虚子の亡霊(十四)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和五十四年(1979)
一月 汀子句帖」連載。汀子、NHKラジオ「FM歳時記」放送、八年間連続。「浮寝鳥」創刊。『年尾選ホトトギス雑詠選集・秋・冬の部』刊。
二月 富安風生没。
三月 年尾『病間日誌』刊(五月書房)。
六月 「杜鵑花」創刊。
十月 年尾没、汀子ホトトギス主宰となる。「野分会」発足(戦後生まれの俳人育成)。
(汀子ホトトギス主宰となる)
(メモ)上記の年譜によると、「ホトトギス」二代目の高浜年尾主宰が没して、稲畑汀子が三代目の主宰となったのは、昭和五十四年十月(二十六日)のことであった。その主宰交代を世に問うたのは、昭和五十五年五月の「ホトトギス」壱千号祝賀会での新主宰の、「本来ならば父年尾がこの場で皆様方からお祝いの言葉を頂戴するはずであった。(中略)私が祖父虚子から贈られた言葉の一つである謙譲の心を忘れず、思い上がることなく正しい道を失わないようにホトトギスの道場で皆様と共に学んで行きたい」と、公に挨拶をしたときであろう。それから、平成の今日まで、汀子が取組んだ具体的な業績について、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編・著)では、次の四項目を記載している。この四項目の筆頭に、「若手の育成」として、「野分会」の発足並びに「ホトトギスに生徒・児童の投句欄の新設」とを掲げているのは、俳句人・愛好者の高齢化に対処するところの当を得たものといえるであろう。他の俳誌 ・協会とも、この「若手の育成」が必須の課題であり、これを怠ったところのものは早晩姿を消していくであろう。そして、この「若手の育成」の延長線上に、昭和六十二年の「編集長の交替」などもなされており、やはり、「ホトトギス」王国というのは、虚子・年尾・汀子と血脈承継されていく、それだけの必然性を垣間見る思いがするのである(ネットの世界での「ホトトギス百年史」の公開なども、この延長線上にあるものと理解できるであろう)。
※『よみものホトトギス百年史』より抜粋
一 若手の育成
イ 野分会の発足(昭和五十四年十月) かつて虚子が若手の養成のために東西の学生を中心にした「槽古会」 と呼ばれる勉強会を開き新人の育成に努めたように、汀子は若手の育成の必要を早くから考えていた。たまたま若い人を育てる会を作ってほしいという三村純也からの希望もあり、戦後生まれの俳人に呼びかけ発足した会が「野分会」であった。第一回の句会は東京の玉川という鰻屋の二階であった。昭和五十四年十月二十六日午後六時、奇しくも汀子の父年尾が永眠した同じ日、同じ時刻であった。「野分会」という名前については、逞しく育って欲しいという汀子の願いが込められている。野分会発足以来、会員たちは俳句の研鑽を重ね、平成六年八月には初めての合同句集『野分会』を上梓した。
ロ 「ホトトギス」に生徒・児童の投句欄の新設(昭和五十七年三月) 俳句の長期的展望をするとき、より若い層への指導の必要性が考えられ、誌上に生徒児童の投句欄を新設した。ホトトギス会員のなかには既に二代、三代という俳人が多くみられるのである。
二 経営の合理化
イ 投句方法の改善(昭和五十六年三月) 連綿と続いていた半紙墨書投句票添付の投句方法は、用紙を毎号「ホトトギス」に挟み込むペン書きの方法に改められた。これにより投句の書替え作業などの無駄が大幅に省かれた。
ロ ホトトギス社に定年制(昭和五十六年七月) ホトトギスはその歴史の古さもあり体質は旧態然としていた。汀子はいち早くそうした体質の近代化を図ったが、昭和五十六年四月、湯浅桃邑の逝去のあと松尾緑富が新編集長に就任したのを機にホトトギス社に定年制を設けたのもその一つである。昭和六十二年十二月には汀子の長男廣太郎がホトトギス新編集長に就任、世代の若返りと新時代への歩みも計った。
三 ホトトギス各支部の組織化と俳句大会の開催
全国各地でのホトトギス大会の予告案内が「ホトトギス」誌上に発表されるようになり、全国の誌友が自由にどの地方の句会にも出席できるようになった。
4 伝統俳句の理論の普及
進歩的な業務の改革の一方で、虚子の説いた俳句理念を様々な機会を捉え、汀子自身の言葉によって分かりやすく説き、その普及に努めた。
虚子の亡霊(十五)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
花鳥諷詠(その一)
(メモ)先に、「日本伝統俳句協会設立」については触れた。そして、その機関誌が「花鳥諷詠」ということで、ここで、この機関誌名の由来ともなっている、俳誌 「ホトトギス」のバックボーンの「花鳥諷詠」ということについて触れておきたい。ちなみに、『よみものホトトギス百年史』においては、「花鳥諷詠の伝道師」というタイトルで、稲畑汀子をさまざまな角度からそのプロフィールを紹介している。ここで、先(その七)に紹介した「日本
伝統俳句協会設立」に関連事項を再掲すると、次のとおりである。
※日本伝統俳句協会設立
昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。
ここで、虚子の造語の「花鳥諷詠」の、その考え方というものを、その原本(『俳句読本』)より抜粋をしておきたい。
※虚子の「花鳥諷詠」
春夏秋冬の種々雑多の現象を、花鳥風月といふ文字で代表せしめ、更に之れを花鳥の二字に約(ちぢ)め、その花鳥諷詠(かちょうふうえい)といふ事が俳句の特色をよく説明して居る言葉だと思つて、花鳥諷詠といふ事を申して居るのであります。 花鳥諷詠といふ四文字は、私が初めて遣った言葉でありますが、之(これ)は決して新しい言葉ではない。芭蕉も花鳥風月といふ言葉をよく使つて居るし、其他の俳人も同じ様な意味のことを言つて居る。だから花鳥諷詠といふ言葉は、昔から今迄の俳句の一貫した性質を云ひ現した言葉であつて、特に私が自分の説を主張する為に言つたといふやうな、さういふ第二義的のものでは無いのであります。(中略)
正しき意味の花鳥諷詠といふのは、作者の感情を中に深く宿して居つて、季題を諷詠する、季題が躍如として描かれて居るのが表面ではあるけれども、裏面には作者の感情が潜んで居る事が明白に看取される、と云ふやうなものが一番正しい意味に於ける花鳥諷詠であると考へて居るのであります(高浜虚子『俳句読本』より)。
これが、虚子が主張している「花鳥諷詠」であり、そして、これが、「芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立する」、その中心のテーゼ(根本の命題)であり、これが、「俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感」を汀子にもたらし、そして、これが、「俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を『ホトトギス』」の他にも確保したい」という汀子の強い思いの、その原動力となっているものなのである。
しかし、この虚子の、そして「ホトトギス」のバックボーンとなっている「花鳥諷詠」ということについては、ネットのフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の下記の記載のとおり、どうにも毀誉褒貶の渦中の中にある、どうにも得体の知れないものの一つなのである。
『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」
花鳥諷詠(かちょうふうえい)は、高浜虚子の俳句理論を代表する根本理念である。
「花鳥諷詠」は高浜虚子の造語で、1927年に提唱された 。「花鳥」は季題の花鳥風月のこと。「諷詠」は調子を整えて詠う意味。
花鳥風月といえば、通常は自然諷詠の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と人事も含めている。この「花鳥諷詠」は「ホトトギス」(俳誌)の理念であるが、それまで主張していた「客観写生」との関係は必ずしも明らかではない。虚子は終生この主張を繰り返し、変えることはなかったが、理論的な展開は示さなかった。
虚子の後継者である稲畑汀子は「虚子が人事界の現象をも花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは人間もまた造化の一つであるという日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛み合っていないように思われる」(「俳文学大辞典」)という。
しかし正岡子規から虚子に引き継がれた写生あるいは「客観写生」を肯定する俳人も「花鳥諷詠」には批判的な立場を取るものが多い。
つまり「花鳥諷詠」は「ホトトギス」派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。
虚子自身「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は「お題目」と考えればわかりやすい。 大野林火は「虚子の自然(花鳥)傾倒は虚子の悟道でもあった。」(『現代俳句大辞典』明治書院)という。
「秋風や花鳥諷詠人老いず」(久保田万太郎)、「朴落葉大地に花鳥諷詠詩」(稲畑汀子)は花鳥諷詠の讃歌。 「はぐれたる花鳥諷詠のほとゝぎす」(加藤郁乎)、「誰が為に花鳥諷詠時鳥」(京極杞陽)は批判とも考えられる。
虚子の亡霊(十六)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
花鳥諷詠(その二)
(メモ)
ネットの百科事典の『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」は、つまるところ、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というのが、その結論ということになろう。しかし、この結論めいたものについては、地下に眠る虚子の亡霊も、また、その末裔の「ホトトギス」派とその一統の「日本伝統俳句協会」の面々も、決して承伏することはないであろう。
ここで、もう一度この「花鳥諷詠」について、虚子自身の言葉を再掲すると次のとおりである。
「花鳥諷詠といふ四文字は、私が初めて遣った言葉でありますが、之(これ)は決して新しい言葉ではない。芭蕉も花鳥風月といふ言葉をよく使つて居るし、其他の俳人も同じ様な意味のことを言つて居る。だから花鳥諷詠といふ言葉は、昔から今迄の俳句の一貫した性質を云ひ現した言葉であつて、特に私が自分の説を主張する為に言つたといふやうな、さういふ第二義的のものでは無いのであります。」
ここのところは、芭蕉の『笈の小文』の「しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」の、いわゆる、「造化随順」の考え方と、全く軌を一にするものと理解をしたい。とするならば、虚子のいう「花鳥」というのは、「あるがままの自然」の「花鳥」ではなく、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」の、「造物主の生成創造の至大のはたらきに随順帰一」(『俳文学大辞典』)して得られるところの「花鳥」であり、決して、一般に流布されているような、「花鳥風月などの風流な事柄を詠むものである」とは、別世界のものであろう。
この「花鳥諷詠」ということに関して、昭和四十三年(一九六八)に川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した際に、「美しい日本の私」という題で記念講演をしたところの、その冒頭の、道元禅師の、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて冷しかりけり」の、その「花」であり、その「ほととぎす」(鳥)とが思い起こされてくる。この道元禅師の歌も、「完全に移り行く四季にとけ込み、言い換えれば、無私無心の極に達しての禅師の心境」を詠まれたものであろうし、言い換えれば、「造物主の生成創造の至大のはたらきに随順帰一」(『俳文学大辞典』)して得られるところの「花鳥」と理解することができよう。
そして、虚子の凄さは、川端康成が、このことをスピーチするはるか以前の、戦前の、昭和三年(一九二八)四月に、大阪毎日新聞社講演で始めて、この「花鳥諷詠」を提唱して、爾来、亡くなる昭和三十四年(一九五九)まで、終始、微動だにさせず、この「花鳥諷詠」の提唱とその実践をし続けてきたという、この一事なのである。
と解して来ると、先の『ウィキペディア(Wikipedia)』の、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というのは、どう贔屓目に見ても、これを素直に受容するには、いささか抵抗を感ずるのである(なお、この記事の注釈で、花鳥諷詠の初出を「1927年4月21日の「大阪毎日新聞」の講演会でのこと」としているが、下記の年譜により、修正する要があるものと解する)。
『ウィキペディア(Wikipedia)』の「花鳥諷詠」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E8%AB%B7%E8%A9%A0
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和三年(1928)
一月 秋桜子「筑波山縁起」発表、連作の始り。
三月 『虚子選雑詠選集』第一集刊(実業之日本社)。
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
六月 『虚子選雑詠選集第二集』刊(実業之日本社)。
七月 東大俳句会機関誌「破魔矢」を「馬酔木」と改題。長谷川零余子没。
九月 山口青邨、ホトトギス講演会にて「どこか実のある話」を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。
虚子の亡霊(十七)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和六十二年(1987)四月
日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
花鳥諷詠(その三)
(メモ)
昭和三年(一九二八)四月に大阪毎日新聞社講演で始めて、虚子が、「花鳥諷詠」を提唱しことについては、先に触れた。そして、その「花鳥諷詠」について、虚子の『俳句読本』により、その原典についても先に触れた。その上で、虚子の「花鳥諷詠」の「花鳥」は、芭蕉の「造化随順」の考え方と軌を一にするもので、一般に流布されているような、「花鳥風月などの風流な事柄を詠むものである」とは、別世界のものであるということについても、先に触れた。ここで、「花鳥諷詠」の「諷詠」ということについて、虚子の原典の『俳句への道』により、その言わんとするところものを、そのまま、掲載をしておきたい。この虚子の原典にあたると、「諷詠」ということは、単に、「調子を整える」とか、例えば、芭蕉の「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」(『去来抄』)の、朗詠性ということだけではなく、「元来詩といふものは諷詠する文学である」・「俳人が二人寄つて互に挨拶をする場合にもただ挨拶だけでは無い。そこに大事な諷詠といふことが残されてをる。甲の俳人も天地の景象風物を諷詠する、その間に挨拶の意味をこめて。乙も亦それに答へて花鳥風月を諷詠する、同じく挨拶の意味をこめて。斯(かく)の如くして現れ来つたものが連句の発句と脇句である」と、丁度、連歌の起源の「筑波の道」の問答歌(日本武尊と火焼の翁との)に見られる、挨拶性(虚子の言う「存問」)とを加味してものと理解できるのである。こう見てくると、
虚子の「花鳥」と言い、「諷詠」と言い、独特の使い方をしているけれども、その原典にあたると、これまた、先の『ウィキペディア(Wikipedia)』の、「『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい」というよう主張は、抵抗を感ずるというよりも、「何故に、そのような誤解が生ずるのか」ということと併せ「アンチ虚子・アンチ『ホトトギス』が故に」と、ただ単に、アレルギーの拒絶症状のような印象すら受けるのである。
(『俳句への道』の中の「諷詠」より)
後世の月並宗匠あたりが此(こ)の挨拶といふ意味を尊重しすぎて、俗悪な句を作つて、それで挨拶の意味を伝へ得たといふだけで満足してゐる者が生ずるやうになつた。これも亦(また)止むを得ないないことであらう。
併(しか)しながら、単に挨拶の意味ばかりで此の発句脇句を解するのはいけない。そんな風にのみ解すればこそ、月並宗匠のやうな誤りが生じて来たのである。ここに注意しなければならん事は、独り挨拶の意味があるばかりでなく発句も脇句も両者共に諷詠といふことをしてをるのである。この諷詠といふ大事があることを忘れてはならないのである。
元来詩といふものは諷詠する文芸である。俳人が二人寄つて互に挨拶をする場合にもただ挨拶だけでは無い。そこに大事な諷詠といふことが残されてをる。甲の俳人も天地の景象風物を諷詠する、その間に挨拶の意味をこめて。乙も亦それに答へて花鳥風月を諷詠する、同じく挨拶の意味をこめて。斯(かく)の如くして現れ来つたものが連句の発句と脇句である。
( 中略 )
俳譜の発句が独立して今日の俳句になつたのである。俳句も亦諷詠の文学である。諷詠が無かつたら詩といふ性質を忽ち失つてしまふ。
虚子の亡霊(十八)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和三年(1928)
四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
九月 山口青邨、ホトトギス講演会にて「どこか実のある話」を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。
花鳥諷詠(その四)
(メモ)
虚子が「花鳥諷詠」という俳句理念(信条)を始めて世に問うた昭和三年というのは、その九月に、「山口青邨、ホトトギス講演会にて『どこか実のある話』を講演、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く」のとおり、「誓子・青畝・秋桜子・素十」という、新しい俳壇の寵児の誕生の年でもあった。それは、同時に、明治・大正の俳句に別れを告げ、新しい昭和俳句の誕生をも意味していた。そして、虚子というのは、このような俳壇に大きな変化の兆候が見られる時に、何時も、「革新よりも保守(伝統)」へと、伝統を固守する旗印を掲げて、その原点を再確認するような、そんな傾向が伺えるのである。
虚子の、この種の「革新よりも保守(伝統)」という旗印は、子規没後(明治三十五年)の、明治三十六年(「現今の俳句界」虚子、「温泉百句」論争始まる。)から大正七年(虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社))までの、いわゆる「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争、そして、この時の虚子の旗印は、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」にあった。この虚子の旗印の、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」とは、碧梧桐・井泉水らの、新傾向派の「自由律俳句」というものを放逐して、「ホトトギス百年史」の、大正七年九月には、「この年新傾向運動終熄」と、完全な旧派の影響化のもとでその終焉を迎えることとなる。そして、この「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争の、明治・大正の俳句から昭和の俳句へと脱皮する過程において、今度は、その「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争時代の、虚子の旗印の「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」とについて、「無季俳句容認・主観句・破調の句・季語季題に対する考え方の相違」など、新しい次元での「旧派の虚子派と新派のアンチ虚子派(無季俳句容認・外の景物重視より内なる心の重視)」との対立抗争というステップに移行したとも理解できょう。そして、この、
「無季俳句容認・主観句・破調の句・季語季題に対する考え方の相違」などを背景にしての、虚子の考え方の一端に、「花鳥諷詠」という考え方が、「有季・定型俳句の墨守」と「客観写生」との二本の旗印の他に、もう一本の旗印を掲げたというのが、この「花鳥諷詠」の背景と、このように理解をしたいのである。ここで、「虚子(旧派)と碧梧桐(新派)」との対立抗争の、その事象的なものを、「ホトトギス百年史」より抜粋して、再掲をしておきたい。
明治三十五年(1902)
九月 子規没。碧梧桐「日本俳句」の選者を継ぐ。
十月 虚子、「ホトトギス」の編集。十二月、子規追悼集。
明治三十六年(1903)
二月 井泉水、浅芽ら「一高俳句会」を興す。
九月 「温泉百句」碧梧桐。
十月 「現今の俳句界」虚子、「温泉百句」論争始まる。
明治四十二年(1909)
四月 碧梧桐、第二回全国行脚に出る。以後新傾向俳句勢いづく。
八月 雑詠廃止。
明治四十五年(1912)
一月 俳句入門」連載、虚子。
七月 雑詠を復活
大正元年(1912)
十月井泉水、「季題無用論」を公けにする。
大正二年(1913)
一月 虚子「俳句入門」の中で新人原石鼎、前田晋羅を推す。碧梧桐の日本俳句分裂。
大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。
三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。「海紅」「石楠花」創刊。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子
大正七年(1918)
七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。
九月この年新傾向運動終熄。
虚子の亡霊(十九)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。
二月 「渋柿」創刊。長塚節没。
三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。「海紅」「石楠花」創刊。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子。
五月 「キラゝ」創刊。
十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
十一月 かな女を中心に婦人句会を発行所にて開催。「倦鳥」創刊。
花鳥諷詠(その五)
「ホトトギス百年史」の大正四年一月の「蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う」とは、飯田蛇笏と村上鬼城とが「ホトトギス雑詠」の巻頭を競ったということで、世にいう、「ホトトギス第一期黄金時代」の現出である。これらの俳人は、「虚子門」というよりも「虚子派」という趣であり、虚子共々、碧梧桐、そして、碧梧桐を取り巻く、若き俊秀の、井泉水・一碧楼・乙字らの「新傾向俳句」を、この三月の年譜にあるとおり、「新傾向俳句分裂相次ぐ」とし、その十月に「乙字『現俳壇の人々』で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(『文章世界』)」にあるとおり、それを放逐していったということもできよう。そして、新傾向俳句が終焉し、次の「ホトトギス第二期黄金時代」の現出が、先の、昭和三年の、「誓子・青畝・秋桜子・素十」の「四S時代」ということになる。この「四S時代」に、虚子は、「花鳥諷詠」という、「ホトトギス」の、これからの「進むべき方向」を提示することとなる。
そして、この「四S」の俳人達は、蛇笏・鬼城・石鼎・譜羅らの「虚子派」と違って、文字とおり、虚子子飼の「虚子門」の面々ということになろう。しかし、この「虚子門」の若き俊秀達が跋扈する兆候が見えたときに、虚子は、「花鳥諷詠」を唱え、この「四S」の俳人達に継ぐ、その次の世代の俳人達に、その視点を移している。この「四S時代」を「ホトトギス第二期黄金時代」とすると、「ホトトギス第三期黄金時代」は、茅舎・たかし・草田男らの時代であり、昭和十四年には、茅舎の句集『華厳』に、虚子は、「花鳥諷詠真骨頂漢」という一行の「序」を寄せている。
○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩 茅舎
この茅舎の句に、草田男は次のような評を寄せている(『俳句講座六』明治書院)。
「この句を見れば、花鳥諷詠道が、この作者の人間と人生的経歴の過程のいかなる点においていかなる意味あいで結びついていたかが明瞭に推測できる。この作者にとって、花鳥諷詠道は偶然の邂逅としてあったものではなく、求道精神をもって決意の下に採り上げられたものなのである。この作者と前にあげた松本たかしは、四S時代の後を承けての二大選手として一時期を劃し、又さまざまの点において共通点を持っていったが、作者としての本質、殊に花鳥諷詠道との結びつきの点においては、まさに対照的な双幅的存在であったことは興味深い」として、「かかる前者の作品境地を『たかし楽土』と命名するならば、後者のそれは『茅舎浄土』と称えることができる」と、茅舎の作風に、「茅舎浄土」という言葉を呈している。
虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と名指しされた茅舎は、まぎれもなく、虚子の唱えた「花鳥諷詠」の、その代表的な俳人であった。そして、その茅舎と切磋琢磨した、たかしも草田男もまた、虚子の「花鳥諷詠」の世界での創作活動であったことは、上記の草田男の評でも伺えるのであるが、山本健吉は、さらに、「茅舎を形象的な比喩の作者とすれば、草田男の脳裏を充たしているものは暗喩の世界」として、「茅舎とたかしとを比較すると、茅舎が形象の中にも寓意を含んだ絢爛たるのに比して、たかしはただひたすらに感覚的と言えるかもしれない」(『現代俳句』)と指摘している。この健吉の言葉を借用するならば、茅舎の世界は、「形象的比喩の花鳥諷詠」、草田男のそれは、「暗喩的な花鳥諷詠」、そして、たかしのそれは、「感覚的な花鳥諷詠」と指摘することも可能であろう。すなわち、「花鳥諷詠」・「花鳥諷詠詩」というのは、現に、「ホトトギス」の主宰者の稲畑汀子が主唱する、「季題諷詠詩」であり、「俳句に季題・季語を必須要件としている」俳人は、虚子のいう「花鳥諷詠」の世界に、その片足を置いているということは、まぎれもない事実であるということを、ここで、再確認をしておきたい。
虚子の亡霊(二十)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和九年(1934)
二月 虚子還暦、「還暦座談会」四月号に。
三月 改造社「俳句研究」創刊、四月号に草城「ミヤコ・ホテル」発表。
四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂。『高濱虚子全集』刊行開始(改造社・昭和十年三月までに全十二冊)。
九月 虚子「俳句の手ほどき」をJOAKで放送。
十一月 虚子編『新歳事記』刊(三省堂)。「桐の葉」創刊。
花鳥諷詠(その六)
「ホトトギス」初代主宰の高浜虚子のいう「花鳥諷詠」とは、三代目主宰稲畑汀子の言によると、「花鳥諷詠とは季題を詠うことである」ということになる(稲畑汀子著『俳句十二か月』)。ここにいう「季題」とは「季語」と同じ意味で、「俳句で句の季節を示すためによみこむように特に定められて詞(言葉)」(『広辞苑』)ということになろう。とすると、「俳句は花鳥諷詠(詩)である」とする、日本最大の俳句集団の「ホトトギス」においては、その「季題を詠う」ということから、必然的に、「季語・季題を分類して解説や例句をつけた書」の「歳時記」というものが、そのバイブル(聖典)ということになってくる。そして、虚子が、初めて、三省堂から、『新歳時記』を世に問うたのが、上記の年譜のとおり、昭和十一年十一月のことであった。時に、虚子は還暦の年である。それよりも、後に、「ホトトギス」を除名されることになる、当時の「ホトトギス」の若き俊秀であった、日野草城が、「三月 改造社『俳句研究』創刊、四月号に草城『ミヤコ・ホテル』発表」と、「日本俳壇に草城あり」を喧伝した年でもあった。さらに、上記の年譜を見ていくと、「四月 新興俳句有季定型と無季定型に分裂」と、まさに、「俳句に季語が必須である」とする「有季定型」派と「俳句に季語は必須要件ではない」とする「無季定型」派の対立抗争が激化する年でもあった。そして、日野草城は、「無季俳句」を容認する立場で、草城が「ホトトギス」を除名されるのは、「季語・季題を詠う」ことを「俳句」とする、「花鳥諷詠」の立場からして、当然の帰結でもあった。ここらへんのところを、『よみものホトトギス百年史』所収の、「『ホトトギス』と日野草城」(宇多喜代子稿)の一文は、誠に貴重な興味深い内容を含んでいる。ここに、その全文を掲載しておきたい。
「ホトトギス」と日野草城(宇多喜代子稿)
「ホトトギス」の創刊百年という俳誌歴は、部外のものにもただならぬ重みの実感をもたらす。
初学のころを石井露月をテキストにする系譜で過ごしたので、なにかにつけて高浜虚子が話題にあがっていた。その後、ゆきついた桂信子のところでも、桂信子の先生が日野草城、草城のもうひとつ上の先生が虚子ということで虚子のことがしばしば話に出てくる。俳句の世界というのはどこへ行っても辿ってゆけば高浜虚子に行き着くという実感は、いまに至るまで私から消えない。
さて、日野草城が関わりをもった「ホトトギス」とは、この百年のうちの大正七年から昭和十一年までの十八年間と、昭和三十年一月から翌年の一月までの計十九年間であった。間が抜けているのは、その間「ホトトギス」の同人を除籍されていたことによる。除籍の理由についてはさまざまの説がある。最近、俳文学者の復本一郎による、除籍は草城の志願によるものではなかったかという新しい説が出された(「草苑」三○七号)。たしかに草城はこれでもか、これでもかと大虚子を挑発する発言を繰り返している。
「周知のごとく、悲しいことには、今日の僕は先生とその主義主張を大いに異にしてゐる。僕の昨今の言説行動に就いては、恐らく先生の好意を期待することは出来ないであらう。今日先生が僕に冷淡であるのも尤もな次第である」(「俳句研究」昭和十一年七月号)
このようなことを書かれてはたしかに不愉快である。同年十一月号の「ホトトギス」 誌上に一頁を費やして 「同人変更」として「従来の同人のうち、日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女三君を削除し、浅井啼魚、瀧本水鳴君を加ふ」と大きな活字で通告が出された。草城の発言が七月、虚子の措置が十一月、あきらかに「俳句研究」の発言直後の除籍措置だということがわかる。
除籍の前年に三十四歳の草城は「旗艦」という俳誌を創刊した。無季新興俳句という虚子のもっとも嫌悪する主張を掲げた俳誌である。草城の「ホトトギス」 初入選が十七歳、初巻頭が二十歳、現在の高校生から大学生の年である。今から見れば、主宰になった三十四歳という年齢にしても破格の若さである。「旗艦」に集まった青年たちの平均年齢が二十四歳だったのだから、現在とははなから比較にならない。ところが虚子はすでに還暦を過ぎた老境である。彼らと同じ位置の俳句が目に入る道理がない。ズレがあって当然である。
若い草城とその周辺は、時代の刺激を受けて新しい境地を開拓しようとさまざまのことを試みるが、これはこの時期に生まれ合わせた者の誰かが引き受けなくてはならない役割だったのである。それを引き受ける役とは誰にでも出来るものではなく、それこそ「時代」の方がその役にふさわしい力と才の持ち主の現れるのを待っていたような人でなくてはならない。「ホトトギこ の草城除籍は、起こるべくして起こった「時代」の必要だったのだと思い至る。
若い力が大きな山をつついては噴火させ、新たな山をつくってゆくというかの時代の俳句のありようは、まことに健全であった。若者たちは当面の損得とか、結果の善し悪しを度外視して動いた。晩年、病床にあった草城は虚子の見舞いを受け、ホトトギス同人に復帰した。死を前にしてふたたび虚子の懐へ再度戻ることが出来たのは、かつての行為が健全であったからである。この時の虚子が八十一一歳、草城は五十四歳であった。
先 生 は ふ る さ と の 山 風 薫 る 草 城
二十年ぶりに会った先生虚子に対する草城の感慨の句である。昭和三十一年に草城が亡くなり、それから三年にして虚子が亡くなっている。「ホトトギス」 の百年には百年にふさわしい出来ごとが埋まっている。
虚子の亡霊(二十一)
ホトトギス百年史
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大正四年(1915) 十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
花鳥諷詠(その七)
また、大正四年の年譜に戻って、その十月に、「水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)」とある。この「水巴」は、当時、「ホトトギス」俳壇にあって、有力俳人の一人の渡辺水巴その人である。水巴は、この前年に、虚子選「ホトトギス」雑詠の代選も担当しており、上記の年譜のとおり『虚子句集』を編者として刊行しており、虚子の信望が厚かったことは想像に難くない。水巴は、鬼城・蛇笏・普羅・石鼎ともども、「ホトトギス第一期黄金時代」の一人であるが、この大正四年当時は、その出頭者にも目されていたといっても過言ではなかろう。この翌年の大正五年に、主宰誌「曲水」を創刊し、その「曲水」は、虚子の「ホトトギス」とともに、今日まで続いてる。この水巴の父は、日本画家、花鳥画の大家の一人とされている渡辺省亭である。水巴には、この父・省亭の忌日の「花鳥忌」(四月二日)の句がある。
○ 花鳥忌やひそかに拝む二日月
さらに、虚子の「ホトトギス」に連載された「進むべき俳句の道」で、水巴をして、「無生のものを有生のものの如く見る」例句として、次の水巴の一句を推挙している。
○ 花鳥の魂遊ぶ絵師の昼寝かな
そして、この句に関連させて、虚子は、水巴を生粋の江戸っ児として、「どちらかといえば、田舎者の跋扈する、西洋かぶれの横行する、半可通の江戸っ児の多い、贋物の多い、こちらが十の心を以て行つても向ふは十の心を以て返さぬ、そんな人間社会よりも、こちらの情を其のまゝ受入れてくれる、少しも気障な処が無く、広い懐で人間を抱き入れようとするやうな自然界の方が好きに相違ない」という言葉を呈している。これを引用しながら、川崎展宏は、「これは、そのまま、虚子の『花鳥諷詠』の根拠を示した言葉ではないか」(『わが愛する俳人』所収「高浜虚子」)と、実に興味深い指摘をしている。
これらの水巴関連のものに接して、虚子が、昭和三年に始めて「花鳥諷詠」を唱えたときに、その前提として、水巴や、水巴の父の花鳥画の大家の渡辺省亭などのことも、虚子の脳裏の片隅にあり、それが次第、次第に、昭和三年の「花鳥諷詠」の主張に繋がってきたという理解も、一寸穿った見方ではあるが、可能のように思われるのである。そして、水巴の句に関連させて、「西洋かぶれの横行する、半可通の江戸っ児の多い、贋物の多い」という虚子の主張は、当時の、碧梧桐を取り巻く、荻原井泉水・大須賀乙字、はたまた、虚子身辺でも、日野草城、さらに、水原秋桜子・山口誓子らの、いわゆる、「西洋かぶれの若き学士・エリート俳人」達の影が、見え隠れしているように思えるのである。
さらに、「ホトトギス第一期黄金時代」の水巴らも虚子と袂を分かち、「ホトトギスの第二期黄金時代」の秋桜子らも「ホトトギス」を離脱し、その次の、「ホトトギス第三期黄金時代」の「花鳥諷詠真骨頂漢」と虚子に命名された川端茅舎の、その腹違い兄が、「ホトトギス」の同人でもあり、これまた、日本画家の渡辺省亭と並び称せられる川端龍子その人であるというのが、どうにも、この虚子の「花鳥諷詠」に関連して、その因縁めいたものを感じるのである。とにもかくにも、虚子の「花鳥諷詠」の背景には、「ホトトギス第一期黄金時代」の水巴の影というのを、見落としてはならないと、そんな思いを深くするのである。
ここで、かって、「虚子の実像と虚像」(二十五)で、「虚子と水巴」について、次のようなことを記したが、ここで、それを再掲しておきたい。
http://ameblo.jp/yahantei/archive1-200607.html
○ 此秋風のもて来る雪を思ひけり (虚子・大正二年)
この句には「十月五日。雨水、水巴と共に。信州柏原俳諧寺の縁に立ちて」の留め書きがある。この同行者の一人の渡辺水巴は、当時の虚子が最も信を置いていた俳人で、水巴の自記年譜にも、「明治三十三年初めて俳句を作る。翌三十四年内藤鳴雪翁の門に入る。三十九年以降主として高浜虚子先生の選評を受け今日に至る」(大正九・一)としており、虚子が小説の方に軸足を置いていた大正二年当時の「ホトトギス」の「雑詠」選を担当するなど、虚子の代替者のような役割を担っていた。その句風は、虚子の碧梧桐らに対する「守旧派」という観点では、荻原井泉水らの西洋画風的な作風に対して江戸情緒的ともいえる日本画風的な作風で、その「守旧派」の典型として虚子は水巴の当時の作風を是としていたようにも思えるのである。しかし、ひとたび、虚子らの「守旧派」的俳句が碧梧桐らの「新傾向俳句」を放逐する状況になってくると、水巴自身、大正五年に俳誌「曲水」を創刊し、次第に、虚子の「ホトトギス」と距離を置くようになる。そして、この水巴の「曲水」には、西山泊雲・池内たけし・吉岡禅寺洞らの「ホトトギス」系の多くの俳人が参加して、現に、「曲水」俳句として、「ホトトギス」俳句と共にその名をとどめている。その水巴の俳句観は、いわゆる「感興俳句」に止まらず「生命の俳句」(究極の霊即ち詩)へと、ともすると、「感興俳句」に陥り易い虚子らの「花鳥諷詠俳句」への警鐘をも意味するものであった。ということは、渡辺水巴は虚子らの「守旧派」的俳句からスタートして、その着地点は、虚子らの客観写生的な「花鳥諷詠俳句」とは乖離した世界へと飛翔したということになる。渡辺水巴は、「ホトトギス」俳句の第一期黄金時代を築き上げていった俳人として思われがちだが、そのスタートと、そして、その着地点においても、虚子が一目も二目も置き、そして、その虚子とは異質な俳句観を有する俳人であったということは特記しておく必要があろう。
虚子の亡霊(二十二)
ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
花鳥諷詠 (その八)
上記の年譜は、その十月に、「十月 秋桜子『自然の真と文芸の真』を『馬酔木』に発表、ホトトギスを離脱」とあるとおり、秋桜子が「ホトトギス」を離脱した年のである。その五月の「虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる」の、発行元の「花鳥堂」とは、いかにも、当時、虚子が「花鳥諷詠」に真剣に取り組んでいたかを証明しているようでもある。先に、「花鳥諷詠」に関連させて、日野草城・渡辺水巴に触れたので、ここで、水原秋桜子、特に、秋桜子が世に出した『高浜虚子』(永田書房)関連所収の「花鳥諷詠」に触れてみたい。
(『高浜虚子』所収「花鳥諷詠(秋桜子稿)」抜粋)
この説話(注「俳諧趣味」・「花鳥諷詠」)は例によって極めて常識的なもので、いままで繰り返し捲き返し言われて来たことである。今日俳句の道に入ったものなら知らず、一二年の句歴を有する者ならば、必ず先輩から聞かされ、或は本を読むことによって知り悉している苦である。その常識的な内容が、ここに堂々と繰り返されたことを私はいぶかしく思った。「花鳥諷詠」という包装紙につつまれてはいるが、開いて見ると品物は昔のままなのである。若しもこの時代に、ホトトギスに対抗する新しい俳句運動がおこり、それが従来の観念をくつがえそうとするものであった場合には、或はこういう文章も必要であったかも知れぬ。しかしこの時代の俳壇は全くホトトギスの天下で、これと覇を争う流派は一つもないのである。無季俳句とか、自由律とかいうものはあっても、それに対する論争はすでに終り、相互の主張はすでによく了解されていた。そういうときに当って「俳詣趣味」が説明され、「花鳥諷詠」が唱えられることは、私には全く不可解であった。
そればかりか、この「花鳥諷詠」は標語としても適当であるとは云えなかった。字面は美
しく、音調するにも適していることは確かであるが、そこにはいささかの新味もなく、昔な
がらの風流と解されるおそれなしとはしない。又、虚子は花鳥という中に人事をも含んでい
ると説くが、その文章が忘れられ、標語のみが残った場合(一二年をすぎればそうなること
は眼に見えていた)ホトトギス派は生活を詠むことに無関心なりと思われるおそれもあるわ
けであった。
殊に私が落胆したのは、文章の終末にある「その時分戯曲小説などの群つてゐる後の方か
ら、不景気な顔を出して、こゝに花鳥諷詠の俳句といふやうなものがあります、と云ふやう
なことになりはすまいかと、まあ考へてゐる次第であります。」というところであった。俳
句は最短型の詩であるから、小説戯曲の華かさには比すべくもない。しかしその最短詩も、
詠む者の努力によって、小説戯曲に比肩し得る境に至らぬとはいえぬ。それだけの希望を持
てばこそ長いあいだの勉強をつづけているのだが、自ら「不景気な顔を出して」というよう
では、自分の価値を自分で落しているようなものだと思った。私はこの不満を東大俳句会の
席上で、先輩にも後輩にも言った。
私は、自分の不満が、ホトトギスの作者の過半に共通する不満だと信じていた。「不景気
な顔を出して」というくだりを詠んで落胆した幾人、切歯した幾人の顔を想像した。そうし
てその人々と共に不景気を吹きとばす俳句を創造しなければならぬと思い決めていた。
ところが、私の想像は忽ちのうちにくつがえされてしまった。ホトトギスの作者の大多数
は花鳥諷詠を詠歌のように合唱しはじめた。ホトトギスには多くの衛星雑誌があるが、その
中には「虚子先生によって、はじめてわが俳句の上に大鉄案が下された」などという文章が
載りはじめた。こうなるとそれは作者の集りではなく、宗教に対する盲信のようなものであ
る。「花鳥諷詠々々々々」ととなえられる題目の声に、私はただ耳を塞いているよりほかは
なかった。
これは、「ホトトギス」の昭和四年二月号に掲載された、虚子の、「俳諧趣味」と「花鳥諷詠」に関する、秋桜子の、その当時の感慨を後(昭和二十七年)に公表(その著『高浜虚子』)したものである。これは、秋桜子の素直な感想であり、そして、現在の一般的な「花鳥諷詠」観といっても差し支えなかろう。例えば、前にも触れた、「つまり『花鳥諷詠』は『ホトトギス』派と、その一統の日本伝統俳句協会にしか通用しない理念である。虚子自身『明易や花鳥諷詠南無阿弥陀』(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は『お題目』と考えればわかりやすい。 大野林火は『虚子の自然(花鳥)傾倒は虚子の悟道でもあった。』(『現代俳句大辞典』明治書院)という」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、同一線上のものと理解できよう。
ここで、もう一度、上記の秋桜子のものをつぶさに見ていくと、「若しもこの時代に、ホトトギスに対抗する新しい俳句運動がおこり、それが従来の観念をくつがえそうとするものであった場合には、或はこういう文章も必要であったかも知れぬ。しかしこの時代の俳壇は全くホトトギスの天下で、これと覇を争う流派は一つもないのである。無季俳句とか、自由律とかいうものはあっても、それに対する論争はすでに終り、相互の主張はすでによく了解されていた。そういうときに当って『俳詣趣味』が説明され、『花鳥諷詠』が唱えられることは、私には全く不可解であった」という、秋桜子の感想は、全く、虚子の、この「俳諧趣味」や「花鳥諷詠」そのものが、当時の、「ホトトギス」内部の、秋桜子その人と、その周辺の人々に向けられていたということを、全然気づいていず、いわば、これは、虚子の、「秋桜子や『西洋かぶれの若き学士・エリート俳人』」達のホトトギス離脱を誘因する、虚子一流の「深慮遠慮」のなせるものという思いを深くする。
すなわち、当時の虚子は、碧梧桐一派の「新傾向俳句」を粛正し、その粛正に見通しが立つや、歩を緩めることなく、今度は「ホトトギス」内部の粛正を目指して、「新傾向俳句」の粛正のときと同じく、またもや、古色蒼然とした、「花鳥諷詠」という旗印を掲げての、「守旧派宣言」をしたというのが、その実態であったのではなかろうかという思いを深くする。
ここで、上記の年譜を見ると、「一月 『プロレタリア俳句』創刊」とある。また、秋桜子のものに、「この『花鳥諷詠』は標語としても適当であるとは云えなかった。字面は美しく、音調するにも適していることは確かであるが、そこにはいささかの新味もなく、昔ながらの風流と解されるおそれなしとはしない。又、虚子は花鳥という中に人事をも含んでいると説くが、その文章が忘れられ、標語のみが残った場合(一二年をすぎればそうなることは眼に見えていた)ホトトギス派は生活を詠むことに無関心なりと思われるおそれもあるわけであった」とある。すなわち、この「花鳥諷詠」の背景には、大正デモクラシーの洗礼を受け、新旧のイデオロギー的価値観の相克や、その相克を通しての、戦後の「社会性俳句」の先例的な「生活諷詠」の兆候が見られ、虚子の「花鳥諷詠」というのは、そういう新旧のイデオロギー的価値観の相克や「生活諷詠」という兆候に警鐘をならし、極めて時代に逆行するような「花鳥諷詠」という「守旧派」的スローガンによって、敢然と立ち向かおうとした、虚子の強い決意表明とも受け取れるのである。そういう、当時、還暦前の旺盛な虚子の「深慮遠慮」に比して、まだ、その虚子の庇護下にあって、「ホトトギス」を離脱するかどうかで煩悶していた秋桜子とでは、秋桜子の甘さのみが目につき、丁度、歴史上の人物で比するならば、徳川家康の虚子と石田三成の秋桜子という趣でなくもない。
ここで、下記のアドレスの、「プロレタリア文学」の、「ブロレタリア俳句」についてのものを掲載しておきたい。
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q148C100.HTM
(ブロレタリア俳句)
昭和の初め,反ホトトギス・反伝統の下に俳句革新の運動が盛んになり,短歌の連作の影響を受け,連作俳句や無季非定型俳句が盛んに試みられ,新興俳句運動は一大潮流となった。栗林一石路は荻原井泉水の俳句革新に共鳴し句作を展開したが,プロレタリア文学理論を句作に導入し,弾圧されながらプロレタリア俳句をすすめ,新興俳句と提携し,橋本夢道らとプロレタリア文学が壊滅期にあった1934年に「俳句生活」を創刊した。しかし,1941年には全員検挙投獄され,廃刊せざるをえなかった。こうした弾圧は,無季俳句のなかに戦争批判的・自由主義的な要素があったために,新興俳句にまでおよび,同じころ,新興俳句派も弾圧された。
虚子の亡霊(二十三)
ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
四月 青畝句集『万両』刊。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
花鳥諷詠 (その八)
かって、阿波野青畝の句の鑑賞に関連して、秋桜子の「自然の真と文芸の真」について触れたことがあるが、それを、次に一部省略してその抜粋のものを再掲しておきたい。
(「阿波野青畝の俳句」その九)
http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html
○ 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)
※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
※虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
※△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。
http://www.hototogisu.co.jp/
(「ホトトギス百年史」所収の昭和五・六年のものを省略)
※さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。
http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html
※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。
※ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。
(今回のメモ)
秋桜子の「自然の真と文芸の真」というのは、秋桜子が「ホトトギス」を脱退する必然性があるような、そんな大袈裟なものではなく、虚子が激賞する素十の俳句というのは、「自然の真」(自然性・不作為性)を目指すものだが、秋桜子が目指すものは、「文芸の真」(文芸性・創作性・作為性)で、共に作句活動を同じくすることはできないというようなニュアンスなのである。しかし、それらは、それぞれに程度の問題であって、要は、虚子が素十に肩入れして、秋桜子をないがしろにしているという、虚子・素十と秋桜子との相互の感情的な齟齬に大きく起因しているように思われる。この秋桜子の「自然の真と文芸の真」の問題は、より多く、虚子の「客観写生」ということに派生する問題なのであるが、その観点からすると、虚子・素十・青畝は、人為的な「作為性」というのを嫌うのに比して、秋桜子、そして、誓子らは、構成的・人為的な「作為性」を得意とする作家であったということはできよう。しかし、虚子・青畝の、日本画的な作風に比すると、秋桜子と素十とは、西洋画的(光と影そして焦点化)な作風ともいえるであろう。そして、虚子の「花鳥諷詠」という観点からすると、虚子と青畝が、「天地有情」というような、東洋的な「アニミズム」的な「自然諷詠」の世界に比して、秋桜子と素十とは、その東洋的な「アニミズム」的傾向は稀薄で、より西洋的な「自然諷詠」の世界という対比も可能かと思われる。すなわち、虚子の「花鳥諷詠」という観点からすると、上記の「阿波野青畝の俳句」鑑賞で指摘した、「秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、『花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる』(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っている」という相違が見出されるということを、ここに特記しておきたいのである。
虚子の亡霊(二十四)
ホトトギス百年史
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昭和六年(1931)
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
花鳥諷詠 (その九)
昭和六年の秋桜子の「ホトトギス」離脱は、日本俳壇史上の大きな出来事であった。『よみものホトトギス百年史』所収の「秋桜子のホトトギス離脱」(山田弘子稿)の中での、「秋桜子が馬酔木に『自然の真と文芸上の真』を発表し、ホトトギスの客観写生論を批判してホトトギスを離れたことはそれまでの俳壇即虚子という時代の一つの終焉を告げる出来事であった」という指摘は正鵠を得ている。そして、単に、「秋桜子のホトトギス離脱」関連だけではなく、虚子の「花鳥諷詠」「客観写生」や、さらには、後の、稲畑汀子の「伝統俳句協会」の設立の背景を知る上でも貴重な示唆を含むものであり、長文ではあるが、その全文を下記に掲載をしておきたい。
秋桜子のホトトギス離脱(山田弘子稿)
「ホトトギス」昭和」六年三月号「句修行漫談(三)」に、新潟の俳誌「まはぎ」の中田みづほと浜口今夜の対談「秋桜子と素十」が転載された。この中で中田みづほは、
「秋桜子君は広大な抱負と意気をもつて従来もこれからも俳句を遠心的にどこまでもおしひろげやうとして居るのに反し、素十君は極端に求心的に俳句の核心に向かつて喰ひ下らうとして居るかに感ぜられる」と論じ、
秋桜子には
「俳句をもつて他の芸術に匹敵せしめやうとする意図と意思がうかがはれる。即ち写生に出発して、美しい言葉をとり入れ、或は古い彫刻を再現し或は縁起絵巻のごとき試みを成し遂げ、十七字を自在に駆使して、従来俳句では再現の覚束ないと思はれたもの、又は全く考へもしなかつたもの即ち大きいスケールの絵画彫刻の持つ美にまでも進んでいつてゐる。これは俳句を非常におし広げた運動、遠心的の運動と見なす事が出来ないか。一方素十君は秋桜子君の業績のごとく著しい成績を示して居ないかに見えるであらうが、よく検索して見ると、これは従来の俳句では未だ試みられなかつた運動を起こして居る事が察せられる」
と、素十の写生の態度に積極的に賛意を示した。
これに対し秋桜子は、地方の一俳誌の内容をそのまま「ホトトギス」に掲載したのは、それが虚子自身の考え方と重なりあうものであるからだと考え、次第にアンチ虚子の姿勢を強めて行った。
秋桜子は昭和六年十月号「馬酔木」に「自然の真と文芸上の真」を発表し、ホトトギスの写生論を批判、ホトトギス離脱の意思を明らかにした。
秋桜子はその第一章で、小事物をそっくり写し取るという行き方は「自然の真」を追求するものであり、それに対し「文芸の其」はそこに何かを加えなければならないとした。さらに過去十九世紀から二十世紀初めにかけての自然主義では「真実」というのが「自然の真」の意味であった。しかし現在の文学は「文芸上の真」を追求しいると述べ、「時代を逆行して、今頃『自然の真』のみを説いてゐるのは、いかにも教養の足らざるを暴露して、俳壇
の為に恥辱である」とまで述べている。
第二章では、素十の作品を取り上げながら、「何草の芽はどうなつてゐるかなどは科学に属する事で、芸術の領域に入るものではない。…… 一木一草を題材にした俳句は、自然の真のみの内容のもので『芸術とは何ぞや』といふ根本的なことを理解することをしなかつたがためである」「文芸の題材となるべき自然の真を追求するには決して天才を挨たない。必要とする所は少量の根気のみである」「自然の真といふのは文芸上ではまだ掘り出された
ままの鉱である。この鉱が絶対に尊いならつまりそれは自然の模倣が尊いといふことになるのである。芸術とはそんなものではない。芸術はその上に厳然たる優越性を備へたものでなければならない」とした。
また第三章では、みづほが素十の作品に賛意を送ったことへの誤りを指摘、「素十君の句は甚だ非近代的な句だと称して誤りではない」と書いた。
この論文で秋桜子は俳句の近代性とは何かを掘り下げようとする一方で、虚子の花鳥諷詠論への批判を述べたのである。
秋桜子のこうした決意に対して賛否それぞれの考えが応酬された。それらは大別すると、(イ)虚子の考え方をどこまでも信奉し、秋桜子の姿勢に反対をしたもの(山本梅史ら)、(ロ)秋桜子に賛意を送り同調の姿勢を見せたもの(山口警子ら)、(ハ)どちらでもなく中間的な姿勢をとったもの(阿波野青畝ら)の三つに別れた。なかでも(ロ)の立場を取った山口誓子、高屋窓秋、石橋辰之助、石田波郷、加藤楸邨らは秋桜子に従い、やがて新興俳句運動、そ
して人間探究派、前衛俳句へと発展していったのである。
秋桜子のホトトギス離脱は多くの人達に措しまれ、それを引きとどめようとした人も多かった。大橋桜披子もその一人であった。桜披子は昭和四十六年十月他界したが、翌年三月号の「雨月」(現大橋敦子主宰)大橋桜披子追悼号に、水原秋桜子は「わすれ得ぬ厚意」と題し、その当時の秘話を回想している。
「私がホトトギスを脱退したとき、(桜披子さんが)わざわざ神田の家までこられて、翻意するようにすゝめてくださったのである。私はそれが到底不可能であることを答えたが、桜披子さんはなかなかあきらめず話は三時間位に亘つてしまった。それまでたゞ一面識あるだけの私を、どうしてあゝまで熱心に説いて下さったものか、その当時も感銘の深かったことだが、その感銘は少しも褪せることなく、今日までつゞいている。せめてもう一度会って、昔の御礼をしみじみ申しのべたかったと、今はそれのみが心残りである」
秋桜子が馬酔木に 「自然の真と文芸上の真」を発表し、ホトトギスの客観写生論を批判してホトトギスを離れたことはそれまでの俳壇即虚子という時代の一つの終焉を告げる出来事であった。秋桜子に対し、虚子は表面切って反論をせず、ただ黙殺の姿勢を通した。そして客観写生への揺るぎない信念とホトトギス俳句の方向づけをより明確にしたことが虚子の一つの答えであったといえよう。ただ、秋桜子の去った後、昭和六年十二月号の 「ホトトギス」誌上に、虚子は 「嫌な顔」という短い小説を発表している。
その内容は、もともと織田信長に仕えていた栗田左近という家臣が信長に進言したことが受入れられず嫌な顔をして信長の前を引き下がったが、その後失踪し、越前の門徒宗の一揆に加わり信長に刃を向けた。信長は左近の噂を聞き光秀と秀吉に命じ左近を捕らえさせた。引き出された左近に対し信長は「何故お前は己に背き門徒宗の一揆などに加わったのか」と問いただし 「お前の進言を取り上げなかった時、嫌な顛をした事はよく覚えている。しかし格別その事で背く程の事ではないではないか。」と穏やかに諭した後急に「左近を斬ってしまえ」と一言家臣に命じた、という話である。
この左近が秋桜子をなぞらえている事は、そうではないと云う上村占魚の証言はあるが、誰の目にも見当のつくところであった。少なくとも秋桜子は自分のことだと理解した。何事にも動じる事のない虚子が、「嫌な顔」を敢えて発表したところに虚子の胸の深層を垣間見る思いがする。
翌七年一月号の「馬酔木」は「織田信長公へ 生きてゐる左近」の一文を掲げて、衆目の話題を呼んでいる。こうした確執は単に俳句上の主義主張、感情の問題を越えて、新しい時代の大きなうねりとして起こるべくして起こった現象ではなかったであろうか。さらには長い歴史を手繰るとき、この様な新しい時代を押し進めた演出老は実は虚子その人ではなかったであろうかと、そんな思いに駆られるのである。
秋桜子の許には石田波郷、高屋窓秋、篠田悌二郎、加藤楸邨、石橋辰之助、滝春一ら多くの若い作家が育ち、山口誓子も昭和十年五月に「馬酔木」に参加した。やがて「馬酔木」「天の川」は「新興俳句運動」勃興の原点となり、人間探究派、プロレタリア俳句へと発展していく。これらの運動がやがては昭和三十六年の俳人協会設立の動きに繋がっていく。ホトトギスは虚子から年尾の沈黙の時代を経て、やがて汀子の登場となるが、昭和六十二年四月の日本伝統俳句協会(稲畑汀子会長)の設立もまたここにその原点を見ることが出来るだろう。
虚子の亡霊(二十五)
ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/
昭和十一年(1936)
十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
花鳥諷詠 (その十)
昭和六年の十月の 秋桜子の「ホトトギス離脱」も大きな出来事であったが、昭和十一年十月の「草城・禅寺洞・久女三名のホトトギス同人除名」も、それに匹敵するほどの出来事であった。このうち、日野草城関連については、先に、「『ホトトギス』と日野草城(宇多喜代子稿)」で触れた。そして、九州で「天の川」を主宰する吉岡禅寺洞は、京都の日野草城以上に、急進的な「無季俳句」の容認者であった。時あたかも、昭和の初め、日本は未曾有の不況に見舞われ、暗澹たる世相の中で、虚子の唱える「花鳥諷詠」への反発は想像以上のものがあり、そういう流れの中での、「草城・禅寺洞」両者の除名は理解できるとしても、狂信的な虚子信奉者の杉田久女の除名は、「虚子の不当なる久女追放」ということで、アンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」を助長する結果ともなった。こういうアンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」という風潮を孕んでの、この昭和十一年・十二年にかけて、虚子が、「ホトトギス」と同様、大きく関わった、虚子の二女の星野立子が主宰する「玉藻」に寄せた「俳句問(とい)・答(こたえ)」の、素十の句に関連しての、痛烈な秋桜子批判のものが、今に残されている。この虚子のものに接すると、昭和六年の秋桜子の「ホトトギス離脱」は、虚子にとっても、秋桜子にとっても、大きな溝となって、二度とその溝は埋まることがなかったことを証明しているようでもある。
『虚子俳句問答(下)実践編』抜粋
づかづかと来て踊子にさゝやける 素十
こういう句の良さをお教え下さいまし。意味も余り良く分からないのですが。(芝公園
稲垣きく子)〔十一・十二〕
踊り子といえば、踊る女の子をいうのであります。若い衆が来て、踊っておる女の子に何かささやいたというのであって、無論、若い男女の間の恋を詠ったものでありましょぅ。「づかづかと来て」といったのが、面白うございます。
づかづかと来て踊子にさゝやける 素十
秋桜子氏は右の句を「野卑な句」と評しておられるのですが、私にはこうした句はとても好きで、ちっとも野卑といった感じは起こりませんが、虚子先生のご意見をお伺いしたいと存じます。(愛媛 桝井鬼子)〔十二・五〕
あなたのお考え通りです。この句を野卑だと解する人は、この句のもたらす文芸上の真を解し得ない人であります。
※この「この句を野卑だと解する人は、この句のもたらす文芸上の真を解し得ない人であります」という虚子の発言は、「秋桜子さん。あなたは、俳句は、自然上の真よりも文芸上の真を目指すべきと言っているが、この素十さんの句は、あなたがお好きな文芸上の真の句で、あなたは、本当のところ、文芸上の真を知っていないのです」という、痛烈な秋桜子への皮肉以外のなにものでもないであろう。こういう痛烈な虚子の発言を見ていくと、秋桜子が、その著『高浜虚子』で、虚子門というよりも、虚子と犬猿の仲である松根東洋城主宰の「渋柿」門に属しての「ホトトギス」出身といっているのが、よく理解できるし、同様に、渡辺水巴も、虚子門といわず内藤鳴雪門と年譜に記しており、アンチ「虚子」・アンチ「ホトトギス」というのは、虚子の、こういう言動によって、どうにもならないような状態に陥っていたということの一例に上げられるであろう。
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