土曜日, 7月 22, 2006

若き日の蕪村(七)



(七十六)

ここで、蕪村の絵画の方面について触れてみたい。そもそも、与謝蕪村の出発点は、俳諧師を目指したものなのか、それとも、絵画師を目指したものなのかどうか、これもまた謎である。明治に入って、正岡子規の、いわゆる、俳人・蕪村の再発見以前は、どちらかというと、画人・蕪村という趣であった。すなわち、蕪村は大雅とともに日本の文人画(南画)の大成者として日本画壇の一方の雄として燦然と輝く存在であった。次のアドレスの「日本美術史ノート 江戸中期の絵画 南画 大雅と蕪村」に、その生涯の年譜が紹介されているが、その書画を中心として抜粋すると下記のとおりとなる。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

(書画)

元文二(一七三七)京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席。
寛保二(一七四二)恩師宋阿に死別、同門下総結城の雁宕 (がんとう) に身を寄せる。約十年奥羽などを旅の生活。この頃、結城、下館等に画。
延享一(一七四四)宇都宮で処女句集『歳旦帖』、初めて蕪村の号。  
宝暦一(一七五一)宋阿門流の多い京に上る。俳諧より画業に専心。
(1754-57)丹後宮津(与謝郡、母の墓)に滞在。絵による生活も安定。結婚、一女をもうける。四明,朝滄の号で多彩な様式を試みる。 彭城百川に学ぶ。 狩野派・大和絵系、中国絵画や版本類を研究し自己の画風を形成。
宝暦九(一七五九)沈南蘋を学ぶ。 趙居の落款。
宝暦十(一七六〇)この頃、名を長庚、字を春星、また与謝氏を称する。
(1763-66)山水画の屏風を講組織のために盛んに描く。
(1766-68)二度讃岐滞在。俳諧にも次第に熱意。丸亀妙法寺《蘇鉄図》。
明和七(一七七〇)夜半亭二世、宗匠に。  
(1771)春、歳旦帖『明和辛卯春』を出す。〈離俗論〉。詩(漢詩)・画・俳一致、俳諧の理想境に至る方法。《十便十宜図》池大雅合作。〈十宜図〉。
(1772)安永年間、画の大成期。   
(1776)洛東金福寺に芭蕉庵を再興。この頃〈俳諧物の草画〉俳画の完成。
(1778)以降晩年 謝寅 (しやいん) 落款。芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
(1779)芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
天明三(一七八三)暁台主催の芭蕉百回忌、取越追善俳諧興行。九月宇治田原にきのこ狩に行ったのち病に倒れる。十二月二十五日没、金福寺に葬られる。  

(七十七)

 この年譜の「元文二(一七三七) 京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席」ということは、現に、柿衛文庫に所蔵されている「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)の画賛「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」(この俳仙群会の図は、元文の昔、私が若い時描いたもので、それからもう四十年あまりもたってしまった。だからその下手な筆づかいは今さら恥ずかしい。どうしても焼けなくなってしまわなかったのだろうか)なども念頭にあってのことだろう。この「俳仙群会図」について、山下一海氏は、「古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人を選びその像を描いて朝滄と書名し、その上段に任口以外の十三人の代表句を一句ずつ記している。四十余年後の蕪村が、拙いものだから残っていない方がよかったといっているように、蕪村独自の表現とはなり得ていないにしても、簡素ながら丁寧な描出ぶりは、この時期の蕪村の画投への打ち込み方を十分に窺わせるものである」(『戯遊の俳人 与謝蕪村』)と記している。しかし、この初期の蕪村の傑作作品とされている「俳仙群会図」については、尾形仂氏らによって、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)と、元文時代(二十二歳~二十五歳の頃)のものではなく、宝暦元年(三十六歳)の京再帰後の、丹後時代(三十九歳~四十二歳の頃)の作とされ、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の制作時期を巡っての論争と同じように、その制作時期については、「元文年間説」と「宝暦年間説」とが対立している。この作品を所蔵している「柿守文庫」は、下記の「参考」のとおり、「元文年間説」の記述なのであるか、やはり、その署名の「朝滄」、そして、「丹青不知老到」(白文方印)からして、ここは、尾形仂氏らの「宝暦年間説」(丹後時代)によるものと解したい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

(参考)

 蕪村(ぶそん・一七一六~一七八三)は文人画家として独自の画境を開きました。また、俳諧では「離俗」を理念に、高い教養と洗練された美意識をもって、写実的で浪慢的な俳諧を展開し、芭蕉亡き後の俳壇を導きました。本点は下段に14人の俳仙、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿(巴人)の像を集め、中段に任口以外の13人の代表句を記しています。さらに上段には蕪村が後年になって求めに応じて書き加えた賛詞があり、それによると、「元文のむかし」、すなわち蕪村の21歳から24歳のころの作品で、本図が伝存する蕪村筆の絵画の中では最も初期のものであることがわかります。


(七十八)

この「俳仙群会図」については、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』で、その解説を目にすることができる。その紹介の前に、先の「柿衛文庫」の紹介記事中の、岡田利兵衛こと岡本柿衛に関するものを参考までに以下に掲載をしておきたい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/okada-rihei.html

(参考)

岡田柿衞は明治二五年(一八九二)八月二七日、江戸時代から続く伊丹の酒造家、岡田正造の長男として生まれました。幼名は真三、二六歳のとき利兵衞(リへえ)を襲名。京都帝国大学文学部国文科卒業。梅花女子専門学校、聖心女子大学、橘女子大学などで教鞭をとるとともに、伊丹町長・市長職を務めました。 郷土の俳人、鬼貫(おにつら)に端を発する俳諧資料の収集は、俳諧史全般へと拡大。学術研究上必要な資料の蓄積を、現在の(財)柿衞文庫に遺しました。『鬼貫全集』『俳画の美』ほか著書多数。中でも『芭蕉の筆蹟』は芭蕉筆蹟学の礎を築いた名著。柿衞は号で、歴代の当主が愛でた岡田家の名木「台柿(だいがき)」を衞(まも)るの意を込めたもの。この柿の実は、文政一二年一〇月、頼山陽が母とともに伊丹を訪れた際、「剣菱」醸造元の坂上桐陰の酒席で、デザートに供され、山陽はあまりのうまさに感激したという逸話が残っています。そのとき、山陽はもう一つと所望しましたが、「岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしい」と断られたといいます。柿衞が岡田家伝来品に加え、独自の俳諧資料収集を思い立ったのは昭和一二年、鬼貫の短冊との出合いがきっかけでした。その後終戦前後の一〇年間は積極的に資料を集め、当時の様子を「俳人遺墨入手控」や「俳諧真蹟入庫品番付」に記録しています。番付は相撲好きの柿衞が、前年度手に入れた俳諧関係の真筆資料を相撲の番付に模して作成したもので、たとえば昭和二三年度の東の横綱として「西鶴自画賛十ニケ月」、西の大関として「鬼貫筆にょっぽりと秋の空なる富士の山の一行物」をあげています。柿衞は多趣味で知られ、洋鳥の飼育、写真撮影、高山植物の育成などにも熱中。洋鳥においては、山階芳麿(やましなよしまろ)ら九人で「鳥の会」を結成したり、千坪近い庭に禽舎『胡錦園(こきんえん)」を設けて飼育するほどでした。昭和五七年(一九八二)六月五日、伊丹で没。八九歳でした。柿衞は没するまで、現在の柿衞文庫、伊丹市立美術館、工芸センターの敷地内で暮らし、その家の一部は平成四年一月、「旧岡田家住宅」(店舗・酒蔵)として国の指定文化財となり、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたため、解体修理されています。山陽の愛した台柿(二世)は、柿衞文庫館の庭園で毎秋、独特の実をたくさんつけています。

(七十九)

さて、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』での、「俳仙群会図」の解説は次のとおりである。

右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

元日や神代のこともおもハるゝ           (守武)
鳳凰も出よのとけきとりのこし           (長頭丸)
これハこれハ(註・送り記号)とはかり花のよしのやま(貞室)
手をついで歌申上る蛙かな             (宗鑑)
ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け        (梅翁)
古池や蛙飛こむ水の音               (芭蕉)
桂男懐にも入や閏の月               (八千代)
古暦ほしき人にはまひらせむ            (嵐雪)
いなつまやきのふハひかしけふは西         (其角)
はつれはつれ(註・送り記号)あハにも似さるすゝき哉(園女)
不二の山に小さくもなき月しかな          (鬼貫)
かれたかとおもふたにさてうめの花         (支考)
こよひしも黒きもの有けふの月           (宋阿)
  任口上人の句ハわすれたり
   平安 蕪邨書  謝長庚印 謝春星印

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画
中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 本点上段の句文は『蕪村翁文集』(忍雪・其成編 文化十三年刊)に登載している。原典と異なるところは、句文の前に三行の詞書を加え、本文句中に「何そ・則・斯」の三カ所を漢字に変えている。詞書は下段・中段をはずしたために説明が必要で添付したものであり、原典仮名を改めたのは筆写の手数をはぶくためで、どちらも原典を改変した作為の責めは負わねばならぬ。本点は蕪村最古の絵画として意義深いものであるからカラーで掲げた。

(八十)

この「俳仙群会図」は、この岡田利兵衛氏の解説にあるとおり、「下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作」と三時期に別々にかかれたものであるということと、もし、この下段の画が「元文」年間のものとすると、この岡田氏の指摘のとおり、「蕪村最古の絵画」として誠に意義深いものということになろう。ここで、この三時期の、署名と印章などを見てみると、上段は「天明壬寅春三月 六十七翁 蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印」、中段は「平安 蕪邨書 謝長庚印 謝春星印」、そして、下段の画は「朝滄写 丹青不知老到印」ということになる。この上段の天明期の「謝長庚印 溌墨生痕印」は、蕪村の最高傑作の一つとされている、国宝「十宣図」などで見られるもので、「六十七翁 蕪村書」も、天明三年の「恵比寿図」の「六十八翁蕪村写」とその例を見ることができる。中段の安永期の「謝長庚印 謝春星印」は、これまた、重要文化財の「峨嵋露頂図」などに見られるもので、その「平安 謝蕪邨」の「平安」は「洛東芭蕉菴再興記」、そして、「謝蕪邨」についても、『夜半楽』などにその例を見ることができる(この『夜半楽』の二つの署名の「謝蕪邨」と「宰鳥校」については先に触れた)。問題は、この下段の元文期の画の「朝滄写 丹青不知老到印」なのである。この元文期というのは、蕪村の前号の「宰町・宰鳥」期のものであって、そもそも比肩するものなく、わずかに、元文三年の版本挿絵図の「鎌倉誂物」自画賛(『卯月庭訓』所収)から推測する程度と極めて限られてしまうのである(この「鎌倉誂物」自画賛についても先に触れた)。さらに、この元文期に続く、巴人亡き後の、寛保・延享・寛延時代の、いわゆる、結城・下館・宇都宮を中心とする北関東出遊時代の「絵画・俳画・版本挿絵図・遺墨」類などにおいて、「朝滄写」との落款ものは見当たらず(「朝滄印」は目にすることができるが、落款は「四明」が多い)、また、この「丹青不知老到印」は、丹後時代の傑作作品の一つとされている六曲屏風一双「山水図」(寧楽美術館蔵)などに見られるもので、この丹後期以前の作品ではまずお目にかかれないものの一つであろう。そもそも、この「朝滄」という号は、英一蝶の号の「朝湖」に由来があるとされている(河東碧梧桐『画人蕪村』)。そして、この英一蝶は俳号を睦雲・和央といい、蕪村の俳諧の師である宋阿(早野巴人)と同じく其角門の俳諧師でもあった。
後に、画・俳二道を極めることとなる蕪村が、そのスタートにあたってこの英一蝶を目標に置いていたということは想像するに難くない。その英一蝶の影響を察知できるものとしては、これまた、丹後時代の傑作画である「祇園祭礼図(別名・田楽茶屋図屏風)」(落款「嚢道人蕪村」、印「朝滄(白文方印)」・「四名山人(朱文方印)」)などがあげられるであろう。画人・蕪村の絵画として今に残っている最初の頃の作は、巴人亡き後(寛保二年)の、北関東出遊時代の下館(中村風篁家)・結城(弘経寺)に所蔵されているものが、その「蕪村最古の絵画」ということになろう。それより以前に、この「俳仙群会図」が描かれたものとすると、蕪村の丹後時代以前の全半生というものは、ことごとくその歴史を塗り替える必要があろう。即ち、蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入ったとされる元文二年(蕪村・二十二歳)当時に、これだけの絵画作品を残していたということは、それ以前に、相当の絵画関連の知識・技能・経験を積んだものということが推測され、蕪村の未だに謎の部分とされている、蕪村の出生の年の享保元年(一七一六年)から江戸に出てきた元文二年(一七三七年)の謎の一角がほの見えてくるという感じでなくもないのである。ここで、
画・俳二道の画を中心として、その蕪村の謎の部分について触れてみたい。

(八十一)

 蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入門する元文二年(蕪村、二十二歳)以前のことについては、蕪村自身多くを語らず、逆に、それを隠し続けて、その生涯を終わったという印象を深くする。晩年、「春風馬堤曲」に関連しての蕪村書簡中(年次不明二月二十三日付け柳女・賀瑞宛て書簡)に、「馬堤は毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」とし、「余幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友だちと此(この)堤上にのぼりて遊び候」と記しており、摂津国東成郡毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれたということは、少なくとも、蕪村の意識下にはあったように推測される。この毛馬村説についても確たる確証があるわけではなく、その他に、摂津の天王寺村(大阪市天王寺地区)としたり、丹後の与謝(京都府与謝郡)とする説など実体は謎に隠されているというのがその真相である。何時生まれたかについても、これまた真相は藪の中で、明治十五年(一八八二年)に寺村百池の孫百僊が、蕪村百回忌・百池五十回忌を記念して金福寺境内に建立した碑文などにより、享保元年(一七一六)の生まれという推測がなされている。その碑文では天王寺説をとっており、この碑文の内容自体あやふやのところが多いのであるが、「本姓谷口氏は母方の姓」で「宝暦十年頃から与謝氏を名のる」というのが、その出生に関連するものである。さらに、この出生に関連するものとして、夜半亭二世与謝蕪村の後を継いで、夜半亭三世となる高井几董がその臨終を記録した「夜半翁終焉記」(草稿を含めて)が、蕪村出生の謎をさらに深い霧の中に追いやっている。それは、その草稿の段階においては、「難波津の辺りちかき村長の家に生ひ出て」と記し、さらに、その「村長」を「郷民」と改め、さらにそれを削って、「ただ浪花江ちかきあたりに生ひたち」として、それを定稿としているという事実である。これらのことから、「父は村長で、母はその正妻ではなく、使用人か妾ではなかったか」という説すらまかり通っているのだが、ことさらにこれらの謎をあばきたてて、それらを白日下のもとに明らかにするということは、行き過ぎのきらいもあるし、土台不可能なことという思いを深くする。そういう認識下に立っても、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話は、やはり当時の蕪村の一端を物語るものとして、やはり記録に止めておく必要があるように思われる。
 なお、大阪市(都島区)の「与謝蕪村と都島」のアドレスは次のとおりである。

http://www.city.osaka.jp/miyakojima/spot/yd_yosa/index.html


(八十二)

 蕪村が出生した享保元年というのは、八代将軍吉宗が、いわゆる「享保改革」といわれる大改革に乗り出したその年に当たる。当時の徳川幕府というのは経済的にどん底の状態にあり、倹約令を発し続け、さらに、追い打ちをかけるように、特に、農村からの収奪を強化することによって、その改革を進めようとした。それらの改革は時代の空気を陰鬱なものとし、あまつさえ、享保十七年(一七三二年)には、山陽・南海・西海・畿内の西国地方の各地では長雨と蝗の襲来により、減収四万石ともいわれている大凶作に見舞われていた。米価は高騰し、多数の餓死者が出て、各地で強訴や一揆が多発し、その翌年には、江戸をはじめ各地で打ち壊し運動が起こり、騒然とした風潮であった。そのような何もかも変革するような時代風潮の中にあって、田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』でいう「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」という逸話は、単に、蕪村の個人的な遊蕩三昧によって「家産を破敗」したというよりも、この経済環境の激変の高波をもろに引っ被ったその結果であるということが、その真相のように思われる。その「身を洒々落々の域に置いて」ということについては、高井几董の「夜半翁終焉記」に出てくる「此翁(註・蕪村)無下にいとけなきより画を好み」、はたまた、「弱冠の比(ころ)より俳諧に耽り」ということと裏返しのことなのかもしれない。しかし、単なる、「画を好み」・「俳諧に耽り」の結果で、二度と故郷に足を踏み入れることが出来なくなったほどの、世間体を憚る「父祖の家産を破敗」したいうことは、どう考えても不自然なところがある。このことを一歩進めて、蕪村が住んでいた全村が、あるいは、その近隣の全域が「破敗」し、蕪村は文字とおり二度と再び「返るべき故郷」を喪失してしまったという理解の方が、より自然のようにも思われてくるのである。もし、そのような推測が許されるならば、蕪村は、享保十七年の近畿一帯の大飢饉に関連して、当時のその地方の人達が辿ったと同じように、当時の飢饉者の多くかそうしたように、誰一人身よりのない江戸へと移り住んだ、その理由がはっきりしてくる。従来、蕪村が江戸に出てきたのは、享保二十年(一七三五年)頃とされていたが、蕪村の前号の「宰鳥・宰町」以前に「西鳥」と号していたのではないかということに関連して、享保十七年(一七三二年)頃に出てきたのではないかとの見方もなされてきており、あながち、享保十七年の大飢饉に関連して江戸に流入してきたということも、有力な一つの見方であるということは言えそうである。しかし、真相は依然として藪の中であることには変わりはない。なお、享保十七年の大飢饉関連のアドレスは次のとおりである。

(飢饉・享保の大飢饉)
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM

(人権関連の一揆など)
http://www.can-chan.com/jinken/jinken-rekishi.html

(八十三)

 蕪村伝記のスタンダードな『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)の田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』関連の記述は次のとおりである。

○蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六)に大阪で刊行され、文学者の逸話をいくつか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』には、「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」とある。これも確証はないが、信じたくなる記事である。正妻の子ではなかったにしても、男子であるからには、家督を相続したということもあったのだろう。いつ父が死んだのか、それはわからない。母も幼い頃に先立ったらしい。安永六年(一七七七)に行われた『新花摘』の夏行(げぎょう)を、母の五十回忌追善のものとする説によると、母が亡くなったのは蕪村十三歳のときである。蕪村が家督を継いで家産を蕩尽するまでは、そう長いことではなかっただろう。それは大都市近郊農村の悲劇であった。都市の商人に農地を買いあさられ、土地を手放すかわりに金が入ってくる。そこで農村型の経済生活から都市型のそれに切り替えていかなければならないところだが、農村はそういった情勢に順応できなかったのだろう。せっかく父から譲られた家屋敷も手放さなければならないことになったが、あるいはそこに、父に対する蕪村の反抗の気持ちが多少はあったのかもしれない。それが破産を回避する努力をにぶらせ、破滅の到来をいささか早める結果になったということも、あるいはあったことだろう。

 多かれ少なかれ、蕪村伝記の記述は上記のようなものであるが、上記の「都市近郊農村の悲劇」は当時の時代風潮であり、その時代風潮とあわせ、享保の時代特有の。改革の嵐と大飢饉という異常事態の発生ということは、やはり特記しておく必要があろう。また、上記の記述で、「母が亡くなっのは蕪村が十三歳のとき」ということに関連して、当時は十五歳で元服するのが通常であったろうから、蕪村の家督相続というのは、その元服以後と通常考えられるし、この十五歳から十七歳のときの享保の大飢饉にかけてが、蕪村にとっては大きな曲がり角であったということも特記しておく必要があろう。さらに、蕪村が母を失ったとされる享保十三年(一七二八)の一年前の享保十二年に、蕪村の俳諧の師となる早野巴人(宋阿)が江戸を去って大阪に赴き、さらに京都に上り、十年ほど居住するという、このこともやはり蕪村伝記の記述に当たっては必要不可欠のところのものであろう。

(八十四)

『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)では、蕪村が江戸に出てきたことについて、次のように記述している。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。当時の多くの人がそうであったように、そういう事情で故郷を離れたとき目ざすところは、京や大坂ではない。新しい土地江戸である。江戸開府以来百年以上たっているけれども、依然として江戸は京・大坂とは違った新興都市であり、また百年以上もたっているだけに、徳川将軍のお膝元としての権威は確立していた。江戸は当時の青年の気をそそるに足る唯一の都会であった。蕪村は江戸に出て何をしようという方策を、はじめにはっきりと立てていたわけではないだろう。江戸に出れば何とかなる。とにかく江戸に出た。享保末年、二十歳のころのことである。江戸に出ても、生活の方途は定まっていなかったが、俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない。蕪村没後十九年目の享和二年(一八〇二)に刊行された大江丸の『はいかい袋』によると、蕪村は江戸に出て、はじめ内田沾山(せんざん)に学び、ついで早野巴人の門弟になったという。巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている。

 上記の記述で、蕪村が故郷(大阪近郊の毛馬村)を離れ、当時の経済第一の都市・大阪や日本文化の中心都市・京都ではなく、それらの都市に比して新興都市の江戸を目指した指摘については説得力がある。と同時に、「俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない」ということについては、当時の江戸俳壇にその名を留めている、足立来川、内田沾山はたまた早野巴人らに入門するということは、それ相応のルートなり縁というものがあると思われるのだが、その手引きした人物が誰なのかは、これは全くの霧の中である。ただ、注目すべきことがらとして、巴人と親交があり、当時、巴人・百里と並んで享保俳壇の三羽烏の一人とされていた琴風(きんぷう:寛文七年・一六六七~享保十一年・一七二六。生玉氏)が蕪村と同郷の大阪摂津東成郡の人で、その接点というのも選択肢の一つとしてはあげられるであろう。また、当時の大阪・京都の上方俳壇に大きな影響力を及ぼしていた俳人は、松木淡々(たんたん:延宝二年・一六五四~宝暦十一年・一七六一。初号、因角、のち謂北。大阪の人。江戸に出て、初め不角門、のち其角門。巴人と同門。上京して、半時庵を営む。その後、大阪に帰り、上方俳壇に絶大な門戸を張る)で、この淡々門で、のちに、淡々の号・謂北を継ぐ麦天(ばくてん:元禄十六年・一七〇三~宝暦五年・一七五五。右江氏。別号・時々庵。江戸に出て二世青蛾門。享保頃秋田遊歴。元文二年・一七三七に謂北に改号)と蕪村とは親交があり、その麦天の師の淡々と蕪村との接点も注目すべきものがあろう(享保十二年・一七二七、巴人が江戸から京に移り住むのは、当時親交のあった百里・琴風が亡くなり、この其角門で親交の深かった淡々が大きく関与している)。また、巴人門の宋屋(そうおく:元禄元年・一六八八~明和三年・一七六六。望月氏。別号、百葉泉・富鈴房など。京都の人)も巴人門に入る前から蕪村との親交があったものかどうかなども検討に値する一つであろう。なお、上記の山下一海氏のものでは、「巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている」ということについても、「沾山・来川との関係、宰町以前の西鳥を号していたかどうか」などについては、肯定的に解して、その範囲を広めて置いた方が、謎の多い蕪村の解明にはより必要のようにも思われる。

(八十五)

寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、、ということは、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(八十六)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)に次のような興味の惹かれる箇所がある。

尾形 ええ。もう一つ京都との結びつきを考えさせられるのは、岡田先生の『俳画の美』という本がございますね、あの中に、京都から池田に下って明和二年に亡くなった桃田伊信という絵師がいて、蕪村が童幼のころ、この伊信について絵の手ほどきを受けたらしいことを、蕪村の三回忌に池田の門人田福が書いているということが紹介されていまして、そうすると、蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性がまた出てきたことになります。
森本 私もあれを読んで、そうなのか、と思ったんですけれども・・・。池田とはずいぶん関係があったようですね。
尾形 そうですね。後に月居や月渓を池田に紹介したりしているくらいですものね。そもそも田福が百池と親戚で、京都の本店と池田の出店との間を往き来していたところから縁ができたものでしょう。
森本 「池田から炭くれし春の寒さ哉」という句がありますし。その絵の先生というのは後年までずっと?
尾形 明和二年ごろ、つまり伊信の最晩年、蕪村が池田へ下ったとき再会して、昔を語り合ったというのですから、ずっとというわけではなかったのでしょう。ともかく、もと京都にいた伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けたのだとすれば、蕪村は何かの事情で郷里を離れ京都へ出て来て、あるいは学僕というような形で伊信なり、巴人なりに師事したという想像もできなくはありませんね。

 これらの対談の箇所は、「蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性」があるということに関連するものなのであるが、そのこととあわせ、「蕪村はもと京都にいた(桃田)伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けた」ことがあるという事実もまた、当時の蕪村を知る上では貴重な情報と思われるのである。先に、蕪村絵画の若描きの頃の落款の「朝滄」ということに関連して、その「朝滄」という号は、蕪村が目標とした画家の一人とも思われる英一蝶の号の一つの「朝湖」に由来するという河東碧梧桐氏のものなどについて触れた。この蕪村と同じく大阪出身の英一蝶は、蕪村が八歳のとき、享保八年(一七二七)に江戸で亡くなっているが、そもそもは狩野派(京都狩野派)の画家で、そして、蕪村が少年時代に絵の手ほどきを受けたという京都の画家・桃田伊信も、当時の画家の多くがそうであったように、いずれかの狩野派の影響下にあったことは想像に難くないし、その意味では、先に触れた蕪村最古の絵画とされる「俳仙群会図」に英一蝶的なものが察知されることと関連して、興味がそそられる点なのである。

(八十七)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)には、蕪村の初期絵画の落款の「四明・朝滄」について、次のような箇所がある。

尾形 それから関東に出てくる経緯についてもわかりませんですね。大正十年ごろ出た武藤山治さんの『蕪村画集』というのがございますね。あれに、関東時代から丹後時代にかけて使った四明・朝滄という画号について、四明は比叡山で、朝滄は琵琶湖を意味するという説明が付けられているんです。そうすると蕪村は京都から関東へ出て来たんじゃないか。まあ生まれたのは毛馬だとしても、京都で幼年時代を送って、そして関東へ出てきたんではないだろうか。つまり自分は、大阪生まれだけれども京都人であるという意識があって、そうした号をつけたのではないだろうかなどと推測してみたこともあったんですけれども。しかし、四明が天台、つまり比叡山であるということはよろしいんですけれども、朝滄が琵琶湖だということは、ちょつといろいろと探しても出てこないんですね。字引を引くと、朝滄は、波が集まるという意味だそうですから、なにも琵琶湖でなくて、淀川の下流でも十分意味が通ずるわけなんです。けれども、今度ははたして淀川の下流の毛馬堤から比叡山が見えるかどうか、という疑問になってきましてね。それから戦前に、正木瓜村というかたがいらしゃって、『蕪村と毛馬』という本を書いていらしゃいましたが、あの方にお目にかかりまして伺ってみたんですが、そうすると、自分の子どものころにはたしかに見えたというんです。今からではぜんぜん想像もできないんですけれども、毛馬の堤から朝夕に比叡山が眺められるなら四明と名のってもおかしくないわけで、それで蕪村の京都時代というのことを推測したのが、いっぺんに消えてしまったわけなんですけれども。

 蕪村の元文年間(一七三六~一七四一)、寛保(一七四一~)から寛延(一七四八~)にかけての落款は、「朝滄・子漢・浪華四明・四明・浪華長堤四明・浪華長堤四名山人」などである。このうち、四明が主号のようで、次いで、朝滄、この朝滄は落款とともに印章に用いられており、この印章は、関東出遊時代と後の丹後時代とは異なっていて、先に触れた「俳仙群会図」のものなどについては、関東出遊時代のものではなく、丹後時代のそれではないかということについては、先に触れた。それにあわせ、河東碧梧桐の『画人蕪村』では、この四明については、比叡山に由来があり、朝滄については、英一蝶の朝湖に由来があるということについても、先に触れた。そして、この「子漢」については、別に、「魚君」の号も用いているものもあり、屈原の「漁夫辞」の「滄浪ノ水清(す)マバ」などに由来があり「水に因んでのもの」(淀川に因んでのもの)と「子は午前零時、漢は天の川」(夜の連想に因るもの)との両意のものなどを目にすることができる(仁枝忠著『俳文学と漢文学』所収「蕪村雅号考」)。いずれにしろ、四明は比叡山の最高峰の四明山に由来がある「山」、そして、朝滄は、英一蝶の「朝湖」、あるいは、「琵琶湖」・「淀川」・「宇治川」(「木津川」・「桂川」と合流し「淀川」となる)などに由来がある「川」に関連があるものと解しておきたい(「子漢」についても、初期の落款については、滄浪などの水に由来があるものと解せられるが、後の「春星」などの号に鑑みて、「真夜中の銀漢(天の川)」いう理解に留めておきたい)。その上で、上述の尾形仂氏のものに接すると、その「四明」といい「朝滄」といい、これは朝な夕なに生まれ故郷で目にしていた山・川の「比叡山」であり「淀川」という思いを強くする。とすれば、「浪華四明」・「浪華長堤四明」・「浪華長堤四名山人」などの落款も、消そうとして消せない母郷への想いの一端を語っているもののように思われる。と同時に、全く抹殺したいようなことならば、これらの痕跡すら留めておかないであろうから、これは蕪村個人にとっての何らかの心の奥底に沈殿している「故郷は遠くにありて想うもの」という想いなのであろう。ここで、山下一海氏の次のような記述を再掲しておきたい。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。

(八十八)

その他、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で、注目すべきことなどについて記しておきたい。

尾形 内田沾山に師事したというのは、同時代の大江丸が言っていることですから、かなり尊重しなければいけませんけれども、巴人との関係のほうが濃厚ですし、その後も巴人の系統の人のところをずっと渡り歩いていますものね。巴人にはかなり長く師事していたんじゃないでしょうか。そうすると、巴人が京都にいた時代にすでに師事していたと考えることも想像としてはできなくないと・・・。
森本 蕪村は師の巴人について、『むかしを今』の序で、「いといと高き翁にてぞありける」というぐあいに、たいへん人格的に傾倒しておりますね。
尾形 そして父親のようにというんですから、かなり年齢の低い時代からついていたんじゃないかという感じがいたしますね。

 このところの、蕪村が内田沾山に師事したということについては、大江丸の『俳諧袋』に記述されていることに由来するのだが、この大江丸は、蕪村より七歳若い大阪の人で、三都随一の飛脚にして、俳諧にも親しみ、淡々とも親交があり、後に、蓼太門に入った。蕪村の後継者の几董との交友関係からして、この大江丸の記述はかなり信憑性の高いものなのであろう。この沾山は芭蕉・其角亡き後の江戸座の主流をなす、沾徳・沾州に連なる俳人で、巴人もまた沾徳・沾州と関係の深い俳人で、巴人が江戸に再帰する元文二年(一七三七)以前に、蕪村が江戸で沾山門に居て、巴人再帰後、巴人門に移ったということもあるのかもしれない。沾山は宝暦八年(一七五八)に没しており、その晩年には蕪村と親交のあった存義らが退座しており、蕪村のこの人への師事はいずれにしても短期間のものであったのであろう。

森本 蕪村は自ら嚢道人と称していますが、とにかく、何から何まで詩、画嚢に貯えて、それが将来花になったということなんでしょうね。しかし、私は彼の作品に接するたびに不思議に思うのですが、いったい彼はどこで、いつ、あのような幅広い教養を身につけたんでしょうね。たとえば、漢籍の素養、唐詩、宋詩についての知識、こういうものは江戸時代にどの程度普及しておったのですかね。最近、今田洋三氏が『江戸の本屋さん』という興味深い本を書かれましたが、当時、どのような本が、どのくらいの値段で、何部ぐらい出たのか、それを知らないと蕪村の教養の源泉も見当がつきませんね。
(中略)
尾形 先生というのは、儒学者に対する一般的な呼び方だそうですけれども、蕪村の場合、南郭先生と言っているのは、そうした一般的な意味でなくて、特殊、つまりかって南郭の講筵に列したか、あるいはすぐその近く、つまり南郭の講筵に列した人を知人に持っていたのではないかということが、かなり実証的に明らかにされてきました。(以下略)

 ここのところの「嚢道人」の理解について、この嚢を乞食僧などの「頭陀袋」の意ではなく、「詩」嚢、「画」嚢の、それらを貯えておく「袋」の意と解する考え方は素直に受容ができる。また、蕪村の、単に、「画・俳」の二道だけではなく、広く、儒学者の服部南郭らの当時の他の分野との交流関係についても、密度の濃いものであったということについては、やはり特記しておく必要があるのであろう。

(八十九)

 先に、蕪村最古の画作とされている「俳仙群会図」について触れた。その一番上段に書かれて画賛は次のとおりである。

※守武貞徳をはじめ、其角・嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて、此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この「俳仙群会図」について、『蕪村雑稿』(谷口謙著)で次のとおり紹介されている。

○天明壬寅は二年(一七八二年)で蕪村六十七歳の執筆。元文元年(一七三六年)~元文五年(一七四〇年)は蕪村二十歳から二十四歳。この蕪村の賛詞を信ずれば、現存する蕪村の画のなかで最古のものとなり、貴重な資料といえよう。岡田利兵衛氏は蕪村の加えた証詞をそのまま信用し、蕪村の若書きとして「全く後代の蕪村筆と異なり、漢画でもなければ土佐風でもない手法である。しかし子細に見ると着衣の皺法(しゅんぽう)、顔貌、眼ざしに後年の特色は、はやくも認めることができる。静のうちに活気ん゛ある表現である」(『俳人の書画美術五=蕪村』)と評している。これに対し「文学」誌五十九年十月号の座談会「蕪村…絵画と文学」で尾形仂氏は「朝滄」の落款、「丹青老ノ至ルヲ知ラズ」の印章が丹後時代だけに限って使われたものであることを重視し、丹後時代の作品ではないかと推定し、今迄は「俳仙群会図」を蕪村の画歴の最初としてきたが、置き換えた方がいいのではないかと提言している。これに答え佐々木丞平氏はこの画の衣の線を重視して、非常に決った線で、丹後時代になると例えば「三俳僧図」のように衣の線がかなり弛援してくる。つまり崩れを見せ、感覚的になっている。それでやはり「俳仙群会図」を丹後時代の作とするには、いささかためらいが残る、としている。

 この昭和五十九年(一九八四)の座談会の後、平成十年(一九九八)に刊行された『蕪村全集六…絵画・遺墨』(佐々木丞平他編)においては、この「俳仙群会図」は「丹後滞在」時代の中に収録され、その佐々木丞平氏の「解説(蕪村画業の展開)」では「蕪村画業の最初のものとしては、「『俳諧卯月庭訓』(元文三年・一七三八)の中の一句に書き添えられた『鎌倉誂物』の自画賛で、版本の挿図であった」としている。やはり、この「俳仙群会図」は、その印章の「丹青不知老至」からすると「丹後時代」の作品と解すべきなのであろう。
もし、この作品を蕪村の天明二年(一七八二)の画賛のとおり元文年間のものとすると、この「俳仙群会図」の一人に描かれている、蕪村の師の宋阿(早野巴人)の像は在世中のものとなり、はなはだ興味がひかれるのところのものであるが、在世中の師の像を芭蕉らの他の俳仙と一緒にするという奇妙さ(同時に極めて俳諧的でもある)もあり、丹後時代の作品と解する方が、より妥当のようにも思われる。

(九十)

 蕪村の『新花摘』に次のような一節がある。
「むかし余、蕉翁・晋子・雪中を一幅の絹に画(えが)キて賛をもとめければ、淡々、  
もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり
 三俳仙の賛は古今淡々一人と云(いふ)べし。今しもつふさ日光の珠明といへるものゝ(の)家にお(を)さめもてり。」
 この「もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり」は、『延享廿歌仙』(延享二年刊)に収録されている松木淡々の門弟で蕪村と親交のあった謂北(麦天)の付句である。その句意は、「芭蕉・其角・嵐雪」の三俳人を古今伝授の三鳥「百千鳥・稲追鳥・呼子鳥」に擬したものということであろう。この句を当時の大物俳人の松木淡々が蕪村の画に賛をしたというのである。そして、この「三俳仙図」画は、下野の日光の隣の今市の富豪、斎藤珠明(三郎右衛門益信)の家に納めたというのである(現在、所在不明)。この賛をした淡々は宝暦十一年(一七六一)に八十八歳に没しており、この「三俳仙図」画が何時頃描かれものか定かではないが、蕪村はこの種の「俳仙図」画を多く手がけたということはいえそうである。こういう本格的な「俳仙図」画以外に、例えば、『其雪影』収録の「巴人像」などの版画・略画風のものは、いろいろな形(「俳仙帖・俳仙図・夜半翁俳僊帖など)で今に残されているが、この種のものは、河東碧梧桐氏によると殆ど偽作との鑑定をしている(潁原退蔵稿「蕪村三十六俳仙画)。これらのことに関して、潁原退蔵氏は、「碧氏の如き全面的抹殺説が出るのも、故なきではないわけである。しかし決して真蹟が絶無といふのではなかった。模写や偽作の背後には、その拠つた真蹟の存在が考へられもした。偽作が多く流布して居れば居る程、その間いくつかの真蹟がなほ存して居ることを思はしめるのである」(前掲書)としている。これらのことを背景として、先の「柿衛文庫」所蔵の「俳仙群会図」などは非常に貴重なものであると同時に、その制作時期の如何によっては、他の同種のものの作品に与える影響も決して少なくはないのである。そして、とりもなおさず、これらの「俳仙図」画が、蕪村の絵画の初期の頃に存するということは、蕪村の絵画のスタートが、これらの俳諧関係と大きく関係していたということも、十分に肯けるところのものであろう。

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