4-67 (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜
「佐屋驛渡口、『尾張名所図会』巻7海東・海西郡」(「ウィキペディア」)
≪佐屋宿(さやじゅく)は、佐屋街道の宿場である。現在の愛知県愛西市佐屋町に存在した。佐屋街道最大の宿場であり、佐屋宿から東海道桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。また、ここから津島神社の参拝道が分岐していた。(中略)
三里の渡しは、佐屋川、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川の順に川を下って桑名宿へ向かう渡船であった。(中略)
1604年(元禄4年)、松尾芭蕉は江戸から伊賀への帰郷の中、 佐屋の門人であった素覧亭に逗留した折『水鶏(くいな)鳴くと人のいへばや佐屋泊』の句を詠んだ。同席した俳人が芭蕉を偲び、水鶏塚がその地に現在も建立されている。≫(「ウィキペディア」)
水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。改案後も意味に相違は無い。≫
抱一の、この京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。
一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居 (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)
この上記の「十二月三日京地御発駕」の後に続く一句が、京都から尾張までの句はすべて省略して、この「尾張・佐屋宿」での、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」の句ということになる。この「水鳥」は、芭蕉翁の「最後の帰省の折」の、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」の、その「水鶏」を意識しているということは、それほど飛躍した視点ではなかろう。
嘗て、芭蕉翁が、その最後の旅路の「笈の紀行」の「尾張・佐屋宿」で、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」との一句を遺している。その句に唱和して、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」と、「翁も吾も、この水鳥(水鶏)」で、翁は東国から西国へと、吾は西国から東国へと、「流るゝ春や」(師走の「冬」から睦月の「春」へと)、その流れを、「橋の霜」(この師走の「佐屋宿」の「橋の上」)で、凝視している。
芭蕉翁の、その「尾張・佐屋宿」での「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」は、「東国(仮の宿)から西国(故郷)への佐屋泊り」の一句で、抱一の、それに唱和しての「水鳥は流るゝ春や橋の霜」は、「西国(仮の宿)から東国(故郷)への」一句ということになる。
4-68 (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ
歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)
≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)
この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。
「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/
霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守
それは松これは亭主
置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財
(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ)
没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)
江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。
「東海名所改正道中記 三保の松原 江尻 静岡迄二り廿七丁」木版画 / 明治 / 日本/歌川広重(三代目)/郵政博物館蔵 (「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/240543
(句意「その周辺」)
この句には、「十日の夜小舟にとりのり清水の湊をこへ、三穂の明神を遥拝して、絶景言葉につくされず」との前書がある。
喜多川歌麿「三保の松原道中」(太田記念美術館蔵)・・・美人画の第一人者、歌麿が描いた錦絵。南畝の狂歌仲間のために作られた。
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo
(句意)
十二月十日、江尻宿から小舟で清水港を後にして、三保の明神を遥拝し、かねて、狂歌・俳諧の仲間と話題にしていた「三保の松原道中」を決行した。その絶景は、「言葉では尽くされず」、これぞ、「嗚呼、三保の明神・松原や」と、「いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」と吟じたのである。
4-70 (江戸)鯛の名もとし白河の旅寝哉
この句には、「十二月十四日江都にかへり」の前書がある。この」鯛の名もとし白河の旅寝哉」の「鯛の名もとし」の「とし」は「寿(ことぶき)」で、「江戸に帰着『祝いの席』上での『鯛の料理』の『寿(とし)』の意であろう。そして、「白河の旅寝」は、世阿弥の夢幻能「融」の、下記の「融の大臣の亡霊の舞」の「ここにも名に立つ白河」の、その旅路を回想している雰囲気である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%8D
≪ 融の大臣の亡霊の舞
融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。
地謡〽さすや桂の枝々に
シテ〽光を花と散らすよそほひ
地謡〽ここにも名に立つ白河の波の
シテ〽あら面白や曲水(きょくすい)の盃
地謡〽受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖
[融]舞いながら何度も振る袖、そして幾重にも降り積む雪。
――袖をさすと、さし交わす桂の枝々に
[融]月の光が花のように散らされる風情。
――ここ都にも陸奥の白河と同じ有名な白川があり、その波が
[融]ああ趣深い、曲水の宴の盃。
[融]盃を受け、遊舞の袖が月の光を受ける。 ≫ (「ウィキペディア」)
十二月十四日、江戸に帰ってきた。この「出家得度答礼の花洛の細道(旅路)」は、十一月四日に江戸を立って、自称、「関西蜚遯人(ひとんじん)」(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)と自己卑下しつつ、とにもかくにも、帰国祝いの「寿(ことぶき・とし)」の「鯛(たい)」料理に舌鼓みをうちつつ、この「関西蜚遯人(ひとんじん)」の、真冬の「花洛の細道」の、「白河の旅寝」のような出来事を走馬灯のように思い起こしている。
4-71
(江戸) ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り
抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
(「句意」周辺)
この句にも、「十二月十四日江都にかへり」の前書が掛かる二句目の句ということになる。「ゆくとし」は「行く年」(師走の「暮」、「仲冬」の句)、「鶴の歩み」は、下記の「4-11 夕立や静(か)に歩行筏さし(抱一)」と「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺、さらに、「(参考) 『日の春を(百韻)』(貞享三丙寅年正月)」などを背景にしている。そして、「佐谷廻り」は、「4-67 (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜」周辺のことを背景にしているものと解したい。
十二月十四日、江戸に帰ってきて、もう、師走の暮れと慌ただしい。されど、其角宗匠の「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉」の、その発句と、その「百韻」興行を思い起こしながら、「ゆくとしを鶴の歩みや」と、「ゆったり、静かに、とついつ、とついつ」、「関西蜚遯人(ひとんじん)」(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)の、その「佐谷廻り」(「出家得度答礼の花洛の細道(旅路)」)を反芻しつつ、新しい「日の春」を迎えることにしょう。
(再掲)
この句は、抱一の趣向に趣向を凝らした一句である。この句にも、前書の「十鳥千句独吟」が掛かっているようなのだが、肝心の「十鳥」の「鳥」が「ヌケ(ヌキ・抜け・抜句)」(俳諧で、ある語を句の表面に出さないで、余意においてそれをとききかせる句作りの手法。また、その句)の、いわゆる「抜句」の雰囲気なのである。
さらに、前書の「十鳥千句独吟」の「十鳥」は、この句の前の十句(「4-1」~「4-10」)で、「鶯・雉・燕・杜鵑・翡翠・雁・鵲(山雀)・木菟・鴛鴦・蒼鷹」で、これらを発句として、「十百韻」(千句)が巻かれていると解しても差し支えなかろう。
とすると、「ヌケ」の手法が「余意を利かせる」手法とすると、これは、「正式(しょうしき・せいしき)俳諧」(「十百韻」)成就後の、その余勢の余章的な「余興(興を添える)俳諧」との範疇に入る、そのような一句(発句)のような雰囲気を有している。
そして、ずばり、この句は、次の其角の句の、「反転化・捩り・見立て・抜け」などの一句と解したい。
※「日の春をさすがに鶴の歩みかな(其角)」=(「丙寅初懐紙」)季語=日の春(新年)の「鶴」を「夕立」(夏)の「鶴」の句に反転化(「反転・捩り・見立て・抜け」)しているか?
其角の「さすがに」 → 抱一の「静かに」(捩り)
其角の「鶴」 → 抱一の「筏さし(筏士)」(見立て)
其角の「歩み」→ 抱一の「歩行」の造語的詠み(あゆむ)→捩り
句意は、「猛烈な夕立が襲ってきた。その中を、少しも慌てず、静かに、筏士が、筏の上を歩みながら、筏を漕いでいる。それは、まるで、私淑する其角師匠の『日の春をさすがに鶴の歩みかな』のような風情である。」
「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺 → (下記「参考」のアドレス)
「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。
日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。季語は「春」で春、天象。「鶴」は鳥類。≫
「佐谷廻り」周辺
4-67 (佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜 (第四 椎の木かげ(4-67))
(再掲)
≪ 水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り 芭蕉「笈日記」
水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。 ≫
(参考)
初表
日の春をさすがに鶴の歩ミ哉 其角
砌(みぎり)に高き去年の桐の実 文鱗
雪村が柳見にゆく棹さして 枳風
酒の幌(トバリ)に入(いり)あひの月 コ斎
秋の山手束(タツカ)の弓の鳥売(うら)ん芳重
炭竃こねて冬のこしらへ 杉風
里々の麦ほのかなるむら緑 仙花
我のる駒に雨おほひせよ 李下
初裏
朝まだき三嶋を拝む道なれば 挙白
念仏にくるふ僧いづくより 朱絃
あさましく連歌の興をさます覧 蚊足
敵(かたき)よせ来るむら松の声 ちり
有明の梨打烏帽子着たりける 芭蕉
うき世の露を宴の見おさめ 筆
にくまれし宿の木槿(むくげ)の散たびに 文鱗
後(のち)住む女きぬたうちうち 其角
山ふかみ乳をのむ猿の声悲し コ斎
命を甲斐の筏ともみよ 枳風
法(のり)の土我剃リ髪を埋ミ置(おか)ん 杉風
はづかしの記をとづる草の戸 芳重
さく日より車かぞゆる花の陰 李下
橋は小雨をもゆるかげろふ 仙花
ニ表
残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃
しづかに酔(よう)て蝶をとる歌 挙白
殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり
はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉
罌子咲(さき)て情(なさけ)に見ゆる宿なれや 枳風
はわけの風よ矢箆切(ヤノキリ)に入(いる)コ斎
かかれとて下手のかけたる狐わな 其角
あられ月夜のくもる傘 文鱗
石の戸樋(とひ)鞍馬の坊に音すみて 挙白
われ三代の刀うつ鍛冶 李下
永禄は金(こがね)乏しく松の風 仙花
近江の田植美濃に耻(はづ)らん 朱絃
とく起て聞(きき)勝(カチ)にせん時鳥 芳重
船に茶の湯の浦あはれ也 其角
二裏
つくしまで人の娘をめしつれて 李下
弥勒の堂におもひうちふし 枳風
待(まつ)かひの鐘は墜(オチ)たる草の上 はせを
友よぶ蟾(ヒキ)の物うきの声 仙花
雨さへぞいやしかりける鄙(ひな)ぐもり コ斎
門は魚ほす磯ぎはの寺 挙白
理不尽に物くふ武者等(ら)六七騎 芳重
あら野の牧の御召(ヲメシ)を撰ミに 其角
鵙の一声夕日を月にあらためて 文鱗
糺(ただす)の飴屋秋さむきなり 李下
電(いなづま)の木の間を花のこころせば 挙白
つれなきひじり野に笈をとく 枳風
人あまた年とる物をかつぎ行(ゆき) 揚水
さかもりいさむ金山(かなやま)がはら 朱絃
三表
此(この)国の武仙を名ある絵にかかせ 其角
京に汲(くま)する醒井(さめかゐ)の水 コ斎
玉川やをのをの六ツの所みて 芭蕉
江湖(かうこ)江湖に年よりにけり 仙花
卯花(うのはな)の皆精(シラゲ)にもよめるかな 芳重
竹うごかせば雀かたよる 揚水
南むく葛屋の畑の霜消(きえ)て 不卜
親と碁をうつ昼のつれづれ 文鱗
餅作る奈良の広葉を打合セ 枳風
贅(ニエ)に買(かは)るる秋の心は はせを
鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ 朱絃
にくき男の鼾(いびき)すむ月 不卜
苫(とま)の雨袂七里をぬらす覧(らん) 李下
生駒河内の冬の川づら 揚水
三裏
水(みづ)車米つく音はあらしにて 其角
梅はさかりの院(ゐん)々を閉(とづ) 千春
二月(きさらぎ)の蓬莱人もすさめずや コ斎
姉待(まつ)牛のおそき日の影 芳重
胸あはぬ越の縮(チヂミ)をおりかねて 芭蕉
おもひあらはに菅(すげ)の刈さし 枳風
菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗
木魚きこゆる山陰(かげ)にしも 李下
囚(メシウド)をやがて休むる朝月夜 コ斎
萩さし出す長がつれあひ 不卜
問(とひ)し時露と禿(かむろ)に名を付て 千春
心なからん世は蝉のから 朱絃
三度(みたび)ふむよし野の桜芳野山 仙化
あるじは春か草の崩れ屋(や) 李下
名表
傾城を忘れぬきのふけふことし 文鱗
経よみ習ふ声のうつくし 芳重
竹深き笋(たかうな)折に駕籠かりて 挙白
梅まだ苦キ匂ひなりけり コ斎
村雨に石の灯(ともしび)ふき消ぬ 峡水
鮑(あはび)とる夜の沖も静に 仙化
伊勢を乗ル月に朝日の有がたき 不卜
欅よりきて橋造る秋 李下
信長の治(おさま)れる代や聞ゆらん 揚水
居士(こじ)とよばるるから国の児(ちご) 文鱗
紅(くれなゐ)に牡丹十里の香を分(わけて 千春
雲すむ谷に出る湯をきく 峡水
岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨(すて) 其角
笑へや三井の若法師ども コ斎
名裏
逢ぬ恋よしなきやつに返歌して 仙化
管弦をさます宵は泣(なか)るる 芳重
足引の廬山(ろざん)に泊るさびしさよ 揚水
千声(ちごゑ)となふる観音の御名(みな) 其角
舟いくつ涼みながらの川伝い 枳風
をなごにまじる松の白鷺 峡水
寝筵(むしろ)の七府(ななふ)に契る花匂へ 不卜
連衆くははる春ぞ久しき 挙白
参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店)
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