水曜日, 5月 10, 2017

蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」


蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」




    

   


 (1  夜色楼台図」 蕪村筆)



 蕪村の水墨画の二大傑作画は、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」が、その双璧を為すことであろう。「夜色楼台図」(紙本墨画淡彩、一幅、二八・〇×一二九・五cm)が、蕪村の、その生涯の実生活を背景としている「実」たる「俗」の「京都の東山」をモチーフとしているならば、「峨嵋露頂図」(紙本墨画淡彩、一巻、二八.九×二四〇.cm)は、蕪村が、その生涯にわたって憧憬して止まなかった中国の詩人中の一人・李白の「峨嵋山月歌」に、その想を得ての、脳裡に去来する「虚」たる「雅」の「中国四川省の峨眉山」をイメージしてのものということになろう。

 この「夜色楼台図」について、「左に登りゆく山稜は比叡山に連なり、右に下る山並みは伏見に至るものであり、麓の家並みは祇園から岡崎にかけての町並みと見ればいい。()

 三本樹の水楼にのぼりて斜景に対す

   雲の端に大津の凧や東山

   大文字の谿間のつつじ燃えんとす

 よすがらの三本樹の水楼に宴して

   明けやすき夜をかくしてや東山

 詞書にある三本樹とは、賀茂川西岸の丸太町と荒神口の間の地名で、『烏丸仏光寺西入ル町』の蕪村の家から歩いて三十分という所である。当時、この界隈に多くの料亭が立ちならび、晩年の蕪村が足繁く通った「雪楼」もこの地にあった」と『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)(「夜色楼台図(早川聞多稿))では記されている。

 続けて、それは「見えるがままに描いた実景」ではなく、絵画的にデフォルメした世界で、「本図が一見水墨画のように見えて、実はその原則を密かに破っている」とし、「画法における『雅俗』の混在」(胡粉や代赭による即物的描写や、胡粉の下塗り、墨のたらし込みといった技法は、『水墨画』の本来かにすると邪道)と「都会の雪景色」(「一見山水画のように見せながら、『俗気』の象徴である都会を主題としての『山水画』の原則からの逸脱)との二点を挙げている。



       (2 三本樹()」 『拾遺都名所図会』 )



 ここで取り上げられている「雅・俗」というのは、絵画表現上の「雅・俗」ということで、その根底には、永遠性に連なる「雅」(「完成」の「既に存在する表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「不易」に近い理念)と日常性に連なる「俗」(「無限」の「未開拓の未知の表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「流行」に近い理念)との二元論的な把握を基調としている(『日本文学史・小西甚一著・講談社学術文庫』『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)



 蕪村の俳諧・絵画の基本的姿勢を述べたものとして、門人、黒柳召波の『春泥句集』の「序」に寄せた、いわゆる「離俗論」が夙に知られている。



[ 俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。

()  却ッテ問フ、「叟(注・蕪村)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なほ是工案をこらして、我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答ヘテ曰ク、「あり、詩を語るべし。子(注・召波)もとより詩を能す、他に求むべからず」。彼(注・召波)疑ヒ敢ヘテ問フ。「夫、詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。

夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云ふ。迂遠なるにあらずや」。答ヘテ曰ク、「画家に去俗論あり、曰ク、『画去俗無他法子(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法ナシ)、多読書則書巻之気上升(多クノ書ヲ読メバ即チ書巻ノ気上昇シ)市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其慎旃哉(学者其レ旃(これ)オ慎シマンカナ)』。それ、画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ、況んや、詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや」。波(召波)、すなはち悟す。]

 (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)



 この蕪村の「離俗論」について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、次のように解説している。



[ 蕪村が有名な離俗論を提唱したのも、この頃(注:明和五年(一七六八)・五十三歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった『芥子園畫傳』初集の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである―。() この離俗の立場からは、単なる俗っぽさは、手ぎびしく排斥されなくてはならない。俗なるものを詠んでも、その俗をぬけ出たおもむきがなくてはならない。]

  (『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)



 蕪村の「離俗論」については、一般的には、上記のようなことなのであるが、蕪村の「離俗論」の大事な要諦は、その『春泥集』()の、先の引用文に続く、次のところにあるように思われる。



[ 俳諧に門戸なし。只是れ俳諧門といふを以テ門とす。() 諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す。唯自己ノ胸中いかんと顧みるの外、他の方なし。 ] 

   (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)



 この「みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す」という蕪村の姿勢は、若き日の蕪村を育んだ、蕪村の俳諧の師、夜半亭一世早野巴人(宋阿)の、その三十三回忌に編んだ『むかしを今』の「序」の、「『夫、俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとし』とぞ。予(注・蕪村)、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかい(注・俳諧)の自在を知れり」の、この「俳諧自在」(自由自在の心)と、その「俳諧自在」の因って立つ地盤は、「唯自己の胸中」(己が心)に在るという、

これが、蕪村の「離俗の法」の本態なのであろう。

 また、この「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」に関連して、蕪村自身が、画や画人を題材にして詠んだ句は、次のようなものが挙げられる(『蕪村全集六 絵画・遺墨』「栞「女雪信と蕪村(滝沢栗郎稿))



1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信

2 手すさびの団(うちは)画ん草の汁 明和五(一七六八・五十三歳) 草画、絵具

3 新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな   同上 曽我蛇足 

4 守信と瓢に書けよ鉢たゝき    同上 狩野探幽

5 雪信が蠅打払ふ硯かな      明和六(一七六九・五十四歳) 清原雪信

6 呂記が目の届かぬ枝に閑古鳥   明和八(一七七一・五十六歳) 明人、花鳥画

7 絵団扇のそれも清十郎にお夏哉  同上 浮世絵

8 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟()寒き 同上 漢画と大和絵

9 御勝手に春正が妻か梅の月  明和年間  蒔絵師

10 不動画く宅摩が庭の牡丹かな  安永六(一七七七 六十二歳) 古画、仏画

11 南蘋を牡丹の客や福済寺    同上 清人、長崎派

12 茗長が机のうへのざくろかな  同上 染物師

13 相阿弥の宵寐おこすや大もんじ 同上 室町水墨画

14 鬼灯や清原の女が生写し    同上 写生画

15 大津絵に糞落しゆく燕かな   安永七(一七七八 六十三歳) 大津絵

16 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉     安永九(一七八〇 六十五歳) 円山派

17 又平に逢ふや御室の花ざかり  年不詳  土佐派、俳画



 蕪村は、俳諧の世界においては、江戸と京都で、宝井其角の江戸座の宗匠の一人として名を馳せていた夜半亭宋阿(巴人)の内弟子として仕え、生涯に亘って師と仰いでいたが、画業の世界においては、「われに師なし、古今の名画をもって師とす」(「書画戯之記」)との伝聞があるとおり、生涯にわたって仰ぐべき師を持たなかった。

 ただ、宋阿(巴人)が寛保二年(一七四二)に病死した後、いわゆる「関東・奥羽遊歴時代」(寛保二十年《一七三五・二十歳》から寛延三年《一七五〇・三十五歳》)に見切りをつけて、宝暦元年(一七五一)の初冬に京都に上ってきた、その大きな理由の一つに、当時、京都に在住して画(文人画の先駆者・絵師として法橋に叙せられている)・俳(各務支考門の美濃派後に中川乙由の伊勢派系の宗匠の一人)の二道の世界で最右翼を極めていた彭城百川が念頭にあったことであろう。

 百川は、元禄十年(一六九八)、尾張名古屋の生まれ(支考書簡による入婿説もある)、姓は榊原、名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した(その祖は帰化人と伝えられ、『元明画人考』を編しているほどに漢学の素養があった。また、自称の「彭城」の姓は、中国江蘇省彭城の出身と伝えられている)

 俳諧では蕉門の各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。後に、師の美濃派の支考との間に亀裂を生じ、反旗を翻して伊勢派の乙由門に転じている。三十二歳の頃から京都を拠点として北陸や長崎に遊び、四十八歳の頃からは「売画自給」と称して絵を職業とする生活に入り、元文年間には法橋位を得るに至っている。

 百川の多芸振りは、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』「序」)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』「序」)と、晩年の支考に重宝がられ格別の厚遇を受けていたことからも推察される。

 この他に、百川は、「俳書のデザイン(扉や題字等)」「挿絵」「俳画(俳趣のある簡略な画《草画》)」「実景図」「地図」など、その多種・多様な多才振りは、画・俳の両道を目途としている蕪村を、魅了して止まないものがあったことは想像に難くない。

 蕪村が江戸から上洛したのは、宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは、その翌年の宝暦二年(一七五二)の八月であった。蕪村と百川との出会いがあったとしたら、宝暦元年から二年にかけての一年足らずの期間に於いてということになる。

これらのことについて、蕪村は何ら記してはいないが、蕪村は、宝暦七年(一七五七)九月に、丹後宮津から京都に再帰する時に、「天の橋立画賛」の残し、その賛文に次のように百川のことについて記している。



[ 八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二に出て蓮二によらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行秋ぞ  わが今留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物。かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。

  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中  ]



 この百川の「明風に慕ふ」の「明風」は、『元明画人考』の著を有する百川への「明画」風に対して、蕪村は「漢流」(「狩野派」の意とする見解もあるが、中国画全般の「漢流」の意)で、特定の画風にこだわらないというようなことなのであろう。

 また、俳諧の方では、百川は蕉門の「蓮二(支考)」の流れに比して、蕪村は同じ蕉門でも、「晋子(其角)」の流れ(其角門の巴人の系譜)であるが、共に、その流派にこだわらない点が共通しているし、また、俳人として名声を求めない姿勢も共通しているというようなことであろう。

 蕪村と百川との出会いの確たる形跡は見当たらないが、「当時中国画研究の第一人者であり、伊勢風の俳人としても有名であった百川を八僊観に訪問しないとすれば、それこそ不可解である」(『蕪村の遠近法(清水孝之著)』「百川から蕪村へ」)という指摘を拒否する理由も定かではないであろう。

 これらのことに関して、蕪村の江戸時代の知己で、延享四年(一七四七)に近江の義仲寺の無名庵五世となっている渡辺雲裡坊(前号・杉夫)は、名古屋時代の百川(昇角)と共に支考門で、両者は旧知の関係にある。

そして、その雲裡坊は、宝暦五年(一七五五)に、京都から丹後へ移住している蕪村を訪ね、さらに、宝暦十年(一七六〇)に、京都に再帰した蕪村に筑紫行脚の同行を勧誘するなど、年下の蕪村への配慮は格別なものがあり、京都での蕪村と百川との出会いや、百川亡き後の蕪村の丹後移住などに関して、何らかの関係があるように思われることも特記して置く必要があろう。

さらに、蕪村の晩年の絵画に署名される栄光の雅号「謝寅」は、中国明代の画家唐寅に倣ったものとされているが(『俳画の美(岡田利兵衛著))、百川の「春秋江山図屏風」の左隻に、この唐寅(伯虎)に倣ったことが書かれており(『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿))、これらのことを加味すると、百川の画・俳その他全般に亘る生涯は、蕪村の生涯を先取りした趣すらして来る。

この百川について、『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」では、「自己の創造に必要なものを何でも画嚢に取り入れてしまう性質」を「雑食性」と名付け、この「雑食性」のほかに、「町人出身の専門画家」であったこと、「俳画と真景図に新生面を開いた」ことを、百川の特質ととらえて、それらが、次の時代の大雅と蕪村の日本南画(文人画)の大成に大きく寄与しているとしている。

 百川が文人画家の先駆者として、その文人画を大成したとされる大雅と蕪村への与えた影響ということの他に、「売画自給」を標榜した百川の、その姿勢は、異色の花鳥画家とされている伊藤若冲の精神的支柱であった「売茶翁」(黄檗宗の僧、法名は月海、還俗後は高遊外)に連なるものなのであろう。

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、売茶翁は、延宝五年(一六七五)の生まれ、蕪村の師巴人(延宝四年=一六七六)と同年齢時代の、前期に生を享けたことになる。

 若冲(正徳六年=一七一六)・蕪村(享保元年=一七一六)・大雅(享保八年=一七二三)は、中期、そして、百川は元禄十年(一六九七)の生まれで、十七世紀の後半に生を享けたが、その活躍したのは十八世紀の中期ということになろう。

 この百川は、延享二年(一七四五)、四十九歳のときに、「売茶翁煎茶図・売茶翁題偈」という作品を残しており、売茶翁に連なる京都文化人の一人と数えて差し支えなかろう。この売茶翁に連なる京都文化人の面々は、売茶翁と共に若冲の支援者であり続けた、相国寺第百十三世の詩僧・大典顕常、数多くの儒学者を育てた大儒・宇野明霞、書家の亀田窮楽

、画壇では、池大雅、伊藤若冲、そして、蕪村もまた、「小鼎煎茶画賛」を残しており、直接的な繋がりはないが、やはり売茶翁に共鳴した一人と解して、これまた差し支えなかろう。

 宝暦十三年(一七六三)、売茶翁は、その八十八年の生涯を閉じるが、その年に刊行された『売茶翁偈語』の伝記は、大典顕常、その売茶翁の自題は大雅、口絵の売茶翁の半身像は若冲と、売茶翁と親しかった、三人の名が肩を並べている。

 若冲の別号の「米斗翁」(「絵代は米一斗」に由来する)は、売茶翁の「茶銭は黄金百鎰(注・小判二千両)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」に由来があるものなのであろう。そして、「大雅」の別号の「待賈」は「賈()を待つ=商人」の、これまた、売茶翁が「茶を売る翁」に因んでの「絵を売る」、百川の「売画自給」と同じ意なのであろう。

 この売茶翁の、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なる」(大典顕常の「売茶翁伝」の遺語)に由来するところの、その売茶翁の「売茶」という、その実践に由来するもの、それが、百川の「売画自給」の意味するものなのであろう。

そして、その百川に続く、京都の画人達(大雅・若冲・蕪村等々)は、「雅」の「非日常性・不易なもの・虚なるもの」と「俗」の「日常性・刻々変化するもの・実なるもの」との、その「雅と俗」との、その葛藤こそ、それぞれの「売画自給」の日々の実践の証しということになろう。

 ここまで来ると、蕪村の「夜色楼台図」の全てが見えて来る。この「夜色楼台図」の根底には、上半分の「雅」たる「夜空と山並み(東山)」、そして、下半分の「俗」たる「積雪の楼台と家並み(京の街並み)」との、その「二極対比」と、その「雅俗混交」の「鬩(せめ)ぎあい」での末の、安らぎにも似た「雅俗融合」の極致の世界が、見事に浮き彫りにされている。

さらに、細かく見ていけば、「黒()と白(明かり)」、「代赭(華やぎと温もりの灯影)と胡粉(寂として消えて行く雪片)」、全体の「横長の広大なパノラマの『水平視(平遠法)』的視点」、下半分の人家の景を「見下ろす『俯瞰視(深遠法)』的視点」、そして上半分の山並みと空とを「仰ぎ見る『仰角視(高遠法)』的視点」、それらは、「画(「無声の詩」=「画中に詩有り」)」と「詩(「有声の画」=「詩中に画有り」)」との、見事な「画・俳」、そして、「画・俳・書」の、その合致の到達点を物語っている。

 この横長の絵巻風の「夜色楼台図」の、その冒頭の「夜色楼/臺()雪萬()/家」の、この「夜色楼台雪万家」の画題なるものは、『水墨画の巨匠(第十二巻)蕪村』の「図版解説(早川聞多稿)」では、若き日の蕪村が私淑した服部南郭に連なる詩僧の万庵原資の、「遊東山詠落花(東山ニ遊ビテ落花ヲ詠ズ)」の「湖上楼台雪万家」と「中秋含虚亭ノ作」での「夜色楼台諸仏座」の一節に由来があることなどが紹介されている(さらに、『生誕三百年同いの天才画家 若冲と蕪村』では、『皇明七才詩集註解』の明代の李攀龍による「宗子を懐う」に「夜色楼台雪万家」の一節があることも新説として挙げられている)

 何れにしろ、この「夜色楼台雪万家」の主題は、「夜・楼台・雪・万家」の「夜()・楼台(「華やぎ=灯影」)・雪(「無常=雪の切片)・万家(「「人家」の「無数の『生』の営み」)、その中でも、上半分の「雅」たる「山と空」と下半分の「俗」たる「人家」とを融合させている「雪」こそ、この「夜色楼台図」の主要なテーマなのではなかろうか。

 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。



1          宿かさぬ灯影や雪の家つゞき  明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪

2          雪国や粮(かて)たのもしき小家がち  同上          小家と雪

3          宿かせと刀投出す吹雪哉       同上         武士と吹雪

4          初雪や上京は人のよかりけり  明和六年(一七六九・五十四歳) 上京()と初雪

5          物書(かい)て鴨に換けり夜の雪    同上        王義之(前書き)と雪

6          祐成をいなすや雪のかくれ蓑  明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪

7          繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな     同上          馬の鐙と雪

8          雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪

9          雪の松折るるや琴の裂る音      同上          松と雪

10       としひとつ積るや雪の小町寺  安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪

11       雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ   同上          母屋の煙と雪

12       鍋さげて淀の小橋を雪の人      同上          淀の小橋と雪

13       愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹  同上     貧窮老懶の自画像と雪

14       初雪や草の戸を訪()ふわら草履  安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪

15       木屋町の旅人訪ん雪の朝       同上    木屋町(旅館・料亭が多い)と雪

16       住吉の雪にぬかづく遊女哉    同上  住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪

17       雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳)  加茂神社の社人と雪

18       雪折やよしのゝゆめのさむる時  同上          吉野(奈良吉野山)と雪

19       雪折も聞えてくらき夜なる哉   同上          闇夜と雪(白居易の詩)

20       登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳)  登蓮(歌僧)と雪

21       雪を踏で熊野詣の乳母かな    同上              熊野詣と雪

22       風呂入に谷へ下るや雪の笠   年次未詳             湯治場と雪

23       水と鳥のむかし語りや雪の友   同上         「酒」(水偏の鳥)と雪

24       雪の暮鴫はもどつて居るような  同上           鴫(西行の鴫)と雪

25       雪消ていよいよ高し雪の亭    同上            雪亭(庵号)と雪



 蕪村の二大水墨画の、もう一つの「峨嵋露頂図巻」(二八・九×二四〇・三cm、紙本墨画淡彩一巻)は、「夜色楼台図」(二七・三×一二九・三cm、紙本墨画淡彩一幅)の、横長に倍の長さ(条幅紙一枚分)で、こちらは図巻(一巻)で、それを横長の掛幅とするならば、これは、一大のパノラマ仕立てになる。

 「夜色楼台図」が、日本の詩僧・万庵原資の詩と『唐詩選』を編纂したとも言われている明代の詩人・李攀龍の詩に由来があるとすれば、「峨嵋露頂図巻」は、李白の七言絶句の「峨嵋山月歌」とこれまた李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠))に由来があるとされている(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)(「図版解説(早川聞多稿))

 ここまで来ると、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」とは、同時期に書かれた、「雪」を主題とする蕪村の連作であったということを実感する。

そして、この二大傑作水墨画は、蕪村が六十八年の生涯を閉じた、天明三年(一七八三)の作とされており、「蕪村絵画年譜」(『日本の美術六 与謝蕪村(佐々木丞平編))では、その順序は、「夜色楼台図」が先で、その年の「謝寅落款のあるもの」の最後に、「峨嵋露図」が掲載されている。






 



  (3-1  「峨嵋露頂図」(右半分) 蕪村筆「落款・謝寅」)





  (3-2   「峨嵋露頂図」(左半分) 蕪村筆)





 ここに、冒頭の「夜色楼台図」(1)を掲載して置きたい。









 (1・再掲 「夜色楼台図」 蕪村筆「落款・謝寅書」 )



 これらの「夜色楼台図」と「峨嵋露頂巻」との落款は、主に、蕪村の漢画系統のものの落款「謝寅」で、「夜色楼台図」は「謝寅書」、そして、「峨嵋露頂図」は「謝寅」と署名されている。

 それに対して、蕪村の和画系統のものの落款「蕪村」の署名で、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と共に、横長の三大水墨画の一つに数えられている「富岳列松図」(二九・六×一三八・〇cm、紙本墨画多彩一幅)が、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と同年(蕪村が没する天明三年=一七八三)に制作されている。

 そして、この「富岳列松図」もまた、「雪」が主題のもので、真っ白な「富士」が赤松並木の上に浮かび上がっている。そして、墨の濃度の違いによって、その墨色で、あたかも、松の緑と空の青とを描いているかのようなのである。







 


 ( 図4   富岳列松図  蕪村筆「落款・蕪村」 )



 ここで、「峨嵋露頂図」で紹介した、李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠))に関連して、徂徠の『蘐園随筆』「序(安藤東野)」に触れながら、蕪村の、「峨嵋露頂図」「富岳列松図」、そして、「夜色楼台図」を三部作として、次のように、その関連を考察したものを紹介して置きたい。



[「峨嵋を天半の雪中に看る」とは、王世貞(注・明時代の学者・政治家、号は弇州山人《えんしゅうさんじん》)が李攀龍(注・明時代の詩人・文人、号は滄溟)の詩風を、峨嵋山の雪にたとえてたたえる句である。() あわれむべし彼等は、峨嵋山を知るだけで、わが富士山を知らない。先生(注・荻生徂徠)は実に富士の白雪である。(吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』より)

 この一節は徂徠の愛弟子、安藤東野(注・徂徠門の儒学者)が、師(注・徂徠)の学問のすばらしさを讃えたものである。ここで注目すべきことは、「天半の峨嵋山」と李攀龍(注・蕪村が生涯に亘って愛した詩人)、「白雪の富士山」を荻生徂徠(注・蕪村の漢詩理解の源となっている服部南郭の師、「夜色楼台図」の由来となっている詩を作った万庵原資も徂徠門)というイメージの提示である。()

 両図(注・「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」)とも本図(注・「夜色楼台図」)と同様、横長の画面形式をとっており、その熟練した筆致から制作時期も本図と同時期のものと推定される。また、これら三図はいずれも山と雪を主要なモチーフとしている。

 このようにその共通性に注目するならば、これら三図は三部作として描かれた可能性があるといえる。もし、「峨嵋露頂図巻」の「天半の峨嵋」が李攀龍を、「富岳列松図」の「白雪富士」が荻生徂徠(注・徂徠と徂徠の古文辞学派=蘐園学派の服部南郭《儒者・詩人・画家》等の一門)を象徴としているならば、では一体、「夜色楼台図」の東山は誰を象徴しているのであろうか。()

 画(注・「夜色楼台図」)左の山稜をたどれば、そこは法然・親鸞が修行した比叡山であり、その山下の一乗寺村には親鸞が六角堂に通った百日別行の旧跡がある。そして、正面の山麓には法然ゆかりの法然院、金戒光明寺、知恩院が建ち並び、画面右端には親鸞の遺骨を納めた大谷の廟所がある。()

 さらに付け加えるならば、親鸞百日別行跡の隣の金福寺には、蕪村がその再興に関与した芭蕉庵があり、その記念碑が立っており、蕪村は、

   我も死して碑にほとりせん枯尾花

の一句を手向けたのである。そしてその願い通り、天明三年(一七八三)の暮に亡くなった蕪村の遺骨は、翌四年一月には、まさしく「祖翁之碑」の隣に納められ、同十月には「与謝蕪村墓」と刻まれた墓碑が、門人たちによって建てられたのであった。  

 このように見てくると、晩年の蕪村が眺める東山連峰は、まことに複雑なイメージを帯びていたといえよう。

 そこは自らが四季折おりを楽しむところである同時に、雪が降れば徂徠の学恩を、山麓の楼閣を見れば法然の法恩を思い、その山陰は己が人生を決定づけた親鸞と芭蕉の俤を宿す場所であった。

 そして、そこはまた、蕪村自らが「終(つい)の住処(すみか)」と思い定めた場所であった。すなわち、この一枚の画(注・「夜色楼台図」)によって、「聖」と「俗」の狭間に生きた蕪村の人生そのものが象徴されているといえよう。 ]

 (『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)(「《この一枚》夜色楼台図《早川聞多稿》))



 蕪村の、横長のパノラマ的眺望を描出している、「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」を、同時期に制作された三部作として、「峨嵋露頂図巻」と李攀龍(号・滄溟)、「富岳列松図」と荻生徂徠(徂徠門服部南郭等)とを、南郭の『『唐詩選国字解』等を通して探り当てた点は卓見であろう。


 それに続けて、「夜色楼台図」は、別稿「「水墨画の俳諧化―雅俗融合の生涯《早川聞多稿》」に於いて、「僧に非ず俗にゐて俗にも非ず」(親鸞の『教行信証』)等を引用し、併せ、上掲の蕪村自身の「我も死して碑にほとりせん枯尾花」(「枯尾花」は其角の芭蕉追善集の名)句をも引きながら、「芭蕉・親鸞・法然上人」の俤を重ねたのは、やはり、この評者(早川聞多)の、この「夜色楼台図」に寄せる思い入れの深さの証左であろう。


 この親鸞の「僧に非ず俗にゐて俗に非ず」は、「俗中に生きてこそ、『聖俗』を超える契機を見出し得る」とし、そして、この親鸞の「聖俗」論は、即、蕪村の「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」(離俗論)と表裏一体を為すものなのであろう。

 
即ち、親鸞は「聖俗」の人であり、蕪村は「雅俗」の人であり、親鸞の生涯が「聖俗融合」の生涯であったとするならば、蕪村の生涯は、市井に生きた「雅俗融合」の生涯だったということになろう。


 そして、この「夜色楼台図」は、まさしく、その蕪村の「雅俗融合」の生涯を、象徴的に物語っている「この一枚」ということになろう。


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