句は、この季語の「桜狩」の句と解せられるが、その「桜狩」の二字以上に、この第一句集『翆黛』の命名の由来になっている「翆黛」の二字が、この作句のときの、夜半の心中を占めていたのではなかろうか。「桜狩」の句は、古来から無数の句が献じられているが、こと、「翆黛」との関連の句ということになると、これは、この夜半の、この句がその先鞭をつけるといっても過言ではなかろう。すなわち、「翆黛」という、「春のやまのみどりにかすむ山のけしき」を発見したのは、夜半その人であり、夜半は、こういう、古来から誰も手を付けなかったような世界を、実に、さりげなく、それは、敢て目立たないような視点で、自由自在に駆使していたということは特記して置く必要があろう。言葉を換えて言うならば、この「翆黛」などは、「桜狩」に匹敵する、春の季語として認知しても差し支えないようなものであろう。ということが、夜半が、その第一句集に、季語として認知しても良いような「翆黛」という二字を冠した所以なのではなかろうかという思いなのである。夜半の「ホトトギス」の次の世代の中村草田男が、「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句で、夏の季語の「万緑」を発見したように、夜半の、この「翆黛とひもすがらある桜狩」の句をもって、「翆黛」という、美しい春の季語を認知しても良いのではなかろうか。この夜半の句に接して、つくづくとそんな思いにとらわれているのである。
(夜半の第一句集『翆黛』は、年代別に編集されており、大正十三年から昭和八年の、十年間の「ホトトギス」雑詠に出詠したものが収載されている。当初、この『翆黛』所収の年代別の句を、その背景となっている「ホトトギス」の年譜の関連で、鑑賞したいという意図があったが、清水哲男さんのネットの世界の「増殖する作句歳時記」の「後藤夜半」の鑑賞ものに惹かれて、ついつい、その方向にウエートを置いてしまった。当初に意図した『翆黛』の句集を中心としてのものは、また、後の機会にと、このことを付記して置きたい。)
(上記の掲出句の「翆黛」について、『近代俳句大観(明治書院)』では、「比叡山麓の大原里の寂光院のほとりに翆黛という小山がある」との記述がある。)
(その十一)
○ 底紅の咲く隣にもまなむすめ
後藤夜半の忌日(八月二十九日)を「底紅忌」という(『俳文学大辞典』)。俳人の中でも、この「底紅忌」を知っている方は、少数派なのではなかろうか。そもそも、この「底紅」というのが、例えば、『広辞苑』にも出ていなくて、歳時記にでも、例えば、索引欄の項目には出ていなくて、基本季語の、その同類季語などに小さく出ている代物なのである。この季語については、夜半の句の多くのことについて示唆を受けた、「増殖する俳句歳時記」(清水哲男)に、次の「高山れおな」さんの句の鑑賞で知った。それをアドレスと共に全文を掲げておきたい。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20051015,20051014,20051013&tit=20051015&today=20051015&tit2=2005%E5%B9%B410%E6%9C%8815%E6%97%A5%E3%81%AE
[高山れおな
底紅や人類老いて傘の下
季語は「底紅(そこべに)」で秋。「木槿(むくげ)」のこと。なるほど、木槿の花は中央の「底」の部分が「紅」色をしている。句の前書きによれば、若くして世を去った俳人・摂津幸彦七回忌法要の折りの作句だ。「蕭々たる冷雨、満目の木槿」だったという。それでなくとも心の沈む法要の日に、冷たい雨が降りつづき、しかも折りからたくさんの底紅が咲いていた。『和漢三才図絵』に「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」とあるように、昔から底紅(木槿)ははかないものの例えとされてきた。冷雨に底紅。参列した人たちはみな「傘」をさしていたわけだが、作者は自分も含めて、そこにいた人たちを「人類」とまとめている。すなわち人間の命のはかなさの前では、人それぞれの性や顔かたちの違いや個性や思想のそれなどにはほとんど意味が無く、生きて集まってきた人たちは「人類」と一括りに感じられると言うのである。その「人類」が故人の生きた日よりもさらに「老いて」「傘の下」に、いまこうして黙々と立っているのだ。虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ。思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる。『荒東雜詩』(2005)所収。(清水哲男)]
この「底紅」とは、「木槿」の別称なのである。「木槿」ということになると、清水さんの上記の鑑賞にある、「すべて木槿花は朝開きて、日中もまた萎(しぼ)まず、暮に及んで凋(しぼ)み落ち、翌日は再び開かず。まことにこれ槿花一日の栄なり」との「はかない」ものの例えのような花なのである。そして、上記の「高山れおな」さんの句が、その「底紅」と「傘の下(冷雨)」の句であるならば、掲出の夜半の句は、「底紅」と「まなむすめ(愛娘)」の句なのである。清水さんは、上記の「高山れおな」さんの句に、「虚無というのではなく、それを突き抜けてくるような自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」と評しているが、同じく、夜半の掲出の句も、「命短し 恋せよ 乙女」のような、「自然の摂理に従わざるを得ない人間存在を実感させられる句だ」というような感慨を均しく受けるのである。そして、その感慨が、「高山れおな」さんの句のように、例えば、清水さんが受けた「思わずも、襟を掻き合わせたくなってくる」ような深刻なものではなく、さりげなく、しみじみとした渋味のような、そんな感慨を抱かせるのである。それぞれの好みにもよるのだろうが、こういう夜半の世界というのは、知れば知るほど、何ともいえない味わい深いものとなって、何かの折りに、口について出てくるのである。ちなみに、この「底紅」は、夜半の遺句集の『底紅』に、その名が冠せられている。
(その十二)
○ 萩黄葉(もみじ)しぬ朽葉(くちば)しぬ落葉(おちば)しぬ
後藤夜半の句鑑賞については、『近代俳句大観(明治書院)』で、皆吉爽雨さんの『翆黛』(後藤夜半第一句集)を中心としたものがある。そのうちの一句である。その鑑賞で印象深いところは、次のようなことである。
[完了の「ぬ」が三ところに重なっている。その度に読む者は息をとどめて、黄葉をした、朽葉をした、落葉をしたと一々順を追うて辿ってゆく。かくて最後に「落葉しぬ」で終に萩落葉の土に帰したさま、枯萩となり果てたさまに眼を心を落ち着けて嘆息するのである。]
確かに、この「黄葉(もみじ)しぬ」・「朽葉(くちば)しぬ」・「落葉(おちば)しぬ」というのは、「黄葉→朽葉→落葉」という一連の「落葉」の比較的永い「時」の経過を、三つの断面により切り取り、それを読む者に提示して、そこに、「枯萩となり果てたさま」をまざまざと見せつける、その夜半の写生眼というものには、驚きの念を禁じ得ない。この夜半の写生眼は、その代表作の、「滝の上(え)に水現われて落ちにけり」で、こちらは、滝が落下する一連の短い「時」の経過を、「水現われて」と「落ちにけり」の二つの断面で、その全てを見せつけるという、その「「簡略化・省略化・単一化・焦点化・捨象化」ということと軌を一にする。さらに、この掲出句では、「萩・黄葉・朽葉・落葉」という季語を、いわゆる「季重なり」ということなどは眼中になく、また、完了の「ぬ」の、いわゆる「三段切れ」ということなども眼中になく、まさに、秋桜子の指摘する、「自由な表現法・その表現方法の幅の広さ・古典的優美の単一化」 (「ホトトギス」昭和四年十二月号所収「後藤夜半論(水原秋桜子稿)」)ということ共に、その「完成度の高さは無類である」という思いを深くするのである。夜半は、昭和二十三年に「花鳥集」を創刊主宰して、後に、昭和二十八年に、それを「諷詠」と改題して、それが、現に、そのご子息の著名な俳人の後藤比奈夫に継承されている。その「花鳥」といい「諷詠」といい、それは、夜半の師の高浜虚子の「花鳥諷詠」に因るものなのであろうが、その「諷詠」の根本にあるのは、芭蕉の「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」という「朗唱・調べ・リズム」重視ということであろう。そして、この夜半の掲出句は、破調のリズムであるが、その「朗唱・調べ・リズム」という、その「諷詠」という面において、これまた、その「完成度の高さは無類である」という思いを実感するのである。
(その十三)
○ 乙訓(おとくに)の四方(よも)の藪なり畑打(はたけうち)
○ 国栖人(くずびと)の面(おもて)を焦(こが)す夜振(よぶり)かな
掲出の一句目の「乙訓(おとくに)」は、京都府乙訓郡の地名。二句目の「国栖(くず)」は、上代の奈良県である大和の国にあった村の名であるという(『近代俳句大観(明治書院)』)。一句目の季語は「畑打(はたけうち・はたうち)」(春の種まきにそなえて畑を耕すこと)で「春」。二句目のそれは「夜振(よぶり)」(照明などを使って川魚をとること)で「夏」。この二句とも、後藤夜半の第一句集『翆黛』所収の句で、固有名詞の「地名」と畑や川で業をする「季語」との組み合わせの作で、水原秋桜子の「古典的優美の単一化」、そして、鷹羽狩行の「万葉調を自家薬籠中のものとし、俳句の新分野を展開した」(『現代俳句大系第三巻』所収「翆黛 後藤夜半・鷹羽狩行稿」)という指摘が、これらの夜半の句には色濃く宿っている雰囲気を醸し出している。これらの二句についても、実に、夜半の視点が明確で、そして、それが実に的を得ているのである。この一句目は、「筍の里で知られている乙訓の里の四方の藪」を描写し、次に、それらに囲まれた小さな「畑」を浮き彫りにして、さらに、その小さな畑に、ぽつんと一人の農作業に従事している「人」を配置して、その三段階の描写が実に鮮やかで、この夜半の描写は、あたかも、寺田寅彦の、「俳諧連句の映画のモンタージュ的構成に近いとする説」を思い起させるのである。この二句目についても、その「モンタージュ的構成」的視点での描写(写生)は同じで、その視点が、一句目の「遠近」から「近景」へのものに比して、その逆の、「近景」から「遠景」の描写(写生)という違いがある。まず、「古代の国栖という深吉野の里の吉野川で作業をする漁人の顔」が、「夜振り」の「松明」で赤く照らせられているところの「近景(部分像)」を提示して、その「近景(部分像)」から一転して、「吉野川での夜振り」という「遠景(全体像)」へと場面転回をする、その
「映画のモンタージュ的構成」的な描写(写生)が、何とも鮮やかなのである。夜半をして、その師の高浜虚子の唱える「客観写生」の権化と称する指摘も多々見掛けるが、その虚子流の「客観写生」というよりも、夜半が新境地を開拓したところの、「映像的・モンタージュ的写生」ともいうべき、新しい世界のものという印象を強く受けるのである。
(その十四)
○ 滝水の遅るるごとく落つるあり
○ 滝の上(へ)に水現れて落ちにけり
掲出の二句とも、夜半の第一句集『翆黛』所収の句。この二句目の句は、夜半の代表作ということで夙に知られているが、この一句目の句は、二句目の句に比してそれほど人口に膾炙されていない。この二句を並列して見て、一句目の句は、「滝の落下点の滝壺から滝の落ち口へ」との「映像的・モンタージュ的写生」的な句で、この二句目は、その逆の「滝の落ち口から滝の落下点の滝壺へ」の「映像的・モンタージュ的写生」的な句ということになろう。これは、同時点の作なのであろうか。『翆黛』所収の順では、二句目の次に、一句目の句が記載されており、まず、二句目の句が出来て、次に、その逆の視点の一句目の句が出来たというのが、一般的な鑑賞であろうか。そして、滝を見て、上から下の、二句目の視点というのは、何らの違和感を感じないのであるが、この一句目のように、下から上の、「滝水の遅るるごとく落つる」という、この把握は、どうにも唖然とする思いがしてくるのである。「滝壺に水が落下する。それを凝視していると、次から次へと、先の水の後を追うように、それは、一瞬、一瞬、遅るるごとく落ちてくる」と、そして、それは、「落ちにけり」ではなく、「落つるあり」と、すなわち、「それはためらいにも似た滝水の落ちようだ」とでも言うのであろうか。こういう把握は、とても、並の俳人ができるものではないという思いを深くする。ただ、この二句を並列して、二句目の句が、一読して、「滝の落下の様の時間的・空間的把握」に脱帽するのだが、この一句目の句は、さらに、「落ち急いでいる、その一瞬・一瞬の水そのものを写し取っており」、その「表現の妙技のわざ」(皆吉爽雨)には、真に「驚きに値する」(皆吉爽雨)という思いを深くするのである。この二句目の夜半の代表作について、「小学生が見たままを思いつきそうで、であるから、まわりの大人たちをひどく感心させる」との鑑賞も見てきたが(その三)、この一句目の句については、「小学生は、どうにも理解できない」のではなかろうか。というよりも、「後藤夜半のこの表現の妙技のわざを知らない大人達にも、どうにも理解できない」のではなかろうか。「こうした滝の二作だけでも、俳句の名手としての作者の名は後代に残る」(皆吉爽雨)という指摘には、諸手を挙げて賛同いたしたい。なお、この二句目の夜半の代表作について、その上五の「滝の上に」は、「滝の上(うえ)に」の字余りの詠みではなく、「滝の上(へ)に」の詠みこそ、リズム重視の「諷詠派」の後藤夜半の真骨頂であろう(と解すると、この句もまた、とても、「小学生が見たまま思いつきそうな」句ではなく、この詠みにも、夜半の作意が働いていると解したい)。
(その十五)
次のアドレスのネット記事(「きのふはけふのものがたり」)で、「夜半忌」(「底紅忌」)についての、次のようなものを目にした。
http://ipsenon.at.webry.info/200509/article_1.html
[ 道のべに牡丹散りてかくれなし
滝の上に水現れて落ちにけり
ひらきたる秋の扇の花鳥かな
曼珠沙華消えたる茎のならびけり
逢ひがたく逢ひ得し一人静かな
端居して遠きところに心置く
明治28年(1895)大阪生れ。12歳で句作をはじめ、18歳の時、「ホトトギス」に投句。
昭和6年「蘆火」を創刊するが、病のため同9年廃刊する。
昭和23年53歳で「花鳥集」を創刊主宰。5年後に「諷詠」と改称。
昭和51年(1976)8月29日逝去、81歳。
虚子の「花鳥諷詠」から出発しているが、時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む。「諷詠」は、息・後藤比奈夫が継承している。]
また、たまたま目にしてた『馬場あき子 短歌その形と心』(日本放送出版協会)で、歌人の上田三四二の次の一首を知った。
○ 滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す
この上田三四二の歌について、馬場あき子は次のような鑑賞をしている。
[滝をうたった歌は少なくないと思いますが、那智の滝の景観は特別な印象を受けます。それはここにもうたわれているように、滝の水が「空のくぼみにあらはれて」という滝を仰ぐ位置からの感興とその落下の勢いの激しさ爽やかさにあるでしょう。独特な、そういう滝を題材としてうたい据えたいと思う時、そこに表現の工夫という苦しみが生まれることも当然です。「那智の滝」のような、先人もすでに多くうたっている題材に対(むか)う時はそのくらいの覚悟がいります。この歌は那智の滝を見た人なら誰しも感銘を新たにする歌と思いますが、そうでなくても、那智の滝の相を読者に見せしめ、その、空を引きずりおろすような力強い勢いの轟然たる爽やかさを感受させるでしょう。仰ぎみる高い巌壁(がんぺき)と巌壁との間に、まつ青な空のくぼみがあり、そのくぼみを満たし溢れるように、流動的な水の団塊があらわれ、激しい勢いで落下する。その力は、空まで引きずりおろしてしまいそうな勢いなのです。表現としては「空のくぼみにあらはれて」とか、「空ひきおろしざま」にというような言葉を生むのに苦心があり、多くの人の熟知や、古来うたわれてきたものを新たに題材化しようとする時の表現の迫力があるといえるでしょう。]
この上田三四二は俳句にも造詣が深く、おそらく、後藤夜半の代表作の「滝の上に水現れて落ちにけり」は熟知していたのではなかろうか。そして、その夜半の俳句の二番煎じではなく、馬場あき子が指摘するように、「表現としては『空のくぼみにあらはれて』とか、『空ひきおろしざま』にというような言葉を生むのに苦心があり」との、これまた、夜半と同じく、上田三四二の「表現の妙技のわざ」をまざまざと見る思いがするのである。
ここで、ネット記事(「きのふはけふのものがたり」)の、夜半に捧げられた「時間と空間の感覚把握がすぐれていて、さりげないようにみえて、深く沁む」という、この夜半の全体像が、上田三四二と二重写しになってくる思いがしてくるのである。
さらに、ここまできて、またまた、後藤夜半と上田三四二との接点を、次のアドレスの「松岡正剛の千夜千冊『上田三四二 短歌一生』で見る思いがしたのである。その接点となる個所を次に抜粋しておきたい。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0627.html
[三四二は短歌を「日本語の底荷」だと言った。短歌だけではなく俳句も底荷であると言う。つねに俳句に理解を示した歌人でもあった。底荷というのは船の底に積まれる荷物のことで、バラストという。運賃には関係がない。が、これによって船は嵐のなかでも暴風のなかでも航行できる。
バラストに対応しているのはマストである。帆である。かつてもいまも、短歌をマストにする運動も歌人の矜持もあったけれど、三四二は短歌をあくまでバラストとみなしてきた。「短歌は帆となって現代の日本語という言葉の船を推し進める力を持たない」とも書いている。たしかに、現代の日本語を推進しているのは短歌や俳句ではなく、詩ですらなくて、ポップミュージックや吉本興業やガキの言い回しであろう。
三四二は、短歌がそういう目に付く役割をもたなくとも、「現代の日本語というこの活気はあるがきわめて猥雑な船を、転覆から救う目に見えない力」となればいいのではないか、そういう磨かれた言葉のためのバラストになればいいと考えている。こういう人を貴色というのである。]
[短歌の言葉は手拭だというのである。手拭をしぼるときに最後の一しぼりを加えると、きりっとなる。生け花の根じめを見ても、上手の手になったものはきりっとしている。短歌もそういうもので、言葉を手拭のようにしぼらなければならない。
しかし、ここで大事なことは言葉は手拭のようにふだんは実用の言葉なんだということである。花も野に乱れ咲き、勝手に枯れているものなんだということである。それを短歌にしたり生け花にするには、実用の言葉をしぼることなのだ。
たとえば、短歌は焼き物だともいう。土も釉薬も自分のものではないが、作っているうちに得分が出てくる。けれども、最後はこれが窯に入って火を浴びて出てくるところが本当の得分なのだ。その得分を見て、また作歌の本来に戻っていかなければならない。
こういうことがわかってくるには、ともかく窯から出て人目に晒されてきた秀歌をたくさん読むことである。そうすると、どんな歌が「うつり」のよい歌であるかがだんだんわかってくる。その「うつり」が発止と言葉になっているかどうか、そこが見えてくれば歌は見えてくる。]
[歌とは「時にただよふ」という、この一事であったとおもう。これはどのように「さま」を詠むかということに尽きている。
昭和49年、上田三四二は那智の滝に来て、こんな歌を詠んだ。この「さま」こそが短歌なのである。
滝の水は空のくぼみにあらはれて空ひきおろしざまに落下す ]
これらの上田三四二に関する長い引用の、「日本語の底荷(バラスト)」・「言葉を手拭のようにしぼらなければならない」・「時にただよふ」・「どのように『さま』を詠むかということに尽きる」ということは、例えば、上掲の「きのふはけふのものがたり」での後藤夜半の六句に接しただけでも、後藤夜半は、上田三四二と同じような世界に居たということを実感するのである。いや、年代的にいえば、優れた歌人・上田三四二は、優れた俳人・後藤夜半と同じような世界に居たというのが、より正鵠を得ていると解したいのである。
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