金曜日, 6月 09, 2006
若き日の蕪村(その五)
若き日の蕪村(その五)
(六十一)
ここでもう一つ論点を整理する意味合いも兼ねて、谷地快一氏の「『春風馬堤曲』などの和詩には何がひそんでいるのか」(「国文学」平成三年十一月号)の「北寿老仙をいたむ」関連のところを紹介しておきたい。
(その一)
○「春風馬堤曲」に先立つ詩篇「北寿老仙をいたむ」は両者に通ずる性格のために、早くは諸橋謙二・森本哲郎・安東次男氏等を経て、蕪村の若い頃の作という通説に疑念が持たれていた。確かに両者の舞台は川に隣接する岡あるいは堤という点では共通し、そこには蕪村にあまり例がない蒲公英が叙情を添える。他者をかりて心情を吐露するという点も似ているし、「北寿老仙をいたむ」の中の特徴的な形容が安永期の書簡に指摘されたりもする(村松友次説)。最近では、「北寿老仙をいたむ」の逃れ難い運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いは、『夜半楽』所収の「澱河歌」の原型である扇面「遊臥見百花楼送帰浪花人代妓」を前提として成立した可能性もあるという(尾形仂説)。
「北寿老仙をいたむ」は延享二年(一七四五)に七十五歳で没した早見晋我をいたむ挽歌で、蕪村は当時三十歳。謎はそれが蕪村没後十年の寛政五年(一七九三)『いそのはな』刊行まで埋没していたことに始まる。地方俳書とはいえ、その後「北寿老仙をいたむ」の読者を江戸時代の資料に見いだすのはむずかしい。はっきりするのは、引用・合成に巧みであった藤村が明治三十五年六月『海の日本』(太陽臨時増刊)なる雑誌に掲載した詩「炉辺雑興」に受容したのが最初である(佐藤康正『蕪村と近代詩』)。だが、全貌紹介は大正十三年の『俳聖蕪村全集』(水島重治校閲)まで待たねばならなかった。以後、その成立と解釈をめぐってはいくつかの説が対立する。
(六十二)
(その二)
○諸説の検討には稿を改めるべきだが、安永年間成立説は村松友次氏の「『北寿老仙をいたむ』の解釈ほか」(俳文芸七号)で再燃して、これを支持する傾向が強まっている。村松氏の結論は、晋我の三十三回忌である安永六年正月二十八日の前に、桃彦の依頼によって書かれたが、それが何かの事情で五十回忌まで「庫のうち」に眠ってしまっていたというものである。
その根拠を村松説を中心に要約すると、先掲の類似点に加えて次のようになる。
①「北寿老仙をいたむ」が晋我没後間もなくの成立ならば『いそのはな』にはなぜ先輩格にあたる雁宕らの追悼作がないのか。
②二世晋我を継ぐ桃彦と蕪村は年齢が近く、蕪村の京都移住後も交流があり、安永期に
追悼詩を依頼された可能性が考えられる。
③安永六年の夏には『新花摘』をしたため往時を回想することが多くなっている。
④「君」「友ありき」という呼び方は、四十五歳も離れた晋我にふさわしくないが、安永六年(蕪村六二歳)前後ならば不自然でない。
しかし、安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである(註・この「釈蕪村」の署名と晋我十三回忌が宝暦七年前後にあたり、これらのことから「宝暦年間成立説」ということについては先に触れた)。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(六十三)
(その三)
○模索の果てに、「北寿老仙をいたむ」の分かち書きを恣意に再構築していよいよ不思議なのは、作品の根幹部分において晋我の死を悼む挽歌とは思えないことである。その構造は村松友次氏の分析の通り、蕪村のモノローグ(君あしたに去ぬ。ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる)というリフレィンを外枠とし、雉子のモノローグ(友ありき。河をへだてゝ住にき)というリフレィンを内枠とする。それは、蕪村が雉子の語りを借りて吐露する「へけのけぶりのはと打ちれバ、西吹風のはげしくて、小竹原真すげはら、のがるべきかたぞなき」が作品の中心部であり、哀しみの焦点であることを明確にする。ここに晋我の死に似つかわしい何かが描かれているだろうか。七十五歳の寿齢果たして「君あしたに去ぬ」というほどにわかな悲嘆であったのか、「へけのけぶりのはと打ち」ることで「のがるべきかた」のないほどミステリアスで不条理な死であったのだろうか。謎は深まるばかりである。
ともあれ、詩は必ずしも論理的に整序されたものではない。むしろ、その破綻の中に真情を見極めようとする立場もある。俳諧はそうした破綻をもすくいとる器として、こうした詩型を準備していた。
(六十四)
これまでのものに関連事項などを追加して年譜にすると次のとおりとなる。
蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)
註 △=関連俳人没年等。○=関連俳人追善集等。□=関連動向等。☆・ゴジック=特記事項等。※=「北寿老仙をいたむ」関連等。
享保元年(一七一六)蕪村・一歳
□この年、摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれたか。本姓谷口氏は母
方の姓か。宝暦十年頃から与謝氏を名乗る。
享保十三年(一七二八)蕪村・十三歳
□この年、母を失ったか。享保十二年百里が没したため、早野巴人(宋阿)はこの頃江戸を去って大阪に赴き更に京都に上り、十年ほど居住。その間、宋屋・几圭など優れた門人を得。京都俳壇の地歩が固まりかけた頃、元文二年(一七三七)再び江戸に帰る。
享保二十年(一七三五)蕪村・二十歳
□この頃までに郷里を去って江戸に下る(元文二年説もある)。
元文二年(一七三七)蕪村・二十二歳
□四月三十日、在京十年の巴人は砂岡雁宕のすすめで江戸に帰り、六月十日頃豊島露月の世話で日本橋本石町三丁目の鐘楼下に夜半亭の居を定め、宋阿と改号。この頃「宰町」入門か(その前に「西鳥」と号したのではないかとの説がある。享保十九年の吉田魚川撰『桜鏡』など)。
元文三年(一七三八)蕪村・二十三歳
○この年刊行の『夜半亭歳旦帖』に「君が代や二三度したる年忘れ」(宰町)が入集。「宰町」号の初見。豊島露月撰『卯月庭訓』に「宰町自画」として「尼寺や十夜に届く鬢葛」が入集。蕪村の書画の初見。
元文四年(一七三九)蕪村・二十四歳
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の板下は宰鳥という)に「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(宰鳥)の句があり、「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙「染る間の」(宋阿・雪尾・少我・宰鳥)、百太興行の歌仙「枯てだに」(百太・宋阿・故一・訥子・宰鳥)に出座。なお,素順(晋我)興行の歌仙「空へ吹(く)」(素順・宋阿・雁宕・呑魚・安汁・田光・丈羽・東宇・朱滴・鵑児)も収載されている。この頃には晋我と親交があったか。
元文五年(一七四〇)蕪村・二十五歳
□元文年間、俳仙群会図を描く(「朝滄」の署名から宝暦年間の作との説もある)。
寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳
△六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。
□宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。
寛保三年(一七四三)蕪村・二十八歳
○五月 望月宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)。
延享元年(一七四四・寛保四年二月二十一日改元)蕪村・二十九歳
○春、初撰集『宇都宮歳旦帖』刊行。宰鳥名のほかに蕪村名が初出(渓霜蕪村)。
☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成っ
たか(延享二年説)。
△七月三日 常磐潭北没(享年六十八歳)。
□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
延享三年(一七四六)蕪村・三十一歳
□宋屋、奥羽行脚の帰途、再び結城・下館の蕪村を訪ねたが不在。十一月頃、蕪村は江戸増上寺裏門辺りに住していたか(『杖の土』)。
☆宝暦元年(一七五一)蕪村・三十六歳
□蕪村関東遊歴十年この年京に再帰する。八月末京に入り、毛越を訪ねる。秋、宋屋を訪ね、三吟歌仙を巻く(『杖の土』)。
○毛越編『古今短冊集』に「東都嚢道人蕪村」の名で跋文を寄せる。桃彦宛書簡(宝暦元年と推定の霜月□二日付け書簡)。
(「真蹟」、宝暦初年推定)
しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て
肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)洛東間人嚢道人 釈蕪村
☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳
○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。
☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳
○六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、こ
れに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
宝暦七年(一七五七)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。
△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)蕪村・四十三歳
△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
宝暦十年(一七六〇)蕪村・四十五歳
△几圭没(享年七十四歳)
宝暦十二年(一七六二)蕪村・四十七歳
□この頃結婚か。
明和三年(一七六六)蕪村・五十一歳
△宋屋没(享年七十九歳)。この頃蕪村京都に不在。
○秋、讃岐に赴く。この年、三菓社を結成する。
明和四年(一七六七)蕪村・五十二歳
○三月、宋屋一周忌に讃岐より京に帰り、再び讃岐に赴く。追善集『香世界』に追悼句入集。
明和七年(一七七〇)蕪村・五十五歳
○三月、夜半亭立机。
明和八年(一七七一)蕪村・五十六歳
△八月九日、炭太祇没(享年六十三歳)。十二月七日、黒柳召波没(享年四十五歳)。
○八月、大雅の十便図に対して十宣図を描く。
安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳
△十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。
安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳
△七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。
安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳
○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。
安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳
○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
安永七年(一七七八)蕪村・六十三歳
○七月、山水図(戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅)を描く。以後「謝寅」号を使用する。
安永八年(一七七九)蕪村・六十四歳
○四月、蕪村を宗匠、几董を会頭とす連句修業の学校檀林会を結成。
☆天明三年(一七八三)蕪村・六十八歳
△十二月二十五日未明、蕪村没(享年六十八歳)。
寛政元年(一七八九)没後六年
△十月二十三日、几董没(享年四十八歳)。
☆寛政五年(一七九三)没後十年
△※結城の早見桃彦『いそのはな』刊行(蕪村「北寿老仙をいたむ」を収載)。晋我五十回忌。
寛政七年(一七九五)没後十二年
△蕪村十三回忌と几董七回忌とをかねた紫暁の追善集『雪の光』成る。
寛政十一年(一七九句)没後十六年
△蕪村十七回忌追善集『常磐の香』(紫暁編)成る。
文化十一年(一八一四)没後三十一年
△蕪村の妻とも(清了尼)没。
(六十五)
(その一)
先の「蕪村年譜(「釈蕪村」の署名関連・「蕪村」関連主要俳人の没年など)」により、「北寿老仙をいたむ」の成立時期について、「宝暦年間成立説」について説明する。
一 「北寿老仙をいたむ」の署名の「釈蕪村百拝書」の「釈蕪村」の署名は、晋我没年の延享二年前後には見られず、この署名は、宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)、宝暦四年刊行の『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編、宋阿十三回忌追善集)および宝暦初年推定「真蹟」の「木の葉経」句文に見られるものである。宝暦八年は宋阿の十七回忌にあたり、その前年あたりが晋我・潭北の十三回忌にあたる。この「釈蕪村」の署名からすると、晋我十三回忌などに晋我の嗣子・桃彦宛てに送られたものと解したい。
二 蕪村が京都に再帰した宝暦元年(十一月□二日)付け桃彦宛ての書簡があり、蕪村と晋我の嗣子・桃彦とは親密な間柄であり当時頻繁に交遊があったことが分かる。その書簡からして、この「北寿老仙をいたむ」は蕪村が京都に再帰して、宋阿十七回忌に前後しての、晋我(さらには潭北)十三回忌に関係することも、後の三十三回忌に関連付ける「安永六年説」と同じ程度に許容できるものと解したい。さらに、それが、晋我五十回忌の折り、その追善集『いそのはな』に収載された経緯などについては、「安永六年説」(そもそもこの作品が追善集に収載されることは前提としていなかったということを含む)と同じ考え方によるということになる。
三 宝暦二年刊行の『反古衾』(雁宕・阿誰編)の収載の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」とその署名(釈蕪村)のものは、雁宕らの依頼により京都より結城の雁宕らに届けられたものと解せられる。この「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」と響き合うものと理解をしたい。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』とそれに収載されている「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されているという理解である。
さらに、宝暦四年の宋阿十三回忌の追善集『夜半亭発句帖』(雁宕・阿誰編)の次の蕪村の「跋文」(署名・釈蕪村)は、「北寿老仙をいたむ」の前提となるようなものと理解をしたい。
(『夜半亭発句帖』跋文)
阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村
四 宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」・「すごすごと彳(たたず)める」と響きあうものが感じられ、さらに、先の『夜半亭発句帖』跋文の「西に去(さら)んとする時」も、その俳詩の「君あしたに去(さり)ぬ」と響きあっている趣でなくもない。また、上記の「ト居(ぼくきょ)」(土地を選定して住む意)は、「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の署名「洛東間人嚢道人 釈蕪村」の「間人」(「故郷喪失者」の意に解する)と響きあっていると理解をしたい(この「嚢道人」の「嚢」を乞食僧の頭陀袋と解する説もあるが、釈蕪村の「釈」が僧の姓を意味する仏教用語と解すると、この「嚢道人」は老荘思想の「虚」に通ずる「虚の嚢」と理解をしたい)。
(付記)上記の「故郷喪失者」ということについて、小高善弘稿「近代ブソニストの系譜」(「国文学」平成八年十二月号)の「故郷喪失者の孤独・・・萩原朔太郎」の次のことを付記しておきたい。
※大阪淀川辺の毛馬の出だという蕪村は、句や俳詩「春風馬堤曲」などに、家郷への限りない郷愁をくり返しうたっているが、実は故郷は心のなかにのみあって、帰るべき家はさだかではなかった。一方、これを論じる朔太郎の出自ははっきりしているが、筆者当人もまた、家郷に入れられず、都会で群衆の中の孤独を味わう一種の故郷喪失者だった。孤独の極限「氷島」のイメージを抱え込む詩人は、また、限りない「郷愁」を心の底に持つ人でもあったのである。そこに、蕪村に通底する心情を見出すことができる。
(六十六)
(その二)
五 安永年間成立説(安永六年説)の下記については先に触れたが、再度ここでも整理して触れておきたい。
(一) 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
(二) 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
(三) もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
(四) 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。
これらの「安永年間成立説」の考え方には異論がある。その一については、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。さらに、付け加えるならば、「春風馬堤曲」が「エロス」の世界(生の詩)とするならば、「北寿老仙をいたむ」は「タナトス」の世界(死の詩)のものと理解をしたい。
その二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」と、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考える。
その三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
その四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の作成時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい(それは、「俳諧(連句)」における「捌き」と「執筆」とのような関係と理解をしたい)。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖そのものなのである(それはこの「春興帖」を企画した興行主の「捌き」が謝蕪邨(与謝蕪村)であり、その助手役の「執筆」が「宰鳥」(蕪村の前号)との一人二役で刊行した、安永六年のお目出度い春興帖の一趣向と解すべきなのであろう)。
(六十七)
(その三)
六「『君』という呼びかけや『友ありき』という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか」という疑念については、「俳諧師・蕪村」ではなく、釈迦の弟子としての「釈蕪村」が、敬愛する故人・早見晋我に仏前で詠唱する詩経の措辞であって、特に、この「釈蕪村」の「釈」という観点から、これらの措辞を理解をしたい。さらに、この「友」については、特定した『君』から、比喩的な雉子の死という二重構造をとり、その二重構造を通して、『君から亡き数の人への昇華』を連想させるような微妙なニュアンスすら感じさせるものと理解をしたい。なお、明和四年三月、宋屋一周忌の追善集『香世界』の次の句文の「君」についてもこの「北寿老仙をいたむ」の「君」と同一趣向のものと解したい。
(宋屋一周忌追善集『香世界』句文)
宋屋老人、予が画ける松下箕居の図を壁間にかけて、常に是を愛す。さればこそ忘年の交りもうとからざりしに、かの終焉の頃はいさゝか故侍りて余所に過行、春のなごりもうかりけるに、やがて一周に及べり。今や碑前に其罪を謝す。請(ふ)君我を看て他(の)世上(の)人となすことなかれ(註・「願うことはあなたは私を他の世間一般の人と同じように薄情な人とは見ないで欲しい」の意)。
線香の灰やこぼれて松の花 蕪村
(付記)「北寿老仙をいたむ」の「君」と「友」との理解については、「俳諧」(連句)でいう一種の「見立て替え」(前句の「君」を「友」と見立て替えするところの「談林俳諧」や若き日の蕪村が出座した「江戸座俳諧」などに顕著に見られる「付合」の一手法)と理解をしたい。「君」と「友」を同一人物と鑑賞する仕方、「君」・「雉」・「友」と分けて鑑賞する仕方といろいろな見方ができるのは、その「見立て替え」の鑑賞如何に係わるもので、それぞれの鑑賞があっても、「俳諧」(連句)的な鑑賞としては許容されるところのものであろう。そして、現代の「自由詩」的な鑑賞の仕方での、この「君」と「友」との整序された形での鑑賞というのは不可能であろう。
(六十八)
(その三)
七 次の疑念(Q)についての考え方(A)は以下のとおりである。
(Q)―1
「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
(A)―1
まず、「安永年間成立説」に比して「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」はいかんせん遺されている作品・書簡等が少なくこの種の推量は限定されてしまうことは歪めない。しかし、その作品・書簡等の成立時期を考慮に入れないでアトランダムに符合するようなものを挙げていくことはそれほど難しいことではない。例えば、「岡のべ」・「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」などの「岡」・「数詞」・「リフレーン」・「色彩」などの符合については、「岡野辺や一ツと見しに鹿二ッ」(明和五年)、「行(ゆき)々(ゆき)てここに行(ゆき)々(ゆく)夏野哉」(明和五年)、「若葉して水白く麦黄(きば)ミたり」(年次未詳)など。さらに「すごすごと彳(たたず)める」については、「梨の園に人彳(たたず)めるおぼろ月」(明和六年)など。しかし、それよりも、宝暦二年作の「東山麓にト居して」の前書きのある「我(わが)庵に火箸を角や蝸牛」は、「我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず」と何か響きあうものが感じられ、単に、「釈蕪村」の署名だけではなく、こういう措辞・表現などを通しても、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を強めるのである。
(六十九)
(Q)―2
何よりも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
(A)―2
そもそも、俳人・蕪村こと俳人・宰鳥の出発点は、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」(元文四年・其角三十三回忌)や「我(わが)泪古くはあれど泉かな」(寛保二年・宋阿追悼句)などの追悼句をもってであるといってもよいであろう。さらに、上記の引用の「釈蕪村」の署名のある「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』)については、「明け行く空も星月夜、鎌倉山を越え過ぎて」(謡曲・六浦)を踏まえてのものなのであろう(『蕪村全句集』)。
句意は、「謡曲で朝越えるとされる鎌倉山だが、淋しい夕方の千鳥に浮かれて越えよと呼びかける」。この鎌倉の「くら(暗)」と「夕」が縁語という(『蕪村全句集』)。蕪村にとって、鎌倉山を朝越えて行くのは、東国の江戸へ向かっての旅路であろうが、夕べに鎌倉山を越えていくのは、東国十年余の遊歴の後夢破れての西国の京都への再帰への旅路であろう(実際のその再帰の旅路は東海道ではなく中山道だったと思われるが、この句は宝暦元年の頃の作で、宝暦二年刊行の『反古衾』に収載されている)。それよりも、この句の背景の「朝」と「夕」とは、「北寿老仙をいたむ」の、「君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる」の「あした」と「ゆふべ」そのものに照応しているのではなかろうか。「釈蕪村」・「あした」・「ゆふべ」の「「北寿老仙をいたむ」の謎を解く三つのキィワードが、この宝暦二年刊行の雁宕・阿誰が編纂した『反古衾』の若き日の蕪村の「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」の句に隠されている・・・、そのようにこの句を鑑賞したいのである。ここでも、さらに、「宝暦年間成立説」というのは動かし難いものという印象を深くするのである。
(七十)
(Q)―3
のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品(註・「春風馬堤曲」・「澱河歌」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。
(A)―3
ここで、那珂太郎稿「蕪村の俳詩の近代性・・・『春風馬堤曲』をめぐつて・・・」(「国文学」平成十八年十二月号)の次の一節を引用しておきたい。
○「春風馬堤曲」は作者蕪村の懐郷の思ひを主題とした作と、一般に見られてきた。表面上そのことに紛れもないけれど、同時に艶詩的性格であることは、これまでに多かれ少なかれ大方の評家に認められてゐた。しかしこの題名が「艶詩」を指示するならば(註・「尾形仂によれば、『春風馬堤曲』の題名からして楽府中の『大堤曲』の曲名にならったもので、当の『大堤曲』がいづれも艶詩であるところから、『春風馬堤曲』という名目自体が、この作が楽府の歌曲のスタイルに擬した艶詩である」ということ指している)、むしろこの方に真の主題がある、とまでは言はなくとも、少なくとも懐郷と劣らぬ位に、作者のエロスへの思ひがこめられてゐるのは当然であろう。
※この那珂太郎氏の指摘のとおり、「春風馬堤曲」(そして「澱河歌」)は、いわゆる艶詩の世界のものであって、それと追悼詩の「北寿老仙をいたむ」を同一俎上にすることは、どうにも不自然のように思えてくるのである。さらに、「詩中の雉子の『友ありき河をへだてゝ住にき』のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、『妓ニ代ハリテ』『女ニ代ハリテ意ヲ述ブ』という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の『実情』を『うめき出た』二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということについては、先に触れた、この俳詩「北寿老仙をいたむ」は、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されており、そういう視点から、この俳詩を鑑賞すると、決して、「二つの作品(註・『春風馬堤曲』・『澱河歌』」)を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう」ということには疑念を抱かざるを得ないのである。
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