6-1 鳥さしが手際見せけり梅林
6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉
6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな
6-4 鉞(まさかり)に氷を砕くあつさかな
6-5 物申(す)に返事の遅き暑(さ)哉
6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉
6-7 御袚して各々包む袴かな
6-1 鳥さしが手際見せけり梅林
この「第六 潮のおと」は、文化二年(一八〇五)、抱一、四十五歳、「浅草寺の弁天池に転居」の頃に、スタートしており(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、この前年の文化元年(一八〇四)に、抱一と親交の深い「佐原菊塢(さはらきくう)」が「向島百花園(別称「新梅屋敷」)」を開園している。その梅林での一句と解するのも一興であろう。
「東京名所四十八景 浅草寺境内弁天山」(昇斎一景筆/蔦屋吉版/竪大判錦絵・画帖1冊(目次共49図)/40.6×28.7 /慶応大学・ボン浮世絵コレクション)
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/bon-ukiyoe/016/018
6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉
(例句)
傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」
抱一の句は、この芭蕉の「傘と柳」との本句取りの句のようである。この芭蕉の句は、元禄七年(一六九四)、濁子・野坡・曾良らと八吟歌仙『傘に(雨中)』の、即興的な発句である。
「傘に(歌仙)」表六句(抜粋)
発句 傘におし分見たる柳かな 芭蕉
脇 わか草青む塀の筑(つき)さし 濁子
第三 おぼろ月いまだ巨燵にすくみゐて 涼葉
四 使の者に礼いふてやる 野坡
五 せんたくをしてより裄(ゆき)のつまりけり 利牛
六 誉られてまた出す吸もの 宗波
この歌仙が巻かれた元禄七年(一六九四)は、芭蕉が五十一歳時で、この年の十月十二日に、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で客死する。この脇句の「中川濁子(じょょくし)」(生年不詳、大垣藩江戸詰めの武士。絵の才能が優れてプロの域にあったといわれる。その腕で『野ざらし紀行画巻』を描いた。)で、この歌仙は、芭蕉の、その最期の旅路の留別吟という雰囲気で無くもない。
この濁子の脇句の「塀の筑(つき)さし」は、「塀の中途で造作を止めている」という意で、芭蕉の発句と一体となると、「傘におし分見たる柳かな(草庵の入り口の枝垂れ柳を唐傘を押し分けて見る)」と、「わか草青む塀の筑(つき)さし(その草庵の塀は未完成のままに柳が青めいて茂っている)」というような光景であろう。
そして、この光景は、抱一が、文化二年(一八〇五)、四十五歳時に浅草寺の弁天池に転居した、その詫び住まいを連想させる。それは、まさしく、抱一が出家して、市井を彷徨っていた、隠遁していた、されど、文人的な生き方を見出していたイメージと重なってくる。
「句意」は、「折からの雨中の柳が、我が詫び住まいを覆い、それを唐傘で押し分けて出入りする、何ともうら淋しい光景であることよ。」
6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな
この句の「参考句」(例句)としては、芭蕉の『奥の細道』の次の一句を挙げたい。
そして、この「浅香の沼の六日」の典拠は、『奥の細道』の「元禄六年(一六九三)四月二十九日・五月一日日・二日」の「安積山・信夫もじ摺り」の条ということになる。
あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
( 四月二十九日。快晴。須賀川を出発。まず、南下して石川郡玉川村の石河の滝を見物。あちこち立ち寄りながら夕方、郡山に到着してここで一泊。宿はむさ苦しかったようである。
五月月一日。快晴。日の出とともに宿を出て、郡山市日和田町で馬を求め、安積山・安積沼を見ながら、二本松へ。黒塚の鬼を埋めたという杉の木立を眺めながら、日の高いうちに福島に入る。福島に一泊。ここでは、宿はきれいだった。
五月月二日、快晴。福島を出発。阿武隈川を岡部の里にて船で渡り、信夫文字摺石を見物。源融<みなもとのとおる>と土地の長者の娘虎女との悲恋伝説のある「虎が清水」などを見てから、月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。ここより佐藤兄弟の旧跡へと辿るのである。)≫(「芭蕉データベース」)
そして、この句には、もう一つ、「銭湯も浅香の沼の六日かな」と、「銭湯(お風呂に入る)も、六日(六日ぶり)」と、即ち、芭蕉の句の「文月や六日も常の夜には似ず」の根底に流れている「不易流行」の「不易」(「永遠に変わることのない不易そのの本質」)の句を、「流行」(「新しみを求めてたえず変化する流行性」=「俳諧・諧謔・滑稽・洒落・臨機応変・ユーモア」)の句に仕立てているということになる。
「句意」は、「芭蕉翁の『奥の細道』の、『安積山・信夫もじ摺り』」の条を見ながら、その典拠となっている『みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん(古今集)』の幻の花『花かつみ』(姫菖蒲)ならず、これまた、芭蕉翁の『文月や六日も常の夜には似ず』の、その『菖蒲の節句・端午の節句の五月五日』」の翌日の「立夏(五月六日)」の日を反芻しながら、どっぷりと『六日ぶり』の銭湯の湯に浸かっている。」
「湯屋(銭湯)=戸棚風呂」
http://kamikuzuann.web.fc2.com/zakkiire/yuyanituite.html
≪(湯屋=銭湯)
江戸では武家屋敷以外で風呂のある家は稀で、住民は湯屋(銭湯)通いが当たり前でした。旅籠屋にも風呂はなく、客を湯屋へ行かせていました。このため各町内に必ず一軒は湯屋がありました。これは江戸では水が貴重で、薪代も高く、なにより火事を恐れたためで、風の強い日には湯屋も店を休むほど火の扱いには気を付けていました。
(戸棚風呂)
江戸時代初期の銭湯は戸棚風呂という蒸し風呂でした。これは湯気を逃がさないよう浴槽を戸棚で仕切り、体を蒸気で蒸し、洗い場に出て垢を落とすというものです。浴槽と洗い場の間は引戸を使って出入りするのですが、開ける度に湯気が逃げ湯が冷めるので人口増加に伴い各湯屋は引戸をやめ、湯が冷めにくいように入り口を低くした柘榴口を設置するようになりました。さらに江戸市中に水道網が整備され、上方から掘り抜き井戸の技術が伝わると、蒸し風呂から湯に浸かる形式へと変化していきます。≫
「幼時を夢見る坂田金時(部分)」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6655
6-5 物申(す)に返事の遅き暑(さ)哉
「幼時を夢見る坂田金時」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1195?locale=ja
≪ 「金」と大きく書かれた着物を片肌脱ぎしている坂田金時(さかたのきんとき)からふき出しが出ています。ふき出しに描かれているのは金時が見ている夢、森で熊と闘う幼い金時は昔話の金太郎です。金時は歴史上に実在した武将(ぶしょう)で、金太郎のモデルとなった人物でもあります。金時がもたれ掛かっている酒樽(さかだる)にはお正月の飾りがついており、足元にある宝船の絵は良い初夢を見るために用いられることから、金時が見ている夢は初夢なのでしょう。初夢には、なりたい姿が出てくると言われています。丈夫で元気な金太郎には子どもの健やかな成長を願う親の思い、武将になった金時には出世や成功への願いが表されています。見る人が様々な願いを抱くことができる作品です。酒樽に書かれている「馬喰町(ばくろちょう)西村版(にしむらはん)」はこの作品の版元(はんもと)、今でいう出版社の名です。日本橋馬喰町にあった西村屋はこのように趣向を凝らした作品を多く制作しました。≫
6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉
「准源氏教訓図会・空蝉(ナゾラエゲンジキョウクンズエ・ウツセミ)」/作者名・歌川国芳/落款等備考・朝桜楼國芳画/制作者備考・丸甚/時代区分・天保14年、弘化1~4年※名主障印より/西暦・1843-1847/形態・大判、木版浮世絵、錦絵/公文教育研究会蔵」
https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=8_17&products_id=1116
≪ 源氏物語「空蝉」になぞらえた教訓画であり、殻を脱ぎすて、短い夏を樹上で鳴きくらすゆえに、捕えられることも多い蝉をテーマにしている。源氏物語の空蝉は、伊予介の妻で、一度は源氏に身を許すがその後は自制、ある夜忍んできた源氏に、小袿一枚を寝所に残して去る。こちらは、蝉の殻のように小袿を残すが、そっと静かに消え去り、悩みながらも源氏をこばみ続ける。≫
6-7 御袚して各々包む袴かな
抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
(「きごさい歳時記」)
吹く風の中を魚飛ぶ御祓かな 芭蕉「真蹟画賛」
沢潟による傾城や御祓川 蕪村「落日庵句集」
泪して命うれしき御祓かな 樗良「樗良発句集」
川ぞひを戻るもよしや御祓の夜 白雄「白雄句集」
夕虹も消えて御祓の流れかな 闌更「三傑集」
雨雲の烏帽子に動く御祓かな 正岡子規「寒山落木」
尾形光琳・乾山の「禊図」周辺
A Shinto ceremony → 禊図屏風 (フリーア美術館蔵)
Type Screen
(two-panel) 二曲一隻
Maker(s) Artist:
Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) 尾形乾山
Historical period(s) Edo period, 1615-1868
Medium Color on
paper 紙本着色
Dimension(s) H x W:
173.5 x 177 cm (68 5/16 x 69 11/16 in)
二 原題は「A Shinto ceremony」(神道儀式)だが、下記の「禊図」(光琳筆)を念頭に置いたもので、「禊図屏風」として置きたい。
尾形光琳筆「禊図」 一幅 紙本着色 畠山記念館蔵
九七・〇×四二・六㎝
【『伊勢物語』六十五段禊を絵画化したもの。人物のポーズと配置は、宗達も利用した『異本伊勢物語絵巻』(鎌倉時代末の作か)を踏襲するが、縦長の拡幅画の画面に合わせて、水流を光琳好みの意匠化された形に変え、狩野派風の樹木を添えている。 】(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)
http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02
「禊図(俵屋宗達筆)」(伊勢物語図色紙/第六十五段「禊」/紙本着色/24.5×21.0㎝/TOREKコレクション)
https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu18.ise.html
↑
http://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html
↓
むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひしりたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、いとかたはなり、身も亡びなむ、かくなせそ、といひければ、
思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ
といひて曹司におり給へれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へゆく。
されば、何のよきことと思ひて、いき通ひければ、皆人聞きて笑ひけり。つとめて主殿司の見るに、沓はとりて、奥になげ入れてのぼりぬ。
かくかたはにしつつありわたるに、身もいたづらになりぬべければ、つひにほろびぬべしとて、この男、いかにせむ、わがかかる心やめたまへ、と仏神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師、神巫よびて、恋せじといふ祓への具してなむいきける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみおぼえければ、
恋せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな
といひてなむいにける。
この帝は、顔かたちよくおはしまして、仏の御名を御心に入れて、御声はいと尊くて申し給ふを聞きて、女はいたう泣きけり。かかる君に仕うまつらで、宿世つたなく、悲しきこと、このをとこにほだされて、とてなむ泣きける。かかるほどに、帝きこしめしつけて、このをとこをば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵にこめてしをりたまうければ、蔵にこもりて泣く。
海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ
と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。
さりともと思ふらむこそ悲しけれあるにもあらぬ身をしらずして
と思ひ居り。をとこは、女しあはねば、かくし歩きつつ、人の国に歩きて、かくうたふ。
いたづらにゆきては来ぬるものゆゑに見まくほしさに誘はれつつ
水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。
(現代語訳)
昔、天皇が御寵愛になって召しつかわれた女で、禁色を許された者があった。大御息所としておいでになられたお方の従妹であった。殿上に仕えていた在原という男で、まだたいそう若かった者を、この女は愛人にしていた。男は、宮殿内の女房の詰所に出入りを許されていたので、女のところに来て向かい合って座っていたところ、女が、とてもみっともない、身の破滅になりますから、そんなことはやめなさい、と言ったので、男は
あなたを思う心に忍ぶ心が負けてしまいました、あなたに会える喜びにかえられれば、どうなってもよいのです
と読んだ。(そして女が)曹司に下ると、例の男は、この曹司に、人目を憚らずについて来たので、この女は、困り果てて実家に帰ったのだった。
すると(男は)、なんと都合のよいことだと思って、(女の実家に)通って行ったので、人々が聞きつけて笑ったのであった。朝方に、主殿司がその様子を見ると、男は靴を手に取って、それを沓脱の奥に投げ入れて昇殿したのだった。
このように見苦しいことをしながら過ごしているうちに、これでは自分もだめになってしまって、遂には破滅してしまうだろうからとて、この男は、どうしよう、このようにはやる心を静めて下さいと神仏に御願い申し上げたが、いよいよ思いが募るのを覚えて、やはりやたらと恋しいとのみ思えたので、陰陽師や神巫を呼んで、恋せじというおはらいの道具を持参して(川へ)いったのだった。しかし、お祓いをするにつけても、ますますいとしいと思う心が募って来て、もとよりもいっそう恋しく思われたので、(男は)
恋をすまいと御手洗河にしたみそぎを、神は受け入れては下さいませんでした
と読んで、立ち去ったのだった。
この時の帝は、顔かたちが美しくいらして、仏の名号をお心にかけられ、お声もたいそう尊く念仏を唱えられるので、それを聞いて、女はひどく泣いた。このような尊い君におつかいせずに、宿世つたなく悲しいことに、この男にほだされてしまった、といって泣いたのだった。そのうちに、帝が事情をお知りになって、この男をば流罪になさったので、この女の従姉の御息所が女を呼びつけて、蔵に閉じ込めてしまった。それで女は、蔵にこもって泣いたのだった。そして、歌うには
海人の刈る藻に住む虫のワレカラのように、声を立てて泣きましょう、世の中を恨むことなどしないで
するとこの男は、他国より夜毎にやってきては、笛をたいそう上手に吹いて、美しい声で、哀れげに歌ったのだった。それで、女は蔵にこもりながら、男がそこにいるらしいと思いつつ聞いていたが、互いにあうこともならなかったのだった。そこで女は、
あの方がいつかは会えると思っていらっしゃるようなのが悲しい、生きているかわからぬようなわが身の境遇を知らないままに
と思っていたのだった。男の方は、女があってくれないので、このように笛を吹いて他国を歩きながら、次のように歌うのであった。
会えると思って行っては空しくもどってくるのだが、それは会いたい思いに誘われてのことなのだ
水の尾帝の次代のことであろう。大御息所というのも染殿の后のことだと言われている。あるいは五条の后とも言われている。
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