金曜日, 10月 12, 2007

川柳の群像(その一~その十)

川柳の群像(その一 R・H・ブライス)

○木の裏に青き夢見る蝸牛(かたつむり) 不来子
○ 山茶花に心残して旅路かな      ブライス

田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
において、川柳作家の一人として、英国人のレジナルト・ホーレス・ブライスを取り上げ、
掲出の二句が紹介されていた。「不来子」という号は、禅の大家の鈴木大拙氏の命名に因る
という。その由来は「遊びに来いと言っても来ない人」という意とのことである。ブライ
スは川柳作家というよりも、俳句・川柳の研究家として、そして、それらの海外への紹介
者として夙に知られている。吉田機司氏との共著の『世界の風刺詩川柳』という著もある。
「川柳は日本独特の人生詩で、日本民族が生んだ世界に大いに誇ることのできる傑れた風刺
詩である」と、その共著の一人の吉田機司氏に語ったとか。このブライスは現天皇の皇
太子の頃の家庭教師としても知られており、また、昭和二十一年元日の昭和天皇の人間宣
言の詔書にも深いかかわりを持つ一人としても紹介されている(星野慎一著『俳句の国際
性』)。掲出の一句目は新聞等にも発表されたもので、「下闇に青き夢みるかたつむり」の句
形のものもあり(尾藤三柳編『川柳総合事典』)、どちらが再案のものなのか不明であるが、
「不来子」という号での代表作の一つなのであろう。二句目は、ブライスの絶句ともいう
べきもので、お見舞いに来られた近所の奥様に英語で漏らされたものとか(東野・前掲書)。
一八九八年(明治三一)生まれ、一九六四年(昭和三四)に没した。このブライスについては、
殆ど、ネットの世界では紹介されていない。次のものは、禅の研究家・ブライスに焦点を
あてたもので、俳人・川柳人の研究家であると共に作家としてのブライスの紹介は、もっ
と、もっと成されて然るべきであろう。

http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/106.pdf

川柳の群像(その二 東野大八)

○ 番傘の傘には人が多すぎる
○ 姿なきわが手がある夜肩でなく
○ 空っぽの袖へ秋風ばかり吹く
○ 引揚げの眼に花だけが美しい
○ ふっくらと幸せな日が丸くなる

田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
の、その百人の川柳作家の中には、「川柳塔」の川柳作家・東野大八氏の名は出てこない。
田辺聖子監修・編で集英社から刊行された『川柳の群像』の著者その人なのである。しか
し、川柳作家としても研究家としても忘れ得ざる一人のこの大八氏が、何故か、『川柳総合
事典(尾藤三柳編)』にも、その名を見いだすことができない。『道頓堀の雨に別れて以来な
り』というタイトルで、岸本水府氏の人生と「大阪の、ひいては近代の川柳文学」を浮き
彫りした、その著者・田辺聖子さんが、監修と編者の二役を兼ねて、東野大八氏が「川柳
塔」に昭和五十七年より平成十三年八月まで連載していたものを、田村義彦氏が綿密に原
典と照合するという労の多い作業を通して、この大八氏の労作が完成されたのである。田
辺聖子さんは、その「序」で「本書はまた、東野大八氏の川柳人生のすべてを挙げて、川
柳と川柳作家に捧げた頌歌ともいえよう」と賛辞を呈している。
さて、掲出の一句目、同人千人という大所帯の「番傘」への大八氏の挨拶句である。二
句目は、中国戦線に駆り出され、左腕切断の手術を受けたとき、軍医が「ふるさとが待っ
てるよ」とささやいてくれたときの一句とか。三句目は引き揚げてきての氏の句集の中の
雙手老残十三句」のうちの一句とか。四句目は、これまた、「式辞きく三々九度が死出の
旅」の、その三々九度を交わした奥様との再会のときの一句とか。これらは、全て、田辺
聖子さんの、その「序」での紹介のものである。そして、最後の五句目は、「父、大八のこ
と」と題しての古藤愛子さんのものに紹介されている一句である。それによると、「母の描
いた墨絵を包み込むように」、この一句が書き添えられているという。
東野大八氏は一九一四年(大正三年)生まれ、二〇〇一年(平成一三)に没した。ネットの世
界では、その著『川柳の群像』の紹介のものだけで、その作品については殆ど紹介されて
いない。そのネット(グーグル)のものを見ていたら、私の『一つの昭和俳句史(桑原月穂の
軌跡)』と題しての、東野大八氏の句集の『川柳共栄圏』の一句も紹介されているようなの
だが、そのホームページはアドレスの変更などで画面に出てこない。その一句は、次のア
ドレス(昭和一七年の項)に、ひっそりと眠っている。

http://members.at.infoseek.co.jp/yahantei/haikushi.PDF

川柳の群像(その三 前田雀郎とその周辺)

○ 帰去来の文を柳にとじん哉 前田雀郎

東野大八氏は、この句をして「俳諧亭雀郎は、鬼貫の言ではないが、『又( また)臨終の夕
までの修業』をモットーにすべてを燃焼した作家であった」との鋭い指摘をしている(東野・
前掲書)。雀郎氏は「川柳丹若会」を創立し、川柳六大家の一人とも、三太郎氏・周魚氏と
並んで東京の三巨頭とも呼ばれていた。ネット(グーグル)関連では、どうにも、まだ未完の
ままに掲載している私関連のものが多いというのは何とも淋しい限りである。なお、先に、
「前田雀郎の世界」として、この「俳諧鑑賞広場」でも取り上げている。また、雀郎門の
尾藤三柳氏らが、精力的にネットにも取り組まれているので、そのうちに、ネットの世界
でもより多くの情報が交流できるようになるであろう。

○ 雀郎年譜
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/nenpu.pdf

○ 前田雀郎の風姿とその俳論
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/hairon.pdf

○ 前田雀郎の世界(『榴花洞日録』鑑賞」) 新年・春の部、春その二、夏その一、夏その
二秋、冬・歳末、その他(現在進行形で改訂中で、句意などは改訂前の素案のものである。)

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru1.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru2.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu1.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu2.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/aki.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/fuyu.pdf

○ 翻訳を手古ずる孫の新造語 阿部佐保蘭

『川柳と翻訳』(中央公論社・昭和四一年刊行)の著を持つ阿部佐保蘭氏のネット関連の紹
介ものは未だなされていない。ただ、東野大八著の『川柳の群像』が下記に紹介され、そ
の中で、佐保蘭氏の一句も例句の一つに取り上げられている。佐保蘭氏は敬愛する雀郎氏
の自選三十六句を、この冒頭で紹介した、R・H・ブライスに英訳を依頼したということな
どが、上記の『川柳の群像』で紹介されている。氏は明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和
四十九年(一九七四)に没した。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/hb/ootu/wshosea.cgi?W-NIPS=9978015434

○ 阿達義男 新潟大学で教鞭をとられ、その博士論文は「江戸川柳の史的研究」で、川
柳の世界では忘れ得ざる人。前田雀郎門ともいえる大野風柳氏らと「新潟川柳社」の設立
も携われたとか(東野・前掲書)。ネットの世界では全く情報がない。しかし、大野風流氏の
ものなどは見られる。

http://www.chat761.com/personality/ouno.html

○ 岡田 甫 前田雀郎氏も『川柳と俳諧』(昭和一一刊行)などの著を持つ俳諧研究家とし
て知られているが、古川柳研究家として名高く、多くの研究家を育成した岡田甫氏につい
ても、東野第八氏は『川柳の群像』の中でとり上げている。岡田甫氏については、次のネ
ットのものなどで情報を得ることができる。

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Publisher/Sengo/Syobun/Toc/Syobun.htm

川柳の群像(その四 川上三太郎とその周辺)

○ 孤独地蔵花ちりぬるを手に受けず 川上三太郎

この句が収載されている昭和三十八年刊行の『孤独地蔵』の「序」の「わが川柳五十年」
には、こう記されているという(東野・前掲書)。
「同じ十七音字でも俳句は自然鑑賞であり花鳥諷詠であるが、川柳はこれと反対に人間探
求・人間追求である。それは丁度人間とその生活よりほかに見聞することの出来ない私に、
実にピッタリ来ている。私はこの川柳以外には何もない。かくして私は川柳に走った。そ
れは私の十三歳の時であった」。三太郎は「川柳研究社」を統率して、昭和十年代には「詩
性川柳」の名のもとに黄金時代を築き上げ、一方、伝統川柳にも優れた手腕を発揮して、「二
刀主義」とも称されていた。川柳生活六十五年、門下から多くの第一線の作家を輩出して
いった。その第一線の作家の一人として時実新子氏のネット(「時実新子の川柳大学」)は充
実したものであるが、こと、川上三太郎氏その人のネット関連のものは未だしという感じ
である。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://shinyokan.ne.jp/sk/senken/index.html

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_169.html

○ 真夜中に酒さめ果てていた孤独 佐藤正敏

大正二年(一九一三)生まれ、平成十二年没。川上三太郎没後は「川柳研究」の幹事長とし
て、その遺髪を継いだ。生前の一冊の句集『ひとり道』についての東野大八氏の正敏川柳
の核心をついている(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Masatosi/Masatosi-Front.htm

○ ふす肌に百夜の秋をもてあます 田辺幻樹

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和十九年に三十七歳で夭逝した。「田辺幻樹とは、戦
前の『川柳研究』誌の黄金時代、主宰者・川上三太郎を支え、師三太郎から門下随一の詩
川柳家と嘱望されていた」との記載が見られる(東野・前掲書)。

http://www.mmjp.or.jp/jst/index/jst10386.htm

○ いつまでも生きている気でいた不覚 渡辺蓮夫

大正八年(一九一九)生まれ、平成十年に没。田辺田辺幻樹より九歳年下で、幻樹氏のよき
理解者であると共に、川上三太郎亡き後の『川柳研究』の編集発行人として、佐藤正敏氏
とともに、その中心となった柳人であった。構造社から発刊された川柳全集五『川上三太
郎』は渡辺蓮夫氏が担当している。

http://www.asahi-net.or.jp/~xb9y-tkhs/books11.html

川柳の群像(その五 椙本紋太とその周辺)

○ よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み 椙本紋太

「触るれば川柳となり、うごけば川柳となる。我々の唾は飛んで川柳となり、我々の眼
光凝っては川柳となるところまで往かなくてはならぬ、則ち自分自身が川柳ではないか」
(「ふあうすと」昭和五年三月)。明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。川柳六
大家の一人。「番傘」の西田當百氏と若き頃から親交があった。昭和四年に「ふあうすと川
柳社」を興し、柳誌「ふあうすと」を創刊した。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/007.html

http://forum.nifty.com/fmellow/monta.html

○ 子と友になる日もう幾とせと想う 泉 淳夫

「写実に始まり私の伝習は、心象作品をも望んでいるが、写実のつくるゆらめきを、ど
う結ぶかを念じて現在があり、『見える』もの即ち『在る』ものが、句にいのちを与えると
いう信念に変わることはない」(第三句集『風涛』あとがき)。明治四十一年(一九〇一)生ま
れ、昭和六十三年没。「番傘」出身。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 壺やきの芋のぬくさにある郷愁 大井正夫

明治三十六年(一九〇六)生まれ、昭和五十五年没。「番傘」出身で、「ふあうすと」の同人
となるが、堀口塊人氏、東野大八氏らに近い柳人である。

○ 新茶あまくいのちしずかに揺れて居り 大山竹二

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和三十七年没。「番傘」出身。昭和八年に「ふあうす
と」同人。独特のリリシズム溢れる川柳で「竹二調」ともいわれ、前田雀郎氏とも親交が
あった。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga016.html

○ 世渡りの下手許し合う小さな膳 小池鯉生

明治四十六年(一九〇七)生まれ、昭和六十二年没。「浦和在憚りながら紋太弟子」と椙本
紋太氏の弟子を自称しているが、川上三太郎氏らとも近い柳人である。

○ 爪切つて故郷のことを思う朝 田中好啓

大正二年(一九一三)生まれ、平成十年没。「番傘」(岸本水府主宰)にも「川柳雑誌」(「川
柳塔」・麻生路郎主宰)にも関係したが、昭和十一年の「ふあうすと」同人以来、椙本紋太氏
を師と仰いだ。

http://homepage2.nifty.com/mikio-san/kouza5.htm

○ 作文としては見事な無心状 延原句沙弥

明治三十年(一八九七)生まれ、昭和三十四年没。昭和十年から「ふあうすと」同人。俳人・
内藤丈草の研究家でもある。

○ 水車小屋戸が開いていて一人いる 房川素生

明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和四十四年没。昭和四年の「ふあうすと」創刊から椙
本紋太氏と歩を共にしている。

http://homepage2.nifty.com/mikio-san/katakoto1.htm

川柳の群像(その六 村田周魚とその周辺)

○ 花生けて己れ一人の座に悟る 村田周魚

日本川柳界の名門「川柳きやり社」の総帥・村田周魚氏は明治二十二年(一八八九)生まれ、
昭和四十二年に没した。掲出の句は周魚氏の辞世の句とされている。周魚氏は窪田而笑子
選の読売柳擅で活躍し、氏の知遇を受けるとともに、坂井久良伎氏・川上三太郎氏・八十
島勇魚らと親交を重ね、大正四年に「川柳きやり社」が創立され、その柳誌「きやり」は
その年の四月にスタートした。きやり一筋の周魚氏は、六大家と呼ばれた人びとのなかで
は比較的地味な存在であり、その作句姿勢は「人間描写の詩として現実的な生活感情を重
んずる」という平淡な姿勢といえるであろう(『川柳総合事典』)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/murata.html

○ 血圧が承知をしない酒の量 窪田而笑子

慶応二年(一八六六)の生まれ、昭和三年に没した。氏は明治四十年に読売新聞社の川柳選
者として、久良伎社・柳樽寺とともに明治川柳界を三分した、「きやり社」というよりも「読
売派」の総帥という立場の柳人であるが、周魚氏の育成者として、周魚氏の次にその名を
連ねることとした。「滑稽文学」なども主宰した。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm

○ 落花生入歯の穴へ身をのがれ 塚越迷亭

明治二十七年(一八九四)の生まれ、明治四十年に病没した。大正九年の「きやり」第三号
から同人となる。飄逸奇行の風刺人として知られ、川上三太郎氏・近藤飴ン坊らと親交が
あった。

http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/nanpo/nanpo_1.htm

○ 蚊帳つれば子供のはしゃぐ一しきり 高須唖三味

明治二十七年(一八九四)の生まれ、昭和四十年に没した。氏は「きやり」の塚越迷亭氏と
親交が厚く、その関係から「きやり」を支援していたが、個人的に「あざみ吟社」を持ち、
独自の川柳活動を続けていたが、迷亭氏との関連から、迷亭氏の次にここにその名をあげ
ることとした。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/senryu25.html

○ 赤んぼの欠伸家中笑わせる 西島〇丸(れいがん)

明治十六年(一八八三)深川霊岸(れいがん)町生まれ、昭和三十三年没。本人は「○丸」(ま
るまる)の意味の号とのことであったが、周りが「霊岸町」生まれで「れいがん」にされて
しまったとか(東野・前掲書)。大正九年に「きやり」の客員に迎えられ、同十五年に発行人
となり、周魚氏の兄貴分というよりも、「東京柳界の父」ともいわれた人で、晩年にはすべ
てを打ち込んだ「きやり吟社」を退いて一社に属することはなかったたという(『川柳総合
事典』)。

○ 川柳がある君がいる君もいる 野村圭祐

明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。構造社から発刊された『川柳全集第一巻・
村田周魚』は氏が担当した。「伝統川柳の家元格で知られる川柳きやり吟社の主幹野村圭祐
は、創立者の村田周魚子飼の社人として五十年間、きやり調に徹し、晩年はきやり吟社の
顔であった」という(東野・前掲書)。

○ ふるさとのゆきもきえたりかなだより 藤島茶六

明治三十四年生まれ、昭和六十三年没。『川柳全集第三巻・西島○丸』は氏が担当した。
村田周魚氏との関係よりも、より以上に、西島○丸氏との友誼の厚かった柳人であったと
いう(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/mikasa.html

川柳の群像(その七 麻生路郎とその周辺)

○ 子よ妻よばらばらになれば浄土なり 麻生路郎

明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和四十年没。「専門家のなき世界は発展せず」と昭和
十一年七月に、川柳人初の「川柳職業人」を宣言をおこなった。雀郎・三太郎・紋太・周
魚・水府と他の五大家はそのような宣言はしなかったが、ここに「路郎らしい潔癖さと川
柳一筋の情熱ぶりがうかがえる」(東野・前掲書)。「川柳雑誌社」を興し、「川柳の雑誌」を
刊行した。門下生は五百名を超すという。掲出の句は葭乃夫人の最も推奨する一句である。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/jirou.html

○ さらば さらば まだ私は夢を見ています 麻生葭乃

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十六年没。「私は路郎の内弟子第一号兼女房です」
(東野・前掲書)。掲出の句はその路郎氏への追悼句の一句である。

http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/Sannichi/20010512a.htm

○ 灯台の夕陽神話を抱きよせる 尼緑之助

明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「人間陶冶の詩」・「生命のある
一句を作れ」の路郎氏の川柳イズム一筋を貫いた。「川柳いづも」を発刊する。

http://www.web-sanin.co.jp/orig/sight/bunka/22b.htm

○ 照る日曇る日女房の顔を見る 小川静観堂

明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和五十年没。元陸軍大佐の軍医で、後に小川伊丹病院
院長とか(東野・前掲書)。『川柳総合事典』などには何らの記載がない。

○ 思い出の道は避けたし通りたし 川村好郎

明治三十五(一九〇二)年生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「川柳の雑誌」は路郎氏の死
後、「川柳塔」に改称されるが、その「川柳塔社」のまとめ役でもあった。

○ 酒癖の噂が先に着任し 北川春巣

大正二年(一九一三)生まれ、昭和五十年没。昭和四十年七月十八日の麻生路郎葬儀の葬儀
委員長をつとめたという(東野・前掲書)。

○ 今にして子が膝に居た頃はよし 小出智子

大正十五年(一九二六)生まれ、平成九年没。「川柳塔のお母ちゃん」とか「肝っ玉智子さ
ん」と慕われたという(東野・前掲書)。

○ ひとすじの春は障子の破れから 三条東洋樹

明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和五十八年没。「ふあうすと」の創立同人で「ふぁう
すと」の柳人であったが、昭和三十二年に「時の川柳」を創刊した。路郎氏が「番傘」出
身から「川柳の雑誌」を創刊して独立していったと軌を一にし、その点で路郎氏と東洋樹
氏とは相互に親近感があったという(東野・前掲書)。

http://www.hinocatv.ne.jp/~rikam/126.TXT

○ 暮れてゆく如き往生したいもの 須崎豆秋

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和三十六年没。豆秋作品には一句たりとも駄句はない
という(東野。前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga020.html

○ 空漠を分け入るように耳そうじ 高鷲唖鈍

明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成元年没。『川柳の雑誌』に独特の詩川柳論を執筆し
ていた。川柳詩人・須崎豆秋論もある(東野・前掲書)。

○ 母が死ぬまで母が死ぬとは思わない 中尾藻介

大正六年(一九一七)生まれ、平成十年没。小出智子さんの句には、この藻介調の影響を色
濃く宿しているという(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-09.html

○ 浮き草は浮き草なりに花が咲き 中島生々庵

明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和六十一年没。医師で後に日本川柳協会の理事長など
もつとめた。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga005.html

○ 一歩出ずれば吾れ旅人となる心 西尾 栞

明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。川柳塔社理事長、日本川柳協会の常任理事
などもつとめた。

http://www.asahi-net.or.jp/~ky4k-mgt/index2001.3.24.html

○ 水道の音で書留待たされる 橋本緑雨

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十五年没。麻生路郎氏の顧問格的な柳人で、事実
上の「川柳の雑誌」の編集長であったという(東野・前掲書)。

○ 押入のついでに拭きたかった肺 福田山雨楼

明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十年没。川上三太郎氏が麻生路郎氏に「山雨楼君
を『川柳研究』に譲ってくれ」と懇請されたほどの柳人(東野・前掲書)。

○ 意地だけで金もなければ夢もなし 不二田一三夫

明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和五十五年没。「一三夫の漫才の師匠は秋田実。川柳は
麻生路郎である」と漫才作家でもあった(東野・前掲書)。

○ なんぼでもあるぞ滝の水は落ち 前田伍健

明治二十二年(一八八九)生まれ、昭和三十五年没。「伍健の川柳における信念というか信
念は『川柳は真情美』」であったとか(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_212.html

○ 草餅と温い言葉てのひらに 丸山弓削平

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成二年没。歯科医師。弓削川柳社初代会長で名誉町民(岡
山県久米南町)と地方文化振興に先鞭をつけた(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga026.html

川柳の群像(その八 岸本水府とその周辺)

○ 電柱は都へつゞくなつかしさ 岸本水府

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十年没。「岸本水府」と「番傘川柳社」について
は、かって、この「俳諧鑑賞広場」で「岸本水府とその周囲の柳人たち(道頓堀の雨に別れ
て以来なり)」で、田辺聖子さんの著書を鳥瞰的に鑑賞したことがあった。今回、この岸本
水府氏や麻生路郎氏と親交のある東野大八著の『川柳の群像、明治・大正・昭和の川柳作
家一〇〇人』(田辺聖子監修・編)に接して、同人八百人という最大の「番傘」集団を目の当
たりにして圧倒される思いがしたのである。そして、同著の「岸本水府」の項については、
詳細な「田辺註」があり、水府氏自身「番傘」を脱退して、「番傘新社」の設立を意図した
というが、その志半ばにして倒れたという(東野・前掲書)。その目指すものは「我々はいま
こそ協力して川柳の文学たることを世に知らしめなければいけない。これが川柳の第四運
動である」。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/suifu.htm

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/suihu.html

○ 小便だ大便だとて人の末 浅井五葉

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。五葉氏は麻生路郎氏より六歳、岸本水府氏よ
り十歳年長であった。大正二年創刊の「番傘」発刊の創立同人で、掲出の句は臨終の一句
とされている。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ 物忘れ甲乙がない老夫婦 榎本聡夢

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。何事によらず「スジを通す」人柄で、「先生
嫌い」で「川柳界に先生の二字はない」とか。平成元年十一月の日本川柳人クラブの創立
に携わり、満場一致で会長に推されたという(東野・前掲書)。

○ 心妻まだ独り身で茶を教え 近江砂人

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和五十四没。岸本水府氏の最初の奥様は十九歳の若さ
で長男吟一氏をもうけて産後の肥立ちが悪く亡くなってしまって、その三年後に賢夫人の
名の高い信江さんと再婚した。近江砂人氏はその信江さんの実弟である。水府氏亡き後も
主幹として「番傘」の興隆に尽くし、晩年は日本川柳協会の設立にもかかわった。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 酒の燗きょう一日の愚を溶かす 奥田百虎

大正五年(一九〇七)生まれ、平成元年没。「番傘」幹事長を七年つとめるかたわら『川柳
歳時記』(創元社刊)を完成させた。「川柳は古川柳のみに非ずと、世に現代の川柳の価値を
問いかけた価値」は計り知れないと激賞されている(東野・前掲書)。

http://homepage2.nifty.com/yasinden-sakurasou/zatugaku.html

○ 馬鹿な子はやれずかしこい子はやれず 小田夢路

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和二十年没。「外務は水府、内務は夢路、夫唱婦随、
車の両輪の如き二人によって番傘は発展した」(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 頬杖の指うるわしき中宮寺 片岡つとむ

大正十一年(一九二二)生まれ、平成十年没。「川柳はくつろぎの文芸である」(福田山雨楼
氏の「番傘」投稿の「川柳の定義」)を信条として作句し続けたという(東野・前掲書)。

http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi

○ 全国で落ちてうれしいのが落ちる 片山雲雀

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十七九年没。弁護士を職とて、昭和四十九年十二
月の日本川柳協会の発足には、推されて初代の理事長となっている。

○ 投機株おんなに稀なよい度胸 金泉満楽

明治三十二年(一八八九)生まれ、昭和六十二年没。「この人の句は軽妙洒脱ユーモアと軽
味にかけては番傘社中で『散二(高橋)川柳』と好一対だろう」(東野・前掲書)。

○ 夜具を敷く事が此の世の果てに似つ 川上日車

明治二十年(一八八七)生まれ、昭和三十四年没。岸本水府氏が唱えた第四運動(昭和二九
年)とは、その一つの動きを、「田中五呂八・川上日車らの川柳革新運動で、川柳の文学性を
唱(い)うもの」としてとらえており、その川柳革新運動の担い手の一人として、日車氏らは
「番傘」を離脱して行く(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 叱られて寝る子が閉めてゆく襖 木下愛日

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。「愛日は番傘作家中の変り種である。別に本
格川柳を逸脱していないが、伝統の流れのうちで、思想の先端を認識し、はっきりした個
性が作品に現れている」(東野・前掲書)。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ どうしたか今宵は嘘のあざやかさ 食満(けまん)南北

明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三十二年没。南北氏は「松竹の座付役者で劇団人とし
て既に著名」で、特に、「先代中村雁治郎の座付作者」として活躍したという(東野・前掲書)。

http://forum.nifty.com/fmellow/nanboku.html

○ 娘の恋の進む七夕立ててやり 笹本英子

明治四十三年(一九一〇)生まれ、昭和三十年没。この掲出の句が絶筆で、「昭和四十年松
江番傘は笹本英子句集『土』を刊行、序文題字は水府がその死の四日前に書いた」(東野・
前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga034.html

○ 米をとぐ大胆不敵なる妻よ 定金冬二

大正三年(一九一四)生まれ、平成十一年没。昭和二十三年に「津山番傘川柳会」を創立し
ているが、昭和三十一年に「川柳みまさか吟社」を創立し、独自の道を歩む。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ メリケン粉つけても海老はまだ動く 高橋散二
明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和四十六年没。「番傘の歴史の中で、あなたほどたく
さんの秀句を世に示した方はいない。あなたの句風は當百(西田)にも五葉(浅井)にも似てい
ます。大変通な芝居の川柳、読む者を吹き出せる滑稽な川柳は他の追随を許さない」(近江
沙人の高橋散二遺句集『花道』の「序」)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga015.html

○ 旧友と酔ふて別れて淋しくて 西田當百

明治四年(一八七一)生まれ、昭和十九年没。「當百の驕らず誇らず、大声叱呼することな
く、後進をみちびくのに慈愛と徳望を以てした、というような人格の薫染は、そののち、『番
傘』の色をも染めていったように思われる。懇親宥和、という気分がつねに『番傘』に揺
曳していて、それは切磋琢磨のきびしさからやや遠いが、それだけにグループが永続した
わけでもあったろう」(田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』)。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ 初恋はみな美しい人でよし 平賀紅寿

明治二十九年(一八九六)生まれ、平成三年没。「還暦を過ぎたばかりの水府先生、五十代
であった紅寿さんと共に男ざかり、川柳ざかり、相反するように見える個性も魅力的で、
大作家という印象は強烈であった。『川柳の化けもの』という紅寿さんの化けものぶり魅か
れて今日まで、不思議に暑い暑い京番(京都番傘)の八月へご縁をいだいている」(東野・前
掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga008.html

○ 五千余の蓮華へ神はどう詫びる 広瀬反省

大正五年(一九一六)生まれ、平成七年没。掲出の句は阪神大震災の折の句で、朝日新聞の
特集の見出しにもとりあげられているという。「反省先生も晩年は番傘川柳と絶縁というよ
り、やむを得ず時事川柳に専念」と、「よみうり時事川柳」などの時事句の選に没頭された
(東野・前掲書)。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ 旅はよしここの地酒にここの唄 森 紫苑荘

明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成二年没。「この人は宇和島刑務所長を最後に退官し
たので、四国との縁が深く、晩年には松山に居を定め、愛媛県大洲市の『川柳水郷』には
山紫水明録を連載。また長崎川柳社顧問で『ながさき』誌をはじめ、岐阜の「柳宴」誌に
も鑑賞文をこまめに寄せ、各地の柳恩に報いており、その温厚篤実の人柄と、鑑賞の披露
の冴えは多くの紫苑荘ファンを魅了した」(東野・前掲書)。

http://www.emc.ehime-np.co.jp/04mokuroku.html

○ 疲れたと言わぬお日様お月様 山田良行

大正十一年(一九二二)生まれ、平成十一年没。医師を職とし、平成元年に日本川柳協会の
理事長に選任されている。昭和四十四年当時、番傘本社同人を辞して、金沢で北国川柳社
を興し、柳誌「きたぐに」を創刊した。

http://www.nissenkyou.or.jp/syoseki/gunzou.htm

○ おみくじが大吉と出ただけのこと 堀口塊人

明治三十六年(一九〇三)生まれ、昭和五十五年没。大正十五年番傘同人。昭和十年に番傘
を退会し、「昭和川柳」を創刊。昭和四十九年の日本川柳協会設立に尽力。明治・大正・昭
和柳界の生字引として各柳誌に健筆を揮った。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kosho/info/57/5708hai.htm


川柳の群像(その九 井上剣花坊とその周辺)

○ 我ばかり燃えて天地は夜の底 井上剣花坊

明治三年(一八七〇)生まれ、昭和九年没。井上剣花坊についても、この鑑賞広場で、「坂
井久良伎と井上剣花坊の連句」で既に触れた。ここでは、岸本水府氏が唱えた「第四運動」
(「番傘」昭和二九・三)との関連で触れておきたい。水府氏は柳界に四つの運動があったと
いう。その一は田中五呂八氏らの「川柳革新運動」であり、その二が坂井久良伎氏らの江
戸川柳回帰の「川柳啓蒙運動」であり、その三が近藤飴ン坊氏らの古い川柳の名称を変更
しての「草詩・寸句」などの提唱運動である。そして、水府氏が第四運動として力説する
のは、「川柳への世俗の偏見の是正」ということであった。この関連でいくと、自らは「川
柳王道論」という水府氏の「第四運動」と視点を異なにするものであったが、その一の「川
柳革新運動」の良き理解者であり、剣花坊門からこの運動の中心になっていた柳人を数多
く見ることができる。とにもかくにも、明治・大正・昭和の柳擅の「柳樽寺」系俳句の元
祖であり、その影響は今に至って大きいものがある。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/stroll/culture/inoue.htm

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-05-ishibe02.html

http://terasan.web.infoseek.co.jp/senryukan.htm

http://forum.nifty.com/fmellow/kenkabou.html

○ 一人去り二人去り仏と二人 井上信子

明治二年(一八六九)生まれ、昭和三十三年没。井上剣花坊の奥様であり、掲出の句は剣花
坊への追悼の一句である。井上信子さんについても、この鑑賞広場の「鶴彬の句」で触れ
たが、川柳界に大きな足跡を残したということは再度特記しておきたい。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga031.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 政治家の脳天を射る星一つ 大石鶴子

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成十一年没。剣花坊・信子御夫妻の次女にあたる柳人で
ある。掲出の句は、「市川房枝の死」に関連しての一句である。剣花坊の「柳樽寺」系俳句
を今に伝えている一人といえよう。

http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000285

○ 謝恩会先生だけが古い服 桂枝太郎

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和五十三年没。落語家で川柳人という異才を放つ柳人。
「おれの川柳の先生は、井上剣花坊だよ。長い間番傘の同人にもなりご厄介をかけたが、
こんな素養でわしは古典落語などはやらず、オール川柳の下地で新作落語ばかりやってき
た」(東野・前掲書)。

http://www.h3.dion.ne.jp/~utaroku/0014/

○ 人生へあてる定規の右ひだり 北夢之助

明治二十九年(一八九六)生まれ、昭和五十四年没。剣花坊の「柳樽寺」派の柳誌「川柳人」
の島田雅楽王らと行動を共にした柳人。戦後は新潟川柳クラブ会長などを経て地方俳壇の
興隆に尽くした。

http://www.nissenkyou.or.jp/map/17niigata/8niigata.html

○ この道やよしや黄泉に通ふとも 小島六厘坊

明治二十一年(一八八八)生まれ、明治四十二年、二十一歳で夭逝した。「明治三十八年七
月二十四日の日本新聞新題柳樽の末尾に曰く、大阪柳樽寺建立、六厘社の同人が住職たり」
と、しかし、六厘坊は柳誌「新編柳樽」を三号でやめたという。その理由は「六厘坊が、
関東の糟粕をなめるのをいさぎよしとしなかったからであろう」という(東野・前掲書)。

http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html

○ あきらめて歩けば月も歩き出し 小林不浪人

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和二十九年没。「遠く青森から常に雑詠(井上剣花坊主
宰の柳誌「大正川柳」の「雑詠」)を投句していた小林不浪人君から『今度青森県から川柳
の雑誌を出したいと思うがどうであろう』と相談をかけられた。雉子郎(吉川英治)と話合っ
た結果『いいでしょうできるだけ応援します』という返事を上げ、やがて『みちのく』創
刊号が生まれた」(川上三太郎・「東奥日報、昭和四一・五・一二」)。

http://www.plib.net.pref.aomori.jp/museum/senryu.html

○ 泣いてゆく中に位牌の子が笑ひ 近藤飴ン坊

明治十年(一八七七)生まれ、昭和八年没。「飴ン坊が剣花坊との出会いは、剣花坊が新聞
『日本』に柳擅を開設した明治三十六年七月三日の投書からで、彼が応募の第一号であっ
た。柳号を京号としたのだが、剣花坊が飴ン坊とつけた」(東野・前掲書)。その「日本」柳
擅の入選句が掲出の句である。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 降るだけの雪積もらせて山眠る 白石朝太郎

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和四十九年没。「剣花坊は大正十一年十月から柳樽寺
派機関誌『大正川柳』の同人制を廃し、私人から新川柳新興のための公共的結社柳誌の発
足を宣言し、大震災という一大試練を切り抜けた直後から、同誌誌面を革新している。そ
のつねに『前へ、前へ』の剣花坊の気迫に応えて白石維想楼(朝太郎)は、師のたのもしき右
腕として新川柳運動に挺身したのであった」(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_192.html

○ 原子力さて人間よ何処へゆく 高木夢二郎

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和四十九年没。「昭和四十六年剣師生誕百年記念事業
『井上剣花坊伝』を発刊。同四十八年『川柳人』五百号記念集を刊行。『川柳人』三一六号
から手を染め五一一号をもって終わる。すなわち同誌を一八五号にわたり手がけたわけで、
その編集実績は長期療養を除きまる十五年にわたることになる」(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 火に狂う巷に遠き魚の夢   田中五呂八

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和十二年没。「彼の川柳趣味は剣花坊の『大正川柳』
にはじまる」。「川柳界の純詩派として哲学的新生命主義を唱え、『新興川柳』なる呼称を掲
げた田中五呂八は、大正・昭和期をよぎる一閃の火花にも似た川柳人であった」(東野・前
掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga030.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 暁を抱いて闇にいる蕾    鶴 彬

明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和十三年没。鶴彬については、この鑑賞広場で、「鶴
彬の句( 反戦・反軍の川柳)」ということで既に触れた。そして、今回の東野大八著の『川柳
の群像、明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人』に触れてみて、鶴彬は、その百人の中で
特記すべき柳人というよりも、時の権力の弾圧と、その獄中死ともいえる凄惨な二十九年
という短い生涯からのイメージが強い柳人であって、作品全体の完成度ということになる
と、これからの人であったという思いを強くする。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm

http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000297

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ あまつさえ涙は女の武器などと   三笠しづ子

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。「『川柳人』は昭和七年十二月号を『三笠しづ
子追悼号』として、十一頁にわたり特集を組み、井上剣花坊以下夫人信子、半文銭ら十人
が心からの悼文を寄せ、追悼吟四十三句を添えている」(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga017.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 冷たさは末期の水に尽きにけり   森田一二

明治二十五年(一八九三)生まれ、昭和五十四年没。「大正十年ごろから昭和十年ごろにか
け、川柳界を駆けぬけていった革新運動の光芒は、新興川柳の名において、一閃に過ぎな
かったが、その量感と迫力において、永久に川柳史上から忘却することはできない。この
輝かしい新興川柳運動の旗手は森田一二であった」(東野・前掲書)。掲出の句はその絶句と
もいうべきものである。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 書いて消す生死一字や紙の上   木村半文銭

明治二十二年(一八九九)生まれ、昭和二十八年に没。「番傘」出身であるが、その「番傘」
から「川柳革新運動」の旗手となり、「氏は森田一二氏、川上日車氏と共に新興柳擅の生ん
だ短詩擅的名作家の一人である」という(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ あめつちの中に我あり一人あり   吉川雉子郎

明治二十五年(一八九二)まれ、昭和三十七年没。「剣花坊は『日本』柳擅の投句者と糾合
して明治三十八年十一月柳誌『川柳』を創刊。同四十五年大正に年号が改まるや『大正川
柳』と改題。柳樽寺は東京柳擅の一大拠点となった。川柳人雉子郎として川柳に最もみが
きをかけ、あぶらの乗り切った時期はこの頃で、『大正川柳』の編集まで手伝っている」(東
野・前掲書)。ここに登場する川柳人雉子郎こそ、昭和三十五年に文化勲章を受章した作家・
吉川英治その人である。

http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/senryu/senryu_03.htm

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html


川柳の群像(その十 坂井久良伎他忘れ得ざる柳人たち)

○ 広重の雪に山谷は暮かかり   坂井久良伎

明治二年(一八六九)生まれ、昭和二十年没。この「鑑賞広場」で「坂井久良伎と井上剣花
坊の連句」という珍しい二人の連句らしきものの鑑賞を試みたとき、この両者は互いにど
んな感慨をもって接していたのであろうかと、そんな思いにとらわれたことがあった。多
分に、この二人は、久良伎氏にとっては「剣花坊は長州の田舎者」という意識が心の片隅
にあったろうし、一方、剣花坊氏にとっても、「久良伎は江戸の遊冶郎」という意識が頭の
何処かにあったのではなかろうかと、そんな思いをしたのであった。この二人と「俳句革
新」を成し遂げた正岡子規氏とが、同じ「日本」という新聞で同時期に籍を置いていたと
いうことは、日本の新しい短詩型の文学の「俳句・川柳」は、この「日本」という新聞を
媒体として誕生していったといっても過言ではなかろう。それにしても、剣花坊山脈に比
して、久良伎山脈というのは、どうしても見劣りがするということは、これまで見てきた
ところが明瞭なことであろう。久良伎は、明治三十七年に「久良伎社」を創立し、「五月鯉」
を創刊した。その巻頭に「古句を研究し、古句の快楽味を味わい、ここに現代を超越した
別天地を味わう」と宣言している。剣花坊が「革新派」とするならば、久良伎は「守旧派」
であるといえるし、しかしながら、この二人が、「狂句百年の負債を返す」という一点にお
いては、共通していたということは特記しておくことであろう。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/1993/kuraki-kuhi.html

http://forum.nifty.com/fmellow/kuraki.html

○ 日曜日馬鹿々々しくも大掃除   今井卯木

明治六年(一八七三)生まれ、昭和三年没。「卯木は伝統川柳一辺倒で、古川柳を宝典とし、
新川柳を極度に嫌悪し、特に剣花坊や角恋坊の句は『見ても虫ずが走る』と蛇蝎の如く嫌
い抜いたという。その反動として、久良伎には肉親のように傾倒した」という(東野・前掲
書)。『川柳江戸砂子』などの研究家としても知られている。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sanmitu/1701.html

○ 踏切で故郷へ行く汽車を見る   冨士野鞍馬

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和九年没。川柳久良伎社幹事で、久良伎派の重鎮で、
古川柳の造詣も深く、それでいて、昭和四年に番傘川柳本社の同人にもなっている。晩年
は郷里の京都に帰り、「京都新聞」柳擅選者などを務める。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ 漂浪のあてもなく世に疲れけり   安藤幻怪坊

明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三年没。出発は久良伎門であるが、明治四十一年に「新
川柳」を創刊して、不偏不党を声明し、大正四年にはそれを「短詩」と改称し、幻怪坊の
死後も続けられたという。古句研究などでも知られている。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm

○ 「考えない」葦ジクザグとせめられる   石原青竜刀

明治三十一年(一八九一)生まれ、昭和五十四年没。久良伎門とか剣花坊門とか、そのよう
なジャンルではなく、「柳俳一如、柳主俳従」の新ジャンルの「諷詩」を提唱した。昭和二
十四年に「人民川柳」を創刊して、昭和三十二年に廃刊となるが、さらに、「諷詩人」を刊
行して、川柳呼称の改称を目指したが、志半ばで他界した。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/zui-bekan/tanpin/8730.htm

○ 夏の実の春ある土をうたがわず   今井鴨平

昭和三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十九年没。「鴨平は川柳は民衆的文芸であると確
信して、短歌を離れ、川柳に傾倒し新しい短詩型の一行詩としての川柳革新に打ち込んだ」
(東野。前掲書)。石原青竜刀氏と同じく革新川柳を目指したが、晩年は俳誌 「青玄」(日野
草城主宰)で作句した。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga038.html

○ 鉄拳の指をほどけば何もなし   大嶋涛明

明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。「大嶋涛明は大陸川柳界の発展に尽く
した重鎮として、いまなお川柳界ではよく知られている」(東野・前掲書)。掲出の句に対し
て、涛明氏を父に持つ現代歌人・来島靖生氏は「鉄拳を父は詠みたれ不肖の子われの拳は
硬くはあらず」と詠んだという(東野・前掲書)。

http://www.geocities.jp/rosemidi/senryu.html

○ 廻る陽の無限に春の一つづつ   大谷五花村

明治二十四年(一八九一)生まれ、昭和三十三年没。白河町長(現在・市)、貴族院議員とな
った地方の名士。それでいて、「新川柳こそ庶民の文学」と東北地方に革新川柳の灯を絶や
さなかった。井上剣花坊・信子御夫妻に近い柳人でもあった。

http://www.goka-e.fks.ed.jp/haiku/gokason01.html

○ 引き際の美学なんにも語らずに   北川絢一郎

大正五年(一九一六)生まれ、平成十一年没。「京都川柳社」の創立にかかわり「川柳平安」
の中心的柳人であった。この「川柳平安」は昭和五十二年に「京かがみ」・「都大路」・「川
柳新京都」と三分裂してしまった。分裂後は「川柳新京都」に属した(東野・前掲書)。

○ おれのひつぎは おれがくぎうつ   河野春三

明治三十五年(一九〇二)生まれ、昭和五十九年没。岸本水府氏の「番傘」、そして、麻生
路郎氏の「川柳の雑誌」と並んで、昭和三十一年に「天馬」を創刊した。そして、これが、
現在の「川柳ジャーナル」に引き継がれている。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.jomon.ne.jp/~ayumi/goroku.HTM

○ 蒼空の下で草苅る鎌の音   草刈蒼之助

大正二年(一九一三)生まれ、平成四年没。異色の俳人・今井鴨平氏との出会い、そして、
鴨平氏亡き後は、またしても、異色の俳人・河野春三氏との出会いと、時実新子さんは彼
をして、「ニヒルで豪胆でそのくせ繊細な神経の青鬼」とよんでいるとか。また、掲出の句
は、自分の号に対するものとか(東野・前掲書)。

http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/005.html

○ お薬を素直にのんで母逝けり   斎藤松窓

明治十八年(一八八五)生まれ、昭和二十年没。「京風川柳の家元であり、京都柳擅の大御
所だった」(東野。前掲書)。

○ 心臓が弱かったとは父に似し   清水白柳

明治三十八年(一九〇伍)生まれ、昭和四十五年没。東野大八氏らが関係した「川柳塔」で
活躍した柳人。掲出の句は、息子さんを亡くしたときの一句である。

○ 大空のあまりの青き病み疲れ   谷垣史好

大正十四年(一九二五)生まれ、平成五年没。「川柳塔」の柳人。掲出の句は亡くなった病
室にあったメモの一句(辞世)という(東野・前掲書)。

○ 桜ちりぢりに水に浮かぶは片思い   寺尾俊平

大正十四年(一九二五)生まれ、平成十一年没。「川柳塔」の橘高薫風氏などと親交のあた
柳人。薫風氏は「私は俊平さんから、川柳はやさしさであることをおしえられた」という(東
野・前掲書)。

http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi

○ わが国でありわが国が嫌になり   永田帆船

大正三年(一九一四)生まれ、平成八年没。堀口塊人氏らと親交の深かった柳人。掲出の句
は遺作の中の一句である。

http://kyo3ho.hp.infoseek.co.jp/p2-sen-binbo.html

○ 良心の唇青しカンニング   岡田三面子

明治元年(一八六八)生まれ、昭和十一年没。刑法学者の法学博士で東大教授などを歴任し
た。「柳樽の母胎である万句合を古川柳研究の先駆的役割を果たした」(東野・前掲書)。

http://forum.nifty.com/fmellow/okada.htm

○ 鞍置いた馬のさまよう須磨の浦   西原柳雨

慶応元年(一八六五)生まれ、昭和五年没。岡田三面子と共に古川柳研究家として名高い。

http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/senryuu_top.htm

○ 日輪を一つ残して幕を引キ   山路閑古

明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和五十二年没。俳句は高浜虚子氏、川柳は坂井久良伎
氏、そして、連句にも関心があり鴫立庵十九世庵主を名乗った。古川柳研究家としても名
高い。

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/HihonEngi/Kanko/Kaisetsu.htm

○ 寝ても春起きても春の暖かさ   本田渓花坊

明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和六十二年没。昭和二年に柳多留百六十七篇を発見す
るなど、古川柳の古書の蒐集家として名高い。

http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html

○ 田中蛙骨

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和十七年没。濃尾川柳界の草分けの一人で、古川柳研究
誌「やなぎ樽研究」の尽力者として名高い。

http://www.jic-gifu.or.jp/np/g_news/200404/0401.htm

月曜日, 10月 08, 2007

水原秋桜子の俳句(一~十五)



水原秋桜子の俳句

(一)

○高嶺星蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり (『葛飾』)

 大正十四年作。この大正十四年のごろから、秋桜子の作風は、これまでの「ホトトギス」的な写生句を脱して、「作者の感情の起伏を、いかにして一句の調べのうえに表わすか」という主観的傾向を帯びてくる。この掲出句でいうならば、「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」という把握は、「ホトトギス」流の自然を客観的に描写する写生の句というよりも、「高嶺星」(高嶺の空に輝いている星)の下に、夜更けの灯り一つない「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」と、秋桜子のこの時の心を強く刺激した感動のようなものを見事に表現している。秋桜子は、「ホトトギス」の作家で、原石鼎の「淋しさに又銅鑼うつや鹿火屋守」などに惹かれたというが、石鼎の「景情一致」というような姿勢がうかがえる。

(二)

○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (『葛飾』)

 大正十五年作。秋桜子の第一句集『葛飾』は、葛飾の土地が多くその主題になっていることに由来があることは、その「序」に記されている。秋桜子は東京神田の生まれの、生粋の江戸っ子という面と、それが故の近郊の葛飾の地への愛着というものは想像以上のものがある。そして、それは、「水郷の風趣があり、真間川から岐れる水が、家々の前に掘をつくって、蓮が咲き、垣根に桃や連翹の咲き乱れる」と幼年時代に足を伸ばした回想の土地・葛飾という思いであろう。この掲出句も、決して、昭和十五年当時の現実の葛飾の風景というよりも、秋桜子の心の奥底に眠っている瑞穂の国の日本の原風景ともいうべきそれであろう。

(三)

○ 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (『葛飾』)

 大正十五年作・神田生まれの、生粋の江戸っ子の秋桜子に帰省(故郷に帰る)ということがあてはまるのかどうか、はなはだあやしいという思いがしてくる。この句は夏の季語の「帰省」の題詠なのであろう。当時の「ホトトギス」のものは、この種の題詠によるものと思われるのである。秋桜子はこの種の連想しての句作りを得意とする俳人であった。この句集『葛飾』の「葛飾」に由来がある句についても、過去の経験などに基づく連想で、秋桜子らしく一幅の風景画に仕立てている句が多いようである。この掲出の句についても、「桑の葉の照る」夏の猛暑の中を「堪えて」帰省するという帰省子の姿が髣髴としてくる。
こういう実景というよりも、秋桜子のイメージの中に再構成された景は、この種の実景よりも、リアリティを持ってくるのは不思議なことでもある。

(四)

○ 青春のすぎにしこころ苺喰ふ  (『葛飾』)

 大正十五年作。絵画に風景画と人物画という区分けがある。この区分けですると、秋桜子は風景画を得意とする俳人であって、人物画や自分の心の内面を表白するとことを得意とする俳人ではないということはいえるであろう。そういう中にあって、この掲出句は秋桜子には珍しい感情表白の句といえるであろう。時に、秋桜子は三十五歳で、本業の方においては医学博士の学位を受け、俳句の方においても、虚子より「ホトトギス」創刊三十周年記念の企画などを委託されるなど、順風満帆という趣の頃である。しかし、そういう中にあって、やはり「青春は終わった」という感慨であろうか。この年、東大俳句会・ホトトギスで一緒に活動していた山口誓子が東大を卒業し、関西の住友合資会社に勤務することとなる。この掲出句には、秋桜子よりも十歳前後若い誓子などの影響も感知される。

(五)

○ むさしのの空真青なる落葉かな (『葛飾』)

大正十五年作。上田敏訳『海潮音』の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(ベルレーヌ「落葉」)のように、「落葉」の句というのも「うら悲し」のものが多い。そういう中にあって、秋桜子の掲出の「落葉」の句は、「空真青」の中のそれであって、「うら悲し」というような感情表白の句ではなく、色彩の鮮やかな風景画を見るような思いがしてくる。上五の「むさしのの」という流れるようなリズムと相俟って、当時の黄葉・紅葉の雑木林の武蔵野の一角が眼前に浮かんでくるようである。もし、秋桜子のこの時の感情の動きのようなことに着眼すると、青春の甘い感傷というよりも、幼年・青春期を通じて、慣れ親しんだ、葛飾、そして、武蔵野へのノスタルジー(郷愁)のようなものであろう。

(六)

○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (『葛飾』)  

 昭和二年作。赤城山での句で、秋桜子の代表作の一つである。山本健吉の『現代俳句』で次のように紹介されている。「彼の作品が在来の俳句的情から抜け出ていかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかと言うことだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画は、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらしたことは、特筆しておかなければならない。在来の寂(さび)・栞(しおり)ではとらえられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである」。確かに、「風景俳句」とか「写生俳句」とかではなく、新しい感覚の西洋画的な「印象俳句」というものが感知される。葉を落ちつくした樹木に啄木鳥が叩いている音すら聞こえてくるようである。

(七)

○ 追羽子に舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ  (『葛飾』)

 昭和二年作。この年の一月に山口青邨・高野素十らと共に三浦三崎に吟行した時の作品である。「せまい町筋では追羽子が盛で、林檎の上には紅い凧もあがってゐた。まづ魚市場へゆき、漁船から魚を揚げる景を見たのち、渡し舟で城ヶ島へ渡った。砂浜には蒲公英が咲き、いま潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」(石田波郷・藤田湘子著『水原秋桜子』)。この秋桜子の回想文からすると掲出の句は実景での作ではないことが了知される。追羽子の光景は三崎港のものであり、鮫の光景は城ヶ島でのものである。その鮫も実際は、「潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」ということなのであるが、それを「舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ」と、実景以上に現実感のある表現で一句を構成しているのである。こういう句作りが、秋桜子が最も得意とし、最も多用したものであったということは、特記しておく必要があろう。

(八)

○ 来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり (『葛飾』)

 昭和二年作。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んで、大和路の古寺と仏像に深く心にうたれ、大和吟行を思いたったという。秋桜子の大和吟行関連の作には秀句が多い。この句は東大寺の一名法華堂ともいわれている三月堂での作という(藤田湘子・前掲書)。しかし、この句には、その三月堂もその仏像も詠われてはいない。万葉集以来この古都、この古寺周辺の馬酔木の花とその日の光をとらえて、いかにも秋桜子らしい格調のある一句に仕立てている。大和路の春は馬酔木の花盛りである。その花盛りの中にあって、この古都、この古寺を巡る、さまざまな「来し方」に思いを巡らして、こういう懐古憧憬の抒情味の風景俳句は、秋桜子の独壇場であるとともに、秋桜子が主宰する「馬酔木」俳句の一つの特徴でもあろう。

(九)

○ 蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ (『葛飾』)

 昭和三年作。前年に続く大和路での句。この年には大和路に吟行した記録がないので回想句であろうという(藤田湘子・前掲書)。この句について、「この句は山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現し得ているつもりであるが、『春いづこ』だけは感傷があらわに出すぎていけないと思っている」(俳句になる風景)と作者が言っているのに対して、この「作者(秋桜子)の考え方とは反対に、私(山本健吉)は『春いづこ』の座五は動かぬ」との評がある(山本・前掲書)。作者自身は、唐招提寺の「春らしい景物のない講堂のほとり」の景に主眼を置いて、「春いづこ」は不満なのであろうが、この「春いづこ」の詠嘆が、唐招提寺の栄枯盛衰を物語るものとして、この「座五は動かぬ」との評を是といたしたい。実際に蟇が鳴いたかという穿鑿は抜きにして、ここに「蟇ないて」の上五を持ってきたのは、やはり、秋桜子ならではであろう。

(一〇)

○ 利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな (『葛飾』)

 昭和五年作。この句は大利根から江戸川に分かれる千葉の関宿での作という(藤田・前掲書)。「『とねがわの……』という大らかな詠い出しが、すでに懐旧の情をさそう。つづいて『ふるきみなとのはちすかな』と叙述的ながら大景をしだいに絞りあげて、蓮の花に焦点を集中していく手法は、起伏を抑えたリズムと相俟って実に効果的である。秋桜子俳句は、構成的で構成の華麗に目を奪われることがしばしばである」(藤田・前掲書)。まさに、秋桜子の俳句はその中心に「素材を巧みに構成する」ということを何よりも重視していることは、この句をもってしても明瞭なところであろう。そして、秋桜子とともに「四S」の一人の山口誓子も、この「素材を巧みに構成する」ということには群れを抜いている俳人であった。ともすると、秋桜子俳句は、「短歌的・抒情的・詠嘆的」(山本健吉)と見なされがちだが、基本において、「構成的・知的」であることにおいて、誓子と共通項を有していることは、ここで強調しておく必要があろう。

(一一)

○ 鳥総松(とぶさまつ)枯野の犬が来てねむる (『新樹』)

昭和六年作。「鳥総松」は新年の季語、そして、「枯野」は三冬の季語。秋桜子にしては珍しい季重なりの句である。山口誓子にも、「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」(昭和二十年作)と「枯れ野の犬」の名句があり、秋桜子の句と「枯野の犬」の双璧とされている(藤田・人と作品)。掲出の秋桜子の句について、「作者としては、あまりそれらしい構図も考えず、見たものを見たものとして写生したと思う。つまり無心の一句。それだけに、ゆっくりと渋味が滲み出るような趣がある」(藤田・秋桜子の秀句)との評もある。しかし、この掲出の句も、秋桜子らしい構成的に工夫した句で、「鳥総松」と「枯野の犬」との取り合わせは、無心の写生の一句とは思われない。そもそも、「枯野の犬」というのが、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「枯野」と、俳諧・俳句の象徴的な季語と結びついて、想像以上のイメージの拡がりを見せてくれる。そういう、イメージの拡がりを狙っての、季重なりの構成的な一句として理解をいたしたい。そして、そのことが、後に、即物・構成派の山口誓子の掲出の「枯野の犬」の句と併せ、その双璧として、今に、詠み繋がれているその中核にあるもののように思われる。

秋桜子の俳句

(一二)

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり (『秋苑』)

 昭和九年作。「菊は秋桜子にとって欠かせぬ素材で、全句集にのこる菊の句は、菊日和など類縁の作を含めると百五十二句にのぼる。これは梅の句の百七十六句に次ぐ多さで、春秋の双璧をなしている。ちなみに桜は五十九句と、意外に少ない」(藤田・秋桜子の秀句)。

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり
○ 菊かをりこゝろしづかに朝に居る
○ 菊かをり金槐集を措きがたき
○ 菊しろし芭蕉も詠みぬ白菊を
○ 菊の甕藍もて描きし魚ひとつ

 『秋苑』に収載されている昭和九年の菊連作の五句である。この五句のなかでは、やはり、掲出の句が「リズム・構成・色彩感覚」の面において群を抜いていよう。「白菊の白妙」とはいかにも秋桜子らしい「きれい寂」(山本謙吉の「秋桜子の俳句の『きれい寂』で使われた言葉で、「寂の本質の中に含む華麗さ」などの用例)を感じさせる一句である。秋桜子の代表句の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(昭和二十三年作)と双璧をなす句といっ
てもよかろう。

(一三)

○ 狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ (『岩礁』)

 昭和十二年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)に次のような一節がある。
「彼が『葛飾』でうち立て、また連作俳句さえ試みて、現実よりも純粋な主情の色と光とを描き出そうとしたのは、(略) ヨーロッパの印象派、それに学んで日本でも多彩な洋画の世界を創り出した、安井曾太郎や梅原龍三郎や佐伯祐三などの世界を知り、強く惹かれる心を持っていたからだ。あるいはまた、(略) 琳派の絵や工芸が秋桜子の好みに近い、それも、宗達、光悦、乾山と並べてみて、秋桜子の世界は光琳だろう。」
 掲出の句は、「佐伯祐三遺作展」と題する八句連作のうちの一句である。佐伯祐三は昭和三年にパリ郊外で客死している。ともすると、秋桜子の俳句は、「きれい寂」の「寂の本質の中に含む華麗さ」という面で鑑賞されがちだが、佐伯祐三らの「現実よりも純粋な主情の色と光」という面での鑑賞がより要求されてくるであろう。

(一四)

○ 初日さす松はむさし野にのこる松 (『蘆刈』)

 昭和十四年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)は、次のように続く。
「もう一つ、これは畫ではないが、利休の寂を逸脱して大名茶にしてしまったとして責められる利休門の高弟、古田織部、織部門の高弟で「きれい寂」の評判を取った小堀遠州などの世界である。「きれい寂」とは、寂の本質の中に含む華麗さを取り出して言うので、本来利休の侘数寄の中にも潜むものであるが、取り立てては小堀遠州の好みを指す。利休の侘数寄は、織部の大名数寄を経て、遠州で「きれい寂」に到達する。(略)織部好みの角鉢や角蓋物や、茶碗などを見て、これこそ「きれい寂」を創り出す基であり、これは秋桜子の目指す理想的芸境に近いのではないかと思う。」
 秋桜子の陶器趣味や茶道趣味は、その句を追っていくだけでも十分に察せられるのであるが、この掲出の句は陶器作家の富本憲吉の工房の裏の林の見事な赤松を想像しつつの一句という(藤田・「人と作品」)。この掲出句でも鮮明なように、秋桜子俳句の根底には、佐伯祐三らの油絵的な世界ではなく、極めて高雅・典麗な「きれい寂」に通ずる日本画的な世界であるということができよう。ここには、佐伯祐三的な世界の影はない。

(一五)

○ 陶窯(かま)が噴く火の暮れゆけば青葉木莵(あおばずく) (『古鏡』)

 昭和十六年作。当時、秋桜子は富本憲吉の陶房をよく訪れている。先に触れた「初日さす松はむさし野にのこる松」について、次のような自解をのこしている。「陶器工房の側に、高い赤松が立っていた。雑木林の中からただ一本空にのびているもので、武蔵野にのこる美しい松の中でも、これほどのものはすくないであろうと思われた。先生は仕事に疲れると、いつも梢を眺めておられた」(藤田・秋桜子の秀句)。この掲出の句もその陶房でのものであろう。この頃は、同時に、中西悟堂の「日本野鳥の会」の探鳥行に同行して、野鳥の句を多く残している。この作の前年の昭和十五年には、いわる、京大俳句弾圧事件が起こり、第二次世界大戦の勃発の前夜のような状態であった。当時の秋桜子の陶窯や野鳥の句などが多くなるのも、そのような当時の思想弾圧などの社会的風潮と大きく関係しているのかも知れない。                                                                                                                                                                                                       

高野素十の俳句



高野素十の俳句(一)

一 春水や蛇籠の目より源五郎

初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水
が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠
の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせ
の句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。
1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。
1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。
1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。
1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

○ せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
○ 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
○ 門入れば竃火見えぬ秋の暮
○ 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

○ 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

○ 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
○ 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)

 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、
下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

○ 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
○ 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
○ 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)

『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」
時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

○ 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。












高野素十の俳句(一)

一 春水や蛇籠の目より源五郎

初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水
が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠
の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせ
の句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・
例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。
(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

○ せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
○ 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
○ 門入れば竃火見えぬ秋の暮
○ 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

○ 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

○ 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
○ 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)
 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、
下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

○ 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
○ 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
○ 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)
『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」
時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

○ 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。