日曜日, 6月 11, 2006

若き日の蕪村(その六)



(七十一)

(Q)―4
一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
(A)―4
この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されていると解すると、その「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章・連)のように解せられるのである(大正十四年に刊行された潁原退蔵著『蕪村全集』では、「雑題」の部に「晋我追悼曲 延享二年」として、行間をあけて次の八句(首・章・連)で表記されており、その表記が鑑賞をする上では理解しやすいと解する)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる・・・・(自他半)

二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき・・・(自)

三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき・・・(場)

四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき・・・(場)

五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき・・・(場)

六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ・・・(他)

七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる(自他半)

八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき・・・(自) 

 そして、この「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章)の鑑賞に当たっては、まず、一句を鑑賞し、続いて、一・二句、さらに、二・三句(一句の転じ)鑑賞と、いわゆる、「三句の見渡し、前句・付句の付合の鑑賞」という進め方になろう。この観点から鑑賞していくと、何らの違和感もなく、いわゆる、寺田寅彦氏の「連句モンタージュ説」のように(動画を鑑賞するように)、「三コマを視野に入れて、一コマ又は二コマずつ」を鑑賞するのが基本なのであろう。そして、立花北枝の『附方自他伝』の「人情自・人情他・人情自他・人情なし(場)」(一句の視点の人物が自分か・他人か・自分と他人が半々か、それとも景色の句なのか)という視点からの鑑賞も必要となってこよう(参考までにその視点について上記のとおり括弧書きをした)。その上で、連句全体を見渡して、連続・非連続を見極めながら、全体を味わうということになろう。その結果が、丁度、「この作品が、『君あしたに去』った衝撃の中に身を置いている『ゆふべ』の時間、それにつづく『岡のべ』の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっている」という感慨を抱くということであって、この一連の作品を、あたかも、現代の「自由詩」の鑑賞のように、その十八行を、一つの連続したものとして鑑賞すると、これはどうにも手が追えないということになってしまうであろう(この十八行から、いわゆる俳諧形式の十八句から成る「半歌仙」形式も考えられるが、ここは、『百韻』形式の『初折・表』」の八句(首・章・連)」と解したい)。
(付記)『西脇順三郎詩集』所収の「旅人かへらず」について、那珂太郎氏の解説に「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせの妙は、俳諧連句の附合にも通ふ趣」があるという指摘をしている。その一から一六八の短章のうち、その二章から五章を抜粋して見ると以下のとおりとなる。そして、那珂氏の指摘するように、これらの「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせ」という視点での鑑賞が「北寿老仙をいたむ」の鑑賞にも必須のように思われるのである。

旅人かへらず(西脇順三郎)

二   窓に
    うす明りのつく
    人の世の淋しき

三   自然の世の淋しき
    睡眠の淋しき

四   かたい庭

五   やぶがらし


(七十二)

(Q)―5
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。
(A)―5
先の年譜により、時系列的に「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」・「安永年間成立説」を見ていけば次のとおりとなる。

☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成ったか(延享二年説)。△七月三日  常磐潭北没(享年六十八歳)。□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
[寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳 六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。□ 宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。]
☆宝暦七年(一七五四)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
[☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳 ○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、これに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。]
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
[安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳 △十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳 七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳 ○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳 ○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。]

 安東次男稿「『北寿老仙をいたむ』のわかりにくさ」(日本詩人選『与謝蕪村』)の中で、「要するに、拠るべき資料が何一つ他に発見されていない現在、この詩は延享二年から安永六年ごろまでの間に書かれたという以外には、確たる証明のしようがないのである」という指摘をしている。そういうことを前提として、上記の三説を見ていくと、その一の「延享二年説」(延享年間説)が、いわゆる通説で、その三の「安永六年説」(安永年間説)が近時「延享二年説」を上回る傾向を示している有力説ということになる。そして、その二の「宝暦七年説」(宝暦年間説)は未だ図書・雑誌の類では目にすることができないほどの少数説ということになる。しかし、この「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」という署名とその「釈蕪村」と署名された他の蕪村の「句文集」をつぶさに見ていくと、これまでに見てきたとおりに、「延享二年説」の疑問(「この異色の俳詩を誕生させるような環境にあったのかどうか」という疑問)も「安永六年説」の疑問(「この異色の俳詩を他の類似の俳詩のもとに同列して鑑賞する」ことへの疑問)をも半ば折衷するような形での第三の「宝暦七年説」というのも、今後、さらに検討されて、少なくとも、「安永六年説」と同じ程度の根拠を有するもと解したいのである。

(七十三)
 
(Q)―6
「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
(A)―6
上記の「『あした』『ゆふべ』の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む」ということについては、この俳詩の発句ともいうべき冒頭の「あした」・「ゆふべ」・「はるかなる」(この「はるか」は「遙か」と「杳か」の両意義に解したい)であり、ここには、萩原朔太郎をして、「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在してゐるのである」(『郷愁の詩人 与謝蕪村』所収「凧きのふの空の有りどころ」の鑑賞視点)といわしめた「蕪村俳句のモチーブを表出した哲学的標句」(萩原・前掲書)と理解すべきであり、単なる「漢詩表現の常套」的なものではなかろう。
次に「『釈蕪村』の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で『門人 宰鳥校』と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう」ということについては、明和七年に夜半亭二世を継承して、画俳二道を極めた、安永年間の蕪村が、よりによって、還俗前の苦難の絶頂の頃の修行僧時代の「釈蕪村」の「姓・号」を「釈蕪村百拝書」と認めることは到底考えも及ばないところであろう(管見では安永年間に「釈蕪村」という署名は見あたらない。なお、『安永六年春興帖』では、「宰鳥」以前の「宰町」を号したものもあり、いわゆる「春興帖」の一趣向の「門人 宰鳥校」と同一視することは危険であろう)。
続く「その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい」ということについては、いかに、晩成の蕪村であっても、「青・壮年」時代の「想像力」と六十歳を越えた「老年」時代の「想像力」では、関心の置き所を自ずから異なにするものであり、もし、「その情感の直截性」ということが察知できるとすれば、それは、より「青・壮年」時代のものと理解すべきものなのであろう。


(七十四)

(Q)―7
砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
(A)―7
このことについては、『いそのはな』の東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ、行年七十五の春を夢となしぬ」からして、(早見)晋我即北寿(老仙)ということになろう。さらに、「巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然」ということについては、雁宕と蕪村との関係はそのとおりとして、晋我と蕪村との関係も、宋阿在世中からのもので、宋阿が江戸に再帰した元文二年(蕪村二十二歳)頃から親交があったと思われ、それからするとやはり七・八年の年数とその晋我の嗣子桃彦始めその弟の田洪などとは昵懇の間柄であり、雁宕とは違った家族ぐるみの交遊関係があったことは、蕪村と桃彦との書簡で明らかなところであろう(宝暦元年十一月□二日付けの桃彦宛ての書簡については先に触れた)。さらに、元文四年の宋阿が撰集した其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(その下巻の版下は蕪村の前号の宰鳥といわれている)に、素順(晋我の別号)の興行した歌仙「空へ吹(く)の巻」も収載されており、蕪村が「北寿老仙をいたむ」の追悼詩を手向けることは、これは自然なものと理解ができよう。蕪村の晩年の安永六年の回想録『新花摘』にも晋我は登場し、とにもかくにも、晋我は、蕪村にとって生涯にわたって忘れ得ざる一人であったということはここでも記しておきたい。
しかし、この「北寿老仙をいたむ」が何時の時点で作成されたのかということを考慮するときに、単に、北寿老仙こと晋我に関することだけではなく、其角門で晋我と兄弟弟子の一人でもあった蕪村の師の宋阿やその宋阿門で晋我の縁者でもあり蕪村にとっては切っても切れない関係にあった結城の俳人・雁宕との関係などを探るということは必須のことであろう。そして、先に触れたところの「宝暦年間成立説」においては、雁宕等編の『反古衾』、巴人の十三回忌にあたり編纂した雁宕ら編の『夜半亭発句帖』、そして、雁宕の菩提寺の弘経寺にその句碑がある「木の葉経(このはぎょう)」句文など、すべからく、その署名の「釈蕪村」とともにその根拠になっていることは、ここで重ねて記しておきたい。


(七十五)

(Q)―8
安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つねまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(A)―8
これらのことについては、いろいろな形で先に触れてきたところである。ただ一つ、「作品の付記『庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る』を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか」ということについては、やはり一応の考え方を記しておきたい。
 桃彦(今晋我)が編纂した『いそのはな』の前書きは、編纂者が付したものと作者が付したものと二通りが読み取れる。そして、問題の「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は前書きではなく、末尾に付せられている「奥書」の体裁で、この「奥書」を編纂者・桃彦がしたのか作者・蕪村がしたのかは定かではない。何の疑いもなく編纂者・桃彦が「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝに右しるし侍(はべ)る」と理解をしていたが、これを蕪村が記したものと解すると、蕪村には、この種の「手控え」」(文書)などがあって、それが出てきたので、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」ということになる。このように解すると、「安永年間作成説」又は「宝暦年間作成説」のどちらかということになろう。そして、この「北寿老仙をいたむ」が、他の俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」と類似志向が見られるということについては、それらは、これらの「手控え」」(文書)を参考として、成立したものとも考えられ、時系列的に、『いそのはな』へ寄稿した「北寿老仙をいたむ」の原文は、「宝暦年間作成説」の「宝暦年間」に作成されたものという理解も成り立つであろう。丁度、芭蕉の不朽の名作『おくの細道』が、芭蕉が常々携行していたいわゆる「小文」の集大成で形を為してきたと同じような経過をたどり、いわゆる、蕪村の異色の傑作俳詩「春風馬堤曲」・「澱河歌」は成立していくという理解である。ともあれ、ここでは、この「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は編纂者・桃彦が付したものと理解をしておきたい。

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