川柳の群像(その一 R・H・ブライス)
○木の裏に青き夢見る蝸牛(かたつむり) 不来子
○ 山茶花に心残して旅路かな ブライス
田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
において、川柳作家の一人として、英国人のレジナルト・ホーレス・ブライスを取り上げ、
掲出の二句が紹介されていた。「不来子」という号は、禅の大家の鈴木大拙氏の命名に因る
という。その由来は「遊びに来いと言っても来ない人」という意とのことである。ブライ
スは川柳作家というよりも、俳句・川柳の研究家として、そして、それらの海外への紹介
者として夙に知られている。吉田機司氏との共著の『世界の風刺詩川柳』という著もある。
「川柳は日本独特の人生詩で、日本民族が生んだ世界に大いに誇ることのできる傑れた風刺
詩である」と、その共著の一人の吉田機司氏に語ったとか。このブライスは現天皇の皇
太子の頃の家庭教師としても知られており、また、昭和二十一年元日の昭和天皇の人間宣
言の詔書にも深いかかわりを持つ一人としても紹介されている(星野慎一著『俳句の国際
性』)。掲出の一句目は新聞等にも発表されたもので、「下闇に青き夢みるかたつむり」の句
形のものもあり(尾藤三柳編『川柳総合事典』)、どちらが再案のものなのか不明であるが、
「不来子」という号での代表作の一つなのであろう。二句目は、ブライスの絶句ともいう
べきもので、お見舞いに来られた近所の奥様に英語で漏らされたものとか(東野・前掲書)。
一八九八年(明治三一)生まれ、一九六四年(昭和三四)に没した。このブライスについては、
殆ど、ネットの世界では紹介されていない。次のものは、禅の研究家・ブライスに焦点を
あてたもので、俳人・川柳人の研究家であると共に作家としてのブライスの紹介は、もっ
と、もっと成されて然るべきであろう。
http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/106.pdf
川柳の群像(その二 東野大八)
○ 番傘の傘には人が多すぎる
○ 姿なきわが手がある夜肩でなく
○ 空っぽの袖へ秋風ばかり吹く
○ 引揚げの眼に花だけが美しい
○ ふっくらと幸せな日が丸くなる
田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
の、その百人の川柳作家の中には、「川柳塔」の川柳作家・東野大八氏の名は出てこない。
田辺聖子監修・編で集英社から刊行された『川柳の群像』の著者その人なのである。しか
し、川柳作家としても研究家としても忘れ得ざる一人のこの大八氏が、何故か、『川柳総合
事典(尾藤三柳編)』にも、その名を見いだすことができない。『道頓堀の雨に別れて以来な
り』というタイトルで、岸本水府氏の人生と「大阪の、ひいては近代の川柳文学」を浮き
彫りした、その著者・田辺聖子さんが、監修と編者の二役を兼ねて、東野大八氏が「川柳
塔」に昭和五十七年より平成十三年八月まで連載していたものを、田村義彦氏が綿密に原
典と照合するという労の多い作業を通して、この大八氏の労作が完成されたのである。田
辺聖子さんは、その「序」で「本書はまた、東野大八氏の川柳人生のすべてを挙げて、川
柳と川柳作家に捧げた頌歌ともいえよう」と賛辞を呈している。
さて、掲出の一句目、同人千人という大所帯の「番傘」への大八氏の挨拶句である。二
句目は、中国戦線に駆り出され、左腕切断の手術を受けたとき、軍医が「ふるさとが待っ
てるよ」とささやいてくれたときの一句とか。三句目は引き揚げてきての氏の句集の中の
雙手老残十三句」のうちの一句とか。四句目は、これまた、「式辞きく三々九度が死出の
旅」の、その三々九度を交わした奥様との再会のときの一句とか。これらは、全て、田辺
聖子さんの、その「序」での紹介のものである。そして、最後の五句目は、「父、大八のこ
と」と題しての古藤愛子さんのものに紹介されている一句である。それによると、「母の描
いた墨絵を包み込むように」、この一句が書き添えられているという。
東野大八氏は一九一四年(大正三年)生まれ、二〇〇一年(平成一三)に没した。ネットの世
界では、その著『川柳の群像』の紹介のものだけで、その作品については殆ど紹介されて
いない。そのネット(グーグル)のものを見ていたら、私の『一つの昭和俳句史(桑原月穂の
軌跡)』と題しての、東野大八氏の句集の『川柳共栄圏』の一句も紹介されているようなの
だが、そのホームページはアドレスの変更などで画面に出てこない。その一句は、次のア
ドレス(昭和一七年の項)に、ひっそりと眠っている。
http://members.at.infoseek.co.jp/yahantei/haikushi.PDF
川柳の群像(その三 前田雀郎とその周辺)
○ 帰去来の文を柳にとじん哉 前田雀郎
東野大八氏は、この句をして「俳諧亭雀郎は、鬼貫の言ではないが、『又( また)臨終の夕
までの修業』をモットーにすべてを燃焼した作家であった」との鋭い指摘をしている(東野・
前掲書)。雀郎氏は「川柳丹若会」を創立し、川柳六大家の一人とも、三太郎氏・周魚氏と
並んで東京の三巨頭とも呼ばれていた。ネット(グーグル)関連では、どうにも、まだ未完の
ままに掲載している私関連のものが多いというのは何とも淋しい限りである。なお、先に、
「前田雀郎の世界」として、この「俳諧鑑賞広場」でも取り上げている。また、雀郎門の
尾藤三柳氏らが、精力的にネットにも取り組まれているので、そのうちに、ネットの世界
でもより多くの情報が交流できるようになるであろう。
○ 雀郎年譜
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/nenpu.pdf
○ 前田雀郎の風姿とその俳論
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/hairon.pdf
○ 前田雀郎の世界(『榴花洞日録』鑑賞」) 新年・春の部、春その二、夏その一、夏その
二秋、冬・歳末、その他(現在進行形で改訂中で、句意などは改訂前の素案のものである。)
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru1.pdf
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru2.pdf
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu1.pdf
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu2.pdf
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/aki.pdf
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/fuyu.pdf
○ 翻訳を手古ずる孫の新造語 阿部佐保蘭
『川柳と翻訳』(中央公論社・昭和四一年刊行)の著を持つ阿部佐保蘭氏のネット関連の紹
介ものは未だなされていない。ただ、東野大八著の『川柳の群像』が下記に紹介され、そ
の中で、佐保蘭氏の一句も例句の一つに取り上げられている。佐保蘭氏は敬愛する雀郎氏
の自選三十六句を、この冒頭で紹介した、R・H・ブライスに英訳を依頼したということな
どが、上記の『川柳の群像』で紹介されている。氏は明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和
四十九年(一九七四)に没した。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/hb/ootu/wshosea.cgi?W-NIPS=9978015434
○ 阿達義男 新潟大学で教鞭をとられ、その博士論文は「江戸川柳の史的研究」で、川
柳の世界では忘れ得ざる人。前田雀郎門ともいえる大野風柳氏らと「新潟川柳社」の設立
も携われたとか(東野・前掲書)。ネットの世界では全く情報がない。しかし、大野風流氏の
ものなどは見られる。
http://www.chat761.com/personality/ouno.html
○ 岡田 甫 前田雀郎氏も『川柳と俳諧』(昭和一一刊行)などの著を持つ俳諧研究家とし
て知られているが、古川柳研究家として名高く、多くの研究家を育成した岡田甫氏につい
ても、東野第八氏は『川柳の群像』の中でとり上げている。岡田甫氏については、次のネ
ットのものなどで情報を得ることができる。
http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Publisher/Sengo/Syobun/Toc/Syobun.htm
川柳の群像(その四 川上三太郎とその周辺)
○ 孤独地蔵花ちりぬるを手に受けず 川上三太郎
この句が収載されている昭和三十八年刊行の『孤独地蔵』の「序」の「わが川柳五十年」
には、こう記されているという(東野・前掲書)。
「同じ十七音字でも俳句は自然鑑賞であり花鳥諷詠であるが、川柳はこれと反対に人間探
求・人間追求である。それは丁度人間とその生活よりほかに見聞することの出来ない私に、
実にピッタリ来ている。私はこの川柳以外には何もない。かくして私は川柳に走った。そ
れは私の十三歳の時であった」。三太郎は「川柳研究社」を統率して、昭和十年代には「詩
性川柳」の名のもとに黄金時代を築き上げ、一方、伝統川柳にも優れた手腕を発揮して、「二
刀主義」とも称されていた。川柳生活六十五年、門下から多くの第一線の作家を輩出して
いった。その第一線の作家の一人として時実新子氏のネット(「時実新子の川柳大学」)は充
実したものであるが、こと、川上三太郎氏その人のネット関連のものは未だしという感じ
である。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://shinyokan.ne.jp/sk/senken/index.html
http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_169.html
○ 真夜中に酒さめ果てていた孤独 佐藤正敏
大正二年(一九一三)生まれ、平成十二年没。川上三太郎没後は「川柳研究」の幹事長とし
て、その遺髪を継いだ。生前の一冊の句集『ひとり道』についての東野大八氏の正敏川柳
の核心をついている(東野・前掲書)。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/Masatosi/Masatosi-Front.htm
○ ふす肌に百夜の秋をもてあます 田辺幻樹
明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和十九年に三十七歳で夭逝した。「田辺幻樹とは、戦
前の『川柳研究』誌の黄金時代、主宰者・川上三太郎を支え、師三太郎から門下随一の詩
川柳家と嘱望されていた」との記載が見られる(東野・前掲書)。
http://www.mmjp.or.jp/jst/index/jst10386.htm
○ いつまでも生きている気でいた不覚 渡辺蓮夫
大正八年(一九一九)生まれ、平成十年に没。田辺田辺幻樹より九歳年下で、幻樹氏のよき
理解者であると共に、川上三太郎亡き後の『川柳研究』の編集発行人として、佐藤正敏氏
とともに、その中心となった柳人であった。構造社から発刊された川柳全集五『川上三太
郎』は渡辺蓮夫氏が担当している。
http://www.asahi-net.or.jp/~xb9y-tkhs/books11.html
川柳の群像(その五 椙本紋太とその周辺)
○ よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み 椙本紋太
「触るれば川柳となり、うごけば川柳となる。我々の唾は飛んで川柳となり、我々の眼
光凝っては川柳となるところまで往かなくてはならぬ、則ち自分自身が川柳ではないか」
(「ふあうすと」昭和五年三月)。明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。川柳六
大家の一人。「番傘」の西田當百氏と若き頃から親交があった。昭和四年に「ふあうすと川
柳社」を興し、柳誌「ふあうすと」を創刊した。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/007.html
http://forum.nifty.com/fmellow/monta.html
○ 子と友になる日もう幾とせと想う 泉 淳夫
「写実に始まり私の伝習は、心象作品をも望んでいるが、写実のつくるゆらめきを、ど
う結ぶかを念じて現在があり、『見える』もの即ち『在る』ものが、句にいのちを与えると
いう信念に変わることはない」(第三句集『風涛』あとがき)。明治四十一年(一九〇一)生ま
れ、昭和六十三年没。「番傘」出身。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 壺やきの芋のぬくさにある郷愁 大井正夫
明治三十六年(一九〇六)生まれ、昭和五十五年没。「番傘」出身で、「ふあうすと」の同人
となるが、堀口塊人氏、東野大八氏らに近い柳人である。
○ 新茶あまくいのちしずかに揺れて居り 大山竹二
明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和三十七年没。「番傘」出身。昭和八年に「ふあうす
と」同人。独特のリリシズム溢れる川柳で「竹二調」ともいわれ、前田雀郎氏とも親交が
あった。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga016.html
○ 世渡りの下手許し合う小さな膳 小池鯉生
明治四十六年(一九〇七)生まれ、昭和六十二年没。「浦和在憚りながら紋太弟子」と椙本
紋太氏の弟子を自称しているが、川上三太郎氏らとも近い柳人である。
○ 爪切つて故郷のことを思う朝 田中好啓
大正二年(一九一三)生まれ、平成十年没。「番傘」(岸本水府主宰)にも「川柳雑誌」(「川
柳塔」・麻生路郎主宰)にも関係したが、昭和十一年の「ふあうすと」同人以来、椙本紋太氏
を師と仰いだ。
http://homepage2.nifty.com/mikio-san/kouza5.htm
○ 作文としては見事な無心状 延原句沙弥
明治三十年(一八九七)生まれ、昭和三十四年没。昭和十年から「ふあうすと」同人。俳人・
内藤丈草の研究家でもある。
○ 水車小屋戸が開いていて一人いる 房川素生
明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和四十四年没。昭和四年の「ふあうすと」創刊から椙
本紋太氏と歩を共にしている。
http://homepage2.nifty.com/mikio-san/katakoto1.htm
川柳の群像(その六 村田周魚とその周辺)
○ 花生けて己れ一人の座に悟る 村田周魚
日本川柳界の名門「川柳きやり社」の総帥・村田周魚氏は明治二十二年(一八八九)生まれ、
昭和四十二年に没した。掲出の句は周魚氏の辞世の句とされている。周魚氏は窪田而笑子
選の読売柳擅で活躍し、氏の知遇を受けるとともに、坂井久良伎氏・川上三太郎氏・八十
島勇魚らと親交を重ね、大正四年に「川柳きやり社」が創立され、その柳誌「きやり」は
その年の四月にスタートした。きやり一筋の周魚氏は、六大家と呼ばれた人びとのなかで
は比較的地味な存在であり、その作句姿勢は「人間描写の詩として現実的な生活感情を重
んずる」という平淡な姿勢といえるであろう(『川柳総合事典』)。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://forum.nifty.com/fmellow/murata.html
○ 血圧が承知をしない酒の量 窪田而笑子
慶応二年(一八六六)の生まれ、昭和三年に没した。氏は明治四十年に読売新聞社の川柳選
者として、久良伎社・柳樽寺とともに明治川柳界を三分した、「きやり社」というよりも「読
売派」の総帥という立場の柳人であるが、周魚氏の育成者として、周魚氏の次にその名を
連ねることとした。「滑稽文学」なども主宰した。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm
○ 落花生入歯の穴へ身をのがれ 塚越迷亭
明治二十七年(一八九四)の生まれ、明治四十年に病没した。大正九年の「きやり」第三号
から同人となる。飄逸奇行の風刺人として知られ、川上三太郎氏・近藤飴ン坊らと親交が
あった。
http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/nanpo/nanpo_1.htm
○ 蚊帳つれば子供のはしゃぐ一しきり 高須唖三味
明治二十七年(一八九四)の生まれ、昭和四十年に没した。氏は「きやり」の塚越迷亭氏と
親交が厚く、その関係から「きやり」を支援していたが、個人的に「あざみ吟社」を持ち、
独自の川柳活動を続けていたが、迷亭氏との関連から、迷亭氏の次にここにその名をあげ
ることとした。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/senryu25.html
○ 赤んぼの欠伸家中笑わせる 西島〇丸(れいがん)
明治十六年(一八八三)深川霊岸(れいがん)町生まれ、昭和三十三年没。本人は「○丸」(ま
るまる)の意味の号とのことであったが、周りが「霊岸町」生まれで「れいがん」にされて
しまったとか(東野・前掲書)。大正九年に「きやり」の客員に迎えられ、同十五年に発行人
となり、周魚氏の兄貴分というよりも、「東京柳界の父」ともいわれた人で、晩年にはすべ
てを打ち込んだ「きやり吟社」を退いて一社に属することはなかったたという(『川柳総合
事典』)。
○ 川柳がある君がいる君もいる 野村圭祐
明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。構造社から発刊された『川柳全集第一巻・
村田周魚』は氏が担当した。「伝統川柳の家元格で知られる川柳きやり吟社の主幹野村圭祐
は、創立者の村田周魚子飼の社人として五十年間、きやり調に徹し、晩年はきやり吟社の
顔であった」という(東野・前掲書)。
○ ふるさとのゆきもきえたりかなだより 藤島茶六
明治三十四年生まれ、昭和六十三年没。『川柳全集第三巻・西島○丸』は氏が担当した。
村田周魚氏との関係よりも、より以上に、西島○丸氏との友誼の厚かった柳人であったと
いう(東野・前掲書)。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/mikasa.html
川柳の群像(その七 麻生路郎とその周辺)
○ 子よ妻よばらばらになれば浄土なり 麻生路郎
明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和四十年没。「専門家のなき世界は発展せず」と昭和
十一年七月に、川柳人初の「川柳職業人」を宣言をおこなった。雀郎・三太郎・紋太・周
魚・水府と他の五大家はそのような宣言はしなかったが、ここに「路郎らしい潔癖さと川
柳一筋の情熱ぶりがうかがえる」(東野・前掲書)。「川柳雑誌社」を興し、「川柳の雑誌」を
刊行した。門下生は五百名を超すという。掲出の句は葭乃夫人の最も推奨する一句である。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://forum.nifty.com/fmellow/jirou.html
○ さらば さらば まだ私は夢を見ています 麻生葭乃
明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十六年没。「私は路郎の内弟子第一号兼女房です」
(東野・前掲書)。掲出の句はその路郎氏への追悼句の一句である。
http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/Sannichi/20010512a.htm
○ 灯台の夕陽神話を抱きよせる 尼緑之助
明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「人間陶冶の詩」・「生命のある
一句を作れ」の路郎氏の川柳イズム一筋を貫いた。「川柳いづも」を発刊する。
http://www.web-sanin.co.jp/orig/sight/bunka/22b.htm
○ 照る日曇る日女房の顔を見る 小川静観堂
明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和五十年没。元陸軍大佐の軍医で、後に小川伊丹病院
院長とか(東野・前掲書)。『川柳総合事典』などには何らの記載がない。
○ 思い出の道は避けたし通りたし 川村好郎
明治三十五(一九〇二)年生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「川柳の雑誌」は路郎氏の死
後、「川柳塔」に改称されるが、その「川柳塔社」のまとめ役でもあった。
○ 酒癖の噂が先に着任し 北川春巣
大正二年(一九一三)生まれ、昭和五十年没。昭和四十年七月十八日の麻生路郎葬儀の葬儀
委員長をつとめたという(東野・前掲書)。
○ 今にして子が膝に居た頃はよし 小出智子
大正十五年(一九二六)生まれ、平成九年没。「川柳塔のお母ちゃん」とか「肝っ玉智子さ
ん」と慕われたという(東野・前掲書)。
○ ひとすじの春は障子の破れから 三条東洋樹
明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和五十八年没。「ふあうすと」の創立同人で「ふぁう
すと」の柳人であったが、昭和三十二年に「時の川柳」を創刊した。路郎氏が「番傘」出
身から「川柳の雑誌」を創刊して独立していったと軌を一にし、その点で路郎氏と東洋樹
氏とは相互に親近感があったという(東野・前掲書)。
http://www.hinocatv.ne.jp/~rikam/126.TXT
○ 暮れてゆく如き往生したいもの 須崎豆秋
明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和三十六年没。豆秋作品には一句たりとも駄句はない
という(東野。前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga020.html
○ 空漠を分け入るように耳そうじ 高鷲唖鈍
明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成元年没。『川柳の雑誌』に独特の詩川柳論を執筆し
ていた。川柳詩人・須崎豆秋論もある(東野・前掲書)。
○ 母が死ぬまで母が死ぬとは思わない 中尾藻介
大正六年(一九一七)生まれ、平成十年没。小出智子さんの句には、この藻介調の影響を色
濃く宿しているという(東野・前掲書)。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-09.html
○ 浮き草は浮き草なりに花が咲き 中島生々庵
明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和六十一年没。医師で後に日本川柳協会の理事長など
もつとめた。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga005.html
○ 一歩出ずれば吾れ旅人となる心 西尾 栞
明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。川柳塔社理事長、日本川柳協会の常任理事
などもつとめた。
http://www.asahi-net.or.jp/~ky4k-mgt/index2001.3.24.html
○ 水道の音で書留待たされる 橋本緑雨
明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十五年没。麻生路郎氏の顧問格的な柳人で、事実
上の「川柳の雑誌」の編集長であったという(東野・前掲書)。
○ 押入のついでに拭きたかった肺 福田山雨楼
明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十年没。川上三太郎氏が麻生路郎氏に「山雨楼君
を『川柳研究』に譲ってくれ」と懇請されたほどの柳人(東野・前掲書)。
○ 意地だけで金もなければ夢もなし 不二田一三夫
明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和五十五年没。「一三夫の漫才の師匠は秋田実。川柳は
麻生路郎である」と漫才作家でもあった(東野・前掲書)。
○ なんぼでもあるぞ滝の水は落ち 前田伍健
明治二十二年(一八八九)生まれ、昭和三十五年没。「伍健の川柳における信念というか信
念は『川柳は真情美』」であったとか(東野・前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_212.html
○ 草餅と温い言葉てのひらに 丸山弓削平
明治四十年(一九〇七)生まれ、平成二年没。歯科医師。弓削川柳社初代会長で名誉町民(岡
山県久米南町)と地方文化振興に先鞭をつけた(東野・前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga026.html
川柳の群像(その八 岸本水府とその周辺)
○ 電柱は都へつゞくなつかしさ 岸本水府
明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十年没。「岸本水府」と「番傘川柳社」について
は、かって、この「俳諧鑑賞広場」で「岸本水府とその周囲の柳人たち(道頓堀の雨に別れ
て以来なり)」で、田辺聖子さんの著書を鳥瞰的に鑑賞したことがあった。今回、この岸本
水府氏や麻生路郎氏と親交のある東野大八著の『川柳の群像、明治・大正・昭和の川柳作
家一〇〇人』(田辺聖子監修・編)に接して、同人八百人という最大の「番傘」集団を目の当
たりにして圧倒される思いがしたのである。そして、同著の「岸本水府」の項については、
詳細な「田辺註」があり、水府氏自身「番傘」を脱退して、「番傘新社」の設立を意図した
というが、その志半ばにして倒れたという(東野・前掲書)。その目指すものは「我々はいま
こそ協力して川柳の文学たることを世に知らしめなければいけない。これが川柳の第四運
動である」。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/suifu.htm
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://forum.nifty.com/fmellow/suihu.html
○ 小便だ大便だとて人の末 浅井五葉
明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。五葉氏は麻生路郎氏より六歳、岸本水府氏よ
り十歳年長であった。大正二年創刊の「番傘」発刊の創立同人で、掲出の句は臨終の一句
とされている。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/
○ 物忘れ甲乙がない老夫婦 榎本聡夢
明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。何事によらず「スジを通す」人柄で、「先生
嫌い」で「川柳界に先生の二字はない」とか。平成元年十一月の日本川柳人クラブの創立
に携わり、満場一致で会長に推されたという(東野・前掲書)。
○ 心妻まだ独り身で茶を教え 近江砂人
明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和五十四没。岸本水府氏の最初の奥様は十九歳の若さ
で長男吟一氏をもうけて産後の肥立ちが悪く亡くなってしまって、その三年後に賢夫人の
名の高い信江さんと再婚した。近江砂人氏はその信江さんの実弟である。水府氏亡き後も
主幹として「番傘」の興隆に尽くし、晩年は日本川柳協会の設立にもかかわった。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 酒の燗きょう一日の愚を溶かす 奥田百虎
大正五年(一九〇七)生まれ、平成元年没。「番傘」幹事長を七年つとめるかたわら『川柳
歳時記』(創元社刊)を完成させた。「川柳は古川柳のみに非ずと、世に現代の川柳の価値を
問いかけた価値」は計り知れないと激賞されている(東野・前掲書)。
http://homepage2.nifty.com/yasinden-sakurasou/zatugaku.html
○ 馬鹿な子はやれずかしこい子はやれず 小田夢路
明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和二十年没。「外務は水府、内務は夢路、夫唱婦随、
車の両輪の如き二人によって番傘は発展した」(東野・前掲書)。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html
○ 頬杖の指うるわしき中宮寺 片岡つとむ
大正十一年(一九二二)生まれ、平成十年没。「川柳はくつろぎの文芸である」(福田山雨楼
氏の「番傘」投稿の「川柳の定義」)を信条として作句し続けたという(東野・前掲書)。
http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi
○ 全国で落ちてうれしいのが落ちる 片山雲雀
明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十七九年没。弁護士を職とて、昭和四十九年十二
月の日本川柳協会の発足には、推されて初代の理事長となっている。
○ 投機株おんなに稀なよい度胸 金泉満楽
明治三十二年(一八八九)生まれ、昭和六十二年没。「この人の句は軽妙洒脱ユーモアと軽
味にかけては番傘社中で『散二(高橋)川柳』と好一対だろう」(東野・前掲書)。
○ 夜具を敷く事が此の世の果てに似つ 川上日車
明治二十年(一八八七)生まれ、昭和三十四年没。岸本水府氏が唱えた第四運動(昭和二九
年)とは、その一つの動きを、「田中五呂八・川上日車らの川柳革新運動で、川柳の文学性を
唱(い)うもの」としてとらえており、その川柳革新運動の担い手の一人として、日車氏らは
「番傘」を離脱して行く(東野・前掲書)。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 叱られて寝る子が閉めてゆく襖 木下愛日
明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。「愛日は番傘作家中の変り種である。別に本
格川柳を逸脱していないが、伝統の流れのうちで、思想の先端を認識し、はっきりした個
性が作品に現れている」(東野・前掲書)。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html
○ どうしたか今宵は嘘のあざやかさ 食満(けまん)南北
明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三十二年没。南北氏は「松竹の座付役者で劇団人とし
て既に著名」で、特に、「先代中村雁治郎の座付作者」として活躍したという(東野・前掲書)。
http://forum.nifty.com/fmellow/nanboku.html
○ 娘の恋の進む七夕立ててやり 笹本英子
明治四十三年(一九一〇)生まれ、昭和三十年没。この掲出の句が絶筆で、「昭和四十年松
江番傘は笹本英子句集『土』を刊行、序文題字は水府がその死の四日前に書いた」(東野・
前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga034.html
○ 米をとぐ大胆不敵なる妻よ 定金冬二
大正三年(一九一四)生まれ、平成十一年没。昭和二十三年に「津山番傘川柳会」を創立し
ているが、昭和三十一年に「川柳みまさか吟社」を創立し、独自の道を歩む。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ メリケン粉つけても海老はまだ動く 高橋散二
明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和四十六年没。「番傘の歴史の中で、あなたほどたく
さんの秀句を世に示した方はいない。あなたの句風は當百(西田)にも五葉(浅井)にも似てい
ます。大変通な芝居の川柳、読む者を吹き出せる滑稽な川柳は他の追随を許さない」(近江
沙人の高橋散二遺句集『花道』の「序」)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga015.html
○ 旧友と酔ふて別れて淋しくて 西田當百
明治四年(一八七一)生まれ、昭和十九年没。「當百の驕らず誇らず、大声叱呼することな
く、後進をみちびくのに慈愛と徳望を以てした、というような人格の薫染は、そののち、『番
傘』の色をも染めていったように思われる。懇親宥和、という気分がつねに『番傘』に揺
曳していて、それは切磋琢磨のきびしさからやや遠いが、それだけにグループが永続した
わけでもあったろう」(田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』)。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/
○ 初恋はみな美しい人でよし 平賀紅寿
明治二十九年(一八九六)生まれ、平成三年没。「還暦を過ぎたばかりの水府先生、五十代
であった紅寿さんと共に男ざかり、川柳ざかり、相反するように見える個性も魅力的で、
大作家という印象は強烈であった。『川柳の化けもの』という紅寿さんの化けものぶり魅か
れて今日まで、不思議に暑い暑い京番(京都番傘)の八月へご縁をいだいている」(東野・前
掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga008.html
○ 五千余の蓮華へ神はどう詫びる 広瀬反省
大正五年(一九一六)生まれ、平成七年没。掲出の句は阪神大震災の折の句で、朝日新聞の
特集の見出しにもとりあげられているという。「反省先生も晩年は番傘川柳と絶縁というよ
り、やむを得ず時事川柳に専念」と、「よみうり時事川柳」などの時事句の選に没頭された
(東野・前掲書)。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html
○ 旅はよしここの地酒にここの唄 森 紫苑荘
明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成二年没。「この人は宇和島刑務所長を最後に退官し
たので、四国との縁が深く、晩年には松山に居を定め、愛媛県大洲市の『川柳水郷』には
山紫水明録を連載。また長崎川柳社顧問で『ながさき』誌をはじめ、岐阜の「柳宴」誌に
も鑑賞文をこまめに寄せ、各地の柳恩に報いており、その温厚篤実の人柄と、鑑賞の披露
の冴えは多くの紫苑荘ファンを魅了した」(東野・前掲書)。
http://www.emc.ehime-np.co.jp/04mokuroku.html
○ 疲れたと言わぬお日様お月様 山田良行
大正十一年(一九二二)生まれ、平成十一年没。医師を職とし、平成元年に日本川柳協会の
理事長に選任されている。昭和四十四年当時、番傘本社同人を辞して、金沢で北国川柳社
を興し、柳誌「きたぐに」を創刊した。
http://www.nissenkyou.or.jp/syoseki/gunzou.htm
○ おみくじが大吉と出ただけのこと 堀口塊人
明治三十六年(一九〇三)生まれ、昭和五十五年没。大正十五年番傘同人。昭和十年に番傘
を退会し、「昭和川柳」を創刊。昭和四十九年の日本川柳協会設立に尽力。明治・大正・昭
和柳界の生字引として各柳誌に健筆を揮った。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kosho/info/57/5708hai.htm
川柳の群像(その九 井上剣花坊とその周辺)
○ 我ばかり燃えて天地は夜の底 井上剣花坊
明治三年(一八七〇)生まれ、昭和九年没。井上剣花坊についても、この鑑賞広場で、「坂
井久良伎と井上剣花坊の連句」で既に触れた。ここでは、岸本水府氏が唱えた「第四運動」
(「番傘」昭和二九・三)との関連で触れておきたい。水府氏は柳界に四つの運動があったと
いう。その一は田中五呂八氏らの「川柳革新運動」であり、その二が坂井久良伎氏らの江
戸川柳回帰の「川柳啓蒙運動」であり、その三が近藤飴ン坊氏らの古い川柳の名称を変更
しての「草詩・寸句」などの提唱運動である。そして、水府氏が第四運動として力説する
のは、「川柳への世俗の偏見の是正」ということであった。この関連でいくと、自らは「川
柳王道論」という水府氏の「第四運動」と視点を異なにするものであったが、その一の「川
柳革新運動」の良き理解者であり、剣花坊門からこの運動の中心になっていた柳人を数多
く見ることができる。とにもかくにも、明治・大正・昭和の柳擅の「柳樽寺」系俳句の元
祖であり、その影響は今に至って大きいものがある。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/stroll/culture/inoue.htm
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-05-ishibe02.html
http://terasan.web.infoseek.co.jp/senryukan.htm
http://forum.nifty.com/fmellow/kenkabou.html
○ 一人去り二人去り仏と二人 井上信子
明治二年(一八六九)生まれ、昭和三十三年没。井上剣花坊の奥様であり、掲出の句は剣花
坊への追悼の一句である。井上信子さんについても、この鑑賞広場の「鶴彬の句」で触れ
たが、川柳界に大きな足跡を残したということは再度特記しておきたい。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga031.html
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 政治家の脳天を射る星一つ 大石鶴子
明治四十年(一九〇七)生まれ、平成十一年没。剣花坊・信子御夫妻の次女にあたる柳人で
ある。掲出の句は、「市川房枝の死」に関連しての一句である。剣花坊の「柳樽寺」系俳句
を今に伝えている一人といえよう。
http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000285
○ 謝恩会先生だけが古い服 桂枝太郎
明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和五十三年没。落語家で川柳人という異才を放つ柳人。
「おれの川柳の先生は、井上剣花坊だよ。長い間番傘の同人にもなりご厄介をかけたが、
こんな素養でわしは古典落語などはやらず、オール川柳の下地で新作落語ばかりやってき
た」(東野・前掲書)。
http://www.h3.dion.ne.jp/~utaroku/0014/
○ 人生へあてる定規の右ひだり 北夢之助
明治二十九年(一八九六)生まれ、昭和五十四年没。剣花坊の「柳樽寺」派の柳誌「川柳人」
の島田雅楽王らと行動を共にした柳人。戦後は新潟川柳クラブ会長などを経て地方俳壇の
興隆に尽くした。
http://www.nissenkyou.or.jp/map/17niigata/8niigata.html
○ この道やよしや黄泉に通ふとも 小島六厘坊
明治二十一年(一八八八)生まれ、明治四十二年、二十一歳で夭逝した。「明治三十八年七
月二十四日の日本新聞新題柳樽の末尾に曰く、大阪柳樽寺建立、六厘社の同人が住職たり」
と、しかし、六厘坊は柳誌「新編柳樽」を三号でやめたという。その理由は「六厘坊が、
関東の糟粕をなめるのをいさぎよしとしなかったからであろう」という(東野・前掲書)。
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html
○ あきらめて歩けば月も歩き出し 小林不浪人
明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和二十九年没。「遠く青森から常に雑詠(井上剣花坊主
宰の柳誌「大正川柳」の「雑詠」)を投句していた小林不浪人君から『今度青森県から川柳
の雑誌を出したいと思うがどうであろう』と相談をかけられた。雉子郎(吉川英治)と話合っ
た結果『いいでしょうできるだけ応援します』という返事を上げ、やがて『みちのく』創
刊号が生まれた」(川上三太郎・「東奥日報、昭和四一・五・一二」)。
http://www.plib.net.pref.aomori.jp/museum/senryu.html
○ 泣いてゆく中に位牌の子が笑ひ 近藤飴ン坊
明治十年(一八七七)生まれ、昭和八年没。「飴ン坊が剣花坊との出会いは、剣花坊が新聞
『日本』に柳擅を開設した明治三十六年七月三日の投書からで、彼が応募の第一号であっ
た。柳号を京号としたのだが、剣花坊が飴ン坊とつけた」(東野・前掲書)。その「日本」柳
擅の入選句が掲出の句である。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html
○ 降るだけの雪積もらせて山眠る 白石朝太郎
明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和四十九年没。「剣花坊は大正十一年十月から柳樽寺
派機関誌『大正川柳』の同人制を廃し、私人から新川柳新興のための公共的結社柳誌の発
足を宣言し、大震災という一大試練を切り抜けた直後から、同誌誌面を革新している。そ
のつねに『前へ、前へ』の剣花坊の気迫に応えて白石維想楼(朝太郎)は、師のたのもしき右
腕として新川柳運動に挺身したのであった」(東野・前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_192.html
○ 原子力さて人間よ何処へゆく 高木夢二郎
明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和四十九年没。「昭和四十六年剣師生誕百年記念事業
『井上剣花坊伝』を発刊。同四十八年『川柳人』五百号記念集を刊行。『川柳人』三一六号
から手を染め五一一号をもって終わる。すなわち同誌を一八五号にわたり手がけたわけで、
その編集実績は長期療養を除きまる十五年にわたることになる」(東野・前掲書)。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html
○ 火に狂う巷に遠き魚の夢 田中五呂八
明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和十二年没。「彼の川柳趣味は剣花坊の『大正川柳』
にはじまる」。「川柳界の純詩派として哲学的新生命主義を唱え、『新興川柳』なる呼称を掲
げた田中五呂八は、大正・昭和期をよぎる一閃の火花にも似た川柳人であった」(東野・前
掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga030.html
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 暁を抱いて闇にいる蕾 鶴 彬
明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和十三年没。鶴彬については、この鑑賞広場で、「鶴
彬の句( 反戦・反軍の川柳)」ということで既に触れた。そして、今回の東野大八著の『川柳
の群像、明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人』に触れてみて、鶴彬は、その百人の中で
特記すべき柳人というよりも、時の権力の弾圧と、その獄中死ともいえる凄惨な二十九年
という短い生涯からのイメージが強い柳人であって、作品全体の完成度ということになる
と、これからの人であったという思いを強くする。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm
http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000297
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ あまつさえ涙は女の武器などと 三笠しづ子
明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。「『川柳人』は昭和七年十二月号を『三笠しづ
子追悼号』として、十一頁にわたり特集を組み、井上剣花坊以下夫人信子、半文銭ら十人
が心からの悼文を寄せ、追悼吟四十三句を添えている」(東野・前掲書)。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga017.html
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 冷たさは末期の水に尽きにけり 森田一二
明治二十五年(一八九三)生まれ、昭和五十四年没。「大正十年ごろから昭和十年ごろにか
け、川柳界を駆けぬけていった革新運動の光芒は、新興川柳の名において、一閃に過ぎな
かったが、その量感と迫力において、永久に川柳史上から忘却することはできない。この
輝かしい新興川柳運動の旗手は森田一二であった」(東野・前掲書)。掲出の句はその絶句と
もいうべきものである。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
○ 書いて消す生死一字や紙の上 木村半文銭
明治二十二年(一八九九)生まれ、昭和二十八年に没。「番傘」出身であるが、その「番傘」
から「川柳革新運動」の旗手となり、「氏は森田一二氏、川上日車氏と共に新興柳擅の生ん
だ短詩擅的名作家の一人である」という(東野・前掲書)。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/
○ あめつちの中に我あり一人あり 吉川雉子郎
明治二十五年(一八九二)まれ、昭和三十七年没。「剣花坊は『日本』柳擅の投句者と糾合
して明治三十八年十一月柳誌『川柳』を創刊。同四十五年大正に年号が改まるや『大正川
柳』と改題。柳樽寺は東京柳擅の一大拠点となった。川柳人雉子郎として川柳に最もみが
きをかけ、あぶらの乗り切った時期はこの頃で、『大正川柳』の編集まで手伝っている」(東
野・前掲書)。ここに登場する川柳人雉子郎こそ、昭和三十五年に文化勲章を受章した作家・
吉川英治その人である。
http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/senryu/senryu_03.htm
http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html
川柳の群像(その十 坂井久良伎他忘れ得ざる柳人たち)
○ 広重の雪に山谷は暮かかり 坂井久良伎
明治二年(一八六九)生まれ、昭和二十年没。この「鑑賞広場」で「坂井久良伎と井上剣花
坊の連句」という珍しい二人の連句らしきものの鑑賞を試みたとき、この両者は互いにど
んな感慨をもって接していたのであろうかと、そんな思いにとらわれたことがあった。多
分に、この二人は、久良伎氏にとっては「剣花坊は長州の田舎者」という意識が心の片隅
にあったろうし、一方、剣花坊氏にとっても、「久良伎は江戸の遊冶郎」という意識が頭の
何処かにあったのではなかろうかと、そんな思いをしたのであった。この二人と「俳句革
新」を成し遂げた正岡子規氏とが、同じ「日本」という新聞で同時期に籍を置いていたと
いうことは、日本の新しい短詩型の文学の「俳句・川柳」は、この「日本」という新聞を
媒体として誕生していったといっても過言ではなかろう。それにしても、剣花坊山脈に比
して、久良伎山脈というのは、どうしても見劣りがするということは、これまで見てきた
ところが明瞭なことであろう。久良伎は、明治三十七年に「久良伎社」を創立し、「五月鯉」
を創刊した。その巻頭に「古句を研究し、古句の快楽味を味わい、ここに現代を超越した
別天地を味わう」と宣言している。剣花坊が「革新派」とするならば、久良伎は「守旧派」
であるといえるし、しかしながら、この二人が、「狂句百年の負債を返す」という一点にお
いては、共通していたということは特記しておくことであろう。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/1993/kuraki-kuhi.html
http://forum.nifty.com/fmellow/kuraki.html
○ 日曜日馬鹿々々しくも大掃除 今井卯木
明治六年(一八七三)生まれ、昭和三年没。「卯木は伝統川柳一辺倒で、古川柳を宝典とし、
新川柳を極度に嫌悪し、特に剣花坊や角恋坊の句は『見ても虫ずが走る』と蛇蝎の如く嫌
い抜いたという。その反動として、久良伎には肉親のように傾倒した」という(東野・前掲
書)。『川柳江戸砂子』などの研究家としても知られている。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sanmitu/1701.html
○ 踏切で故郷へ行く汽車を見る 冨士野鞍馬
明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和九年没。川柳久良伎社幹事で、久良伎派の重鎮で、
古川柳の造詣も深く、それでいて、昭和四年に番傘川柳本社の同人にもなっている。晩年
は郷里の京都に帰り、「京都新聞」柳擅選者などを務める。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html
○ 漂浪のあてもなく世に疲れけり 安藤幻怪坊
明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三年没。出発は久良伎門であるが、明治四十一年に「新
川柳」を創刊して、不偏不党を声明し、大正四年にはそれを「短詩」と改称し、幻怪坊の
死後も続けられたという。古句研究などでも知られている。
http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm
○ 「考えない」葦ジクザグとせめられる 石原青竜刀
明治三十一年(一八九一)生まれ、昭和五十四年没。久良伎門とか剣花坊門とか、そのよう
なジャンルではなく、「柳俳一如、柳主俳従」の新ジャンルの「諷詩」を提唱した。昭和二
十四年に「人民川柳」を創刊して、昭和三十二年に廃刊となるが、さらに、「諷詩人」を刊
行して、川柳呼称の改称を目指したが、志半ばで他界した。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/zui-bekan/tanpin/8730.htm
○ 夏の実の春ある土をうたがわず 今井鴨平
昭和三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十九年没。「鴨平は川柳は民衆的文芸であると確
信して、短歌を離れ、川柳に傾倒し新しい短詩型の一行詩としての川柳革新に打ち込んだ」
(東野。前掲書)。石原青竜刀氏と同じく革新川柳を目指したが、晩年は俳誌 「青玄」(日野
草城主宰)で作句した。
http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga038.html
○ 鉄拳の指をほどけば何もなし 大嶋涛明
明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。「大嶋涛明は大陸川柳界の発展に尽く
した重鎮として、いまなお川柳界ではよく知られている」(東野・前掲書)。掲出の句に対し
て、涛明氏を父に持つ現代歌人・来島靖生氏は「鉄拳を父は詠みたれ不肖の子われの拳は
硬くはあらず」と詠んだという(東野・前掲書)。
http://www.geocities.jp/rosemidi/senryu.html
○ 廻る陽の無限に春の一つづつ 大谷五花村
明治二十四年(一八九一)生まれ、昭和三十三年没。白河町長(現在・市)、貴族院議員とな
った地方の名士。それでいて、「新川柳こそ庶民の文学」と東北地方に革新川柳の灯を絶や
さなかった。井上剣花坊・信子御夫妻に近い柳人でもあった。
http://www.goka-e.fks.ed.jp/haiku/gokason01.html
○ 引き際の美学なんにも語らずに 北川絢一郎
大正五年(一九一六)生まれ、平成十一年没。「京都川柳社」の創立にかかわり「川柳平安」
の中心的柳人であった。この「川柳平安」は昭和五十二年に「京かがみ」・「都大路」・「川
柳新京都」と三分裂してしまった。分裂後は「川柳新京都」に属した(東野・前掲書)。
○ おれのひつぎは おれがくぎうつ 河野春三
明治三十五年(一九〇二)生まれ、昭和五十九年没。岸本水府氏の「番傘」、そして、麻生
路郎氏の「川柳の雑誌」と並んで、昭和三十一年に「天馬」を創刊した。そして、これが、
現在の「川柳ジャーナル」に引き継がれている。
http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html
http://www.jomon.ne.jp/~ayumi/goroku.HTM
○ 蒼空の下で草苅る鎌の音 草刈蒼之助
大正二年(一九一三)生まれ、平成四年没。異色の俳人・今井鴨平氏との出会い、そして、
鴨平氏亡き後は、またしても、異色の俳人・河野春三氏との出会いと、時実新子さんは彼
をして、「ニヒルで豪胆でそのくせ繊細な神経の青鬼」とよんでいるとか。また、掲出の句
は、自分の号に対するものとか(東野・前掲書)。
http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/005.html
○ お薬を素直にのんで母逝けり 斎藤松窓
明治十八年(一八八五)生まれ、昭和二十年没。「京風川柳の家元であり、京都柳擅の大御
所だった」(東野。前掲書)。
○ 心臓が弱かったとは父に似し 清水白柳
明治三十八年(一九〇伍)生まれ、昭和四十五年没。東野大八氏らが関係した「川柳塔」で
活躍した柳人。掲出の句は、息子さんを亡くしたときの一句である。
○ 大空のあまりの青き病み疲れ 谷垣史好
大正十四年(一九二五)生まれ、平成五年没。「川柳塔」の柳人。掲出の句は亡くなった病
室にあったメモの一句(辞世)という(東野・前掲書)。
○ 桜ちりぢりに水に浮かぶは片思い 寺尾俊平
大正十四年(一九二五)生まれ、平成十一年没。「川柳塔」の橘高薫風氏などと親交のあた
柳人。薫風氏は「私は俊平さんから、川柳はやさしさであることをおしえられた」という(東
野・前掲書)。
http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi
○ わが国でありわが国が嫌になり 永田帆船
大正三年(一九一四)生まれ、平成八年没。堀口塊人氏らと親交の深かった柳人。掲出の句
は遺作の中の一句である。
http://kyo3ho.hp.infoseek.co.jp/p2-sen-binbo.html
○ 良心の唇青しカンニング 岡田三面子
明治元年(一八六八)生まれ、昭和十一年没。刑法学者の法学博士で東大教授などを歴任し
た。「柳樽の母胎である万句合を古川柳研究の先駆的役割を果たした」(東野・前掲書)。
http://forum.nifty.com/fmellow/okada.htm
○ 鞍置いた馬のさまよう須磨の浦 西原柳雨
慶応元年(一八六五)生まれ、昭和五年没。岡田三面子と共に古川柳研究家として名高い。
http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/senryuu_top.htm
○ 日輪を一つ残して幕を引キ 山路閑古
明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和五十二年没。俳句は高浜虚子氏、川柳は坂井久良伎
氏、そして、連句にも関心があり鴫立庵十九世庵主を名乗った。古川柳研究家としても名
高い。
http://www.kanwa.jp/xxbungaku/HihonEngi/Kanko/Kaisetsu.htm
○ 寝ても春起きても春の暖かさ 本田渓花坊
明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和六十二年没。昭和二年に柳多留百六十七篇を発見す
るなど、古川柳の古書の蒐集家として名高い。
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html
○ 田中蛙骨
明治十五年(一八八二)生まれ、昭和十七年没。濃尾川柳界の草分けの一人で、古川柳研究
誌「やなぎ樽研究」の尽力者として名高い。
http://www.jic-gifu.or.jp/np/g_news/200404/0401.htm
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