火曜日, 1月 24, 2006
尾崎放哉探索(その一~その二十)
尾崎放哉探索
(その一)
「南郷庵友の会」による「小豆島 尾崎放哉記念館」というホームページ(アドレスは下記)は、尾崎放哉の自由律俳句を知るうえで、「尾崎放哉未発表句」なども収録されており、一度は探索するに十分に価値がある。尾崎放哉が亡くなった、「南郷庵」(みなんごあん)に因んでの、「南郷庵友の会」なのであろうが、私事にわたって恐縮だが、亡くなった兄の俳号が、「南郷庵」(なんごうあん)で、亡くなった兄が、尾崎放哉の、この「南郷庵」
を意識していたことは、その遺されたものなどを整理して、容易に想像できるものであった。しかし、それは、より多く、(吾らの)出生地の字名が、「南郷屋」(みなみごや)であり、亡くなった母の隠居小屋を、その亡くなった兄が、「南郷庵」と命名して、そのことに由来していることが、その俳号の由来なのであった。亡くなった兄は、この「南郷庵」を自分の俳号とするとともに、その亡くなる五年前あたりから、「南郷庵通信」という、タブロイド版などの同人紙などを発行して、それが今になっては、亡き兄の最も貴重な形見となってしまった。そして、その、亡き兄の、その俳号(南郷庵)と、その同人紙(南郷庵通信)を、形のうえでは、弟である小生が引き継いだのだが、その俳号の方は、たまたま使わせていただいているが、その「南郷庵通信」の方は、ホームページ化はしたのであるが、このところ、まったく、放置したままで、どうにも、亡き兄の、小言が聞えてくるようでもある。今回、この「鑑賞広場」を利用させて頂いて、「尾崎放哉探索」ということで、この「小豆島 尾崎放哉記念館」に登載されているものなどを紹介しながら、尾崎放哉の句業などを見てみたいと、そして、それが、七年忌が近づいた亡き兄の供養にもなるかと、この正月に、そんなことを考えていた。
それとあわせて、「定型・季語象徴論」ということも、このところ、ずうとまとわりついていて、その「定型律俳句」に対する「影」のような「自由律俳句」を見てみたいということも、この「尾崎放哉探索」の、もう一つの伏線でもある。そんなことで、とにもかくにも、どんなものになるのか、いまのところ、さっぱり検討がつきかねるのだが、そのスタートをすることとする。
「小豆島 尾崎放哉記念館」
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/
「南郷庵通信」
http://nangouan.hp.infoseek.co.jp/
(その二)
一燈園時代 大正十二年十一月 ~ 十三年三月
一燈園は、西田天香によって創設された修養団体であり、創設当時は京都東山鹿が谷にあったが、昭和の初めに現在の地山科に移された。放哉はすべてを捨てて裸一貫となり大正十二年十一月二十三日一燈園に身を投じた。
激しい肉体労働を中心にした托鉢修行に耐えられずまもなく翌年三月頃知恩院搭頭常称院の寺男になる。漂泊の始まりである。左の建物は当時のまま移設されて現在の一燈園に保存されている。 (「尾崎放哉記念館」記事)
一燈園時代の作品
ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々
牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
皆働きに出てしまひ障子あけた侭の家
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
月夜戻りて長い手紙を書き出す
落ち葉掃き居る人の後ろの往来を知らず
流る風に押され行き海に出る
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ
夕日の中へ力いっぱい馬を追ひかける
花あはただしさの古き橋かかれり
砂浜ヒョコリと人らしいもの出てくる
昼めし云ひに来て竹薮にわれを見透かす
山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る (「尾崎放哉記念館」収載句)
これらの掲出句で、「つくづく淋しい影よ動かして見る」などは放哉の例句としてよく引用されるものであろう。そして、「定型律俳句」(五七五の定型律)が俳句の本態であって、その本態の影のようなものが、「自由律俳句」と解する立場からすると、この句などは、どうしても、忘れ得ざる一句ということになる。
ちなみに、上記のようなことを背景とすると、その一句の鑑賞は、「つくづく己の定型律の影のような自由律の句は淋しい己の心の投影のようでもある。己が動くとその淋しい影もさまざまな形をしめす」とでもなるのであろうか。このような鑑賞も、「俳句判じもの説」として、その「判じもの」のそれとして、それほどの曲解でもないように思われるのである。
(その三)
須磨時代 大正十三年六月 ~ 十四年三月
常称院を追い出された放哉は、友人住田蓮車の尽力により須磨寺大師堂の堂守となる。かねて念願の「独居無言の生活」の場を得た放哉は、才能をいよいよ輝かし始める。師の井泉水が「放哉君の近作は注意すべきものがある」と褒めたのがこの頃である。
須磨寺は西日本では名刹として知られ常に参拝者であふれている。井泉水筆による
こんなよい月を一人で見て寝る
の句碑が本堂に向かって左側大師堂との中程にある。放哉句以外に芭蕉、蕪村、一茶、子規、良寛の句碑もある。右の写真はこの大師堂の前で写された放浪時代唯一のものと言われている。
いくばくかの静謐の生活を得た放哉もあまり長続きせず、又も寺の坊主たちの権力争いに巻き込まれ寺を追われる身となるのである。 (「尾崎放哉記念館」記事)
須磨時代の作品
一日物云はず蝶の影さす
雨の傘たてかけておみくじをひく
お地蔵様に灯をともす秋の花ばかり
たった一人になり切って夕空
高浪うちかへす砂浜に一人を投げ出す
宝物拝観五銭と大書している
何も忘れた気で夏帽をかぶって
潮満ち切ってなくはひぐらし
むっつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる
銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る
夕べひょいと出た一本足の雀よ
人をそしる心をすて豆の皮むく
仏にひまをもらって洗濯している
こんなよい月を一人で見て寝る
底がぬけた杓で水を呑もうとした
なんにもない机の引き出しをあけてみる
犬よちぎれるほど尾をふってくれる
尻からげして葱ぬいている
色鉛筆の青いいろをひっそりけづって居る
にくい顔思い出し石ころをける
漬物桶に塩振ふれと母は産んだか
大空のました帽子かぶらず
紙が字を吸い取らぬようになった
いつまでも忘れられたままで黒い蝙蝠傘
人殺しありし夜の水の流るるさま (「尾崎放哉記念館」収載句)
平畑静塔氏の「不実物語」(『俳人格』所収「朝顔の臨書」)に次のような定型論に関する示唆に富んだ記述がある。
「俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七字型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっているのである。」
この「曲譜はもはや定まり切った十七型」ということは、ずばり、「俳句の本態というのは定まり切った十七字型」という、この「十七字型の詩型」こそ「俳句の本態」なのだということではなかろうか。すると、「十七字型ではない自由律俳句」をどのように解すべきなのか。この自由律俳句というのは、「定型律俳句」を実態とすると、その実態の影のようなもので、常に、その実態との関係で見え隠れするという理解である(そもそも、定型律俳句が前提となって、それとの関係で自由律俳句というものは誕生しているということを理解すれば足りる)。このことからすると、自由律俳句は、長い長律(長い影)と短い短律(短い影)とがあることは当然のこととなる。
上記の放哉の掲出句では、極端な長律も、極端な短律も見られず、丁度。連句の「長句」
(五七五)と短句(七七)の辺りをうろうろしているという雰囲気である。
○ こんなよい 月を一人で 見て寝る (五・七・五)
○ 尻からげして 葱ぬいている (七・七)
ここでも、「五七五」の「定型」と「七七」の「定型」の魔力のようなものを感じる。
(その四)
小浜常高寺時代 大正十五年四月 ~ 大正十四年七月
須磨寺を出た放哉は再び一燈園に舞い戻っていたが、縁有って福井県小浜常高寺の寺男になる。この寺は破産状態で末寺から排斥されていた住職は居候同然の身分であった。当然ここにも長居の出来なかった放哉はわずか二ヶ月あまりで京都に舞い戻るのである。大正十二年の関東大震災以後京都東山に寓居していた荻原井泉水の所に身を寄せた放哉は、かねて一燈園の同人を頼って遠く台湾に行くことを決意していた。しかし井泉水に堅く静止された放哉はもはや海の見える所で死にたいと願うばかりなのである。
彼の願いに井泉水はかって遍路巡礼をしたことのある小豆島にいる「層雲」同人井上一二に適当な庵を探すことを依頼する。(「尾崎放哉記念館」記事)
小浜常高寺時代の作品
背を汽車通る草ひく顔をあげず
時計が動いている寺の荒れている
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
浪音淋しく三味やめさせている
遠くへ返事して浅野味噌を擂っている
豆を煮つめる自分の一日だった
とかげの美しい色がある廃庭
母のない児の父であったよ
淋しいからだから爪がのび出す
一本のからかさを貸してしまった
小芋ころころはかりをよくしてくれる
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
釘箱の釘がみんな曲っている
お寺の灯遠くて淋しがられる
かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
一人分の米白々と洗ひあげたる
頭をそって帰る青梅たくさん落ちてる
たまらなく笑いこける若い声よ
山寺灯されて見て通る
昼寝の足のうらが見えている訪なう
打ち水落ちつく馬の長い顔だ (「尾崎放哉記念館」収載句)
再び、平畑静塔氏の定型論を見ていくと、
「俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかこれは不詳である。何百年か何千年の昔
から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はないではないか」(平畑・前掲書)と続く。
まさに、同感である。尾崎放哉も、はたまた、種田山頭火も、その師の、荻原井泉水も、「自由律」という独創の曲譜を夢見てそれに挑んだのであろうが、その定型は微動だにするものではなかった。しかし、彼等の血みどろの所業は、その定型律という本態に、影があるということを明瞭にした。そして、振り返って、彼等の所業というのは、
その影の世界を執拗に追い求めたに過ぎないということを、上記の作品群が語っているように想われる。かく解すると、上記の作品群の、放哉の佳句とされている次の作品が、何と「痛々しく」見てとれることか。まさに、誇大妄想にとりつかれたドンキホーテ
のようにも思われてくるのである。
○ 淋しいからだから爪がのび出す
(その五)小豆島・南郷庵時代 大正十四年八月 ~ 大正十五年四月
小豆島・南郷庵時代
日本人は放浪の詩人が好きである。ふと夢を枯れ野に駆け巡らしているかのようである。ここに改めて一人の放浪の俳人を紹介したい。ここ小豆島が易簀の地となった尾崎放哉である。
大正時代に自由律の俳句雑誌が創刊された。荻原井泉水主催の「層雲」である。そして層雲から自由なる心の叫びを詠じた二人の俳人が輩出した。一人は種田山頭火であり、もう一人は尾崎放哉である。彼ら二人が在所定まらぬ放浪の身であったことは決して偶然とは思えない。しかし二人の間でその放浪のもつ意味は大いに違っている。山頭火は自ら求めて行乞放浪をし、放哉は傷ついた獣が安住の場所を求めるように各所を漂ったのである。そして最後の安住の地が、ここ小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」だったというわけである。
これでもう外に動かないでも死なれる 放哉
小豆島にはもう一つ二十四の瞳館という文学記念館がある。勿論、壷井栄の文学館である。栄の名作「二十四の瞳」は昭和三十年に映画化され大ヒット、この島を一躍全国的に有名にした。栄と夫であり詩人の壷井繁治、またプロレタリア文学作家の黒島伝二ら、小豆島から輩出した三人の文学者達は、山頭火、放哉と同時代の人達である。
彼ら三人は島の西部、内海地区の出身である。壷井繁治はしばしば人から、同時期に三人もの作家が、この狭い地域から輩出した何か特別の文学的伝統でもあるのか、と質問されることがあったらしい。繁治は後に「わたしと小豆島」と題するエッセイで次のように書いている。 「ここに特別の理由や背景なぞないだろう。もしあるとすれば、思い当たることは、時代の波というものではなかったのか、激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う。所詮郷土というものは若者をいれるにはあまりにも小さな容器であり、小豆島もその例外ではなかった」と。
もしそうだとすれば時代の波が、この小さな島の青年達を大きな広い世界に押し出し、放哉をこの島のごく小さな世界に押し込めたのではなかったのか。壷井繁治が言うように、この島には文学的伝統も背景もない。しかし文化の匂いのする伝統は宗教的な所に確実に存在する。八十八箇所巡礼、お遍路さんの島である。
折しも大正末期の激動の時代、アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。
放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った。そのとき小豆島に来島「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄「玄々子」らと共に八十八箇所巡礼を行う。その仏縁から放哉は来島、井上杉本両人の世話を受けつつ、「南郷庵」でその生を終えたのは決して偶然の出来事ではない。 (「尾崎放哉記念館」記事)
上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、太字にした個所に注目していただきたい。プロレタリア詩人の坪井繁治の、「激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う」の、この指摘は、いわゆる、当時の社会的風潮の「大正デモクラシー」の繁治流の表現なのであろう。この「大正デモクラシー」の波が、当時の全国津々浦々に蔓延していて、こと、俳句の世界においても、この激動の波に乗り、伝統的な「定型律俳句」に反旗を翻したのが、荻原井泉水らの「自由律俳句」ということになろうか。また、それは、「定型律俳句」そのもの世界においても、日野草城や平畑静塔らの「新興俳句」の誕生ということで、内部崩壊の現象も呈していたのであった。さらに、上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、「アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った」との指摘は、井泉水や放哉の置かれた環境を端的に物語るものであろう。この個人的な境涯性と、そして、その当時の社会的風朝の「大正デモクラシー」こそ、「自由律俳句」の誕生の要因であったということは、井泉水や放哉、そして、山頭火のそれを理解することにおいて必須のことであろう。
(その六)
小豆島・南郷庵時代の作品(その一)
眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
西瓜の青さごろごろとみて庵に入る
町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る
島の小娘にお給仕されている
漬物石になりすましは墓のかけである
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
井戸のほとりがぬれて居る夕風
自分をなくしてしまって探して居る
一日風ふく松よお遍路の鈴が来る
白々あけて来る生きていた
蜥蜴の切れた尾がはねている太陽
木槿一日うなづいて居て暮れた
道をおしえてくれる煙管から煙が出ている
朝靄豚が出て来る人が出て来る
迷って来たまんまの犬で居る
夕靄溜まらせて塩浜人居る
障子あけて置く海も暮れ来る
大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ
元日の灯の家内中の顔がある
風にふかれ信心申して居る
淋しい寝る本がない
雀等いちどきにいんでしまった
いれものがない両手でうける (「尾崎放哉記念館」収載句)
この末尾の「いれものがない両手でうける」の句は、放哉の傑作句の一句とされ、しばしば例句としてとり上げられる。しかし、それはあくまでも、定型律俳句のそれではなく、自由律俳句のそれとして、とり上げられ、鑑賞されるのが常であった(仁平勝著『俳句が文学になるとき』)。しかし、この句は、「いれものがない / 両手でうける」と、まさに、「七・七」の、連句の短句(七七句)、さらに言えば、川柳でその例を多く見る「十四字」の世界そのもののようにも思えるのである。そして、問題はここからなのである。この放哉の句は、それらの「七七句・十四字」の「定型律」の世界のそれではなく、すなわち、平畑静塔の言葉を借りてするならば、「十七字」あるいは「十四字」という、定型が本来有している「曲譜」に因らず、その「曲譜」を拒否して、「いれものがない」状態にしておいて、「両手でうける」と、「己の肉体」をあたかも、いわゆる「曲譜」・「いれもの」・「うつわ」・「型」として、そこに、あたかも、「定型」の「影」のような「不実の世界」を現出して、それを「パントマイム」のように、無言で演じきっているように思えるのである。これは、容易ならざることである。「己の肉体を責めに責め、極限状態にしなければ、この緊張状態は生まれてこない」。そして、井泉水、放哉、山頭火、はたまた、橋本夢道、さらに降って、住宅謙信らの、いわゆる「自由律俳句」の傑作句とされているものには、この「己の肉体を責めに責め、その極限状態のような、緊張関係の、張り詰めた」トーンというものを有している。これらのことからして、「定型律俳句」の「定型」という、いわゆる「魔法の壺」によらずして、それと同じような「俳句」という「世界」を「創造」・「創作」・「現出」・「作品化」しようとする、いわゆる「自由律俳句」に身を投じることは、それだけの覚悟と、それだけの犠牲を強いられるということは、よくよく心しておくべきことなのであろう。
(追伸 これらのことは、知人の言葉でするならば、「定型律俳句」は「盛りつける器」があるが、「自由律俳句」においては、「盛りつける器」がないということと軌を一にするであろう。)
(その七)
小豆島・南郷庵時代の作品(その二)
つきたての餅をもらって庵主であった
夜中の天井が落ちてこなんだ
お金ほしそうな顔して寒ン空
咳をしても一人
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
ゆうべ底がぬけた柄杓で朝
庵の障子あけて小ざかな買ってる
とっぷり暮れて足を洗って居る
雀が背伸びして覗く庵だよ
これでもう外に動かないでも死なれる
いつも松風を屋根の上にいてねる
身近く夜更けのペンを置く
月夜の足が折れとる
墓のうらに廻る
夜釣りからあけてもどった小さい舟だ
枯れ枝ほきほき折るによし
貧乏して植木鉢並べている
仕事探して歩く町中歩く人ばかり
いつも机の下の一本足である
手の指のほねがやせ出したよ
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置きむせている
すっかり病人になって柳の糸が吹かれる
春の山のうしろから烟が出だした (「尾崎放哉記念館」収載句)
「自由律俳句」について、「言う(『言える』)詩形」、そして、「一行詩である」と解する
と、「自由律俳句」は、いわゆる、「俳句」ではなく、「詩」ということになり、その創作者
は、「俳人」ではなく、「詩人」ということになる。すなわち、尾崎放哉は、「詩人」ではあ
るが、「俳人」ではないということになる。しかし、尾崎放哉は、紛れもなく「俳人」であ
って、一般的に「詩人」といわれている人達とは一線を画していることは、自他共に認め
るところのものであろう。これらことについて、上記の放哉作品のうち、その傑作句とさ
れている、「咳をしても一人」を例えて、これは、「俳句」であり、決して、いわゆる、
「一行詩」ではないということを論証すると次のとおりとなる。
この「咳をしても一人」という、たったの「九字(音字)」は、この作者の放哉が、「俳
句(十七音字)」という詩形は、何も、「言わない(『言えない』)詩形」であるということを
熟知していて、さらに、短いものを意識して用いることによって、「俳句」の本来的に有し
ている「象徴性」というものを最大限に引き出しているということが察知されるのである。
すなわち、尾崎放哉の、上記の作品群というのは、何も「言わない(『言えない』)詩形」
の、いわゆる、「俳句」の世界以外の何ものでもない。さらに、日野草城の言葉でするなら
ば、これらの作品群は、尾崎放哉の「本音のつぶやき」であり、その「本音のつぶやき」
が、象徴化され、その象徴化されることにより、普遍性を帯びてきて、その普遍性が、例
えば、上記の作品群のうちの、「咳をしても一人」でするならば、放哉の、この作品を作
るときの、「言葉で表現できないような孤独感・淋しさ」を、万言の重みをもって、こ
の「九字(音字)」に接する人達に語りかけてくるのである。これは、紛れもなく、「俳
句」の世界のものなのである。ただ、一般的な、いわゆる、「俳句」(十七音字の定型律)
と異質のところは、その定型の意識を前提として、その定型という「魔法の壺」を、そ
の俳句創作の曲譜とすることなく、いわば、「自己の肉体」を俳句創作の曲譜とするこ
とによって、全く、その出来上がったものは、定型という「魔法の壺」に因ったものと
同じようなものを現出しているという、この奇妙な、不可思議な、いわば、「自由律俳
句」という幻影のような世界を、これらの作品群に接する人に強烈に語り掛けてくると
いうことなのである。これらのことについて、俳句評論家の仁平勝は、もっと割り切っ
て、次のように表現している。
「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
これを一歩進めて、先の知人のメモでするならば、「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』と裏の『破調的俳句』とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」ということにでもなるのであろうか。いずれにしろ、放哉の「自由律俳句」は、「言わない・言えない詩形」の「俳句」の範疇のものであって、「言う・言える詩形」の「一行詩」のものではないことは、上記の放哉の作品群からして明かなところであろう。
(追伸 井泉水・放哉らの「層雲」の自由律俳句は、「一行詩」であるとのニュアンスが強いとの指摘もあるが、仁平の前掲書によれば、より「俳句」のニュアンスに近いものとされている。知人のこれらに関するメモは、いわゆる「一句一章体」の説明で、このメモにある「二句一章体」が「俳句」の基本であるのに比して、「自由律俳句」はより多く一句一章体のものが多いということを言っているように思われる。そして、放哉の句は、「「咳をしても一人」のように、一句一章体のものが多い。さらに、この「一句一章体」・「二句一章体」は、芭蕉の言葉でするならば、「取合わせ」論であって、ここからしても、こと、放哉のそれは、「一行詩」ではなく、より「俳句」の世界のものであるということがいえよう。)
(その八) 尾崎放哉未発表句 (その一)
はじめに
ここに公表される放哉の句稿集は、一九九六年七月、鎌倉の荻原海一氏宅にて発見されたと言われるものである。放哉の句稿は散逸したものと思われていただけに、二七二一句に及ぶ句が書き綴られた句稿が発見されたことは、まさに驚くべきことであった。勿論、句稿と「層雲」発表句とは同一視することはできないけれども、井泉水の選に漏れた句の中にも新しい視点で注目すべきものもあるに違いないし、何より今後の放哉の研究に多くの示唆を与える点において、格段に貴重な資料ということができる。
発見された当時、放哉研究家として長年の実績のある大阪府立高校教員の小山貴子氏が活宇化していたが、このたび当記念館が荻原家からこれを買い取った機会にすべてを掲載する。
小山氏による句稿の整理手順は以下の次第である。
(1)発見された時に綴じられていた束ごとに番号をつける。1から31まであるが、句稿の番号は、句稿中にある「層雲」掲載句をみて、その発表順に従い若い方から付けた。
(2)句稿の中には、井泉水によって、「層雲」掲載時に付けられた題名が記入されている。
(3)旧字体は新字体に直した。
(4)句稿の中には、井泉水への通信文がある。それもそのまま記した。
(「尾崎放哉記念館」記事)
この貴重な「尾崎放哉未発表句」の全貌を、是非、今後の放哉探索の理解のためにも、一度は触れて欲しいということで、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)との若干の照合をしつつ、以下、紹介をしておくこととする(この「尾崎放哉記念館」記事のなかには、記されていないが、☆印のものが、荻原井泉水が添削したものである)。なお、この「尾崎放哉未発表句」については、平成九年三月三十一日付けの「東京新聞」に報道されている。
ここで、いわゆる、井泉水が添削を施していることが、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)では、
興味があるとして、これを是とする、俳人・平井照敏、小説家・吉村昭(放哉を主人公にした小説『海は暮れきる』の作家)並びに放哉研究家・瓜生鉄二の考え方と、これを否とする放哉研究家・本田烈の考え方が紹介されているが、「自由律俳句」を「俳句」と解する立場からすれば、その添削(芭蕉の言葉でするならば斧正)は是とされるし、これを「一行詩」と解する立場からすると、その個人の独創性を重視することからして、これには否定的な見解をとることとなろう。そして、荻原井泉水が、尾崎放哉の句に大幅な手入れをしているというこの一事をもってしても、井泉水と放哉とが、己らの「自由律俳句」について、それを「俳句」と解していたことは明白であろう。(ここでも、「句会」などの「座」を媒体としての共同創作的な要素のある「俳句」と、完全に密室での個人的創作を要素とする「一行詩」とでは自ずからその差違が生じて来る。そして、この差違も、実は、「俳句」の正体は、「五七五という定型」が、その曲譜であり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎないという、いわゆる、平畑静塔の「定型不実論」と大きく関係してくると思われるのである。しかし、ここでは、それらのことについては、触れないこととする。また、知人のメモにも、この「放哉未発表句」についてのものがあるが、ここでは、それらについも触れないこととする。また、「放哉未発表句」については、解説を加えないで、「句稿」毎に紹介するに止め、それらの紹介の後で、稿を改めて関連することなどを記述することとする。)
(その九) 尾崎放哉未発表句 (その二)
句稿(1)
※○小浜ニ来て
層雲雑吟 尾崎放哉
小浜のオ寺で
今日来たばかりの土地の犬となじみになってゐる
を世話になる寺をさがして歩くつヽじがまっ盛だ
竹の子竹になって覗きに来る窓である
朝から十銭置いてある留守の長火鉢
其の侭はだしになって庭の草ひきに下りる
和尚とたった二人で呑んで酔って来た
汽車通るま下た草ひく顔をあげず(註・原案)
☆ 背を汽車通る草ひく顔をあげず
あかるいうちに風呂をもらいに行く海が光る
カンヂキはいて草ひくかげが一日ある
重たい漬物石をくらがりであげとる
僧の白足袋ばかり見て草ひき話す
今日来たばかりで草ひいて居る道をとはれる
石だんあがって行くたそがれの白足袋である
女枕をして兎二角寝てしまった
雑草に海光るお寺のやけ跡(註・原案)
☆ 雑草に海光るやけ跡
くらい戸棚をあければ煮豆が腐って居た
たきものたくさん割って心よきくたびれ
竹の子の皮をむいてしまってから淋しい
あたまをそって帰る青梅たくさん落ちてる
そったあたまが夜更けた枕で覚めて居る 放哉
脚気でふくれた足に指をつっこんで見る
手紙入れに行く海風落ちた夕方
たった一人分の米白々と洗ひあげたる(註・原案)
☆ 一人分の米白白と洗ひあげたる
草ひけばみゝず出て来る春日ゆるやか
青梅たくさん落ちて居るみどりのくらがり
石だん上る人あり草ひく旅人として
草をぬく泥手がかはく海風の光り(註・原案)
☆ 草をぬく泥手がかはく海風光り
障子切り張りして守番している顔だ
火ばしを灰に突っこんでいんでしまった
だれも居らぬ部屋に電気がついた 放哉
雑吟 尾崎放哉
かまどが気持よく燃える春朝
時計が呼吸する音を忘れて居た
豆腐屋朝をならし来るよい男だ
爪の土を堀ってから寝てしまう
時計が動いて居る寺の荒れてゐること(註・原案)
☆ 時計が動いて居る寺の荒れてゐる
万年筆がもたるゝ漬物臭い手である
和尚茶畑に居て返事するなり
あたへられたるわが机とていとしく
いつからか笑ったことの無い顔をもって居る
洗いものしてしまって自分のからだとなる
木の下掃きつゞけるよいお天気となる
下手な張りやうの侭で障子がかわいてしまった
のびたあごひげなでてのみなつかしみ居る
月夜となってしまった遂に来ぬ人
松葉数えて児等が遊べる術(すべ)を知らず
乞食に話しかける心ある草もゆ(註・原案)
☆ 乞食に話しかける我となって草もゆ
血豆をつぶす松の葉を得物とす(註・原案)
☆ 血豆をつぶさう松の葉がある
考え事をしてゐろ田にしが歩いて居る
風が落ちたまゝの駅であるたんぼの中
朝の青空のその底見せきれず 放哉
寒い顔して会釈し合った
林檎の真ッ赤な皮が切れ/\にむかれた
さっきから晩の烏がないて居る草ひくうしろ
舟の灯を数えてから寺の門をしめる
雪の戸をあけてしめた女の顔
蟻を見付けた大地に顔触れさせて居る
妻が留守の朝からの小雨よろし
障子に針がさしてあるさびた針
障子のひくい穴から可愛いゝ眼を見せる
児の対手をして絵本を面白がってる 放哉
お山の晴れを松葉かき居り声あげんとす
米とぎ居るやあかつきの浪音
たくましい手できざみが上手にまるめられる
たった一軒の町の本屋で寄られる
くるわの中の赤いポストの昼である
和尚が留守の豆をいってるはぢける
するどい風の中で別れようとする
銃音がしてせっせと草をぬいて居る
どんどん泣いてしまった児の顔
晴れて行く傘で肩に乗せられる 放哉
窓に迫り来ろ雑草の勢を見る
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
新緑の山となり山の道となり
ポストに落としたわが手紙の音ばかり
急いで行く径の筍が出て居る
鏡の底のわが顔ひげのばしたり
草花一つ置き夫婦のみの夜更けたる
地図を見て居る小さい島々ある
鶏小舎鶏居らず春なり
たった一つ去年の炭団が残って居る 放哉
怪しからず凍てる夜となり炭団火にして参らす
去年の炭団がいつまでも一つごろ/\して居る
夕ベ煙らして居る家のなかから泣くよ赤ん坊
赤ン坊動いて居る一と間切りの住居
雑踏のなかでなんにも用の無い自分であった
家をたてること話し雑草やかれる
みんな泣いて居る人等にランプが一つ
病人の蜜柑をみんなたべてしまった
めし粒が堅くなって襟に付いて居った
淋しさ足らず求め足らず 放哉
層雲雑吟 尾崎放哉生
樋のこわれをなほし水だらけになってゐる
海いっぱいに尻を向け石だんの草をひいてる
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
猫が斜に出て行った庫裡の昼すぎである
あす朝の茶の芽をつむ約束をして和尚と寝てしまった
フトつばくろを見し朝の一日家を出ず
畳のその焼け焦げの古びたるさへ
麦わら帽のかげの下一日草ひく
きせるがつまってしまったよい天気の一人である
毎朝ごみ捨てに来て若い藪の風に立つ
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
ひょいとさげた土瓶がかるかった
若葉にむっとしてお寺をさがして居る
冷え切ったを茶をのんで別れよう
蚤がとんで見えなくなった古い畳だ
夕陽の庫裡は茶潰をすゝる音ばかり
へりが無い畳の淋しさが広がる
あすの米洗いあげて居る月の障子となる
頭をそって出る小さい町の海風
花火をあげて海に沿ふて小さい町ある 放哉
雑吟 尾崎放哉
ひねもすゼこやら水音がして山寺なりけり
すゝけた障子にわがかげうつる夜となる
山ふところの水遠くひく太い青竹
庫裡の大きな柱に古い五寸釘が打ってある
土瓶がことこと音さして一人よ
どろぼう猫の眼と睨みあってる自分であった
番傘ひらいては干す新緑の寺のしゞま
雨があがったらしい児等が遊んで居る声が近い
魚釣り見て居ろわれに寄りそう人ある
寝ころぶ一人には高い天井がある 5/21
層雲雑吟 尾崎放哉
筍筍いそいで竹になってしまった
大きな古足袋もらってはきなれて居る
白い衣物ばかりたゝんで居る夜である
小さい茶椀で何杯も清水を呑む
かん詰の缶を捨てる早春の藪
留守番をして地震にふられて居る
焼け跡己に芽ぐまぬ木とて無く
落ちそうな大岩の下で清水絶えず
木の芽かゞやきあつい茶を出される
雪ふるにまかせ赤い灯に集ってゐる
歯みがき粉こぼし朝の木の芽の道
バケツがころがって泣く夕風
力いっぱいの二た葉持ちあげたり
夜通し水走る宿で夢を見てゐる
手を振り足を振り朝は新らしい空気
澄み切った空で眼が覚め出す
青梅木の下す鼻値見え来る
白たゝけた爪の色を眼の前にしてゐる
かまどの暗い口に火をつけてやる
静な朝の雀をさがす一つ居る 放哉
せんべい布団にくるまって居る剃り立ての頭である
腹の臍に湯をかけて一人夜中の温泉である(註・原案)
☆ 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である
針の小さい光る穴に糸を通す
窓から女の白い手が切手を渡してくれた
病人らしう見て居る庭の雑草
浪音淋しく三味やめさせて居る
豆を水にふくらませて置く春ひと夜
姉妹仲よく針山をかれる 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
「障子あけて置く海も暮れ切る」は尾崎放哉の代表句。ところが、この句、原作は「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」だった。これはだらっとして潔さを欠く。添削したのは放哉が師事した荻原井泉水。
この「放哉全集」第一巻には、井泉水に送られた放哉句二千七百余りが収録されている。私たちが知っていた放哉句は、その句稿から井泉水が選んで発表した一部の作品だった。しかも、井泉水はしばしば大胆な添削をしていた。
というわけで、この全集によって放哉像が変わるだろう。有名な「咳をしても一人」「月夜の葦が折れとる」などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。
句稿ではさきの障子の句の後に、「沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた」がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ。
朝日新聞平成13年12月16日付「日曜書評欄」より「坪内稔典・書評」
(その十) 尾崎放哉未発表句 (その三)
句稿(2)
※○村の呉服屋
層雲雑吟 尾崎放哉
古い汽車の時間表を見て居た二人であった
石のぬく味を雑草に残して去る
蜘妹が巣をつくってる間に水を打ってしまった
はぢめての道の寒夜足になじまず
橋に来てしまって忘れたものがあった
土瓶のどっかにひゞがあるらしい
お寺にすっこんでそれから死んでしまった
豆ばかりたべて腹くだしをして居る
古椅子ひっぱり出して来て痩せこけた腰を下ろす
きせるのらをを代へるだけの用で出て行く
烏がひょいひょいとんで春の日暮れず
一文菓子屋の晩の小さい灯がともる
かぎりなく蟻が出てくる蟻の穴音なく(註・原案)
☆ かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
ネクタイが鏡のなかで結ばれる
いつしか曇る陽の草ひくかげが消えた
古くなった石塔新らしい石塔
木の梅を売る双手を組む
人にだまされてばかり円い夕月ある
いち早く朝を出てしまった船である
水引がたんとたまった浅い箱で 放哉
れいめいの味噌すり鉢がをどること
すりこ木すり鉢にそへて庫裡の朝ある
遠くへ返事して朝の味噌をすって居る
汐干の貝が台所でぶつぶつ云ってる
ほんの一ちょうしで真ッ赤になってるよ
熱のある手を其侭妻に渡す
ころころころがって来た仁丹をたべてしまった
あごひげをそる四角な鏡である
わが歳をかぞえて見る歳になって居た
木の芽を盗みに来る窓で叱らねばならぬ 放哉
柿若葉の頃の二階を人に貸してる
かまどちょろ/\赤い舌出し明けそむ
朝のかまどの前に白いあぐらをくんでる
地震の号外をたゝき付けてとんで行った
読んだ手紙もくべて飯が煮えたった
火消壷の暗に片手をつっこむ
猫に覗かれる朝の女気なし
豆腐をバケツに浮かべて庫裡の夕となる
大がまで煮て居る筍うらの筍
青梅ふみつぶして行く新らしい下駄
かまどが真ッ黒な日あけてるだけの庫裡 放哉
冷酒の酔のまはるをぢっと待って居る
いつもうたって居る竹藪の中の家
吹けど音せぬ尺八の穴が並んで居る
竹藪ほったらかして障子が釘付けにしてある
米をはかる時竹藪の夕陽
あるお茶の葉をむす湯気の中の坊主頭である
老ひくちて居る耳の底の雷鳴
手作りの吹き竹で火を吹けばをこるは(註・原案)
☆ 手作りの吹き竹で火が起きてくる
茶わんのかけを気にして話しして居る
冷え切った番茶の出がらしで話さう 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
二十一歳の冬に三度目の肺結核の発症をみて、末期患者となった。絶対安静の身で、私は初めて尾崎放哉の句にふれた。一句一句が私の内部に深く食い入り、死の追った間の中でかすかにゆらぐ光明も見た。死んだ折には、放哉の句集を棺におさめて欲しいと弟に頼んだ。幸いにも実験に近い手術によって死をまぬがれたが、その後も放哉の句は、私と共にある。死とはなにか生とはなにかという問いがそれらの句にあって、私は放哉を主人公とした「海も暮れきる」という小説も書いた。(吉村昭・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)
(その十一) 尾崎放哉未発表句 (その四)
句稿(3)
雑吟 尾崎放哉
竹切る音の人が顔を見せない
遊びつかれた児に寝る灯がある
椿の墓道を毎朝掃くことがうれしい
釜の尻光らして春陽に居る
寺はがらんとして今日の落つる陽ある
車屋貧乏くさい自分を見て通った
自分の母が死んで居たことを思ひ出した
白い小犬がどこ迄も一疋ついてくる
たぎる陽の釜のふたをとってやる
犬がもどって来ない夕あかりに立つ 放哉
今朝の花のどの枝を切らう
暮れ切った坊主頭で居る
戻りは傘をかついで帰る橋であった
焼け跡一本の松の木に背をもたせる
蔵の横の残雪に痛む眼ある
時計がなりやむ遠くの時計がなり出す
月が出て居る障子あけんとす
菊の鉢買って来て客とはなして居る
傘をくる/\まはして考え事してゐた
好きな花の椿に絶えず咲かれて住む 放哉
いちにち山椒煮る特佃の香にしみ込んで居る
貧乏徳利をどかりと畳に置く
寺の名大きく書いた傘ばりばり開いて出る
妻を風呂に入れて焚いてやる
雨を光らして提灯ぶらさげて出る
バラの垣が無雑作に咲き出した
桜が葉になって小供が又ふえた
咲き切った桜かな郊外に住む
花の雨つゞきのわらじが乾かぬ
山吹ホキと析れて白い 放哉
朝寝すごして早春の昼めしをたべとる
古本の町の埃をばたばたはたいてゐる
たった一つ残ってゐる紙鳶に青空ある
うしろから襖をしめてもらう泥手である
うす陽一日くもらせて庭石ある
日曜日の一庭を歩いてゐる蔓草
小さい布団で児がふか/\と寝てゐる
埃が立たぬ程の雨の女客ある
笑ふ時の前歯がはえて来たは
から車大きな音させて春夕べ 放哉
処女の手のひらのやうな柿若葉の下に立ってる
蟻にかまれたあとを思い出してはかいてゐる
筍堀った穴にふっくり朝の陽がある
筍堀りに主人の尻について行く
眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る
ごみ捨場に行く道が雑草でいっぱいになった
障子張りかへて若葉に押されてゐる
はでな浴衣きて番茶をほうじてゐる
妻の下駄ひっかけて肴屋の肴見に出る
漬物桶の石がぎっしり押して居る 放哉
お寺はひっそりして国旗出してゐる
みどりの下かげの若い人等の話し
お寺の青梅落ちる頃を児等は知ってゐる
ボタンが落ちた侭でシヤツを着てゐる
わが行く手の提灯一つ来るさま
いっぱいつまってゐる汽車に乗りこんでしまった
水の輪ひろがる山の池の出来事
空っ風の日の児等はどっかへとんで行ってしまった
泥手で金勘定をしてゐる風の中
梅も咲いて居る小さい流れありけり 放哉
(注)「思ひ出してゐる」↓「恩ひ出した」
(「尾崎放哉記念館」収載句)
放哉は、会社づとめに失敗し、病いにもとりつかれて、社会から完全に脱落した、いわゆる東大出エリートだが、その自由律俳句や書簡などによって、息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる。今回発見された二千余句によっても、その態さらに如実のはず。(金子兜太・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)
(その十二) 尾崎放哉未発表句 (その五)
句稿(4)
層雲雑吟 尾崎放哉
芭蕉の広い葉であふがれて居る蒼空
のびた爪切れば可愛いゝわがゆびである
暗がり砂糖をなめたわが舌のよろこび
犬が一生懸命にひく車に見とれる
干した茶を仕舞ふ黒雲に追っかけられる
百姓らしい顔が庫裡の戸をあけた
ごはんを黒焦にして恐縮して居る
味噌汁がたぶづく朝の腹をかゝヘ込んでる
朝のごはんの大根一本をろしてしまった
洗いものがまだ一つ残って居ったは
晩をひっそり杓子を洗ふいろいろな杓子
眼鏡かけなれて青葉
ほったらかしてある池で蛙児となる
板の間をふく朝の尻そばだてたり
漬物くさい手で(一字不明)句を書いて
そろはぬ火ばしの侭で六月になった
今日切りのわが茶椀に別れようとする
書きよい筆でいつも手にとられる
古下駄洗って居るお寺はたれも来ぬ
針箱を片付けてから話す 放哉
暦が留守の畳にほり出してあるきりだ
暦をあけて梅雨の入りを知った顔である
空家の前で長い立話しをして居た
児等が大きくなって別荘守がぼけとる
釘箱の釘がみんな曲って居る
水のつめたさに荷が下ろされて居る
夫婦でくしやめして笑った
二人の親しみの長火鉢があるきり
青梅酢っぱい顔して落ちとる
道でもないところを歩いて居るすみれ 放哉
和尚の不自由な足が夜中の廊下で起きとる
一茎の草ひく蟻の城くづれたり
ひねもす草ひく晩の豆腐屋の声を身の廻りにして居る
草ひくことの毎日のお陽さんである
鳶ひょろひょろ草ひくばかり
一日歩きつゞける着葉ばかりの山道
そっとためいきして若葉に暮れて居る
かたい机でうたゝ寝して居った
提灯と出逢って居る知った人である
蟻にたばこの煙りをふきつける 放哉
かくれたり見えたり山の一つ灯が消えてしまった
送って来てくれた提灯の灯にわかれる
わが眼の前を通る猫の足音無し
お寺の灯遠くて淋しがられる
昼寝起きの妻が留守にして居る
豆を煮つめる一日くつくつ煮つめる(註・原案)
☆ 豆を煮つめる自分の一日だった
こんな山ふところで耕して居る
二階から下りて来てひるめしにする
火事があった横丁を風呂屋に行く
鍋ずみが洗っても洗ってもとれぬ朝である 放哉
桜の実がにがいこと東京が遠い
煙管をぽんとはたいてよい知恵を出す
顔の紐をゆるめて留守番をしてゐる
淋しい池に来てごはん粒を投げてやる
葉になった桜の下でたばこを吸はう
すねの毛を吹く風を感じ草原
蛙大きな腹を見せ月夜の後ろある
いり豆手づかみにしてこぼれる
蛙を釣って歩るくとぼけた顔だ
花活けかへた日の午后の客あり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
放浪の俳人尾崎放哉。ホトトギス、国民新聞等で素晴しい俳句を発表し、東大を出て若くして保険会社本社課長となり乍ら飲酒癖で追社。再起もことごとく失敗、一燈園での奉仕の生活に心の救いを求めても徹し切れず、寺男を転々として孤独と貧苦と病苦に苛まれて死んだ放哉。その中で詠われた、極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる。稲畑汀子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)
(その十三) 尾崎放哉未発表句 (その六)
句稿(5)
層雲雑吟 尾崎放哉
久々海へ出て見る風吹くばかり
半鐘ならされた事無き村のこの海
障子がしめてある海があれて居る
海がよく凪いで居る村の呉服屋
高下駄傘さして豆腐買ひに行くなり
よい月をほり出して村は寝て居る
池水しわよせて京に来て居る
マッチの棒を消す事をしてみる海風
さんざん雨にふられてなじみになってゐる 放哉
筍すくすくのび行く我が窓である
障子の穴から小さい筍盗人を叱る
餅を焼いて居る夜更の変な男である
古釘にいつからぶらさげてあろものを知らず
蜘蛛がすうと下りて来た朝を眼の前にす
銅像に悪口ついて行ってしまったは(註・原案)
☆ 銅像に悪口ついて行ってしまった
探し物に来て倉の中で読んで居る
雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る
たもとから独楽出して児に廻して見せる
今日も一羽雀が砂あびて居るよ草ひく 放哉
とんぼが羽ふせる大地の静かさふせる
きちんと座って居る朝の竹四五本ある
蛙ころころとなく火の用心をして寝る
破れうちはをはだかの斜にかまへる
所在不明の手紙がこっそり戻って来て居る
只今居る常高等といふオ寺は妙心寺派の禅寺で中々立派なものです(非常に荒廃して居ますが)淀君の末の妹(京極家ニ嫁して)が建立されたもの、問題にならぬ程あれはてゝ居るけれど庭は実に見事なものです淀君の妹といへば美人であったろうと思います、---一人庭の草ムシリをしながら次の九句をつくって見ました 放哉
一と処つヽじが白う咲いて廃庭
廃庭大きな蛙小さな蛙
蛙がとんだりはねたりして池の夜昼
とかげの美くしい色がある廃庭
廃亭に休らうわれは大昔しの人
昔しの朝の風吹かせ一木一石
女がたてた大きなお寺だ
廃庭雑草の侭の数奇を尽す
ホキと折る木の枝よい匂ひがする
○以上、九句廃庭吟御叱正下さりませ
青梅憂然と落ちて見せる
青梅かぢって酒屋の御用きゝが来る
青梅白い歯に喰ひこまれる
節穴さし来る光り尊し
梅雨入りのからかさに竹の葉さはらせる
小供を抱いてお客と話してゐる
児の笑顔を抱いて向けて見せる
折れ釘も叩きこんで箱をつくってしまった
佛のお菓子をもらう小供心である
赤いお盆をまんまろくふいて居る 放哉
蛙たくさんないて居る夜の男と女
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
小鳥よくなれて居て首をかしげる
鳥寵下ろす二の腕の春だ
なつかしさうな鶯遠くへ逃げてはなく
下手くそな鶯よ山路急ぐとせず
雪国の長い家のひさしに逗留してゐる
はるか海を見下ろし茶屋の婆つんぼであった
もるがまヽにつかって居る一つの土瓶
豆のやうな火を堀り出し寒夜もどって居る 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
捨てても捨てても、なお捨てきれぬ思いが句となってこぼれおちる。五七五の韻律や季語の約東ごとをおのずからはみだし、食い破る。これが表現というものであれば……わたしも生きていける。そう思った二十代のわたしにとって、放哉は生きるよすがだった。 極限の短詩型、ことばのミニマル・アート。日本語が放哉を持ったことを、わたしは誇りたい。(上野千鶴子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)
(その十四) 尾崎放哉未発表句 (その七)
句稿(6)
層雲雑吟 尾崎放哉
葉桜の暗夜となり蛍なりけり
木槿の垣に沿ふて行く先生の家がある
桜葉になってしまってまだあき家である
葉桜の下で遊びくたびれて居る
木槿の垣から小大がころがり出す
木槿壇の上を豆腐屋の顔が行くよ
木槿の葉のかげで包丁といでいる
松山松のみどり春日ならざるなし
燃えさしに水かける晩の白い煙り
すくすく松のみどりの朝の庭掃く
竹の葉がふる窓で字を習ってゐる
底になった炭俵の腹に手を突っ込む
豆腐屋の美くしい娘が早起きしてゐる
田舎の床屋で立派なひげをはやしてゐる
少しの酒が徳利ふればなる
久し振りに英語の字引の重たさ手にする
池で米とぐかきつばたは紫
池一つ置いて静かなあけくれ
お池のなかの黒ン坊のゐもり
縄が障子にぶつかる元気がよい 放哉
寺に来て居て青葉の大降りとなる
サッとかげる陽ある躑躅まっ盛り
物干で一日躍って居る浴衣
汐ぶくむ夕風に乳房垂れたり
砂山下りて海へ行く人消えたる
芹の水濁らかすもの居て澄み来る(註・原案)
☆ 芹の水濁らすもの居て澄み来る
桜咲き切って青空風呼ぶさま
青葉日かげの石段高々とある
桜ひとかたまりに咲き落ちて池水
軒の口ガ手をのばす夕月 放哉
借金とりを返して青梅かぢって居る
落葉ふんで来る音が大であった
四角にかり込まれた躑躅がホツ/\花出す
池の朝がはぢまる水すましである
ぱく/\返事をして豆がいれる
落葉どっさり沈めて澄み切った池だ
煙草のけむりが電線にひっかゝる野良は天気
煙草のけむりがひっかゝる高い鼻である
小米花数限りなく白うて
池の冷めたさにごらす米のとぎ水 放哉
土塀に突っかい棒をしてオルガンひいてゐる学校
児にヨジユームを塗ってやる朝の空気だ
黒い衣ものきて後ろ姿を知らずに居た
夜の枕があたまにくっ付いて来る
今朝はどの金魚が死んで居るだらう
話しが間遠になって町の灯を見る
言ふ事があまり多くてだまって居る
小さな人形に小さいかげがある
鯖を一本持って来て竹を切っていんだ
話しずきの方丈にとっつかまって居る 放哉
梅雨暗れの七輪ばたばたあふいで居る
筍くるくるむいてはだかにしてやる
芙莫の小さい提灯が赤うなって来た
石油かんを叩いてへこましてしまった
茶の出がらしが冷えてゐる土瓶である
茶椀の欠けたのが気になってゐる朝である
墨すり流しつヽ思はるること
消し炭手づかみにしてもって来る
たばこを買ってしまって一銭しか残らぬ
山吹真ッ黄な蛇をかくしてゐる 放哉
口笛吹かるゝ四十男妻なし
うつろの心に眼が二つあいてゐる
花火があがる音のたび聞いてゐる
天幕がたゝまれて馬がひかれて行った
一日曇ってゐる手習ひしてゐる
破れたまんまの障子で夏になってゐる
夜がらすに蹄かれても一人
淋しいからだから爪がのび出す
電燈が次の部屋にもって行かれた
重たいこうこ石をあげる朝であった 放哉
髪を切ってしまった人の笑顔である
蛙が手足を張り切て死んでゐる
肉のすき間から風邪をひいてしまった
裸の人等のなかの風呂からあがってくる
屋根草風ある田舎に来てゐる
障子のなかに居る人を知ってゐる
赤ン坊火がついたやうに泣く裏に暮れとる
寝そべってゐる白い足のうらである
板の間光らせて冷へた茶を呑んでゐる
苔がはえて居る墓の字をよまんとす 放哉
襖あけひろげ牡丹生けられたる
たくさんの墓のなか花たててある墓
牡丹あかるくて読まるゝ手紙
山の茂りの人声下りて来る
人を乗せて来た戸板でさっさといんでしまった
米粒一粒もたいなく若葉に居る
汽車でとんで来たばかりの顔である
痛い足をさすりさすり今日もくれて来た
女房大きな腹をしてがぶがぶ番茶を呑んで
物を乞はれて居ろわれは乞食
放哉何くれとなく母の手助けをして女の子である
なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
他人同志が二人で寝起きしてゐる
貧乏ばかりして歳頃となってゐる
わが歳を児のゆびが数へて見せる
橋までついて来た児がいんでしまった
母の無い児の父であったよ
牛乳コトコト煮て妻に病まれてゐる
卵子たくさんこわしてあいそしてくれる
今朝も町はづれの橋に来てみる 放哉
裸ン坊がとんで出る漁師町の児等の昼
波音になれて住む若い夫婦である
渚消されずにある小さい児の足跡
小さい橋に来て荒れとる海が見える(註・原案)
☆ 小さい橋に来て荒れる海が見える
一本松とて海真ッ平らなり
海の旭日ををがんで二階から下りる
えぼし岩目がけて朝の釣舟をやる
ひとひらの舟に乗る深い海である
島に人柱ばせて海は波打つ
手からこぼれる砂の朝日 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
第一巻 句集
定型俳句時代 自由律俳句時代 句稿1 句稿2
放哉は生前に句集を持つことはなかった。没後すぐ、荻原非泉水によって句集『大空』が編まれ、広く愛唱される放哉はほとんどこれによる。
然るにこの全集を編むための調査の結果、新聞や雑誌への投稿句が多数確認された。それは大正三年ころまでの定型句でも、以後の自由律の句についても同様である。埋もれていた句が新たに見出されるということは、放哉の句を全面的に読むことはできなかったということである。この巻では、すべての放哉句を、初出の句形で発表順に掲載する。さらに、残存する膨大な句稿も併録する。井泉水主宰の『層雲』ヘの句稿として井泉水宛に送ったもので、これまでにその一部が幾人かの手にあり、存在は知られていたが、一九九六年七月、二七二一句にのぼる句稿が荻原家からまとまった形で発見された。
全句と句稿を併せ、放哉『句集』としたこの一巻は、多くの読者に瞠目して迎え容れられるに違いない。「放哉全集(筑摩書房)」
(その十五) 尾崎放哉未発表句 (その八)
句稿(7)
層雲雑吟 尾崎放哉
※○足のうら
妻楊枝噛んでは捨てるなん本でもある
だんだん風が強くなって来て泊る気になって居る
煙草の煙りにごまかされて出て来た顔である
この蟹めと蟹に呼びかけて見る
かはいや小さくても赤い蟹の親ゆび
松かさぼんやりして居る庵にたゝき付けられる
雨のあくる日がよく晴れ松かさからりと落ちる
火が消えて居る火鉢をかきまはしてほり出す
呼び返して見たが話しも無い
海を前に広げて朝から小便ばかりして居る
あらしが一本の柳をもみくちやにする夜明けの橋(註・原案)
☆ あらしが一本の柳に夜明けの橋
あらしの部屋にはランプが一つ灯いて居る
みんな寝込んで居る家並の上に赤い雲を流し嵐はぢまる
あらしの中のばんめしにする母と子
あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る
あらしのなかの虫一つなく一つなきけり
あらしの晩で椎拾ふ相談が出来た
あらしのあとの小さい鶏頭起してありく
風が落ちた神主の顔に夜があけて居る
よい凪の月無きかゝる夜島島生れし
波にかくれる島にて舟虫はひけり 放哉
芒がどんどんのびて行く島のお天気つゞき
雨の日は遠くから燈台見て居る
ゆっくり歩いても燈台に来てしまった
旅人若く島の芒穂に出でず
風がどこに行ってしまったか海
波のうねりのだんまって居る力
島々皆白波の詞を抱き
白波打ちかへし渚秋なりけり
ひょいと呑んだ茶椀の茶が冷たかった
朝のあついお茶をついで呑む 放哉
いつの間に風が落ちたか暮れとる
石油の匂ひが好きな女であった
水平線をはなれ切った白雲
石炭酸の匂ひがする裏町ぬける
砂山砂から顔出して石塔
道しるべ横さまに打ち込まいでもよさそう
小鳥飼ふ事が上手でだまりこんでゐる
うたが自慢でおばゞ酒をほしがる
朝皃の蔓のさきの命ふるはす
風の藤棚の下ベンチが無い
緋鯉がにじんだ侭で暮れる 放哉
大きな鯉も居る藤も垂れて居る
雨蛙がぴったり手に吸ひ付いた朝風
なぜか逢ひともない人の顔だが
鳶だんだん大きな輪をかいて高いぞ
針箱しまって晩のにぎやかさにかゝる
ボケの花が一番すきな木瓜の花
数えて居るうちに鳩の数がまぎれて来る
そうめん煮すぎて団子にしても喰へる
づいぶん強い風であった柘榴が落ちない
庭下駄庭石にくっ付いて居る 放哉
もう汽車に乗ったかな土瓶がからっぽだ
焼米ゆびからこぼれる音を拾ふ
小包の紐をたんねんにほどいてたばねる
庭石格好よく据えてあすのことにする
風が落ちたやうだ小供の泣く声
ハンケチ洗って干す秋陽となり
蝉がちっとも晴かぬやうになった大松一本
歯みがき粉がこぼれて留守にして居る
墓へ行った足音が今戻って来る
藤棚洩れる秋陽を机の前にす 放哉
海辺の畑の垣とても無く夾竹桃真ッ盛り
石が火になって炭とをこって居る
血を吸ひ足った蚊がころりと死んでしまった
田を植えて行く村の時者さんが通られる
こんな町中の三角の水田であった
(槌か大久保新田、辺りの記憶)
鎌を光らして朝の山にはいる
口をあけないでしまった柘榴だ
洗濯竿にはわがさるまたが一つ
足のうら洗へば白くなる
すら/\書ける手紙で二三本書く 放哉
涼しさ担ひ来し荷を下ろす
石山虫なく陽かげり
石山雨をふるだけふらせて居る
青梅落として居る留守らしい
ざるから尾頭ぴんと出して秋風
自分をなくしてしまって探して居る
帯のうしろに団扇をさしてお婆よく歩く
三味線の稽古して御詠歌をしへて居る
帽子にとまった蛍を知らない
蛍籠の蛍の匂ひ 放哉
河原の蛍が光る部屋に案内される
昼の蛍の襟が赤い兵隊さん
蛍すいすい橋は風ある
叱られた児の眼に蛍がとんで見せる
そんな遠方までとんでもよいか池の蛍
夜更かしてもどる蛍がよく光ること
どうせ濡れてしまったざんざんふりの草の蛍(註・原案)
☆ どうせ濡れてしまった夜空の草の蛍
風よ高々忘れたような蛍
光らぬやうになった蛍寵吊るして居る
光ること忘れて死んでしまった蛍 放哉(註・原案)
☆ 蛍光らない堅くなってゐる
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空
はやり風邪で死ぬ人を焼く煙突がいそがしい
大松一本雀に与へ庵ある
大松によりかかる蟻の音全く無し
根も葉も無い話しで田舎の夜が更ける
月の出がをそいからの庵にもどる
への手動かすきりの烏が遠くなってしまった
雨の烏がたまって居て無精者で
蚤とり粉たくさんまいてくしやみして居た
堤へあがる海への道消えたり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
第二巻 書簡集
放哉の書きつづった書簡について、これは一級の文学であるといち早く喝破したのが井泉水であり、没後、間をおかず『層雲』誌上で書簡の提供を呼びかけ発表した。書簡文学の系譜に連なる雄峰と言えるものであろう。俳人放哉はまた一面、手紙の人でもあった。就中、小豆島へ渡ってからは、独居無言と言いつつ、おびただしい書簡を発し、返書を求めた。多いときは一日に三通も同一人に書き送ったりしている。閉ざされた空間に小さく小さく穿たれた、世界への窓のようなものであった。「放哉全集(筑摩書房)」
(その十六) 尾崎放哉未発表句 (その九)
句稿(8)
層雲雑吟 尾崎放哉
海が少し見へる小さい窓一つもち事たる(註・原案)
☆ 海が少し見へる小さい窓一つもつ
わが顔があった小さい鏡を買うてもどって来る(註・原案)
☆ わが顔があった小さい鏡買うてもどる
こゝから浪者きこえぬほどの海の青さの
畳がえしてもらった其の日から庵の主人で居る
わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなって居る
すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ
久し振りに島の朝の木魚叩いて居りけり
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
井戸水汲みに行くまっ昼西瓜がごろごろ寝てゐる
日が暮れゝば寝てしまうくせの窓一つ残し
わが手わが足の泥を洗ひ今日の終り
七輪あふいで居れば飯が出来汁が出来
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
どっと山風に消えたちょろ/\風呂の火
藁をたいた土の匂ひをふと嗅いで寝る
ほりかけの石塔の奥で晩酌やって居る
小さい窓から茶がらをこぼす新月
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
新らしい石塔がたった夜のわれは寝るとす 放哉
をさな心のランプを灯し島の海風
島の墓にはお盆の夕空流れ
晩のかげがうつる項となる二枚の障子
四五人静かにはたらき塩浜くれる
四五本ほちほちくゆらし蚊とり線香
夜更けの麦粉が畳にこぼれた
壁土が落ちること昼の虫なく
炭をもらった夜の火鉢土瓶たぎらす
色々思はるゝ蚊帳のなか虫等と居る
今朝は松の青い葉がたくさんある掃く 放哉
いつも松風を屋根の上にをいて寝る
海辺はをなじなりはひの家々晩の煙りをあげ
洗濯竿をじゃまにして立話して居る
夜中ひやひや起こされて居る窓の海風
船がはいったぞと知らしてゐる窓一つ暮れとる
蚤とぶ朝の畳の裸一貫
店の灯が美くしくてしゃぼん買ひにはいる
松かさも火にして豆が煮えた
屋根の上から見えてゐる山も島の山かな
女の笑ひ声もして盆の墓原 放哉
こんなところに打ってある釘を考えて居る
島人の訛りになれて木槿白き夜の
無暗に打ってある釘をぬく小さな住居とし
大声あげて呼ぶ野良はひろびろ
茄子をもいで来たあんまにもんでもらう
ひとばんでしぼんでしまった白い木槿
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
みんなで汲まれる井戸の水がうまくて真夏
井戸のほとりがぬれて居る夕風
西瓜がつけてある井戸水深々汲み去る 放哉
葬式のかねがなる昼月出て居り
さゝったとげを一人でぬかねばならぬ
麦粉を鼠がねらう夜が長いぞ
わかれてから風邪薬をかって寝にもどる
なん本もマツチの棒を消やし海風に話す(註・原案)
☆ なん本もマッチの棒を消し海風に話す
新らしい釘を打って夏帽をかける
松の葉風無くて淋しい朝よ
山に登れば淋しい村がみんな見える
もらった新芋がある葱があるたべ尽くされず
横顔そっくりの顔がちがって居った 放哉
蚊帳の吊り手の朝風に用なくて居る
腰をろす石をさがす暮れちかく
待って居る手紙が来ぬ炎天がつゞく
夜更けの舟をろす月にひそかなる
漕ぎもどす舟の月夜はなれず
お茶を香むわが茶碗が一つ
よびとめられた晩の道茄子もいでもらう
片眼の女がうりに来る島のくだもの
ボラがたくさん釣れるこの頃の丸い月夜
まっくらなわが庵の中に吸はれる 放哉
夕べもどって来る庵の障子があいて居った
荷萄の種子を吐いて居るランプの下
梅干を大事にしてお粥をたべとる
人来る声してみんな墓場へまがる
土のほこりの窓低き鶏頭
半分よんだ本がなか/\読み切れぬ
畳はく風の針が光って見せる
庭をはいてしまってから海を見てゐる
半紙が二三枚とんで居る庵であった
昼の蚊御佛を礼讃し刺すよ 放哉
白足袋がよくかはいて暮れてしまった
天井のふし穴が一日わたしを覗いて居る
般若心経となへ去る朝の第一燈
海風たんとたもとに入れ晩を遊びに出る児等
恋を啼く虫等のなかでかゞまって寝る
かりそめのたなを吊って乗せるものがたんとある
障子の穴が大きうなって朝晩涼しうて居る
裏山にあがって朝の舟を見てこよう
土瓶の欠けた口に笑はれて居る
麦粉を口いっぱいに頬ばっても一人 放哉
燃えさしに水をかけて泣かせてしまった
東京へ手紙かきあげて島の夜にだかれて寝る
石塔ほる前の家の女がめくらであった
一銭置いてお茶をみんな呑まれてしまった
妻楊子買って来て一本もたいなく抜く
今ばん芋を煮ようか茄子を煮ようかとのみ
京の女を思ひ出す鏡見て居る
扇子を大事にし大事にし蝿を叩く
お経よむ気にもなれず米とぐ日ある
お光りに佛てらされ給ふ朝は 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
第三巻 短篇・随想・日記ほか
短欧・短篇・簡想・日記アルバム影印
回想(尾崎並子・沢芳街1森田美恵子・荻原井泉水他)書簡(放哉あて他)
年譜 文献目録 俳句索引
鳥取県立第一中学校の校友会誌『鳥城』掲載の短歌、随想や、第一高等学校の校友会雑誌に書いた「俺の記」、これまで埋もれていた同誌「非同色」などの小文、草稿「夜汽車」「無量寿仏」、「層雲」に寄せた、小豆島生活の一端を描く「入庵雑記」、簡単な日録ながら最晩年の姿をいきいきと紡佛させる「入庵食記」などを収録。他に参考資料と俳句索引、年譜などを収める。「放哉全集(筑摩書房)」
(その十七) 尾崎放哉未発表句 (その十)
句稿(9)
層雲雑吟 尾崎放哉
雨の椿に下駄辷らしてたずねて来た (註・原案)
☆ 雨と椿に下駄辻らしてたづねて来た
何かもの足らぬ晩の蛙がなかぬことであつた
(此島米ヲ産セズ故、水田ナシ)
わが髪の美くしさもてあまして居る(註・原案)
☆ 髪の美くしさもてあまして居る
浴衣きて来た儘で島の秋となっとる
バケツー杯の月光を汲み込んで置く
閾の溝に秋の襖をはめる
いつも淋しい村が見える入江の向ふ
障子の穴をさがして煙草の煙りが出て行つた
夏帽新らしくて初秋の風
鶏のぬけ毛がとんで来ても秋
藁ぐまにもたれて落ち込んでしまった
波打際に来てゆっくり歩きつゞける
しとしとふる雨の石に字がほってある
淋しくなれば木の葉が躍って見せる
叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る
窓いっぱいの旭日さしこむ眼の前蝿交る事
今朝、五時頃ノ実景デ、ナンダカ馬鹿二サレテ居ル様ナ気ガシマシタ、彼等、第一義諦ヲ知ル筈トデモ云ヒタイ様ナ気持デ、彼等八実二堂々タルモノデス、旭日直射シ来レバ彼等ハ即歓呼ヲ挙ゲテ交ル、
秋風吹断一頭慮(?)
旭暉眼前蒼蝿交
マゾイ偈デスカ、マダ死ネソヲニモアリマセンカ
あく迄満月をむさぼり風邪をひきけり
さあ今日はどこへ行って遊ばう雀等の朝
はちけそうな白いゆびで水蜜桃がむかれる
石のまんなかがほられ水をたゝえる
山ふところの風邪の饒舌
花がいろいろ咲いてみんな売られる花(註・原案)
☆ 花がいろいろ咲いてみんな売られる
青空の下梨子瓜一つもぐ
塩のからいに驚いて塩をなめて居る
はく程もない朝々の松の葉ばかり
盆芝居の太鼓が遠くで鳴る間がぬけて居てよし 放哉
落葉生きてるやうにとび廻って見せる
枝をはなるゝや落葉行方も知らず
たまさか来るお遍路の笠が見送らるゝ秋は
追憶の夕ベ庭先き蟹がはって見せる
今日はも一つお地蔵さまをこさえねばならぬと石ほる
障子の破れから昼のランブがのぞくも風景
なれてしまへば障子の破れから景色が見える
荒壁ほろほろわが夜の底に落ちる
秋風の石が子を産む話し
投げ出されたやうな西瓜が太って行く 放哉
忘れた頃を木槿又咲く島のよい日和
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞(註・原案)
☆ 壁の新聞の女はいつも泣いて居る
鴨居とて無暗に釘打ってあるがいとほし
此の釘打った人の力の執念を抜く
われにも乏しき米の首がやせこけた雀よ
下手になく朝もよろし島の鶏
海風に筒抜けられて居るいつも一人
海風至らぬくまもなく一本の大黒往
たまたま窓から顔出せば山羊が居りけり
海風べうべうと町までの夜道 放哉
朝から曇れる日の白木槿に話しかける
うらの畑にはいつて盆花切ってもらう
アイスクリーンを売って歩く島の昼は開けた
うっかり気が付かずに居た火鉢に模様があった
お盆の年寄が休む処とし庵の海風
盆休み雨となりぬ島の小さい家々(註・原案)
☆ 盆休み雨となりた島の小さい家々
島から出たくも無いと云って年とって居る
お盆の墓原灯をつらね淋しやひとかたまり
死ぬ事を忘れ月の舟漕いで居る
朝ばん牛乳を呑んでやせこけて居る 放哉
山々背中にあすの天気をさしあげて居る
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
全く虫等の夜中となりをぢぎして出る
稲妻しきりにする窓焼米かぢる音のみ
蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残ってゐる
屋根瓦すべり落ちんとし年へたるさま
アノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道
島ではぢめての蛇を見て唾吐いてしまった
女手でなんとも出来ない丸い漬物石
早起の島人に芝草をのゝき喜び 放哉
白い両手をついて晩の用をきゝに来て居る
やゝはなれてよくなく蝉が居る朝を高い木
焼米ほつりほつり水呑むわが歯強かりけり
壁にかさねた足の毛を風がゆさふつて居る
すね小僧より下にしか毛が無い秋風
今日は浪音きこえる小窓はなれず
風邪を引いてお経あげずに居ればしんかん
ろうそく立てた跡がいくつも机に出来た
風音ばかりのなかの水汲む
よい墨をもらって朝からうれしい 放哉
すっかりお盆の用意が出来た墓原海へ見せとる
鼠にジャガ芋をたべられて寝て居た
蚊帳の吊り手が一本短かくて辛抱してゐる
白木槿二つ咲きいつも二つ咲き
今日一日は七輪に火をせなんだまヽ
山のやうに芝草刈って山に寝てゐる
草履をはたいてもはたいても浜砂が出る
魚釣りに行く約束をしたが金がなかった
島人みんな寝てしまひ淋しい月だ
窓からさす月となり顔一つもち出す 放哉
友にもらって来た歯磨粉が中々つきない
島の土となりてお盆に参られて居る
小さい船下りて島に来てしまった
茄子を水に清けて置く月夜であった
墓近くなる盆花うろ家家
萩かな桔梗かな美くしくなった盆のわが庵
まっくらな戸に口をあけて秋山の家である
海人の視子が呼びかはし晩になっとる
草履が一つきちんと暮れとる切りだ
犬が逃げて行くかげがチラと晩だ 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)
尾崎放哉 明治十八年ー大正十五年 鳥取生まれ
放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
亨年四十二歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。記念館は平成六年に当時の南郷庵を復元したものである。(「尾崎放哉記念館」の年譜)
(その十八)
○ すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く
☆ 障子あけて置く海も暮れ切る
○ 自分ばかりの道の冬の石橋
☆ 自分が通ったゞけの冬ざれの石橋
○ 光ることを忘れて死んでしまった蛍
☆ 蛍光らない堅くなってゐる
○ 夕空見てから晩めしにする
☆ 夕空見てから夜食の箸とる
○ 大晦日と暮れた掛取も来てくれぬ
☆ 掛取も来てくれぬ大晦日も独り
上記の○印の句が放哉の原案。そして、☆印の句がその放哉の句に井泉水が手直しをした句。これらの放哉の原案の句とそれに井泉水が手直した句とを比較すると、いかに、井泉水の手直しが凄かったということが一目瞭然となってくる。ここで、井泉水の添削の特徴としての、「動詞のくり返しによる」独特の構造のものが顕著になってくる。その顕著な一例として、放哉原案では、「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」の一句一章体のスタイルが、井泉水は、「障子あけて置く / 海も暮れ切る」と、前半句と後半句の二句一章体に手直しをするのである。放哉原案は作者の作意が見え見えで、どうにも饒舌で間の抜けている印象であるが、井泉水の手直しの、前半句の「置く」と後半句の「切る」との二重構造が、絶妙の間(ま)を生み出している。すなわち、「前半句の『置く』を文法的に終止形と考えれば、後半句との間に意味の切れ目ができるが、これを連体形と考えるなら、前半句は後半句の『海』の修飾語になり、そのあいまいさからくる宙吊り状態が、この文体ではきわめて効果的に機能している」(仁平・前掲書)ということになる。ここで、関連する事柄を、仁平・前掲書により、その中心となることを付記しておきたい。
「俳句の言葉は、もともと散文的な文法には従わない。それは切れ切れの言葉であるといっていい。その切れの言葉に、一句としての秩序を与えるのが、すなわち五七五という定型律である。その定型律を拒否することで、俳句の言葉は秩序を失い、いわば宙吊りになる。(中略) 放哉は、この宙吊りされた言葉の不安定な緊張感に、俳句としての新鮮な手応えを感じているようだ」(「いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘」に関連して)。
「自由律俳句というのは、文字通り自由に書くことなら、一句は『ころりと横になって今日が終わって居る』と書かれてもいい。しかし放哉が欲したのは、定型からの自由ではなく、定型にたいして不安定な緊張感であった。『横になって』と書けば、言葉が安定してしまう。そのことを放哉は避けている。いや、たんに言葉の問題ではなく、『ころりと横になる』行為そのものを安定させたくないのだ。そして、放哉が手応えを感じている自由律の不安定さは、しがない寺男として暮らす毎日の現実にたいする、自身の気持ちの不安定さであるのかもしれない。自由律俳句を書くことは、定型を選択しながら、つねにその定型から不安定な位置を保とうとすることだ。つまり自由律俳句と自由詩とでは、『自由』というモチーフが最初から違っている。自由律俳句の前提には、定型の意識がある」(「ころりと横になる今日が終わっている」に関連して)。
そして、これらの「自由律俳句の不安定」というについて、放哉以上に、そのことに意を用いて、放哉のこれらの句を放哉の他の多くの作品のなかから選句して、その句の中核となっているものを見事に察知して、そして、放哉の原句以上に、「自由律俳句の不安定」な作品に仕上げているのは、他ならず、放哉の師の井泉水であるということは、上記の掲出句を見ていけば明らかなところであろう。しかし、ここで、「俳句の本態の曲譜は、五七五という定型そのものにあり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎない」(平畑静塔の「定型不実」論)という、たびたび、この放哉探索で話題にしていることを想起していただきたい。このことは、さらに、別な言葉でするならば、「俳句というものは、純粋に個人の表現と見なしたり、あるいは、個人の表現に価値を置くべきものではないのかもしれない」(坪内稔典『柿喰ふ子規の俳句作法』所収「定型の力」)とのニュアンスに近いものということになろう。これらのことを前提として、上記の掲出句の「歌手(作者)」は、ことごとく、尾崎放哉その人であり、手直しをした井泉水は「振り付け師(選句者)」ということになろうか。この意味で、尾崎放哉は優れた自由律俳句の俳人の一人であったが、同時に、その放哉の優れた素質を見抜き、その素質を見事に開花させたところの、その師の荻原井泉水は、定型律俳句の大立者・高浜虚子に匹敵する位の、凄腕での自由律俳句での「振り付け師(選句者)」であったということは、特筆しておくべきことであろう。
(その十九)
○ きれ凧の糸かかりけり梅の枝 (中学時代・定型の句)
○ 元日や餅二日餅三日餅 (大学時代・破調の「句またがり」の句)
○ 寝そべつて草の青さに物云ふ (須磨時代・破調の「字足らず」の句)
○ 銅像に悪口ついて行つてしまつた (小浜時代・破調の「字余り」の句)
○ 小さな人形に小さいかげがある (「未発表句」・井泉水の言う奇調の句)
「字余りの句なるものは古来沢山にあり、又さほどの音調を害さないものであるから、自分等は何も十七字といふ字数に縛られるには当らない。(中略) 斯様に音数を観察してみると、将来には是迄の五七五といふ様式は廃れるやうになつて、五七五及び其の字余り、若くは今言ふ奇調の或るものが正調として流行するやうになるかも知れぬ。然し余り長い句法は面白くないからやはり十七八の所に落着くのであらう。なにしろ充分変化する余地はある。而して十七字といふものは変化を容るるに決して狭いものではないのである」
(荻原井泉水「新たに句作する人々と共に」)。
この井泉水の指摘などを引用しながら、俳句評論家の仁平勝は、先(その七)に触れたように次のような持論を展開する。
「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
そして、これを一歩進めて、次のような指摘をしたのであった。
「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』(定型句)と裏の『破調的俳句』(破調句)とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」(その七)。
ここで、それらの、それぞれの例句をあげると上記の掲出句などがそれに当るであろう。そして、これらの例句に見られるとおり、放哉の句の態様(定型・非定型・リズム)というの
は多種多様であり、一口に、「自由律俳句」とか「一行詩」などとかに区分けをするということは、これまた、レッテル貼りの感じがしなくもないのである。それ以上に、俳人・放哉を、「息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる」(金子兜太)や「その中で詠われた極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる」(稲畑汀子)などの指摘も、放哉の一面を拡大視してのもののようにも思われる。これらのことに関して、坪内稔典の「有名な『咳をしても一人』『月夜の葦が折れとる』などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。句稿ではさきの障子の句の後に、『沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた』がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ」(「その九」の朝日新聞の書評)などは、今後、さらに掘り下げていく必要が必須であろう。
さしずめ、上記の「元日や餅二日餅三日餅」の句などは、放哉の定型観や滑稽観などを知る上では、もっともっと注目して然るべきもののように思われる。この句を、尾崎放哉ら以上に、アンチ「定型」ということで、「多行式俳句」のスタイルを確立した高柳重信などのスタイルを借用すると次のようになるであろう。
○ 元日や
餅
二日
餅
三日
餅
つくづく、放哉のこの句の面白さなどに脱帽する。
(その二十)
○ 小さな人形に小さいかげがある (放哉「未発表句」より)
今回の放哉の「未発表句」のなかで、この掲出句がとりたてて佳句ということではない。ただ、この句が、「俳句とは小さい人形なものであって、その小さな人形にも小さな影をもっている」と、そんなことを、放哉が無意識のちに察知しているように思えたのである。
放哉の師にあたる荻原井泉水は、正岡子規そして河東碧梧桐に連なる俳人で、その子規の言葉に次のようなものがある。
「世の人あるいは俳句を以て器小なりとす。実に十七字、八字の天地に俯仰する者なればこれを小説、長編の韻文等に比して器の小なる論を俟(ま)たず。されど器の小なるを以てこれを捨てよといふ人あるに至つてはその意を得ざるなり。ここに宝石を納るべきささやかなる函を持つ人あり。その人に向つて『汝何ぞ此の如き小き器を持つて満足する。その小き函を捨てよ。その代りに大なる倉庫を起つべし。巨万の財産は大ななる倉庫に非ざれば納(い)れがたし』と言はんに誰かその愚を笑はざらん。(中略) 俳句の趣味はその簡単なる処にあり。簡単を捨てて複雑に就けよといふ者は終にその簡単の趣味を解せざるの言のみ。落語家曰く大は小を兼ぬるといへども杓子は耳掻の代りを為さずと」(『松蘿玉液』明治二九年)。
これらの「俳句は小さな器」ということは、「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」などとさまざまに指摘されるところである。そして、この「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」こそ、俳句の最大の特徴であり、これをどう最大限にその効果を発揮させせるかどうかが、ここに俳人の力量が問われる所以があるよに思われるのである。それともう一つ、その「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」は、それらを補うものとして、古来からの「和歌・連歌・俳諧・俳句」の、その歴史が延々と築きあげらてきたところの「伝承的美意識」としての「季題・季語」を、いわば、「象徴語」(シンボル的な核となる言葉)として活用してきたということに思いを新たにするということなのである。すなわち、翻って、「俳句という小さな器」それ自体が、その「簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」が故に、「季題・季語」と同じように、「象徴的なレトッリク(修辞法)」ということで、意識・無意識の如何を問わず、俳人達は活用し、そして、実践してきたのではなかろうかということなのである。この「象徴的なレトッリク(修辞法)」こそ「定型の魔力」の本態なのではなかろうかという思いが拭いされないのである。
そして、荻原井泉水・尾崎放哉らは、この「象徴語」としての「季語・季題」、そして、
「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」からの「自由」(解放)を目指して、「自由律俳句」の世界に足を踏み入れたのであるが、それは実に、「象徴語」としての「季語・季題」、そして、「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」が、上記の放哉の掲出句でいうならば、「小さな人形」ということになるし、その「小さな影」が「自由律俳句」という思いにとらわれたのである。また、そう理解をして、彼等の「自由律俳句」をしたいという思いにとらわれたのである。
されば、この長い「尾崎放哉探索」の冒頭に戻って、平畑静塔の「俳人格説」・「定型不実論」を一歩進めて、俳句における「定型・季語象徴論」という考え方を、ここに提示して、平畑静塔が、己の「俳人格説」・「定型不実論」を、へりくだって、「珍説」との語でカムフラージュがしていることに鑑み(『俳人格説』所収「優季論」)、それに倣って、ここでも、その「珍説」の語を以て、カムフラージュをし、それを、この長い「尾崎放哉探索」の結びにもってきたいのである。
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