土曜日, 6月 03, 2006
飯田龍太の俳句
飯田龍太の俳句(その一)
○ 萌えつきし多摩ほとりなる暮春かな(昭和十七年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「このころ横浜の紅葉坂上にある教育会館で行なう十二、三名の「青光会」という句会があった。これには比較的熱心に出席したが、他の会に出たことは殆どなかった。たまたま帰省中で、ふと思いついて甲府の例会に出掛けた。最後に蛇笏選の披講があり、最初にこの句が読みあげられてビックリした。蛇笏も妙な顔付きをした。至極簡単な選評のあと「まあ、まぐれ当りというところだろう」とテレ隠しを言った。甲州から中央線で東京に入る手前、あの広々とした多摩川のほとりにかかると、何となくいい気分になったものである。せま苦しい山峡からやっとぬけ出たという解放感をおぼえるのだろう。席が空いていると、いつも左側に掛けて、川上をずっと遠くまで眺めた。この気持は、二十数年後のいまも同じである。なお、この作品は、どの句集にも入っていない。」
平成四年に、蛇笏・龍太の二代にわたる名門「雲母」は龍太により廃刊となってしまった。その後、平成十六年(十一月号)の「俳句界」(文学の森)で、その廃刊の弁などを目にすることができるということであるが、とにもかくにも、人間探求派(中村草田男・加藤楸邨・石田波郷)に続く「金子兜太・森澄雄・飯田龍太」の時代の一翼を担っていた、飯田龍太は忽然として姿を消してしまった。龍太は大正九年(一九二〇)生まれということであるから、今なお、八十五歳で、山梨の現在の笛吹市(境川町)にお住まいなのであろうか。この掲出句は、龍太、二十二歳のときのもので、龍太の第一句集『百戸の谿』には収載されていない。
龍太の昭和二十三年(二十八歳)の年譜(福田甲子雄編)に次のような記載が見られる。「『雲母』編集に情熱をかける。編集後記に『芸術は創造する自らのよろこびであり、売名ははかない泡沫にも似た満足でしかない。わずかばかりのタレントを鼻にかけて作家の厳粛性を喪失したものは、たとえ無能無才にして俳壇的には微々たる存在であつても、一筋に創造のよろこびに浸りつつ遠い理念に向つて永い月日を遅々として歩みつつける高い情熱のまへには芥子粒ほどの価値すらないのではなからうか。』と書いている」。どうも、龍太が七十二歳のときに、忽然と姿を消してしまったのは、龍太は生涯にわたって、この二十八歳の頃の思いを持ち続けていたのではなかろうか。そんな思いがするのである。
注・この掲出句について『自選自解 飯田龍太句集』(昭和四十三年刊)では、上記のとおり、「どの句集にも入っていない」とのことであるが、『定本 百戸の谿』(昭和五十一年刊)では、冒頭にこの句が収載されている。
飯田蛇笏
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-2.htm#飯田蛇笏
飯田龍太
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku13-1-a-2.htm#飯田竜太
飯田龍太の俳句(その二)
○ 紺絣春月重く出でしかな(昭和二十六年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「昭和二十六年春、食糧事情も一応安定したので、農耕を止め、甲府にある県の図書館に勤めることにした。バスの終点から三十分ほど歩いて坂道を帰る。大菩薩峠のある秩父山系と、富士山麓に抜ける御坂山系のほぼ中ほどの山の上に、橙色の春の満月がぬっと現われて、ひえびえとした空にポッカリと頭を出す。名残り借し気に山を離れるとやがていさぎよく中天に昇った。春の月の色は厭らしい、という人があるが、山国の澄んだ夕景色の、特に早春の姿はまんざらではない。清潔な色気がある。あるいは母の乳房の重みといってもいい。したがって幼時を思い出す。子供のころは、もっぱら久留米絣を着た。兄から順にお下がりを着せられた。着古すとだんだん絣の模様がハッキリ浮かび出してくる。年ごとに柄模様の小さなのに昇格した。模様の大小によって、兄弟の貫禄に差をつけたのだろう。」
龍太が第一句集『百戸の谿』を刊行したのは昭和二十九年(三十四歳)であった。この年、山梨県立図書館を退職して、「雲母」編纂に専念することとなる。そして、昭和三十二年(三十七歳)に、第六回現代俳句協会賞を受賞する。この年の「雲母」十二月号は、「飯田龍太特集号」が企画され、この特集号で、角川源義氏が、國學院大學の同窓の先輩ということで、「飯田龍太論」を寄稿している。そこで、源義氏は、「もし私に今後期待する作家は誰かと質問されたら、即座に飯田龍太と答へるであらう。他にゐないかと聞かれても、私は一人だけだと答へるしかない」として、続けて、「龍太がどれほどの古典の造詣があるのかは私は知らない。(中略)ただ彼の持ち前の勘の良さが、日本文学の本質的なものの歴史を、折口先生から学んだものだらう」と折口信夫と龍太俳句との接点を明らかにしている。龍太自身の折口信夫との接点は詳らかではないが、この源義氏の「日本文学の本質的なもの」という指摘は、蛇笏・龍太の二代にわたる日本文学の神髄をなしている「格調の高い韻文学の精神」というものを暗示しているように思われる。そして、それは、同時に、「人間の生死とその別れへのレクエム(鎮魂の詩)」のような響きを有しているように思われる。例えば、この掲出句で言うならば、この上五の「紺絣」に、龍太にとっては、長兄・次兄の戦死、そして、三男の病死などとつらなり、そして、それが、中七・下五の「春月重く出しかな」とレクエム的な韻律を醸し出しているように思われるのである。龍太自身のこの掲出句の自解には、これらについては一言も触れられていないが、そういう「生きとして生けるものの愛しさ・悲しさ」のようなものの、日本文学史の伝統的な挽歌的な韻律が、この掲出句、そして、龍太俳句の根底に流れているように思われるのである。ちなみに、この掲出句は、上記の角川源義氏の寄稿文に続く、「雲母」内外八十二人の「私の愛唱する龍太作品
——佳品五句」の、トップに挙げられているような、龍太の傑作句の一つである。
飯田龍太の俳句(その三)
○ 鰯雲日かげは水の音早く(昭和二十七年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「『甲府盆地の空にひろがる鰯雲。山村の道端の細い溝を澄んだ水がはげしく音をあげて流れてゆく。空にかかる橋のような雲の明るさ、陽のぬくみとは別に、日陰を流れる水、いや日陰にすでに生まれている“寒気”のようなものを、作者はいちはやく感じとっている。秋から冬へ動いてゆく季節、日一日と冬へ動いてゆくものをとらえ』た句だ、と大井雅人氏は鑑賞している。そう言われてみると、たしかにそんな情景であった。その通りの気分であった。また氏は、境川というところは、とくに夏・冬、日陰・日向の温度差がいちじるし いところだ、とも言っている。そうかもしれぬ。井代鱒二氏は、あの辺りは、裏に富士山を背負っている、氷柱をかかえているようなものだ、と言われた。村の中を流れる用水は、主として權慨用のものである。したがって夏は田を優先 するためほそぽそとしたものだが、秋になると、途端に水量を増す。」
蛇笏・龍太の二代にわたるその俳諧(俳句)は、甲州の山々に囲まれた山峡の土着のなかから生まれ育まれていった。これらに関連する、龍太語録のようなものを拾ってみると次のとおりである。
「私は、その出自からして、本来俳諧というものは、地方の文芸と考えている。」(『山居四望』)
「目を見開き、耳を傾けるなら、自然は、時とところを選ばず、常に人為などはるかに及ばぬ大いさを持った存在ではあるまいか。」(同前)
「虚子の客観写生というのは、要するに、人間の知恵などは所詮微少なもの。そんな小知に頼って俳句にすがってみても仕方がない。それよりも自然をよく見、自然が教えてくれるものを素直に信じなさい、ということだろう。」(同前)
「北海道でも九州でも、俳句を考えるときは、ここへ住んだらどんな印象だろうかという意識をもつこと。つまり旅吟の旅先に行ったら、他郷は故郷のごとく詠え。」(「俳句春秋」昭和六一・二)
「自然というものは、いつでも変わらないものという受け止め方をしては決して正体を現わさない。やはり日々変っているのだということを自分自身の肉眼で捉えたとき、初めて自分の作品の中に不変のものとして定着するのではないかと思う。」(『龍太俳句教室』)
「風土というものは眺める自然ではなく、自分が自然から眺められる意識をもったとき、その作者の風土となる。」(同前)
蛇笏・龍太の俳諧(俳句)は、土着の、堂上ではなく地下の、雅(みやび)ではなく鄙(ひな)びの、地方の、衆の、それであり、それは、同時に、人為を超えた自然・風土に根ざした、いわば、地魂(アニマ=アニミニズム)に捧げる御詠歌のようなものであろう。そして、それは、日本文学史の伝統的な挽歌的な韻律の響きを有している。
飯田龍太の俳句(その四)
○ 大寒の一戸もかくれなき故郷(昭和二十九年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この句については『週刊読書人』の『季節の窓』というカコミの連載に、次のように書いた。『(前略)決して上品な趣味とはいえないが、私は立小便が大好きである。田舎住いのよろしさは何だ、と聞かれたら、誰はばかることなく自由にソレが出来ることだと即答したい。特に寒気リンレツたる今日この頃、新雪をいただく南アルプス連峰を眺めながら、自然の摂理に従う。この気分は極楽のおもいである。これもそんな折の一旬。(後略)」。いささか品のない文章である。紳士の文とは申せまい。しかし、ひとつの句に別々の自解も妙なものだからここに再録する。立小便云々はともかく、作品それ自体は生真面目な気持で作った句である。落葉しつくした峡村の一戸一戸がさだかであるばかりではない、こんな日には、数里離れた釜無川の清流まで鋼の帯となってきらめくのが見える。」
昭和三十四年(三十九歳)に刊行された第二句集『童眸』所収の句。この句集名の由来は、昭和三十一年の「九月十日急性小児麻痺のため病臥一夜にして六歳になる次女純子を失ふ」の前書きのある「花かげに秋夜目覚める子の遺影」あるいは「墓に倦む子の両眼の菫草」などにあるのだろう。そして、この第二句集について、龍太は後年次のような感想を書き留めている。「この第二句集は、そうしたこころの湿り(第一句集『百戸の谿』の物悲しく伏し目がちであること。広瀬直人稿「飯田龍太著書解題」の注)を捨て、自然や人生の影に寄り添うことなく、すこしでも明るく呼吸したいという意識があったようである。ところどころにそんな気負いが見える」(『自選自解 飯田龍太句集』所収「作品の周辺)。これらの記述に見られる、「自然や人生の影に寄り添う」(第一句集『百戸の谿』の姿勢)ということと、「自然や人生に寄り添うことなく、すこしでも明るく呼吸したい」(第二句集『童眸』の姿勢)ということの、「龍太の『自然や人生』に対峙する姿勢」の「時計の振り子のような揺れ」が、龍太俳句を鑑賞するときの忘れてはならないポイントであろう。そして、この掲出句やその自解の一文に接したとき、後年の、「自然というものは、いつでも変わらないものという受け止め方をしては決して正体を現わさない。やはり日々変っているのだということを自分自身の肉眼で捉えたとき、初めて自分の作品の中に不変のものとして定着するのではないかと思う」(『龍太俳句教室』)という龍太の述懐が生き生きとしたものになってくる。
飯田龍太の俳句(その五)
○ 雪山を灼く月光に馬睡る(昭和三十二年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「隣家の老人が馬を一頭飼っていた。耕転機が流行するようになっても手放さず飼いつづけた。いつか馬は、村中で、老人の飼う老馬が一頭だけになった。丈夫な身体で、朝から晩まで働きづめだ。遊ぶということをしない。月にいち度、笛吹川の源流に近い大嶽山(だいたけさん)というお宮に参拝した。少々泣上戸の癖(へき)があったようだが、目出度い席などでは一段と目出度い気分が出て、この老人の上戸は愛矯かあった。身体は丈夫だが、眼だけが不自由で、眼薬は一合瓶で買った。何合つけてもあまり効果はなかったとみえ、だんだん見えなくなっていった。どこへ行くにも老馬に乗った。馬は老人の大事な自家用車であったわけである。頭上に小枝が垂れているところでは歩を緩めて、老人の禿頭を傷つけぬように配慮する。たいしたものである。 老人は先年死に、馬もいつか居なくなった。」
龍太の俳句の師はまぎれもなく、父である、虚子門の、その「ホトトギス」の第一期黄金時代を築き上げ、後に、「雲母」を主宰して、独自の世界を樹立していった、飯田蛇笏その人であることは、言をまたないであろう。龍太は、その蛇笏により、生をうけ、育まれ、そして、それを継承していった、まぎれもない、蛇笏の正しい継承者であるということは、誰もがひとしく認めるところのものであろう。そして、この蛇笏と龍太との二代にわたる句業の全ては、実に、甲斐の国の、甲府盆地の東南端の、山間農村地帯の、いわば、土着のなかから生まれ、育まれ、そして、全国津々浦々に、その根を張り巡らしていったということで、それは驚異的とも、はたまた、異様的とすら思えてくるのである。そして、この蛇笏・龍太が目指した俳諧(俳句)というものは、この土着精神に裏打ちされたところの、蛇笏の言葉でするならば、「霊的に表現されんとする俳句」(大正七年五月三日発行の「ホトトギス」所収の蛇笏の俳論名)とでも表現され得るところのものなのではなかろうか。そして、蛇笏と龍太との年代の中間にあって一時代を築き上げていった「人間探求派」(中村草田男・石田波郷・加藤楸邨)というレッテルに模してするならば、土着精神に裏打ちされたところの「風土探求派」とのレッテルを呈することも、あながち的を得ていないことでもないように思えるのである。そして、それは、龍太の言葉でするならば、「風土というものは眺める自然ではなく、自分が自然から眺められる意識をもったとき、その作者の風土となる」(「俳句春秋」昭和六一・二)とでもなるのであろうか。この掲出句なども、まさしく、龍太の風土そのものであろう。なお、蛇笏の「霊的に表現されんとする俳句」(大正七年五月三日発行の「ホトトギス」所収)については、次のアドレスに簡単な紹介がされている。
http://www.melcup.com/cgi-bin/magazine/log_main.cgi?mag_id=M000000284&mail_id=28512
飯田龍太の俳句(その六)
○ 高き燕深き廂に少女冷ゆ(昭和三十二年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「初秋の風が梢を吹き過ぎるころになると、つばめの姿が次第に高まってゆく。飛翔に一段とスピードが加わる。なかでもはるかな高空をとぶ細身の燕が目につく。あれは『雨つばめ』という種類だそうである。胴体に比較して、特別翼が長い。 細く鋭く、弦月の形にそっくりだ。わずかに翼をそよがせると、あとはいつまでも大空を滑って止まることがない。私は普通のつばめと、背に水玉のある岩つばめと、そしてこの雨つぼめの三種類しか知らないが、矢張りこの雨つばめが一番好きである。どこで営巣するのか。とにかく人家の軒などでは見かけぬ種類である。それだけに遠いおもいがある。この作について、多くの人が、亡くなった子への憶いを宿す句だ、と言う。それが隠せるならいっそ隠しておきたい。これが正直な感想である。」
飯田蛇笏は、「今日齢老いて嘘偽りなく愉しからざる俳句に心傾けつづけてゐる私は、渓流をへだてるやや険しくそそりたつてゐる後山に、朝な夕な、濃いにせよ淡いにせよ相対(原文は別漢字)する雲霧を眺めて、すこしも美しくなどとはおもはないけれども、昵つと眺めてゐると、何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になつて、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうとするのである」(『現代俳句文学全集飯田蛇笏集』・「あとがき」)と、その憂愁の思いを吐露している。
真実、「愉しからざる俳句に心傾けつづけてゐる」というのは、蛇笏のみならず、俳句に情熱を傾けた者ならば、ときに、否応無く襲いかかってくる、また、それが故に、その業を続けなければならないような、創作人の「業」のようなものなのではなかろうか。
そして、掲出句の、龍太の自解のとおり、「亡くなった子への憶いを宿す句だ、と言う。それが隠せるならいっそ隠しておきたい」というのは、龍太の、嘘偽りのない、ぎりぎりの吐露であろう。そして、それでも、それを句にしていくということは、これまた、創作人の「業」のようなものなのであろう。こういう自解に接すると、一句を理解し、鑑賞するということは、容易ならざることと、痛切に実感するのである。
飯田龍太の俳句(その七)
○ 晝の汽車音のころがる枯故郷(昭和三十三年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「早春のいちにち、甲府の若い女流俳人達にさそわれて酒折宮に隣りする不老園に 吟行した折の作である。ここは倭建命東征の折、しばらく駐って、翁と歌を交した故事で知られているが、梅の名所でもある。しかし、この時はまだ蕾が固く、わずかに二、三輪開きはじめたばかりであった。宮の裏手を登ると、盆地がひろびろと見える。 周囲はほとんど葡萄畑ばかりで、そのなかを中央線が通じている。貨車がかるやかな響きをたてて過ぎた。 ここからの富士の眺めはいい。その手前の山々が御坂山系だ。北面しているため、まだ山檗に残雪がある。残雪の切れる丘陵の一部に境川村の家食が点在する。小学校の前の倉庫が西日に白々と見える。その上手、小指一本の幅を置いたあたりが私の家の辺りだ。早春の暁方には、北東の風に乗って、逆にこの酒折辺りを通る汽車の音が、我が家の側の窓にきこえてくる。直線距離で、二里ちょっとというところだろうか。」
この掲出句の「枯故郷」というのは、最初に誰が用いたのかは定かではないが、この句に接したとき、俳誌 「橘」の松本旭主宰の「枯故郷橋上おのが身を晒し」、さらに、「橘」の筆頭俳人でもあった、亡き丸山一夫氏の「振り向いてもう一度見る枯故郷」が思いだされてきた。この丸山一夫氏のものは、俳誌「曜変」(平成三年七月号)に掲載されたもので、それは、氏の「故郷喪失」という寄稿文所収の二句のうちの一句なのである。
この氏の寄稿文を読むと、氏の生家(秩父郡の旧倉尾村大字日尾)は「ダムで水没」して、まさしく、水の底に埋もれてしまうという、そういう奇遇の、決定的な「枯故郷」
のようなのである。そして、これらの、龍太・旭・一夫各氏の「枯故郷」に通ずるものとして、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の、この「枯野」と何か連脈しているように思われるのである。さらに言えば、刻一刻と変貌していく現実を直視しながら、己が「心の故郷」も、刻一刻と「枯故郷」と化していく、そして、それは「故郷喪失」という思いと同じものなのではなかろうかという思いである。そう解したとき、この龍太の「晝の汽車音のころがる」という具象的な措辞が、絶妙に心に響いてくるのである。
なお、「枯故郷」・「故郷喪失」などについて、以前、次のアドレスのものなどに記したことがある。
http://blog.melma.com/00062920/200412
飯田龍太の俳句(その八)
○ 晩年の父母あかつきの山ざくら(昭和三十三年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この年、父は七十三歳、母は六十七歳である。晩年と称してもまずまず過不足ないところであろうが、母はすこぶる健康で、幼児のような肌艶であった。父の方も、秋田旅中に発病した大患がおおかた回復し、比較的平穏な日点であったから、晩年とはいっても、どこか明るい気分が漂っていた。丁度、亡くなった子の三年目の彼岸というので、ごく小さな墓を建てることにした。『清純浄光禅童女』と父が自分で書き、その戒名を持ってつれだって石和の石屋に依頼に行った。出来上がった墓は、こちらの注文より二寸ほど高めであったが、石屋にすれば、多分サービスのつもりだったろう。いい天気の日で、建ておわった小さな墓を撫でると、もうほのかな日の温みがあった。彼岸桜が散り、桃も花盛りが過ぎると、山裾に白々と山ざくらの花が浮かぶ。
腰かけて入日も知らず山ざくら 道良
春日山の峠の上にある土地の古い俳人の句碑だが、この句にはどこか天保調ののびやかさがある。」
掲出句の「晩年の父母」というのは、自解にあるとおり、飯田蛇笏ご夫妻のことであり、「亡くなった子」というのは、昭和三十一年に急逝した龍太氏の次女のことである。この次女が亡くなったときの、「露の土踏んで脚透くおもひあり」との龍太氏の句がある。その自解によると、「父は、死んだ孫の草履袋と色鉛筆と靴をそろえながら号泣した。それまでひとり、最後までこらえていたがこらえかねたのだろう」と龍太氏は綴っている。亡くなる一週間前に、この自解の龍太の父(蛇笏)と死んだ孫(龍太の次女)とは石和の遊園地に遊びに行って、蛇笏は「薔薇園一夫多妻の場を思ふ」という異色の句を残していることも、龍太氏は別のところで綴っている。これらのことから、この亡くなったご両親の龍太ご夫妻もさることながら、龍太のご両親の蛇笏ご夫妻の沈痛もいかばかりであったかと想像を絶するものがある。そして、その子の三周忌に、「いい天気の日で、建ておわった小さな墓を撫でると、もうほのかな日の温みがあった。彼岸桜が散り、桃も花盛りが過ぎると、山裾に白々と山ざくらの花が浮かぶ」とは、龍太氏を始め、飯田家の、そのときの情景がまざまざと浮かび上がってくる。こういう句に接すると、悲しみのあとに、それが悲しいことであればあるほど、ほっとした安らぎが、そして、その悲しみを共に味わった家族というものは、そのの絆をより一層強くしていくものなのだということを実感する。
この自解にある、「腰かけて入日も知らず山ざくら」という古碑も、この土地に実に相応しいものであるとともに、この古碑に対する龍太の自解の「春日山の峠の上にある土地の古い俳人の句碑だが、この句にはどこか天保調ののびやかさがある」というのも、この古碑に実に相応しい響きを有している。
飯田龍太の俳句(その九)
○ 手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。」
龍太氏の自解を見ると、この句は昭和三十五年二月作なのであるが、その前年の十月に
「露の父碧空に齢いぶかしむ」という句がある。この昭和三十四年の句の自解に、「俳句は私小説だと言った人がある。私はむしろその『私』的部分をなるべく消す努力をしたいと思っている」と記している。これが龍太氏の作句信条なのであろうが、その父が一大の傑出した俳人・飯田蛇笏氏ということになると、いかに龍太氏がその「私的」な部分を表面に出すまいと心掛けても、詠み手はどうしても、その「私的」な部分を拡大して鑑賞しがちである。そして、龍太氏の、これらの句をとおして、晩年の蛇笏氏のイメージが鮮明に浮き上がってくる。掲出の句の、「早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた」や、その前年の作の自解の続きの、「年老いた父が露の朝空をなんとなく仰いでいる情景は、母には抱かぬしんみりした距離がある」という、蛇笏氏のイメージは、俳人・龍太氏が描く、俳人・蛇笏氏その人の実景であろう。俳人・蛇笏氏は、子である俳人・龍太氏をもったということは、なににもまして、心に充たされた思いをしていたことであろう。と同時に、これらの龍太氏の「父」の句には、単に、「父」たる蛇笏氏だけのイメージだけではなく、普遍的な男の子が持つ「父一般」に通ずるものを詠み手に語り掛けてくる。
飯田龍太の俳句(その十)
○ 風ながれ川流れゐるすみれ草(昭和三十五年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「なんとなくいい気分で生まれた句だ。平凡な句だが、二、三のひとが、まんざらでもないと言ってくれた。つまり、食後のソーダ水のようなもので、栄養はないが、読後の印象は悪くないという意味だろう。私は、菫という植物は、春の景物としては好きなもののひとつだ。日陰日向で、花色に濃淡がある。日向の暹しい濃紺がいい。田舎育ちの、五、六歳の少女の感じだ。なんでまた『星菫派』などというつまらぬ言葉を流行させたものか。明治時代、雑誌『明星』によって、星や菫に託して恋愛詩を作った女流の一群をさすよう
であるが、実物にそんなフヤケタ色気はありはしない。もっと澄んだ瞳の色だ。はつらつとした精気がみなぎっている。渓流の明るい響きに調和する。あれを摘んで鼻先に持って行くからいけないのだ。『星菫派』とは多分そんな人種のことだろう。」
龍太氏に「誤解と誤用」という一文がある(『紺の記憶』)。そこで、「俳人は、とかく季語・季題の効用に甘え、安易に用いる傾向がある。現代俳句が骨細になったといわれる最大の原因は、私は、季語・季題に対する認識の安易さ、一句には一句のゆるぎない用法としての、錘(おも)りの確かさの欠如にあると考えている」と記述している。その他、この『紺の記憶』の著書一つとっても、「去年今年」・「蛙たちのことなど」・「庭の四季」・「山居春秋記」・「季語について」など、実に、季語・季題に関する龍太氏の記述は多い。そして、それらは、この掲出句の自解のとおり、単に、歳時記のそれではなく、ことごとくが、自分の眼で確かめた、いわば、「龍太歳時記」の雰囲気なのである。そして、それは、いわゆる、
「人事」に関するそれではなく、「叙景」に関するものが殆ど、こういうことからも、「龍太俳句」の特色というのが浮き彫りになってくる。それにしても、この菫の句についての自解の「菫」について、「実物にそんなフヤケタ色気はありはしない。もっと澄んだ瞳の色だ。はつらつとした精気がみなぎっている。渓流の明るい響きに調和する。あれを摘んで鼻先に持って行くからいけないのだ」とは、真に、「菫」の本意を抉りだしている趣がする。
飯田龍太の俳句(その十一)
○ 冬山路教へ倦まざる聲すなり(昭和三十七年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「教える方は無論単数だが、教えられる方の受け取り方で鑑賞がちがってくるようである。あるひとは、山路を歩きながら、畑中からきこえてくる父の声と解した。春先の果樹の剪定の仕方を、あれこれと子に教えている風景だろうと言う。成程、そう解しても解されないことはないが、しかし「教え倦まざる」という表現には、ある時間の経過と、その継続があるのではないかと思う。父子というような単数と単数とでは、もっと簡潔な交語となるはずだ。「倦まざる」にはどこかのびやかなものを含む。実際は、校庭の教師の声が、澄んだ大気を透して、鮮やかにきこえて来たのだ。多分体育の時間に相違ない。その号令にしたがって一斉に手をあげ、足をひらく子供達の姿。そのなかにわが子も居るかもしれないと思うと微笑が湧く。耳を澄ませていると、いつか自分自身も幼時にかえってそのなかのひとりになっていた。」
「露の父碧空に齢いぶかしむ」(昭和三十四年作)について、龍太氏は「この『父』の場合でも、たしかに私の父だが、同時に『父一般』に通ずるものがないと作品として不完全だ」とも記している。このことで、例えば、掲出句とその自解をもってするならば、「掲出句の『聲すなり』は、特定の『体育の先生の校庭での号令のような掛け声』とか特定の場を詠んだ句だとしても、その作り手の作意そのものを探るのではなく、『教える者と教えられる者との間においての一般的・普遍的な教える者の声』と、詠み手の方で鑑賞し、その詠み手に全てを委ね、あれこれとイメージを膨らませるような句になったときに、句としての完成度が増す」とでもなるのであろうか。と同時に、この自解からすると、この掲出句ですると、「『倦まざる』には、単数と単数の関係ではなく、単数と複数との時間の経過と継続性を示したもので、それらの作り手の工夫したことにも、敏感に察知して鑑賞して欲しい」ということも、この句の作り手の龍太氏は、この句に接する者に、この自解を通して語りかけているとも思われる。ここらへんに、俳句を「作る」ということと、「俳句を味わう」ということの大事なポイントとなる部分があるように思われるが、要は、「俳句というものは、それを産み出した作り手の本意を離れて、一つの生き物のように、一人歩きをする」ということと、「俳句を味わうということは、丁度、連句の付句の要領のように、『即かず離れず』の姿勢が何よりも求められる」ということではなかろうか。
この掲出句の「聲すなり」は、作り手の龍太氏は、「体育の先生の校庭での号令のような掛け声」を意図していたのであるが、自解に出てくる詠み手の一人は、「山路を歩きながら、畑中からきこえてくる父の声と解した。春先の果樹の剪定の仕方を、あれこれと子に教えている風景だろう」という。そして、今回、龍太氏の父・蛇笏氏の晩年の句の自解が多い『自選自解』の著書で接すると、この「聲すなり」は、父・蛇笏氏の子・龍太氏への語り掛けの、その「声」のように思われてくるのが、何とも妙な思いなのである。
飯田龍太の俳句(その十二)
○ 桔梗一輪死なばゆく手の道通る(昭和三十七年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「この句について間立素秋氏は『(前略)こうした句をなさしめる病神というものが、著者の身辺にあるというなら、私にはとうていやり切れない(後略)』という。まだ 大中青塔子氏は『おそらく厳父蛇笏との死別の時期を予感しての肉親の心の痛みが、主観として強く詩の領域を支配していたからではないか』と述べ、新村写空氏は、そのどちらにとってもいい『今日は父であり、明日は私』という時点を超えた一諦観だと言われる。さて、そうなると、自解もおのずから口ごもることになるが、こういう作品の成否は、主情に負けない季感の確かさがあるかないかできまるようである。花なら花で 正確に見えてくる表現でなければ、単なる取り合せにおわる。別な角度から言うと、それ以外のものを聯想させぬ強さが必要だ。独断と難解はすべてそこに原因する場合が多い。」
この自解に出てくる、間立素秋・大中青塔子・新村写空各氏は、龍太氏と同じく、蛇笏氏を師と仰いでいる「雲母」の俳人なのであろうか。同じ「雲母」の俳人で、龍太氏が「蒼石永別」という一文を記している松村蒼石氏に、蛇笏氏永別後の句が、龍太氏に紹介されている(『紺の記憶』)。
蛇笏はや秋の思ひのなかにあり
蛇笏忌やか恃むものただひとすぢに
老弟子のなかのわが齢蛇笏の忌
師の齢こえゆくつゆの秋日かな
そして、これらの句の紹介とともに、龍太氏は、「いまにしておもえば、蒼石さんは蛇笏の死によってより多く蛇笏を知り、胸中にあらたな蛇笏像を復活せしめたひとではなかったか」と綴っている。これらのことは、蒼石氏のみならず、龍太氏を筆頭にして「雲母」の多くの俳人達が均しく抱いている感慨ではなかろうか。それと共に、その蛇笏氏と座を同じくするときに、龍太氏の「主情に負けない季感の確かさがあるかないかできまるようである。花なら花で 正確に見えてくる表現でなければ、単なる取り合せにおわる」という思いを常に抱き続けていたのではなかろうか。
これらのことは、「龍太俳句」というのは、「蛇笏俳句」を常に念頭に置きながら、その師の父である蛇笏氏だけではなく、その蛇笏氏を頂点として、切磋琢磨している、「雲母」の多くの俳人達との、その座を同じくする風土のなかから、育まれ、そして、逞しく成長していったということをつくづくと実感する。
飯田龍太の俳句(その十三)
○ 亡き父の秋夜濡れたる机拭く(昭和三十七年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「十月三日夜九時十三分、父は永眠した。 七月末一度昏睡に陥り、危篤状態になったが、このときは不思議にもち直した。九月二十七日晩方、突然再度昏睡に陥り、今度はついに回復しなかった。ねむり続けたまま、次第に脈が微弱になっていった。それでも、三日の夕刻、一番下の女の子が大きな声雪一度「オジイチャン」と呼ぶと、かすかに口元をほころばせて頷いたように見えた。病牀は、六十年の間坐りつづけた自分の書斎であった。死後、その机上には大型の日記帖を代用した句帖が置かれていた。病の進むにしたがって字が乱れ、昏睡直前の数句は、見馴れぬものには判読困難なほど乱れていたが、
誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏
いち早く日暮るる蝉の鳴きにけり
と読めた。」
「誰彼もあらず一天自尊の秋」、この蛇笏の絶句ともいうべきものに対して、龍太氏は、「なにやら判ったような、判らないような独白の句だが、秋は便法としてトキとも読まれる言葉である。季節はいままさしく秋爽。たまたまこの世にえにしありしともがらよ、ひとの生死のはかなさよりもなによりも、おのがじし尊ぶべきものは何であったか、それこそ互いに求めようではないか、と」(『遠い日のこと』)記している。龍太氏の父であり、師
であった蛇笏氏に捧げた句は、「十月三日 父死す 十句」と前書きのある次のものであった(『麓の人』所収)。
月光に泛べる骨のやさしさよ
亡き父の秋夜濡れたる机拭く
ひややかに目玉透きたるおもひごと
月の夜はあまたの石に泪溜め
鳴く鳥の姿見えざる露の空
秋空に何か微笑す川明り
ひとびとの上の秋風骨しづか
秋昼のひとり歩きに父の音
常の身はつねの人の香鰯雲
誰も居ぬ囲炉裏火の炎(ほ)にねむる闇
これらの句が収められて句集の名は『麓の人』(昭和四十年刊)で、その「麓の人」とは、蛇笏氏その人を指すのではなかろうか。そして、龍太氏の「鳴く鳥の姿見えざる露の空」の句は、大正三年の蛇笏氏の渾身の傑作句、「芋の露連山影を正しうす」の挨拶句とも詠みとれる。
飯田龍太の俳句(その十四)
○ 冬耕の兄がうしろの山通る(昭和四十二年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「虚子は、写生は俳句の大道です、と言った。石田波郷は、俳句は私小説だ、と言った。それぞれ自分の体験をこめた信念のある言葉である。たしかに写生は大事な基礎にちがいない。まだ 俳句の『私』性というものも否定出来ない性格のひとつである。だが、こういう結晶した言葉は、それをロにしたそのひとだけのもので 模倣は出来ないものである。正しく理解するためには、改めて自分の表現を持たぬと自分のものになったことにはならない。私は、写生は、 感じたものを見たものにする表現の一方法と考えている。その逆でもいい。また俳句は『私』に徹して『私』を超えた作品に高めるものだと思っている。例えばこの作品の場合、私の兄であり、私の兄でなくともよろしければ成功したものと思いたいのだ。この場合、生死の虚実は問うところでない。」
飯田龍太氏の年譜を見ていくと、龍太は四男として生まれ、昭和十六年(二十一歳)に次兄が病没、昭和二十二年(二十七歳)に長兄の戦死の公報、そして、翌二十三年に三男の戦病死の公報と、三人の兄を亡くしている。この次兄らの思い出については、「遠い日のこと」(『遠い日のこと』所収)に詳しい。これらのことは、父の蛇笏氏が、明治四十二年(二十四歳)に、志を捨てて、家郷に帰らざるを得なかったと同じ道を龍太氏は辿ることとなる。この年譜の解説などを見ていくと、「しかして敗戦の直後、ようやく老齢を迎えようとする蛇笏の句に『なやらふやこの国破るをみなごゑ』という絶唱がみえる。この父をあらゆる意味で嗣ぐべく、以来、龍太は、けっして頑健とはいえない身をみずから励ますのであった」(『現代俳句の世界 飯田龍太集』の三橋敏雄稿)という記述も見られる。とにもかくにも、蛇笏・龍太親子にとっては、これらの肉身との別れというのは、これまた想像を絶するものがあったであろう。こうした背景のもとで、掲出句とその龍太氏の自解を見ていくと、この掲出句の「兄」というのは、深い響きを有している。そして、この「例えばこの作品の場合、私の兄であり、私の兄でなくともよろしければ成功したものと思いたいのだ。この場合、生死の虚実は問うところでない」というのは、龍太氏にとっては、ぎりぎりの嘘偽りのない吐露であると同時に、ここに、龍太氏の俳句の原点があり、ここに、龍太氏の作句信条があるという思いを深くする。
飯田龍太の俳句(その十五)
○ 父母の亡き裏口開いて枯木山(昭和四十年)
『自選自解 飯田龍太句集』の解説は次のとおり。
「俳句はすべて短尺に乗るものでないといけません、といった人がある。一家言である。どこにでも通用する言葉ではないが、ひとつの見識、一方の審美眼であることはたしかだ。
私はそこまでは言い切れないが、せめて読者に不快な印象だけは与えたくないと思っている。出来たら自分のこころをしずめ、同時に読者にも安らぎを与えるような句を作りたいと考えている。ことにこんな場合は、自分の気持を静めることで精一杯。われながら淋しい句だと思う。自分をたかめることも、読者に安らぎを与えることも全く忘れ去っている 作品である。強いて言えば、冬日のなかの枯木山が明るく見えること。それだけがせめてもの救いであろうか。」
この掲出句は、父であり師であった蛇笏氏への追悼の句が収載されている句集『麓の人』に続く、第四句集『忘音』に収載されている昭和四十一年作の一句である。この一年前の昭和四十年作のなかに、「十月二十七日母死亡 十句」の前書きのある句がある。そして、この句集の名に由来する次の句がその筆頭に詠まれている。
落葉踏む足音いづこにもあらず
先に父を失い、そして、母を失い、自解にあるとおり、この掲出句は、「自分の気持を静めることで精一杯。われながら淋しい句だと思う。自分をたかめることも、読者に安らぎを与えることも全く忘れ去っている作品である。強いて言えば、冬日のなかの枯木山が明るく見えること。それだけがせめてもの救いであろうか」という、龍太氏の述懐は、肉親と永別した子・龍太氏というよりも、一歩距離を置いての俳人・龍太氏の思いであろう。
この平成十五年九月十三日に亡くなった、平井照敏氏は、この掲出句について、「飯田龍太さんは、私、前半と後半の時期とで全然句が違うと思うんですね。その後半の時期にすすむそのきっかけになったのが、父蛇笏とそれからお母さんの死でした。裏の木戸が開いていて枯木山が見えるっていう句がありますね」と、この句を龍太氏の数多い句のなかにおいても、特別の位置にある句としている(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。この平井照敏氏の指摘は、この掲出句の全てを物語っているように思われる。
龍太氏は、この第四句集『忘音』のあと、『春の道』・『山の木』・『涼夜』・『今昔』と句集を刊行し、それらは『現代俳句の世界 飯田龍太句集』(昭和二十年以前~昭和五十六年)で身近に目にすることができる。その後、第九句集『山の影』、第十句集『遅速』(平成三年・七十一歳まで)を刊行し、平成四年に、蛇笏・龍太親子二代にわたる、その主宰誌「雲母」を廃刊し、忽然と俳壇から身を退いてしまった。
一月の川一月の谷の中 (『春の道』)
白梅のあと紅梅の深空あり(『山の木』)
梅漬の種が真赤ぞ甲斐の冬(『涼夜』)
詩はつねに充ちくるものぞ百千鳥(『山の影』)
雨音にまぎれず鳴いて寒雀(『遅速』)
そして、「雲母」の廃刊の直前の句に、龍太氏は次のような句を残している。
またもとのおのれにもどり夕焼中(平成四・八「雲母」)
この句は、「雲母」九百号(最終号)に発表された九句のうちの冒頭の句とのことである(『飯田龍太全集二』) 。「俳人・蛇笏の子・俳人・龍太は、家郷・甲府の境川の、飯田武治の四男・飯田龍太」にもどったのかもしれない。
追伸 現在(平成五年)、広瀬直人・福田甲子雄氏らによって、『飯田龍太全集』(全十巻)の刊行が続けられ、その全貌が明らかになりつつある。機会があったら、それらを目にして、その最後の句集『遅速』などを中心にしての鑑賞などを試みたい。
http://www.kadokawagakugei.com/topics/special/20050301_01/
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