水曜日, 11月 04, 2026

新訂「屠龍之技(第二かぢのおと (2-29・30)~(2-32・33)」

 新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-29・30)」

    米翁老君の三周忌に
2-29 高宗が三年ははやし桃李(ももすもも)
2-30 松山の花のけむりや春の雨

海棠小禽図 伊信(米翁)筆.jpg

「海棠小禽図 伊信筆 1766年 絹本着色」(「柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)」=「大和国郡山藩の第二代藩主。郡山藩柳沢家三代。初代藩主柳沢吉里の四男。別名(画号など)=久菊・義稠・信卿・伊信)、諡号(俳号など)=米翁・春来・香山・月村・蘇明山・
紫子庵・伯鸞」、「六義園で隠居、後、出家」(「ウイキペディア」)
年譜
1724年(享保9年):吉里の四男として生まれる。
1737年(元文2年):将軍初御目見
1738年(元文3年):帝鑑間詰
1745年(延享2年):吉里死去、柳沢家相続
1773年(安永2年):隠居(10月3日)、六義園で隠居生活を送る。
1785年(天明5年):出家
1792年(寛政4年):死去、享年69 (「ウイキペディア」)

米翁老君の三周忌に
2-29 高宗が三年ははやし桃李(ももすもも)
2-30 松山の花のけむりや春の雨

海棠小禽図(水墨画風).jpg

🟩🌄「海棠小禽図 伊信筆 1766年 絹本着色」を水墨画風にしての二句
    米翁老君の三周(忌)に
2-29 高宗が三年ははやし桃李(ももすもも)
2-30 松山の花のけむりや春の雨

🟩📘 解題(その一)

前書:米翁老君の三周に

語釈:米翁老君(べいおうろうくん)は甲府藩主・柳沢信鴻(のぶひろ)のこと。「米翁」はその号(または米翁軒)。「三周(さんしゅう)」は三回忌(満二年目の忌日、あるいは三周忌)を指します。

【2-29】高宗が三年ははやし桃李(ももすもも)

語釈

高宗(こうそう):中国・殷(商)の賢君・武丁(高宗)の故事に由来。あるいは唐の高宗を指すとも解されますが、ここでは父の喪に際して「三年言わず」(三年の間黙して治世を顧みた)とされる儒教的・古典的な喪に服する期間(三年喪)の象徴として用いられています。

三年ははやし:故人が亡くなってからの「三年」という月日は、思い返せばあっという間(早い)であったということ。

桃李(ももすもも):桃やすもも。華やかに花を咲かせる木々。また『史記』の「桃李言わざれども下自ら小径を成す」(徳のある人のもとには自然と人が集まる)という言葉を暗示し、故人の高潔な人徳を象徴させています。

季語・句意・鑑賞(視点)

季語:桃(春)、すもも(春)[時候・植物]

句意:高宗の服喪とされる三年の月日も、あっという間に過ぎ去ってしまったように感じられます。庭の桃やすももは変わらず美しい花を咲かせていますが、言わずとも人が集まったあの方(米翁)の人徳を思わずにはいられません。

鑑賞(視点):
典拠(儒教的古典・史記)を巧みに引いた追悼の句です。故人である米翁の徳を「桃李」に投影し、時の流れる速さへの哀傷と、故人への変わらぬ敬慕を重ね合わせています。追悼句でありながら華やかさを秘めた「桃・すもも」を配することで、風雅を愛した米翁の生前の洗練された人品を追想させる、文人好みの風流かつ格調高い表現となっています。

【2-30】松山の花のけむりや春の雨

語釈

松山(まつやま):特定の地名(愛媛県松山や風光明媚な松山)を指すと同時に、「松の生い茂る山=墓所・陵墓(松の煙・松の山)」という隠語的・古典的な暗示を含みます。

花のけむり:満開の桜の花が薄霞や雨に煙ってぼんやりと霞んでいる様子。または火葬・香の煙と花霞を重複させた美称。

春の雨:春にやわらかく降るしとしととした雨(春雨)。しんみりとした情緒や哀愁を誘う季語。

季語・句意・鑑賞(視点)

季語:春の雨(春・時候)、花(春・植物)

句意:松山(故人の眠る地)に咲く桜の花が、折からの春の雨に煙るように霞んでいます。その静かでしんみりとした情景は、まるで米翁を偲ぶ我々の尽きない哀悼の思いのようです。

鑑賞(視点):
前句が典故を用いた「文人好みの理知的な追悼」であるのに対し、本句は「情景描写による情感豊かな追悼」となっています。「松」の緑と「花(桜)」の淡紅、そしてそれらを優しく包み込む「春の雨」の白く煙る視覚的イメージが絶妙です。抱一らしい琳派的な色彩感覚と、故人を悼む湿り気のある哀愁が見事に調和した秀句です。

◆ 柳沢米翁(信鴻)と酒井抱一との接点(論考)

柳沢米翁(信鴻)と酒井抱一の交流は、18世紀後半の江戸における「大名サロン・文化人ネットワーク」の深遠さを象徴する象徴的な関係である。

1. 身分を超えた文人サロンの繋がり

柳沢信鴻(米翁)は大和郡山藩主(前主)であり、一方の酒井抱一は姫路藩主・酒井忠仰の次男として生まれ、若い頃から狂歌、俳諧、絵画(文人画、浮世絵、琳派)などに没頭した風流人である。両者はともに「江戸の大名家出身の風雅の士」という共通のバックグラウンドを持っていた。米翁の隠居所や吉原・狂歌サロンなどを媒介として、身分や年齢の垣隔(米翁は抱一より約三十七歳年上)を超えた深い文化交流が結ばれた。

2. 俳諧および吉原文化を通じた親交

米翁は自著の随筆『宴遊日記』などに当時の江戸文化人との交流を克明に記録している。抱一(別号:鶯村、采真等)の若き日の活動(狂歌名: provides 鶯 we 市など)や俳諧の座において、二人は度々座をともにした。とりわけ、吉原などの悪場所(遊郭文化)における洗練された文人遊戯や、加茂季鷹・大田南畝らを中心とする文化人ネットワークの中で、二人の親交はより強固なものとなったとされる。

3. 師父・先覚者としての米翁への敬慕

抱一にとって、米翁は単なる「風流仲間」にとどまらず、文人としての生き方を示した大先輩であり敬うべき師父のような存在であった。米翁が寛政4年(1792年)に没した後も、抱一はその死を深く悼み続け、本二句にみられるように三周年(三回忌)という節目においても心を込めた追悼句を献じている。典故を引いた格調高い「高宗」の句と、琳派の絵師らしい色彩と情景美溢れる「松山」の句の二句一双の構成は、抱一が米翁に対して抱いていた深い敬意と、風雅を共有した者同士の魂の結びつきの強さを如実に物語っている。

🟩🌄 解題(その二)

「三年ははやし桃李」――米翁を悼む抱一の俳諧的系譜
――「かぢのおと」における前書・追悼・江戸座の記憶――

「米翁老君の三周忌に」

このわずかな前書が、二句の世界を決定している。

ここで抱一は、単に「亡き人を偲ぶ」のではない。「米翁老君」と呼ぶことによって、柳沢信鴻という一個の人物を、自己の生涯における先達、また俳諧の世界における敬すべき宗匠として位置づけているのである。信鴻は大和郡山藩主でありながら、俳諧・漢詩・絵画などに深く親しみ、俳号を米翁と称した人物である。抱一との俳諧上の結びつきも深く、抱一が百韻・二百韻・千句などを米翁に寄せ、歌仙をともに巻いたことが知られている。

したがって、この「三周忌」は、単なる年忌の標識ではない。そこには、人の死を数える三年と、師から弟子へと受け継がれてゆく俳諧の時間とが重ねられているのである。

一 「米翁・老君・三周忌」――前書そのものが一篇の追悼文である

まず「米翁」。

これは柳沢信鴻の俳号である。「米翁」と呼ぶこと自体が、抱一にとっての信鴻が、単なる大名柳沢家の人物ではなく、俳諧の師友として記憶される存在であったことを示す。

次に「老君」。

ここが大切である。

「老君」は単なる「老人」の意味ではない。「君」と敬称を加えることで、年長者への敬意と、精神的な先達への尊敬とを一つにしている。抱一にとって米翁は、権力者として仰ぐべき大名というより、むしろ自分がその文雅の世界に連なってゆくうえでの「老君」、すなわち先に道を歩んでいた人なのである。

そして「三周忌」。

「三回忌」ではなく「三周忌」と置かれているところにも、時間の循環という感覚がある。死から三年が巡った。春が三度巡った。しかし、三年を経たという事実そのものが、むしろ「もう三年も経ったのか」という驚きとなる。

その感覚が、第一句の、

高宗が三年ははやし桃李

へ、そのまま移される。

つまり前書は説明ではない。前書そのものが、第一句を生み出す時間的・精神的な序章なのである。

二 「高宗が三年ははやし桃李」――三年という時間を反転させる

この句の中心は「三年」である。

「高宗」は、中国古代の殷王朝の高宗、すなわち武丁を指す。『論語』には、高宗が父王の喪に服して「三年」もの間、政治の表立った言動を慎んだという故事が語られている。

したがって、

高宗が三年

とは、単に「高宗という人物の三年間」ということではない。
古典的な「三年の喪」という時間を呼び出す一句なのである。

そこへ、

はやし
が来る。

「早し」は、この場合、時間の経過が早いという意味である。しかし、単なる「三年が早かった」という感想ではない。

「三年という長い喪の時間さえ、過ぎてしまえば早い」。

この逆説が、この句の心臓部である。

三年とは、喪に服する者にとっては長い時間である。ところが、愛惜する人を失った者にとっては、その三年が一瞬のように過ぎ去ってしまう。

だから「高宗が三年ははやし」となる。

これは古典故事を利用した知的な趣向でありながら、その底には極めて私的な悲しみがある。抱一は、漢籍の故事を借りて、「米翁が亡くなってから三年が過ぎた」という個人的時間を、古典的時間へと昇華しているのである。

三 「桃李(ももすもも)」――花木と門流とを一つにする言葉

そして、この句をさらに深くしているのが、

桃李(ももすもも)

である。

「桃李」は文字どおりには桃と李、すなわち桃の花、李の花を指す。春の花木であり、季節としては春に属する。
しかし「桃李」という漢語には、もう一つ重要な文化的含意がある。
中国古典では「桃李」は、しばしば門下生・弟子を意味する。すぐれた人物のもとには、その徳を慕って人が集まり、後世に多くの人材を生むという比喩である。
ここで「桃李」を「ももすもも」と訓ませた抱一の仕掛けが面白い。

漢語としての「桃李」は古典世界を背負いながら、読み下せば「もも、すもも」となり、眼前の春の花木へと戻ってくる。

つまり、

高宗――三年――桃李

という漢語的・典故的世界と、

春――桃――李

という日本的・自然的世界とが、一句のなかで重なっているのである。

そして、ここにはさらに、米翁から抱一へという俳諧の門流を読む余地が生まれる。
米翁のもとに集った俳諧の人々、その中にいた抱一自身を、「桃李」と見るのである。
 そう読むと、この句は単なる追悼句ではなくなる。

「米翁が亡くなって三年。三年は早かった。しかし、その米翁の残したものは、桃李のように、なお花を咲かせている。」

その「桃李」の一枝が、まさに抱一自身なのである。

四 米翁と抱一――「後見人」という社会的関係を越えて

柳沢信鴻と酒井忠因、すなわち後の抱一との関係を考えると、この句の重みはさらに増す。
信鴻は、両親を早く失った酒井家の忠以・抱一兄弟を支える側の人物の一人であり、抱一の
若い時代の文化的環境を考えるうえでも重要な存在であったとされる。
 しかし、ここで「後見人」という社会的・家政的な関係だけに限定してしまうと、抱一と米翁との本質的な関係を見失う。

むしろ重要なのは、抱一が米翁の「俳諧の世界」に入り、その世界のなかで自らを形成したことである。

抱一は、後に「屠龍」の名をもって俳諧を展開する。そして『屠龍之技』のなかに米翁追悼の句を収める。

 すでに米翁の死に際して、「聰き人も耳なし山や呼子鳥」という追悼句があり、さらに三周忌に、

「高宗が三年ははやし桃李」と詠む。

ここには二段階の追悼がある。

最初は「死そのもの」に対する哀悼である。
 三年後には、その死を契機として、米翁から自分へ伝わったものを振り返る追悼となっている。
 したがって、この三周忌句は、死者を振り返る句であると同時に、死者から受け継いだ自分自身を確認する句なのである。

五 「第二 かぢのおと」に置かれた意味

この二句が『屠龍之技』の「第二 かぢのおと」に置かれていることも見逃せない。
「かぢのおと」という題そのものを考えれば、そこには鍛冶場の音、金属を打つ音、あるいは制作の響きのようなものが感じられる。

「かぢ」は火と鉄を扱う場所である。そこでは、素材がそのまま完成品になるのではない。火にかけ、打ち、鍛えることによって形を得る。

これを抱一の俳諧に重ねてみれば、「米翁から受けたものを、抱一自身が打ち鍛えて、自分

の俳諧として形にしてゆく」という象徴的な読みも成立する。つまり「かぢのおと」の中に置かれた米翁追悼は、師を悼むこと=師から受けたものを、自分の手でさらに鍛えることなのである。

その意味で「高宗が三年ははやし桃李」は、追悼句でありながら、抱一自身の俳諧的自立を告げる一句とも読める。

六 「松山の花のけむりや春の雨」――第二句は、第一句の思想を景色にする

第一句が典故と時間の句であるなら、第二句は一転して景色の句となる。

松山の花のけむりや春の雨

ここでは「高宗」も「三年」も消える。

かわって、

松山――花――けむり――春の雨

という、淡い景が現れる。

「松山」は、松の生える山、あるいは松の多い山を指す景である。「花」は春の花、とりわけ花見の対象となる桜を想起させる季語である。そして「春の雨」も春の季語である。
したがって、この句は春の雨のなかに花の咲く松山を眺める景である。
 しかし、普通の花見の明るさはない。

花のけむり

という表現があるからである。

雨に煙る山、花に霞む山、あるいは花が遠く白く煙るように見える景。

「花」と「雨」との間に「けむり」が介在することで、景色そのものがぼやける。ここに追悼の心が入り込む。

人の姿はない。
声もない。
ただ、花が煙り、春の雨が降る。

この「見えにくさ」こそ、死者を偲ぶ視線なのである。


七 「花のけむり」――死者を直接描かない追悼

この第二句の美しさは、米翁を一語も直接詠んでいないところにある。

「米翁」と言わない。「亡き人」とも言わない。「涙」とも言わない。

ただ、

松山の花のけむりや春の雨

とする。

ところが、前書があるため、この景色が単なる春景色ではなくなる。読者はすでに、

「米翁老君の三周忌に」と知らされている。

だから「花のけむり」は、次第に米翁の面影を包むものとなる。

雨は悲しみそのものではない。
花も悲しみそのものではない。
しかし、花が雨に煙ることで、見えるものと見えないものとの境界が曖昧になる。
その曖昧さの中に、亡き米翁がいる。

これは日本的な追悼の美学である。

死者を強く描き出すのではなく、自然のなかへ溶かしてしまう。
「花のけむり」は、いわば米翁の不在を自然景として可視化したものなのである。


八 第一句と第二句――「典故」と「景」、そして「記憶」と「自然」

二句を並べると、その構造が極めて明瞭になる。

高宗が三年ははやし桃李

こちらには、漢籍、故事、三年の喪、桃李という古典的語彙がある。

一方、

松山の花のけむりや春の雨

こちらには、山、花、雨、煙という日本的な自然景がある。

つまり第一句は記憶の句、第二句は景の句である。
第一句では、米翁との三年間を古典の時間へ置き換える。
第二句では、米翁の不在を春の自然へ溶かす。
 そして、この二つを結んでいるのが「前書」である。

「米翁老君の三周忌に」という一行によって、

歴史的時間――個人的記憶――春の自然が一つの小さな世界を形成する。

この構造こそ、この二句の格調である。


九 江戸座という「座」の記憶

そして、ここから「江戸座」の問題が出てくる。

米翁は、江戸の上流武家社会に形成された俳諧の文化圏と深く関わり、その俳諧活動は抱一の俳諧形成を考えるうえでも重要である。抱一自身、米翁との間で盛んに連句・点取り・歌仙などを行っていたことが指摘されている。

この世界を、単純な「師匠―弟子」という直線で見るだけでは足りない。

そこには、

芭蕉 → 其角・嵐雪 → 江戸座の諸俳人 → 巴人・存義ら → 米翁・晩得 → 抱一

という、江戸俳諧の人的・文芸的ネットワークが重なっている。

もちろん、この系譜は一筋の血統図ではない。

むしろ、句会、連句、点取り、紹介、交友、書画、文雅の交流などによって形成された文化的な座の連鎖として見るべきである。

その意味で「桃李」という語は実に象徴的である。

桃李は花木である。

しかし同時に、師のもとから育ってゆく人々を意味する。

したがって、

三年ははやし桃李

という一句には、

「三年という歳月が早く過ぎた」

という追悼の意味だけではなく、

「米翁の桃李として、自分もまたこの俳諧の世界に生きている」

という、抱一自身の自己認識まで響いているのである。


十 「桃李」は米翁の死後にも咲き続ける

ここで、この句の「はやし」をもう一度見る必要がある。

「三年は早し」と言うと、普通なら、悲しみの時間が早く過ぎたことを嘆く句になる。

しかし「桃李」が続く。

すると、

「三年は早く過ぎた。しかし、桃李はなお咲いている」

という構図が浮かび上がる。

これは重要である。

人は死ぬ。

しかし、師の残した句、教え、交友、座、趣味、文雅は、その死によって直ちに消えるわけではない。

むしろ弟子たちの中で生き続ける。

米翁が死んでも、米翁の「桃李」は残る。

そしてその桃李の一つとして、抱一自身がいる。
そう考えると、この一句は、実は「死」を詠みながら、最後には継承の生命を詠んでいる。
そこに、この句の静かな強さがある。


十一 抱一にとって「米翁」は、絵画だけではなく「文雅の世界」そのものであった

ここで、今回の水墨画との関係が極めて重要になる。

伊信すなわち米翁の「海棠小禽図」を見ると、花、鳥、岩、枝、そして大きく残された余白が一つの静かな世界を構成している。

抱一がこの世界を受け継ぐとき、単純に同じ絵を描くのではない。

師の絵を見て、師の俳諧を知り、師の交友を知り、師の「座」を知る。

そして、その全体を自分の「美」の世界へ移し替える。

ここに、伊信から抱一への継承を見ることができる。

だから今回の水墨画風の再構成においても、華麗な彩色より、むしろ墨の濃淡、余白、花枝の静かな伸び、雨に煙る空間が重要になる。

それは、第二句の、

花のけむりや春の雨

そのものだからである。

画面に人物を描かない。

米翁の肖像も描かない。

ただ花と雨と岩と鳥を置く。

その「不在」の中に米翁を感じさせる。

これは、抱一の追悼句の構造とよく響き合う。


十二 結び――「米翁老君の三周忌に」は、師の死ではなく「師の後」を詠んだ前書である

 この二句を総合して考えるなら、私は「米翁老君の三周忌に」という前書を、単なる追悼の標題として読むべきではないと思う。
 それはむしろ、抱一が自分の俳諧的出生を振り返るための一行なのである。

「米翁」。
そこには柳沢信鴻という人物がいる。
「老君」。
そこには、自分より先に江戸の文雅を生きた先達への敬意がある。

「三周忌」。
そこには、人間の死と時間の流れがある。

そして、

高宗が三年ははやし桃李

によって、その三年が中国古典の「三年の喪」へ接続される。

「桃李」は春の花木であると同時に、師の門から育つ人々を思わせる。

さらに、

松山の花のけむりや春の雨

によって、古典の時間は現実の春景へと戻ってくる。

こうして見ると、二句は、

古典 → 米翁 → 江戸座 → 抱一 → 春の花

という大きな循環を描いているのである。

それは、いわば一枚の水墨画に似ている。

濃い墨で描かれた岩が「米翁」であるなら、そこから伸びる枝が「江戸座」の伝承であり、その枝先に咲く花が「抱一」である。そして春雨によって全体が少し煙っている。

しかし、煙っているからこそ、枝は遠くまで続いて見える。

死者は見えない。しかし、その人から伸びた枝は見える。

「高宗が三年ははやし桃李」は、その枝を古典の言葉によって確認した一句であり、「松山の花のけむりや春の雨」は、その枝を自然の景として静かに鎮める一句である。

したがって、この「かぢのおと」の二句は、単なる米翁への三周忌追悼ではない。

それは、抱一が米翁という「老君」の死を契機として、自らがどこから来た俳人なのかを確かめる、ひそかな系譜論である。

そして「桃李」と「花のけむり」の間に立つ抱一自身が、まさにその系譜の「一花」なのである。

米翁は去った。
三年は過ぎた。

されど、

桃李
は、なお咲いている。

この一句の「はやし」は、悲しみの言葉であると同時に、継承された俳諧の生命が、時間よりも長く残ることを知った者の言葉なのである。

その意味で、この二句は「米翁の死」を詠んだものではなく、むしろ**「米翁の後」を生きる抱一の、静かな自画像**と呼んでもよいのである。


🟩📘  柳沢信鴻と酒井抱一

柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)と酒井抱一(さかい ほういつ)は、江戸時代後期(18世紀後半から19世紀初頭)の江戸における文化的ネットワーク(サロン)で深く結びついていた代表的な大名・風流人である。

年齢は柳沢信鴻(1731年–1792年)の方が30歳年上であるが、2人は当時の吉原、芝居、俳諧、茶道、美術といった「粋(いき)」な文化を共有する年の離れた風流仲間(サロンの交友関係)であった。

二人の基本プロフィール

柳沢信鴻1731–1792大和郡山藩(奈良県)の第2代藩主。のちに隠居。米翁(べいおう)紫子庵(ししあん)浮世絵(勝川春章など)の大パトロン。日記『宴遊日記』に江戸の遊びを詳細に記録。

酒井抱一1761–1828姫路藩(兵庫県)藩主の世嗣の弟。のちに出家。屠龍(とりゅう)雨華庵(うげあん)江戸琳派の祖となる高名な絵師。同時に、優れた俳人・江戸随一の粋人。

柳沢信鴻と酒井抱一の具体的なつながり

一  俳諧と茶道を中心とする大名サロン酒井抱一の兄である姫路藩主・酒井忠以(ただざね)は、茶人や風流人として非常に有名でした。柳沢信鴻(米翁)はこの酒井忠以やその弟である抱一、さらに松平不昧の弟らと大名・名門層の垣根を越えた文芸サロンを形成していた。抱一は彼らとともに俳諧(俳句)の連歌の席を共にし、信鴻の隠居後の別号「米翁」にちなんだグループや、馬場存義らの俳諧ネットワークで日常的に交流していた。

二  吉原や芝居、江戸の「粋」の共有柳沢信鴻は隠居後、江戸の町を自由に歩き回り、吉原の遊郭や歌舞伎の芝居見物、流行の飲食店に通い詰めた。一方の酒井抱一も、武士の身分に縛られるのを嫌って吉原に深く出入りし、山東京伝などの町人文化人と遊び尽くしたトップクラスの粋人である。

新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-31)」
  鏘々錚 金鐵皆鳴
2-31 はつ秋や嗽(うがい)茶碗にかねの音

「柳花画帖」その一.jpg

「柳花帖/作家酒井抱一/制作年1819年/材質、技法(形状)紙本着色/作品寸 (縦、cm)33/作品寸法 (横、cm)23.5/作品識別番号Ⅴ-39-37 (「姫路市立美術館」)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=3947

鏘々錚 金鐵皆鳴
2-31 はつ秋や嗽(うがい)茶碗にかねの音

🟩 掲句の周辺

 前書の、「『鏘々錚(しょうしょうそう) 金鐵皆鳴(きんてつみななる)』は、金属(刀剣や鎧など)が激しく打ち合わさり、ガチャガチャと鋭い音を立てて鳴り響く様子を表現した漢文・漢詩の描写。」(📘「ネット「ウイキペディア・ことば」など。)
 掲句の「嗽(うがい)茶碗」については、上記の「柳花帖(右図」に描かれている「楽茶碗」のようで、その「楽茶碗」には、「柳花帖」は「房楊枝((ふさようじ=歯ブラシ))図で、これは、「お歯黒(鉄漿)の儀礼や身支度において使われるのは、口をゆすぐための「うがい茶碗(うがいわん)」や、液体を合わせるための「鉄漿椀(かねつけわん・潼子)」などです。楽茶碗(特に黒楽茶碗)そのものは、本来は抹茶を点てるための茶道具ですが、その深い黒色の質感や手捏ねの温かみから、お歯黒道具一式に添えるうがい用・調合用の器や、見立ての道具として語られることがあります。」(📘「AIモード」)と解して差し支えなかろう。

 ここで、掲出の句の、季語は、「はつ秋」(初秋=(8月上旬〜9月上旬頃の季語=立秋を迎えて厳しい残暑が残る中にも、ふと秋の気配や涼しさを感じる用例)、句意は、前書の「『鏘々錚(しょうしょうそう) 金鐵皆鳴(きんてつみななる)』」との一句と解すると、「女性たちの、朝化粧の『お歯黒道具』の『嗽(うがい)茶碗』の音が、まるで、『初秋』を告げる『鐘の音』のように聞こえてくる。」

🟩🌄 俳論風の鑑賞

 「鏘々錚、金鐵皆鳴」という前書は、もともと金属と金属とが触れ合う、硬質で激しい音響を想像させる。それを受けて抱一は、「はつ秋や」と季節を置き、さらに「嗽茶碗」という、極めて小さく私的な器物へと視線を縮めてゆく。「金鐵皆鳴」の大音響が、ここでは一転して「かねの音」となるのである。この「かね」は、もちろん「金属」の響きを残しながら、同時に「鐘」を思わせる。つまり、漢文の世界にあった金属音が、初秋の鐘の音へと変換されている。

 しかも、その鐘を鳴らしているのは寺でも神社でもない。「嗽茶碗」である。朝の身支度の場に置かれた小さな器が、女たちの身支度の動きのなかで触れ合い、かすかな音を立てる。その音を抱一は「かねの音」と聴いた。ここに、この句の非常に面白いところがある。大きな音を小さな音にしたのではなく、小さな音のなかに大きな音を聴いているのである。

 そして、この「嗽茶碗」を吉原という場所に置いてみると、句の世界はいっそう奥行きを持ってくる。抱一にとって吉原は、単なる遊興の場所ではなく、女たちの身支度、化粧、衣裳、器物、灯火、音曲といった、江戸の「粋」が凝縮された一つの美的空間であった。これまで見てきた「花街」の句にも、抱一がこの世界を、露骨な遊興としてではなく、日常の細部に宿る美として捉えていることがうかがえる。

 その意味で、「嗽茶碗」は単なる小道具ではない。それは吉原という「美の空間」を成立させている、ほとんど見過ごされるほど小さな生活の道具である。抱一はそこに耳を澄ます。そして「はつ秋や」と季節を重ねることで、吉原の女たちの朝の身支度という「褻(け)」の時間に、初秋という「季」の時間を響かせるのである。

 ここには、抱一の俳諧と絵画とをつなぐものがある。大きな景物を描くのではなく、小さな器物に世界を宿すという美意識である。絵画でいえば、器そのものを精密に描くことよりも、その器に触れる手、その周囲の空気、そこから発するかすかな音までを含めて、一つの情景として捉える感覚である。

 さらに興味深いのは、「金鐵皆鳴」という硬質な漢文世界と、「嗽茶碗」という柔らかな生活世界との落差である。武家・漢学的な教養を背後に持つ抱一が、それをそのまま漢詩的世界に留めず、吉原の女たちの朝の生活へと持ち込む。そこでは「金鐵」の音が「かねの音」になり、「かね」はさらに「鐘の音」へと転じ、「初秋」を告げる。この漢文的教養→江戸の生活→吉原の美意識→季節の感覚という変換こそ、この一句の俳諧性である。


「酒井抱一と吉原」をめぐる総括

 したがって、この句を「酒井抱一と吉原との交流」という視点から読むなら、吉原は抱一にとって、単なる遊里ではなく、江戸の生活文化そのものが一つの美術作品のように立ち現れる場所だった、と考えてよいのではないか。そこでは、お歯黒の道具も、嗽茶碗も、柳も、青柳も、松も、女文字も、そして何気なく触れ合う器の音までもが、俳諧と絵画の対象となる。

 そして抱一は、「大名家の酒井忠因」から「抱一堂屠龍」「雨華庵の抱一」へと自己の生を転じてゆく過程で、まさにこのような小さなものの中に江戸の美を発見する眼を獲得したのではないだろうか。

 「鏘々錚、金鐵皆鳴」という巨大な漢文的世界を、吉原の一碗の「かねの音」にまで縮めてしまう。その縮小によって、かえって世界が広がる。ここにあるのは、武家の「晴レ」の世界から市井の「褻」の世界へ降りてきた抱一が、最後にはその「褻」のなかにこそ美の本体を見出してゆく姿である。

 「はつ秋や嗽茶碗にかねの音」は、吉原の華やかさを詠んだ句というより、華やかな世界を支えている、ごく小さな生活の音を「季節の音」にまで昇華した句なのである。
この一句によって、抱一と吉原との関係は、「遊里との交遊」という外面的な関係から、「江戸の褻の美を共有した者」という、より深い美意識の関係へと読み替えることができるように思われる。

 これが、ある時の、ある一瞬で、次のようにも変身するのである。

📘 「鏘々錚 金鐵皆鳴  2-31 はつ秋や嗽(うがい)茶碗にかねの音」

 鏘々錚 金鐵皆鳴
2-31 はつ秋や嗽(うがい)茶碗にかねの音

 この2つの文脈を繋ぐキーワードは、金属が発する澄んだ響きを表す「かねの音(かねのね・きんのおと)」です。それぞれの出典と意味、そして両者の美しいつながりについて解説します。

1. 漢文:『和漢朗詠集』より前半のフレーズは、平安時代の歌集『和漢朗詠集』(下巻・金鉄)などに収められている漢詩の一節、またはそれを踏まえた表現です。白文: 鏘々錚々 金鐵皆鳴(しょうしょうそうそう きんてつみななる)

意味: チャリン、ジャランと、すべての金属(鐘や鈴、武具など)が清々しく鳴り響いている様子。「鏘々(しょうしょう)」「錚々(そうそう)」は、いずれも硬い金属や玉が美しく触れ合って響く音(擬音語)を表しています。

2. 俳句:小林一茶の句「2-31」という番号は、特定の俳句集(岩波文庫の『一茶俳句集』など)の通し番号と思われます。
句: はつ秋や 嗽(うがい)茶碗に かねの音(小林一茶)季語: はつ秋(初秋・秋)意味: 清々しい初秋の朝。朝起きて口をすすごうと、手にした(または水を入れた)嗽茶碗(うがいぢゃわん)に、遠くの寺の鐘の音(あるいは、茶碗そのものが触れ合って立てた金属的なかすかな音)がチーンと響いて聞こえてくることよ。2つの表現のつながり漢文の「鏘々錚々」という表現は、非常に格調高く、賑やかで硬質な金属の響きを表しています。

 一方で一茶の俳句は、日常の「うがい」という極めて身近な生活のひとコマに、秋の訪れを告げる澄んだ「かねの音」を響かせています。一茶は古典的な漢文の教養(金鉄皆鳴)を背景に持ちながら、それを日常のささやかな風景に落とし込み、「秋の朝の空気の冷たさと、そこに響く音の透明感」を五感に訴える形で表現したと言えます。

「大文字屋市兵衛図.jpg

🟩「大文字屋市兵衛図(酒井抱一画)」(板橋区立美術館)

『 「おどけた表情がユニークなこの小柄な男は、吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛、かぼちゃに似た市兵衛の顔立ちは宝暦のころざれ歌になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元就)や、その子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、くだけた姿の初代の肖像も、そのゆかりで描いたものだろう。八尾善旧蔵。(図録99解説「岡野智子」) 」
 「 (前略) 市兵衛が歌い踊る酔狂な姿は白隠画にもあるが(永青文庫蔵)、本図は大田南畝の『仮名世説』や『耽奇漫録』に見出せる西村重長原画の大文字屋かぼちゃ像をほぼ踏襲している。賛はそのざれ歌の歌詞。署名「郭遊抱一戯墨」「文詮」(朱文円印)。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元就)や、その子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、二代目市兵衛の千束の別宅に千蔭(注=加藤(橘)千蔭=国文学者・歌人・書家)と遊び、庭内の人丸堂で人麿影供を行うなど、吉原を離れての私的な集まりも参じていたとう指摘がある。もとより大文字屋は小鸞(注=小鶯は「小鸞(しょうらん)」とも名乗り、抱一が描いた絵に書や漢詩の賛を添えるなど、風流な絆で結ばれていた。代表作とされる細見美術館蔵の《紅梅図》などは、抱一が画を描き、小鶯(小鸞)が賛を寄せた合作品として知られている=酒井抱一が四十八歳の頃に身請けし、のちに根岸(鶯の里)で共に暮らした吉原の遊女で後に、その伴侶となる「小鶯(のちの小鸞)」)を身請けした妓楼であり、抱一のパトロン的存在でもあった。長年にわたる交流により抱一と大文字屋を結ぶ作品が遺され、吉原通の抱一の姿を伝えている。
(賛)
十三てうちん
の花むらさきの
ひも付て
 かさりし
玉やの女らう衆かこひの
 すこもりおんな
つるのまるよいわんな よいわんな
 其名を
   市兵へと
      申します」(作品解説99解説「岡野智子」) 」』(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』) 

 これらに関する、「江戸文化(吉原文化)の中の酒井抱一」に関連しては、下記のアドレスなどで主要なテーマとして触れてきた。

https://yahan.seesaa.net/article/2018-08-28.html

https://yahan.seesaa.net/article/2018-09-01.html

https://yahan.seesaa.net/article/2018-09-03.html

https://yahan.seesaa.net/article/2019-03-23.html

https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

 ここては、この末尾のアドレスの「江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など」の、「抱一・小鶯(小鸞)そして鈴其一」との三者の関係のことなどを抜粋として再掲して置きたい。

https://yahan.seesaa.net/article/2018-08-28.html

https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

「その十一 江戸の粋人・抱一の描く「その一・吉原月次風俗図(元旦)」など」(抜粋その一) (抜粋その一)
https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 九㈣・二×二六・二㎝
細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都 
一尺楊枝 
只北廓女 
朝々玩之

長房の 
よふし涼しや 
合歓花
       抱一題「文詮」(朱文瓢印)  】  
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

 上記の解説文で、上のものは「簡にして要を得る」の典型的なもので、これだけでは、何とも「謎」の多い「文読む遊女図」のものとしては、やや不親切の誹りを受けるのかも知れない。
 ということで、下のものは、その「謎」解きの一つの、「房楊枝(歯ブラシ)」が「合歓の花」の比喩(別なものに見立てる)であることについて触れている点は、親切なのだが、しかし、その後の、「朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である」となると、やや、説明不足の印象が拭えない。

昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎・『万葉集・巻八(一四六一)』)

 この万葉集の「紀女郎」の歌の「君」は、「紀女郎」自身であり、「戯奴(わけ・たわむれやっこ)は、年下の恋人の大伴家持である。

 これに対して、家持の返歌は次のとおり。

 我妹子(わぎもこ)が形見の合歓は花のみに咲きてけだしく実にならじかも (大伴家持
『万葉集』巻八・一四八三) 

 冒頭の「文読む遊女図」(其一筆・抱一賛)には、この『万葉集』の相聞歌などが背景にあり、「君=紀郎女=遊女香川=小鸞女史(抱一夫人=妙華尼)」と「戯奴=大伴家持=抱一(雨華庵)」とを、その走り使いの其一が、一幅ものにしたような、そんな雰囲気を漂わせている。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉

 芭蕉の、この『おくのほそ道』での句は、蘇東坡の詩句を受けてのもので、上記の『万葉集』の相聞歌とは関係がないが、抱一に見受けされて、終の棲家の「雨華庵」で、晩年の抱一を支え続けた小鸞女史のイメージは、花魁香川というイメージよりも、控え目な西施風のイメージが強いであろう。

 抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、其一は、寛政八年(一七九六)の生まれ、両者の年齢差は、三十五歳と、親子ほどの開きがある。抱一が、新吉原大文字屋花魁・香川を、見受けして、表向きは御付女中・春條(はるえ)とし、「雨華庵」で同棲を始めたのは、文化八年(一八〇九)、其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)の頃である。
 文化八年(一八〇九)の、抱一の内弟子になる以前の其一は、おそらく、抱一の中小姓として仕えていた鈴木蠣潭の下で、抱一の小間使いのようなこともしていたように思われる。
 すなわち、冒頭の「文読む遊女図」の遊女は、其一が知っている遊女図というよりも、主君のような存在の抱一と、その御付女中・春條として迎え入れられた「遊女(花魁)・香川」図のように理解して来ると、この「文読む遊女図」(其一筆)の、抱一の賛(漢詩と発句)が、始めて、その正体を現してくるような感じなのである。
 それらのことを念頭にして、抱一の賛(漢詩と発句)を読み解くと、次のようになる。

 無有三都  (三都に有や無しや)
 一尺楊枝  (見よ この一尺の歯楊枝を 即ち この一尺の合歓の花を)
 只北廓女  (只に 北に咲く合歓の花 即ち 只に 新吉原の廓女を)
 朝々玩之  (朝々に これを愛ずり 朝々に これと交歓す)

 長房の    (長い房の その歯楊枝の如き)
 よふし涼しや (夜を臥して涼やかに そは夜を共寝して涼やかに)
 合歓花    (合歓の花 そは西施なる妙なる花ぞ)

 其一が生まれた寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時に、「俳諧撰集『江戸続八百韻』を世に出し、其角・存義に連なる江戸座の俳諧宗匠の一人として名をとどめ、爾来、抱一は、その俳諧の道と縁を切ってはいない。
 その俳風は、芭蕉門の最右翼の高弟、宝井其角流の、洒落俳諧・比喩(見立て)俳諧の世界で、その元祖の芭蕉俳諧(「不易流行」の「不易」に重きを置く)とは一線を画している。

  象潟や雨に西施がねむの花  芭蕉
  長房のよふし涼しや合歓花  抱一

 芭蕉の句の、この「西施」なる字句の背景に、蘇東坡の漢詩が蠢いているが、それが、この句の眼目ではなく、歌枕の「象潟」を目の当たりにして、その「象潟」の、永遠なるもの(流行に根ざす不易なるもの)への「感慨・憧憬」と、その地霊的なものへの「挨拶」が、
この芭蕉の句の眼目となってくる。
 それに比して、抱一の句は、「長房の」の「長房」(「長い房」と「長い歯楊枝」との掛け)、「よふし涼しや」の「よふし(「夜臥す」と「夜閉じる」との掛け)の、「洒落・見立ての面白さ」が、この句の眼目になっている。そして、それは、下五の「合歓の花」に掛かり、全体として、「合歓の花」を見ての、刹那的(不易なるものより一瞬に流れ行くもの)な「感慨・憧憬」を、言霊(ことだま)的な「挨拶」となって、一種の謎句的なイメージが、この抱一の句の眼目となってくる。
 
  雨の日やまだきにくれてねむの花  蕪村

 蕪村も、抱一と同じく、其角・巴人の「江戸座」の「洒落・比喩俳諧」の流れに位する俳人の一人である。しかし、抱一と違って、「其角好き」の一方、無類の「芭蕉俳諧の信奉者」なのである。
 この蕪村の句も、「まだきくれて」(まだ時間でもないのに日が暮(昏)れる)というところに、其角・抱一と同じように、掛け言葉の比喩俳諧的な世界に根ざしている。この句は、「虎雄子が世を早うせしをいたむ」との前書きがあって、芦陰社中の俳人虎雄への悼句なのである。すなわち、「若くして夭逝した俳友」を、この眼前の「雨の日のまだきにくれゆく合歓の花」に見立てているということになる。


 翻って、抱一と小鶯女史とが、下谷根岸大塚村の鶯の里に定住したのは、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳、そして、小鶯女史は、「年明き」「身請け」などを考慮して、二十七・八歳の頃と推定される。
 それから八年後の文化十四年(一八一七)に、その鶯の里の庵居に「雨華庵」の額を掲げ、抱一は、以来「雨華」の号を多用するようになる。そして、この年、小鶯女史は剃髪して「妙華尼」を名乗るようになる(「等覚院御一代」)。
 そして、上記に紹介した、抱一の吉原に関する俳画集『柳花帖』が制作されたのは、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳の頃である。
 ここで、特記したいことは、この吉原に関する抱一の俳画集『柳花帖』では、吉原の代名詞とも言うべき遊女などの人物像は一切排除されて、上記に再掲した画題の通り、「月に白梅・白椿・桜・蓮華・柳・朝顔・梨・露草・菊・葵・芥子・女郎花・初茸に茄子・紅葉・松・雪竹・八頭・水仙・燕子花・萩・合歓木」「ほととぎす・蝙蝠・水鶏・蝶・落雁・初雁・鶯」などの、抱一絵画特有の「花鳥画」の、さながら、俳画集「絵手鑑」の趣を呈しているということである。
 この俳画集『柳花帖』を基礎にして、冒頭に紹介した「吉原月次風俗図」(十二幅・旧六曲一双押絵貼屏風)、そして、その「吉原月次風俗図」を図巻にしたような「花街柳巷図巻」は制作されたものと思われ、これら抱一の「吉原三部作」は、文政二年(一八一九)を前後にしての、同一時期の制作のように思われる。
 ここで、これらの抱一の「吉原三部作」(『花柳帖』「吉原月次風俗図」「花街柳巷図巻」)に、遊女類の人物像が排除されていることについて、「抱一が美人画の画家でなかったのも一因」(「抱一筆『吉原月次風俗図』の背景(井田太郎稿)」)との見方もあるが、これは、吉原の遊女出身の、今は剃髪して「妙華尼」を名乗っている小鶯女史への、抱一流の情愛の細やかな配慮が、その背景にあるように解したい。
 そして、この細やかな配慮こそ、「江戸の粋人」の「粋(すい)」に通ずるもののように解したい。ちなみに、この「粋(すい)」について、「水は方円の器に従う。(中略)『粋』に『いき』の訓はない。(中略)江戸初期には『水』『推』『帥』などと、いろいろな文字が宛て字として用いられた。なかでも『水』が最も多い。(中略)遊興生活を営む上において、見事な平衡感覚を備えた人の意である。そういう人は当然、他人の志向をよく推量するから『推』、そして、そのような人は自然と重んじられて一軍の将帥となるから『帥』であり、(中略)まじりけのない『純粋』な、良質の『精粋』な人の意」(『江戸文化評判記(中野三敏著)』)と喝破した見方を是としたい。

🟩 (抜粋その二)
https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

「酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)」
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯

🟩34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛) / 落雁図     いまおりる雁は小梅か柳しま

35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」

🟩※50 合歓木図    長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)

51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」


🟩 (抜粋その三)『柳花帖』(酒井抱一「自跋」)
https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

 酒井抱一には、文政二年(一八一九)、五十九歳時の自跋がある「吉原」(新吉原)に関する「俳画集」とも言うべき『柳花帖』(全一冊・五十六丁・五十六図・五十五発句)がある。その跋文は次のとおりである。

【 夜毎郭楼に遊ひし咎か 予にこの双帋へ画かきてよ とのもとめにまかせ やむなくも酒に興して ついに筆とり初ぬ つたなき反古を跡にのこすも憂しと乞ひしに うけかひなくやむなくも 恥ちなから乞ひにまかせ ついに五十有餘の帋筆をつゐやしぬ ときに文政卯としはるの末へにそありける 雨花抱一演「文詮」(朱文重郭方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この『柳花帖』には、「箱書」があり、そこには、次のように記載されている。

【 抱一上人筆句集
屠龍の技
  天保丁酉初春日 可保茶宗園題画 「大文字や」(朱文方印)  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「抱一の内なる世界 姫路市立美術館蔵 酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳花帖』をめぐって:岡野智子稿」)

 この箱書きをした「可保茶宗園」は、吉原大文字屋三世南瓜宗園で、宗園は抱一に絵のてほどきを受けていたという(俳諧・狂歌なども手ほどきを受けていたと思われる)。そして、抱一が若い時から親交が厚かったのは、二世可保茶元成で、その元成ために戯画したとも伝えられている初代「大文字屋市兵衛図」については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.seesaa.net/article/2018-09-03.html


🟩 (抜粋その四)「酒井抱一筆『吉原月次風俗図』その一(正月「元旦」)」
https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

吉原・元旦.jpg
酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他

【 もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)


🟩 (抜粋その五)「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」
https://yahan.seesaa.net/article/2019-04-12.html

花柳図巻元旦.jpg
「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」

(追記二)「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」と「東山清音・江天暮雪(大雅画)」そして「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」

東山清音9 (2).png
「東山清音・江天暮雪図(大雅画)」

 この大雅の「江天暮雪図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

 そこで、『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」の、下記の鑑賞文を紹介した。

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 この鑑賞文ですると、上記の「吉原月次風俗図のうち元旦図(抱一画)」・「花街柳巷図巻のうち元旦図(抱一画)」の、その「屋根・屋根」の上とその下の刷毛のような線は、「たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせた」という表現となって来よう。そして、「水墨を含んだ太めの筆」の運びが、先に紹介した、「銀世界東十二景 新吉原雪の朝(広重画)」を連想させるのである。

雪の吉原.jpg

広重筆「銀世界東十二景 新吉原雪の朝」(国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail275.html?keywords=snow


🟩 (抜粋その六) 「酒井抱一筆『紅梅図』(小鸞女史賛)」
https://yahan.seesaa.net/article/2018-09-01.html

紅梅図.jpg
酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝

【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)  】


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-32・33)」
    榎嶋辨才天法楽
2-32 名月に松明もたのまぬ岩窟かな
2-33 沓音にくれたのもしき紅葉かな

「榎嶋辨才天法楽」二句.jpg

酒井抱一「榎嶋辨才天法楽」二句の鑑賞
『屠龍之技』第二「かぢのおと」の2-32・33。

 この二句は、これまでの「春眠」「花街」「後朝」「はつ秋や嗽茶碗にかねの音」と続いてきた抱一の世界に、また一つ、重要な場所が現れる。榎嶋辨才天という信仰の場を、月光と紅葉、そして岩窟と沓音によって捉えた二句である。

 前句が「名月」の静謐、後句が「紅葉」の聴覚的な風景を開く。そこには、吉原の遊興空間とは異なる、江の島の聖域における抱一の姿がある。

一、榎嶋辨才天法楽

前書の意味

 「榎嶋」は江の島、「辨才天」は弁才天、すなわち弁財天である。江の島の弁才天信仰は、音楽・芸能・弁舌などと結びつく神仏への信仰として知られる。

 「法楽」は、仏前に読経・奉納などを行い、神仏を楽しませ、また自らもその功徳に浴することをいう。俳句の前書としては、単なる吟行地の表示ではなく、弁才天に奉納する、あるいはその霊前に捧げる句という性格を帯びる。

 したがって、この二句を読むとき、江の島の風景は単なる観光地の景色ではない。月明かりの岩窟も、紅葉の山道も、神仏の領域における自然の姿として見えてくる。

 「法楽」という語が、二句を一つの精神的な場に置いているのである。

二、名月に松明もたのまぬ岩窟かな

語釈

「名月」は、陰暦八月十五夜の月。秋の季語である。

「松明」は、たいまつ。夜道や暗い場所を照らすための火である。

「たのまぬ」は「頼まぬ」。ここでは、松明の明かりを必要としない、松明を頼りにしないという意。

「岩窟」は、岩の洞窟。江の島の岩屋を思わせる語である。

「かな」は詠嘆の切字。岩窟を見出した驚き、感慨がそこに凝縮する。

季語

「名月」――秋・仲秋。

句意

 名月の明るい夜には、松明などを頼りにする必要もない岩窟であることよ。

鑑賞(視点)

 この句の面白さは、月を直接に描写していないことである。

「名月に」と、月を一句の冒頭に置きながら、句の中心となるのは「岩窟」である。月光の美しさを讃えるのではなく、その月光によって照らされる場所の性質を詠んでいる。

 普通、岩窟といえば暗い。洞窟といえば松明を必要とする。ところが抱一は、「名月に松明もたのまぬ」と言う。月があまりにも明るいから、岩窟に入っても松明を必要としないというのである。

 ここには、月光を光源として描くのではなく、月光のもたらす安心感、あるいは月光の支配する空間を描く視点がある。

「名月に」と「松明もたのまぬ」が呼応し、月の光が岩窟の暗さを凌駕する。しかも、岩窟という自然の内部にまで月光が届いているような感覚を生む。

 しかし、ここで大切なのは、単なる写実的な明るさの問題ではない。

「松明もたのまぬ」という言い方には、岩窟の中に入る人間の姿が見える。松明を持つ必要がない。自分の足で歩く。月明かりに身を委ねる。

 そのとき、岩窟は単なる洞窟ではなく、神仏の霊場となる。

 弁才天の法楽という前書を重ねれば、月光は自然の光であると同時に、霊場を包む光でもある。岩窟の暗さは、月によって消されるのではなく、月光のなかに置かれる。

 この句の「かな」は、明るい岩窟に対する感嘆であるとともに、月光に包まれた霊場への感慨でもある。

三、沓音にくれたのもしき紅葉かな

語釈

 「沓音」は、沓の音。沓は木沓・木の履物などを指す語で、ここでは石段や山道を歩く足音を思わせる。

 「くれたのもしき」は、「暮れたのもしき」と読むのが自然である。日が暮れて、あたりが暗くなったことが、かえって趣深い、心惹かれるという意。

 「紅葉」は秋の季語。木々の葉が紅や黄に色づくこと、またその葉そのものをいう。

 「かな」は詠嘆。

季語

 「紅葉」――秋・晩秋。

句意

 沓音が響く、日暮れの道に、紅葉がなんとも趣深く見えてくることよ。

鑑賞(視点)

 この句では、「紅葉」を見る視線が、耳へと移っている。

紅葉といえば、まず目で見るものだろう。赤く色づいた木々、黄色い葉、山の彩り。しかし抱一は、その紅葉を「沓音」によって捉える。

 「沓音に」と、句の冒頭に音を置く。

その音は、石段を歩く足音であろう。江の島の参詣道、岩屋へ向かう道、あるいは社寺の境内。日暮れの山道に、人の歩く音が響く。

そして、その音を聞いているうちに、紅葉が見えてくる。

ここには、視覚から聴覚へ、聴覚から視覚へという、抱一らしい感覚の転換がある。

 「くれたのもしき」という語も重要である。

 日が暮れて暗くなったことは、通常ならば寂しさや不便を伴う。しかしこの句では、暮れたことが「のもしき」、すなわち趣深い、心惹かれるものとなる。

 明るい昼間の紅葉ではなく、日暮れの紅葉である。光が弱まり、色彩が沈み、木々の輪郭が暗がりに溶けていく。そのなかに、沓音だけが響く。

 このとき、紅葉は単なる色彩ではなく、日暮れの気配を帯びた存在になる。

「沓音にくれたのもしき」という表現には、歩く人間の存在がある。しかし、人物そのものは描かれない。残るのは沓音だけである。

 そこに抱一の俳画的な視点がある。

 絵画でいえば、紅葉を描き、そこに人物を描くのではなく、紅葉の山道に一つの足音を置く。音を描くことによって、人物と空間を同時に立ち上げる。

 その音は、紅葉の美しさを説明するものではない。むしろ、紅葉の美しさを発見させる契機となる。

四、二句の連関――月光の岩窟と、沓音の紅葉

 この二句は、単独の名句鑑賞としても面白いが、前書「榎嶋辨才天法楽」によって並べて読むと、より深い構造が見えてくる。


「名月に松明もたのまぬ岩窟かな」

「沓音にくれたのもしき紅葉かな」


 前句は、月光によって岩窟の暗さが照らされる句である。後句は、沓音によって日暮れの紅葉が現れる句である。

 前句は「光」、後句は「音」。

 前句は「岩窟」、後句は「紅葉」。

 前句は「名月」、後句は「暮れ」。

 この対照は、単なる技巧ではない。抱一の自然観が、二つの感覚によって示されている。

 月光は、岩窟を明るくする。沓音は、紅葉を見出させる。

 つまり、自然はただ目に見えているのではなく、ある感覚を契機として現れてくる。

 これは、抱一の俳諧と絵画に通じるものだろう。


五、抱一の俳諧と絵画――「柳花帖」との関連


 ご提示の『柳花帖』の句一覧を参照すると、抱一の俳句には、絵画の画題と季語が密接に結びついていることが分かる。

 たとえば、

山紅葉照るや二王の口の中

 この句では、紅葉が二王像の口の中に照り映えるという、極めて視覚的な構図が示される。紅葉という自然の色彩が、仏寺の彫像と結びついている。

また、

 なく山のすかたもみへす夜の鹿

 では、夜の山に鹿の声が響き、姿が見えない。ここでは視覚よりも聴覚が前面に出ている。

この二句と、今回の「沓音にくれたのもしき紅葉かな」を重ねると、抱一の自然詠には、視覚と聴覚の交替があることが見えてくる。

紅葉は、ただ見るものではない。山の静けさ、足音、日暮れの気配とともに現れる。

 また、『柳花帖』の「名月図」に添えられた、


名月や八聲(やごえ)の鶏の咽のうち


 という句も、月と音声を結びつける。月が鶏の声のなかにあるような、聴覚的な名月である。

 今回の「名月に松明もたのまぬ岩窟かな」も、月を単に目で見るのではなく、月光のもたらす空間の変化によって捉える。

このように見ると、抱一は、絵画においても俳諧においても、自然をそのまま写すのではなく、ある感覚を通して自然を現出させる芸術家である。


総括(鑑賞)


 「榎嶋辨才天法楽」の二句は、酒井抱一の俳諧における、霊場と自然、感覚と信仰の結びつきを示している。

 「名月に松明もたのまぬ岩窟かな」は、月光によって照らされた岩窟を詠む。ここでは、暗い岩窟が月の明るさによって変容し、神仏の霊場として現れる。

 「沓音にくれたのもしき紅葉かな」は、日暮れの山道に響く沓音を通して、紅葉の美しさを捉える。ここでは、紅葉が視覚的な色彩から、音と時間のなかにある存在へと変わる。

 二句に共通するのは、自然を直接に描写するのではなく、自然が人間の感覚に触れる瞬間を捉えていることである。

 そして「榎嶋辨才天法楽」という前書が、二句を一つの霊場の俳諧として結びつける。

 吉原の「花街」や「後朝」においては、人の営みと感情が俳諧の中心にあった。ここ江の島では、人の姿は薄れ、月光、岩窟、沓音、紅葉が前面に出てくる。

 しかし、抱一の視線は変わらない。

 人の世界であれ、自然の世界であれ、彼はそこに漂う気配を捉え、言葉のなかに置く。

 それが、抱一の俳諧と絵画を結ぶ、ひとつの美意識なのだろう。

 月光に照らされた岩窟と、沓音の響く紅葉。

 この二句は、江の島の霊場における、静かな法楽の俳諧である。