志功(板画)と前田普羅(俳句)の『栖霞品(せいかぼん)』鑑賞(その二十六)~(三十一)
(その二十六) 「雪山に雪のふり居る夕哉」
「棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/109
「新訂普羅句集」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/82
[ <普羅3 前田普羅は「雪の詩人」>
https://kobushisha.com/archives/851
辛夷社の地、北陸富山はいよいよ雪の季節になりました。前田普羅も雪の句を多く詠んでいます。主宰中坪達哉は、その著書『前田普羅その求道の詩魂』の「雪の俳句」(p18)で雪の名句を紹介しています。 この主宰が紹介した名句と、『辛夷』創刊号の選者である池内たけしの「仮に雪という句を作る場合にも東京にいても作れそうな雪の句は駄目である。北国らしい雪気分の句でなくてはならぬ。」という言葉(詳細はトップページより「辛夷」の歩みを参照)をもって、今回は、普羅の雪の句の格調の高さ、そして雪国らしい特色を詠み込んだ普羅の「地貌」の句の趣を味わっていただきたいと思います。
(抜粋)
普羅には、『雪』の絶唱が多い。中島杏子は、普羅を『雪の詩人』とも呼んでいる。
雪垂れて落ちず学校はじまれり
農具市深雪を踏みて固めけり
雪卸し能登見ゆるまで上りけり
小庭朝暮
山吹を埋めし雪と人知らず
これらの句には、雪国の人々が負う雪の重みが実感として詠み込まれている。
春雪の暫く降るや海の上
弥陀ヶ原漾ふばかり春の雪
天空と山海に束の間の交歓をもたらすかのように降る春の雪である。
また次の2句には、三冬を経た雪がもたらす巨大な力を感じる。
雪解川名山けづる響かな
国二つ呼びかひ落とす雪崩かな
そして、次の3句には、「只、静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然の力に身を打ちつけた」普羅の俳境が純化した宗教的な神韻さえ感じる。
雪山に雪の降り居る夕かな
奥白根かの世の雪をかがやかす
鳥落ちず深雪がかくす飛騨の国
以上、いかがでしたか。雪国の自然や生活を知る方々には共感や郷愁、そして雪国のことを知らなくても心で感じられる趣や雪世界の清浄さ、荘厳さ。普羅の句を味わっていただけましたでしょうか。
普羅の雪の句は、まだまだたくさんあります。主宰中坪は、上記の著書に普羅の雪の俳句の鑑賞を載せ、読者を普羅の世界へ誘います。それらも機会をみて紹介したいと思います。
ちなみに普羅は山吹の花が大好きだったようです。真っ白な雪の中に埋まって静かに春を待つ、その山吹の姿を感じている普羅。山吹と普羅と雪だけの秘密。花好きな方には、普羅が身近に感じられる句ではないでしょうか。 ]
掲出の句の季語は「雪」(晩冬)。しかし、この句の主題は、「雪山に雪の降り居(ゐ)る夕(ゆふべ)哉」の下五の「夕(ゆふべ)」と解したい。
[ 雪(ゆき)晩冬
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2785
【子季語】六花、雪の花、雪の声、深雪、雪明り、粉雪、細雪、小米雪、餅雪、衾雪、今朝の雪、根雪、積雪、べと雪、雪紐、筒雪、冠雪、雪庇、水雪、雪華、雪片、しまり雪、ざらめ雪、湿雪、雪月夜、雪景色、暮雪、雪国、銀花、雪空、白雪、明の雪、新雪
【解説】雪は春の花、秋の月と並んで冬の美を代表する。雪国と呼ばれる日本海沿岸の豪雪地帯では雪は美しいものであるどころか、白魔と恐れられる。
【例句】
たふとさや雪降らぬ日も蓑と笠 芭蕉「芭蕉句選拾遺」
足あとは雪の人也かはかぶり 芭蕉「むつのゆかり」
市人よこの笠売らう雪の傘 芭蕉「野ざらし紀行」
馬をさへながむる雪の朝哉 芭蕉「甲子吟行」
酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪 芭蕉「勧進牒」
我雪とおもへば軽し笠のうへ 其角「雑談集」
花となり雫となるやけさの雪 千代女「千代尼発句集」
うつくしき日和となりぬ雪のうへ 太祇「太祇句選」
灯ともさん一日に深き雪の庵 白雄「白雄句集」
魚くふて口なまぐさし昼の雪 成美「成美家集」
寝ならぶやしなのゝ山も夜の雪 一茶「旅日記」
いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規「子規句集」
農具市深雪を踏みて固めけり 前田普羅「普羅句集」
奥白根かの世の雪をかがやかす 前田普羅「普羅句集」
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男「長子」
白馬の眼繞(めぐ)る癇脈雪の富士 中村草田男「時機」
落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨「山脈」
さえざえと雪後の天の怒濤かな 加藤楸邨「雪後の天」
細雪妻に言葉を待たれをり 石田波郷「雨覆」
雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷「惜命」
雪降れり時間の束の降るごとく 石田波郷「酒中花」 ](「きごさい歳時記」)
この掲出の句は、所謂、「一物仕立て」(そして、「一句一章」体)の、芭蕉の詞ですると、「発句は、只金(こがね)を打ちのベたる様に作すべし」(『旅寝論(去来著)の、切字「哉(かな)」の前の「夕(ゆふべ)」が、この句の眼目ということになる。
季語の「雪山に雪の」の「雪」は、「雪」のリフレイン(「繰り返し」)で、この「夕(ゆふべ)」に係る、この「夕(ゆふべ)」を強調的にする意味合いがある用例であろう。
そして、中七の「雪の降り居る」の「居る」は、「ゐ(い)る」(「朝から夕べにかけて降り続いている」)が一般的な詠み、そして、その用例のものであろう。
しかし、この句は、この「朝から夕べにかけて降り続いている」を、『論語・里仁』の「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の意もあるとすると、その「里仁」の、「仁に里(を)るを美と爲す。擇びて仁に處(を)らずんば、焉(なん)ぞ知なることを得ん。」
(「子曰里仁爲美擇不處仁焉得知」)の、その「居(を)る」の詠み、そして、その用例と解することも、決して、飛躍しすぎではなかろう。
この『栖霞品』の配列で、この句の前々句にも「夕(べ)」の措辞が出て来る。その句と掲出句を並列すると次のとおりとなる。そして、それらに、『論語・里仁』の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」を並列すると次のとおりとなる
色かへて夕(ゆふべ)となりぬ冬の山 (「夕」と「冬の山」の「取り合せ」の句)
雪山に雪のふり居る夕(ゆふべ)哉(「夕」の「一物仕立て」の句)
朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり(論語・里仁』の「夕」)
孔子にあって、「朝(あした)に道を聞かば」の、その「道」は、「仁」であるが、普羅にとって、その「道」は、「俳諧(俳句)=芸術」ということになる。
この普羅にとっての、「俳諧(俳句)=芸術」の「道」は、その第一句集ともいうべき『普羅句集』の、その「序」に記述されている。長文であるが、その関係する末尾のところを下記に抜粋して置きたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001719/files/55258_64361.html
[ 我等には教へられた宇宙があつた。之れに反し芸術の道は更に新らしい宇宙を創造せんとするワザである。小さい人間が、自の心と身を安定せしめ得るの新宇宙を求むる努力は、げになやみ多き芸術の道であつた。うめき、号泣、肉のさける音、骨の砕くる響、それ等は救を求むるの前ぶれではない。直ちに芸術にたづさはる者の力声である。歓喜の声である。
何故に、或る人々は此の修羅の道を選ばねばならなかつたか。
少年の心は、先づ染織学に動いた。それは色彩を採つて現し世の人の上に施し眺め得る魅惑からだ。電気学に心は走せた。新興科学の秘匣は、ボタンの一と押で解釈されさうだと思つたからだ。メスを執る人ともならんとした。生命の不思議はメスの先で発かれると思つたからだ。地質学地形学に心身を投じようともした。地球の肌の長い/\歴史と種々の形相に対する根深い愛着からだ。運命の秘鍵を動植物の細胞に求めんとした。英文学の華麗に目を奪はれた、静冷なる哲学の泉を汲まんとした。又ある時は、文芸の晶華を採らんとして劇に立たんともし、又遠き祖から習練を加へられた血の要求に甘んじ、三味線の誘惑に応じようともした。月光の下には月光に身をなさんとし、花の蔭には花に遷らんと思ふ。此の浮気者は、鮑が之れを笑殺するため、吸ひ着いて居る岩を離れる事の危険をも忘れしむるに充分であつた。
さまよへるこの広き道辺には、常に寂寞たる俳句への径が口を開いて居た。熱情と之れを押へんとする弱き心とは、終に私をして此の寒苦の雪つもる径を選ばしめた。淋しい径である。人も淋しい径と云ふ。然し、求むるものは随所に与へらるゝの豊さと愛とがある。かつ私には若干の愛書と、家族を容れて余りある古き二張の麻蚊帳と、昼夜清水を吐いて呉れる小泉と、ジヤマン製の強力なる拡大鏡一つとがある。その上に、周囲には多くのよき友があり、之等を抱いて力強き越中の国の自然がある。
私は此処に来たと思ふ。此処とは何処か、其れは新宇宙のもなかである。
昭和五年八月十三日暴風来の報を聞きつつ 奥田村の草舎にて 前田普羅 ](「青空文庫)
これらに、呼応するかのように、普羅の絶詠とされる、「月出てゝかくかく照らす月見草」(昭和二十九年作。『定本普羅句集』)の句に関連して、『鑑賞前田普羅 (国文学研究叢書)/ 中西舗土著』の「作品鑑賞」の中で、前田普羅の次の「俳句に身を投じた動機」などを紹介している。
https://dl.ndl.go.jp/pid/12463303/1/148
[ (抜粋)
「人間の限りない欲望と、限りある知識との矛盾摩擦を、ありとあらゆる生命力を投入して解決しやうとするのが芸術家である。その方法として私は俳句の道を選んだ」と、普羅は俳句に身を投じた動機を語ったことがあつた。筆を擱くにあたって、改めて、この言葉が思い出されるのである。 ](『鑑賞前田普羅 (国文学研究叢書)/ 中西舗土著』/「国立国会図書館デジタルコレクション」)
ここで、掲出の句意は、二通りの句意を提示して置きたい。
句意その一(「雪山に雪の降り居(ゐ)る夕(ゆふべ)哉」)
[ 雪山に、しんしんと、止めどなくなく、雪が降り続いて居(ゐ)る、それは、今日の朝(あした)の耀きの雪から、この夕(ゆふべ)の雪の、その闇夜へと移行する暗さを増している。
( この句は、「参考一」に因ると、「越中八尾の山中で成った一句」とされているが、その句碑が「越中高岡(二上山))」に建立されており、その二上山近傍の作として鑑賞したい。また、この「夕(ゆふべ)」には、『論語・里仁』の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」や、「俳諧(俳句)=芸術」の道に、その生涯を捧げた普羅の、「終に私をして此の寒苦の雪つもる径を選ばしめた。淋しい径である。人も淋しい径と云ふ。」などを加味して鑑賞したい。そして、普羅の言う「人も淋しい径と云ふ。」の、この「人」は、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」(参考二)」の、その「芭蕉」などをイメージしているものと解したい。) ]
「越中高岡(二上山))の前田普羅句碑(「雪山に雪のふり居る夕かな」)」
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2280784.html
句意その二(「雪山に雪の降り居(を)る夕(ゆふべ)哉」)
[ 雪山には、何時も、止めどもなく、雪が降って居(お)る。それは、例えば、芭蕉翁の『酒のめばいとゞ寝られぬ夜の雪』の、それらに続く、翁の辞世吟とも目せられる、「この道や行く人なしに秋の暮」の「暮(くれ)」に通ずる、この「夕(ゆふべ)」であり、それは、「淋しき径(俳諧(俳句)=芸術」)であり、その「淋しき径」に、しんしんと降り続ける雪であられることか。
( この普羅の句は、普羅の代表作の一つに数えられる「秋風の吹きくる方に帰るなり」と連なって居(お)り、それは、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」をベースにしているものと解したい。そして、この「夕(ゆふべ)」には、普羅の晩年へ向かう孤愁そのものをを暗示している。普羅の「秋風の吹きくる方に帰るなり」は、大和(奈良)の「二上山」の麓の「関谷(香芝市関屋))での作であり、その「関谷」を発って、各地を転々として行きついた先の「越中(富山・福光町)」での作に、「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」とあり、普羅は、己の姿を「凍蝶」に例えている。壮絶に、普羅の晩年の孤影・孤愁である。) 」
(参考一) 「前田普羅の『雪の句』二句」(『前田普羅その求道の詩魂(中坪達哉著)』)
https://kobushisha.com/archives/1822
<普羅15 前田普羅の「地貌」の句③>
今回は、「地貌」論の視点から鑑賞すると、より深い味わいを感じることのできる普羅の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋 p55) 雪山に雪の降り居る夕かな
越中八尾の山中で成った一句で昭和6年4月発表のもの。(中略)
雪山にいつ果てるともなく降る雪、その皚々たる雪山もいつしか夕べとなって来た。静謐で哀しく荘厳なる夕べの彩りが普羅の眼には映っているようである。小さな人間の生死を超えた浄らかな世界が見えてくる。風土に根ざした山恋いと雪恋いが結晶した普羅代表作の一つといえよう。「自分も雪国に来り住んで、雪国の懐に抱かるる事すでに9年、雪国の姿も心も、自分の胸にしかと描き尽されて居るやうに思ふ」とは作句の翌年の言葉だが、まさにその心境を表した一句といえようか。『新訂普羅句集』所収。
(抜粋 p73) 色変へて夕となりぬ冬の山 (『飛騨紬』所収)
越中から飛騨の国にかけて山々は数多いが、掲句の「冬の山」は立山の嶺々のようにも思われて面白い。「色変へて夕となりぬ」と冬山を仰ぐ光景を想うならば、「立山のかぶさる町や水を打つ」と詠んだ立山の嶺々が相応しく、一句がより壮大なものとなるからである。「冬の山」は深々と真綿のふくよかさをもって、この世を浄めんとする威厳と慈愛に満ちた表情で蒼天に立っている。それが夕茜に染まった姿は西方浄土をも想う荘厳なるものである。そして、夕日が急ぎ足で沈み始めるにつれて、雪の山肌も次第に白みがかり、やがて灰色へと化していく。夕照に続く灰色の薄暗い世界に、独り、取り残されたかのように嶺々を凝視しやまぬ普羅の後姿が浮かんで来る。
二句とも明確に具体的な景をもつ句ではありませんが、「地貌」の句として見ると、情景がありありと浮かんできます。「雪山に」の句は、富山でも雪深いと言われる越中八尾の山中での句であり、雪の情景や、訪れた普羅の姿、八尾の人々の生活の営みなどの様々な景を想像することができます。「色変へて」の句を立山の夕茜とすれば、富山のだれもが魅了されている美しい情景が目に浮かびます。さらに、この「地貌」の句として見えてきた景は、富山にとどまらず雪国の普遍的な景にまで昇華していると言えるかもしれません。](「辛夷」/「前田普羅のページ」)
(参考二) 芭蕉の「この道を行く人なしに秋の暮」
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/letter/isentoho.htm
[ (抜粋) この道を行く人なしに秋の暮
実に寂寥とした句ではある。この句が事実上の辞世といってもよいように思われる。
白く何処までも続く秋の道、その先を見ても後ろを見ても旅人の姿はない。人生50年、俳諧一筋の芭蕉の歩んできた道には、もう誰も居ない。芭蕉文学の究極の場所には、孤独なただ寂寥たる空間だけが広がっている。
『其便』では、 「この道や行く人なしに秋の暮」
『笈日記』では、「人声やこの道帰る秋の暮」 となっている。
この時期、芭蕉文学は天上の芸術といってもいい程の高みに達しているが、一方、地上をみれば江戸の蕉門は彼から離反して混乱し、名古屋では派閥が発生して醜く争っている。大坂では主流争いがあり、伊賀蕉門は軽みに戸惑って停滞している。それらの人事を超越したところに独り立っているのが芭蕉の孤独な姿だったのである。](「芭蕉DB」)
(参考三) 前田普羅の「秋風の吹きくる方に帰るなり」(『前田普羅その求道の詩魂(中坪達哉著)』)
https://kobushisha.com/archives/2699/
[ < 普羅38 前田普羅の孤愁「秋風」>
今回は、深まるばかりの孤愁に身を置く普羅の「秋風」の句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p81) 秋風の吹きくる方に帰るなり
普羅はよく山岳俳人と称されるが、山岳俳人の名では律しきれない心の中の葛藤にもがき苦しんだ作品も多い。この句もまさにそうであり、人間普羅としての生き様を思わせるものがある。昭和23年の作にして前書きに「小恙数日の後9月24日大和関屋を立つ 二句」とあって、一句目は「秋風のおとす雫にゆるる葛」である。
「秋風の吹きくる方」とは、富山の普羅自身の家に他ならない。「秋風」は普羅にとって人生の晩秋の寂しい秋風なのである。漂泊の詩魂なるが故の普羅の風狂精神は人生のための芸術を実践しようとする。それは、実社会を生きて行くためには少なからざる困難をもたらそう。普羅の一生はそうした精神的な葛藤に捧げられたと言ってもいい。そんな普羅が暫しの夢心地のような仮泊の旅を終えて、現実社会の象徴としての独り住む我が家、すなわち「秋風の吹きくる方」へ帰るのである。この句は淡々とした詠みぶりで心のうちを表立たせてはいない。一句の鑑賞は読者に委ねられてそれぞれに解釈されるのだが、何かしら後ろ髪を引かれるような、いわく言いがたい余韻を与えてもいようか。](「辛夷」/「前田普羅のページ」)
(参考四) 「秋風の吹きくる方に帰るなり」(「大和(奈良)二上山」近傍の作)と「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」(「越中(富山)二上山」近郊の作)周辺
「秋風の吹きくる方に帰るなり」は、「大和(奈良)二上山」近傍の、「昭和二十三年」の作である。そして、「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」は、「越中(富山)二上山」近郊での、「昭和二十五年」の作である。この二句は、普羅が転地・転居を繰り返した、その「漂泊の転地・転居」のうちの、いみじくも、二つの「二上山」(「大和」と「越中」)での作ということになる。
「秋風の吹きくる方に帰るなり」(『古春亭句集』・昭和二十三年作)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/261
「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」(「矢口抄」・昭和二十五年)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/276
(補記) 「越中の二上山」と「大和の二上山」
(「越中の二上山」)
「富山(戦災前「普羅庵」)・高岡(普羅句碑=二上山)・砺波近郊(戦災後「古春亭=津沢町」・津沢大火後「福光町)など」と「立山」(中部山岳国立公園)・「富山湾・能登」そして「飛騨高山」周辺(位置図)
「越中・二上山(大伴家持の長歌・その2~「二上山の賦」~)」
https://www.manreki.com/manrekiblog/yomu102-2/
[ 高岡市と氷見市にまたがる二上山(ふたがみやま)。標高274メートルと決して高くはありませんが、県西部の広い範囲から目にすることのできる山です。家持が過ごした越中国府(現在の高岡市伏木)はこの二上山の山すそにありました。
天平19年(747)3月、家持は「二上山の賦(ふ)」を作ります。全編にわたって二上山の素晴らしさを説いたこの作は、翌月に作った「布勢の水海に遊覧する賦」「立山の賦」と合わせて、都への土産話にしたものだと考えられています。
「神からや そこば貴き(この山の神性ゆえにあんなにも貴いのだろうか)」「すめ神の 裾廻の山の(この神の住む山の)」と、山に神の存在を感じていますが、仏教以前の日本の古い信仰のひとつのかたちをここに見ることができます。
「 二上山の賦一首 (巻17・三九八五) 長歌 → (略) 」
(「反歌(はんか)」=長歌のあとにそえる(普通は一首の)短歌。)
https://www.manreki.com/arekore/utameguri/utam0200.html
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり(巻17-3987・大伴家持))
( 二上山に鳴くホトトギスの、声の恋しい季節がやってきた。) 」 ](「高岡市万葉博物館」)
(「大和の二上山」)
「千股池から望む山容(「二上山)」(「ウイキペデア」)
[ 二上山(にじょうさん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。金剛山地北部に位置し、北方の雄岳 (517m) と南方の雌岳 (474m) の2つの山頂がある双耳峰で、大阪みどりの百選に選定されている。また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。(以下略)](「ウイキペデア」)
https://www.pref.nara.jp/51918.htm
[ ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を
今日(けふ)のみ見てや 雲隠(がく)りなむ 大津皇子(「万葉集・巻47-416」)
(「訳」 百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。)
大津皇子(おおつのみこ)の墓
万葉集によると、大津皇子の亡骸(なきがら)は二上山に移葬されました。二上山は葛城市・香芝市・大阪府太子町にまたがる山で、北側の雄岳(おだけ)(517m)と南側の雌岳(めだけ)(474m)の二峰から成ります。雄岳の山頂には現在も「大津皇子の墓」があるものの、二上山のどこが移葬場所かはわかっておらず、麓にある鳥谷口(とりたにぐち)古墳という説もあります。 ](「奈良県・「はじめての万葉集」)
(追記) 「郷愁の詩人・与謝蕪村」と「孤愁の詩人・前田普羅」周辺
「夜色楼台図(蕪村画)」と「栖霞品(「前田普羅・句/「棟方志功・画」)の「雪山に雪のふり居る夕哉」) → 「夜色楼台図(蕪村画)」については、下記のアドレスを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-05-10
上記の左図は、「江戸時代」の、蕪村(「謝寅」そして「春星」などの号を有する)の、京都の東山をイメージしているとされる、その「夜色楼台図」の「家並み」である。
そして、右図は、「「前田普羅・句/「棟方志功・画」の、その二人から為る、「栖霞品」の、そのうちの一枚の「雪山に雪の降り居る夕哉」の、「越中(富山)の、『立山・二上山・位山』などの、その『家並み』のものものと解したい。
そして、前田普羅を、冒頭の「雪の詩人」(<普羅3 前田普羅は「雪の詩人」>)とするならば、蕪村(「謝寅」・「春星」など)もまた、「雪の詩人」なのである。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-05-10
(再掲)
[ 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。
1 宿かさぬ灯影や雪の家つゞき 明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪
2 雪国や粮(かて)たのもしき小家がち 同上 小家と雪
3 宿かせと刀投出す吹雪哉 同上 武士と吹雪
4 初雪や上京は人のよかりけり 明和六年(一七六九・五十四歳) 上京(洛)と初雪
5 物書(かい)て鴨に換けり夜の雪 同上 王義之(前書き)と雪
6 祐成をいなすや雪のかくれ蓑 明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪
7 繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな 同上 馬の鐙と雪
8 雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪
9 雪の松折るるや琴の裂る音 同上 松と雪
10 としひとつ積るや雪の小町寺 安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪
11 雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ 同上 母屋の煙と雪
12 鍋さげて淀の小橋を雪の人 同上 淀の小橋と雪
13 愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹 同上 貧窮老懶の自画像と雪
14 初雪や草の戸を訪(と)ふわら草履 安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪
15 木屋町の旅人訪ん雪の朝 同上 木屋町(旅館・料亭が多い)と雪
16 住吉の雪にぬかづく遊女哉 同上 住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪
17 雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳) 加茂神社の社人と雪
18 雪折やよしのゝゆめのさむる時 同上 吉野(奈良吉野山)と雪
19 雪折も聞えてくらき夜なる哉 同上 闇夜と雪(白居易の詩)
20 登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳) 登蓮(歌僧)と雪
21 雪を踏で熊野詣の乳母かな 同上 熊野詣と雪
22 風呂入に谷へ下るや雪の笠 年次未詳 湯治場と雪
23 水と鳥のむかし語りや雪の友 同上 「酒」(水偏の鳥)と雪
24 雪の暮鴫はもどつて居るような 同上 鴫(西行の鴫)と雪
25 雪消ていよいよ高し雪の亭 同上 雪亭(庵号)と雪 ]
これらを見て来ると、「栖霞品」にも搭載されている、先の「春星」(蕪村の画号の一つ「春星)」)の下記の二句などは、「孤愁の俳人・前田普羅」の、「郷愁の詩人・与謝蕪村」への賛歌のような想いを深くするのである。
(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-04
[ 春星や女性浅間は夜も寝ねず 前田普羅「春寒浅間山」
句意は、「『春の宵に、潤むように見える星』の『春星』が、『浅間山』の頭上に輝いている。その姿影は、『女性(にょしょう)の浅間山』とでも形容したい、恋の身もだえから一睡もしていない女性の寝姿が連想してくる。(『謝春星(蕪村)』にも、『浅間山けぶりのなかの若葉かな』の句がある。)
乗鞍のかなた春星かぎりなし 前田普羅「飛騨紬」
句意は、「信州の『女性・浅間山』」に続く、この「飛騨の『乗鞍岳(男性)』」の姿影の「彼方」にも、何時も、『春星』が輝いている。(あれは、歌に詠まれた『歌枕』、そして『俳諧』の『俳枕』、そして、例えば、江戸俳諧中興の祖の一人の『謝春星(蕪村)』の、その『春星』の耀きであろうか。)」
もとより、これらの普羅の句に、「謝春星(蕪村)」の「蕪村(春星)」を重ね合わせることは、飛躍しているきらいはあるが、「俳諧」における「季語」(「季節の詞」)、そして、「俳枕」(「俳句に詠まれた名所・旧跡」)と、普羅の「地貌論」「地貌詠」との関連などを考察していく上で、一つのステップとは成り得よう。 ]
(補記)
「栖霞品(「前田普羅・句/「棟方志功・画」)の「雪山に雪のふり居る夕哉」)の、棟方志功が描いている、その「山々と家並み」は、まさしく、蕪村の「夜色楼台図」の「山々と家並み」をイメージしているように思われる。
そして、蕪村の「夜色楼台図」の「山々」が、京都の「東山」をイメージ化してものと解するならば、この「雪山に雪のふり居る夕哉」の「雪山」は、「立山のかぶさる町や水を打つ」(「夏」の句)の、その富山の「立山」の、その「雪山」(「冬」の句)がイメージ化されて来る。
(その二十一七) 「冱は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず」

「冱は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/109
杣がくゞり熊が通れる頽雪(なだれ)どめ 前田普羅 「飛騨紬」
冱(いつ)は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず 前田普羅 「飛騨紬」
[ 冱つ(いつ)三冬
【子季語】凍つ、凍、凍晴、凍結、凍道、凍窓、凍光、凍割る、凍つく、凍曇、凍霞、凍靄
【解説】寒気にあって凝結すること。凍ると同意。凍るように感じられるものにも用いる。
【例句】
庭草のよごれしままに風の凍 白雄「白雄句集」
うらの戸や腹へひびきて凍て割るる 一茶「七番日記」
駒ケ岳凍てて巌を落しけり 前田普羅「定本普羅句集」
大鯉の屍見にゆく凍のなか 飯田龍太「山の木」
冱つる夜を炙りて召せと酒の粕 長谷川櫂「古志」 ](「きごさい歳時記」)
掲出の句の、上五の「冱(いつ)は来ぬ」の「来ぬ」は、「来(き)ぬ」と「来(こ)ぬ」と二通りの「詠み」と「用例」がある。これは、前回の「雪山に雪の降り居る夕哉」の、中七の「雪の降り居る」の、「居(ゐ)る」と「居(を)る」と同じ用例だが、「来(き)ぬ」(来た)と「来(こ)ぬ」(来ない)とでは、全く、逆の句意となって来(く)る。この句の句意も、次の二通りとなって来る。
(「冱(いつ)は来(き)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず」)
凍(い)て時がやって来(き)た。間(ま)もなく、熊は冬眠(とうみん)に入(はい)るのか、一言(ひとこと)も「物謂(い)はず」、一心不乱に、掌(てのひら)を舐(な)め舐めしている。
(「冱(いつ)は来(こ)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず」)
凍(い)て時は、未(ま)だ来(こ)ない。熊は冬眠(とうみん)に入(はい)るのか、その前にと、一言(ひとこと)も「物謂(い)はず」、一心不乱に、掌(てのひら)を舐(な)め舐めしている。
スタンダートの句意は、前者の方であろうか。「孤愁の俳人・前田普羅」が前者のタイプと解すると、「天衣無縫の板(版)画家・棟方志功」は、後者のタイプのように想われて来る。
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その五)」
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その四)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-23
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その三)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-20
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その一・その二)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17
棟方志功は、そのデビュー当時、河井寛次郎から、「熊の仔」と愛称されていた。
https://www.sankei.com/article/20150912-TQ5DYM2UIBNZPMWTR76AQEITO4/
[ 昭和11(1936)年7月の暑い日、絣(かすり)の着物に小倉の袴(はかま)をはき、牛乳ビンの底のような度のきついメガネをかけた男が、背をまるめながら五条坂をのぼり、河井邸にやってきた。河井がつけたニックネームによれば、「熊の仔」のような容貌の男は青森県出身の版画家、棟方志功であった。
棟方はすでに30歳を過ぎていたが、まだまったくの無名の版画家だった。ただ、この年の4月、第11回国画展に出品された大作「大和し美(うる)はし」が、河井や柳の目にとまった。
「大和し美はし」は画集で見たことがある。怒りのあまりザンバラ髪をハリネズミのように逆立てたヤマトタケルが、草薙(くさなぎ)の剣を眠狂四郎の円月殺法ふうにかざした、途轍もなくスケールが大きい作品である。周囲には、あらあらしいまでに野太い文字でヤマトタケルの物語が書かれている。
大きさも途方もなかった。タテ26・6センチにたいし、長さ302センチもある。出品規格にも反していたため、出品を拒否されたが、柳や河井がとりもって、やっと出品を許可されたほどだ。
「ワだば、日本のゴッホになる」という大志をいだいて東京にやってきた棟方は、東京より西に行ったことがなかった。作品の参考にするために、どうしても「京の仏さま」を見たくなり、河井に頼んで、京都にやってきた。この京都行が棟方の、おおげさではなく運命を大きく決めた。(以下略) ](「産経新聞」)
そして、その「熊の仔」の棟方志功は、戦時中に疎開していた「富山県西砺波郡の福光(現在の南砺市福光町)」に居を構え、そこを「愛染苑・鯉雨画斎」と名付け、爾来、六年八カ月を、この地で過ごすことになる。そして、ここから、「セカイのムナカタ」へと飛翔して行く。
ここで、デビュー当時の、昭和十一年(一九三六)、三十三歳の、「熊の仔」・棟方志功が、その九年後の、昭和二十年に「越中・福光町」に疎開して、ここから、「セカイのムナカタ」へと、大きな「真っ当の熊」(河井寛次郎の命名)と化して行くことをイメージして、冒頭の「冱は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず」を鑑賞するのも一興であろう・
冱(いつ)は来(こ)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず
( 「凍てる」なんというのは、とんと、この越中の「愛染苑・鯉雨画斎」には寄り付かない。何時も、いつも、吾輩(「近眼・熊の仔」)は、掌(てのひら)の墨を舐めつつ、無言のまま、ひたすら、板に画を彫っている。 )
もう一つ、ここで、志功(四十二歳)は、当時六十歳の「孤愁の俳人・前田普羅」との出逢いがあった。そして、当時の普羅は、富山(津沢町周辺)を中心として、飛騨・大和・関東(「東京・横浜・千葉」等)を各地を転々として、その普羅が、没する四年前の、昭和二十五年(一九五〇)に、志功の「愛染苑・鯉雨画斎」のある「福光町」にやって来る。
そこでの一句が、前回に取り上げた「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」である。
福光町の雪上にて
凍蝶の落ちたる如く雪に立つ (普羅「矢口抄」・昭和二十五年)
この普羅の句も、「熊の仔」から、「セカイのムナカタ」へと飛翔する「真っ当の熊・志功」との関連で鑑賞するのも、これまた一興であろう。
凍蝶の落ちたる如く雪に立つ
( 意気盛んな「セカイのムナカタ」の制作ぶりを目の当たりにすると、衰老の己は、寒さで凍てついたように動けなくなっている「凍蝶」さながらである。その「凍蝶」の己は、今独り、この第二の故郷の「富山」の積雪の上に立っている。 )
(参考一) 「棟方志功/仏も鬼も人も花も愛おしい」
https://webtaiyo.com/extra/13791/

別冊太陽|2023.10.11|文=別冊太陽編集部 バナー画像=制作中の棟方志功 1969~70 年 撮影=飯窪敏彦
1. 大和し美し (略)
2. 華厳譜より《風神》 (略)
3. なめとこ山の熊版畫
宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」の文を彫り出して絵を添えて画巻に仕立てようとしたものという。「なめとこ山(やま)の熊(くま)のことならおもしろい。」と、漢字にルビも振られて、子供にも読みやすくしていたといえる。熊たちがコロコロした犬のようでかわいい。物語は熊狩の身を因果と嘆く猟師小十郎が、年老いて冬の山中に倒れ、熊の群れに看取られて死ぬというというもので、孤独だった小十郎の人生に慈愛の光を照らす作者の目線が感じられる。

なめとこ山の熊版畫 全22点のうち1点 1937年 個人蔵 撮影=市瀬真似
4. 二菩薩釈迦十大弟子 (略)
5. 遺憾なことにの柵

遺憾なことにの柵 1944年
これは陶芸家の河井寛次郎が寄せた「華厳譜」の賛辞に感激した棟方が、その言葉を板画にしたもの。河井の「遺憾なことに、真当のものは大抵は痛ましい中から生れるものだ。君もそういう籤(くじ)を引いた一人なのだ」という文章に、棟方は自分の本質を見抜いた師に対して震えたことだろう。棟方に美的指導を与え、作家として目指す境地が一致した河井に出会えた奇跡への感謝がこの一枚に込められている。
6. 御群鯉図 (略)
7. 鐘渓頌より《倭桜》

鐘渓頌(しょうけいしょう) 全24点のうち1点《倭桜》(やまとざくら) 1945年 雪梁舎美術館蔵
黒い身体に白い線で腕や足などの輪郭を彫り込む棟方独特の表現は、この作品から始まった。本作は京都・五条坂にある河井寛次郎の「鐘渓窯」の名を冠して感謝の意をこめたもの。此岸から中岸を経て彼岸に達するまでの道程を24体の像で表現した。《倭桜(やまとざくら)》の女性像の豊満な肢体と愛らしい顔立ちは、棟方が生んだ美の化身の代表格といえよう。
8. 鍵板画柵より《大首の柵》 (略)
9. 基督の柵 (略)
10. 捨身飼虎の柵 (略)
(参考二)「富山福光時代の棟方志功(略年譜)」
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9584.html
昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。
5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。
年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。
昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。
5,6月、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。
12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。
細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。
「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)
「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)
昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。
福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。
細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。
「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)
昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。
10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。
臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。
「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)
昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。
「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)
「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)
昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。
小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。
「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)
昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。
フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。
12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。
「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)
「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ) ]
(参考三) 「富山時代(下) 昭和四年四月~昭和二十年八月」と「戦後」(昭和二十年八月》~昭和二十九年八月《逝去》)」(前田普羅略年譜)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
※「富山時代(下)( 昭和四年四月《「辛夷」主宰者に》~昭和二十年八月《空襲により罹災》
昭和4年 (1929/44歳) 辛夷の編集発行を担当し、『辛夷』経営の責を負う。 報知新聞社を辞し、富山永住を決意する。
同5年(1930/45歳) 普羅句集を出版する。
同7年(1932/47歳) 辛夷選句集『雪国』を出版する。
同9年(1934/49歳) 『新訂普羅句集』を出版し、その序文に「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の言葉を記す。
同12年(1937/52歳) 東京日日新聞に「甲斐の山々」5句を発表する。
同18年(1943/58歳) 句集『春寒浅間山』を出版する。※※同18年1月23 妻とき気管支喘息のため死亡。
同20年(1945/60歳) 富山県福光町(現・南砺市)に疎開してきた棟方志功と親交を結ぶ。同年 8月1日の富山大空襲にて普羅庵を焼失し、津沢町 (現・小矢部市)に疎開する。
※「戦後」(昭和二十年八月《転々として居住定まらない時代》~昭和二十九年八月《逝去》)
同22年(1947/62歳) 句集『飛騨紬』を出版する。
同23年 (1948/63歳) 棟方志功が普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表する。※※同年7月 長女明子結婚。
同25年 (1950/65歳) 句集『能登蒼し』を出版する。
同26年 (1951/66歳) 東京郊外矢口に居を移す。
同29年(1954/69歳) 立秋(8月8日)の日に逝去。
「冱は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/109
杣がくゞり熊が通れる頽雪(なだれ)どめ 前田普羅 「飛騨紬」
冱(いつ)は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず 前田普羅 「飛騨紬」
[ 冱つ(いつ)三冬
【子季語】凍つ、凍、凍晴、凍結、凍道、凍窓、凍光、凍割る、凍つく、凍曇、凍霞、凍靄
【解説】寒気にあって凝結すること。凍ると同意。凍るように感じられるものにも用いる。
【例句】
庭草のよごれしままに風の凍 白雄「白雄句集」
うらの戸や腹へひびきて凍て割るる 一茶「七番日記」
駒ケ岳凍てて巌を落しけり 前田普羅「定本普羅句集」
大鯉の屍見にゆく凍のなか 飯田龍太「山の木」
冱つる夜を炙りて召せと酒の粕 長谷川櫂「古志」 ](「きごさい歳時記」)
掲出の句の、上五の「冱(いつ)は来ぬ」の「来ぬ」は、「来(き)ぬ」と「来(こ)ぬ」と二通りの「詠み」と「用例」がある。これは、前回の「雪山に雪の降り居る夕哉」の、中七の「雪の降り居る」の、「居(ゐ)る」と「居(を)る」と同じ用例だが、「来(き)ぬ」(来た)と「来(こ)ぬ」(来ない)とでは、全く、逆の句意となって来(く)る。この句の句意も、次の二通りとなって来る。
(「冱(いつ)は来(き)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず」)
凍(い)て時がやって来(き)た。間(ま)もなく、熊は冬眠(とうみん)に入(はい)るのか、一言(ひとこと)も「物謂(い)はず」、一心不乱に、掌(てのひら)を舐(な)め舐めしている。
(「冱(いつ)は来(こ)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず」)
凍(い)て時は、未(ま)だ来(こ)ない。熊は冬眠(とうみん)に入(はい)るのか、その前にと、一言(ひとこと)も「物謂(い)はず」、一心不乱に、掌(てのひら)を舐(な)め舐めしている。
スタンダートの句意は、前者の方であろうか。「孤愁の俳人・前田普羅」が前者のタイプと解すると、「天衣無縫の板(版)画家・棟方志功」は、後者のタイプのように想われて来る。
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その五)」
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その四)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-23
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その三)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-20
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その一・その二)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17
棟方志功は、そのデビュー当時、河井寛次郎から、「熊の仔」と愛称されていた。
https://www.sankei.com/article/20150912-TQ5DYM2UIBNZPMWTR76AQEITO4/
[ 昭和11(1936)年7月の暑い日、絣(かすり)の着物に小倉の袴(はかま)をはき、牛乳ビンの底のような度のきついメガネをかけた男が、背をまるめながら五条坂をのぼり、河井邸にやってきた。河井がつけたニックネームによれば、「熊の仔」のような容貌の男は青森県出身の版画家、棟方志功であった。
棟方はすでに30歳を過ぎていたが、まだまったくの無名の版画家だった。ただ、この年の4月、第11回国画展に出品された大作「大和し美(うる)はし」が、河井や柳の目にとまった。
「大和し美はし」は画集で見たことがある。怒りのあまりザンバラ髪をハリネズミのように逆立てたヤマトタケルが、草薙(くさなぎ)の剣を眠狂四郎の円月殺法ふうにかざした、途轍もなくスケールが大きい作品である。周囲には、あらあらしいまでに野太い文字でヤマトタケルの物語が書かれている。
大きさも途方もなかった。タテ26・6センチにたいし、長さ302センチもある。出品規格にも反していたため、出品を拒否されたが、柳や河井がとりもって、やっと出品を許可されたほどだ。
「ワだば、日本のゴッホになる」という大志をいだいて東京にやってきた棟方は、東京より西に行ったことがなかった。作品の参考にするために、どうしても「京の仏さま」を見たくなり、河井に頼んで、京都にやってきた。この京都行が棟方の、おおげさではなく運命を大きく決めた。(以下略) ](「産経新聞」)
そして、その「熊の仔」の棟方志功は、戦時中に疎開していた「富山県西砺波郡の福光(現在の南砺市福光町)」に居を構え、そこを「愛染苑・鯉雨画斎」と名付け、爾来、六年八カ月を、この地で過ごすことになる。そして、ここから、「セカイのムナカタ」へと飛翔して行く。
ここで、デビュー当時の、昭和十一年(一九三六)、三十三歳の、「熊の仔」・棟方志功が、その九年後の、昭和二十年に「越中・福光町」に疎開して、ここから、「セカイのムナカタ」へと、大きな「真っ当の熊」(河井寛次郎の命名)と化して行くことをイメージして、冒頭の「冱は来ぬ熊は掌をなめ物謂はず」を鑑賞するのも一興であろう・
冱(いつ)は来(こ)ぬ熊は掌(て)をなめ物謂(い)はず
( 「凍てる」なんというのは、とんと、この越中の「愛染苑・鯉雨画斎」には寄り付かない。何時も、いつも、吾輩(「近眼・熊の仔」)は、掌(てのひら)の墨を舐めつつ、無言のまま、ひたすら、板に画を彫っている。 )
もう一つ、ここで、志功(四十二歳)は、当時六十歳の「孤愁の俳人・前田普羅」との出逢いがあった。そして、当時の普羅は、富山(津沢町周辺)を中心として、飛騨・大和・関東(「東京・横浜・千葉」等)を各地を転々として、その普羅が、没する四年前の、昭和二十五年(一九五〇)に、志功の「愛染苑・鯉雨画斎」のある「福光町」にやって来る。
そこでの一句が、前回に取り上げた「凍蝶の落ちたる如く雪に立つ」である。
福光町の雪上にて
凍蝶の落ちたる如く雪に立つ (普羅「矢口抄」・昭和二十五年)
この普羅の句も、「熊の仔」から、「セカイのムナカタ」へと飛翔する「真っ当の熊・志功」との関連で鑑賞するのも、これまた一興であろう。
凍蝶の落ちたる如く雪に立つ
( 意気盛んな「セカイのムナカタ」の制作ぶりを目の当たりにすると、衰老の己は、寒さで凍てついたように動けなくなっている「凍蝶」さながらである。その「凍蝶」の己は、今独り、この第二の故郷の「富山」の積雪の上に立っている。 )
(参考一) 「棟方志功/仏も鬼も人も花も愛おしい」
https://webtaiyo.com/extra/13791/
別冊太陽|2023.10.11|文=別冊太陽編集部 バナー画像=制作中の棟方志功 1969~70 年 撮影=飯窪敏彦
1. 大和し美し (略)
2. 華厳譜より《風神》 (略)
3. なめとこ山の熊版畫
宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」の文を彫り出して絵を添えて画巻に仕立てようとしたものという。「なめとこ山(やま)の熊(くま)のことならおもしろい。」と、漢字にルビも振られて、子供にも読みやすくしていたといえる。熊たちがコロコロした犬のようでかわいい。物語は熊狩の身を因果と嘆く猟師小十郎が、年老いて冬の山中に倒れ、熊の群れに看取られて死ぬというというもので、孤独だった小十郎の人生に慈愛の光を照らす作者の目線が感じられる。
なめとこ山の熊版畫 全22点のうち1点 1937年 個人蔵 撮影=市瀬真似
4. 二菩薩釈迦十大弟子 (略)
5. 遺憾なことにの柵
遺憾なことにの柵 1944年
これは陶芸家の河井寛次郎が寄せた「華厳譜」の賛辞に感激した棟方が、その言葉を板画にしたもの。河井の「遺憾なことに、真当のものは大抵は痛ましい中から生れるものだ。君もそういう籤(くじ)を引いた一人なのだ」という文章に、棟方は自分の本質を見抜いた師に対して震えたことだろう。棟方に美的指導を与え、作家として目指す境地が一致した河井に出会えた奇跡への感謝がこの一枚に込められている。
6. 御群鯉図 (略)
7. 鐘渓頌より《倭桜》
鐘渓頌(しょうけいしょう) 全24点のうち1点《倭桜》(やまとざくら) 1945年 雪梁舎美術館蔵
黒い身体に白い線で腕や足などの輪郭を彫り込む棟方独特の表現は、この作品から始まった。本作は京都・五条坂にある河井寛次郎の「鐘渓窯」の名を冠して感謝の意をこめたもの。此岸から中岸を経て彼岸に達するまでの道程を24体の像で表現した。《倭桜(やまとざくら)》の女性像の豊満な肢体と愛らしい顔立ちは、棟方が生んだ美の化身の代表格といえよう。
8. 鍵板画柵より《大首の柵》 (略)
9. 基督の柵 (略)
10. 捨身飼虎の柵 (略)
(参考二)「富山福光時代の棟方志功(略年譜)」
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9584.html
昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。
5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。
年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。
昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。
5,6月、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。
12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。
細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。
「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)
「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)
昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。
福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。
細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。
「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)
昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。
10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。
臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。
「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)
昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。
「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)
「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)
昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。
小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。
「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)
昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。
フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。
12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。
「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)
「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ) ]
(参考三) 「富山時代(下) 昭和四年四月~昭和二十年八月」と「戦後」(昭和二十年八月》~昭和二十九年八月《逝去》)」(前田普羅略年譜)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
※「富山時代(下)( 昭和四年四月《「辛夷」主宰者に》~昭和二十年八月《空襲により罹災》
昭和4年 (1929/44歳) 辛夷の編集発行を担当し、『辛夷』経営の責を負う。 報知新聞社を辞し、富山永住を決意する。
同5年(1930/45歳) 普羅句集を出版する。
同7年(1932/47歳) 辛夷選句集『雪国』を出版する。
同9年(1934/49歳) 『新訂普羅句集』を出版し、その序文に「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の言葉を記す。
同12年(1937/52歳) 東京日日新聞に「甲斐の山々」5句を発表する。
同18年(1943/58歳) 句集『春寒浅間山』を出版する。※※同18年1月23 妻とき気管支喘息のため死亡。
同20年(1945/60歳) 富山県福光町(現・南砺市)に疎開してきた棟方志功と親交を結ぶ。同年 8月1日の富山大空襲にて普羅庵を焼失し、津沢町 (現・小矢部市)に疎開する。
※「戦後」(昭和二十年八月《転々として居住定まらない時代》~昭和二十九年八月《逝去》)
同22年(1947/62歳) 句集『飛騨紬』を出版する。
同23年 (1948/63歳) 棟方志功が普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表する。※※同年7月 長女明子結婚。
同25年 (1950/65歳) 句集『能登蒼し』を出版する。
同26年 (1951/66歳) 東京郊外矢口に居を移す。
同29年(1954/69歳) 立秋(8月8日)の日に逝去。
(その二十一八) 「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり」

「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110
[ <普羅19 前田普羅の自然詠①>
今回は、普羅の絶唱の句と、自然との交感を静かに楽しんでいる句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p62) 駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
一読、格調ある響きと大きな余韻に包まれる。「甲斐の山々」と題する5句中の一句で昭和12年1月17日の東京日日新聞に発表されたもの。他の4句は、「茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る」「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」「茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと」「奥白根かの世の雪をかがやかす」。甲斐駒の偉容、とりわけ厳寒期の酷烈な岩壁の相に真に迫った詠みぶりは、現代の映像技術の粋を集めた大画面をも凌駕しよう。凍ても極まって巌さえも弾き落さないではおかない、そんな甲斐駒はもはや人の手の及ぶべくもない遠い世のものでもある。写生や比喩という言葉では容易に説くことのできない世界がそこにはある。
「一句の成るや、成れる其の日に成れるにあらず」という普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから20年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和12年といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。山岳俳人と称される所以の句である。『定本普羅句集』所収。 ]

「甲斐の山々」(「駒ヶ岳=マーク印)」「八ヶ岳=駒ヶ岳の上(北)」「奥白根(白根三山)=駒ヶ岳の下(北)」「茅ヶ岳=北杜市の右(東))」「瑞牆山=茅ヶ岳の上(南)」
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/kaikomagatake.html
駒ヶ嶽凍てて巌を落しけり(「甲斐の山々」の五句のうちの一句=掲出の句)
霜つよし蓮華とひらく八ヶ嶽(同上)
奥白根かの世の雪をゞやかす(同上)
茅ヶ嶽霜どけ径を糸のごと(同上)
茅枯れてみずがき山は蒼天(そら)に入る(同上)

甲斐駒ヶ岳(「南アルプスエリア」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/
[ 甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)は南アルプスとして知られる赤石山脈の北端に位置する標高2,967mの山です。日本国内には駒ヶ岳という名前の山は幾つもありますが、その中で最も高い山が甲斐駒ヶ岳と言われています。南アルプスの山々はなだらかな稜線を持っている山が多い中、このような険しい山容をもち半ば独立峰のような形で存在する山は珍しいです。しかも山梨県側は麓から一気に2,500mの標高差で立ち上がっています。](「ほくとの山」)

八ヶ岳最高峰=赤岳(「八ヶ岳エリア」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/akadake.html
[ 赤岳は八ヶ岳連峰の最高峰で標高2,899mの山です。山頂からは富士山をはじめ、大菩薩連峰や奥秩父の山々、南アルプス、北アルプス連峰など数々の名山を望むことができます。赤岳という名の通り、その山肌は酸化鉄に由来する赤茶けた色をしており、ゴツゴツした岩が多く、荒々しい雰囲気を醸しだしています。 ](「ほくとの山」)
-thumbnail2.jpg)
茅ヶ岳(「奥秩父エリア」)=「日本百名山」の著者・深田久弥氏終焉の地(「ほくとの山」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/kayagatake.html
-thumbnail2.jpg)
瑞牆山(「奥秩父エリア」)=そびえ立つ幾つもの岩峰群(「ほくとの山」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/mizugakiyama.html
E4B889E5B1B1(E3808CE58D97E382A2E383ABE38397E382B9E382A8E383AAE382A2E3808D)-thumbnail2.jpg)
白峰(根)三山(「南アルプスエリア」)=西側の恵那山から望む伊那谷と白峰(根)三山(左から北岳、間ノ岳、農鳥岳)=(「ウイキペデア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%B0%E4%B8%89%E5%B1%B1
[白峰(根)三山(しらねさんざん)は、南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)にある北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山の総称。](「ウイキペデア」)
[前田普羅の「奥白根」は、「北岳・間ノ岳・農鳥岳の三山」を遠望しての称。](『近代俳人(桜楓社)』所収「前田普羅(中西舗土稿)」)
駒ヶ嶽凍(い)てて巌を落しけり
季語は「凍(い)つ/凍る(こおる、こほる)」三冬
[【子季語】氷る、凍ゆ、凍む
【解説】寒気のためものが凍りつくこと。河や湖ときには室内の雑巾や花なども凍ってしまう。
【例句】
油凍りともし火細き寝覚めかな 芭蕉「書簡」
艪の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉「武蔵曲」
うらの戸や腹へひゞきて凍割るる 一茶「七番日記」
こほらねど水ひきとづる懐紙かな 守武「守武千句」
捨舟のうちそとこほる入江かな 凡兆「蕉門古人真蹟」
音やむはいてつくならむ夜の笹 立志「あやにしき」
凍つけば凍つきながら笹の風 秋之坊「白陀羅尼」
庭草のよごれしままに風の凍 白雄「白雄句集」
庭土や凍て藁しく冬の海 成美「いかにいかに」
ともし行く灯や凍らんと禰宜が袖 正岡子規「子規句集」
頬凍て子の帰り来る夕餉哉 正岡子規「子規句集」
氷る夜の文殊に燭をたてまつる 川端茅舎「川端茅舎句集」
句意は、「甲斐五山の一つ、甲斐駒ケ岳は、今や、凍ても極地にあり、その凍てぶりは、巌さえも弾き落さないではおかない、凄まじいものである。」
(「普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから二十年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和十二年(五十二歳)といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。」=『前田普羅 その求道の詩魂(中坪達哉著)』)
「駒ヶ岳凍てて巌を落しけり」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110
[ <普羅19 前田普羅の自然詠①>
今回は、普羅の絶唱の句と、自然との交感を静かに楽しんでいる句を、主宰中坪達哉の著書『前田普羅 その求道の詩魂』より紹介します。
(抜粋p62) 駒ヶ岳凍てて巌を落しけり
一読、格調ある響きと大きな余韻に包まれる。「甲斐の山々」と題する5句中の一句で昭和12年1月17日の東京日日新聞に発表されたもの。他の4句は、「茅枯れてみづがき山は蒼天(そら)に入る」「霜つよし蓮華とひらく八ヶ岳」「茅ヶ岳霜どけ径を糸のごと」「奥白根かの世の雪をかがやかす」。甲斐駒の偉容、とりわけ厳寒期の酷烈な岩壁の相に真に迫った詠みぶりは、現代の映像技術の粋を集めた大画面をも凌駕しよう。凍ても極まって巌さえも弾き落さないではおかない、そんな甲斐駒はもはや人の手の及ぶべくもない遠い世のものでもある。写生や比喩という言葉では容易に説くことのできない世界がそこにはある。
「一句の成るや、成れる其の日に成れるにあらず」という普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから20年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和12年といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。山岳俳人と称される所以の句である。『定本普羅句集』所収。 ]
「甲斐の山々」(「駒ヶ岳=マーク印)」「八ヶ岳=駒ヶ岳の上(北)」「奥白根(白根三山)=駒ヶ岳の下(北)」「茅ヶ岳=北杜市の右(東))」「瑞牆山=茅ヶ岳の上(南)」
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/kaikomagatake.html
駒ヶ嶽凍てて巌を落しけり(「甲斐の山々」の五句のうちの一句=掲出の句)
霜つよし蓮華とひらく八ヶ嶽(同上)
奥白根かの世の雪をゞやかす(同上)
茅ヶ嶽霜どけ径を糸のごと(同上)
茅枯れてみずがき山は蒼天(そら)に入る(同上)
甲斐駒ヶ岳(「南アルプスエリア」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/
[ 甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)は南アルプスとして知られる赤石山脈の北端に位置する標高2,967mの山です。日本国内には駒ヶ岳という名前の山は幾つもありますが、その中で最も高い山が甲斐駒ヶ岳と言われています。南アルプスの山々はなだらかな稜線を持っている山が多い中、このような険しい山容をもち半ば独立峰のような形で存在する山は珍しいです。しかも山梨県側は麓から一気に2,500mの標高差で立ち上がっています。](「ほくとの山」)
八ヶ岳最高峰=赤岳(「八ヶ岳エリア」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/akadake.html
[ 赤岳は八ヶ岳連峰の最高峰で標高2,899mの山です。山頂からは富士山をはじめ、大菩薩連峰や奥秩父の山々、南アルプス、北アルプス連峰など数々の名山を望むことができます。赤岳という名の通り、その山肌は酸化鉄に由来する赤茶けた色をしており、ゴツゴツした岩が多く、荒々しい雰囲気を醸しだしています。 ](「ほくとの山」)
茅ヶ岳(「奥秩父エリア」)=「日本百名山」の著者・深田久弥氏終焉の地(「ほくとの山」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/kayagatake.html
瑞牆山(「奥秩父エリア」)=そびえ立つ幾つもの岩峰群(「ほくとの山」)
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/mountain-guide/mountains/mizugakiyama.html
白峰(根)三山(「南アルプスエリア」)=西側の恵那山から望む伊那谷と白峰(根)三山(左から北岳、間ノ岳、農鳥岳)=(「ウイキペデア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%B0%E4%B8%89%E5%B1%B1
[白峰(根)三山(しらねさんざん)は、南アルプス国立公園内の赤石山脈(南アルプス)にある北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山の総称。](「ウイキペデア」)
[前田普羅の「奥白根」は、「北岳・間ノ岳・農鳥岳の三山」を遠望しての称。](『近代俳人(桜楓社)』所収「前田普羅(中西舗土稿)」)
駒ヶ嶽凍(い)てて巌を落しけり
季語は「凍(い)つ/凍る(こおる、こほる)」三冬
[【子季語】氷る、凍ゆ、凍む
【解説】寒気のためものが凍りつくこと。河や湖ときには室内の雑巾や花なども凍ってしまう。
【例句】
油凍りともし火細き寝覚めかな 芭蕉「書簡」
艪の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ 芭蕉「武蔵曲」
うらの戸や腹へひゞきて凍割るる 一茶「七番日記」
こほらねど水ひきとづる懐紙かな 守武「守武千句」
捨舟のうちそとこほる入江かな 凡兆「蕉門古人真蹟」
音やむはいてつくならむ夜の笹 立志「あやにしき」
凍つけば凍つきながら笹の風 秋之坊「白陀羅尼」
庭草のよごれしままに風の凍 白雄「白雄句集」
庭土や凍て藁しく冬の海 成美「いかにいかに」
ともし行く灯や凍らんと禰宜が袖 正岡子規「子規句集」
頬凍て子の帰り来る夕餉哉 正岡子規「子規句集」
氷る夜の文殊に燭をたてまつる 川端茅舎「川端茅舎句集」
句意は、「甲斐五山の一つ、甲斐駒ケ岳は、今や、凍ても極地にあり、その凍てぶりは、巌さえも弾き落さないではおかない、凄まじいものである。」
(「普羅は、愛するものには長い歳月をかけて思慕を募らせる。甲斐の地を初めて訪うてから二十年経っている。横浜時代には人生の苦悶を抱いて仰いだ甲斐の山々であったが、昭和十二年(五十二歳)といえば、富山を根拠地に俳人としても雄飛している時代だ。心身ともに充実して甲斐駒と対峙した普羅の真骨頂を見る思いである。」=『前田普羅 その求道の詩魂(中坪達哉著)』)
(その二十一九) 「人住めば人の踏みくる尾根の雪」

「人住めば人の踏みくる尾根の雪」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110

『定本普羅句集』所収「飛騨紬」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/188
https://kobushisha.com/archives/1667
[<普羅12 前田普羅の「「地貌」論>
(抜粋p17)人住めば人の踏みくる尾根の雪 『飛騨紬』
この句には、厳しい風土に暮らす山人に向けられた普羅の熱い眼差しがある。厳冬期の山人が人里に下りてくるためには、雪の尾根を命懸けで渡って来なければならない。秋まで通った渓谷の径は雪崩の恐れがあるからだ。一読、大自然と一点の山人の構図の巧みさにうならされる。が、やがてしみじみと奥山に住む人々の哀しみが伝わってくる。「地貌の母の性格」によって独自の人生とならざるを得ないことを具体化した一句である。 ]
この掲出の句の季語は「雪」(晩冬)、「尾根の雪」は、「山の峰と峰とを結んで高く連なる所。」その「稜線の道筋の積雪」のこと。芭蕉にも一句がある。
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/fuji.htm
[ 一尾根(ひとおね)はしぐるる雲か富士の雪 (泊船集)
沢山の冬の山々が見える。その中には尾根が黒雲におおわれている山がある。あれはきっと時雨がやってきたのであろう。その山なみの風景の中に真っ白に雪をたたえた独峰富士が立っている。古来、富士山を雄大に描ききった名句として称えられてきた一句。](「芭蕉DB」)
句意は、「雪山は恐ろしい魔の山である。その魔の山に住む山人は、その生活の糧のために、危険な尾根の雪径を踏みしめながら下山する。その足跡を目の当たりにする。」
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その六)」
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その五)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-13
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その四)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-23
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その三)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-20
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その一・その二)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17

『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/176

『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/177

『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/178
棟方志功は、「忘れ得ぬ人々」(『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収)の筆頭に「前田普羅」を挙げている。それらは、『板極道』(昭和三十九年刊)、「辛夷(49巻1号)・昭和四十八年一月」、そして、「辛夷(40巻1号)・昭和三十九年一月」に掲載されたものである。
そのうちの『板極道』などのものを一部抜粋して置きたい。
[富山には、俳人の前田普羅氏がいました。前田氏は、東京の人でありますが、いかにも東京っ子らしい、詩人の生活だけに生き甲斐を感じているといったような作家魂をを持っていました。わたくしと二人は、よく往き来しました。今でも思い出されるのは、雪の降る夜、炬燵にあたりながら、地酒をくみかわし、酔いがまわってくると、二人は情熱を抑えかねて、抱きあって東京を語り、越中を話し、俳句、絵画、演劇をまくし立てることもありました。そうして一睡もせずに夜をあかすこともたびたびでありました。(以下略) ](『板極道』)
[前田普羅は、正に関東武士という気宇で立っていたようです。ああいう、心から、オソロシイほど、本物ばかりで、活きた人間というか、あるいは化物のように凄まじい本性を、いつも、いつも、見せっぱし、出しっぱなしの人間を知りません。正直以上に正直で、剛直なほど剛直で、あるいは、ゴウジョウなほどゴジョウといっても嘘にならない程で、正に曲者でもした。そして立派でした。誰が何ンと言っても立派な程、立派さを持っていました。見事な立派さであります。(以下略)](「辛夷(40巻1号)・昭和三十九年一月」)
これほどまでに、当時、十九・二十歳程年少の「越中・津沢」時代の「棟方志功」が、その心眼を以て語った、これらの「前田普羅評」は、当時の「孤愁の詩人・前田普羅」にとっては、まさに、「両雄(普羅と志功)、越中にて、相まみたる(遭遇した)」との、晩年の普羅にとっては、「以て瞑すべし(もってめいすべし)」(「それによって、安らかに死ねるだろう」)という、そんな感慨がイメージ化されて来る「セカイのムナカタ」と飛翔して行く、「前田普羅評」であろう。
「人住めば人の踏みくる尾根の雪」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110
『定本普羅句集』所収「飛騨紬」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/188
https://kobushisha.com/archives/1667
[<普羅12 前田普羅の「「地貌」論>
(抜粋p17)人住めば人の踏みくる尾根の雪 『飛騨紬』
この句には、厳しい風土に暮らす山人に向けられた普羅の熱い眼差しがある。厳冬期の山人が人里に下りてくるためには、雪の尾根を命懸けで渡って来なければならない。秋まで通った渓谷の径は雪崩の恐れがあるからだ。一読、大自然と一点の山人の構図の巧みさにうならされる。が、やがてしみじみと奥山に住む人々の哀しみが伝わってくる。「地貌の母の性格」によって独自の人生とならざるを得ないことを具体化した一句である。 ]
この掲出の句の季語は「雪」(晩冬)、「尾根の雪」は、「山の峰と峰とを結んで高く連なる所。」その「稜線の道筋の積雪」のこと。芭蕉にも一句がある。
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/fuji.htm
[ 一尾根(ひとおね)はしぐるる雲か富士の雪 (泊船集)
沢山の冬の山々が見える。その中には尾根が黒雲におおわれている山がある。あれはきっと時雨がやってきたのであろう。その山なみの風景の中に真っ白に雪をたたえた独峰富士が立っている。古来、富士山を雄大に描ききった名句として称えられてきた一句。](「芭蕉DB」)
句意は、「雪山は恐ろしい魔の山である。その魔の山に住む山人は、その生活の糧のために、危険な尾根の雪径を踏みしめながら下山する。その足跡を目の当たりにする。」
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その六)」
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その五)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-13
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その四)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-23
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その三)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-20
「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その一・その二)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17
『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/176
『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/177
『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収「忘れ得ぬ人々」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/178
棟方志功は、「忘れ得ぬ人々」(『棟方志功全集 第5巻 (詩歌の柵 1)』所収)の筆頭に「前田普羅」を挙げている。それらは、『板極道』(昭和三十九年刊)、「辛夷(49巻1号)・昭和四十八年一月」、そして、「辛夷(40巻1号)・昭和三十九年一月」に掲載されたものである。
そのうちの『板極道』などのものを一部抜粋して置きたい。
[富山には、俳人の前田普羅氏がいました。前田氏は、東京の人でありますが、いかにも東京っ子らしい、詩人の生活だけに生き甲斐を感じているといったような作家魂をを持っていました。わたくしと二人は、よく往き来しました。今でも思い出されるのは、雪の降る夜、炬燵にあたりながら、地酒をくみかわし、酔いがまわってくると、二人は情熱を抑えかねて、抱きあって東京を語り、越中を話し、俳句、絵画、演劇をまくし立てることもありました。そうして一睡もせずに夜をあかすこともたびたびでありました。(以下略) ](『板極道』)
[前田普羅は、正に関東武士という気宇で立っていたようです。ああいう、心から、オソロシイほど、本物ばかりで、活きた人間というか、あるいは化物のように凄まじい本性を、いつも、いつも、見せっぱし、出しっぱなしの人間を知りません。正直以上に正直で、剛直なほど剛直で、あるいは、ゴウジョウなほどゴジョウといっても嘘にならない程で、正に曲者でもした。そして立派でした。誰が何ンと言っても立派な程、立派さを持っていました。見事な立派さであります。(以下略)](「辛夷(40巻1号)・昭和三十九年一月」)
これほどまでに、当時、十九・二十歳程年少の「越中・津沢」時代の「棟方志功」が、その心眼を以て語った、これらの「前田普羅評」は、当時の「孤愁の詩人・前田普羅」にとっては、まさに、「両雄(普羅と志功)、越中にて、相まみたる(遭遇した)」との、晩年の普羅にとっては、「以て瞑すべし(もってめいすべし)」(「それによって、安らかに死ねるだろう」)という、そんな感慨がイメージ化されて来る「セカイのムナカタ」と飛翔して行く、「前田普羅評」であろう。
(その三十) 「うしろより初雪降れり夜の町」

「うしろより初雪ふれり夜の町」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110

『定本普羅句集』所収「普羅句集」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)「
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/40
この掲出の句の季語は「初雪」(初冬)である。
[ 初雪(はつゆき)初冬
【解説】その冬、はじめてふる雪のこと。古人は月や花と同じように雪を賞美した。雪は豊年の吉祥でもあった。「初」の一字に、よろこびの心があり、本格的な冬が始まるという覚悟がある。
【例句】
初雪や水仙の葉の撓むまで 芭蕉「泊船集」
初雪やかけかかりたる橋の上 芭蕉「泊船集」
初雪や幸ひ庵に罷有る 芭蕉「続虚栗」
初雪やいつ大仏の柱立 芭蕉「笈日記」
初雪や聖小僧の笈の色 芭蕉「勧進牒」
初雪や門に橋ある夕まぐれ 其角「続の原」
初雪や雀の扶持の小土器 其角「喪の名残」
初雪や羅紗の羽織にのしめ鞘 去来「西の雲」
初雪や四五里へだてゝ比良の嶽 去来「去来発句集」
初雪の市にうらばや雉子兎 正秀「続有磯海」
初雪や古郷見ゆる壁の穴 一茶「旅日記」
闇の夜のはつ雪らしやぼんの凹 一茶「七番日記」
句意は、「初雪が、大晦日(おおみか=うしろ)から、降り続いている、この仮寓の、その夜の町(越中・富山の一角)の、その初雪です。」
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その七)」
棟方志功の、富山の福光町の「愛染苑・鯉雨画斉」の、その「愛染苑」は、谷崎潤一郎の命名である。
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2024-08-31
[愛染苑所以之記
想いゆたかにして風光さかんな美しいこの所は心おなじくする愛ふかく思い大きく染むる人達を多く迎いおくりまた待ちつづけます。愛染苑と称ぶ所以であります。 文豪 谷崎先生がもってそれを賛して命記の筆を執ってくれました。
昭和廿六ねん霜月十七日 棟方志功 【石碑刻文】より (リーフレットより) ]

谷崎潤一郎が書いた『愛染韻』昭和26年
志功と谷崎潤一郎との出逢いは、谷崎潤一郎の『鍵』などの装幀画を介してなどに由来するが、これらのことについては、『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』などが、そのベースになるものであろう。

『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「口絵 歌々画柵 『雪山 』(「国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2486327/1/12
この「口絵/歌々画柵/『雪山』」については、次のアドレスで、「谷崎潤一郎と棟方志功との会話」が紹介されている。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/munakata/profile.html
[ はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々
谷崎 あれはなかなか面白い。
棟方 ああいう情景が......。
谷崎 字の組み合せが......。歌の組み合せが。あなたは字がなかなか面白いのね。
棟方 いやどうも。又板で彫ると、又字が別に動いて来ますな。
谷崎 俳句の、この間の何とか......あなたの。
棟方 原石鼎(はらせきてい)の「青天抄」ですか。
谷崎 「青天抄」。あれなかなか面白いね。
神林 「はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々」はどちらでお作りになった歌ですか。
谷崎 あれはね、鳥取の方に行った時。
神林 あの、戦時の疎開で津山にいらしった頃ですか。
谷崎 あの時とは違う。
棟方 津山もいいところだったな。鶴ヶ城という城があって。
谷崎 鶴山城!
棟方 ええ、鶴山城。いいところでしたね。あそこでわたくしの歌が一つあるんですよ。
おくられて来しを身ながらおくらるる人の悲しさかえりみもせず......(笑)。
谷崎潤一郎 歌 棟方志功 板「歌々板画巻」より ](「棟方志功・柳井道弘 略歴および資料」)
『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「鍵板画柵」では、次の「陰翳の柵」と「大首の柵」が収載されている。
なお、『棟方志功全集1 物語の柵』の「鍵板画柵」では、次のように記述されている。
[ 棟方と谷崎は昭和二十二年、京都祇園の十二段家を経営する西垣光温の介して知りて以来、棟方は谷崎の求めに応じて京都白川畔の寓居「潺湲亭(せんかんてい)」の字を書き、谷崎は棟方の求めに応じて富山県福光の家を「愛染苑(あいぜんえん)」と命名して書を贈ったりの交渉があった。棟方はー――福光では、家も建てました。この家は谷崎潤一郎先生が「愛染苑」と命名してくれました。谷崎先生とは、のち三十一年に『鍵』の挿絵板画を作り、一緒に仕事をしました。(『わたばゴッホになる』) ー――と記している。棟方は同じく昭和三十一年に谷崎の短歌を入れた「歌々板画巻」も制作している。 ])

「上図=「陰翳の柵」/下図=「大首の
https://dl.ndl.go.jp/pid/2486327/1/188
「愛染苑・鯉雨画斉」の「鯉雨画斉」の「鯉雨」については、『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「鯉雨」(棟方志功随筆集)の、その「鯉雨」に、その由来記が記されている。

『棟方志功全集1 物語の柵』所収「鯉雨」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/84
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/85
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/86
[ 棟方志功の随筆集『鯉雨』の中に収められている挿絵板画である。挿絵の色は一つ一つ棟方の手によって直接裏手彩色が施されている。棟方は「鯉雨」という言葉を好み、昭和二十一年から六年間、富山県の福光町に住んでいた自宅のアトリエを「鯉雨画屋(画斉)」と称し、また同文字を刻んだ落款を晩年までたびたび作品に用いた。文中の、かの子さんというのは、岡本かの子、宮澤さんというのは宮崎賢治のことである。この随筆は昭和二十三年七月一日、北海道民芸協会から限定二百部で発行された。版元は鶴文庫、印刷は札幌の文栄堂が担当した。 ]
この棟方志功の随筆集『鯉雨』の、その冒頭の部分は、次のようなものである。
[ 鯉雨画屋は、これはわたくしが昨冬の冬に、この富山県西砺波郡福光町の愛染苑と構えた所に建てた画屋です。「鯉雨」という文字は訳が判って付けたものではありません。訳の判らない答えの持たないモノ、いわゆる文字の化物(バケモノ)が欲しかったのですよ。
こい、りう、どちらに読んでいただいてもよいのですよ。禅振(ぶ)って貰えれば、公案「鯉雨」とね。なかなか音(おん)が叶(かな)って美しい鯉雨。(以下略) ]
この「鯉雨画斎(画屋)」に、「赤鯉の瀧を上る図」と「鰻・亀・鯰の下る図)」そして「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)と「柳宗悦(「床軸の書」)」とのスナップ写真が下記図である。
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/

鯉雨画斎の押入れの板戸の絵(「赤鯉の瀧を上る図(左)」と「鰻・亀・鯰の下る図(右)」)そして、「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)と「柳宗悦(「床軸の書」)=杉戸の左」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/

「赤鯉の瀧を上る図(左図)」(部分図)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/

「鰻・亀・鯰の下る図(右)」(部分図)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/

「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/

「柳宗悦(「床軸の書」)」(板戸の右)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
そして、「河井寛次郎」は、次の「神棚」である。
-thumbnail2.jpg)
「河井寛次郎(神棚)」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
さらに、この「鯉雨画斎(屋)」の落成祝いの、屏風の「寄書き(出席者)」が下記図である。

「鯉雨画斎築成寄悦」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
[ (抜粋) 「この家ができた翌年の昭和22(1947)年5月17日に、お祝いの会をしている。そこに集まった人たちの名前です。柳宗悦さん、大原総一郎さん、ほら、倉敷の大原美術館の。そして、濱田庄司さん、河井寬次郎さんなど」
もちろん、地元の民藝の愛好家も。北日本新聞社の社長や魚屋の主人まで。交流の幅が広いことがうかがえる。 ](「和楽(あまりにも自由でポップだ!巨匠・棟方志功が富山で生んだハイテンションな「ムナカタ作品」))
-thumbnail2.gif)
「鯉雨画斎(屋)」=「棟方志功住居」(外側)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
-a68e9-thumbnail2.jpg)
「鯉雨画斎(屋)」=「棟方志功住居」(内部)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
E3808D-thumbnail2.gif)
[『定本普羅句集』所収「写真(その内の一葉)」(『国立国会図書館デジタルコレクション』)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/6
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2011/11/post-2bdc.html
[ 棟方志功同様、富山市に疎開していた前田普羅と棟方志功を結び付けたのも、石崎俊彦氏だったのである。冊子に載っている宇賀田達雄氏による「石崎俊彦と棟方志功」によると、「昭和二十年の初夏の頃、石崎は棟方に頼まれて、棟方の疎開報告と、裏山の白い花の一枝を託されて、富山市に住む前田普羅を訪ねている」のである。
棟方志功夫妻と前田普羅とが、石崎氏という案内役を得て、昭和二十一年六月には、戦後初めてのピクニック(福光町西郊の桑山)に行き、大変喜んだというエピソードも、宇賀田氏の一文には載っている。]
この茶室兼用になっている部屋の「柱時計」の左側の「栴檀(せんだん)殿」の書は、「富本憲吉筆」で、「この屋敷内にあるセンダンの木より栴檀殿と。」とのことが、下記のアドレスで紹介されている。その下の図は、「棟方がデザインした昭和26年の北国銀行のカレンダー。」とのことである。
https://yamaniwa11.exblog.jp/33278909/

「棟方がデザインした昭和26年の北国銀行のカレンダー」
https://yamaniwa11.exblog.jp/33278909/
「うしろより初雪ふれり夜の町」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110
『定本普羅句集』所収「普羅句集」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)「
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/40
この掲出の句の季語は「初雪」(初冬)である。
[ 初雪(はつゆき)初冬
【解説】その冬、はじめてふる雪のこと。古人は月や花と同じように雪を賞美した。雪は豊年の吉祥でもあった。「初」の一字に、よろこびの心があり、本格的な冬が始まるという覚悟がある。
【例句】
初雪や水仙の葉の撓むまで 芭蕉「泊船集」
初雪やかけかかりたる橋の上 芭蕉「泊船集」
初雪や幸ひ庵に罷有る 芭蕉「続虚栗」
初雪やいつ大仏の柱立 芭蕉「笈日記」
初雪や聖小僧の笈の色 芭蕉「勧進牒」
初雪や門に橋ある夕まぐれ 其角「続の原」
初雪や雀の扶持の小土器 其角「喪の名残」
初雪や羅紗の羽織にのしめ鞘 去来「西の雲」
初雪や四五里へだてゝ比良の嶽 去来「去来発句集」
初雪の市にうらばや雉子兎 正秀「続有磯海」
初雪や古郷見ゆる壁の穴 一茶「旅日記」
闇の夜のはつ雪らしやぼんの凹 一茶「七番日記」
句意は、「初雪が、大晦日(おおみか=うしろ)から、降り続いている、この仮寓の、その夜の町(越中・富山の一角)の、その初雪です。」
(追記)「越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その七)」
棟方志功の、富山の福光町の「愛染苑・鯉雨画斉」の、その「愛染苑」は、谷崎潤一郎の命名である。
https://shizukozb.blog.ss-blog.jp/2024-08-31
[愛染苑所以之記
想いゆたかにして風光さかんな美しいこの所は心おなじくする愛ふかく思い大きく染むる人達を多く迎いおくりまた待ちつづけます。愛染苑と称ぶ所以であります。 文豪 谷崎先生がもってそれを賛して命記の筆を執ってくれました。
昭和廿六ねん霜月十七日 棟方志功 【石碑刻文】より (リーフレットより) ]
谷崎潤一郎が書いた『愛染韻』昭和26年
志功と谷崎潤一郎との出逢いは、谷崎潤一郎の『鍵』などの装幀画を介してなどに由来するが、これらのことについては、『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』などが、そのベースになるものであろう。
『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「口絵 歌々画柵 『雪山 』(「国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2486327/1/12
この「口絵/歌々画柵/『雪山』」については、次のアドレスで、「谷崎潤一郎と棟方志功との会話」が紹介されている。
https://www.e-tsuyama.com/kankou/check/munakata/profile.html
[ はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々
谷崎 あれはなかなか面白い。
棟方 ああいう情景が......。
谷崎 字の組み合せが......。歌の組み合せが。あなたは字がなかなか面白いのね。
棟方 いやどうも。又板で彫ると、又字が別に動いて来ますな。
谷崎 俳句の、この間の何とか......あなたの。
棟方 原石鼎(はらせきてい)の「青天抄」ですか。
谷崎 「青天抄」。あれなかなか面白いね。
神林 「はるけくも北に海ある国に来て南になりぬ雪の山々」はどちらでお作りになった歌ですか。
谷崎 あれはね、鳥取の方に行った時。
神林 あの、戦時の疎開で津山にいらしった頃ですか。
谷崎 あの時とは違う。
棟方 津山もいいところだったな。鶴ヶ城という城があって。
谷崎 鶴山城!
棟方 ええ、鶴山城。いいところでしたね。あそこでわたくしの歌が一つあるんですよ。
おくられて来しを身ながらおくらるる人の悲しさかえりみもせず......(笑)。
谷崎潤一郎 歌 棟方志功 板「歌々板画巻」より ](「棟方志功・柳井道弘 略歴および資料」)
『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「鍵板画柵」では、次の「陰翳の柵」と「大首の柵」が収載されている。
なお、『棟方志功全集1 物語の柵』の「鍵板画柵」では、次のように記述されている。
[ 棟方と谷崎は昭和二十二年、京都祇園の十二段家を経営する西垣光温の介して知りて以来、棟方は谷崎の求めに応じて京都白川畔の寓居「潺湲亭(せんかんてい)」の字を書き、谷崎は棟方の求めに応じて富山県福光の家を「愛染苑(あいぜんえん)」と命名して書を贈ったりの交渉があった。棟方はー――福光では、家も建てました。この家は谷崎潤一郎先生が「愛染苑」と命名してくれました。谷崎先生とは、のち三十一年に『鍵』の挿絵板画を作り、一緒に仕事をしました。(『わたばゴッホになる』) ー――と記している。棟方は同じく昭和三十一年に谷崎の短歌を入れた「歌々板画巻」も制作している。 ])
「上図=「陰翳の柵」/下図=「大首の
https://dl.ndl.go.jp/pid/2486327/1/188
「愛染苑・鯉雨画斉」の「鯉雨画斉」の「鯉雨」については、『棟方志功板画(柳宗悦編・筑摩書房)』所収「鯉雨」(棟方志功随筆集)の、その「鯉雨」に、その由来記が記されている。
『棟方志功全集1 物語の柵』所収「鯉雨」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/84
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/85
https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/86
[ 棟方志功の随筆集『鯉雨』の中に収められている挿絵板画である。挿絵の色は一つ一つ棟方の手によって直接裏手彩色が施されている。棟方は「鯉雨」という言葉を好み、昭和二十一年から六年間、富山県の福光町に住んでいた自宅のアトリエを「鯉雨画屋(画斉)」と称し、また同文字を刻んだ落款を晩年までたびたび作品に用いた。文中の、かの子さんというのは、岡本かの子、宮澤さんというのは宮崎賢治のことである。この随筆は昭和二十三年七月一日、北海道民芸協会から限定二百部で発行された。版元は鶴文庫、印刷は札幌の文栄堂が担当した。 ]
この棟方志功の随筆集『鯉雨』の、その冒頭の部分は、次のようなものである。
[ 鯉雨画屋は、これはわたくしが昨冬の冬に、この富山県西砺波郡福光町の愛染苑と構えた所に建てた画屋です。「鯉雨」という文字は訳が判って付けたものではありません。訳の判らない答えの持たないモノ、いわゆる文字の化物(バケモノ)が欲しかったのですよ。
こい、りう、どちらに読んでいただいてもよいのですよ。禅振(ぶ)って貰えれば、公案「鯉雨」とね。なかなか音(おん)が叶(かな)って美しい鯉雨。(以下略) ]
この「鯉雨画斎(画屋)」に、「赤鯉の瀧を上る図」と「鰻・亀・鯰の下る図)」そして「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)と「柳宗悦(「床軸の書」)」とのスナップ写真が下記図である。
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
鯉雨画斎の押入れの板戸の絵(「赤鯉の瀧を上る図(左)」と「鰻・亀・鯰の下る図(右)」)そして、「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)と「柳宗悦(「床軸の書」)=杉戸の左」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
「赤鯉の瀧を上る図(左図)」(部分図)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
「鰻・亀・鯰の下る図(右)」(部分図)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
「浜田庄司の火鉢」(板戸の手前)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
「柳宗悦(「床軸の書」)」(板戸の右)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
そして、「河井寛次郎」は、次の「神棚」である。
「河井寛次郎(神棚)」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
さらに、この「鯉雨画斎(屋)」の落成祝いの、屏風の「寄書き(出席者)」が下記図である。
「鯉雨画斎築成寄悦」
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
[ (抜粋) 「この家ができた翌年の昭和22(1947)年5月17日に、お祝いの会をしている。そこに集まった人たちの名前です。柳宗悦さん、大原総一郎さん、ほら、倉敷の大原美術館の。そして、濱田庄司さん、河井寬次郎さんなど」
もちろん、地元の民藝の愛好家も。北日本新聞社の社長や魚屋の主人まで。交流の幅が広いことがうかがえる。 ](「和楽(あまりにも自由でポップだ!巨匠・棟方志功が富山で生んだハイテンションな「ムナカタ作品」))
「鯉雨画斎(屋)」=「棟方志功住居」(外側)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
「鯉雨画斎(屋)」=「棟方志功住居」(内部)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
[『定本普羅句集』所収「写真(その内の一葉)」(『国立国会図書館デジタルコレクション』)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/6
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-17
http://atky.cocolog-nifty.com/manyo/2011/11/post-2bdc.html
[ 棟方志功同様、富山市に疎開していた前田普羅と棟方志功を結び付けたのも、石崎俊彦氏だったのである。冊子に載っている宇賀田達雄氏による「石崎俊彦と棟方志功」によると、「昭和二十年の初夏の頃、石崎は棟方に頼まれて、棟方の疎開報告と、裏山の白い花の一枝を託されて、富山市に住む前田普羅を訪ねている」のである。
棟方志功夫妻と前田普羅とが、石崎氏という案内役を得て、昭和二十一年六月には、戦後初めてのピクニック(福光町西郊の桑山)に行き、大変喜んだというエピソードも、宇賀田氏の一文には載っている。]
この茶室兼用になっている部屋の「柱時計」の左側の「栴檀(せんだん)殿」の書は、「富本憲吉筆」で、「この屋敷内にあるセンダンの木より栴檀殿と。」とのことが、下記のアドレスで紹介されている。その下の図は、「棟方がデザインした昭和26年の北国銀行のカレンダー。」とのことである。
https://yamaniwa11.exblog.jp/33278909/
「棟方がデザインした昭和26年の北国銀行のカレンダー」
https://yamaniwa11.exblog.jp/33278909/
(その三十一) 「大雪となりて今日よりお正月」

「大雪となりて今日よりお正月」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110

『定本普羅句集』所収「第一章・普羅句集」(『国立国会図書館デジタルコレクション』)「新訂普羅句集」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/90
この掲出の句は、昭和九年(一九三四・普羅=四十九歳)、「鐘釣温泉」(「立山連峰と後立山連峰に挟まれた黒部峡谷の山間部、西鐘釣山の南麓に、鐘釣温泉旅館(木造2階建て、収容人数60名)と鐘釣美山荘の2軒の宿泊施設が存在する]。) での一句のようである。
E3808FE4B8BBE8A681E59CB0E5908D(E6A682E795A5E3808CE4BD8DE7BDAEE59BB3E3808D)-thumbnail2.jpg)
『栖霞品(普羅・俳句/志功・板画)』主要地名(概略「位置図」)
[「国別三部作句集(『春寒浅間山(第五句集)=浅間山・(草津)白根山)』/『飛騨紬(第六句集)=乗鞍岳・飛騨一之宮水無神社・位山」)』/『能登蒼し(第七句集)』=能登・富山・立山連峰)』)」、「大和(奈良=関屋)・山城(京都)・尾張(名古屋)」、「甲州(駒ヶ岳・奥白根=白根三山・八ヶ岳・茅ヶ岳・瑞牆山)、そして、「安房・上総=(普羅の父方・前田家生家の地「千葉県長生郡白子町関)」・「東京(普羅の生地?)・横浜(普羅の母方の地・富山移住前の主たる居住地)」など。]
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-01
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-07
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-11
上記の位置図(概略図)ですると「立山」近傍での作で、普羅、四十九歳の、「『辛夷』の主宰者となり、『普羅句集』を出版し、続く、『新訂普羅句集』を刊行した、普羅の、「ホトトギス」時代の絶頂期の一句ということになる。
「大雪となりて今日よりお正月」の、この主たる季語は、「お正月」(新年)である。
[ 正月(しょうがつ、しやうがつ) 新年
【子季語】 祝月、元月、はつつき、初春月、初空月、正陽月、春正月、王春、開春、発歳、芳春、初節、王正、月正、天正、地正
【解説】 一年の一番初めの月、つまりいちがつのこと 。お正月と「お」をつけて呼ぶのはこの月だけ。松飾を立て、鏡餅を飾り、雑煮を食べて一年の無病息災を願う。
【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【例句】
膳立てもまだ正月の匂ひかな 支考「誹語曾我」
正月も身は泥のうなぎかな 嵐雪「其角歳且糠」
正月や霞にならぬうす曇 許六「五老文集」
正月や皮足袋白き鍛冶の弟子 闌更「半化坊発句集」
正月の顔に成りけり小職人 樗良「題林集」
一酔に正月暮れし思ひかな 青木月斗「昭和文学全集」
正月や皹の手洗ふねもごろに 杉田久女「杉田久女句集」 ](「きごさい歳時記」)
句意は、「この大晦日は大雪である。その大晦日が過ぎて、今や、大雪ではあるけれども、実に、晴れやかな、一月一日、『お正月』である。」
(追記) 越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その八)
前田普羅にとって、この昭和九年(一九三四)、四十九歳時の、「大雪となりて今日よりお正月」は、まさに、これまでの、艱難辛苦の「大雪」から、晴れやかな「門出」の「一月一日」という思いがしたことであろう。
そして、この作は、何と、立山連峰の麓の秘境「鐘釣温泉」での一句なのである。その普羅の絶頂期にあって、前田普羅は、おそらく、単独行の、「孤愁の俳人」さながらの、その真骨頂の、「大雪となりて今日よりお正月」という、その時の、その心情吐露の一句のようなイメージが湧いてくる。
ここで、「前田普羅略年譜(未了)」を掲げて置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
[ 前田普羅略年譜(未了)」
※「横浜時代(大正元年《「ホトトギス」投句》~大正十三年五月《「富山市」赴任前》)
明治18年 (1885/1歳) (明治17年とも)横浜市(現)北方町に生まれる、また東京ともいう。
※※明治33(1900/15歳) 母りせ死亡、父再婚(中村すて)。
※※明治43(1910/25歳) 本家筋の前田ときと結婚。
大正元年(1912/27歳) はじめてホトトギスに投句する。
大正3年(1914/29歳) ホトトギス誌に「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と推賞される。
※※大正7年(1918/33歳) 継母すて死亡。
※※大正11年(1922/37歳) 1月 長女明子出生、同年2月 父丑松死亡。
※※大正12年(1923/38歳) 9月 関東大震災により罹災。
※「富山時代(上)( 大正十三年五月《報知新聞富山支局長として赴任》~昭和四年四月《報知新聞退社》)
大正13年(1924/39歳) 報知新聞富山支局長として富山市に赴任する。
大正15年 (1926/41歳) 『辛夷』雑詠選者となる。
※「富山時代(下)( 昭和四年四月《「辛夷」主宰者に》~昭和二十年八月《空襲により罹災》
昭和4年 (1929/44歳) 辛夷の編集発行を担当し、『辛夷』経営の責を負う。 報知新聞社を辞し、富山永住を決意する。
同5年(1930/45歳) 普羅句集を出版する。
同7年(1932/47歳) 辛夷選句集『雪国』を出版する。
同9年(1934/49歳) 『新訂普羅句集』を出版し、その序文に「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の言葉を記す。
同12年(1937/52歳) 東京日日新聞に「甲斐の山々」5句を発表する。
同18年(1943/58歳) 句集『春寒浅間山』を出版する。※※同18年1月23 妻とき気管支喘息のため死亡。
同20年(1945/60歳) 富山県福光町(現・南砺市)に疎開してきた棟方志功と親交を結ぶ。同年 8月1日の富山大空襲にて普羅庵を焼失し、津沢町 (現・小矢部市)に疎開する。
※「戦後」(昭和二十年八月《転々として居住定まらない時代》~昭和二十九年八月《逝去》)
同22年(1947/62歳) 句集『飛騨紬』を出版する。
同23年 (1948/63歳) 棟方志功が普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表する。※※同年7月 長女明子結婚。
同25年 (1950/65歳) 句集『能登蒼し』を出版する。
同26年 (1951/66歳) 東京郊外矢口に居を移す。
同29年(1954/69歳) 立秋(8月8日)の日に逝去。 ]

「ミシシッピー河の自板像の柵」 1965年(昭和40年)/板画
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
[ 南砺市立福光美術館の土居氏に、ムナカタ作品の中で、どの作品が一番好きかと聞いたときのこと。彼女は、難しいと、うーんと唸ってから一言。
「作品というより…どちらかというと『生き方』が好きですね。マイナスから始まる、でもそれをプラスに転じるところ。例えば、油絵を目指そうにも目が悪いとか、それをただ嘆くのではなく、今度は版画へと転じて我が道を行く。そういう生き方です」
コチラの自画像。
冒頭の画像にもあったが、じつは油絵ではなく「版画」。「版画」の概念を覆すような鮮烈な色遣いに驚く方も多いだろう。
いや、棟方志功という人物からすれば「板画」といった方がよいのか。今回の記事では、文中で「版画」と「板画」を、あえて使い分けて表記した。
というのも、彼は、このような言葉を残しているからだ。
「「板画というものは、板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだとおもいましてね…(中略)…板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたんです」 (花深処無行跡より一部抜粋) 」(「和楽(あまりにも自由でポップだ!巨匠・棟方志功が富山で生んだハイテンションな「ムナカタ作品」)
ここで、棟方志功の、「富山(「福光時代」)の、その「略年譜」を掲げて置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-13
[ 「富山福光時代の棟方志功(略年譜)」
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9584.html
昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。
5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。
年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。
昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。
5,6月、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。
12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。
細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。
「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)
「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)
昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。
福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。
細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。
「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)
昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。
10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。
臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。
「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)
昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。
「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)
「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)
昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。
小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。
「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)
昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。
フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。
12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。
「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)
「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ) ]

「宿業者是本能則感應道交」(棟方志功書)
https://mizutotakumi.jp/stories/482/
この「宿業者是本能則/感應道交(しゅくごうはこれほんのう/すなわちかんのうどうこう)」とうことについては、[“宿業は人間の理知によって知られるものではない。生まれながらにして与えられている本能である。人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である。宿業の主観である。だからして、宿業の中に自己がある。それで人間は宿業を知らしてもらった時は、すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。”《曽我量深著『歎異抄聴記』》]に由来があるようである。
上記のアドレスに因ると、この「宿業者是本能則感應道交」との「出逢い」について、次のとおり紹介されている。
[ 版画家の棟方志功さんは、極端に視力が弱く画家として絶望のふちにいましたが、戦時中の疎開先富山の念仏道場で、曽我量深(真宗僧侶,仏教学者)が書いた『宿業者是本能則感應道交』の短冊を見て、感銘を受けます。
「うわぁ!」と叫んでそこらじゅうをころげまわり、「ついにやった!ついにやった!」「これだ!これだ!」とわめくと、立ち上がって「絵の具をとってくる」と言って自転車で飛んで行き、戻ってくると二階の法話室に駆け上がってふすま四枚全部引き倒し、春夏秋冬の観音四体を描き、その裏に筆でこの言葉を一気に書きあげたと云います。
絶望を希望に変えた瞬間でした。
仏と通じ合えた瞬間でした。 ]

「念仏者 棟方志功(むなかたしこう)」
https://tarou310.hatenablog.com/entry/2023/07/20/053647
このアドレスの、「感応道交(かんのう‐どうこう )」=「仏語。仏と人間とが融和すること。人に応じた仏のはたらきかけと、それを感じとる人の心とが相交わり、合致すること。」という、この周辺のことに関連して、「棟方志功(宿業者=志功)」と「前田普羅(宿業者=普羅)」との決定的に異なる点は、「棟方志功(宿業者=志功)」が、「二人行(「仏・他者)との二人行」の世界ならば、「前田普羅(宿業者=普羅)」は「一人行(自然=地貌と自者)」との「一人行」の世界ということに解したい。
「大雪となりて今日よりお正月」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/110
『定本普羅句集』所収「第一章・普羅句集」(『国立国会図書館デジタルコレクション』)「新訂普羅句集」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12535024/1/90
この掲出の句は、昭和九年(一九三四・普羅=四十九歳)、「鐘釣温泉」(「立山連峰と後立山連峰に挟まれた黒部峡谷の山間部、西鐘釣山の南麓に、鐘釣温泉旅館(木造2階建て、収容人数60名)と鐘釣美山荘の2軒の宿泊施設が存在する]。) での一句のようである。
『栖霞品(普羅・俳句/志功・板画)』主要地名(概略「位置図」)
[「国別三部作句集(『春寒浅間山(第五句集)=浅間山・(草津)白根山)』/『飛騨紬(第六句集)=乗鞍岳・飛騨一之宮水無神社・位山」)』/『能登蒼し(第七句集)』=能登・富山・立山連峰)』)」、「大和(奈良=関屋)・山城(京都)・尾張(名古屋)」、「甲州(駒ヶ岳・奥白根=白根三山・八ヶ岳・茅ヶ岳・瑞牆山)、そして、「安房・上総=(普羅の父方・前田家生家の地「千葉県長生郡白子町関)」・「東京(普羅の生地?)・横浜(普羅の母方の地・富山移住前の主たる居住地)」など。]
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-01
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-07
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-11
上記の位置図(概略図)ですると「立山」近傍での作で、普羅、四十九歳の、「『辛夷』の主宰者となり、『普羅句集』を出版し、続く、『新訂普羅句集』を刊行した、普羅の、「ホトトギス」時代の絶頂期の一句ということになる。
「大雪となりて今日よりお正月」の、この主たる季語は、「お正月」(新年)である。
[ 正月(しょうがつ、しやうがつ) 新年
【子季語】 祝月、元月、はつつき、初春月、初空月、正陽月、春正月、王春、開春、発歳、芳春、初節、王正、月正、天正、地正
【解説】 一年の一番初めの月、つまりいちがつのこと 。お正月と「お」をつけて呼ぶのはこの月だけ。松飾を立て、鏡餅を飾り、雑煮を食べて一年の無病息災を願う。
【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【例句】
膳立てもまだ正月の匂ひかな 支考「誹語曾我」
正月も身は泥のうなぎかな 嵐雪「其角歳且糠」
正月や霞にならぬうす曇 許六「五老文集」
正月や皮足袋白き鍛冶の弟子 闌更「半化坊発句集」
正月の顔に成りけり小職人 樗良「題林集」
一酔に正月暮れし思ひかな 青木月斗「昭和文学全集」
正月や皹の手洗ふねもごろに 杉田久女「杉田久女句集」 ](「きごさい歳時記」)
句意は、「この大晦日は大雪である。その大晦日が過ぎて、今や、大雪ではあるけれども、実に、晴れやかな、一月一日、『お正月』である。」
(追記) 越中(富山)での、前田普羅と棟方志功(その八)
前田普羅にとって、この昭和九年(一九三四)、四十九歳時の、「大雪となりて今日よりお正月」は、まさに、これまでの、艱難辛苦の「大雪」から、晴れやかな「門出」の「一月一日」という思いがしたことであろう。
そして、この作は、何と、立山連峰の麓の秘境「鐘釣温泉」での一句なのである。その普羅の絶頂期にあって、前田普羅は、おそらく、単独行の、「孤愁の俳人」さながらの、その真骨頂の、「大雪となりて今日よりお正月」という、その時の、その心情吐露の一句のようなイメージが湧いてくる。
ここで、「前田普羅略年譜(未了)」を掲げて置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-10-24
[ 前田普羅略年譜(未了)」
※「横浜時代(大正元年《「ホトトギス」投句》~大正十三年五月《「富山市」赴任前》)
明治18年 (1885/1歳) (明治17年とも)横浜市(現)北方町に生まれる、また東京ともいう。
※※明治33(1900/15歳) 母りせ死亡、父再婚(中村すて)。
※※明治43(1910/25歳) 本家筋の前田ときと結婚。
大正元年(1912/27歳) はじめてホトトギスに投句する。
大正3年(1914/29歳) ホトトギス誌に「大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と推賞される。
※※大正7年(1918/33歳) 継母すて死亡。
※※大正11年(1922/37歳) 1月 長女明子出生、同年2月 父丑松死亡。
※※大正12年(1923/38歳) 9月 関東大震災により罹災。
※「富山時代(上)( 大正十三年五月《報知新聞富山支局長として赴任》~昭和四年四月《報知新聞退社》)
大正13年(1924/39歳) 報知新聞富山支局長として富山市に赴任する。
大正15年 (1926/41歳) 『辛夷』雑詠選者となる。
※「富山時代(下)( 昭和四年四月《「辛夷」主宰者に》~昭和二十年八月《空襲により罹災》
昭和4年 (1929/44歳) 辛夷の編集発行を担当し、『辛夷』経営の責を負う。 報知新聞社を辞し、富山永住を決意する。
同5年(1930/45歳) 普羅句集を出版する。
同7年(1932/47歳) 辛夷選句集『雪国』を出版する。
同9年(1934/49歳) 『新訂普羅句集』を出版し、その序文に「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」の言葉を記す。
同12年(1937/52歳) 東京日日新聞に「甲斐の山々」5句を発表する。
同18年(1943/58歳) 句集『春寒浅間山』を出版する。※※同18年1月23 妻とき気管支喘息のため死亡。
同20年(1945/60歳) 富山県福光町(現・南砺市)に疎開してきた棟方志功と親交を結ぶ。同年 8月1日の富山大空襲にて普羅庵を焼失し、津沢町 (現・小矢部市)に疎開する。
※「戦後」(昭和二十年八月《転々として居住定まらない時代》~昭和二十九年八月《逝去》)
同22年(1947/62歳) 句集『飛騨紬』を出版する。
同23年 (1948/63歳) 棟方志功が普羅の俳句を刻した板画句集『栖霞品(せいかぼん)』を発表する。※※同年7月 長女明子結婚。
同25年 (1950/65歳) 句集『能登蒼し』を出版する。
同26年 (1951/66歳) 東京郊外矢口に居を移す。
同29年(1954/69歳) 立秋(8月8日)の日に逝去。 ]
「ミシシッピー河の自板像の柵」 1965年(昭和40年)/板画
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/138119/
[ 南砺市立福光美術館の土居氏に、ムナカタ作品の中で、どの作品が一番好きかと聞いたときのこと。彼女は、難しいと、うーんと唸ってから一言。
「作品というより…どちらかというと『生き方』が好きですね。マイナスから始まる、でもそれをプラスに転じるところ。例えば、油絵を目指そうにも目が悪いとか、それをただ嘆くのではなく、今度は版画へと転じて我が道を行く。そういう生き方です」
コチラの自画像。
冒頭の画像にもあったが、じつは油絵ではなく「版画」。「版画」の概念を覆すような鮮烈な色遣いに驚く方も多いだろう。
いや、棟方志功という人物からすれば「板画」といった方がよいのか。今回の記事では、文中で「版画」と「板画」を、あえて使い分けて表記した。
というのも、彼は、このような言葉を残しているからだ。
「「板画というものは、板が生まれた性質を大事にあつかわなければならない。木の魂というものをじかに生み出さなければダメだとおもいましてね…(中略)…板の声を聞くというのが、板という字を使うことにしたんです」 (花深処無行跡より一部抜粋) 」(「和楽(あまりにも自由でポップだ!巨匠・棟方志功が富山で生んだハイテンションな「ムナカタ作品」)
ここで、棟方志功の、「富山(「福光時代」)の、その「略年譜」を掲げて置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-11-13
[ 「富山福光時代の棟方志功(略年譜)」
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9584.html
昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。
5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。
年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。
昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。
5,6月、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。
12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。
細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。
「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)
「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)
昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。
福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。
細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。
「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)
昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。
10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。
臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。
「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)
昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。
「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)
「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)
昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。
小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。
「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)
昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。
フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。
12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。
「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)
「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ) ]
「宿業者是本能則感應道交」(棟方志功書)
https://mizutotakumi.jp/stories/482/
この「宿業者是本能則/感應道交(しゅくごうはこれほんのう/すなわちかんのうどうこう)」とうことについては、[“宿業は人間の理知によって知られるものではない。生まれながらにして与えられている本能である。人間は、理知で宿業を知ろうとしても知られない。人間ぜんたい、自己ぜんたいが宿業である。宿業の主観である。だからして、宿業の中に自己がある。それで人間は宿業を知らしてもらった時は、すでに仏の本願中にある。大慈悲心のうちにある。”《曽我量深著『歎異抄聴記』》]に由来があるようである。
上記のアドレスに因ると、この「宿業者是本能則感應道交」との「出逢い」について、次のとおり紹介されている。
[ 版画家の棟方志功さんは、極端に視力が弱く画家として絶望のふちにいましたが、戦時中の疎開先富山の念仏道場で、曽我量深(真宗僧侶,仏教学者)が書いた『宿業者是本能則感應道交』の短冊を見て、感銘を受けます。
「うわぁ!」と叫んでそこらじゅうをころげまわり、「ついにやった!ついにやった!」「これだ!これだ!」とわめくと、立ち上がって「絵の具をとってくる」と言って自転車で飛んで行き、戻ってくると二階の法話室に駆け上がってふすま四枚全部引き倒し、春夏秋冬の観音四体を描き、その裏に筆でこの言葉を一気に書きあげたと云います。
絶望を希望に変えた瞬間でした。
仏と通じ合えた瞬間でした。 ]
「念仏者 棟方志功(むなかたしこう)」
https://tarou310.hatenablog.com/entry/2023/07/20/053647
このアドレスの、「感応道交(かんのう‐どうこう )」=「仏語。仏と人間とが融和すること。人に応じた仏のはたらきかけと、それを感じとる人の心とが相交わり、合致すること。」という、この周辺のことに関連して、「棟方志功(宿業者=志功)」と「前田普羅(宿業者=普羅)」との決定的に異なる点は、「棟方志功(宿業者=志功)」が、「二人行(「仏・他者)との二人行」の世界ならば、「前田普羅(宿業者=普羅)」は「一人行(自然=地貌と自者)」との「一人行」の世界ということに解したい。