虚子の亡霊(一)
「虚子の亡霊」序
明治・大正・昭和の三代にわたり日本俳壇の頂点に君臨した「ホトトギス」王国の巨匠、高浜虚子が没したのは、昭和三十四年(一九五九)四月八日のことであった。この年の主な物故者を見ると、下記のとおりで、つくづくとその時代のことが蘇ってくる。
鳩山一郎[政治家](76歳、3.7)、 高浜虚子[俳人](85歳、4.8)、 フランク・ロイド・ライト[建築家](89歳、4.9)、 永井荷風[作家](79歳、4.30)、 ジョン・F・ダレス(71歳、5.24)、 芦田均[政治家](71歳、6.20)、 ビリー・ホリデー[歌手](44歳、7.17)、 阿部次郎[作家](76歳、10.20)、 北大路魯山人[陶芸家](76歳、12.21)
それよりもなによりも、この年は、虚子が亡くなった二日後の四月十日に、皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子さんとの結婚式が行われ、ご夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には五十三万人が詰めかけた、あの今でもテレビなどで目にする、昭和のトピックス的な年でもあった。
さて、その虚子が亡くなった昭和三十四年四月一日発行の「ホトトギス」(第六十二巻第四号・通算七百四十八号)の目次を下記のアドレスで目にすることができる(そこに、「謹祝 皇太子殿下御成婚」とある)。
「ホトトギス」「軌跡」「過去の俳誌より」「第六十二巻」
http://www.hototogisu.co.jp/
そして、それから、平成八年(十二月)になって、その「ホトトギス」は、創刊百年を迎え、なんと千二百号に達して、それを記念して、現在の稲畑汀子主宰の編著によって、『よみもの ホトトギス百年史』が刊行された。それに収載されている「ホトトギス略年譜」(付録二)は、明治三十年(一八九七)から平成八年(一九九六)までの、まさに、一世紀にわたる、「ホトトギス」の軌跡だけではなく、日本俳壇の軌跡そのものの記録といえるであろう。そして、この「ホトトギスの略年譜」も、下記のアドレスで目にすることができるという、これまた、まさに、「ネット時代」に突入した思いを実感するのである。
「ホトトギス」「軌跡」「略年譜」「百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
これらの「ホトトギス」の軌跡の全貌を垣間見たとき、虚子生存中も、そして、虚子が没した今日でも、まさに、「虚子の実像と虚像」とは、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「ホトトギス」王国、いや、日本俳壇、いや、「ハイク・ワールド」という地球規模にまで、覆い尽くしているという思いを、これまた実感するのである。
そして、これまで、「虚子の実像と虚像」、あるいは、「虚子周辺の俳人群像」ということで、いわば、「ホトトギス略年譜」でいえば、そのスタートの明治三十年(一八九七)から年代順に追っていって、何時も、昭和六年(一九三一)当時の、秋桜子の「ホトトギス」離脱、そして、昭和三十四年の、虚子没あたりまでで、それを一つのゴール地点としてきたが、どうも、そういうことではなく、それは、エンドレス的に、平成十七年の、今日まで、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「虚子の実像と虚像」とが、席巻しているという思いを深くするのである。であるが故に、ここしばらくは、平成十七年の現時点はともかくとして、「ホトトギス百年史」記載されている、最終年度の平成八年(一九九六)をスタート地点として、逆年次的に、そして、「虚子の実像と虚像」というよりも、もっとショッキング的な「虚子の亡霊」というような視点でのアプローチをしてみたいという衝動にかられたのである。その情報源は、これまた、「虚子の亡霊」の名に相応しく、すべからく、「ホトトギス」社の、「ホトトギス」の公表している、その「ネット記事」(そして、それらが活字化されている『よみものホトトギス百年史』)とその「ネット記事」に関連して、現在のネットで目にすることのできる記事を中心として、その功罪の検証と関連しての問題提起などを「備忘録」のような形でメモをしておきたいという思いなのである。
虚子の亡霊(二)
(平成元年~八年)その一「季題・季語論争」
「ホトトギス 百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
平成元年(1989)
三月 『汀子第三句集』刊(日本伝統俳句協会)。
四月 千百号記念『ホトトギス同人句集(四)』刊。
八月 日本伝統俳句協会主催で「国際俳句シンポジウム山中湖」開催(以後隔年開催)。表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする。
平成二年(1990)
三月 汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)。
六月 汀子英国アサヒカルチャー開講のためロンドンにて講演。
十月 『高濱年尾の世界』刊(梅里書房)。
十二月 汀子トルコ・イスタンブールの旅。
平成三年(1991)
三月 池内友次郎没。「花鳥来」創刊。
十月 波多野爽波没。
十一月 汀子大阪市民文化功労賞受賞。佐藤一村没。
十二月 春陽堂俳句文庫『稲畑汀子』刊。「青」終刊。
平成四年(1992)
一月 汀子「虚子の足跡」連載開始。
六月 「夏至」創刊。
八月 今井つる女没。
十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。汀子日本独文学会「筑波シンポジウム」基調講演「俳句の特殊性と普遍性」。
平成五年(1993)
一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする。野分会一句百言開始。
三月 汀子地球ボランティア協会会長となる。
五月 第三回ミュンヘン独日俳句ゼミナールで汀子講演「俳句の本質」。
十月 「対談ホトトギス俳句百年史」連載始まる。「国際俳句シンポジウム芦屋」にて汀子講演「俳句を通して見た自然と人間」。
十一月 地球ボランティア協会としてフィリピン・アキノ元大統領を私邸に招く。
平成六年(1994)
三月 山口誓子没。
四月 汀子NHK俳壇選者(三年間)。
十一月 柿衛文庫開館十周年記念文化講演で汀子岡田節人と対談「生命をみつめて」。
十二月 虚子記念館設立準備委員会発足。
平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。
十月 ホトトギス百年記念として『ホトトギス雑詠巻頭句集』刊(小学館)。
十一月 『ホトトギス雑詠句評会抄』刊(小学館)汀子兵庫県文化賞受賞。
十二月 『ホトトギス名作文学集』刊(小学館)。
平成八年(1996)
九月 汀子第四句集『障子明かり』刊(角川書房)。
十月 「ホトトギス」創刊百年祝賀会。
十二月 「ホトトギス」創刊百年、千二百号。
上記の「平成二年 三月 汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)」に関連して、次のようなネット記事を目にした。
http://www.linelabo.com/bk/2004/bk0406b.htm
※6月26日 『日本経済新聞』04.06.26付(文化欄)に「季語改革論争 歳時記に新暦、無季・通季も (賛)季節のずれ解消(否)伝統破壊の暴挙」。【立春は春から冬、朝顔は秋から夏へ。現代感覚に合わせた季語の改革が物議をかもしている。親しみやすい、いや伝統破壊の暴挙だ――と賛否をめぐり舌戦が繰り広げられている。日本人の生活文化に深くかかわる季語論争の行方から目が離せない。/「思い切って現代生活に合った感覚で季語をとらえ返すことが大事。たとえば立春は冬の季節の中で春の到来を感じる季語でしょう」/戦後、前衛俳句を唱導した俳人で現代俳句協会の金子兜太氏はそう語る。確かに新刊の同協会編『現代俳句歳時記』(全五冊、学研)は俳壇の常識を覆す内容だった。改訂委員長は俳人の宇多喜代子氏。〔……〕/編集にあたった俳人、村井和一氏は「理科年表を編集の参考にしたが、全国的に二月はまだ寒く、立春のベースは冬。原爆忌も広島(八月六日)が夏で長崎(九日)が秋というおかしな状態が解消する」と効用を語る。〔……〕/正岡子規に始まる近代俳句を大成したのは弟子の高浜虚子。子規から継承した「ホトトギス」は俳壇の中核誌となった。俳句を花鳥諷詠の有季定型詩とした虚子は一九三四年に『新歳時記』を世に出す。虚子は古式にのっとって季題と称し、その取捨の基準を掲げた。現実に行われなくても、また重要でない行事でも詩趣があるものは採るが、語調の悪いものは捨てる、などとした。/虚子の孫でホトトギスを主宰する俳人、稲畑汀子氏は真っ向から『現代俳句歳時記』を批判する。「俳句は季題を詠む詩なのです。だから無季を容認した歳時記はあり得ない。確かに行事は変化していますが、少しずつ直すべきで、一気に新暦にすることにも反対。伝統は大事にしたい」〔……〕/そもそも現代俳句協会が歳時記に新暦を採用したのは五年前。あくまで会員向けで書店に並ばなかったにもかかわらず俳壇は大騒ぎに。「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)と伝統破壊を危惧する声があがった。/協会は今回、過去の歳時記が「郷愁の中の時間」になっている現実を直視する宇多氏のあとがきを掲載、芥川龍之介の「季題無用論」なども引き、季語改革の姿勢を鮮明にした。新暦旧暦論争にこれで一気に火がつく可能性がある。】。
(メモ)汀子さんは、「伝統俳句協会」、そして、兜太さんは、「現代俳句協会」のトップの方で、こと、「季語・季題」に関連して、このお二人が相互に是認し合う場面というは、土台無理なことであろう。このお二人の論争に関連して、このお二人とも、江戸時代の「芭蕉・蕪村・一茶」などの俳句を語りながら、彼等が身を置いていた「俳諧」(連句)については、ほとんど等閑視して、その上で「季題・季語」論争をしていることが、どうにも歯がゆいのである。その上で、兜太さんは、「現代俳句」ということで、「悪しき伝統をものともせず、新しい時代にあった俳句革新」ということで、「季語・季題」に新しい息吹を吹き込もうとする姿勢には、共感することはあれ、こと、これを拒む理由は、さらさらない。そして、汀子さんには、「伝統俳句」と明言する以上、兜太さんらとの論争などに巻き込まれず、ひたすら、連句に造詣の深かった、虚子・年尾らの「伝統俳句」の深化と併せ、現在の、「連句協会」への接近などを試みて、真に、「日本伝統俳句協会」設立趣意書の、「芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句」の、その「芭蕉が詠い」の、その「俳諧」(連句)の「正しい道筋」、を示して欲しいことと、その上で、「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)という姿勢を一段と強めて欲しいという思いを深くするのである。そして、「ホトトギス」には、虚子・年尾の時代から、連句に造詣の深い方が多数おられて、その土壌は豊かであるということと、これは、汀子主宰を始め、それを取り巻く若きスタッフの主要な課題であることを、特にメモをしておきたいのである。これらのことに関連して、歌人の方の、次のネット記事は、参考になるものであろう。
http://www.sweetswan.com/19XX/11.html
※「俳句研究」10月号の鼎談「魂の叫び・『仰臥漫録』と子規」を読む。坪内稔典、稲畑汀子、稲岡長の鼎談で、テーマは『仰臥漫録』の自筆本が発見されたことから、あらためて子規を見直して、語り合おうというもの。三人三様の正岡子規へのこだわりのスタンスの違いが、鼎談を活性化させていて、退屈することなく一気に読めた。これは、他の随筆とちがって、もともと発表する気持ちなしの、心おぼえ的に子規が書いていたものを、虚子が「ホトトギス」に載せたいとぃって、断られたといういきさつがあったとのこと。虚子がその話をしてからは、子規にも、自分の死後、発表されるかもしれないという気持ちがわいて、多少、筆致が読者を意識したものになっているかもしれない、などとの興味深い指摘がある。
虚子に見せないために、子規はいつも、この帳面を書き終わったら、すぐに布団の下に隠していたので、自筆本の頁はそりかえっているそうだ。子規が病床に居ながら、新聞社から40円、「ホトトギス」から10円の月給をもらっていて、一家を支えていることにたいして大きなプライドを持っていたというのも、言われてみれば、ほほえましくも、痛切にも思え
る。帰宅後、飯島耕一の「俳句の国徘徊記」の残りを読んでしまう。定型論争の前の著書になるわけだが、飯島が赤黄男や白泉になじんでゆき同時に、森澄雄や飯田龍太の定型の整合美にもひかれていく過程がよくわかる。わからかいのは、夏石番矢の『メトロポリティック』の例の「夏石番矢」という名前入りの作品を面白がっていること。私にはこのあたりの夏石の試行は、まったく読むにたえない。しかし、この時代に現代詩人飯島耕一が、これだけ真剣に俳句を読み、このような、批評的なエッセイを書きつづけていたということには大きな意義があると思う。現在の40代くらいの詩人で、定型詩に興味を抱き、きちんと読んでいる人はいるのだろうか。少なくとも、作品の読みの相互侵犯は必要だと思うので、私も俳句へ川柳へ現代詩へと、できるだけ、好奇心の火を燃やし続けているつもりなのだが。
○どろやなぎなまやさしくも菩薩見え/飯島晴子『朱田』
※帰宅してから、芥川龍之介の「芭蕉雑記」及び「続芭蕉雑記」を読む。芥川の世代の文士は、みな芭蕉の連句などは読み込んでいるのが当然らしい。「発句私見」という文章には
○「発句は必ずしも季題を要しない」と言い切っているのが面白い。
虚子の亡霊(三)
(平成元年~八年)その二「俳句・連句の表記関連」
「ホトトギス 百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
上記の「平成元年八月 表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする」・「平成五年 一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする」に関連して、「現代俳句協会」系の「俳句の創作と研究のページ」で、「俳句表記と個」とだいする次のようなネット記事を目にした。
http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/report&essay/ani40.htm
※俳句と言葉について考えるとき、表記の面と音声の面についてそれぞれ分けて考えるのが妥当と思われるが、ここでは筆者が当面の課題としている表記の面の問題について述べてみたい。 俳句は短詩形文学の中でも最短であるがゆえに、文字の視覚効果が出やすいジャンルであろう。たとえばもし、韓国においてハングル表記にこだわったように、日本語が漢字表記をやめてしまっていたら、おそらく今のような形で俳句は存在しなかったのではないか。漢字とひらがなは脳内でそれぞれ別の場所で処理されているとする説には根拠が無いらしいが、書道に顕著にあらわれるように、我々は日本語において文字を単なる記号と割り切っていない。肉筆であれば筆跡や書体。活字であれば書体の選択、さらに漢字と仮名の選択、新仮名と旧仮名の選択、繰り返し記号の使用の有無等々、文字の組み合わせによって生み出されるたたずまいを重視し言葉を紡いでいく。このセンスは遺伝子の一種とさえ言っても差し支えないだろう。
一方で、幕末、前島密が大まじめに「漢字御廃止之儀」を慶喜に建白しなければならなかったように、また、明治期の国字改良、言文一致運動、戦後の旧かな表記廃止等がその運動の当事者にとっては必然と信じられたように、さらにさかのぼれば、古代の権力者において「真名」が漢文で「仮名」が和語であることが当然と思われていたように、政治情勢の変化に言葉は絶えず揺さぶられ、その時代に生きる人々に見合った(とされる)性能が求められる。例えばかつて、すべて日本語をアルファベットで書くべきだ、とする運動があったように、また、日本語を捨て英語を話すべきだ、と考える人々がいるように、鳥瞰的に見ればおよそ愚かしい論であっても、時代の要請から日本語の改造をしようとする動きはこれからも発生するし、言語とはそのようなものだ。
さて、それらのすべてを日本語という言葉の総体としてみるとき、俳句はそのなかから俳人が俳句にふさわしいとした表記法を選んでいくことになるわけだが、先に述べた情勢による言葉の変化を詩的言語としての俳句の言葉とは次元の違う物として峻別することは事実上不可能であろう。たとえば戦後の旧仮名廃止は文化の継続から見れば明らかに無茶な行為だが、だからといって俳句の仮名表記は新仮名は全く不適切で旧仮名が適切であるかといえば、たしかに歴史の積み重ねがあってこその表現となれば、新仮名にできないことが多いのは当然であるが、逆に旧仮名にポップな表現が似合うとは思えない。それはそのようにならされてしまった、いわば気分のようなものだが、表記には純粋に芸術論に基づくだけではない不易と流行のようなものがある、と言えよう。
さてそこで、一般的に、一俳句作品のなかに新仮名と旧仮名が混じることは許されないとされる。それは文法が紛らわしくなるおそれがあるからもっともだが、では、一作家が新仮名と旧仮名の作品を同時に詠むのはいけないことだとされるのはなぜなのだろうか。詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか、と問おう。
たとえば種田山頭火の最後の句集『鴉』を調べていた時、雑誌に発表した段階や公にする予定ではない記録、私信等のなかでは新仮名遣いであった句を、句集にまとめるにあたって漢字の使用頻度を増やし、新仮名を旧仮名に改める傾向が見受けられた。戦前の作家とはいえ、自由俳句を標榜する彼にしてこうである。果たしてこれは「推敲」なのだろうか。好意的にみれば、まさに冒頭述べた文字の視覚効果の故の推敲である。すこしでもかっこよく見える体裁を整え、さらに旧かな表記の系譜に連なることで、芭蕉以来の俳句の歴史の流れの中に自作をゆだねてその評価を待つ覚悟だったと考えられよう。が、逆に言えば、一句一句の完成の追求ではなく、山頭火という個人を世に評価されんが為に表記法を統一している訳で、一個人には一表記法しか許されない掟のあるごとく見え、結局言葉に縛られ絡め取られてしまっているのではないか。
やや歴史をさかのぼると、たとえば旧仮名表記の歌で『万葉集』の「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」〔巻一の28〕が、平安末から江戸時代にいたるまで、その時代の読み手によって、その時代においてふさわしいと考えられた読み方がなされてきたわけで(「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣乾したり天のかぐ山」、「春過ぎて夏ぞ来ぬらし白妙の衣乾かす天のかぐ山」、春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」等)、結果として表記も異なっているが、だからといって派生した歌は唯一の起源一つを残してあとはすべて誤り、というような質のものではなかったはずだ。それにこだわるのは、「作品」とそれを所有するべき唯一の「作者」に価値を置きたいからこそであり、近代的風景の所産に他ならない。
筆者の問題視する旧仮名、新仮名の一作家の使い分けは、不易流行の問題ではなく、いまだ「近代的自我」意識に束縛されるかされないかということにつながっていくのではないか。例えば私は、書きたいように書いていたものが後代の読み手に伝わったとして、それらがまたその時代にあった表記に書きかえ読みかえされて行けばいいものなのではないのか、と思っている。一作家として同時代に評価される個性の一貫性より、一つ一つの作品の完成度の追求を優先したい。少なくとも作句においてはそのような意識の元にあってよいと考えているのだが、それは果たして没個性的な姿勢なのだろうか。
(メモ)『よみものホトトギス百年史』に、「平成元年八月、汀子は『ホトトギス』に用いる表記を、俳句については歴史的かな遣い・旧漢字とし、文章については現代かな遣い・常用漢字とすることに踏み切った。さらに平成五年一月には、俳句を常用漢字・歴史的かな遣いとすることに再度変更している」との記載が見られる。この「俳句・連句の表記関連」の課題は、上記の「俳句表記と個」のレポートにあるとおり、どうにも悩ましいものの一つなのであるが、併せて、ネット時代の到来に関連して、「縦書き・横書き」の表記なども検討されて然るべきであろう。これらは、現在の、「伝統俳句協会」・「俳人協会」・「現代俳句協会」の何れの協会にても、それぞれが、それぞれに、検討すべきものなのであろうが、インターネット関連は、「横書き・常用漢字・現代かな遣い」を原則としても、何ら差し支えないような印象をいだいている。そして、上記の、「詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか」という指摘は、ここ数年来抱いていた問題意識で、その問題意識と、その方向付けの示唆に賛意を表しておきたい。なお、「現代かな遣い」に比しての「歴史的かな遣い」の特徴は、次のものなどが参考となる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3
■「ゐ」(ヰ)、「ゑ」(ヱ)を使用する。
■連濁・複合語以外でも「ぢ・づ」を使用する。
■助詞以外でも「を」を使用する。
■拗音・促音を小字で表記しない(外来語は別)。
■語中語尾の「はひふへほ」は「ワイウエオ」に発音が変化(ハ行転呼)したが、歴史的仮名遣いでは発音の変化に関係なく「はひふへほ」と表記する。
■「イ」の発音に対し「い / ひ / ゐ」の三通りの表記がある。
■「エ」の発音に対し「え / へ / ゑ」の三通りの表記がある。
■「オ」の発音に対し「お / ほ / を」の三通りの表記がある。
■長音の表記に独自の規則がある。
■活用語の活用語尾の仮名遣は文法を発音より優先する。 - 例:「笑オー」(笑ウの未然形+助詞ウ)を現代仮名遣では「笑おう」とするが、歴史的仮名遣では「笑はう」とする。現代仮名遣では「笑おう」の表記に合せて「笑う」の未然形を「笑わ/笑お」の二種類とし、歴史的仮名遣では「笑ふ」の未然形は「笑は」との文法規則に合せて「笑オー」を「笑はう」と表記するのである。
■発音に対する仮名遣の候補が複数ある場合、どれを選択するかは語源や古くからの慣例によって決められる。語源研究の進歩により、正しいとされる仮名遣が変る事もある。 - 例:山路は「やまぢ」。小路は「こうぢ」。道のチと同根だから。また、紫陽花は「あぢさゐ」となる。語源は諸説あって不明だが、「あぢさゐ」の表記を用いる。
■歴史的仮名遣の中にも揺れのあるものが存在し、これを疑問仮名遣とする事がある。 - 現在では訓点語学や上代語研究の発達により、大半は正しい表記(より古い時代に使用=語源に近いと考察される)が判明している。ただし誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣とすることがある。例:「或いは / 或ひは / 或ゐは」→「或いは」。「用ゐる / 用ひる」→「用ゐる」。「つくえ / つくゑ」(机)→「つくえ」。
■「泥鰌」を「どぜう」としたり、「知らねえ」を「知らねへ」としたりするのは、歴史的仮名遣ではなく、江戸時代の俗用表記法であり、特にその根拠はない
虚子の亡霊(四)
(平成元年~八年)その三「阪神大震災を詠む」
「ホトトギス 百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。
(メモ)平成七年一月十七日午前五時四十六分に起きた阪神大震災は、犠牲者五千四百余人を出す大惨事となった。この時の汀子さんのエッセイが朝日新聞に掲載された。
「洋服を着たまま、テレビをつけたまま、夜も電灯を消さず、余震に脅えながらパニックに陥ろうとするのに耐えた。気がつくと三日目の朝になっていた。この日が大寒であることを思い出し、俳句を作ろうと思い立った。(略) 『悴みて地震の夜明を待つばかり』(略)」。
後に、朝日新聞では、この阪神大震災の短歌・俳句を募集し、『阪神大震災を詠む』、そして、著名人による、『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』(短歌・俳句・詩・随想)の図書が刊行された。その『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』に掲載された主な俳人の句は次のとおりである。
○ 地震(なゐ)に根を傷(いた)めし並木下萌(も)ゆる 稲畑汀子(「伝統俳句協会」)
○ 天変も地異もおさまり春立てり 伊藤柏翠(「伝統俳句協会」)
○ 白犀に出合いし神戸壊えたり 金子兜太(「現代俳句協会」)
○ 枕に棲みつく地震の神戸をいかんせん 夏石番矢(「現代俳句協会」)
○ 大寒や水を慾るひと火を慾るひと 鷹羽狩行(「俳人協会」)
○ 白梅や天没地没虚空没 永田耕衣
ここで、『阪神大震災を詠む』より、汀子・兜太両氏の「選を終えて」も記しておこう。
汀子 (前略) 応募作品の全てと言ってよい程、生々しく真実を訴える力強い響きが感じられるのに、それがよく理解出来て読む者の心を打つ作品と、分かりらくく情景が眼に浮かんで来ない句があった。両者の違いはただ客観的であるかどうかという点にあったように思われる。(中略) 更に言えば、人間は希望を持たずには生きられない。悲残な災害を詠んでいても、ふと眼を止めた季題に希望を託して句に出会うとこの作者はもう大丈夫、頑張っていけるとほっとする。そんな句こそ多くの方の救いになると選んだ積りである。今必要なのは希望と救いである。俳句は極楽の文学であるが故に大衆の文学なのである。
兜太 (前略) ほとんどの人が、吐き出すように、叩きつけるように、叫ぶように書いていた。冒頭の堀口氏の句(註・「神戸何処へゆきし神戸は厳寒なり」)にしても、詠嘆ではなく、痛恨の叫びというべし。(中略) とにかま書く。俳句があるから書く、という衝動の切実さまでが伝わってきて、俳句が、日常詩として人々の愛好を得てきて、この極限状況の日常でも力になっていることを、わたしは知らされたのである。そして、田村氏(註・「もらひ風呂総身の恐怖流しけり」)や盛岡氏(註・「火事あとに真白き乳を哭きて捨てつ」)の作品に季語がないことを、後になって気づくほどだった。
これらの「選を終えて」に接すると、汀子・兜太両氏の俳句信条の相違が顕著に浮かび揚ってくる。そして、その上で、掲出の、それぞれの俳人の句に接すると、それぞれの、俳句信条とその創作活動というものを垣間見る思いをするのであるが、この掲出句の中では、一番の長老格の永田耕衣さんのものが、他を圧倒している感を大にする。そして、耕衣さんにとっては、「伝統俳句」も「現代俳句」も眼中にないことが、一目瞭然に訴えかけてくるような思いがするのである。
ここで、次のアドレスのネット記事から、「伝統俳句協会」・「現代俳句協会」からも距離を置いていた、永田耕衣関連の、示唆の含んだ次の記述を掲載しておきたい。
(永田耕衣の生涯)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-nagata/nagata1.htm
※写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。 人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」
※自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。 「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」
虚子の亡霊(五)
(平成元年~八年)その五「ホトトギスと山口誓子」
「ホトトギス 百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
平成六年(1994) 三月 山口誓子没。
(メモ)いわゆる「「四S」の俳人のうち、阿波野青畝(せいほ)、水原秋桜子(しゅおうし)そして高野素十(すじゅう)の三人については、先に触れた。
阿波野青畝
http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html
水原秋桜子
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post_08.html
高野素十
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post.html
残り、もう一人の、山口誓子については、どうにも、虚子以上に、いわば、「誓子の実像と虚像」とが肥大化して、なかなか、その正体がつかめないのである。その誓子が、平成六年に、その九十三年の生涯を閉じた。そして、『よみもの ホトトギス百年史』によると、汀子が中心になって設立された、「日本伝統俳句協会」の顧問を、青畝と共に引受けて、その一翼を担っていたという。素十と青畝とは、虚子、そして、「ホトトギス」との絆は強く、素十亡きあと、青畝がその一翼を担うことはよく理解できるところであるが、「ホトトギス」と一定の距離を置いていた、新興俳句の延長線上にある「根源俳句」の牙城の「天狼」の主宰者の誓子が、汀子の「日本伝統俳句協会」の顧問要請を引受けていたということについては、誓子の不可解さを倍増するようにも思えたのである。この、昭和六十二年の、汀子の「日本伝統俳句協会」の設立については、『よみもの ホトトギス百年史』によると、実に、ドラマチックなのであるが、後で、触れることとして、誓子は、無季俳句派とは常に一線を画し、有季定型派の総帥でもあり、その一点においては、汀子、そして、その「ホトトギス」俳句とは同じ土俵上にあったということはいえるであろう。しかし、「俳句は極楽の文学(文芸)」とする「ホトトギス」俳句と「近代芸術としての俳句の確立」をめざしている「天狼」俳句とは、最も相反する位置にあり、汀子が誓子の「天狼」俳句を認めることは、「ホトトギス」俳句の土台をも揺るがし兼ねないものを含んでいるのである。ここらへんのところを、
下記の快心のレポート「誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―」によって、汀子周辺も亡き誓子周辺も、じっくりと、今後の「有季定型」俳句の行方を検証して欲しいと願うのである。
http://homepage2.nifty.com/karakkaze/seishinosimei.html
誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―
(「俳壇」2001年11月号・特集「生誕百年 山口誓子俳句との戦い」)
昭和二十三年(一九四八)一月の「天狼」創刊から晩年までの大きな範囲の中で山口誓子を論じよ、というのが私に与えられた課題である。「天狼」創刊時の誓子は四十七歳、そして九十三歳の長寿を全うして世を去ったのが平成六年(一九九四)のことであるから、ほぼ半世紀にわたろうかという長い歳月が、その間に流れていることになる。句集も『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)、『構橋』『方位』『青銅』(ともに昭和四十二年)、『一隅』(昭和五十一年)、『不動』(昭和五十二年)、『雪嶽』(昭和五十九年)、『紅日』(平成三年)の九冊が生前に、『大洋』(平成六年)が没後間もなく刊行されている。これだけでも膨大な句業であり、限られた紙幅では容易に論じ得ないが、少なくとも誓子の後半生における最大のピークである「天狼」創刊と「根源俳句」の展開については、できる限り述べたいと思う。
「天狼」創刊と根源俳句、及び句集『青女』『和服』
第一句集『凍港』(昭和七年)を皮切りに、表現領域の拡大に対する果敢な試みを立て続けに展開し、それによってまったく新しい近代的抒情を俳句にもたらした誓子であるが、それらの仕事を生涯における第一のピークとすれば、「天狼」創刊と「根源俳句」の展開は、その第二のピークと位置づけることができるであろう。
そこで、順序としてその前後の俳壇状況をざっと見ておきたいと思うが、まずは昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。
(「桑原武夫氏へ」)
現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)
これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。
私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)
あまりにも名高い「天狼」創刊の辞であるが、これを契機にして、以後六年ほどの間に、「根源俳句」をめぐり様々な形での批判と共感が展開されたのであった。しかしながら、実際には根源俳句に対する考え方は「天狼」内部においてさえまちまちであり、その結果、それが俳句理念として一つにまとめ上げられるということにはならなかった。だいいち、当の誓子の発言自体が「酷烈なる俳句精神」の昂揚を第一義としたものであり、〈根源〉については何ら具体的な言及がなされていないのである。ここでいささか想像をたくましくすれば、創刊号の冒頭から誓子に「詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した」と断定された以上、「天狼」の作家達は皆、嫌でも「俳句のきびしさ、俳句の深まり」をもたらす〈根源〉について考えをめぐらし、さらに実作においてそれを示すことが緊急の課題となったことであろう。そして、西東三鬼にしろ平畑静塔にしろ永田耕衣にしろ、それぞれがそれぞれの方法で、誓子から突き付けられたこの要求に応えたのであった…と言うより、応えざるを得なかったのである。つまり、〈根源〉とはそもそも理念としての統一を目指すものではなく、むしろ個々の作家の俳句認識や方法意識の覚醒をうながす方向で機能するであろうことを見越して誓子が仕掛けた、一種の〈挑発〉であったのではないか。抜群の知性をもって知られる誓子だが、俳句革新においてここぞと言うときに見せる強力なリーダーシップは、むしろ豪腕と言うべきものである。そして、おそらくそうした一気呵成のやり方が、ときに〈急ぎ過ぎ〉という印象をも与えるのであろう。が、急がなければ俳句の近代化は到底なし得なかったであろうし、また実際、誓子は確かに俳句の近代化を成し遂げたのである。
私(誓子)の方でいふ根源―正体の判らないものですが―その根源と結びついたとき、はじめて季題といふものが、本当の機能を発揮する。だから季題はその根源へ通ずる門として意味がある。
私は季題にもたれるのぢやないので、根源と結びつけて、季題をもう一度締めてかからうといふんです。
これらは、根源俳句についての諸説があらかた出揃った昭和二十九年の「俳句」二月号に掲載された座談会「苦楽園に集ひて」の中で、誓子が発言したもの。〈根源〉へと到る門として季題・季語が有する機能を、もう一度洗い直そうということであるが、しからばその先にある〈根源〉とは何かを、誓子自身はどう考えていたか。先述のごとく、〈根源〉がはじめから理念としての統一を目指すものではなかったとしても、「正体の判らないもの」という解答では余りにも不十分である。誓子は、のちに「すべての物がすつと入つてくるやうに開かれた無我、無心の状態が、根源の状態」(「飛躍法」昭和四十五年)と述べており、これは物の本質、あるいは物の存在そのものをじかにとらえるということになろうかと思うが、取り敢えず、ここら辺に誓子の根源観の一端はうかがえよう。そして、こうした根源観に基づいて生み出された作品を、我々は句集『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)によって読むことができる。
氷結の上上雪の降り積もる 『青女』
悲しさの極みに誰か枯木折る 『同』
蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす 『和服』
頭なき鰤が路上に血を流す 『同』
掲出句のみならず、下五を動詞の終止形として鮮烈なイメージを喚起するのは、初期作品から一貫する誓子の最も特徴的な方法の一つである。非情とも思える犀利な眼をもって、対象の極限的な姿にまで迫ろうとする姿勢はここでも堅持され、その限りにおいては、確かに〈季題にもたれ〉てはいないと見なすこともできるだろう。また、〈根源〉とは何かという問題提起が、季題・季語とのせめぎ合いをもたらしたという意味で、誓子自身にとっても有益なものであったと言えるであろう。いずれにせよ、以上の点から『青女』『和服』の二句集は、近代俳句のパイオニアとしての誓子の、後半生における最大のモニュメントであったと思われる。
『構橋』から『大洋』まで
『和服』刊行後しばらくの間、誓子は句集をまとめることをしなかった。その理由は詳らかにしないが、あるいは『青女』『和服』によってもたらされたピークを超克するための、葛藤と模索の期間であったかもしれない。しかし、その一方で作品そのものは自己模倣が目立ちはじめ、急速に光彩を失っていったという見方をする評者が多くなってゆくのも、また事実である。例えば、飯島晴子は「俳壇」平成七年四月号の「山口誓子没後一年特集」で、次のように述べている。「私も『凍港』に始まって、『黄旗』『炎昼』『七曜』『激浪』『遠星』『晩刻』『青女』『和服』それからせいぜい昭和三十五年の〈永き日を千の手載せる握る垂らす〉(『青銅』)までぐらいで、以後はついてゆけないシンパの一人である」「山口誓子は晩年の三十年ほどを差し引いても、充分すぎるくらい大きい足跡を近代俳句に残している」(「山口誓子の遺業」)一流一派に偏しないすぐれた評論の書き手であった飯島でさえ、誓子晩年の三十年はほとんど評価対象外といった趣である。ともあれ、当代随一の大家として周囲から手厚く遇され、俳句革新を急ぐ必要がなくなったとき、近代俳句のパイオニアとしての誓子の役割は確かに終わったのであり、それに対するある種の失望感が、おそらく晩年の誓子作品に向けた飯島のような否定的見解を生む一因となっているのだろう。
沖までの途中に春の月懸る 『構橋』
冬河に新聞全紙浸り浮く 『方位』
熊の子が飼はれて鉄の鎖舐む 『一隅』
長袋先の反りたるスキー容れ 『不動』
峯雲の贅肉ロダンなら削る 『雪嶽』
霧に透き依然高城姫路城 『紅日』
大枯野日本の夜は真暗闇 『大洋』
だがしかし、こうした一連の作品を見るとき、誓子の知性的構成力そのものはいっこうに衰えていないという思いが強い。どうやら誓子は、必ずしも飯島の言う「労(ねぎら)いの晩年」を過ごしていたわけではなかったようだ。それどころか、俳句革新の機があれば進んで身を投じたかもしれないとさえ思えるのだが、残念なことに泰平の惰眠に慣れきった俳句界からは、もはや革新への機運など生ずるべくもなかったのである。
* 『山口誓子全集』(明治書院)をテキストとした。
虚子の亡霊(六)
(平成元年~八年)その六「ホトトギス周辺の俳人群像その一」
「ホトトギス 百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
平成三年 三月 池内友次郎没。 十月 波多野爽波没。
平成四年 八月 今井つる女没。 十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。
平成六年 三月 山口誓子没。
※池内友次郎(いけのうち・ともじろう)1906(明治39)・10・21-1991(平成3)・3・9・東京市麹町区生・音楽家。高浜虚子の次男。俳人としては、フランス留学以前から父の影響で創作を始め、父の主宰する俳句文芸誌「ホトトギス」にも参加していた。句集に『結婚まで』(1940・3)、『調布まで』(1947・2)、『池内友次郎全句集』(1978・10)、『米寿光來』(1987・4)などがある。・<鶯や白黒の鍵楽を秘む><もの言はず香水賣子手を棚に><水ととと枯木の影の流れをり>
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)
パリの月ベルリンの月春の旅
石蕗黄なり碁は白黒で人遊ぶ
作曲も芸に生くる身卒業す
夕焼やみな黒髪を持つ誇り
近づけば歩み去る人返り花
※波多野爽波(はたの・そうは)〔本名、敬栄よしひで〕1923(大正12)・1・21~1991(平成3)・10・18(68歳)・東京生れ・祖父は元宮内大臣という貴族の出身。母の実家中山家の鎌倉別荘の隣が星野立子邸。高浜虚子に師事し最年少同人となり頭角をあらわした。・関西ホトトギスの若手で「青」を創刊主宰・感覚の鋭さと写生によって独自の俳風を築いている。・『舗道の花』(1956・9)、『湯呑』(1981・3)、『骰子』(1986・4)、『一筆』(199010)『波多野爽波全集』(1994・3-1998・8)・<鶴凍てて花の如きを糞(ま)りにけり :「湯呑」><新緑や人の少なき貴船村><大金をもちて茅の輪をくぐりけり><炬燵出て歩いてゆけば嵐山><焼藷をひそと食べをり嵐山:湯呑><あかあかと屏風の裾の忘れもの:湯呑><金魚玉とり落しなば舗道の花:舗道の花><後頭は昏さの極み冬星見る><冬空や猫塀づたひどこへもゆける><骰子の一の目赤し春の山:骰子><冬ざるるリボンかければ贈り物><帚木が帚木を押し傾けて:湯呑>
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ha.htm#souha
(メモ)
あかあかと屏風の裾の忘れもの
いろいろな泳ぎ方してプールにひとり
きれぎれの風が吹くなり菖蒲園
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
ねんねこの人出て佇てり鞍馬山
柿の木と放つたらかしの苗代と
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
金魚玉とり落しなば鋪道の花
桜貝長き翼の海の星
西日さしそこ動かせぬものばかり
大金をもちて茅の輪をくぐりけり
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
冬空や猫塀づたひどこへもゆける
末黒野に雨の切尖限りなし
炬燵出て歩いてゆけば嵐山
骰子の一の目赤し春の山
※今井つる女(いまい・つるじょ)〔本名、鶴〕・1897(明治30)-・松山市生・「ホトトギス」「玉藻」・虚子の姪(虚子の三兄池内政夫が実父。四歳で死別。)・『姪の宿』(1958・10)、『今井つる女句集』(1990・3)、著書『生い立ち』(1977・6)・<春泥になやめるさまも女らし><ぬくもりし助炭の上の置き手紙><色鳥の残してゆきし羽根一つ>
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)
片づけて子と遊びけり針供養
窓の前幹ばかりなる夏木かな
渦潮にふれては消ゆる春の雪
板の間に映り止まる手毬かな
虫の音のたかまりくれば月出でん
空ばかりみてゐる子抱き夕涼み
赤蜻蛉ひたと伏せたる影の上
年々の虚子忌は花の絵巻物
嵩かさもなく病人眠る秋の
長き夜のわが生涯をかへりみる
合田丁字路(ごうだ・ちょうじろ 1906~1992)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gucci24/s_goda.html
本名は久男。明治39年琴平町の老舗旅館「桜屋」に生まれる。昭和3年22歳のとき「ホトトギス」初入選。
窓日覆あふりて汽車の通りけり 丁字路
昭和14年広東攻略戦に参加。17年台湾、ベトナム、シンガポールを転戦。レンバン島に抑留される。昭和21年琴平で「ホトトギス」600号記念四国大会を開き、虚子、年尾らを迎える。俳誌「紫苑」を白川朝帆から引継ぎ、昭和40年まで主宰を務める。54年香川「ホトトギス」会を結成、機関誌「連峰」を創刊。
昭和52年四国新聞文化賞、58年県教育文化功労者、61年県文化功労者を受賞。平成4年10月28日没。句集「火焔樹」「花の宿」、句文集「三代に学ぶ」
(メモ)「紫苑」主宰
透析に命ゆだねて寒開くる
遺言書焼いて全快春の風
いくたびも火柱あげて古刹燃ゆ
蚊帳小さく小さくたゝめる遍路の荷
二三騎のかけぬけて梅しづかなり
※田畑比古
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/05/blog-post_687.html
虚子が、第二次大戦の戦火をさけて鎌倉から小諸へ疎開していた、いわゆる小諸時代の作品のひとつである。そして「昭和二十五年五月十四日。年尾、比古来る」の前書が付してある。年尾はいうまでもなく、長子高浜年尾であるが、比古とは田畑比古のことである。『現代俳句辞典』(角川書店刊)からその略歴をひろえば「明治31年4月6日、京都生れ。本名彦一。料理業。妻三千女(昭和33年歿)は虚子の小説『風流懺法』の三千歳のモデル、三千女と共に虚子に句を学び、『緋蕪』『裏日本』『大毎俳句』の選者を経て昭和31年2月『東山』創刊主宰」と書かれていて、虚子の古い門弟のひとりである。
(メモ)
「手をひかれ來たる老妓や大石忌」(田畑比古、『ホトトギス季寄せ』稲田汀子編、三省堂)
(稲畑汀子「山国や蝶を荒しと思はずや 虚子」鑑賞)
http://www.kokuseikyo.or.jp/hiroba/0504/ku.html
昭和19年、太平洋戦争が激しくなって虚子は鎌倉から長野県の小諸へ疎開することになりました。 小諸は浅間山の麓にあって山国の持つ厳しい自然環境の下にあります。特に冬は浅間を吹き降ろしてくる風が冷たく、一段と春が待たれるところです。蝶が飛ぶ時期が来ると、ようやく人々も散策に出てくるのではないでしょうか。この日、虚子の許に2名の客人がありました。ひとりは私の父である高浜年尾、もうひとりは京都に住んでいる田畑比古という虚子の弟子でした。ふたりを誘って外を散歩していると蝶が飛んでいました。しばらく歩いて帰ってきた3人は虚子の勧めで俳句会をしたのだそうです。そのとき、この俳句が虚子によって出句されました。「この山国に飛ぶ蝶は都から来た人には随分荒々しい蝶だと見えたのではありませんか」と尋ねる虚子の存問の俳句です。あるいはまた、このような気象の激しい山国に疎開してきて、自分はここの生活になかなか慣れないでいるのです、と暗に言っているようにもとれる俳句ですね。でも、小諸の俳人達は虚子と疎開していた一族に対して大変親切にしてくれ、度々俳句会もしたようです。また、虚子も各地からこのように遥々と見舞いに来てくれるのを楽しみにしていた様です。俳句は存問を通してその地を語っていくので、そこに過ごした日々がこのように残されています。
今村青魚
(メモ)大正元年~平成六年 金沢市生れ 「あらうみ」選者
焼酎に旅の気炎ははかなけれ
一山の石蕗が忌日を濃きものに
入院の夜を初雪ふりつゝむ
岬荒るゝ夜も鰤(ぶり)の灯のもるゝ
病窓の真下に河原月夜かな
山口誓子(やまぐち・せいし)
http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ya.htm#seisi
〔本名、新比古(ちかひこ)〕・1901(明治34)・11・3~1994(平成6)・3・26(92歳)・京都市生まれ・「天狼」主宰・虚子門の俊秀として早くから注目され、水原秋桜子とともに俳句革新運動の先駆をなす。・4S・花鳥諷詠詩に新時代の素材を持ち込み、新しいメカニズム俳句の世界を開拓。:俳人山口波津女はつじょは妻。下田実花じつかは妹。・『凍港』(1932・5)、『黄旗』(1935・2)、『炎昼』(1938・9)、『七曜』(1942・9)、『激浪』(1946・7)、『遠星』(1947・6)、『晩刻』(1947・12)、『妻』(1949・1)、『青女』(1951・5)、『和服』(1955・1)、『構橋』(1967・3)、『方位』(1967・5)、『青銅』(1967・8)、『一隅』(1977・3)、『不動』(1977・5)、『雪嶽』(1984・9)、『紅白』(1991・5)、『新撰大洋』(1996・3)、『山口誓子全集』(1977・1~10)ほか。・<夏草に機罐車の車輪来て止る><海に出て木枯帰るところなし><学問のさびしさに堪へ炭をつぐ><ピストルがプールの硬き面にひびき><ナイターに見る夜の土不思議な土><土堤を外れ枯野の犬となりにけり><夏の河赤き鉄鎖のはし浸る><炎天の遠き帆やわがこころの帆><かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>
食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>
虚子の亡霊(七)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その一「日本伝統俳句協会」の設立(一)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和五十九年(1984)
二月 汀子『舞ひやまざるは』刊(創元社)。『汀子句評歳時記』刊(永田書房)。「潮音風声」汀子(読売新聞連載)。
三月 星野立子没。
八月 汀子シルクロード・敦煌へ俳句の旅。
昭和六十年(1985)
四月 『汀子第二句集』刊(永田書房)。
六月 汀子『風の去来』刊(創元社)。
八月 汀子日独俳句交流ヨーロッパの旅。
十月 汀子『俳句に親しむ』刊(アサヒカルチャーブックス大阪書籍)。
昭和六十一年(1986)
五月 汀子『女の心だより』刊(海竜社)。汀子編『ホトトギス新歳時記』『ホトトギス季寄せ』刊(三省堂)。
七月 汀子『春光』刊(三一書房)。
八月 汀子中国の旅(桂林・広州)。
十一月 池内友次郎文化功労賞受賞。
昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始。
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。福井圭児没。
昭和六十三年(1988)
四月 汀子『ことばの春秋』刊(永田書房)。
五月 山本健吉没。
七月 安住敦没。「惜春」創刊。
九月 中村汀女没。
八月 汀子中国西域シルクロード吟行の旅。
十二月 汀子アメリカ吟行の旅。山口青邨没。
昭和六十四年(1989)
(メモ)上記の昭和五十九年から昭和六十三年までの年譜では、昭和六十二年の「日本伝統俳句協会設立」が一番大きな出来事であったろう。『よみものホトトギス百年史』に次のとおりの記載がある(水田むつみ稿)。
※日本伝統俳句協会設立
昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。
この「年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦」という指摘は、たとえば、「虚子の亡霊」というタイトルに匹敵するだけの衝撃的なものであるが、この哲学用語の「ルサンチマン」(ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨)的なことがその背景にあるのではないかという指摘は、やはり、この設立の背景の一面を正しく見て取っているような思いを深くする。ここで、『よみものホトトギス百年史』の「俳人協会の設立」のところを、そのまま、掲載しておきたい。
※俳人協会の設立
昭和三十六年、現代俳句協会から分かれて俳人協会が誕生した。表向きは現代俳句協会賞を前衛派の赤尾兜子が受賞したことによる無季派と伝統派の分裂であったが、それは虚子の没後に起こった俳壇再編成のうねりの一つであったのである。
歴史的経過を簡単に説明する。昭和二十二年新俳句人連盟がその社会主義運動に批判的な人々によって分裂し現代俳句協会が設立されたが、その後十年間にさまざまな矛盾が蓄積されていた。幹事の勢力争いや現代俳句協会賞の選考に不明朗な点がある、協会員の選挙に買収まがいのことが行われる等々が囁かれていたが、それらを我慢ならないとする幹事の赤城さかえ、秋元不死男、安住敦、大野林火、中島斌雄の五名が連名で幹事を辞退したのである。これを伏線として三±ハ年、ついに現代俳句協会は大分裂を起こし、俳人協会が新たに発足したのである。発足当時の陣容は会長・草田男。幹事・不死男、敦、波郷、友二、桂郎、林火、楸邨、源義、三鬼、斌雄、麦南、静塔の十二名であり、顧問は蛇笏、風生、秋桜子、青邨、誓子の五人であった。
このとき秋元不死男らが年尾を訪ねて俳人協会に入ることを要請している。これとは別に角川源義も当時角川書店にいた成瀬正俊を使者として懇願している。年尾はきっばりとそれを拒絶するのである。その態度は、誇り高く堂々としていた。「山茶花」の「俳諧放談」によれば、「伝統を守る為に、是非ホトトギスもこれに参加してほしい」と言われた年尾は、「御主旨は大変結構だけれど、今さら改めて、伝統俳句を守るために、などと言い出すのはちょっとおかしいんじゃないか、ホトトギスは、始めから揺るぎなく伝統俳句を守って来た、今さら新しく伝統俳句を守るなどという旗印をかかげてさわぎだすのはどうも合点がいかない。あなた方の主張や行動については好意をもって見守るけれども、改めて俳人協会に私が入会する必要もないように思う」とある。
年尾は源義の俳壇制圧の密かな野望を感じ取っていたのかも知れない。ともかく、年尾の俳人協会に入るということは「ホトトギス」が協会傘下の}俳誌になってしまうことを意味していた。年尾にはホトトギス自体がそのまま俳壇の大きい部分を占めているという自負があった。
しかしながら、年尾の心を知らない身近な者たちまでが俳人協会に入り、そのために有力な同人たちが踏絵をさせれらる結果となった。
虚子の亡霊(八)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その二「日本伝統俳句協会」設立周辺(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
(メモ)昭和六十二年の「ホトトギス」の年譜を詳細に見ると、「日本伝統俳句協会」が設立されて、同年四月の前の三月に、稲畑汀子は、「汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会」と、日本を離れて欧州の地にあった。もう、この頃には、「日本伝統俳句協会」の全ての根回しは完了していたのであろう。そして、帰国早々、「日本伝統俳句協会」を設立して、その機関誌の名が「花鳥諷詠」というのも、虚子のその他のテーゼの、「極楽の文学(文芸)」とか「客観写生」などと比して、これまた、汀子、そして、その汀子を取り巻くスタッフの、用意周到に準備していたということが察知されるのである。ここらへんの「日本伝統俳句協会」設立の背景や経過などについて、『よみものホトトバス百年史』(「水田むつみ」稿)に記載されているものを、そのまま長文なので回を分けて掲載しておきたい。
※汀子の季題の解釈
昭和六十二年三月、欧州歴訪中の汀子はミュソヘソで「俳句にとっての季題の意味」という重要な講演を 行なった。
「季題とは歴史的に歌人や俳人によって磨き1げられてきた季節の言葉である、と同時にそれらは自然に対して鋭い感受性を持つ日本人一般の季節感にょって裏打ちされてきた美しい言葉である」
と定義づけた汀子はさらに桜の花を例にあげながら、
「このように季題は季節感に満ちた具体的な言葉であると同時に、個人的な経験や感情から始まって、日本民族に特有な感情、さらにそれを越えてカール・ユソグの言うところの集合的無意識とでも言えばよいような、全人類に共通の感覚までを重層的に含む連想の網の目に織り込まれた言葉なのであります」
と季題の背景に広大な連想の世界が広がることを指摘した。
その上で季題が豊かな連想を誘うのは、それが俳句の構造と関係して極めて効果的に用いられるからだと言つた。即ち、「季題が俳句の中で裸のまま置かれ、そして唐突に切れる0そのことが言語の意味を規定する働きを中断し、革者の頭の中でイメージをかきたて、連想をかきたてる」のだと言い、構造言語学の理論を援用し ます。ソシュールに倣って言えば、俳句は言語の連合軸に沿った活動を駆使する詩の形式でありまして、季 題はそのキーワードであると言ってもよいと思います」
と結んだ。
これは季題の本質を突き、しかもそれが俳句の構造との関係に於いて洞察された驚くべき見解であった。しかし考えてみれば、すでに虚子は、「作者が満腔の熱情を傾けて詠はうとする処、如何なるものもこれを拒む事は出来ない。唯、俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる聯想、それ等のものを研究し、これをその熱情の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになつて、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである」
と書いており、汀子の言葉は虚子のこの言葉を敷衍し、季題の性質、連想について具体的に考えを進めたものであることが分かる。
それは季題の季節感のみを重要視し、それでこと足れりとするホトトギス俳人たちに対する叱正でもあった。このように汀子は誰にもまして虚子を勉強し、現代的な視点から、自分の言葉で虚子の教えを説く。汀子が花鳥諷詠の伝道師である所以である。
虚子の亡霊(九)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その三「日本伝統俳句協会」設立周辺(三)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/ 昭和六十二年(1987)
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
(メモ)下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。その中でも、「ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶこと」や「年尾の汀子への遺言にも『何事も青邨と正一郎に相談して決めるように』」などと、さながら、映画の「ゴットファーザー」の一場面を見ているような、そんな錯覚すら覚えて、興味がつきないところである。
※協会設立の計画は単なる思いつきや一時の情熱に促されたものでは決してなく、熟慮と周到な準備に基づくものであった。
「花鳥諷詠」第九十四号の新春インタビューにその間の事情が詳しく語られている。
汀子が協会の設立を考えたのは昭和五十六年から五十七年にかけてであろうか。汀子は稲岡長と千原草之に心の内を打ち明け、事の成否を自分とは全く別の目によって予測して欲しいと依頼している。二人は不安にかられながらもシュミレーションと検討を重ね、「ホトトギス」の誌友を主体として六千人程度の会員を集めることが出来るが、むしろ協会設立後の活動に事の成否がかかっており、そのためには確固とした分かり易い主張とそれに基づく行動が必要である。その条件が満たされれば俳壇は現代俳句協会、俳人協会、新しい協会の
三協会並立の時代となり、作品の発表の場は大幅に広がるであろう。協会員の作品が優れてさえいれば俳壇を再び制覇することも可能であるという答えを出した。
昭和六十年十一月、関西ホトトギス大会が奈良で催された夜、汀子は長、草之の他、信頼する千原叡子、桑田青虎、依田明倫、今村青魚を月日亭に集め、志を打ち明け戦略を練った。このうち青魚は句会のため宿を出られず電話で連絡が交わされた。七人の意志は完全に一致し、今後手分けして有力な同人を説得して賛同して貰うこと、ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶことなどが決められた。
汀子は先ずホトトギスの長老、深川正一郎に意見を問うが、正一郎は「遅きに失したくらいだ。やっと決心してくれましたか」と目に涙を浮かべ 「私が全ての泥を被る防波堤になる」と言った。さらに「青邨さんにはもう話しましたか」と尋ね、「まだですか、それはよかった。青邨は難しいですよ。ホトトギス同人の趨勢が固まってから言いなさい」と忠告した。
この二人は、年尾の汀子への遺言にも「何事も青邨と正一郎に相談して決めるように」とあったほどの長老でありホトトギスの精神的なバックボーソであった。汀子は正一郎の言葉に籠められた深い意味を理解し、手分けして主要な同人たちの説得を先ず開始した。また長老の大久保橙青はこの計画を聞いて全く驚かず、色々な角度から汀子の覚悟のほどを確かめ「汀子は凄い、政治家以上だ」と言って老骨を鞭打って計画のために労を厭わないと誓った。
虚子の親族のうち星野椿は賛成ではあるが柳沢仙渡子と相談しなければ一存では決められないと言ったが、その日のうちに汀子に電話をして「仙渡子に遅すぎたくらいだと言われた。『玉藻』を挙げて参加する」と伝えている。
池内友次郎は面白いと言って大賛成し、「俺が会長になろう」と言った。「是非そうして下さい」という汀子に、しかし暫く考えてから「私はもう歳だから汀子お前がおやり」と言ったという。
高木晴子は既に椿から話を聞いており、すんなり賛成し顧問になることを了承した。
上野章子は反対はしなかったが、一切関わりを持ちたくない。顧問にもならないと言った。
ホトトギス同人の反応は多様であった。田畑美穂女は、はらはらして「そんなこわいことどうぞやめておくれやす。汀子先生がいろいろ言われて泥にまみれるのはこわい。そやけどどうでもしはるんやったら私はついて行きます」と答えている。関西同人会長の福井圭児は、「織椎会社が各自で輸入や輸出について政府に働きかけるより、織維協会でまとまって運動する方が力を行使出来るのと同じかなあ。俳句もそんな時代かも知れません。ともかく先ずお金が要る。しかし俳人たちからお金を集めると誤解を生じる」と言って多額の寄付金を出した。
後藤比奈夫は広瀬ひろしを伴って汀子に会いに釆た。比奈夫は苦渋に満ちて「私は俳人協会の役職についています。新しい協会に入れば俳人協会を辞めなければなりませんか」と尋ねた。汀子は「比奈夫さんの立場はよく分かります。こちらに入らないでよろしいからその代わり顧問を引き受けて下さい」と提案した。清崎敏郎は当時俳人協会の副会長であったため表立って入会は出来ないが別の形で協力する旨を約束した。高木石子も同様の立場であったが、「末央」同人たちが結束して、新協会に入り俳人協会を脱退すべきだと迫り石子はそれに従った。藤崎久をも俳人協会を辞め「阿蘇」を率いて参加した。
虚子の亡霊(十)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その四「日本伝統俳句協会」設立周辺(四)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六十二年(1987)
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
(メモ)前回に続いて、下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。前回は、虚子一族やホトトギスの主要俳人の対応などであったが、今回のものは、山本健吉や山口青邨など日本俳壇に大きな影響力を持つ方達との関わりなどで、「青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水のイメージを青邨に重ねて考えてしまう」などと、前回が、「ゴッドファーザー」の如きであるならば、さしずめ、「太閤記」や「国盗り物語」などの趣である。こういうものは、汀子周辺の、当時の状況を実際に見聞した方による記述でないと、ここまでの臨場感溢れる記述にはならないであろう。そういう意味でも、この「日本伝統俳句協会」のところは、『よみもののホトトギス百年史』の中でも、真に興味のそそられるところである。と同時に、「日本伝統俳句協会」の設立の中心人物であった、稲畑汀子にとって、しばしば、その対立者の一人と目途されている、「現代俳句協会」の金子兜太などよりも、近親憎悪的に、より多く、「俳人協会」の、そして、「ホトトギス」に関わりの深い名だたる俳人などが、汀子の視野にあったということが、これらの記述から察知されるのである。
※そのほか、阿波野青畝、山口誓子等も顧問を引き受け協力を約束した。
ホトトギス同人の中にはどうしても協会というものが判らず、「ホトトギス」があるのにそれは屋上屋を重ねるものだと言う人も多く、なかには「ホトトギス」が協会に乗っ取られると心配する人もあった。
そんななかで同人たちの説得に力を発揮したのは千原草之の絶大な信用であった。このようにして新協会は発足する以前にすでに五千人の賛同者を集めることが出来たのである。
見通しを得た汀子は「ホトトギス」千百号祝賀の準備委員会に於いて青邨に状勢を報告するとともに協力を要請した。このとき青邨は、「ほうっ!」と感心し「そうかそうか、自分は歳をとっているので何も出来ないが、しつかりやりなさい。私ができることは助けますよ」と言ったが、次に山会の席で汀子と顔を合わせた時には態度が変っていた。「あれは止めてもらえないだろうか。私は俳人協会に深く関わっているので立場上困る。協会を作ることは断念して欲しい。どうしても作ると言うのならホトトギスの同人会長を辞めさせて頂く」と言った。固唾を呑む山会の面々の前で高浜喜美子は「同人会長をお辞めになるということは坊城俊厚と中子のお仲人もお辞めになるということですか」と詰め寄った。青邨は困り、「いやあそれは」と言ってしきりに汗を拭いたが、汀子の「それならばホトトギスの名誉会長になって下さい」という言葉に救われ、最後には「汀子さんは男以上だ。やるからにはしっかりやって下さい」 と言って名誉同人会長を引き受けた。新しい同人会長には大久保橙青が就任することになった。
汀子はまた山本健吉にも電話で了解を求めた。健吉は「困ったことになった」と絶句したが、汀子は重ねて「なぜ困るのですか」と切り込んでいる。健吉は「俳壇はいま一応の秩序が保たれている。新しい協会を作るということは俳壇に混乱を起こす」と言ったが、汀子の強い意志を知り最後に「汀子さんがやるというのなら仕方がない。その理由も私にはよく理解出来る。しっかりおやりなさい。その代わりにぼろぼろになる覚悟を持ってかからないと駄目だ」と励ましている。
汀子は後に 「私はこれをどうしても青邨さんと健吉さんがお元気な間に作りたかった」と述懐している。こんなところからも公明正大に行動し、正しいと信ずることはどんなことがあってもやり遂げるという汀子の烈々とした気迫が伝わってくる。
青邨は「年尾の苦闘」のところで述べられたようにどちらかといえば晩年の虚子に対して距離を置き、ひたすら「夏草」の力を涵養することに意を注いでいた。自ら四Sを提唱したが、四Sの名前ばかりが喧伝され四人に比べ遅れを取ったという意識もあり、また大器晩成型の青邨は後年自ら頼むところもあったであろう。さらに真面目な学究である青邨にとって、清濁併せ飲む虚子を多くのホトトギス同人のように無条件で仰ぎ見ることは出来ず、是々非々の立場を取っていたのだと思われる。しかし虚子没後の年尾に対してはホトトギス同人会長としてよく力を尽くし、同人たちの尊敬を集めていた。その一方で行き掛かり上、文学報国会俳句部会の解散を宣する役目を果たし、俳人協会の設立にあたってはその発足から参画し顧問となっていただけに、気がついてみれば俳人協会とホトトギスの両方に絶大な影響力を持っていたのである。青邨はよい意味でホトトギスを含む俳壇の統一を夢見ていたのかも知れない。筆者は青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水の
イメージを青邨に重ねて考えてしまう。
ともかく日本伝統俳句協会の設立によって俳壇は三協会鼎立の時代に入った。
虚子の亡霊(十一)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(一)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。
(メモ)上記の年譜の記事は、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編著)では、「編集長交替」の見出しで、次のように記載されている。
※編集長交替
昭和六十二年十二月、松尾緑富は汀子の慰留を振り切って「ホトトギス」編集長を辞した。新しい編集長は稲畑廣太郎となり、ホトトギス発行所は一気に若返った。廣太郎は汀子の長男である。学生時代は格別俳句に興味を示さなかったが、寝食を忘れて苦闘する母の姿を見て、大学を卒業すると敢然とホトトギス社に入社した。廣太郎の念頭には少しでも母を助けたいという一念しかなかった。しかし緑富という名伯楽の扱きを受けて廣太郎は発行事務に精通し、俳句への素晴らしい理解と句作力を身につけて行った。「ホトトギス」雑詠に投旬するようになった廣太郎が初めて汀子選に二句入選したとき、高知の俳人から「息子を晶属するとは何事か」という電話がホトトギス社にかかり、その電話に出た廣太郎は以後何も言わず投旬を中断してしまった。しかし実は彼は匿名で投句を続けていたのであった。汀子の懇願にも関わらず定年を理由にホトトギス社を辞めると言ってきかない緑富は、実は社に定年制を引くときすでに廣太郎への編集長交替とその時期を心に決めていたのであった。現在、線富はホトトギス社嘱託として出勤こそしないが 「ホトトギス」 の運営、発行を全てにわたって助けている。
(メモ)日本最大の俳誌 「ホトトギス」は、実質的に、虚子・高尾・汀子と続く、虚子直系の世襲によって現にその主宰者が承継されており、その世襲制というのも、その大きな特色であろう。そして、汀子に続く、四代目を承継するものは、その長子の、稲畑廣太郎というのが、この「編集長交替」の背景ということになろうか。そして、虚子から年尾、はたまた、年尾から汀子へとバトンタッチする時にも、さまざまなドラマが展開されたが、汀子から廣太郎への承継の際にも、また新しいドラマが展開されるのであろうか。そして、この俳誌の承継に関しては、さまざまな否定的な論評などを目にするのであるが、これは、丁度、茶道や華道の家元制度のようなものと、あっさりと割り切って考えても良いのではなかろうか。そして、それに対して、否定的見解をお持ちの方は、その集団から離れれば良いのであって、その加入・退会が自由であるならば、周りの外野席であれこれと論評すべきものではないようにも思えるのである。それにしても、虚子・年尾・汀子を取り巻く、虚子一族というのは、許六のいう「血脈」(「学問・芸道おける師質継承」の系譜的なもの)的な、「虚子俳諧」の血脈相承の一族という思いを深くするのである。これに関して、虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かさせるのである。
虚子の亡霊(十二)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。
(メモ)上記の年譜の「ホトトギス編集長交替」に関連して、新編集長の稲畑廣太郎のプロフィールとその俳句作品を、『ホトトギス 虚子と一〇〇人の名句集』(稲畑汀子編)により、下記に掲載をしておきたい。
※稲畑廣太郎
いなはた・こうたろう=昭和32(957)年、兵庫県生まれ。昭和57年3月甲南大学経済学郡卒業。4月合資会社ホトトギス社入社。同63年1月ホトトギス同人及び俳誌「ホトトギス」編集長。平成12年、虚子記念文学館理事。13年、日本伝統俳句協会常務理事。
地震の街空広くして星月夜
漆黒に秋を灯してバス行けり
桐一葉落ちて黄土に還りけり
坊つちやんを読まぬ世代や漱石忌
疾風に舞ひて怒涛に雪還る
みどりの日昭和一桁老いにけり
春の月仰ぎ丸ビル最後の日
丸ビルを七十二年見し夏木
一瞬の糸となりゐて流れ星
星飛んで星消ゆる問の静寂かな
不器用に願の糸を結ぶ吾 子
露の玉弾きて猫の駈けて来し
馬の足太く短く橇行けり
ヴィオロンの音色連れ去り春立ちぬ
あと三百五十六日待つ桜
シプリアーニ大司教天高きより
記念館起工の大地小鳥来る
年男忌や虚子記念館第一歩
パナマ帽形見となりて子は父似
起工式待つ昂りの涼しさよ
祝福の涼しき声に和してをり
念願の涼しさ極め主の祈り
秋扇置く仕草にも観世流
木の実落つ音にも楽の都かな
隼の形崩れし時獲物
猟名残メインディッシユはジビェかな
二条晴四条鳥丸秋時雨
青写真目当少年月刊誌
冬木立備中高松城址寂(じゃく)
雪吊の一直線といふ歪(ゆが)み
暖かく虚子デスマスク安置され
初音聞くこれより虚子のメッカかな
虚子記念文学館に帰省かな
何もせぬ人を横目に夜業かな
マイホームプラン進むや古暦
室咲の百万本の薔薇君に
新築のプランに入れて雛の間問
白菜に包丁ざくと沈みけり
薫風や樹上に雀樹下に鳩
虚子の亡霊(十三)
(昭和五十九年~昭和六十三年)その七「ホトトギス」雑詠選
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和六十二年(1987)
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始
(メモ)昭和六十二年というは、汀子主宰の「ホトトギス」にとって、「日本伝統俳句協会」の設立や「編集長の交替」など一つの節目の年でもあった。これらの昭和六十二年以前と以後の「ホトトギス」の現況について、『よみものホトトギス百年史』では、「汀子雑詠選」という見出しで、次のとおりの記載が見られる。これによると、「汀子主宰となってから『ホトトギス』への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっている」と、投句数、約三万句とういうのは、やはり、「ホトトギス」王国が微動だにしていないという思いを深くする。と同時に、下記の記載に見られる、その「ホトトギス」王国の代表的な俳人について、余りにも、「ホトトギス」王国以外の人達には知られていないという思いを深くするのである。しかし、これらのことは、見方によると、「ホトトギス」という一つの俳誌は、著名なマスコミに登場するような俳人を多く抱える集団を目指すのではなく、名よりも実を狙っての、老・壮・青のバランスのとれた集団を目指しているようにも理解できる。そして、これらのことが、若き俳人の筆頭格の「編集長の交替」を生み、そして、さらには、一つの俳誌 から、より大きな「日本伝統俳句協会」設立の、その原動力となった、その真相のように思えるのである。
※汀子の雑詠選
昭和五十二年から六十一年にかけての雑詠を汀子選第一期とするならば、この間、最も活躍したのは、粟津松彩子、藤崎久をであった。事実上、松彩子、久を時代と言ってもよい。その他、依田明倫、深川正一郎、嶋田一歩、桑田青虎、嶋田摩耶子、松尾緑富、後藤比奈夫、田畑美穂女、松本巨草、奥田智久等の活躍が目立ち、三村純也、蔦三郎、塙告冬、小川寵雄、岩岡中正、後藤立夫等の抜擢が目を惹く。
昭和六十二年から平成八年までの第二期では、新しく大久保橙青、藤松遊子、千原草之等が華々しい活顔を見せ、星野椿、坊城としあつ、稲畑廣太郎、川口咲子、山田弘子、山内山彦、河野美奇らが活躍している。また新しく、長山あや、里川南無観、里川悦子、坂井建らが頭角を現わした。
それに加えて、牧野春駒、中杉隆世、村松紅花らのかつてホトトギスで名を成した人たちがふたたび投句を再開し活躍をしている。
虚子、年尾の高弟たちに伍して若い作家たちが個性を発揮して堂々と渡り合う様と、ベテランが健闘する様はホトトギスがまさに充実期にあることを示すとともに、さらに発展せんとする力強い気配を十分に感じさせる。
充実と発展の気配は汀子主宰となってから「ホトトギス」への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっていることからも伺える。
「虚子は選もまた創作なりと言った。これは一句に単にすぐれた解釈を施しその句に新しい生命を与えるなどの意味以上の含蓄を有する。端的にいえば虚子は雑詠欄の全てを一巻の自分の作品と考えたのであり、巻頭句はその表紙なのである。最もすぐれた句を配するという単純なものではない。作品、顔触れを含めたマンネリズムの打破、世に送り出したい個性の紹介、進むべき方向、その他諸々を考えて巻頭句を決めている。選が創作であるならば選者は創作者、即ちプロデューサーなのである。年尾もまた虚子に倣って名選者と言われた。十八年選者をつとめて私はいま選者についてこのように考えている」
これは平成七年出版された『ホトトギス巻頭句集』に汀子が書いている「巻頭のことば」の一節であるが、汀子の雑詠選に対する考え方がよく表れている。
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