5-16
ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
5-18
ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団
天明二年(一七八二、抱一、二十二歳)に、その先師・馬場存義は亡くなるが、この当時は、「江戸座俳諧」の中枢(其角座→存義側)の「業俳」の頂点を位置していた「存義」門の一員であったということなのであろう。
存義が亡くなって、抱一の俳諧の師は、抱一よりも三十七歳年長の「米翁」、そして、三十歳年長の「晩得」の二人が、両親、そして、兄(忠以=俳号・銀鵞)を亡くしている抱一の、公私ともに後見人のような存在で、その二人の「江戸座俳諧」(其角・沾徳座→浅草側)の座の中で、抱一の俳諧の世界は飛翔していくことになる。
そして、この「米翁・晩得」は、「存義」よりも「存義」の師でもある「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。
と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。
この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。
この五人の他に、「稲津祇宗」(石霜庵,敬雨,有無庵)も、その巻末に「敬雨」の号で参画し、この祇空は、蕪村の師の「早野巴人」(竹雨,宋阿,郢月泉)と親しい関係にある。そして、この巴人もまた、祇空と共に、俗化する当時の俳壇にあって、「師の句法に泥むべからず」との高邁な精神を植えつける俳人の一人であった。
そして、これらが、後に、「芭蕉回帰・芭蕉復興」の「中興俳諧(革新運動)」(京都の「蕪村・太祇・召波・几董・嘯山」・「尾張の暁台」・「江戸(雪中庵三世)蓼太」・「加賀の麦水」・同じく「加賀出身・京都の二条家から俳諧中興花の本宗匠を許された「闌更」(闌更門に次代の「 梅室・蒼虬」等を輩出している)として結実し、それが、その日本俳壇の主流と化して行くこととなる。
ここで、「五色墨」俳諧と親しい関係にある「夜半亭宋阿(早野巴人)」一門(宋阿・蕪村・雁宕・大済)と「五色墨」俳諧に距離を置いている「東風流」一門(春来・存義)とが巻いた六吟歌仙が、『東風流』(春来編)に収められていて、その六吟歌仙の一端を紹介して置きたい。
声は満(みち)たり一寸の虫 春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て 大済(中村大済)
朝日夕日に森の八棟(やつむね) 蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
出るかと待(まて)ば今米を炊(たく) 存義(馬場存義)
(以下略)
「古人肖像・馬場存義」( | 山梨県歴史文学館- 山口素堂とともに -))
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/ctgylist/?ctgy=2&scid=we_blg_pc_lastctgy_more
(「句意」周辺)
5-16 ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17
雪おれの雀ありけり園の竹
それらのことを偲びつつ、ここに、「存義先師七七回忌」追善句を呈することとする。
5-16 ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
季語は「千鳥」(三冬)、「淡海の海/夕波千鳥/汝が鳴けば/こころもしのに/いにしへ思ほゆ」(柿本人麻呂・『万葉集』巻三―二六六)、その名歌のとおり、「存義先師七七回忌」にあたり、「先師の『春来・米仲・存義』そして師の『米翁・晩得』両翁を偲びつつ、在りし日のことを、『千鳥の磯めぐり』のように回想しています。」
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
季語は「雪おれ」(晩冬)、「雪折れも聞こえてくらき夜なるかな(蕪村「題苑集」)、「雪の重みに耐えかねて折れてしまった園の群れ竹に、雀が群がっています。」(思えば、「存義・米翁・晩得」亡き後の、その雀子らは、その師風を偲んでいます。)
5-18 ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団
季語は「雪車(そり)」 (晩冬)、「ぬつくりと雪舟(そり)に乗りたる憎さかな(荷兮『曠野』)」の「駕籠橇(かごそり)」の句と解したい。
滑り板の上に、畳表で囲った駕籠を付けた橇。(「精選版 日本国語大辞典」)
「句意」は、「雪(ゆき)の夜の、吉原に行(ゆき)は、「駕籠雪車(そり)」に「三(ツ)布団」を載せて、吉原一の花魁と、その「三(ツ)布団」との豪奢な一夜を過ごしたい。」
「夜具舗初(しきぞめ)之図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』) (「早稲田大学図書館」蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0010.jpg
(再掲) 「4—36 のり初(そむ)る五ツ布団やたから船」周辺
三つ布団が贈られると、まず布団が妓楼の店先に飾られました。これは「積み夜具(つみやぐ)」と呼ばれました。そしてその後、縁起の良い吉日を選んで遊女の部屋に運び込まれました。初めて三つ布団を敷くことを「敷き初め(しきぞめ)」と呼びました。≫
元禄(げんろく)16年3月15日生まれ。2代前田青峨にまなぶ。享保(きょうほう)19年俳諧(はいかい)宗匠となり,存義側をひきいて江戸座の代表的点者として活躍した。与謝蕪村(よさ-ぶそん)とも交友があった。天明2年10月30日死去。80歳。江戸出身。別号に泰里(たいり),李井庵,有無庵,古来庵。編著に「遠つくば」「古来庵句集」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
宝永4年10月5日生まれ。前田青峨(せいが)の門弟。知己の俳人の自筆句に画像をかきいれた「たつのうら」や,江戸座俳人についてかいた「靱(うつぼ)随筆」を刊行した。明和3年6月15日死去。60歳。江戸出身。別号に青瓐,牝冲巣,月村所,権道,八楽庵。(「デジタル版
日本人名大辞典+Plus」)
延宝4年生まれ。榎本其角(えのもと-きかく),服部嵐雪(らんせつ)にまなぶ。江戸日本橋にすみ夜半亭と称した。門人に与謝蕪村(よさ-ぶそん)ら。寛保(かんぽう)2年6月6日死去。67歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は忠義。通称は甚助。別号に宋阿,郢月泉(えいげつせん)など。編著に「一夜松」「桃桜」。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
砂岡雁宕(いさおか-がんとう) ?-1773 江戸時代中期の俳人。
内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり,同門の与謝蕪村(よさ-ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し,「蓼(たで)すり古義」「俳諧(はいかい)一字般若(はんにゃ)」をあらわして大島蓼太(りょうた)と論争した。安永2年7月30日死去。下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)出身。通称は四良左衛門。別号に茅風庵(ちふうあん),伐木斎。姓は伊佐岡ともかく。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
「中村風篁」の「分家筋」の人で、「砂岡雁宕」の妹を妻としいる(「筑西市HP」)。中「村風篁」=「?-1779 江戸時代中期の商人。代々常陸(ひたち)(茨城県)下館(しもだて)藩の城下で町年寄や本陣をつとめる商家に生まれる。醤油を醸造し江戸に販売店をもった。早野巴人の門人で俳句をよくし,与謝蕪村(よさ-ぶそん)としたしんだ。安永8年死去。名は左教,秋茂。俳号は風篁。」(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。
(歌仙)柳ちり(底本『反古ぶすま』・寛延三年以前の作と推定)
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ 蕪村
馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに 百万(旨原)
(以下 略)
(歌仙 思ふこと(底本『東風流』・宝暦元年以前の作と推定)
声は満(みち)たり一寸の虫 春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て 大済(中村大済)
朝日夕日に森の八棟(やつむね) 蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
出るかと待(まて)ば今米を炊(たく) 存義(馬場存義)
(以下略)
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