水曜日, 12月 18, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十二・その二十三~その二十五)

 (その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」と(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」

(その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」





 






「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/26





 

「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」の「解説」(「神林良吉」)

 この句は、大正十二年(一九二三、三十七歳)時の作とするのだが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、昭和十二年(一九三七、五十一歳)時の作で収載されている。その前後の句などを見ると、これは、昭和十二年(一九三七)年時の作と解すべきものと思われる。

  日ねもすを鳶のきげんや夏の風

  ※一点の雲なくなんと蟬に風

  木もれ日に背(せ)のひかりみえ法師蝉

  なきやんですぐとぶはやし法師蝉

  夜の蝉電気の紐にとまりけり

 当時の石鼎の住居は、「麻布木村町一一六番地」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜」)で、「有栖宮公園の近くの高台で庭も広く北から南に扇のように広がった得な地割りで、眼下に桜の樹々もあり聖心女学院の塔がかなたに見えた」(『石鼎とともに(原コウ子著)』)と、コウ子は記している。

 この年に、原石鼎の自選句集『花影』が改造社より刊行された。この『花影』は、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/3





 








『花影(目次)』 : 自選句集 (現代自選俳句叢書 ; 第1)/ (著者・原石鼎 著・出版者・改造社・出版年月日・昭12年)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/4

 この「目次」の「五篇」を年次別に見ると、次のとおりとなる(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「解説・他句の連想を拒絶する俳句(海上雅臣稿)」)。


深吉野篇 → 大正元年(一九一二)秋より同二年(一九一三)まで

海岸篇  → 大正二年(一九一三)秋より同四年(一九一五)まで

都会篇(一/牛込・麹町時代)→大正四年(一九一五)春より同八年(一九一九)秋まで

都会篇(二/竜土町時代)  →大正八年(一九一九)秋より昭和二年(一九二七)初秋まで

都会篇(三/木村町時代)  →昭和二年(一九二七)初夏より同十二年(一九三七)春まで

 さらに、この石鼎の自選句集『花影』の刊行周辺のことに関して、山本健吉の、次のような記述がある。

[ 「改造社」では大正末期以来現代歌人の自選歌集を何冊か出し、その頃は第三期として六人ほどの歌人の人選を進めている。併せて自選句集を出そうするという企画が決り、「俳句研究」編集主任菅沼純治部を中心に私も加わって、人選を検討した。・・・ 石鼎はその名声に比して、それまで不思議に一つの句集も出していなかったから、蛇笏の『霊芝』秋桜子の『浮葉抄』誓子の『玄冬』石鼎の『花影』の四冊が相次いで出たが、『葛飾』や『凍港』で秋誓二子の句を知っている読者には、かえって『霊芝』と『花影』の刊行がありがったかったのではないかと思う。(山本健吉「石鼎の時代」、「俳句」35巻第3号)  ](『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎全年譜(海上雅臣稿)」 )。

 ここで、当時(昭和十二年=一九三七)の、「虚子・『ホトトギス』」の一大勢力(「旧派」=「ホトトギス」派)に対する、「秋桜子(「馬酔木」主宰))・誓子(「馬酔木」参加・後に「天狼」主宰)・蛇笏(「雲母」主宰)・石鼎(「鹿火屋」主宰)等の、「新派=現代俳句」とも称するべき「非『ホトトギス』派の、その全貌の一端が、その姿を結実して来る。

 秋櫻子(脱「ホトトギス」) → 『葛飾』・『浮葉抄』

 誓子 (離「ホトトギス」) → 『凍港』・『玄冬』

 蛇笏 (非「ホトトギス」) → 『霊芝』

 石鼎 (断「ホトトギス」) → 「花影」

 ここで、「四S(しいエス)」と呼ばれる俳人は、「秋櫻子・誓子」と「青畝と素十」で、これは、「東(東日本=東京)」の『秋櫻子と素十』」、そして、「西(西日本=京都・大阪)の「誓子と青畝」との、「『ホトトギス』圏内での一つの指標」ということになる。

(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27





 

「「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句 」「解説」(「神林良吉」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27

 この句は、大正五年(一九一六、三十歳)時の作である。当時の「ホトトギス」社は、「牛込船河原町」にあって、原石鼎は、「下宿を牛込新小川町、神楽坂おでんやの二階、米屋二階等を転々として」(京極杜藻「鹿火屋」)、その「ホトトギス」社に、正式な事務員でなく、書生のような形で手助けなどをしていた(市川一男著『俳句百年・稿本』)。


   夜見が浜も由比ガ浜も同じ蜻蛉かな(前書「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海の浪にさまよふ」)


 ※とんぼうの薄羽ならしし虚空かな


 この掲出の「とんぼうの薄羽ならしし虚空かな」は、制作時の、その前の句(夜見が浜も

由比ガ浜も同じ蜻蛉宇かな」の、その「前書き」の「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海

のにさまよふ」に接すると、その句意、そして、この句の背景が明瞭になって来る。 

 この前句の、「夜見が浜」は、石鼎の「故郷の海」の、「山陰(鳥取・出雲)」の「夜見が浜」、そして、次の「由比ガ浜」は、虚子の「ホトトギス」派の句会などで度々訪れている「相模(神奈川・鎌倉)」の「由比が浜」ということになろう。

 とすると、この掲出の句の、この「とんぼう(蜻蛉)」は、当時の、故郷の「山陰(鳥取・出

雲)」(「夜見が浜」)と、放浪して、定職のないまま、今に「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比

ガ浜)とを彷徨っている、当時の、「石鼎」自身の化身として解して差し支えなかろう。

 そして、この「薄羽ならしし」は、その「彷徨っている」、当時の「石鼎」自身の、その

「弱弱しい羽音(はおと)」、そして、それは、その当時の「石鼎」自身の、「生きている証し」の息吹ように、その「虚空」(「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)と「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))とにに、「彷徨っている」・・・、というよう、その句意とその背景ということに解したい。





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」(「裏彩色板画」)→ B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

 例えば、このB図(「裏彩色板画」)に接すると、上記に掲げた、その「句意と背景」とが、棟方志功の「色刷り」(「裏彩色」)によって、そのイメージが、更に鮮明になって来る。

 このB図(「裏彩色板画」)の、上部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は。眼前即景の「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))の「海」の色、そして、下部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は、生れ故郷の「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)の海の色ということになる。

 そして、その中間を占める「岱赭(たいしゃ)=ブラウン(茶)」は、「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))と、山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)とを結ぶ、「虚空」(「何もない空間、大空」)ということになる。

 それに加えて、「蜻蛉」と、その「ならしつつ」の「なら(鳴ら)」に掛けての、「緑(りょく)=グリーン(緑)」は、その「虚空」(「何もない空間、大空」)を彷徨う、その「羽音()はおと」を暗示しているものと解することも出来よう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その十」)」





 







「幾山河の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30


[ 始めぬ

  呪ひやいかで免れむ、

  神に仕ふるに処女子(おとめご)の地をも

  穢さむ夢見しものに

  われふるさとを

  幾山河雪雲深き

  とつくに死にむといふもこと

  はりなれ

  あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとり空晴      ]



 


 







「裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30

[ (晴)れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り            ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


 この上記の、最終章の、棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」(A図)のリズムは、その原文(「佐藤一英詩『大和し美し』)のそれは、B図のとおりとなる。


[ あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとの空晴

  れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り    ] → A図(棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」)

[ あゝ倭、お身の名を再び呼べばわが目にはふるさとの・空晴れ渡り、山々は肌も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くかむも、そをはぐゝまむこころには人目もうらず胸をはだけ

  るを母をさながら光浴び

たり   ]→ B図(佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』の最終章) 


 佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』は、下記のアドレスで紹介されている。

https://shiki-cogito.net/library/sa/satoichiei-yamato.html

[ 詩集『大和し美し』新詩論編輯所版/佐藤一英 第4詩集/昭和8年10月1日 新詩論編輯所 吉田一穂 発行/並製 21.5×15.7cm [6p]ページ 定価 50銭   ]


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十四・その二十五)

(その二十四) 「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」と(その二十五)「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」





 







「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28





 


「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」の「解説」(「棟方志功」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28

 この掲出の句は、昭和十五年(一九四〇、五十四歳)の、『原石鼎全句集(沖積社)』所収では見当たらない。そこでの「蜩・ひぐらし」の句は次のとおりである。


  あかつきのひぐらし萌黄いろに啼く

  六たびづゝ啼きひぐらしの移りけり

  蜩に夕雲はみな金の色

 さらに、この掲出の句は、棟方志功のものなのだが、そこで、「夏の句としては晩(おそ)い時になるかも知れません。けれども、どうしても夏の句です。これほど、夏を感じさせ、夏を騒がせてゐる句はありません」という、それに続く、この「騒がしさこそ人間とも、虫とものモノではなく、唯黙然たる一つであるといふ事なのです」というのは、この句に対する、これらの句をつくった「石鼎」の「蜩・ひぐらし」に対する、その句の鑑賞者、そして、その鑑賞を、おのれの世界(板画の世界)で、その姿を表出させるためには、「石鼎」(作句者)も、そして、「志功」(板画者)その人もまた、「唯黙然たる一つであるといふ事なのです」ということなのであろう。


「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」





 







「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29





 



「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板  」の「解説」(「京極杜藻」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29

 『原石鼎全句集(沖積舎)』は、大正元年(一九一二、二十六歳)の、この句が、その冒頭の一句としてスタートとする。この句は、上記の「解説」(「京極杜藻」)の、「大正元年末のホトトギスに、選者高浜虚子の激賞と共に発表された」、その巻頭の一句である。

 この句の鑑賞は、原石鼎と生涯に亘って、その歩行を一にした、上記の「京極杜藻」のものをもって余すところはない。

https://caphar10.rssing.com/chan-6214340/all_p1.html


(参考)

[一句は、山頂の視界の広がった解放感から思わず「頂上や」ということばが出たのであろう。その高らかな謳い方が「殊に」という措辞によって風の野菊へ一気に収斂してゆく。石鼎俳句はこの句からはじまると言っても過言ではない。実際、この句を含む吉野からの初投句の九句は、「ホトトギス」大正元年十二月号の次巻頭としての登場だった。

 それだけでも読者の瞠目することだったが、さらに翌月の「ホトトギス」には、「石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます」ということばに始まって、長文の虚子の鑑賞文が掲載された。これが、「頂上や」の句を一気に広めたのである。この句の第一の斬新さは初語の打ち出しかたにある。本来「や」とは強い詠嘆を込めるために使われてきた。そのことばが「頂上や」という何気ないことばだったことに虚子は驚いたのである。

 山本健吉は「これほど野菊の本情を捕えた句は、他に知らない。季語でも地名でも主観語でもないただの言葉を、「頂上や」と無雑作に置き、「殊に」とさりげなくそのものの存在を取り出し、「吹かれ居り」と軽く結んださまが、野菊そのものの姿を彷彿とさせるのだ。この軽さ、さりげなさは、後のちまで石鼎の句の特徴の一つと思われる(「俳句」昭和61年3月号)」。

 また、それを読んだ清水哲男氏は「言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。(増殖する俳句歳時記)」と述べている。石鼎の弟子海上雅臣はこの「頂上や」を芭蕉の「古池や」に替わる写生だと小島信夫著『原石鼎』の中で語っている。(岩淵喜代子) ]





 









「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」(「裏彩色板画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


(追記) 「大和し美し」周辺(その一)





 










https://munakatashiko-museum.jp/2020/09/16/post-4811/

[ 油絵を描いていた棟方志功が板画を始めるようになったのは、川上澄生の版画作品《初夏の風》を見たことがきっかけでした。川上自作の詩が彫り込まれている版画を見たとき、棟方は「いいなァ、いいなァ」と、心も体も伸びて行くような気持になっていたそうです。

 棟方は上京する以前から文学を愛する青年で、板画を始めてからも文学者との交友を深めていきました。

 棟方の出世作と言える《大和し美し》は、愛知県出身の詩人佐藤一英が新詩論に発表したものを同郷の文学者福士幸次郎を介して制作の許可を得たもので、棟方作品の中でも傑作のひとつに数えられています。 ]


[棟方志功/むなかたしこう/(1903―1975)

 版画家。明治36年9月5日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。1932年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。1937年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌1956年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、1964年度朝日文化賞のほか、1970年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50年9月13日東京で没。木版画の代表作は『大和(やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしゃか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1974年鎌倉市に棟方板画美術館(2010年閉館)、1975年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。[小倉忠夫 2017年1月19日] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[佐藤一英/さとういちえい/(1899―1979)

   詩人。愛知県に生まれる。早稲田(わせだ)大学英文科予科中退。予科時代、吉田一穂(いっすい)、中山義秀(ぎしゅう)、横光利一(りいち)らと知る。菊池寛(かん)論『軽さと重さ』(1919)によって注目されたが、のちに春山行夫(ゆきお)らと詩誌『青騎士』を創刊。また『文芸時代』『詩と詩論』『新詩論』などに精力的に詩、評論を発表。おもな詩集に、若々しいロマンチシズムに彩られた処女詩集『晴天』(1922)、『故園の莱(あかざ)』(1923)、『魂の楯(たて)』(1942)などのほか、第二次世界大戦後の時代状況を歌った『乏しき木片』(1947)、『幻の鐘』(1948)などがある。新韻律詩を実践提唱したことでも知られ、『新韻律詩論』(1940)がある。[原 子朗] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[福士幸次郎/ふくしこうじろう/(1889―1946)

 詩人。青森県弘前(ひろさき)に生まれる。国民英学会卒業。1909年(明治42)、人見東明(とうめい)の推薦で『自然と印象』第八集に『錘(おもり)』などの詩を発表。以後『創作』『新文芸』『スバル』などに寄稿。12年(大正1)、千家元麿(せんげもとまろ)らと『テラコツタ』、翌年には『生活』を創刊した。詩集『太陽の子』(1914)、『展望』(1920)で人道主義風な生命の歌を平易な口語体で書いた。『日本音数律論』(1930)、『原日本考』(1942)などの特色のある研究評論書もある。[安藤靖彦]  ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

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