辛酉春興
今や誹諧峰の如くに起り、
麻のごとくにみだれ、
その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年
榎島参詣
5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者
悼無同
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず
5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち
会式
5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙
辛酉春興
今や誹諧峰の如くに起り、
麻のごとくにみだれ、
その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年
「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg
≪「松永貞徳(まつながていとく)
[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典
小項目事典」)
前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。
鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)
この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
榎島参詣
5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者
口あくは花の笑かはさくら貝 弘永『「毛吹草」
「冨嶽三十六景 相州江の嶌」葛飾北斎筆
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_35.htm
≪北斎には珍しく、誇張や演出をほどこさない自然な景観を描いている。干潮時に江の島は片瀬海岸と陸続きとなるが、ちょうど砂洲の参道が現れ始めたのか、参詣者は皆これからお参りに行くところである。土産物屋や旅籠が立ち並ぶ様子も写実的である。画面の下辺を霞で縁取ったのは、聖域を表現するための瑞雲としてであろうか。波打ち際のきらめきや波の泡の描写が秀逸である。
※江の島(神奈川県藤沢市)
相模湾の海上にある江の島は、砂嘴(さし)で対岸の片瀬村とつながる陸繋島であり、徒歩で参詣が可能であった。図中に描かれた三重塔は、江島神社上之宮の塔であり、元禄7年(1694)に創建された。≫(「山梨県立美術館」)
(例句)
江のしま
日を拝む蜑(あま)のふるへや初嵐 服部嵐雪(「陸奥衛」)
江の島を台にも見るや国の春 馬場存義(「古来庵句集」)
江の島や傘さしかけし夏肴 建部巣兆(「寂砂子集」)
悼無同
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず
そして、その『屠龍之技』の句の原典となる『軽挙館句藻』の第一句集「梶の音」に「寛政三年三月我物か剃髪を祝ひて」の前書で、この句が収載れている。
これらからすると、「無同」という俳人は、「寛政三年(一七九一)三月」に「我物」という俳号から剃髪して「無同」と改号したように思われる。
この前年の、寛政二年(一七九〇)七月十七日に、抱一の実兄の「忠以」が急逝(三十六歳)し、抱一の甥の「忠道」が家督を継ぐことになる。この時、抱一、三十歳、そして、この実兄の急逝により、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除」の結果、実質的に抱一は「酒井家」から放逐されて、寛政九年(一九二七)には「出家」という途を選ばざるを得なかったということになる。
この「無同」という俳人は、おそらく、抱一の俳諧の二人の師「柳澤米翁・佐藤晩得」と関係の深い俳人で、同時に、「銀鵞」の俳号を有する亡き兄の「忠以」とも関係の深い俳人のように思われる。
1-24
よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな (「寛政三年(一七九一)」・抱一・三十一歳)
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」・抱一・四十一歳)
この、凡そ追悼句に相応しくない「鼻くそ餅」は、「花供曽餅」(釈迦の入滅の日に行われる涅槃会において供物にされる鏡餅などを用いたあられ)の、「捩り」(もとの表現を変えて滑稽または寓意(ぐうい)的にしたもの)の用例である。
「花供曽餅」(「お釈迦様の鼻くそ」)
https://www.mbs.jp/kyoto-chishin/kyotocolumn/souvenir/83464.shtml
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず
神垣やおもひもかけず涅槃像 芭蕉「曠野」
涅槃会や皺手合する数珠の音 芭蕉「続猿蓑」
5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち
名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉「孤松」
名月や北国日和定めなき 芭蕉「奥の細道」
命こそ芋種よ又今日の月 芭蕉「千宜理記」
たんだすめ住めば都ぞけふの月 芭蕉「続山の井」
木をきりて本口みるやけふの月 芭蕉「江戸通り町」
蒼海の浪酒臭しけふの月 芭蕉「坂東太郎」
盃にみつの名をのむこよひ哉 芭蕉「真蹟集覧」
名月の見所問ん旅寝せん 芭蕉「荊口句帳」
三井寺の門たゝかばやけふの月 芭蕉「酉の雲」
名月はふたつ過ても瀬田の月 芭蕉「酉の雲」
名月や海にむかかへば七小町 芭蕉「初蝉」
明月や座にうつくしき顔もなし 芭蕉「初蝉」
名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁 芭蕉「初蝉」
名月に麓の霧や田のくもり 芭蕉「続猿蓑」
明月の出るや五十一ヶ条 芭蕉「庭竈集」
名月の花かと見えて棉畠 芭蕉「続猿蓑」
名月や門に指しくる潮頭 芭蕉「三日月日記」
名月の夜やおもおもと茶臼山 芭蕉「射水川」
「八聲(やごえ・やごゑ)の鶏(とり)」=「暁に何度も鳴く鶏。」
※六条修理大夫集(1123頃)「またじ今は八声の鳥もなきぬ也何おどろかすくひな成らん」
(「精選版 日本国語大辞典」)
「月下尾花図」 酒井抱一筆/江戸時代/18-19c/絹本著色/H-98.9 W-40.1 (「MIHO MUSEUM」蔵)
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000654.htm
≪旧暦8月15日は仲秋の名月。この時期、台風や霧雨で空気が湿ったり、小雨の降ったあと、移動性高気圧におおわれて晴れた夜間に冷え込みがあったりして、霧が発生しやすい。「十二カ月花鳥図」のようにとりどりの秋草や虫などの小動物も描かれていないが、たらし込みの技法で描かれたススキに、夜霧に浮かぶ名月を取り合わせ、俳諧にも親しんだ抱一らしい、しっとりとした詩情に充たされた作品である。≫(「MIHO MUSEUM」)
5-44 きくの宿碁経見て居る主かな
季語は、「きくの宿」の「菊」(三秋)。「キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。」(「きごさい歳時記」)
菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉「杉風宛書簡」
菊の花咲くや石屋の石の間 芭蕉「翁草」
琴箱や古物店の背戸の菊 芭蕉「住吉物語」
白菊の目にたてゝ見る塵もなし 芭蕉「笈日記」
手燭して色失へる黄菊かな 蕪村「夜半叟句集」
黄菊白菊其の外の名はなくもなが 嵐雪「其袋」
「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)
https://haocjd.rexperrlu.xyz/index.php?main_page=product_info&products_id=64804
会式
5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙
御命講や油のやうな酒五升 芭蕉「小文庫」
御命講や顱(あたま)のあをき新比丘尼 許六「韻塞」
「会式桜」(「日蓮宗谷中領玄寺」) (「精選版 日本国語大辞典」)
「谷中領玄寺」(「会式桜」)
「句意」は、ここ「千束」の里近くの「谷中領玄寺」で、十月十三日の「御会式」の法会がある。その境内では「会式桜」が咲き、その本堂では、「吉野紙」で造られた「花万灯」が飾られるという。まだ、それらを見ていないが、これは、さぞかし、「御功力」のあることであろう。
http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_okaishiki_zouka.html
このような言い伝えから、お会式法要やお逮夜(たいや)の時、白・赤・ピンクの紙で作られた桜の花を、割竹(わりだけ)などでできた長い竿に付けた造花を、本堂の内部や万灯と呼ばれる塔型や行灯(あんどん)型などの大きな明かりの上部に、四方八方に垂らし飾り付け、大聖人のご命日を偲(しの)び、報恩(ほうおん)感謝の心をこめて行うお会式(えしき)を鮮(あざ)やかに彩(いろど)っています。
江戸時代の風俗事物について書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には「これ(お会式)を行う者、家内の諸所に紙の造花を挟(はさ)む故に、当月(十月)上旬より、三都(江戸・京都・大阪)ともこれ(造花)を売る。長さ三尺(じやく)(約九十センチ)ばかり。江戸にてはここに藤の造り花を付けたるもあり。花は吉野紙。広がり二寸(すん)(約六センチ)ばかり。周(まわ)りの耳を淡紅にし染め、赤あるいは黄紙」と記されており、また当時の年中行事について書かれた『東都歳時記(とうとさいじき)』には、「法会(ほうえ)(お会式)の間、一宗(法華宗)の寺院は仏壇をかがや(輝)かし、造花を挿し荘厳は目を驚かしむ」とあり、法華宗寺院のお会式の壮麗な様子を伝えています。
また、池上の大聖人ご入滅(にゅうめつ)の地には今も「お会式桜」と呼ばれる桜の樹があり、旧暦の十月(現在の十一月頃)にはきれいな花を咲かせることで知られています。一般にお会式桜と呼ばれるのは、八重桜の一種で十月桜(じゅうがつざぐら)と呼ばれる種類だそうです。花は中輪、八重咲きで淡紅色。開花期は十月頃から咲き始め、冬の間も小さい花が断続的に咲き、翌春四月上旬にもたくさんの花を咲かせるという珍しい桜です。春の花のほうが秋の花より大きいそうです。≫(「布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より」)
(補記二) 「吉野花会式(よしのはなえしき/よしののはなゑしき)/ 晩春」
【解説】 四月十一日、十二日、奈良県吉野町金峯山寺(蔵王堂)で行われる法会。蔵王権現の神木である吉野山の桜を神前に供える儀式。竹林院から大名行列や稚児行列が練り歩く。蔵王堂前では、大護摩が焚かれ、堂内では鬼踊が行われる。吉野の春の最大行事である。
【例句】
花会式かへりは国栖に宿らんか 原石鼎「花影」≫ (「きごさい歳時記」)
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