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木曜日, 8月 03, 2006

若き日の蕪村(その九)



若き日の蕪村(その九)

(一〇一)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させ、次のとおり独特の蕪村の絵画論を展開している。

○「春風馬堤曲」は、蕪村の故郷毛馬から大阪に出た女が、帰郷して、毛馬の堤にさしかかったときの有様を、漢詩、自由詩、俳句をおりまぜながらうたった、きわめて異色のある詩である。ある意味では、この三種の文体が蕪村の絵画、ことに晩年の謝寅時代の絵画にあらわれている、といえなくもなさそうである。つまり漢詩は、南宗的なものを基調としながら、北宗的なもをまでまじえた蕪村の中国画系統の画、文語体の自由詩は、格調高く迫力にとむ独特の水墨画、そして俳句に対応するものは、俳画を主とした和画系統の画である。

 この漢詩的なスタイルに匹敵する「中国的系統の画」(南画)、自由詩のスタイルに匹敵する「水墨画」(南画と俳画との一体化)、そして、俳句のスタイルに匹敵する「和画系統の画」(「俳画」・「俳諧ものの草画」)の、この三つの蕪村の絵画の区分けは、蕪村の絵画の鑑賞上、大きな示唆を与えてくれる。いや、画俳二道を極めた蕪村の生涯を辿る上での必須のキィワードといっても過言ではなかろう。蕪村が始めて登場するのは、豊島露月が編んだ絵入り俳書、『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」(宰町自画)であった。これは、上記の分類ですると、「和画系統の画」に該当し、それは、二十代前半の江戸時代の蕪村を象徴するものでもあろう。そして、その江戸を後にし、京都に再帰して、丹後に絵の修行に出かけた後、讃岐に赴く。ここで、「階前闘奇 酔春星写」と記した「蘇鉄図襖絵」(現在は屏風に改装)を描く。これは、上記の分類の「水墨画」であり、中国風でもなく、されど、俳画風でもなく、その後の画人・蕪村を暗示するような、丹後・讃岐時代の四十代・五十代前半の蕪村を象徴するようなものであろう。しかし、蕪村のその六十八年の生涯において、上記の分類ですると「中国的系統の画」(南画)が最も多く、それは、当時の時代的な一つの風潮であった、祇園南海・柳沢淇園・彭城百川らの、いわゆる勃興期にあった日本南画の影響を最も多く享受した結果ともいえるであろう。そういう意味で、蕪村は大雅とともに「日本南画の大成者」との名を冠せられるのは至極当然のことではあろう。しかし、上記の分類はあくまでも便法であって、とくに、最晩年の、安永七年(一七七八)以降の落款「謝寅」時代の絵画は、上記の分類を超越して、いわゆる「謝寅時代の絵画」として、上記の分類によることなく、独自に鑑賞されるべきものであろう。そして、この時代のものは、「夜色楼台雪万家図」・「峨嵋露頂図巻」・「春光晴雨図」・「奥の細道屏風」など傑作画が目白押しなのである。まさに、蕪村は晩成の画人であり、俳人であり、そういう意味では、常に研鑽を怠らなかった努力の人であったということを、つくづくと実感する。

(一〇二)

『南画と写生画』(吉沢忠著・小学館)では、蕪村の「春風馬堤曲」に関連させての、「中国画系統の画、水墨画、俳画を主とした和画系統の画」の三区分のうちの「俳画」(俳諧ものの草画)について見ていきたい。
 安永六年(一七七九)と推定される蕪村の几董宛ての書簡に、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」との一文があり、蕪村は、この「俳画」(俳諧ものの草画)ということにおいて、相当の自信と相当の覚悟を持っていたことが伺えるのである。その俳画の頂点を極めたものが、芭蕉の紀行文『おくのほそ道』に関連するもので、現在、画巻が三巻、屏風一隻、模写一巻が残されており、それらを年代順に列挙すると下記のとおりである。

一 画巻 右応北風来屯需自書干時安永戌戊(七年)夏六月   夜半亭蕪村
二 画巻 安永戌戊(七年)冬十一月写於平安城南夜半亭自書 六十三翁蕪村
三 屏風 安永己亥(八年)秋平安夜半亭蕪村写
四 画巻 右奥細道上下二巻応維駒之需写於洛下夜半亭閑窓干時
安永己玄(八年)冬十月 六十四翁蕪村
五 画巻(模写) 安永丁酉(六年)八月応佐々木季遊之需書
於平安城南夜半亭中 六十二翁蕪村

 この二番目の図巻は、現在、逸翁美術館蔵のもので、上下二巻の十四面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・高館・尿前の関・山刀伐峠・長山重行亭・市振の宿・曽良先行惜別・大聖寺の全昌寺・等栽草庵・大垣近藤如行亭)で構成されている。そして、三番目の屏風が、山形県立美術館蔵のもので、重要文化財に指定されている。この構成は、その六曲に『おくのほそ道』全文を草し、逸翁美術館蔵の図鑑と同じようなスタイルで、九面(旅立ち・那須の小姫・須賀川軒の栗・佐藤嗣信らの嫁・塩釜の宿・尿前の関・長山重行亭・市振の宿・大垣近藤如行亭)が配置され、全体でまるで一つの画を見るように工夫されている。こういうものは、まさに、画・俳二道を極めて、俳聖・芭蕉の『おくのほさ道』を知り尽くした蕪村ならではの傑作俳画の極地と言えるであろう。そして、蕪村はそのスタートにおいて、露月撰の『卯月庭訓』の「宰町自画」とある「鎌倉誂物」の挿絵(版画)に見られる如く、これらのものを自家薬籠中のものにしていた
ということについては、先に見てきたところのものである。そして、これらの蕪村の生涯の業績は、まさに、「はいかい物の草画、凡(およそ)海内に並ふ者覚無之候」という趣を深くするのである。

(一〇三)

先に触れた、柿衛文庫所蔵の「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)については、内容的には、古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人の俳人を肖像画的に描き、さらに十三人の代表句も記されており(その画作とは別な時点ではあるが)、俳画の範疇に入るのだろうが、そのスタイルは当時の人物画・肖像画に見られる典型的な筆法(狩野派と土佐派の折衷様式)で、蕪村自身が言っている「俳諧ものの草画」(俳画)とは異質なものであろう。そして、この「俳仙群会図」については、その画賛の「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」との元文年間に制作されたものではなく、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)ということについては、先に触れたところである。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

 この「俳諧ものの草画」(俳画)は、一般的には略画・草筆・減筆などともいわれ、簡略な単純化された表現スタイルをとり、この単純化されたスタイルが、丁度、五・七・五と最小の短詩型表現スタイルの俳句と相通ずるものを有している。そして、この略画・草画はしばしば版本となって、この版本が「翻刻・模刻・改刻」などがなされ、いわゆる、蕪村画の「三十六俳仙図」などは、河東碧梧桐によると、「蕪村『俳諧三十六歌仙』は偽作なり」と完全な否定論までなされるに至っている。しかし、まぎれもなく、蕪村はこれらの「俳諧ものの草画」(俳画)では、そのスタートの時点からその晩年の先に触れた「おくのほそ道」関連の図巻などに至るまで、この面においては傑出した画・俳人であり、この流れが、蕪村門下の月渓・九老・金谷などに引き継がれているのである。さらに、蕪村自身、その源流を探ると、英一蝶・野々口立圃・僧古澗明誉・彭城百川などの影響などを受けており、また、渡辺崋山などの別系統のものもあり、この「俳諧ものの草画」(俳画)という世界も、江戸時代を代表する浮世絵と同じく、一つのジャンルを形成していたということも特記しておく必要があろう。そして、この「俳諧ものの草画」(俳画)において、蕪村は自他共に認める第一人者であったことは言をまたない。

(一〇四)

 蕪村の画業の一つとして、この世にその名をとどめている露月撰『俳諧卯月庭訓』の「鎌倉誂物」も版本の挿絵といってもよいものであろう。この蕪村の挿絵は蕪村俳画の源流といえるもので、この挿絵的な俳画が制作された元文二年(一七三七)当時の、蕪村の肉筆画というものは存在しない。そして、その肉筆画が蕪村作としてその名をとどめているものは、その多くが結城・下館のものであって、その作品は以下のとおりである。

○ 陶淵明山水図       三幅対  子漢   下館・中村家
○ 三浦大助・若松鶴・波鶴図 三幅対  四明   同上
○ 漁夫図          一幅   浪花四明 同上
○ 追羽子図        杉戸絵四面 なし   同上
○ 文微明八勝図     紙本淡彩一巻 伝蕪村模 同上
○ 高砂図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・山中家
○ 人物図          三幅対  浪華長堤四明・四明 下館・板谷家
○ 墨梅図         紙本墨画四枚 なし       結城・弘経寺 
○ 楼閣山水図       紙本墨画六枚 なし       同上

 これらの作品が描かれた年代は定かではないが、蕪村の師の早野巴人が亡くなった寛保二年(一七四二)から京に再帰する宝暦元年(一七五一)の約十年間のものであることは確かなところであろう。その落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などからして、これらの作品以外にも相当数の作品を描いたであろうことも容易に想像されるところではある。そして、上記の結城・下館時代の作品のうち、蕪村模写とされている「文微明八勝図」などは、蕪村が本格的に南画を学ぶ切っ掛けになったものであろうと推測されており、この結城・下館時代が、それまでの方向性のなかった蕪村絵画が南画的な方向に舵取りをされた頃であろうといわれている。これらについて、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)では次のように記されている。
○『八種画譜』とは中国の八種の画譜を集めたもので、明末の天啓年間にまとめられて板行され、まもなく、日本にもたらされた。寛文十一年に日本でも困難を克服してようやく翻刻され、さらに宝永七年に再刻された。同じく元禄年間に翻刻された『芥子園画伝』と共に、南画を学ぶものにとっては、それは必要不可欠の教本であった。『芥子園画伝』とは異なり、純粋に南宗的ではないが、それまでよく知られていなかった明画の様式を伝えて、文人墨客に利用され、日本における南画の興隆を促した。関東時代の蕪村は、寛延元年に翻刻されたばかりの『芥子園画伝』の方はまだ見る機会がなかったのではないかと考えられるだけに、『八種画譜』は熱烈に学び、模写をしたことが充分に考えられる。
 
(一〇五)

 「若き日の蕪村」というのは、年代的には、蕪村が京に再帰する宝暦元年(一七五一)以前の、蕪村、三十六歳以前のこととして概略的に使用している。そして、この「若き日の蕪村」時代の初期の絵画の遺品も、また、俳諧(連句・俳句)関連の作品も共に極めて少なく、蕪村がその画俳の二道において真にその名を世に問うて来るのは、京に再帰して、宝暦四年(一七五四)に丹後の宮津行きを決行する以後ということになろう。すなわち、年齢的には、蕪村、四十歳以後ということになる。この四十歳から亡くなる天明三年(一七八三)、六十八歳までの、後半の蕪村の生涯というのは、前半の蕪村の生涯と比して、その情報量も著しく多く、その足跡を辿るということも容易ではあるけれども、いかんせん、その前半の生涯を辿るということは、凡そ至難なことといっても過言ではなかろう。しかし、その前半生の少ない情報を垣間見るだけでも、巷間公然と言われているようなことについて、「果たしてそれは真実なのであろうか」と、そういう洗い直しが必要なのではなかろうかという思いを深くするのである。そのうちの一つとして、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話についても、単に、「洒々落々の『南画』や『俳諧』に身を置いて」のような意味合いで、南画の先駆者たちの、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)と同じようなことなのではなかろうかと・・・、そんな思いもしてくるのである。また、蕪村は己の出生について、「何も語らず、むしろ、それは隠し続けた」ということなどについても、先に触れてきたところであるが、上記の結城・下館時代の絵画作品の落款の「子漢・四明・浪花四明・浪華長堤四明」などを改めて見直すと、蕪村は、「摂津の毛馬の馬堤の遠くに比叡の四明峰を仰ぎ見る」所て生まれ、育ったということをはっきりと語りかけているようにも思えてくるのである。(この時点で、一旦、この「若き日の蕪村」の点と線を結ぶ作業を一区切りとして、「回想の蕪村」ということで、また、違った視点での点と線を結ぶ作業に移ることとしたい。)2006/08/02 一応了。

土曜日, 7月 22, 2006

若き日の蕪村(八)



若き日の蕪村(八)

(九十一)

先に触れた、蕪村が十歳前後の頃に桃田伊信という絵師に絵の手ほどきを受けたということについて、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で紹介されている『俳画の美』(岡田利兵衛著)のその箇所を見てみたい。
それは、天明五年(一七八五)十一月二十五日に、田福・月渓主催で蕪村三周忌追悼会を池田で催したときの刷り物にある次の田福の詞書によるものであった。

※夜半翁、むかし、池田なる余が仮居に相往来し、呉江の山水に心酔し、且、伊信(これのぶ)といへる画生に逢ひて、四十(よそ)とせふりし童遊を互に語りて留連せられしも、又二十(はた)とせ余りの昔になりぬ。ア丶我此(この)翁に随ひ遊ぶ事久し。(以下略)

 この「蕪村三回忌追悼摺物」の紹介に続けて、次のように記している。

※『池田人物誌』に「桃田伊信」の条がある。すなわち氏は桃田、名は伊信。号は雪蕉堂・好古斎。明和二年三月廿日(「稲塚家日記」)池田で没した。蕪村が来池の時、適々この地へ来遊して邂逅したのではなく、宝暦……蜆子図の日初の賛に庚辰(宝暦十年)の年記がある……明和の頃には池田の荒木町(今の大和町で、一部には絵屋垣内といった所があった)に住み、池田に相当の画作をのこしている。たとえば呉服神社拝殿(宮司馬場磐根氏)
左右四枚の杉戸(各タテ一六九糎ヨコ一三八糎)の芦に鶴(向って右二枚)岩に大鷹(向って左二枚)の図とか、建石町法園寺観音堂天井の龍などはすぐれた大作であり。紙本半切の草画「蜆子図」(今所在不明)などもある。落款には「呉江法稿」とか「法眼伊信」などしるされているから、名実ともにすぐれた画家であったと思われる。その手法はすべて大和絵風を加味した狩野派であるが、その出生も画系も明白ではない。ただし『古画備考』の「御仏絵師」の条に神田宗信なるものがあって、その四代に伊信(明和二、正、廿六没、七十九)なる人があるが、この桃田伊信はそれに該当するのではないか。京都の人らしいがそれがどうして池田へ移ったかについては明らかにできない。もしかすると五代栄信に譲って隠棲したのかもしれない、伊信の墓は池田市桃園町の共同墓地にある。正面に「鋤雲翁法眼桃田伊信墓」、向って左側に「天保戊戌三月建之」また中段台石に「施主町中」とあって伊信没後七十三年に町内有志によって建碑されたことがわかる。        

 この記述によると、蕪村が十歳前後の頃に絵の手ほどきを受けたという絵師・桃田伊信は「京都の人らしい」が、池田在住の画家で、この池田には丹後時代以降の蕪村は何回となく訪れていて、その初期の頃に、この池田にてこの絵師・桃田伊信に再会したというのである。

(九十二)

※さて田福はその時点を「二十とせ余りの昔になりぬ」と記していることを拠点とすると天明五年(一七八五)から二十年前は明和二年(一七六五)となり、「余り」を考慮して宝暦末から明和初頭の頃となる。すなわち明和二年没した伊信の最晩年に当たり、蕪村は丹後遊学から帰って讃岐へ旅する前、五十歳の画俳両芸に名声愈々高まった頃池田へ来遊したことが明らかとなる。なお、田福が「伊信といへる書生に逢ひて四十とせふりし童遊を互に語り」といっている点に注目せねばならぬ。ここで「書生」とあるのは勿論いわゆる青年学徒といった意味でなく、画家とか学者を指したものと解する。また「童遊」は童同士の遊びということではない。伊信は明和二年には上掲の墓石の法眼から推して相当高齢と思われる。蕪村は五十歳で両人の年齢に大分の相違があるから、「四十とせふりし」によって、この童遊は享保九年頃、蕪村の八・九歳の童児の頃であり、伊信は三十余歳であったようである。つまり蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する。このことは蕪村にとって重大な歴史の一こまといわねばならぬ。そこで思うのは、蕪村が伊信と画談し。或いは絵の手ほどきをうけたのではなかろうかということである。この頃は十歳になると絵けいこを始める風習があったから、この推定は無理ではない。少なくともこの伊信との童遊によって絵に関心を持ったということはいえるであろう。そうすると蕪村が生涯を画事に託した発端はこの頃にあったと私は思う。その場所はいずれか明らかにし難いが年齢から推して蕪村在郷の時とするべきであろう。これは憶測だが伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか。幼時における四十年前の思い出を、計らずも池田で再会し、留連追憶談笑したのであって、これは特筆すべき事実である。蕪村は天性絵が好きであった。それは追悼集『から檜葉』の「夜半翁終焉記」に「抑(そもそも)此(この)翁、無下にいはけなきより画を好(このみ)て」と几董がかいた記載と合致する。そして桃田伊信が蕪村幼童時の絵心に大きな刺激を与えたと考えられるのである。

 岡田利兵衛氏は、「伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか」として、し、蕪村の生まれ故郷の毛馬村で、「蕪村の八・九歳の童児の頃」に、「伊信は三十余歳で」、「蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する」というのである。しかし、蕪村はその毛馬村のことについては何一つ言い残してはいない。いや、その事実を隠し通そうという痕跡すらうかがえるのである。そして、蕪村の母は蕪村が十三歳の頃に他界している。岡田氏は上記のことを「憶測だが」としているが、「当時、蕪村は京都に居て、その京都で画家伊信と交わった」ということも、「憶測の域」は出ないが十分に考えられるところのものであろう。とにもかくにも、蕪村は十歳前後の頃に、専門絵師との交流があり、「無下にいはけなきより画を好(このみ)て」いたということは、その後の蕪村の生涯を考える上で貴重なことだけは、岡田氏が指摘するごとく、「これは特筆すべき」ことであろう。


(九十三)

岡田利兵衛氏は、その著『俳画の美』でこの桃田伊信と蕪村との出会いについて触れるとともに、『蕪村と俳画』所収の「蕪村の絵ごころ」でも同じようにこの出会いについて記述している。そして、その『蕪村と俳画』の「与謝蕪村小伝」ということで、次のような興味深い記述を続けている。

※蕪村の画の志向は、すでに十歳ならずして萌芽を見せていたのである。画精進の希望をいだきつつ一人旅ができるまで郷里にあって、やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった。江戸で俳諧は一応内田沾山についたといわれるが、元文二年(一七三七)夜半亭早野巴人が帰江したので、石町の夜半亭の内弟子として侍することになり、翌三年『夜半亭歳旦帖』に宰鳥の号で入集している。あらゆる修業において、蕪村が門下生として仕えたのはこの巴人だけで、画も書もすべて師匠をとらなかった。これは巴人が高潔の士であったからで、どんなにその道に長じても俗人であっては相手にしなかったのである。ところがその巴人が寛保二年(一七四二)に没したので、江戸の宗匠は俗人が揃っているので嫌気を催し、巴人門下の友人であった雁宕らの招きによって、留居十年の江戸を去って野総地方に赴くのである。画修業も江戸で積み重ねていたらしく、十四人の俳仙をかいた「俳仙群会図」がある。天明二年に人から頼まれて自ら書いた書詞が同貼されるが、それに「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」と記されており、自ら元文の作であめことを証している。朝滄落款で大和絵風の手法、現存する蕪村画作の最古のものである。

 この記述で、「やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった」ということについては、元文二年説(蕪村二十二歳)や享保二十年説(蕪村二十歳。この頃までに江戸に下るという説)と異なる。それは、上記の「俳仙群会図」(「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」)の制作時期との関連で江戸下向を早めたということなのであろう。しかし、江戸に来て直ぐに、生存中の師の巴人をその俳仙の一人に入れているというのは不自然に思えることと、その印章の「丹青不知老至」が蕪村の丹後時代のものであることからして、蕪村が丹後宮津行きを決行した宝暦四年(一七五四)以降の作と考えると、蕪村十七歳の頃に江戸に下向したという必然性も乏しいように思われるのである。それよりも、巴人が京都に上洛した享保十三年(一七二八)以降の巴人京都滞在中に面識があり、その面識の後、享保十七年の頃、江戸に下向したということであれば、この享保十七年説も考えられないことではないという思いがするのである。

(九十四)

 蕪村が十歳前後で、専門絵師の桃田伊信に絵の手ほどきを受けたということが事実としても、伊信は蕪村の絵画の師ということではなく、そもそも、蕪村は、画・俳二道の面において、蕪村自身師と仰いだ方は、当時、俳諧師として関東・関西一円に名を馳せていた夜半亭一世・早野巴人唯一人といって過言ではなかろう。そして、その絵画の面においては、画・俳二道の面において著名な英一蝶(画号・朝潮など)・小川破笠などの影響も受けていたのであろうが、なかでも、俳諧にも造詣が深く南画の画人・榊原(彭城)百川の影響は大きなものがあったろう。この百川の簡単なネット記事は次のとおりである。

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm

元禄十一年(一六九八)~宝暦三年(一七五三)。
 画人。名古屋の人である。名は真淵。百川、蓮洲、八遷と称した。俳諧をよくした関係上、当初は俳画を得意とした。三十一才のとき、京に出て画業に専念した。博学であって、漢書を解したので、元明の図譜より南宗画(文人画)の画風を会得した。それがその後の彼の南画のもととなった。著作に「元明画人考」がある。高遊外との交遊もあった。江戸中期に活躍した画家の一人である。


 興味深いことは、先に触れた蕪村の丹後宮津行きを決行したのが、この百川が亡くなる一年前の宝暦四年(一七五四)であり、何か百川の死と蕪村の丹後宮津行きとの関連もありそうな気配なのである。なお、この頃の蕪村の作品の「天橋立自画賛」には、次のような賛がしてある。

※八遷観百川は、丹青をこのむで明風(みんぷう)を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流(かんりゅう)に擬す。はた俳諧に遊むで、ともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二(註・支考)に出て蓮二によらず、我は晋子(註・其角)にくみして晋子にならず。されや竿頭に一歩をすゝめて、落る処はまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことももとめざるも同じおもむきなり鳧(けり)。されど百川いにしころこの地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行(ゆく)秋ぞ わが今の留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物 かれは橋立を前駈(ぜんく)として、六里の松を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎(でんき)として洛城の東にかへる。ともに此(この)道の酋長(註・風雅の頭領)にして、花やかなりし行過(註・道行)ならずや。
 丁丑(註・宝暦七年)九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中

(九十五)

 蕪村の絵画の面でどういう影響を多く受けていたかということにおいて、桃田伊信・英一蝶・小川破立・彭城百川などを見てきたが、蕪村が「宰町自画」として初めて登場する元文三年(一七三八)に刊行された『俳諧卯月庭訓』の撰者の豊島露月との関係も特記しておく必要があろう。露月は蕪村の師の早野巴人と昵懇の俳諧師でもある。宗因系の露沾の門人で、沾徳、沾涼・露言などと同門で、巴人が元禄二年に京都から江戸に再帰して移り住む江戸本石町に居て、観世流謡の師匠をしながら、総俳書刊行の趣味をもち、多くのものを世に出している。この絵入り版本の一つの『卯月庭訓』に「宰町自画」として、その「鎌倉誂物」が収載されているというのは、元文三年、蕪村が二十三歳の頃、露月の目に留まるほどの絵画の面において実績を有していたということなのであろう。この「宰町自画」の「鎌倉誂物」は、挿絵としての版画であり、その彫師のくせなどもあり、当時の蕪村の画技を論ずることは危険な要素もあろうが、こういう刊行物の一端を担うということは、もうその頃までには、相当の技量を有していたということは言えるであろう。そして、それらのことは、蕪村の俳諧の面ので師の早野巴人はもちろん、その早野巴人を取り巻く夜半亭一門の俳人達は均しく認めるところのものであったのであろう。なお、露月のメモは下記のとおりである。

豊島露月〔本名、治左衛門、貞和。別号、識月・纎月・五重軒〕一七五一(宝暦一)・六・二没<享年八十五歳>・江戸本石町の俳諧師。露沾門下。観世流謡曲師。絵画の家元。撰集に『麻古の手』『江戸名物鹿子』『ひな鶴』『ふたご山』『ふたもとの花』『宮遷集』『倉の衆』など。句に<行年や手拍手にぬぐ腰袴>など。

(九十六)

蕪村は、後に大雅とともに、南画の大成者として日本画壇の中にその名を馳せることになるが、その先駆者としては、荻生徂徠門下で詩文をもってその名をうたわれた服部南郭と土佐の商家に生まれた中山高陽などが上げられる。そして。この南郭と若き日の蕪村に係わりについては、先に、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)の紹介記事で触れた。そして、この南郭・高陽に次いで、南画に大きな影響を及ぼした、祇園南海と柳沢淇園とについては、次のように紹介されている。

祇園南海

http://www.city.gojo.nara.jp/18/persons/nankai.html

延宝四(一六七六)年生、宝暦元(一七五一)年九月八日没。名は玩瑜、字は伯玉、通称は余一、号は南海、蓬莱、鉄冠道人、湘雲居など。和歌山藩医祇園順庵の長男。江戸で生まれ、元禄二(一六八九)年八月、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲らが師事する木下順庵に入門する。父が没した翌元禄一〇(一六九七)年、その跡目を継ぎ、和歌山藩の儒者に二〇〇石の禄で任命され、和歌山に赴く。しかし、元禄一三(一七〇〇)年、不行跡を理由に禄を召し上げあられて城下を追放され、長原村(和歌山県那賀郡貴志川町)に謫居を命じられた。宝永七(一七一〇)年、藩主吉宗に赦されて城下に戻るまで習字の師匠として生計を立てた。正徳元(一七一一)年、二〇人扶持で儒者に復し、新井白石の推挙で朝鮮通信使の接待に公儀筆談を勤め、その功により翌二(一七一二)年、旧禄(二〇〇石)に復し、翌三(一七一三)年、藩校設立に際して主長に任命された。病死して和歌山の吹上妙法寺に葬られた。著作に『南海先生集』、『一夜百首』、『鍾情集』、『南海詩訣』、『南海詩法』、『詩学逢原』、『湘雲鑚語』などがある。

柳沢淇園

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm#柳沢淇園

宝永三年(一七〇六)~宝暦八年(一七五八)大和(奈良)群山藩の武人にして画家。曽根家の次男として生まれ、元服時藩主吉里より柳沢の姓と里一字を拝領し名を里恭とした。字は公美、号は淇園、竹渓、玉桂と称した。皆が柳里恭と呼んで慕った。多才多芸の人望家であったようだ。詩書画は勿論、篆刻、音曲、医療、敬仏の精神と万能な武士。いち早く南画を研究し文人画の先駆を成した。(畸人百人一首より)

この南画の先駆者の二人について、「江戸初期文人画 放蕩無頼の系譜」・[士大夫的性格の系譜](儒教的教養をもつ)と位置付け、さらに、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)との記事が下記のアドレスで紹介されている。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

 これらのことと、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との蕪村にまつわる逸話とは、何か関連があるのであろうか。それとも、これらのことは単なる偶然のことなのであろうか。どうにも気がかりのことなのである。

(九十七)

この祇園南海と柳沢淇園の「不行跡」のことなどに関して、『南画と写生画』(吉沢忠他著)で、次のような興味のひかれる記述がある。
○南海と同様に淇園も「不行跡」が重なったという理由で処罰されている。これは単なる偶然の一致とは思われない。南海にしろ淇園にしろ、その学問の系統は朱子学であるが、道徳と密接にむすびついている朱子学に拘束されることはなかった。かれらには、詩文、芸術の世界がひらけていた。こうした文人的性格をもっていたがゆえに、絵画の世界に遊び「放蕩無頼」とか「不行跡」とみられたのか、あるいは、「放蕩無頼」「不行跡」とみられるような人物であったから、画を描くようになったのか・・・というより両者のあいだには相互関係があったのであろうが、とにかく日本南画の先駆者として数えられるひとびとが、おおやけにこうした烙印をおされていることは、注目してよかろう。淇園の学系は朱子学であったが、幼時から柳沢家の儒官荻生徂徠の影響を受けていた。そんなことからも朱子学に拘束されなかったのかもしれない。

 蕪村が江戸に出てきた当時、服部南郭に師事したと思える書簡(几董宛て書簡)などに係わる対談記事について先に触れた。そして、この服部南郭は、京都の人で、元禄九年に江戸に出て、一時、柳沢吉保に仕え、後に、荻生徂徠門に入り、漢詩文のみならず絵画(画号は周雪など)にも造詣が深かったということなのである。蕪村の誕生した享保元年というのは、享保の改革で知られている徳川吉宗の時代で、この吉宗時代になると、綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保らは失脚することとなる。そして、その吉保の跡を継ぐ柳沢吉里は、綱吉の隠し子ともいわれている藩主で、その吉宗の幕藩体制の改革とこの柳沢由里と深い関係にある柳沢淇園の「不行跡」との関連、さらには、これまた、その吉宗によって失脚される新井白石とは同門(木下順庵門)である祇園南海の「不行跡」との関連など、何か因縁がありそうでそういう一連の当時の大きな幕藩体制の改革などもその背景にあるようにも思えてくるのである。そして、蕪村が師事したという、服部南郭もまた、淇園・南海と同じく、柳沢吉保並びに荻生徂徠門というのは、これまた何か因縁がありそうで、当時の蕪村の生い立ちや関心事のその背後の大きな要因の一つのように思えてくるのである。なお、服部南郭については、下記のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O302L100.HTM

服部南郭

一六八三~一七五九(天和三~宝暦九)江戸時代中期の儒学者・詩人。詩文に長じ,学識豊かで世に容れられること大であった。通称小右衛門,名は元喬,字は子遷,南郭は号。京都の人。一六九〇年(元禄九)十四歳で江戸に出てきて十六歳で柳沢吉保に仕えた。壮年にして荻生徂徠の『古文辞説』に共鳴して門下となる。資性温稚で詩文の才能が世に知られ,北村季吟の門下であった父の感化もあって和歌も詠み絵画にも関心をもっていた。三十四歳のころ,家塾を開き門人を教授し古文辞の学を世に広めた。徂徠の門弟として,経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。収入は年々百五十両あったと言われる。著書のうち四編四十巻にのぼる『南郭先生文集』は本領を発揮した詩文集。「大東世語」「遺契」にはその学識の広さが見られ,「唐詩選国字解書」「灯下書」「文筌小言」は詩文論として評判を高めた。南郭は政治・経済を弁ずることがない点に特徴があるとされている。


(九十八)

 蕪村は、服部南郭に師事したというのが、それがどの程度のものであったのかは定かではない。南郭は、「政治・経済を弁ずることがない点に特徴がある」とされているが、朱子学の正統的な官学としての流れではない、在野の革新的な流れの荻生徂徠門であるということについては、やはり注目すべきことであろう。そして、従前の蕪村伝記については、これら荻生徂徠の影響ということについては等閑視してきたきらいがなくもない。そういうなかにあって、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)は「荻生徂徠の影響」という一項目をあげて、これらについて触れられていることは卓見というべきであろう。ここらへんのところを要約して紹介しながら、関連するようなことを記しておきたい。
○蕪村の学問・教養の基本を成したものがなんであったかについては、本人は明らかにしていない。しかし、かれが大阪の近郊の半農・半工的環境で成長した享保期の学問的状況は判明しているし、また、画俳として身を立ててからの知識の源泉は、その作品から相当程度掘り当てられる。一口に言うならば、それは朱子学のなかの構造論的な系列である。と言えば、直ぐさま念頭に浮かぶのは、荻生徂徠である。徂徠の学問は多岐にわたっているが、その最大の特徴は、政治の世界を道徳とは別のものであると見たこと、そして、文芸・思想においては言語の機能を重視したことに要約できるだろう。それは、道徳的規範を以てすべてを律しようとした従前の文教政策に対する最大の異論であった。
※上記は瀬木前掲書の出だしの部分なのであるが、それに、次のようなことが付記できるのではなかろうか。「蕪村が、その生涯を通して追求して止まなかった、『南画と俳諧』というのは、当時の社会の根底に流れていた、いわゆる朱子学の道徳的規範遵守とは相容れない世界のものであった。ここで、蕪村は荻生徂徠の世界に多くの点で共鳴し、その徂徠門にあって、己が生涯を賭けようとしている『南画と俳諧』の面での先駆者たち(祇園南海・柳沢淇園・彭城百川等)とその先駆者たちと同じ反俗・反権威の清高な気品を保ち続けた俳諧師・早野巴人をその生涯の師とし、それらの師の教示を生涯にわたって実践し続け、その『画俳二道』の頂点を極めた、その人こそ、蕪村であった」と、そんな感慨を抱くのである。

 なお、荻生徂徠のネット紹介記事は以下のとおりである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm

荻生徂徠

綱吉に仕える医師方庵の二男として江戸二番町に生まれる。名は双松、字は茂卿のち茂卿、通称は惣右衛門。はじめ朱子学を学ぶ。伊藤仁斎の古義学を攻撃したが、のち『弁道』『弁名』を著わして、さらにより徹底した古文辞学の立場を確立。1696年(元禄9)以来柳沢吉保に仕え、政治顧問的役割を果たす。 吉保に赤穂浪士の意見を求められ、『擬自律書』を著して処分を上申した。徳川吉宗の内命によって『太平策』『政談』を著し、時弊救済策を述べた。門人に経済理論の太宰春台、詩文の服部南郭らをを輩出し、またその文献学的方法態度は、国学に影響を与えた。元禄・享保時代の社会的変動を思想面に於て最も痛切に受容して、その時代的社会的な問題性と真正面から取り組まんとしたのは、徂徠学である。それはまさしく時代の子であった。さればこそ、成立と共にたちまちにして思想界を風靡し、他派を圧倒するの勢を示したのである。また同時に、時代の子たるが故に、この時代の含む矛盾を自らの中に刻印しており、やがては没落すべき運命をも有していたといえよう。徂徠がその名声を獲得したのは、未だ朱子学者としての立場から古文辞学を打ち樹てたときのことであるが、徂徠学としてのオリジナリティを確立したのは、享保二年の『弁道』及び『弁名』の二書を以てであった。(中略)徂徠学は、一面彼のパ-ソナリティと密接に結びついており、彼のパ-ソナリティは元禄精神の象徴であったとも考えられる。とりわけ、その不羈奔放な豪快さが見られることである。彼は、「熊沢(蕃山)の知、伊藤(仁斎)の行、之に加ふるに我の学を以てせば、則ち東海始めて一聖人を出さん」(先哲叢談)と自負した。故に権門に服するを潔しとせぬ初期からの気風が見られる。徂徠学はなによりもまず政治学たることを本質とする。一面からいえばそれは、徂徠学が修身斉家治国平天下を標語とする儒教思想に属することの当然の結果とも見られるが、他の一切の儒教に於ては政治的なるものは最後的な帰結として現われ、出発点となるのは個人道徳であるに反し、徂徠学では逆に「出発点」をなす。すなわち、政治的価値は常に先行者の地位を占め、個人ないし家族の倫理的な義務の履行という回路を経ないで、端的にその実現が求められた。 彼は問題を二つに分けた。一は、機構の面、他は、これを具体的に運営している人間の面である。そして彼は、この両面から社会病理を追求した。前者について指摘した矛盾は、何よりも第一に、彼が「旅宿の境界」と呼ぶところの武士生活の矛盾であった。(中略)第一には、「旅宿ノ境界」からの武士の脱却をはかること - そのために、武士は領地に帰り、土着して大規模に再生産に従事すること、また戸籍を作成し「旅引」(旅行証明書)を発行して人々の移動を統制することである。第二は、「礼法」を確立して、身分制度を樹立すること。このことは「礼楽」に「道」を求めた徂徠の基本哲学の具体化であり、徂徠学の本来的な思惟方法の発現であって、しばしば誤解されるような「法家」的立場の現われでは決してない。徂徠によれば、朱子学がかかる観念的思弁に陥った論理的要因は、「大極」を「理」としてこれに究極的価値をおくところの儒教的自然法思想に胚胎する。理がいかなる時代にも、またいかなる社会制度にも常にその根底に在って無時間的に妥当しているという考え方、そかもその理は決して現実の社会規範ないし制度を超越せるものではなく、それと必然的な牽連関係を以て、そのような規範に内在するものである以上、かかる理の優位の破壊なくしては、制度的変革を論理的に基礎づけることはできない。つまり「制度ノ立替」と彼がいう場合、その担い手となるのは従来の制度のなかにある人格ではなく、むしろ従来の制度ないし規範から超越した人格である。つまり制度の客体でなくて、それに対し、主体性を有するような人格の予想の下に始めて可能なのである。換言すれば、理の優位でなく、いかなるイデ-をも前提しない現実的具体的な人格を基礎におくことにより、始めて無時間的な理の妥当性が破られうるのである。

(『日本政治思想史講義録』1948 169-180頁 第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成)

(九十九)

『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」は次のように続ける。
○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

※この徂徠の蕪村への影響は、蕪村をして、当時の絵画の主流であった中国北宗画を基本する狩野派よりも、蕪村が生をうけた享保時代前後に入ってきた反官的立場の南宗画に目を向けさせ、蕪村より八歳年下の大雅とともに、その中国風を払拭して日本独特の南画を樹立していくこととなる。そして、そのことは同時に、当時の御用絵師の狩野派の画人からは「文人趣味の手すさび」と批判され、特に蕪村は、中国的規範を遵守する正統的な南画派の画人からはその俳諧的興趣により「橘にして正ならず」(田野村竹田)との「邪道」ともとれる批判をも甘受することとなる。そして、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「漂泊の蕪村」において、次のように「蕪村の蕪村たる所以」を記述している。

○蕪村の蕪村たるゆえんは、画俳であることである。俳人であり、画家であり、また、俳人でもなく、画家でもなく、字義どおり「画俳」という以外にはない蕪村。かれをめぐる論議は止むことなく、いつまでも続くとしても、唯一つ明らかなことは、この復元的にして融合的な不定型の個性を測る尺度は、「近代」にはないということである。

※この蕪村の「画俳」二道の「復元的にして融合的な不定型の個性」は、まさしく荻生徂徠とその学派による影響によるものであろうし、そして、この蕪村をして、その個性を測る尺度は、「近代」にはないというよりも、「現代」においてもないといえるのではなかろうか。そして、つくづく思うことは、「近代」・「現代」とを問わず、「画俳」二道の面において、蕪村と同じレベルに達しているという「復元的にして融合的な不定型の個性」を見出すことは不可能なのではなかろうか。これらのことに思いを巡らすときに、蕪村が突如として、西洋の近代詩に匹敵するような古今に稀なスタイルと内容の俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)やその絵画化とも思われる「夜色楼台雪万家図」などをこの世に残しているその必然性をも垣間見る思いがするのである。


(一〇〇)

 蕪村はその存命中は俳諧師というよりは画人として名が馳せていた。安永四年(一七七五)・天明二年(一七八二)の『平安人物志』にも、いずれも画家の部にあげられている。

安永四年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00065/fr.html

天明二年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00110/fr.html

蕪村は、俳諧師として、明和七年(一七七〇)に夜半亭一世宋阿こと早野巴人の跡を継ぎ夜半亭二世となるが、いわゆる、俳諧師としてその生計をまかなうのではなく、あくまでも画人として暮らしを立て、点者(宗匠)として金銭を貪る当時の俳諧宗匠に対して批判的であった。その俳句も絵画的であることが大きな特徴であることは言をまたない。そして、その俳論も、実は当時の中国画論の影響が著しいのである。蕪村の俳論の代表的なものとして、安永六年(一七七七)『春泥句集序』に書かれた「離俗論」がある。

○画家ニ去俗論あリ。曰、画去俗無他法(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法無シ)、多読書則書巻之気上升(多ク書ヲ読メバ則チ書巻ノ気上升シ)、市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其旃哉(学者其レ旃(こ)レ慎マンカナ)。それ画の俗を去(る)だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(や)詩と俳諧と何の道遠しとする事あらんや。

 『南画と写生画』所収の「南画の大成……池大雅 与謝蕪村」(吉沢忠稿)で、これらのことに関して次のように記している。

○画に俗気をなくすには、多くの書を読まなければならないとするこの去俗論は『芥子園画伝(かいしえんがでん)』の「去俗」からそのまま引用したものであるが、それを蕪村は俳諧に応用したのである。ここに、蕪村の画俳一致論はその理論的根拠をみいだしたのである。
 
 そして、この蕪村の画俳一致論は、南画の先駆者の一人である柳沢淇園の、「先(まず)、絵もから絵(唐絵)より学ぶべし。絵をかく人の常に見るべきは芥子園伝也」(『ひとりね』)の影響下にあることは、これまた言をまたないであろう。ことほど左様に、蕪村は、荻生徂徠とその系譜者たちの影響を、その生涯にわたって享受し、そして、それを忠実に実践していったのである。

若き日の蕪村(七)



(七十六)

ここで、蕪村の絵画の方面について触れてみたい。そもそも、与謝蕪村の出発点は、俳諧師を目指したものなのか、それとも、絵画師を目指したものなのかどうか、これもまた謎である。明治に入って、正岡子規の、いわゆる、俳人・蕪村の再発見以前は、どちらかというと、画人・蕪村という趣であった。すなわち、蕪村は大雅とともに日本の文人画(南画)の大成者として日本画壇の一方の雄として燦然と輝く存在であった。次のアドレスの「日本美術史ノート 江戸中期の絵画 南画 大雅と蕪村」に、その生涯の年譜が紹介されているが、その書画を中心として抜粋すると下記のとおりとなる。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

(書画)

元文二(一七三七)京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席。
寛保二(一七四二)恩師宋阿に死別、同門下総結城の雁宕 (がんとう) に身を寄せる。約十年奥羽などを旅の生活。この頃、結城、下館等に画。
延享一(一七四四)宇都宮で処女句集『歳旦帖』、初めて蕪村の号。  
宝暦一(一七五一)宋阿門流の多い京に上る。俳諧より画業に専心。
(1754-57)丹後宮津(与謝郡、母の墓)に滞在。絵による生活も安定。結婚、一女をもうける。四明,朝滄の号で多彩な様式を試みる。 彭城百川に学ぶ。 狩野派・大和絵系、中国絵画や版本類を研究し自己の画風を形成。
宝暦九(一七五九)沈南蘋を学ぶ。 趙居の落款。
宝暦十(一七六〇)この頃、名を長庚、字を春星、また与謝氏を称する。
(1763-66)山水画の屏風を講組織のために盛んに描く。
(1766-68)二度讃岐滞在。俳諧にも次第に熱意。丸亀妙法寺《蘇鉄図》。
明和七(一七七〇)夜半亭二世、宗匠に。  
(1771)春、歳旦帖『明和辛卯春』を出す。〈離俗論〉。詩(漢詩)・画・俳一致、俳諧の理想境に至る方法。《十便十宜図》池大雅合作。〈十宜図〉。
(1772)安永年間、画の大成期。   
(1776)洛東金福寺に芭蕉庵を再興。この頃〈俳諧物の草画〉俳画の完成。
(1778)以降晩年 謝寅 (しやいん) 落款。芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
(1779)芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
天明三(一七八三)暁台主催の芭蕉百回忌、取越追善俳諧興行。九月宇治田原にきのこ狩に行ったのち病に倒れる。十二月二十五日没、金福寺に葬られる。  

(七十七)

 この年譜の「元文二(一七三七) 京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席」ということは、現に、柿衛文庫に所蔵されている「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)の画賛「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」(この俳仙群会の図は、元文の昔、私が若い時描いたもので、それからもう四十年あまりもたってしまった。だからその下手な筆づかいは今さら恥ずかしい。どうしても焼けなくなってしまわなかったのだろうか)なども念頭にあってのことだろう。この「俳仙群会図」について、山下一海氏は、「古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人を選びその像を描いて朝滄と書名し、その上段に任口以外の十三人の代表句を一句ずつ記している。四十余年後の蕪村が、拙いものだから残っていない方がよかったといっているように、蕪村独自の表現とはなり得ていないにしても、簡素ながら丁寧な描出ぶりは、この時期の蕪村の画投への打ち込み方を十分に窺わせるものである」(『戯遊の俳人 与謝蕪村』)と記している。しかし、この初期の蕪村の傑作作品とされている「俳仙群会図」については、尾形仂氏らによって、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)と、元文時代(二十二歳~二十五歳の頃)のものではなく、宝暦元年(三十六歳)の京再帰後の、丹後時代(三十九歳~四十二歳の頃)の作とされ、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の制作時期を巡っての論争と同じように、その制作時期については、「元文年間説」と「宝暦年間説」とが対立している。この作品を所蔵している「柿守文庫」は、下記の「参考」のとおり、「元文年間説」の記述なのであるか、やはり、その署名の「朝滄」、そして、「丹青不知老到」(白文方印)からして、ここは、尾形仂氏らの「宝暦年間説」(丹後時代)によるものと解したい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

(参考)

 蕪村(ぶそん・一七一六~一七八三)は文人画家として独自の画境を開きました。また、俳諧では「離俗」を理念に、高い教養と洗練された美意識をもって、写実的で浪慢的な俳諧を展開し、芭蕉亡き後の俳壇を導きました。本点は下段に14人の俳仙、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿(巴人)の像を集め、中段に任口以外の13人の代表句を記しています。さらに上段には蕪村が後年になって求めに応じて書き加えた賛詞があり、それによると、「元文のむかし」、すなわち蕪村の21歳から24歳のころの作品で、本図が伝存する蕪村筆の絵画の中では最も初期のものであることがわかります。


(七十八)

この「俳仙群会図」については、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』で、その解説を目にすることができる。その紹介の前に、先の「柿衛文庫」の紹介記事中の、岡田利兵衛こと岡本柿衛に関するものを参考までに以下に掲載をしておきたい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/okada-rihei.html

(参考)

岡田柿衞は明治二五年(一八九二)八月二七日、江戸時代から続く伊丹の酒造家、岡田正造の長男として生まれました。幼名は真三、二六歳のとき利兵衞(リへえ)を襲名。京都帝国大学文学部国文科卒業。梅花女子専門学校、聖心女子大学、橘女子大学などで教鞭をとるとともに、伊丹町長・市長職を務めました。 郷土の俳人、鬼貫(おにつら)に端を発する俳諧資料の収集は、俳諧史全般へと拡大。学術研究上必要な資料の蓄積を、現在の(財)柿衞文庫に遺しました。『鬼貫全集』『俳画の美』ほか著書多数。中でも『芭蕉の筆蹟』は芭蕉筆蹟学の礎を築いた名著。柿衞は号で、歴代の当主が愛でた岡田家の名木「台柿(だいがき)」を衞(まも)るの意を込めたもの。この柿の実は、文政一二年一〇月、頼山陽が母とともに伊丹を訪れた際、「剣菱」醸造元の坂上桐陰の酒席で、デザートに供され、山陽はあまりのうまさに感激したという逸話が残っています。そのとき、山陽はもう一つと所望しましたが、「岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしい」と断られたといいます。柿衞が岡田家伝来品に加え、独自の俳諧資料収集を思い立ったのは昭和一二年、鬼貫の短冊との出合いがきっかけでした。その後終戦前後の一〇年間は積極的に資料を集め、当時の様子を「俳人遺墨入手控」や「俳諧真蹟入庫品番付」に記録しています。番付は相撲好きの柿衞が、前年度手に入れた俳諧関係の真筆資料を相撲の番付に模して作成したもので、たとえば昭和二三年度の東の横綱として「西鶴自画賛十ニケ月」、西の大関として「鬼貫筆にょっぽりと秋の空なる富士の山の一行物」をあげています。柿衞は多趣味で知られ、洋鳥の飼育、写真撮影、高山植物の育成などにも熱中。洋鳥においては、山階芳麿(やましなよしまろ)ら九人で「鳥の会」を結成したり、千坪近い庭に禽舎『胡錦園(こきんえん)」を設けて飼育するほどでした。昭和五七年(一九八二)六月五日、伊丹で没。八九歳でした。柿衞は没するまで、現在の柿衞文庫、伊丹市立美術館、工芸センターの敷地内で暮らし、その家の一部は平成四年一月、「旧岡田家住宅」(店舗・酒蔵)として国の指定文化財となり、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたため、解体修理されています。山陽の愛した台柿(二世)は、柿衞文庫館の庭園で毎秋、独特の実をたくさんつけています。

(七十九)

さて、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』での、「俳仙群会図」の解説は次のとおりである。

右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

元日や神代のこともおもハるゝ           (守武)
鳳凰も出よのとけきとりのこし           (長頭丸)
これハこれハ(註・送り記号)とはかり花のよしのやま(貞室)
手をついで歌申上る蛙かな             (宗鑑)
ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け        (梅翁)
古池や蛙飛こむ水の音               (芭蕉)
桂男懐にも入や閏の月               (八千代)
古暦ほしき人にはまひらせむ            (嵐雪)
いなつまやきのふハひかしけふは西         (其角)
はつれはつれ(註・送り記号)あハにも似さるすゝき哉(園女)
不二の山に小さくもなき月しかな          (鬼貫)
かれたかとおもふたにさてうめの花         (支考)
こよひしも黒きもの有けふの月           (宋阿)
  任口上人の句ハわすれたり
   平安 蕪邨書  謝長庚印 謝春星印

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画
中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 本点上段の句文は『蕪村翁文集』(忍雪・其成編 文化十三年刊)に登載している。原典と異なるところは、句文の前に三行の詞書を加え、本文句中に「何そ・則・斯」の三カ所を漢字に変えている。詞書は下段・中段をはずしたために説明が必要で添付したものであり、原典仮名を改めたのは筆写の手数をはぶくためで、どちらも原典を改変した作為の責めは負わねばならぬ。本点は蕪村最古の絵画として意義深いものであるからカラーで掲げた。

(八十)

この「俳仙群会図」は、この岡田利兵衛氏の解説にあるとおり、「下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作」と三時期に別々にかかれたものであるということと、もし、この下段の画が「元文」年間のものとすると、この岡田氏の指摘のとおり、「蕪村最古の絵画」として誠に意義深いものということになろう。ここで、この三時期の、署名と印章などを見てみると、上段は「天明壬寅春三月 六十七翁 蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印」、中段は「平安 蕪邨書 謝長庚印 謝春星印」、そして、下段の画は「朝滄写 丹青不知老到印」ということになる。この上段の天明期の「謝長庚印 溌墨生痕印」は、蕪村の最高傑作の一つとされている、国宝「十宣図」などで見られるもので、「六十七翁 蕪村書」も、天明三年の「恵比寿図」の「六十八翁蕪村写」とその例を見ることができる。中段の安永期の「謝長庚印 謝春星印」は、これまた、重要文化財の「峨嵋露頂図」などに見られるもので、その「平安 謝蕪邨」の「平安」は「洛東芭蕉菴再興記」、そして、「謝蕪邨」についても、『夜半楽』などにその例を見ることができる(この『夜半楽』の二つの署名の「謝蕪邨」と「宰鳥校」については先に触れた)。問題は、この下段の元文期の画の「朝滄写 丹青不知老到印」なのである。この元文期というのは、蕪村の前号の「宰町・宰鳥」期のものであって、そもそも比肩するものなく、わずかに、元文三年の版本挿絵図の「鎌倉誂物」自画賛(『卯月庭訓』所収)から推測する程度と極めて限られてしまうのである(この「鎌倉誂物」自画賛についても先に触れた)。さらに、この元文期に続く、巴人亡き後の、寛保・延享・寛延時代の、いわゆる、結城・下館・宇都宮を中心とする北関東出遊時代の「絵画・俳画・版本挿絵図・遺墨」類などにおいて、「朝滄写」との落款ものは見当たらず(「朝滄印」は目にすることができるが、落款は「四明」が多い)、また、この「丹青不知老到印」は、丹後時代の傑作作品の一つとされている六曲屏風一双「山水図」(寧楽美術館蔵)などに見られるもので、この丹後期以前の作品ではまずお目にかかれないものの一つであろう。そもそも、この「朝滄」という号は、英一蝶の号の「朝湖」に由来があるとされている(河東碧梧桐『画人蕪村』)。そして、この英一蝶は俳号を睦雲・和央といい、蕪村の俳諧の師である宋阿(早野巴人)と同じく其角門の俳諧師でもあった。
後に、画・俳二道を極めることとなる蕪村が、そのスタートにあたってこの英一蝶を目標に置いていたということは想像するに難くない。その英一蝶の影響を察知できるものとしては、これまた、丹後時代の傑作画である「祇園祭礼図(別名・田楽茶屋図屏風)」(落款「嚢道人蕪村」、印「朝滄(白文方印)」・「四名山人(朱文方印)」)などがあげられるであろう。画人・蕪村の絵画として今に残っている最初の頃の作は、巴人亡き後(寛保二年)の、北関東出遊時代の下館(中村風篁家)・結城(弘経寺)に所蔵されているものが、その「蕪村最古の絵画」ということになろう。それより以前に、この「俳仙群会図」が描かれたものとすると、蕪村の丹後時代以前の全半生というものは、ことごとくその歴史を塗り替える必要があろう。即ち、蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入ったとされる元文二年(蕪村・二十二歳)当時に、これだけの絵画作品を残していたということは、それ以前に、相当の絵画関連の知識・技能・経験を積んだものということが推測され、蕪村の未だに謎の部分とされている、蕪村の出生の年の享保元年(一七一六年)から江戸に出てきた元文二年(一七三七年)の謎の一角がほの見えてくるという感じでなくもないのである。ここで、
画・俳二道の画を中心として、その蕪村の謎の部分について触れてみたい。

(八十一)

 蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入門する元文二年(蕪村、二十二歳)以前のことについては、蕪村自身多くを語らず、逆に、それを隠し続けて、その生涯を終わったという印象を深くする。晩年、「春風馬堤曲」に関連しての蕪村書簡中(年次不明二月二十三日付け柳女・賀瑞宛て書簡)に、「馬堤は毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」とし、「余幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友だちと此(この)堤上にのぼりて遊び候」と記しており、摂津国東成郡毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれたということは、少なくとも、蕪村の意識下にはあったように推測される。この毛馬村説についても確たる確証があるわけではなく、その他に、摂津の天王寺村(大阪市天王寺地区)としたり、丹後の与謝(京都府与謝郡)とする説など実体は謎に隠されているというのがその真相である。何時生まれたかについても、これまた真相は藪の中で、明治十五年(一八八二年)に寺村百池の孫百僊が、蕪村百回忌・百池五十回忌を記念して金福寺境内に建立した碑文などにより、享保元年(一七一六)の生まれという推測がなされている。その碑文では天王寺説をとっており、この碑文の内容自体あやふやのところが多いのであるが、「本姓谷口氏は母方の姓」で「宝暦十年頃から与謝氏を名のる」というのが、その出生に関連するものである。さらに、この出生に関連するものとして、夜半亭二世与謝蕪村の後を継いで、夜半亭三世となる高井几董がその臨終を記録した「夜半翁終焉記」(草稿を含めて)が、蕪村出生の謎をさらに深い霧の中に追いやっている。それは、その草稿の段階においては、「難波津の辺りちかき村長の家に生ひ出て」と記し、さらに、その「村長」を「郷民」と改め、さらにそれを削って、「ただ浪花江ちかきあたりに生ひたち」として、それを定稿としているという事実である。これらのことから、「父は村長で、母はその正妻ではなく、使用人か妾ではなかったか」という説すらまかり通っているのだが、ことさらにこれらの謎をあばきたてて、それらを白日下のもとに明らかにするということは、行き過ぎのきらいもあるし、土台不可能なことという思いを深くする。そういう認識下に立っても、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話は、やはり当時の蕪村の一端を物語るものとして、やはり記録に止めておく必要があるように思われる。
 なお、大阪市(都島区)の「与謝蕪村と都島」のアドレスは次のとおりである。

http://www.city.osaka.jp/miyakojima/spot/yd_yosa/index.html


(八十二)

 蕪村が出生した享保元年というのは、八代将軍吉宗が、いわゆる「享保改革」といわれる大改革に乗り出したその年に当たる。当時の徳川幕府というのは経済的にどん底の状態にあり、倹約令を発し続け、さらに、追い打ちをかけるように、特に、農村からの収奪を強化することによって、その改革を進めようとした。それらの改革は時代の空気を陰鬱なものとし、あまつさえ、享保十七年(一七三二年)には、山陽・南海・西海・畿内の西国地方の各地では長雨と蝗の襲来により、減収四万石ともいわれている大凶作に見舞われていた。米価は高騰し、多数の餓死者が出て、各地で強訴や一揆が多発し、その翌年には、江戸をはじめ各地で打ち壊し運動が起こり、騒然とした風潮であった。そのような何もかも変革するような時代風潮の中にあって、田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』でいう「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」という逸話は、単に、蕪村の個人的な遊蕩三昧によって「家産を破敗」したというよりも、この経済環境の激変の高波をもろに引っ被ったその結果であるということが、その真相のように思われる。その「身を洒々落々の域に置いて」ということについては、高井几董の「夜半翁終焉記」に出てくる「此翁(註・蕪村)無下にいとけなきより画を好み」、はたまた、「弱冠の比(ころ)より俳諧に耽り」ということと裏返しのことなのかもしれない。しかし、単なる、「画を好み」・「俳諧に耽り」の結果で、二度と故郷に足を踏み入れることが出来なくなったほどの、世間体を憚る「父祖の家産を破敗」したいうことは、どう考えても不自然なところがある。このことを一歩進めて、蕪村が住んでいた全村が、あるいは、その近隣の全域が「破敗」し、蕪村は文字とおり二度と再び「返るべき故郷」を喪失してしまったという理解の方が、より自然のようにも思われてくるのである。もし、そのような推測が許されるならば、蕪村は、享保十七年の近畿一帯の大飢饉に関連して、当時のその地方の人達が辿ったと同じように、当時の飢饉者の多くかそうしたように、誰一人身よりのない江戸へと移り住んだ、その理由がはっきりしてくる。従来、蕪村が江戸に出てきたのは、享保二十年(一七三五年)頃とされていたが、蕪村の前号の「宰鳥・宰町」以前に「西鳥」と号していたのではないかということに関連して、享保十七年(一七三二年)頃に出てきたのではないかとの見方もなされてきており、あながち、享保十七年の大飢饉に関連して江戸に流入してきたということも、有力な一つの見方であるということは言えそうである。しかし、真相は依然として藪の中であることには変わりはない。なお、享保十七年の大飢饉関連のアドレスは次のとおりである。

(飢饉・享保の大飢饉)
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM

(人権関連の一揆など)
http://www.can-chan.com/jinken/jinken-rekishi.html

(八十三)

 蕪村伝記のスタンダードな『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)の田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』関連の記述は次のとおりである。

○蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六)に大阪で刊行され、文学者の逸話をいくつか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』には、「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」とある。これも確証はないが、信じたくなる記事である。正妻の子ではなかったにしても、男子であるからには、家督を相続したということもあったのだろう。いつ父が死んだのか、それはわからない。母も幼い頃に先立ったらしい。安永六年(一七七七)に行われた『新花摘』の夏行(げぎょう)を、母の五十回忌追善のものとする説によると、母が亡くなったのは蕪村十三歳のときである。蕪村が家督を継いで家産を蕩尽するまでは、そう長いことではなかっただろう。それは大都市近郊農村の悲劇であった。都市の商人に農地を買いあさられ、土地を手放すかわりに金が入ってくる。そこで農村型の経済生活から都市型のそれに切り替えていかなければならないところだが、農村はそういった情勢に順応できなかったのだろう。せっかく父から譲られた家屋敷も手放さなければならないことになったが、あるいはそこに、父に対する蕪村の反抗の気持ちが多少はあったのかもしれない。それが破産を回避する努力をにぶらせ、破滅の到来をいささか早める結果になったということも、あるいはあったことだろう。

 多かれ少なかれ、蕪村伝記の記述は上記のようなものであるが、上記の「都市近郊農村の悲劇」は当時の時代風潮であり、その時代風潮とあわせ、享保の時代特有の。改革の嵐と大飢饉という異常事態の発生ということは、やはり特記しておく必要があろう。また、上記の記述で、「母が亡くなっのは蕪村が十三歳のとき」ということに関連して、当時は十五歳で元服するのが通常であったろうから、蕪村の家督相続というのは、その元服以後と通常考えられるし、この十五歳から十七歳のときの享保の大飢饉にかけてが、蕪村にとっては大きな曲がり角であったということも特記しておく必要があろう。さらに、蕪村が母を失ったとされる享保十三年(一七二八)の一年前の享保十二年に、蕪村の俳諧の師となる早野巴人(宋阿)が江戸を去って大阪に赴き、さらに京都に上り、十年ほど居住するという、このこともやはり蕪村伝記の記述に当たっては必要不可欠のところのものであろう。

(八十四)

『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)では、蕪村が江戸に出てきたことについて、次のように記述している。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。当時の多くの人がそうであったように、そういう事情で故郷を離れたとき目ざすところは、京や大坂ではない。新しい土地江戸である。江戸開府以来百年以上たっているけれども、依然として江戸は京・大坂とは違った新興都市であり、また百年以上もたっているだけに、徳川将軍のお膝元としての権威は確立していた。江戸は当時の青年の気をそそるに足る唯一の都会であった。蕪村は江戸に出て何をしようという方策を、はじめにはっきりと立てていたわけではないだろう。江戸に出れば何とかなる。とにかく江戸に出た。享保末年、二十歳のころのことである。江戸に出ても、生活の方途は定まっていなかったが、俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない。蕪村没後十九年目の享和二年(一八〇二)に刊行された大江丸の『はいかい袋』によると、蕪村は江戸に出て、はじめ内田沾山(せんざん)に学び、ついで早野巴人の門弟になったという。巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている。

 上記の記述で、蕪村が故郷(大阪近郊の毛馬村)を離れ、当時の経済第一の都市・大阪や日本文化の中心都市・京都ではなく、それらの都市に比して新興都市の江戸を目指した指摘については説得力がある。と同時に、「俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない」ということについては、当時の江戸俳壇にその名を留めている、足立来川、内田沾山はたまた早野巴人らに入門するということは、それ相応のルートなり縁というものがあると思われるのだが、その手引きした人物が誰なのかは、これは全くの霧の中である。ただ、注目すべきことがらとして、巴人と親交があり、当時、巴人・百里と並んで享保俳壇の三羽烏の一人とされていた琴風(きんぷう:寛文七年・一六六七~享保十一年・一七二六。生玉氏)が蕪村と同郷の大阪摂津東成郡の人で、その接点というのも選択肢の一つとしてはあげられるであろう。また、当時の大阪・京都の上方俳壇に大きな影響力を及ぼしていた俳人は、松木淡々(たんたん:延宝二年・一六五四~宝暦十一年・一七六一。初号、因角、のち謂北。大阪の人。江戸に出て、初め不角門、のち其角門。巴人と同門。上京して、半時庵を営む。その後、大阪に帰り、上方俳壇に絶大な門戸を張る)で、この淡々門で、のちに、淡々の号・謂北を継ぐ麦天(ばくてん:元禄十六年・一七〇三~宝暦五年・一七五五。右江氏。別号・時々庵。江戸に出て二世青蛾門。享保頃秋田遊歴。元文二年・一七三七に謂北に改号)と蕪村とは親交があり、その麦天の師の淡々と蕪村との接点も注目すべきものがあろう(享保十二年・一七二七、巴人が江戸から京に移り住むのは、当時親交のあった百里・琴風が亡くなり、この其角門で親交の深かった淡々が大きく関与している)。また、巴人門の宋屋(そうおく:元禄元年・一六八八~明和三年・一七六六。望月氏。別号、百葉泉・富鈴房など。京都の人)も巴人門に入る前から蕪村との親交があったものかどうかなども検討に値する一つであろう。なお、上記の山下一海氏のものでは、「巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている」ということについても、「沾山・来川との関係、宰町以前の西鳥を号していたかどうか」などについては、肯定的に解して、その範囲を広めて置いた方が、謎の多い蕪村の解明にはより必要のようにも思われる。

(八十五)

寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、、ということは、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(八十六)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)に次のような興味の惹かれる箇所がある。

尾形 ええ。もう一つ京都との結びつきを考えさせられるのは、岡田先生の『俳画の美』という本がございますね、あの中に、京都から池田に下って明和二年に亡くなった桃田伊信という絵師がいて、蕪村が童幼のころ、この伊信について絵の手ほどきを受けたらしいことを、蕪村の三回忌に池田の門人田福が書いているということが紹介されていまして、そうすると、蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性がまた出てきたことになります。
森本 私もあれを読んで、そうなのか、と思ったんですけれども・・・。池田とはずいぶん関係があったようですね。
尾形 そうですね。後に月居や月渓を池田に紹介したりしているくらいですものね。そもそも田福が百池と親戚で、京都の本店と池田の出店との間を往き来していたところから縁ができたものでしょう。
森本 「池田から炭くれし春の寒さ哉」という句がありますし。その絵の先生というのは後年までずっと?
尾形 明和二年ごろ、つまり伊信の最晩年、蕪村が池田へ下ったとき再会して、昔を語り合ったというのですから、ずっとというわけではなかったのでしょう。ともかく、もと京都にいた伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けたのだとすれば、蕪村は何かの事情で郷里を離れ京都へ出て来て、あるいは学僕というような形で伊信なり、巴人なりに師事したという想像もできなくはありませんね。

 これらの対談の箇所は、「蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性」があるということに関連するものなのであるが、そのこととあわせ、「蕪村はもと京都にいた(桃田)伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けた」ことがあるという事実もまた、当時の蕪村を知る上では貴重な情報と思われるのである。先に、蕪村絵画の若描きの頃の落款の「朝滄」ということに関連して、その「朝滄」という号は、蕪村が目標とした画家の一人とも思われる英一蝶の号の一つの「朝湖」に由来するという河東碧梧桐氏のものなどについて触れた。この蕪村と同じく大阪出身の英一蝶は、蕪村が八歳のとき、享保八年(一七二七)に江戸で亡くなっているが、そもそもは狩野派(京都狩野派)の画家で、そして、蕪村が少年時代に絵の手ほどきを受けたという京都の画家・桃田伊信も、当時の画家の多くがそうであったように、いずれかの狩野派の影響下にあったことは想像に難くないし、その意味では、先に触れた蕪村最古の絵画とされる「俳仙群会図」に英一蝶的なものが察知されることと関連して、興味がそそられる点なのである。

(八十七)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)には、蕪村の初期絵画の落款の「四明・朝滄」について、次のような箇所がある。

尾形 それから関東に出てくる経緯についてもわかりませんですね。大正十年ごろ出た武藤山治さんの『蕪村画集』というのがございますね。あれに、関東時代から丹後時代にかけて使った四明・朝滄という画号について、四明は比叡山で、朝滄は琵琶湖を意味するという説明が付けられているんです。そうすると蕪村は京都から関東へ出て来たんじゃないか。まあ生まれたのは毛馬だとしても、京都で幼年時代を送って、そして関東へ出てきたんではないだろうか。つまり自分は、大阪生まれだけれども京都人であるという意識があって、そうした号をつけたのではないだろうかなどと推測してみたこともあったんですけれども。しかし、四明が天台、つまり比叡山であるということはよろしいんですけれども、朝滄が琵琶湖だということは、ちょつといろいろと探しても出てこないんですね。字引を引くと、朝滄は、波が集まるという意味だそうですから、なにも琵琶湖でなくて、淀川の下流でも十分意味が通ずるわけなんです。けれども、今度ははたして淀川の下流の毛馬堤から比叡山が見えるかどうか、という疑問になってきましてね。それから戦前に、正木瓜村というかたがいらしゃって、『蕪村と毛馬』という本を書いていらしゃいましたが、あの方にお目にかかりまして伺ってみたんですが、そうすると、自分の子どものころにはたしかに見えたというんです。今からではぜんぜん想像もできないんですけれども、毛馬の堤から朝夕に比叡山が眺められるなら四明と名のってもおかしくないわけで、それで蕪村の京都時代というのことを推測したのが、いっぺんに消えてしまったわけなんですけれども。

 蕪村の元文年間(一七三六~一七四一)、寛保(一七四一~)から寛延(一七四八~)にかけての落款は、「朝滄・子漢・浪華四明・四明・浪華長堤四明・浪華長堤四名山人」などである。このうち、四明が主号のようで、次いで、朝滄、この朝滄は落款とともに印章に用いられており、この印章は、関東出遊時代と後の丹後時代とは異なっていて、先に触れた「俳仙群会図」のものなどについては、関東出遊時代のものではなく、丹後時代のそれではないかということについては、先に触れた。それにあわせ、河東碧梧桐の『画人蕪村』では、この四明については、比叡山に由来があり、朝滄については、英一蝶の朝湖に由来があるということについても、先に触れた。そして、この「子漢」については、別に、「魚君」の号も用いているものもあり、屈原の「漁夫辞」の「滄浪ノ水清(す)マバ」などに由来があり「水に因んでのもの」(淀川に因んでのもの)と「子は午前零時、漢は天の川」(夜の連想に因るもの)との両意のものなどを目にすることができる(仁枝忠著『俳文学と漢文学』所収「蕪村雅号考」)。いずれにしろ、四明は比叡山の最高峰の四明山に由来がある「山」、そして、朝滄は、英一蝶の「朝湖」、あるいは、「琵琶湖」・「淀川」・「宇治川」(「木津川」・「桂川」と合流し「淀川」となる)などに由来がある「川」に関連があるものと解しておきたい(「子漢」についても、初期の落款については、滄浪などの水に由来があるものと解せられるが、後の「春星」などの号に鑑みて、「真夜中の銀漢(天の川)」いう理解に留めておきたい)。その上で、上述の尾形仂氏のものに接すると、その「四明」といい「朝滄」といい、これは朝な夕なに生まれ故郷で目にしていた山・川の「比叡山」であり「淀川」という思いを強くする。とすれば、「浪華四明」・「浪華長堤四明」・「浪華長堤四名山人」などの落款も、消そうとして消せない母郷への想いの一端を語っているもののように思われる。と同時に、全く抹殺したいようなことならば、これらの痕跡すら留めておかないであろうから、これは蕪村個人にとっての何らかの心の奥底に沈殿している「故郷は遠くにありて想うもの」という想いなのであろう。ここで、山下一海氏の次のような記述を再掲しておきたい。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。

(八十八)

その他、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で、注目すべきことなどについて記しておきたい。

尾形 内田沾山に師事したというのは、同時代の大江丸が言っていることですから、かなり尊重しなければいけませんけれども、巴人との関係のほうが濃厚ですし、その後も巴人の系統の人のところをずっと渡り歩いていますものね。巴人にはかなり長く師事していたんじゃないでしょうか。そうすると、巴人が京都にいた時代にすでに師事していたと考えることも想像としてはできなくないと・・・。
森本 蕪村は師の巴人について、『むかしを今』の序で、「いといと高き翁にてぞありける」というぐあいに、たいへん人格的に傾倒しておりますね。
尾形 そして父親のようにというんですから、かなり年齢の低い時代からついていたんじゃないかという感じがいたしますね。

 このところの、蕪村が内田沾山に師事したということについては、大江丸の『俳諧袋』に記述されていることに由来するのだが、この大江丸は、蕪村より七歳若い大阪の人で、三都随一の飛脚にして、俳諧にも親しみ、淡々とも親交があり、後に、蓼太門に入った。蕪村の後継者の几董との交友関係からして、この大江丸の記述はかなり信憑性の高いものなのであろう。この沾山は芭蕉・其角亡き後の江戸座の主流をなす、沾徳・沾州に連なる俳人で、巴人もまた沾徳・沾州と関係の深い俳人で、巴人が江戸に再帰する元文二年(一七三七)以前に、蕪村が江戸で沾山門に居て、巴人再帰後、巴人門に移ったということもあるのかもしれない。沾山は宝暦八年(一七五八)に没しており、その晩年には蕪村と親交のあった存義らが退座しており、蕪村のこの人への師事はいずれにしても短期間のものであったのであろう。

森本 蕪村は自ら嚢道人と称していますが、とにかく、何から何まで詩、画嚢に貯えて、それが将来花になったということなんでしょうね。しかし、私は彼の作品に接するたびに不思議に思うのですが、いったい彼はどこで、いつ、あのような幅広い教養を身につけたんでしょうね。たとえば、漢籍の素養、唐詩、宋詩についての知識、こういうものは江戸時代にどの程度普及しておったのですかね。最近、今田洋三氏が『江戸の本屋さん』という興味深い本を書かれましたが、当時、どのような本が、どのくらいの値段で、何部ぐらい出たのか、それを知らないと蕪村の教養の源泉も見当がつきませんね。
(中略)
尾形 先生というのは、儒学者に対する一般的な呼び方だそうですけれども、蕪村の場合、南郭先生と言っているのは、そうした一般的な意味でなくて、特殊、つまりかって南郭の講筵に列したか、あるいはすぐその近く、つまり南郭の講筵に列した人を知人に持っていたのではないかということが、かなり実証的に明らかにされてきました。(以下略)

 ここのところの「嚢道人」の理解について、この嚢を乞食僧などの「頭陀袋」の意ではなく、「詩」嚢、「画」嚢の、それらを貯えておく「袋」の意と解する考え方は素直に受容ができる。また、蕪村の、単に、「画・俳」の二道だけではなく、広く、儒学者の服部南郭らの当時の他の分野との交流関係についても、密度の濃いものであったということについては、やはり特記しておく必要があるのであろう。

(八十九)

 先に、蕪村最古の画作とされている「俳仙群会図」について触れた。その一番上段に書かれて画賛は次のとおりである。

※守武貞徳をはじめ、其角・嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて、此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この「俳仙群会図」について、『蕪村雑稿』(谷口謙著)で次のとおり紹介されている。

○天明壬寅は二年(一七八二年)で蕪村六十七歳の執筆。元文元年(一七三六年)~元文五年(一七四〇年)は蕪村二十歳から二十四歳。この蕪村の賛詞を信ずれば、現存する蕪村の画のなかで最古のものとなり、貴重な資料といえよう。岡田利兵衛氏は蕪村の加えた証詞をそのまま信用し、蕪村の若書きとして「全く後代の蕪村筆と異なり、漢画でもなければ土佐風でもない手法である。しかし子細に見ると着衣の皺法(しゅんぽう)、顔貌、眼ざしに後年の特色は、はやくも認めることができる。静のうちに活気ん゛ある表現である」(『俳人の書画美術五=蕪村』)と評している。これに対し「文学」誌五十九年十月号の座談会「蕪村…絵画と文学」で尾形仂氏は「朝滄」の落款、「丹青老ノ至ルヲ知ラズ」の印章が丹後時代だけに限って使われたものであることを重視し、丹後時代の作品ではないかと推定し、今迄は「俳仙群会図」を蕪村の画歴の最初としてきたが、置き換えた方がいいのではないかと提言している。これに答え佐々木丞平氏はこの画の衣の線を重視して、非常に決った線で、丹後時代になると例えば「三俳僧図」のように衣の線がかなり弛援してくる。つまり崩れを見せ、感覚的になっている。それでやはり「俳仙群会図」を丹後時代の作とするには、いささかためらいが残る、としている。

 この昭和五十九年(一九八四)の座談会の後、平成十年(一九九八)に刊行された『蕪村全集六…絵画・遺墨』(佐々木丞平他編)においては、この「俳仙群会図」は「丹後滞在」時代の中に収録され、その佐々木丞平氏の「解説(蕪村画業の展開)」では「蕪村画業の最初のものとしては、「『俳諧卯月庭訓』(元文三年・一七三八)の中の一句に書き添えられた『鎌倉誂物』の自画賛で、版本の挿図であった」としている。やはり、この「俳仙群会図」は、その印章の「丹青不知老至」からすると「丹後時代」の作品と解すべきなのであろう。
もし、この作品を蕪村の天明二年(一七八二)の画賛のとおり元文年間のものとすると、この「俳仙群会図」の一人に描かれている、蕪村の師の宋阿(早野巴人)の像は在世中のものとなり、はなはだ興味がひかれるのところのものであるが、在世中の師の像を芭蕉らの他の俳仙と一緒にするという奇妙さ(同時に極めて俳諧的でもある)もあり、丹後時代の作品と解する方が、より妥当のようにも思われる。

(九十)

 蕪村の『新花摘』に次のような一節がある。
「むかし余、蕉翁・晋子・雪中を一幅の絹に画(えが)キて賛をもとめければ、淡々、  
もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり
 三俳仙の賛は古今淡々一人と云(いふ)べし。今しもつふさ日光の珠明といへるものゝ(の)家にお(を)さめもてり。」
 この「もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり」は、『延享廿歌仙』(延享二年刊)に収録されている松木淡々の門弟で蕪村と親交のあった謂北(麦天)の付句である。その句意は、「芭蕉・其角・嵐雪」の三俳人を古今伝授の三鳥「百千鳥・稲追鳥・呼子鳥」に擬したものということであろう。この句を当時の大物俳人の松木淡々が蕪村の画に賛をしたというのである。そして、この「三俳仙図」画は、下野の日光の隣の今市の富豪、斎藤珠明(三郎右衛門益信)の家に納めたというのである(現在、所在不明)。この賛をした淡々は宝暦十一年(一七六一)に八十八歳に没しており、この「三俳仙図」画が何時頃描かれものか定かではないが、蕪村はこの種の「俳仙図」画を多く手がけたということはいえそうである。こういう本格的な「俳仙図」画以外に、例えば、『其雪影』収録の「巴人像」などの版画・略画風のものは、いろいろな形(「俳仙帖・俳仙図・夜半翁俳僊帖など)で今に残されているが、この種のものは、河東碧梧桐氏によると殆ど偽作との鑑定をしている(潁原退蔵稿「蕪村三十六俳仙画)。これらのことに関して、潁原退蔵氏は、「碧氏の如き全面的抹殺説が出るのも、故なきではないわけである。しかし決して真蹟が絶無といふのではなかった。模写や偽作の背後には、その拠つた真蹟の存在が考へられもした。偽作が多く流布して居れば居る程、その間いくつかの真蹟がなほ存して居ることを思はしめるのである」(前掲書)としている。これらのことを背景として、先の「柿衛文庫」所蔵の「俳仙群会図」などは非常に貴重なものであると同時に、その制作時期の如何によっては、他の同種のものの作品に与える影響も決して少なくはないのである。そして、とりもなおさず、これらの「俳仙図」画が、蕪村の絵画の初期の頃に存するということは、蕪村の絵画のスタートが、これらの俳諧関係と大きく関係していたということも、十分に肯けるところのものであろう。

日曜日, 6月 11, 2006

若き日の蕪村(その六)



(七十一)

(Q)―4
一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
(A)―4
この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されていると解すると、その「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章・連)のように解せられるのである(大正十四年に刊行された潁原退蔵著『蕪村全集』では、「雑題」の部に「晋我追悼曲 延享二年」として、行間をあけて次の八句(首・章・連)で表記されており、その表記が鑑賞をする上では理解しやすいと解する)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる・・・・(自他半)

二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき・・・(自)

三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき・・・(場)

四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき・・・(場)

五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき・・・(場)

六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ・・・(他)

七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる(自他半)

八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき・・・(自) 

 そして、この「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章)の鑑賞に当たっては、まず、一句を鑑賞し、続いて、一・二句、さらに、二・三句(一句の転じ)鑑賞と、いわゆる、「三句の見渡し、前句・付句の付合の鑑賞」という進め方になろう。この観点から鑑賞していくと、何らの違和感もなく、いわゆる、寺田寅彦氏の「連句モンタージュ説」のように(動画を鑑賞するように)、「三コマを視野に入れて、一コマ又は二コマずつ」を鑑賞するのが基本なのであろう。そして、立花北枝の『附方自他伝』の「人情自・人情他・人情自他・人情なし(場)」(一句の視点の人物が自分か・他人か・自分と他人が半々か、それとも景色の句なのか)という視点からの鑑賞も必要となってこよう(参考までにその視点について上記のとおり括弧書きをした)。その上で、連句全体を見渡して、連続・非連続を見極めながら、全体を味わうということになろう。その結果が、丁度、「この作品が、『君あしたに去』った衝撃の中に身を置いている『ゆふべ』の時間、それにつづく『岡のべ』の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっている」という感慨を抱くということであって、この一連の作品を、あたかも、現代の「自由詩」の鑑賞のように、その十八行を、一つの連続したものとして鑑賞すると、これはどうにも手が追えないということになってしまうであろう(この十八行から、いわゆる俳諧形式の十八句から成る「半歌仙」形式も考えられるが、ここは、『百韻』形式の『初折・表』」の八句(首・章・連)」と解したい)。
(付記)『西脇順三郎詩集』所収の「旅人かへらず」について、那珂太郎氏の解説に「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせの妙は、俳諧連句の附合にも通ふ趣」があるという指摘をしている。その一から一六八の短章のうち、その二章から五章を抜粋して見ると以下のとおりとなる。そして、那珂氏の指摘するように、これらの「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせ」という視点での鑑賞が「北寿老仙をいたむ」の鑑賞にも必須のように思われるのである。

旅人かへらず(西脇順三郎)

二   窓に
    うす明りのつく
    人の世の淋しき

三   自然の世の淋しき
    睡眠の淋しき

四   かたい庭

五   やぶがらし


(七十二)

(Q)―5
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。
(A)―5
先の年譜により、時系列的に「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」・「安永年間成立説」を見ていけば次のとおりとなる。

☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成ったか(延享二年説)。△七月三日  常磐潭北没(享年六十八歳)。□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
[寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳 六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。□ 宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。]
☆宝暦七年(一七五四)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
[☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳 ○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、これに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。]
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
[安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳 △十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳 七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳 ○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳 ○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。]

 安東次男稿「『北寿老仙をいたむ』のわかりにくさ」(日本詩人選『与謝蕪村』)の中で、「要するに、拠るべき資料が何一つ他に発見されていない現在、この詩は延享二年から安永六年ごろまでの間に書かれたという以外には、確たる証明のしようがないのである」という指摘をしている。そういうことを前提として、上記の三説を見ていくと、その一の「延享二年説」(延享年間説)が、いわゆる通説で、その三の「安永六年説」(安永年間説)が近時「延享二年説」を上回る傾向を示している有力説ということになる。そして、その二の「宝暦七年説」(宝暦年間説)は未だ図書・雑誌の類では目にすることができないほどの少数説ということになる。しかし、この「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」という署名とその「釈蕪村」と署名された他の蕪村の「句文集」をつぶさに見ていくと、これまでに見てきたとおりに、「延享二年説」の疑問(「この異色の俳詩を誕生させるような環境にあったのかどうか」という疑問)も「安永六年説」の疑問(「この異色の俳詩を他の類似の俳詩のもとに同列して鑑賞する」ことへの疑問)をも半ば折衷するような形での第三の「宝暦七年説」というのも、今後、さらに検討されて、少なくとも、「安永六年説」と同じ程度の根拠を有するもと解したいのである。

(七十三)
 
(Q)―6
「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
(A)―6
上記の「『あした』『ゆふべ』の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む」ということについては、この俳詩の発句ともいうべき冒頭の「あした」・「ゆふべ」・「はるかなる」(この「はるか」は「遙か」と「杳か」の両意義に解したい)であり、ここには、萩原朔太郎をして、「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在してゐるのである」(『郷愁の詩人 与謝蕪村』所収「凧きのふの空の有りどころ」の鑑賞視点)といわしめた「蕪村俳句のモチーブを表出した哲学的標句」(萩原・前掲書)と理解すべきであり、単なる「漢詩表現の常套」的なものではなかろう。
次に「『釈蕪村』の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で『門人 宰鳥校』と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう」ということについては、明和七年に夜半亭二世を継承して、画俳二道を極めた、安永年間の蕪村が、よりによって、還俗前の苦難の絶頂の頃の修行僧時代の「釈蕪村」の「姓・号」を「釈蕪村百拝書」と認めることは到底考えも及ばないところであろう(管見では安永年間に「釈蕪村」という署名は見あたらない。なお、『安永六年春興帖』では、「宰鳥」以前の「宰町」を号したものもあり、いわゆる「春興帖」の一趣向の「門人 宰鳥校」と同一視することは危険であろう)。
続く「その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい」ということについては、いかに、晩成の蕪村であっても、「青・壮年」時代の「想像力」と六十歳を越えた「老年」時代の「想像力」では、関心の置き所を自ずから異なにするものであり、もし、「その情感の直截性」ということが察知できるとすれば、それは、より「青・壮年」時代のものと理解すべきものなのであろう。


(七十四)

(Q)―7
砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
(A)―7
このことについては、『いそのはな』の東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ、行年七十五の春を夢となしぬ」からして、(早見)晋我即北寿(老仙)ということになろう。さらに、「巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然」ということについては、雁宕と蕪村との関係はそのとおりとして、晋我と蕪村との関係も、宋阿在世中からのもので、宋阿が江戸に再帰した元文二年(蕪村二十二歳)頃から親交があったと思われ、それからするとやはり七・八年の年数とその晋我の嗣子桃彦始めその弟の田洪などとは昵懇の間柄であり、雁宕とは違った家族ぐるみの交遊関係があったことは、蕪村と桃彦との書簡で明らかなところであろう(宝暦元年十一月□二日付けの桃彦宛ての書簡については先に触れた)。さらに、元文四年の宋阿が撰集した其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(その下巻の版下は蕪村の前号の宰鳥といわれている)に、素順(晋我の別号)の興行した歌仙「空へ吹(く)の巻」も収載されており、蕪村が「北寿老仙をいたむ」の追悼詩を手向けることは、これは自然なものと理解ができよう。蕪村の晩年の安永六年の回想録『新花摘』にも晋我は登場し、とにもかくにも、晋我は、蕪村にとって生涯にわたって忘れ得ざる一人であったということはここでも記しておきたい。
しかし、この「北寿老仙をいたむ」が何時の時点で作成されたのかということを考慮するときに、単に、北寿老仙こと晋我に関することだけではなく、其角門で晋我と兄弟弟子の一人でもあった蕪村の師の宋阿やその宋阿門で晋我の縁者でもあり蕪村にとっては切っても切れない関係にあった結城の俳人・雁宕との関係などを探るということは必須のことであろう。そして、先に触れたところの「宝暦年間成立説」においては、雁宕等編の『反古衾』、巴人の十三回忌にあたり編纂した雁宕ら編の『夜半亭発句帖』、そして、雁宕の菩提寺の弘経寺にその句碑がある「木の葉経(このはぎょう)」句文など、すべからく、その署名の「釈蕪村」とともにその根拠になっていることは、ここで重ねて記しておきたい。


(七十五)

(Q)―8
安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つねまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(A)―8
これらのことについては、いろいろな形で先に触れてきたところである。ただ一つ、「作品の付記『庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る』を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか」ということについては、やはり一応の考え方を記しておきたい。
 桃彦(今晋我)が編纂した『いそのはな』の前書きは、編纂者が付したものと作者が付したものと二通りが読み取れる。そして、問題の「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は前書きではなく、末尾に付せられている「奥書」の体裁で、この「奥書」を編纂者・桃彦がしたのか作者・蕪村がしたのかは定かではない。何の疑いもなく編纂者・桃彦が「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝに右しるし侍(はべ)る」と理解をしていたが、これを蕪村が記したものと解すると、蕪村には、この種の「手控え」」(文書)などがあって、それが出てきたので、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」ということになる。このように解すると、「安永年間作成説」又は「宝暦年間作成説」のどちらかということになろう。そして、この「北寿老仙をいたむ」が、他の俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」と類似志向が見られるということについては、それらは、これらの「手控え」」(文書)を参考として、成立したものとも考えられ、時系列的に、『いそのはな』へ寄稿した「北寿老仙をいたむ」の原文は、「宝暦年間作成説」の「宝暦年間」に作成されたものという理解も成り立つであろう。丁度、芭蕉の不朽の名作『おくの細道』が、芭蕉が常々携行していたいわゆる「小文」の集大成で形を為してきたと同じような経過をたどり、いわゆる、蕪村の異色の傑作俳詩「春風馬堤曲」・「澱河歌」は成立していくという理解である。ともあれ、ここでは、この「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は編纂者・桃彦が付したものと理解をしておきたい。

金曜日, 6月 09, 2006

若き日の蕪村像(『新花摘』・月渓筆)

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次のアドレスに、下記のような呉春(松村月渓)の年譜が記述されている。この年譜の[1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓]のとおり、天明四年(一七八四)に、蕪村没後に、蕪村が生前に書き留めていたものを『新花摘』(月渓の跋文では「続花つみ」)として、挿絵七図を配して上梓した(正確には、蕪村の元の冊子を呉春が横巻として挿絵七図を配し、寛政九年に版本として上梓された)。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2gs001.html

呉春
[読み] ごしゅん
[始年] 1752-
[終年] 1811年
1774年頃、蕪村に師事するか(蕪村連句集「昔を今」)。
1777年、「羅漢図」(逸翁美)を描く(款記)。
1778年、遊廓島原の名妓雛路を身請けし妻とする。
「騎馬狩猟図」(逸翁美)。
1781年、妻事故死、父江戸で客死、池田に移住。
1782年、姓を呉、名を春、字を伯望とし剃髪。
1783年、師蕪村没す。
1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓。
1786年、「芭蕉幻住庵記画賛」を描く。
1787年、応挙に従い大乗寺に描く。
妙法院真仁法親王に召され席画する。
1795年、応挙没す。
1796年、岸駒と「山水図」を合作。
1810年、後妻ウメ女没す。
1811年、没す。
1817年、「流芳遺事」

 この蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵は、次のアドレスで紹介されている。

一図(早乙女図) 10丁裏 / Leaf 10 Back・11丁表 / Leaf 11 Front・11丁裏 / Leaf 11 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf10b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11b.html
二図(蕪村・潭北図) 16丁裏 / Leaf 16 Back・17丁表 / Leaf 17 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf16b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf17f.html
三図(白石旅舎図) 21丁裏 / Leaf 21 Back・22丁表 / Leaf 22 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf21b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf22f.html
四図(結城丈羽別荘図) 26丁表 / Leaf 26 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html
五図(下館中村風篁邸・阿満図) 34丁表 / Leaf 34 Front 
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html
六図(下館中村風篁邸・三老媼図) 37丁表 / Leaf 37 Front・37丁裏 / Leaf 37 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37b.html
七図(渭北・俳席図) 41丁裏 / Leaf 41 Back・42丁表 / Leaf 42 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf41b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf42f.html

これらの七図のうち、二図(蕪村・潭北図)は興味深い。この二図について、若き僧の図を蕪村として、老僧の図を潭北とするという理解は、『新花摘』の文面からの理解であり、これらの図に、「蕪村・潭北」との名前を付した文献というものは寡聞にして知らない。しかし、この二図の若き僧こそ、当時、釈氏を称し、法体をしていた、後の、与謝蕪村その人と理解をしたい。

そして、それは、文面からして、「潭北と上野(現群馬県)に同行」していた頃の図ということになろう。この潭北は、「常磐氏。名は貞尚。下野(現栃木県)那須烏山の人。其角・沾徳門。医を業として庶民教育(社会教育)の第一人者であった。延享元年没」で、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)と、同郷(那須烏山出身)・同年(巴人は延宝四年、潭北は延宝五年とされているが、同年とする説もある)・同門(其角門)の親しい間柄である。巴人亡き後、結城の砂岡雁宕と共に、蕪村の庇護者となった、蕪村にとっては、忘れ得ざる人ということになる。

この潭北が法体となっているが、これは、呉春は潭北とは面識はなく、呉春の、蕪村の文面を読んでの想像図ということになろう。しかし、『新花摘』の、「潭北はらあしく(注・気短かに)余(注・蕪村)を罵(ののしり)て」、「むくつけ(注・無風流な)法師よ」と怒鳴りつけるなど、眉毛を八の字にして、いかにも、俳諧師で且つ当時の教化指導者の第一人者のうるさ型の潭北像という雰囲気でなくもない。
この常磐潭北の墓は、那須烏山市の善念寺にあり、次のアドレスで、その善念寺と潭北についての紹介記事がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~zennenji/1rekisi.html

1 善念寺

善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。
 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

2 常盤潭北

潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。
 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の月日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。
 潭北は江戸宗匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。
潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。
潭北が俳人宗匠として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

また、 享保十七年(一七三二)に刊行された『綾錦』(菊岡沾涼編)には次のとおりの記述がある。

[現  常盤百花荘
 潭北・・・・・・
   本土野州那須
  編     汐こし 後の月日 反古さらへ としのみどり
  はい書ノ外 民家分量記 分量夜話 ]


 ここで、潭北の主たる編著を年代別に記すと次のとおりである。

享保元年(一七一六)  四十歳  『汐越』(「汐こし」)刊行。
享保六年(一七二一)  四十五歳 『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
享保七年(一七二二)  四十六歳 『今の月日』(『後の月日』)刊行。
享保九年(一七二四)  四十八歳 『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
享保十年(一七二五)  四十九歳 『百華斎随筆』刊行。
享保十一年(一七二六) 五十歳  『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十八年(一七三三) 五十七歳 『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
元文二年(一七三七)  六十一歳 『民家童蒙解』刊行。

また、蕪村の『新花摘』の潭北に関する文面は次のとおりである。

・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)がもとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余にゆづりたり。
 ・・・・
こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君の うらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきは たらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気 感慨に堪ず
 ・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。
 

若き日の蕪村(その五)




若き日の蕪村(その五)

(六十一)

 ここでもう一つ論点を整理する意味合いも兼ねて、谷地快一氏の「『春風馬堤曲』などの和詩には何がひそんでいるのか」(「国文学」平成三年十一月号)の「北寿老仙をいたむ」関連のところを紹介しておきたい。

(その一)

○「春風馬堤曲」に先立つ詩篇「北寿老仙をいたむ」は両者に通ずる性格のために、早くは諸橋謙二・森本哲郎・安東次男氏等を経て、蕪村の若い頃の作という通説に疑念が持たれていた。確かに両者の舞台は川に隣接する岡あるいは堤という点では共通し、そこには蕪村にあまり例がない蒲公英が叙情を添える。他者をかりて心情を吐露するという点も似ているし、「北寿老仙をいたむ」の中の特徴的な形容が安永期の書簡に指摘されたりもする(村松友次説)。最近では、「北寿老仙をいたむ」の逃れ難い運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いは、『夜半楽』所収の「澱河歌」の原型である扇面「遊臥見百花楼送帰浪花人代妓」を前提として成立した可能性もあるという(尾形仂説)。
「北寿老仙をいたむ」は延享二年(一七四五)に七十五歳で没した早見晋我をいたむ挽歌で、蕪村は当時三十歳。謎はそれが蕪村没後十年の寛政五年(一七九三)『いそのはな』刊行まで埋没していたことに始まる。地方俳書とはいえ、その後「北寿老仙をいたむ」の読者を江戸時代の資料に見いだすのはむずかしい。はっきりするのは、引用・合成に巧みであった藤村が明治三十五年六月『海の日本』(太陽臨時増刊)なる雑誌に掲載した詩「炉辺雑興」に受容したのが最初である(佐藤康正『蕪村と近代詩』)。だが、全貌紹介は大正十三年の『俳聖蕪村全集』(水島重治校閲)まで待たねばならなかった。以後、その成立と解釈をめぐってはいくつかの説が対立する。

(六十二)

(その二)

○諸説の検討には稿を改めるべきだが、安永年間成立説は村松友次氏の「『北寿老仙をいたむ』の解釈ほか」(俳文芸七号)で再燃して、これを支持する傾向が強まっている。村松氏の結論は、晋我の三十三回忌である安永六年正月二十八日の前に、桃彦の依頼によって書かれたが、それが何かの事情で五十回忌まで「庫のうち」に眠ってしまっていたというものである。
その根拠を村松説を中心に要約すると、先掲の類似点に加えて次のようになる。
①「北寿老仙をいたむ」が晋我没後間もなくの成立ならば『いそのはな』にはなぜ先輩格にあたる雁宕らの追悼作がないのか。
②二世晋我を継ぐ桃彦と蕪村は年齢が近く、蕪村の京都移住後も交流があり、安永期に
追悼詩を依頼された可能性が考えられる。
③安永六年の夏には『新花摘』をしたため往時を回想することが多くなっている。
④「君」「友ありき」という呼び方は、四十五歳も離れた晋我にふさわしくないが、安永六年(蕪村六二歳)前後ならば不自然でない。
 しかし、安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである(註・この「釈蕪村」の署名と晋我十三回忌が宝暦七年前後にあたり、これらのことから「宝暦年間成立説」ということについては先に触れた)。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。

(六十三)

(その三)

○模索の果てに、「北寿老仙をいたむ」の分かち書きを恣意に再構築していよいよ不思議なのは、作品の根幹部分において晋我の死を悼む挽歌とは思えないことである。その構造は村松友次氏の分析の通り、蕪村のモノローグ(君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる)というリフレィンを外枠とし、雉子のモノローグ(友ありき。河をへだてゝ住にき)というリフレィンを内枠とする。それは、蕪村が雉子の語りを借りて吐露する「へけのけぶりのはと打ちれバ、西吹風のはげしくて、小竹原真すげはら、のがるべきかたぞなき」が作品の中心部であり、哀しみの焦点であることを明確にする。ここに晋我の死に似つかわしい何かが描かれているだろうか。七十五歳の寿齢果たして「君あしたに去ぬ」というほどにわかな悲嘆であったのか、「へけのけぶりのはと打ち」ることで「のがるべきかた」のないほどミステリアスで不条理な死であったのだろうか。謎は深まるばかりである。
 ともあれ、詩は必ずしも論理的に整序されたものではない。むしろ、その破綻の中に真情を見極めようとする立場もある。俳諧はそうした破綻をもすくいとる器として、こうした詩型を準備していた。


(六十四)

 これまでのものに関連事項などを追加して年譜にすると次のとおりとなる。

蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)
註 △=関連俳人没年等。○=関連俳人追善集等。□=関連動向等。☆・ゴジック=特記事項等。※=「北寿老仙をいたむ」関連等。

享保元年(一七一六)蕪村・一歳
□この年、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれたか。本姓谷口氏は母
方の姓か。宝暦十年頃から与謝氏を名乗る。
享保十三年(一七二八)蕪村・十三歳
□この年、母を失ったか。享保十二年百里が没したため、早野巴人(宋阿)はこの頃江戸を去って大阪に赴き更に京都に上り、十年ほど居住。その間、宋屋・几圭など優れた門人を得。京都俳壇の地歩が固まりかけた頃、元文二年(一七三七)再び江戸に帰る。
享保二十年(一七三五)蕪村・二十歳
□この頃までに郷里を去って江戸に下る(元文二年説もある)。
元文二年(一七三七)蕪村・二十二歳
□四月三十日、在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。この頃「宰町」入門か(その前に「西鳥」と号したのではないかとの説がある。享保十九年の吉田魚川撰『桜鏡』など)。
元文三年(一七三八)蕪村・二十三歳
○この年刊行の『夜半亭歳旦帖』に「君が代や二三度したる年忘れ」(宰町)が入集。「宰町」号の初見。豊島露月撰『卯月庭訓』に「宰町自画」として「尼寺や十夜に届く鬢葛」が入集。蕪村の書画の初見。
元文四年(一七三九)蕪村・二十四歳
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の板下は宰鳥という)に「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(宰鳥)の句があり、「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙「染る間の」(宋阿・雪尾・少我・宰鳥)、百太興行の歌仙「枯てだに」(百太・宋阿・故一・訥子・宰鳥)に出座。なお,素順(晋我)興行の歌仙「空へ吹(く)」(素順・宋阿・雁宕・呑魚・安汁・田光・丈羽・東宇・朱滴・鵑児)も収載されている。この頃には晋我と親交があったか。
元文五年(一七四〇)蕪村・二十五歳
□元文年間、俳仙群会図を描く(「朝滄」の署名から宝暦年間の作との説もある)。
寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳
△六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。
□宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。
寛保三年(一七四三)蕪村・二十八歳
○五月 望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)。
延享元年(一七四四・寛保四年二月二十一日改元)蕪村・二十九歳
○春、初撰集『宇都宮歳旦帖』刊行。宰鳥名のほかに蕪村名が初出(渓霜蕪村)。
☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成っ
たか(延享二年説)。
△七月三日   常磐潭北没(享年六十八歳)。
□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
延享三年(一七四六)蕪村・三十一歳
□宋屋、奥羽行脚の帰途、再び結城・下館の蕪村を訪ねたが不在。十一月頃、蕪村は江戸増上寺裏門辺りに住していたか(『杖の土』)。
☆宝暦元年(一七五一)蕪村・三十六歳
□蕪村関東遊歴十年この年京に再帰する。八月末京に入り、毛越を訪ねる。秋、宋屋を訪ね、三吟歌仙を巻く(『杖の土』)。
○毛越編『古今短冊集』に「東都嚢道人蕪村」の名で跋文を寄せる。桃彦宛書簡(宝暦元年と推定の霜月□二日付け書簡)。
(「真蹟」、宝暦初年推定)
しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て
肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)洛東間人嚢道人 釈蕪村
☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳
○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。
☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳
○六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、こ
れに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
宝暦七年(一七五七)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。
△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)蕪村・四十三歳
△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
宝暦十年(一七六〇)蕪村・四十五歳
△几圭没(享年七十四歳)
宝暦十二年(一七六二)蕪村・四十七歳
□この頃結婚か。
明和三年(一七六六)蕪村・五十一歳
△宋屋没(享年七十九歳)。この頃蕪村京都に不在。
○秋、讃岐に赴く。この年、三菓社を結成する。
明和四年(一七六七)蕪村・五十二歳
○三月、宋屋一周忌に讃岐より京に帰り、再び讃岐に赴く。追善集『香世界』に追悼句入集。
明和七年(一七七〇)蕪村・五十五歳
○三月、夜半亭立机。
明和八年(一七七一)蕪村・五十六歳
△八月九日、炭太祇没(享年六十三歳)。十二月七日、黒柳召波没(享年四十五歳)。
○八月、大雅の十便図に対して十宣図を描く。
安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳
△十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。
安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳
△七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。
安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳
○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。
安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳
○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
安永七年(一七七八)蕪村・六十三歳
○七月、山水図(戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅)を描く。以後「謝寅」号を使用する。
安永八年(一七七九)蕪村・六十四歳
○四月、蕪村を宗匠、几董を会頭とす連句修業の学校檀林会を結成。
☆天明三年(一七八三)蕪村・六十八歳
△十二月二十五日未明、蕪村没(享年六十八歳)。
寛政元年(一七八九)没後六年
△十月二十三日、几董没(享年四十八歳)。
☆寛政五年(一七九三)没後十年
△※結城の早見桃彦『いそのはな』刊行(蕪村「北寿老仙をいたむ」を収載)。晋我五十回忌。
寛政七年(一七九五)没後十二年
△蕪村十三回忌と几董七回忌とをかねた紫暁の追善集『雪の光』成る。
寛政十一年(一七九句)没後十六年
△蕪村十七回忌追善集『常磐の香』(紫暁編)成る。
文化十一年(一八一四)没後三十一年
△蕪村の妻とも(清了尼)没。


(六十五)

(その一)

 先の「蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)」により、「北寿老仙をいたむ」の成立時期について、「宝暦年間成立説」について説明する。

一 「北寿老仙をいたむ」の署名の「釈蕪村百拝書」の「釈蕪村」の署名は、晋我没年の延享二年前後には見られず、この署名は、宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)、宝暦四年刊行の『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編、宋阿十三回忌追善集)および宝暦初年推定「真蹟」の「木の葉経」句文に見られるものである。宝暦八年は宋阿の十七回忌にあたり、その前年あたりが晋我・潭北の十三回忌にあたる。この「釈蕪村」の署名からすると、晋我十三回忌などに晋我の嗣子・桃彦宛てに送られたものと解したい。
二 蕪村が京都に再帰した宝暦元年(十一月□二日)付け桃彦宛ての書簡があり、蕪村と晋我の嗣子・桃彦とは親密な間柄であり当時頻繁に交遊があったことが分かる。その書簡からして、この「北寿老仙をいたむ」は蕪村が京都に再帰して、宋阿十七回忌に前後しての、晋我(さらには潭北)十三回忌に関係することも、後の三十三回忌に関連付ける「安永六年説」と同じ程度に許容できるものと解したい。さらに、それが、晋我五十回忌の折り、その追善集『いそのはな』に収載された経緯などについては、「安永六年説」(そもそもこの作品が追善集に収載されることは前提としていなかったということを含む)と同じ考え方によるということになる。
三 宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)の収載の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」とその署名(釈蕪村)のものは、雁宕らの依頼により京都より結城の雁宕らに届けられたものと解せられる。この「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」と響き合うものと理解をしたい。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』とそれに収載されている「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されているという理解である。
さらに、宝暦四年の宋阿十三回忌の追善集『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編)の次の蕪村の「跋文」(署名・釈蕪村)は、「北寿老仙をいたむ」の前提となるようなものと理解をしたい。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
四 宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」・「すごすごと彳(たたず)める」と響きあうものが感じられ、さらに、先の『夜半亭発句帖』跋文の「西に去(さら)んとする時」も、その俳詩の「君あしたに去(さり)ぬ」と響きあっている趣でなくもない。また、上記の「ト居(ぼくきょ)」(土地を選定して住む意)は、「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の署名「洛東間人嚢道人 釈蕪村」の「間人」(「故郷喪失者」の意に解する)と響きあっていると理解をしたい(この「嚢道人」の「嚢」を乞食僧の頭陀袋と解する説もあるが、釈蕪村の「釈」が僧の姓を意味する仏教用語と解すると、この「嚢道人」は老荘思想の「虚」に通ずる「虚の嚢」と理解をしたい)。
(付記)上記の「故郷喪失者」ということについて、小高善弘稿「近代ブソニストの系譜」(「国文学」平成八年十二月号)の「故郷喪失者の孤独・・・萩原朔太郎」の次のことを付記しておきたい。
※大阪淀川辺の毛馬の出だという蕪村は、句や俳詩「春風馬堤曲」などに、家郷への限りない郷愁をくり返しうたっているが、実は故郷は心のなかにのみあって、帰るべき家はさだかではなかった。一方、これを論じる朔太郎の出自ははっきりしているが、筆者当人もまた、家郷に入れられず、都会で群衆の中の孤独を味わう一種の故郷喪失者だった。孤独の極限「氷島」のイメージを抱え込む詩人は、また、限りない「郷愁」を心の底に持つ人でもあったのである。そこに、蕪村に通底する心情を見出すことができる。

(六十六)

(その二)

五 安永年間成立説(安永六年説)の下記については先に触れたが、再度ここでも整理して触れておきたい。
(一) 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
(二) 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
(三) もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
(四) 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。
 これらの「安永年間成立説」の考え方には異論がある。その一については、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。さらに、付け加えるならば、「春風馬堤曲」が「エロス」の世界(生の詩)とするならば、「北寿老仙をいたむ」は「タナトス」の世界(死の詩)のものと理解をしたい。
その二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」と、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考える。
その三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
その四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の作成時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい(それは、「俳諧(連句)」における「捌き」と「執筆」とのような関係と理解をしたい)。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖そのものなのである(それはこの「春興帖」を企画した興行主の「捌き」が謝蕪邨(与謝蕪村)であり、その助手役の「執筆」が「宰鳥」(蕪村の前号)との一人二役で刊行した、安永六年のお目出度い春興帖の一趣向と解すべきなのであろう)。

(六十七)

(その三)

六「『君』という呼びかけや『友ありき』という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか」という疑念については、「俳諧師・蕪村」ではなく、釈迦の弟子としての「釈蕪村」が、敬愛する故人・早見晋我に仏前で詠唱する詩経の措辞であって、特に、この「釈蕪村」の「釈」という観点から、これらの措辞を理解をしたい。さらに、この「友」については、特定した『君』から、比喩的な雉子の死という二重構造をとり、その二重構造を通して、『君から亡き数の人への昇華』を連想させるような微妙なニュアンスすら感じさせるものと理解をしたい。なお、明和四年三月、宋屋一周忌の追善集『香世界』の次の句文の「君」についてもこの「北寿老仙をいたむ」の「君」と同一趣向のものと解したい。
(宋屋一周忌追善集『香世界』句文)
宋屋老人、予が画ける松下箕居の図を壁間にかけて、常に是を愛す。さればこそ忘年の交りもうとからざりしに、かの終焉の頃はいさゝか故侍りて余所に過行、春のなごりもうかりけるに、やがて一周に及べり。今や碑前に其罪を謝す。請(ふ)君我を看て他(の)世上(の)人となすことなかれ(註・「願うことはあなたは私を他の世間一般の人と同じように薄情な人とは見ないで欲しい」の意)。
  線香の灰やこぼれて松の花    蕪村
(付記)「北寿老仙をいたむ」の「君」と「友」との理解については、「俳諧」(連句)でいう一種の「見立て替え」(前句の「君」を「友」と見立て替えするところの「談林俳諧」や若き日の蕪村が出座した「江戸座俳諧」などに顕著に見られる「付合」の一手法)と理解をしたい。「君」と「友」を同一人物と鑑賞する仕方、「君」・「雉」・「友」と分けて鑑賞する仕方といろいろな見方ができるのは、その「見立て替え」の鑑賞如何に係わるもので、それぞれの鑑賞があっても、「俳諧」(連句)的な鑑賞としては許容されるところのものであろう。そして、現代の「自由詩」的な鑑賞の仕方での、この「君」と「友」との整序された形での鑑賞というのは不可能であろう。

(六十八)

(その三)

七 次の疑念(Q)についての考え方(A)は以下のとおりである。

(Q)―1
「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
(A)―1
まず、「安永年間成立説」に比して「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」はいかんせん遺されている作品・書簡等が少なくこの種の推量は限定されてしまうことは歪めない。しかし、その作品・書簡等の成立時期を考慮に入れないでアトランダムに符合するようなものを挙げていくことはそれほど難しいことではない。例えば、「岡のべ」・「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」などの「岡」・「数詞」・「リフレーン」・「色彩」などの符合については、「岡野辺や一ツと見しに鹿二ッ」(明和五年)、「行(ゆき)々(ゆき)てここに行(ゆき)々(ゆく)夏野哉」(明和五年)、「若葉して水白く麦黄(きば)ミたり」(年次未詳)など。さらに「すごすごと彳(たたず)める」については、「梨の園に人彳(たたず)めるおぼろ月」(明和六年)など。しかし、それよりも、宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」と何か響きあうものが感じられ、単に、「釈蕪村」の署名だけではなく、こういう措辞・表現などを通しても、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を強めるのである。


(六十九)

(Q)―2
何よりも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
(A)―2
 そもそも、俳人・蕪村こと俳人・宰鳥の出発点は、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(元文四年・其角三十三回忌)や「我(わが)泪古くはあれど泉かな」(寛保二年・宋阿追悼句)などの追悼句をもってであるといってもよいであろう。さらに、上記の引用の「釈蕪村」の署名のある「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。
句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。蕪村にとって、鎌倉山を朝越えて行くのは、東国の江戸へ向かっての旅路であろうが、夕べに鎌倉山を越えていくのは、東国十年余の遊歴の後夢破れての西国の京都への再帰への旅路であろう(実際のその再帰の旅路は東海道ではなく中山道だったと思われるが、この句は宝暦元年の頃の作で、宝暦二年刊行の『反古衾』に収載されている)。それよりも、この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」そのものに照応しているのではなかろうか。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』の若き日の蕪村の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されている・・・、そのようにこの句を鑑賞したいのである。ここでも、さらに、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を深くするのである。

(七十)

(Q)―3
のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品(註・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。
(A)―3
 ここで、那珂太郎稿「蕪村の俳詩の近代性・・・『春風馬堤曲』をめぐつて・・・」(「国文学」平成十八年十二月号)の次の一節を引用しておきたい。
○「春風馬堤曲」は作者蕪村の懐郷の思ひを主題とした作と、一般に見られてきた。表面上そのことに紛れもないけれど、同時に艶詩的性格であることは、これまでに多かれ少なかれ大方の評家に認められてゐた。しかしこの題名が「艶詩」を指示するならば(註・「尾形仂によれば、『春風馬堤曲』の題名からして楽府中の『大堤曲』の曲名にならったもので、当の『大堤曲』がいづれも艶詩であるところから、『春風馬堤曲』という名目自体が、この作が楽府の歌曲のスタイルに擬した艶詩である」ということ指している)、むしろこの方に真の主題がある、とまでは言はなくとも、少なくとも懐郷と劣らぬ位に、作者のエロスへの思ひがこめられてゐるのは当然であろう。
※この那珂太郎氏の指摘のとおり、「春風馬堤曲」(そして「澱河歌」)は、いわゆる艶詩の世界のものであって、それと追悼詩の「北寿老仙をいたむ」を同一俎上にすることは、どうにも不自然のように思えてくるのである。さらに、「詩中の雉子の『友ありき河をへだてゝ住にき』のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、『妓ニ代ハリテ』『女ニ代ハリテ意ヲ述ブ』という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の『実情』を『うめき出た』二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということについては、先に触れた、この俳詩「北寿老仙をいたむ」は、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されており、そういう視点から、この俳詩を鑑賞すると、決して、「二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということには疑念を抱かざるを得ないのである。

木曜日, 6月 08, 2006

若き日の蕪村(四)




若き日の蕪村(四)

(四十七)

ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』やこの和詩を安永六年とする『蕪村の手紙』の著者(村松友次)の考え方などを紹介したい。著者(村松友次)は、この和詩の「君」と「友」とを分けて解釈する独特のもので、その考え方は賛否両論があるが、それらの解釈の異同なども織り交ぜながら見ていくことにする。著者(村松友次)は次のような「九連詩説」(この和詩十三行を九連に分割する考察)によっている(『蕪村伝記考説(高橋庄次)』などの「八行詩説」と四※印の行の相違がある)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四※ 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
五 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
六 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
七 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
八 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
九 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書
(口語訳)
一 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
二 あなたのことを思いながら、岡のべをさまよい歩くのです。
  岡のべはなぜこうも悲しいのでしょう。
三 たんぽぽは黄色に、なずなは白く咲いています。
  しかし、これを見るあなたはいないのです。
四 おや! 雉がいるのでしょうか、いたましい声で、ひたなきに鳴いています。
  聞くとこう言っているのです。
五 「親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。
六  あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
七  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
   るのです。)
八 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、 
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
九 わが家の阿弥陀仏にともしびを奉る気力もなく、
  花もお供えせず、ただひとりしょんぼりとたたずんで、
  あなたをしのぶ今宵は、
  ことに尊く思われるのです。
              仏弟子蕪村百拝してしるす


(四十八)

『蕪村の手紙』の著者(村松友次)は、「平井氏(註・詩人で俳人の平井照敏)は、この詩の中心部分の解説の諸説を丹念に紹介し、次のように言う」として、平井照敏氏の考え方を紹介している。
○まったく、諸説入りみだれて、どうにも収拾がつかない思いではないか。なんとか、すっきりした結論はつけられないものだろうか。そう思って、尚学図書版『鑑賞日本の古典17 蕪村集』の村松友次氏の解説を見た途端、私ははじめて、久しいしこりが一度に解ける思いを味わったのであった。村松氏の訳は次のようである。
「あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
るのです。)」
 つまり、村松氏は「友ありき・・・」から「ほろゝともなかぬ」までの六行を、雉のことばと考え、作者の思いを重ねているのである。これは、先にあげた中村草田男の解と重なるものである。草田男の場合、「へげのけぶりの・・・」から「のがるべき・・・」までの三行を地の文としていたが、村松氏はその三行を雉のことばと考えたのである。たしかに、このように考えれば、「友ありき・・・」の転調は無理なく解決でき。その友が、鳴いて雉の友の雉なら、「けふハ/ほろゝともなかぬ」の理由も十分に納得できる。河をへだてていつも鳴きかわしていた友の雉なのだから。村松氏はこれだけではなく、この詩全体の構成について、興味ある分析をしている。つまりこの詩はABCDEという五つの面を重ねた構造をしていると考えるのである。A面は、題と「我庵のあミだ仏・・・」、以下、B面が一、二行目と十四、十五行目の「君あしたに去ぬ・・・」という同文の二行ずつ、C面は岡のべの描写で、三行目から五行目までの五行、D面が雉1の独白で、八行目と十二行目、十三行、E面が雉1の独白の中に語られる雉2の最後で、九行目から十一行目までの三行である。この五面の重なりによる立体的構造をもつのがこの詩だとするこの解明はまことにすっきりとこの詩の構造を解いている。
 だが、さきの口語訳で、「あやしい煙」とのみ訳されていた変化のけぶり、これを村松氏は、猟銃の煙だと解いている。そうかもしれない。事実、蕪村に、「雉子うちてもどる家路の日ハ高し」の句かあり、この句を書き添えた絵も存在して、猟師が鉄砲の先に死んだ雉をぶらさげて家路につく姿がえがかれている。なぜ雉2が死んだのか。それをここまで解いてしまうと、詩が透明になりすぎて、しらけてしまう感じである。ここは、蕪村も「へげのけぶり」とだけ書いたように、あやしい煙のままで、いろいろに味わえる不透明な余地をのこしておくべであろう。あるいは先の草田男もそのように解していながら、作家の勘でそう言い切ることを避けたのかもしれない。その点は味読を尊重する俳句実作者の私だが、しかし、村松氏の分析のように、この詩が読めるものとすれば、蕪村の作詩術はなんと新しいものではないか。複雑な構造性のある詩をすでに作っていたのである。もっともそれは、物語的に俳句や詩句を組みあわせた「春風馬堤曲」の作者蕪村には、可能なことだったのであろう。またかれの絵にも、視線を移動させることによって、画面が変化してゆくという多面的な工夫がさまざまにほどこされていた。そしてその近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだったのかもしれないと思う。

 長い引用になったが、平井照敏氏は、村松友次氏の考え方を是とするということであろう。「その近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだった」という最後の指摘については、村松氏が指摘する「能の多くの構成」と深く関わっていることも加味しておきたい。

(四十九)

 この村松友次氏の考え方に対して、山下一海氏は次のように一部否定的考え方をしている(村松・前掲書)
○村松友次氏の九行詩説(註・九連詩説)は、詩の中心点のその独特の解説にかかわりがある。すなわち、7に「雉子のあるかひたなきに鳴くを聞けば」とあるのを受けて、8 から13までの六行を雉子の言葉とする。その六行を直接話法として、括弧でくくってていいようなものとするのである。それは雉子が友である別の雉子の最期を語っているのだから、その中の9・10・11の三行によって、別の雉子の代弁をしているのだという。それは能の後ジテが、生前の姿となって登場し、その最期を語り演ずる手法に似ている、ともいう。まことに明快な解釈であり、八連詩説では一括されていた7・8が九行詩説(註・九連詩説)では別々の行として考えられなければならない理由も、あきらかである。しかも、中心部分が8・9・10のさらにその中心ともいうべき「へげのけぶり」に、猟銃の煙という新解を与えて、その解釈を確固たるものにしている。しかし、8から13までを、雉子の言葉として割り切ってしまうことはいかがなものか。能の夢幻劇だといってもそこにあるのは能の詞章ではない。8から13までの文字が雉子の直接話法とすると、はっきりしすぎた寓話劇というようなものに聞こえないでもにい。そこに銃声一発、鉄砲の煙となると、どうも本当にそうなってしまう。従来の解釈によるこの詩の不思議な情緒纏綿生といったものが、雉子の言葉の挿入によって破壊それるような気がする。意味ははっきりするが、かんじんの詩の魅力が薄らいでしまう」。

 これらの村松友次氏の考え方については、先に見てきた『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の「この追悼詩を霊前に捧げたのである」という観点から、この蕪村の和詩を鑑賞していくと、山下一海氏らの従来からの、「8から13までの文字が雉子の直接話法」ではない、という考え方を是としたい。しかし、「北寿老仙を『君』とも呼び『友』とも呼んでいる」ことの疑問(俳人・原裕氏らの意見)は依然として残る。このことについては、『君』は、「北寿老仙その人」を指し、『友』は、雉子の鳴き声で象徴される、「北寿老仙を始め、その北寿老仙に前後して亡くなった、宋阿や潭北らの複数の故人」と、蕪村は、その心中に、区別してのものという理解も、この和詩を鑑賞する、もう一つの視点として許容されるのではなかろうかと、そんな思いもするのである。

(五十)

 『蕪村の手紙』の筆者(村松友次)の「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年、蕪村六十二歳とする考え方は、次のとおりである。

一 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
二 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
三 もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
四 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。

 これらが、その根拠なのであるが、一については、先にも触れたが、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は
「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。
二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」(村松・前掲書)としているが、こと、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考えられる。
三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の製作時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。
(追記)さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖と解すべきものなのであろう。

(五十一)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年とする説の根拠とされる蕪村書簡について紹介しておきたい(口語訳等は村松・前掲書による)。

○・・・春帖近日出(いで)し早々相下可申(あいくだしもうすべく)候。以上 蕪村
正月晦日日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
此句のうち見ニハおもしろからぬ様ニ候。梅と云梅ニ落花いたさぬハなく候。さけど樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景ハ、いまだ春色も過行(すぎゆか)ざる心地せられ、恋々(れんれん)の情有之(これあり)候。しかるに此(この)江頭の梅ハ、水ニ望ミ、花が一片ちれば其まゝ流水が奪(うばい)て、流れ去(さり)さりて一片の落花も木の下ニハ見えぬ。扨(さて)も他の梅とハ替りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくに御尋思(ごじんし)候へば、うまみ出(いで)候。御噛〆(かみし)メ可被成(なさるべく)候。
(口語訳)
・・・春帖(『夜半楽』をさす)近日出版し早々にお送りします。以上 蕪村
正月三十二日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
この句、ちょつと見ただけではつまらないような句です。梅という梅に落花しないものはありません。しかし、木の下に落花の散り敷いた光景は、まだ春も過ぎ去ってしまわないのだという心地がして、行く春を恋しがる情があります。それなのに、この川岸の梅は、水に臨んで立っているので、花が一片散ればそのまま流れが奪って流れ去り流れ去りして一片の落花も木の下には見えません。さても他の梅とはちがってあわれなる様子、すごすごと川岸に立っているありさま、ようくお考え下されば、うま味が出て参ります。噛みしめてみて下さい。

 この霞夫(但馬出石の門人)宛ての書簡は、追伸の形で書かれたものだが、この手紙を書いた二日後(安永六年二月二日)に、同じような内容の「水にちりて」の句とその自解の書簡を何来(大和初瀬の門人)宛てにも出している。この二通の書簡中の「すごすご」という文面に、村松友次氏は注目するのである。

(五十二)

○この二通の書簡で私(註・村松友次)が注目することばは「すごすごと」である。霞夫宛には「すごすごと江頭に立(たて)るたゝずまゐ」とあり、何来宛には「すごすごとさびしき有さま」とある。そして管見の限りでは、この時期以外に蕪村書簡に「すごすごと」の語はあらわれない。「北寿老仙をいたむ」(和詩)の末尾に、

 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき

とある。私はこの二通の書簡執筆時期と「北寿老仙をいたむ」の創作時期とが近接していると考えるのである。

 この村松友次氏の指摘は、尾形仂著『蕪村の世界』でさらに「北寿老仙をいたむ」の創作時期は安永六年説として、従来の延享二年説を上回る趣なのである。しかも、それだけではなく、新しく発見された安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)により、

 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
 何ぞはるかなる

の、「千々」のことばが、その書簡中の「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句の「千々」に関係するのではないかとして、またまた、新しい展開にも入ったような趣なのである。これらのことに関して、その安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)が、次のアドレスで紹介されており、その書簡(釈文)を付記しておきたい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/images/letter2.html


 今日菟道辺之風景     
 見え候てのもの之通 貴叟 
 先頃より御在京のよし    
 扨も社中の小児輩一向    
 御上京のさた不仕遺恨    
 之事ニ候 それ故御旅宿   
 御見舞も不申 御ふさた   
 不本意之段 御宥恕     
 可被下候 いまた御滞留ニ候や 
 うけ給りたく候 百池も    
 いつのまにやら一向面会    
 いたさす候 第一百池より   
 御上京のさた早速可致     
 筈之所 等閑之至       
 届さる事ニ御座候 愚老    
 むすめ事なとにて 俗事    
  多く 散分京ニのみ         
 くらし罷在候 ホ句なとも   
 (一向)いつくへやら取失ひ候  
 老耄御憐ミ可被下候 余辺   
 御ゆかしく候まゝ如此ニ御座候  
 いまた御在京ニ候ハゝ得    
 貴意物ニ御さ候 宿之者も   
 くれ~~御伝声申上候 頓首  
   六月九日
  夏の月千々の波
  ゆく浅瀬かな
  愁つゝ丘にのほれは
  花いはら
 よろしからぬ句なれと
 希運付候
 暮雨主盟      蕪村



(五十三)

ここで、『蕪村の手紙』(村松友次著)の『いそのはな』関連について見ていくことにする。

○『いそのはな』は、東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文、古晋我(註・北寿老仙)の発句五句、百里立句の百里・晋我(古晋我)両吟歌仙一巻のあとに、
  反古のはしにかく有にまかせて
 水無月の松風売や淡路島      専吟
  麻の頭巾ハ蚊にも笠にも     晋我
 喜雨亭へかねて蛙の内意して    琴風
  あふなきゆふへ弓張にけり    百里
と四吟らしきものの四句目までを出す。次が「北寿老仙をいたむ」である。そして詩の末尾に、
 「庫のうちより見出(みいで)つるまゝ右にしるし侍る」と記している。
ついで結城を中心にしたこの地方の現存俳人約四十名各一句。つぎに、古晋我の句を立句に脇起俳諧一巻、連中は、今晋我(註・桃彦)、雞口(谷口氏)、九皐、泰里(橋本氏)、篷雨の五名。つぎに「東都の好士の句をひろひて冊子の錺となす」として三六人、各一句、跋に相当する文と句を蘿道が書いている。
 百里の没年は享保十二年(一七二六 六二歳)。次の四吟の四句目までのもののうち、琴風の没年は享保十一年(一七二六 六十歳)。したがって、この両吟、および四吟の成った年時は享保十二年、十一年をさらにさかのぼることになる。およその見当で言えば、晋我、五十歳ぐらいの時で、江戸その他から有名な俳人を迎えての歌仙の作であり、大事に保存されたため、七十年ほど後にまで残ったのだろう。その他は「北寿老仙をいたむ」の蕪村を除けば結城地方および江戸の、現存者ばかりである。
 なぜ、晋我没後の結城や下館や宇都宮の俳人たちの弔句をのせなかったのか。五十年前の蕪村のこの俳体詩が残ったのなら、これらの人たちの弔句が残ってもよさそうなのである。
 晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は「蒲公英は黄に薺はしろう咲きたる」の気候ではない。
 巴人没後、蕪村は結城に移住するが、それ以前に、
   つくばの山本に春を待
  行年や芥流るゝさくら川    宰鳥
の句が『夜半亭辛酉歳旦帖』にあり、元文五年の暮に「筑波の山本」に行っていることが分かる。この時期に蕪村は晋我に、当然面識をもったであろう。
 この『辛酉歳旦帖』には「結城歳旦」とした筆頭に、
   松かさり落葉もなくて尉と姥  素順
の句が出ている。晋我(素順)が結城俳壇の長老であったことが分かる。
 しかし、それからわずか三年後に蕪村が編集した『寛保四甲子歳旦歳暮吟』(宇都宮歳旦帖)中には晋我の子「もゝ彦」「田洪」の句は各一句あるが、晋我の句はない。この年(寛保四年、延享元年)の七月三日に没した潭北は句を出しているところを見ると、潭北は没前まで元気であり、晋我は寛保元年以後のある時期に発病し、二、三年病臥したのち潭北よりも半年おくれて世を去ったと見られる。すなわち、巴人没後蕪村が結城を中心に活躍する頃、七十二、三歳の晋我はすでに病床にあり、歳旦句すらも作れない状態であり、蕪村と共に「岡のべ」を逍遙する元気はなかったと思われる。
 蕪村が晋我の子の桃彦(蕪村より一歳年下)と親しかったことは桃彦宛(と見られる)書簡(註・先に紹介した)にうかがわれる。桃彦はその家業(酒造業)の関係で京阪地方に来ることもあったが、右の桃彦宛書簡によれば、伏見に桃彦の縁者かなにかがあるように思われる。
 かれこれ勘案して、私は、この詩が晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれ、桃彦に届けられたものかという推定を出したい。

(五十四)

 尾形仂著『蕪村の世界』も晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれたものとする。以下、その考え方を提示しておきたい(長くなるので、その一、その二、その三に分節する)。

(その一)
○この作品は、「君あしたに去ぬ」と歌い起こし、晋我の亡くなった夕べの思いをイメージも鮮やかに切々とつづり、かつ「釈蕪村百拝書」と署名するところから、従来多く、無条件に延享二年、蕪村三十歳当時の作とされてきた。
 この作品が、その夕べの心情に立って詠まれていることは確かである。だが、「君」という呼びかけや「友ありき」という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか。それに、「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
 何りも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
 のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。

(五十五)

(その二)

○一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。
 だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。

(五十六)

(その三)

○「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
 もし、これを安永六年の作とすることが肯定されてよいとすれば、14・15にくり返された「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に何ぞはるかなる」の詩句は、次のような意味を重ね合わせて、読み直すことも可能だろう。
・・・あなたは、私の青春の朝(あした)に世を去った。その時のことを思い返せば、今、人生の夕暮れにさしかかった私は千々に乱れ、何とマァ茫漠と暗い思いに誘い込まれることか・・・と(註・「はるかなる」は「杳か」で曇って暗いの意に解している)。そこにまた、やるせない青春への慕情が脈々と波打っている。
 そしてまた、傷心の中で暗闇に仰ぐ弥陀の尊象を「ことにたう(ふ)とき」と言って結んだ最終節は、たとえば「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」(小摺物「夜半亭小集」)の句に典型的に示されているような、太祇・召波・鶴英・雁宕らの盟友が次々と世を去ってゆく無常の相を凝視する中で、しどけなく老懶(ろうらん)の境地に居直った晩年の蕪村の、隠された心の奥を覗かせたもの、と読むことができるかも知れない。・・・何事も弥陀のはからいに任せきった・・・。

(五十七)

 これらの、村松友次・尾形仂両先達の論稿の検討に入る前に、また、別の観点からのものを紹介しておきたい。その一つは、詩人・三好達治に親炙した「秋」主宰の俳人・石原八束氏の「北寿老仙考」(『蕪村全集』第六巻月報所収)である。この論稿は氏の遺稿ともいうべきもので、編集部の次の記述が付せられている。
○筆者石原氏は本稿執筆後に病臥され、校正刷りを検討していただくことができませんでした。『いそのはな』の鶏口序文に、晋我は「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ」とあることに、お考えがある筈ですが本稿に表れていません。執筆前のお話からは、雁宕家廃絶の際に早見家に移った蕪村稿を、桃彦が後に「庫(くら)のうちり見出(みいで)つるまゝ」晋我あてと判断した(それがそのまま序文に出た)、と推測しておられたようです。しかし、そのことを確認できないまま、原文の通り掲載しました。また論旨に影響しませんが、追善集刊行時の桃彦の年齢に関する部分は、同じく序文に「後の晋我と跡を継(つぎ)て、ことし八十一齢となり」とある箇所を見落とされたかと思われます。

(その一)

○蕪村の詩篇「北寿老仙をいたむ」について、八年ほど前の一九八九年一月号「新潮」に同題の論考をすでに発表している。天才型でない蕪村の画も俳諧も、年をとるにしたがって成熟大成していることを検証しながら、その俳句創作の発想と技能の酷似から、この詩篇は蕪村の親友砂岡雁宕の死亡(安永二年七月三十日)の訃報が京都に届いた(これを私は安永二年の晩秋頃と初め考えたが、今は安永三年初春の頃と考えている)ときから数ヶ月をかけ、雁宕追悼詩としてこれを作ったのではないか、というのが拙文の要旨であった。

(五十八)

(その二)

○詩篇と酷似している句として「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」「花茨故郷の路に似たるかな」「遅き日のつもりて遠きむかし哉」「なの花や月は東に日は西に」とか「雉子啼や坂を下りの駅舎(たびやどり)」など、いずれも安永三年(蕪村五十九歳)の作と思われる句を例証に引いた論証であったことは断るまでもない。
 この詩篇が雁宕追悼の詩であるとすると、当然ながら北寿老仙は雁宕ということになる。多くの先覚が当然のこととしてきた「北寿は晋我」説に異をとなえる不遜な考え方を持ったのではもとよりない。が、詩句発想の推移と成熟を六十年も内省し続けてきた専門俳人の、これは私の勘であるとしか言いようがないのである。もう一つ付け加えると、晋我没後の嗣子桃彦によって編まれた「いそのはな」にこの「北寿老仙をいたむ」を「庫のうちより見出つるままに右にしるし侍る」と付記されている言葉にも、専門俳人の私は早くから疑念をいだいてきたのである。                         
 雁宕は蕪村にとって早野巴人門の先輩であり、結城時代の恩人であり、更に巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然ではないかしら。多少先輩てもあり友人であっても立派な仕事を残して死亡したときには、初めてその友人を先生という敬称で呼ぶ伝統は今の文人の世界でもたしかに残っている。

(五十九)

(その三)

○ただ、その後蕪村研究に深入りした訳でもない寡聞の私には、例えば古稀を越えた晋我が北寿を自称している書簡が発見されたとか、北寿で入集している句集が出てきたとかいうことは聞こえていない。晋我の妻女は雁宕の父我尚の妹であったことは右の「新潮」に発表した拙文でも言った。砂岡家の本家の伊佐岡家も早見家も更に下館の中村風篁・大済家なども一所不在の蕪村が逗留して世話になった家は大方結城十人衆の名家である。結城十人衆というのは慶長六年(一六〇一)結城家が福井に六十七万石で国替えになったときに、結城家の墓守を名目に譜代の家臣が豪族としてこの地に残されたのである。殊に伊佐岡家はその筆頭の名家であったことは名刹弘経寺の一等地にある伊佐岡一門の墓を見ればよく解る。雁宕の祖父宗春のときに伊佐岡家から一字格落ちして砂岡家となり、雁宕まで三代は三右衛門と通称した。雁宕の息子は病弱で雁宕に前後して早世・・・妻子はない。その墓は高誉雁宕堅樹居士と並んで堅誉好樹覚定居士として更に二名を加えた一族四名が同一墓石に刻され、四代で廃絶となった砂岡家の墓は本家伊佐岡家の墓所に入れられている。

(六十)

(その四)

○つまり、砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
 因みに右の本家の伊佐岡家の昭和の当主荘基さんは小誌「秋」の同人で、私どもと一緒に運座(句会)をしてきた仲間であった。もう二十余年も前のこと、一日、尾形仂教授を私とこの荘基さんで結城に東道し、弘経寺の伊佐岡家の墓所にある雁宕の墓とか、蕪村のこの期の襖絵などを見学してもらったことのあったのを思い出す。その荘基さんもすでに道山に帰られて久しい。またいま(平成九年十月)水戸の県立博物館で開かれている大規模の蕪村展を初めに企画され、日頃親しくして下さっていた私どもにまでその相談をもちかけて下さった館長の衛藤駿慶大名誉教授が展覧会実施の直前、八月に急逝されてしまわれたのは痛恨の思いである。そうして盛大にひらかれたこの蕪村展の会場を私は度々徘徊しながら、安永三年作の蕪村句と「北寿老仙をいたむ」詩の酷似に執着し続けているのである。

火曜日, 6月 06, 2006

若き日の蕪村(その三)




若き日の蕪村(三)

(三十)

「江戸生活その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

蕪村が故郷を出て江戸へ赴いたのはいつであろうか。江戸居住の正確な年時の知れるものは元文二年、二十二歳の時である。しかしそれより二、三年さかのぼり享保の末年ではないかというのが従来の推測であり、それらしく思われる。新資料の出現や研究の進展により将来明らかにされるかもしれない。大江丸は蕪村ははじめ「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったと述べている。しかし、沾山との関係を知るべき資料は何一つ見つからない。又、蕪村ははじめ宰町・宰鳥の俳号で出てくるので、江戸座の足立来川門に西鳥という名で出ている者があり、これが同音から蕪村ではないかという西鳥初号説と来川門人説とがあるが、確実性に乏しくむしろ否定さるべきものである。巴人宋阿は下野
国那須郡烏山の人で、早くから江戸に出て其角・嵐雪の教えを受け江戸俳壇で知られた人であるが、京にのぼり止まること、十年、元文二年四月江戸に帰り、日本橋本石町三丁目の小路にある時鐘のほとりに居を定めて夜半亭と称した。この年内に蕪村が宋阿を訪れて入門したことは、翌元文三年の『夜半亭歳旦帖』に蕪村の出句があることで明瞭である。ただ、どのような縁故関係があって、宋阿門に帰したかは明瞭でない。宋阿の京住時代に交渉があったと見る説は、今後の課題であろう。
(メモ)
元文二年(一七三七) 二十二歳
四月三十日 在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。
○間もなく「宰町」が入門、内弟子として夜半亭に同居。大江丸の『はいかい袋』に「江戸内田沾山に倚り、後に巴人宋阿の門人とな」ったという記事が見える。沾山は沾徳の高弟で当時江戸座の一流俳人とされている。
元文三年(一七三八) 二十三歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
    君が代や二三度したる年忘れ
続いてこの年夏刊行の、豊島露月が七十歳の賀集として撰した『卯月庭訓』には「宰町自画」として、次の句が見られる。
    尼寺や十夜に届く鬢葛

(三十一)

「「江戸生活その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿は徳望家で江戸と関東一円および京都に多くの門人を擁し、人材を輩出している。京の望月宋屋などはその中で傑出しており、師に似て徳望家であってその俳諧活動もいちじるしい。この宋屋と蕪村とはやがて親密な間柄となるが、その前に毛越という人物が蕪村と急速に接近している。毛越と蕪村との接触は従来蕪村入洛の宝暦元年、毛越編『古今短冊集』から跡付けられているが、私は先頃、夜半亭において宋阿・蕪村・毛越が一座して歌仙興行をしている事実を突きとめた。元文四年冬十一月宋阿自跋、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』に、宋阿興行とした発句雪尾(ゆきを)、脇宰鳥、第三宋阿、四句目少我の四吟歌仙一巻が載り、その発句「染る間の」の雪尾が毛越その人と考えられるのである。それは寛保二年毛越編『曠野菊』に雪尾斎毛越の名で出ているからである。確定はできないがおそらく同一人であろう。同書に守中菴産川という者が、雪尾斎は洛の産で東武に行ったり、文月の末みちのくあたりに赴いたと述べている(留別辞)。あるいは毛越が平泉毛越寺を訪れての改名かと思われるが、それはともかく巴人庵宋阿と同様な使い分けで同人であろうと思う。この雪尾は又前号雪雄であるらしく、『元文三年夜半亭歳旦帖』の中に京俳人として出句、又、元文四年春三月冨鈴(宋屋)自跋、宋阿序の『梅鏡』の中にも京俳人として出ている。従って毛越は宋阿の在京中の知人で宋屋とも親しかったと思われ、たぶん元文四年中に江戸に下って、宋阿を訪問しているのである。さきの歌仙はあるいはその歓迎句会での興行であったかもしれない。
(メモ)
元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の
歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(三十二)

「関東遊歴と奥羽の旅その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

宋阿晩年の門人となった蕪村は、元文三年その歳旦帖に句を見せてから、夏、絵仰書で有名な露月の『卯月庭訓』に自画に句を題して入集。続いて初秋夜半亭臨時の百韻興行に出座。連衆は宋阿をはじめ雪童・風篁・謂北・少我らの十余人。又、九月湯島における一日十百韻に参加、高点句六を得た。翌四年夜半亭・謂北・楼川の各歳旦帖に出句しており、冬になって前述の『桃桜』に発句一、宋阿興行、百太興行の各歌仙に一座している。後者の連衆は宋阿の外、百太・故一・訥子である。翌五年冬筑波の麓に滞在して、来る春を待ったことは『寛保元年夜半亭歳旦帖』によって知られそれに一句を載せるが、翌二年宋阿の逝去に逢うまで、俳書に表われた蕪村の行動の記録は意外に少ない。ただ『新花摘』によれば百万坊旨原から『五元集』の精密な模写を頼まれたこと(蕪村の能筆がわかる)、謂北(麦天)のために奔走して点者の列に入らせたことなどが知られる。さて、宋阿は寛保二年六月六日死亡した。六十六歳。蕪村は時に二十七歳である。宋屋が手向けた追善集『西の奥』(寛保三年)の自序で、蕪村と雁宕とがこれを京師の門弟・旧知に急報したとあり、蕪村はすでに宋阿の愛弟子として夜半亭にしげく出入りし、あるいは同居して薪水の労を取っていた。それだけに悲嘆痛恨は大きく夜半亭に一人籠もり師の遺稿を探って「一羽烏」という文を作ろうしたが果たさず、悄然として江戸を離れ下総結城の雁宕のもとに身を寄せるのである。
(メモ)
元文五年(一七四〇) 二十五歳
○元文年間、俳仙群会図を描く(『蕪村翁文集』所収「俳仙群会の図賛」)。その賛は次のとおり。
守武貞徳をはじめ、其角嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて
寛保元年(一七四一) 二十六歳
○前年の冬、筑波山麓で春を待った蕪村は、この年上梓の『夜半亭歳旦帖』に宰鳥名で次の句が入集される。
行年や芥流るゝさくら川
寛保二年(一七四二) 二十七歳
○六月六日、春の頃から口中に痛みを覚えていた夜半亭宋阿は、遂にこの日没する。宋屋編宋阿追善集『西の奥』(寛保三年刊)では六十七歳説、丈石編『俳諧家譜』では六十六歳説。(延宝四年出生説をとり、六十七歳説と解する)。


(三十三)

「関東遊歴と奥羽の旅その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

雁宕は蕪村より十余歳年長か。宋阿の京在前の弟子でよく蕪村の世話をやき生活をも支えてくれた。彼は砂岡氏、結城の名家でその父我尚は其角門ついで嵐雪門。その没後は介我に師事した。この我尚・雁宕父子の縁続きには俳人すこぶる多く、まず結城俳壇の長老北寿老仙早見晋我は我尚の姉婿と推定され、俳諧は我尚と同系。その二子桃彦・田洪も俳人。雁宕の弟周午も俳人。妹の一人は下館の中村風篁の分家中村大済の妻であり、雁宕の娘は宇都宮の佐藤露鳩の妻であった。我尚の親友に那須烏山の常磐潭北がある。宋阿と同郷で其角門、蕪村に長ずること三十九年の老翁であるが、蕪村に親愛の情を抱き、上野国に同行して処々に宿りを共にしたと『新花摘』にあり、高羅の茶碗や埋れ木などの逸話も語られている。又、五色墨の一人、佐久間柳居と筑波詣でで出会って、俳席を重ねたことも同書に回想されている。奥羽行脚は寛保三年春かららしく、結城を出発して宇都宮から福島にいたり、山形に入り、羽黒を経て日本海側に出、酒田・象潟・秋田の浦々をめぐり能代を経、遠く津軽の外ヶ浜に達し、帰路は青森を経て盛岡にいたり、平泉・松島・仙台・白石・福島とたどって結城に帰着したらしい。辛酸に満ち満ちた旅であった。それ故かあまり句を残していない。寛保四年、宇都宮の露鳩に依頼されて歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。
(メモ)
寛保三年(一七四三) 二十八歳
○五月、望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に次の句が宰鳥名で入集される。
   我泪古くはあれど泉かな
延享元年(寛保四年二月改元・一七四四) 二十九歳
○春、宇都宮にあって雁宕の娘婿佐藤露鳩の依頼により歳旦帖を編集、表紙に「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」とある。処女撰集で俳号蕪村の初出の書である。俳号蕪村の初出の発句は次のとおり。
    古庭に鶯啼きぬ日もすがら
延享二年(一七四五) 三十歳
○一月二十八日、結城の早見晋我が七十五歳で没する。其角門として晋の一字をゆるされた人物であった。蕪村は「北寿老仙を悼む」(釈蕪村)を手向ける(安永六年説、更に、釈蕪村の署名から宝暦年間説などがある)。
延享三年(一七四六) 三十一歳
○十月二十八日、宋屋は、奥羽行脚の帰途、結城・下館の蕪村を訪れたが不在であった。十一月頃江戸増上寺裏門辺りに住していたという(宋屋編『杖の土』)。
延享四年(一七四七) 三十二歳
○この頃、江戸中橋に夏行中の渡辺雲裡房(青飯法師)を訪ねる。その折の句は次のとおり。
    水桶にうなづきあふや瓜茄子
寛延元年(一七四八) 三十三歳
○大阪在住の江霜庵田鶴樹編『西海春秋』に下総結城の阿誰らと一緒に句を寄せる。その発句は次のとおり。
   川かげの一株づゝに紅葉哉
寛延二年(一七四九) 三十四歳
○麦水、江戸を発ち伊勢山田の麦浪を訪ね、更に京に赴き、稿本『東海道紀行』成る。
寛延三年(一七五〇) 三十五歳
○嵐雪『玄峰集』刊。

(三十四)

「入洛その一」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

寛保四年(延享元年)の歳旦は露鳩一門の集であるが、追加に江戸俳人の句が見えるのは蕪村の斡旋であろう。其角系の祇丞・筆端(買明)・其川(旨原)・蝸名・存義である。蕪村はまた雁宕の紹介であろうが、下総関宿の豪家、箱島阿誰の家に滞在していた。ここで雁宕が江戸の俳友百万(旨原)、李井(存義)に依頼して、阿誰一門の撰集『反古ぶすま』を刊行した。この書には江戸座の重立った俳匠がずらりと顔を並べている。蕪村の江戸における俳環境とでも言うべきものはこうした人達だったらしい。先輩の宋屋は旅を好んだ。延享二年十月奥羽行脚の途次結城に入り、雁宕・大済・蕪村に手紙を送ったが、蕪村は不在で会えなかった。翌三年十月帰途再び結城に立寄って雁宕を訪れ下館に大済らを訪ねたが蕪村は不在、江戸に出ていて芝の増上寺の裏門あたりに住んでいると聞いて江戸でも探したが、遂に行き会えなかった。宋屋がしきりに蕪村に会いたがったのは、宋阿の身近に仕えた蕪村に、文通などによって特別に親しみを抱いていたためである。蕪村は職業画家である。俳人として俳友達から種々の便宜に預かっていたが、生活の資は画から得ていた。小成に甘んじないで画道に精励していた。それ故か延享・寛延頃の俳事はほとんど知られない。蕪村の友人に雪尾斎毛越があることは前述した。毛越の『曠野菊』に蕪村ず出ないのは、この書が祇徳の全面的な支援で成ったこと、この寛保二年が蕪村にとっては悲傷の年であったことなどと無縁ではあるまい。この書に故路通の句が載るのは注目されてよい。毛越は実に路通門人であった。このことは先頃私が入手した写本『聞書花の種』所載「路通十三回忌序跋」によって明らかである。右の『聞書花の種』には蕪村の俳文「名月摺物詞書」を収める。ここに全文を紹介しよう(省略。この「名月摺物詞書」については既に触れた)。蕪村が十七、八年におよぶ江戸と関東各地における生活を切り上げて西帰入洛した年は宝暦元年三十六歳の年であることは、先学諸家の一致した見解で私も同感である。ところがその年のいつかということになると諸説があって一致しないが、近年初冬、続いて晩秋との説が多く私もかって晩秋説を取っていた。それに対して右の一文(註・「名月摺物詞書」)は決定的な解答を用意してくれるものであった。

(三十五)

「入洛その二」(「国文学 解釈と鑑賞」五五六号所収、大礒義雄稿「評伝・蕪村」抜粋)

もともと蕪村入洛の時期については、宝暦元年と推定される霜月□二日付蕪村書簡を基としての推測と思われ、極め手となる文献資料に欠けていた。ただ最近清水孝之氏は「花洛に入て富鈴房に初而向顔 秋もはや其蜩の命かな」の句解において、この句が秋季であるために蕪村上洛の翌二年作とするのは、宋屋の温情援助を考慮すれば不自然故元年であり、秋季の句に仕立てたものかあるいは入洛の時期も秋のうちだったかと疑問を提出され、「晩秋・初冬のころ」とされたようである(『蕪村・一茶』昭五一・角川書店)。『名月摺物詞書』によって入洛の時期は、名月(八月十五日)頃と見るのが穏当であろう。仲秋である。榲桲は晩秋九月の季物であるが、この宝暦元年は六月に閏があり、仲秋は遅れるので、充分榲桲の時期に適合するのである。もう一つ問題は毛越の剃髪の時期が実は夏だったのである。毛越みずから「今年の夏落髪して市中の庵にかくれ、大夢の額をあげて判者と呼るゝ」(「詞集成こと葉書」『聞書花の種』)と言っている。これと蕪村の言う「けふより姿改て、或は名を大夢と呼ブ」とは時期が合わない。あるいは蕪村の入洛は夏かと思わされるが、蕪村自身東都での約束ごとが実現したことの喜びを強調したくてこうした表現を取ったのではあるまいか。「都の月に嘯む」も再会の時期を示す言葉である。毛越は既述のように蕪村に数年遅れて江戸に下り、寛延三年路通の十三回忌を京都で修しているから、少なくとも蕪村より一足早く京に入っているのである。両者の交情を知る初期の資料は乏しいが、蕪村が「莫逆の友也」と言い、「管鮑の交あり」(『古今短冊集』)と言った最上の言葉は、これを端的に示している。又「都の月に嘯む」という言葉からは蕪村は早くから入洛を希望していたことが察せられ、あるいは毛越の勧めなどがそれに与って力があったのかもしれないと思われる。二人が「都の月を嘯」くために、なぜ僧体になることを望み役束したのであろうか。それは日常性の脱却、離俗であって、そのような境遇に身を置いてこそ純粋に俳諧を追求できると考えたのであろうか。蕪村は早く寛保二年宋阿の没後間もなく剃髪したらしいので、毛越との約束はそれ以前のことのように思われ、あるいは宋阿の膝下に在った時のことかもしれない。『桃桜』の歌仙に同座した時のひとなども想起されよう。毛越の職業は分からないが商人のように思われ、なかなか俗務から離れられなかったのであろう。まるめろの句、まるめろという果実の名は、頭に兼ねて頭をまるめろ、に通じ、まるめろよの江戸言葉である。まるめろそのものが丸くて坊主あたまめき、しかも江戸に長く住んでいた者にとっては、耳慣れた江戸の方言を連想させるものである。発想が自然で機知に富み、東都と肩書するにふさわしい、江戸帰り早々の作者のいさぎよい句であろう。ともあれ宝暦元年という初期の句作を一つ加えることができたのは嬉しい。

(三十六)

蕪村関連の俳書などで、「釈蕪村」と署名されているものは、次のとおりである。そして、「北寿老仙をいたむ」の創作年次について、延享二年説と安永六年説とに触れ、これらの署名(釈蕪村)に関連して、蕪村が京都に再帰しての宝暦年間説とでもいうべきことについては先に触れた。ここで、それらのことについて補足をしておきたい。

一 (『いそのはな(寛政五年刊)』所収)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

二 (『夜半亭発句帖(宝暦五年刊)』所収「跋」、宝暦四年推定) 

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。        釈蕪村

三 (「真蹟」、宝暦初年推定)

しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て

肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)
洛東間人嚢道人 釈蕪村

四 (『反古衾(宝暦二刊)』所収)

うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥               釈蕪村 

五 (『瘤柳(宝暦二刊)』所収)

苗しろや植出せ鶴の一歩より              釈蕪村

(三十七)

当時の蕪村の署名を、「社中歳旦帖・俳諧撰集・色紙」等で見ていくと次のとおりとなる。

「関東遊歴と奥羽の旅」時代、そして、それは、蕪村の「若き日の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「四明・子漢・魚君・虚洞・趙居・渓漢中・老山・孟溟」など。

一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)
一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)
一の三 蕪村(延享元年・一七四四・二十九歳~寛延三年・一七五〇・三十五歳)

そして、京都に再帰して、「京生活・与謝の旅」の「丹後の時代」となる。この時代の画号(落款等)は、「朝滄・嚢道人・魚君・夜半翁」など。

二 蕪村(宝暦元年・一七五一・三十六歳~宝暦七年・一七五七・四十二歳)

再び、京都に帰り、とも女と結婚して家庭を持ったのが宝暦十年(一七六〇・四十五歳)。そして、讃岐へ赴いたのが、明和三年(一七六六・五十一歳)。その讃岐から京都に帰ってきたのが、明和五年(一七六八・五十三歳)。「京生活・讃岐の旅」の「讃岐の時代」である。この時代の画号(落款等)は、「趙居・春星・長庚・三菓軒・霊洞」など。

三 蕪村(宝暦八年・一七五八・四十三歳~明和五年・一七六八・五十三歳)

蕪村が讃岐から帰京したのは明和五年四月末か五月初めで、やがて三菓社中の句会を再開した。その明和七年(一七七〇・五十五歳)三月、先師宋阿の夜半亭の俳号を継承して夜半亭二世となり、新たに京師点者の列に加わった。そして、円熟期の絶頂期を迎え、天明三年(一七八三・六十八歳)十二月二十五日に没する。「夜半亭継承と円熟期」で、蕪村の「晩年の時代」である。この時代の画号は、「謝寅・紫狐庵」など。

四 蕪村(明和六年・一七六九・五十四歳~天明三年・一七八三・六十八歳)

以上、蕪村のその六十八年の生涯を概略四期(「若き日の時代」・「丹後の時代」・「讃岐の時代」・「晩年の時代」)に分けて、蕪村の異色の俳詩「北寿老仙をいたむ」に署名されている「釈蕪村」という署名は、現在、記録に残されているものに限ってするならば、この「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものなのである。すなわち、北寿老仙こと早見晋我が亡くなった、「若き日の時代」の延享二年(一七四五)当時、さらに、その「晩年の時代」の安永六年(一七七七)当時において、蕪村が、「釈蕪村」という署名の「北寿老仙をいたむ」という俳詩を今に残しているというのは、こと、この署名に限ってするならば、どうにも不自然という印象は拭えないのである。とするならば、ここは、何らの推測も推理もすることなく、単純慨然的に、その署名の「釈蕪村」ということから、これを、蕪村が京に再帰して後の、「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)当時のものとするのが、最も自然なものと考えたいのである。

(三十八)

ここで、『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の、この「北寿老仙をいたむ」に関連するところを見てみたい。

○「蕪村」号を披露した寛保四年(延享元年)の翌二年、結城で早見晋我(別号北寿)が亡くなった。享年七十五歳、このとき蕪村は三十七歳の而立の年であった。年齢的に祖父ほどの差のある北寿こと晋我に対して蕪村は「老仙」の敬称を用いた。儒学を学んだ謹厳さと柔和な温かさをもつ晋我老人は、蕪村にとってまさに「北寿老仙」というにふさわしいイメージがあったのだろう。蕪村は北寿老仙を悼むの和詩を書いた。

 この『蕪村伝記考説』は、延享二年説といって良いであろう。

○この和詩は晋我の霊前に捧げられたが、公表されたのは晋我の子早見桃彦の手で編まれた晋我五十回忌追善集『いそのはな』(寛政五年・一七九三)においてである。蕪村の死からちょうど十年後のことだ。「北寿老仙をいたむ」と題されたこの蕪村の和詩の末尾に、「庫(くら)のうちより見出(みい)でつるままに右にしるし侍る」と桃彦が書き添えているから、この詩がいっさい公表されなかったことは間違いなく、文字通り霊前に捧げるためだけに書かれた和詩であったことがわかる。したがって、安永六年(一七七七)に発表を前提にして書かれた夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる。

 安永六年説の否定と「夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)とは本質的に異なる」という指摘は素直に受容できる。

(三十九)

○この和詩は「釈蕪村百拝して書す」と署名して結ばれている。「釈蕪村」の釈はもちろ
ん釈迦のこと。僧が俗姓を捨てて釈氏を名乗り、釈迦の御弟子であることを示す姓だ。つまり釈氏は出家僧のこと。したがって「釈蕪村」とは釈迦の御弟子「僧蕪村」のことだ。後年蕪村は『新花摘』にこのころのことを書いているが、それによると、結城の雁宕のもとに滞在していた折、親しくしていた常磐潭北から「むくつけ法師よ」と言われたという。潭北は延享元年七月に亡くなっているから、それ以前にすでに蕪村は「法師」と呼ばれていたことがわかる。また『むかしを今』の序に蕪村は江戸石町の夜半亭で師宋阿から俳諧の教えをうけて「一棒下に頓悟」したと禅僧のようなことを言っているから、夜半亭に二十二歳で入門したときも僧だった。蕪村は故郷を出てから、生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ。

 この『蕪村伝記考説』では、「一の一 宰町(元文二年・一七三七・二十二歳~元文四年・一七三九・二十四歳)」・「一の二 宰鳥(元文五年・一七四〇・二十五歳~延享元年・一七四四・二十九歳)」の時代に、既に、「生家の谷氏の俗姓を捨てて剃髪出家して釈氏を称していたのだ」と明快に既述しているが、これらについては文献上は明らかではない。と同時に、宰鳥時代の奥羽行脚の折には、既に法体であったことは、上記の指摘の『新花摘』の既述で明らかなところであるが、その当時、「釈」氏の姓であったかどうかは不明確で、それよりも、晋我が没する前年の延享元年(寛保四年二月二十一日改元)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』の表紙には、「渓霜蕪村輯」との既述があり、その姓は「釈」というよりも「渓霜」であったことは明らかなところである。

○この『寛保四年歳旦帖』(註・『宇都宮歳旦帖』)の扉には編者の名がこう書かれているからだ。 渓霜蕪村輯(輯は編集のこと) これは何だろう。「渓霜蕪村」と名乗った「渓霜」は霜に覆われた谷のことだ。ここには俗姓の「谷氏」の意がこめられていたはずだ。それは一家離散した谷氏であり、寒々と霜に覆われた故郷の生家である。

 そもそもこの『蕪村伝記考説』は、「われわれはまだ信頼しうる一貫した蕪村の伝記を手にしていない」(「あとがき」)という観点から、著者(高橋庄次)の、これまでの研究成果の総決算ともいうべき、「伝記資料の虚実をどう識別して読み解くか」(「あとがき」)という、大胆な謎解きの書でもある。それが故に、枝葉末節については余り拘泥せずに、その「叩き台づくり」(「あとがき」)ということで、大胆な謎解きをしている箇所が随時に見られるのである。この上述の、「俗姓の『谷氏』」についても、例えば、スタンダードな『蕪村事典』(松尾靖秋他編)では、「本姓谷口氏は母方の姓か」とあり、その「谷口」氏の中国風の一字の姓が「谷」氏とも解せられるが、「蕪村の生家は摂津国東成郡毛馬村の谷氏であったことは断言してよい」(几董著『から檜葉』所収「夜半翁終焉記」・大江丸著『はいかい袋』所収「蕪村伝」)と、説が幾つもあるような箇所においても、そのうちの一つの説を断定して既述しており、何もかも鵜呑みにしてしまうことは、要注意であることは言はまたない。さしずめ、「釈蕪村」の理解などにおいても、「釈蕪村」の署名は、蕪村の、京へ再帰後の、いわゆる「丹後の時代」の前半の、宝暦元年(一七五一)から宝暦五年(一七五五)の頃にのみ見られるものということについては、ここでも再確認をしておきたい。

(四十)

○連作和詩編「北寿老仙をいたむ」は、北寿の亡魂を供養するため「釈蕪村」と署名して己れの心身を僧体(清浄)にし、自作詩を詠唱して読経にかえたのであろう。「百拝して書す」と結んだのは、これは写経文のように浄書して寺に納めたことを示している。それはあくまでも仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった。

 この『蕪村伝記考説』の、「自作詩を詠唱して読経にかえた」・「これは写経文のように浄書して寺に納めた」・「仏の世界に逝った北寿と僧蕪村との密かな語らいだった」という指摘は、この俳詩(註・連作和詩)に接して同じような感慨を抱く。そして、この感慨は、この俳詩が、晋我没後直後の延享二年に作られたものではなく、ずうと後年の、安永六年に、延享二年当時を回想して創作したものだとする、安永六年説の次の疑問を解きほぐしてくれる一つのキィーポイントと理解をしたいのである。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

さらに、上記の『蕪村伝記考説』の指摘に、先に触れた次の事項を再確認をしたいのである。


※阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作ら
んとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )
※※これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(四十一)

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

                  釈蕪村百拝書

○この詩篇の言葉の響きも、美しい音楽を奏でる。全八章中、第二・三・四・五・八章の五章にわたって各章末を「き」で結んで脚韻を踏んでいるのがそれであり、第一・第二章の「キミ」と「ナンゾ」の繰り返しにも頭韻効果がみられる。さらに第二章の「岡の辺」の尻取り句移りや第三章の「蒲公の黄・薺の白」、第五章の「小竹原・真菅原」、第八章の「灯火も・・・せず・花も・・・せず」の繰り返しなどにも快いリズムの効果がみられる。また独特の改行の仕方で音数律を構成しているのも鮮やかな効果を上げており、行末にくる第六章の「今日は」と第八章の「今宵は」にアクセントがかかる効果もその一つだ。

『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)のライフワークともいうべき「連作詩篇考」的な考察が活きている。

(四十二)

○原文は全十八行が均一に並べられていて、章と章との間を特にあけるような区切り方はしていない。しかし、各章の小主題や旋律・脚韻など総合的に判断すると、八章で構成されていることは誰の目にも明らかだ。夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)のような各章の頭に○印を付ければ章分けがはっきりしたのだろうが、この和詩篇は均一の形式で首尾一貫した旋律を奏でているので、むしろそうした区切りは詩情の自然な流れのさまたげになる。夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、「北寿老仙をいたむ」はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ。
 
 繰り返しになるが、夜半楽三部曲(春風馬堤曲・澱河歌・老鶯児)と「北寿老仙をいたむ」とは全く異質の世界である。俳詩三部作(「北寿老仙をいたむ」・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)として、同時の頃の作とし、また、これらを並列して鑑賞するのには、違和感を覚える。

(四十三)

○この北寿追悼の和詩篇について、それぞれの章の表現を個別に吟味しながら各章のつながり方を検討してみると、一章一章を連作主題でつないでいく発想、つまり八章から成る連作詩篇の基本的発想がそこから浮かび上がってくる。日本の詩歌はまず連作形態で発生し、記紀歌謡、万葉歌以降、連作文芸が古典の基本を形成してきた。北寿追悼の和詩篇がこうした発想による連作詩篇であったからこそ、奇跡的とも思える近代抒情詩篇に成り得た。それだけに、その各章冒頭の詩句を取り出して次に並べてみると、なにか奇妙な感にうたれる。

一 君あしたに去ぬ
二 君を思うて
三 蒲公の黄に
四 雉子のあるか
五 変化の煙
六 友ありき
七 君あしたに去ぬ
八 我庵の阿弥陀仏

これらはみな申し合わせたように主題を構成することばであった。しかも、そのことばはみな横に連繋している。

 この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる「連作詩篇」として鑑賞することの是非はともかくとして、『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)の指摘は首肯できる。

(四十四)

○この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない。さきほど「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」について書いたものだし、この寺の襖絵も蕪村が描いているからだ。檀家の砂岡雁宕の世話で寺域内の僧庵に釈蕪村はひとり住んでいたと考えられる。釈蕪村は阿弥陀仏の本願を信じ、その願力にすがって自力を支える浄土宗念仏僧として自由自在にふるまうことができた。蕪村は浄土宗の弘経寺(寺領五十石)の僧庵に住み、法華宗の妙国寺(寺領九石)に北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである。

 ここでも繰り返すこととなるが、”「釈蕪村」の署名あるものとして引用した狸の木葉経の俳文はこの弘経寺の寺宝「狸書経」”については、「洛東間人嚢道人 釈蕪村」であり、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものなのである。さらに、”この「我庵」(註・第八章)という表現からすると、蕪村は砂岡雁宕宅に寄宿していたのではなく、結城のどこかに草庵を結んでいたと考えなければならない。たぶん寺域内であろうから、結城の浄土宗の寺、つまり砂岡家の菩提寺弘経寺であったにちがいない”ということについては、後年の回想録の『新花摘』の記述からして、結城の隣の下館の「中村風篁」家(『宇都宮歳旦帖』を始め蕪村絵画などの遺作を今に所蔵している)の屋敷内であったことも推測できるものであり、必ずしも、結城の弘経寺の寺域内であるということは、これまた、推測の域を出ないであろう。
なお、この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)が指摘している、先の「これは写経文のように浄書して寺に納めた」というよりも、この記述の「北寿(晋我)の追善供養としてこの追悼詩を霊前に捧げたのである」というように解したい。

(四十五)

○この和詩篇の舞台は、蕪村の草庵があったと考えられる弘経寺と北寿の墓所妙国寺とをめぐって流れる吉田用水路であったと考えられる。結城の古地図には元禄十六年(一七〇三年・『結城市史』第二巻所収)のものと享保十九年(一七三四年・結城市教育委員会写し)のものがあるので、元禄期の古地図を参考にしつつ、ここでは蕪村の結城滞在期の八年前に描かれた享保十九年の古地図を次に示した。これが北寿追悼詩篇の制作された場である。弘経寺と妙国寺が吉田用水に沿って並んでいることがわかろう。またそれらの寺を縫うようにして伸びる御朱印堀は、堀幅七・五メートル、深さ三メートルとのことである。寺領五十石の弘経寺と寺領九石の妙国寺は古地図で見るかぎり寺域は共に広く、両寺にさして大きな差はないように見える。また寺領五十三石の禅宗安穏寺には元禄期の地図には無垢庵が、享保期の地図には無垢庵と寿慶庵が図示されているが、蕪村が結城に滞在していたころには、こうした僧庵が弘経寺にもあったと思われる。蕪村は、この弘経寺の僧庵を拠点に活動していたのだろう。

 この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、当時の蕪村の活動拠点を弘経寺領域の僧庵としているので、その結果、この記述のとおり、「北寿老仙をいたむ」に出てくる、「友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき」の「河」を、結城市内の「吉田用水」のように解しているのだが、ここは、下館と結城との間を二分するように流れる関東有数の大河「鬼怒川」と解したい。なお、ネット関連では、次のアドレスのもので、鬼怒川と解する説(十九代中村兵左衛門説)に賛同したい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/buson1.html

※結城と下館のあいだに鬼怒川が流れる。下総と常陸の国境である。北寿は雁宕の近親で結城俳壇の長老、早見晋我。蕪村が深く敬愛したこの老人の死に会してなったのが、驚くべき清新の自由詩「晋我追悼曲」こと『北壽老仙をいたむ』である。詩中に「君をおもふて岡のへに行つ遊ふ」「友ありき河をへたてゝ住にき」とあるから、当然、これは鬼怒川を隔てて下館の岡に蕪村は立っているのである、というのが下館の当主、十九代中村兵左衛門氏の説である。一方、結城市内にもなにがしという小さな川が流れその脇に岡があるから、蕪村がいたのは結城であるというのが小暮係長の説であって人情の自然であろう。なお、この追悼詩は碩学潁原退藏先生の「春風馬堤曲の源流」によれば晋我歿の当時の作とされるが、その馬堤曲との詩的連関から後年京都での作とする説もある。

(四十六)

○和詩第五章の一行目は「変化(へげ)の煙(けぶり)のはと打ち散れば西吹く風の」とうたい起こされているが、これは火葬の荼毘の煙とみるほかなく、したがって西方へ吹く風から逃れたくとものがれようがないということ、つまり「のがるべき方ぞなき」とは、煙の行方は西方以外にはありえないということだ。「変化(へげ)」はそうした「生滅(しょうめつ)の法」の万物の変化相をさしている。荼毘は「火化」といい、「焼身」のことだが、浄土信仰や法華信仰が盛んになるにしたがって焼身往生が行われるようになったという。これはわが身を火に投じて供養することで、荼毘はこの焼身往生の思想によるものだ。「変化の煙のはと打ち散れば」の「はと」は、これを鮮やかに表現しているように思われる。

 この「へけ」の解については、これまでにさまざまな解釈がなされている。整理すると次のとおりとなる。
一 へげの詠みで「竈」の古言とするもの・・・潁原退蔵著『蕪村全集』他。
二 へけの詠みで「片器」の訛音とするもの・・・山本健吉著『与謝蕪村集』他。
三 へげの詠みで「木片(こっぱ)」とするもの・・・栗山理一著『蕪村集一茶集』他
四 へげの詠みで「変化」の意とするが、その意味は次のとおり分かれる。
四の一 「仏が極楽浄土へ引摂したまうこの世ならぬ煙」・・・清水孝之著『与謝蕪村集』他
四の二 「煙とも霞ともつかぬもの」・・・山下一海著『戯遊の俳人与謝蕪村』他
四の三 「不思議な」「怪しい」・・・芳賀徹著『与謝蕪村小さな世界』他
四の四 「火縄銃の煙」・・・村松友次『蕪村の手紙』他 
四の五 古典における「変化(へんげ)」の撥音無表記の形「へげ」(実際の発音はヘンゲ)
    を雅語意識のもとにヘゲの発音のままに変化(へんげ)の意に用いたもの。その実体は「四の四」   (猟師の火縄銃の煙)・・・尾形仂著『蕪村の世界』・尾形仂他校注『蕪村全集(四)』他。

この『蕪村伝記考説』の著者(高橋庄次)は、上記の「四の一」と「四の五」の折衷案
のような考え方であろう。とにもかくにも、詩を読み進める上では、上記のような語釈等はあくまでも参考であり、それ以上に、蕪村研究の先達者達がこの蕪村の俳詩に情熱を込めて様々な解を捧げていることに一驚するのである。