木曜日, 6月 15, 2023

第五 千づかの稲(5-50~54)

    永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

    をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊


   永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

   をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟


 「東都名所 永代橋全図」広重初代/木版/文化天保期(1815-1842

 https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=52306

 

「江戸名所図会 永代橋」

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪  上の挿絵の中央が永代橋(えいたいばし)です。中央を流れる川は隅田川(浅草川)で、左から隅田川に流れ込む川は日本橋川(新川)です。日本橋川に架かる橋は豊海橋(とよみばし)です。≫

 

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会の時代の永代橋は、右の地図のオレンジの楕円の位置、つまり、現在より200m程上流にありました。≫

 「五兵衛舟」=「銭屋五兵衛」の「北前船」(日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称)に積荷などをする小型の「手漕ぎ舟」の意であろう。「銭屋五兵衛」関連については、下記のアドレスのものが参考になる。

 https://www.zenigo.jp/zenigo/5/

 「鱸」=「鱸(すずき)三秋」=「(子季語)せいご、ふつこ、川鱸、海鱸、木つ葉、鱸網 (解説)スズキ科に属する海魚で、北海道から九州に至る沿岸や近海に広く分布する。ボラなどのように成長とともに呼び名が変わるので、出世魚の名がある。刺身、洗膾、塩焼きにして食する。」(きごさい歳時記」)

(例句)

打つ櫂に鱸はねたり淵の色   其角「句兄弟」

釣り上ぐる鱸や闇に太刀の影  支考「川琴集」

釣り上げし鱸の巨口玉や吐く  蕪村「蕪村句集」

百日の鯉切り尽きて鱸かな   蕪村「蕪村句集」

 「冬鴎(ふゆかもめ)三冬」=チドリ目カモメ亜科の鳥の総称。鴎、海猫、百合鴎などの種類があり秋渡来する冬鳥である。鴎はみな冬鳥であるからわざわざ冬鴎ということもないのだが、従来無季とされていたので冬鴎とされた。(「きごさい歳時記」)

 「句意」=季語は、冬鳥の「鴎」が渡来する晩秋の、前書の「鱸」(三秋)を前提にしてのものと解したい。「句意」は、「隅田川の永代橋で見事な銀鱸を釣り上げた。その銀鱸を覗き込むように、渡来してきたばかりの冬鳥の鴎が飛翔している。その晩秋から初冬にかけての鴎の風情は、折からの津軽経由の『北前船』に荷揚げや積荷をする「銭屋(銭屋五兵衛)」の持ち舟の「五兵衛舟」が連れてきたような趣がする。」

 

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

  季語は「朝顔」(初秋)=朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。日本人はこの花に秋の訪れを感じてきた。奈良時代薬として遣唐使により日本にもたらされた。江戸時代には観賞用として栽培されるようになった。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。(「きごさい歳時記」)

(例句)

朝貌や昼は錠おろす門の垣      芭蕉「炭俵」

あさがほに我は飯くふおとこ哉    芭蕉「虚栗」

あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

朝顔は酒盛知らぬさかりかな     芭蕉「笈日記」

蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也 芭蕉「続虚栗」

蕣や是も又我が友ならず       芭蕉「今日の昔」

三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん    芭蕉「虚栗」

わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉「真蹟懐紙」

僧朝顔幾死かへる法の松       芭蕉「甲子吟行」

朝がほや一輪深き淵のいろ      蕪村「蕪村句集」(例句)

 

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-29

 ≪ 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。≫

 あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

白雲や花に成行顔は嵯峨       其角「五元集」

  其角の「白雲や花に成行顔は嵯峨」は、芭蕉の「あさがほの花に鳴行蚊のよわり」の本句取りの一句であろう。この其角の句は、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 ≪ 護国寺にあそぶ時、馬にてむかへられて

   白雲や花に成行顔は嵯峨  (『五元集』)

  「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。

 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。

 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫

  掲出の、抱一の「朝がほや花の底なる蟻ひとつ」は、この芭蕉と其角の本句取りの一句と解したい。

 「句意」は、「芭蕉翁は「朝顔」の句で『花に鳴行(なりゆく)蚊のよわり』と吟じた。それに対して、其角祖師は『花に成行顔は嵯峨」と唱和した。されば、芭蕉翁・其角祖師に唱和して、『朝がほ(「蚊」・「嵯峨の釈迦如来」」) や「花の底」には「蟻一つ(一匹)」』と唱和したい。』

 

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

 季語は「新蕎麦」(晩秋)=蕎麦の実が熟すより一か月ほど早く刈り取った蕎麦粉。熟す前の蕎麦ゆえに青みがありその風味を賞する。一日も早く初物を味わうことにこだわった江戸っ子に好まれた。最近では、今年取れた蕎麦という意味でも使われる。「蕎麦刈」は冬の季語。(「きごさい歳時記」)

(例句)

堂頭の新そばに出る麓かな    丈草「笈日記」

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀   蕪村「夜半叟句集」

江戸店や初そばがきに袴客    一茶「一茶句帖」

 この「呼子鳥」(晩春)の季語であるが、季語としての「呼子鳥」(「万葉集」や「古今集」にも出てくるが、貎鳥同様、この鳥も何の鳥であるかはわかっていない。鶫、鶯、郭公など諸説あるがどれも不確か。猿の声という説もある。)ではなく、「新蕎麦の頃の晩秋の鳥」一般の意でのものであろう。

(例句)

雫たる山路のませんよぶこ鳥    重頼「犬子集」

むつかしや猿にしておけ呼子鳥   其角「五元集脱漏」

役なしの我を何とて呼子鳥     一茶「九番日記」

 

「江戸名所道化盡(歌川広景筆)」所収 「九・湯島天神の台」(「東京都立図書館」蔵)

https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-010

 https://www.sankei.com/article/20170119-24TLY6LKLRMHBIYL7ZSVCVD2J4/

 ≪ 舞台は江戸・湯島天神の境内。不忍池が見える高台の風光明媚(めいび)な地。そばの出前をしている男が犬に足をかまれ、侍の頭にそばをぶちまけてしまう。ズッコケてしまった侍をお供の者が見て大笑い。背景の風景がきれいなだけに、こっけいさが際立つ。

 この錦絵は、広景の代表作「江戸名所道戯尽」シリーズの一つ「湯嶋天神の台」だ。「江戸名所道戯尽」は1859年から61年にかけて制作された50点からなる作品で、ちゃめっ気たっぷりの表現が特徴的。「本郷御守殿前」という作品は、突然の夕立に3人の男が肩車をして1本の傘に入ろうとする場面を描写。傘はところどころで破れ、下で支える男の不満そうな表情がおかしく、あきれるほどばかばかしい。≫

「句意」は、「初物好きの江戸っ子の『新蕎麦』の、その『掛けふだ(看板)』が早くも蕎麦屋に掛かった。折しも、空には、それを呼ぶかのように、名も知れない『呼子鳥』が鳴いている。」


    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

  「前書」の「良夜瓢雨驟雨」は、「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」(『老子(第二十三章)』など)に由来するもので、抱一の代表作に数えられている「夏秋草図屏風」(重要文化財 /二曲一双/紙本銀地着色/東京国立博物館蔵)は、この漢詩文の一節を表現したものとされている。

 https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1992/

 

酒井抱一「夏秋草図屏風」重要文化財 二曲一双 紙本銀地着色 江戸時代・文政41821)年ごろ 各164.5×181.8cm 東京国立博物館蔵

≪ 俳諧をたしなんでいた抱一は、あらかじめ考えていた「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」の言葉をもとに、月のきれいな秋の夜と激しい風雨の後の野を描きました。右隻は夕立の後で左隻は野分(のわけ。今でいう台風)の後。銀地は、右隻では雨を、左隻では月夜を表し、右から左にかけて過ぎ行く季節を、繊細な草花で表現しました。本来、右隻から左隻にかけて春夏秋冬を描く屏風も二曲一双では自由になり、抱一はその特性を最大限生かして傑作をものにしたのです。≫(「和楽WEB)

  この抱一の傑作画は、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時の作で、掲出の抱一の句は、寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時頃のものとすると、抱一は、この「中秋良夜瓢風驟雨」という命題を、実に、二十年という長い年月の末に、その具象化を試みたということになる。

 そして、この「前書」の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」は「仲秋」の季語で、「子季語」に「良宵・佳宵」、「関連季語」に「名月」、意味するところのものは「月の明るい美しい夜のことだが、主として旧暦八月十五日の中秋の名月の夜を指す。」(「きごさい歳時記」)

 「瓢雨驟雨」は、『老子(第二十三章)』の「瓢風驟雨」に由来する、抱一の造語のように思われる。

 https://blog.mage8.com/roushi-23

 (原文)

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

(書き下し文)

希言(きげん)は自然なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。孰()れかこれを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚()お久しきこと能わず、而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦()たこれを得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。≫『老子(第二十三章)

 「飄風(ひょうふう)は朝を終えず」=「瓢風は朝まで続かず」→「瓢雨・秋驟雨」(仲秋)

「驟雨(しゅうう)は日を終えず」=「驟雨も一日中続かない」→「驟雨・夕立」(三夏)

 「句意」周辺

 季語は、前書の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」(仲秋)、「宵寐(良宵の宵寝)・月(良宵の月=旧暦八月十五日の中秋の名月)(仲秋)」で、「仲秋」の「名月」の句ということになる。

そこに、前書の「瓢雨驟雨」を加味すると、これは「雨月」(仲秋・「中秋の名月が雨のために眺められないこと。名月が見られないの を惜しむ気持ちがある)の句の方が、より相応しい。

句意は、「今日は仲秋の名月の日、生憎の雨で、宵寝をして、雨の名月を夢見ることにしょう。」

(補記) 能「雨月」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/ugetsu

 前シテ   老人  じつは神の化身

後シテ   神職の老人(住吉明神の憑霊)

ツレ       姥  じつは神の化身

ワキ       西行法師

アイ       眷属の神

 ≪ 鎌倉初期。西行(ワキ)は歌神・住吉明神へ参詣のため、住吉の里に赴く。今夜の宿を願って訪れた一軒の庵には、雨音の風情を楽しむ翁(前シテ)と、月光を愛でる姥(ツレ)の、風流な老夫婦が住んでいた。屋根を葺くべきか、葺かぬべきか。そう嘆じる翁の言葉は、期せずして歌の下句となった。これに上句を付けたならば宿を貸そうと言う翁へ、西行は二人の美学を汲み、見事な上句を付ける。しみじみとした夜、雨音かと聞き紛う松風の声に耳を傾け、秋の風情を楽しんでいた三人。やがて夜は更け、夫婦は眠りにつこうと言うと、そのまま姿を消してしまう。実はこの夫婦こそ、住吉明神の化身であった。

 やがて、西行の前に、神職に憑依した住吉明神(後シテ)が現れた。明神は歌道の奥義を示し、西行こそ和歌を語り合うべき友だと告げる。閑かに舞を舞い、歌も舞も心の表れだと明かす明神。明神は、この神託を疑わぬよう言い遺すと、天に昇ってゆくのだった。≫

 (追記) 「夏秋草図屏風」

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-26


抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-28

 

「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

 

「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

 

抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

  

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊

 

「菊慈童図」(酒井抱一筆/足立区千住個人蔵)

http://jmapps.ne.jp/adachitokyo/det.html?data_id=15560

≪ 抱一の作品中で未表装のまま伝来した希少な例である。やわらかな画風で抱一の比較的若い時代の作品と推定される。画題の菊慈童は菊の露を飲んで不老不死の仙人になった童の伝説を描く。俳賛は「やまに居て 七百とせや きくの酒」で、慈童がすむ魏の酈縣山(れっけんざん)と、その年齢「七百歳」、不老長寿の菊葉の水を表している。≫(「足立区立郷土博物館」)

  掲出の句の季語は、「渓の菊」の「菊」(三秋)。この「渓(たに)」が、「渓谷・幽谷」の「菊慈童」が流刑された「酈縣山(れっけんざん)」を連想させる。

  山中や菊はたおらぬ湯の匂 (芭蕉『おくの細道』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno33.htm

 ≪ 謡曲『菊慈童』に、周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話。これを題材として、薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いないと、宿屋の主人桃妖への挨拶吟。≫(「芭蕉発句全集」)

  ちなみに、「虫も千代経ん」の「虫」も「三秋」の季語。

  蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 (芭蕉『続虚栗』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/minomusi.htm

 ≪ 貞亨4年秋、深川芭蕉庵での作。芭蕉は、この句をもって秋の虫の音を聴く会を開くべく俳友に芭蕉庵へ来るようにさそったのである。このとき、嵐雪にも届けられたが、かれは、「蓑虫を聞きに行く辞」なるものを書いて「何も音無し稲うちくふて螽<いなご>哉」なる句を添えたという話が残っている。

 なお、伊賀上野の服部土芳は、貞亨534日庵を開き、些中庵<さちゅうあん>と名づけたが、311日、折りしも『笈の小文』の途次伊賀上野に立ち寄った芭蕉をそこに招き句会を開いた。このとき芭蕉は一枚の絵を土芳にプレゼントし、その画讃にこの句があったので、特に蕉翁に許しを得て、この庵を「蓑虫庵」と改名したという。また、このときの句会の發句がこの句であったので、庵名をこのように変えたという説もあって判然としない。≫(「芭蕉発句全集」)

 「句意」は、「能・謡曲・長唄」にも取り上げられている「菊慈童」(「菊慈童」伝説)は、奥深い山中の露の「菊の露」を飲んで「千代」の「不老長寿」を賜ったが、この深い渓間の「虫」(「蓑虫庵」の連集)も、「菊の露」ならず「菊の霧」を飲んで「千代」までの「佳吟」を遺すことであろう。

 (補記) 能「菊慈童」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/kikujidou

 (前シテ) 周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童

シテ        同(不老長寿の身)

ワキ       魏の文帝の勅使

ワキツレ              勅使の従者 【2人】

(ワキツレ)          周の穆王の官人

(ワキツレ)          輿を担ぐ役人 【2人】

 ≪〔中国 周の時代。誤って王の枕を跨いだ王の寵童・慈童(前シテ)は、酈縣山へ配流となる。彼が流刑地へ続く唯一の橋を渡り終えるや、非情にも橋を切り落とした警護の官人(ワキツレ)。慈童は、王の形見の枕を抱きつつ、ひとり山中に取り残されるのだった。〕

 それから七百年が経った魏の時代。酈縣山麓から霊水が湧き出たとの報せに、勅使(ワキ・ワキツレ)が現地へ派遣される。すると、山中には一軒の庵があり、中には一人の童子(シテ)がいた。彼こそ、かの慈童のなれの果て。実は彼は、形見の枕に添えられた妙文を菊の葉に書きつけ、そこから滴る雫を飲んだことで、不老不死の身となっていたのだ。慈童は〔妙文の功徳を勅使に説いて聞かせると〕、不老長寿の薬の酒を讃えつつ上機嫌で舞い戯れ、妙文を勅使に捧げて帝の安寧を言祝ぐのだった。≫

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