阿波野青畝の俳句(一)
一 虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(第一句集『萬両』)
※初出「ホトトギス」(大正七・一)。秋(虫)。耳が遠かった作者は、自然読書に心を注ぐようになり、『万葉集』などに感情をたかぶらせた。虫が鳴きはじめた秋の夜、読書力もまして夜を徹して書物に親しみ心の昂ぶりをおさえかねているさま。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)
※阿波野青畝略年譜(その一)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm
明治32年 (1899)2月10日 奈良県高市郡高取町に生まれる。
旧姓 橋本。長治の四男。本名 敏雄。(大正12年阿波野貞と結婚、改姓)
大正 4年 県立畝傍中学在学中郡山中学教師原田浜人を知る。卒業後しばらく京都にい
たが、兄が亡くなり帰郷。幼時からの難聴のため、進学をあきらめる。
大正 6年 秋、浜人居で奈良来遊の高浜虚子と初対面。同じ難聴の村上鬼城を例にして
激励される。しかし、指導を受ける浜人の影響もあって、虚子に客観写生に
ついて不満を述べるが、虚子から「大成する上に」「暫く手段として写生の
練磨を試みるよう」、諭される。
大正 7年 11月 八木銀行に勤務。
大正11年 野村泊月の「山茶花」に投句。
大正12年 大阪市西区京町堀上通りの商家阿波野家に入る。この頃から「ホトトギス」
成績好調、翌年課題句選者となる。牧渓の画の簡素に魅かれ、俳句の形式
を生かす途は簡素化だと考えた。写生の習練によって、「玄々妙々の隠微を
もつ自然と肌をふれる歓び」を知る。
昭和 3年 秋には、山口青邨が秋桜子、素十、誓子、青畝と並べて四Sの一人に挙げ、
一躍有名になった。
昭和 4年 1月、郷里大和の俳人達によって「かつらぎ」創刊、請われて選者となった。
その年、「ホトトギス」同人。
昭和 6年 『万両』刊。第一句集。
阿波野青畝の俳句(二)
二 住吉に住みなす空は花火かな(第二句集『国原』)
※昭和七年作。住吉公園の近いところに仮寓しているので、夜空に揚がる花火が美しく見えた。景気よくポンポンひびくと興にのる。住みよい土地だとおもう。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
※阿波野青畝略年譜(その二)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm
昭和14年 この頃から連句を始める。虚子あるいは柳田国男と歌仙を巻く。
昭和17年 『国原』刊。
昭和20年 空襲で大阪の本宅を焼かれ、西宮の甲子園に移り住む。
昭和21年 「かつらぎ」復活し、発行人となる。
昭和22年 カトリックに入信、夙川教会にて受洗。霊名アシジの聖フランシスコ。
『定本青畝句集』刊。
昭和26年 「ホトトギス」の雑詠選が虚子から年尾に移り、同誌への投句をやめる。
阿波野青畝の俳句(三)
三 端居して濁世(じょくせ)なかなかおもしろや(第三句集『春の鳶』)
※昭和二二年作。混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの浮世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
四 老人の跣(はだし)の指のまばらかな(第四句集『紅葉の賀』)
※昭和二九年作。ある老人を見た。よく鍛えたからだらしいけれど痩せこけて肉がなかった。跣になった足を見てそれがよくわかる。五指の間隙にすごみがある。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
五 寒波急日本は細くなりしまま(第五句集『甲子園』)
※昭和三一年作。気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以来痩せ細ったのは人間だけでなく、国も急激の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
六 懐手して説くなかれ三島の死(第六句集『旅塵を払ふ』)
※1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。
七 澄江堂句集は紙魚(しみ)のいのちかな(第七句集『不勝簪』)
※昭和四九年作。芥川龍之介は俳句をたしなんで澄江堂句集を出した。貴重な初版を持っている。たまたま其を書架より抜いた。紙魚が慌てた。姿を消して隠れた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
八 寒鯉の大きな吐息万事休(第八句集『あなたこなた』)
九 出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり(第九句集『除夜』)
※阿波野青畝略年譜(その三)
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昭和27年 『春の鳶』刊。
昭和37年 『紅葉の賀』刊。
昭和47年 『甲子園』刊。
昭和48年 第七回蛇笏賞、西宮市民賞を受賞。
昭和49年 大阪芸術賞を受賞。俳人協会顧問。
昭和50年 勲四等瑞宝章を受章
昭和52年 『旅塵を払ふ』刊。
昭和55年 『不勝簪』刊。
昭和58年 『あなたこなた』刊。
昭和61年 『除夜』刊。
阿波野青畝の俳句(四)
十 狐火を詠む卒翁でございかな(第十句集『西湖』)
十一 隼を一過せしめて寒鴉(第十一句集『宇宙』)
※(季語/寒鴉)空に隼、地上に寒鴉のいる光景だ。隼を見上げる鴉の目は緊張している。この句、阿波野の遺句集『宇宙』(1993年11月)から引いた。青畝は92年12月、93歳で死去した。青畝が死去して15年になるが、このところこの俳人が話題になることはあまりない。全集のようなものも出る気配がない。この人、亡くなるまで俳句一筋であった。大阪の市井の俳人であったのだが、今から見てこの人の魅力は何だろうか。もちろん、若い日には4Sと呼ばれて脚光を浴びた。晩年も長老俳人として厚く遇された。だが、その青畝の俳句世界の解明は進んでいるとは思われない。数年間の活動をめどに青畝研究会のようなものを発足させたいのだが、やってみようという人はいないだろうか。(坪内稔典)
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub07_0102.html
※阿波野青畝略年譜(その四)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm
平成 2年 森田峠に「かつらぎ」主宰を譲り名誉主宰。
平成 3年 『わたしの俳画集』刊。国際俳句交流協会顧問。「詩歌文学館賞」を受賞。
11月入院。 12月22日心不全により逝去。(享年九十三歳)
夙川教会にて葬儀ミサ。
阿波野青畝の俳句(五)
十二 口開いて矢大臣よし初詣(『萬両』)
初出「ホトトギス」(大正十・四)。新年(初詣)。初詣に参った神社に、弓矢を手にした祭神を守る矢大臣の人形が左右に置かれている。少し口をあけ何かを語りかけようとするその大臣の古雅の顔立ち。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)
※大正十一年作。野村泊月を京都に訪ねて八坂さんに詣でた。若い頃の印象はいまも変わらない。口を閉じた矢大臣は青年であるが。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△年齢の入った年譜は次のとおり。掲出の作は、二十三歳の時。二十五歳で「ホトトギス」の課題句選者となっているのだから、青畝の早熟さは目を引く。
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html
阿波野青畝 年表
明治32年 2月10日 0歳 父橋本長治、母かねの五男として高取町上子島に生まれる、本名敏雄。
明治38年 6歳 高取町の土佐小学校に入学、耳病治療するも治らず。
明治43年 11歳 母死去。
大正 2年 14歳 県立畝傍中学校入学。
大正 4年 16歳 書店の店頭で「ホトトギス」を求め県下郡山中学校教師原田浜人に俳句を学ぶ。
大正 6年 18歳 大和郡山の原田浜人宅の句会で高浜虚子に出会う。
大正 7年 19歳 県立畝傍中学校卒業、難聴のため進学を諦め、八木銀行に入行。
大正 8年 20歳 虚子に客観写生に対する不満を訴える手紙を出す。返書に写生の修練は将来「大成する上に大事」であることを「暫く手段として写生の鍛錬を試みる」ことをさとされる。
大正12年 24歳 大阪市西区の阿波野貞と結婚。
大正13年 25歳 若くして「ホトトギス」の課題句選者となる。
昭和 3年 29歳 山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになる。長女多美子生まれる。
昭和 4年 30歳 郷里大和の俳人たちから請われ奈良県八木町で発刊している「かつらぎ」の主宰となる。「ホトトギス」同人。
昭和 6年 32歳 第1句集「萬両」を刊行し名実とみにあがった。
昭和 8年 34歳 妻貞死去、阿波野秀と結婚。
昭和15年 41歳 父死去。
昭和20年 46歳 3月大阪の自宅戦災で焼失、西宮市甲子園に移る。妻秀死去。
昭和21年 47歳 戦時下の統制令で他誌と合併した「かつらぎ」復活。田代といと結婚。
昭和22年 48歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ。
昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去。
昭和34年 60歳 虚子死去。
昭和38年 64歳 俳人協会顧問となる。
昭和44年 70歳 「よみうり俳壇」(大阪本社版)選者。
昭和48年 74歳 第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞受賞。
昭和49年 75歳 大阪府芸術賞受賞。
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。
阿波野青畝の俳句(六)
○虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児 (大正七年作)
※19歳の時に、「虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児」と詠んだといわれています。
畝傍中学時代に、郡山中学の英語教師・原田浜人に句作の指導を受けていて、郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師弟の間柄になりました。のちに高浜虚子から、「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」と言われるほどに耳疾そのものが、青畝の俳句にしみじみとした哀歓をただよわせるに至っています。(阿波野青畝概略)
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html
○ 聾青畝面かぶらされ福の神 (昭和五十年作)
※十日戎のみやげのお多福の面が家にあった。孫たちを相手にその面を顔につけると大声を出して笑った。つんぼ戎は作者だ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 病葉の一つの音の前後かな (昭和五十年作)
※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△上記の虚子の「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」
という指摘は、青畝俳句の一面をついている。
阿波野青畝の俳句(七)
○ 葛城の山懐に寝釈迦かな (昭和三年作)
※初出「ホトトギス」(昭和三・六)。春(寝釈迦)。大和の名山である葛城。この山につつまれて小寺がある。その寺中で寝釈迦の図を見ている。涅槃の釈迦。永遠の眠りはこの葛城の麓がふさわしい(『近代俳句集』所収「阿波野青畝集(松井利彦稿)」)。さらに、その「補注」で次のとおり記述されている。
※大和高取出身の作者が、親しくしていた小寺の寝釈迦を詠んだ。山本健吉は、この句について、「青畝の代表作として喧伝されている」「寝釈迦像はおおむね大きく画面いっぱいに描かれ、その廻りに小さく鳥獣虫魚の悲しむ姿が添えられるのであるが、この句葛城山をバックにして格別雄大に寝釈迦像がはっきり浮かび上がってくる。それとともに『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている(『現代俳句』)と評し、小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている点に言及している(「補注」二七六)。
△この青畝の「小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている」ということについては、虚子が素十をして、「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」という、いわゆる、虚子が推奨して止まなかった「客観写生」ということに含めても良いものであろう。しかし、青畝のそれは、素十のそれに比して、健吉が指摘する、「『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている」と、その主観がより濃厚に句に滲み出てくるという相違があるのであろう。そして、この両者の違いは、次のアドレスの、次のような対比として、指摘することも可能であろう。
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html
「素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる『厳密な意味における写生』と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます」。
また、そのことが、青畝俳句の叙情性として、次のようにも指摘されることとなる。
「昭和3年、青畝の叙情性が最もよく表現された一句が、『葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな』です。葛城山は古くから多くの神話を持ち、また修験の聖地でもありました。葛城山が持つ神秘的な光景から写生でありながら、その句は無限の広がりを持っています。まさに俳句の聖人でありました。山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになりました。この句が誌名となり、昭和4年1月、郷里の俳人たちの要請で「かつらぎ」を創刊し、青畝は主宰となりました」(上記のアドレスの紹介記事)。
とにもかくにも、青畝、二十九歳のときの、この作品が、その翌年の、青畝の主宰誌「かつらぎ」を誕生させ、平成二年の、青畝、九十一歳のときの、その「かつらぎ」を森田峠に譲り、名誉主宰となり、平成四年に、その九十三歳の生涯を閉じるまでの、そのバックボーンであり続けた、青畝の代表作であるとしても、それは過言ではなかろう。
阿波野青畝の俳句(八)
○ 八方に走りにげたり放屁虫(へひりむし) (大正十五年)
○ なつかしの濁世(じょくせ)の雨や涅槃像 (大正十五年)
※以上の二句は青畝君の句である。この両句にも共通した特色を認めることが出来る。「八方に」の句は放胆に滑稽的に叙してあるが放屁虫のうろたえて其辺に臭い匂いを出して直ちに逃げ失せてしまったところを「八方に走り逃げた」という風に叙したのは青畝君のやゝ空想的な想像力が左様にせしめ左様に叙せしめたものである。而もその放屁虫のすばやい行動並びにいかにもくさい臭気が四方八方に飛散する模様が適切に描かれてある。その言葉の空想的、想像的ではあるが、而も事実をおろそかにしないでよく之を描き得たという感じがする。次に「なつかし」の句は涅槃会の日に雨の降っているとうたゞそれ丈の景色に過ぎないが、それをこの作者は濁世の雨と云った。その心持を探って見ると、つらい悲しい醜悪な世の中ではあるが、而もどうもこれを離れ去ることは出来ない。離れよう離れようと思えば淋しさにたえぬ。やはり濁世と知りながら人なつかしい心持を持っているという事がうかゞわれる。しかも雨が静かに降っている。なんとなくものなつかしい。今降る雨にも濁世の姿がある。しかもその濁世は自分にとってなつかしい濁世である。涅槃像は仏様の成仏された姿が描いてあるのであるが、しかもその仏もなお濁世と云ってこの世を穢土(えど)とせられたのであるけれども然しやはりその濁世にすんでいる人々をあわれみいつくしまれたのである。自分は涅槃像に対して清い仏の世界を欣求(ごんぐ)する心はつよいけれども、尚又もの静かに降るこの濁世の雨はなつかしいと云う心持を叙したのである。そういう心持は現世に対していだいている作者の心持であって、耳の遠い身体の丈夫でない、しかもその家庭というものは青畝君の思う通りにならない、なんとなく現世をいとわしく感ずる心持がしながらも、やはりいとわしく思うその現世はなつかしい、と云うこの作者の心持が土台になって出来た句であろう。両句とも感情的な空想的な点は共通といって良い。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』所収「虚子」評)
△上記は青畝の掲出の二句についての虚子評(大正十五年十二月)であるが、「選も又創作なり」とする虚子を浮き彫りにするような見事なものである。と同時に。虚子の「客観写生」というものは、即、「主観写生」というものを排斥しているのではなく、「作者が小さい造化となって小さい天地を創造する」(『虚子俳話』)という、極めて、上記の青畝俳句の特色の、「感情的・空想的」な世界と交差しているところの、虚子一流の「万物の相に迫り得る」ところの「客観写生」というようなことなのであろう。それが故に、青畝は、昭和二十六年の、 虚子の「ホトトギス」選者引退まで、虚子のもとにあって、ひたすら、虚子の世界にあっての、その精進であったのである。
阿波野青畝の俳句(九)
○ 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)
※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和五年(1930)
二月 「山会の記」として文章会の記録を載せはじめる。芝不器男没。
四月 秋桜子句集『葛飾』刊、連作の流行。
六月 「玉藻」「夏草」「旗」創刊。虚子「立子へ」を「玉藻」に連載。
八月 第一回武蔵野探勝会。
十一月 第四回関西俳句大会(名古屋)にて虚子「古壷新酒」を講演。
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。
http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html
※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。
ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。
阿波野青畝の俳句(十)
○ 座について庭の万両憑きにけり (青畝・昭和六年)
○ 降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男・昭和六年)
○ しんしんと雪降る空に鳶の笛 (茅舎・昭和六年)
△この青畝と草田男の句は、「ホトトギス」(昭和六年五月)の「雑詠句評会」に掲載されたものである。この年、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、いわゆる 四S(秋桜子・誓子・青畝・素十)の、次の世代の、「草田男・茅舎・たかし」が台頭してくることとなる。
この時の、句評などは次のとおりである。
※(青畝の句)花蓑 万両がつやつやと赤らんでいるだけで外には格別目につくものもない冬枯の庭である。万両の赤い色は光線の加減で変化して見える程に艶々しい。偶々客となって座敷に通され、座についてみると恰度まともに万両が見えて、つやつやした赤い色が自分にのりうつっているようであると云うのでしょう。静かで而もけやけやしい万両の趣をしみじみ味わうことが出来る。この作者の今度の句は万両ばかり詠んでいるが、どの句にもそれぞれ万両の深い味が捉えられている。
(草田男の句)秋桜子 同じ雪を題材として、これは又別の深い趣のある句である。雪が所謂鵞毛に似て降りしきる空を仰いでいると、何となく遠い昔を思う感じが胸に湧いて来る。今から二十年余り前、明治の頃にはよく深い雪が降った。そうして子供であった我々は外套を着、脛を埋めて学校へよろこび出掛けものである。今はそういう大雪には逢うよしもないが、今空を埋めて降って来る雪を眺めていると、あの子供の頃の明治時代が偲ばれる。思えば明治は遠くなったものだという感慨が作者の胸に湧き起って、此の句が出来たものだと思う。此の句は全体として隙きがないが、殊に「降る雪や」という五字が巧みだと思う。これは目の飛雪の光景をよく現わし、その空の暗さを現わし、従って自然に昔を追憶する心を引き出すもとになっているのである。
虚子 降る雪に隔てられて明治という時代が遠く回想されるというのである。情と景とが互いに助けて居る。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
阿波野青畝の俳句(十一)
○ 夕遍路奪衣婆(だつえぼ)のゐるうしろより (昭和十八年)
※虚子 閻魔王の祭っている傍に奪衣婆の像がある。其辺をうろうろしていた遍路が、其奪衣婆のうしろから出て来た、というのである。夕遍路という言葉は既に使い古るされているが、此場合よく利いている。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
△「ホトトギス」の昭和十四年から二十年までの年譜は下記のとおりである。昭和十四年には、草田男・波郷・楸邨らの「人間探求派」が登場してくる。また、「京大俳句弾圧事件」が勃発し、俳句もまた思想統制の時代に突入していった。昭和十六年には、「日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅」とあり、「自由律・無季俳句」も俳句の一分野と容認されるけれども、それらのものも含め、反「ホトトギス」的傾向の強い「新興俳句」は壊滅状態となっていく。昭和十七年に、かって「ホトトギス」の有力俳人であった日野草城が俳壇を去り、「ホトトギス」を離脱した、秋桜子の「馬酔木」の有力俳人の、加藤楸邨・石田波郷らも「新興俳句」系俳人とも見なされ、その「馬酔木」を離脱していく。虚子、そして、「ホトトギス」周辺も、これらの戦時下の影響を色濃く受容することとなるが、そういう戦時下での中での、青畝の一句である。どことなく陰鬱な「奪衣婆」と、どうにも疲れ切ったような「遍路」と、青畝の句としては、何とも陰鬱な句の部類に入ろう。やはり、当時の陰鬱な時代相というものが見え隠れしている一句である。
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十四年(1939)
一月 ホトトギスで難解俳句が問題となる。
二月 蒲郡にて第一回「日本探勝会」。四月、熱帯季題から地名を除く。素逝句集『砲車』刊。
五月 俳諧詩「池内庄四郎九州四国武者修業日記」虚子(「誹諧」)。「花鳥」創刊。茅舎句集『華厳』刊。
六月 「はがき句会」(七十回連載)はじまる。
八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
九月 泉鏡花没。
十月 虚子編『支那事変句集』刊(三省堂)。田中王城没。
昭和十五年(1940)
一月 『ホトトギス雑詠選集・夏の部』刊(改造社)。「連句礼賛」虚子。
二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。
四月 「天香」創刊(三号で潰される)。
六月 虚子編集『季寄せ』刊(三省堂)。
八月 三鬼検挙さる。
十月 種田山頭火没。「寒雷」創刊。「俳話新涼」代表的俳句作家約五十名。
昭和十六年(1941)
二月 日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅。
五月 虚子選『新選ホトトギス雑詠全集一』刊(中央出版協会・昭和十七年までに全九冊刊)。
六月 虚子満鮮旅行。虚子編『子規句集』刊(岩波文庫)。虚子の句の翻訳(仏・英・独)にポルトガル語・中国語加わる。
七月 川端茅舎没。
八月 虚子選『ホトトギス雑詠選集・秋の部』刊(改造社)。
十二月 大平洋戦争始まる。
昭和十七年(1942)
一月 草城俳壇から退く。
二月 「子規の句解釈」連載、虚子。
三月 虚子『句日記』(昭和十一~十五年)刊(中央出版協会)。
五月 楸邨・波郷「馬酔木」を離れる。虚子『立子へ』刊(桜井書店)。
六月 日本俳句作家協会が日本文学報国会俳句部会に改組、虚子部長となる。
七月 虚子編『武蔵野探勝上』刊(甲鳥書林・昭和十八年三月までに全三冊)。
八月 脚本「時宗」虚子(九月に中村吉右衛門、歌舞伎座、昭和十八年五月南座上演)。八月、「夏炉」創刊。
九月 「ひいらぎ」創刊。
十二月 「連句も亦花鳥諷詠-年尾へ-」虚子(「誹諧」)。虚子『俳句の五十年』刊(中央公論社)。
昭和十八年(1943)
二月 大谷句仏没。
三月 用紙不足のため雑詠三段組となる。
六月 『ホトトギス雑詠選集冬の部』刊(改造社)。
十月 虚子『五百五十句』刊(桜井書店)。東大ホトトギス会学徒出陣壮行会。
十一月 虚子脚本「嵯峨日記」上演(吉右衛門、歌舞伎座)。虚子森田愛子を訪ひ伊賀で芭蕉二百五十年忌。
十二月 芦屋月若町の年尾居にて『猿蓑』輪講開始(旭川・鹿郎・年尾・蘇城・大馬・三重史・青畝・涙雨・九茂茅)。
昭和十九年(1944)
六月 「玉藻」「誹諧」資材不足のため「ホトトギス」に合併。
九月 虚子小諸小山栄一に高木晴子とともに疎開。
十月 「鹿笛」「京鹿子」合併し「比枝」となる。
昭和二十年(1945)
三月 立子小諸へ疎開。
六月 戦局急迫のため「ホトトギス」休刊(九月まで)。
八月 芦屋の年尾居空襲で全焼、和田山古屋敷香葎方へ疎開。終戦。
九月 虚子、姨捨の月を見る。
十月 ホトトギス仮事務所岡安迷子宅に、発行所は丸ビル。
十一月 虚子北陸・但馬・丹波の旅。
十二月 「俳句ポエム」連載、佐川雨人。
阿波野青畝の俳句(十二)
○ 芽柳に焦都やはらぎそめむとす (昭和二十一年)
※戦禍に灰燼となった都市を焦都という。造語である。柳も黒柳だと思った。根が生きていたので芽を出した。私も柳によって復興の元気が湧いた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 伐口に大円盤や山笑ふ (昭和二十一年)
※森林は伐採されて急に明るい天地に変じた。ぷんと木の香をはなつ伐口は汚れなき円盤をならべる。まことに陽気な山になった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 端居して濁世なかなかおもしろや (昭和二十二年)
※混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 夜燕はものやはらげに羽ばたきぬ (昭和二十三年)
※燕は夜になると巣にやすらぐ。そして産卵もする。子がかえれば親が席をゆずる。巣のへりにとまりながら哺育する親の姿勢は尊い。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 手より手へわたされてゆき雲雀の巣 (昭和二十三年)
※麦畑の多いところを歩いていた。雲雀の鳴くまひるは明るい。一人が巣を発見して手にとった。雲雀の巣にちがいないといって渡された。軽かった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 枯るるもの枯るるならひに石蕗枯るる (昭和二十四年)
※石蕗が咲けば黄がひき立つ。長く咲いたあとは絮がついて汚れて見える。そのじぶんどんな草も木も茶いろに枯れるのだ。石蕗も同じこと。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝の戦後(昭和二十一~二十四年)の「自註自解」の六句である。これらの六句は、戦時中の陰鬱な調子とは違って、明るい調子の、青畝の、「この世を達観し、いやに澄ましていた」と、俳人特有の戯けにも似た自画像が浮かび上がってくる。しかし、下記の「ホトトギス」の年譜にあるとおり、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)や「現代俳句協会設立」など、日本俳壇は、新しい転換期の最中にあった。
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和二十一年(1946)
一月 「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月 「祖谷」創刊。
五月 「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月 小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月 夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月 長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月 「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月 虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。
昭和二十二年(1947)
一月 「踏青」創刊。
二月 虚子『六百句』刊。(青柿堂)。「誹諧」に二句の連句開始。
三月 「極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月 「風花」「早蕨」創刊。
六月 新俳句人連盟分裂。
九月 現代俳句協会設立。ホトトギス社合資会社となる。(代表社員年尾)。
十月 虚子小諸から鎌倉へ帰る。
十一月 虚子比叡山にて亡母五十年忌。琵琶湖船上句会。
十二月 虚子『虹』刊(苦楽社)。誓子「馬酔木」脱退。
昭和二十三年(1948)
一月 「天狼」「勾玉」「諷詠」「七曜」創刊。
三月 「游魚」「木の実」創刊。年尾「句帖」開始。
四月 『虚子京遊句録』刊。(富書店)。
六月 虚子・年尾・立子ら氷川丸で北海道旅行。
八月 朝日俳壇復活し虚子選者となる。
十一月 「山火」創刊。
昭和二十四年(1949)
一月 「みそさざい」創刊。
二月 虚子「雑詠解」連載、『喜寿艶』刊(創元社)。
三月 青木月斗没。「郁子」創刊。
四月 「雨月」創刊。
六月 「雑詠解」「俳画」一般募集開始。佐藤紅録没。
十月 「裸子」「青玄」創刊。
昭和二十五年(1950)
一月 「樟」創刊。
四月 第二芸術論に対し「俳句も芸術になりましたか」と虚子答える。
七月 鎌倉虚子庵にて東西稽古会(新人会.春菜会)。
十月 「誹諧」終刊。
阿波野青畝の俳句(十三)
○ 春空に虚子説法図描きけり (昭和四十年)
※かすむ大空が映写幕のようにさまざまな思い出をうかべて亡師を慕った。釈迦説法図があるごとく虚子からの教えがまざまざと感じられる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝年譜中、「昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去」・「昭和34年 60歳 虚子死去」の、その虚子を主題とした句である。青畝の代表句の「葛城の山懐に寝釈迦かな」(昭和三年)にも見られる仏教と深く係わりのある「虚子説法図」というのが青畝の世界という趣である。と同時に、青畝の俳句というのは、この昭和三年当時の、初期の作句姿勢を微動だにさせていないのは、驚異的ですらある。
○ 一章の聖句を附して日記果つ (昭和三十八年)
※一年を経過した日記はさすがによごされ他人の目にふれさせたくないものだ。ぱらぱらと操ってみて懐旧する。最後へ箴言ょ附して締め括った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 燭を持ち黒き我ある野分かな (昭和三十九年)
※停電して困った。たよりない蝋燭を手にして台風の用心に立ってゆく。畳の浮くような足許に自分の影法師がお化けめいて動きだすさま。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝俳句の特色の「涅槃会・釈迦説法図」などの仏教関連の用語と共に、青畝年譜の「昭和22年 48
歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ」の、カトリック関連の用語が、戦後の青畝の俳句に見られるようになる。この「仏教・カトリック」と、それらが渾然としている境地も、青畝ならではという思いを深くする。そして、青畝の俳句というのは、その作句の主題を、単に「仏教」とか「カトリック」とかに峻別することなく、それらが、広義の「信仰」という世界と宥和していて、それらが、あたかも、虚子の言う「俳句は極楽の文字」(下記年譜の「昭和二十八年一月」)と極めて近い世界のものという思いを深くするのである。
なお、「ホトトギス」年譜(昭和二十六年~昭和三十四年)は次のとおりである。
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和二十六年(1951)
一月 「みちのく」創刊。俳文学会発足。
三月 年尾雑詠選者に。「句日記」虚子、「句帖」年尾。
六月 虚子『椿子物語』刊(中央公論社)。「春潮」創刊。
七月 山中湖畔で稽古会。
八月 竹下しづの女没。
九月 子規五十年式典。
十一月 臼田亜浪没。
十二月 原石鼎没。『年尾句集』刊(新樹社)。「ホトトギス五百号史」宵曲.虚子。
昭和二十七年(1952)
一月 虚子選「雑詠選集予選稿」開始。昭和三十四年四月まで連載(昭和十二年十月~二十年二月の雑詠の再選)。
三月 久米三汀没。
四月 「随問随答」再開(虚子・年尾のち真下善太郎)。
六月 角川書店「俳句」創刊。
十一月 『虚子秀句』刊(中央公論社)。
十二月 山本健吉『純粋俳句』刊。
昭和二十八年(1953)
一月 「俳句は極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月 子規・虚子師弟句碑建立(須磨)。
九月 点字版『喜寿艶』『椿子物語』刊(毎日新聞社)。
十月 虚子逆修法会(比叡山横川)。
昭和二十九年(1954)
一月 「思ひ出・折々」年尾(昭和三十年十二月まで連載)。
八月 前田普羅没。寒川鼠骨没。
九月 中村吉右衛門没。
十月 『虚子自選句集』四季四冊刊(創元文庫)。
十一月 虚子文化勲章受賞。
昭和三十年(1955)
一月 虚子『俳句への道』刊(岩波書店)。「陽炎」創刊。
四月 虚子朝日新聞に「虚子俳話」を連載。
五月 『虚子自伝』刊(朝日新聞)。「藍」創刊。草城同人に復帰。雑詠投句、二句から三句にふえる。
六月 「恵那」創刊。虚子『六百五十句』刊(角川書店)。
八月 「雪舟」創刊。
十月 「草紅葉」創刊。「能登塩田」沢木欣一(「俳句」)、社会性俳句論議。
昭和三十一年(1956)
一月 日野草城没。
二月 「思ひ出づるままに」連載、年尾。
四月 「雑詠句評」始まる。「運河」創刊。兜太「本格俳句-その序」を「俳句研究」に書く、これより造型俳句論始まる。
五月 松本たかし没。
九月 「ゆし満」創刊。
十月 関西稽古会(堅田)。
十一月 虚子『虹、椿子物語他三篇』刊(角川書店)。
昭和三十二年(1957)
一月 「年輪」「桃杏」創刊。
五月 「芹」創刊。
十月 柳原極堂没。
十二月 『年尾句集』刊(大正五年以後の句、新樹社)。
昭和三十三年(1958)
二月 『虚子俳話』刊(東都書房)。
三月 「俳句評論」創刊。独訳『虚子俳句集』刊(東京日独協会)。
五月 「菜殻火」(朱鳥)「青」(爽波)「山火」(蓼汀)「年輪」(鶏二)四誌連合を作る。
十二月 『自選自筆短冊図譜虚子百句』刊(便利堂)。
昭和三十四年(1959)
四月 一日十時二十分、虚子脳幹部出血。八日、虚子没。立子、年尾朝日俳壇臨時選者となる。永井荷風没。
五月 虚子選「雑詠選集予選稿」、昭和二十三年三月号分で終了。安保闘争。
阿波野青畝の俳句(十四)
○ 寒波急日本は細くなりしまま (昭和三十一年)
※気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以後痩せ細ったのは人間だけでなく、国も寒波の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△同じ虚子の信頼の厚かった素十の「近景俳句」に比して、青畝のそれは「大景・遠景俳句の趣でなくもない。そして、虚子・素十の俳句に比して、青畝俳句は、俳諧が本来的に有していた滑稽味というものをその底流に宿しているという感を深くする。
○ しらべよき歌を妬むや実朝忌 (昭和三十三年)
※詩歌はつねに声調を主にする。金槐集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△虚子の俳句観というのは、「花鳥諷詠」と「客観写生」との、この二つによって支えられていると言って良いであろう。そして、「客観写生」ということは、素十的な、リアリズムの極致のような「客観写生」もあれば、青畝的な極めて底流に主観的なものを宿しての表面的な「客観写生」と、そのニュアンスは様々である。そして、もう一つの「花鳥諷詠」というニュアンスも千差万別なのであるが、青畝のそれは「花鳥諷詠」の「諷詠」にウェートが置かれたもののような、そんな印象を受けるのである。それは、端的に、掲出句の措辞の「しらべよき句」ということになろう。この「しらべよき句」ということは、青畝俳句の大きな特徴の一つである。
○ 時雨忌や言を容れざる一人去る (昭和三十七年)
※芭蕉の命日に句友があつまって修したあとで論争をしたことがあった。昔なら破門といったかもしれぬが、黙ってその人は席を蹴って去った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△四Sの俳人は、東の秋桜子・素十に対して、西の誓子・青畝という図式になろう。同時に、論の秋桜子・誓子に比して、作の素十・青畝という図式もあろう。特に、知的な構成派の誓子に比して、青畝は情的な非構成派という印象でなくもない。しかし、虚子がそうであったように、こと、芭蕉派ということになると、青畝もその一人ということになろう。掲出句の「時雨忌」と「言を容れざる一人去る」というのが、虚子と袂を分かった、どちらかというと、蕪村派の秋桜子の印象でなくもないのが、この掲出句に接しての感想である(勿論、この「言を容れざる一人去る」の席を蹴った俳人は、秋桜子ではなかろうが、こと、虚子と秋桜子との図式を想定すると、そんな思いがしてくるというだけである)。
○ イースターエッグ立ちしが二度立たず (昭和四十年)
※復活祭に鶏卵をいろどる習慣がある。こころみに玉子を立てたが偶然に立ったので喝采される。も一度立てようと工夫しても駄目だった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝がカトリックに入信したのは、戦後間もない昭和二十二年(青畝、四十八歳)、そして、虚子が「ホトトギス」選者引退に伴い、その投句を止めたのが、昭和二十六年(青畝、五十二歳)、そして、終世の師の虚子が亡くなった、昭和三十四年(青畝、六十歳)は、青畝年譜上重要な特記事項であろう。青畝の俳句の世界は、虚子の俳句信条の「花鳥諷詠」と「客観写生」との、青畝流の一実践であったとう思いを深くするが、こと、この掲出句に見られるような、カトリック的な世界は、虚子とは無縁のもので、虚子没後は、虚子以上に、虚子が晩年に唱えた「極楽としての俳句」の世界というのを、身を呈して実践していったという印象を深くするのである。
阿波野青畝の俳句(十五)
○ 寒明けば七十の賀が走り寄る (昭和四十四年)
※大寒が明けてまもなく二月十日の誕生日。しかも古稀が記念されるとは駆足のようだ。わが健康をしみじみ感謝した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 鯥五郎鯥十郎も泥仕合 (昭和五十年)
※有明海の干潟をみると鯥がはねている。まことに活発なのでふと曽我五郎十郎の敵討ちという語呂合せをして右の句を成した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 病葉(わくらば)の一つの音の前後かな (昭和五十年)
※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 福笑大いなる手で抑えられ (昭和五十一年)
※お多福の目や口をならべる遊びで目隠しでやるから変な顔ができる。演者が大きな手でひろげながら模索するのを見ると笑いころげるのだ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 噴水に人生縮図まのあたり (昭和五十二年)
※オスロ市内のフログネル公園に珍しい噴水が多い。グスタフ・ピーケランの創った彫刻群は人間の一生をまとめた。噴水は西洋が秀れている。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝の昭和五十年代の句である(その年譜は下記のとおり)。青畝は、九十三歳と長命であったが、その晩年の作風も、この掲出句のように、虚子が晩年に唱えた、「極楽の文芸」として「俳句」の世界に悠々と身を置いていたことは想像に難くない。虚子の言う「極楽の文芸としての俳句」ということは、「俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢ひ極楽の文学になる。如何に窮乏の生活に居ても如何に病苦に悩んでゐても、一度心を花鳥風月に寄する事によつてその生活苦を忘れ、仮令一瞬時と雖も極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるといふ所以である」(『俳句への道』)ということに要約できるであろう。虚子の終生の俳句信条というのは、「客観写生」「花鳥諷詠」「存問」「極楽の文芸」ということに要約することができるのであるが、この虚子の最後に到達した、「極楽の文芸」としての「俳句の世界」の一つの典型が、青畝の俳句に脈打っているということは、管見ではあるが、そんな思いを深くするのである。
(青畝の晩年の年譜)
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。
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