木曜日, 6月 08, 2006

若き日の蕪村(四)




若き日の蕪村(四)

(四十七)

ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』やこの和詩を安永六年とする『蕪村の手紙』の著者(村松友次)の考え方などを紹介したい。著者(村松友次)は、この和詩の「君」と「友」とを分けて解釈する独特のもので、その考え方は賛否両論があるが、それらの解釈の異同なども織り交ぜながら見ていくことにする。著者(村松友次)は次のような「九連詩説」(この和詩十三行を九連に分割する考察)によっている(『蕪村伝記考説(高橋庄次)』などの「八行詩説」と四※印の行の相違がある)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
  何ぞはるかなる
二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
  をかのべ何ぞかくかなしき
三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
  見る人ぞなき
四※ 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
五 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
六 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
  はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
  のがるべきかたぞなき
七 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
  ほろゝともなかぬ
八 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
  何ぞはるかなる
九 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
  花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
  ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書
(口語訳)
一 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
二 あなたのことを思いながら、岡のべをさまよい歩くのです。
  岡のべはなぜこうも悲しいのでしょう。
三 たんぽぽは黄色に、なずなは白く咲いています。
  しかし、これを見るあなたはいないのです。
四 おや! 雉がいるのでしょうか、いたましい声で、ひたなきに鳴いています。
  聞くとこう言っているのです。
五 「親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。
六  あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
七  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
   るのです。)
八 あなたは、にわかにこの朝、世を去られました。その夕べ、 
  私の心は千々に乱れてあなたをしのぶのですが、あなたは何と
  はるかに遠いところへ行ってしまわれたことでしょう。
九 わが家の阿弥陀仏にともしびを奉る気力もなく、
  花もお供えせず、ただひとりしょんぼりとたたずんで、
  あなたをしのぶ今宵は、
  ことに尊く思われるのです。
              仏弟子蕪村百拝してしるす


(四十八)

『蕪村の手紙』の著者(村松友次)は、「平井氏(註・詩人で俳人の平井照敏)は、この詩の中心部分の解説の諸説を丹念に紹介し、次のように言う」として、平井照敏氏の考え方を紹介している。
○まったく、諸説入りみだれて、どうにも収拾がつかない思いではないか。なんとか、すっきりした結論はつけられないものだろうか。そう思って、尚学図書版『鑑賞日本の古典17 蕪村集』の村松友次氏の解説を見た途端、私ははじめて、久しいしこりが一度に解ける思いを味わったのであった。村松氏の訳は次のようである。
「あやしい煙がばっと散ったかと見ると、たちまち西から風がはげしく吹き
  (友の命の緒はたちまち吹き弱り)小笹原も真すげ原も吹き乱れて、
   のがれかくれる所もなかった! ・・・・・・・
  親しい友があった。河をへだてて、共にこの岸に住んでいた。だが、もう、今日は、
   ほろろとただの一声も鳴かない。」と。(ああ、あの雉も私と同じ悲しみを抱いてい
るのです。)」
 つまり、村松氏は「友ありき・・・」から「ほろゝともなかぬ」までの六行を、雉のことばと考え、作者の思いを重ねているのである。これは、先にあげた中村草田男の解と重なるものである。草田男の場合、「へげのけぶりの・・・」から「のがるべき・・・」までの三行を地の文としていたが、村松氏はその三行を雉のことばと考えたのである。たしかに、このように考えれば、「友ありき・・・」の転調は無理なく解決でき。その友が、鳴いて雉の友の雉なら、「けふハ/ほろゝともなかぬ」の理由も十分に納得できる。河をへだてていつも鳴きかわしていた友の雉なのだから。村松氏はこれだけではなく、この詩全体の構成について、興味ある分析をしている。つまりこの詩はABCDEという五つの面を重ねた構造をしていると考えるのである。A面は、題と「我庵のあミだ仏・・・」、以下、B面が一、二行目と十四、十五行目の「君あしたに去ぬ・・・」という同文の二行ずつ、C面は岡のべの描写で、三行目から五行目までの五行、D面が雉1の独白で、八行目と十二行目、十三行、E面が雉1の独白の中に語られる雉2の最後で、九行目から十一行目までの三行である。この五面の重なりによる立体的構造をもつのがこの詩だとするこの解明はまことにすっきりとこの詩の構造を解いている。
 だが、さきの口語訳で、「あやしい煙」とのみ訳されていた変化のけぶり、これを村松氏は、猟銃の煙だと解いている。そうかもしれない。事実、蕪村に、「雉子うちてもどる家路の日ハ高し」の句かあり、この句を書き添えた絵も存在して、猟師が鉄砲の先に死んだ雉をぶらさげて家路につく姿がえがかれている。なぜ雉2が死んだのか。それをここまで解いてしまうと、詩が透明になりすぎて、しらけてしまう感じである。ここは、蕪村も「へげのけぶり」とだけ書いたように、あやしい煙のままで、いろいろに味わえる不透明な余地をのこしておくべであろう。あるいは先の草田男もそのように解していながら、作家の勘でそう言い切ることを避けたのかもしれない。その点は味読を尊重する俳句実作者の私だが、しかし、村松氏の分析のように、この詩が読めるものとすれば、蕪村の作詩術はなんと新しいものではないか。複雑な構造性のある詩をすでに作っていたのである。もっともそれは、物語的に俳句や詩句を組みあわせた「春風馬堤曲」の作者蕪村には、可能なことだったのであろう。またかれの絵にも、視線を移動させることによって、画面が変化してゆくという多面的な工夫がさまざまにほどこされていた。そしてその近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだったのかもしれないと思う。

 長い引用になったが、平井照敏氏は、村松友次氏の考え方を是とするということであろう。「その近代性は、かれが中国の絵画や詩文に注いだ傾倒のこころのかもし出したところから芽吹いたものだった」という最後の指摘については、村松氏が指摘する「能の多くの構成」と深く関わっていることも加味しておきたい。

(四十九)

 この村松友次氏の考え方に対して、山下一海氏は次のように一部否定的考え方をしている(村松・前掲書)
○村松友次氏の九行詩説(註・九連詩説)は、詩の中心点のその独特の解説にかかわりがある。すなわち、7に「雉子のあるかひたなきに鳴くを聞けば」とあるのを受けて、8 から13までの六行を雉子の言葉とする。その六行を直接話法として、括弧でくくってていいようなものとするのである。それは雉子が友である別の雉子の最期を語っているのだから、その中の9・10・11の三行によって、別の雉子の代弁をしているのだという。それは能の後ジテが、生前の姿となって登場し、その最期を語り演ずる手法に似ている、ともいう。まことに明快な解釈であり、八連詩説では一括されていた7・8が九行詩説(註・九連詩説)では別々の行として考えられなければならない理由も、あきらかである。しかも、中心部分が8・9・10のさらにその中心ともいうべき「へげのけぶり」に、猟銃の煙という新解を与えて、その解釈を確固たるものにしている。しかし、8から13までを、雉子の言葉として割り切ってしまうことはいかがなものか。能の夢幻劇だといってもそこにあるのは能の詞章ではない。8から13までの文字が雉子の直接話法とすると、はっきりしすぎた寓話劇というようなものに聞こえないでもにい。そこに銃声一発、鉄砲の煙となると、どうも本当にそうなってしまう。従来の解釈によるこの詩の不思議な情緒纏綿生といったものが、雉子の言葉の挿入によって破壊それるような気がする。意味ははっきりするが、かんじんの詩の魅力が薄らいでしまう」。

 これらの村松友次氏の考え方については、先に見てきた『蕪村伝記考説』(高橋庄次著)の「この追悼詩を霊前に捧げたのである」という観点から、この蕪村の和詩を鑑賞していくと、山下一海氏らの従来からの、「8から13までの文字が雉子の直接話法」ではない、という考え方を是としたい。しかし、「北寿老仙を『君』とも呼び『友』とも呼んでいる」ことの疑問(俳人・原裕氏らの意見)は依然として残る。このことについては、『君』は、「北寿老仙その人」を指し、『友』は、雉子の鳴き声で象徴される、「北寿老仙を始め、その北寿老仙に前後して亡くなった、宋阿や潭北らの複数の故人」と、蕪村は、その心中に、区別してのものという理解も、この和詩を鑑賞する、もう一つの視点として許容されるのではなかろうかと、そんな思いもするのである。

(五十)

 『蕪村の手紙』の筆者(村松友次)の「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年、蕪村六十二歳とする考え方は、次のとおりである。

一 詩の発想や内部構造が「春風馬堤曲」と酷似する。
二 内容・・・主として季節感・・・が、晋我没後の直後に霊前に手向けたものとは思えない。
三 もし、没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)。
四 安永六年に蕪村は『新花摘』を書き、しきりに往時を回想している。

 これらが、その根拠なのであるが、一については、先にも触れたが、「春風馬堤曲」は安永六年春興帖『夜半楽』に収載されたもので、それは「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」の、いわゆる三部作「春風馬堤曲(十八首)・澱河唄(三首)・老鶯児(一首)」のその一部をなすものである。この三部作の主題は「老いの華やぎ」・「老鶯児の句に見られる老愁」ということであり、それと故人への手向けの追悼詩の「北寿老仙をいたむ」とは、まるで異質の世界である。高橋庄次氏は
「夜半楽三部曲が発句・漢詩・和詩といったさまざまな形式をモザイク状に組み上げたバラード(物語詩)であるとすれば、『北寿老仙をいたむ』はリート(独唱用小歌曲)だと言えるからだ」としているが(『蕪村伝記考説』)、その説を是としたい。
二については、「晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は『蒲公英の黄に薺のしろう咲きたる』の季節ではない」(村松・前掲書)としているが、こと、この季節感をことさらに取り上げる必要性はないと考えられる。
三についても、「没後すぐの手向草だとしたら、雁宕その他の結城地方の俳人の弔句も共に残るはずである(『いそのはな』にはそれがない)」ということは、このことをもって、安永六年説(晋我の三十三回忌の追悼集が、何らかの事情で五十回忌まで延びてしまった)の根拠とはならない。それを根拠とするならば、この『いそのはな』にも、晋我と親しかった亡き「雁宕その他の結城地方の俳人」の句も収載されてしかるべきであるが、それがないということは、この『いそのはな』の記載のとおり、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」の記述以外のなにものでもないと解する。
四については、蕪村の『新花摘』は其角の『華(花)摘』に倣い、亡母追善のための夏行として企画されたものであり、それは「しきりに往時を回想している」というよりも、回想録そのものと理解すべきであろう。そして、特記しておくべきことは、この『新花摘』は、その夏行中に、「所労のため」を中絶し、その夏行中の句と、「京都定住以前の若年の回想その他の俳文を収め」、全体として句文集としての体裁をしたものであり、その俳文の手控えのようなものなどから、往時を回想する中で、上記一の『夜半楽』などの構想が芽生えていったということで、そのことと、「北寿老仙をいたむ」の製作時期とを一緒する考え方には否定的に解したい。
(追記)さらに、上記一の『夜半楽』の「安永丁酉春正月 門人宰鳥校」から、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」の署名も、「蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文(『夜半亭発句帖』)が書かれた同四年頃までに多く見かけられるもの」と、その署名のみに視点を置く考え方に疑問を呈する向きもあるが、この『夜半楽』は、「わかわかしき吾妻(あづま)の人の口質にならはんと」ということで、関東時代の若き日の宰鳥の号が、「宰鳥校(合)」ということで出てきたということで、これと、「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」との署名とは異質のものであることは付記しておきたい。さらに、この『夜半楽』の「春風馬堤曲」には「謝蕪邨」との記載も見られ、これは、まさに、夜半亭一門の安永六年春興帖と解すべきものなのであろう。

(五十一)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」の製作時期を安永六年とする説の根拠とされる蕪村書簡について紹介しておきたい(口語訳等は村松・前掲書による)。

○・・・春帖近日出(いで)し早々相下可申(あいくだしもうすべく)候。以上 蕪村
正月晦日日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
此句のうち見ニハおもしろからぬ様ニ候。梅と云梅ニ落花いたさぬハなく候。さけど樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景ハ、いまだ春色も過行(すぎゆか)ざる心地せられ、恋々(れんれん)の情有之(これあり)候。しかるに此(この)江頭の梅ハ、水ニ望ミ、花が一片ちれば其まゝ流水が奪(うばい)て、流れ去(さり)さりて一片の落花も木の下ニハ見えぬ。扨(さて)も他の梅とハ替りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくに御尋思(ごじんし)候へば、うまみ出(いで)候。御噛〆(かみし)メ可被成(なさるべく)候。
(口語訳)
・・・春帖(『夜半楽』をさす)近日出版し早々にお送りします。以上 蕪村
正月三十二日
霞夫様
水にちりて花なくなりぬ崖の梅
この句、ちょつと見ただけではつまらないような句です。梅という梅に落花しないものはありません。しかし、木の下に落花の散り敷いた光景は、まだ春も過ぎ去ってしまわないのだという心地がして、行く春を恋しがる情があります。それなのに、この川岸の梅は、水に臨んで立っているので、花が一片散ればそのまま流れが奪って流れ去り流れ去りして一片の落花も木の下には見えません。さても他の梅とはちがってあわれなる様子、すごすごと川岸に立っているありさま、ようくお考え下されば、うま味が出て参ります。噛みしめてみて下さい。

 この霞夫(但馬出石の門人)宛ての書簡は、追伸の形で書かれたものだが、この手紙を書いた二日後(安永六年二月二日)に、同じような内容の「水にちりて」の句とその自解の書簡を何来(大和初瀬の門人)宛てにも出している。この二通の書簡中の「すごすご」という文面に、村松友次氏は注目するのである。

(五十二)

○この二通の書簡で私(註・村松友次)が注目することばは「すごすごと」である。霞夫宛には「すごすごと江頭に立(たて)るたゝずまゐ」とあり、何来宛には「すごすごとさびしき有さま」とある。そして管見の限りでは、この時期以外に蕪村書簡に「すごすごと」の語はあらわれない。「北寿老仙をいたむ」(和詩)の末尾に、

 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき

とある。私はこの二通の書簡執筆時期と「北寿老仙をいたむ」の創作時期とが近接していると考えるのである。

 この村松友次氏の指摘は、尾形仂著『蕪村の世界』でさらに「北寿老仙をいたむ」の創作時期は安永六年説として、従来の延享二年説を上回る趣なのである。しかも、それだけではなく、新しく発見された安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)により、

 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
 何ぞはるかなる

の、「千々」のことばが、その書簡中の「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句の「千々」に関係するのではないかとして、またまた、新しい展開にも入ったような趣なのである。これらのことに関して、その安永五年六月九日付の暁臺宛書簡(新出資料)が、次のアドレスで紹介されており、その書簡(釈文)を付記しておきたい。

http://ship.nime.ac.jp/~saga/images/letter2.html


 今日菟道辺之風景     
 見え候てのもの之通 貴叟 
 先頃より御在京のよし    
 扨も社中の小児輩一向    
 御上京のさた不仕遺恨    
 之事ニ候 それ故御旅宿   
 御見舞も不申 御ふさた   
 不本意之段 御宥恕     
 可被下候 いまた御滞留ニ候や 
 うけ給りたく候 百池も    
 いつのまにやら一向面会    
 いたさす候 第一百池より   
 御上京のさた早速可致     
 筈之所 等閑之至       
 届さる事ニ御座候 愚老    
 むすめ事なとにて 俗事    
  多く 散分京ニのみ         
 くらし罷在候 ホ句なとも   
 (一向)いつくへやら取失ひ候  
 老耄御憐ミ可被下候 余辺   
 御ゆかしく候まゝ如此ニ御座候  
 いまた御在京ニ候ハゝ得    
 貴意物ニ御さ候 宿之者も   
 くれ~~御伝声申上候 頓首  
   六月九日
  夏の月千々の波
  ゆく浅瀬かな
  愁つゝ丘にのほれは
  花いはら
 よろしからぬ句なれと
 希運付候
 暮雨主盟      蕪村



(五十三)

ここで、『蕪村の手紙』(村松友次著)の『いそのはな』関連について見ていくことにする。

○『いそのはな』は、東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文、古晋我(註・北寿老仙)の発句五句、百里立句の百里・晋我(古晋我)両吟歌仙一巻のあとに、
  反古のはしにかく有にまかせて
 水無月の松風売や淡路島      専吟
  麻の頭巾ハ蚊にも笠にも     晋我
 喜雨亭へかねて蛙の内意して    琴風
  あふなきゆふへ弓張にけり    百里
と四吟らしきものの四句目までを出す。次が「北寿老仙をいたむ」である。そして詩の末尾に、
 「庫のうちより見出(みいで)つるまゝ右にしるし侍る」と記している。
ついで結城を中心にしたこの地方の現存俳人約四十名各一句。つぎに、古晋我の句を立句に脇起俳諧一巻、連中は、今晋我(註・桃彦)、雞口(谷口氏)、九皐、泰里(橋本氏)、篷雨の五名。つぎに「東都の好士の句をひろひて冊子の錺となす」として三六人、各一句、跋に相当する文と句を蘿道が書いている。
 百里の没年は享保十二年(一七二六 六二歳)。次の四吟の四句目までのもののうち、琴風の没年は享保十一年(一七二六 六十歳)。したがって、この両吟、および四吟の成った年時は享保十二年、十一年をさらにさかのぼることになる。およその見当で言えば、晋我、五十歳ぐらいの時で、江戸その他から有名な俳人を迎えての歌仙の作であり、大事に保存されたため、七十年ほど後にまで残ったのだろう。その他は「北寿老仙をいたむ」の蕪村を除けば結城地方および江戸の、現存者ばかりである。
 なぜ、晋我没後の結城や下館や宇都宮の俳人たちの弔句をのせなかったのか。五十年前の蕪村のこの俳体詩が残ったのなら、これらの人たちの弔句が残ってもよさそうなのである。
 晋我没後の延享二年正月二十八日は、陽暦に換算して二月二十八日であり、この時期、結城地方は「蒲公英は黄に薺はしろう咲きたる」の気候ではない。
 巴人没後、蕪村は結城に移住するが、それ以前に、
   つくばの山本に春を待
  行年や芥流るゝさくら川    宰鳥
の句が『夜半亭辛酉歳旦帖』にあり、元文五年の暮に「筑波の山本」に行っていることが分かる。この時期に蕪村は晋我に、当然面識をもったであろう。
 この『辛酉歳旦帖』には「結城歳旦」とした筆頭に、
   松かさり落葉もなくて尉と姥  素順
の句が出ている。晋我(素順)が結城俳壇の長老であったことが分かる。
 しかし、それからわずか三年後に蕪村が編集した『寛保四甲子歳旦歳暮吟』(宇都宮歳旦帖)中には晋我の子「もゝ彦」「田洪」の句は各一句あるが、晋我の句はない。この年(寛保四年、延享元年)の七月三日に没した潭北は句を出しているところを見ると、潭北は没前まで元気であり、晋我は寛保元年以後のある時期に発病し、二、三年病臥したのち潭北よりも半年おくれて世を去ったと見られる。すなわち、巴人没後蕪村が結城を中心に活躍する頃、七十二、三歳の晋我はすでに病床にあり、歳旦句すらも作れない状態であり、蕪村と共に「岡のべ」を逍遙する元気はなかったと思われる。
 蕪村が晋我の子の桃彦(蕪村より一歳年下)と親しかったことは桃彦宛(と見られる)書簡(註・先に紹介した)にうかがわれる。桃彦はその家業(酒造業)の関係で京阪地方に来ることもあったが、右の桃彦宛書簡によれば、伏見に桃彦の縁者かなにかがあるように思われる。
 かれこれ勘案して、私は、この詩が晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれ、桃彦に届けられたものかという推定を出したい。

(五十四)

 尾形仂著『蕪村の世界』も晋我三十三回忌にあたる安永六年前後に書かれたものとする。以下、その考え方を提示しておきたい(長くなるので、その一、その二、その三に分節する)。

(その一)
○この作品は、「君あしたに去ぬ」と歌い起こし、晋我の亡くなった夕べの思いをイメージも鮮やかに切々とつづり、かつ「釈蕪村百拝書」と署名するところから、従来多く、無条件に延享二年、蕪村三十歳当時の作とされてきた。
 この作品が、その夕べの心情に立って詠まれていることは確かである。だが、「君」という呼びかけや「友ありき」という言いかたは、七十五歳の晋我と三十歳の蕪村、結城俳壇の長老と立机(りっき)したばかり(蕪村が宇都宮で初めて自撰の歳旦帖を刊行したのは、二十九歳の春のことである)の駆け出しの俳諧師との間柄として、はたしてふさわしいかどうか。それに、「岡のべ」「蒲公の黄に薺のしろう咲たる」と、「春風馬堤曲」に見える「堤」「たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に/三々は白し」のイメージの符合、さらに「すごすごと彳(たたず)める」と、安永六年春「水にちりて花なくなりぬ岸の梅」(「澱河歌」の発想の中から生まれた句であることはすでに記した)の句を報じた霞夫宛書簡に見える「すごすごと江頭に立るたゝずまゐ」、同じく何来宛書簡に見える「すごすごとさびしき有さま」といった措辞の類似は、けっして偶然に出たものとはいえないであろう。
 何りも、「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」(宇都宮歳旦帖)、「鶏(とり)は羽にはつねをうつの宮柱」(同上)、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(『反古衾』、「釈蕪村」と署名)といった江戸座的な知巧的発想に身をゆだねていた関東遊歴時代の蕪村は、この「北寿老仙をいたむ」のみずみずしく清新な抒情の表現が可能であったとは思われない。この時期の作で後年の蕪村の作風につながるものとされる「柳ちり清水かれ石ところどころ」(『反古衾』)、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」(宇都宮歳旦帖)などの句にしても、前者は蘇東坡の「水落石出」(『古文真宝後集』巻一「後赤壁賦」)の句によって風雅の名所(などころ)「清水流るる」遊行柳(ゆぎょうやなぎ)の冬の荒寥たる相貌を露呈してみせたところにミソがあり、後者は芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」を裏返して宗匠立机の春を謳歌したものにほかならなかった。
 のみならず、楽府の詩形式を自家薬籠中のものとして哀悼の抒情の展開に縦横に活用したその自在の詩形式、詩中の雉子の「友ありき河をへだてゝ住にき」のリフレーンにくくられた回想の語りに託して、人間の理解を超えた、のがれがたい運命に対する自己の驚愕と悲嘆の思いを吐露するという手法は、「妓ニ代ハリテ」「女ニ代ハリテ意ヲ述ブ」という設定のもとに、妓女や藪入り娘のセリフに託して自己の「実情」を「うめき出た」二つの作品を前提としなければ、とうてい成立し得なかったろう。

(五十五)

(その二)

○一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。
 だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。

(五十六)

(その三)

○「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
 もし、これを安永六年の作とすることが肯定されてよいとすれば、14・15にくり返された「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に何ぞはるかなる」の詩句は、次のような意味を重ね合わせて、読み直すことも可能だろう。
・・・あなたは、私の青春の朝(あした)に世を去った。その時のことを思い返せば、今、人生の夕暮れにさしかかった私は千々に乱れ、何とマァ茫漠と暗い思いに誘い込まれることか・・・と(註・「はるかなる」は「杳か」で曇って暗いの意に解している)。そこにまた、やるせない青春への慕情が脈々と波打っている。
 そしてまた、傷心の中で暗闇に仰ぐ弥陀の尊象を「ことにたう(ふ)とき」と言って結んだ最終節は、たとえば「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」(小摺物「夜半亭小集」)の句に典型的に示されているような、太祇・召波・鶴英・雁宕らの盟友が次々と世を去ってゆく無常の相を凝視する中で、しどけなく老懶(ろうらん)の境地に居直った晩年の蕪村の、隠された心の奥を覗かせたもの、と読むことができるかも知れない。・・・何事も弥陀のはからいに任せきった・・・。

(五十七)

 これらの、村松友次・尾形仂両先達の論稿の検討に入る前に、また、別の観点からのものを紹介しておきたい。その一つは、詩人・三好達治に親炙した「秋」主宰の俳人・石原八束氏の「北寿老仙考」(『蕪村全集』第六巻月報所収)である。この論稿は氏の遺稿ともいうべきもので、編集部の次の記述が付せられている。
○筆者石原氏は本稿執筆後に病臥され、校正刷りを検討していただくことができませんでした。『いそのはな』の鶏口序文に、晋我は「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ」とあることに、お考えがある筈ですが本稿に表れていません。執筆前のお話からは、雁宕家廃絶の際に早見家に移った蕪村稿を、桃彦が後に「庫(くら)のうちり見出(みいで)つるまゝ」晋我あてと判断した(それがそのまま序文に出た)、と推測しておられたようです。しかし、そのことを確認できないまま、原文の通り掲載しました。また論旨に影響しませんが、追善集刊行時の桃彦の年齢に関する部分は、同じく序文に「後の晋我と跡を継(つぎ)て、ことし八十一齢となり」とある箇所を見落とされたかと思われます。

(その一)

○蕪村の詩篇「北寿老仙をいたむ」について、八年ほど前の一九八九年一月号「新潮」に同題の論考をすでに発表している。天才型でない蕪村の画も俳諧も、年をとるにしたがって成熟大成していることを検証しながら、その俳句創作の発想と技能の酷似から、この詩篇は蕪村の親友砂岡雁宕の死亡(安永二年七月三十日)の訃報が京都に届いた(これを私は安永二年の晩秋頃と初め考えたが、今は安永三年初春の頃と考えている)ときから数ヶ月をかけ、雁宕追悼詩としてこれを作ったのではないか、というのが拙文の要旨であった。

(五十八)

(その二)

○詩篇と酷似している句として「愁ひつゝ岡にのぼれば花いばら」「花茨故郷の路に似たるかな」「遅き日のつもりて遠きむかし哉」「なの花や月は東に日は西に」とか「雉子啼や坂を下りの駅舎(たびやどり)」など、いずれも安永三年(蕪村五十九歳)の作と思われる句を例証に引いた論証であったことは断るまでもない。
 この詩篇が雁宕追悼の詩であるとすると、当然ながら北寿老仙は雁宕ということになる。多くの先覚が当然のこととしてきた「北寿は晋我」説に異をとなえる不遜な考え方を持ったのではもとよりない。が、詩句発想の推移と成熟を六十年も内省し続けてきた専門俳人の、これは私の勘であるとしか言いようがないのである。もう一つ付け加えると、晋我没後の嗣子桃彦によって編まれた「いそのはな」にこの「北寿老仙をいたむ」を「庫のうちより見出つるままに右にしるし侍る」と付記されている言葉にも、専門俳人の私は早くから疑念をいだいてきたのである。                         
 雁宕は蕪村にとって早野巴人門の先輩であり、結城時代の恩人であり、更に巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然ではないかしら。多少先輩てもあり友人であっても立派な仕事を残して死亡したときには、初めてその友人を先生という敬称で呼ぶ伝統は今の文人の世界でもたしかに残っている。

(五十九)

(その三)

○ただ、その後蕪村研究に深入りした訳でもない寡聞の私には、例えば古稀を越えた晋我が北寿を自称している書簡が発見されたとか、北寿で入集している句集が出てきたとかいうことは聞こえていない。晋我の妻女は雁宕の父我尚の妹であったことは右の「新潮」に発表した拙文でも言った。砂岡家の本家の伊佐岡家も早見家も更に下館の中村風篁・大済家なども一所不在の蕪村が逗留して世話になった家は大方結城十人衆の名家である。結城十人衆というのは慶長六年(一六〇一)結城家が福井に六十七万石で国替えになったときに、結城家の墓守を名目に譜代の家臣が豪族としてこの地に残されたのである。殊に伊佐岡家はその筆頭の名家であったことは名刹弘経寺の一等地にある伊佐岡一門の墓を見ればよく解る。雁宕の祖父宗春のときに伊佐岡家から一字格落ちして砂岡家となり、雁宕まで三代は三右衛門と通称した。雁宕の息子は病弱で雁宕に前後して早世・・・妻子はない。その墓は高誉雁宕堅樹居士と並んで堅誉好樹覚定居士として更に二名を加えた一族四名が同一墓石に刻され、四代で廃絶となった砂岡家の墓は本家伊佐岡家の墓所に入れられている。

(六十)

(その四)

○つまり、砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
 因みに右の本家の伊佐岡家の昭和の当主荘基さんは小誌「秋」の同人で、私どもと一緒に運座(句会)をしてきた仲間であった。もう二十余年も前のこと、一日、尾形仂教授を私とこの荘基さんで結城に東道し、弘経寺の伊佐岡家の墓所にある雁宕の墓とか、蕪村のこの期の襖絵などを見学してもらったことのあったのを思い出す。その荘基さんもすでに道山に帰られて久しい。またいま(平成九年十月)水戸の県立博物館で開かれている大規模の蕪村展を初めに企画され、日頃親しくして下さっていた私どもにまでその相談をもちかけて下さった館長の衛藤駿慶大名誉教授が展覧会実施の直前、八月に急逝されてしまわれたのは痛恨の思いである。そうして盛大にひらかれたこの蕪村展の会場を私は度々徘徊しながら、安永三年作の蕪村句と「北寿老仙をいたむ」詩の酷似に執着し続けているのである。

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