土曜日, 7月 01, 2006
夏目漱石の俳句
夏目漱石の俳句
〇月に行く漱石妻を忘れたり
明治三十年の作。夏目漱石は慶応三年の生まれで翌慶応四年が明治元年に改元されたから、数え年で三十一歳のときの作品である。熊本第五高等学校の教授時代の句である。この句には「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きがある。当時、奥様が流産をしていて、その見舞いに鎌倉に行き、その帰途のときの句である。この句はなかなか句意の取り難い句である。「月に行く」のは「漱石自身」なのか、そして、「妻を遺して独り肥後に下る」との前書きを付与して、「漱石妻を忘れたり」というのは、どういうことなのか。この句は、「名月や漱石妻を忘れたり」と「上五や切り」の名月の句であるならば、その情景は歴然としてくる。「余りにも名月なので、新婚早々の細君すらも忘れてしまう」というようなことなのであろう。事実、同時の作とも思われる、「名月や拙者も無事でこの通り」という「上五や切り」の名月の句もあるのである。漱石をして、子規は「奇想天外の句多し」というような評を後に下すのであるが、この句なども、その「奇想天外」の句の部類に入るのであろう。この時代は、漱石の『草枕』時代と解して差し支えないのであるが、この句の「月に行く」を、「流産したその子が月に行く」と深読みすると、俄然、この句は壮絶な、そして、「漱石妻を忘れたり」が、漱石一流の逆説的比喩として、詠み手に強烈な印象を与える句と理解できるのであるが、この句の作者の漱石は何一つ語っていない。とにかく、漱石らしい句で、不思議な句なのである。
〇 人に死し鶴に生れて冴え返る
明治三十年の作。『夏目漱石アルバム』(日本文学アルバム七)によると、「熊本の四年間を通じて六回ほど転居しているが、三十一年夏越して行った内坪井町の家は一番いい家で、屋敷は五六百坪もあり庭も広かった。寺田寅彦が書生においてくれと頼みに行ったのもこの家であり、鏡子が猛烈な悪阻に悩まされ、その狂気じみた言動のため漱石が不安と恐怖の幾夜かをおくったのもこの家であった。鏡子が井川淵に身を投げるというような事件があったのは、この家に越す直前のころと思われる。当時の生活と心境は『道草』に描かれていることが事実に近いと見られている」との記載がある。掲出の句は、丁度、その頃の作である。鏡子夫人は第一子を流産して、肉体的にも・精神的にも不安定な時代であったらしい。前回の「月に行く漱石妻を忘れたり」の句は、それらのことが原因で鎌倉に静養していた鏡子夫人を見舞って、その熊本への帰途中での句である。そして、掲出の句であるが、漱石は何も語ってはいないが、「人に死し鶴に生れて」という背景には、その流産した子への、漱石の想いともとれなくもない。それらの背景を抜きにしても、下五の「冴え返る」の句として、漱石の晩年に近い、明治四十三年当時の大患回復後の傑作句の、例えば、「肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」などの句に極めて近いものがあるように思えるのである。
〇 菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし
明治三十年の作。前回の「人に死し鶴に生れて冴え返る」と同じ年の作。この掲出の句は漱石の傑作句の一つとしてよく例に用いられる。この句をして、「無心と清潔を尊んだもっとも漱石らしい」句との評もある(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。その評はともかくして、実は、漱石自身、その著『草枕』(明治三十九年刊)で、この菫について記述している箇所がある。その記述を要約しながら紹介してみたい。
「日本の菫は眠っている感じである。『天来の奇想のように』、と形容した西人の句には到底あてはまるまい。(中略)(菫をはじめ自然は)、人に因って取り扱いをかえるような軽薄な態度は少しも見せない。岩崎や三井も眼中に置かぬものは、いくらでもいる。冷然として古今帝王の権威を風馬牛し得るものは自然のみであろう。」
この漱石の記述の引用の「岩崎・三井」は「三菱・三井の財閥」のこと。そして、「風馬牛」とは「風馬牛不相及(ふうばぎゅうあいおよばず)」(『左伝』)に由来があって「お互いに慕いあう牝牡の牛馬も到底会えぬほど遠く経ただっている」の意味とのことである。即ち「菫や自然は権威や権力などというのを全く眼中にしていない」ということなのでろう。そして、そういう自然の一例示として、漱石は「菫ほどな小さき人に生れたし」と、それを自分の生き方の指標にしたのであろう。しかし、皮肉にも漱石自身日本を代表する大文豪として一つの権威の象徴として祭り上げられ、そして千円札のモデルにすらされているのである。さぞかし、地下で眠っている漱石は苦笑して欠伸でもしていることであろう。
〇 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく
明治三十年作。「漱石・子規往復書簡集」(岩波文庫)によると、「人に死し鶴に生れて冴え返る」の句と同じ書簡での句。そして、この両句とも子規は二つの〇印をつけている。この掲出句の「拙を守る」ということは、漱石が終生持ち続けた生き方の基本という(半藤一利著『漱石俳句を愉しむ』)。出典は、「拙を守りて園田に帰る」(陶淵明)、「大巧は拙のごとし」(老子)にあるとか。「利を求めることなく愚直な生き方を良し」とするいうことなのであろう。前回の「菫ほどな小さき人に生れたし」と同意義のようなことなのであろう。この「木瓜」についても、漱石はその著『草枕』(十二章)で触れている。
「木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かって曲がった事がない。そんなら真直かというと、決して真直でもない。ただ真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度に衝突して、斜に構えつつ全体が出来上がっている。そこへ紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」
掲出の句は、明治三十年のもの、そして、『草枕』が世に公表されたのは、明治三十九年のときである。
〇 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)
〇 聞かふとも誰も待たぬに時鳥
『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編・岩波文庫)に触れて、今までの『漱石俳句集』(坪内稔典編・岩波文庫)での疑問や理解できなかったことの多くが、実に鮮やかに解明されることに、ひさしぶりに快感を覚えるような境地であった。この掲出句は、漱石の明治二十二年の作で、漱石の処女作とされている。漱石と子規とは慶応三年の生まれで、漱石が一月、そして、子規が九月生まれで、漱石が八ヶ月先輩ということになる。この二人の交友が始まったのが、明治二十二年に当時の「第一高等中学校」(のちの一高)での同級生としてであった。そして、子規は、この五月に突然喀血して、当時の不治の病であった結核(肺病)に冒されるのである。その子規が亡くなったのは、明治三十五年九月、享年三十五歳という若さである。そして、この「病牀六尺」の世界にあって、「俳句革新」・「短歌革新」という途方もない業績を残し、そして、厖大なそれらの業績に関わる研究・記録成果を残している。その一端の「子規分類俳句集」(十二巻)一つとっても、子規は、手に入る全てのの俳句関係の書に目を通して、それを見事に体系化しているのである。そのノート類は『子規全集』(講談社)などでの写真によれば、とにもかくにも天井に届くほどで、もはや神業という表現が一番似合うような思いである。前書きが長くなったが、漱石はその子規を見舞ってその帰宅後、手紙をしたため、その手紙の最後に、子規を励まそうと、この二句が添えられているのである。 掲出の一句目の「帰ろふ」とは「不如帰」(結核の別名で帰るに如かず)の言葉遊戯で、子規を励ましているのである。その二句目の「誰も待たぬ」は、その手紙の追伸のような形で、「漱石の兄も同じ病で閉口している」として、これまた、子規への励ましの句なのである。漱石は、子規を俳句の師として、書簡により、自作の全てを子規の指導に委ねることになるが、その多くは、真の同好・同胞の友・子規を「励ましたり・笑わしたり」する句が多いということを、その前提として理解しておく必要があるようである。追記 私の父も昭和十九年、三十九歳の若さで、祖母・母・子(七人)を残して、子規と同じ病で亡くなった。長兄の話によると、父の遺品に多くの子規の文献があったという。そして、父の母にあたる祖母は、それらの全てを他に伝染することを恐れて焼失したという。これらの長兄の話とあいまって、漱石以上に子規への思いは格別で、おそらく、子規のこれらの鑑賞は、この鑑賞広場の幕をおろすときであろうと・・・、そんな思いすら抱いている。
〇 安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり
坪内稔典編の『漱石俳句集』の明治三十二年作の末尾の句である。そこに「五月三十一日に長女筆(ふで)が誕生」との校注がある。この「筆」さんとは、漱石の長女の「筆子」さんのことで、『漱石俳句を愉しむ』の著者・半藤一利さんの奥様のご母堂さんとのこと。その半藤さんの著によると、「生まれたのがいま漱石記念館となっている熊本市坪井の家である。空襲にも焼けずにそのまま残っている。庭に井戸があり、『筆子産湯の井戸』の看板が立っている。それをみたわが女房どのはギョツとして、『まるでキリストみたいね』とささやいた」とある。さらに、「古往今切つて血の出ぬ海鼠かな」の句の紹介で、かの有名な『わが輩は猫である』(第九章)の「海鼠」の漱石の名文が紹介されている。要するに、夏目漱石は「海鼠」の愛好者なのである。ということで、掲出句の「安々と海鼠の如き子を生めり」とは、流産関連の悲惨な経験をしている漱石の、最大限の安堵感と満足感をこの十七音字に託したということなのであろう。 ここまでで、この句の鑑賞は十分なのであろうが、実は、この掲出句は、『漱石・子規往復書簡集』(和田茂樹編)には掲載されていないようなのである。この少し前の五月十九日の書簡はあって、漱石は、「『ほととぎす』に大兄(子規のこと)御持病とかくよろしからぬやに記載有之」との記載があって、それらのことが背景にあって、この掲出句の書簡指導をためらったのではないのか」と・・・、そんな漱石の姿も見え隠れしているように思えるのである。
〇 長けれど何の糸瓜とさがりけり
明治二十九年の作。この句には子規は二重丸をつけている。それだけではなく、子規は「明治二十九年の俳句界」で、子規門の俳人として、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」との評と共に、「漱石また滑稽思想を有す」として、この句を紹介している。「糸瓜」とは「だらりと垂れ下がって役立たず」の代名詞なのである。半藤一利著の『漱石俳句を愉しむ』では、「いう事をみな水にしてへちまとも思わぬ人をおもふ身ぞ憂き」という狂歌が紹介されている。漱石にはもう一句糸瓜の句があり、「一大事も糸瓜も糞もあらばこそ」(昭和三十六年)という奇妙奇天烈なものがある。要するに、「一大事も糸瓜もあるか」と「糞詰まり」なったら「大変だぞ」と「一大事を揶揄」しているのであろう。掲出の糸瓜の句であるが、「長いだけで何のとりえもないといわれる糸瓜が何と悪評されようとも、われ関せずでぶらさがっている」と、糸瓜礼賛の句なのであろう。前回の「安々と海鼠の如き子を生めリ」の海鼠礼賛と同じ句法のものなのであろう。漱石の海鼠礼賛・糸瓜礼賛に大いに賛同を呈するものである。
○ かんてらや師走の宿に寝つかれず
○ 酒を呼んで酔はず明けけり今朝の春
○ 甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
○ うき除夜に壁に向へば影法師
明治三十一年作。これらの句は『漱石俳句集』(坪内稔典編)には収録されてはいない。熊本県飽託郡大江村より明治三十一年一月五日夜に、当時の日暮里村に住んでいた高浜虚子宛の手紙の末尾の五句である。この翌日の一月六日付けの子規宛の書簡もあって、その書簡指導の三十句の中にもこれらの五句は収録されている。その中に、「賀虚子新婚(一句)」の前書きのある「初鴉東の方を新枕」の句も見られる。虚子の結婚したのは、その前年の六月であり、必ずしも、漱石が子規宛に書簡で指導を仰いだ句は、当時の近作ばかりではないことが分かる。漱石は明治二十二年から大正五年にかけて約二千六百句の句を作り、坪内稔典編には、そのちの八百四十八句が収載されているという。 掲出の句は、『草枕』のモデルとなった肥後小天(おあま)温泉でのもので、これらの句の背景に『草枕』での作品との関係がほのかに見えてくる。漱石は、この『草枕』(七章)の中で、女主人公の湯壷に入ってくる女性像を、漱石には珍しい写実的な文章で記述している。そして、これまた、当時の新興大和絵のリーダー格であった松岡映丘(柳田國男の実弟)が、「草枕絵巻」の中で、「湯煙りの女」という題で、この場面を描いている。文人・漱石にしても、画人・映丘にしても、女性像を描くというのは、全く稀有のようなことのようなのである。これらのことが、『漱石世界と草枕絵』(川口久雄著)によって記載されている。漱石の『草枕』は、漱石自身「美しい感じが読者の頭に残りさへすればいい」と、また、「俳諧的小説」ともいい、漱石の異色の小説ともいえるものであろうが、年輪を経れば経るほど、また、「俳諧・俳句」を考える上でも、味わい深いものの極みのように思えてくる。
○ 秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻
明治四十五年、改元して明治元年の作。『漱石俳句集』(坪内稔典編)には、「九月二十六日に痔の手術をしたが、その入院の際を回想した句」との校注がある。この校注に接すると、思わず、「我輩は猫である」を想い出した。「猫や牛」などを通して、「自分の心境を述べる」というのも、漱石の特異としたものの一つなのであろう。それにしても、掲出句の「牛の尻」が漱石自身の「痔を患っている尻」と知って、思わず、「ウーン」とうなって
しまった。
○ 別るるや夢一筋の天の川
○ 秋の江に打ちこむ杭の響かな
○ 秋風や唐紅(からくれない)の咽喉仏
○ 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉
明治四十三年の作。この歳に漱石は胃潰瘍で一時危篤に陥ったころの作である。「漱石俳句のピーク時のもの」として、つとに評判の高い句である(小宮豊隆『漱石全集』)。これらの句については、漱石自身、その「思い出す事など」(明治四三)に記されているが、この一句目の句について、「何という意味かその時も分からず、今でも分からないが、あるいは仄かに東洋城(漱石に師事した松根東洋城)と別れる折の連想が夢のような頭の中に這い回って、恍惚と出来上がったものではないか」と言う。こういう、ある種の恍惚感のうちに、口について出てくるもの・・・、これこそ、俳句の原点なのかもしれない。
漱石は正岡子規の指導を得て俳句の自分のものにしていったが、その子規が亡くなった明治三十五年に遠く異国のロンドンに留学していた。そして、子規の目を意識せず、真に漱石俳句の開花は、子規亡き後のこの明治四十三年の大病に襲われた頃からと、そして、その意味で、これらの句を、「漱石俳句のピーク時」として理解することも、妥当なことなのかもしれない。
○ 秋風の一人をふくや海の上
明治三十三年九月六日付けの寺田寅彦宛ての葉書に記された句。この九月八日に漱石は横浜港を出立、イギリス留学の途についた。
○ 僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思フ。・・・、書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。・・・
明治三十四年十一月六日に記して、ロンドンの漱石宛てに子規が送った手紙の一節。
○ 筒袖や秋の柩にしたがはず丶
○ 手向(たむ)くべき線香もなくて暮れの秋
○ 霧黄なる市に動くや影法師
○ きりぎりすの昔を忍び帰るべし
○ 招かざる薄に帰り来る人ぞ
この五句には、「ロンドンにて子規の訃を聞きて」との前書きがある。明治三十五年十二月一日付けの高浜虚子宛ての漱石の末尾に記されている句である。子規が永眠したのは、同年、九月十九日、午前一時。享年、三十五歳であった。第一句目の「筒袖」とは「洋服」のこと。これらの五句、漱石の子規への嘆きが伝わってくる。漱石は子規を俳句の師とした。そして、子規以外の人から俳句を学ぼうとはしなかったであろう。これらの五句、ここには、漱石をして、子規が「奇想天外の句多し」といわしめた、「子規を笑わせてやろう」
というような姿勢は微塵もない。漱石は、これらの句に、「皆蕪雑、句をなさず。叱正。」と付与している。
○ 活きた目をつつきにくる蝿の声 子規
この子規の句は、「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」の子規の絶句に近い頃の句であろう。ここまで来ると、もう、壮絶な俳句という言葉以外に何の言葉も出てこない。漱石の俳句の師は子規であった。そして、漱石は子規の俳句から多くのものを学んだが、その子規を終生俳句の世界においては超えることができなかった。
○ 骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな 漱石
この漱石の句は大病に罹患したときの明治四十三年の句。前句の子規の句に比して、「その生涯が病の中での、そして、その生涯を賭して、俳句へかけた、その思い入れの深さ」において、漱石は子規の足元にも及ばないのではなかろうか。
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